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『web「生命の實相」輪読会』 板

1トキ ◆UMw6UoGELo:2016/03/15(火) 11:09:09 ID:lgv9ASqI
 このスレッドは、生長の家信徒の人達の『web「生命の實相」輪読会』のために作成したスレッドです。『web「生命の實相」輪読会』についての話題は、このスレッドでお願いします。

(注意点)

 基本的に生長の家の教義と谷口雅春先生の説かれた教えを支持、共鳴する人のためにサイトです。生長の家の信仰と谷口雅春先生へのご批判をされる内容の投稿はご遠慮下さい。

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では、このスレッドを利用して、生命の実相の勉強をお楽しみ下さい! よろしくお願いします。

67a hope:2016/04/23(土) 08:37:33 ID:vdNCBnG6
>>66 つづき)
ところが、自分は神様の子であり、生まれつき正しい聖(きよ)い者だと悟ったら、しぜんにそんな罪を犯さなくなる。

つまり人間の実相はすでに神であり、仏である。

それを認める時に、その人にしぜんに実相の善さが現れてきて、いくら罪を犯そうとしても犯しえない。

いくら左翼思想に走って実際運動に自分を投じようとしても、転向せざるをえなくなるのです。

「生長の家」では、今まで努力して止めようと思っていてもやまらなかった酒や煙草も、しぜんにやまる。

これはしぜんに実相が現れてくるのであって、今までの努力してやめようと思ったのは、悪の存在を認めて、努力によってこれを抑えよう、抑えようとしていたのでありますが、それは最初から悪の存在を、罪の存在を認めてかかるからして、努力しても、その罪が、その悪がやまなかったのです。

ところが、そういう悪の存在をみないで、ただ、人間は神の子で無限に善いもので、本来罪なしと知れば、自然に悪は消え、善が強い力をもってでてくるのであります。(拍手)

これがわれらの光明思想のもつ権威なのであります。

われわれ、自分は神であり、仏である、罪はないと知る時、罪は自然に消えてしまうのです。

罪は本来ないから消滅するのです。

本来有るものならば消え失せることはない。

ないものをあるあると思っているから、あたかもあるがごとくに外界に現れてくるのである。

すべての人間はみんな神の子であり仏の子であって、罪は本来ないと認める時、世界中の人が神の子になり、これを知らされた時にすべての人が釈迦になり、キリストになる。

キリストの再臨ということは、自分に宿る神、仏なるものを見ないで、神は在(いま)さぬ、自分は罪深いものだとして自分の内に宿る神性を罪の観念で縛りつけてハリツケにつけていた、そのしばりを解き放って、本来罪のない神性、仏性を自覚するということであります。

この人間本然の善さをすべての人に知らせること、これこそ人間の本当の教育であります。

この人間の神性、仏性を現わすという真実唯一の教育が「生長の家」の教育法なのです。

68a hope:2016/04/23(土) 08:38:34 ID:vdNCBnG6

>>66 67 a hope まとめ)

○「生長の家」の教え ―― 「人間はみんな神の子である」

○「生長の家」の働き ―― すべての人に向かって合掌敬礼して、あなたは仏(神)になられる方ですといって拝む働き(実相礼拝)

○「生長の家」出現の意義 ―― すべての罪を消しさること(人類無罪宣言)

○光明思想のもつ権威 ―― 悪の存在をみないで、ただ、人間は神の子で無限に善いもので、本来罪なしと知ることで、自然に悪が消え、善が強い力をもってでてくること

○「生長の家」の教育法 ―― 人間本然の善さをすべての人に知らせ、人間の神性・仏性を現わすという真実唯一の教育

69a hope:2016/04/23(土) 08:41:07 ID:xVBwxesw

>>66 67 a hope所感)

この文章が掲載されている第五章は、昭和十年に行われた雅春先生の日比谷公会堂での講演記録ですが、
そこには「生長の家」の教えに触れたことで、今までの人生観をガラリと転向され幸せに暮らされている方々の体験談もたくさん紹介されています。

「人間神の子」の「生長の家」の教えによって、人々が明るくなり、社会が明るくなり、日本が元気になり、世界が平和になる!

この「人類光明化」の流れをつくることが、雅春先生のご悲願だったのでしょうね。

70a hope:2016/04/26(火) 19:05:05 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第25巻 p156 10行目〜

光明思想の普及事業を世の中の弱者に救恤(きゅうじゅつ)を与える慈善事業のように思っている人があるのはまちがいであります。

光明思想というものは、人生をそういう救済者と被救済者との対立の世界には見ていないのであります。

救われねばならぬような弱者なる人間は、神の造りたまえるこの世に本来存在しないという思想が、光明思想であります。

人間は本来神の子であるというのが光明思想であります。

(略)

……誌友が少なかったころは執筆のかたわら、いちいちわたしが返事を書きましたが、このころはあまりに多数で時間がないので自身で返事が書けないというお断りを差し上げると、それでは「人間は無限能力」だという貴様の根本思想に背反しているではないかというような手酷いお叱り方であります。

けれどもこういうお叱りをせられますのは、光明思想を皆見当ちがいしていられるのであります。

わたしが答える能力がないのではない。

わたしは常に書籍となって答えている。

『生命の實相』全集二十巻を本当にお読みになれば、どんな場合にも応用できる、それに対する答えは書いてあるのです。

それを読まないで、問いを発せられるのでは、これはわたしに答える能力がないのではなく、答えているのに聞く能力がないのであります。

71a hope:2016/04/26(火) 19:07:44 ID:xVBwxesw

>>70 a hope所感)

世間では「生長の家の教え(雅春先生の教え)」はインチキであるとか、古くて現代には適さないだとか、
そんな風に言ったり考えたりしている方々もいらっしゃると思います。

でも、そういう方々は、本当に「生命の實相」を何度も繰り返して拝読されているのでしょうか・・・?

<<『生命の實相』全集二十巻を本当にお読みになれば、どんな場合にも応用できる、それに対する答えは書いてあるのです。
それを読まないで、問いを発せられるのでは、これはわたしに答える能力がないのではなく、答えているのに聞く能力がないのであります。>>

谷口雅春先生は、「生命の實相」ですべてをお伝えしてくださっているとおっしゃっています。

ですから、本来の「生長の家の教え」を否定する人とは、谷口雅春先生に言わせれば、<<聞く能力のない人>>ということになってしまいますね…・


わたしたちには谷口雅春先生のお悟りのすべてが詰まった「聖典」が簡単に手届くところにあります。

こんなに有難いことはありませんね!  感謝 合掌。

72るん吉:2016/04/27(水) 19:39:43 ID:Jo.00maY
>>62 a hopeさま
>>祈りの前に、「同悲の心(愛)をもつ」ことが大切なのだと思います


はい 本当にそうですね。アドバイスをありがとうございます。

73るん吉:2016/04/27(水) 19:44:53 ID:Jo.00maY
>>68
a hope さま

>>68 素晴らしいです。有難いです!

74a hope:2016/04/28(木) 07:24:37 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第25巻 p171 後から4行目〜

三界は唯心の所現であり、業の流転でありますから、その根本原因たる「心」を治さないでいて「不幸」を取り除こうとすると、それが他の形の「不幸」になるのは当然であります。

病気は治ったが貧乏になったという人がありますが、児童の「成績不良」というものも業の所現でありますから、「成績不良」ばかりを治そうとしてやたらに学業を詰め込むと、家庭教師や参考書代に金を払って「成績不良」という「業」の現われは消える代わりに「貧乏」という「業」の現われとなって出るか、あまり詰め込んだり、入学試験に恐怖した結果、児童の健康を損ねて、成績不良が「病気」という業の現われに転換して出て来たりするのであります。

成績不良―病気―貧乏―こういうふうに一つの業の現われは、動悸を与えて流転せしめると形は変化して出るけれども、内容においては、依然としてわれらにとって「不幸」になるものとなって、その人に潜在せる業が形を表わすのであります。

そう言う人が、何か事業に成功して金持ちにでもなるとしますと、子供が不良青年になってみたりして、業が循環流転して、その不幸は尽くるところをしらないのであります。

(略)

苦しい業の顕われは、その一つを避けようとして攻撃すると、このように必ず他の形に業が転じて依然としてわれわれの苦しみは尽きないのであります。


こんなことではわれわれは永遠に業の苦縛(くばく)から脱することはできないのであります。

ではこの業の苦縛から脱する道はないのでしょうか?

否、否、それはないことはありません。

自己内在の「神の子」を悟ることであります。

自己内在の「神の子」を知ったときに「神の子」はすでにいっさいの業が贖(あがな)われていますがゆえに、もうそのような業の流転の世界に這入ることはないのであります。

75a hope:2016/04/28(木) 07:26:46 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第25巻 p173 後から5行目〜

ひとたび、「我れ神の子なり、我れ仏子なり」との自覚を得るとき、われらは心の底より、いっさいの業苦を横超(おうちょう)する世界にでることができるのであります。

第三者より見てなお困難と見ゆる世界に彼は住むといえども、彼はすでにかかる困難を横超せんがゆえに、困難としては感じないのであります。

彼にとってはなお盤根錯節(ばんこんさくせつ)はありといえども、すでにそれは苦しみではないのであります。

―――
盤根錯節は「生命」がたわむれるための一つの運動具である。
諸君はスキーを多難だと言うか。
登山を不幸だと言うか。
ゴルフを艱難だと言うか。
競泳を悲惨だと言うか。
いかなる苦しみも戯(たわむ)れに化するとき人生は光明化し、そこから剛健なる無限の生命力が湧いてくる。(『光明の生活法』より)
―――

とあるように、その人にとっては人生のいっさいが、平凡な茶判事も困難も苦痛もいっさいが光明化してしまうのであります。

人生のいっさいが光明を点じ、希望を点じ、興味を点ずるのは「汝、神の子なり」のこの中心教育よりくるのであります。

76a hope:2016/04/28(木) 07:42:44 ID:xVBwxesw

>>75 a hope 所感)

<<ひとたび、「我れ神の子なり、我れ仏子なり」との自覚を得るとき、われらは心の底より、いっさいの業苦を横超(おうちょう)する世界にでることができるのであります。>>

『業苦を横超する世界』っていったいどんな世界なんでしょうか?

それは、
<<第三者より見てなお困難と見ゆる世界に彼は住むといえども、彼はすでにかかる困難を横超せんがゆえに、困難としては感じないのであります。
彼にとってはなお盤根錯節(ばんこんさくせつ)はありといえども、すでにそれは苦しみではないのであります。>>

すごいですね。

困難…物事をするのが非常にむずかしいこと。また、そのさま。難儀。
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%B0%E9%9B%A3-506491#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89

とありました。

現象的にはひじょうに難しい状態でっても、それを困難として感じないような心境ってことなのだと思います。

う〜ん、そうか・・・(;’∀’)

ホントに深い教えですね〜「生長の家の教え」って・・・(@_@)

77a hope:2016/05/01(日) 08:37:49 ID:xVBwxesw

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第2回 web「生命の實相」輪読会  案内

期間   平成28年5月1日〜5月31日まで
テキスト 「生命の實相」第26巻 教育実践篇 下
内容   人間を作る法〈下〉

     
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

78a hope:2016/05/01(日) 08:38:48 ID:xVBwxesw

みなさま おはようございます。

5月になりましたので、第2回web「生命の實相」輪読会 開会させていただきます。
開会にあたり、祈りの言葉を掲載させていただきます。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

住吉大神様 住吉大神様  谷口雅春先生 谷口雅春先生有難うございます、有難うございます。
 
生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給へ 
吾が生くるは吾力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能
天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家の大神まもりませ
  
住吉大神様、「本流復活」を考える 『web「生命の實相」輪読会』 板 に於ける
生命の実相 輪読会で、生長の家の御教えを正しく把握し、広く伝道するための 
必要な霊の選士を集え給うて、真理の研鑽を導き給う。
住吉大神様 勉強会を正しく導き給う 住吉大神様 勉強会を正しく導きたもう。
参加者お一人、お一人を浄化し給うて、使命を授け給う。
有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます

世界平和の祈り

神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。
その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。


光明思念の歌

天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

79a hope:2016/05/01(日) 08:42:12 ID:vdNCBnG6

つづきまして、「生命の實相」第26巻より〝はしがき〝 を謹写させていただきます。


             はしがき


児童に優秀健康児になってもらいたいのは、両親の切なる願いである。

しかしその願いはなかなか完全には叶えられないのが現状である。

学校は鮨詰(すしづめ)教室であるし、日教組の先生がたは教育者としての聖職を忘れてみずから、〝労働者〝 と称しており、教師の真似をして、学業をストライキする生徒も出てくる。

「なぜ先生の言うことをきかないのか」と教師が生徒をなじると、「先生だって文部省の言うことをきかないじゃないか」と平然と答える生徒がザラに出てきたという。

この調子では、子供はなかなか両親の言うことをきかない。

群馬県のある女子高等学校ではその卒業式の答辞に「子供は親のものではありません。わたしたちは親のものではありません。したがって親に孝養を尽す義務も責任もないことをハッキリ知らせていただきました。これがこの学校で四年間教育を受けた収穫であります。ありがとうございます」と感謝したという事実も伝えらている。


こういう危機に立たされた日本の教育はどこに理想をもとめ、いかに教育技術を用うべきであろうか。

愛児をもつ父親も母親もとまどうほかはないであろう。

アメリカも日本も不良児の出現に困っているのである。

アメリカ式教育法の輸入だけではどうにもならないのが現状である。

しかしソ連や中共の教育のように国家がその社会主義目的のために教育を強制することも、戦争の反動で世界中でいちばん自由奔放にながれていっさいの統制を拒絶している日本の教育界では実現の見込みがないのである。

そのようなときに本当に効果をあらわすのは、本書の説く、児童の「実相を観る教育」である。
(つづく)

80a hope:2016/05/01(日) 08:43:10 ID:vdNCBnG6
(つづき)
「実相」とは児童に宿る「生命の本質の完全さ」である。

その人の「実相」を観ずれば、その人の完全さがあらわれるのである。

わたしはかつて、ドストエフスキーの『白痴(はくち)』の映画化を観たことがあったが、無貞操無道徳んお女主人公ナスターシャに公爵ムイシキンが面接して、「あなたは完全です」と言ってじっと彼女を見つめると、彼女に宿る実相の完全さがあらわれて、ムイシキン公爵の前では持ち前の〝あばずれ〝 の姿が消えてしまう。

そして、公爵の純情な求婚にもかかわらず「このような、〝あばずれ〝 が純情な公爵の生涯を汚してはならない」と、かえって雪の中を馬車で、公爵の前から姿を消して行くのである。

それは、「実相を観ずれば、いっさいの悪が面前から消えてゆく」という真理の象徴であるといえるのである。

こうしたわたしたちの教育法は関東医療少年院で採用されて、わたしたちの同志が毎月関東医療少年院へ往って、そこに収容されている少年たちに講話したりして成果をあげているし、わたしたちの練成道場では少年院から練成に送られてくる少年で、実に道徳性の高い立派な人間に更生する実例を出しているので悦ばれているのである。

いくぶん不良じみていて、教師や父兄から持てあまされているような少年ですらも、この教育方法によれば、このように効果があるのであるから、読者の家底にいられるような、普通の自動であったら、すぐに優良児になること疑いないのである。

本書は、このような教育法の立場から、近ごろ問題になっている道徳教育のやり方をはじめとして、早教育、芸術教育、宗教教育、その他、書道、茶道、華道等の技術の習得、修練、その向上などについて、その道の専門家の口をとおして、実際の対談形式をとって説かしめたものである。

卒然として本書からお読みになって、なおいっそう深く、この素晴らしい「人間の実相観入法」について知りたくなった方は、『生命の實相』第一巻、第二巻に収録されてある総説篇、実相篇、光明篇等(頭注版および携帯版では第一巻=第四巻に収録)を読んで、「人間の実相の完全さ」というものについての理解を深められれば、人生百般の問題ついて、自由自在の円熟境に達せられることも不可能ではないと信ずるものである。

昭和三十九年 十一月 十日           著者しるす

81a hope:2016/05/02(月) 21:09:56 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第26巻 p3 後から4行目〜

さて、しばらくぶりで皆様のお顔を拝しまして、何をお話しようかと改まりますと、何もお話することもないのであります。

要するに言うことなしにただ嬉しいというのが、われわれの生命の実相であります。

生命の実相というものは説こうと思って説けるものではない、ただ、ありがたい嬉しいものであります。

ですから、われわれが自分の生命の実相を悟りまして、それを生活に生きるということになりますと、ただもう生活が嬉しく明るく、家庭が円満に、見る物皆楽しくなってくるのであります。

ではどんなに生活が変わってくるかといいますと、どんなにも変わってこないのです。

やはり朝起きると顔を洗うのであります。(笑声)

そうして神様を拝む習慣の人は拝まれるでしょうし、あるいはご先祖を拝む習慣の人はご先祖を拝まれるでありましょうし、そしてその次に御飯をおあがりになる。

やがて出勤する人は出勤する。

外形を見ていますと生命の実相を悟っても悟らなくても同じことをなさるのです。

いっこう変わりがない。

変わりがないけれども変わりがあるのがこれが悟りであります。

変わりがあるのはまだ悟りが足りないのであります。

よく自動車にでも轢かれて、轢かれたけれども怪我しなかったからありがたいといって、これは「生長の家」のお蔭であるといって、わたしにお礼に来られる人がありますけれども、それはなるほど轢かれて怪我をしたり死んだりするよりはありがたいにちがいありませんけれども惹かれない人はもういっそうありがたいのです。

ところが「轢かれたけれども怪我をしませんでした」といってお礼を言う人はあっても、「先生、わたしは自動車に轢かれませんでした。ありがとうございます。」と言う人はほとんどいないのであります。

本当の悟りとは何事もないことがそのままそれが本当にありがたいということが分かるのでなければなりません。

悟りというものはなんの変哲もない、なんの変哲もないものが悟りなのであります。

何かあると思うのはまだ悟っていないのであります。

82a hope:2016/05/02(月) 21:12:10 ID:xVBwxesw

(a hope所感)

家で、家族と一緒に温かい御飯が食べられること。
それがなによりの幸せなんですね。

でもそう感じても、次の日にはまた、不平不満の感情が湧き上がってきてしまう・・・。

「生命の實相」が手放せない・・・わたしです(/ω\)

84a hope:2016/05/05(木) 06:49:25 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第26巻 p7 後から4行目〜

生命の実相の悟りというものは、常住坐臥、現象的に何がなくても嬉しい、ありがたい、なんでもないうちになんともいえない、爽やかな一種の喜びが続いているものであります。

この爽やかなありがたさというものが本当に体得でき時に、家庭はむろん光明化しますし、病気も治るし、運命も境遇もよくなるのであります。

これは副産物でありまして、病気が治らなければありがたくないというような悟りではまだ本当の悟りでありませんから病気などもかえって治りにくいのであります。

病気が治ってありがたいのなら、誰でも皆さんは、ここにおられる方々は、百歳くらいまでは長生きせられるかもしれませんけれども、しまいには死んでしまう。

その臨終の時に「ありがたくない」と思って怨めしい思いでしんでゆかねばなりません。

そんなことではせっかく今まで救われておったと思っておっても、それはウソで最後の土壇場で、今までの悟りはウソであったという事実を暴露し、結局、生命の実相の救いはその人にはなんの役にも立たなかったということになるのであります。

85a hope:2016/05/05(木) 06:51:13 ID:xVBwxesw

>>84 a hope 所感)

わたしが数年前、一番最初にこの部分を拝読した時は赤線は引きましたが、
その文章の内容の深さには気づかなかったのではないかと思います。

本当に「生命の実相」を悟っているか、悟っていないか・・・

それは臨終の時にすべてわかってしまうのですね。

86るん吉:2016/05/07(土) 08:40:53 ID:qSZ.KlGM
a hopeさま

>>本当に「生命の実相」を悟っているか、悟っていないか・・・それは臨終の時にすべてわかってしまうのですね。

自分は、今の段階で解ってます・・・・


まだまだ悟ってない。と・・全然かな・・て。

困ったことが何にもなかったら、「神の子なんだありがたい。」ってなるけど

でも生きてたらどうしても色々なことが有るし、その時ですね。その時にほんとに生長の家の真理を悟ってるかが解るんです。

絶対境地かなんかに入ってたら、また違うのかなぁ。とも思うのですけど・・

87a hope:2016/05/07(土) 16:28:16 ID:vdNCBnG6

>>86 るん吉さま

貴重なご意見をありがとうございます。

わたしも、理屈では「物質なし」や「神の子」は大分わかっているんですが、
まだまだ「実相を悟りました。」といえるような状態ではありません。


困難を乗り越えて「悟った!」と思っても、またちがう困難がやってきて、それを乗り越えたとき、また「悟った!」と思う、
そしてまたあらたな困難がやって来て・・・ときどきわたしの人生は、そんなことが永遠に続くのではないかとさえ思ってしまいます。

でも、「人生は魂の学校である」というのも「生長の家」の教えですから、
わたしたちは困難を乗り越えるたびに少しずつ生長していくんですよね。

そして、あるとき突然 「物質はない! 肉体もない! 心もない!」 「あるのは実相だけだ!!!」
って、ドーンって悟るのかな?

るん吉さんのいう、絶対境地ってそういう状態?

いずれにしても、自分の臨終の時に「あーありがたい人生だった」って思える、そんな人生を送りたいですね!

88a hope:2016/05/10(火) 07:00:11 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第26巻 p25 後から4行目〜

実際、勉強のできない、成績の悪い子を、「勉強のできる、成績の良い子だ」と信頼して思えといっても、そんなことはおもえませんといわれる人がたくさんあります。

それは思えないのがあたりまえなのであります。

それは五官の眼でその子の現象を見ているからであります。

しかし、五官は「信念の反影」を見るにすぎませんから、「できの悪い子だ」と信じているかぎりは、五官の眼で見ているかぎりはできが悪いのは当然です。

そんな時には五官の目を閉じて合掌し、そうして心を鎮めて相手の実相を観るようにすればよいのです。

良人の場合も子供の場合でも同じことです。

子供の場合には「自家(うち)の子供は神の子であって自由にしておいても勉強するのである。人間は勉強が楽しいのであるから、親が心配しなくても勉強するのがあたりまえであるから勉強する」と、こういう意味の言葉を静かに念ずるのであります。

これが「神想観」の応用法であります。

神想観の方法は『生命の實相』第四巻(頭注版・携帯版では八巻)または『詳説神想観』『光明の健康法』という本に発表しておきました。


『法華経』に、常不軽菩薩が、どんな人を見てもみんな仏の子であるとしておがんだということが書いてあります。

この行持(ぎょうじ)を子供に応用すれば子供がよくなり、この行持を良人に応用すれば良人もよくなり、この行持を姑(しゅうとめ)に応用すれば姑がよくなり、家庭が光明化するのであります。

どうぞ皆さん、今後も常不軽菩薩のように相手の実相を拝んで生活せられんことを希望いたします。

89a hope:2016/05/10(火) 07:01:42 ID:xVBwxesw

>>88 a hope所感)

あらためて気づきましたが、「神想観」とは、「実相」を礼拝することだったのですね。
頭ではわかっていることが、実感としてわかるようになるには、やっぱり聖典を拝読し続けるしかありません。

90a hope:2016/05/10(火) 07:15:01 ID:vdNCBnG6

『「生長の家」の教義について議論する』板>>49にわたしの「今の教え」に関する疑問を書きました。
みなさまのご意見をそちらでぜひお聞かせください!

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1458205600/49

91a hope:2016/05/14(土) 07:47:28 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第26巻 p44 7行目〜

その翌日から、一歩も外へ出なかったわたしが早朝から起きて散歩に出かけた、すると、これはまたどうしたことか。

空、大地、小鳥、わたしの目にふれるすべての物が、光り輝いているではないか。

なんという美しさだろう。

わたしの耳にふれるすべての音は、快い諧調を保っている。

わたしの歩いている――武蔵野の小さな一隅――周囲で畑に立つ人、歩く人、すべてが光をはなつ立派な存在ではないか。

わたしは一時間近くも歩き廻った。


わたしは一変した。


今までほとんど床(とこ)についていたものが、わずかの午睡のみにとどまった。

あまり急な変わり方なので、母に嬉しい半面にいくらかの不安があったらしく少しは床に着いたらどうだとまでいう。

これまで、滋養剤と薬を浴びるほど服(の)んでいたのを、すっかり止めてしまう。

毎日必ず体の苦痛を訴えたり、不平を言う必要がなくなった。

食事は与えられたものを全部食べる。

発病以来四カ月半不眠症で悩んでいたのが、眠ろうと思えば、いつどこでもねられるし、起きようと思えばいつでも目が覚める。


人に対しても真の親しみを感じる。

何かの機会があれば、なぐりつけてやろうと思っていた人を連想すると、その人の長所が頭に浮かんできて、逢うのすら厭(いや)であったのに、急に話しかけたくなる。

どんな人に話かけられても、どんな人が来ても前とはまったく異なった喜びを感ずる。

92a hope:2016/05/14(土) 07:49:36 ID:vdNCBnG6

>>91 a hope所感)

これは、当時美術学校の画学生であった、小林正氏のお悟りの体験談「光を観て」p39〜からの抜粋文ですが、
あらゆる手段をつくしてもまったく効果がなかった病状が、服部仁郎先生に面接するだけで、
全快してしまいったという体験談の後半部分からの抜粋です。

人が「生命の実相」を悟ると、目の前にパラダイスが現れるのですね\(^o^)/

93a hope:2016/05/16(月) 12:24:59 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第26巻 p81 後から7行目〜

・・・たとえば、わたしが講演していて、「わたしが言いたいのは、ここに生命の実相があるのだ」と、「これが生きとおしの生命である」と自分自身の身体を指さしていう。

するとそれを聴いていた人の病気が治ることがある。

これはその意味不明な言葉のうちに、その言葉を媒介として生命の骨髄が伝えられるのです。

むろんわたしのしゃべることはみな『生命の實相』に完全に書いてある。

『生命の實相』を読んだらいいのだ、こっちでしゃべらなくてもいいはずです。

だけれども、実際にこれがこうだと、ここがいいのだと、「ここ」というでしょう。

この言葉の響きの中にですね、達人が言葉に出して教えてくれたらそれがわかるのですよ。

それが先輩師匠のなすべきところであって、ここをこうしなさいよ、こうしなさいよ、こうですよ、とそれの導きがあると、それは実相の響きの鐘がゴーンと鳴ると一方潜在していた鐘の響きが共鳴の原理によって、ゴーンと鳴るのと同様である。

先覚者が側(そば)にいて指導して芸道の悟りをゴーンと撞(つ)き鳴らさなくても自分で発見する人もありますけれども、それは極めて稀(まれ)であって天才なんですよ。

それがもっと楽に天才を引き出すような方法――そこに教育の教育たる所以(ゆえん)がある、先覚の後進を導くことの価値がある。

94a hope:2016/05/16(月) 12:26:51 ID:vdNCBnG6

>>93 a hope所感)

第三章は「芸術教育の神髄を語る」というタイトルがついていて、彫刻家の山根八春氏、服部仁郎氏はじめ、
音楽家の方、軍人の方々、校長先生を始めとする教育家の方々が主に芸術教育について話し合われています。

そして上の謹写部分では雅春先生が、芸術教育の伝授の「コツ」を「生命の実相」の悟りに例えられて説明されています。

子供の習い事なんかを見ていても、良い先生に教えていただけるととても上達がはやいですが、
あまり評判のよくない先生だと上達がおそいばかりでなく、下手をするとその習い事自体への興味を失わせてしまうこともあります。

芸術も宗教も、本物を悟られた本物の達人(先覚者)につくことがとても重要だと思います。

谷口雅春先生は本物でした。

雅春先生が現象界にいらっしゃらない今、わたしたちはその谷口雅春先生の残された聖典を拝読することで、
本物の悟りを得ることが可能なのだと思います。

95a hope:2016/05/17(火) 08:34:56 ID:xVBwxesw

「生命の實相」26巻 p91 後から7行目〜

照井――ここで問題になることですけれども、いつか先生に申上げようと思うておったのですが、神想観の時に口と鼻とここ(眉間)から霊気(いき)が出るということですね。

あれを谷口先生および「生長の家」の方々に申し上げたいと思っておりましたが、わたしがかつて外国でゴロゴロしながら声のことを勉強していながら覚えたことですけれども、声の一番上の出し方では声が眉間からでるのです。

解剖学的に申しますとここに額の骨が下部に来て二枚になりまして頭(眉間)にきて分かれる、横断面的にみるとくるみの内部くらいのうつろがある。

眼と眼の間で、少し眉寄りの間の辺から、それに声がうまいこと共鳴してくれなければ本当の声が出ないのです。

それは谷口先生が合掌の時にここから霊気(いき)が出ることをお書きになったのを見ましたが、それでここが声のほんとの出所(でどころ)だということを感じさせられたのです。

ここからきたものが人に入るのです。(発声の見本を示さる、眉間から声がでるように聞こえる)

これが実に楽なんです。

これを練習していますと、体にかまわずに声ばかり出ているような感じになるのです。

そうでない出し方は、どうしても肉体に執(とら)われ、苦しいですから。

それでほんとの声の出るこの眉間の空洞、これがなんのために存在しているか十八世紀の末葉(まつよう)まではわからなかったのです。

声楽の発声法の研究がだんだん進歩するにつれてこの眉間の空洞が高音を出すために存在しているということを発見したのです。

それが偶然にもこの神想観の時にここから霊気(れいき)が出るのと符合するので、心息の神秘性といったようなことに、非常に感激しているしだいなのです。

生きの調節のしかたが合掌と同じなんです。

96a hope:2016/05/17(火) 08:37:01 ID:vdNCBnG6

>>95 a hope所感)

わたしはつい最近まであるコーラスグループに所属していて、ソプラノを担当していました。
(現在は事情によりお休みしていますが・・・)。

最初のころは、アヴェマリアなどの高音を出すときに、必ず喉を傷めていましたが、
ある時どんなに高音をだしても、まったく喉に負担がかからない方法を見つけました。

自分の声なのに、自分の身体からでていないようなそんな発声です。

わたしはコーラスは初心者の部類なので、その発声がうまくできるときもあればできないときもありましたが、
上手に発声できているときは、必ず、先生から褒められました。

今、この上の謹写部分を拝読して、「そういうことだったのか・・・」とすっきり納得しました(^◇^)

97a hope:2016/05/17(火) 08:41:05 ID:vdNCBnG6
>>95 訂正
生きの調節 →息の調節

98a hope:2016/05/21(土) 12:29:54 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第26巻 p106 3行目〜

「苦労をありがたく受けてゆける処世のコツがわかる」

栗原――今日は皆さんからいろいろ有益な話をお聞きしましたが、要するにわたしは、苦労というものは人間を研(みが)くものであって、それは何百冊の本を読んだよりもよけいに自分を研いてくれるような気がする。

しかしわたしはこの世に苦労があると思うていたがゆえに、苦労を引き受けていたような観がある。

そうして苦しみどおしで三十七歳の今日まで過ごしてきた。

過去の話は長いが十六歳の時から家を飛び出し、流浪し、苦学し、甚(はなな)だしい時には、二週間近くもごはんをたべられずにいたこもあり、今から顧みればいささかトッピにも思えるが文房具屋に一円五十銭借金してそれが返せないため、一カ月半のあいだ真剣に死ぬことばかりを考えていたこともあった。

こうしたことがしらずしらずのうちに自分を研いてくれたような気がする。

いかなる名誉もこの苦々しい体験から得たところの心の磨きにはとうてい及ぶべくないような気がします。

こうした問題について、教えてくれる学校はないのです。

本当に渇(かわ)き飢えた生命、枯死せんとする生命を蘇らしてくれるところの、真から蘇らしてくれるところの学問というものはない。

それでわたしはずいぶんと無駄に生命を摺り減らしていたような気がするが、やっと生長の家の『生命の實相』がそれを救ってくれたわけなのですが、わたしは小学校から大学を通じてこの生命の教育が本当に心から望ましい。

苦労を不幸だと呪いながらする苦労と、苦労を自分を研いてくれる砥石だとありがたく受けてする苦労とはおのずから千里の隔たりがあり、生命の伸展の上にもたいへんな相違ができてくるわけです。

そうしたなら、生活苦も、就職苦もいっさいが解決されて、人生とはかくも美しく明るいものであるとの、光明一元の生活ができるんですがねえ……。


谷口――あまり時間が長くなりますから、この辺で閉会します。皆様ありがとうございました。

(昭和十年一月二十九日、生長の家本部座談室にて)

99a hope:2016/05/21(土) 12:31:17 ID:xVBwxesw

>>98 a hope所感)

この世の中に苦労や困難がなかったら、わたしたちは何が本当に大切で、なにが本当の幸福なのか考えないまま一生を終えるのかもしれません。

『生命の實相』を拝読し続けていると、本当のことがだんだんとわかってきますね。

100a hope:2016/05/23(月) 20:42:46 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第26巻 p129 3行目〜

谷口・・・(略)・・・要するにこの宗教というものが、やはり、それを指導する師、家庭の親とか学校の先生とかというものが本当の自覚に入っていない場合には、同じ形式でやっても、お前は神も子であるといっても神とは何だかわからない。

ところが、実際に信じている指導者が、「あんたは神の子だ」とこう一言いえば本当に神の子であるということがわかってくるだろうと思うのです。

どこかで読んだのですが、宗教とはなんであるかという問題に対して「ひとつの尊敬すべき人格の周囲に集まった人々の団体である」というような定義を下しておられた人がありました。

これは神とは何ぞやというような抽象、問題でなしに、社会的現象として存在する、一つの生きた具体的事実としての宗教を説明していると思うのであります。

その場合、宗教とは、やはりその中心者となる人が本当に神の子の自覚、あるいは個我と全体我との一つの融合感を持っている、その一つの人格にあこがれて慕い寄ってくる一つの生きた具体的な団体であり、宗教教育を施すにも、そういうその中心者になれる人があって初めて、そこに完全な宗教的教育が施されうるということになるのだと思います。

101a hope:2016/05/23(月) 20:43:55 ID:vdNCBnG6

>>100 a hope所感)

この第四章は、「宗教教育」がテーマの座談会の内容が紹介されています。
上に謹写した部分は、雅春先生のご発言の一部ですが、わたしはとても考えさせられる内容だと感じました。

とくに後半の、

<<どこかで読んだのですが、宗教とはなんであるかという問題に対して「ひとつの尊敬すべき人格の周囲に集まった人々の団体である」というような定義を下しておられた人がありました。
これは神とは何ぞやというような抽象、問題でなしに、社会的現象として存在する、一つの生きた具体的事実としての宗教を説明していると思うのであります。
その場合、宗教とは、やはりその中心者となる人が本当に神の子の自覚、あるいは個我と全体我との一つの融合感を持っている、その一つの人格にあこがれて慕い寄ってくる一つの生きた具体的な団体であり、宗教教育を施すにも、そういうその中心者になれる人があって初めて、そこに完全な宗教的教育が施されうるということになるのだと思います。>>

という部分ですが、これを、仮にこの現象世界に具体的事実として現れた宗教団体「生長の家」にあてはめてみると、
その中心者は紛れもなく谷口雅春先生でした。

谷口雅春先生の人格に対して人々が集まり、大きな宗教団体となっていったんですよね・・・。

そう考えると、谷口雅春先生がご昇天されてからは、わたしたちはその中心的人格を失ってしまったわけですから、
現象の宗教団体「生長の家」が衰退していくのは当然のなり行きなのかもしれませんね。

102a hope:2016/05/26(木) 06:46:17 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第26巻 p153 6行目〜

谷口――そこで下手な指導者につくくらいならば、「自分で『生命の實相』を根気よく読め」とわたしは言うのです。
宗派に偏した儀式も儀礼もいらないで、簡単に宗教的情操が養われる、十年間坐禅しても得られなかった悟りが得られてというような人がたくさんあります。
手前味噌のようですけれど。

103a hope:2016/05/26(木) 06:47:03 ID:vdNCBnG6

>>102 a hope 所感)

<<下手な指導者につくくらいならば、「自分で『生命の實相』を根気よく読め」とわたしは言うのです。>>

これは、谷口雅春先生のお言葉です。
そのために雅春先生は聖典『生命の實相』を残してくださったのですよね!

感謝 合掌。

104a hope:2016/05/26(木) 07:46:47 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第26巻 p155 8行目〜

井上――いくら学者を呼んだって、宗教的情操ではなしに宗教学的情操ではだめです。
ちょっと情操といっても霊的にならなくちゃだめです。
いくら「物」を練ったってだめです。

谷口――人格的信仰的になってこなくちゃだめですね。

井上――やはり自己の霊を信じなければ。霊の実在を信ずることが最も根本ではないかと思う。
それをまあこれまでは死んだらそれきりという浅薄な考えでやっているのですから。

谷口――来世の存在のことで思い出しましたが、宗教的情操とは、個と全体との融合意識、神と自己との一体感というものであるとして、それが、ずっとこの座談の主題を貫いてまいりました。
これは縦に自己の本質を貫く真理です。
ところが、今、井上先生のお話で思い出しましたが、宗教的情操のもう一つ横の真理となるものは、三世を貫く因果の法則を信ずるということです。
つまり生長の家でいうと「三界は唯心の所現である」というこういう心にこういう結果がくるのであるとうことを信ずることによって初めてわれわれは本当に正しい生き方ができるので、過去現在未来を通じて作用(はたら)く因果の法則を知らす、現世さえ好き候(そうろう)に生きたら後はどうでもいいのだというのじゃ本当の宗教的生活ができない――。

井上――それはどうしてもできないです。

谷口――しかし、三世を貫く因果の法則があるといっても、議論だけで近代人に、そんな
宗教的信念をもたすことはできない。
それには、やはり心の変化によって、いかに肉体の病気や、境遇や、環境がよくなるかという実証を示す威力がなければならない。
生長の家では病気が治るのは病気そのものを治すためではない。
「三界は唯心の所現である」という宗教的真理を知らしめて、生活を正しいものに具体的に導いてゆくためなのです。
……これで宗教的情操の「縦の真理」と「横の真理」がちょうど揃うわけですねぇ。
それではこれで閉会にいたしたいと思います。

105a hope:2016/05/26(木) 07:53:29 ID:xVBwxesw

>>104 a hope所感)

ここで井上氏と雅春先生は、指導者が人々に宗教的教育を施すときに、
『ただ単に「縦の真理」「横の真理」等の宗教的真理を議論だけで説くことは「宗教学的情操」教育であって「宗教的情操」教育ではないので、人々に宗教的信念をもたすことはできない』
というような内容を話し合われています。

そして、雅春先生は、

<<三世を貫く因果の法則があるといっても、議論だけで近代人に、そんな宗教的信念をもたすことはできない。それには、やはり心の変化によって、いかに肉体の病気や、境遇や、環境がよくなるかという実証を示す威力がなければならない。生長の家では病気が治るのは病気そのものを治すためではない。「三界は唯心の所現である」という宗教的真理を知らしめて、生活を正しいものに具体的に導いてゆくためなのです。>>

と結論づけされています。

ここのところを拝読すると「生長の家」のいわゆる「奇跡の体験談」がいかに人々に宗教教育を施す(宗教的真理を知らしめて、生活を正しいものに具体的に導いてゆく)上で重要であるかがわかります。

本当に人々を宗教的に感化するためには、指導者が理屈だけを捏ね回している「机上の空論」者であってはいけないということなのだと思いました。

(参考文献)
きじょう‐の‐くうろん〔キジヤウ‐〕【机上の空論】
頭の中だけで考え出した、実際には役に立たない理論や考え。

https://kotobank.jp/word/%E6%9C%BA%E4%B8%8A%E3%81%AE%E7%A9%BA%E8%AB%96-473791

106トキ ◆NeaLgIQX3w:2016/05/26(木) 20:41:52 ID:IjaJpifQ
>>103

 この言葉は、極めて重要だと感じます。

 自分でまず本を読み、考えるぐらいの熱意がないと、本物にならないと思います。

107るん吉:2016/05/30(月) 10:35:22 ID:TWYtDbA.
a hopeさま
トキさま

<<下手な指導者につくくらいならば、「自分で『生命の實相』を根気よく読め」とわたしは言うのです。>>
<<自分でまず本を読み、考えるぐらいの熱意がないと、本物にならないと思います。>>


わたしも激しく賛同します。

(自分は)今まで根本真理で喜べてたのが、変な指導を受けてしまった結果、却ってわけがわからなくなり

めちゃくちゃになってしまったことがありましたもの。(*‘ω‘ *)ニャは

ちゃんとすごい本を残してくださってるのですものね。

108a hope:2016/05/30(月) 16:11:06 ID:vdNCBnG6

>>106 トキさま、>>107るん吉さま

ご賛同ありがとうございます。

結局、指導者に頼ってばかりいるということは、自分自身の無限力を信じず、
他に依存心を起こしているということですから、そういう意味でも本物を摑めないのだと思います。

自分自身の力を信じて自分の脚で起とうと決心した時、本当の協力者が出て来て助けてくれるような気がしています。

109a hope:2016/05/30(月) 16:14:12 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第26巻 p184 6行目〜

本部員――叱り方にも、失意落胆させるような叱り方もありますし、激励する叱り方もありましょう。この頃光明寮の御指導の様子を拝見しましたが、時に鉄槌の教育を遊ばせしていらっしゃる。鉄槌(てっつい)的に生徒に迫っていらっしゃるのですね。

この間の「教育」の三月号にも谷口先生の「鉄槌の教育法」ということが載っておりましたですが、それで、今までにお書きになられたことと、この頃お書きになられたことと、そこになんだかこう行き方がちがうようじゃないかといったような感想を、この頃もつ方がありますが、そんなお感じはございませんでしょうか。

『鉄槌の教育これまた愛の教育』

山村――そのお話に関係すると存じますが、この鉄槌の教育、したがってこの努力の教育、つまりその鉄槌を加えて努力を強いるかのごとく聞こえる言葉でありまするが、わたしはその鉄槌の教育なるものがまたこれ愛の教育であるとこう思うのでございまして、愛なるがゆえの鉄槌教育であり、そうしてまたこれが本当であると思うのであります。

最も進んだ状態におきましては、叱ることがいらないのだと思いますし、鉄槌を加えることもいらないと思うのでありますけれども、この過渡期におきましては、その鉄槌の教育が必要だろうと思う、しかしその鉄槌でもって頭を殴りつけるのではなくして、鉄槌で殴りつけられるものは本来のものではない迷いが殴られるのであって、その子供の神の性というものが殴られるのじゃないのです。

わたしはこのあいだもある生徒さんのお母さんに申しましたが、叱ってもよいのです。しかしどういうふうに叱るかと申しますると、たとえばここに百点取るべき成績に対して六十点しかよう取らなかった、その時は大いに叱りなさい。

なんと言って叱るか。

あなたはこんな点を取るあなたではない。こんな拙(まず)い点を取るあなたは実に怪しからぬ、実に贋物だ。本当のあなたはこのような怪しからん贋物の点を取るあなたではけっしてない。本当のあなたは百点取るにちがいないのだ、この六十点の点を取るあなたは虚(うそ)のあなただ、虚のあなたを出してはいけない。本当のあなたを出しなさい。本当のあなたは百点を取るお利口さんであると、こう言って叱りなさいということを申したことがありますが、ここですね、その迷いの方、六十点に縛られている方を、鉄の固い固いやつでガンとやっつける、そして本物の立派な力を激励して出すというのが谷口先生のおっしゃる本当の教育だというふうにわたしは解釈しております。


『「叱る」の真の意味』

本部員――徹梱(てっこん)深切というところですね。

山村――わたしはそう思いますね、けっしてそれは叱るのじゃない。深切に説き聞かせておる。そういう点においてわたしは叱るという言葉を使いたくない。もうわたしの頭にこびりついております。叱られるものの悲哀というものが。ハハ……。

本部員――なかなかおもしろい問題ですね。

山村――決して叱ったらいけない。諭す、これがわたしは必要だと思います。深切に道理を説き聞かしてやる。諭してやることはよいけれども、頭から叱ることはいけない。それでわたしは将来もう叱るという言葉はこれから先も出すまいと思っております。

本部員――今の山村さんのお話はなんですね、結局その実相を見てのお叱りである。実相を見ないところの、従来の叱り方はいけないという点では一致していらっしゃるわけですね。

山村――そうです。

本部員――どならないで、深切に説いて美点を引き出してやるのでこざいますね。

110a hope:2016/05/30(月) 16:15:42 ID:vdNCBnG6

>>109 a hope所感)

一般的に大人は子供が悪いことをすると「なんて悪い子なんだろう」という目で見てしまいがちです。

その対象が大人であってもその人の素行がわるいと「あの人は悪い人だ」「あの人は腹黒い」みたいに表現することが多いのではないでしょうか?

ですが、「生長の家」の教えでは、常に相手の「実相」を観て、その実相を拝み出すようにするんですよね。

でも一方で、まわりの人たちのその人を「悪」だと思う想念が強かったりすると、いくらその人の「実相」を礼拝しても、
その悪い想念に負けてしまい、いつまでたってもその人の「実相」が顕現しないのだと思います。

たとえば、心ある信徒の方々が一生懸命雅宣先生の「実相」を祈っていても、他方で雅宣先生の「実相」を語らず批判ばかりしている人たちがたくさんいたら、
雅宣先生の「実相」は、いつまでたっても顕現しないのではないかと感じています。

愛のない批判はただの悪口ですものね。

111a hope:2016/06/01(水) 09:20:21 ID:vdNCBnG6

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第3回 web「生命の實相」輪読会  案内

期間   平成28年6月1日〜6月30日まで
テキスト 「生命の實相」第27巻 久遠仏性篇 上
内容   常楽宗教の提唱<上>

     
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

112a hope:2016/06/01(水) 09:21:33 ID:vdNCBnG6

みなさま おはようございます。

6月になりましたので、第3回web「生命の實相」輪読会 開会させていただきます。
開会にあたり、祈りの言葉を掲載させていただきます。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

住吉大神様 住吉大神様  谷口雅春先生 谷口雅春先生有難うございます、有難うございます。
 
生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給へ 
吾が生くるは吾力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能
天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家の大神まもりませ
  
住吉大神様、「本流復活」を考える 『web「生命の實相」輪読会』 板 に於ける
生命の実相 輪読会で、生長の家の御教えを正しく把握し、広く伝道するための 
必要な霊の選士を集え給うて、真理の研鑽を導き給う。
住吉大神様 勉強会を正しく導き給う 住吉大神様 勉強会を正しく導きたもう。
参加者お一人、お一人を浄化し給うて、使命を授け給う。
有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます

世界平和の祈り

神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。
その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。


光明思念の歌

天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

113a hope:2016/06/01(水) 09:23:35 ID:vdNCBnG6

今日から、あたらしい巻、「生命の實相」27巻 久遠佛性篇を学びます。
その内容は、『常楽宗教の提唱』です。

常に楽しいと書いて常楽、大辞林によれば、――【仏】永遠の楽しみ。悟りの境地をいう。――とあります。

常楽宗教である「生長の家の教え」を次から次へと学べる幸せ、心から感謝してます!

合掌。

114a hope:2016/06/02(木) 08:36:46 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第27巻 

(はしがき)

わたしは本書において一点の暗い影もない明朗の宗教を提唱する。今まで宗教はなんらかの意味において暗い影がどこかに潜んでいたのである。曰く、

(一) 人間には原罪というものがある。あるいは因縁とか罪業というものがあってなかなか救われがたい。
(二) 罪を消滅するには苦行が要る。献金が要る。犠牲が要る。そのままではなかなか救われがたい。
(三) 神と富みとには兼(か)ね事(つか)うることはできない。救われるためには貧乏しなければならない。経済的苦痛は忍ばなければならない。
(四) 仏の救いは肉体滅後の世界だけであって、肉体のある間は仏の本願力といえどもどうすることもできない。
(五) 釈迦も出家して家庭生活を破壊し、キリストも「それ我(わ)来れるは人をその父より、娘をその母より、嫁をその姑嫜(しゅうとめ)より分かたん為なり」と言ったごとく、大なる悟りを開くためには、一時は家庭生活を破壊しなければならない。
(六) 悟りを開きまたは、救いを受けるには長途の旅行をつづけて本山に参拝し、多数の日子と、多額の金額とを費やさねばならない。
(七) 宗教的信仰をもつというだけでは、死後救われるかもしれぬが、現在の経済生活、健康状態、児童の学業成績をも左右するということができない。
(八) 一つの宗教的信仰は他の宗教的信仰と衝突して、宗教の名において骨肉相争い、家庭不和の状態を演じ易い。

まだまだあげれば、在来の宗教には無数の暗い影があるが、まず上記はその主(おも)なるものであろう。

われわれはかかるいっさいの暗影を放擲(ほうてき)して、光明一元、神一元、天国のみの実在、浄土のみの実在を高調して完全に光明のみのいとも明朗なる宗教を打ち建てて無数の実際生活に功徳をあげたのであり、現に続々その実証をあげているのであって、その体験実例はわたしたちの機関誌たる『生長の家』『精神科学』『白鳩』『光の泉』『理想世界』等に毎月発表されているのであり、『実相体験集成』という大部の書籍も昭和十二、三年に上下二巻出版されたのである。

最近、『わたしはこうして癌が治った』と題する二十数氏の実際体験を集めた書物も出版されているのであって、現在なお医学界で完全な治療法の見当たらない癌にさえこれだけの治験例を挙げることは注目に値するのである。
(つづく)

115a hope:2016/06/02(木) 08:37:52 ID:vdNCBnG6
>>114 つづき)

その功徳の生ずる原因は――

(一) 人間の罪悪感念の払拭。人間本来神の子・仏子であって本来罪なく、本来救われているという真理を知り、決して因縁罪業等によって縛られなくなる。
(二) 罪本来無きがゆえに、罪を滅するために苦行も、献金も、犠牲も不要である。人間はそのまま救われていると知るがゆえに、自己処罰がなくなること。
(三) この教えをきいて経済問題が解決するのは、神(仏)は、その神の子(仏子)なる人間が貧しくあることを喜び給うはずはない、人間が貧しくあるのは神の無限供給を本当に知らないからにすぎぬ、本当に神を知ったら、すでにここに無限供給が与えられていることを見出しうるからである。
(四) 神仏の絶対力は、肉体と相対立する相対的な存在ではないから、肉体は死ななくても生きていながら人間はそのまま救われていると知るから、不安恐怖が除かれる。
(五) すでに釈迦キリストが悟りを開いて真理を直指(じきし)啓示せられた以上は、その悟りをそのまま生きていればいいわけであって、釈迦キリストのごとく悟りを得るためにいったん家庭生活を破壊する必要はない。
(六) すでに釈迦キリストの開きたる悟りがあり、人間の救われるのは「心」によるのであるから、釈迦キリストの悟りをそのまま平易に解説し、流麗暢達(りゅうれいちょうたつ)なる文章をもって、その悟りが人類の「心」の奥底に流れ込むようにしさえすれば、人類は救われるのである。人類は「足」で救われるのではないから、長途の旅を続ける必要はない。人類は日数で救われるのではないから長期の日子を要しない。人類は旅費で救われるのではないから、多額の旅費を支払う必要はない。ただ流麗暢達なる文章に表現された悟りの本を読むだけで「心」の中に真理が流し込まれて悟りに入るから、読書するだけで功徳が生ずるのである。
(七) この世界は神一元の世界、仏の無礙光尽十方に満つる世界であるから、一の悟りは法界一切のものを救いの無礙光のうちに見出すのである。経済も健康も教育も悉くこの無礙光の中に見る時、いっさいの光明輝くものに変貌するのである。
(八) われらは古今を貫く真理を解明するのであって、敢(あえ)て一宗一派の宗教を樹(た)てるのではないから、どの宗教の信奉者もその教えに接するとき、各自の宗教がその真理を本来各宗教共通の天地一貫の真理になることを悟り、強いて為にするところあって反発するもののほかは、各宗派人悉く互に相和することを得るに到るのみならず、在来の神道仏教キリスト教がとうてい融合しえなかった欠点を補って、完全に神仏耶三教の融合を完(まっと)うして人類が平和に融合しうる基礎を築いたのである。


ともかくわたしはかつて書いた原稿を纂(あつ)めたこの本を校正しながら、自分自身の執筆であるところのこの書の語る真理にまったく打たれて、反省せしめられた幾多の箇所があったことを告白する。

その感想をいちいちここに列挙することは止めるが、唯一つ言っておきたいのは、理想家は善人にありがちな自己虐待の精神がいつの間にか頭をもたげて、ともすれば悲壮の方へ、悲劇の方へ、暗黒の方へと誘惑されやすいのである。

多くの善人は自己虐待が好きで、ともすれば自己を奈落の底に引き落とす暗黒思想に知らず識らずにひきつけられて行きがちである。

聖フランシスやトルストイなどの不幸はその適例である。

われわれが説くところが正しいのは、最近の精神分析の発達に従い、罪悪感念が原因で無数の病気や災難が起っていることが明らかにされたことによって裏書されたのである。

この問題について興味のある人はメニンジャー博士の『おのれに背くもの』に無数の病気や災厄が自己処罰であらわれている実例をあげており、戦争までも大量自己処罰だと説いているから、それを読まれるがよい。

この書は三島由紀夫氏が書評に絶讃していた、日本教文社の発行である。

昭和四十年 一月 十日          著者しるす

116a hope:2016/06/02(木) 08:40:24 ID:vdNCBnG6

>>114 >>115 a hope所感)

毎回感じるのですが、「生命の實相」は(はしがき)も素晴らしくて、決して読み飛ばすことができません。

もっと言えば、ブックカバーの帯に書いてある、キャッチフレーズみたいな文章も素晴らしいです。(これは編集者の方が書いたらしいですが・・・)


第27巻のブックカバーの帯の文章を紹介します。

――――――――――――
「現代をリードする宗教とは」

アメリカまで数時間で行けるという科学の驚異的に進歩した現代、本当の宗教とは如何なるものだろうか……どこか暗い影があった今までの宗教(上段=△)と本書の提唱する明朗な宗教(下段=○)とをならべ、生命的宗教の特長を明示する。

▽人間は生まれながらにして罪がある ○人間本来神の子・仏子であって罪なし
▽罪を滅ぼすには苦行、献金、犠牲がいる ○罪はないから罪を消す苦行は不要
▽救われるには貧乏しなければならない ○人間には無限の供給が与えられている
▽人間は死んでからでないと救われない ○人間は本来そのままで救われている
▽悟りを開くためには家庭は破壊される ○真理を生きる時そのまま家庭は調和する
▽一つの宗教は他の宗教とぶつかる ○全ての宗教は神髄において一致する

本著名『生命の實相』とは――いのちの本当のスガタを書いたものです。
――――――――――――

雅春先生の(はしがき)のご文章が簡潔にまとめられています。
聖典『生命の實相』には無駄な文章が一つもありませんね!

117a hope:2016/06/02(木) 08:43:39 ID:vdNCBnG6
>>116訂正

ブックカバーの帯 → ブックカバーの袖 

着物の一部だと覚えていて間違えました・・・ハズカシ・・・(≧◇≦)

118a hope:2016/06/03(金) 07:37:07 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第27巻 p4 4行目〜

宗教の使命は、梗塞(こうそく)された生命を解き放って本来の自由に復帰せしむるにあるのであるから、宗教を信じながら、苦しんだり、罪についていつまでも低回(ていかい)して悲しんだ状態にあらしめる宗教がありとするならば、その宗教は宗教としての使命を果たしていないと言わなければならないのである。

抜苦与楽(ばっくよらく)が宗教の使命であるのは何人も肯定して疑わないところであるのである。

(略)

幸福感に満つる生活こそ本当の生活であるのである。

悲しみと不幸に満たされた人々が「生長の家」の教えを受けて旬日(じゅんじつ)ならずして、家庭に夫婦喧嘩は絶え、幸福の空気がその家庭の雰囲気を満たし、喜色が家族たちの顔貌にあらわれ、間もなく、家族の人相まで変わってしまう事実が多くあるのは「生長の家」が悲しみの似非(えせ)宗教でなく、常楽宗教の実相を教える真宗教であるからである。

119a hope:2016/06/03(金) 07:38:39 ID:vdNCBnG6

>>118 a hope所感)

「生長の家」を信仰していると信じていても、その生活が喜びに満たされていなければ、
それは本当の「生長の家」の信仰ではないということなのだと思います。

みなさんは、「悲しみの似非(えせ)宗教」を信仰されていませんか?

みなさん、聖典「生命の實相」を毎日拝読して、まことの「生長の家」を信仰しましょう!

120a hope:2016/06/08(水) 20:42:18 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第27巻 p51 2行目〜

すべて善き宗教は、教祖が教団をこしらえようと計画してはじめた教えではなかった。

最初はたいてい、普通の常識を超えたことを言うものだから皆気が狂ったのかと思ったけれど本人は気が狂ったのでもなんでもない。

その至誠(しせい)が高次元の世界の神様に感応してそこに神さまからの教えがひらかれたのであります。

最初は教祖の至誠の教えでありましたが、しだいに教えを継いだ宣教者が、人間知恵をもって計画的に教義をこしらえ無理に教勢を拡張しようとしたので躓(つまづ)いたのであります。

121a hope:2016/06/08(水) 20:43:55 ID:vdNCBnG6

>>120 a hope所感)

 頭注より
○至誠…このうえなく誠実なこと。まごころ。
○宣教者…教えを伝えひろめる仕事をする人。


色々、考えちゃいますね・・・(゚∀゚)

122るん吉:2016/06/10(金) 21:08:46 ID:TWYtDbA.
>>a hopeさま
>>罪についていつまでも低回(ていかい)して悲しんだ状態にあらしめる宗教がありとするならば、その宗教は宗教としての使命を果たしていないと言わなければならないのである。

生長の家以外の教えでは罪無しにならないから、苦しいでしょうね・・


>>(宣教者・・)色々、考えちゃいますね・・・(゚∀゚)

にゃはは、ほんとですね。

いつも有難うございます。

123a hope:2016/06/12(日) 08:11:42 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第27巻p61から始まる「石橋さんの体験」はとても印象的でした。
かつて石橋さんは和歌山で鍼灸院を開かれて、とても繁昌していて、家族とも幸せに暮らしていたのですが、
あることがきっかけになり、転落の人生を歩み始めます。

ついには借家の家賃も払えないような貧困になり、管理人から立ち退きを迫られているのをなんとか置いてもらっていたのですが、
そんなとき生長の家の教えに触れ(パンフレット八冊を拝読する)ことで物質への執着心がなくなってきます。

そして、その借家への執着心もなくなり神さまに全托して、管理人のいうように素直に出ていこうと決心した時、
すべてがよい方に方向転換していきました。

(つづく)

124a hope:2016/06/12(日) 08:13:09 ID:vdNCBnG6
>>123 つづき)

「生命の實相」第27巻 p69 2行目〜 「石橋さんの体験談」より抜粋 

・・・今まで管理人をいやな奴だと思い、どうにでもしてこの家にいなければならないと思っていたのに、管理人には本当にすまないという気持になってきたし、これまで「この家におらならん、おらんければ生活に困る」と家に執着していたのに、その執する心がなくなってきた。

ここが大切です、先刻(さっき)は体のことを申しました。

この体をこの体をと思って体ばかりに心をひっかからせていたら病気は快(よ)くなりはしないし、終(しま)いには神経衰弱になってしまうよりほかはないのだということを話しましたが、今度は体ではない、家の話です。

しかし同じことで、物質にひっかかっているかぎり良くなりっこはない、かえって苦しくなるばかりなのです。

それで石橋さんもこの家この家と思って執着していた、その時には管理人が隔日にやって来て大声でどなっても黙って忍ばなければならなかった。

ところがパンフレットを読むにつれて、

「人間は神の子であって生かす力は神から来るのだ。この天地が地上にわれわれを生んだ以上決して人間が食べるものにことかくということはあるはずがない。それなのに食べるものがないという状態にあるのは、神の豊かな供給を自分の心を狭くしていて受け入れなかったからだ。人間みずから詮(せん)をして神の供給を拒んでいるからだ。これからは心をもっと広く持って、お示しのままにもしこの家を出ろといわれたら出ていこう、そこにまたお示しがあるのだ」

と、こういうようにひっかかる心をすべて神様の大きな御手(みて)に委(まか)せる気になられたのでありました。・・・

125a hope:2016/06/12(日) 08:15:33 ID:xVBwxesw
>>124 a hope所感)

この「体験談」は本当に興味深いです。
このあと、石橋さんの心が変わることで、管理人の心にも変化が現れてくるのです。
つまり、石橋さんが管理人に「すまなかった・・・」という気持ちを持ったとき、
管理人の心にも同質の憐みの心が湧き上がって来たのです。


まことの「生長の家」は現象界にはありません。
わたしたちは現象界の「生長の家」に執着しているかぎり、転落人生を歩むことになってしまうかもしれません。

みなさん、聖典を拝読しましょう! 聖典にすべての答えが書いてあります。

126a hope:2016/06/15(水) 06:08:36 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第27巻 p84 1行目〜

「・・・生長の家というのはいっさいのものと仲良しになって調和するという教えなのです。

考えてもごらんなさい、炊事係の不注意からかもしれないけれども、食事の中に油虫が入っていればこそ、あなたが退院する気持ちになったんじゃありませんか。

もし油虫が入っていなかったら、あなたはまだまだこんな病念の蓄積した所から退院しなかったかもしれない。

食事の中に油虫がいたればこそ、こんなに早く君は退院する気になったのだから、油虫は、いわば恩人じゃないか、そう思うとありがたい油虫だと手をあわして拝まねばならん」(拍手起こる)と懇々と言ってあげられた。

そうすると、ほんとにそうであった、なるほどありがたいことであった、それを恨んでいたというのはわたしのまちがいだった、この世の中にはどこにもありがたいことがあるのだと気がつかれたのでありました。

127a hope:2016/06/15(水) 06:10:13 ID:xVBwxesw

>>126 a hope所感)

そうでした、「生長の家の教え」はすべてに感謝する教えでした。

自分を害するかもしれない、食事の中の油虫にさえもその存在価値を見つけて感謝する・・・。

それができたとき、わたしたちははじめて、「天地一切のものとの和解」を成立させることができるのかもしれませんね!

128a hope:2016/06/15(水) 06:59:13 ID:vdNCBnG6

>>127補足)

ここの「油虫への感謝」のところはちょっとややこしくて混乱するかもしれません。

なぜなら、生長の家の教えでは、一方で「天地一切のものとの和解」を説きながら、他方では「虚説や、黴菌とは和解してはいけない」と説いているからです。

「虚説や、黴菌とは和解してはいけない」という意味は、

虚説や黴菌は人間に害を及ぼすので、その害を及ぼす部分(内容)は決して受け入れるな、という意味なのだと思います。

でも、その「虚説」(間違った教え)があるお蔭で、わたしたちは何が真説なのか自ら考えることができるわけです。

そういう意味で、その「虚説」の存在に感謝できるのだと思います。

つまり、油虫に感謝するからいって、油虫の入った料理を食べ続けたら必ず健康を害します。

「真説」は雅春先生のお残しになった『聖典』のなかにあります。
(わたしは、雅春先生のお書きになった愛国書と呼ばれるものは『聖典』だとは思っていません。)

いつまでも「虚説」を食べつづけないように気をつけてくださいね。

129a hope:2016/06/15(水) 08:44:28 ID:vdNCBnG6
頭注より 

油虫・・・ごきぶり。

130a hope:2016/06/17(金) 06:58:33 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第27巻 p103 後から1行目〜

皆さん、ただ今、眼を瞑(つぶ)って「肉体は無い」と観じ、そうして「南無阿弥陀仏」を称えてごらんなさい、キリスト教の人ならば「神と一体」と称えてごらんなさい、神道の方であれば「天之御中主神(あまのみなかぬしのかみ)と一体だ」と考えてごらんなさい。眼を瞑っているから肉体がないように思われ、その無いように思われる程度にしたがって、われわれは、阿弥陀仏または神様と一体だということがいっそう深く感じられるのであります。

131a hope:2016/06/17(金) 07:00:34 ID:vdNCBnG6

>>103 a hope所感)

みなさま、おはようございます。

今日は、谷口雅春先生の御命日です。 
大感謝、合掌。

そして、上に謹写したお言葉は、間違いなく谷口雅春先生のお言葉です。

ここに、ハッキリ、<<われわれは、阿弥陀仏または神様と一体だということがいっそう深く感じられる>>とあります。

わたしたち人間は本来神様と一体なんですから、まことに〝肉体無し〝 の真理を理解してれば、
「無限絶対の神は、だから感覚できないのである。」などという軽々しい発言は絶対ありえないと思います。

(参照) 『「生長の家」の教義について議論する』板 >>108
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1458205600/108-n

132a hope:2016/06/17(金) 07:05:01 ID:vdNCBnG6
>>131訂正
>>103 a hope所感)→(>>130 a hope所感)

133a hope:2016/06/22(水) 18:15:33 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第27巻 p108 後から6行目〜

「物質は無い」「肉体は無い」ということがわかれば、わが身というものはみんな幻のようなもので何も無いのだと思う観方を「断見」といって、釈迦がまちがった見解の一つして排斥されたところであります。

「物質が無い」と知ったと同時に「実相がある」と知り、「肉体が無い」と知ったと同時に「ほとけ が有る、それが自分だ、神がある、それが自分だ」と知らねばなりません。

「実相がある」「我(が)がある」と言ったら、その実相とはこの肉体の自分のことだ、「この肉体が有る」のだ、と思うのは「常見」といって釈迦はまた排斥されたのであります。

この「断見」「常見」いずれにも堕(だ)さないようにしなければ正しい悟り(正見 しょうけん)ではないのであります。

正しい悟りというものは、「無くて有る」この反対のことを一つに自覚したような状態にあります。

肉体の無がわかっていて、金剛不壊の実相が有ることがわかることが断常二見に堕さない正見なのであります。

この正見を得たときには「無くてしかも有る」ことがわかりますから、肉体が眼に見えていても、それがただちに無いとわかり、実相身が眼に見えないでも、それがただちに有るとわかり、「臨終の一念」を待たないでこのまま、今(いま)成仏していることがわかるのであります。

134a hope:2016/06/22(水) 18:18:25 ID:vdNCBnG6

>>133 a hopeまとめ)

「何もない」・・・断見 ×
「肉体が実相」・・・常見 ×

「(肉体)無くて(実相)有る」・・・正見(正しい悟り)○

135a hope:2016/06/22(水) 18:18:59 ID:xVBwxesw

>>133 a hope所感)

聖典の言葉はどこを拝読しても格調高く、魂に響きます。

それはこの聖典を書かれた谷口雅春先生が、「正見」つまり正しいお悟りを得られた方だったからに他なりませんね。

136a hope:2016/06/24(金) 08:17:39 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第27巻 p128 3行目〜

生長の家はかく「実相世界」のみを強調して、「現象は無なり」と現象的不幸一切を空(くう)じ去る。

さればこそ現実を征服する現実的威力を発揮するのである。

「現象あり」を観ずればわれらは現象に力を認めるがゆえに現象を征服することができないのである。

「現象も現象として在るのであって、かく本体界のみ主張し、本体界の完全観念を現象界にも適用せんとするのは、本体界と現象界を混同するのである」との諸宗教家または哲学者よりの非難があるが、われわれは本体界と現象界とを混同するのではない、混同とは現象界を在りと認めての立場であるが、われらは現象無しと自覚するゆえに、無きものは混同するの恐れなきがゆえに、われらはただ常に本体界の完全性のみを主張するのである。

その結果、本体界の完全性がそのまま現象界に投影して、現象界の不幸を征服することができるのである。

「現象は現象として在るのである」といって現象界を本体界に対立せしめたり、「本体界の自叙自展(じじょじてん)が現象界であって、本体界と現象界とは一如である、そして、現象界は本体界のうちに包摂(ほうせつ)せられるものである」というような在来の見方を脱しえないような宗教では、とうていそれは現実人生を支配することができないのである。

生長の家の思想が、かく素晴らしい現実人生の支配力を有しているのは、主として「現象無し」とスカッと截ち切り、「実相独在」を明快に斬然(ざんぜん)と主張しているからである。

※ 本体界・・・実在の世界。実相界。(頭注より)

137a hope:2016/06/24(金) 08:19:49 ID:xVBwxesw

>>136 a hope所感)

「実相独在」・・・これが、まことの「生長の家」の思想なんですよね。

でも、今現在の「生長の家」の現実をみると、現象、現象、現象・・・・

ある団体が運動をしていく上には、現象を見なければ始まらないというのもわかりますし、
「生長の家」教団の総裁としての谷口雅春先生も、現象を見てたくさんの運動を指揮されていたのだと思います。

そしてその一つが、雅春先生の愛国心から生まれた政治運動だったのではないでしょうか?

わたしは、右翼とか左翼とか、政治に関してはよくわかりませんが、今、現象の「生長の家」が分裂して、
大変な危機的な状態にあるのだけはわかります。

なぜこんな状態になってしまったのかな〜と考えたとき、この「現象無し」の「実相独在」の思想が、
信徒の心から忘れさられてしまっているからなのではないか・・・と漠然と感じています。

138a hope:2016/06/25(土) 12:55:37 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第27巻 p139 後から4行目〜

本当に肉体のお釈迦さんが説いても、まちがいはまちがいであるし、肉体の釈迦が説かなくとも、真理は真理ですから、必ずしも肉体のお釈迦さんが説くからありがたいということではないのであります。

本当にわれわれを成仏させてくれる、「仏」を得、「自由解脱」を得させてくれる教えなら、キリスト教であろうと生長の家であろうと、すべて仏教であり、ホトケ(解脱)の道なのであります。

それだのに「肉体の釈迦」にこだわっていますと、相当の仏教学者が「釈迦は大乗を説かず、小乗仏教のみを説いた。大乗は後世のこしらえた物だ」と言って、仏教の中でも互に喧嘩していなければならなくなるのであります。

しかし喧嘩することが本当の仏教ではありません。

仏教は聖徳太子の仰(おおせ)せ給うたように和(わ)をもって尊(とうと)しとするのであります。

和を説いているのが本当の仏教であるのに、仏教内部で互いに相排擠(はいせい)して争っている。

ちょっと良い説がでると自分の宗教が潰(つぶ)れるといかんと、すぐそれを邪教だと言って、撃滅しなければならぬと、秘かに運動資金を撃滅運動者に回して騒ぎたてるのは、本当の仏教ではないのであります。

そんな撃滅の心がすでにお釈迦さんの心ではないのであります。

139a hope:2016/06/25(土) 12:57:30 ID:vdNCBnG6

>>138 a hope所感)

なんか、ここのところのご文章は、他人事ではないような感じですね・・・。

雅春先生は、現在の「生長の家」の混乱を予測されていたようですが、この文中の「お釈迦さん」を「谷口雅春先生」と置き換えて、
「仏教」を「生長の家の教え」と置き換えて読んでみると、今の「生長の家」の様子にそっくりで驚いてしまいます。

まあ、ここで、わたしが何を発言しても、今の皆さんには何の関心も持っていただけないかもしれませんが
何度でも言わせていただきます。

みなさん、和の心が説かれた真理の書「聖典」を拝読しましょう!

140るん吉:2016/06/25(土) 18:57:48 ID:TWYtDbA.
>>a hopeさま

>>生長の家はかく「実相世界」のみを強調して、「現象は無なり」と現象的不幸一切を空(くう)じ去る。

>>さればこそ現実を征服する現実的威力を発揮するのである。

>>「現象あり」を観ずればわれらは現象に力を認めるがゆえに現象を征服することができないのである。


この文、ググっと来ました。(*^-^*)あ〜、うれしっ!

いつもありがとうございます。読ませていただいてますよ。ありがとー。

141るん吉:2016/06/25(土) 19:02:33 ID:TWYtDbA.
現象無し!

なんと「現象無し」ひぇ〜〜〜 あまりにもすごすぎてどう表現してよいのか?くらいすごすぎる真理です。
誰も思いもつかないこの真理。すごすぎですね!

142神の子さん:2016/06/25(土) 19:13:12 ID:nFi3G1bg
生長の家はかく「実相世界」のみを強調して、「現象は無なり」と現象的不幸一切を空(くう)じ去る。
「現象あり」を観ずればわれらは現象に力を認めるがゆえに現象を征服することができないのである。

という生長の家にあって

今の「生長の家」の様子にそっくりで驚いてしまいます。
まあ、ここで、わたしが何を発言しても、今の皆さんには何の関心も持っていただけないかもしれません

なんて現象ありの感想が何処から出て来るのか、不思議です。

143a hope:2016/06/25(土) 19:29:01 ID:xVBwxesw

>>140 るん吉さま

いつも励ましのメッセージをありがとう(*^▽^*)

わたしは「現象なし」って考えると、いろんな現象的な問題があっても負担に感じなくなって、
むしろ、「よーし、魂みがいてやるぞ!」って生きる意欲が湧いてきます。

生長の家の教えは最高ですね!

144a hope:2016/06/25(土) 19:33:00 ID:vdNCBnG6

>>142 曳馬野さま

いつも同じようなメッセージをありがとうございます。

そうですね、わたしも一日も早く「実相独在」を大悟して、ホントの「現象無しの自覚」に入りたいです。

145神の子さん:2016/06/25(土) 20:59:46 ID:nFi3G1bg
『煩悩本来無し、唯菩提あるのみ、現象本来無し、唯実相あるのみ』これ以外無いのが真理であり、これ以外無いのが生長の家である。天地崩るるとも此処以外に心走らない人間であること。

『身は是れ菩提の樹、心は明鏡の臺の如し。時に拂拭して塵埃を惹かしむること莫れ』と示した神州上座の心と、
『菩提は本樹無し、明鏡亦た臺にあらず。本来無一物、何れの處にか塵埃を惹かん』と示した慧能禅師の心と。

慧能は心安穏とし、神秀は心苦しみに覆われていたことであらう。神のみあること。完全のみあること。そして、それ以外には遂に一物の存在も無いこと。今から完全にして行く自分ではないこと。今から完全にしていく自分はないこと。今完全であり、それだけであって其れ以外は無いこと。この自覚に帰るとき、其処が其の儘道であり、神の子である。そして誰もが今此の儘でそれなのであった。

『其の儘でよいのである、人間は其の儘で完全である。人間の其の儘が神である』の恩師の御言葉が新たなる響きを持って身に沁みる今日である。  常楽への道

146a hope:2016/06/26(日) 10:35:30 ID:xVBwxesw

>>145 は吉田國太郎先生の「常楽への道」からの抜粋文でしょうか?

ですが、この板は「生命の實相」の輪読会用の板ですので、次回からは「生命の實相」以外の文献や御子弟やご文章は、
Web「生命の實相」輪読会参考文献板
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1458099618/l50
の方に謹写していただき、その旨のコメントをいただけるとありがたいです。

ところで、ご紹介のご文章の中に、中国禅宗の第六祖の法燈をついだ慧能(えのう)大師の「本来無一物」のお話がありますが、
これはとても有名なお話ですね。

わたしは、もう10年以上前になりますが、近所の曹洞宗のお寺の法話で初めてこのお話を聞きました。

今、丁度この輪読会でも、「久遠佛性篇」を学んでいます。

貴重なご文章の紹介に感謝いたします。

147a hope:2016/07/01(金) 06:09:52 ID:vdNCBnG6
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第3回 web「生命の實相」輪読会案内 改訂版

期間   平成28年6月1日〜7月31日まで
テキスト 「生命の實相」第27巻久遠仏性篇 上p117〜 第28巻 久遠仏性篇 下
内容   7月1日〜「われらの祈願および修養」「近眼・色盲等は治るか」「体験談」
    
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

148a hope:2016/07/01(金) 06:11:34 ID:xVBwxesw

みなさん、おはようございます。

7月に入りましたが、「生命の實相」第27巻の第八章「われらの祈願および修養」は、
第28巻に続く内容となっているため、輪読会の方もそのまま続けさせていただきます。

この第八章「われらの祈願および修養」の最初の文章を紹介させていただきます。

<<これから「生長の家家族の祈願および修養」の講義の概略を申し上げます。生長の家の家族たち誌友たちの祈願として修養せんとするところの箇条書がこれにかいてあるのであります。順々にそれを説明いたします。>>

今、現象の「生長の家」はとても混乱しています。

このタイミングで、「生長の家家族の祈願および修養」の内容を学ぶというのは、
わたしたち「生長の家」の信徒の本来の使命とすべきことはなんなのかを学び直すいい機会が与えられたのだと思います。

現象的な運動をする前に、まずは生命の実相の真理の説かれた「聖典」をぼろぼろになるまで拝読しその真理を自分のものとしなければ、
まことに谷口雅春先生の御遺志を継いだ運動をすることは不可能だと思います。

今、この混乱の中で、一人でも多くの信徒さんが本来の「生長の家」の信徒に戻られることをお祈りしながら、
「『生長の家』の家族の祈願及び修養」の箇条書きをすべてここに謹写させていただきます。

149a hope:2016/07/01(金) 06:22:13 ID:xVBwxesw

『生長の家』の家族祈願及び修養 (新編 聖光録 p74 75より謹写)

一、『生長の家』の誌友及び読者はすべて『生長の家』の家族として此の祈願に従いて、生活し、修養し、各々隣人を照す燈台たらん事を期す。

二、吾らは凡(あら)ゆる宗教が大生命より発せる救いの放射光線なることを信じ、他宗をそしらず、他人の尊崇の対象たるものに敬礼せんことを期す。

三、吾らは自己を神の子(又は仏子)なりと信じ、常にけだかく人生の道を歩み、内なる魂の矜持(ほこり)を傷つけざらん事を期す。

四、吾らは野を、野の花を、み空を、み空の星を、蒼海(あおうみ)を、大地を、火を、水を、一切の大自然と生物とを観るに、その背後に神の生命の円相を観、その生命を敬し、礼し、愛し、苟(いやし)くも浪費せざらんことを期す。

五、吾らは『心の清き者は神を見る事を得(う)』との真理を信じ、心を飽くまで清く尚(たか)く純に素直に保たん事を期す。

六、吾らは『類は類を招(よ)ぶ』の心の法則を以て苟(いやしく)も自己の欲せざることを心におもわざらんことを期す。

七、吾らは自他の悪を云為(うんい)する時間あらば、神を想い、完全を想い、自己の新生と生長とに利用せんことを期す。

八、吾らは常に無限力と偕(とも)に生くることを信じ、神に背く事のほか、何ものをも恐れず、取り越し苦労をせざらんことを期す。

九、吾らはたとい躓(つまず)くことありとも渋面せず、その瞬間起き上がりて光明に面せんことを期す。

十、吾らは出来る限り悩める隣人を扶(たす)けてその暗黒なる生活を光明に転向せんことを期す。

十一、吾らは自己の好む所を他に施し、自己の好まざる所を他に転嫁せざらんことを期す。

十二、吾らはすべての人類をして健康と幸福と安住との生活を得しめんがため、この光明思想『生長の家』をひろめ全人類に真理を伝えん事を期す。

十三、吾らは生命は永遠なるを信じ、毎朝、皇霊を遥拝(ようはい)し奉り、次いで一家の祖先の霊魂を祀れる祭壇又は仏壇の前に坐してその冥福と守護を祈願し、且つ自己の生命も永遠なれば常に若く愉快に青年の如く生きんことを期す。

十四、吾らは実在の実相のみを見、移り変わる仮の相(すがた)にとらわれず、常に光風霽月(こうふうせいげつ)の如き生活を営みて情(こころ)を動ぜざらんことを期す。

十五、吾らは今日一日出来る限り強く明るく正しく充分生き抜き生き尽して悔いなき生活を送らん事を期す。

十六、吾らは常に善と愛と智慧と光明とが人の実相なることを信じ、常につとめて善に還(かえ)り、愛を行い、真理の書を読み、全人格の雰囲気と心の習慣とを神の如く完全なるものたらしめんことを期す。

『生命の實相』「久遠佛性篇」より


ありがとうございます。 合掌。

150a hope:2016/07/01(金) 19:40:12 ID:vdNCBnG6

一、『生長の家』の誌友及び読者はすべて『生長の家』の家族として此の祈願に従いて、生活し、修養し、各々隣人を照す燈台たらん事を期す。

151a hope:2016/07/01(金) 19:41:35 ID:vdNCBnG6
>>150 つづき

【第一条、説明文の抜粋】 副題 「生長の家の意義と誕生について」

生命の實相 第27巻 p177 後から1行目〜 

そもそも、この生長の家というのは何であるかといいますと、最初はわたしが修養雑誌を出したその雑誌にたまたま付けた名前ではあったのですが、しかしながら本当の「生長の家」というのはこの雑誌の名前だけではない、といってまたわたしの個人の家の名前でもないのであります。

「家」というと、何か屋根のある、ある一定の建物のような気がするのでありますけれども、「生長の家」というのは「大宇宙」ということであります。

「生長する」というのは創造(クリエート)することで、いくらでも無限に創造し伸びてゆくのが宇宙の実相である。

だから大宇宙のことを「生長の家」と申しますので、この大宇宙に満ちてる生命創化の法則を研究し、その法則を宣べ伝えて、広く人類を教化しようという目的の団体を現在「宗教法人生長の家」と称されています。

「宗教法人生長の家」と「大宇宙」そのものなる「生長の家」とは別物であります。

で、この「実相の世界」のことをわたくしどもでは「生長の家」とこういっている。

(略)

この生長の家なる実相が仮に世界に影を投影して顕われたのが、地上の「生長の家」であります。

皆さんのお宅も実相の善さが顕現したら皆ことごとく生長の家であります。

この「実相の浄土」たる「生長の家」が地上に形を映して、文章に――その言葉の響きの現われたのが、最初この『生長の家』という雑誌であったわけであります。

(略)

ともかく、こういうふうにして、実相の浄土にあるところの、喜びに満てる、光に満てる実相の言葉が地上の雑誌として初めてこの世に現われてきたのであります。

そうしてその言葉に最初触れる人たちが、地上における「生長の家家族」ということになったわけであります。

むろん、この「生長の家」の家族というのは必ずしも『生長の家』の誌友あるいは読者には限らないのであります。

本当に実相の浄土を地上に生きる人、この人はむろん生長の家の家族であるわけであります。

だけれども、まず第一にここでは本当にこの生長の家すなわち実相の浄土を地上に生きる第一世として現われた『生長の家』誌友が、この現世を照らす光となり、おのおの隣人を照らす燈台となるようにしようじゃないか、こういうのがわれらの祈願の第一条の標識であります。

152a hope:2016/07/01(金) 19:53:32 ID:vdNCBnG6

>>150 >>151 a hope所感)

わたしは、「生命の實相」を拝読していると、本当に嬉しくて、嬉しくてたまらなくなります。

なぜなら、聖典「生命の實相」は真実のみをはっきり伝えてくださるからです。
今、流行りの言葉で言えば、「聖典はウソをつかない」でしょうか・・・

<<「宗教法人生長の家」と「大宇宙」そのものなる「生長の家」とは別物であります。>>

谷口雅春先生が現象世界に生きられていたころから「宗教法人生長の家」と真の「生長の家」とば別物だったわけです。

だったら、現在の「宗教法人生長の家」が、真の「生長の家」ではないのは当然なわけです。

<<むろん、この「生長の家」の家族というのは必ずしも『生長の家』の誌友あるいは読者には限らないのであります。
本当に実相の浄土を地上に生きる人、この人はむろん生長の家の家族であるわけであります。>>

言い換えれば「実相の浄土を地上に生きる人」なら教団の信徒でなくても、
雅春先生の崇拝者でなくても、み〜んな「生長の家」の家族ということになります。

わたしは教団にも、どこの団体にも所属していませんから、この真実は本当に嬉しいです。

それでは、「実相の浄土を地上に生きる人」とは具体的にはどんな人なのでしょうか?

輪読をつづけます。

153a hope:2016/07/03(日) 07:19:51 ID:vdNCBnG6
二、吾らは凡(あら)ゆる宗教が大生命より発せる救いの放射光線なることを信じ、他宗をそしらず、他人の尊崇の対象たるものに敬礼せんことを期す。

【第二条説明文抜粋】副題 各宗教に対する生長の家の立場 

「生命の實相」第27巻 p182 後から5行目〜

いろいろの宗教がこの世に出ておりますけれども、その宗教はどれもみなこの世の光となろうとする使命をもって生まれているのでありまして、電燈の光も、ガス燈の光も、ランプの光も、あるいはマッチの光もことごとくこれ照らさんがために現われているのであります。

(略)

こんなわけで、この世の宗教は、おのおのの総ての電燈は照らす光として働いているのと同じように、すべて人生の燈台となり、人の心を照らす光の働きをしているのであります。
それに、いちいち相手をけなして自分ばかり良いのであると、こういうような宗教争いをするようなことでは実にみっともないことであります。
宗教は要するに愛を説くものである。愛とは仏教でいえば慈悲と申しますが、キリスト教でいえばたいてい愛という。愛とは何であるかというと自他一体の実相の働きです。

(略)

すべての生きとし生けるもの、すべての人間を愛によって結びつけ自他一体であるという実相を知らせ本当の相(すがた)を悟らせるために現われたところのこの宗教が、宗教同士仲がわるくて、互いに欠点をあばいて石を投げ合いして、あいつはわるい、あいつは撲滅しなければならない、あいつが栄えたらわたしの方の宗教は栄えなくなるというふうな利己的な観念をもって、争いあうというふうでは本当に宗教がこの世を照らすために現われ他という目的に反(そむ)くわけであります。

かく、宗教というものはこの世を照らす光でありますから、どれだけ他にあってもよいのであります。自分は自分で光ればよいのであって、他は他でまた光ればよい。人類も多種多様であるからその対象たる人類に適するように多種多様の宗教が現われてこれを照らす、五百燭光(しょっこう)の電燈がありさえすれば、懐中電灯は要らぬというわけではない、太陽が出ている時でも、活動写真を映すときには電燈の光が要るのであります。

生長の家では決して他の宗教を悪くいわないのであります。みんな結構である――。

154a hope:2016/07/03(日) 07:20:55 ID:vdNCBnG6

>>153 a hope所感)

<<それに、いちいち相手をけなして自分ばかり良いのであると、こういうような宗教争いをするようなことでは実にみっともないことであります。>>

<<すべての生きとし生けるもの、すべての人間を愛によって結びつけ自他一体であるという実相を知らせ本当の相(すがた)を悟らせるために現われたところのこの宗教が、宗教同士仲がわるくて、互いに欠点をあばいて石を投げ合いして、あいつはわるい、あいつは撲滅しなければならない、あいつが栄えたらわたしの方の宗教は栄えなくなるというふうな利己的な観念をもって、争いあうというふうでは本当に宗教がこの世を照らすために現われ他という目的に反(そむ)くわけであります。>>

ほんとに、そうですよねぇ(;´∀`)

でも、きっと宗教争い真っ最中の方々は、ご自分自身が「虚説」だと感じるもの(違和感を覚えるもの)に和解しないために、
一生懸命戦っておられるんだと拝察いたします。

わたし自身、現教団の運動や雅宣先生の教義内容、そして、本流関係の掲示板で見られる教団や雅宣先生への執拗な批判文等には、とても違和感を覚えます。

違和感を覚えれば、排斥したくなるのは当然ですよね。

でも、でも、ですよ・・・ それって、本当に、「虚説」なんでしょうか・・・?

以前、復興Gさまに『「虚説」とは無いものである。』と教わりました。
「本来無いもの」をありとして見て、批判し続ければ、それは当然現象となり現れてきてしまう・・・、
それが、「心の法則」なのではなかったのでしょうか?


ですがだからと言って、
<<生長の家では決して他の宗教を悪くいわないのであります。みんな結構である――。>>

この、聖典のお言葉の意味を軽く考えていると、本当に「虚説」に和解することになってしまいます。


自分が違和感を覚えることには従わず、「自己内在の神」を信じて、自分が正しいと思う信仰をし続ければいいのだと思います。

「自己内在の神」を信仰すること、それが、本来の「生長の家」の信仰だとわたしは信じています。

155a hope:2016/07/05(火) 10:57:51 ID:xVBwxesw

三、吾らは自己を神の子(又は仏子)なりと信じ、常にけだかく人生の道を歩み、内なる魂の矜持(ほこり)を傷つけざらん事を期す。

【第三条説明文の抜粋】 副題 「神の子の生活を今生きよ」

さて、この自分は神の子であるということがわかりましたならば、そのわかった神の子を生きて行くということが必要なのであります。

「自分は神の子である」とわかりながらそれを今生きて行かないというのは、これは実に矛盾したことであります。

そういう人は実際は、本当は神の子であるとわかっていないのであります。

そういう人が神の子であると思うのは、偽存在(にせもの)の自分を神の子であると思っている場合にそうなるのであります。

偽存在(にせもの)の自分、我の働きが神の子であるとこう思っている、その場合には、いくら聖典を読んでも実際に神の子らしき行いとしてそこに現われてこないのであります。

真鍮の指輪をもってきて、磨いたら黄金になるであろうと思っていくら磨いたって、真鍮はやはり真鍮なのであります。

それと同じく、この偽存在の自分をもって「神の子である、神の子である」とこう思っても、なかなかわれわれは神の子になれっこはない。

それでわれわれは神の子でありという自覚を実相から出してくるということが必要であります。

(略)

それでわれわれは神の子であると知るということは、結局は神の子を生きるということで、「知る」ということと「生きる」ということと別にあると思うとまちがいであります。

つまり、「知る」とは「生きる」ということである。

(略)

本当の信心というのは「ここに神が生きる」「ここに仏が生きる」この自覚で生ききるのが信心であります。

156a hope:2016/07/05(火) 11:00:11 ID:xVBwxesw

>>155 a hope所感)

わたしは、聖典「生命の實相」の真理に感動して「生長の家」教団に入信しました。
なので、その聖典の真理を説かない教団には、なんの未練も愛着もなかったので、すぐに退会しました。

ですが、退会した後も宇治別格本山の練成会には何度も参加だせていただきました。

当時の宇治別格本山には、楠本加美野先生もおられて、霊的な雰囲気に満たされていて、魂が震えるような体験を何度もしました。

「人間は神の子だ」「神の子なんだー」「嬉しい楽しいあっはっはー」「お父さん、ありがとうございます。 おかあさん、ありがとうございます。」・・・

今でも、練成の思い出がはっきりと蘇ってきます。

自殺未遂をされた自営業の男性、若い娘さんを亡くされたお父さん、拒食症の少女、末期がんを宣告された女性、職場で窃盗をしてしまった青年・・・。

ほとんどの方が、心に大きな不安や悲しみ、絶望を抱きながら、最初は暗い暗い表情で練成に参加されていました。

それが、練成最終日には見違えるように元気になって明るい表情で帰って行く・・・。

もちろん、全員がそうなったわけではありませんが、最終日までしっかり参加されていた方のほとんどは、生きる希望を取り戻されていました。

今思えば、参加者のみなさんは、練成によって「辛い現象はすべて影」であり、
本当の自分は「神の子」であったと自分の実相を知り、「神の子を生きる」決意をされていたんですね。

宇治別格本山の練成会は、本当に素晴らしかったです。

157神の子さん:2016/07/06(水) 21:19:00 ID:1ThqK4Lc
それにしても輪読会、盛り上がらないスね。。

皆、教団の内紛とか政治の話の方が好きなんでしょうね。

158トキ ◆UMw6UoGELo:2016/07/06(水) 21:24:13 ID:D6liK7g.
 いえ、じっくりと読む人が多いので、この輪読会は人気ですよ。

159神の子さん:2016/07/07(木) 13:29:51 ID:ylBQgeIU

現象に完全を求むることなかれ

 「現象は時間と空間の制約を通し

  実相が展開する過程なり。

  過程は常に中途にして完璧ならざること、

  楽曲が中途にして完結すること能わざるが如し。

  汝、人生の楽曲を正しく味わうべし。

  曲の最中に

  完結を急ぎて声上ぐるは愚かなり。

  曲は必ず完結するが故に、

  心静かに曲の進行と転調を楽しむべし。

  世界の実相、必ず完全なるがゆえに、

  創造神を信じ

  人生の変化と多様な進展を味わうべし。」

(『観世音菩薩賛歌』より)

160法の精神:2016/07/07(木) 13:31:11 ID:ylBQgeIU
>>159は私です。

161a hope:2016/07/07(木) 16:14:31 ID:xVBwxesw
四、吾らは野を、野の花を、み空を、み空の星を、蒼海(あおうみ)を、大地を、火を、水を、一切の大自然と生物とを観るに、その背後に神の生命の円相を観、その生命を敬し、礼し、愛し、苟(いやし)くも浪費せざらんことを期す。


【第四条 説明文抜粋】 副題 「いっさいのものを拝め」

生命の實相 27巻 p199 後から4行目〜
そこで、自分自身が神の子であると自覚した時に、次いでこの神の自覚が発動し動き出した場合に神の子が活動する環境はどういう世界であるかというと、これは第一ヶ条のところでいったとおり、無限創造の宇宙すなわち「生長の家」であります。

仏教でいうと寂光土である。

寂光土というとちょっと平和すぎるので、活気溌剌たる「生長の家」すなわち無限創造の宇宙だとわれわれはいうのですが、この無限創造の宇宙たるやどういうものであるかというと、聖経『甘露の法雨』の講義の時に申しましたように、それは無限次元の世界である。

われわれの住んでいるこの三次元(縦・横・厚みの三つの広がり)の世界だけでもこんなに美しい世界があるのに、それが無限次元の妙なる世界である。

その妙なる世界が、この五官にはその全体の貌(すがた)は見えないけれども、妙なる世界のうつしとし、写真として見える。【たとえば写真ですが、実際のわれわれ人間の相(すがた)は写真に比べると、もっと複雑な相(すがた)をし、もっと複雑な次元を備え、もっと複雑な色彩を備えているのであるけれども、写真にはただ一色の平面の姿に写っている。】

それと同じに、われわれの五官で認識(みと)める三次元の世界では実相の世界の複雑微妙な無限次元の妙なる美しい世界が平凡な世界に見えているのであります。

けれどもわれわれはこの肉眼で見るところの野を、野の花や、み空の星や、蒼海(あおうみ)や、大地や、火や、水や、いっさいの大自然や、生物や、味の少ない世界とは見ないで、その奥の奥を観て、もっと無限に美しい円満な、完全な神の生命というものを観る、そうしてそれを敬し、礼し、愛し、いやしくも浪費せざらんことを念願とするのが生長の家の生き方であります。

「生長の家」は、ここに明らかに生命礼拝の宗教でありますが、原始人の生命礼拝の宗教とはちがう。

原始人は物の奥の奥にある実相などというものを知らない。

だから生命礼拝といっても浅薄な現象生命の礼拝であったので、現象そのものを不思議がって礼拝していたのであります。

(略)

「生命の實相」第28巻 p6 1行目〜
ともかく、われわれは現象を見ても現象だけを見てそれを全部だと思ってはいけないのです。

その現象の奥にある実相を見、そこに十全なる神の相(すがた)、実相の円満な相を観て、そうしてそれに対して敬礼をするという気持ちにならなければならないのであります。

(つづく)

※十全・・・少しも欠けたところがなく、すべて完全なこと。頭注より

162a hope:2016/07/07(木) 16:16:00 ID:xVBwxesw


>>161 a hope所感)

ここで説かれている内容を簡単に要約すると、わたしたちが五官で確認できる三次元の世界はそれがどんなに美しく見えても感じてもそれがすべてではない。
その奥にある無限次元の世界の「実相」を観て、「生命の実相」を礼拝せよということなのだと思います。

つまりそれが副題の「いっさいのものを拝め」いう意味になるのだと思います。

だから、ここでいう「いっさいのもの」とは、現象的に見えているものの奥にある実相が含まれるわけですね。

そしてその「実相(生命)礼拝」こそが、わたしたち「神の子」の活動であると・・・。

世の中のほとんどの社会運動は、現象社会の不完全さを良くしようとして始められるのだと思いますが、
「生長の家」の人類光明化運動は、実相世界の完全円満さを人類に伝えていく運動なわけです。

だから「生長の家」の運動は他の社会運動とはまったく〝 次元〝 が違う、「実相世界の運動」なんですね!

163a hope:2016/07/07(木) 16:19:11 ID:vdNCBnG6

>>159 法の精神さま)

『観世音菩薩賛歌』の一節をご紹介くださいましたが、ここは「生命の實相」の輪読会板です。
「生命の實相」以外の聖典やその他の文献のご文章の紹介はご遠慮ください。

また、今回『観世音菩薩賛歌』の一節をご紹介くださった理由はなんでしょうか?
もし、質問等があるのであれば『「生長の家」の教義について議論する板』の方にお願いいたします。

164るん吉:2016/07/07(木) 22:18:07 ID:TWYtDbA.
>>それにしても輪読会、盛り上がらないスね。


一番、好きなスレッドですが?

165a hope:2016/07/08(金) 10:29:46 ID:xVBwxesw

>>158 トキさま >>164るん吉さま

ありがとうございます(*^^*)

166a hope:2016/07/09(土) 08:18:34 ID:vdNCBnG6
>>161 つづき)

「生命の實相」第28巻 p6 4行目〜

蓮如常人(れんにょじょうにん)は「一枚の紙もすべて仏物(ぶつもつ)である」と言われたそうでありますが、その心持こそ大切である。

「生長の家の経済学」には「物質は無限供給であるから使うほど殖える」ということが書いてあります。

「使うほど殖える」から、紙でも無暗に一字くらい書いて紙屑籠に捨てると、これは大変経済循環をよくしていいことだろう、こう考える人もあるかもしれない。

しかし、それは嘘である。

本当に使えば使うほど殖えるけれども、それは破って捨てるのは使うのじゃないのです。

われわれは一枚の紙にも、その背後に神の生命を見、神の無限の光を見、神の無限の愛を見、これを拝まずにはおれない。

これを礼拝して使わずにはおられない。

今までは「もったいない」ということは棚の上に上げて蔵(しま)って置くとこういうふうな考え方が多かった。

それで「もったいない、もったいない、食べたらもったいない。着たらもったいない」と戸棚や箪笥に入れて置くという、これじゃいけないのです。

神の生命は、使ったら減るというふうなものでない。

実に立派なものであるから、この立派なものを、その顕われている生命の働きを十二分に発現させて使えば使うほど増えるということになるのであります。

無限供給であるから破って捨てるというのじゃないのであって、用途に従ってそこに顕れている神の生命を使えば使うほど、神の生命がはっきり顕わされてくる、それが無限供給である。

「物質は無い」ということは、そこに何も無いということではない。

みんな仏物である、みんな神の生かす力の顕現(あらわれ)である。

その奥には物質ならぬ実相があるということであります。

これを履き違えると大変なまちがいになるのであります。


生命は生きる、生きるから生活であります。

我れ神の子なりと知ったら、神の子を今生きるということ、これが神の子を知るということであると申しました。

それを客観界のものにしましたならば、紙が一枚ここにある。

この紙一枚が、その奥にある実相を見れば、それが仏様であり、神様であって、ここに神の生命が現れているということを知れば、それを生きるということは、ことごとく与えられたる生命を完全に発揮させるということです。

この「生命を発揮させる」ということが紙を使うということです。

すると使えば使うほど殖えるのであります。

この一枚の紙の使命を完全に発揮させたならば、そこに神の生命が生きてきて無限供給ということが出てくるのであります。


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