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Web誌友会 板/2
3756
:
ユタカ
:2014/03/08(土) 21:40:41 ID:N20ePDNw
これは聖典とは関係ないのですが、ネット時代になると「教師が教える」時代から
「みんなが学ぶ時代」になったと思います。
今学校では上記の理由に教師が子供を放置している困った状況になっています。
小さい頃は、やはり教え導かないと自分勝手にてんでバラバラ状態で良くありません。
それと同時に、やはり教団の新入の方には、実相額を礼拝して、国旗と聖旗には敬礼を教えるべきと思います。
3757
:
ユタカ
:2014/03/08(土) 21:51:13 ID:N20ePDNw
a hopeさま
20回以上も続けてきて下さって本当に有難うございます。 復興Gさまはいつも素晴らしかった。でも、いまだに復興Gさまの投稿を全部は読めていないので、これから時間があったときは過去に戻って熟読したいと思っています。
ですが、復興Gさまったら、ご自分の結婚の体験を投稿されると言いながらなかなか出て来られませんね。ご自分の仕事が一段落したらまた出てきて欲しいですね。
みなさま、ユタカは非常に心境が低いです。なぜなら、ご本を読んで人を裁いてしまうのです。たとえば、いま、11巻の端書を読んで・・・
>キリスト教のサタンは結局、仏教における「無明(まよい)」の人格的表現にすぎない。「無明」によって創造(縁起)されたる現象世界だけを観て、天国を説き、浄土を説こうとするから、天国は地上に出現しないのである。
これって、、マサノブ総裁のことだ!! とかね・・・・
なんか、最近は聖典を読むのがつらい。。。。 まぁいいか、気にしないで、進むしかないか・・・・
3758
:
a hope
:2014/03/08(土) 22:36:40 ID:cEpBaIdo
いつも、たのもしいユタカさま!
開会の祈りの言葉と、web誌友会のご参加ありがとうございます!!
そうですね、たとえ1か月間という長い期間のweb誌友会であっても、開会と閉会の「祈りの言葉」があった方がいいですね。
これからも、いろいろご指導、ご参加をどうぞよろしくお願いいたします。
3759
:
a hope
:2014/03/08(土) 23:15:52 ID:cEpBaIdo
>>3757
ユタカさま
<<最近は聖典を読むのがつらい。。。。 >>
わたしも以前、同じような状態になった時があります。
魂が震えて止まらないほど感動した「生命の實相」が読めなくなった時期があるのです。
今思えば、原因はわたし自身にありました。
わたしが「教え」を盲信し、虚説を受け入れてしまったからだと思います。
ですが今は「教え」の何が虚説で何が真説か、自分自身で判断がつくようになってきました。
だから自分と家族の幸せのために虚説は断固として受け入れません!
そしてこのweb誌友会では「生命の實相」(真説)だけを学んでいきたいと思っています。
だって、それだけ学んでいれば必ず幸せになれるんですから・・・ヽ(*^^*)ノ
3760
:
トキ
:2014/03/08(土) 23:28:56 ID:PAFHPTEo
「本の良い処を考えて吸収しましょう」
ただ読みっぱなしでは、それの中にある知識は、本を書いた人のものにすぎません。
それをよく心でかみくだいて自分のものとした時にのみ、それが働く智慧になるので
あります。むやみにたくさん読んだからとて力にならないのは、むやみにたくさんた
べたからとて、人間の肉にならないのと同じであります。考えながら、うなずきなが
ら、心の中へのみこむようにしながら読むことが大切であります。本に読まれてはな
らないのです。本は読まなければなりません。読む分量ばかりが多くて、読んだこと
について深く自分で考えてみない者は、本に読まれたのであって、本を読んだのでは
ないのであります。
「ことごとく書を信ずれば書なきにしかず」
という諺もあります。本い読まれてしまっては、自分の力がつきません。自分で本の
善いことこを吸い取るだけの力がなくてはなりません。
新版 真理 第3巻 谷口雅春先生著、 p168より謹写
*皆様、聖典を心を込めて読みましょう。
3761
:
a hope
:2014/03/10(月) 13:06:24 ID:cEpBaIdo
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
第23回 web誌友会
期間 3月1日〜3月31日まで
テキスト 「生命の實相」第11巻 萬教帰一篇上
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
みなさま こんにちは
>>3760
にトキさまが、本の読み方についての雅春先生の御文章を紹介してくださいましたが、
わたしは 真理第3巻は未読ですが、「生命の實相」の中にも似たようなことが書かれていたような記憶があります。
『・・・読む分量ばかりが多くて、読んだことについて深く自分で考えてみない者は、
本に読まれたのであって、本を読んだのではないのであります。
・・・自分で本の善いことこを吸い取るだけの力がなくてはなりません。』
ここは、本当に大切だと思いました。
というのは、今回のテキスト第11巻のはしがきには、有名な「戦犯容疑で死刑囚となった遠藤義雄氏」の体験談が紹介されていますが、
遠藤氏は、監房の格子戸から投げ入れられた、「生命の實相」の「萬教帰一篇」(今回のテキスト)と、筆写された「甘露の法雨」のみを読んで悟りを得られたのです。
神想観も、「詳説神想観」を読んだわけでも「観行篇」を読んだわけでもなく、「萬教帰一篇」の中の御文章からご自分で想像されて、
工夫されてしていらっしゃったようです。
真理を求める強い心があれば、たくさんの種類の書物を読むは必要はないのですね!
※「戦犯容疑で死刑囚となった遠藤義雄氏」の体験談は、聖典引用板に謹写させていただきました。
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2774n-
3762
:
トキ
:2014/03/11(火) 20:14:29 ID:z0wnFjFc
神は無量光、無辺光であり、無辺であるから際限がない、際限がないから形がな
い。際限のないものは見る事ができない。神示によりますと、われわれの眼に見る
太陽は本当の太陽ではない。本当の太陽というものは無量光、無辺光なる法身の日
之大神、毘盧遮那仏であって、いっさいの所に充ち満ちていられる。しかしそれで
はわれわれの五官では見えないから、われわれは五官のレンズや六感のレンズを
とおして無限を有限に屈折して見る。こうして五官や六感のレンズを通して無限を
有限に凝縮して見たのが、五官や六感でわれわれの見る太陽であります。しかし
本当の神様は無形であり、ただ光明無限であります。それがいろいろの化神となり
化仏となって人格的にお顕われになっている、この人格的にお顕になっている神様
を盧遮那仏とか生長の家の神とか阿弥陀仏とかいうのであります。
生命の実相第11巻 164p より謹写
3763
:
a hope
:2014/03/11(火) 21:27:56 ID:cEpBaIdo
生命の實相 第11巻 p8 後ろから4行目
・・・ここにぜひとも注意しなければならないのは「無」と「有(う)」との対立、「仮相」と「実在」との対立、
「暗(やみ)」と「光」との対立、「死」と「生命」との対立、無明と知恵との対立は本当の対立ではなく、
これを対立と考えるのは人間の「思考の形式」の誤りであるということであります。
「無」と「有」と対立するといいましても、一方は無いのでありますから、対立のしようがないわけで、
本当は「有」の独在――「有」の絶対的存在――であります。
それと同じように「暗黒(やみ)」も「死」も「無明」も、光が無い、生命が無い、自覚(さとり)が無いというふうに
〝nothingness〝 の別名にすぎないのでありますから、この世に在りとしあらゆるものは、
すべて「光明」であり、「生命」であり、「知恵」であるのであって、その反対のものは、
どんなにあるように見えても本当は〝nothingness〝(絶無)なのであります。
だから「無」の中に「有」を肯定するのはなんでもない。
それは「1人角力(ずもう)」をすれば必ず勝つというのと同じで、神が、ただ「光あれ」といい給うだけで、
「光」はすでに「暗(やみ)」を征服したのであります。
3764
:
a hope
:2014/03/11(火) 21:38:28 ID:cEpBaIdo
(
>>3763
a hopeまとめ)
<<「暗黒(やみ)」も「死」も「無明」も、光が無い、生命が無い、自覚(さとり)が無いというふうに
?nothingness? の別名にすぎないのでありますから、この世に在りとしあらゆるものは、
すべて「光明」であり、「生命」であり、「知恵」であるのであって、その反対のものは、
どんなにあるように見えても本当は?nothingness?(絶無)なのであります。>>
「暗黒(やみ)」= 光が無い
「死」= 生命が無い
「無明」= 自覚(さとり)が無い
※実在するものは だた、「光明」「生命」「知恵」のみで、その反対のものは無い?nothingness?(絶無)
3765
:
a hope
:2014/03/11(火) 22:20:26 ID:cEpBaIdo
>>3764
訂正
?nothingness? → 〝nothingness〝
3766
:
トキ
:2014/03/12(水) 23:07:43 ID:0zqgiqZo
懺悔というものは誤っていた旧我の否定でありまして、自分が本当に神から出て
来た神の子であるという自覚がなければ成立しないのであります。今までの自分-
旧我というものが悪いと思って捨てるためにはどうしてそれが悪いのであるか、
それを知るための標準というものが、心の中に確立しなければならないでしょう。
生命の実相 第11巻 134pより謹写
*「世界標準」という言葉はありますが、同時に、その国の個性を殺すものであ
る、という批判があります。それは、自分の考えでは、外観を標準にするから
差し障りがあると思います。
やはり、内心の良心、さらに言えば、内在の神様が、標準であることがとて
も大事だと思います。
3767
:
a hope
:2014/03/13(木) 00:32:38 ID:cEpBaIdo
生命の實相 第11巻 p9 9行目〜
○ 神、光を善しと観たまえり。神、光と暗(やみ)とを分ちたまえり。神、光を昼と名づけ、暗(やみ)を夜と名づけ給えり。夕(ゆうべ)あり、朝(あした)ありき。是れ首(はじめ)の日なり。(『創世記』第一章―四〜五)
大きくこれを観れば神の「宇宙創造」、小さくこれを観れば、人の「人生」はいずれも、「暗(やみ)」を征服して進む「光」の行程(こうてい)であり、「死」を征服して進む「生命」の歴史であります。「生命」の進むところ必ず「光」があり、「光」の進むところ必ず
「生命」があり、生命とは神から放射された「光」にほかならない。そして神は善であるから、「生命」のあるところ、「光」あるところ、必ず「善」である。これが「神、光を善しと観たまえり」の真義であります。
太陽の創造はまた『創世記』第一章の後節にありますので、ここに述べられた「光」というのは物質的太陽から放射する「光」ではないのであります。これはむしろ「大生命」すなわち法身の天照大御神の聖光(みひかり)でります。すべての創造は「大生命」すなわち宇宙の唯一根元神から放射されたる霊的観念によって造られる。したがってこれは善なることのほかはできないものであります。悪なる存在があるように見えるならば、それは本当の実在ではない。存在するものらしく見えるものにも、本物と偽せ物とがある。この本物と偽せ物とがあるということを「夕(ゆうべ)あり、朝(あした)ありき」と象徴的に書いてあるのであります。太陽創造以前にある夕(ゆうべ)と朝(あした)、夜と昼とはこういうふうに解釈すべきものだと掲示されています。
○・・・省略・・・(『創世記』第一章―六〜八)
(前文省略)・・・で、この一節を解釈しますと、この世の中の存在はどれもこれも、実際に存在しているように見えているけれども、本当に存在しているものと本当には存在していない癖にあたかも存在するかのように見せかけている仮相(にせもの)とがあるから、これを区別して、実在を実在とし、仮相を仮相としてハッキリ区別しなければならぬ。
これを区別するには、穹蒼(おおぞら)のように無色透明な霊的理解がなければならぬ。『創世記』のいい方に従うと、水の中に穹蒼(おおぞら)を置いて、空の上の水と、地の水とを分かたねばならぬ。
地の水とは大地に根を下ろした本当の存在である。すなわち神が放射したまうた霊的観念によって造られた存在であって、これは完全で幸福で健康である他はない。
これに反して空の上の水というのは架空の観念的存在であって、神から来た霊的観念によって造られたものではなく、人間の迷いの念が描き出した仮の存在である。いっさいの不完全、不幸、不健康は、この空の水、すなわち架空の存在であるから、よく霊的直観によって、真(しん)の神の創造物と、そうでないものを区別しなければ、時に迷いに捉われてこの世の中にわれとわが心で不完全、不幸、不健康などを作って歎かなければならないことがあるぞ、存在には本物とニセ物とがあるぞ、夕(ゆうべ)もあれば朝(あした)もあるぞ、というのがおの1節の意味であります。
3768
:
a hope
:2014/03/13(木) 00:35:53 ID:cEpBaIdo
(a hope まとめ)
【実相世界】 ※「神一元」「善一元」の世界
① 法身の天照大御神 → 「聖光(みひかり)」の放射 → ☆善(唯一の実在)
または
② 宇宙の唯一根元神「大生命」→ 「霊的観念」による創造 → ☆善(唯一の実在)
または
③ 神 → 「霊的観念」の放射 → ☆完全 幸福 健康
☆実相世界には善(完全 幸福 健康)しかない
【現象世界】 ※「本物」と「偽せ物」の二元の世界
① 存在するものらしく見える世界 →☆「本物」 実相世界の現れ 「朝(あした)」「昼」
→★「偽せ物」 迷いの産物 「夕(ゆうべ)」「夜」
または
② この世の中の存在 →☆「実在」
→★「仮相(にせもの)」
または
③ 水 → ☆「地の水」とは大地に根を下ろした本当の存在(完全、幸福、健康)
→ ★「空の上の水」というのは架空の観念的存在(不完全、不幸、不健康)
☆真(しん)の神の創造物
★迷いの念が描き出した仮の存在
3769
:
a hope
:2014/03/13(木) 00:39:09 ID:cEpBaIdo
(a hopeの解釈)
谷口雅春先生は、「病無し、迷無し、罪無し。これが生長の家の根本の真理であります。 それでは神様、ただ今より眠らせていただきます」
と言って、昇天されたそうですが、そのお言葉の内容は、わたしがまとめたところの★印の否定、
つまりは、人間の不完全、不幸、不健康の完全否定であり、それを生長の家の根本真理といわれました。
そして、さらに「神様」と善一元である神様に呼びかけることで、実相世界のみを肯定されお眠りになりました。
ですから、反対に考えれば、いかなる理由があろうとも「実相世界」以外、つまりは現象に現れて見える不完全、不幸、不健康を認めたり、
肯定したりすることは、「生長の家」の根本真理からみれば、「虚説」になるのだと思うのですが・・・。
わたしが、生命の實相を拝読しているかぎり、そう書いてあるとしか思えません。
トキさま、みなさま、以上のわたしの(まとめ)、(解釈)に間違えがあれば、是非ご指導ください。
3770
:
トキ
:2014/03/13(木) 14:14:44 ID:YgQSZefk
あらゆる宗教的経典は、それが真に生命のあるものである限り、必ず霊感に
よって書かれたものである。霊感によって書かれたものは、ただ、霊感のみこ
れをよく解釈し能うのである。いかなる博学者も、ただ語義のみを知って霊感
なきものは、真に経典の生命を捉えない。生長の家は霊感によって、仏教とい
わず、キリスト教といわず、日本神典といわず、あらゆる尊き経典の神髄に透徹
してこれを拝むのである。
生命の実相第11巻、3pより謹写
------------------------------------------------------------------
a hope様
すばらしいご文章をありがとうございます。生長の家の大事なところをたいへん
よくまとめておられるので、感心しました。
この部分は、霊感をもって特に味わうべき部分だと思います。
そのためにも、行の大切さを痛感する次第であります。
生長の家がいう実相の世界、これは、一人一人の内在にあるものだと感じます。
3771
:
a hope
:2014/03/13(木) 23:05:57 ID:cEpBaIdo
>>3770
トキさま
ご助言をありがとうございます。
わたしは、「生命の實相」は、頭と魂の両方で理解して、初めて自分の物になるのではないかと思っています。
それが、トキさま謹写の部分の「霊感のみこれをよく解釈し能う」という意味にもつながるのかもしれません。
わたしの場合、この11巻「萬教帰一篇」は、一番最初に読んだときは、魂は震えましたが、
なぜ、自分の魂が震えるのか、何にそんなに感動しているのか、それが頭で理解できていませんでした。
文章の意味が理解できないのに、この聖典からでている波動には感応したのだと思います。
でも、2度目に拝読した時には、「生長の家の教え」が、知識としてかなり頭に入っていたので、
内容もずっとよく理解できましたし、魂も以前よりずっと震えました。
ですがまだまだ、「霊感で解釈した」、と言い切れる状態ではないと感じています。
何度も、何度も読み返して、その「真理」を自分の物としたとき、
自分にも「昔の生長の家」のような奇蹟が起こせるようになるのだと思っています。
その日を楽しみにこれからも聖典のお勉強を頑張りたいと思っています。
この掲示板で、閲覧者の皆さまとつながっていることが、わたしの大きな力になっているような気がしています。
トキさま、みなさま、これからもどうぞよろしくお願いいたします。
3772
:
a hope
:2014/03/15(土) 23:28:29 ID:cEpBaIdo
生命の實相 第11巻 p17 後ろから5行目
「実相の世界」というものに目を覚ませばもう自由自在なものであって、物質の世界に頭を突っ込こんできても、光が暗(やみ)の中へ頭を突っこんでくるのと同じで、外見は物質的肉体をもちながらでも、中から実相が輝いている――だからそんな人は、自分も常に生々(いきいき)としていて明るく歓ばしく、健やかであって、そんな人の行くところ、光が暗(やみ)を照らすように、周囲の人々までも生々と、明るく、健康に化してしまうのであります。
(a hope所感)
この文章からすると、要するに、「実相世界」に目覚めさえすれば、自分自身がそこにいるだけで、周囲を光明化してしまうということのようです。
そう考えると、生長の家の光明化運動って、そんなに難しいものではないのですね。
聖典を拝読して、神想観して、「実相世界」を悟ればいいのですから・・・ね!
3773
:
a hope
:2014/03/16(日) 14:22:57 ID:cEpBaIdo
生命の實相 第11巻 p21 4行目〜
この世界の生き物はすべて美しく、愛すべく、調和した生き物であるのであります。一つとして下等動物だとか、低級なものだとかいって軽蔑すべきものはない。どんな微細な生物もそれ自身において完全であり調和しており、霊妙な生きる力をもっているのであります。この世界は「神より発した第一念の世界」だというべきでありましょう。
こうして神から発した第一念の世界に住む生物が夢を見る、自分自身が神より発した純粋観念であり、だから霊的実在であるということを自覚せずに、「形あるがゆえに自分は物質だ」と第二念を起こして夢を見る。この第二念が描かれた夢幻(むげん)の世界、これがわれわれの住んでいる現実世界であって、第一義的実在の世界ではないのであります。それを「実在の世界」だと迷って執着する。執着するところに苦しみが生じて迷いは迷いを呼び、ここに現世のごとき争闘(そうとう)の世界、生存競争の世界が現出したのであります。
(a hopeまとめ)
第一念・・・神より発した純粋観念。
第一念の世界・・・完全で、調和した、霊妙な生きる力のある霊的実在が住む世界。(実在の世界・実相世界)
第二念・・・「形あるがゆえに自分は物質だ」という念。(自分が霊的実在であるという自覚がない。)
第二念の世界・・・夢幻の世界。(現実世界・現象世界)
※第二念の世界を「実在の世界」だと迷い執着する → 争闘(そうとう)の世界、生存競争の世界が現出する
3774
:
トキ
:2014/03/16(日) 23:53:45 ID:xBECQEI2
生命の実相第11巻 51pより、謹写
「このようにして「実相の宇宙」もコトバによって成り立つ、すなわち神の思念の霊的波動
で成り立っているのであります。神の創造の聖業は七日で終わったとはありますけれども、
「七つ」はすなわち、成り成り続くという意味でありますから、永遠に創造の聖業は成り成
り続くという意味であります。これが天地および衆群が七日にして創造られたということの
真義なのであります。」
第一念の世界のあり方を説き下さったものだと考えています。 By トキ
3776
:
a hope
:2014/03/17(月) 09:56:21 ID:cEpBaIdo
生命の実相第11巻 p50 後から5行目〜
・・・「物質宇宙」は「実相宇宙」ではなく、その映像(かげ)でありますけれども、映像は映像だけに「実相世界」の影をも宿しているのでありますから「物質宇宙」の成り立ちを十分研究しますと、「実相宇宙」の成り立ちもわかってくるのであります。
最近科学の発見したるところによれば、「物質」というものはこんなに固く見えるけれど、実は固くもなんともない「電子」という電気的エネルギーの小体から成り立っているのであって、「電子」そのものは一定の質量はなく、その速力によって質量が変化するところのエネルギーの「渦巻(うずまき)」または「波動」だということになっているのであります。
すなわちいい換えると、「物質は無い、そこにエネルギーの振動のみがある」ということを近代科学はついに断定してしまったのであります。
3777
:
a hope
:2014/03/17(月) 09:57:35 ID:cEpBaIdo
(
>>3776
a hope所感 )
>>3774
トキさま謹写の場所の直前の文章に、わたしは、赤線を引いてありました。
このところには『生長の家の「物質なし」の真理が科学的にも証明された』とあり、わたしは、目からうろこが落ちたように新鮮な気持ちになりました。
3778
:
a hope
:2014/03/17(月) 10:00:44 ID:cEpBaIdo
(
>>3774
a hope 質問)
>>3774
トキさま謹写の箇所は、今のわたしには理解が難しいです。
「成り立つ」、「七つ」、「七日」、「成り成り続く」、「完成」・・・
わたしは、キリスト教の知識があまりないので、ここら辺の理解がたりないようで、なんか、ピーンときません。
―――――――
P52 7行目〜
○ 神七日を祝して之を神聖(きよ)めたまえり、其れは神その創造(つく)り成したまえる工(わざ)を悉く竣(お)えたまえて、この日に安息(やす)みたまいたればなり。(『創世記』第二章―三)
―――――――
とありますが、
なぜ、「七つ」や「七日」が「成り成り続く」「完成」につながるのか、暦の1週間は、七日ですが、そんなことと関係しているようですが・・・
なぜ、「七日」なのでしょうか?
トキさま、みなさま、ご指導をどうぞよろしくお願いいたします。
夜、戻ります。
3779
:
トキ
:2014/03/17(月) 22:26:45 ID:93U7gMTQ
a hope様
すばらしいご文章、ありがとうございます。
これは私見ですが、谷口雅春先生の聖書の解釈は、霊感をもって
書かれていると拝察します。今は私もわからない部分が多いですが、
やはり地道に勉強をすることが大事かと思うしだいであります。
3780
:
a hope
:2014/03/18(火) 08:27:02 ID:cEpBaIdo
>>3779
トキさま
>>3770
のトキさまのご投稿より
――――――――
あらゆる宗教的経典は、それが真に生命のあるものである限り、必ず霊感に
よって書かれたものである。霊感によって書かれたものは、ただ、霊感のみこ
れをよく解釈し能うのである。いかなる博学者も、ただ語義のみを知って霊感
なきものは、真に経典の生命を捉えない。生長の家は霊感によって、仏教とい
わず、キリスト教といわず、日本神典といわず、あらゆる尊き経典の神髄に透徹
してこれを拝むのである。
生命の実相第11巻、3pより謹写
―――――――
というわけですね。
特に、この万教帰一篇は、谷口雅春先生が「はしがき」で、
「この書は『生命の實相』のなかでも圧巻といわれるべき部分であり、諸宗教の神髄もっぱらここに集まるともいいうるのである。ココに諸宗教に対する生長の家からする独特の判釈(はんしゃく)があるのである。
本書をよんで仏教の神髄を会得されたと言われる人もあれば、難解難信(なんげなんしん)の『法華経』が本書を鍵としてはじめて釈然としたと言われる人もある。」
と述べられていますから、雅春先生が特に霊感を働かせた部分なのではないかと感じます。
わたしは、どの巻もすごいと思いますが、特にこの万教帰一篇の文章の流れの美しさに魅了されてしまいます。
以前、そのあまりの美しさに感動して謹写したことがあるのを思い出しました。
聖典/引用板に、再掲させていただきました。
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2781n-
3781
:
a hope
:2014/03/20(木) 06:43:33 ID:cEpBaIdo
みなさま おはようございます!
いよいよ、a hope 家は、春休みに突入します(;´∀`)。
今年は、子どもたちの卒業、入学も重なり、また、家族旅行などにも行きますから、
しばらくとても忙しくなります。
このweb誌友会でのお勉強を続けたいのですが、ちょっと家のことと仕事に集中したいと思います。
ですから、しばらく書き込みが少なくなるかもしれませんが、よろしくお願いいたします。
とりあえず、今月いっぱいは 聖典「生命の實相」11巻 がテキストの範囲で、来月、4月からは、
第12巻に移りたいと思います。
それでは わたしの大切な「生長の家」のみなさま、今日も素晴らし一日をお過ごしください!
3782
:
トキ
:2014/03/20(木) 09:48:15 ID:yDDmlM22
>>3781
誌友会のお世話、ありがとうございます。
どうぞご家族のことを優先して下さい。掲示板はのんびり、長期戦で
いきましょう。
今後ともよろしくお願いします。
合掌 ありがとうございます
3783
:
a hope
:2014/03/20(木) 09:57:12 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第11巻 p71 後から8行目
『・・・だからイエスも「神の国は幼児のごときものなり」といっていられる。
幼児は親を見ると、すぐ親にとびついていって抱かれる、
自分が綺麗な着物を着ておろうと、裸であろうと、お小便(しっこ)で汚れておろうと、
そんなことに頓着なく親に抱かれる、そこに蛇の知恵の小賢しさがない。
すると親様なる神も、そのままの子供を抱き上げて神の位(くらい)にあげて愛するのでありまして、
外からの付けたしのいかんによって神は人を愛したり退けたりするのではないのであります。』
(a hope 所感)
神さまは、どんなに人間が汚れていても、たとえ罪だらけであっても、
幼児のような無邪気な心で甘えれば、必ず抱き上げて愛してくださるのですね!
なんてうれしいことでしょう!!
3784
:
a hope
:2014/03/20(木) 10:06:07 ID:cEpBaIdo
>>3782
トキさま
あたたかいお言葉、ありがとうございます。
わたしは、「生長の家の教え」とこの「トキ掲示板」が大好きなので、しばらくお休みしても必ずまた戻ります。
わたしが、こうしてご先祖さまにと神さまに見守られ、家族と幸せに暮らせているのも、
みんな、生長の家の教えに出会って、この掲示板で生長させていただけたからです。
トキさまはじめ、投稿者のみなさま、閲覧者のみなさまにいつも心から感謝しています!
こちらこそ、これからもよろしくお願いいたします。
3785
:
a hope
:2014/03/24(月) 09:47:49 ID:cEpBaIdo
生命の實相 第11巻 p 121 中畑氏他と雅春先生の『法華経』に関する対談より
中畑 ――・・・釈迦が「四十余年間説教したけれども、今までのことは皆方便であって未だ真実を顕わしたのではなかった。今度こそ真実を語る」といって『法華経』をお説きになったその同じ真理が「生長の家」に書いてあるのであります。「生長の家」の教えの神髄はあらゆる人間は神の子である――言いかえるとあらゆる人間が仏であるということであるかと思いますが、たいていの人間はあらゆる人間が仏である神の子であるといっても、なかなか納得できない。こんな汚い人間がどうしてこのまま神になれよう、仏になれよう。
神とか仏とかいうものは、実に自分などのとても及ばない遠い所にあると思う過去からの迷いの「集積」をもっている。こういう「集積」をもっている人に、頭から「お前は神の子だ、仏の子だ」といって真実を説いてもとても信じられない。だから最初には釈迦はそれをお説きにならずに、「自分は罪深いものだ」と思っている人間のそのままの考えを生かすようにして、「お前たちは罪深いから自分の力ではとても救われない、だから仏の他力に頼れ。罪の深いそのままで救われるのだ」と説いて他力の教えをお説きになったのであります。しかしこれは方便でありまして、方便も必要あって使ったのでウソではないとありますが、方便で二乗、三乗の説き方がいろいろにしてあるけれども、本当に二乗三乗なんてないものである、一仏乗しかないものであるといって『妙法蓮華経』をお時になった。だからこの二乗、三乗の教えは真理を知るまでの方便にすぎないのでありまして、ほかの教えを聞いて、もう真理が解ったと慢心している人たちには「生長の家」の教えはちょっとわからないのであります。
谷口 ―― この「生長の家」でも始めは真理を説かないで、いくぶんボカしてあったのであります。ところがしだいに真実をはっきりさして人間は神の子である、もういっそう徹底させていうと人間は神である、ひとりも罪人はないとハッキリいうようになってきますと、「どうも谷口は慢心している、彼は人間を神といっている、人間は神の前にいと小さきものであるのに慢心にも程度がある」と思うような人がでてきまして、最初は「生長の家」に親しみを持っている人で、なかには「生長の家」から遠ざかられた人もあります。ちょうど釈迦が『法華経』をお説きになったときに、今まで二乗、三乗の教えに満足していた五千人の比丘(びく)、比丘尼(びくに)、優婆塞(うばそく)、優婆夷(うばい)がその座を立ってさったということが経文にも書いてあるようなものであります。
3786
:
a hope
:2014/03/24(月) 09:49:15 ID:cEpBaIdo
(
>>3785
a hope 所感と質問)
わたしはこの中畑さんという人がどのような方か知りませんが、「法華経」や「生長の家」の教えについて、
雅春先生と対等に対談されているのがすごいと思いました。
この後、中畑氏が『法華経』の「長者窮子(ぐうし)の喩え」のお話をされ、大乗を悟る方便(手段)として、
小乗の教えを説く必要性を説明されています。
ですが、ここの部分を拝読していて、わたしは、『二乗、三乗、一仏乗』、という言葉と、
『小乗、大乗』という言葉の関連性がよく理解できておらずに少し混乱しています。
どなたかご指導いただけるとありがたいのですが・・・。
小乗 = 二乗、三乗
大乗 = 一仏乗
と理解していいのでしょうか?
ですが、あまり難しい仏教用語で説明されると余計混乱してしまいますので、
出来るだけ易しい言葉で、ご説明くださるとありがたいです。
3787
:
縹
:2014/03/25(火) 17:16:49 ID:oeUx5MQw
3786番 a hope様
合掌 ありがとうございます
こんにちは、春休みでお忙しそうですね。
中畑氏のご文章は、他の全集では削除されているそうですが、今回の内容は、前半は『法華経』の概略を述べておられ、後半は、谷口雅春先生が、『日常生活の中の真理』の203頁にお書き下さっている事と同一の内容を述べておられますね、
「無限に完全で富んでおられる長者の子でありながら貧しい罪悪深重の凡夫だと見ている人を救うためには、そういう浄土教も必要であるので、浄土宗や、真宗も必要なわけであります。」同書208頁
詳しくは原文をお読み下さいね。
続いて谷口雅春先生は、無限供給のお話しに移っておられますので、小乗大乗の説明が省かれていますが、乗とは、乗物の事を指し、仏の乗物のことであるそうです。
また同書から簡単に引用させて戴きますと…
小乗仏教とは、後期仏教の二大流派の一つ。大乗が広く社会の救いを説いているのに対し、個人の救いに重点をおいている。同書80頁
「日本は大乗相応の国である
で「煩悩を断ずる」と言って、小さい聖人が山に隠れるというのでは、人を救うことができない。これは小乗仏教になってしまう。支那の仏教がですね、山へ籠って坐禅をするようなこういう仏教になってしまったので、支那では仏教ではこの人生を救うことできないということになり、それで、支那は現在、中共みたいに唯物論の社会主義国家になってしまっている。
ところが、日本においてはじめてこの大乗仏教というのが根を下して、それが大きく人生を救っている、ということになっているのであります。そこがこの日本の国は大乗相応の国であると言われている所以であるというわけなんでありますねえ。」同書88頁
そのように、小乗といって、小乗の二乗、三乗の教えがあるといっても、方便としてあるのであって、「本来は、二乗三乗の教えがあるものではない、唯、一佛乗のみがある」と、これが、『法華経』の教えです。『法華経解釈』44頁
それでは、大乗の一佛乗とは、どういう事かと申しますと、
「我が實相は無始以来佛である」ということです。『法華経解釈』48頁
簡単に申しますと、「人間は神の子である」という事ですね。
偉い先生に伺わせて戴いたのですが、
大乗仏教をさらに大乗したのが『生命の實相』の教えであるそうです。
そのように、生長の家は、大乗仏教もさらに大乗し、キリスト教をさらに大乗し、天理教をさらに大乗する教えで、それらの本質を取り出して、人類を救わないといけないそうです。
仏典は、インド由来のもので、インドの風土らしく区別して積み上げて行ったり、数学的であったり、修飾が多かったりしますが、
生長の家は、人間神の子・今此処極楽浄土を自覚したら、そういう世界が出て来るという教えですので、仏教用語自体に詳しくならなくても良く、仏典の本当にいわんとしている事を受け取るようにしていって、本来の大切な主旨は、
A hope様が、2782、2783番に謹写されておられます内容だと思います。
古事記でも、須佐之男命が大暴れしたのを、天照大御神様は良いほうに捉えなおして見てやろうとされ、それでも乱暴が続くと、現象を見る目を閉じられて、現象界も去られて岩戸の中に隠れられ、岩戸の中で、真剣に實相を祈られます。すると、八百万の神々が総動員して癒す力が働きましたが、これも、『生命の實相』の第一巻の冒頭文と同一で、實相を観ると、宇宙の大生命の癒す力が働いてメタフィジカルヒーリングが行われるということで、
日本人の元々の感性らしいです。
谷口雅春先生は、だから日本人は素晴らしいんだよ、神様は地上に日本人という民族を誕生させて下さって、この本来の日本人の感性が、世界の為に必ず役に立つ、だから、日本の實相顕現を目指されたとお聞きしています。
3788
:
a hope
:2014/03/25(火) 20:48:02 ID:cEpBaIdo
>>3787
縹さま!
素晴らしいご指導に心から感謝いたします。 合掌。
わたしは、『日常生活の中の真理』も、『法華経解釈』も、まだ未読(というか、手元にない)の状態ですが、
>>3787
の縹さまの引用部分を拝読しただけで、今回の混乱状態がすっきり解消されました。
――――
そのように、小乗といって、小乗の二乗、三乗の教えがあるといっても、方便としてあるのであって、「本来は、二乗三乗の教えがあるものではない、唯、一佛乗のみがある」と、これが、『法華経』の教えです。『法華経解釈』44頁
それでは、大乗の一佛乗とは、どういう事かと申しますと、
「我が實相は無始以来佛である」ということです。『法華経解釈』48頁
―――――
それにしても、わたしの質問にぴったりの的を射た引用をしてくださっていて、感動しています。
それにしても、
――――
偉い先生に伺わせて戴いたのですが、
大乗仏教をさらに大乗したのが『生命の實相』の教えであるそうです。
そのように、生長の家は、大乗仏教もさらに大乗し、キリスト教をさらに大乗し、天理教をさらに大乗する教えで、それらの本質を取り出して、人類を救わないといけないそうです。
――――
なんて、すごいことでしょうね!
そんな、素晴らしい「生長の家」の教えに出会えたことに、心からよろこびが溢れてきます!
お勉強のし甲斐があります。
また、古事記や、日本国實相顕現に関しては、興味は山ほどあって、お勉強したいと思っているのですが、
まだ、「生命の實相」のお勉強だけで精一杯で、そこまで行き着きません(-_-;)
本当に「生長の家」の教えって、奥深いですよねぇ。
ところで、今回、「大乗」 「小乗」と「一仏乗」「二乗、三乗」を、
「生長の家」の教えでは同意義でとらえているということがわかりましたが、
あらたに、a hopeの頭に浮かんできた言葉があるのです。
それは、
「大懺悔」と「小懺悔」です。
以前、第1番目の「web誌友板」の>>1629〜で、復興Gさまが、この「大懺悔」と「小懺悔」をとても詳しくご指導くださっています。
そのご指導の時に、>>1632 >>1633で「法華経 安楽行品」からの抜粋文と、法華経研究家で生長の家地方講師(教務)でもあられた、
藤村義彰様(故人)の遺著『新訳 法華経』の解釈文をご紹介くださいました。
当時は、難しくてよく理解できませんでしたが、今、拝読しなおすと、「大乗」「小乗」という言葉もあり、
なんか、そこには、とてつもなくすごい真理が書かれているような気がするのですが・・・
縹さま、トキさま、みなさまはどう思われますか?
再掲させていただきますね。
3789
:
a hope
:2014/03/25(火) 20:52:23 ID:cEpBaIdo
(web誌友会板(元祖)より再掲させていただきます。合掌)
1632 :復興G:2012/11/11(日) 19:09:04 ID:vWpLkCzM
――『新編聖光録』で、前に引用させて頂いた「大懺悔」についての項に続いて掲載されているのは、「法華経 安楽行品」からの抜粋です。それは――
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
○如来の滅後、末法の中に於て、是の経を説かんと欲せば、応(まさ)に安楽行に住すべし。
若しは口に宣説し、若しは経を読まん時、楽(ねが)いて人及び経典の過(とが)を説かざれ。亦諸余の法師を軽慢(きょうまん)せざれ。他人の好悪長短を説かざれ。声聞の人に於ても亦、名を称して其の過悪を説かざれ。亦名を称して其の美しきを讃歎せざれ。又亦怨嫌の心を生ぜざれ。善く是の如き安楽の心を修するが故に、諸々の聴くこと有らん者、其の意に逆わじ。難問する所有らば、小乗の法を以て答えざれ。但(ただ)大乗を以て為に解説(げせつ)して、一切種智を得しめよ。(法華経、安楽行品)
というのであります。その意味は、
≪ 如来の滅後に末法の時代においてこの経を説こうと思うならば、安楽の行をなすべきである。
もしこの経を口に説き、また経を読む時には、他の人や他の経典の悪口を言ってはならぬ。
また他の法師を軽んじたり、慢(あなど)ったりしてはならぬ。
また他人の好悪(よしあし)や長所・短所を説いてはならぬ。
また声聞の人の名をあげて、その過悪(あやまち)を説いてはならぬ。
また名をあげてその人の美(よ)き事をほめ讃えてもならぬ。
また人を怨み嫌う心を生じてはならぬ。
よくかくの如き安楽の心を修めるが故に、すべての聴衆は菩薩の意にさからわないであろう。
また難しいことをいろいろ問いかけてきても、小乗の法をもって答えてはならぬ。
ただ大乗の教えのみを説いてその人に一切種智(いっさいしゅち)を得させよ。≫
――私たちが今、尊師の滅後に、いかに行ずべきかにういて、具体的に教えられているような気がします。
<つづく>
3790
:
a hope
:2014/03/25(火) 20:53:05 ID:cEpBaIdo
1633 :復興G:2012/11/11(日) 19:09:43 ID:vWpLkCzM
その「安楽行品」の続きを、経典の原文は省いて解釈文のみ掲載しますと――
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
≪後の世の佛法がまさに滅びようとする時に、この経典を受持(たも)ち読講する者は、嫉妬や諂(へつら)い・誑(あざむ)きの心を懐いてはならぬ。
また佛道を学ぶ者を軽んじ罵り、その短所をさがし求めてはならぬ。
もし比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の中で声聞を求める者、縁覚を求める者、菩薩の道を求める者があれば、この人を悩ましたり、疑いや後悔の心をおこさせたりして、その人に『お前達は佛道から遠く離れている。とても佛の一切智を得ることができないだろう。何故なら汝は放逸(きまま)で佛道の修行をおこたり怠けているからだ』などと言ってはならぬ。
またいろいろな教えを戯れに論じたり、教えに関して争ったり競ったりしてはならぬ。
常に一切衆生に対して慈父のごとき想いを起こし、もろもろの菩薩に対しては大師であるという想いを起こすべきである。
十方世界のもろもろの大菩薩に対して、常に心から敬い礼拝せよ。
一切の衆生に対しても平等に法を説け。
法に順(したが)って多くもせず少なくもせず、また深く法を愛する者のために、特に多く説くというようなことをしてはならない。
この菩薩が後の世の佛法がまさに滅びようとする時において、この第三の安楽の行をまもって法を説くならば、決してこの人を悩ましたり乱したりする者はないであろう。
志を同じくする好(よ)き人々が、共にこの経を読誦するであろう。
また多くの衆が来てこの経を聴き、聴き終ってよく持(たも)ち、読誦し、説き、また書き、もしくは人にも書かせ、経巻を供養し、敬い、尊び讃めたたえるであろう。≫
――と、説かれているのであります。
3791
:
a hope
:2014/03/25(火) 20:54:28 ID:cEpBaIdo
1634 :復興G:2012/11/11(日) 20:36:08 ID:vWpLkCzM
――上記、法華経「安楽行品」の解釈文は、法華経研究家で生長の家地方講師(教務)でもあられた、藤村義彰様(故人)の遺著『新訳 法華経』に拠りました。感謝いたします。合掌。
(以上、再掲終わり )
3792
:
トキ
:2014/03/25(火) 21:24:58 ID:sA4yR8eo
縹様
すばらしいご文章、ありがとうございます。
法華経の講義は谷口雅春先生が特に好まれた部分で、よく引用されたと
戦前入信の先達に聞いた事があります。それだけ奥が深く、同時に味わい
のあるものだと感じます。
ご丁寧なご指導に心から感謝申し上げます。
合掌 ありがとうございます
3793
:
ユタカ
:2014/03/26(水) 21:24:37 ID:N20ePDNw
投稿できた!
朝、ここが見れなかった! もう来れないかと心配したけどああ〜〜良かった。
3794
:
a hope
:2014/03/26(水) 21:42:20 ID:cEpBaIdo
あっ、ユタカさま こんばんは!
昨晩から、わたしもこのトキ掲示板はじめ、したらば掲示板全般?の閲覧がしにくくなっています。
今朝は、わたしも閲覧不可でした。
でも、今は、大丈夫ですね。
わたしも、ホッとしています。
3795
:
トキ
:2014/03/26(水) 21:44:52 ID:wPOoKL4Y
ご心配をおかけして、すみませんでした。
昨晩から今朝にかけて、私も見れなくなっていました。
管理会社様のご都合かと思います。
この掲示板だけでなく、他の掲示板も閲覧が難しくな
っていました。
治ったみたいで、私もホッとしています。
合掌 ありがとうございます
3796
:
縹
:2014/03/28(金) 15:52:01 ID:oeUx5MQw
トキ様 合掌 ありがとうございます
ご指導だなんてとても恐縮です。
親戚が来たり色々で、パソコンに近づきにくい日々が続くと思います。
お世話になり、本当にありがとうございました。再拝
3797
:
縹
:2014/03/28(金) 16:01:16 ID:oeUx5MQw
a hope様
合掌 ありがとうございます
こんにちは、掲示板が表示されるようになったのですね、
私は、谷口雅春先生の御著書以外は、あまり読まないようにしておりまして、
他の法華経解釈の本でも、「ここは谷口雅春先生のご解釈と違うな」と注意しながら読ませて戴いたり、直接原文のほうを読ませて戴いておりますが、
法華経の原文も他の仏典も、雅春先生のご解釈と違う部分も出て来るのですね、
教師の心得の所も、色々と他にも書かれてあるのですが、
中でも大きく違う代表的なのは、一闡提ですね。
ですから、a hope様は、はじめのうち出来るだけ谷口雅春先生のご解釈に慣れられて、まず生長の家のみ教えを一心に身に着けられますことをおすすめ致します。
実際の行も大事だと思います。益々のご活躍をお祈り申し上げます。再拝
3798
:
a hope
:2014/03/28(金) 23:54:00 ID:cEpBaIdo
縹さま
お返事をありがとうございます。
縹さまは、雅春先生のご著書以外はほとんど読まれないのですね。
わたしも、今は「生命の實相」を中心に雅春先生の聖典を主に拝読するようにしていますが、
その他の生長の家の雅春先生の直弟子といわれたような方々のご著書も時々拝読しています。
どのご著書であっても数ページほど拝読すると、自分の波長に合う文章だと、魂が震えます。
ですから、そういうご著書だけ拝読するようにしていました。
ですが、今回、縹さまが
<<a hope様は、はじめのうち出来るだけ谷口雅春先生のご解釈に慣れられて、まず生長の家のみ教えを一心に身に着けられますことをおすすめ致します。>>
と、アドバイス下さいましたので、きっとそれは神の声だと思うのでそうさせていただきます。
今回、むずかしい「一闡提」というお言葉がありましたが、webの世界大百科辞典によると
―――――――
『いっせんだい【一闡提】
サンスクリット語のicchantikaを音写した言葉。通俗語源解釈では〈欲求しつつある人〉の意で,
快楽主義者や現世主義者をさすといわれるが,仏教では〈仏教の正しい法を信ずることなく,
悟りを求めないために成仏の素質や縁を欠く者〉〈仏教の正法を毀謗(きぼう)し,救われる望みのない人〉を意味する。
《大乗涅槃経》では〈一切衆生悉有仏性〉を説き,いかなる人も成仏する可能性をもつことを強調する。
法相宗はこれを否定し,天台宗・華厳宗その他大乗の諸宗はこれを肯定する。
―――――――
と、ありました。
雅春先生の解釈はどう違うのでしょうか? a hopeは興味津々です。
神の子人間はもともと救われ済みであるから、「一闡提」も本来存在しない、となるのでしょうか?
縹さま、お時間のある時でかまいませんので、またご指導いただけるととてもうれしいです。
どうぞよろしくお願いいたします。
3799
:
a hope
:2014/03/30(日) 22:56:43 ID:cEpBaIdo
生命の實相」第11巻 萬教帰一篇上 P139 後から3行目
・・・すると釈迦はいよいよ本当の悟りを示されて今まで説いたところのいっさいを小法だといわれている。『法華経』の中でさえも、いよいよこの「如来寿量品(にょらいじゅろうほん)」の章に来て真実法になっているのであります。
さて釈迦がどういわれたかといいますと、「この如来はいろいろ衆生の小法を希(ねが)っているところの徳の薄い、穢れの多い者を見て、その人のために、自分は少(わか)くして出家し、伽耶城(がやじょう)の近くの道場に坐して悟りを開いて仏となったというふうに説いて聞かしてはいるが、本当は自分は成仏してから無量無辺百千万億那由他劫である。すなわち無限時間前から自分は仏であって大勢を教化してきたのである。
今さら仏になってから四十数年しかたたぬなどというのは真実ではない。その無限時間前から今までの間において念頭仏という仏が世に出てまた入滅して、また何々仏という仏が生まれ出てきて誰々を済度してきたなどということを説いたのは、そう説かないと理解できない人たちのために方便をもって説いたのであって、今こそ真実をいうならば、この自分は無限時間前からすでに仏であって時にしたがっていろいろの仏とあらわれて人間を教化してきたのである。如来の実相はこの世に生まれて来るということも、滅することもない、生き通しの者である」といっていよいよ真実をお説きになったのであります。
この悟りが「生長の家」のサトリであって「生命の実相」を悟った人ならば必ずやこの実感に入るのが当然であるのであります。「あの時にインドで説教していたのは余人ではない、自分であった」、「あの時にイエスと出現してユダで説教していたのは余人ではない自分であった」というような実感に入るのであります。この実感に入らない人は本当の悟りに入ったのではない。神と自分、大生命と自分というものがまだ本当の一つの流れになっていないのであります。
さすがにキリストは釈迦と同じ悟りに入っていられたので、「お前たちは自分をナザレに生まれた三十歳の青年だと思っているだろうが、実は自分はアブラハムの生まれぬ前からこの世にいたものである」とだんことしていっていられる。このキリストの心境、釈迦の心境というものは体験のない者、実感のない者には、いい加減な慢心とかでたらめとしか思われないのであります。だから、この心境を釈迦は包んで四十余年間弟子にお話にならなかった。いってもわからぬ、誤解を招くばかりだと思っていられた。・・・
3800
:
a hope
:2014/03/30(日) 23:02:33 ID:cEpBaIdo
(
>>3799
a hope所感)
生長の家の教えでは、「生命は生き通し」「人間は霊的実在」「人間は神の子(仏の子)である」とされています。
そして、上に謹写した文章には、釈迦の真の悟り(法華経の真実法)こそこの「生長の家」のサトリと同じであると述べられています。
わたし自身、「生命の實相」に魂を震わせて「生長の家」に入信したのにもかかわらず、
当時は「あなたは神の子ですよ」と言われることにとても違和感がありました。
現在のわたしですら、「たぶん、わたしは神の子・・・だと思う」くらいの悟りですが・・・(笑)
それもそのはずですよね。
だってこの、萬教帰一篇のこのあたりを拝読していると、「人間神の子」「生命の実相」をまことに悟るのは本当に難しいのだろうな〜と感じてしまいます。
だからこそ、釈迦は40余年間も衆生に「小法」(方便・対機説法・二乗・三乗・二元論?)を説き続けたのですよね。
ふ〜ん(ため息)。
そう考えると、すごいですね〜「生長の家の教え」って。
だって、いきなり最初から「人間は神の子だ!」ですものね。
3801
:
ユタカ
:2014/03/30(日) 23:24:06 ID:N20ePDNw
生命の実相を読むとユタカはとても気持ちよくなります。
先ほどから 初心者さまの投稿を読んでいて気分が悪くなっていましたが、
11巻を読んで、雅春先生の霊的な文章を読ませていただき心がクリアーになりました。
生命の実相の御本はなんて素晴らしいのだろう!! 谷口雅春先生、万歳!!
3802
:
a hope
:2014/03/31(月) 09:36:30 ID:cEpBaIdo
>>3801
ユタカさま
本当ですね!
聖典「生命の實相」は素晴らしい!!
わたしたち信徒はこれを拝読しなければ、「生長の家を信仰している」とは言えませんね。
この万教帰一篇は「生命の實相」の中でも圧巻であると雅春先生ははしがきで述べられていますが、
特に、P136〜 の雅春先生の法華経と「生長の家」の教えのご説明の箇所はすごいと思います。
今わたしは、新学期に向けていろいろ忙しいですが、不思議なことに聖典をちゃんと拝読してお勉強している方が、
全ての出来事が順調に運びますし、体調も整います。
どんなに忙しくても、生長の家の三正行は忘れたくないです。
3804
:
a hope
:2014/03/31(月) 10:36:42 ID:cEpBaIdo
生命の実相11巻 p141 7行目〜
・・・それだから『法華経』の「見宝塔品(けんほうとうほん)」にも
「もし足の指をもって大千世界をボールのように蹴飛ばして他の世界になげることくらいはいとやすいが、この真理を説いて納得させるのはむずかしい。たとい手に虚空を自由自在に提げて空中を飛び廻ることはたやすくできても、この真理を自分で書き、人にも書かしめることはむずかしい。もし大地を足の爪の上に置いて、梵天宮(ぼんてんきゅう)に翔け昇って行くことがたやすくできる人であっても、この真理を読むことはむずかしい。
たとい八万四千の宝蔵十二部経を詳しく説いてきかすことができ、それを聴く者に六神通得せしめることが容易(たやす)くできる者でも、自分の滅後においてこの真理を聞き、その本当の意味を理解することはむずかしい。始めから今に至るまで、いろいろの教えを説いてきたが、この『法華経』に説く『生命の実相』の教えが第一である。もしこの真理を悟る者があれば、その人は仏心を保つ」
といっていられる。ここにも釈迦は神通力というものと、真理を悟って仏となるということは別であるということを説いていられるのでおもしろいのであります。
3805
:
a hope
:2014/03/31(月) 10:39:05 ID:cEpBaIdo
(
>>3804
a hope所感)
釈迦は『生命の実相』を悟られていたけれども、その悟りを大衆に説明することのむずかしさを充分理解していて、
敢えて、40数年間小法を説いて個人救済をし続けていたのですね。
ところが、谷口雅春先生には、釈迦にはなかった文才があった!
「生命の実相」のお悟りを得た後に、その霊感に観ずるままを書き下されたのが、
聖典「生命の實相」を始めとする数々の聖典であり、「甘露の法雨」や「真理の吟唱」のような聖経なのですね!!
なんだかa hopeはだんだんとわかってきましたよ。
また、この上の謹写文中で興味深いのは、神通力に関する言及です。
人は人間智で理解できないような不可思議な現象には目を見張り、
そのようなことができる人を神の生まれ変わりではないかと崇め奉る傾向がありますが、
それは、『生命の実相』の悟りとはまったく関係が無いようですね。
3806
:
a hope
:2014/03/31(月) 10:43:00 ID:cEpBaIdo
トキさま、縹さま、ユタカさま そしてこちらをご覧の生長の家のみなさま
ところで、今日は3月最後の日です。
一応今月のweb誌友会は、聖典「生命の實相」第11巻の「萬教帰一篇上」が範囲なのですが、
来月の範囲の代12巻も同じく萬教帰一篇なので、引き続き11巻もテキストとしてお勉強を続けさせていただきたいと思います。
どうそよろしくお願いいたします。
3807
:
a hope
:2014/03/31(月) 10:44:15 ID:cEpBaIdo
志恩さま
志恩さまは、本当に今月いっぱいでこの掲示板をご引退されるのでしょうか?
それは、とても寂しいです。
このweb誌友会板では、純粋に「生命の實相」の真理だけをお勉強させていただくつもりでいるので、
志恩さまには他の板はともかく、この板には残っていただいて、今まで通りのご参加ご指導をお願い出来たらとてもうれしいのですが・・・。
いかがでしょうか?
それでは、a hopeは今日もこれから元気に仕事に行ってきます!
みなさまも、素晴らしい一日をお過ごしくださいね!!
3808
:
うのはな
:2014/03/31(月) 11:18:45 ID:Y4ijvDxg
>>3807
けれど、志恩さんは最初の誌友会の時に、訊けブログの悪態連中にここを占領されるんじゃないかみたいな
話がでたとき、「わたしは占領されるとは思っていないのです」と鷹揚なことをいっていましたが、
結局、訊け氏から愚弄されるようなことをいわれたり、訊け仲間からいやなことをいわれたりして
他の掲示板に助けを求めたり、ここの誌友会は今回は参加しないとか、そんな
ことを言いだしたりしています。
今回、卒業するなんていう話も残念なことですが、ここの掲示板管理運営の流れを見ると、致し方ない決断にも思えます。
3809
:
志恩
:2014/03/31(月) 12:19:56 ID:.QY5jUA6
a hope様
有り難うございます。先日もトキ様に事情をお話させて頂きましたけれど、
少し前に、夫に、私が生長の家の掲示板へ書き込みをさせて頂いて来たこと、3年間も,,
ということを、夫にバレたので、夫に話しましたら、
夫も、もちろん生長の家人ですけれど、
若手の優秀な人材も掲示板には、揃っているし、3月は卒業の時でもあるから、
あとのことは、お任せして、そろそろ引退したらどうか。。
と言われてしまいましたので、
私も、他に新しくやることも決まっていますので、お気持ちは
とてもうれしいのですけれど、
本日いっぱいで、卒業させていただこうと思っております。
でも、さよならは、言うのは、やめておきたいです。
なんか、さよならっていうと、この世からの お別れみたいですから。
ところで、a hopeさまは、トキ様の発言などで 拡散した方がいいご文章とかを、
光明掲示板に転載する作業は、お忙しいので、出来ませんか?
今、大事な時期でもありますので、それだけが、私は、心残りなんですよね。
どなたか、してくださるお方があれば、安心なんですけれど、a hopeさまは、むりですか。
もしも、むりでしたら、あきらめます。
ずっと、しんせつにして下さって、ありがとうございました。
3810
:
うのはな
:2014/03/31(月) 15:14:29 ID:p8.do.2Q
>>ところで、a hopeさまは、トキ様の発言などで 拡散した方がいいご文章とかを、
光明掲示板に転載する作業は、お忙しいので、出来ませんか?
ちょっと、割り込み失礼いたします。こないだも、トキさんは訊けさんに
光明へ転載したほうがといっていましたけど、それはどういう意味なんでしょうか?
ここの管理人さんは他からあの管理人は何を考えているのかと非難され続けていますし、
以前は訊け氏の肩をもって、本流の人は生長の家らしく答えてあげてくださいだとか、
不調和に拍車をかけるような発言も多くされていて、他の掲示板と連携するような徳のある人物には思えません。
実際、こないだも志恩さんが訴訟されるとかどうとかここでトラブルが起ったことを
光明で解決してもらったのに、なにのお礼の言葉もないではないですか。
自分が批判攻撃されると、管理会社に問い合わせだ組織的妨害だなんて解釈しかできないのに、
気軽に「光明へ転写」なんていわれても、光明掲示板の方々には迷惑かもしれません。
もし、そのようなことを実行するのなら、事前にむこうの管理人さんの許可を得るとか、話し合ってから
決めてもらいたいと思います。
3811
:
うのはな
:2014/03/31(月) 15:19:09 ID:g8I0RbfI
関係ないけど、別版で聖典サイトをつくるだとか、もこもこしたことばかり話してましたが、
結局、ダハハ掲示板に挨拶に行って遊んだりして、光明掲示板さんのほうでは
昔の聖典特集を続々と発表しているというありさまです。
向うは向うで忙しいことでしょうから、無能に気軽に利用されるのは避けたほうがいいでしょう。
3812
:
トキ
:2014/03/31(月) 19:37:50 ID:5C.JbqME
志恩様
ご丁寧なご挨拶、深く感謝申し上げます。
今までのようなご活躍が拝見できないのは残念ですが、
ご家庭の調和が大事なので、やむを得ないと思います。
ただ、ご都合が許す限り、また、遊びに来て下さい。
長年の御恩に深く感謝と敬意を表します。
合掌 ありがとうございます
管理人敬白
3813
:
a hope
:2014/03/31(月) 21:30:57 ID:cEpBaIdo
>>3809
志恩さま
そうですか、それはとても残念ですが仕方ありません・゚・(ノД`;)・゚・。
ご主人のご発言<<若手の優秀な人材も掲示板には、揃っているし、・・・>>
とは、どなたのことを指しておっしゃっているのかわかりませんが、
このweb誌友会板なんて、最近はほとんどがアホのa hopeの投稿ですよ。
このトキ掲示板は、常連投稿者は、そんなに多くはいないと思うのですが・・・。
でも、
>>3812
でトキさまもおっしゃっていますが、ご家庭が第一だと思います。
わたしも、この掲示板に投稿することで、家庭の調和が壊れるようなら、即、引退させていただくと思います。
ですが、ありがたいことに、わたしにとっては、「聖典のお勉強=家庭の平和」となるようなので、
「継続は力なり」の言葉を信じて、これからもこの掲示板で聖典のお勉強を続けさせていただくつもりでいます。
そして、志恩さまの
<<ところで、a hopeさまは、トキ様の発言などで 拡散した方がいいご文章とかを、
光明掲示板に転載する作業は、お忙しいので、出来ませんか?>>
とのご提案ですが、わたしはこのweb誌友板とその他数個の板以外はあまり拝見していませんし、
志恩さまが今までしていらしたことも実際にどんなことなのかよく分からないのです。
ですから、志恩さまの代わりをするというのはとても無理だと思います。
お役に立てず、申し訳ありませんm(__)m
志恩さま、今までいろいろありがとうございました。
また、いつかお会いできる日を楽しみにしています。
3814
:
a hope
:2014/04/03(木) 08:32:07 ID:cEpBaIdo
4月になりましたので、第24回web誌友会を開会させていただきます。
始めに、祈りの言葉を掲載させていただきます。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
住吉大神様 住吉大神様 谷口雅春先生 谷口雅春先生有難うございます、有難うございます。
生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給へ
吾が生くるは吾力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能
天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家の大神まもりませ
住吉大神様、今月の 生長の家 本流復活について考える WEB誌友会板 に於ける
生命の実相 輪読誌友会で、生長の家の御教えを正しく把握し、広く伝道するための
必要な霊の選士を集え給うて、真理の研鑽を導き給う。
住吉大神様 勉強会を正しく導き給う 住吉大神様 勉強会を正しく導きたもう。
参加者お一人、お一人を浄化し給うて、使命を授け給う。
有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます
世界平和の祈り
神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。
その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。
光明思念の歌
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
3815
:
a hope
:2014/04/03(木) 08:34:15 ID:cEpBaIdo
聖経「続 真理の吟唱」より
『新たに生まれるための祈り』
今わたしは、新しき日を迎えて、〝新生〝の自覚を得たのである。
「人新たに生まれずば神の国を見ること能わず」とキリストは説いたのである。
〝新たに生まれる〝とは一度自分の肉体を十字架につけることである。
キリストは身をもってそれを実行したのである。
そして彼は三日の後(のち)に復活したのである。
肉体を十字架につけるとは、必ずしも現象的に肉体を磔(はりつけ)にすることではないのである。
この世界も、人体も、結局は意識――即〝心〝の展開せる世界であるから、〝心〝で〝肉体の無〝を完全に知り、
物質的肉体を〝心〝の世界で抹殺することが肉体を十字架に釘(つ)けることなのである。
これを仏教的に謂えば、観自在菩薩が深般若波羅蜜多の行を修し給うたとき、
「五蘊皆空(ごうんかいくう)」と照見し給うたのが即ち〝物質〝も〝肉体〝も〝肉体意識〝もことごとく十字架に釘けて、
それを〝悟りの心〝によって〝空無〝であると抹殺せられたのである。
キリスト教でも、仏教でも同じことである。
その真理の表現の言葉が異なるだけである。
イエスは肉体を十字架に釘けたが、キリスト教信者は、実際に肉体を殺さないで、
それを象徴的に行なう、それが所謂(いわゆる)〝洗礼〝である。
イエス在世の当時の洗礼はヨルダン河に頭部をも含めて全身を没し去り、その象徴行事によって「既に肉体無し」と悟り、
再び水面に浮かび上がったときには、最早やその〝自己〝を肉体にあらずして、
霊的実在なる〝神の子〝として新生したという自覚を得ることになっていたのである。
仏教ではこの洗礼の行事を、洗礼と称(い)わずして、灌頂(かんじょう)と称するのである。
頂(いたたき)きに水を灌いで、今まで〝物質あり、肉体あり、この自分は肉体である〝と思っていた五官意識の妄想を洗い流して、
自分自身をこのまま霊的実在なる大日如来であると観ずるのである。
神道に於いても、水を灌ぐことによって「肉体あり」という妄想を洗い流す行事があり、
これを〝禊(みそ)ぎ〝と称したのである。
〝みそぎ〝とは〝身剝(みそ)ぎ〝のことであり、肉体という仮存在の皮袋を剝き去って、
内在の霊妙完全なる存在なる「神の子」即ちミコトなる〝命〝の実相を自覚するのである。
そのとき、仮存在なる、〝肉体〝と〝肉体意識〝とが犯したところの罪穢(つみけがれ)は消滅する。
このことを古代の日本民族は知っていたのである。
すべての宗教の神髄はこのようにして、物質も肉体も、単なる仮存在であって、真実存在ではなく、
心のレンズによって時間・空間という映写幕に映影(えいえい)されたる〝影〝であることを悟ることにより、
人間は新たに生まれたる境地に到達し、執着を脱して束縛されざるが故に、却って自由自在の境涯に達し得ることを教えているのである。
この真理を知らしめ給いし事を神に対して感謝いたします。
ありがとうございます。
3816
:
a hope
:2014/04/03(木) 08:36:54 ID:cEpBaIdo
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
第24回 web誌友会
期間 4月1日〜4月30日まで
テキスト 「生命の實相」第11巻 萬教帰一篇上
「生命の實相」第12巻 萬教帰一篇下
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「生長の家」のみなさま おはようございます!
萬教帰一篇は、とても深い真理が書かれていて何度拝読しても感動します。
順番から言えば、テキストの範囲は第12巻ですが、第11巻も萬教帰一篇ですのでそちらも含めて、
今回のテキストとさせていただきます。
「生長の家」を愛するみなさま、まことの「生長の家の教え」を後世に正しく伝えるために、どうぞ積極的にご参加をくださいね。
そして、a hopeの解釈が間違っていたりしたら、容赦ないご指導をどうぞよろしくお願いいたします。
3817
:
トキ
:2014/04/03(木) 09:30:00 ID:8BOwyq4M
>>3816
A HOPE様
ご案内、ありがとうございます。
今回もよろしくお願いします。
合掌 ありがとうございます
3818
:
a hope
:2014/04/04(金) 20:56:53 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第11巻 p143 11行目〜
・・・五波羅蜜の修行というのは、(一)布施(ふせ)といって施しをし供養すること (二)持戒(じかい)といって戒律をしっかり守ること (三)忍辱(にんにく)といって常に柔らかな心をもって、どんな辱めを与えられようとも心が動じないこと (四)精進(しょうじん)といって常に志操堅固(しそうけんご)であって怠らず向上を続けていくこと (五)静慮(せいりょ)といって、浮世の争いを避けて静かなところへいって反省修行すること、これらの功徳でさえも、「神の子たる者の生き通しの生命」を理解し信ずる功徳の千万分の一にも及ばない。
しかし般若波羅蜜の修行は別物であって功徳が多いというのは、般若波羅蜜の修行は「神想観」の修行であるからであります。
「神想観」をするということと、「生命の実相」の教えを読み、如来すなわち神の子たる者の生き通しの生命を悟ることとは、両方から互に相寄ってわれわれの信念と理解とを深めてくるのであり、どちらも忽(ゆるが)せにすることができない。・・・
3819
:
a hope
:2014/04/04(金) 20:58:26 ID:cEpBaIdo
(
>>3818
a hope所感)
上記謹写箇所に、「五波羅蜜」とありますが、これは六波羅蜜の内の五つの行のことのようです。
以下に、Wikipediaから、一部引用させていただきます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E7%BE%85%E8%9C%9C
―――――――――――――――
六波羅蜜[編集]
六波羅蜜(ろくはらみつ、ろっぱらみつ)とは、甚深法界の六つの彼岸行のこと。「六度(ろくど)彼岸」とも呼ばれる。
1. 布施波羅蜜 - 檀那(だんな、Dāna ダーナ)は、分け与えること。dānaという単語は英語のdonation、givingに相当する。具体的には、財施(喜捨を行なう)・無畏施・法施(仏法について教える)などの布施である。檀と略す場合もある。
2. 持戒波羅蜜 - 尸羅(しら、Śīla シーラ)は、戒律を守ること。尸は屍に通じる。在家の場合は五戒(もしくは八戒)を、出家の場合は律に規定された禁戒を守ることを指す。
3. 忍辱波羅蜜 - 羼提(せんだい、Kṣānti' クシャーンティ)は、耐え忍ぶこと。[2]
4. 精進波羅蜜 - 毘梨耶(びりや、Vīrya ヴィーリヤ)は、努力すること。
5. 禅定波羅蜜 - 禅那(ぜんな、Dhyāna ディヤーナ)は、特定の対象に心を集中して、散乱する心を安定させること。
6. 智慧波羅蜜 - 般若(はんにゃ、prajñā プラジュニャー)は、諸法に通達する智と断惑証理する慧。前五波羅蜜は、この般若波羅蜜を成就するための手段であるとともに、般若波羅蜜による調御によって成就される。
――――――――――――――――
こちらを読むと、だいたい、「生命の實相」にある説明と同じ内容が書かれているのではないかと思います。
そして、「生命の實相」には、六波羅蜜の六番目の彼岸行である、智慧波羅蜜別名「般若波羅蜜」が「生長の家」の「神想観」の修行であると書かれています。
さらに、
<<「神想観」をするということと、「生命の実相」の教えを読み、如来すなわち神の子たる者の生き通しの生命を悟ることとは、両方から互に相寄ってわれわれの信念と理解とを深めてくるのであり、どちらも忽(ゆるが)せにすることができない。>>
とあります。
言い換えると、「生長の家」では、この「般若波羅蜜」=『神想観』の修行と「生命の実相」の教え(聖典『生命の實相』)を読むことで、
「神の子(如来)」たる者の生き通しの生命を悟ることができるということなのですね。
この部分を拝読していると、「五波羅蜜」の修行の代わりとなりうるのが、
聖典「生命の實相」の拝読であるとなるような気もしますが・・・ a hopeは深読みしすぎでしょうか・・・?
しかし、聖典を拝読し続けることで、罪業が浄まり、神想観で波動が良くなれば、上記の五波羅蜜の心境に無理なく近づいていけるような気もします。
というわけで、 この箇所を拝読したa hopeの解釈は、
『「生長の家」を信仰するのに絶対に欠かせないのは、聖典「生命の實相」の拝読と「神想観」の修行である』となりました。
そして、その二つの行をゆるがせにしていては、どんなによい運動をしても、それは「生長の家」の運動とは呼べないのではないかと思います。
3820
:
a hope
:2014/04/06(日) 16:52:34 ID:cEpBaIdo
生命の實相第11巻 p145 5行目〜
・・・たいていの宗教では自身を神に比べて、いと小さき者だと認め、それをもって謙遜であると誇るのであって、自分が神である、自分が仏である、自分がキリストである。自分が釈迦である、などというと、あいつはなんという高慢な奴であろうと思う、そして※増上慢の比丘、比丘尼が常不軽菩薩を瓦や石で打ったように物質では打たないけれども、心でいろいろと批評して打つのであります。
釈迦にいわせれば人間の神性の大自覚に入っている者をとやかく批評して打つ者の方が増上慢なのであります。ところがその増上慢の比丘、比丘尼たちの方から見れば、人間の神性の大自覚に入っている者の方が高慢であり慢心しているということになるのであります。
境地が違えばどうも仕方のないものですが、自分が神であるということがわからねば、他人が神であるということもわからない。したがって他人を本当に尊敬することもできない。自分に狸が憑いていると思っている者は、他人にも狸が憑いていると思っている。
常不軽菩薩が、自分の出遇(であ)ういっさいの人間に対して「われ深くなんじを敬う」ということができ、褒めてあげた人から逆に擲(なぐ)られても、石で打たれても「われ深くなんじらを敬う」ということができたのも、要するに、自分が神であるという大自覚の上に立っていられたからであります。・・・
※増上慢・・・まだ最上の法および悟りを得ていないのに、得たと思ってたかぶること。(頭注より)
3821
:
a hope
:2014/04/06(日) 16:55:21 ID:cEpBaIdo
(
>>3820
a hope 所感)
この謹写箇所には常不軽菩薩という僧侶が出てきますが、この常不軽菩薩に関しては、以前お勉強したような気がしましたので探してみました。
聖典引用板の>>471に、「 常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)のこと」を復興Gさまがご謹写くださっていましたので、ご紹介します。
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/471
文中に、
<<常不軽菩薩はこうしてすべての人間を礼拝した功徳によって、今、釈迦牟尼如来としてここに現れているのである――と釈尊は自分が常不軽菩薩の生れ変りだといっておられる。>>
とあります。
常不軽菩薩は、釈迦(仏)の一つ前の前世のお姿だったのですね。
ここで、ちょっと気になったのが、『常不軽菩薩はこうしてすべての人間を礼拝した』とあって、「実相礼拝」ではなくて、「人間礼拝」とあるところです。
「生長の家」の教えは、「実相礼拝」ですが、正直なところ、「実相」が何なのかハッキリわかっていて説明できる人なんていないのではないかと思います。
それならば、そのなんだかハッキリわからないものを「礼拝せよ」といわれても本当にそれができる人もごくわずかなのではないのでしょうか?
わたしが生長の家の教えに触れてから、「現象はどんな極悪なひどい姿をしていても、その人の実相は完全円満なんですよ。
だから、その実相を拝めばいいんですよ。」
というような意味合いの言葉を何度も聞いてきた気がしますが、そういう二元論的な考え方をしていては、
現象と実相という言葉に惑わされてしまい、本当の「実相礼拝」はできないような気がしてきました。
「現象に現れている悪と見える状態は悪ではない。」
「全てが善なんだ!すべての人が神(仏)なんだ!」
こう考えて、常不軽菩薩のように全ての現象を含めて「人間礼拝」することが、
「生長の家」の「実相独在」を信じることになるのでないでしょうか?
すみません、 なんか、ちょっとややこしくなってしまいましたが、わたしの言わんとすることが皆さんに伝わればいいのですが・・・
みなさま、ご意見、ご指導をどうぞよろしくお願いいたします。
3822
:
ユタカ
:2014/04/07(月) 00:34:05 ID:N20ePDNw
>「生長の家」の教えは、「実相礼拝」ですが、正直なところ、「実相」が何なのかハッキリわかっていて説明できる人なんていないのではないかと思います。
え〜〜〜〜!! 何のためにWEB誌友会で生命の実相の勉強会をしているの?って事になりませんか??
超ショック! 誰にも分からない実相を谷口雅春先生がまるで、魔法のコトバのように、無学の人にでも分かり易いように、親切丁寧に
分かりやすく説明して下さっていますね。 甘露の法雨の「神」の項も実相世界がかかれていると思っています。
創造の神は 五感を超越している、 六感も超越している、
聖 至上 無限 宇宙を貫く心 宇宙を貫く生命 宇宙を貫く法則
真理 光明 智慧 絶対の愛。つづく・・・・・
人間として最大限に認識できるように詳細に書かれていると思います。
古代の人はわかりませんが、現象世界の宇宙でさえ広すぎて、<現代の人間>には全容解明できないのに、
それ以上の実相など、特殊能力をもった人、例えば生長の家で言えば、谷口雅春先生のような
超人的な方以外には誰も分からなくて当然だと思いますが、それを素直に読み取れば、生命の実相にたどり着けると信じています。
ユタカはウインドウに直接書き込むから見直ししないので乱文すみません。
3823
:
トキ
:2014/04/07(月) 21:14:27 ID:NDrvF/0Q
すみません、遅れました。
以前、日本人の仏教学者がNHKの文化講演会でダライラマについて話していた
のを思いだし、そのデータを探していました。
このダライラマの話は面白かったです。
例えば、世界平和について、ダライラマは、「世界平和は大事ですよね? でも
あなたたち、本当に世界平和が実現すると思っているのですか? あなたたち、
一人一人が心から世界平和の実現を望んでいるのか、それとも、釈尊が非暴力を
主張する以上、弟子である私達も”釈尊が言った事だから”と言って、世界平和を目指して
いるのか。もし、後者なら、そんな口パクみたいな事を唱えて、世界平和が実現する
はずはない。釈尊がこう言ったから、ではなくて、一人一人が本当に思ってこそ、
世界平和が実現するのです。」と言っているのです。
それで、「怒り」についても、「怒るな、と言っても、慈悲を持つ人間なら、誰でも
不当な事に直面したら、怒るのが普通です。それを”釈尊がこう言っているから”と言って
怒らない、というのは意味がない。怒らないというテーゼと怒るという現実のギリギリの
線で、どう生きるかが大切だ」という趣旨の話を言っているのです。
つまり、いきなり世界平和とか怒らない、という場面に至るのが尊いのではなくて、
一つの理想、それが人間の実相を見つめて自分の生き方を見つめる、という姿勢が
大事なような気がします。それが「行」である、という印象があります。
生長の家の大先達で、谷口雅春先生の弟子だった方が、「信仰をする上で、”公案”を持つ
と良いですよ」とご指導をされた事がありました。つまり、一人一人が自分なりに、行じて
いく。それが、最初は実相の礼拝ではなくて、人間礼拝から始まったのかもしれませんね。
3824
:
a hope
:2014/04/07(月) 21:18:21 ID:cEpBaIdo
>>3822
ユタカさま
ユタカさまのおっしゃる通りだと感じています。
谷口雅春先生は、実相世界を悟られていて、神さまのお言葉である数々の聖典・聖経を執筆されました。
そのお言葉は真理に満ちていて、何度も拝読することで、必ず「生命の実相」を悟れるようにできているとわたしも思います。
ですから、雅春先生の亡き今、わたしたち信徒にとって何よりも大切な行は、聖典・聖経の拝読であると感じています。
わたしたち信徒に「生命の実相」を悟らせて下さるために、谷口雅春先生は数々の聖典を遺してくださいました。
わたしも、できるだけ心を無にして、素直に聖典を読み進めていきたいと思っています。
ユタカさま、素晴らしいお言葉をありがとうございます。合掌。
3825
:
a hope
:2014/04/07(月) 22:12:30 ID:cEpBaIdo
>>3823
トキさま
ダライラマの興味深いお話をありがとうございます。
世界平和であっても、また日本国実相顕現あっても、環境保護であっても、
誰かの悲願であるから運動をするとか、それが自分の信じる宗教の運動だからする、
という考え方には、わたしもちょっと賛成できません。
宗教団体がする運動は、信徒や人類の魂の向上につながらなければまったく意味がないと思うからです。
宗教を信仰していても、自分自身では真理を追究することもなく、
誰かに言われたことだけを、ただただ、真面目に行じ、運動して生きて行くというのも、
それはとても楽だと思いますし、それなりの現象的な功徳もあるかもしれませんが、
わたしはそういう信仰態度は本当ではないと感じてしまいます。
まことに宗教を信仰するとは、決してそんなに単純なことではないと思うからです。
本当に魂を向上させるためには、トキさまがおっしゃるように、信徒一人一人が自分の生き方を見つめ、
「公案」をもち、自分なりの方法をみつけて行じていくことがとても大切であるとわたしも思いました。
トキさまのお話のおかげで、大切なことにに気が付きました。
ありがとうございます。合掌。
3826
:
ユタカ
:2014/04/07(月) 22:23:45 ID:N20ePDNw
a hopeさま
ありがとうございます。
心が通じてとても嬉しいです、谷口雅春先生の御教えだけにひたすら眼を向けて
いければ、それが最高だと思います。
永遠の生長の家総裁谷口雅春先生! 万歳! 万歳!! 先生の御聖典は人類至上最高の宝です!!
素晴らしい、素晴らしいa hopeさまに復興Gさまがエールを下さっていました。おめでとうございます。
これからもよろしくお願いいたします。
3827
:
ユタカ
:2014/04/07(月) 22:31:31 ID:qaUx0OOg
>>
世界平和であっても、また日本国実相顕現あっても、環境保護であっても、
誰かの悲願であるから運動をするとか、それが自分の信じる宗教の運動だからする、
という考え方には、わたしもちょっと賛成できません。
@今、残留白ぽっぽがこんな感じ・・・孫だから間違いない。。
現象は間違えだらけ、自分で教えを実行することが大切か・・・・
難しいな。。。。。。
3828
:
トキ
:2014/04/08(火) 21:00:44 ID:r8BJKVNU
>>3825
a hope様
いつも素晴らしいご文章を書いて下さり、深く感謝申し上げます。
この点、確か、うろ覚えですが、聖使命会員に関する文章でしたか、
谷口雅春先生が書かれていたと思います。
「谷口雅春先生に申し訳ないから、運動をする」というのは正しくない
という趣旨だったと記憶しています。「喜びの運動でないと、本物ではない」。
聖典を熟読し、生活に生かして本当の喜びが得られた。そこから、他人に
も勧めたい。これが、基本的には運動の原点かと思います。
馬の鼻先に人参をぶら下げるように、数字が上がったから偉い、という
世界にしてしまうと、これは本当の信仰ではないような気がします。
3829
:
ユタカ
:2014/04/08(火) 23:25:18 ID:N20ePDNw
ユタカは8つかえなくてXP使ってた。明日からアイホンだな。。。
3830
:
a hope
:2014/04/09(水) 19:50:25 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第11巻 p190 5行目〜
・・・『新約聖書』の偉大さはイエスを歴史的人物であると否とのごとき問題ではありません。そうかといって、わたしはイエスを歴史的人物でないと否定するものでありません。そんなことは問題とするにたりないと思うのです。『新約聖書』の中の言葉がイエス自身の御発言であろうとパウロの思索せる宗教的真理であろうと、その作者の名前に捉われる必要はないのです。
福音書が神の啓示に満たされているということは、福音書それ自体のうちにある永遠生命のある言葉みずからが証明しているので、「生長の家」が神の啓示に満たされているというのも、要するにその中に包蔵されている永遠生命の言葉――読んで病が治るほどの言葉自身が証明しているのであります。
書いた人の歴史的地位などを問題にしていては、「生長の家」もわたしという一介の会社員が事務の片手間に書いたにすぎません。
『妙法蓮華経』にしませいても、釈迦が、これこそ未顕真実(みけんしんじつ)の至上の真理であるといって『法華経』を説いたといいますが、誰も釈迦がそれを説いているのを見た人もない。皆、釈迦没後多年を経て書かれたものである。すると『法華経』は釈迦正統であるかどうかも証拠はない。
釈迦が説いたから尊いとか、イエスが説いたから尊いとか言っている人は、ここに到って何を信じたらよいかわからなくなるのであります。
大宅さん、真理というのは誰が説いても尊いのであります。何も釈迦が説かなければ尊くないとか、イエスが直接説かなければ尊くないとかいうものではありません。金剛教祖が説いてもよいし、大本教祖がといてもよいし、天理教祖がといてもよいし、またわたしが真理を説いてもよいのであります。
生長の家の神さまの神示に「誰にてもあれ、生命の実相を説くところにわれは顕れる」とあります。誰が説いても真理を説けばそこに神が顕れてい給うのです。なぜなら神とは真理そのものでありますから、実際、神があらわれないくらいなら真理を説いているのではないのであります。
もし歴史的に顕れた神が教えをとくから尊いといわれるなら、現在この世にあらわれている神が説く教えならいっそう尊いではありませんか。なぜなら歴史的ということは歴史家の考証に誤りがあるかもしれない、歴史家の偽作かもしれないが、現在、その教えをする神を見たという人が現に生きていて証拠となっている『生長の家』の教えの方がいっそう尊いではありませんか。
わたしが『生長の家』を書いているとき、わたしならぬいと神々しき神姿が筆を動かしている有様を見た人は現に埼玉県に生きている。昭和七年九月に仮見新道場修行に来ておられた松原太郎氏の母堂は、霊眼がひらけて同じく神姿を拝されました。また・・・(以下略)
3831
:
a hope
:2014/04/09(水) 19:52:21 ID:cEpBaIdo
(
>>3830
a hope所感)
この箇所はわたしたちが真理の追究をしていく上でとても重要なことが書かれていると感じました。
そして、
>>3828
のトキさまのご投稿の谷口雅春先生のお言葉にも関連するのではないかと思います。
<<生長の家の神さまの神示に「誰にてもあれ、生命の実相を説くところにわれは顕れる」とあります。誰が説いても真理を説けばそこに神が顕れてい給うのです。なぜなら神とは真理そのものでありますから、実際、神があらわれないくらいなら真理を説いているのではないのであります。>>
『真理の言葉』というのは、釈迦やキリストそして谷口雅春先生が説いたから尊いのではなく、
『真理の言葉』そのものが尊いのですね。
わたしたちは、聖典「生命の實相」(文中では『生長の家』)を拝読すれば「神に出会う」ことができるということなのだと思います。
本当に、ありがたいです。 合掌。
3832
:
トキ
:2014/04/09(水) 21:57:26 ID:CrCxN0aA
宣宗皇帝の若いときに弟子となって、そこで修行した師匠の香厳和尚でもそうであり
ます。これは有名な和尚さんで、香厳の撃竹といって、石が竹を撃つ音を聞いて
悟りを開いたと言われる。いったい香厳和尚はそれまで瀉山和尚について修行してきた。
しかし師についても、本を読んでもどうしても悟れない。何々経にはなんと書いてある
となかんかよく喋るけれども、そのものを直接に把んでいない。先生の瀉山から、
「書物にもなんにも書いてない、人のいった言葉の受け売りではない、自分の中から
出て来た自分の言葉で仏とはどんなものかいってみよ」と言われたが、どうしても
答えられない。つまり仏とはいかなるものか、ということが分らなかったので、いっさいの
書物を焼き捨て、もう瀉山和尚についていることも止めて、南陽の慧忠国師の遺跡に庵を
つくって、もう仏とはどんなものかということも考えずにいた。ある日、竹林の側を掃除
しておった。そうしたら、その箒に石ころが引っかかって、その石ころがコツンと竹薮の
竹にブッ突かった時に、その音を聞いた時に、竹と石と天地と自分と「一つ」-すべては
「一つ」だということがわかって悟りを開いたえらい坊さんであります。われわれが心の
耳を開いて聴けば、いたるところに先生がいるわけです。路傍に転んでいるところの石ころ
も、あの辺に生えているところの雑草も、あるいは藪に伸びている一本の竹であっても、
皆われわれが本当に心の眼を開いて見た時に、心の耳を開いて聴いた時に、そこに本当の
真理を語っているわけなのであります。
生命の実相 第11巻 195Pより謹写
3833
:
トキ
:2014/04/09(水) 22:01:04 ID:CrCxN0aA
>>3831
すばらしいご文章、ありがとうございます。
Learn to live and live to learn というか、一生勉強なのでしょう。
藤原敏之先生が、練成で学んだ事を実生活で実践する事が大事だ、と
ご指導をされた事を思いだします。「真理の言葉」は、魂に共鳴する
と感じます。
3834
:
トキ
:2014/04/11(金) 22:08:59 ID:kOm.4.OU
「問題は既に回答があるのが問題だ」
ところで、人生にどんな難問題がるかのように見えましても、本当は問題と云うもものは
解決し得るためにあるのであります。数学の問題でもそうです。どんなにあなた自身にとっ
て解決し得ない問題でも、実はその回答は既にあるのですが、自分がそれを算出し得ないだ
けの事なのであります。
口で樹の木にぶらさがっていて、さあ返答せよと云われる場合、口をひらいたら千仞の
谷底に落ちると云うが、それは自分で、自分の手は動かないと信じて、自分の手で枝を
握る事を忘れているだけのことであります。この「動けるだけの力を、その時、その場、
その人に適する相に動かす」と云うことは、是こそ禅の極意なのであります。「禅機の
把握」と云うことは「全機の把握」でありまして、全体に行き届いてあらゆる点を動かし
得ることであります。これは心が全相に達したときに出来ることでありまして、心が
一部にのみ引っかかっているときには、その引っかかっていることに気を取られて、他
にすべき道が無数にあるのに、それを行うことが出来なくなるのでありまして、自分で
自分の力を「この位のもの」と限ってしまうから二進も三進も行かなくなるのであります。
「大乗起信論」に「心、全相い達せざるを迷いと云う」と云うことが書かれております。
あらゆる部面を悉く知って適当な行いが出来ないのが迷いなのであります。そこで、全局
を支配するには、すべてのものと自分が渾然一体にならなければ「対立」が残っているよ
うなことでも思うようになりませぬ。
新版 真理 第3巻 282p より謹写
3835
:
a hope
:2014/04/13(日) 23:12:00 ID:cEpBaIdo
みなさま こんばんは。
>>3832
トキさま
素晴らしい文章のご謹写をありがとうございます。
ですが、文末に<<生命の実相 第11巻 195Pより謹写 >>とあるので確認しましたら、
この御文章は、第11巻ではなくて、第12巻よりの御文章ですね。
わたしも、ここの部分には赤線が引いてありました。
『ある日、竹林の側を掃除しておった。
そうしたら、その箒に石ころが引っかかって、その石ころがコツンと竹薮の竹にブッ突かった時に、その音を聞いた時に、
竹と石と天地と自分と「一つ」-すべては「一つ」だということがわかって悟りを開いたえらい坊さんであります。』
このような本物の『悟り』というのは、「悟りたい」と強く欲したり、
『悟ろう』と力を入れて努力しているときには悟れず、
無心になって何かに集中しているときに訪れるものなのかもしれませんね。
ですが、知識として「真理」が何たるかを頭で理解しておくことも、
本当の『悟り』を得るための下地としては絶対に必要であるとわたしは感じています。
そのためには、やはり、聖典「生命の實相」の拝読はかかせませんね。
3836
:
a hope
:2014/04/13(日) 23:15:03 ID:cEpBaIdo
第11巻の終わりから、第12巻の最初のところには、「天理教」の教えについて述べられていて、
「生長の家」教えとの違いが説明されています。
――――――――――
「生命の實相」第12巻 P3 後から4行目〜
・・・天理教ではこの「理(り)」を「神」と称しているのでありますが、生長の家では、
「理」をただちに神とはいわず、その理を「心の法則」といいまして、
その「理」「法則」の奥に神という理以上の存在があるというのであります。
――――――――――
天理教の教え 「理(り)」= 「神」
生長の家の教え 「理(り)」=「心の法則」(横の真理) 「神」 = 唯神実相(縦の真理)
ということになるのだと思います。
3837
:
a hope
:2014/04/14(月) 00:06:43 ID:cEpBaIdo
>>3836
つづき
「生命の實相」第12巻 p4〜
神を人格的存在として考えますと、悪因に対して悪果を与えられ、悪念に対して悪しき現実が与えられる場合、
この「理」としての一面だけを見ますとき、それは悪に報いるに悪をもってせられるのでありますから、
この「理法」(こころの法則)を人格化して称するとき、『旧約聖書』では「エホバの怒り」とも称され、
「神を畏るるは知恵の始め」(『箴言』1−7)などともあり、これを天理教では「神の立腹」とも称されてしまして、
「神の立腹を知る」とは、要するに因縁因果の理法を畏敬し、心の法則を知れということでありまして、
俗耳に入りやすきように、「神の立腹」とか「エホバの怒り」とか称されているのでありまして、
神が立腹して病気を創造したり、不幸悲惨を創造したりせられるのではありません。・・・
3838
:
a hope
:2014/04/14(月) 00:09:26 ID:cEpBaIdo
(
>>3837
a hope所感)
謹写部分からp8までの雅春先生のお言葉を拝読するとわかりますが、
「理(り)」=「神」と直接的に表現している天理教の教えですが、
教主の晩年の筆先になると、「病は本来ない」、それは「心の影」であるというように、
「生長の家」の教えと同じ真理を説くようになってきたようです。
要するに、天理教主も、釈迦と同様、最初から究極的な真理「唯神実相」を信者に説くのは避けたのですね。
現象を信じ切って生きている信徒に、いきなり本当のこと「病なし」だとか、「人間は神である」を説いても、
とても理解されないと思ったからでしょうか・・・
結局、教主は最後に本当の真理を説いたにも関わらず、それを悟るものがいないと嘆かれて、
亡くなってしまわれたようですが・・・
この部分はとても興味深く拝読しました。
そして、あらためまして、最初から「唯神実相」を教えの中心にもってきて説いた「生長の家」の教えの偉大さを実感しています。
「生長の家」の教えが万教帰一である所以は、ここにあるのですね!
3839
:
トキ
:2014/04/14(月) 21:24:04 ID:in.6Zpfw
>>3838
a hope様
素晴らしいご文章、ありがとうございました。
また、中山みき様が天理教を始められた頃は、江戸時代ですから
当時の識字率を考えると、とても難しい事を説いても、大半の人が
解らなかったと思います。
明治時代になると、教育が広まりましたが、まだ、そこまで高い
内容を説いてもわかならい人が多かったと思います。
特に、天理教が飛躍的に発展した時期は、明治の始めにあたり、
当時は政府の干渉がきつく、純粋に教祖の教えを広めるのが難しい
時代だったと聞いています。実は、天理教の人が主宰している掲示板
でも、現在の天理教の教えは厳密には、中山みき様の教えと違う部分
がある、という事を示唆する文章があったのを記憶しております。
そう言えば、キリスト教の死海文書を分析すると、イエスの教えは
生長の家の教えとかなり似ているみたいです。
3840
:
a hope
:2014/04/15(火) 17:08:42 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第12巻 p23 7行目〜
・・・このように「生長の家」の生き方は、肉体の世界を念の映像(かげ)であると悟るのでありまして、映像の世界の成就は、むろん第二義的のものでありますから、別に第一義「実相世界」よりも重んずるのではありません。
しかし、世の人々の多くは、現象世界の完全ならんことを念願している方が多いのでありますから、これらの人々に「現象世界は実在ではないから捨てよ」と申しましても、それでは現実生活とかけ離れたようになりまして、世間の実生活者を救いに導くことができませんから、「現象世界を成就させようと思うならば、現象世界は映画であるから、フィルム(念)をととのえよ」ということを強調し、念を調えることによって、現象世界の調ってくる実証により、「なるほど現象世界はカゲであった」とさとらせるように説くのが「生長の家」の説き方なのであります。
今まで仏教などの宗教では、たいてい「現象世界は映像であるから捨てよ」という。が、カゲであるから捨てなくてもよい、「カゲの世界」を成就しつつ、その成就の実証によって実相を悟るように説いているのが「生長の家」であります。
3841
:
a hope
:2014/04/15(火) 17:34:29 ID:cEpBaIdo
>>3839
トキさま、ありがとうございます。
そうですか、天理教というのは、生長の家よりも歴史が長いのですね。
当時は文字すら読めない人も多かったのですから、教義をわかり易くするために
「神」を擬人的に説いたのも仕方なかったのかもしれませんね。
キリスト教の死海文書についてよく分かりませんが、
ほとんどの奇蹟が起きたような本物の宗教の本来の教義には、
最終的には同じ真理(唯神実相)が説かれているのでしょうね。
3842
:
a hope
:2014/04/15(火) 17:36:06 ID:cEpBaIdo
(
>>3840
a hope 所感)
ところで、
>>3838
でも述べましたが、わたしが聖典を拝読するかぎり、釈迦も天理教教主も、
最初は心の法則(理、唯心所現、因果報応等)を教義の中心とし、
最後に「現象なし」の「唯神実相」の真理を説かれたと説明されているように解釈できます。
ところが、「生長の家」では、最初から「唯神実相(実相世界)」を第一義とした上で、
第二義の「心の法則(現象世界)」も教義に組み込んでいるのですね。
それが「生長の家」の「縦、横の真理」であり、特徴的なところだと感じています。
>> 3840 の謹写部分には、「生長の家」の真理を人々に悟らせるための方便について述べられていますが、
最後のところに、
<<「カゲの世界」を成就しつつ、その成就の実証によって実相を悟るように説いているのが「生長の家」であります。>>
とあります。
文中の、『「カゲの世界」の成就』というのが、具体的には、病気が治ったり経済問題や家庭問題が改善されたりすることで、
言い換えれば「生長の家」の奇蹟にあたり、その『実証』というのが、『体験談』で公に発表することにあたるのだと思います。
「生長の家」では、「現象世界」のみを信じる人々の目を「実相世界」に目覚めさせるための方便として、
『奇蹟の体験談』をすることがとても重要な意味を持つということなのだと思います。
みなさま、わたしの解釈にまちがいがあれば、ご指摘、ご指導をどうぞよろしくお願いいたします。
3843
:
a hope
:2014/04/15(火) 19:54:39 ID:cEpBaIdo
>>3842
訂正
「生長の家」では、「現象世界」のみを信じる人々の【目】を
↓
「生長の家」では、「現象世界」のみを信じる人々の【心】を
3844
:
a hope
:2014/04/18(金) 22:25:19 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第12巻 p50 最後から1行目
真宗では「他力」を尊んで自力をけなすのであります。そして「自力」というものを価値のないもの、自分だけの力ではとうてい救われっこないものだと「自力」を軽蔑するのでありますが、いくら軽蔑いたしましても「自力」というものがそこにあるとうことを認めている以上は、「自力」を全然無視したとはいえないのであります。「自力」の存在を認めておればこそ「自力は駄目じゃ」といわねばならぬようなことになる。
ところが「存在するものは仏力ばかりである。神力ばかりである。自力というものは本来無いものじゃ」と解って、自力を全然認めないようになってしまえばアトは「他力」ばかりになってしまう。「他力」ばかりになってしまったら、もう「自力」などというものはない。この「他力」ばかりの信仰が「生長の家」なのであります。
「他力」と仮に申しましたが、「自力」に対立してこそ「他力」という言葉を使うことができまするが、もう存在するものは仏力ばかりであると解り、「自力」というものは何一つ存在しないということがわかりますると、自他の対立が無くなってしまう。自他の対立がなくなって、存在するものみんな仏力である、みんな神力であるということになってまいりますと、もう「自力、他力」の区別がいえなくなってしまう。すべて「絶対力」ということになってしまう。「生長の家」はこの絶対力の信仰である。
仏力のほかに「なんらかの力」をいっさい認めない。「阿弥陀仏」独在、阿弥陀仏のみこの世にあるのだというのですから、どこもかしこも阿弥陀仏の浄土ということになってしまう。どこもかしこも阿弥陀仏の浄土であるから、もう地獄などというものは無いことになってしまう。「みんな救われているぞ、みんなそのままで阿弥陀仏の浄土にいるんだぞ」これが「生長の家」が全人類に対する宣言なのであります。・・・
3845
:
a hope
:2014/04/18(金) 22:27:12 ID:cEpBaIdo
(
>>3844
まとめ)
浄土真宗 「他力(仏力)」を尊重
「自力」を軽蔑
生長の家 「他力(仏力・神力)」しかない → 「絶対力」の信仰
「自力」は本来ない
( a hope 所感)
「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と唱えることで、阿弥陀仏様に救ってもらう(「他力」に頼る)のではなくて、
<<「阿弥陀仏」独在、阿弥陀仏のみこの世にあるのだというのですから、どこもかしこも阿弥陀仏の浄土ということになってしまう。どこもかしこも阿弥陀仏の浄土であるから、もう地獄などというものは無いことになってしまう。「みんな救われているぞ、みんなそのままで阿弥陀仏の浄土にいるんだぞ」>>
このことを自覚せしめる(「絶対力」の自覚)のが、「南無阿弥陀仏」と唱えることの本来の意味だったのですね!
3846
:
トキ
:2014/04/18(金) 22:33:32 ID:3z.z80Ek
a hope様、すばらしいご文章、ありがとうございます。
南無阿弥陀仏と言えば、藤原敏之先生を思いだします。藤原先生は浄土真宗の
勉強を正式にされ、布教師もされていました。しかし、その頃から浄土真宗の
伝統的な考え方とは異なる説法をされていたので、御止めになられたそうです。
その藤原先生が、生長の家に触れて、本当の親鸞上人の教えが解ったと説か
れています。
嘆異抄に学ぶなどは代表ですが、きっと藤原先生もお慶びだと思います。
3847
:
a hope
:2014/04/20(日) 09:56:17 ID:cEpBaIdo
>>3846
トキさま
ありがとうございます。
ご紹介の藤原敏之先生のご著書「嘆異抄に学ぶ」は、メインタイトルは「そのまま極楽の道」ですね。
そうですか、藤原先生は浄土真宗の布教師をされていたのですか・・・。
このご著書は未読ですが、いつかは拝読したいです。
3848
:
a hope
:2014/04/20(日) 10:51:42 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第12巻 p84 2行目〜
・・・悪いと知って一歩一歩改善してゆくのは道徳的救いでありますが、 宗教的救いというのは飛躍の救いであります。自力の一歩一歩の改善ではどうしても救われない自分だと知った時に、その「改善しなければならないような悪い自分」というものは「虚仮(こけ)の自分」であった、言い換えると「ウソの自分」「本来ない自分」であったと知る――その時、忽然旧我が消えてしまって、本当の自分――尽十方無礙光如来と同体の自分というものが顕れて来るのであります。そこに完全に「我」というものの置き換えができるのであります。
今までは、「罪悪の自分」であると思っていた「ニセ物の自分」はその時忽然と消えて」しまって、罪を犯そうにも犯しようがない無限に善いところの「尽十方無礙光如来と同体の自分」というものが現れてくるのであります。すると自然に、法爾(ほうに)に善いことばかりしか思わなくなり、善いことばかりしか行わなくなるのであります。そんな都合のよいことが本当にできるかと思う人がありますが、それが本当にできぬくらいなら宗教的救いではない。
宗教的救いというものは、先刻申しましたように、極楽浄土という一地域の中へ罪悪深重のままで、悪を犯す傾向をもったままで移住することではない。「尽十方無礙光如来」と同体の本当の自分があらわれて来て、自然に善いことばかりに心が動き、自然に怒る心がなくなり、自然に争う心がなくなり、自然に恐れる心がなくなるのであります。どうしたらその宗教的救いが得られるかと申しますと、真宗では「南無阿弥陀仏」と称えればよいわけですこぶる簡単でありますが、「南無阿弥陀仏」の心がわからないで称えてもやはり、本当の救われた相(すがた)があらわれないで、片手に「南無阿弥陀仏」と称えながら片手で嫁をいじめをしている姑(しゅうとめ)さんもないことはない。これは南無阿弥陀仏のこころが解らないからであります。
「生長の家」では『生命の實相』をただ読むだけで「南無阿弥陀仏」の心を解らせる、いいかえれば阿弥陀仏に帰命し、阿弥陀仏と同体になっているところの自分の生命の正体をわからせるのです。すると突然、虚仮の自分――罪深い自分――本来ない自分というものが消えてしまって、「本来救われている自分」というものが現れて来るのであります。だから「生長の家」ではすこぶる簡単に救いがあらわれる、それは聖典『生命の實相』をただ読め、ひたすら読めということであります。
3849
:
a hope
:2014/04/20(日) 10:52:51 ID:cEpBaIdo
(
>>3848
a hope所感)
<<「生長の家」では『生命の實相』をただ読むだけで「南無阿弥陀仏」の心を解らせる、いいかえれば阿弥陀仏に帰命し、阿弥陀仏と同体になっているところの自分の生命の正体をわからせるのです。すると突然、虚仮の自分――罪深い自分――本来ない自分というものが消えてしまって、「本来救われている自分」というものが現れて来るのであります。だから「生長の家」ではすこぶる簡単に救いがあらわれる、それは聖典『生命の實相』をただ読め、ひたすら読めということであります。>>
ここにも、聖典「生命の實相」拝読の重要性が書かれています。
生長の家の信仰 = 聖典「生命の實相」の拝読 = 救われる
というわけですね。
3850
:
トキ
:2014/04/20(日) 19:01:01 ID:NzS7L3Js
a hope様、ありがとうございます。
藤原敏之先生が取り上げられた嘆異抄ですが、長らく浄土真宗ではほぼ禁書の扱いを
受けて来ました。暁烏敏という有名なお坊さんが、この本を取り上げた時も、部内では
いろいろとあったみたいです。
暁烏敏さんは、いろいろとクセのあった人みたいですが、この本を取り上げた事で、
多くの人が救われたみたいです。しかし、藤原敏之先生のように、長年、会社勤めを
され、定年後に第二の人生で多くの人を救われた姿勢は、日常生活の中の真理を行じ
る姿勢の大切さを教えて下さっていると思います。
3851
:
トキ
:2014/04/22(火) 20:00:14 ID:CVE7kyjk
本日、拝読した生命の実相第12巻のうち、少し感銘を受けた部分を紹介させて
いただきます。
「近ごろ、宗教熱が勃興しましていろいろ「何々経講義」と題する本が出版され
ますが、その講義は字句の解釈の上では、相応立派なまちがいないものでありま
しょうが、その宗教的真理をそのまま「生活」に活きているというような人はす
くないと思うのであります。「生長の家」は何も変わったことを説くのではない、
「色即是空、空即是色、如来の寿命は無量なり」の宗教的真理を説くのでありま
すが、それが、説法と「生活」とが、先刻のお坊さんのように分離していない。
説法講義と生活がピタリと一枚になっている。いわゆる宗教を生活に生きてい
るというのが「生長の家」であります。知識を満足さしたり、修養を衒ったり、
学者ぶったりするために宗教を説くのではない。宗教的真理をそのまま生活に
生きるのが「生長の家なのです。
(つづく)
3852
:
トキ
:2014/04/22(火) 20:03:48 ID:CVE7kyjk
以下はトキの感想です。
もちろん、この話は生長の家の信徒ならご存知の話なのですが、真理を知っている
事と実践する事では、距離があります。しかし、問題は、今、どの位置にいるかでは
なくて、どちらに向かって動いているか、という事かと思います。
本来あるべき自分に向かって努力する。人間、神の子の自分があらわれるようにがん
ばる。そこに人生の妙味があるように思います。
3853
:
a hope
:2014/04/23(水) 23:41:04 ID:cEpBaIdo
>>3850
〜3852 トキさま
「生命の實相」第12巻の第三章のタイトルは「南無阿弥陀仏の実生活化」です。
そこには、真理を悟ることで、病気が治ったり生活が改善されたりと、現実生活に大きな力を発揮する事実が、
たくさんの体験談を例にあげて説明されています。
わたしがここを拝読していて感じたのは「本当に真理を悟れば、がんばらなくてもしぜんに生活が改善されていくのだ」ということです。
ですが、波動的に大きな影響力を持たれた谷口雅春先生がいらっしゃらない今、わたしたち信徒が「本当に真理を悟る」というのは、
とても難しくなって来てしまったような気がします。
ですから、そんな状態の中では、やはりわたしたち信徒は、トキさまがおっしゃるように、
<<本来あるべき自分に向かって努力する。人間、神の子の自分があらわれるようにがん
ばる。そこに人生の妙味があるように思います。 >>ということが大切なのだとわたしも思います。
そして、それには、聖典の拝読が一番重要であると感じています。
3854
:
a hope
:2014/04/24(木) 00:19:52 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第12巻 p105 後ろから1行目
この「超克する」ということと「対応する」ということは、似ているようでも大変ちがうのであります。「超克」するということは、病気を無いもののように取り扱って超越して克服してしまうことであります。
「対応する」ということは、病気をアルとして取り扱ってそれに相対することであります。医者や民間療法は病気をアルとして取り扱ってそれに相対(あいたい)することであります。医者や民間療法は病気に対応しますが、「生長の家」は病気を超克するのであります。
(まとめ)
医者・民間療法 ・・・病気 ←アルもののように取り扱って「対応する」
生長の家 ・・・病気 ←無いもののように取り扱って「超克する」
(a hope所感)
かつては医者が匙を投げたような大病であっても、聖典を読むだけであっさりと治ってしまったのですよね。
ですが、現在はそうは簡単にいかないようです。
その原因はここにあると感じています。
「病気は無い」という生長の家の真理を知っている生長の家の信徒であっても、
実際には自分や家族が病気になれば医者に行き、民間療法を試したりするのだと思います。
真理をただ知っていることと、本当に悟っていることの違いがここでわかるような気がします。
ちなみにわたしは、自分や家族が病気になれば、病院に行きます。
全然、悟っていませんね(笑)
でも、ありがたいことに、最近はほとんど病気をしなくなりました!
3855
:
a hope
:2014/04/24(木) 12:16:23 ID:cEpBaIdo
今朝、大熊先生のブログに行きましたら、今回のテキスト「生命の實相」第11巻に関して言及されていました。
「唯物論者は病気でしょうか。」という質問にお答えしてくださっています。
そして、安易な「中絶」をなくすことと、日本国実相顕現との関係もご教示くださっています。
http://blogs.yahoo.co.jp/panda41415151
その御文章の明快さに感動しました。
(つづく)
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