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3799a hope:2014/03/30(日) 22:56:43 ID:cEpBaIdo

生命の實相」第11巻 萬教帰一篇上 P139 後から3行目

 ・・・すると釈迦はいよいよ本当の悟りを示されて今まで説いたところのいっさいを小法だといわれている。『法華経』の中でさえも、いよいよこの「如来寿量品(にょらいじゅろうほん)」の章に来て真実法になっているのであります。

さて釈迦がどういわれたかといいますと、「この如来はいろいろ衆生の小法を希(ねが)っているところの徳の薄い、穢れの多い者を見て、その人のために、自分は少(わか)くして出家し、伽耶城(がやじょう)の近くの道場に坐して悟りを開いて仏となったというふうに説いて聞かしてはいるが、本当は自分は成仏してから無量無辺百千万億那由他劫である。すなわち無限時間前から自分は仏であって大勢を教化してきたのである。

今さら仏になってから四十数年しかたたぬなどというのは真実ではない。その無限時間前から今までの間において念頭仏という仏が世に出てまた入滅して、また何々仏という仏が生まれ出てきて誰々を済度してきたなどということを説いたのは、そう説かないと理解できない人たちのために方便をもって説いたのであって、今こそ真実をいうならば、この自分は無限時間前からすでに仏であって時にしたがっていろいろの仏とあらわれて人間を教化してきたのである。如来の実相はこの世に生まれて来るということも、滅することもない、生き通しの者である」といっていよいよ真実をお説きになったのであります。

この悟りが「生長の家」のサトリであって「生命の実相」を悟った人ならば必ずやこの実感に入るのが当然であるのであります。「あの時にインドで説教していたのは余人ではない、自分であった」、「あの時にイエスと出現してユダで説教していたのは余人ではない自分であった」というような実感に入るのであります。この実感に入らない人は本当の悟りに入ったのではない。神と自分、大生命と自分というものがまだ本当の一つの流れになっていないのであります。

さすがにキリストは釈迦と同じ悟りに入っていられたので、「お前たちは自分をナザレに生まれた三十歳の青年だと思っているだろうが、実は自分はアブラハムの生まれぬ前からこの世にいたものである」とだんことしていっていられる。このキリストの心境、釈迦の心境というものは体験のない者、実感のない者には、いい加減な慢心とかでたらめとしか思われないのであります。だから、この心境を釈迦は包んで四十余年間弟子にお話にならなかった。いってもわからぬ、誤解を招くばかりだと思っていられた。・・・


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