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Web誌友会 板/2
3815
:
a hope
:2014/04/03(木) 08:34:15 ID:cEpBaIdo
聖経「続 真理の吟唱」より
『新たに生まれるための祈り』
今わたしは、新しき日を迎えて、〝新生〝の自覚を得たのである。
「人新たに生まれずば神の国を見ること能わず」とキリストは説いたのである。
〝新たに生まれる〝とは一度自分の肉体を十字架につけることである。
キリストは身をもってそれを実行したのである。
そして彼は三日の後(のち)に復活したのである。
肉体を十字架につけるとは、必ずしも現象的に肉体を磔(はりつけ)にすることではないのである。
この世界も、人体も、結局は意識――即〝心〝の展開せる世界であるから、〝心〝で〝肉体の無〝を完全に知り、
物質的肉体を〝心〝の世界で抹殺することが肉体を十字架に釘(つ)けることなのである。
これを仏教的に謂えば、観自在菩薩が深般若波羅蜜多の行を修し給うたとき、
「五蘊皆空(ごうんかいくう)」と照見し給うたのが即ち〝物質〝も〝肉体〝も〝肉体意識〝もことごとく十字架に釘けて、
それを〝悟りの心〝によって〝空無〝であると抹殺せられたのである。
キリスト教でも、仏教でも同じことである。
その真理の表現の言葉が異なるだけである。
イエスは肉体を十字架に釘けたが、キリスト教信者は、実際に肉体を殺さないで、
それを象徴的に行なう、それが所謂(いわゆる)〝洗礼〝である。
イエス在世の当時の洗礼はヨルダン河に頭部をも含めて全身を没し去り、その象徴行事によって「既に肉体無し」と悟り、
再び水面に浮かび上がったときには、最早やその〝自己〝を肉体にあらずして、
霊的実在なる〝神の子〝として新生したという自覚を得ることになっていたのである。
仏教ではこの洗礼の行事を、洗礼と称(い)わずして、灌頂(かんじょう)と称するのである。
頂(いたたき)きに水を灌いで、今まで〝物質あり、肉体あり、この自分は肉体である〝と思っていた五官意識の妄想を洗い流して、
自分自身をこのまま霊的実在なる大日如来であると観ずるのである。
神道に於いても、水を灌ぐことによって「肉体あり」という妄想を洗い流す行事があり、
これを〝禊(みそ)ぎ〝と称したのである。
〝みそぎ〝とは〝身剝(みそ)ぎ〝のことであり、肉体という仮存在の皮袋を剝き去って、
内在の霊妙完全なる存在なる「神の子」即ちミコトなる〝命〝の実相を自覚するのである。
そのとき、仮存在なる、〝肉体〝と〝肉体意識〝とが犯したところの罪穢(つみけがれ)は消滅する。
このことを古代の日本民族は知っていたのである。
すべての宗教の神髄はこのようにして、物質も肉体も、単なる仮存在であって、真実存在ではなく、
心のレンズによって時間・空間という映写幕に映影(えいえい)されたる〝影〝であることを悟ることにより、
人間は新たに生まれたる境地に到達し、執着を脱して束縛されざるが故に、却って自由自在の境涯に達し得ることを教えているのである。
この真理を知らしめ給いし事を神に対して感謝いたします。
ありがとうございます。
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