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Web誌友会 板/2

3821a hope:2014/04/06(日) 16:55:21 ID:cEpBaIdo
>>3820 a hope 所感)

この謹写箇所には常不軽菩薩という僧侶が出てきますが、この常不軽菩薩に関しては、以前お勉強したような気がしましたので探してみました。

聖典引用板の>>471に、「 常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)のこと」を復興Gさまがご謹写くださっていましたので、ご紹介します。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/471

文中に、

<<常不軽菩薩はこうしてすべての人間を礼拝した功徳によって、今、釈迦牟尼如来としてここに現れているのである――と釈尊は自分が常不軽菩薩の生れ変りだといっておられる。>>

とあります。

常不軽菩薩は、釈迦(仏)の一つ前の前世のお姿だったのですね。

ここで、ちょっと気になったのが、『常不軽菩薩はこうしてすべての人間を礼拝した』とあって、「実相礼拝」ではなくて、「人間礼拝」とあるところです。

「生長の家」の教えは、「実相礼拝」ですが、正直なところ、「実相」が何なのかハッキリわかっていて説明できる人なんていないのではないかと思います。

それならば、そのなんだかハッキリわからないものを「礼拝せよ」といわれても本当にそれができる人もごくわずかなのではないのでしょうか?

わたしが生長の家の教えに触れてから、「現象はどんな極悪なひどい姿をしていても、その人の実相は完全円満なんですよ。
だから、その実相を拝めばいいんですよ。」

というような意味合いの言葉を何度も聞いてきた気がしますが、そういう二元論的な考え方をしていては、
現象と実相という言葉に惑わされてしまい、本当の「実相礼拝」はできないような気がしてきました。

「現象に現れている悪と見える状態は悪ではない。」
「全てが善なんだ!すべての人が神(仏)なんだ!」

こう考えて、常不軽菩薩のように全ての現象を含めて「人間礼拝」することが、
「生長の家」の「実相独在」を信じることになるのでないでしょうか?

すみません、 なんか、ちょっとややこしくなってしまいましたが、わたしの言わんとすることが皆さんに伝わればいいのですが・・・

みなさま、ご意見、ご指導をどうぞよろしくお願いいたします。


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