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3767a hope:2014/03/13(木) 00:32:38 ID:cEpBaIdo

生命の實相 第11巻 p9 9行目〜

○ 神、光を善しと観たまえり。神、光と暗(やみ)とを分ちたまえり。神、光を昼と名づけ、暗(やみ)を夜と名づけ給えり。夕(ゆうべ)あり、朝(あした)ありき。是れ首(はじめ)の日なり。(『創世記』第一章―四〜五)

大きくこれを観れば神の「宇宙創造」、小さくこれを観れば、人の「人生」はいずれも、「暗(やみ)」を征服して進む「光」の行程(こうてい)であり、「死」を征服して進む「生命」の歴史であります。「生命」の進むところ必ず「光」があり、「光」の進むところ必ず
「生命」があり、生命とは神から放射された「光」にほかならない。そして神は善であるから、「生命」のあるところ、「光」あるところ、必ず「善」である。これが「神、光を善しと観たまえり」の真義であります。

太陽の創造はまた『創世記』第一章の後節にありますので、ここに述べられた「光」というのは物質的太陽から放射する「光」ではないのであります。これはむしろ「大生命」すなわち法身の天照大御神の聖光(みひかり)でります。すべての創造は「大生命」すなわち宇宙の唯一根元神から放射されたる霊的観念によって造られる。したがってこれは善なることのほかはできないものであります。悪なる存在があるように見えるならば、それは本当の実在ではない。存在するものらしく見えるものにも、本物と偽せ物とがある。この本物と偽せ物とがあるということを「夕(ゆうべ)あり、朝(あした)ありき」と象徴的に書いてあるのであります。太陽創造以前にある夕(ゆうべ)と朝(あした)、夜と昼とはこういうふうに解釈すべきものだと掲示されています。

○・・・省略・・・(『創世記』第一章―六〜八) 

(前文省略)・・・で、この一節を解釈しますと、この世の中の存在はどれもこれも、実際に存在しているように見えているけれども、本当に存在しているものと本当には存在していない癖にあたかも存在するかのように見せかけている仮相(にせもの)とがあるから、これを区別して、実在を実在とし、仮相を仮相としてハッキリ区別しなければならぬ。

これを区別するには、穹蒼(おおぞら)のように無色透明な霊的理解がなければならぬ。『創世記』のいい方に従うと、水の中に穹蒼(おおぞら)を置いて、空の上の水と、地の水とを分かたねばならぬ。

地の水とは大地に根を下ろした本当の存在である。すなわち神が放射したまうた霊的観念によって造られた存在であって、これは完全で幸福で健康である他はない。

これに反して空の上の水というのは架空の観念的存在であって、神から来た霊的観念によって造られたものではなく、人間の迷いの念が描き出した仮の存在である。いっさいの不完全、不幸、不健康は、この空の水、すなわち架空の存在であるから、よく霊的直観によって、真(しん)の神の創造物と、そうでないものを区別しなければ、時に迷いに捉われてこの世の中にわれとわが心で不完全、不幸、不健康などを作って歎かなければならないことがあるぞ、存在には本物とニセ物とがあるぞ、夕(ゆうべ)もあれば朝(あした)もあるぞ、というのがおの1節の意味であります。


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