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Web誌友会 板/2

3820a hope:2014/04/06(日) 16:52:34 ID:cEpBaIdo

生命の實相第11巻 p145 5行目〜

・・・たいていの宗教では自身を神に比べて、いと小さき者だと認め、それをもって謙遜であると誇るのであって、自分が神である、自分が仏である、自分がキリストである。自分が釈迦である、などというと、あいつはなんという高慢な奴であろうと思う、そして※増上慢の比丘、比丘尼が常不軽菩薩を瓦や石で打ったように物質では打たないけれども、心でいろいろと批評して打つのであります。

釈迦にいわせれば人間の神性の大自覚に入っている者をとやかく批評して打つ者の方が増上慢なのであります。ところがその増上慢の比丘、比丘尼たちの方から見れば、人間の神性の大自覚に入っている者の方が高慢であり慢心しているということになるのであります。

境地が違えばどうも仕方のないものですが、自分が神であるということがわからねば、他人が神であるということもわからない。したがって他人を本当に尊敬することもできない。自分に狸が憑いていると思っている者は、他人にも狸が憑いていると思っている。

常不軽菩薩が、自分の出遇(であ)ういっさいの人間に対して「われ深くなんじを敬う」ということができ、褒めてあげた人から逆に擲(なぐ)られても、石で打たれても「われ深くなんじらを敬う」ということができたのも、要するに、自分が神であるという大自覚の上に立っていられたからであります。・・・

※増上慢・・・まだ最上の法および悟りを得ていないのに、得たと思ってたかぶること。(頭注より)


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