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Web誌友会 板/2

1517ユタカ:2013/05/30(木) 20:24:08 ID:R1D4Jmeg
志恩さま

応援を有難うございます。

観世音菩薩の北の将軍の事ですが、教義上はそうなるのではないですか・・・。

一応、何かを教えてくれているのではないでしょうか? それは、志恩さん個人だけでなく、政府や全国民と広い何か共通範囲ではないかな?と私は思いますが?ですが、どこかの大宗教家ならそういう大自覚があっても良いけど、主婦の志恩さんがそこまで思わなくても大丈夫ではないのですか?そこまで反省に至らなくても・・・・
と私は思います。。。

1518志恩:2013/05/30(木) 20:45:19 ID:.QY5jUA6
ユタカ様

お言葉、ありがとうございます。
雅春先生や復興G様でいらっしゃると、そのぐらいの高尚な宗教的ご自覚があられるのでしょうけれど、

私は、どうしても、北朝鮮の将軍様の合わせ鏡には、なりたくないのです。
ワイロももらっている悪い政治家の合わせ鏡にもなりたくありません。

別の例をあげれば
例えば、どこかのイトーヨーカー堂へ買物いったとしましたら、ふと、みると、
どこかのおばさんが、万引きしている。見たくない現場を目撃してしまった。

そういう場合、それは、私の責任だとは、私には、
どうしても思えないのです。

それは、そのおばさんの、個人の責任であり、
そのおばさん個人の、あってはならない できごごろ じゃないでしょうか。

その様な,世界中の ことごとくの 他人の悪事まで、
いちいち私の責任にされましたら、私は身がいくつあっても足りない様な、重い気分に
なるのです。

私は,その意味では、全然、悟っていない人間だと思います。

1519ユタカ:2013/05/30(木) 21:32:35 ID:R1D4Jmeg
目撃して、通報をしなかったら、志恩さんは責任を感じてもいいかも知れませんが、その場合通報をしてあげるとまた運命が変わるのではないでしょうか?

思わず、雨が降ったら傘をさすって頭に浮かびました・・・

1520goro:2013/05/30(木) 23:46:09 ID:8BFF/5aQ

志恩様

御無沙汰していました。
もう二度と醜い争いを引き起こしたくないと思い、書き込みを自粛していましたが、
本日8時前に本部へ参り、最後の御神像を目に焼き付けようと
見て参りましたので報告しようと思い、出て参りました。

学ぶ会の方々でしょうか、40人ほどの人たちが8時前から聖経読誦されていました。
足場が組まれ、黄色の毛布らしきものに、御顔、光背、左腕、胸部と包まれました。
この間5時間くらいでしたが、残念ながら所用のため午後1時頃帰途につきました。
クレ−ン車に吊り下げられトラックに積み込まれる様子は「光明掲示板」に詳しく出ています。
本部に依る御神像動座の儀式は何もなく、イキナリ作業が始まって本当に痛ましい光景でした。

復興G様のお説の通り全ての出来事は自分の心の顕れであるという事は正論でしょうが、
凄まじい「覚悟」と完全なる「一切者の自覚」が必要でありますから、簡単に言える言葉ではないような気がします。

 落語家「4代目 柳亭痴楽」の、
「郵便ポストが赤いのも、電信柱が高いのも、彼女の鼻が低いのも、み〜んな痴楽が悪いのよ」で、
笑い飛ばせるような気楽な話ではありませんので、口に出すことは恐ろしいです。

 最近「シルバーバーチの霊言」を読んでいますが、以下紹介します。

 知識は本来人間を尊大にするものではなく謙虚にするものです。
 知れば知るほどまだまだその先に知るべきものがあることを自覚させるからです。
 尊大にさせるのはむしろ無知の方です。知らないから生意気が言えるのです。
 最高の知識人はみな謙虚でした。知れば知るほど、知らないことが多いことを思い知らされるからです。

 わたしたちへ向けて軽蔑と嘲笑の指をさす人たちは、頭の中に何もない、無知で身を固めた人たちです。
 知識を求め、新しい真理をよろこんで受け入れる素直な魂には、霊の力が感動を及ぼすことができます。
 そういう素地ができているからです。大霊の使徒として、その知識と叡智と力と意志とを地上に
 もたらすことに心を砕いているわたしたちにとっては、そういう人こそ役に立つ人材なのです。

志恩さまは正直で裏表のない真っ直ぐな人ですから、応援しています。
書き込みはしなくても時々掲示板を覗き志恩さまの意見を見ては心底納得しています。

1521ユタカ:2013/05/31(金) 00:45:00 ID:R1D4Jmeg
復興Gさま みなさま

>>1454 a hopeさまの質問で沢庵和尚とのつながりがよく分かりません。

この沢庵和尚で復興G様が何を伝えたかったのかが、分かりません。。。

みなさま、復興Gさまが忙しそうなので、分かる方がいらっしゃいましたら、ユタカにご教授ください。。。。

志恩さま、横切ってすみません。。。。。

1522ユタカ:2013/05/31(金) 01:00:50 ID:R1D4Jmeg
何度読んでも、むずかしい。 禅問答と實生活は別であるが、生活に禅が入ってくると實生活がつらつら上手くいく??

ってもーーーーどうしたらいいのだろうか?? 読み方が間違えているのかな???

1523神の子さん:2013/05/31(金) 01:19:53 ID:nYL5yFzs

昔、私はスマートだから、雨と雨の間を歩けるのよと、意気込んでいました。
沢庵禅師は、ずぶ濡れの中、神想観をされていたのですね。
「禅」を「神」、「禅の生活」を「神の子の生活」と置き換えて読んでみました。

1524神の子さん:2013/05/31(金) 01:35:57 ID:SgzkpbKc

「お腹がすけば、ご飯を食べなさい。ミサイルがどこやらから、飛んで来るならば、適切に対処できる手段や情報を仕入れなさい。その実際生活の中で、神を観じ神の子の生活を生きる時に、自ずから光輝く神の世界が展開する」

ということかと、勝手に個人的な解釈をしていました。

1525神の子さん:2013/05/31(金) 02:15:21 ID:VYVSpdT.

>>1459のご文章を拝読して思うのは

「お腹がすいた」しかし「実相独在だから食べずに生きられる」は、対立であり、実相独在という言葉に引っ掛かって、いくらでも腹を空かせずにいる方法はあるのに、「実相独在」という言葉に引っ掛かって、自由自在を失ってしまった…そこに、実相独在なる展開はない。実相独在とはいえ、腹がすいてしまうんだ

「お腹がすいた」ならば「適切にご飯を食べよう」は調和であるということではないかと、思いました。
復興G様の、>>1459も大変勉強になりました。

1526髪の子:2013/05/31(金) 02:35:42 ID:xOsRIjpM
すみません。上の3つは髪の子です。
現象処理の中に、神の御心の展開あるのですね。現象はない。しかし
この現象生活の中で、神を観じることで、魂=霊が磨かれて、神=善=禅=全が展開し、実相顕現していきますものね。

1527こんにちは:2013/05/31(金) 05:09:59 ID:WncVVViE
>>1521
>>1522 ユタカ様
復興G様がお答えになるのが一番間違いないと思いますが、私なりに解釈いたしました。

>>1420でのa hope様のお話
<<「日本国の実相はすでに完全円満なんですから、何もわたしたち信徒がそれを顕現させるために、現象の運動をする必要なんてないんですよね!」
わたしは、生長の家の『実相独在』とは、そういう事だと思っています。
真に『実相独在』を信じ切れば、ご飯を食べなくても生きられるだろうし、ミサイルもそれると思います。
だって、そういう奇蹟の数々のお話が「生命の實相」に山ほど紹介されていますし、それが、真の「生長の家の教え」なんだと思います。>>

これは、実相独在を生活に生きるという立場からのご発言であります。言い換えれば、絶対善の生活であります。
しかし、このご発言には「立場」へのこだわりがあります。

これについて、谷口雅春先生は、
「……絶対善の生活をしようと思ったならば、すべての「立場」を捨てなければならない。「善」という立場すらも捨てて、「そのまま」にならなければならない。」
(『新版 真理』第3巻 p.262)
と、復興Gさまは引用してご指導くださいました。

谷口雅春先生はその具体的なお話として、「沢庵禅師と柳生但馬守」のエピソードを用いて説明しています。

>>1455「・・・雨にも少しも濡れないでこの庭を歩くことが出来ますか」

この沢庵禅師の問答に対して、
1. 柳生但馬守は、剣の技術で雨に濡れず歩こうとした。
2. 沢庵禅師は、実相独在の立場から雨に濡れていないことを示した。
3. 谷口雅春先生は、構える心なしにスラスラと何事も運ぶ「当り前の生活」を示された。

谷口雅春先生は、沢庵禅師の答えについてこう述べています。
「一応、禅の問答ではそれでよいとしましても、日常生活の上では、「雨に濡れないで歩いて見よ」と云われて、雨に着物や肉体が現に濡れていながら、「濡れないでいる」と頑張ることは無理で、これでは、吾々の日常生活が成立ちません。」
(『新版 真理』第3巻)

そしてさらに、こう喝破されています。
「実相人間は病まないものだ」とわかりましても、現に肉体に病気をあらわしておりましたら、その悟りは、生悟りでありまして、「人間は病まない」と云う自覚が、形にあらわれるほど強く深くなっていないと云うことになります。」
(同書。以下の引用も同じ)

沢庵禅師のお話は、実相が生活に生きていない生悟りだということですね。
それでは、実相が生活に生きるとはどういうことか?
谷口雅春先生曰く
「雨が降ったら傘を縕(さ)す」

奇跡でも何でもない。当たり前です。
「弾丸の雨の中に立っていても平気だ」ということが、実相の生活ということではない。
沢庵禅師のように実相(永遠に弾に当たらぬ私)にこだわると、実際には弾丸に当たって死ぬことになるでしょう。
(つづく)

1528こんにちは:2013/05/31(金) 05:11:02 ID:WncVVViE
(つづき)
これを、谷口雅春先生はこう説明されています。
『「生長の家の生活」と云うのは当り前の生活を当り前にすることなのであります。』
『雨に濡れていながら、「実相の人間は濡れていないのじゃ」と頑張って見たりするのが、「禅の生活」ではないのであります。』
禅の生活とは、実相独在を生きることでしょう。

『「禅」と云うものが、実際生活の中に入り込んで来ますと、実際生活が何の矛盾も摩擦もなく、構える心なしにスラスラと何事も運ぶようになるのであります。』
つまり、構える心がなくなる。
『「善」という立場すらも捨てて、「そのまま」になる』ということでしょう。
実相という立場をも捨てよ、と。

谷口雅春先生は、
『「そのまま」は、もう善悪の立場を超えて、絶対と「一つ」になっているのであります。』とおっしゃいます。
本当に実相独在に立てば、実相と自分が完全にひとつだから、もはや実相はどこにもない。
自分のそのままの生活が、何でもない暮らしが、そのまま実相なのであります。
「これが実相、これが実相」と握り締めることが無くなり、自然体になる、ということでしょう。

これを、>>1458『平常の心が其のまま「道」である』と説明されています。

さらに、>>1459『「構える心」は「対立の心」である』として、実相独在にこだわる心と、あらゆる立場を捨て去った心について説明されています。
立場を捨て去った心のことを、「これを円融無礙(えんゆうむげ)と云います。」とも説明されています。

これらの説明をふまえて、
>>1463『というわけで、「雨が降ったら傘を縕(さ)す」ように、闘争精神がある中で平和を得るには、「力のバランス」という傘をさす。』
『雅春先生は、現象の悪を認め、「生長の家の教え」から外れることをされた、ということにはならないのではないかと、私は思います』
という復興G様のご指導につながるのだと思います。

要は、「当たり前の判断をして生活しなさい、それが実相を生きることですよ」ということですね。
腹が減ったら飯を食う。
眠くなったら布団に入る。
盗人がウロウロしていれば鍵をかける。
それが禅の生活である。

思うに、感謝も、愛も、礼拝も、無限力も、生かし合いも、健康も、人間の当たり前の姿の一面相です。
しかし、一面相にこだわると、それはもう実相じゃない。
実相は、どんな姿も立場も超えて自由自在である。
それは当たり前を生きることである。
そういうことなのではないでしょうか?

余談ですが、これは「総裁への中心帰一とは何か」にも通じるお話ですね。

私自身、自分でじっくりと解釈してみて、初めて理解できました。ユタカ様のおかげです。
ありがとうございました。
復興G様のご指導は素晴らしいですね。

1529志恩:2013/05/31(金) 06:07:03 ID:.QY5jUA6
ユタカ様

>>1519 :ユタカ:2013/05/30(木) 21:32:35
目撃して、通報をしなかったら、志恩さんは責任を感じてもいいかも知れませんが、
その場合通報をしてあげるとまた運命が変わるのではないでしょうか?
思わず、雨が降ったら傘をさすって頭に浮かびました・・・ <<

それは大部前のことでした。忘れもしません
実際に私が体験したことなんです。
隣町にあるイトーヨーカ堂の2階の服売り場での出来事。
その日は、2階売り場は がら空きで 客が4、5人しか居なかった。

そのとき、私が店内を歩いて行くと、あるところで、どこかのおばさんが、
ご自分の大きな手提げ布袋に、
何着も服を詰め込んでいる現場を目撃しました。
それが、手慣れた感じで平気な顔してやってるの。きっと常習犯だったのかもしれません。

辺りを見回すと店員は、そこの位置から かなり離れたキャシュコーナーに
若い店員でしたが、2人居ました。
もちろん、私は、急いでそこへ行き「あのおばさんが…いま…」と、通報しました。

ところが、驚いたことに、その2人の店員は、私が通報したのにもかかわらず、
(その犯人のおばさんが、まだ2階の店内に居るにもかかわらず、)
聞かなかったふりをして、なにもしなかったのです。
そんな煩わしい事に、自分達は関わりたくない という感じでした。

私は、どちらかというと正義感の強い人間なものですから、
万引きの現場を目撃したことよりも、
店員が2人揃って、私の通報を 無視して聞かなかったことにした、
その信じられない態度の方が、一層 ショックを感じまして、
いまだに鮮明にそのときのことを覚えているのです。

いうまでもありませんが、私はたえず神様と共にあり、私は万引き、大嫌いな人間なので、
万引きは一度も したことはありません。

1530志恩:2013/05/31(金) 06:45:31 ID:.QY5jUA6
goro様

最近、お見えにならないので、どうしておられるかしら…と、
時折、思い出しておりました。

まあ!!goroさま、
昨日は、ご神像のところまで、わざわざいらして下さったのですね。
ありがとうございました。よく、いらして下さいました。
ご報告、心から感謝申し上げます。光明掲示板の方も閲覧させて頂きました。

goro様のコメント〜

>>本日(注:昨日になる)8時前に本部へ参り、最後の御神像を目に焼き付けようと
見て参りましたので報告しようと思い、出て参りました。

学ぶ会の方々でしょうか、40人ほどの人たちが8時前から聖経読誦されていました。
足場が組まれ、黄色の毛布らしきものに、御顔、光背、左腕、胸部と包まれました。
この間5時間くらいでしたが、残念ながら所用のため午後1時頃帰途につきました。
クレ−ン車に吊り下げられトラックに積み込まれる様子は「光明掲示板」に詳しく出ています。
本部に依る御神像動座の儀式は何もなく、イキナリ作業が始まって本当に痛ましい光景でした。<<

私は、本部のご神像は、昔、本部に奉職していたこともありますので、
特別に思い入れが深いので、脱力感でいまはなにも言いたくないのですけれど、
学ぶ会の方々ですか、40人も集まられて、聖経読誦されたということは、唯一の救いのような有り難い
気持ちにさせて頂いております。合掌

つづけて〜
>>復興G様のお説の通り全ての出来事は自分の心の顕れであるという事は正論でしょうが、
凄まじい「覚悟」と完全なる「一切者の自覚」が必要でありますから、簡単に言える言葉ではないような気がします。

 落語家「4代目 柳亭痴楽」の、
「郵便ポストが赤いのも、電信柱が高いのも、彼女の鼻が低いのも、み〜んな痴楽が悪いのよ」で、
笑い飛ばせるような気楽な話ではありませんので、口に出すことは恐ろしいです。」<<

そして、goro様は、 最近「シルバーバーチの霊言」を読んでいらっしゃるそうで、
内容 のご紹介もありがとうございます。

シルバーバーチの著書は、私もだいすきなので、読んでおりますが、
フレッシュな気持ちになれますね。

 goro様が引用されたシルバーバーチの言葉〜

 >>知識は本来人間を尊大にするものではなく謙虚にするものです。
 知れば知るほどまだまだその先に知るべきものがあることを自覚させるからです。
 尊大にさせるのはむしろ無知の方です。知らないから生意気が言えるのです。
 最高の知識人はみな謙虚でした。知れば知るほど、知らないことが多いことを思い知らされるからです。

 わたしたちへ向けて軽蔑と嘲笑の指をさす人たちは、頭の中に何もない、無知で身を固めた人たちです。
 知識を求め、新しい真理をよろこんで受け入れる素直な魂には、霊の力が感動を及ぼすことができます。
 そういう素地ができているからです。大霊の使徒として、その知識と叡智と力と意志とを地上に
 もたらすことに心を砕いているわたしたちにとっては、そういう人こそ役に立つ人材なのです。<<

私へのあたたかなお言葉も感謝いたします。
ここへ出られれば,意見の食い違いで論議することもありますけれど、
懲りずに また、是非、書き込んで下さいませね。

1531ユタカ:2013/05/31(金) 06:54:03 ID:R1D4Jmeg
こんにちはさま、ありがとうございます、おはようございます。

ありがとうございます、長いため息が出て、ホーーーっと脱力して、大安心の心境になったのと同時にもっと真理を知りたいとも意欲もでました!!

私は今まで、実相は『善』と絶対の善と固定して考え、そこから離れずにいようと自力で力んでいました、神想観後など、実際自分の行動が神と一体になっているのかすごく不安があり、神想観の時は神の子、眼を開けたら神の子ではない自分もいるかも・・・の不安の世界でしたが、こんにちはさまの復興Gさまのご指導のご解説によって

そのままでいいのだ!!! と分かったら、今までの自分はなんだったのか?? 実相も捨てよ!!! でいいんだ!!! わぁ〜〜〜〜〜楽になったぁ〜〜〜!!! 有難うございます!!! と嬉しくなり、安心できたのでとても楽になりました!! 感謝、感謝、感激でありがとうございます。

復興Gさまの伝えたい大事なことが良く分かって、これから、安心して生活できそうです。

もう一度、原文とこんにちはさまのご解説をじっくり読んで、済度勉強します。

こんにちはさま、私は、とても安心できましたし、眼が開けた気分です。 本当にありがとうございました。

そして、深く深く先へ先へとお導き下さる復興Gさま、本当にありがとうございました。 トキ様のおかげです、本当にありがとうございます。

みなさま、本当にありがとうございます。。。 感謝、合掌 これからもよろしくおねがいします。

今日から、私は本当の神の子だ!!

1532志恩:2013/05/31(金) 07:13:15 ID:.QY5jUA6
ユタカ様がおっしゃるように、
私もこんにちわ様が,復興G様のご文章を分り易く解説して下さったので、
「そのままでいいのだ!」という事を,分らせて頂きまして、
心にやすらぎがひろがり、楽な気持ちになれました。

復興G様、こんにちわ様、ユタカ様、ありがとうございます。

1533神の子さん:2013/05/31(金) 09:34:29 ID:R1D4Jmeg
最近は、裁判のことで、皆様のご発言が活発になり、それで、公案のようなみんなで考えて意見をいうのもよさそうなご意見の文章を転載します。
みなさまで、今話し合うのにちょうど、良いような気がしますが、如何でしょうか??

>>本流対策室/5
1417 :髪の子:2013/05/31(金) 03:11:32 ID:mFi83bdA
Web誌友会板では、ユタカ様のご発言や皆さまのご発言に勉強させて貰ってありがとうございます。
Web誌友会板に続いて投稿すると、話がそれますので、こちらに以下投稿させてもらいます。

Web誌友会板で聖典を拝読させてもらいながら、一連の教団と社会事業団の裁判のことが、頭を横切りました。

社会事業団は、著作権料を支払われなかった為に、適切な手段で教団や教文社サイドに交渉してきました。このことは、対立ではなく調和の行動だと思います。

しかし教団サイドはその交渉に対し、満足な対処がなく、裁判となったわけです。

「実相完全円満だから争いはいけない」という言葉や、「和解だ」という感情に引っ掛かかり、調和なる裁判という手段を選ばなかったならば、対立感情剥き出し状態で、何一つ進展しなかったのではないでしょうか。
「実相独在だから、ただ祈っていればいいんだ。相手は自分の鏡だ」は、実相独在の言葉にとらわれ引っ掛かった、対立感情ではないでしょうか。

もちろん祈りも大切です。しかしそこに調和なる行動が伴わない祈りは、虚しいものと化します。

今回の社会事業団勝訴の結果は、現象において裁判という調和なる手段をとり、常に神の御心を観じ展開なされた結果でもあるな〜と思いました。

裁判=争い=対立と勘違いする方もいらっしゃるでしょうが、裁判=調和の手段であることを、復興G様の謹写のご文章の中に感じました。


と、あります。。  私、ユタカはそのままでいい!!とこんにちは様から先ほど教えていただいてすっきりしていたのが、また、分からなくなりかけました。

皆さんは、『そのままでいい』をどのように考えますか?? よろしければ、ご発言を自由になさってください。

ただし、私は初心者なので、みなさんのご意見をまとめる能力はありませんがよろしくおねがいいたします。

1534a hope:2013/05/31(金) 09:49:15 ID:edEDolt2
みなさま おはようございます。

ものすごい勢いで真理のお勉強が続いていて、みなさまのご投稿内容の一つ一つがとても深い内容なので、
あまり焦らずに自分の中ですぐに答えを出してしまわないように、しっかり精読していこうと思っています。


今朝、まだベッドの中でウトウトしているときに、自分が中学生の時に歌った歌を思い出していました。
それは、「勇気ひとつを友にして」という歌で、それはギリシャ神話に出てくるイカロスという青年が、
閉じ込められた塔から脱出するために鳥の羽を蝋でつなぎ固め、脱出に成功するのですが、父親のアドバイスを忘れ(聞かず?)、
高く飛び過ぎてしまったため、結局は、墜落死してしまったという内容の神話を歌にしたものです。

http://www.youtube.com/watch?v=Mcb4lK8RGLs

最後の歌詞は「僕らは強く生きていく、勇気ひとつを友にして」で終わっていて、その愚かなイカロスの行為を讃えているようにも感じます。
ですが、わたしは、当時その歌を歌ったり聴いたりするたびに、とても切なくむなしい気持ちになっていました。

偽物の翼では本当に飛べたことにはならないのに、イカロスは自分が本当に飛べるようになったと錯覚したのだと思います。
だから、墜落してしまった。

もしかしたら「実相の悟りというのも、そういうものなのではないのかかな〜」なんて感じました。
谷口雅春先生は、「真にに実相独在を悟られていた」だから、何物にもこだわらず、神の御心と一つになることができたのではないか・・・。

そんなことを、ウトウトと考えていました。

引き続き、web誌友会の内容をお勉強していきます。
みなさまの、素晴らしい投稿内容に感動しています。

感謝 合掌

1535ユタカ:2013/05/31(金) 09:53:14 ID:R1D4Jmeg
1533はユタカです。

髪の子さん、勉強の材料になりそうなので、勝手にご文章を転載いたしましたがどうか、ご許可ください。

神様からの公案のような気がして・・・・

1536復興G:2013/05/31(金) 14:05:14 ID:AB6RqYXc

皆様

ありがとうございます。

私は昨夜は出かけておりまして、帰って来たらもう眠くなってどうしようもなく、寝てしまいました。

今日、PCを開いて見たら、何と素晴らしい!

ユタカ様の素直な真剣なご質問に、こんにちは様が誠心誠意、的確なお答えをしてくださっており、goro様、志恩様、神の子(髪の子)様などの活発なご投稿もあったりして充実した研鑽がなされていることに、とても感動しております。

ユタカ様、こんにちは様、皆々様、本当にありがとうございます。ただ感謝でいっぱいであります。

>>1516 :ユタカ様。

「自分が観世音菩薩である」ということから「蓮華日宝王地観」がひらめいたというのは、すばらしい!

私も、蓮華日宝王地観が大好きで、毎日もっぱらこの神想観をしていた時がありました。それを思い出して、今朝は「蓮華日宝王地観」の神想観をしました。

そして、「われ観世音菩薩」と念ずるときに、「われ」とは、肉体の自分はないのだから、この掲示板上に投稿してくださっている皆様はみな自分であると思い、皆様が観世音菩薩であり、皆様に大日輪の霊気が、大日輪の智慧が、愛が、生命が流れ入る、流れ入る……と念じさせて頂きました。

谷口雅春先生は『詳説神想観』で、次のようにご教示くださっています。

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

     蓮華日宝王地観

 蓮華日宝王地(れんげにっぽうおうち)とは、これは「華厳経(けごんぎょう)」に書いてある言葉でありまして、釈尊の仰せられるには、この世界すなわち宇宙は蓮華蔵(れんげぞう)世界であって、内に蓮華の理念を蔵し、それが展開する世界だというのであります。

 蓮華の花を御覧になりますと、花弁があらゆる方角に展開し、その中心座に、ハチスといって蜂の「巣」のような子房(しぼう)があるのであります。これは中心座に巣(統、スの言葉――五十音を統一すればスの一音となる)があって、そこから現象のハナビラが八方に展開していることを象徴している。

 その中心になるスの世界は金剛(こんごう)の日の宝地(ほうち)であって、破壊し得ないという意味が「蓮華日宝王地」であります。これが実相の世界であります。
 その実相世界を観ずるのが「蓮華日宝王地観」であります。

 まず瞑目合掌して、「吾れ今五官の世界を去って、吾が身を観ずるに、吾が身はこのまま観世音菩薩なり、吾れ観世音菩薩、五蘊皆空(ごうんかいくう)と照見(しょうけん=智慧の光で照らして見る)す。」こういうふうに唱えて、そして、自分自身が観世音菩薩であって、その自分が深般若波羅蜜多(じんはんにゃはらみた)(=神想観)を行ずるつもりになり、

 五蘊皆空(五蘊――「蘊(うん)」というのは“かさなる”という意味の字。“波動”という意味もあります。五蘊というのは、この「波動」が重なって色(しき)、受(じゅ)、想(そう)、行(ぎょう)、識(しき)のモヤモヤのかさなりができているのを言うのであります。「色」とは波によって現われている形象、つまり物質。「受」はこれを感受する五官、「想」は心の想い、「行」は意志によって行ずる働き、「識」はこれらの心の働きを統一する統一意識です。)――物質も心も、ありとあらゆるものが無いと観ずるのであります。

 それには「吾れ観世音菩薩、五蘊皆空と照見す、物質はない、物質はない、物質はない、肉体はない、肉体はない」と、心に繰返し唱えまして、その次には「心もない、心もない、心もない」とずーっと念ずるのです。そして、物質も肉体も心もなんにもなくなった実感を喚(よ)び起して、その次に虚空(こくう)中に「宇宙大の大日輪(だいにちりん)」が浮んでいる光景をじっと心に思い浮べるのです。
<つづく>

1537復興G:2013/05/31(金) 14:06:13 ID:AB6RqYXc

<つづき>
 「宇宙大の大日輪」――日輪というのは太陽ですが、肉眼で見る太陽は現象でありますが、太陽の実相は虚空に満ちている「大生命体」であります。それを観ずるのであります。目の裡(うち)に、宇宙大の大日輪が充ち満ちておる光景を心に描き、その中央部に千葉(せんよう=千の花びら)の蓮(はちす)の花が浮んでおり、それが蓮華(れんげ)の台座となって、その上に観世音菩薩が坐っている光景を心に描いてじっと観ずるのであります。

 蓮華の台座の上に坐したまう観世音菩薩を心の眼に思い浮べて、そしてじっとそれをみつめまして、その観世音菩薩が、自分にじっと近接(ちかづ)いてきて、自分と一体になった感じを起すのです。そして我れ観世音菩薩なり、とこう観ずるわけであります。

 これを観ずる場合に、以上のような光景の観世音菩薩像を一間半ばかり距(はな)れた位置に掛けてそれを眼を半眼にひらいて見詰めながら精神統一に入り、やがて眼をとじてその観世音菩薩と一体になった感じを起されるのもよろしいのです。
 宇治市の生長の家練成道場の「祈りの間」には、有留弘泰(ありとめひろやす)氏の筆になる、大日輪中の蓮華の台座に坐したまう観世音菩薩像が掛けてありますが、あの前に正坐して、しばらくジッと観世音菩薩像を眺め、じっとみつめながら、その観世音菩薩は自分であって、自分自身が観世音菩薩であると観ずるのです。

 大日輪の霊気が自分に流れ入って、自分を生かしつつあるのであるとこう観じまして、静かに息を吸いながら「大日輪に生かされている、生かされている」と繰返して、

 「我れ大日輪の智慧なり、我れ大日輪の愛なり、我れ大日輪の生命なり、一切のもの我れに備わり、意(こころ)に従って集り来たり、用足りて自(おのず)から去る」と念ずるのであります。これは「般若心経」の観世音菩薩が深般若波羅蜜多の行法において、五蘊皆空と観ぜられたやり方を、近代化して、「蓮華日宝王地観」という神想観としてここに説明してあるのであります。

 次の如くお念じ下さい。

 『吾れ、今、五官の世界を去って、普(あまね)く吾が全身を観ずるに、この身このまま観世音菩薩なり。』

 こう念じて自分の全身が観世音菩薩であると観じます。

 自分を観世音菩薩と何故観じてもよいかと言うと、観世音は一定の形ある菩薩ではない。世の中の音を観じてその音の通りに現われ給う観自在の原理であり、その観自在の原理は各人におのおの豊かに備わっているからであります。

  『吾れ観世音菩薩、五蘊皆空と照見し、一切の苦厄を度す。
  物質はない、物質はない、物質はない……
  肉体はない、肉体はない、肉体はない……
  心もない、心もない、心もない……』

 じっとこう何回でも繰返して五蘊上に浮ぶ迷妄世界をすべて否定し去ります。物質も、肉体も、心も、そしてかく観ずる心も、ことごとく空(くう)じ去った世界に入ってしまって、

 『虚空中に宇宙大の大日輪浮ぶ。光明遍照実相世界ここなり』

 と念じて、見渡すかぎり明るい大日輪が宇宙一杯に充満している有様を観じ、そしてその大日輪中に千葉(せんよう)の蓮華が開いて浮んでいる有様をじっと観じて、

 『ここ蓮華蔵世界なり』

 と念じてその蓮華の台座の上に観世音菩薩坐し給う有様を見詰めて、

 『この菩薩は自分自身なり』

 と観じ、静かなる呼吸と共に、

 『大日輪の智慧吾れに流れ入る、流れ入る……
  大日輪の愛吾れに流れ入る、流れ入る……
  大日輪の生命吾れに流れ入る、流れ入る……
  吾れ大日輪の智慧なり。吾れ大日輪の愛なり。吾れ大日輪の生命なり。
  一切のもの吾れに備わり、意(こころ)に随(したが)って集り来たり、用足りて自から去る』

 と繰返し念じつつ自分が観世音菩薩で大日輪中に浮んでおり、大日輪の智慧、愛、生命が自分に流れ入る様を観ずるのであります。
<つづく>

1538復興G:2013/05/31(金) 14:07:10 ID:AB6RqYXc

<つづき>
       ○

「吾れ観世音菩薩、五蘊皆空と照見し一切の苦厄を度す。
物質はない、物質はない、物質はない……
肉体はない、肉体はない、肉体はない……
心もない、心もない、心もない……」

 と念ずる意味について、谷口雅春先生は『真佛教の把握』というご著書の「『般若心経』講義」の中で、次のようにご教示くださっています。

 ≪五蘊皆空と照見すれば「一切の苦厄を度(ど)す」ことができるのです。一切即ちすべての苦しみや災難をみな度(たす)けることができるというわけであります。

 そんなことで何故救かるかというと、「物質がある」と思ったり「心がある」と思って居ったならば、我々はそれにひっかかって、一切の苦厄からまぬがれることが出来ないからであります。「物質はない、肉体はない」という大真理を直観の智慧によって照らして見た時に、はじめて、一切の苦しみ悩みというものが、根拠のない妄想の上に築かれたものに過ぎないということがわかって、それから解放され、救われると、こういうことになるのであります。≫

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 さて、私は昨夜どこへ行っていたかというと、私の住んでいる地域の合唱団の練習に行っていたんです。

 そこで歌ってきた合唱曲の一つに、「ひとつの朝」というのがありました。この歌のことは、以前にも書いたことがあると思って調べてみましたら、ありました。昨年11月に、web誌友会板(1)の #1611〜に書いていました。

 大分前のことなので、もう一度その歌詞を貼付けさせていただきましょう。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

     「ひ と つ の 朝」

            片岡 輝 作詞
            平吉 毅州 作曲

  今 目の前に ひとつの朝
  まぶしい光の 洪水に
  世界が 世界が しずまないうちに
  さあ 方舟(はこぶね)に乗って 旅立とう
  あのノア達のように 旅立とう

  たとえば 涙に 別れること
  たとえば 勇気と 知り合うこと
  たとえば 愛を 語ること
  時には 孤独と 向き合うこと
  旅立ちは 旅立ちは 旅立ちは いくつもの出会い

  今 目の前に ひとつの海
  逆巻く怒濤の 洪水に
  船が 船が くだけないうちに
  さあ 両腕をつばさに 飛び立とう
  あの鳥達のように 飛び立とう

  はばたけ 明日(あした)へ まだ見ぬ 大地へ
  新しい大地へ まだ見ぬ 新しい大地へ
  生きる喜びを 生きる喜びを
  広がる 自由を求めて
  広がる 自由を求めて

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

上記の歌の中に、「(ノアの)方舟(はこぶね)に乗って旅立とう」という詞が出てきますが、ノアの方舟のことは『生命の實相』第11巻万教帰一篇のp.117〜119に、次のように書かれています。

≪ノアの方舟(はこぶね)とは神の教えの船ということである。仏教でも、これを船にたとえて如来の願船とか大乗とか小乗とかいいます。ノアというのはNO・Aであります。「NO」は空であり「A」は阿字であり大日如来の本体であります。諸法は空である。「空」であるといっても、何もないということではない。諸法は空(NO)であって、同時にその空の背後に無量光、無量寿の大日如来(A――阿字)が在まして、この大日如来のみが実在である。われわれの生命は大日如来より出で、大日如来の内にあり、大日如来と一体である。この真理の真教えが「ノアの方舟」であります。すなわち「生長の家」の教えはちょうどこの「ノアの方舟」に当たるのであります。≫

と。
<つづく>

1539復興G:2013/05/31(金) 14:07:51 ID:AB6RqYXc

<つづき>
だから、

「さあ 方舟(はこぶね)に乗って 旅立とう あのノアたちのように 旅立とう」

というのは、生長の家の説く大乗の真理の教えの船に乗って、大調和の世界へ旅立とう、ということなんだと思い、嬉しくなって、腹の底から湧き出る声で歌って来たのでありました。

「今、 目の前に ひとつの朝」 が来ている。

「物質はない。肉体はない。現象に引っかかって悩む心もない。ただあるのは神のみこころのみ。」

として、

  はばたけ 明日(あした)へ まだ見ぬ 大地へ
  ……
  広がる 自由を求めて
  広がる 自由を求めて!

その「自由」とは、時空を超えた真の自由、「神の子」の自由である。

「汝は真理を知らざるべからず。真理は汝に自由を得さすべし」

とイエスが言った自由。

「縛られていても自由自在」と「智慧の言葉」にある自由。

円融無礙(えんゆうむげ)、雨が降ったら傘を縕(さ)す。「剣」にとらわれず、「坐禅」にとらわれず、ありとあらゆる「全体一つ」のなかから最も適当なものを自由自在に選び出して来て、それを使う自由。

「妖雲羃々(よううんべきべき)と空を覆うことがあっても、その上には常に蒼空(あおぞら)があるのと同じように、如何に暗澹たる状態が現象的にあらわれてこようとも、その状態に対して心を動ずることはないのである。

 心を動ずることがないから、何らの対策をも講じないのかというと、決してそうではないのである。心を動ずることがないから、最も適切なる智慧が泉の如く湧き出でて暗を消してしまう処置ができる」
 (真理の吟唱「天地一切と和解する祈り」)

広がる自由を求め、真の自由を駆使して、

新しい大地へ、
はばたけ 明日(あした)へ!

ありがとうございます。

1540復興G:2013/05/31(金) 14:33:58 ID:AB6RqYXc

>>1533>>1535 :ユタカ様。

ありがとうございます。

また、時宜に適った、よき問題提起をしてくださって、本当にありがとうございます。

私の>>1536>>1539 投稿は、ユタカさんの上記問題提起文を見ないで書いていました。

これからじっくり拝読して、お答えしたいと思います。

まだ昼食も食べていないので、しばらくお時間をください。

1541復興G:2013/05/31(金) 14:51:07 ID:AB6RqYXc

>>1534 :a hope 様

イカロスの歌、まるで私のために歌われているようですね。

(YouTube 見ました(聴きました))

1542復興G:2013/05/31(金) 16:27:51 ID:AB6RqYXc

>>1533>>1535 :ユタカ様。

ありがとうございます。

>>私、ユタカはそのままでいい!!とこんにちは様から先ほど教えていただいてすっきりしていたのが、また、分からなくなりかけました。 皆さんは、『そのままでいい』をどのように考えますか??<<

よい質問を出して下さいましたね。

私がお答えするよりも、まずは広く皆様のお考えをお聞きする方がよろしいかと思いますが、ちょっとユタカ様に質問します。

「そのままでいい!!とこんにちは様から先ほど教えていただいて……」

というのは、>>1490でこんにちは様が

>>思うに、谷口雅春先生は、現象上のアレコレにとらわれていなかったのでしょうね。だから、思いっきり日本の危機を叫ぶことができたんだと思います。どんなに悪と対峙しているように見えようとも、実相は円満完全である。そして、現象はない。それがハッキリ分かっていらっしゃったから、「日本の悪と対峙するのは迷いではないか?」というツマラヌこだわりから解放されていたのでしょうね。
今の私は、実相を悟ったがゆえの自由さを、伸びやかさを、政治運動する谷口雅春先生から感じます。<<

と書かれたところを、ユタカ様は
>> そのままでいい!! とこんにちは様から教えていただいた <<

と受けとられたのでしょうと思いましたが、それで間違いないでしょうか? ユタカ様。

1543ユタカ:2013/05/31(金) 16:43:10 ID:R1D4Jmeg
復興Gさま おかえりなさい。 みなさんにいろいろ教えていただいていました。

私のそのままでいいとわかったのは1490にもつうじるのですね。。。よく分かりました。
あと、分からないのは、総裁の中心帰一に通じるとあったことです。 どうして総裁への中心帰一に通じるのでしょうか?
もしかして、、、ユタカは分かっていないのかも・・・・ と思いました。下記に、こんにちはさまから教えていただいた『そのままでよい』の内容はここだ!!と思ったところを貼り付けます。

>つまり、構える心がなくなる。
『「善」という立場すらも捨てて、「そのまま」になる』ということでしょう。
実相という立場をも捨てよ、と。

谷口雅春先生は、
『「そのまま」は、もう善悪の立場を超えて、絶対と「一つ」になっているのであります。』とおっしゃいます。
本当に実相独在に立てば、実相と自分が完全にひとつだから、もはや実相はどこにもない。
自分のそのままの生活が、何でもない暮らしが、そのまま実相なのであります。
「これが実相、これが実相」と握り締めることが無くなり、自然体になる、ということでしょう。

これを、>>1458『平常の心が其のまま「道」である』と説明されています。

さらに、>>1459『「構える心」は「対立の心」である』として、実相独在にこだわる心と、あらゆる立場を捨て去った心について説明されています。
立場を捨て去った心のことを、「これを円融無礙(えんゆうむげ)と云います。」とも説明されています。

これらの説明をふまえて、
>>1463『というわけで、「雨が降ったら傘を縕(さ)す」ように、闘争精神がある中で平和を得るには、「力のバランス」という傘をさす。』
『雅春先生は、現象の悪を認め、「生長の家の教え」から外れることをされた、ということにはならないのではないかと、私は思います』
という復興G様のご指導につながるのだと思います。

要は、「当たり前の判断をして生活しなさい、それが実相を生きることですよ」ということですね。
腹が減ったら飯を食う。
眠くなったら布団に入る。
盗人がウロウロしていれば鍵をかける。
それが禅の生活である。

思うに、感謝も、愛も、礼拝も、無限力も、生かし合いも、健康も、人間の当たり前の姿の一面相です。
しかし、一面相にこだわると、それはもう実相じゃない。
実相は、どんな姿も立場も超えて自由自在である。
それは当たり前を生きることである。

なので>>1542のそのままでよい と分かったと 復興G様に言われて今理解しました。(ジャンジャン)はい、眼覚めました!という心境です。

1544ユタカ:2013/05/31(金) 16:46:17 ID:R1D4Jmeg
総裁への中心帰一は全く分かりません。

そのままでいわれたことを受けて実行せよ。ということですか???

1545ユタカ:2013/05/31(金) 16:56:10 ID:R1D4Jmeg
遅くなりましたが、復興G様、観世音菩薩様の御解説を有難うございました。

夜中にゆっくり読ませていただきます、詳説なところがうれしいです。ありがとうございました。

1546髪の子:2013/05/31(金) 17:14:07 ID:tfaOOElA
>>1535ユタカ様
お気になさらないで下さい。転載くださりありがとうございます。私の投稿により、皆様の学びが深まるならば、嬉しく思います。
皆様のおかげで、大変勉強になっております。
いま時間ございませんから、また参ります。

1547ユタカ:2013/05/31(金) 17:57:06 ID:R1D4Jmeg
復興Gさま

復興Gさまは沢庵和尚のお話が(つづき)となっていたので、まだ、伝えたいことあるのではないかと思いますので、そのようでしたらお願いいたします。
そのままのこころ のつづきで 髪の子さまの解説も兼ねるのでは?と想像いたしました。

あ、それから、復興Gさまがお帰りになったので そのままがわかった! というのは、復興Gさまの掲載の文の内容が少しだけ分かった!に訂正いたします。全部分かっていないことに分かったからです。。。

1548ユタカ:2013/05/31(金) 18:12:22 ID:R1D4Jmeg
髪の子さま

お許しをありがとうございます。ここでは真理の勉強が出来てありがたいです。

髪の子さんのご発言、おもしろいですねーー。髪の子さんの「そのままの心」と谷口雅春先生の「そのままのこころ」と一致するのかな?どうかな?と思って転載してみて、みんなで話ができたらおもしろいかなと思いました。

1549ユタカ:2013/05/31(金) 18:14:42 ID:R1D4Jmeg
トキ様。

トキ様の大事なWEB板をユタカがかき混ぜてすみません。。グチャグチャだから、復興G様の言葉を保存したかったのですよね、すみません。。。。

1550トキ:2013/05/31(金) 18:49:54 ID:2/B5w8I6
>>1549

ユタカ様

 いつも素晴らしいご投稿、ありがとうございます。

 いえいえ、ここは信徒みんなの場所ですから、気にされないで下さい。神様も御照覧でしょう。
トキは単なる管理人に過ぎませんし、どんどんご利用下さい。

 それよりも、信仰の根幹にかかわる貴重なご投稿をして下さり、
心から感謝申し上げます。復興G様もおよろこびのご様子ですし、その調子で頑張って下さい。
 
 応援しています。

合掌 ありがとうございます

1551復興G:2013/05/31(金) 20:26:50 ID:AB6RqYXc

ユタカ様

質問を発しておいて、しばらくパソコンから離れ、別の仕事に没頭していました。ごめんなさい。

ユタカさんが
>>こんにちはさまから教えていただいた『そのままでよい』の内容はここだ!!と思ったところ<<

は、>>1528だったのですね。

わかりました。

出所の番号を教えて頂ければ、ああ、そうだったかとすぐにわかります。

「本当に実相独在に立てば……」と こんには 様がおっしゃるのは、
「現象はない、実相においてはすべてが一体で、すべてが自分自身なのだから、自由自在に、なんにも引っかかることなく、平常の心で、内からわき起こる思いのままが“そのまま”の心、実相の心なのだ」

だから「そのままでよい」ということになるのかなと、私は受けとっていました。

ところで、その >>1528の後の方に、

>>余談ですが、これは「総裁への中心帰一とは何か」にも通じるお話ですね。
私自身、自分でじっくりと解釈してみて、初めて理解できました。<<

と、こんにちは 様は書かれている。ユタカさんは、ここが

>>全く分かりません。<< ( >>1544

なのですね。

こんにちは 様がそう思われたのはなぜか、くわしい経緯は私にもよくわかりませんが、ただ私は、一般的に、上記のように

「現象はない、実相においてはすべてが一体で、すべてが自分自身なのだから、自由自在に、なんにも引っかかることなく、平常の心で、内からわき起こる思いのままが“そのまま”の心、実相の心なのだ。」

というところに立って行動すればよいので、必ずしも
「総裁には無条件にハイと中心歸一しなければならない」
と縛られるようなことではない。

かと言って、「そのままの心」は、すべてを本来神として拝む心だと思いますから、
「雅宣総裁は大悪人である」などとと決めつけて、融通がきかなくなってしまうことでもない。

まさに、「そのままの心」は「そのままの心」で、自由自在な自発の心である、と私は思っています。

こんにちは 様が、

>>思うに、感謝も、愛も、礼拝も、無限力も、生かし合いも、健康も、人間の当たり前の姿の一面相です。
しかし、一面相にこだわると、それはもう実相じゃない。
実相は、どんな姿も立場も超えて自由自在である。
それは当たり前を生きることである。
そういうことなのではないでしょうか?<<

>>1528でおっしゃっている通りですね。

いかがでしょうか。
ありがとうございます。

1552志恩:2013/05/31(金) 20:55:26 ID:.QY5jUA6
復興Gさま、いつもご指導を有り難く存じております。

そのままについてですけれど、
私は、実相は、大悪人ではなくても、やることが、大悪人の行為をした場合は、
その行為について、「悪いことをしましたね」と素直にいうことが、そのままの心を生きる
ことだと思います。

ahope様が、谷口雅春先生著「人生読本」の謹写をして下さってますが、

本日、私、「人生読本」を繰っていましたら77頁~78頁にかけて

「気取るな、そのままが一番よい」

という題のご文章が載っていました。以下,ご紹介させて頂きます。
---------------------------------------------------
【 気どるな、そのままが一番よい】

「無邪気といったら、どんなことだといいますと、気どらぬことです。

自分の そのまま を出すことです。

写真によく映りたいと思って固くなると、変な顔に映るでしょう。

知らぬ間にパッと写されると、かえって柔らかい優しい顔に映っているでしょう。

あの固くなるのが、素直でないのです。固くならない そのままが、無邪気でで素直なのです。

人間は「神の子」ですから、そのまま が一等よいのです。

無邪気で素直であれば、目の色から顔のかたち、動作、技芸、ものおぼえまでよくなるのです。

 そのままを、なんのこだわりもなく出すとき、

われわれの「内にある最も佳(よ)きもの」が、すらすら出るのです。

皆さん、そのままになりましょうね。

素直になりましょうね。

こだわりの無い心になりましょうね。

-----------------------------------------------------------

1555神の子さん:2013/05/31(金) 21:03:06 ID:???
山ちゃん1952様ブログより

2013年05月30日

自覚と決意がないものは言えない。

≪衆生の中には「自分自身」も含まれていまして、自分の前にあらわれる人々の姿を自分の心の姿だと観ずると自分が済度されるのであります。≫

この言葉は大変重い言葉です。そう軽々と人に諭すように言う言葉ではありません。

余程の自覚ができない限り難しいです。

こういうことを「大見得切って」いう人がいますが、それならばそれを貴方はどのようにして自覚し、行動されていますか?

そういうふうに返答された場合、答えられますか?

一切責任は我にアリなどというが、そういうこと言う人ほど「何もしない人」が多い。

それは実行が伴わないからである。私など自慢じゃないが、物欲あり、食欲あり、欲の塊である。そんな人が言っても、誰も信用してもらえない。(笑)

「嗚呼、こんな日本になって、申し訳ない」と自覚しているが、何も行動も伴わない。なにもしない。それならば、誰も思うことが出来ます。

そういうのは一切が自分の責任だと自覚できていない証拠であります。

「谷口雅宣」先生がこうなったのも「私の責任」だ。なんて「ちゃんちゃら」可笑しい。

それならば、「生長の家」の正常化まで親身を投げ出して、たとえ生長の家を辞任しても、学ぶ会に入信して、その間違いに生涯をかけられますか?

そんなこと出来ないで、常に自分を安定した椅子に座り、「私も一度は言った」んだが。

たった一度のことを鼻にかけてしゃべっているに過ぎないのです。それで「私の責任」などとよく言えたものである。

そんな「軽い」一切は我の責任などと言えない。

≪衆生の中には「自分自身」も含まれていまして、自分の前にあらわれる人々の姿を自分の心の姿だと観ずると自分が済度されるのであります。≫とは

覚悟というのが必要なのであります。

そうした覚悟のない済度は佛も応えてもらえないです。それほどに強い自覚が必要であります。

1556復興G:2013/05/31(金) 21:03:36 ID:AB6RqYXc

>>1551の追伸です。

私は、
「総裁が変わらなければ幸せになれない」

と思い込むのは、総裁の奴隷になることだと思います。

テキスト『生命の實相』第3巻第4章94頁に

≪ 現在の経済組織がいかにともあれ、また来らんとする経済組織がいかにともあれ、現実世界は心の世界の顕現でありますから、人間が生命の実相を悟らず、人間の征服欲が、人間の我欲が、人間の復讐欲が、現実世界を操っている以上は、そこに人間にとっての地上天国が実現すべき必然的理由がないのであります。≫

とありますが、この「経済組織」というのを「生長の家の教団組織」と置き換えても同じことではないかと思いますが、いかがでしょうか。

≪心を浄めて地上天国の根本基礎を築きなおし、そこからこそ社会改造にも出発しなければ、いたずらに犠牲者ばかり多くして効果は少ないのであります≫
(同書94〜95頁)

とも書かれています。

今こそ正念場であります。

「正念場」とは、
≪神の創造し給えるそのままの状態を念じますことを「正念(しょうねん)」といいまして、その正念の影が映れば現実世界は完全な病気も災難もない状態を現出するのであります。つまり「正念」とはあらゆる事物を神の造り給えるままの状態そのままに念ずることで、そういう正念をもって生活することを神に結ばれた生活というのであります。≫
 (同上書76頁)

≪“正念”というのは、「ここは正念場だ」などというでしょう。「ここが正念場だ」というのは、正念を出して来なければならないギリギリの場だ、という意味であります。≫
 (『真佛教の把握』50頁)

――こういう谷口雅春先生の御教えを真剣に学び、生活に実行するのが、本当に「谷口雅春先生を学ぶ」ということではないでしょうか。

ありがとうございます。

1557ユタカ:2013/05/31(金) 21:08:25 ID:R1D4Jmeg
復興Gさま

まだ、ゆっくり読めていませんが、こんにちはさまの出所は>>1527 >>1528です。

また、のちほど・・・

1558神の子さん:2013/05/31(金) 21:24:10 ID:???
>>1556で復興G様のおっしゃるとおりだと存じます。
「総裁が変わらなければ幸せにならない」と思い込むのは,総裁の奴隷になります。
ていうか、
総裁は、変わらないと思いますので、
復興G様はじめ、昔の大物の方々に、もともとの教えを、われわれは学び直して、
本来の生長の家の灯を灯し続ける使命があるのではないかと存じております。

ここは、全国の方々閲覧されてますので、共に学ばさせていただきます。
いつも、ありがとうございます。
================================
以下、
ひとりごと板にWEB誌友会板関係の書き込みがございましたので、転載させて頂きます。

【ひとりごと板】

3679 :rei:2013/05/30(木) 07:56:52

トキさま
おはようございます。

悲しみと喜びが一気に押し寄せて複雑な今日この頃です。
裁判結果、予期していても、信徒にとってこれほど悲しいことはありませんね。
ネットに流れていたことが本当だったのだと、確認出来てしまう一日でした。

web誌友会の可能性の素晴らしさは特筆すべきではありませんか?
講師も自宅にいらっしゃるので自分の書庫から好きな本を引っ張り出して来て
自由自在に誰の制約も受けずに講義出来る。
人目を気にせずに質問も出来る。
全国の知恵、情報が集まって来て、真面目に答えて下さる方がおられる。

独立してもいいのでは、と思えるほど素晴らしいです。
掲示板を運営して下さってるトキさまに心から感謝しております。

合掌
==============================

3683 :トキ:2013/05/31(金) 21:08:20
>>3679

rei様

 今は大変ですが、これで良くなるしかないと本気で思っています。

 私も在籍年数は長いですが、活動をしている私自身、教団の運営のあり方には疑問を感じる事が
多々ありました。これは、今の総裁が就任する前からそうでした。

 が、一度、こういう事があったら、みんな、本気で反省をすると思います。

 ミクロの視点では、こういう騒動は恥ずかしい事ですが、マクロの視点では、良い事だと
思っています。

合掌 ありがとうございます

1559トキ:2013/05/31(金) 21:25:09 ID:2/B5w8I6
>>1555

 どうも山ちゃん1952様の御文章は私はよく趣旨が理解ができないのですが、あえて、私見を申しあげます。

 吉田松陰先生は、松下村塾を開き、29歳で亡くなるまで後進のご指導に当たられました。吉田先生のお考えは
当時の幕府からしたら大変な危険思想ですが、先生御自身は温厚で、親切丁寧に若い人達の指導に当たられたよう
です。(まあ、このあたりは、山ちゃん1952様の得意分野ですが)

 吉田先生は、倒幕の計画は立てられましたが、実行の以前に捕らえられ未遂に終わっています。ですから、実行
という面では結果は遺されませんでした。それよりも、多数の若い人を指導され、その薫陶を受けた若者が後年、
明治維新をなした事を考えると、松下村塾でのご指導こそが、吉田松陰先生の最大の功績かと思います。

 一部の人達が総裁の打倒を唱えたり、裁判をする事については、私はコメントを避けますが、こういう混迷の
時期に、復興G様などの先達の方々が、正しい谷口雅春先生の教えを吾々後輩にご指導をされることは、私は
松下村塾でのご指導に匹敵する偉大なご功績であると、考えております。

 以上はトキの感想です。

合掌 ありがとうございます

1560志恩:2013/05/31(金) 21:28:12 ID:.QY5jUA6
1558:志恩です。

1561志恩:2013/05/31(金) 21:41:07 ID:.QY5jUA6
トキ様

教えていただきながら、
人それぞれの考え方が、ございますから、意見を発表し合って、
また、それにご意見や反論がありましたら、発表し合うので、
切磋琢磨して、魂の進化が得られるのだと存じます。

私は、未熟者ですので、わからないことや、そうとは思えないことは、
復興G様やトキ様の胸をお借りして、正直に書き込ませて頂いております。

不愉快に思われた場合は、遠慮なくお叱りください。

1562復興G:2013/05/31(金) 22:33:32 ID:AB6RqYXc

皆様、ありがとうございます。

今回ユタカ様の提唱で自主勉強会をされたテキストの終わりの方を、もう一度おさらいしましょう。

≪……世界の改造家がもし切実に人類を愛し、本当に地上天国をこの世に招来しようと思うならば、まず生長の家に来り地上天国の雛型たるべき各自の生命の実相を「見真」しなければならないのであります。

神の造りたまえる存在の実相に透徹し、その実相を雛型としてそれを現実世界に現わして[のみ]この世界は本当に地上天国となるのであります。

我欲や見当違いで改造改造と力んでみても、各自の心に神の子としての生命の実相が見真されていなければ、盲人の手引きで、多数の盲人を河中へ突き落とすようにエッサエッサと改造の掛け声を掛けながら、現在の人類をまた別の地上地獄へ突き落とすに違いないのであります。

心が形の雛型となる! ではまず心に自己の生命の円相を自証せよ、組織は自然に浄まるであろう。≫

  (『生命の實相』第3巻 94頁より)

ありがとうございます。

1563トキ:2013/05/31(金) 22:35:40 ID:2/B5w8I6
復興G様、素晴らしいご指導をありがとうございます。

この誌友会は多くの信徒さんにとって、貴重な学びの場です。
個人としても、信徒の一人としても、深く感謝申し上げます。

合掌 ありがとうございます

1564トキ:2013/05/31(金) 22:36:22 ID:2/B5w8I6
志恩 様

 私もまだまだ未熟です。だから、素晴らしいと勝手に思っています。
こちらこそ、よろしくお願い申し上げます。

合掌 ありがとうございます

1565復興G:2013/05/31(金) 23:03:47 ID:AB6RqYXc

合掌 ありがとうございます。

トキ様が、組織板<1477>

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1322573377/1477

に書かれた「生長の家教団の理事、参議の先生方へ」という訴えのご文章に、

心からの賛意を表します。

ありがとうございます。

1566志恩:2013/05/31(金) 23:32:17 ID:.QY5jUA6
トキ様

私も復興G様のご指導に感謝致しております。

復興G様 謹写〜
>>神の造りたまえる存在の実相に透徹し、その実相を雛型としてそれを現実世界に現わして[のみ]この世界は本当に地上天国となるのであります。
我欲や見当違いで改造改造と力んでみても、各自の心に神の子としての生命の実相が見真されていなければ、盲人の手引きで、
多数の盲人を河中へ突き落とすようにエッサエッサと改造の掛け声を掛けながら、現在の人類をまた別の地上地獄へ突き落とすに違いないのであります。
心が形の雛型となる! ではまず心に自己の生命の円相を自証せよ、組織は自然に浄まるであろう。≫

  (『生命の實相』第3巻 94頁より)<<

この謹写につきましてのことですが、
これは、教団も、本流も、…われわれも、この精神で、、ということだと存じます。

しかし、もしも、これが、
我欲や見当違いで、、ということが、本流のみを批判されるものでありましたら、
それは、それこそ、見当違いだと、私は思います。

1567期待!!:2013/05/31(金) 23:39:03 ID:kMrMC83s
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1568志恩:2013/05/31(金) 23:42:26 ID:.QY5jUA6
トキ様の組織板>>1477:のご文章、拝見しました。
大変すばらしいご文章だと、私も賛同させて頂きました。

1569こんにちは:2013/06/01(土) 00:07:07 ID:ZOvWhJ3.
ユタカ様

お返事が遅くなり申し訳ありません。

総裁への中心帰一に通じるという私の発言の主旨は、復興G様のおっしゃる通りです。
昨今、中心帰一に対する硬直した発言が見受けられますので、自由自在なる心からの発露が本当の中心帰一であると申し上げたかったのです。

なお、谷口雅春先生のおっしゃる「そのまま」「当たり前」は、究極的なお話であると思います。
ですから、ある意味では簡単なことではないかもしれません。
しかし、真理を研鑽する中で無限に生長しつつあることを素直によろこぶ心は「そのまま」であると思います。

1572こんにちは:2013/06/01(土) 00:35:14 ID:ZOvWhJ3.
>>1534 a hope様

イカロスの歌、聴かせていただきました。
私なりの解釈で申し上げれば、沢庵禅師のような態度こそがイカロスであると思います。
生活化しない生悟り(=ニセの翼)で舞い上がったが、ずぶ濡れになってしまったということです。

谷口雅春先生のおっしゃる「そのまま」「当たり前」は、ある意味ではとても遠い彼方にあるように思えます。
しかし、実相の分からない者が素直に「分かりません」と言うこともまた、「そのまま」「当たり前」であると思うんです。
実相を生きることは、ある意味では遠い彼方にありますが、ある意味ではすぐそばにあるとも言えるのではないでしょうか?

私は、谷口雅春先生のお話を解釈しながら、「自分の偽らざる本心こそが実相なんだな」と思いました。
一見、実相のように見えなくても、本当は実相からの発露であるというか、そんな感じです。
あまり頓着せずに、自分の思う道を思いっきり生きるのがいいんじゃないかなあ、と。

でも、これは私の個人的意見です。
谷口雅春先生なら、どうおっしゃるのかなあ?

1573ユタカ:2013/06/01(土) 07:40:40 ID:R1D4Jmeg
みなさま、ありがとうございます。

ゆっくり考えながら読ませていただきます。 しばし沈黙します・・・

1574a hope:2013/06/01(土) 07:57:56 ID:edEDolt2
みなさま おはようございます。

みなさまのペースに、だいぶ遅れてついて行っている a hopeですから、話がずれていたり、
すでにご指導してくださっている内容だったら、ごめんなさい。

>>153で3ユタカさまが、
<<皆さんは、『そのままでいい』をどのように考えますか??>>
と質問してくださっています。
自分なりに考えてみました。


(『そのままのでいい』 a hopeの見解)

実相は完全円満で傷つくことはないのだから、現象生活では自分の思うままに、何を言っても何をしてもいいというのは、
「我の心」であって、「そのままの心」ではなく、『そのままでいい』ということにはならないように思います。
『そのままでいい』というのは、『神の心のままでいい』ということなのだと思うのです。


神の子として神の御心に近づこうとする心、神の子の自覚を悟ろうとする誰もが本来持っている信仰心(向上心)ではないかと思います。

神の心=大和精神=愛

生長の家の「愛」は「自他一体の自覚」であるとここで教わりました。
目の前に現れた相手の姿は、自分の心を映した観世音菩薩さまであると思って、礼拝しそこから学ぼうとする心。

そんな心かな〜なんて思います。

わたしは、相手を「神の子」として尊重する気持ち(思いやりの心)が少しもないまま、
自分の我の心を出して何かを言ったり行動したりすることが、『そのままでいい』ということにはならないと思います。


志恩さまが、>>1410で、
<<われわれは、実相を表現する舞台として、この現象世界を与えられております。
だから、現象世界は、表現の場なのです。>>
と、ご指導してくださっています。

わたしも、まさにこの現象世界は、「神の心」を表現させるために、御親である神さまが、
わたしたち神の子に与えて下さった「最高の舞台」なんだと思います。


『そのままでいい』=『神の心のままでいい』ということになると思います。

わたしたち生長の家信徒は、その心に近づくために、聖典・聖経を拝読したり、神想観をしたり、愛行をするのだと思っていましたが、
違うのでしょうか?

1575a hope:2013/06/01(土) 07:58:48 ID:edEDolt2
>>1572こんにちはさま

ご指導ありがとうございます。
<<沢庵禅師のような態度こそがイカロスであると思います。>>
わたしも、「イカロスの翼」のことは、沢庵禅師のことを考えていて浮かんできました。

<<谷口雅春先生のおっしゃる「そのまま」「当たり前」は、ある意味ではとても遠い彼方にあるように思えます。
しかし、実相の分からない者が素直に「分かりません」と言うこともまた、「そのまま」「当たり前」であると思うんです。>>

わたしは、困ったことに、この性格上、「分かりません」のままで済ませられないのです(笑)

でも、すべての答えは、聖典「生命の實相」に書いてあると確信しています。
それに、このトキ掲示板で、復興Gさまや始め、トキさま、こんにちはさまなどの大先輩からご指導が受けられるのですから、
今は大安心の心境です。
わたしは、本当に幸せです。

みなさま、ありがとうございます。 合掌。

1576髪の子:2013/06/01(土) 08:16:40 ID:0ZjosHJM

皆様ありがとうございます。
皆様の意見を聞かせてもらいながら、大変勉強になります。
感想を述べさせてもらいます。

生長の家は「ねばならない」をとく教えだと言われます。
確か、雅春先生はどこかのご著書で、真理にさえもひっかかるなというお言葉を拝見した記憶ございます。

「ねばならない」は「生きるぞ」と力み込んでいるように思います。
「ねばならない」の気持ちから解放される時「生かされている」の心境に思います。しかし雅春先生は「真理」としてお説き下さったときには、ねばならないの表現はあった気もします。

「宇宙の大生命の生きる力に任せて生かされよう…。朝が来たらご飯を食べよう。人前でおならをしたら、謝ろう。人間死なしというけど、やはり亡くなってその人に会えないのは寂しいよ」など、そういう自然に発する思いや、自らの行動も、そのままの心なのかな…。
もし、そこで間違いというか、秩序に反する事があれば、必ず修正の機会が来るようにも思います。

1577髪の子:2013/06/01(土) 08:33:48 ID:ZTt15T/6

参考までにお伝えします。
光明掲示板で「そのままの心」と入力検索してみてください。
童子様、マリーゴールド様、コスモス様が雅春先生のご著書を謹写されている「そのままの心」に関するご文章が出て参ります。

1578志恩:2013/06/01(土) 13:42:34 ID:.QY5jUA6
>>1577:髪の子様、

早速、光明掲示板の方で、「そのままの心」、検索してみましたら、載っていました。感謝。
只今、このWEB誌友会板では、【そのままの心】とは、についてでディスカッションの最中ですので、
そのところを重点的に、転載させて頂くことに致しました。
-------------------------------------------------------------

  ☆ そのままの心 ☆ について〜

光明掲示板より

十月十日 【そのままの心に成る日】 (本日午後一時より小倉市堺町国民学校にて白鳩会) (2280)

日時:2012年10月07日 (日)

名前:童子

 ‘そのまま’の心とは、天地は本体『一』であるから、天地一切と調和ちたる心である。

人は生れたるままの心 ―― 即ち『實相の心』 ―― になることが必要である。

      ‘そのまま’が天衣無縫である。どこにも隙がないのである。

      天衣無縫が無敵であり、うまれたる侭さながらである。

『無敵の用(はたらき)は生れながらにして其形像幼童の如し』ともあり、『平法は温和にして心広し。故に無敵にして其体豊か也』とも『無敵の体は広大也。
 天地の万物を包括せるが如し』ともある。

 ひろびろと‘そのまま’の心になる時、天地は‘わがもの’。‘わがもの’となる時、もう何処にも敵がないのである。


 『敵と成る者山河を動かすとも、我が心体の裏にして、何ぞ外に向って敵として戦ふべきか』と云う山内翁の語(ことば)に至っては、
 実に、天地は‘わがもの’ ―― の自覚あってのみ云い得ることである。

 この点、宮本武蔵の『五輪書』などに、敵に対する技巧について細々と書いてあるのに比較して、山内蓮心翁の『平法』の方が偉大であるとも云える。

 宮本武蔵は敵に勝つことに心逸った趣があったが、山内蓮心は敵無きことをその極致としたのである。
敵は外部にあらわれて『山河大地を動かす』とも、その姿は外にあらずしてわが心内の姿の映像とせるところ、

また先ず内の敵を斬ることを先にして、『何ぞ外に向って敵として戦ふべけんや』を後にせる素晴らしい心境である。

1579志恩:2013/06/01(土) 13:46:47 ID:.QY5jUA6
光明掲示板より ☆そのままの心☆ について

日時:2013年05月24日 (金) 08時57分
名前:童子

    生長の家信徒行持要目

 (前略)

 ニ. そのままの心を大切にすべし。

  そのままは零なり、一切なり、
○(まる)なり、円満なり、無礙なり、無限供給なり、調和なり、病なきなり、
一切の不幸、災厄、病難は‘そのまま’を外したるときあらわれるなり、

 顧みてそのままの心に復(かえ)るとき、一切の不幸は滅す。

 (後略)

1580志恩:2013/06/01(土) 13:53:21 ID:.QY5jUA6
そのほか、
マリーゴールド様、コスモス様も 
☆ そのままの心 ☆ についての謹写を
されておられますが、長文ですので、以下のスレッドをご覧下さいませ。

光明掲示板より
「そのままの心」に関する投稿文が 多く掲載されているスレッド
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou

1581志恩:2013/06/01(土) 14:06:13 ID:.QY5jUA6
1580に、【そのままの心】スレッドは、載せられませんでした。
で、つづきは、
長文ですので、聖典引用板のほうへ、載せさせていただきます。

1582志恩:2013/06/01(土) 14:33:23 ID:.QY5jUA6
ahopeさま
1574:『そのままのでいい』 a hopeさまの見解


>>神の心=大和精神=愛
『そのままでいい』=『神の心のままでいい』ということになると思います。<<

簡潔に平易な言い方をすれば、これでしょうけれど、
そのまま=神の心のまま

が、自分では 神の心のまま のつもりが、我の心になってみたり……
人間は、日々、学びながら生きているのですよね。

1583髪の子:2013/06/01(土) 19:18:52 ID:ZAz7ASpg

志恩様、「そのままの心」に関する聖典の転載くださりありがとうございました。

第二青年の書P163の「人生の目的と、神の愛を生きるには」の項にも、''そのままの心''に関するご文章がございます。
御本をお持ちでない方は、「生長の家本流復活青年掲示板」に、さくらふぶき様が、謹写されてくださっています。第十三章にございます。

その後、同書P194の第十五章を拝読戴けましたら、「そのままの心」は日本精神であることに悦び溢れることと思います。
そのままの心について語りあえることは、私たちの日本人としての遺伝子にあるから、だからこそなのですね。

ahope様が>>1574で最後にお尋ねなられてますが、私的には、そのままの心に近づく為でなく、既にある、そのままの精神を自覚すると申しますか、顕現する為に、神想観や聖典拝読を行っていくのだと思いました。

1584髪の子:2013/06/01(土) 19:48:13 ID:dwuUzalc

生長の家本流復活青年掲示板

http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=seinen&amp;mode=res&amp;log=61

1585ユタカ:2013/06/01(土) 22:21:56 ID:R1D4Jmeg
みなさま、ありがとうございます。
ゆっくり読み返しさせていただきました。皆様が真理の研鑽をされている中に私は感想になってしまうかもしれません、それなのに、すみません・・・発言させて下さい。

外では裁判で、なんやかやと大騒ぎしている中で、このWEB誌友会板で皆さまが真面目に真理に向き合いながらその一つ一つに真剣な気持ちがこめられていることが伝わって来て、非常に感動し、涙が出そうになるのを我慢しました。
こういう時期に、皆様が「谷口雅春先生の御教えの生長の家」を愛し、仲良く研鑽されているお姿が尊くて神様に見えました、その感動に『そのままの心』を実感した気になりました。

そして、私自身も皆様と同じ一つの生命の中にいて生かされている一体感でいっぱいになり、「そのままのこころ」とは、
神様の御心、 神はすべてのすべて 神のほかにあるものなし との言葉が心に浮かんで自分の中でそのように感動しながら納得しました。

ここにいらっしゃるすべての皆様の真理を研鑽なさる尊いお姿が、神様そのものに見えて・・・
皆様の存在自身が『そのままの心』と思いました。

そのままのこころ=神さま=すべてのすべて とユタカはこのようになりました。


以上が今の感動を速報する素直なそのままの感想です。

そして、信徒同志は神の子を磨くために手に手をとり仲良く向上していくことが生長の家の信徒となり、自分が変われば世界が変わる。信徒同志が仲良くして生長の家を勉強しそれを生き抜くときそこに道が出来てゆくことを信じます。

1586ユタカ:2013/06/01(土) 22:50:18 ID:R1D4Jmeg
そして、「そのままの心」は血液の中に白血球を創り、本来はない病菌が迷いによって仮の姿を現したとしても対応できるように準備している偉大なる神様の御計らいを考えると、

実相世界に戦争はありませんが、人類全体の映しこの世で、尖閣諸島問題や著作権問題などは「そのままのこころ」で適当な対応が必要です、とこう思います。

1587人気店:2013/06/01(土) 22:54:22 ID:kMrMC83s
人気店
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1588志恩:2013/06/02(日) 00:22:11 ID:.QY5jUA6
髪の子様

あれこれと家事に忙しく、PC の前になかなか座れずにおりまして
お礼の言葉が遅くなりましたが、
さくらふぶき様が謹写されました「そのままのこころ」に関するスレッドを
ご紹介下さって、ありがとうございました。

聖典板の方へ掲載させて頂きました。

この生長の家本流復活青年掲示板に、「第二青年の書」をまるまる1冊分を謹写された 
さくらふぶき様も
たしか、髪の子様なのでしたよね。ほんとうに、あなたさまは、貴いことをされ続けていらして、
頭がさがります。心から尊敬いたしております。ありがとうございます。

1589ユタカ:2013/06/02(日) 00:32:05 ID:R1D4Jmeg
トキ様 復興G様 元本部職員D様 訊け様 志恩様 こんにちは様 a hope様 髪の子様 goro様 神の子様 解説者様
あさひ様 ありがとう様 SAKURA様 さくら様 皆々様(WEB板でユタカが帰ってきてから話した方々です、その前やもれてしまい書いていなかった方がいたらごめんなさい!)

読み返すとまた感動して、今は近くに人がいないので泣いてしまいます。皆々さま、本当にお世話になります、合掌、有難うございます。

>>「現象はない、実相においてはすべてが一体で、すべてが自分自身なのだから、自由自在に、なんにも引っかかることなく、平常の心で、内からわき起こる思いのままが“そのまま”の心、実相の心なのだ。

まさに、「そのままの心」は「そのままの心」で、自由自在な自発の心である、と私は思っています。


復興G様、いつもいつも正しく深く的確な素晴らしいご指導をありがとうございます。こんにちはさま、ご解説をありがとうございます。「そのままのこころ」のところより前にいらした元本部職員D様、分かりやすく、丁寧に教えてくださいました、ありがとうございます。
志恩様、資料をあちらこちらから集めてたり、活発なご意見を沢山下さったり、お世話くださり有難うございます。 a hope様いつも話題の提供と勉強会のおつきあいをありがとうございます、ご回答にも勉強させていただいております。 髪の子様 活発で親切で自由自在なご発言に感謝しています、ありがとうございます。あさひさま、ありがとうございます。神の子さまありがとうございます。ありがとうさまありがとうございます。SAKURAさまありがとうございます。さくらさまありがとうございます。
最後になりましたが、トキさま、心から感謝します、ありがとうございます。。。

WEB板の皆々様、これまで、返信しないで、すごいスピードで前進して失礼の段、お詫びいたします。申し訳ございませんでした。
これからも、よろしくお願いいたします。 また、もれていらっしゃるかたがいましたら、再度お詫びいたします。

1590ユタカ:2013/06/02(日) 01:05:45 ID:R1D4Jmeg
感動したので、ここにも転載させて下さい。 ルール違反?

>2336 :志恩:2013/06/01(土) 21:51:08 ID:.QY5jUA6
本流青年掲示板より
 「そのままの心」について〜

第十三章  青年と真理を語る  (2) (394)
日時:2011年08月14日 (日) 21時28分
名前:さくらふぶき

 人生の目的と、神の愛を生きるには

 岩間 人生の目的というのがよくわからないんでお訊きしたいんです。

 愛行そのものを人生の目的として愛念を実行すること、それから神様と一体となる、そういうような実感を得るのを人生の目的とするかということ、
 そういうことでいろいろ悩んでいるんですけど。
 それでどうも生活がちぐはぐになっていくのを引きしめるために、どういうふうにして目的をたてていくかということをお聞きしたいのです。

 谷口 人生の目的という問題は、いつも講習会で一日の講義の課題になっておるのでありまして、それを唯今の短時間で全部話すということは、
ちょっと難しいんでありますけれども、
大体もう予備知識もある方だと思いますから簡単にいいますと、人間は神様の自己実現であり、
しかも最高の自己実現として、万物の霊長として現れているのであります。

 そこでその神というのはいかなるものかというと、「神は愛なり」とキリスト教ではいいますし、仏教では仏心とは大慈悲心だともいいます。
 その大慈悲心そのものの顕れが観世音菩薩であるといわれているのであります。
 だからキリスト教でも仏教でも慈悲とか愛とかいわれるのが仏様や神様の内容を為しておると見ていい訳であります。

 それで神の愛を人間が実現するということは、人間が地上に顕れたところの究極の目的であるといえます。
 愛を本当に実現し得た時に、人間は本当に深い喜びを感ずることが出来るのはそのためであります。

 そこで愛を実現するには、どうしたらいいかということになるのでありますが、
 これは趙州和尚が「平常心是道」と言ったように、先ず第一、平常の心――そのままの心――を大切にすべしというのが、

 あの生長の家の信徒行持要目に書いてありますが、「そのままの心」というのになることです。
「そのままの心」です。「そのままの心」というのは〇(ゼロ)の心であって、〇(ゼロ)っていうのは一体何かというと、我というものが無い心です。

 我というものは一種の個人主義を持っています。そして肉体的な性格を持っているのであってその自己中心的な性格を一遍精算してしまって、
 これから必ず人の為にだけなることを実行致しましょうというように大決心をすることです。

 その大決心によって「自己中心的」な自分というものを自己抛棄し、捨て去って、そこから自然に動き出してくるのが「
 本当の平常心」「そのままの心」ですね。

 自己愛や利己心もそのままにあるのが、「そのままでいいんだ」と、

 そういう「そのままの心」じゃなくって一遍「ニセモノの自分」を捨ててホンモノの「そのままの心」ですね。

 そのまま自我の我というものがなくなって、〇(ゼロ)になったときの「そのままの心」です。

 無我になると、そうすると物事がなんでもスラスラといくようになるのです。
 なんでも我というものがあるとスラスラといかない。
 自分の「我」の形に引っかかるわけです。

 そして周囲が「我」の形にぴったりと添うてくれなかったら、摩擦がおこってうまくいかない、
 つまりチグハグになるのだから自分というものをまず〇(ゼロ)にするんですね。       つづく

1591ユタカ:2013/06/02(日) 01:07:59 ID:R1D4Jmeg
続き

>2337 :志恩:2013/06/01(土) 21:55:49 ID:.QY5jUA6
 (つづき)

   大体人間が神の自己実現として、神をこの世の中に実現するには、二つの方法がある。

 一つは、自分が〇(ゼロ)になって神様に全部無条件降伏をすることなんです。
 そうすると、その自分の我が無条件降伏したら、自分というものがなくなって、神様がそこに顕れて、

 神様が「本当の自分」だから、それで「自分がやること」が即ち「神のやること」であるということになるのです。


 もうひとつのやり方は、自分というものをできるだけ拡大すること。
 「自己拡大」を徹底的にやるのであって、それは自分は「神の子」であるということを一心に念じて、

 常に「自分はここに神が生きているのである」という念を、ふだんも常に念々持続して絶やさないように精進努力をして、
 そして神想観を一所懸命に励んで、そして自分の努力によって、自己の自覚を拡大してゆく、今日は昨日よりも拡大し、

 明日は今日より、あさっては明日よりも拡大してですね。
 毎日毎日神想観を励んで、われ神の子なりの自覚を一層深めていくというその修業によって、自分が拡大されて、

 ついに神と同じような偉大な生活に入っていくというわけで、その自分で努力して一所懸命にやっていくのが、
 いわゆる自力門とか聖道門とかいわれるのであって、よほどの大努力を要するわけなんです。

 もっとも第一の「自己抛棄」の方も「抛棄する努力」はいるけでども、
 とも角それは現象の自分の現在というものがほんとうに見苦しいものだ、こんなにきたない、無力なものであると気がついて、

 自分では努力しても甲斐がないというので、へりくだりの心を起してすっかり自分の「我」というようなものを捨てて、
 “神様どうでもして下さい、神様のせよとおっしゃることを、なんでも素直に致します”というので、それに無条件降伏するんです。

 即ち、神のとりこになる。神の捕虜になってしまうのです。
 神の捕虜になったら反抗するわけにはいかんのであって、神様がするとおりにさせられるということになって、
 ここにはじめて「自分の置換」というものが他動的に行われるということになるんです。

 まあその二つの他力的方法か、自力的方法か、
 どちらかによって自分というものを自己抛棄して他力的に乗托して自分というものをおきかえるか、

 自己拡大してついに神に達するかによって、
 自分というものが「ここに神が生きておる」という大自覚のところへ入っていくのでありますね。

 他力的方法も自力的方法も、いずれも兎も角、現在の不完全な自分は否定しなければならぬ。

 そして「神が自分に生きている。神は愛である」ということがわかってくると、
 それが実際に生活に実現してくるのでありまして、それがなお、いろいろと摩擦があったり、さわりがあったりするのは、
 まだその自覚に到達しないのであるから、そこのところをよく反省して、自分を捨てるか、

 それとも自己拡大するか、まあ自分の生まれつきの性格に従って、どちらでも選んで、そして精進努力して行かれれば、
 やがて、本当に神を自己の内に自覚せられる時が来るにちがいありません。

1592志恩:2013/06/02(日) 01:21:25 ID:.QY5jUA6
ユタカ様

「そのままの心」についての感想を書いて下さいまして,ありがとうございます。

>>そして、私自身も皆様と同じ一つの生命の中にいて生かされている一体感でいっぱいになり、「そのままのこころ」とは、
神様の御心、 神はすべてのすべて 神のほかにあるものなし との言葉が心に浮かんで自分の中でそのように感動しながら納得しました。

ここにいらっしゃるすべての皆様の真理を研鑽なさる尊いお姿が、神様そのものに見えて・・・
皆様の存在自身が『そのままの心』と思いました。

そのままのこころ=神さま=すべてのすべて とユタカはこのようになりました。

そして、「そのままの心」は血液の中に白血球を創り、
本来はない病菌が迷いによって仮の姿を現したとしても対応できるように準備している偉大なる神様の御計らいを考えると、

実相世界に戦争はありませんが、人類全体の映しこの世で、尖閣諸島問題や著作権問題などは「そのままのこころ」で適当な対応が必要です、
とこう思います。>>

ユタカ様は、私達1人ひとりを、いつも神の子と礼拝して下さって、元気を頂ける言葉で励まして下さるので、大変、ありがたく
幸せな気持ちにならせて頂けます。

私は「そのままの心」で心に浮かぶのは、義母と実母のふたりのことなんです。
ふたりとも、毎朝、甘露の法雨読誦と神想観を欠かしたことはないのですが、それだけでなく、24時間、神想観…

口を開けば「かみさま、かみさま」が口ぐせで、肉じゃが1つこしらえる時でさえ、「かみさま〜っ、美味しくできますようにぃ〜♫」
と言ってました。(義母は亡くなり,実母は生存中)

私も、それは見習って、生きております。

1593復興G:2013/06/02(日) 05:14:35 ID:AB6RqYXc

合掌 ありがとうございます。

ユタカさんの素直な清らかな心に感動しています。

「そのまま」の「そ」は「素」であり「もと」であり「一」であり、神である。

だから、「そのまま」は「神のまま」であり、構えない、対立しない、空っぽの心である。
それが大和精神であり、愛の心、大調和のこころである。

そう思いました。ありがとうございます。

1594髪の子:2013/06/02(日) 12:23:15 ID:GpLjp1XI

>>1588

志恩様、聖典板にも、さくらふぶき様の謹写の転載をありがとうございます。そして、さくらふぶき様のご愛念に感謝申し上げます。

私は、さくらふぶき様ではございません。
谷口雅春先生を心から感謝尊敬申し上げ、様々な掲示板を閲覧勉強させて貰っている1信徒です。昨日、第二青年の書を拝読しておりましたら、「そのままの心」に関するご文章を目にしまして、こちらの掲示板でお伝えしたいと思った次第です。

志恩様、いつもありがとうございます。

ユタカ様、ユタカ様のお優しい気持ちに感謝申し上げます。
皆々様、ありがとうございます。

1595志恩:2013/06/02(日) 12:42:08 ID:.QY5jUA6
髪の子様

そうですか。髪の子様は、さくらふぶき様ではいらっしゃらないのですか。
それは、失礼しました。

以前に、みすはなまる様というお方がいらして、他にも、みすまる様というお方が、いらして、
どちらのお方だったか、
マリーゴールド様、さくらふぶき様 つながりのことを話して下さったことがあるのですが、

似た様なお名前の方々が多々ありましたので、混ざっているのだと思います。
それでなくとも、私は、そそっかしい性格のところが、ありまして、、

これは、いいわけですけれど…(笑)間違えてすみません。

それにしましても、
髪の子様は、ものすごく記憶力がいいお方でいらっしゃいますねぇ。

どこに書いてあったのか、ピンポイントで探し出せるのですから、おどろきですよ。
また、いろいろと、教えてくださいますように、ありがとうございます。
今後も よろしくお願いします。

1596ユタカ:2013/06/02(日) 17:36:01 ID:R1D4Jmeg
復興Gさま、みなさま、
昨日は突然、感謝の心で一杯になってしまいました。。失礼しました。

>「そのまま」の「そ」は「素」であり「もと」であり「一」であり、神である。

だから、「そのまま」は「神のまま」であり、構えない、対立しない、空っぽの心である。
それが大和精神であり、愛の心、大調和のこころである。


復興Gさま、逸脱したので軌道修正をありがとうございました。
復興Gさまのお書き下さいました沢山の資料からの御愛念が放出されていて・・・涙が出てしまいました。

さてと・・・今週は待ちに待った、復興G様のWEB誌友会があります。

復興Gさま、予習箇所、本などありましたら、お書きください。各自で予習出来ればありがたいです。

1597a hope:2013/06/02(日) 19:00:56 ID:edEDolt2

みなさま、ありがとうございます。合掌。

わたしは、>>1598のユタカさまのコメント中の「有難うございます」「ありがとうございます」という言葉から、
ユタカさまの真(まこと)の心=神の心を感じさせていただきました。

「生長の家」では、相手に合掌して「有難うございます」というのが挨拶がわりに言われてていますが、
わたしは、教団の信徒だったころは、自分の気持ちに、相手に対する感謝の気持ちが少しもないのに、
簡単に「ありがとうございます」ということにとても抵抗がありました。

ですが今は違います。
ここで、たくさんの素晴らしい出会いをさせていただき、このような素晴らしい「真理」のお勉強をさせていただけることは、
本当に『有難い』(奇蹟のような出来事)なんですよね。
そう思うと、わたしもユタカさまのように、みなさまに、そして神さまに「有難うございます」「ありがとうございます」と
何度でも言いたくなります。

いつだったか、どなたかが(うのはなさま?)、『日本語の「ありがとう」意味、は英語の「Thank you」とは違う…』
というような文章を紹介してくださっていましたが、その本当の意味が今、やっとわかりました。

a hopeは、みなさまのペースにはついていけませんが、自分のペースで、しっかり勉強させていただいています。


今週末は、いよいよ、復興Gさまのご講話と、訊け管理人さまご司会のweb誌友会が開催されるのですね!


復興Gさま、訊けさま、トキさま、ユタカさま、

きっと、たくさんの閲覧者の方々が、心待ちにされていると思います。
わたしにも、何かお手伝いできることがありましたら、喜んでお手伝いさせていただきます。
どうぞ、よろしくお願いいたします。

感謝 合掌。

1598ユタカ:2013/06/03(月) 09:31:34 ID:R1D4Jmeg
a hope様 ありがとうございます。次回の誌友会の意気込みに、熱いものが伝わってきます!嬉しいです。 ありがとうございます。

今週は復興G様が担当されて、司会が訊け様だから、訊け氏と相談してお手伝いなさってください。(訊け氏が暴走したら止めると言うのもお仕事のうちでないですか?、だけど、訊け氏は絶対に人のいう事聞きません。。。薩摩男の代表です。暴走とは・・・野球で例えるなら、自分でプレイボール!と宣言して、すぐさまピッチャーやって、即バッター席に立ちヒットをとばして、あっという間にホームベースに帰ってくる人。ある意味スゴくてのびっくり仰天です。で、部外者と言いながら人3倍しっかり』勉強しているから、自分の大好きな先生の大量投稿で持論を述べるのを少量で勘弁してもらえるようにお願いすることもお手伝いのうちかも?周りが圧倒されて、読みこなすのが・・・。訊け様のおしゃべりは本当に上手でおもしろくて、素晴らしいのですが、講義は復興Gさまを中心に振って欲しいです。次回はよろしくお願いします。)
ユタカの場合は今まで自主勉強ですから次回は参加者になります。自主勉強の時は、大勢の人が助けてくれて、感謝、感激してます。ありがとうございます。
あと、a hopeさま、ユタカは40巻通読を目指しているので、週に2章は読みたいと思っています。ここで、いろいろ話題が出ていても、見えないところで読み進んでいきませんか?ってユタカは2章づつ読み進んでいます。
先週の土曜日まで 第3巻の 生命編生命の円相の真理(上) 第1章2章までを読んで、今週はWEB誌友会があるので生命編生命円相の真理(上)第3章だけを読みましょう。
次の週 6月10〜15日 の週は 第4章・第5章を読んで、次は第4巻をご用意ください。
通読していきましょう。 分からない箇所があれば、復興G様にご質問させていただけるチャンスがあるので、とてもラッキーですから、このチャンスを生かさないと勿体ないです!!

他では教えてもらえないので、まさに、ビックチャンスです!! 本当に有難い奇跡のような勿体ないことです。
とにかく、読み進んで、G様に、教えていただきましょう! 感謝、感謝。

復興G様、どうぞよろしくお願いします。。。ありがとうございます。合掌。

1599a hope:2013/06/03(月) 11:19:32 ID:edEDolt2
>>1598ユタカさま

ユタカさまって、ホント中性的な魅力のある素敵な方ですね。

ところでわたしも今回より、web誌友会の主導権を手放させていただき一参加者として参加させていただくつもりですが、
新しい形でのweb誌友会を提案させていただいたので、もう一度わたしの提案した形のweb誌友会を紹介させていただきながら、
第14回web誌友会の「予告」をさせていただきます。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

《第14回 web誌友会予告》

・前半 (司会 復興Gさま)
日時:6月7日(金)
内容:復興Gさまのご講話 質疑等


・後半 (司会 訊け管理人さま)
日時:6月8日(土)
内容:自由参加の誌友会

☆ ☆ ☆ ☆ ☆



前半の司会は復興Gさま 後半の司会は訊け管理人さまですから、
時間配分や内容等に関しましては各司会者さまにお任せする形でいいのではないかと思います。
ですから、具体的な時間や内容は、復興Gさまや訊け管理人さまが、加筆くださるとありがたいです。


お手伝いに関してのユタカさまの提案ですが、

<<訊け氏が暴走したら止めると言うのもお仕事のうちでないですか>>
<<自分の大好きな先生の大量投稿で持論を述べるのを少量で勘弁してもらえるようにお願いすることもお手伝いのうちかも?
周りが圧倒されて、読みこなすのが・・・。訊け様のおしゃべりは本当に上手でおもしろくて、素晴らしいのですが、
講義は復興Gさまを中心に振って欲しいです。次回はよろしくお願いします。>>

こちらのお手伝いに関してですが、了解しました!
今回は、講義(講話)と誌友会が前半・後半と別れていますから、講義は復興Gさまが中心でしてくださいます。
後半の誌友会に関しましてはわたし個人的には、閲覧者のみなさまが余裕をもってついていけて、
出来るだけたくさんの方が参加しやすいような話題を提供していただけるといいな〜と思っています。
訊け管理人さまは、とても頭よい方なので、きっと上手に司会をしてくださると信じています。


<<あと、a hopeさま、ユタカは40巻通読を目指しているので、週に2章は読みたいと思っています。ここで、いろいろ話題が出ていても、見えないところで読み進んでいきませんか?ってユタカは2章づつ読み進んでいます。
先週の土曜日まで 第3巻の 生命編生命の円相の真理(上) 第1章2章までを読んで、今週はWEB誌友会があるので生命編生命円相の真理(上)第3章だけを読みましょう。
次の週 6月10〜15日 の週は 第4章・第5章を読んで、次は第4巻をご用意ください。
通読していきましょう。 分からない箇所があれば、復興G様にご質問させていただけるチャンスがあるので、とてもラッキーですから、このチャンスを生かさないと勿体ないです!!>>


本当ですね!わたしも、ユタカさまのペースに合わせて、自主勉強を続けていきます。
ユタカさま、色々ありがとうございます。

これから、仕事です。
夜、また、戻りましたら、自主勉強の方の範囲の再確認させていただきます。

それでは、みなさま、今日も素晴らしい一日をお過ごしください!

1600トキ:2013/06/03(月) 12:32:01 ID:sx0OB4XI
 誌友会、とても楽しみにしております。
復興G様、その他の皆様、よろしくお願い申し上げます。

1601ユタカ:2013/06/03(月) 12:33:43 ID:R1D4Jmeg
a hopeさま

はい、わかりました。 ahopeさまの提案素晴らしいですね、すでにそのように決定していたのに、余計なことを心配しすぎてすみませんでした。そして、人のこと言えないですね、ユタカが大暴走しちゃて・・・・ははは(笑)すみません・・・
そして、ありがとうございます。 新しいWEB誌友会をとても楽しみにしています。

よろしくお願いします。

1602復興G:2013/06/03(月) 18:50:57 ID:AB6RqYXc

ユタカ様、a hope様、トキ様、皆々様。

熱烈な 真理を求めるお心、ご愛念――すごいなと、感謝、感動措く能わずであります。

お返事おそくなって、たいへん失礼しました。

土日は私、リアルでの各種学習会や、人との面談などが次々にあり、そのことからまた新たに急いで行いたい仕事ができて、それに専念し失礼していました。

ユタカ様発議のWEB誌友会自主勉強会は、今まで数ヶ月なんとかやってたWEB誌友会とは見違えるように活発な勉強会で、私もたいへん啓発されました。

このまま、そういうのを続けられたらいいのではないか。
「訊け」どんが司会を引き受けてくれもうしたことでもあるし――あとはユタカさんと訊けどんに、やり方をお任せすればよいのではないか、という気もしていました。

しかし、a hope様が>>1599で書かれているように、

☆ ☆ ☆ ☆ ☆
《第14回 web誌友会》
・前半 
日時:6月7日(金)
内容:復興Gの講話 質疑等(司会も復興G)
・後半 (司会 訊け管理人さま)
日時:6月8日(土)
内容:自由参加の誌友会
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

という提案があって、私がそれに同意していたということがありましたから、それはそれで実行すべきかと考えなおしてもいます。

その場合、テキストの範囲は、もう「神示」を2つずつというのではなく、神示のすべてと、第3巻「光明篇」全部(第1章〜第4章)にしたらよいと思います。
それですでに自主勉強会で予備学習済みですから、その蒸し返しではなく、新たな視点から、さらに生活・伝道に生かす研鑽をしたい。

今、『生命の實相』出版権をめぐる裁判に決着がついたので、そのことも無関係ではあり得ないでしょう。

「今こそ正念場」と私は>>1556に書いていましたが、この「正念場」において、観念論ではなく、どのように「正念」を顕して行くか。「今、起て!」と神は宣り給う。どのように起つか。

一人ひとりにその課題が突きつけられていると思います。
それを研鑽してまいりたいと思う次第です。

皆様、どうぞ第3巻95頁までをもう一度拝読しなおして、それをより具体的に、「そのままの心」をあらわにして真剣に語り合ってまいりましょう。

――と、ここまで書きましたら、それならもう「前半」の「復興Gの講話」は要らないのではないか。いきなり訊けさんの司会で「自由参加の誌友会」に入ったらいいのではないか、という内なる声が聞こえてまいりました。

どうしましょう。

1603復興G:2013/06/03(月) 19:24:14 ID:AB6RqYXc

>>1596でユタカ様が
>>さてと・・・今週は待ちに待った、復興G様のWEB誌友会があります。
復興Gさま、予習箇所、本などありましたら、お書きください。各自で予習出来ればありがたいです。<<

と書き込まれていました。

その予習箇所は、新たな箇所ではなく、自主勉強会の内容の総括を、みなさん各自でなさってみたらいかがでしょうか。

膨大な量の貴重な書き込みがあったわけですが、まだ不消化なところもありましょうから、いまいちど読み返して
(できればプリントアウトして重要と思われるところには赤線を引くなどして)
それに対する自分の考えを確立しておく。

私もこれから、それを行います。

そうして、それぞれの「総括」をぶつけ合えば、また何か
すごいものが生まれてくる可能性があるように思います。

1604a hope:2013/06/03(月) 23:27:44 ID:edEDolt2
ユタカさま

改めまして、>>1598のユタカさまの自主勉強会のご提案、大賛成です!

勝手にまとめさせていただきますと、

《ユタカさまの自主勉強の予定範囲》
6月3日(月)〜8日(土)第3巻の 生命編生命の円相の真理(上)第3章
6月10日(月)〜15日(土)第3巻の 生命編生命の円相の真理(上)第4章、5章
6月17日(月)〜22日(土)第4巻〜

このようになりますね!

わたしは、「生命の實相」は頭注版を40巻まで揃えてあります。
ですが、他にも、読んでいる本がたくさんあるので、今、「生命の實相」は第24巻で足踏み状態です。
わたしもいずれは全巻通読を目標にしてはいますが、「生命の實相」は、
ただ全巻読破すればいいというものではないと感じています。

昔は、第1巻を読むだけで、病気が治ってしまったり、人生が好転した人が続出したのですから、
その拝読の仕方や、心の持ち方に重要なポイントがあるのではないかと感じています。

先週の範囲からですが、わたしが赤線を引いた所を一部紹介させていただきます。
第3巻 生命編生命の円相の真理(上)第1章 p126 5行目〜

『聖典『生命の實相』や、月刊『生長の家』や諸種の小冊子を読んで、
それに書いてある真理を心のうちに飲んだ患者は、
物質的医学で治らなかった難病が、断然物質的治療法を無視して治っているのであります。
そしてまた、それに書いてある真理をよく理解した人が他の人に伝えてあげれば、
それだけで、物質的医学のもてあました病気が治っているのであります。…』

ここに、『真理を心のうちに飲んだ』や、『真理をよく理解した』という表現がありますが、
わたしは、そのような拝読の仕方を心がけていきたいと思っています。

1605a hope:2013/06/03(月) 23:30:00 ID:edEDolt2
>>1602 1603復興Gさま

<<その場合、テキストの範囲は、もう「神示」を2つずつというのではなく、神示のすべてと、第3巻「光明篇」全部(第1章〜第4章)にしたらよいと思います。
それですでに自主勉強会で予備学習済みですから、その蒸し返しではなく、新たな視点から、さらに生活・伝道に生かす研鑽をしたい。>>
<<皆様、どうぞ第3巻95頁までをもう一度拝読しなおして、それをより具体的に、「そのままの心」をあらわにして真剣に語り合ってまいりましょう。>>
<<その予習箇所は、新たな箇所ではなく、自主勉強会の内容の総括を、みなさん各自でなさってみたらいかがでしょうか。
膨大な量の貴重な書き込みがあったわけですが、まだ不消化なところもありましょうから、いまいちど読み返して
(できればプリントアウトして重要と思われるところには赤線を引くなどして)
それに対する自分の考えを確立しておく。>>

こちらの、復興Gさまのお言葉を a hope が要約させていただくと、

予習範囲:
①第3巻「光明篇」全部(第1章〜第4章)p95までを拝読しなおす。
②自主勉強会の内容の復習 
*このweb誌友会板の>>961から、自主勉強会用の参考資料として復興Gさまによる
「谷口雅春先生著 神示講義・自覚の巻『到彼岸の神示』より」の謹写が始まり、
その後、ユタカさまによる最初の自主勉強会が始まっています。

復興Gさまもおっしゃていますが、>>961からですと本当に膨大な量の書き込みの量になるかと思います。
復興Gさま、もしできましたら復興Gさまのご講話の「テーマ」や「内容」等をだいたいでいいので決めていただくと、
閲覧者の皆さまも予習がしやすいのではないかと思いますが、いかがでしょうか?

たとえば、復興Gさまの>>1556のご投稿内容からのテーマでしたら、「組織と信仰」みたいな感じで決めていただいてあると、
そのことについて、より深く個人個人が考えてweb誌友会に参加できるのではないかと思うのですが・・・。

わたしが、あまり発言してしまうとまた主導権を握ってしまうことになりそうなので、発言はこれくらいにさせていただきますが、
個人的には、復興Gさまのご講話は、訊け管理人さま司会の誌友会とともにとても楽しみにしています。
おそらく、他にもたくさんの方々が心待ちにされていると思われます。
どうぞ、よろしくお願いいたします。

1606復興G:2013/06/04(火) 09:48:01 ID:AB6RqYXc

>>1605 :a hope様。

>>予習範囲:
①第3巻「光明篇」全部(第1章〜第4章)p95までを拝読しなおす。
②自主勉強会の内容の復習 
復興Gさま、もしできましたら復興Gさまのご講話の「テーマ」や「内容」等をだいたいでいいので決めていただくと、閲覧者の皆さまも予習がしやすいのではないかと思いますが、いかがでしょうか?

たとえば、復興Gさまの>>1556のご投稿内容からのテーマでしたら、「組織と信仰」みたいな感じで決めていただいてあると、そのことについて、より深く個人個人が考えてweb誌友会に参加できるのではないかと思うのですが・・・。<<

――それは、いいですね。

「組織と信仰」――実は、私も「組織」というのが苦手で、今までやってきました。果たして「組織」と「信仰」は両立するのか? という疑問を感じながらやってきました。

しかし、「信仰」は個人のものでありながら同時に個人のものではない。
内面的には個人のものであるけれども、実際生活に於いては、『生命の實相』第3巻の巻頭にありましたように、

≪一人の生命が全体の生命のために生命を投げ出したとき、その生命は、全体の生命と一つになる。ひとりの生命がはなれ離れに動き出そうとするときには、いろいろの衝突や摩擦が起こるが、全体の生命とひとつになって、宇宙といっしょに動き出すならどこにもわれわれの活動に無理はおこらない。

 われわれが各個人(ひとりひとり)離ればなれに動き出すのは、たとえば、時計の針が針の力ばかりで動き出そうとするにもひとしい。そこには無理があり摩擦があり、ひょっとすればその時計の針が折れるかもしれないのである。

 しかし時計が全体の力で動いているときは実に小さなバネの力で長時間なめらかにそれは運転をつづけるのである。全体といっしょに動く生活、全体の力で生きる生活、自分だけの力で生きない生活、「我」で生きない生活、捨てたときおのずから生きてくる生活、これならいつまでたっても行きつまる気づかいはない。これが「生長の家」の生活である。≫

――そういう意味では、信仰生活は個人のものではない。全体の生命とひとつになって、全体とともに生きる生活でなければならない。

「個即全」というのが神の国のすがたであり、それを現実の国のすがた――国体として顕してきたのが日本ではなかったのか。

今、「組織と信仰」と言えば、教団に属している人は教団の組織運動と生活、ということを思い浮かべるでしょう。
しかし、その教団が本来の「一」なる神から離れておかしくなっているのではないかというので、“こちらこそ本流”と名乗る別派が幾つも生まれているのが現状です。

ですから、「組織と信仰」と言っても、人によって感じ方は様々であると思います。

「組織運動と信仰生活」と言えば、ややテーマが具体的に受けとりやすくなるかな――とも思いますが。

神の国、実相の国においては、すべては「一」であって、分裂はない。その神の国のすがたを地上にあらわすのが生長の家、「万教帰一」の人類光明化運動であると思います。

その生長の家が、分裂抗争しているのでは、話にならない。

では、信仰者として、われわれは今、何を為すべきか。

――そういう意味を含んだ「組織運動と信仰生活」というのをテーマにしたらいかがでしょうか。とても、とても大きな課題になると思いますが――。

1607志恩:2013/06/04(火) 11:07:25 ID:.QY5jUA6
復興G様

復興G様は、以前より、好き嫌いがはっきりされてるお方でいらして、
前々から、本流の方々が、だいきらいでいらっしゃることが、
復興G様のお言葉の端はしで、感じてまいりましたが、

このたびも、1606:で、元々の教えに回帰運動されてることについて、
分裂抗争しているのでは、話にならないと、本流の運動をされている方々を、酷評されてますが、

分裂しててでも、教えを護らなければ、と思われて運動されておられる方々に対する、
それは、復興G 様の するどい批判のお言葉に、私には聞こえます。

だれだって、したくてやってるわけでは、ないですよ。
しなかったら、どうなるか。。という想いで,皆様されておられるのです。

それでは、復興G様は、
雅宣総裁が、どのようなひどい行為をされても、すべては自分の心の鏡だ、合わせ鏡だと
とらえて、雅宣総裁の行為である現象はいっさい見ずに、おかしいことは、おかしいと思わないように、思わないように、
自分の心を諌めながら、雅宣総裁の実相を拝み、みずからは、神想観、聖経読誦、聖典拝読、

そして、愛行を、ひたすら実行して生きているのが、生長の家の信徒の、本当の生きかたであると
お示し下さっておられるのでしょうか?


雅宣総裁が、目にあまるようなあこぎな行いを、過去のみならず、現在進行形であるのに、
それらも、自分の責任だからと受け止めて、批判せず、分裂なんて言わず、ひつじのように、おとなしく生きていけと、おっしゃるのでしょうか?

私は、その考え方は、納得いきません。

合わなければ、分かれればいいでしょう。

雅春先生は、前の女性と別かれて、輝子先生と結婚されました。
恵美子先生も,前の夫と別れて、清超先生と結婚されました。
佳世子様も、前の夫と別れて、再婚されました。

合わなければ、別れておられるじゃないですか。

そして,その後、お幸せにお暮らしです。

無理矢理、トップの理不尽な考え方や,トップのあこぎな命令に合わせるのが、この教えの真理の生き方だとは、思えません.

根本の教えと違った方向へ行ってしまった。

いけないことは、いけないことなのですから。
人類にとっての、幸不幸を一番大切に考えて、真摯に生きてこそ、本来の生長の家の信徒の生き方ではないかと、
私は思います。


復興G様のお言葉〜

>>「組織運動と信仰生活」と言えば、ややテーマが具体的に受けとりやすくなるかな――とも思いますが。
神の国、実相の国においては、すべては「一」であって、分裂はない。その神の国のすがたを地上にあらわすのが生長の家、「万教帰一」の人類光明化運動であると思います。

その生長の家が、分裂抗争しているのでは、話にならない。<<

1608志恩:2013/06/04(火) 11:09:39 ID:.QY5jUA6
このような一見、分裂抗争があるから、
結果的には、将来、大調和という いい方向へ行くのではないでしょうか。

1609復興G:2013/06/04(火) 14:43:25 ID:AB6RqYXc

>>1608 :志恩様。

その通りだと思います。

私は、志恩様が >>1607で引用されたように、

>>「組織運動と信仰生活」と言えば、ややテーマが具体的に受けとりやすくなるかな――とも思いますが。
神の国、実相の国においては、すべては「一」であって、分裂はない。その神の国のすがたを地上にあらわすのが生長の家、「万教帰一」の人類光明化運動であると思います。その生長の家が、分裂抗争しているのでは、話にならない。<<

と申し上げただけであって、それ以外に何も言っておりません。

>>1556で志恩様が

>>復興G様 謹写〜
>>神の造りたまえる存在の実相に透徹し、その実相を雛型としてそれを現実世界に現わして[のみ]この世界は本当に地上天国となるのであります。我欲や見当違いで改造改造と力んでみても、各自の心に神の子としての生命の実相が見真されていなければ、盲人の手引きで、多数の盲人を河中へ突き落とすようにエッサエッサと改造の掛け声を掛けながら、現在の人類をまた別の地上地獄へ突き落とすに違いないのであります。
心が形の雛型となる! ではまず心に自己の生命の円相を自証せよ、組織は自然に浄まるであろう。
  (『生命の實相』第3巻 94頁より)<<
この謹写につきましてのことですが、これは、教団も、本流も、…われわれも、この精神で、、ということだと存じます。
しかし、もしも、これが、我欲や見当違いで、、ということが、本流のみを批判されるものでありましたら、それは、それこそ、見当違いだと、私は思います。<<

と書かれましたことは、その通りであると思っております。

>>1606で書いたことも、同じことです。
(本流のみを批判したわけではなく、これは、教団も、本流も、…われわれも、、、ということ。)

ありがとうございます。

1610復興G:2013/06/04(火) 14:46:24 ID:AB6RqYXc

間違えました。

上記の >>1556 は、 >>1566の間違いでした。

お詫びします。

1611志恩:2013/06/04(火) 14:56:25 ID:.QY5jUA6
復興G様

早速に、お返事をありがとうございます。
納得させて頂きました。

合掌 礼拝

1612ユタカ:2013/06/04(火) 17:24:11 ID:R1D4Jmeg
>>1605 a hope様 復興G様

>復興G様のを要約すると・・・・

と書かれてありましたが・・・ 復興G様が素晴らしい具体的な内容を提案なさっておられるのが書かれていらっしゃいませんので掲載させていただきます。

>>1602 今、『生命の實相』出版権をめぐる裁判に決着がついたので、そのことも無関係ではあり得ないでしょう。

「今こそ正念場」と私は>>1556に書いていましたが、この「正念場」において、観念論ではなく、どのように「正念」を顕して行くか。「今、起て!」と神は宣り給う。どのように起つか。

一人ひとりにその課題が突きつけられていると思います。
それを研鑽してまいりたいと思う次第です。

上記は非常に重要な見落とせない内容であると思われます。 吾々はこのような事態でどのように考え、行動していったらよいのか!!

今の状況にあった内容ですし、すぐには、答えがみつからないかも知れませんが、大いに発言できる内容だと思います。

今回はぜひ、吾々の「今を起つ」をどうしたら、どのように との内容で進行してまいりましょう。

よろしくお願いいたします。

1613ユタカ:2013/06/04(火) 17:27:15 ID:R1D4Jmeg
a hopeさま

再掲すると・・・

>>「今こそ正念場」と私は>>1556に書いていましたが、この「正念場」において、観念論ではなく、どのように「正念」を顕して行くか。「今、起て!」と神は宣り給う。どのように起つか。

一人ひとりにその課題が突きつけられていると思います。
それを研鑽してまいりたいと思う次第です。

==========
上記のように、復興G様のご提案で進行をさせてください。

どうか、よろしくお願いいたします。

1614a hope:2013/06/04(火) 20:20:38 ID:edEDolt2
>>1606復興Gさま

<<神の国、実相の国においては、すべては「一」であって、分裂はない。
その神の国のすがたを地上にあらわすのが生長の家、「万教帰一」の人類光明化運動であると思います。
その生長の家が、分裂抗争しているのでは、話にならない。
では、信仰者として、われわれは今、何を為すべきか。
――そういう意味を含んだ「組織運動と信仰生活」というのをテーマにしたらいかがでしょうか。
とても、とても大きな課題になると思いますが――。 >>


「生長の家」の教えを信仰する組織は、具体的にはどのような運動をしていくことが生長の家の大神の御心に沿うことになるのか?
そしてそれは、信徒個人の信仰生活とどう結びついていくのか?

わたしは、そういう復興Gさまのご講話が聴けて、さらに今回のweb誌友会で皆で話し合うことができたら素晴らしいと思います。
これは、教団側、本流(分派)側では、意見が大きく分かれるのではないかとも予想されます。

わたしは、「組織運動と信仰生活」というテーマでお勉強させていただきたいです。

1615a hope:2013/06/04(火) 20:21:29 ID:edEDolt2
>>1612 >>1613 ユタカさま

そうですね。
わたしは、一参加者としてweb誌友会に参加させていただく上で、どのような予習をしていったらいいのかと考えて、
そこに関する所だけを復興Gさまのご投稿からピックアップさせていただき要約させていただきました。

<<「今こそ正念場」と私は>>1556に書いていましたが、この「正念場」において、観念論ではなく、
どのように「正念」を顕して行くか。「今、起て!」と神は宣り給う。どのように起つか。
一人ひとりにその課題が突きつけられていると思います。
それを研鑽してまいりたいと思う次第です。>>

こちらの復興Gさまのご提案に関しましては、後半の誌友会の司会者である。
訊け管理人さま、ユタカさま、トキさまなど運営にかかわるか方々でお話を進めて行って下さったらうれしいです。

ですが、このことは「組織運動と信仰生活」というテーマとも、密接につながってくることだとも思います。
ですから、もちろん、わたしには異論はありません。

1616a hope:2013/06/04(火) 20:22:30 ID:edEDolt2
訊け管理人さま

復興Gさまが、ご講話のテーマを提案してくださっています。
後半の誌友会は、どのように進行されますか?
わたしは、訊け管理人司会の誌友会も、心から楽しみにしています。
どうぞ、よろしくお願いいたします。


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