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Web誌友会 板/2

1537復興G:2013/05/31(金) 14:06:13 ID:AB6RqYXc

<つづき>
 「宇宙大の大日輪」――日輪というのは太陽ですが、肉眼で見る太陽は現象でありますが、太陽の実相は虚空に満ちている「大生命体」であります。それを観ずるのであります。目の裡(うち)に、宇宙大の大日輪が充ち満ちておる光景を心に描き、その中央部に千葉(せんよう=千の花びら)の蓮(はちす)の花が浮んでおり、それが蓮華(れんげ)の台座となって、その上に観世音菩薩が坐っている光景を心に描いてじっと観ずるのであります。

 蓮華の台座の上に坐したまう観世音菩薩を心の眼に思い浮べて、そしてじっとそれをみつめまして、その観世音菩薩が、自分にじっと近接(ちかづ)いてきて、自分と一体になった感じを起すのです。そして我れ観世音菩薩なり、とこう観ずるわけであります。

 これを観ずる場合に、以上のような光景の観世音菩薩像を一間半ばかり距(はな)れた位置に掛けてそれを眼を半眼にひらいて見詰めながら精神統一に入り、やがて眼をとじてその観世音菩薩と一体になった感じを起されるのもよろしいのです。
 宇治市の生長の家練成道場の「祈りの間」には、有留弘泰(ありとめひろやす)氏の筆になる、大日輪中の蓮華の台座に坐したまう観世音菩薩像が掛けてありますが、あの前に正坐して、しばらくジッと観世音菩薩像を眺め、じっとみつめながら、その観世音菩薩は自分であって、自分自身が観世音菩薩であると観ずるのです。

 大日輪の霊気が自分に流れ入って、自分を生かしつつあるのであるとこう観じまして、静かに息を吸いながら「大日輪に生かされている、生かされている」と繰返して、

 「我れ大日輪の智慧なり、我れ大日輪の愛なり、我れ大日輪の生命なり、一切のもの我れに備わり、意(こころ)に従って集り来たり、用足りて自(おのず)から去る」と念ずるのであります。これは「般若心経」の観世音菩薩が深般若波羅蜜多の行法において、五蘊皆空と観ぜられたやり方を、近代化して、「蓮華日宝王地観」という神想観としてここに説明してあるのであります。

 次の如くお念じ下さい。

 『吾れ、今、五官の世界を去って、普(あまね)く吾が全身を観ずるに、この身このまま観世音菩薩なり。』

 こう念じて自分の全身が観世音菩薩であると観じます。

 自分を観世音菩薩と何故観じてもよいかと言うと、観世音は一定の形ある菩薩ではない。世の中の音を観じてその音の通りに現われ給う観自在の原理であり、その観自在の原理は各人におのおの豊かに備わっているからであります。

  『吾れ観世音菩薩、五蘊皆空と照見し、一切の苦厄を度す。
  物質はない、物質はない、物質はない……
  肉体はない、肉体はない、肉体はない……
  心もない、心もない、心もない……』

 じっとこう何回でも繰返して五蘊上に浮ぶ迷妄世界をすべて否定し去ります。物質も、肉体も、心も、そしてかく観ずる心も、ことごとく空(くう)じ去った世界に入ってしまって、

 『虚空中に宇宙大の大日輪浮ぶ。光明遍照実相世界ここなり』

 と念じて、見渡すかぎり明るい大日輪が宇宙一杯に充満している有様を観じ、そしてその大日輪中に千葉(せんよう)の蓮華が開いて浮んでいる有様をじっと観じて、

 『ここ蓮華蔵世界なり』

 と念じてその蓮華の台座の上に観世音菩薩坐し給う有様を見詰めて、

 『この菩薩は自分自身なり』

 と観じ、静かなる呼吸と共に、

 『大日輪の智慧吾れに流れ入る、流れ入る……
  大日輪の愛吾れに流れ入る、流れ入る……
  大日輪の生命吾れに流れ入る、流れ入る……
  吾れ大日輪の智慧なり。吾れ大日輪の愛なり。吾れ大日輪の生命なり。
  一切のもの吾れに備わり、意(こころ)に随(したが)って集り来たり、用足りて自から去る』

 と繰返し念じつつ自分が観世音菩薩で大日輪中に浮んでおり、大日輪の智慧、愛、生命が自分に流れ入る様を観ずるのであります。
<つづく>


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