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Web誌友会 板/2

1459復興G:2013/05/28(火) 20:37:07 ID:AB6RqYXc

<『新版 真理』第3巻より つづき>

     「構える心」は「対立の心」である

 ところで、「上手に書こう」と思うと、どうして上手に書けないかと云いますと、「構える心」を起すからでありますが、「構える心」を起しますと、何故上手に書けないかと云うと心の中に対立が出来るからであります。

 対立と云うと、「向き合って立つ」と云う意味でありまして、無心に全体が「一つ」に融合(とけあ)って、「自然そのままの動き」で動かないからであります。「細川侯が見ているから上手に書こう」と思う事は、「見られている者」と「見るもの」とが分かれていますし、「描く自分」と「描かれる絵」とが分かれていて一体になっていないのであります。

 禅と云うものは、「全」であり、「全一」であって、全体が分裂せずに、「一つ」になって円融自在に動くのでなければならないのであります。

 昔から馬に乗るのに上手な有様を形容しまして、「鞍上(あんじょう)人なく、鞍下(あんか)馬なく」と云いますが、鞍(くら)の上に人が乗っていながら馬と人とがわかれていないので一体になっているから人がないのも同じであり、鞍の下に馬がおりながらでも、人と馬とが一体になっているから、馬がまるで無いようだと云う意味であります。こんな状態こそ「禅」が「生活」に実現したときの相(すがた)だと云い得られるのであります。

 そこで、沢庵禅師が庭石の上に正坐して、ざんざと降る雨に濡れながら「どうじゃ、濡れていまいがな」と云われたのは、「雨」を「坐禅」の力で濡れないで見せようと構える心を起しているから、現実には雨に濡れたのであります。

 それは、そういう「雨を坐禅で濡れないで見せよう」というような問題を出すところに、その問題の出し方に、既に、「雨」と「坐禅」との対立があり、「坐禅」と云うものに心が引っかかってしまって、それ以外の方法に、いくらも雨に濡れないでいられる方法がありながら、それ以外の方法をとることが出来ない。自分が自分でつくった自分の条件にしばられて「自由自在」を失ったのであります。だからそれは「禅」(全)ではない、全力が出ていないのであります。だから「人間の実相は水に濡れず、火に焼けず」と云ってもやはり現象的には濡れているのであります。

 それと同じく、柳生但馬守が、剣で雨を斬り払ったその熟練は素晴しいのでありますが、熟練と云うものは「術」であって、「道」ではないのであります。「術」と云うのは相手に相対して如何に工夫すべきかと趣向して得た熟練でありますが、「剣術」が「剣道」となり、「術」が「道」になりますと、もう対立がなくなるのであります。

 対立が無くなると「全一(ぜんいつ)」になります。そして、全体一つの円滑な働きがあらわれてまいります。雨が降っているのを剣で斬り払う必要はない。必要に応じて、「全体一つ」の中から、その目的にとって一番必要なものが出て来、一番必要な働きが出て来るのであります。

 これを円融無礙(えんゆうむげ)と云います。剣者は剣にとらわれるから、雨を払うにも剣でなければならぬと、自分の自由自在性を縛ってしまうのであります。そこで私なら傘を貸して貰って傘を縕(さ)して雨に濡れないようにすると云ったのは、「心」が何ものにも捉われなかったら「剣」にとらわれず、「坐禅」にとらわれず、ありとあらゆる「全体一つ」のなかから最も適当なものを自由自在に選び出して来て、それを使うと云うことを云ったのであります。決して「傘」ばかりに捉われて云ったのではないのであります。

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

――以上は、『新版 真理』第3巻第20章の謹写文でありました。
<つづく>


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