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Web誌友会 板/2

1574a hope:2013/06/01(土) 07:57:56 ID:edEDolt2
みなさま おはようございます。

みなさまのペースに、だいぶ遅れてついて行っている a hopeですから、話がずれていたり、
すでにご指導してくださっている内容だったら、ごめんなさい。

>>153で3ユタカさまが、
<<皆さんは、『そのままでいい』をどのように考えますか??>>
と質問してくださっています。
自分なりに考えてみました。


(『そのままのでいい』 a hopeの見解)

実相は完全円満で傷つくことはないのだから、現象生活では自分の思うままに、何を言っても何をしてもいいというのは、
「我の心」であって、「そのままの心」ではなく、『そのままでいい』ということにはならないように思います。
『そのままでいい』というのは、『神の心のままでいい』ということなのだと思うのです。


神の子として神の御心に近づこうとする心、神の子の自覚を悟ろうとする誰もが本来持っている信仰心(向上心)ではないかと思います。

神の心=大和精神=愛

生長の家の「愛」は「自他一体の自覚」であるとここで教わりました。
目の前に現れた相手の姿は、自分の心を映した観世音菩薩さまであると思って、礼拝しそこから学ぼうとする心。

そんな心かな〜なんて思います。

わたしは、相手を「神の子」として尊重する気持ち(思いやりの心)が少しもないまま、
自分の我の心を出して何かを言ったり行動したりすることが、『そのままでいい』ということにはならないと思います。


志恩さまが、>>1410で、
<<われわれは、実相を表現する舞台として、この現象世界を与えられております。
だから、現象世界は、表現の場なのです。>>
と、ご指導してくださっています。

わたしも、まさにこの現象世界は、「神の心」を表現させるために、御親である神さまが、
わたしたち神の子に与えて下さった「最高の舞台」なんだと思います。


『そのままでいい』=『神の心のままでいい』ということになると思います。

わたしたち生長の家信徒は、その心に近づくために、聖典・聖経を拝読したり、神想観をしたり、愛行をするのだと思っていましたが、
違うのでしょうか?


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