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Web誌友会 板/2
1527
:
こんにちは
:2013/05/31(金) 05:09:59 ID:WncVVViE
>>1521
>>1522
ユタカ様
復興G様がお答えになるのが一番間違いないと思いますが、私なりに解釈いたしました。
>>1420
でのa hope様のお話
<<「日本国の実相はすでに完全円満なんですから、何もわたしたち信徒がそれを顕現させるために、現象の運動をする必要なんてないんですよね!」
わたしは、生長の家の『実相独在』とは、そういう事だと思っています。
真に『実相独在』を信じ切れば、ご飯を食べなくても生きられるだろうし、ミサイルもそれると思います。
だって、そういう奇蹟の数々のお話が「生命の實相」に山ほど紹介されていますし、それが、真の「生長の家の教え」なんだと思います。>>
これは、実相独在を生活に生きるという立場からのご発言であります。言い換えれば、絶対善の生活であります。
しかし、このご発言には「立場」へのこだわりがあります。
これについて、谷口雅春先生は、
「……絶対善の生活をしようと思ったならば、すべての「立場」を捨てなければならない。「善」という立場すらも捨てて、「そのまま」にならなければならない。」
(『新版 真理』第3巻 p.262)
と、復興Gさまは引用してご指導くださいました。
谷口雅春先生はその具体的なお話として、「沢庵禅師と柳生但馬守」のエピソードを用いて説明しています。
>>1455
「・・・雨にも少しも濡れないでこの庭を歩くことが出来ますか」
この沢庵禅師の問答に対して、
1. 柳生但馬守は、剣の技術で雨に濡れず歩こうとした。
2. 沢庵禅師は、実相独在の立場から雨に濡れていないことを示した。
3. 谷口雅春先生は、構える心なしにスラスラと何事も運ぶ「当り前の生活」を示された。
谷口雅春先生は、沢庵禅師の答えについてこう述べています。
「一応、禅の問答ではそれでよいとしましても、日常生活の上では、「雨に濡れないで歩いて見よ」と云われて、雨に着物や肉体が現に濡れていながら、「濡れないでいる」と頑張ることは無理で、これでは、吾々の日常生活が成立ちません。」
(『新版 真理』第3巻)
そしてさらに、こう喝破されています。
「実相人間は病まないものだ」とわかりましても、現に肉体に病気をあらわしておりましたら、その悟りは、生悟りでありまして、「人間は病まない」と云う自覚が、形にあらわれるほど強く深くなっていないと云うことになります。」
(同書。以下の引用も同じ)
沢庵禅師のお話は、実相が生活に生きていない生悟りだということですね。
それでは、実相が生活に生きるとはどういうことか?
谷口雅春先生曰く
「雨が降ったら傘を縕(さ)す」
奇跡でも何でもない。当たり前です。
「弾丸の雨の中に立っていても平気だ」ということが、実相の生活ということではない。
沢庵禅師のように実相(永遠に弾に当たらぬ私)にこだわると、実際には弾丸に当たって死ぬことになるでしょう。
(つづく)
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