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1455復興G:2013/05/28(火) 20:34:17 ID:AB6RqYXc

<『新版 真理』第3巻より つづき>

   第二十章 当り前が当り前の生活

     沢庵禅師と柳生但馬守

 あるとき沢庵(たくあん)禅師と柳生但馬守(やぎゅうたじまのかみ)とが禅の極意、剣の極意について談合(はなしあ)っていました。折柄(おりから)はげしく驟雨(にわかあめ)が降って来ました。

 沢庵禅師はそのとき柳生但馬守にむかって、
「そなたの剣の極意をもって、この篠(しの)つくような雨にも少しも濡れないでこの庭を歩くことが出来ますか。」と云いました。
「できると思います。」

 但馬守は立上ると、袴(はかま)の股立(ももだち)高くからげ、刀のさげ緒をもって甲斐甲斐しく襷(たすき)を十字にかけ、剣をぬいて篠つく雨の中におどり出ました。

 雨がざんざと降りしきる中を但馬守は丁々発止と、その雨を斬り払い、撥(は)ねとばして広いお庭をひとまわり廻りましたが、さすがに少しも濡れないのであります。

「いかがでござる。この通り剣の極意はこの降りしきる雨さえも、このように斬り払うことが出来るのです」と但馬守は座敷に帰って来ると、その濡れていない自分の着物などを振り返りながら、自慢そうに云いました。

 すると、沢庵禅師は、但馬守の着物を上から下へ、下から上ヘズッと眺め渡しておりましたが、袂(たもと)の裾に一滴、雨の雫(しずく)がかかっているのを見つけまして、

「但馬守どの、此処が濡れておりまするぞ。」と云いました。そして、

「拙衲(それがし)が、ひとつ雨に濡れないで此の庭へ出てみましょう。」

 こう云って沢庵禅師は外に出ますと、雨はいよいよざんざ降りしきります。禅師は大きな庭石の上に静かに坐って、坐禅しまして実にやすらかな表情(かおつき)で眼をつぶっていました。雨が降るのも、心の眼には見えないと云うような様子です。

 しばらく其処に坐っておりましたが、やがて沢庵禅師は立上って座敷へ帰ってまいりました。見れば全身濡れ鼠になって、着物からはぽたぽた雫が垂れております。それなのに沢庵禅師は悠然として、

「どうじゃ、少しも濡れていまいがな。」と申しました。

 何だか狐につままれたような話ではありませんか。しかし、沢庵禅師が「どうじゃ、濡れていまいがな」と云われたのは、「実相」のことなのであります。人間の「実相」は水に沈んでも溺れず、火に投ぜられても焼けず、金剛不壊(こんごうふえ)のものだと云うのであります。びしょびしょに濡れて、ぽたぽた雫が落ちているのは、「現象」のことなのであります。

     「実相」とは何? 「現象」とは何?

 ここで実相と現象との話をしなければ、はじめての方には一寸(ちょっと)わかりにくいかと思われるのであります。

 「人間は永遠に死なない」と云います。これは、実相すなわち実の相(すがた)のことを云うのでありまして、肉眼に見える「肉体」は死ぬのであります。この肉眼に現れて見える象(かたち)を「現象」と云うのであります。

 みなさんが三日月を見て、それを美人の眉のように「細い」と云います。しかし細く三日月に見える時にもお月様は「まんまるい」のであります。肉眼に見える方は、「現象」でありまして、常に変らず「まんまるい」と云う本当の相の方を「実相」と云うのであります。

 お月様は十五夜のときに一等まんまるく見え、その翌日から少しずつ欠けて来まして、しまいには全然見えなくなります。そのだんだん欠けたように現れて見える姿が現象でありますが、本当は、お月様は決して茶碗がかけるようには欠けるものではありません。どんなに欠けたように見えているときも、実は欠けないで「まんまるい」のです。この「まんまるい」のがお月様の実在の相(すがた)であって「実相」なのです。
<つづく>


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