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Web誌友会 板/2
1463
:
復興G
:2013/05/28(火) 23:19:57 ID:AB6RqYXc
a hope 様。
>>1460
髪の子さまへのレスとして書かれたご文章で、
>>わたしが疑問に思うのは、「現象や悪を認める」のは、虚説であるとハッキリおっしゃっている雅春先生が、戦後の混乱期にどうして現象を見て、現象の悪に対応された運動をされたのだろうかということです。
同じく、現人神であったキリストは、最後まで現象の悪を認めず、「肉体なし」「生き通しの生命」の真理を証明するために、自らの意志で十字架にかけられたのに、どうして雅春先生は現象の悪を認め、それにに抗議するような運動をされたのでしょか・・・?
雅春先生は、「生長の家の教え」から外れることをしてまで、その愛国心から日本と日本人を守ろうとされた。<<
というところですが、それに対するヒントが、
>>1456
の
「雨が降ったら傘を縕(さ)す」というご文章にあると思います。
また、『私の日本憲法論』ではp.317〜319に
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
>>宗教的立場から云えば軍備は不要
こう言う純粋な宗教的立場から申しますと、敵を予想しての軍備と言うものも不要である。況んや一国だけの軍備では足らぬからアメリカと共同防衛するための「安保条約」も「安保条約の改定」も不要だと言うことになるのであります。
心によって敵が敵でなくなるのだから数百数千億円をかけてロッキード飛行機を二百機とか三百機とか防衛のために常備しておかなければならないなどと考えるのは凡そ不要なものに国民の租税をつぎ込んで浪費すると言う譏(そし)りをまぬかれないのであります。
私は宗教家でありますから、そんな軍用飛行機も要らぬ、安保条約も要らぬ、心を調えることによって無敵平和の状態を現出することができると言いたいのであります。
そうです、「心」さえ本当に整えることができれば、身辺に起るところの事件は、自分の「心」の投影でありますから、自分の周囲に平和が実現するのであります。
しかし一国の運命はその国民大多数の心の反映でありますから、一人や二人や百人や千人や……或いは生長の家の信徒だけが平和の心になっていましても、日本国民の精神の大多数が「闘争精神」に満たされていたのでは、その国民全体の身辺に闘争を引寄せることになるのであります。
遠藤義雄さんもただひたすら南支の死刑囚獄舎で心を清め、もっぱら神想観三昧でいたときには蚊も南京虫も食わなかったけれども、日本へ帰って来て、闘争精神の満ちた世界で浮世の仕事をするようになったら現在は蚊にくわれるともその著書に書いておられます。宗教的理想論から言いますと、実相の世界――実在の世界――には闘争もない、戦争もない、微生物との闘いもないから病気もない。だから唯、その実相完全な世界のみを見つめておればよいと言う訳でありますけれども、国民全体がそのような心境にならない限り国家の運命もそのように平和にはならない。
外界を平和にするには内界を平和にしなければならない。ユネスコでも「戦争は先ず心の中に起る」と言っています。ところが現に日本国民は議会でも闘争闘争で明け暮れている。最近では暴徒が議会に乱入したような不祥事件を発生しております。
産業会社が労使双方に分裂して闘争精神を燃やしていない会社は稀だと言うことになってまいっています。人間の心はラジオ受信機のようなものでありまして、闘争の精神波動を起せば「闘争」を引寄せて具象化することになるのであります。
(中略)闘争精神がある中で、平和を得るにはどうすればよいかといいますと、力のバランスによるより仕方がないのでありまして……<<
(『私の日本憲法論』p.317〜319より)
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
――というわけで、「雨が降ったら傘を縕(さ)す」ように、闘争精神がある中で平和を得るには、「力のバランス」という傘をさす。
≪「心」が何ものにも捉われなかったら「剣」にとらわれず、「坐禅」にとらわれず、ありとあらゆる「全体一つ」のなかから最も適当なものを自由自在に選び出して来て、それを使う≫
と云うことをすることが、
>>雅春先生は、現象の悪を認め、「生長の家の教え」から外れることをされた<<
ということにはならないのではないかと、私は思いますが、いかがでしょうか。
まだまだ書きたいことはありますが、今夜はここまでにさせて頂きます。
おやすみなさい。
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