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961復興G:2013/05/05(日) 20:25:25 ID:AB6RqYXc

谷口雅春先生著
神示講義・自覚の巻『到彼岸の神示』より 謹写
   (原文は正漢字・歴史的仮名遣使用。ここでは新かな・当用漢字に書き換えました。)

   無相円相一切相の神示

 吾が臨(きた)れるは物のためではない、生命のためである。肉のためではない、霊のためである。これを覚(さと)るものは少い。物の生滅(しょうめつ)に心を捉えられ、物が殖えたときに信仰を高め、物が減ったときに信仰を失い、身体が健康になったときに神を讃え、家族の誰かに病気が起ったと言っては信仰を失うが如きは、神を信じているのではなく物を信じているのである。
 物は結局移り変るものであるから、物の御利益(りやく)の上に建てられた信仰は、物の移り変りによって壊(こわ)れるのである。

 神が病気を治して見せるのは、肉体は心でどうにでも移り変らせることが出来ると言う事実を見せて、『体(たい)』は念(こころ)の影だと言う真理をさとらせるためである。

 念(こころ)の影だと言う『体(たい)』とは肉体ばかりのことではない。幽体も霊体もすべて念(こころ)の影である。

 『死は無い』と言うのは肉体のことではない。現に肉体細胞は刻々死滅し流転(るてん)している。生き通しであるのは、斯(か)くならしめている『生命』のみである。

 『生命』のみが吾れであり汝であり、そのほかに吾れも汝もないのである。
 此の『生命』をみたまと言う。みたまの形は珠のように真ん円いからみたまと言うように解するものもあれども、真ん円いのは形のことではない。神は本来形無く、円満具足して自由自在であるから仮りに称して円相と言うのである。

 自由自在なるが故に或る時は龍神(りゅうじん)の姿を現じ、或る時は衣冠束帯(いかんそくたい)の姿を現じ、或る時は天使天童の姿を現ずる。いずれの姿も権化(ごんげ)であって偽(いつわり)ではない。しかし一つの形に執(しゅう)してそれのみを吾れであると思うものは、吾が真実を知らざるものである。吾が全相を知らざるものである。

 汝ら心して真(まこと)を知れ。汝(なんじ)たちも神の子であるから我れと同じきものである。肉体は汝の一つの現れであって汝の全相ではないのである。(昭和七年四月十日神示)


〔講 義〕

「吾が臨(きた)れるは物のためではない、生命のためである。肉のためではない、霊のためである。これを覚(さと)るものは少い。物の生滅(しょうめつ)に心を捉えられ、物が殖えたときに信仰を高め、物が減ったときに信仰を失い、身体が健康になったときに神を讃え、家族の誰かに病気が起ったと言っては信仰を失うが如きは、神を信じているのではなく物を信じているのである。物は結局移り変るものであるから、物の御利益(りやく)の上に建てられた信仰は、物の移り変りによって壊(こわ)れるのである。……」

 生長の家の信仰に入られますと、今まで医者にかかっても中々治らなかった病気か治ったり、今まで家族が不調和で家庭地獄が現出していた家族が調和して家庭に天国浄土が実現したりするのであります。戦争で傷ついて不具癈疾者とならなければならなかった筈の人でもおかげを頂いて現在健康で生活している人もあるのであります。

 例えば唯今、愛媛県伊予郡松前町大字横田に住んでいられる篠崎健三さんであります。この人は、支那事変のとき近衛歩兵第二聯隊に在隊していましたが、第一線に出て国家のために尽くしたいと思い、ついに意を決して上司へ歎願書を出して、昭和十四年五月四日、東京芝浦港より戦地へ向いました。

 篠崎さんの母親は生長の家を信仰していましたので、“言葉の力”で信念を強めてくれまして「健三よ、お前には決して敵の弾丸は中(あた)らないよ」と励ましてくれまして『甘露の法雨』をお守にくれました。それによって信念を得た篠崎さんは幾度戦闘に参加しましても不思議な位弾丸の方が避けてくれるのでした。前後左右に土けむりを立てて飛んで来る弾丸が篠崎さんの前進するに従って、「さながら雨降りに傘をさして歩むが如く」避けて通ってくれるのでした。(この形容は篠崎さん御自身の形容であります)
 信念は山をも動かすと言いますが全くその通りであります。
<つづく>


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