したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

Web誌友会 板/2

1528こんにちは:2013/05/31(金) 05:11:02 ID:WncVVViE
(つづき)
これを、谷口雅春先生はこう説明されています。
『「生長の家の生活」と云うのは当り前の生活を当り前にすることなのであります。』
『雨に濡れていながら、「実相の人間は濡れていないのじゃ」と頑張って見たりするのが、「禅の生活」ではないのであります。』
禅の生活とは、実相独在を生きることでしょう。

『「禅」と云うものが、実際生活の中に入り込んで来ますと、実際生活が何の矛盾も摩擦もなく、構える心なしにスラスラと何事も運ぶようになるのであります。』
つまり、構える心がなくなる。
『「善」という立場すらも捨てて、「そのまま」になる』ということでしょう。
実相という立場をも捨てよ、と。

谷口雅春先生は、
『「そのまま」は、もう善悪の立場を超えて、絶対と「一つ」になっているのであります。』とおっしゃいます。
本当に実相独在に立てば、実相と自分が完全にひとつだから、もはや実相はどこにもない。
自分のそのままの生活が、何でもない暮らしが、そのまま実相なのであります。
「これが実相、これが実相」と握り締めることが無くなり、自然体になる、ということでしょう。

これを、>>1458『平常の心が其のまま「道」である』と説明されています。

さらに、>>1459『「構える心」は「対立の心」である』として、実相独在にこだわる心と、あらゆる立場を捨て去った心について説明されています。
立場を捨て去った心のことを、「これを円融無礙(えんゆうむげ)と云います。」とも説明されています。

これらの説明をふまえて、
>>1463『というわけで、「雨が降ったら傘を縕(さ)す」ように、闘争精神がある中で平和を得るには、「力のバランス」という傘をさす。』
『雅春先生は、現象の悪を認め、「生長の家の教え」から外れることをされた、ということにはならないのではないかと、私は思います』
という復興G様のご指導につながるのだと思います。

要は、「当たり前の判断をして生活しなさい、それが実相を生きることですよ」ということですね。
腹が減ったら飯を食う。
眠くなったら布団に入る。
盗人がウロウロしていれば鍵をかける。
それが禅の生活である。

思うに、感謝も、愛も、礼拝も、無限力も、生かし合いも、健康も、人間の当たり前の姿の一面相です。
しかし、一面相にこだわると、それはもう実相じゃない。
実相は、どんな姿も立場も超えて自由自在である。
それは当たり前を生きることである。
そういうことなのではないでしょうか?

余談ですが、これは「総裁への中心帰一とは何か」にも通じるお話ですね。

私自身、自分でじっくりと解釈してみて、初めて理解できました。ユタカ様のおかげです。
ありがとうございました。
復興G様のご指導は素晴らしいですね。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板