[A] I See Myself(Thee,This)
[B] ⎿ That i see this
[C] ⎿ that it is [so]
上の式のうち文章Aは、自覚の境地を表し、見る我と見られる我とが、仮に相対の相(すがた)を示すが、じつは対立を絶して“絶対”するところの、超越の境位である。我と汝との“和”がこのような境地を表すならば、i see thee はそのままI See Thee=I See Myselfとなり、自覚をそういう個性で顕すこととなる。また、例えば馬術で「鞍上人なく鞍下馬なし」というごとき人馬一体の妙境を現ずるとき、i see thisがそのままI See This = I See Myselfの自覚となるであろう。
時は、上の式に明らかなように、個々人の背後に立ち、個々人の活動を容れる場所である故、個々人の眼の注がれる方向にないから、アウグスティヌスの歎じたように、時間とは何か?と問うとき、人は返答に窮するのである。しかし時は、根源の我のハタラキなるI See の対象たる地位にある故、時間とは何か?と問わぬ限りは、判っているような気がするのである。またそれは事の無数を容れる場所であると共に、カントが考えたように、事を直観する上の形式として機能している(直観というのはI See……thisの直接態を云う)。