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「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2

564金木犀:2012/07/04(水) 11:08:10 ID:TO5riW2s
時間と空間  佐藤通次博士

「時」に因んで、久しぶりに哲理を一つ説かせていただこう。キリスト教の神学の祖と言われる教父アウグストゥスに、時間についての有名な論があるが、さて、時間とは何であるかを改めて自らに問うとき、人は何と答えてよいか途方に暮れる、と言っている。時間は、ここに人が立っているとか、これは一箇の石であるとかの存在ではなく、これをいわゆる“物”として捉えることができない。しかし心の直接態では判っているような気がするのである。それでドイツの哲学者カントは、時間と空間とは直観の形式であり、人が物を表象するとき、その物の枠として心が措定せざるを得ぬものであると説いた。

そこでわたくしは、いつか本欄で述べた自覚文章の論理を用いて、カントの説を判りやすく解説してみる。

[A] I See Myself(Thee,This)
[B]    ⎿ That i see this
[C] ⎿ that it is [so]

上の式のうち文章Aは、自覚の境地を表し、見る我と見られる我とが、仮に相対の相(すがた)を示すが、じつは対立を絶して“絶対”するところの、超越の境位である。我と汝との“和”がこのような境地を表すならば、i see thee はそのままI See Thee=I See Myselfとなり、自覚をそういう個性で顕すこととなる。また、例えば馬術で「鞍上人なく鞍下馬なし」というごとき人馬一体の妙境を現ずるとき、i see thisがそのままI See This = I  See Myselfの自覚となるであろう。

文章Bは個々人としての吾々の現実を表す。現実の個々人は対象(物)なり対者(他の人)なりに対する相対界に生きるが、文章Aの我は、超越の位に立つ。その我は、眼にはそれと見えぬが、吾々の誰にも厳として内在し、その我がじつは本然の我(我の本体)なのである。

文章B(現実の相対境)は文章Aに従属する一段低次元の世界である。BをAにつなぐものは、AのThisが間接化したるThatであるが、わたくしはこのThatこそが、“時”であると考える。Bの現実は、すべてこのThatの下に展開する故、わたくしは時を定義して、 「事の無数を容れる場所である」とする。

そして、文章Bの対象thisが間接化して、文章Cを導入する接続詞となったthatの本質を“空間”と考える。空間は、これを「物の無数を容れる場所である」と定義することができよう。それの次に位置するitは、文章Bの体格thisが仮に判断文の主格としてたてられるものである。

時は、上の式に明らかなように、個々人の背後に立ち、個々人の活動を容れる場所である故、個々人の眼の注がれる方向にないから、アウグスティヌスの歎じたように、時間とは何か?と問うとき、人は返答に窮するのである。しかし時は、根源の我のハタラキなるI See の対象たる地位にある故、時間とは何か?と問わぬ限りは、判っているような気がするのである。またそれは事の無数を容れる場所であると共に、カントが考えたように、事を直観する上の形式として機能している(直観というのはI See……thisの直接態を云う)。

吾々は時を分別することはできぬが、空間概念は判然と心に捉えることができる。それは、右の式に明らかなように、文章Cのthat(空間)は、Bの現実の個々人の眼の注がれる方向に立っているからである。よって人は、掴むことのできぬ“時”をば、掴むことのできる空間概念を媒介として、これを“時間”に変化せしめて
表象するのである。例えば「長い時間」「短い時間」束の間(一掴みほどの時)など。

哲学的には“時”そのものと“時間”とは質的に異なることを理解していただきたい。フランスの哲学者ベルクソンも、超越概念を表象するには必ず空間概念を媒介としなくてはならぬとと述べている。例えば神は、恐らく“幽身”であろう。カミは隠れて見えぬ超越者であるが、隠れるというのは空間概念である。神の座と考えられる欧語heaven(英語)、Himmal(ドイツ語)は、“蔽い・隠された処・見えざる境”の義でやはり空間概念を用いて言い表されている。


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