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「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2

627a hope:2012/08/17(金) 09:00:11 ID:r8H4x9xE
(つづき)
その時、伊藤講師は、
「私は、私があの気狂いを癒(なお)してやろうと思っていたが、何という高ぶった気持ちを持っておったか。この世界に気狂いありと認めている、その間違った私の心があの人に現れて、ああいう姿をとらしておったのだった。私の間違った思いがあの人を気狂いにしておったのです」と気がついた。そして伊藤清磨さんはこういって祈った。
「観世音菩薩さま、すみません。あなた様のお創りになったこの世界は既に完全円満であるのに、それなのに、まだ此の世に不完全な気狂いがあるなどと思い間違えていたその私の心の迷いを取り去り給え」
この祈りの言葉を一心に繰り返して無我無心の状態に入っていた。そして、幾時間を経たのか、時間のたつのもわからないで、完全な実相のみ実在するという念のみがそこにあった。
フト、気がつくと、
「もしもし、どうしたのですか」
と、肩をたたく人がある。眼を開いて見ると、正気にかえった江口さんが、自分を心配そうに覗き込んでおられたのである。
これは、まことに他(ひと)の為に祈る典型であるということができる。
江口さんが一時、精神錯乱の状態であったのは江口さんの心が妻の他界のために乱れた反映が肉体にあらわれたのである。伊藤講師が江口さんに逢ったのは、その時が初めてであるが、伊藤講師と江口さんとの接触が始まると、伊藤講師の心の状態が江口さんに感応することになるのである。
そして、周囲の人が(伊藤講師を含む)彼を気狂いだと観ている限りは気狂いは治らないのである。「観ることは現すことであり、観る心は創造(つく)る力をもつ」。伊藤講師の心の中に、江口氏が既に“神の子”で健全であることをハッキリ強く知り且つ観ることが出来れば、本来健全であるところの江口氏の実相が顕現するのである。このことを生長の家では、「すでにすべて人は癒されているのである」という。神の子たる人間に病は無いのである。どこにもだれも「病気の人も、不幸の人もないのである」。すべての人は神の子であり、病気も不幸もないのである。ただ自分が、彼を病気であり、不幸であると「観ていた」に過ぎないのである。
「観(かん)」を変えることが必要である。祈ってあげる者がなすべき役割は、ただ神の造りたまうた実在の世界の完全円満であることを観、それを不完全であり、不健康であると観た間違いを懺悔し切り、無条件に実相の完全さの前に降伏することなのである。
相手を癒すのではないのである。こちらが相手を完全と観る修行である。病気であるのを癒すのではない。自分が彼を病気だと見る心を癒すために実相完全の相(すがた)を祈りの内に思念するのである。
(つづく)


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