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「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2

629a hope:2012/08/17(金) 09:03:50 ID:r8H4x9xE
(つづき)
“祈ってあげる人”も“祈ってもらう人”も、赤の他人で、何の関係もなかった人間同志だと思えるのであるけれども、そのような人達は、“類業(るいごう)”“類縁(るいえん)”によって“一体(ひとつ)”に結ばれているのであって、その祈ってあげる人が、相手の実相完全な姿を真に悟ったら、相手と共に自分自身が救われ、相手が癒され、自分が癒されることになるのである。
もっと広義に考えるならば、地上のすべての人類は“類業”“類縁”によって一体なのである。だから、あり最高の聖者は「世界人類が一人でもまだ苦しんでいるのは、私ひとりの罪である」と言い切ったのである。“罪”とは、“包み”隠していることであり、一人でもまだこの世に苦しんでいる人があるのは、自分がまだ、全人類が皆神の子・完全円満であることを真に観る境地に達していないその罪のあらわれだという意味である。
さて、その後、一年半ほどして坂本さんが再び飛田給を訪ねてこられて、次のように言われたのであった。
「練成会から帰りまして、その後現象的には色々のことがありましたが、その度に、あの祈り合いの時本当に自分を忘れて祈ったあの気持ちを思い出し、そうだ、あの気持ちでやれば、どんなことでも解決するんだと進んできました。本当に、祈り合いの、あの体験は、私の生涯を永遠に導く光です」
祈り合いをして、祈ってもらう方にも体験がでるが、それ以上に、祈った人方に、より多くの感激と悦びの体験がでるのである。しかし、坂本さんの体験を単に実験心理学上の出来事だと考えると間違いなのである。吉田講師が唯(ただ)あれだけの発言をしたのに、坂本さんが非常な感激をして嗚咽(おえつ)がとまらず、さらに深い真理の体験を得たことは、この練成会を指導してい給う神の指導と加護とが加わっていることを見逃してはならないのである。
練成に来て、神想観をして、いつまでたっても手が痛い、足が痛い、雑念が湧く、「私は何とつまらない人間だろう」と劣等感を持っていた人が、祈り合いの時、同室の人が、その人に祈って欲しいと前に出た。
「よし!今日はもう自分のことなど、どうでもよい。あの人の幸福のために祈ろう」と、真剣に祈った。祈り終わってみたら、足も痛くなく、手も疲れない。時間も忘れて、涙をポロポロ流して祈っていた。
「自分は今まで、何とつまらない、やくざな人間かと思っていたが、この私の中にも、こんなにまで無我なって涙を流して他(ひと)のために祈り得る神の愛があったのか」ということに気がつき、劣等感、ノイローゼが解消した、本当の神想観の悦びが分かった、というような体験が毎月の祈り合いで数多く報告されているのである。
今、こうして、祈らせていただくべく眼の前にある人は、自分の過去の業(ごう)を消し、自分を導く観世音菩薩様なのである。自分が祈ってやるのではない、祈らしていただくのであるという気持ちが大切である。そこに神の癒力がはたらくのであって、人間の自力で奇跡的治療が行われるのではないのである。
(終わり)


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