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聖典引用 板

2705a hope:2013/12/15(日) 12:42:51 ID:/9IAdiFk

(a hope所感)

文中に、『根本的に「人間は神の子である」との大真理を悟っていたならば、
その人は「久遠生命」の本来相を通してすでに救われているのであるからである。』
とありますが、
この大真理を悟らせるために、谷口雅春先生がわたしたち「生長の家」信徒に残して下さったのが、
聖典「生命の實相」なのだと思うのです。
ですから、誰でも、聖典「生命の實相」を真剣に拝読すれば必ず大真理を悟れて、
必ず救われると思うのです。
だって、そう聖典「生命の實相」に書いてあるのです。

これはわたしの個人的な意見ですが、現在の「生長の家」はこの「生命の實相」の文書伝道を忘れ、
それ以外の練成会や講習会等、または「生命の實相」以外の「生長の家」の書籍等を中心にしての伝道がメインになってしまっているような気がします。
わたしは、そこに「生長の家」の混乱の原因があるのだと思っています。
(この「生長の家」という意味は、教団のことでも、他の「生長の家」関係の団体さまのことでもありません。
「生長の家」の教えを信仰する信徒一人一人という意味で使わせていただきました)

わたしは自分自身が「反生長の家信徒でありながら、みずから生長の家の信徒であると誣称(ふしょう)している」
というような悲惨なことにならないために、これからも真剣に「生命の實相」を拝読しつづけ、
「人間は神の子である」の大真理をさとる努力をしたいと思っています。

※誣称(ふしょう)…誣(いつわ)って称(とな)える。(頭注より)

2706SAKURA:2013/12/17(火) 19:03:48 ID:d1sbFPns
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681>>2682>>2694 投稿の続きです

■□ 「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――−その①

   二 月 十六 日

 常に新しくなるものは老いない。老いるとは常に新しくなれないことの別名である。人
体の細胞を切り離して培養し、その培養基を常に新しく取り替えれば、結局人間の細胞
は永遠に分裂増殖して死なないものであることを生物学上の実験によって確かめられた
という。人間の肉体が老いて衰え死するということは、細胞が複雑に組み合っているため
に、常に新しくなれないからであって、必ずしも人間が老衰死するということが運命では
ないのである。ただ老衰死の原因は常にわれらが新しくなれないということが原因である。

 人間の心もそのとおりである。常に毎日新しくなれないものは死につつあるものである。
陳びつつあるものである。

 老人が陳腐であるといって人から嫌われるのは、ただ過去の惰力で生きており、過去の
惰力でものを考え、過去の惰力で行為をし、過去の惰力で若い人を推し測るからである。

 過去の惰力で行為されたものは、すでに形骸であって生命はない。これを称して型には
まるというのである。型にはまっているものは形は立派に見えても、もう屍である。

                            つづく

2707SAKURA:2013/12/17(火) 19:06:54 ID:d1sbFPns
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681>>2682>>2694>>2706 投稿の続きです

■□ 「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。
―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――−その②

>>2706 その①の投稿の続きです。…

PS:「トキ様」 へ   「観覧者の皆様」 へ
この様に本当に【人・生・は・進・歩・向・上・の・魂を・磨・く・事】しょうか??しかし、
この“言葉…”を誤解されている方が、此の現状では?実に多いのでしょうかと??

「雅春先生の本」を読誦していますのに〜〜〜>< 【分・派・の・方・達】は何一つ??
「先生の言葉」の意味を理解せずに??自分流?都合のいい“解・釈・論”ですから??
久しぶりに?皆様の投稿を閲覧させて頂きますと…正直!理解の捉え方が、本当に都合のいい“解・釈・論”
での展開でしょうか??そのように思えてなりません。

閲覧していても〜〜〜相変わらずの【繰り返し論…のコメント】何一つ、進歩が見えずに?ただ!唯!
スル−!!スル−!!ばかりでは!!この様に、私一個人はみえてしまうのです。…が?
果たして、閲覧者の皆様(コメンタ−以外の方達)の中には、私と同様な…そのような見方をなされて
いる方も結構多いように思う次第なのです。…が?【 人それ…ぞれ〜♫】??

さて【老いる…】といいますのは、まず!【心が前に向いてなく遠くにボンヤリ人生の交差ばかりの
それは、現在存在するモノが見えない実現…又!出来ない悩み心の向上心の喪失でしょうかと??

■□━━━━『トーマス・カーライル』━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□

「我々にとって大切なことは、遠くにぼんやりと存在するモノに目をやることではなく、
手近にはっきりと存在することを実行することだ」

■□━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□

これを読んで参りますと『甘・露・の・法・雨』にも・・・
「外にこれを追い求むる者は夢を追いて走る者にして 永遠に神の国を得ることを能わず。」

これと同じように、先ばかり〜遠く!遠く!をボンヤリ……見る人は、いつまでも『神・の・国』に入れも
せずに、さらには、『老・人・化』していくのです〜〜〜ョネ!!と…私はこの頃思えます。…が?
『理・想…』は、確かにいいのでしょう。…が?

■【理・想・と・夢・は・違・い・ま・す…】理想は?あこがれで終わります。…が?〜〜〜〜〜♫
『夢…青写真』が出来上がりましたら、まず!【出来る事からフルに起動する事…】でしょうか??

極めて“平・凡”でも??日々を活かす事は【夢の実現…】に到達する事ですし?
しかも〜〜【前・向・き】に向上していく過程があり、それが【精・神・の・向・上】にも繋がる…
最終的には、見受けられていく事でしょうか??

■□日々を活かす事は、「一日の区切り…」は【成・功・の・鍵…】でもあり?
【老人化しない法則…】でもあるのではと?この頃ではつくづく思います。

■【人間は魂の向上を目指す事!!】そして【日々を活かすのが人間!!】と思います…。
トキ様?閲覧の皆様?は〜〜〜どのように思われますでしょうか??
                                  再合掌

2708エマソンの光明思想と生長の家 ①:2013/12/18(水) 22:18:50 ID:Wf383SKY
理想世界誌昭和四十七年十月号
輪読のための青 年法語

■エマソンの光明思想と生長の家

谷口雅春先生

■一日のことば 本当の人間は肉体人間ではな い

「わたくしたちが通常「人間」と呼ぶ者--つま り食べたり、飲んだり、栽培をしたり、取引の 勘定をしたりしている人間は、わたくしたちが 自覚しているようには、人間そものものを表さ ず、人間を歪めて表現しているのである。その ような肉体人間を私どもは尊敬しない。しかし ながらその肉体人間が魂の器官となって、その 行為を通して、内なる魂を表現せしめるならば 、わたしはその前に跪かずにはいられないので ある」 「What we commonly call man, the eating, dri nking, planting, counting man, does not, as we know him, represent himself, but misrep resents himself.

Him we do not respect, but the soul, whose or gan he is, would he let it appear through his action, would make our knees bend. 」

(これはエマソンの「The Over Soul」という エッセイの一節である。このエッセイの完訳は 日本教文社発行の「エマソン選集」第二巻「精 神について」の篇に出ている。なかなか丹念な 訳であるから読まれたい。しかしその訳の中で 「精神」と訳出されている原語はSoulであるか ら、そのつもりで読まれないと意味が混同され るおそれがある。上記の訳は一層わかり易くSo ul を「魂」又は「内なる魂」と訳したのである 。)

明らかにエマソンは「肉体人間」と「本当の人 間」とを区別して、飲んだり食ったり田を耕し たり商売勘定をしている「肉体人間」を、その まま「本当の人間」だと思ったら間違いである ということを書いているのである。それだから 、私はエマソンを近代における光明思想の幽祖 であるといっているのである。しかし釈尊は2 千数百年前の古代においてそれを説いていられ るのである。

2709トキ:2013/12/18(水) 22:34:33 ID:0/huqta2
>>2707

SAKURA様

 難しい問題ですが、今のような価値観が多様化した時代では、生長の家の信徒が増えると、
一つにまとめる事はかなり難しいとは感じます。政治の世界では、小さな政府か大きな政府
か、という議論がありますが、教団が対社会的な動きをする場合、利益や意見が対立する問題
にはあまり教団自身が乗り出すのが難しくなると思います。

 そうすると、もっと地味な内容の動き、具体的に言えば、生活に密着した信仰の具体化が大事
になるかと思います。

 個人としての信仰者が目指すのは、そういう点になるような気がします。

2710エマソンの光明思想と生長の家②:2013/12/19(木) 18:47:11 ID:bdCntvMw
理想世界誌昭和四十七年十月号

【輪読のための青 年法語】

◆エマソンの光明思想と生長の家

谷口雅春先生

■二日のことば

涅槃経にあらわれたる人間の実 相

涅槃経には釈尊が臨終の直前に見舞に来られ たところの人たちに対して、真理の説法をせら れた時の光景と、釈尊が直接彼らに ”真理” を伝授せられた説法とが載せられているので ある。

その涅槃経の ”金剛身品” に、金剛不壊 の実相身(本当の人間の身)のことが説かれて いる。釈尊と迦葉(かしょう)菩薩との対話の 一節を次に引用する。

「爾(そ)の時、世尊、後(また)、迦葉に告 げたまわく、”善男子、如来身とは是常住身、 不可壊身(ふかえしん)、金剛身、非雑食身( ひぞうじきしん)、即ち是れ法身(ほっしん) なり。”」

迦葉菩薩、仏に白(もう)して言(もう)さ く、

”世尊、仏の説き給う所の如き等の身を、われ 悉く見ず。唯、無常、破壊(はえ)、塵土(じ んど)、雑食(ぞうじき)の身をのみ見る。何 故かと言えば、如来は、今当(まさ)に涅槃に 入ろうとしていられるからである。”

迦葉菩薩の指摘したところの ”無常” と いうのは、釈尊の説かれる”常住身”に対して いわれた語であり、”破壊(はえ)”というの は、釈尊の所謂る ”不可壊身(ふかえしん) ” に対した語であり、”塵土(じんど)” というのは『創世記』にアダムとイブが ”土 の塵(ちり)” でつくられたとあるーー即ち 結局、滅して土に帰る唯物論的人間観の表現で あるのである。しかし迦葉菩薩が、今まさに涅 槃に入り、滅して土に帰ると、肉眼で見たとこ ろの人間は、エマソンに言わせると「人間その ものを表わさず、人間を歪めて表わしているの である。」

だから釈尊は迦葉に対して反論して次の如く 言っていられるのである。

「汝、いま、如来の身は ”不堅(ふけん)” である ”可壊(かえ)” であって、凡夫 (注・肉体人間)の身の如しと考えているが、 そんな考えを起こしてはならない。善男子よ、 汝、今当に知るべし、如来の身は無量億劫堅牢 (むりょうおくこうけんろう)にして壊(くだ)け がたいものである。如来の身は、現象界の人間 や天人のもつ身ではない。恐怖によって病気を 起こすような身ではない。雑食で栄養を摂らな かったら死ぬような身ではない。如来の身は ”非身是身(ひしんぜしん)” だ(この身に 非らざる身が是こそ実相の身なのだ)それは不 生不滅だ。習わずして知り、修めずして一切に 通達して残すところなく、有限の身ではなく無 量無辺にして限りがないから、去って去ること なく、来たって来ることなく、去来を超えてい るから足跡もない。鳥の飛んだ後の青空にその 翼の跡をのこさない如く、”知” という ” 知” はなく、”形” という形はない。” 知” があって ”形” を把(つか)めば 汚れるということもあろうが、”知” がなく 、”形” がなく、青空そのもののように畢竟 清浄なのが如来の身だ・・・・・・・」

まだまだ涅槃経には実相身の清浄無碍広大無 辺なることがかいてあるが、これだけ引用した だけでも充分理解できると思う。併し頭脳で理 解できるだけではなく、それを生命と生命とが 触れ、本質と本質が触れ、実相と実相とが相触 れて、直接的に全的に自覚されなければ、本当 の悟りではないのである。

>>2708
エマソンの光明思想と生長の家①

2711エマソンの光明思想と生長の家③:2013/12/20(金) 21:49:30 ID:iqd0ui12
理想世界誌昭和四十七年十月号

【輪読のための青 年法語】

◆エマソンの光明思想と生長の家

谷口雅春先生

■ 三日のことば

人間の生命の本質について

エマソンに於いては、Soul という語を、生 命の奥の奥にある人間の ”本質” 又は ” 魂” という意味で使っているのである。これ を ”精神” と訳しても間違いではない。精 神という語は「精髄であるところの神(たまし い)」という意味をもっているからである。併 し、現代語として ”精神” という語が使わ れる場合には「あいつの精神はくさっている」 とか「あいつの精神はどうかしている」「精神 の退廃」とかいう風に、脳髄の作用として出て 来る一種の ”心の働き” を ”精神” と いう通俗語で表現することが多いのである。エ マソンのSoulという語を ”精神” と和訳さ れている場合、その”精神”という語をそんな ”脳髄のはたらきである精神” というよう な通俗な意味にとってはならないのである。そ れは ”人間の本質である魂” という意義に 解しなければならないのである。

そういう意味に解してエマソンのエッセイを 入江勇起男氏の訳を読んで行けば、エマソンの 真意味が光って来るのである。すなわち、

「人間の生命の本質である魂は一つの器官では なく、あらゆる器官を生かし働かせるものであ り、記憶、判断、比較の力のような一機能では なくて、これらを手足のように使うもの、一能 力ではなくて一つの光であり、知力または意志 ではなくて知力、意志の主であり、それらを含 む私どもの存在の背景をなすものである。つま り、Soul(魂)は何物にも属さない、また何物 にも所有されることのあり得ない無際限のもの である」というのである。

All goes to show that the soul in man is not an organ, but animates and exercises all the organs; is not a function, like t he power of memory, of calculation, of comparison, but uses these as h ands and feet; is not a faculty, but a light; is not the intellect or the will, but t he master of the intellect and the will; is the background of our being, in which they lie,--an immensity not possessed and that cannot be possessed.

このエマソンの人間のSoulの無際限を説くと ころは、涅槃経の「それは不生不滅だ、習わず して知り、修めずして一切に通達し、有限の身 ではなく、無量無辺にして限りがない」と説か れているのと同じ意義なのである。

>>2710

エマソンの光明思想と生長の家②

2712うのはな:2013/12/21(土) 04:20:11 ID:EEajPWOc
     『悟』への近道

 併しこの有難い法悦の境に達するにはどうしたら好いかこの有難い悟を得るにはどうしたら好いか、
これが問題なのであります。昔から悟を開いたと云ふ人はそう沢山にはいないのであります。
釈迦、キリスト以来名僧知識が出られましたけれども、それは数えるほどしか出ていないのであります。

 此のように悟を開くと云うことは、なまやさしいことではないのであります。生長の家では割合にやさしく悟が
開けるように工夫されているのであります。そこが今までの宗教と異うところであります。
『悟』の中味に違いはないのでありますけれども、導き方が大変やさしく出来ているのであります。
それは近道から直ぐ『悟』の世界へぶつ衝かるようになっているのであります。

 その近道はどんな近道かと申しますと、『物質はない』『肉体はない』と云う近道であります。
今まで多くの教祖がお苦しみになって道を開かれた、お釈迦様が悟の道をお開きになったのにも大変な
苦労がありましたが、それは『肉体はない』と云う近道をお通りにならなかったからであります。

 この肉体と云うものをあるとお認めになって、この『肉体』をどう始末したらよかろうかと云うので、
肉体を山へ籠らせ足り、飯も食はずに頑張ったりして苦行をして来られたのであります。肉体をアルとして取扱うから、
どうも、此の肉体が嵩張って其の取扱方が不便になるのであります。この肉体と云うものがあるとすると、肉体と云う奴はほかの
『肉体』を殺して殺生をして生きている、肉体と云うものがあるので人と人との争い、恨み、色々な地獄の真似のようなことをやっている。
そこでこの肉体と云う奴の始末をつけなければならない。

 その始末をつけるのには何うしよう?こう思って多くの教祖は苦しまれたのでありますが、生長の家では『肉体なし、物質なし』と、此の始末にあまる
『肉体』をば、言葉の力と、思いを変えることによって始末してしまったのであります。
真理は簡単であります。理屈を言えば沢山言えますし、又、『生命の實相』にはその疑問にお答えする為に八方から詳しい理論が書いてありますけれども、それは
理屈を言う人に対しては、理屈を以て相対する方便説法であって、要するにそれは始末に終えない『肉体』の物質性を打破って自由自在の境地に入れるように工夫がしてあるのであります。

 まあ考えて御覧なさい。『此の肉体はアルように見えてもナイのだ、本当の自分は神のいのちだ』
と─斯う気がついたときのスガスガしさ、もう何も食べなければならないとも心配しないし、働き過ぎたり、勉強し過ぎたと思って身体が悪くなると云う心配もない。活動写真がフィルムの影で
あるのと同じように、身体は心に『思う通り』の影なのだとわかりますから、そこで心配も取越苦労もなくなり、心が朗らかになるから、血液循環もよくなるのであります。

 『愛と光との生活』谷口雅春先生著  ※原文は旧漢字、旧仮名遣い

2713エマソンの光明思想と生長の家④:2013/12/22(日) 14:54:51 ID:bAijypnk
理想世界誌昭和四十七年十月号

【輪読のための青 年法語】

■エマソンの光明思想と生長の家

谷口雅春先生

■四日のことば**

超越的自己を自覚するために

わたし達は「本当の自分」ではないところの単なる仮装の存在である肉体にばかり気をとられ、肉体が生活している「物質と見えている環境」の有様にのみ心を集中して生活している時には、この内在の「本当の自分」――――Soul(魂)なる自分には気がつかないのである。

しかし或る瞬間―――それは座禅や鎮魂や神想観や瞑想や―――兎も角、外界に心を振り向けずに自分の内的生命にのみひたすら心を振り向けた機会に、自己の内的生命の自覚が顕在になって来る。そのとき、イ エスが「われはアブラハムの生まれぬ前 (さき)より在るものなり」と自覚され た時のような、肉体の年齢や時間を超越 して実在するところの自分を自覚するの であるーー諸君もそれを自覚するときが 来るのだーーそのためには毎日怠らずに 神想観を実修するがよい。

【参考資料】

自分の超越的自己を見出だそうとする必要はない。どちらにしてもそんなことは不可能である。自分の眼は、眼自体を見ることができるだろうか?
必要とされているのは、自分の記憶、心、身体、感情、思考との偽りの同一化を、執拗に脱落させていくことだけである。
この脱落には超人的な努力や理論的理解は不要である。
第一に必要とされているのは―――見ることができるものは見る者ではありえない、という―――ただひとつの理解だけである。
自分自身について知っていることは、すべて自分自身でも、知る者でもない。
内なる自己性は知覚することも定義することもできず、いかなる種類の対象にもなりえないものである。
束縛とは見る者とその対象となるあらゆる物事のまちがった同一化にすぎない。
解放は、このまちがいの単純な逆転からはじまるのである
・・・・・・・・
これは単純ではあるが、骨の折れる作業である。だが、その結果は、人生における解放意外の何ものでもない。
超越的自己はあらゆる伝統では聖なる耀きとされているからである。
原則的には自分の超越的自己は神(あなたが神をどう認識しようと)と同一の性質のものである。
究極的にはただ神のみが、われわれの眼をとおしてながめ、耳で聞き、口で話をするからである。

これこそがユングのメッセージであり、アメリカ原住民、タオイスト、ヒンドゥー教、イスラム教、仏教、キリスト教の聖者のメッセージでもある―――自分の魂の根底には人類自体の魂がある。

それは束縛から解放へ、恍惚から目覚めへ、時から永遠へ、死から不死へと導いてくれる聖なる超越的魂である。

ケンウィルバー著「無境界」より

>>2711
エマソンの光明思想と生長の家③

2714a hope:2013/12/22(日) 19:09:49 ID:/9IAdiFk

頭注版 生命の實相 第36巻 幸福生活篇 「第二章 ありのままの生活 四」より抜粋
 p47 2行目〜(日本教文社)

・・・人格の立派な人のなかには他(ひと)の世話になるということを非常にいやがって、自分でなるべく自分のことをしたいというような考えを持つ人がたくさんあります。「生長の家」の教えにも「自分ひとりで立て」という意味のことが書いてあります。

たとえば中風の人が杖に縋(すが)らなければ歩けないと信じて杖に縋っている。そのためにいつまでも中風がなおらない。そんなときに、すべて他に頼るような頼り心というものは悪いものであって、一人で立つようにしなければならない、生命は一人で立つのが本当であるから一人で立つようにしなければいけない、依頼心を起こすのはいけないと教えてあり、本当にその教えを信じて「ひとりで立つ」という心を素直に起こした人はその人の中風は治ってしまうのであります。

ところがそれも一つの※対機説法でありまして、依頼心ばかり起こしている人には依頼心を起こすのはいけないと説くのであります。みずから立つ力があることを忘れすべてに頼り、薬に頼り、あるいは他(ひと)の力に頼り、あるいは寄付合力に頼るような、そういうさもしい頼り心を持っている人には、そう説くことが相手を生かすことになるのであります。

しかしそれは対機説法であって、必ずしもあらゆる場合にあてはめてそれが真理だとは言えないのであります。宇宙は一体ですから本当は他給自足かつ自給他足であるのが本当なのです。頼り心を持つ人は他給自足とずるいことばかりを考えて自給他足を考えない。そこで「ひとりで立て」というのはそんな人に対する「喝(かつ)」なのであります。「ひとりで立て」といっても人間は決してひとりで生きることができないのです。

わしはだれにも頼らぬといっても、自分で稲を植えて、自分で収穫して、自分で蚕を飼って、自分で糸を紡いで、自分で織物をこしらえて、自分で染物をして、自分で縫ってと、そういうぐあいにひとりの力ではとうていそれはできないのです。そこで本当の真理はどうであるかといいますと自他一体が本当の真理であります。自給他足かつ他給自足ということになるのであります。このどちらが欠けてもいけないのです。
(つづく)

2715a hope:2013/12/22(日) 19:10:43 ID:/9IAdiFk
>>2714つづき)

いつも薬に頼り、物に頼り、人様のやっかいになることばかり考えている人には「自ら立て」「物質はない」「いのちはそれ自身で立つ」と申します。そこを『生命の實相』を読む人は、よく考えて読まなければならないのです。

真理は目に見えないから、現実の言葉で言い表そうとすると対機説法になるのです。現象はすべて相対的にあらわれているから対機説法ということができます。対機説法でないそのままの真理を言えと言われたら、天地とともに黙っているほかはないのです。天地は常に説法し、常に黙っています。

対機説法を見て、こことここと矛盾しているなどとある場所の一句とこちらの場所の一句とを持って来て並べてみて、一方は「他(ひと)に頼るな、みずから立て」と書いてあるかと思うと、一方は「他給自足」だと書いてあるから大変矛盾しているなどと理屈を言う人は文字に引っかかっているのです。

文字は真理に到らしむるために書いてあるので、決して矛盾ではないのであります。言葉に引っかかれば矛盾であり、文字だけを見れば矛盾のように見えましても、矛盾ではない。右手を動かし左手を動かしましても右へも左へも行くためでなく、まっすぐに泳いで行くために右手を動かし左手を動かすのであります。目的は右にもなければ、左にもないのであります。

※対機説法・・・相手の機根(きこん)つまり素質に応じて理解のゆくように法(真理)を説くこと。また、その説法。

2716a hope:2013/12/22(日) 19:12:34 ID:/9IAdiFk

>>2714 >>2715 a hope 所感)

聖典『生命の實相』を拝読していて、わたしが心のどこかでいつも感じていた微かな疑問がここで解消されました。

その疑問とはなにかというと、

「『生命の實相』は神さまが谷口雅春先生を通して書かれた聖典だと言われていますし、
わたしもそう信じていますが、その内容の多くは谷口雅春先生以外の講師や信徒の体験談なのです。
それらの内容も神のオコトバ(絶対の真理)と言えるのだろうか?」

ということでした。

ですが、わたしが今回謹写させていただいた場所を拝読していて、わたしはその疑問をすっきり解消できました。

文中に、

「真理は目に見えないから、現実の言葉で言い表そうとすると対機説法になるのです。現象はすべて相対的にあらわれているから対機説法ということができます。対機説法でないそのままの真理を言えと言われたら、天地とともに黙っているほかはないのです。天地は常に説法し、常に黙っています。」

とあります。

ということは、『生命の實相』はじめ、すべての聖典は、全文が対機説法だったのですね!
要するに、「真理」は言葉では直接言い表せないのだから、
『生命の實相』や他の聖典のコトバや文字に捉われていては「真理」は悟れないというわけですね。

聖典文中の矛盾と感じられることも、すべてが対機説法なのだから当たり前なわけですから、
そのコトバや文字に捉われることなく素直に拝読し、表面ではなく波動を捉え、
自己の魂に共振させるような読み方をすればいいのだと思いました。

クロールをするにしても、水中で休むことなく右手や左手、右足や左足をぐるぐるバタバタ動かして泳いでいれば必ずゴールに到着します。
そこで、立ち止まって「どうしてこういう風に体を動かすと前に進むのだろう?」
なんて考えていたらいつまでたってもゴールには到着しません。

聖典も、深く考えることなく、素直に拝読していれば、必ず「真理」に到着するようにできているのだと思いました。

2717アクエリアン:2013/12/23(月) 13:00:56 ID:bAijypnk
谷口雅春先生の青年法語の中で、超越的自己について説かれていますので、それに関連した、アメリカの光明思想家マリアンウィリアムソン女史のユニティマガジンの文章の一部を紹介させてもらいます。私は非常に感銘を受けた記事であります。
全文は下記のURLでどうぞ。
http://content.unity.org/homepageArchive/features/agingSpirituality.html

Aging Spiritually (霊的に年を重ねる)

By Marianne Williamson

Excerpt from the March/April 2008 issue of Unity Magazine (ユニティマガジン2008年3、4月 号の記事からの抜粋)

My father once told me, “When you’re old, you don’t feel old.” I can appreciate what he meant when he said that, as I ponder the fact that the essential being I am inside myse lf is the same in my 50s as when I was only 15.
So who am I really?
Am I the woman who has changed with age, or am I the changeless self within?
Am I the woman who is encased in time or the being who dwells apart from it?

【語句】 appreciate:称賛する、感謝する、正しく 認識する
ponder:じっくり考える
encase:すっぽり包む dwell:住む

私の父がかつて次のように私に語ったこ とがありました。
「お前が年をとったとしてもお前は自分 が老いたとは感じないよ。」
私は父がこのことを語ったとき何を言お うとしていたのか、ということが、今の 私なら理解できます。 というのも、私は、私の内なる本質は、 15歳のときだろうが、50歳代のとき だろうが、不変なのであるという事実を 、ずっと考え続けているからです。
それでは、私とは一体いかなる存在なの でしょうか?
年齢とともに変わって行く一人の女性な のでしょうか?
あるいは、内なる不変の自己なのでしょ うか?
時間という要素に制約されている女性な のか?
あるいは、時間という要素の制約を超え た存在なのでしょうか?

Sometimes when referring to things that happened long ago, we say things like “I remember it like it was yes terday.” And that’s because in a way it was. If time, as Einstein declar ed, is merely an illusion of consciousness, then linear time itself is a metaphysical fiction; everything that has happened, is happening, or will happen, is happening now. There, in that realm of the eternal now, is the tr ue “I am.”

しばしば、かなり前に起きた事について 言及するとき、「それは昨日のことのよ うに覚えている」と言うことがある。そ して、それはある意味その通りだからな のです。もし、時間というものがアイン シュタインが言うように、単なる意識の 幻影でしかないのならば、一直線に進む 時間という概念そのものは、頭の中だけ のフィクションにしかすぎないというこ とになります。かつて起こったこと、今 起こっていること、そして将来起こるで あろうこと、これらのすべてのことは、 今この瞬間に起きているのです。永遠の 今という領域においてのみ、真の”私” が存在しているのです。

(続きます。)

2718アクエリアン:2013/12/23(月) 13:14:01 ID:xOsRIjpM
The eternal self dwells in eternity, and et ernity intersects linear time at only one point: the present. Who you are in this moment, therefore, is who you truly are. And from that esse ntial point of perfect being―created anew by God in every instant―m iracles flow naturally. Thoughts of love interrupt the past and open the f uture to new probabilities. No matter who you are, no matter how o ld you are, in the present, all things are possible.

久遠の自己は永遠のなかに存在するので す。そして、永遠と現象の直線的な、連 続する時間とは、ただ一つの地点ーーつ まり、現在ですねーーにおいて、まじわ るのです。この瞬間のあなたの姿が、そ れゆえに、あなたの本当の存在の顕れな のだということになります。そして、あ なたの本質は完全な存在である、つまり 真の自己は瞬間瞬間に神によって新たに 創造されているのだという絶対的な次元 から奇跡は自然に生まれてくるのです。 愛は過去を造り変えますし、未来に対し て新たな可能性を開くのです。現在のあ たながどのような境涯であろうと、何歳 であろうと、あらゆる可能性が開かれて いるのです。

The physical self ages, of course, but the spiritual self does not. As we identify more with the spiritual di mension of our lives, then our experience begins to shift from the c hangeable to the changeless . . . from limitation to limitlessness . . . fr om fear to love. As our journey through linear time gets s horter, our consciousness can in fact expand. And as it does, time itself is affected. The deeper we go into the love of God, the more we act ualize our earthly potential.

肉体の自己は、勿論、老化はまぬがれる ことはできませんが、霊的自己はそうで はないのです。私たちの思考が、もっと 霊的な次元に移行すればするほど、わた したちの経験は、不安定なものから不変 のものへ、限定から無限へ、恐怖から愛 へと転換しはじめるのです。わたしたち の意識が現象の時間の束縛から解放され る度合いにしたがって、わたしたちの意 識は本当に拡大していくのです。そして 意識が拡大していくと、時間そのものも 影響を受けます。わたしたちが神の愛の 中へ深く入っていけばいくほど、この地 上におけるわたしたちの潜在能力をより 多く実現していくのです。

The understanding of that which does no t change is the key to our power within a world that does. In aligning ours elves with the eternal self, we age not in a straight line leading from luscious youth to decrepit age, but rather like the flowering lotus openin g more and more to the light of the sun.

【語句】
luscious:甘美な、官能的な、きらびやかな

変化しない永遠の存在への覚醒が、この 無常の世界の中に潜むわたしたちのパワ ーを開花させるための鍵です。わたした ちの真の自己である永遠の自己に目覚め るとき、わたしたちは、甘美な青春期か ら老いぼれた老年期へという常識的な人 生のコースではなく、むしろ、蓮の花が 太陽の光に向かって花開くような年齢の とり方をするようになってくるのです。

Aging Spirituallyー((霊的に年を重ねる)

By Marianne Williamson

Excerpt from the March/April 2008 issue of Unity Magazine (ユニティマガジン2008年3、4月 号の記事からの抜粋)
http://content.unity.org/homepageArchive/features/agingSpirituality.html

>>2713
エマソンの光明思想と生長の家④

2719るん吉:2013/12/23(月) 16:49:46 ID:fYlJIcas
アクエリアンさま

英文と訳 有難うございます。ぜひ
読ませて頂き 勉強します。私は英語を勉強し初めて1年半位になります。

たまにyountube で英文で投稿しますが、一番最初に投稿した時は(1年半前に)

3通も返信がきて(カナダ人、スウェーデン人、イギリス人から)嬉しかったんですが

この時が最高で、それからあとは、良い時でも1通の返信です。無しのつぶても有やす。(・・。)ゞ

自分は、自動詞や他動詞さえ知らなかったので、ほんとに1からです。アクエリアンさんのブログにお邪魔したことが

あります。甘露の法雨が英文でかかれてました。が詩はわたしには まだ難しいです。
主語 述語動詞 目的語 や補語等や(目的語が二つ続いてるから前の目的語がSVOOの間接目的語か?)
 というような順序で まだ文を作っていきまた文を読み解いていってる段階です。(私の
いつか、you tubeや海外掲示板上で(日本人の事をすごい勘違いしたコメントがまだまだ
いっぱいありますので)そんなでたらめなコメに対して正しい事柄を投稿したいと
思ってます。それにはやっぱり英語をがんばらないといけません。ので・・
この文、 保存させてもらいます。有難うございました。

2720アクエリアン:2013/12/23(月) 21:52:32 ID:BUfrVyJk
るん吉様

コメントありがとうございます。

英語学習頑張って下さい。

最近、英語学習に非常に参考になる動画を発見しました。
同時通訳者横山カズ氏の「パワー音読」という動画です。

https://www.youtube.com/watch?v=T5-FhsAJW58&feature=youtube_gdata_player

こういうやり方で、音読をやっていけば英語力は飛躍的に伸びていくのではないかと思っています。

このウィリアムソン女史の英語などはパワー音読の教材として潜在意識の中に内在化させていくのには理想的ではないのかと思っています。(勿論、この内容に共鳴していることが条件ですが)

又、甘露の法雨の英訳文なども音読するのには最適の教材だと思います。

もう1つ、おすすめの本があります。
林則行著「「銅メダル英語」をめざせ―――発想を変えれば今すぐ話せる―――」(光文社新書)です。
私も最近読みまして、大いに参考になりました。ビジネスのために英語を必要としている人にとって、参考になるのではないかと思っています。アマゾンの書評は非常に評価が高いですね。

2721るん吉:2013/12/24(火) 00:42:50 ID:fYlJIcas
アクエリアンさま

動画、有難うございます、拝聴いたしました。
ふむ・・・。音読は大事ですね。文法とで車の両輪のようなかんじですかね。
この人が同時通訳というところが説得力を持ちますね。

有難うございます。ぜひ参考にさせていただきますね。

2723SAKURA:2013/12/28(土) 19:46:57 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681>>2682>>2694>>2706>>2707 投稿の続きです

■□ 「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――  その①
  二 月 十七 日

 ぼつぼつ樹木に新しい芽が出る。まだ嫩葉にも開かない前の、あのふっくりとした逞し
い樹の芽を見ていると、本当に若々しい生命に触れた気がする。開き切った葉よりもまだ
開かない新芽の方に力がある。生命は久遠であるが、現象界のものは何物でもまだ完全
に開き切らないものには底力がこもっている。宗教でも古い時代に起こったものは過ぎ
去る。今は新しい時代が来つつあるのである。史代革新期である。新しい酒を古き革袋に
容れるときは破れる。

―――――――――――――――――――――――――つづく――――――――

PS:「トキ様」 へ   「観覧者の皆様」へ
「トキ様」……この頃?思います〜〜事は〜〜
何も?何も?現状は〜〜〜“変・化・な・し”〜〜〜の状態なのです〜〜〜ョネ??

「山梨…森のオフイス」が本年度…秋から「国際本部」としての機能が、いざ開始となりました。…が?
「森のオフィス…建物の完成」〜〜〜当初!出来ました頃は、私も含め、きっと!「観覧者の皆様」も〜〜〜
一応は歓喜したのです。…が?ところが〜〜〜段々!段々!それに対して、私達の【環・境・問・題】と
【本・部・側…職・員】のこの【環・境・の・捉・え・方…】に、いささか戸惑いとか?逆に……
投稿内容を拝読しておりますと〜〜〜“幽・鬱・状・態…”になり?如何してもネガティブ感情が先行して
行くような感じでしょうか?

どうかしますと?こちらの“精神の状態”が〜〜〜段々と日常の生活慣習の相違から?ネガティブな状態に
陥りやすくされていく感じ?なのでしょうか??
これは、視点が、私どもの方からの見方ですから?逆に言いますと本部の職員側からですと…
果たして?現状は?理解する事が現在!未来!に於きましても、理解しがたいモノなのでしょうかと。!!
特に!若い年代の方は、「創立者・・・雅春先生時代」の頃の現状への理解は〜〜〜何処まで把握出来るのかが?
あくまでも「亡き両親」の【信・仰・へ・の・姿・勢】を?振り返りながら…複雑です〜〜〜ョネ!

■現状…彼らはいつも【信・者・優・先…のようにふるまう】かと言いましても?【中・身・は・相・変・わ・ら・ず…】
なのでしょうか?【一般=末端信者=老年層】は〜〜〜【もう!もう!窓際=川下】でしょうか??
…と思う位の“幽・鬱・状・態…”になります。

ですから〜〜〜><
                                        つづく

2724SAKURA:2013/12/28(土) 19:51:59 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

■□ 「管理人 トキ様」 へ

お忙しいと存じますが??【2重…投稿】となりましたので
>>2722 の投稿を…【削・除…】して頂きますよう、お願い申し上げます…。 (ごめんなさい)

                                    再合掌

2725SAKURA:2013/12/28(土) 19:56:28 ID:3/pn4/Pc
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681>>2682>>2694>>2706>>2707>>2723 投稿の続きです

■□ 「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――  その②

>>2723 の投稿の続きです…。

■このような時…今!今!〜〜〜今!私しか出来ない事とは?何かといいますと……
【心=意志を強くして行く事…】そして【愛の種を蒔く…種まき人間になるにはやはり書籍本を読み、真理をつかむ事】
この頃、つくづく思うのです〜〜〜。そして、まず私自身【心=意志の鍛錬の練習】と思いながら、
今は?ジ〜〜〜ット!見守っていても〜〜〜“芽…”が其処に出てくるのでしょうか?多少のジレンマを抱きながら、
今!今!私しか出来ないこの時…【 旅の開始…ゴーサイン 】となり出しましたので〜〜〜す。

■本当に「森のオフィス=山梨…」は、私達には【無・縁・の・世・界…】ですし、今!【エコ運動…】は、町の人間でも、
自分の取り巻く環境を踏まえて…いろんな角度での“戦・い…”が、必ずやあるのではないかと思えますから、
私は、自分の於かれました環境=街での軌・道・修・正…していくつもりです。

それでも、新しい建物を見ながら『長崎の総本山…』は、何の補修工事もなされていないようで…
「トイレ…のドア」それから、資料館の傍の「太陽光…設備」に於きましては、一部鉄の部分の腐食が長〜〜〜く!
そのまま!放置の状態でしょうかと?【信者…】ヘの??
唯!「信者の献金」がたよりで……【補修工事…】はどのようになされて】しまうのでしょうかと、思いますと、
一体「信者…」は【総本山ヘの長い間の参勤交代】…職員であります彼らの“生活を豊かにする…源”であり、
奴隷の如く……このように見えていた仕方がないのです。

■□「生長の家の本部…国際本部」と「信者」との〜〜〜共有性〜〜〜とは?果たしてありえるのでしょうか?
ノ−!ノ−!ノ−!〜〜〜♫ ノ−!ノ−!ノ−!〜〜〜♫

■この頃では?【情報社会…】ネットという媒体にて…こればかりが、最近!目についてしまいますので、
どうしてもネガティブな考え?感情?を抱く事になり仕方がないのです。…が?
■唯!いつの時代でも、現状!現時点で【ゆ・と・り・の・あ・る・方・は〜〜〜何・も・感・じ・な・い・の・で・し・ょ・う・か…】

新しい「船の舵…」は?「羅針盤…」は?
【信者の一人一人が自覚を持って…
信仰・哲学などの書物を片手に、真理をつかむ事へ…めざめて行く…この重要感を抱くべきかと思う私達です。】
…と、この頃、本当に思えるようになりました。此れが【新しい時代…】へと繋がるのでしょうか?

                                                 再合掌

2726SAKURA:2014/01/01(水) 21:55:21 ID:RIOFtJIE
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681>>2682>>2694>>2706>>2707>>2723>>2724>>2725 投稿の続きです

【  あけましておめでとうございます…。   元旦   】
■ 今年も引き続き…「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。
―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――
  一 月 一 日

 われわれを生かすのは明るい思想である。さし昇る朝日のごとくさわやかな思想であ
る。さし昇る朝日のごとくさわやかな精神こそ日本精神である。生命は暗黒の中にも光を
見る。暗室に置かれたる豆もやしは、外から洩れるわずかな光を求めて、光の方へ光
の方へと向いて行く。そして光のない間は長くかよわく貧弱に伸びて行くにすぎないが、
ひとたび光を得たトキには、太くしっかり逞しく勢いよく生長する。生命には光が必要
なのである。光が全然ないときには、伸びかかった豆もやしも数日間で枯れてしまう。再
び言う。生命には光が必要なのである。

 新しい年には新しい心が生まれる。元旦は物事の始めであり、生活更新に最も都合の良
い時である。他の時にも新しい覚悟ができ、賢明なる人はいつからでも新生活に突進しう
るが、われわれには新しい決意を実行するには元旦がよい。元旦からまず始めよう。そ
れは明るい心を持つということである。一度にあれこれもと考えて、それが実行できな
かったら、新しい決意も最初の一日から崩れてしまう。ただ今日一日明るい心を持つこと
にしたい。ただそれだけ一つのことである。これだけのことならばわたしにもできると思う。

 明るい心を持つには何事が起こっても怒らぬということである。何事が起こっても悲し
まぬということである。何事が起こっても失望せぬということである。何事が起こっても
怒らず悲しまず失望せぬためには、起こった事物は、「もうすんだのだ」と知ることである。
木枯に散る葉があるからこそ、春には美しい若葉の美が讃えられるのである。

 天地一新。悪しきことは未だかってひとつも起こらなかったし、これから起こらない。
それはすべて一新しゆく姿である。
                         谷口雅春著
PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」へ
今年の年末は、本当に【アクシデント…】発生しまして?これが【原・因…】でそれに、
振り回されてしまい〜〜〜><気が付きますと???
■本来の【おせち料理…】がやっと!やっと!今日で“出来上がるように…”なりました。…が?

このように、私の「心…の揺れ?」が、そのように【暗・黒・状・態…】になりましたのでしょうか?
しかしながら…本日の「創立者…谷口雅春先生」の“コトバ…”から…
すべては、相手がどうであろうと?相手がどのように思っていようとも?何事にも左右されない事!!

■【心に太陽の言葉…】を発生出来なければ〜〜〜と、改めて思った次第です…。そう!!
その【決意…】とは、当に、【元・旦…】から始めるべきでしょうか?
【心が、全てを支配している事への…確認!!】が、私なりに出来ましたようです!!

■□>>天地一新。悪しきことは未だかってひとつも起こらなかったし、これから起こらない。
それはすべて一新しゆく姿である。<< 一部抜粋…

毎日!毎日!今の私は…
【心・を・一・新・・し・て・い・く・事!】に…一新生活感に“突・入”です!!
                                  再合掌

2727トキ:2014/01/04(土) 20:36:15 ID:dipoCezs
SAKURA様

 素晴らしい聖典からのご文章、ありがとうございました。年末年始はバタバタしていますが、
こういう文章を拝読する事で、心が落ち着きますね。じっくりと聖典を読む事は、実は忙しい
人にはとても重要だと感じます。

 今年もよろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

2728SAKURA:2014/01/04(土) 21:57:39 ID:aWzD9cbE
「トキ様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)」の【SAKURA】で〜〜〜す。

■□ >>2727 「管理人 トキ様」へ
あけまして  おめでとうございます…。
こちらこそ…いつも励ましの“お声…お返事”いただきまして…感謝申し上げます…。

■>>じっくりと聖典を読む事は、実は忙しい人にはとても重要だと感じます。<<(抜粋文)

本当に聖典を拝読しますと…豊かになるための【 鍵 】となるのでしょうか?そう思います。
つまり「豊かな心…」になります…。
これは「あたえる心…」が?自分自身の“心…”に生みだされ…あの人にしてあげたいなぁ〜♫
広々とした【愛・の・心…】が生まれて来るようです…。

今後とも…投稿させて頂きます。それから!この機会をいただきました事に「トキ様」感謝申し上げます。
                                   再合掌

2729SAKURA:2014/01/06(月) 19:01:58 ID:jd1lCjOk
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681>>2682>>2694>>2706>>2707>>2723>>2724>>2725>>2726投稿の続きです
■ 今年も引き続き…「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――
  一 月 ニ 日

 すんだことの中に生活せず、「今」のなかに生活せよ。「今」は常に生きている。「今」の中
にはあらゆるものが輝いている。「今」は常に新しく、「今」は常に喜びに満ちている。過去
にどんな悲しいことがあったにしても、それについては思い煩うな。「今」天地一新したの
である。もう別の天地に生きているのである。過去に寒風に吹き暴されたことを嘆かない
で、「今」梅の花の喜びに満たされて咲いている。梅の花よりも尊く強く逞しきが人間である。
喜ぶべきことしかないのが人生である。            
=================================谷口雅春著
つづく

PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
■今日から…【仕事始め…】の会社が…多いですかと?思う次第です…。
そうですョネ!「今」を生かす事が「今」を歩む事への『人・生・観』でしょう!!
なのに?なのに?この“まどろんだ心…”は〜〜〜><
『元・旦…』早々、私は色々な“複・雑・観…”をいただく事になろうとは、思いもかけませんでした。…が?

『2014年度…今年』の出発は〜〜〜【暴・風…如く!吹き荒れた?空・模・様】なのですが、これも
異臭の私の「心の掃除・浄化作用…」と思いまして、前以上に、前に!前に!進む【人生の一本道…】を
だだ!ただ!ひたすら進む事でしょうかしら〜〜〜ン??
まず、今年も無事に「おせち料理」も間に合い!生かされた事に【感・謝】です〜〜〜ョネ!!

>>「今」梅の花の喜びに満たされて咲いている。梅の花よりも尊く強く逞しきが人間である。
喜ぶべきことしかなにのが人生である。<< 抜粋言葉…

■□まず!【感・謝・探・し・の・心・の・旅…】を見つける事が、
この【人生劇場のゲームの中での勝・利・者】となるわけなのでしょうか??

「観覧者の皆様」も?「今年の正月…」は、如何お過ごしでしたでしょうか??
改めまして…今年【2014年度…】素晴らしい年になります事を…御祈り申し上げます…。

                                    再合掌

2730SAKURA:2014/01/06(月) 19:21:25 ID:jd1lCjOk
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681>>2682>>2694>>2706>>2707>>2723>>2724>>2725>>2726>>2729投稿の続きです
■ 今年も引き続き…「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――
  一 月 三 日

■人生の唯一の目的は神の国をこの世に実現するということである。神の国とは天人常に
充満し、絶えず天鼓の響に妙え、摩訶曼陀羅華の花降る世界である。
天鼓とは天の鼓ではない。人間の人を賞め讃える声である。曼陀羅華とはインドにある
華ではない。華の笑むように和やかな微笑、親切な言葉、思いやりのある行ないが天上か
ら降る曼陀羅華である。
 これから天鼓と曼陀羅華とで飾られた妙なる世界の姿が天国である。天国とは別の世界の
ことではない。われらの思いと、言葉と、行ないとの中にある。(生命の実相からの言葉…)

==========================【 谷口雅春著 】========

                                   つづく

PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ

■「閲覧者の皆様」も?今日から【仕事始め…】となります会社が多いモノと思われます。
此処に【 2014年度 】が素晴らしい年になります事を…お祈りさせて頂きます…。

>>華の笑むように和やかな微笑、親切な言葉、思いやりのある行ないが天上か
ら降る曼陀羅華である<<  一部抜粋

■まさに、今年の日々の『教・訓』と思いますので、私も『肝…に銘じて…邁進!!邁進!!』
                                     再合掌

Cf: 先程【女子会 板】に日付を間違いまして…「一月二日」と記載投稿しましたが?
一月三日の間違いです…。改めて「訂正…」させて頂きます…。

                           再合掌

2731エマソンの光明思想と生長の 家⑤:2014/01/06(月) 20:39:54 ID:kzsrkxKM
理想世界誌昭和四十七年十月号

輪読のための青 年法語

◆エマソンの光明思想と生長の家

谷口雅春先生

■五日のことば ”生命は”常に前向きに前進 する

やがて、あなたに時間・空間を超越した実相 の自分を自覚し得た一瞬が来る。 それまでは、普通の人は「時間と空間の障壁は 真実で克服しがたく思われるほど、感覚の力は 心を圧倒してしまっている」とエマソンは言っ ている。私たちの肉体は、時間・空間の枠の中 で生活している。そしてこの肉体を五官の感覚 で見て実在であるかの如く感ずる。そして又、 肉体をとり巻いている外界の一切のものを、固 定した存在の如く考える。しかしエマソンは言 う。

「私どもが今固定していると考えることも、あ たかも熟れた果実のように、ポタリ、ポタリと 、私どもの経験から離脱して落ちて行くのだ・ ・・・・風景、人物、ボストン、ロンドンも昔 の制度や一抹の霧や煙と同様に一時的なものだ 。社会もそうだ、世界もそうだ。Soul(魂)は じっと前を見つめ、前途に一つの世界を創造し 、背後にいくつも世界を捨てていく。Soul(魂 )には日付けもなく、儀式もなく、からだもな く、専門もなく、人間もないのだ。Soul(魂) はSoul(魂)のみを知る。森羅万象はSoul(魂 )が包まれている外装に過ぎないのだ。」

The things we now esteem fixed shall, one by one, detach themselves like ripe fruit from our experience, and fall. The wi nd shall blow them none knows whither. The landscape, the figures, Boston, Lo ndon, are facts as fugitive as any institution past, or any whiff of mist or sm oke, and so is society, and so is the world. The soul looketh steadily forward s, creating a world before her, leaving worlds behind her. She has no dates, n or rites, nor persons, nor specialties nor men. The soul knows only the s oul; the web of events is the flowing robe in which she is clothed.

森羅万象は、(それは自分の肉体も引っくる めて)Soul(魂)が創造した外皮なのである。 それは蚕の生命が創造した繭のようなものであ り、蛇が生長して行く毎に脱皮する“皮”(蛇 の抜け殻)みたいなものである。脱け殻は蛇の 一時的外装であって、それは嘗て蛇によって創 造せられ、用終わりて棄て去られ消え行くべき ものなのである。生命は嘗て創造して、用を果 したところのものを棄てて行くが、”生命”は 死ぬのではなく、常に前向きに前進するのであ る。その”生命”がただの生きる力でなく、叡 智を備えた普遍的なものであるとみとめたとき 、それをSoul(魂)とエマソンは呼んでいるの である。

>>2713:エマソンの光明思想と生長の 家④

2732うのはな:2014/01/08(水) 20:35:10 ID:I1ZO449E

感謝行は同時に深切行である。ひとのために尽したならば自分の生命力が減ると思うのは迷信に
すぎない。信徒某氏は眼病の中でも最も難症だと言われている網膜剥離症に罹っていられて、
聖典『生命の実相』の細かい活字を読むのに、自分のために読むのだったら、一ページ半も読めば、
眼底と後頭部とに苦痛を感じて読むに堪えないのである。

 それだのに驚くなかれ、他の病気を癒してあげたいと思って『生命の實相』を他に読んで聞かせる段になると、
一時的にその眼疾が癒ってしまって、連続四、五十ページを読んでも眼に痛みを感ぜず、読後また眼の疲労を少しも
覚えないのである。

 『生命の實相』は自分の悟りのために読むのも結構であるが、他の悟りのために読んで聞かせてあげるのは一層結構である。
自分のためでない自他一体の無限生命力が発現し、自分のためでない所に自他一体の無限の悟りに到達する。
まだ病気が顕われているのは働きに利己主義の心持が混るからである。

 自分の病気が治ったら他を救ってあげようと思っていては機会がなく、他を救っている間は病気は治っているのである。
永久に他を救っていれば、永久に病気はない。

 頭注版 『生命の實相』第8巻 観行篇 P191−192 谷口雅春 先生著

2733SAKURA:2014/01/09(木) 15:33:34 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】

>>2608>>2672>>2673>>2681>>2682>>2694>>2706>>2707>>2723>>2724>>2725>>2726>>2729>>2730
投稿の続きです
■ 今年も引き続き…「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。その①

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――
  一 月 四 日

■何よりも大切なのは、まず自分の家庭を天国とする術である。それができなければ人間
生活の土台が完成したとは言えぬ。まず手近にある家族を愛せよ。そこから天国が生まれ
てくるのである。われわれは天国とはどこか遠い国にあるように思い、幸福とはどこか外
のところにあるように思っていたが、脚下にあるのである。

 まず、朝起きたとき、すべての家族たちに優しい言葉を、朗らかな響きのある語調で投
げかけよ。これが第一家庭を幸福な天国にする秘訣である。気がついたら今日からそれを
始めよう。

――――――――――――――――――――――――――−谷口雅春著――――――――
                                  
つづく

2734SAKURA:2014/01/09(木) 15:35:45 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681>>2682>>2694>>2706>>2707>>2723>>2724>>2725>>2726>>2729>>2730
>>2733稿の続きです

■ 今年も引き続き…「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。その②

>>2733の①の投稿の続きです
PS: 「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
そうです〜〜ョネ!!本当に、まずは【天国は家庭…】からでしょうか??そうしますと……
私の【不・幸…】は??と、今!気がついた次第ですが??やはり【生長の家…】は、まず!
“信者も家族…”ですから!人それぞれの捉え方…と言われる方も中にはいらっしゃいますでしょうか?
今回の【第・一】とは、「創立者 谷口雅春先生の娘さん恵美子先生」のへの?例え?引退という形
でありましょうとも、今回の“情報…”を信者に、多少なりとも、やはり“伝・達…”する事も
必要な部分ではないのでしょうかと。??
「亡き 2代目清超先生」の事も振り返りますと…「プライバシ−問題」と済まされるモノなのでしょうか?
複雑なモノを感じる次第です。…が?

【原宿本部】が本部としての運営機能がありました頃?誕生日に恵美子先生を招待しましたとか?
多少の情報を頂いて居りましたが?今回の事を踏まえますと…
本当に「恵美子先生」とのご関係は?そして、お元気でいらっしゃるのでしょうか?…と、まず思います。…が?

■「現白鳩総裁先生の奥様」の里帰り…は、正直申しますと?世間一般の考え方ですと…
【谷口家…嫁がれて来られましたから】先ずは?【谷口家の大元…恵美子先生】の状況を私共は、
知りたいのが気持の上では…“信者の心理”としては心に抱くのではないのでしょうかと思う次第です。
世間一般的には【嫁ぎ先の…家庭…】がすでに!【ご・家・族…認・識】かと?この事は?或る財界の
方も…おっしゃつていましたモノです。…が?

従いまして…【伊勢神宮参拝…】という事とは、全く!もちまして“興味のない世界観”でしょうか??
まず!その前に、現在の「恵美子先生のご高齢」も踏まえますと?気になるところです。…が?
例えば…【比・較・論…】で申しますと、現「天皇家」はもとより「イギリスのエリザベス女王 様」は、
今でも【イギリス国民】に対しまして「ネット…」を通じての世界発信をなされていますから…
今でもお元気なのですネ!!このように気持の上でも…ポジティブ感になります。“お元気な顔…smile”

私は、今日から、まず!足元から【実・行・開・始…】です!!
>>まず、朝起きたとき、すべての家族たちに優しい言葉を、朗らかな響きのある語調で投
げかけよ。これが第一家庭を幸福な天国にする秘訣である。気がついたら今日からそれを
始めよう。<< (一部抜粋)

                        再合掌

2735志恩:2014/01/11(土) 07:32:35 ID:.QY5jUA6
💙《無相》について、雅春先生が、説かれておられます。

「菩薩とはあなた自身のことである」

(谷口雅春先生著「日常生活の中の真理・仏典篇」より)


この維摩が菩薩らに道を説くのでありますが、菩薩というのは一体何であるかと言いますと、
観世音菩薩とか普賢菩薩とかいってですねえ、お釈迦さんが居らっしゃった時代には、
神通力をもって自由自在に空中を飛行して、そして釈尊の説法を聴きに来たというような、

そういう神通自在の菩薩もありますけれども、なにもそのように神通自在でなくっても、
菩薩というのはあるわけなんであります。

私の著書に『菩薩は何を為すべきか』という本がありますが、
それの〝はしがき〟のところに、菩薩とはこういう人であると書かれております。

「菩薩とは如何なる人のことであるかといえば、諸君のことである。

自利のためのみに生活せず、利他のために真理を深く研究し、自己の魂を向上せしめると共に、
その真理をもって多くの他の人々の魂の向上に貢献し、幸福を施してやまざる如き人々である。

維摩経に、維摩居士が故意に自己に病いをあらわして、見舞いに来た文殊菩薩に対し
『菩薩は何を為すべきか』について 説くところがあるが、その中に次のような語句がある。

『一切衆生を摂すといえども、而も愛着せざるは、是れ菩薩の行なり・・・・』」

〝一切衆生(即ち全ての人)を摂す〟というのは、自分の心の中に摂り入れる。

つまり、可哀相な人を見ては〝ああ可哀相だ〟と、相手の苦しみを自分の内に摂り入れることで、
悲しんでいる人には〝ああ可哀相だ、あの悲しみを除ってやりたい〟と自分の内に相手
の悲しみを摂り入れることであります。

「一切衆生を摂すといえども」つまり、すべての衆生の苦しみ、悲しみを自分の中に摂り入れるけれども
「而も愛着せざるは、是れ菩薩の行なり」となるわけであります。

 愛着して愛に溺れてしまって為すところを知らないで、却って〝可哀相な、可哀相な〟と一緒に泣いてしまって、
そして悲しみの世界に自分も堕ちてしまうのでは相手を救うことができない。
そこで「而も愛着せざるは、是れ菩薩の行なり」と 説かれているのです。

 次に『維摩経』にはこう書かれています。「遠離(おんり)を楽(ねが)うといえども、
しかも身心の尽くるに依らざるは、是れ菩薩の行なり」遠離というのは、遠ざかり離れるということです。

すなわち浮世の悩み、苦しみ、煩悩というようなものを遠ざけて、それから離れたいと願うけれども、それでも自分の身心の
尽きない限りは、その煩悩を離れたいと思いながら

煩悩の中に入って人を救う実践をする。これが菩薩であると、こういうように維摩は説いているわけなんであります。
 
さて次には、「空を行ずるといえども、しかも衆(もろもろ)の徳本を植うるは、是れ菩薩の行なり」とある。

仏教の真理は〝空〟であるという。仏教の言葉では〝五蘊皆空〟と言います。
一切の現象は、現れていながらそのまま無いのである。

空しきものであるというわけであります。だから、〝そんな空しいものに執着して救済するなんて
馬鹿らしいことである〟と、まあこういうように思うかも知れないけれどもですねえ、

しかもその空である現象、結局無常であり、掴んでおっても消えてしまうところの泡沫(うたかた)
のようなものであると思うけれども、

その空の現象の中に・・・
「・・・衆(もろもろ)の徳本を植うるは、是れ菩薩の行なり」

・・・衆の慈悲を行じ、深切を行じ、救済を行じて行くのがこれが菩薩の行であると、説かれているわけです。
さらに進むと、

「💙無相を行ずといえども、しかも衆生を度するは、是れ菩薩の行なり」とも説かれています。

💙無相というのは、相が無いと書いてあるのでありまして、一切の存在は空であるから本来常住の相がない。

そして自分も無我であってですね、〝儂が儂がという儂という者も無い〟

ということを知って、
それを生活に実現するのであるけれど、みんな無い空の空なるものであるからと言って、
衆生を放って置くのでなくって、

衆生をたすけるために夜も昼も休まずに働くのが、これが菩薩の行である。

こういうように維摩は説いているのであります。そして皆さんがその菩薩なんであります。(つづく)

2736志恩:2014/01/11(土) 07:38:17 ID:.QY5jUA6
(谷口雅春先生著「日常生活の中の真理・仏典篇」より) (つづき)


☆ 如何にすれば本物の生命が出て来るか

さて、その菩薩の一人の長者、すなわち金持の宝積に対して、

釈尊はこういうように言われたということが、
『維摩経』に書かれております。

「菩薩たち即ち人を救わんがために 精進努力している人たちは
『直心( じきしん)』でなければならない
ということです。

『直心』というのは、『そのままの心』が直ちにスラ
リとそのままに出ることを言うのです。・・・」

 例えば、ちょっと紙くずが落ちていて汚いなと思って
〝これ片付けたい〟と思うけれども、人が見ていると、

〝紙くず拾っているのは、どうも極まりが悪いなァ〟
と第二念というものが出て来て、

折角〝紙くずを掃除しよう〟と思うその直ぐ出て来た直心を、

それを消してしまったりすることがあります。

これは直心を行じないということになるわけです。

 菩薩というものは、そのままの心がスラリッと
そのまま行いに出るのが、これが菩薩の行いである
というわけであります。

それでそのまま出る心が、即ち実相の心である。

実相とは実の相です。人間には実相と仮相とがある。

第一存在としての本当の自分と、第二存在として
の迷いの心のあらわれである、

そういう相とがあるわけなんです。

大抵の人たちは、この実相の心、
直心を失ってしまっておって、

そして〝人がどう思うかも知れない〟とか、
いろいろ上辺を飾る虚栄心みたいなもので
直心を隠してしまっているところに、

この世界に完全な神の創りたまえる
真如そのままの実相が、

現れて来ないということに
なるわけなんであります。

で、人間の生命の実相というものは、
唯一つの神が宇宙の根元であり、

全ての生命の根元でありますから、
われわれの実相の生命というものは、
全ての生命と一体であるというわけなんです。

自他一体であり、彼我一体である。

だから人の苦しみを見たら、
自然と人を救いたくなる。

その苦しみを除いて楽を与えてやりたくなる。

これが当たり前なんです。

そういう救いを行いたくなることを発行(ほつぎょう)という。

行を発するというのであります。

それで、こうして人を救いたくなり、その救いを行じて
いきますと、自分の生命の奥深い所にある実の相、実相、

ほんものの生命のはたらきがそこに出て来るので
あります。

この心を『維摩経』では深心(じんしん)と言っている。

すなわち、自分の生命の実相の奥深いところから、
ほんものの心が動いて来るのが、
これが深心であります。

2737志恩:2014/01/11(土) 08:09:36 ID:.QY5jUA6
昭和七年四月十日 に、谷口雅春先生は、
 💙<無相円相一切相の神示> も、発表されてます。

2739トキ:2014/01/24(金) 18:07:57 ID:imJLzwls
大懺悔と小懺悔についての説明です。

「人間苦の解放宣言」p56より抜粋します。

(質疑応答)

問い 怨んでいた相手がもう亡くなってしまった場合はどう書きますか。
答え 亡くなられても、霊界にちゃんといらっしゃり、念は感応するのですから同じ事です。
   怨みに思った心をありのあま書いて焼き、霊界の御霊に和解し感謝されたらよいのです。

問い 怨んでいる人がたくさんある場合はどうですか。
答え 何人でも思いだされて次々お書きなさい。

(つづく)

2740トキ:2014/01/24(金) 18:09:08 ID:imJLzwls
(つづく)

問い 誰も怨んでいないのですが、悪い事をして自分で苦しんでいるのですが・・・・。

答え 人に言えないその苦しい気持ち、「ああ、こんなことをしてすまなかった。なんと
   罪深い私であろうか」という気持ちを思う存分紙に書いて神様に消していただき、
   後は、「本当にそんな罪を犯したことのなり自分だった」と、大懺悔の世界、
   光明一元の世界にお入りなさい。
    懺悔には小懺悔と大懺悔があります。悪い事をして

   「ああ、すまなかった」

 と思う事は小懺悔で、これは尊いことですが、いつまでも
   「すまなかった、すまなかった」とすまいことをした自分にひっかかっていますと、
   「すまなかった」と思いながら、又、罪を犯したりします。

  懺悔の神示に、「罪を一旦懺悔した以上は、再びその罪に心を捉えられて、神の分身
  なる自己の心を苦しむることなかれ。罪は懺悔と共に消ゆるなり」と示されています。
  浄心行で罪を消していただいたら、最後の感謝和解の祈りで、本来罪を犯した自分も
  なく、犯された相手もない、はじめから「唯仏与仏」の光明一元の世界にいる自分を
  見いだすのです。これが大懺悔です。「観普賢菩薩行法経」には次のように書かれて
  あります。

 無量の勝方便は実相を思うより得・・・・

 一切の業障海は皆妄想より生ず

 若し懺悔せんと欲せば端座して実相を念え

 衆罪は霜露の如し、慧日能く消除す。

2741うのはな:2014/01/24(金) 19:45:50 ID:Qem6RNIo
  ひさみからおとう様への第2の手紙

(第一章)今とってもねむいです。きのうちょっとおそかったせいです。楽しみにしていた期末考査もあと四日と近づいてきました。
それにつれて教室では休み時間にもいすにすわってせっせとなにか覚えている姿が見かけられますよ。まだまだ.....とちょっとなめるほどに
やってきていたわたしはちょっとふためいています。期末テストの何千何万倍もうれしいクリスマスに近づきたいとひかえなるべく期末テストから
離れ、それでいてクリスマスに近づきたいというこんたんを持って生活しています。

(第二章)私は今年Xマスをすごく楽しみにしています。それは.....なのです。
お正月とXマスとどっちが好きですか?とやまて米会話できかれた時、「Xマス」とすぐ答えました。(ここで私は寝床にはいったのであります)クリスマスがもっと
楽しくなるには雪が降らねばなりません。雪がふってもつもらねばならないのであります。
それも深くつもってくれれば私にとってこれ以上さいわいなことはないのであります。
私ばかりでなく全世界の様々な人種の子供が喜びます。いいことです。

(第三章)少し学校の事についてのべます。
学校にはストーブがつきました。むろん石炭ストーブです。
それがまわり二メートルはん囲の暑いのなんのって、すごい暑さです。でも一メートルの所に
ちゃんとした人間がすわって授業を受けているのですから大したものです。私は2分とあそこにはいられません。
その人たちが暑いともフゥーともいわないのに教室の一番後ろのはじの連中が「ウワーあつぅーあついなぁー」と
いつもいっています。ふしぎなものです。これも自然現象でしょう。

 クリスマスが近づいたのでクリスマス・ソングがどこにいても聞かれます。
今もマサノブ君が「ジングルベルジングルベール.....ホップステップジャンプ」のジャンプでわたくしめにぶつかったからです。
アブナイデす。きのうカリフォルニアにいらっしゃる鯉沼先生に寄書きを出しました。
私のところには授業中にまわってきました。「先生にはあとで長ーい手紙をさしあげます」と左手で書きました。
左手で書くとこんな字になります。

中森先生のじかんに(図形)に「よんだらどんどんまわして下さい」という手紙が五、六通まわってきますが、私めは読まないでほうりなげます、
するとうしろのがうけとめるという手順になっています。ソロソロオーバーを着たり、マフラに足をうずめたりする人が出だしましたが、私はマダマダです。
これからも元気にやっていこうと思っています。

(第四章)もう時間です。八時ですから。
今日は調理のテストです。といっても皿を洗ってふくテストです。音楽もあります。
このあいだの時歌わされました。(一人で)
「一学期にくらべるととてもよくなっています」といわれてニコニコです。
体育はたっ球です。なかなかうまいのがいてかんしんします。そういった程度です。
あっそうそう、このあいだ甘露の法雨を焼いて自殺するといっていた人が自殺するのをやーめたっといっていますよ。
よかったですね。それでは、おかあさまをどならせないよう、学校に行ってまいります。
 いってまいりますーー  ひさみより

『こころの旅路』 谷口恵美子 編著

2742 a hope:2014/01/30(木) 21:36:49 ID:G/pK6qF2
生命の實相 第29巻p111〜
第九章 深切行について
一、 人生を円滑にする油の差し方

「生長の家」の生き方は無一物にならなければできないとか、何宗にならなければできないというような狭いかたよった生き方ではないのであります。生長の家の教えはいっさいを生かし、いっさいと仲よくなる教えでありますから、他を排擠(はいせい)して生長の家宗になる必要はないのであります。

それゆえわれわれは、別に今までの宗教をやめて生長の家にお入りなさいとは申しません。今までの宗教そのままでよいのであります。甲をやめて乙に入れという教えでありましたならば、それはすでに対立的な教えであって、一つの教団に対するまた別の教団ということになるのでありますけれども、生長の家は、何宗という教団ではないのでありますから、何宗でもよいのであります。

それは宗教であるかというと、そういう「宗団教」ではない。要するにいっさいの生命あるもの、生きとし生けるものことごとく自他一体が本来であるということを悟って、それに深切行を志す人たちが生長の家であって、その自他一体の真理を※奉戴(ほうたい)して人に深切を行うということが、生長の家の生き方であります。

ですから、必ずしもある宗団のように毎朝「朝詣(まい)り」をして道場に坐らなくてはならんということもない、出てこられても出てこられなくても、いっこうにさしつかえないのであります。ただわれわれの心を浄めるために一日のうちの暇な時間を選んで三十分でも実相を観ずるとか、あるいは電車の中でも、汽車の中でも、聖典を読んで心を浄めるようにし、そうして自他一体の真理を生きる、すなわち人に深切行をするように心掛けてほしいというわけであります。

※奉戴(ほうたい)…つつしんでいただく。(頭注より)

2743 a hope:2014/01/30(木) 21:38:52 ID:G/pK6qF2
(a hope 所感)

>>それは宗教であるかというと、そういう「宗団教」ではない。要するにいっさいの生命あるもの、生きとし生けるものことごとく自他一体が本来であるということを悟って、それに深切行を志す人たちの家が生長の家であって、その自他一体の真理を※奉戴(ほうたい)して人に深切を行うということが、生長の家の生き方であります。<<


これこそ、「生長の家」の本来の意味であり、まことの「生長の家の生き方」なのだと思いました。

この「生長の家の生き方」を全人類にひろめていくことこそが、谷口雅春先生の悲願であり、
その波が広がることにより、日本国の実相が顕現し世界平和が実現していくのですよね。

そして、それこそが「生長の家」の使命なのでしょう?

わたしはそうとしか思えませんが・・・。

2744 a hope:2014/01/31(金) 08:00:00 ID:G/pK6qF2
生命の實相 第29巻
第九章 深切行について 
二 深切は誰にでもできる p112 〜

ところで、この「深切行」の問題でありますが、深切行をするには、金持ちでなければできないとか、あるいは財産を捨てなければできないというような、そんなむつかしい、また制限のある深切をするのではないのであります。金が無くても人に深切ができるのであります。

人々が下駄を脱ぎ散らかしているならば、下駄を揃えるのも一つの深切行であります。一枚の塵紙(ちりがみ)がなくて困っている人には一枚の塵紙を与えるのが深切行であります。下駄の鼻緒が切れて困っている人を見出したら、いつも紐の切れ端ぐらいは携帯していてそれを与えるというようにするのが、生長の家の生活であります。

雨が降っている時に一緒に同じ方向に同じ速力で行く人があるのに、自分は傘をさしているけれどもしれぬ顔して勝手に濡れておりなさいというようにしてゆくのは生長の家の生き方ではないのであります。みんなに深切を与えるのが生長の家であります。別に自分の物を減らさなくてもよろしいのです。

減るものを与えるのではともすれば執着がかかるのでありましてそれは本当の深切にはならないことが多いのであります。よく深切にしてやったのに相手に恩返しをされないで恩を仇で返されたといって不平に思い、怨みに思う人がありますけれども、あとで怨みに変るのは「我」があるからです。

「わしがした、わしがした」のわしがあるからです。本当の深切は無我の深切でなければならないのです。自分が施すということも知らないところの無我の深切でなければ、本当の深切であるというわけにゆかないのであります。

本当の深切は自他一体の意識から自然法爾(じねんほうに)に出てくるのでありまして、「彼」と「我」とは別れていないという本当の真理を悟ったところから、自然に深切というものが流れでてくるので、それはちょうど、高い所と低い所との区別のしきりを除(と)ったら、水が自然に流れ出てくるように、自他一体の悟りによって「自」と「他」とのしきりが除(と)れたら自然に流れ出てくるのであります。

すでに「自」と「他」とのしきりがないとしましたら、「わたしが」「彼に」してやったという力みはないはずであります。「わたしが」「彼に」してやったと、「わたしが……わたしが」と、力むことは、本当の自他一体の深切行になっていないのであります。

「わたしが」「彼に」施しをしたとか深切をしたかということを心に溜めておって、それが原因になって腹が立つとか、あるいは恨みに思うとかいうようなくらいなら、そんな深切は初めからうその深切であります。本当の深切というものはいつそんなことをしたかわからないうちに深切ができているように、あたりまえにできるようにならなければ、本当の深切ではないのであります。

2745 a hope:2014/01/31(金) 08:01:19 ID:G/pK6qF2
(a hope所感)

つまりは、「自他一体の真理」って「無我の愛」のことで、その実践が「無我の深切行」なのですね!

<<本当の深切は自他一体の意識から自然法爾(じねんほうに)に出てくるのでありまして、「彼」と「我」とは別れていないという本当の真理を悟ったところから、自然に深切というものが流れでてくるので、それはちょうど、高い所と低い所との区別のしきりを除(と)ったら、水が自然に流れ出てくるように、自他一体の悟りによって「自」と「他」とのしきりが除(と)れたら自然に流れ出てくるのであります。>>


「生命の實相」って本当にすごいバイブルですね!!

2746 a hope:2014/02/02(日) 17:21:47 ID:tLWd4hcY
生命の實相 第29巻
第九章 深切行について 
三、無一物の深切行p114〜

そういうふうに生長の家の深切行というものは実に広々としたもので何にもなくても行えるものであります。むろんこの一枚の紙がなければ、一枚の紙のほしい人には与えることはできませんけれども、何も施すことは一枚の紙に限らないので、何もなくてもわれわれは人々に深切を施すことができるのであります。

たとえば失意の人に希望の言葉を投げかける、あるいは会う人ごとに厚意と深切との微笑を投げかける、人が何かをしたら、朗らかに相手の長所をほめる。かういうふうなことは与えてもちっとも減らないのでありまして、どんな貧乏人でも自分の顔は持っているから、自分の顔を莞爾(かんじ・にっこり)と微笑させるぐらいはできますし、どんな貧乏人でも自分の口は持っていて唖でないかぎりは言葉を出すことはできるのでありますから、それでその言葉によって相手の長所をほめるくらいのことはできるのであります。

これが大きな功徳であり施しになるのであります。そんなら唖であったら褒めるわけにはいかないと言われるかもしれませんが、合掌くらいはできるのであります。合掌して相手を拝む、その「拝み」だけでも大きな施しになるのであります。手のない片輪者ならどうしたらよいかと言う人があるかもしれませんが、心で拝む、心で本当に拝めたら、手で拝むよりも、金銭を与えるよりも、まだまだ尊い深切であることがあるのであります。

2747 a hope:2014/02/02(日) 17:23:18 ID:tLWd4hcY
(a hope所感)

<<心で本当に拝めたら、手で拝むよりも、金銭を与えるよりも、まだまだ尊い深切であることがあるのであります。>>

これだったら、たとえ寝たきり状態になっても出来ますが、
でも、この「心で本当に拝む」というのがなかなか難しいことなのかもしれません。
ですがそれがまことにできたときには、とめどなく、拝ませていただく相手への
「感謝の気持ち」が溢れてくるような気がしています。

2748流氷:2014/02/05(水) 20:47:47 ID:zkT6v8o2

 <あなたは必ず救われる> 藤原敏之 先生 生長の家今昔物語
 http://blog.zaq.ne.jp/sinseityounoierengou/

2749レンゲソウ:2014/02/14(金) 00:23:31 ID:pDIUw3sQ
『二月の祈り」  谷口雅春先生

 わたしは”神の子”であり、今、実相世界にありて宇宙神霊の前に坐すのである。

 わが周囲ことごとく神霊である。物質にて成るものひとつも無いのである。

 わたしは霊の空気を呼吸し、神の霊気わが全身をみぐり満つるのである。

 わたしは神の霊に生かされているのである。

 神の霊は平和の霊であり、調和の霊である。

 神の平和と調和がわが全身に充ち満ち、わが周囲に充ち満ちているのである。

 わが内に平和はあり、わが周囲に平和はあるのである。

 神の平和は単なる”静かに何もしない”平和ではないのである。

 神の平和は秩序と調和に満ちたる、活気臨々たるリズムに満ちたる平和である。

 静中動あり、動中静あり、無限に新しき、人類を生かすところの良きアイデアが常に
こんこんと湧き出て来る平和である。

 私は神より湧き出ずるアイディアに導かれて、常に人類のために国家のためになる行動に献身するのである。

 私は平和の子であり、平和の天使である。ありがとうございます。


(『理想世界」昭和46年2月号より)

2750SAKURA:2014/02/14(金) 08:20:58 ID:ewKVx23E
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
おはようございます。 ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673 投稿の続きです
■□ 「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――−その①
   二 月 十四 日

■素直に飛びついて来る子供はかわいがられる。素直に舅 姑の懐にとびついて来る
嫁はかわいがられる。素直に先生の懐に飛びついてくる生徒はかわいがらる。夫婦仲
が悪いとか、家庭はおもしろくないとかいう人があるけれども、それは互いに飛びつくよ
うな素直さをなくしたからである。神のみふところに飛びつく者は神に愛される。

                          谷口雅春著

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
■『素直に飛びつく人』は、一番いいです〜〜〜ョネ!!
【素・直・に・な・れ・る・事】が出来る事は、まず!“環境…”からもあるのでは、ないでしょうか?
それから『夫・婦・問・題』でも、「九州」と「関東」では随分と『夫婦の仲の捉え方』は?違うのでしょうか??

「欧州」でも、特に「フランス」での男性は、女性には“誉め言葉…”が多いとか???
例えば?かなりの【年齢の女性…】でも、その人の魅力引き出す為に〜♫
「此処が素敵だと…」まずは『 賛辞の言葉 』が「男性の社交辞令」だとか?聞いた事があります。…が?

私が、福岡に帰郷しましてから、まず!思った事は【同世代の女性がかな老けてみえて…><】
“ビックリ…”した事があります。

■或る本からなのですが【 人間の運 】についての本を読みまして“納得感”が?

■□【 何故?老けるのかを…… 】最近!分かった次第です。…が?

此処「福岡の夫婦の会話」から〜♫〜なのです。…が?
必ず「男性…」は、他の「女性」との【比・較・論】になるのでしょうか??

私達の世代は【日教組の教育…】です。従いまして、人一倍の『負けん気』がありまして、
どうしても、同世代の中では……特に「女性」は【競・争・意・識】がまず!強いですネ!!
例えで申しますと、他の同世代の「女性…」が、若く見えるとします。そうしますと…
「男性陣」は、まず!「言・葉…」から【比・較・論】に入って行きまして【欠点とか?】〜〜〜
いろんな角度での見方から「女性」は素直になるどころではなくなり、一年中『外見への…依存度』が、
本人自身の潜在意識に、奥深く入り込み〜♫ 『奥の細道…』かなり…奥の奥まで……でしょうか?
実に、大変な感じが致しますモノ!最終的には〜〜〜?

つづく

2751SAKURA:2014/02/14(金) 08:26:54 ID:ewKVx23E
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
おはようございます……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681>>2750投稿の続きです
■□ 「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――−その②

>>2681>>2750  投稿の続きです…。

「若い?」或いは「老いて?」この【比・較・論】に入りまして【女性として扱われなくなる】のですョネ!!
ですのでかなり、老化現象の方が多くて〜〜〜私達を見ますと、必ず❤『形成病院に直行…』かと。

■その後の【後・遺・症】は???と私は思います。…が? 大丈夫なの〜〜〜><でしょうか?

【外・見・思・考】に走る…【素直に走ると言う事】なのでしょか?けれども〜
【真理・聖典の勉強】さらに【祈り…】はおろそかになるようでは?彼らの【素直な心での行動…】とは?
全て!全て!【物質化した欲求の価値観…結果】に、逆におかれている感じで〜〜〜す!!
当に【 唯物論…思考型 】ですかと思うのです。

【素直になるのは当たり前】で、此処で「舅・姑の問題」は、これは「おしん」の問題で……
その人の【精神修行】になるのでしょう!!

さらに「相手を褒める事…」も、環境のいい!!さらに伸び伸び育った環境での子供は、意外と素直だそうです。
これは、両親の育てから来るのでしょうか??この人が言われている事は、
日本に帰ってくるたびに感じる事は、自分の事を「つまらない人」「ちっぽけな人間」と、思っている人が
意外に、多いそうです。
これは【教育の問題】にも関連して、深刻でしょうかと……!!
振り返りますと…「褒められる事」より、「怒られる事」の方が、多いのが現状であり、
アメリカの教育は「誉める事」の方が、断然多いので、自分に【自・信】を持っている方が、とても多いとの事!!

■【自・信】を持つ事は、かなりの“エネルギ−”がいるのです〜〜〜ョネ!!
【自・信】をもたせるくらいの“誉める環境…”に育てる事でしょうか!!そして、
両親は子供に対して誇りをもつ事が…ベタ−なのでしょうか!!そこから【素直になれる環境】にも…?

また【職・場】でも、注意したり!叱りつけたり!…しての指導よりも、遥かに【誉めた方】が、
ずっと伸びるのではないでしょうか!!そして、この様に、互いに【誉める事】は、そこから“スタ−ト”しますし、
さらに【感謝の心】がわきますから、自然と素直に受け入れる“心…”になっていく事でしょうか??

今回!私は【ノーミート=食事療法】と言います事に、投稿しますと、どうも或る方が「総裁先生」が、
■「ノ−ミ−ト」と「食事療法」は違うと云われたそうで〜〜〜す。
私は?そこまで誇示しての分類が必要なのでしょうか?そのように思った次第です。
つまり「食事」を全体像としますと…その中に「ノ−ミ−ト」という項目があり、或いは「食事療法」の中にも
「ノ−ミ−ト」という部分があるモノと…このようなる解釈です…。(重なる部分…)
最終的には【 健康管理 】という前提を私は考えています。

つづく

2752SAKURA:2014/02/14(金) 08:29:01 ID:ewKVx23E
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
おはようございます……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681>>2750>>2751 投稿の続きです
■□ 「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――−その③

>>2681>>2750>>2751 投稿の続きです…。

但し…「総裁先生」の「ノーミート」は…10年前からでしたか?あくまでもその根底には【エコ運動】としての
「ノーミート」という事を、当時「牛の放牧…その為の飼料」に関しての莫大なる“エネルギーの必要性”を
講習会でおっしゃっていました事…その事が【地球温暖化への影響…するのか?】その記憶があります。…が?
そして、現在では「総裁先生の奥様」が、ここ数年前から信者に対しまして「ノーミートのお弁当」を
紹介されている事から、その「区・別」を明確化されていらっしゃいますのでしょうか?

■□「料理…」とは?このとらえ方が…色々あるモノと…この頃では痛感する次第なのです。

以前!栄養管理士の方が…バランス良く「料理」を提示してくださった普及誌がありましたが…
やはり【健康管理】という上では、当時大変参考に思っておりました。また!信者の皆様の中には、
それ以上の「料・理…レシピ」が???と、実際のところ、私の周りの同世代の友人は、
かなり「料・理…が上手な方」が多いのです。…が?此処から、お互いに、工夫しての料理を、
投稿して頂きますと…それは、ますますと「家族の健康」にプラスメリットになるモノと思うのです。
お互いに【料理の紹介…】を、喜びあう!!褒めあう!そこから次なるステップへ“循環した事”が、
始まるモノと…【運…?】まずそのような方達の登場は、やはり?「ノーミート運動」を活発化する上では、
非常に、いい事ではと思います。…が?この事を聞いてから?
「区別」する事…そこに【定・義=決めつけ論】を置かなければならないのでしょうか?
…オカシナ気持になりましたが、

この事からでも【素直に従う事…】とは、合わせるのではなく…
【納得した事は、素直に表現します事】ではないのでしょうか!!と思いながら…現在の私の於かれた
【環・境】は、「吸血鬼とその仲間とか?」に、尾行されています。なので……
【素直に彼らを受け入れる気持ち】は、飛んで行け〜♫ 飛んで行け〜♫ このような気持ちであり
【類の法則】ではない人達…という観念です。従いまして、【素直に相談は〜出来る事も出来ない!】のでは?
更に、今の私は「神との融合…」を深めていく事!そこから〜〜始まりますでしょう。
まずは【祈り…】に徹する事でしょうか??


■□本当に【素直になれるような環境…】に行きた〜〜〜イ!まず・・自分を褒めることから
讃嘆!!それがベターになれば、私の世界はもうそこは、キット【天・国階段の入り口…】でしょうネ!!

                              再合掌

2753トキ:2014/02/15(土) 16:23:55 ID:C5p9.pG6
「過去の体験から教訓を得て過去を棄てること」

 過去の不幸や不快や過ちの記憶を拭い去れ。それらの出来事は無駄にあなたの前にあらわれた
のではなかったのである。それらの出来事は何らかの教訓をあなたの魂に与えるためにやって
来たのである。過去を振り返ってそれらの不幸な出来事や不快な経験が、自分のどんな想念の
影であらわれたのかを吟味して見て、再びそのような想念を起こさないようにすればよい。
そうすれば、それらの出来事や経験はあなたの魂に教訓を与えるためにあらわれた教科書の
役割りをしたことになるのである。1年生の教科書から学んでしまって2年生になったら、
もう1年生の教科書は棄ててしまって、2年生の教科に進むのがよいのである。過去の不幸
や不快や過ちを、いつまでも持ち続けてクヨクヨ思って自己劣等感に陥る者には、2年生に
なっても、3年生になっても、1年生の教科書にしがみついているような「人生の劣等生」
なのである。諸君はそんな劣等生になってはならないのである。

如意自在の生活365章 谷口雅春先生著、206pより

*個人でも、組織でも、同じ事が言えるような気がします。(トキの感想です)

2754SAKURA:2014/02/15(土) 20:55:31 ID:KNM8zFDU
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2608>>2672>>2673>>2681>>2750>>2751>>2752>> 投稿の続きです

■□ 「生命の実相」を“37巻”からの〜〜〜投稿とさせて頂きます。

―――【 生命の実相 37巻 谷口雅春著(日本教文社出版)】―――――
   二 月 十五 日

 どんな美しいバラの花でも、その棘に触ったときにはハッと驚いて捨てられる。人に嫌
われるのは心に棘があるからである。これだけ立派な仕事をしているのに人が自分を遠ざ
けるというような人は、これだけ美しい花が咲いているのになぜ人が自分を捨てるのだろ
うと、みずから疑うバラの花のようなものである。

 とげとげしい眼、とげとげしい言葉、とげとげしい行動、その一つ一つを抑えようとし
てもなかなか直るものではない。まずとげとげしい心を捨てなければならぬ。とげとげし
い心を捨てるには「とげとげしい心」をアリとして抑えてもなかなか直る物ではない。暗
は暗をいくら押さえてみても消えるものではない。暗を消すには光を持ってくるにかぎる。
とげとげしい心が自分にあると気づいたら、その反対を持って来るのである。「自分は優
しい優しい人間であって、とげとげしいところはちょっともない」と、その反対の念を自
分自身にいって聞かせればよいのである。

                             つづく

PS: 「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
■此処昨今は、私もいい気持ちになる事が〜〜〜ネガティブ感の一日が多いのです。そんな時は?やはり!
心がすさんでしまいます〜〜〜ョネ!あまり“ポジティブ=良い事”が考えれない感じになった現実は
もしかしますと?私自身の“ 心が塞がった感じ… ” なのでしょうか??

今日一日楽しくすごせそうな…感じでいますと、そう!本当に“心…”が楽しく、ウキウキ気分の時、
当にその時です…。必ず!必ず!出没しますのが〜〜〜「吸血鬼・ゾンビの仲間…」なのです。
或る時は?歩行しています時?さらに地下鉄の電車内に、隣に近づいてきたリ?で…
また、コンビニ内で? 銀行のATM利用の時に? まるで〜♫ まるで〜♫ のぞきに来た感じで、
非常に気分を悪くする事が、多々あり…このような時に、私の“精神”は非常に、心が高ぶりやすく
なりますので……これに「自・制・を・重・く…」しますと、表情は?本当に冷たい!冷たい!感じ…
になりますが〜〜〜><

小さな事での【感・情】で、前に進む事が出来なくなるよりも、私の【理・性】を最優先に於く事が
【重・要・感…】では??そのような状態の時は、やはり!このような人間に“心…”を振り回されたら、
私の【人・生・は・暗・黒・に……】と、そう!そうなのです!私は、前以上に
“心を別の角度で思考回路する事”!!この様に、写真を撮ります時は、ご存知でしょうか?
フランス出身の『 モレシャン 』さんが、随分前におつしゃつておりましたのです。…が?

■『 一番!自分に…素・敵に見える“角・度”を、認識する事!! 』

フランス人はそれを一番知っているとの事です。
今!これと同じように【心もイイ角度…に切り替える!】これが、大事なポイントでしょうか??
相手にふりまわされて、「吸血鬼・ゾンビ…暗黒団」に入っていくよりも、ちょっとした【笑・顔…】で、
他人に見せない“心…模様”も、日頃の訓練です〜〜〜ョネ!!私は若い時以上に、ここ最近は、ますますと、
表情が出ないのですが?そう!そうなのです〜〜〜ョネ!もっと【素敵な…笑・顔】をインプットします!!

■「とげとげしい……心」アリ〜♫   う・ふ・ふ 

今日から【モナリザの微笑み…】でいきましょうか???もうそれには私の心の奥に〜〜奥に〜〜
そうです!!そのような心境になれる近道は、神の世界=心の世界です!!神想観=心想観 です。

幸福の近道は、やはり【神・想・観】をしてみるとか?【イメージ・トレーニング】とか?してみますと
心が安らぎ…ますから、一番いい事かと思うのです〜〜〜ョネ!そして【モナリザ…】になれるので〜〜す。
【心の難…】が来れば〜〜〜前以上に【精神の修行…】をして行く事でしょうか??

■■「心の光・・」を見つけるには〜〜〜やはり【神・想・観】が一番おススメで〜〜〜す!!

「トキ様」は?そう〜〜〜思いになりませんでしょうか?

                               再合掌

2755トキ:2014/02/17(月) 20:38:31 ID:qvIK8UMY
 「先日もある人が、「自分は商売が下手なんです。私にはまるっきり商才がないのです。損ばかり
しています。何か良い方法を教えて下さい」と尋ねて来ました。自分で商才がないと言いますが、
商才とは何でしょう。この人は商才を何か特殊な技術のように考えているようですが、商才とは
そんな小手先の技術ではないのです。
 
 商才とは商人の”誠意”と”腹”だと思うのです。顧客に仕える心と小さな損得に拘泥しない豊かな
心です。この心で商売をやれば誰だってはやるのが当たり前なのです。

 大阪の春名徳雄さん(前 生長の家大阪府相愛会副会長)に伺ったのですが、大阪の十三に大変
よくはやっている呉服屋がありました。ご夫婦とも熱心な信者ですが、生長の家の話もよく聴きに
こられるのだそうです。この方は戦前一度商売に失敗されたのです。とうとう夜逃げの相談をして、
アメリカか、どこかに移民に出ようという話になって、一度、金光教の先生のお話を伺おうという
ことから教会に行ったのです。

 その時に、教会の先生が「それなら、僕がまず尋ねますが、仮に東京で太鼓を叩いていたら裏が
裂けて鳴らなくなったので、その破れた太鼓を、今度は大阪に持って来て叩けば鳴りますか?」
と聞いたのです。

 「そりゃ、皮を張り替えんと鳴りませんね」と返答したら、先生はカラカラとお笑いになって、
「そらなら大阪で破れた太鼓をわざわざアメリカまで持って行って叩かなくてもいいじゃないか、
まず皮を張り替えなさいよ」と言われました。

 この呉服屋さんは、この一言に胸を打たれて再び大道商人から立ち直って誠実一路ついに今日
の基礎を築かれました。

 「環境は心の影だ」という生長の家の真理がよく表れています。

 昔から、”商売は前垂れをかけて”とよく言われます。前垂れとは前へ頭を低く垂れることです。

 「ありがとうございます」とただ誠実一路に生きることです。ただ売ってやる式の商売や、
ただ儲けよう式のやり方では客に飽きられます。顧客から悦んで貰う聖人になることです。

 商才がないというのは単なる言い訳に過ぎません。成功する人には成功するだけの苦労も
あるのです。

 「幸せに到る道」(故 北尾巳代次先生著、日本教文社)29〜30pより抜粋。

2756レンゲソウ:2014/02/18(火) 01:38:35 ID:BrBAlyYA
 あなたの身体を言葉をもって祝福しなさい。
あなたの身体は決して物質でできている肉体ではないのである。
それはたとえ肉体のように見えても、それは神の霊によってつくられた霊体である。
そして、それが創造られたそもそもの始めから完全につくられているのである。
だから、自分自身の身体に向かって次の如く心の中で、”言葉”をもって祝福するのがよい。

 「あなたは神の最高の自己顕現として最(い)と完全に作られた霊体であります。霊体で
ありますから、温度や気象や微生物hによって決して傷つけられるよぅな事はありませ
ん。あなたは今も現に神につくられたままに完全な健康な身体であります。

生長の家誌 昭和43年2月号 p16 19日の法語より謹写

2757 a hope:2014/02/19(水) 11:10:05 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第9巻 霊界篇p1〜

はしがき

人間の運命の一半(ぱん)は、霊界との連関において、定まるのであって、本人の自由意志のみで定まるのではない。本人の過去の想念、言葉、行為は一種の惰力的な力をもっていて、その人の運命を一定の方向に導いて行こうとする。

これは仏教でいわゆる「業力(ごうりき)」と称せられるところのものであって、一定の方向を走る汽車はその後もその方向へ走って行こうとする惰力をもっていて、あまりに急に変向せしめることはできないし、急角度で変向すれば脱線するようなものである。

個人のみならず、国家にも、民族にも、過去の想念、言葉、行為の力は蓄積されていて、ある惰力をもってその特有な運命の軌道を走ろうとするものである。そしてその個人の運命も、国家または民族の一員である限りにおいてその全体的な運命から脱却することはできない。
(つづく)

2758 a hope:2014/02/19(水) 11:10:57 ID:cEpBaIdo
われわれは国家または民族の積み来った業の流れの中に棹(さお)す幾多の舟艇(しゅてい)のようなものである。われわれは何れも全体の流れの影響を受けないことはむずかしいが流れさるものもあるし、向こう岸に安全に到達するものもあるであろう。

そこには個人の努力や、自由意志の働く部分もあるのであり、その努力の価値と、運命の変向力とを否定することはできないが、いずれにせよ、個人の運命は国家や民族の運命と混り合っているのである。さらにくわしく言えば地上の人類全体の運命は国家や民族の運命と混じり合っているのである。

そして地球やその他の天体は、人間の霊魂がそこにおいて修行し、向上し、内在無限の神性をより多く発揮するための「場」だということができるのである。したがって、肉体をもっている人間の運命は、肉体を脱却して、よりいっそう進化向上せる霊魂の指導を受けて、種々に導かれ、修正されつつあるのである。

われわれはこれらの関係を無視して人間の運命を論ずることはできない。人間は決して肉体存続期間だけの存在でもなければ、その生活圏が地球上だけに関係しているのでもない。あらゆる天体はわれわれの生活の「場」であり、進化向上の「場」として造られたものであって、天体の運命と、個人の運命とは密接に関係せしめられているのである。

われわれがここで言う「運命」とは運がよくて金が儲かるとか、運が悪くて失敗するとかそのような小さな問題を言うのではない。もっと人類全体と、そして宇宙全体とに、連関せるところの大いなる運命である。
(つづく)

2759 a hope:2014/02/19(水) 11:11:39 ID:cEpBaIdo
人間はなんのために創造(つく)られたか、いずこより来り、いずこに到るか。地球上の民族の霊魂は決して一時期に移植せしめられたるものではなく、数次にわたって、数個の集団として、他の天体においてある程度修行せしめられたものが、遷移(せんい)し来れるものであるヴェッテリニはその霊示において告げている。

それゆえに、高く上がる者、低く降る者、民族はそれぞれの集団的運命を受けるのであり、われわれは現にそれを受けつつあるのである。この霊界の秘密を知らずして人間の運命を予知することはできない。われわれがアジア民族または日本民族としての関心もそこに集中せざるをえないのである。
(つづく)

2760 a hope:2014/02/19(水) 11:12:14 ID:cEpBaIdo
わたしは数百種におよぶ「霊界通信」の書籍を読んだが、ヴェッテリニの霊誥(れいこく)ほど、合理的で深い感銘をわれわれに与えたものはないのである。わたしは高級霊ヴェッテリニの霊誥を、霊界通信に出て来る経路を語る一節のほかは、コルニリエ氏が原文に書いた順序にはこの書に集録しないで、その霊界通信を整理して分類的な順序にそれを並べて検索に便利にしたのである。

この書はかつて『出生前(しゅっしょうぜん)・生・死・死後の研究』と題して単行本で出たとき数十版を重ねたが、後に『生命の實相』の第五巻「霊界篇」に収録されてまた数十版を重ねたのである。

いずれかの書で読んだ人はこの書を読む必要はないのであるが、戦後、霊媒現象の取り締まりがなくなり、詐術霊媒が宗教法人を造って人々を欺(あざむ)く例が頻繁にあるので、その方面に興味をもつ人は、本書をその批評の尺度として対照せられるならば、迷わされる危険は少ないであろうし、人類的運命に連関して、今後、地球上がいかなる運命に見舞われるかについての覚悟を得る上にも、確かに参考になるであろうと思う。

人類の運命は本書にあるように、高級霊の愛深き指導によって間断なく修正されつつあるがゆえに、わたしは必ずしも、本書に示される各民族の運命を絶対だと信ずるものではない。しかしアジア民族の一員としてアジア民族の今後の運命に関して関心しておく能(あた)わぬものである。

昭和三十七年十二月十日       著書しるす

2761 a hope:2014/02/20(木) 23:48:07 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第21巻 経典篇 「はしがき」

『甘露の法雨』はいわゆるインスピレーションによって突然浮かんできた思想が一種詩的なリズムを帯びてきたのを書き止めて置いたものである。後より見るとこの聖経は期せずして、『生命の實相』全巻の真理を縮約して歌ったものになっている。それを読誦することによっていろいろの奇跡を演じたので、ついに聖経と称せられることになったのである。

その英訳をたんに携帯することによって第二次大戦中ハワイの日本民族第二世の軍隊(第百大隊、四四二部隊)がイタリーの南端から上陸する際に、機関銃弾がその英訳『甘露の法雨』に命中しながら、それを貫通することができず無傷で大量の兵員が上陸して戦功を立てたような奇跡もあり、交通事故に遭いながら無事だったと実例のごときは数限りもないのである。

この聖経はたんに現実界の人間が読誦して悟りを開いて病苦悩苦を去るばかりでなく、霊界の諸霊もその読誦の声を聞いて悟りをひらき、迷える障りの霊も守護の霊となることが後に明らかとなったので、神仏礼拝の際その祭壇に対(むか)いて読誦すべき生長の家の聖経となったのである。

しかし読んで意味の分からぬようでは功徳が薄いので、かつて毎日曜日に東京小石川護国寺の月光殿においてその大要を講義したものを次に掲げことにした。主として講義の速記によったのでわたしの文章だというよりも、わたしの語調が写されているところに特徴があるであろう。『生命の實相』の縮約が『甘露の法雨』であるから、この講義を読むだけで生命の実相の大要が摑めることと思う。第一章は当時の講義の筆記漏れを後より再述して完璧にしたのである。

昭和三十九年 一月十日  著者しるす

2762 a hope:2014/02/23(日) 12:24:34 ID:cEpBaIdo

『七つの燈台の点燈者』の神示

汝ら天地一切のものと和解せよ。
天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。
天地一切のものが汝の味方となるとき、天地の万物何物も汝を害することは出来ぬ。
汝が何物かに傷つけられたり黴菌や悪霊に冒されたりするのは
汝が天地一切のものと和解していない証拠であるから省みて和解せよ。
われ嘗(かつ)て神の祭壇の前に供物(そなえもの)を献(さ)ぐるとき、
先ず汝の兄弟と和せよと教えたのはこの意味である。
汝らの兄弟のうち最も大なる者は汝らの父母である。
神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ。
天地万物と和解せよとは、天地万物に感謝せよとの意味である。
本当の和解は互に怺(こら)え合ったり、我慢し合ったりするのでは得られぬ。
怺えたり我慢したりしているのでは心の奥底で和解していぬ。
感謝し合ったとき本当の和解が成立する。
神に感謝しても天地万物に感謝せぬものは天地万物と和解が成立せぬ。
天地万物と和解が成立せねば、争いの念波は神の救いの念波を能(よ)う受けぬ。
皇恩に感謝せよ。
汝の父母に感謝せよ。
汝の夫又は妻に感謝せよ。
天地の万物に感謝せよ。
その感謝の念の中にこそ汝はわが姿を観、わが救いを受けるであろう。
われは全ての総てであるからすべてと和解したものの中にのみわれはいる。
われは此処に見よ、彼処(かしこ)に見よというが如くにはいないのである。
だからわれは霊媒には憑(かか)らぬ。
神を霊媒に招(よ)んでみて神が来ると思ってはならぬ。
われを招ばんとすれば天地一切のものと和解してわれを招べ。
われは愛であるから、汝が天地一切のものと和解したときに其処にわれは顕れる。

(昭和六年九月二十七日夜神示)

2763 a hope:2014/02/23(日) 12:26:23 ID:cEpBaIdo
>>2762 a hope所感)

この神示は、命令口調なので、神がわたしたち人間に「喧嘩せず、仲直りしなさい。身近な人に感謝しなさい。」
とおさとしくださっているような印象を持っていましたが、
本当は、そんな意味ではないような気がしてきました。

この神示は、神さまの無限(無償)の愛、仏さまの大慈悲の表現なのではないかと・・・。

神さまが相手を赦せなくて苦しんでいる人間に、「赦せばすべてが救われるんだよ。」と、
切ないまでの大きな愛の心で、訴えられているような気がしてきました。

ただ、「本当の赦し(和解)」とは虚説に和解することではないので、
そこは気を付けなければいけないことだと思っていますが・・・。

「間違った言動」まで赦してしまうのが和解ではないので、自分自身の良心に反する行動や、
内在の神への信仰心に反するような「間違った教え」には、決して和解してはいけないのだと思います。

2764トキ:2014/02/24(月) 19:02:14 ID:0wHNOXro
「神様にお願いするには」

 あなたがお祈りになっても祈りの効果が思うようにあらわれないのは、
あまり複雑に面倒なことをいろいろと考えて、こんなことではこの祈り
はなかなかかなえられないかも知れないなどとお考えになるからです。

 祈りは自分の愛人に物言うように直接簡単明瞭で、「ねえ、あなた、
何何して下さい。して下さるにきまっているわね」と良人にあまえる
奥様のように、屹度その祈りがかなえらえるに違いないと云うことを
信じて、神様に話しかけるのが好いのです。姑さんに遠慮して物を言う
お嫁さんのように、オズオズと気兼ねがちに神様にいのっても、自分の
心の遠慮が絶縁的力になってその祈りが成就しにくいことになるのです。

 祈りが教会で人の見ている前で、人にきかれて恥ずかしいから上手に
唱えなければならないと、祈りの言葉を吟味して、名文でも朗誦しよう
と云うような気持ちになりますと、恥ずかしさやら、虚栄心や、知的な
工夫巧者などが混じりますから、それだけ雑音まじりで、神様にはっき
り通じないことになるのです。と云うよりは、神様の恵がこちらに通じ
ないことになるのです。もっとザックバランにお父さんに物言うように、
愛人に物言うように、祈りなさい。しかし、誰も肉眼に見える相手がい
ないのに大声で神様に呼びかけていては、人が気狂いかと思いますから
やはり神想観のときに、又は、神想観のときのように眼をつぶって、心
のうちで神様に、簡単な愛情のこもった言葉でお話しかけになるのがよ
いのであります。

新版 「真理」 第3巻 初学編 谷口雅春先生著、45〜46pより謹写

2765トキ:2014/02/24(月) 19:05:59 ID:0wHNOXro
(トキの感想)

 この場合の「祈り」は正しい祈りであることが大事だと思います。
その点を心得たら、とても安心できるご教示だと思います。

2766トキ:2014/02/28(金) 20:46:42 ID:RQOZFu86
「生かす力・癒す力」

 宇宙全体は神の”大生命”の海原である。一切の生命体を「無」の世界から生み出した
ところの「生かす力」「生み出す力」「生理作用を整える力」が宇宙全体に充ち満ちて
いるのである。その力が「病める者」を癒す力としてはたらくのである。すべての人間
は、この万物を生かし、すべての病を癒す”無限の力”に取り囲まれ、とりまかれているの
である。病気を癒されたいと思う人は、この”無限の力”に波長を合わせればよいのである。
 神想観をして次のように念ずるのがよい。

 「宇宙には神の癒す力が無限に充ち満ちているのである。

 私は今この神の癒す力に対して心を振り向け波長を合わすのである。

 神の無限の癒す力、今滔々と自分に流れ入り、一切の暗い考え、心配、取越苦労などを一掃し、
 生き生きとした生命力をもって全身の全器官全組織を満たし、全身を賦活して健かならしめ給い
 つつあるのである。

  刻々瞬々、私の全身の細胞は活力を得、若返り、一層健かとなりつつあるのである。

  この神想観を終わりたる後も、常に間断なく、大生命の癒しの力が休みなく私に流れ入って、
 最早や病の存在する余地を与えないのである。

 神の護りに感謝いたします。」

 新版 生活の智慧365章 谷口雅春先生著、60pより謹写

2767神の子さん:2014/03/03(月) 10:56:43 ID:5pNnMYt.
谷口雅宣先生の病気が早く治りますように。

2768神の子さん:2014/03/03(月) 12:43:32 ID:8OxTIoyM
いたって健康です。
ご心配無用。

2769うのはな:2014/03/03(月) 17:27:21 ID:0ebm3k/s

 『第二青年の書』よりhttp://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1234

2770トキ:2014/03/03(月) 21:04:05 ID:NDrvF/0Q
「機嫌の善さは万人を明るくする」

 「愛はよく耐え忍ぶ」ということは、愛深き人は、怒りや不機嫌を爆発さすとき、その影響
がどんなに多くの人に破壊的効果をもたらすかを知っているからである。御機嫌がよいと云う
ことはその人の心が明るいことであり、心が明るい時には、その人の持って生まれた智能がい
つもよりよく働くから、よき考えが浮び、よき仕事ができるということになるのである。心明
るき時には、不幸や災難の波長を受信することはないのである。心明るきときには肩が凝らな
い。筋肉が無理な緊張をしない。人が自分を侮辱して来ても腹が立たない。常に平和で、何事
も善意に受取ることができるのである。新しき智慧が涌き出で、新しき勇気を生じ、どんな逆境
も好転させる不思議なるインスピレーションを受け取ることができる。次の如く念ぜよ。

 「私は神の子である。神は光である。私は光の子である。それゆえ私は常に心が明るくて、
何事も光明面を見て暗黒を見ないのである。自分自身が光であるから暗が近づいてもそれを
光に変えてしまうことができるのである。」

2771トキ:2014/03/03(月) 21:20:01 ID:NDrvF/0Q
>>2770 は、新版「生活の智慧365章」 谷口雅春先生 142p より謹写です。

2773トキ:2014/03/06(木) 18:46:41 ID:aoV8gyjg
「各人の幸福にも個性がある」

 各人の幸福は、人それぞれの個性が異なり、絶対者の個性化であるから、その幸福にも人それぞれに
個性があり、しかもその人独特の個性ある幸福であり、絶対者の延長として先生えられた幸福であるか
ら、幸福それ自体、絶対性をもっていて、相対的に他の人の幸福と比較し得べきものではないのである。

 だから陶芸家となって日夜、陶土をいじり、窯をつくって楽しむことが無上の幸福である人も出て来
るし、彫刻家となって、毎日、原木に立ち向かって鑿を揮うことが至上の幸福だと感ずる人もあるし、
死の危険を賭してまでヒマラヤの氷壁をのぼる登山家もあるし、真裸で土俵の上で力を競う相撲とりに
なりたくで特にその弟子入りをする青年もある・・・色々書けば限りがないので、この位にしておくが、
みんなおのおの異なる幸福の天国をもっているのである。各人にとっては、それは絶対価値の幸福であ
って、他の人の幸福と比較しても甲乙の点数をつけようがないのである。

「如意自在の生活365章」 谷口雅春先生著、82〜83P より謹写

2774 a hope:2014/03/10(月) 13:01:17 ID:cEpBaIdo

生命の實相 第11巻 萬教歸一篇上 はしがきより抜粋  p2 10行目〜


たとえば大戦後、海南島に戦犯容疑で死刑囚として判決をうけて抑留されていた遠藤義雄氏は、次々と死刑を執行されてゆく同胞の姿を見て、自分の死刑の日も、もうほど遠くないと考えていた。


するとある日、死刑の執行に連れてゆかれる某大尉が、監房の格子戸から『生命の實相』第六巻(頭注版の第十一。十二巻のことすなわち本書である)と、『甘露の法雨』〔田中静壹大将が自刃(じじん)の際、読誦して机上に置いてあった生長の家の聖経〕を筆写したものとを抛(ほう)り込んでいったのである。

遠藤義雄氏はそれを読んでみると、肉体は人間ではなく、それは現象にすぎない、人間そのものは霊的実在であって不生不滅の実在であるという自覚を得たのである。すなわち「現象存在」は滅すると見えるときも「わが浄土」(実在界)は天人常に充満し、その不滅の天人が自己であるということを自覚するとともに、死刑の執行が少しも恐ろしくなくなった。

遠藤氏は監房な中にいては仕事もなく暇であるからこの真理の書を読むことを日課とし、それに書かれている神想観を、おおよそこうするのであろうと懸命に合掌して精神統一して禅定の境に入ったのである。すると、南方支那に処する監房のこことて、群る蚊が身体(からだ)一面に黒胡麻を振りまいたようにたかっていたが一匹も氏の血を吸うものがなくなった。

ベッドには南京虫が行列していたが一匹も遠藤氏を螫(さ)さなくなった。監房にいっさい衆生が調和している天国浄土の状態が実現したのである。遠藤氏の相貌(そうぼう)は明日死刑になるともあらないともわからない囚人のように見えない大安心に輝いてきた。まことに「地涌(ちよう)の浄土」が出現したのである。
(つづく)

2775 a hope:2014/03/10(月) 13:02:39 ID:cEpBaIdo
>>2774 つづき)

するとある日、中国人の看守が遠藤氏に、「君は大丈夫死刑にならないよ。わたしは死刑になる人をたくさん見て来たが、皆死相をあらわしている。しかし君の人相は光顔巍々(こうがんぎぎ)と大安心に輝いて死刑になる人の相貌をしていない。免刑の嘆願書を出したか」と言ってきいてくれた。

「実は軍に嘆願書をだしたがなんの反応もない」と言うと、

「軍などに免刑の嘆願書を出してもだめだ。蒋介石の中央政府に出すのだ。嘆願書をお前が書けばわたしが翻訳して中央政府へ無罪の嘆願の手続きをしてやる」と深切に言ってくれた。


遠藤氏の自覚がかわると、看守が大慈母大悲の菩薩に変貌したのである。かくて間もなく突如として中央政府から「無罪」の宣告文が送られて遠藤氏は九死に一生の奇蹟的生還をとげたのである。


唯心所現の世界はこのように、自覚がかわれば変わるのである。わたしはここにいたずらに奇蹟を必要をみとめない。本書こそ『生命の實相』の中でも、最も深い「存在の実相」が、壊(え)せず滅せず常住久遠のものであることを自覚する悟りに導く中心の巻の一つとして、ぜひとも無宗教の方にもあらゆる宗教宗派の方にも読んでいただきたいのである。    

合掌。


昭和三十八年 二月 十日             著者しるす

2776トキ:2014/03/10(月) 20:27:31 ID:sA8gBtFU
 本当の神というものはただ一つーそれは力が足りないということもない、愛が足りないこと
もない、われわれが悪いから神罰をあてるということもない、といってわれわれを悪いように
も造ってい給わない(われわれが罪を犯すように見えるのは本当の相ではないのであって、念
の仮作せる影であります)無限の力で、われわれとこの世界とを実に円満完全に神そのままの
相に造ってくだっさった神が本当の神であります。これが生長の家の大信仰でありまして、そ
のほかに不完全な神や、力が足りない神や、日本の神や、外国の神があって戦っているなどと
思うのはみんな迷信に過ぎません。生長の家の神というのも固有名詞ではないのでありまして、
生長の家において顕わされた宇宙神であります。

生命の実相 第3巻 77pより謹写

2777トキ:2014/03/13(木) 21:42:01 ID:YgQSZefk
「事業好転の思念」

 どんなに神に祈っても、問題が解決しない事があるならば、それは
あなたが其の問題をつかみ過ぎているからである。祈りは既に成就し
て、それは現実化しようとして其の途上にあるのだけど、あなたが其
の問題を心でつかみ過ぎているために、その現実化の通路がふさがれ
ているだけである。そんなときには、あなたの心をその問題から完全
に放してしまうのがよいのである。

 「この問題を神様あなたにおまかせします。わが意を成さんとする
には非ず、神のみ心のままにならしめ給え」と祈ることによって、
自己解放をとげ、自分の心を自由にするのがよいのである。「祈り」
と云うものも、執着をもって遮二無二祈るときには、自己の祈りの
念力によって何物かを成就しようと自力的に力むことによって却っ
て其の祈りの成就を妨げるのである。

 新版 生活の智慧365章 谷口雅春先生著、193pより謹写

2778SAKURA:2014/03/15(土) 16:45:03 ID:xF5rKKA.
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】     ― その1 ―
(生長の家家族の祈願および修養)     谷口雅春著  昭和46年初版発行

※「亡き父」が、良く読んでいた書籍のようです。…が?ボーダーラインがたくさんあり!父の理解は???
私なりに、今日は、心を静めて…初めてその書籍本のページを開いて見ますと、更に!ビックリするという…
現在の私の正直な心情なのです。…が?
しかしながら?ページが進むに従いまして…内容が現在の私にも理解しやすい形態様式になって行くようです。
では〜〜〜♫ 今回の投稿は?素直に開いたページ(神からの伝言?)でしょうか〜〜〜♫

尚!次回からは、この書籍本の最初のページ〜〜〜♫
■□ 「生長の家の意義・・・」についてから、順次にて投稿させて頂きます。

*========*【 いっさいのものを拝め ― その1 ― 】*=======*=======* =======*=======*

■われらは野を、野の花を、み空を、み空の星を、蒼海を、大地を、火を、水を、いっ
さいの大自然と生物とを観るに、その背後に神の生命の円相を観、その生命を敬し、
礼し、愛し、いやしくとも浪費せざらんことを期す。
                             
そこで、自分自身が神の子であると自覚した時に、次いでこの神の自覚が発動し動き出
した場合に神の子が活動する環境はどういう世界であるかというと、これは第一ヵ条のと
ころでいったとおり、無限創造の宇宙すなわち「生長の家」であります。仏教でいうと寂光
土である。寂光度というとちょっと平和すぎるので、活気溌剌たる「生長の家」すなわち無
限創造の宇宙だとわれわれはいううのですが、この無限創造の宇宙たるやどういうものであ
るかというと、聖経『甘露の法雨』の講義の時に申しましたように、それは無限次元の世界
である。

われわれの住んでいるこの三次元(縦・横・厚みの三つの広がり)の世界だけでもこんなに
美しい世界であるのに、それが無限次元の妙なる世界である。その妙なる世界が、この五官には
その全体の貌は見えないけれども、妙なる世界の“う”つ“しとし、写真として見える。
(たとえば写真ですが、実際のわれわれ人間の相 は写真に比べると、もっと複雑な相をし、もっ
と複雑次元を備え、もっと複雑な色彩を備えているのであるけれども、写真にはただ一色の平面
の姿に写っている。)それと同じに、われわれの五官で認識(みと)める三次元の世界では実相の
世界の複雑微妙な無限次元(ひろがり)の妙なる美しい世界が平凡な世界に見えているのであります。

 けれどもわれわれはこの肉眼で見るところの野を、野の花や、み空の星や、蒼海や、大地や、火や、
水や、いっさいの大自然や、生物や、いっさいの現象を見るのに、この第三次元の縦・横・厚みの
この下らない、単純な、味のすくない世界とは見えないで、その奥の奥を観て、実相を観て、もっと
無限に美しい円満な、完全な神の生命というものを観る、そうしてそれを敬し、礼し、愛し、いやし
くも浪費せざらんことを念願するのが生長の家の生き方であります。
                          
つづく

2779SAKURA:2014/03/15(土) 18:26:25 ID:78CkCzrk
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こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】     

(生長の家家族の祈願および修養)     谷口雅春著  昭和46年初版発行

*=======*【 いっさいのものを拝め ― その2 ― 】*=======*=======* =======*======*
>>2778 投稿の続きです…。

 「生長の家」は、ここに明らかに生命礼拝の宗教でありますが、原始人の生命礼拝の宗教とはちがう。
原始人は物の奥の奥にある実相などというものを知らない。だから生命礼拝といっても浅薄な現象生命の
礼拝であったので、現象そのものを不思議がって礼拝していたのであります。

この現象の奥の実相を観て礼拝することを教えたのはまず「法華経」であります。
生長の家と仏教とは根本において少しもちがっておりませんけれども、現在世人が普通に考えられている
仏教というものとはややちがうのであります。というのは、釈迦の説き方がわるいのではない、釈迦の説
き方を理解することが出来なかった後の祖述者が教祖の正説を完全に伝えなかったというわけであります。

仏教では「色即是空」――物質は空であると、こういうぐあいにいうのであります。

「生長の家」でも物質は本来空であるというのであります。仏教でもむろん「実相」という言葉は使って
おりますけれどもそいつが時々誤れまして、「“実相”すなわち空なり」というぐあいに説いている人が
多いのであります。
実相を空であるとすると、そうすると、その「空」とはどんなものであるかというと、空であるから、
空気みたいで、エーテルみたいで形がない。形がないから、何もないようなものであるから金剛不壊
である。たとえば空気はいくら斬っても斬れやしない。もう一つ空気よりも、手にも触れないエーテル
みたいなものになってしまうといよいよ斬ることができないものである、それであるから金剛不壊である。

実相はエーテルみたいなものであるから自由自在であると、こう実相を空々漠々なものとある仏教家は考える。
ところがもしわれわれの実相というものがエーテルみたいなものであって、空々漠々のもので無色透明の、
ちっとも美しいこともなんともない、そういうふうなものが実相であって、変化の姿、美しい姿というもの
は幻みたいな何もないものであると、こういうふうに説くまちがった仏教者に従って「汝ら実相
に還れ」という教えを生きることになるのが、仏教に従うことになってしまう。

これではさしずめ三原山や浅間山の噴火口が賑うことになるのでありますが、これではいけないのであります。

 空を単に無と解すれば実相というものはそんな空じゃないのです。空は現象であって、実相は空ではない、
それは無限荘厳の世界である。無限の荘厳(うつくしさ)のある世界なのであります。

ここが大切なところでありまして、『法華経』以前の仏教では「一切皆空」となっているのであります。
『華厳経』なんかでも、心・仏・衆生三無差別であって本来空のものである。心が悟れば仏になり、
仏が迷えば衆生になる。そうして仏といえども本来は空であって、なんにもないようなものであると、
こういうぐあいに説いてあるところがある。

そうするとわれわれ悟りを開いて涅槃寂静、本来の実相に帰するということは空になってエーテルみたいな
ものになることだとこういいぐあいに考えられる。そうなると、われわれは首でもくくって自殺してしまった
ならば、座禅も禅定も要りはしない。そういうエーテルみたようなものがわれわれの生命の実相であり、
それに帰するのが実相に帰するのだとしたならば、生きているのは何のために生きているのだかわからない、
こういうふうに仏教をまちがって解釈した人が多かったのが仏教衰退の原因なのであります。

                                つづく

2780トキ:2014/03/17(月) 22:32:02 ID:18XrI3jo
「供養の心と供養の実践」

 時には「供養の心さえあれば供養は要らないのではないか」という人があるが、
併し心があれば、行いが自然と現われることになるのである。先祖を大切にする
心があれば、自然にお祀りを大切にする訳である。心があれば何もしなくてもよ
いというのは、心がないという証拠である。たとえお坊さんであっても他家の先祖
の位牌を預かって祀っていて毎日読経をしていても、自分の先祖に対してお祀りと
供養がなされていなかったら、先祖供養をしたことにならないのである。

「人生を支配する先祖供養」 谷口雅春先生著、48pより謹写

2781a hope:2014/03/18(火) 08:20:40 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第11巻 万教帰一篇上 P21 後ろから2行目〜

神はその第一念によって実相の世界、大調和の世界、円満具足の世界、一にして多、多にして一、自他一体の渾然たる霊的実在の世界を創造し給うたのであります。この神の創造したまえる世界のいっさいの事物は、猛獣のように強いものであっても、強いなかに必ずやさしさがあり愛があり、美しさがある。虎や獅子を見ても、その勇猛なうちに美と優しさとを備えているのであります。もし、われわれ生物が、第二念に捉われない時代が来れば、預言者イザヤが次のように歌ったような理想世界が実現して来るのであります。

狼は小羊とともに宿り
豹は小山羊とともに伏し
獅子は牝牛のごとく藁を食い
犢(こうし)と若獅子とはともに草を食まん。

牝牛と熊とはともに子供に導かれ
食をともにして相ともに戯れん。
乳呑み児は毒蛇の窩(あな)の上を匍匋(はらば)い
乳離れの子は手を蝮(まむし)の窩(あな)にさし入るるも傷つかざらん。

わが聖(きよ)き山にはいずれの処にも
傷つくる者なく、殺す者なし。
そは海原を水の蔽(おお)えるごとく
大いなる神の知恵この地上に満つればなり。(『イザヤ書』第十一章――六〜九新訳)
(つづく)

2782a hope:2014/03/18(火) 08:21:46 ID:cEpBaIdo
(つづき)
こんな理想世界が果たして来るのであろうかなどと疑われる方もあるかもしれませんが、来るとか来ぬとかいうことは、われわれの第二念の世界(映像(かげ)の世界)だけのことでありまして、神の第一念の世界(実相の世界)においては神の創造の最初から無限の未来を通じて現在にこの理想的大調和の状態にあるのでありまして、これからいろいろ工夫し改善されて来るというような緩慢(まだる)っこいものではないのであります。今現に実相世界は完全に大調和の状態にある!これを悟ることが真理を悟るということなのであります。

この完全な大調和な理想世界が今現にあるということを悟らないで、歪な「迷いの色眼鏡」をかけて眺め、いたずらに相争い、相犯し、相恐れるものでありますから、真理の光線が屈折して、まん円(まる)いものも、歪な形を映し出しているのがこの現実世界であります。結局、これは「迷いの色眼鏡」をかけているがためでありますから、真理の正しい眼鏡をかけて事物を眺めるようにするならば、実相世界はそのままの大調和の状態がこの映像(かげ)の世界(現実世界)に現出するのであります。

キリストは「み心の天に成るがごとく地にも成らせ給え」と祈られました。この祈りは天(すなわち霊なる実相の世界)にはすでに神意が実現して大調和の状態にある証拠でありまして、「実相の世界」がすでに大調和の状態にあるがごとく、現実世界もまた大調和の状態を現出せしめたまえと祈られたのであります。

釈迦は『弥勒菩薩下 生経』において末法の世が過ぎ去れば弥勒菩薩が下生して来たまい現象世界にも大調和の世界が実現して来るということを予言していられるのであります。これはキリスト教で予言されているキリストの再臨ということにあたるのでありましょう。しかし、肉体は「念の映像(かげ)」でありますから、肉体をもった弥勒菩薩が下生して来られるとか、肉体をもったキリストがこの地上に再臨し給うとかいうことは、真実(ほんとう)ではありますが、「映像(かげ)すなわち肉体の世界」に捉われず、常に「実相の世界」を観たとき、現実の世界の不調和が忽然としてわれわれの眼界から消え去るのであります。そのさまはちょうど『黙示録』の第二十一章に書かれております。―――
(つづく)

2783a hope:2014/03/18(火) 08:22:41 ID:cEpBaIdo
(つづき)
○我また新しき天と新しき地とを見たり。
これ前の天と地とは過ぎ去り、前の海も亦(また)なきなり。
我また聖なる都、新しきエルサレムの、夫のために飾りたる新婦(はなよめ)のごとく備えして神の許をいで、天より降るを見たり。(『ヨハネ黙示録』第二十一章 ―― 一〜二)

このように新天新地というものは天から降って来るのであって、現実世界だけにいろいろ改造運動を施してでき上がるものではないのであります。天から地へと降って来るというのは「実相の世界」から「現実世界」へ映って来ることをいうのでありまして、完全な「実相世界」そのままの相を「現実世界」へ映し出すには正しいレンズがいる。

この正しいレンズとはなんであるかといいますと、真理を悟った心――すなわち「サトリを開いた心」であります。われわれが真理を知り、サトリを開いたときに、忽然「みこころが天になるがごとく地にも成る」――すなわち新天新地が「実相の世界」から天降って来るのであります。そのときに初めてわれわれは、「神と人とが一体であり、死もなくすべての悲しみもないのが人間の本来である」ことがわかるのであります。
(以下、略 謹写終わり)

2784SAKURA:2014/03/18(火) 11:26:31 ID:bVpYKXPA
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こんにちは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】  
(生長の家家族の祈願および修養)     谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 いっさいのものを拝め ― その3 ― 】*=======*=======* =======*=======*
>>2778>>2779>> 投稿の続きです…。

 けれども、『法華経』は決してこの、そういうエーテルみたいな、千遍一律の、空気よりも
まだまだ」はかないような同室平等な世界を説いているのじゃないのであります。
『法華経』の「自我偈」に書いてある実相の世界は、一様平等なホモジニヤスな世界ではなく、
実に実に美しい世界が書いてある。園林諸々の堂閣、種々の宝をもって荘厳せり、宝樹華果多く
して衆生の遊楽する所なりと書いてある。あれが本当の実相の世界です。

言葉に現わしてあるからまだ完全に現れていない。それはただ形容が書いてあるだけであります
けれども、あれが実相の世界であります。その美しい実相の世界が、われわれの五官のレンズ
を通して眺めると、そのレンズに曇りがあるからいまわれわれが肉眼で見ているような、こう
いう美しさやら、汚れやら、愛やら、争いやらが取り交ぜて現れている。美人もあれば、病人の
ような憔悴した醜い相もあるというふうに出ているのでありますけれども、本当のわれという
ものは「無限荘厳の我」である。活気溌剌たる無限に生きる力を持って、無限荘厳の身を持ち、
無限荘厳の世界の中に今現に住んでいるいるのであります。

今現にその実相世界に住んでいるのです。今現に住んでいるその世界を、肉体が死んでから
そういう無限荘厳の世界へ往くのだと思うとまちがいであります。衆生劫尽きて大火に焼かる
ると見る時にも、病苦にて痩せさらばうて貧しい病床にいるように見える時にも、今現に、
われわれは宝樹華果多き実相の国土に安楽身を逍遥させているのです。

今現に実相の国土にいるけれども、五官のスクリーンすなわち網目を通して、下へ映る世界は
縦・横・厚みだけしか映らない。それ以上のひろがりの世界はスクリーンの上にあって残って
いるので、われわれの五官という網目を通して見るとどうしても縦横厚みの三次元しか見えない。
その三次元だけでも完全に原形そのままに見えればよいのだけれども、念のレンズに凹凸さま
ざまの歪みがあるために、真直な顔が歪んで見えたり、近眼でもないものが近眼に現われたり
している。

それでその念のレンズの無明(くもり)というものを断ってしまったら近眼が近眼でなくなり、
あるいは、病人でなくなるといううふうになる。けれども、ここに健康になり、近眼の治った
人間でも、それが五官に見える現象人間である限り、まだまだ本当の人間ではない。
それは本当の無限荘厳の、無限の美しさ――その何といおうか、言いようのない、無限の妙なる
実相人間の姿を、ただ縦横厚みの三次元だけを撮影する写真機で映した人間なのです。

それからは無限次元の複雑な美しさ捨象(すて)られている、ただそれが比較的歪みなしに
映っているのは、健康な人間として扱われているのであります。

つづく

2785トキ:2014/03/18(火) 23:22:30 ID:h6GdR2gA
「過去」に感謝せよ

あなたの心の緊張を解きゆるめなさい。過去はないのです。今の苦しみも既に過去に刻々
なりつつあるのです。それらのものは全て過ぎ去るものに過ぎないのです過ぎ去るものは
実在ではないのです。実在でないところのものを捉えて悩んでみても仕方がないではあり
ませんか。心に重荷を背負わせてはなりません。過ぎ去るものが、如何にあなたに苦悩を
あたえたにせよ、それが過ぎ去るときには祝福と感謝とを与えなさい。どんな艱難も何か
の意味に於いて、あんたの魂に経験を与えそれだけあなたの魂に教訓を与えたのです。

 過ぎ去るものに御礼を言う心持になったとき、次ぎに貴方によって一層よきものとな
るのです。一切を祝福する気持ちになったとき、もう何ものもあなたを害することは
出来ないのです。すべて憎むとき怨むとき、心につかんで嘆くときのみ、それはあなた
を害するのです。

新版 生活の智慧365章 谷口雅春先生著 284pより謹写

2786SAKURA:2014/03/20(木) 20:36:29 ID:P.bDOuWc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】  
(生長の家家族の祈願および修養)     谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 いっさいのものを拝め ― その4 ― 】*=======*=======* =======*=======*
>>2778>>2779>>2784 投稿の続きです…。

そうして誌友会さんの家庭生活等でも、「生長の家」へ入信して以来、本当に極楽のような
円満な家庭が出てきたという事実がたくさんありますけれども、たといそれが極楽のような
家庭でありましても、現象世界の極楽状態は本当の実相の極楽状態には及ばないのであります。

ともかく、われわれ現象を見ても現象だけを見てそれを全部だと思ってはいけないのです。
その現象の奥にある実相を見、そこに十分なる神の相、実相の円満な相を観て、そうして
それに対して敬礼をするという気持ちにならなければならないのであります。

蓮如上人は「一枚の紙もすべて仏物である」と言われたそうでありますが、その心持こそ大切である。

「生長の家の経済学」には「物質は無限供給であるから使うほど殖える」ということが書いて
あります。「使うほど殖える」から、紙でも無暗に一字ぐらい書いて紙屑籠に捨てると、これ
は大変経済循環をよくしていいことだろう、こう考える人があるかもしれない。
しかし、それは嘘である。本当に使えば使うほど殖えるけれども、それは破って捨てるのは使う
じゃないのです。われわれは一枚の紙にも、その背後に神の生命うを見、神の無限の光を見、
神の無限の愛を見、これを拝まずにはおれない。これを礼拝してつかわずにはおれない。

今までは「もったない」ということは棚の上に上げて蔵って置くとこういうふうな考え方が多か
った。それで「もったない、もったない、食べたらもったない。着たらもったない」と、戸棚や
箪笥に入れて置くという、これじゃいけないのです。

神の生命は、使ったら減るというふうなものでない。実に立派なものであるから、この立派なも
のを、その顕われている生命の働きを十二分に発展させて使えば使うほど殖えるということにな
るのであります。

無限供給であるから破って捨てるというのじゃないのであって、用途に従ってそこに顕われている
神の生命を使えば使うほど、神の生命がはっきり顕わされてくる、それが無限供給である。使えば
使うほど殖えるということになるのであります。

「物質は無い」ということはそこに何も無いということではない。

みんな仏物である、みんな神の生かす力の顕現(あらわれ)である。
その奥には物質ならぬ実相があるということであります。
これを履き違えると大変なまちがいになるのであります。

生命は生きる、生きるから生活であります。我れ神の子なりと知ったら、
神の子を今、生、き、る、といううこと、これが神の子を知るということであると申しました。
それをまた客観界のものにしましたならば、紙が一枚ここにある。この紙一枚が、その奥にある
実相を見れば、それが仏様であり、神様であって、ここに神の生命が現われているといううことを
知れば、それを生きるということは、ことごとく与えられたる生命を完全に発揮させるということです。

この「生命を発揮させる」ということが紙を使うということです。
すると使えば使うほど殖えるのであります。この一枚の紙の使命を完全に発揮させたならば、そこに
神の生命が生きてきて無限供給ということが出てくるのであります。

                          つづく

2787うのはな:2014/03/23(日) 18:16:08 ID:4pd1ccDk

思想理論よりも宗教的興奮
 http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18172187.html

2788トキ:2014/03/24(月) 19:55:06 ID:LLKAImFM
「法華経」の中に説いてある譬え話、財宝無限の長者というのは、われわれの父で
あるところの神である。そして貧窮の子とは人間である。神は無限の富をどうぞ人間
に譲りたいと願っていられるのである。しかし肉体こそ人間だと思っている限り人間
は貧窮の息子である。肉体というものは物質であり、物質は有限であるから、肉体を人
間自身だと思っている限りは無限の供給はわれらに決して与えられないのである。

 本来人間は神の子であるから、そうぞして無限の供給を与えたいというのが、親
たる神の念願である。否、すでに戸籍の上では無限無尽の供給をわれわれは与えら
れているのである。それを迷いによって与えられていないと空想している。そこで
現実世界はわれわれの念の投影でありますから、その無限無尽の供給が与えられて
はいないという空想が現実界に反映して、われわれになくてはならぬものもたりな
いというような顕われ方をしている。これはただそういう顕われ方をしているだけ
で、実際はたりないのではない、神は無限無尽の供給であるからわれわれに対する
供給が足りないことは決してない。ただそう顕われているだけである。

生命の実相第11巻 125から126pより謹写

------------------------------------------------------------------

  画家の林 武先生は、義務教育の小学校のみが正規の学業で、日本美術学校
(これも正規の学校ではない)で学んだと云っても一年と続いていません。

 若くして樗牛賞を受賞、その後、「独立美術協会」を同志とともに設立、
当時より実力はかわれていましたが、長く不遇でした。しかし、奥様の献身的
な応援のおかげで成功し、文化勲章を受賞するなど、画壇の第一人者となら
れました。

 林先生は生長の家の信徒としても熱心な方でしたが、奥様にもめぐまれま
した。無限の供給を受けるのは、やはり家族の調和が大事かと思います。

2789トキ:2014/03/24(月) 20:38:25 ID:LLKAImFM
>>2786

SAKURA様

 すばらしいご投稿、ありがとうございました。

私も「無限供給」をお題に、投稿しました。

よろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

2790うのはな:2014/03/26(水) 13:05:43 ID:5d.jGat2

絶版になった谷口雅春先生の御本をここで読むことができます
 http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1340

2791トキ:2014/03/26(水) 21:11:13 ID:wPOoKL4Y
「声なき声の導き」

 人は神との一体感が深まって来るにつれて、「生命の本源」なる無限者との波長が一層ぴっ
たり合うようになって来、普通の肉体力や精神力では到底できないような奇蹟的な力を発揮す
ることができるようになるのである。

 これに反して、あまりにも心が物質的なものに捉われ、個人主義的な心の持ち方となり、
「全体生命」又は「普遍生命」なる神との波長が普通以下になって来たとき、普通の健全
生活が出来なくなり色々の心配事や不調和な争いや病気や事業の失敗等があわれて来るよ
うになるのである。吾々は常に心を調えて、大生命の”声なき声”の導きを心の耳で感じと
ることができるように修養しなければならないのである。それは少なくても毎日1回(出
来得べきんば早朝起床時と就床前との二回)神想観を実修して心のチャンネルを神に振向
け、神との交通の習慣をつけて置くことが必要なのである。そうすることによって衝突す
る汽車電車自動車などには何となく自然に乗らなくなるのである。

新版 生活の智慧365章 谷口雅春先生著、48pより謹写

2792うのはな:2014/03/28(金) 19:18:22 ID:9BQVgwDU

 『神ひとに語り給ふ』を読めるようにしました。光明掲示板・第二
  http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1412

2793トキ:2014/03/29(土) 21:36:46 ID:th4mVDzM
「声なき声の導き」

 人は神との一体感が深まって来るにつれて、「生命の本源」なる無限者との波長が一層ぴっ
たり合うようになって来、普通の肉体力や精神力では到底できないような奇蹟的な力を発揮す
ることができるようになるのである。

 これに反して、あまりに心が物質的なものに捉われ、個人主義的な心の持ち主と
なり、「全体生命」又は「普遍生命」なる神との波長が普通以下になって来る
とき、普通の健全生活が出来なくなり色々の心配事や不調和な争いや病気や事業の
失敗等があらわれて来るようになるのです。吾々は常に心を調のえて、大生命の
”声なき声”の導きを心の耳で感じとることができるように修養しなければならない
のである。それは少なくても毎日1回(出来得べくんば早朝起床時と就床前との
二回)神想観を実修して心のチャンネルを神に振向け、神との交通の習慣をつけて
置くことが必要なのである。そうすることによって衝突する汽車電車自動車など
には自然に乗らなくなるのである。

新版 生活の智慧365章 48p谷口雅春先生より、謹写

2794SAKURA:2014/03/29(土) 21:49:12 ID:8WDNj1FI
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】  
(生長の家家族の祈願および修養)     谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 いっさいのものを拝め ― その5 ― 】*=======*=======* =======*=======*
>>2778>>2779>>2784>>2786 投稿の続きです…。

 光明思想普及会(この仕事は、現在財団法人世界聖典普及協会がしている)が成立いたしまして、
たくさんの働く人が要るからというので就職希望の人は、就職希望願いを出しておきなさいという
ふうに、広告が出ておりましたら、それに対して、就職願いをお出しになった方がたくさんある。

そのすべての人に対してまだ返事を差し上げていないのであります。写真をみな写真ブックに貼り
ましてそれに番号を付し、そうしておのおの経歴を表のようにして写真と経歴とを一目瞭然として
わかるようにして事業の伸張するに連れてこの人が欲しいなという人を一人来て下さいというふう
に通知をすることになっております。そうして現在ではもう百名以上も社員が出来ているのであります。

ところが、こんな人がある。「実はわたしは生長の家の誌友になって実に自信に満ちておる、自分の
願うことは必ず成就すると信ずる、それで光明思想普及会へ雇われようと思ったら必ず成就すると
わたしは信じて、今まで余所に働き口があっても、働かずに何にもしないで待っておりましたが、
とうとう一文も無くなりましたから、どうぞ使って下さい」という人があります。

なぜこの人は働き口があっても働かなかったのでしょうか。今自分が神の子であるということを
知ったら、今「神の子」を生きるということを知らなければならないのです。

 この一枚の紙ですらも、この一枚の紙の使命を発揮させるということが生きるということである。
いわんやここに人間がいるのに、今を生きるということを知らないで「自分の希望は必ず成就さして
くれるであろうから、成就さしてもらったら、雇ってもらったら働こう、それまではまァ待命だ」と
こう思っている――会社や軍隊なら待命があるかもしれませんけれども、この宇宙という「大生命の
会社に」には待命の期間というものは一つもないのです。

今ここに自分が生命として現われている限り“も”う“常”に“現”職“です。現職ではない人は一人
もないのです。それを自分で勝手に休職にしているから金も入らなくなり、あるいは病気の人なら
どんどん身体が弱ってくるのです。
これは自分の生命を休職にさしているからです。生命を休職にさしていたら経済的には窮迫し、
肉体的は生命を生命を涸渇してくるのは当然のことです。

われわれは常にこの「宇宙大生命の大会社」の中に常に現職で雇われているということ
を知らなくちゃならないのです。そうすればどこにいても現職の社員であるから、一生懸命に
今働かなくちゃならない、これが肝腎であります。

今、普及会に働いておられる人でも、雇ってあげるといわないうちから、勝手にやってきて
一生懸命荷造りしたり外部で一生懸命に宣伝していたような人が多いのです。
その中に「あの人あんなに頼まないでも働くのだから入社させて上げたら」ということになって、
社員になっておられる人もあります。

こんな人は、光明思想普及会の就職の辞令はずっと後に出たかもしれないけれども、実相では宇宙
大生命の会社に就職していた人です。

ところが、じっとしないでいましたら、無一物になりました。生長の家を信じたら無限供給だと思
って、信じてじっとして待っていたのですからぜひやとって下さい」と、そういうようなのは、
ちょっと根本の解りようがまちがっているということになるのであります。
常にわれわれは自分の生命を、あるいは「物」の生命を、百%生かすということが必要なのであります。
人間雇われなくても、大生命に雇われて働けるような人でなければ、本当に雇ってみても本当に働けや
しないのであります。
                      つづく   (次回は別の項目に入ります。)

2795SAKURA:2014/03/29(土) 21:51:24 ID:8WDNj1FI
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】  
*========*【 いっさいのものを拝め ― その5 ― 】*=======*=======* =======*=======*
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794 投稿の続きです…。

PS:「トキ様」 へ 「観覧車の皆様」 へ
■“今を生かす…”は『生長の家の教え…』であり、
これは“今”生かす事とは、『心を生かす事…』に繋がるように思えてなりません。

そして、当時の『生長の家の職員…』のあり方が、よくわかります。…が?果たして?生かす事とは……
「信・者」に対しての“愛”は、何処まで実行されているのかしら〜〜〜ンと考えますと?
「過去」も「現在」も〜〜〜何一つ変わっていない感じですネ!!
■「言葉の表現…」一つでごまかすようにも、受け止められ、実に読んで複雑なる気分です。
「生長の家の職員同士」の世界観は?一人よがりでしょうか?同じ立場での『連・帯・感…』が?
どうしても?見え隠れてしまうのは、私だけなのでしょうか??

東京在中に、当時の副会長さんは「職員の方」は、本当に
『生長の教え…』よりサラリーマン的感覚での『雇・わ・れ・て・い・る…感覚』が多い感じで?〜〜〜と、
いわれていましたが、当時の私は、私なりの現状での捉え方で、それには「反・論…」したものです。
今だから笑い草となりますでしょうか?あれから時が過ぎ…現在の私は?といいますと〜〜〜ウ・フ・フ!
当時の副会長さんと同じような事を言っていますから、
何の変化も〜〜〜進歩も〜〜〜ない感じでしょうか?
つまり〜〜〜『 時間よ!そこに……停・滞… 』という事でしょうか? 


更に!私も、現在の環境は「吸血鬼」「ゾンビ達…」更に「タタキ男…」は【黒幕デザイナー】からの
仕事が出来ないようにという指令での【行・動…】でしょう。??

■【障害者虐待…法的に持っていけるモノ】かと思います…。

此処昨今〜〜〜パートナーの叔父様が亡くなられてからは〜〜〜嫌がらせはすごいです。このような状態での
私は、“今”を生かす事とは〜〜〜“心”生かす事につなげないと〜〜〜前!に一歩も進めないのです。
…が?生かす事は〜〜〜「行・動…」にもなるのです〜〜〜ネ!!

更に【唯物論−−>物質】に対しても、そうなのです〜〜〜ョネ!
個人的にですが〜〜〜【東京在住の時は?履き道楽…】といいますか?モトモト……私自身【靴の購買】は
どちらかといいますと【履き道楽…族】という風に〜〜〜多い方です。収入が安定になりましてから、
【靴のバーゲン】を目にして見ますと、当時!若い私は〜〜〜そく【購・買…】になる方でした。
かといいまして〜〜〜それをすぐさま履くのかといいますと〜〜〜><逆で!当時の「環・境」で言いますと
歩道が舗装された“デコボコ道”履けないという拒否反応が〜〜〜潜在意識に!!!

■モッタイナ〜〜〜イ!!モッタイナ〜〜〜イ!!ツイツイ〜♫ タイミングが〜〜〜><
新しい靴を出してまでとか?今は履かないで先でといいといいます感じでの【先延ばし組】……

気がつきますと?年数がたち、また!それなりの流行が〜〜〜当時の流行とは異なり〜〜〜><
しかしも、私自身の体型が“フクヨカ”になりましたから、履く内容の条件が、随分と当時と比較しましても
縁遠いという感じで…気がつきますと【靴箱の中に〜〜〜箱の中に〜〜〜】そのままですし、それから
“年齢…”によります志向が変わり、今にして思いますと【唯物論=物質】も〜〜〜“今活かす事!”
改めて…痛感しております。

現在!【靴・箱…】から、また新たに「昔の靴を活かす事」…これに専念しての挑戦で〜〜〜す。
これも“心…”が入るのではと思えます。…が??皆さんもそのような体験はおありでは…?

「心…」が動けば「言葉…」に現われて「動…」になりそれが「活かす原・動・力」でしょうか??
「活かす事…」とは「心から〜〜〜働く」と思いましたが???皆様もそう思われませんか???

■□「トキ様」には【辛・口・論】ですが、「現職員」としての立場からの……
【 生長の家 】について……
“今”活かす事とは?「森のオフィスへの本部移転…」また「多々なる方針の変更」
そして「気候の変化による自然との共存」…etc総合的な観点での…現状の感想は如何でしょうかと??
このような質問をさせて頂きました次第です。…が??

                                      再合掌

2796SAKURA:2014/03/30(日) 19:53:04 ID:Y2.AuFrY
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】  
(生長の家家族の祈願および修養)     谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 われらの祈願および修養 ― その1 ― 】*=======*=======* =======*=======*
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795 投稿の続きです…

■>>生長の家の意義と誕生について<<
 これから「生長の家家族の祈願および修養」の講義の概略を申し上げます。生長の家の家
族たち誌友たちの祈願として修養せんとするところの箇条書がこれに書いてあるのであり
ます。順々にそれを説明いたします。

■>>『生長の家』の誌友および読者はすべて「生長の家」の家族としてこの祈願に従いて、
生活し、修養し、おのおの隣人を照らす燈台たらんことを期す。<<

 ここに書いてありますとおり『生長の家』の誌友および読者すべて生長の家の家族とい
うわけでありまして、これから述べる祈願および修養の道しるべに従って生活し、そうし
て隣人を照らす燈台となろうという光明の大願をもって各自の生活を出発せしめるのであ
ります。

 そもそも、この生長の家というのは何であるかといいますと、最初はわたしが修養雑誌
を出したその雑誌にたまたま付けられた名前ではあったのですが、しかしながら本当の
『生長の家』というのはこの雑誌の名前ではない、といってまたわたしの個人の家の名前
でもないのであります。

 「家」というと、何か屋根のある、ある一定の建物のような気がするのでありますけれども、
『生長の家』というのは『大宇宙』ということであります。「生長の家」というのは創造する
ことで、いくらでも無限に創造し伸びてゆくのが宇宙の実相である。だから大宇宙のことを
『生長の家』と申しますので、この大宇宙に満ちている生命創化の法則を研究し、その法則を
宣べ伝えて、広く人類を教化しようという目的の団体を現在「宗教法人生長の家」と称されて
います。

 「宗教法人生長の家」と「大宇宙」そのものなる「生長の家」とは別物であります。で、こ
の「実相世界」のことをわたくしどもでは「生長の家」とこういっている。仏教では「寂光
土」という言葉を使っているのであります。これはその形容がなんとなく静的すぎる、ち
ょっと眠たいようなあんまり平和すぎるような、活気のないような言葉でございます。わ
たしは実相世界を形容するのに、そのように活気のない言葉を使いたくないのであります。

無論、この寂光的な平和の極の世界だというような一面も「実相世界」にはあるのでありま
すが、そういう静的な、活気のないような状態をあらわす言葉では「実相浄土」の無限に光
明 輝く、伸び伸びしい生き生きした状態を現わすことができないきらいがありますので、、
われわれはこの実相浄土を表わすのに、常に老いぬ、無限に若いような、活気溌剌たる少
年のような感じを出す言葉を使いたいと思って、『生長の家』といい、仏教では「寂光土」
を現わしているのであります。

                       つづく

2797SAKURA:2014/04/01(火) 18:43:02 ID:.mG0mT4Q
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 引用編…】

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】  
(生長の家家族の祈願および修養)     谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 われらの祈願および修養 ― その2 ― 】*=======*=======* =======*=======*
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796 投稿の続きです…

PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ

■或る人から「生長の家…の家族」との意味を、当時の私は、履き違えて解釈した事がありました。
ここで「亡き両親」のテキストの中には、一杯の“ボーダーライン”が引いてありました。
そこで「亡き父」は、当時の父なりの解釈に基づき「生長の家…の家族」と言うことで、
近所の方に、奉仕した事!!さらには、献金も……今にして思いますと、当時の「亡き両親」の時代は、
誰しもが〜〜〜素直な心であり〜〜〜理解力はと言いますと〜〜〜??

さて私の時代になりましてから、そう【日教組の教育論…利己主義…】ですから、
【すべて…合理的に思考する方が、実に多いのです。…が?】当時の私も、都合のいい解釈論でしたが、
今にして思いますと、もっと身近にこの「生長の家の書籍本」と「海外の哲学本」を拝読しておりましたならば、
このような遠回りには、ならなかったでしょう〜〜〜♫ と、改めて思う次第です。

>>無論、この寂光的な平和の極の世界だというような一面も「実相世界」にはあるのでありま
すが、そういう静的な、活気のないような状態をあらわす言葉では「実相浄土」の無限に光
明 輝く、伸び伸びしい生き生きした状態を現わすことができないきらいがありますので、、
われわれはこの実相浄土を表わすのに、常に老いぬ、無限に若いような、活気溌剌たる少
年のような感じを出す言葉を使いたいと思って、『生長の家』といい、仏教では「寂光土」
を現わしているのであります。<< (一部抜粋)

上記の文章から、本当に【実・相・浄・土】とは、何処までも“神と一体になれたか??”…が?
…ということではないのでしょうか?
つまりは『信じきる…神にゆだねきる心』そのモノでしょうか?

つづく

2798SAKURA:2014/04/01(火) 18:44:58 ID:.mG0mT4Q
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 引用編…】

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】  
(生長の家家族の祈願および修養)     谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 われらの祈願および修養 ― その3 ― 】*=======*=======* =======*=======*
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797 投稿の続きです…

■ 私が当時東京在中の頃ですが、当時の「副会長」さんは、どれだけ『神と一体になれるか?』が、
『神様との連絡が出来るかが〜〜〜大事なのョ!』と言われました。当時の私は、まだまだ信仰が浅く、
【現象で物事を決定しやすい…真理の浅さ】が、如実に物語っておりましたかと…『反省…』なのです。

更に、どんなに表面上ごまかしても『心…』と言いますのは、その人の『心の目…をみればわかるのョ〜♫』と、
よく!私に言っておられました。…が?今にしますと〜〜〜本当にわかるのですネ!!

当時の「副会長」さんとは「会長候補」にあげられた方です。…確か?当時の教化部長先生であられました
(最近まで「大阪教化部長…妹尾先生」で…)が、推薦された方でもありましたのです。〜〜〜><
 ■『数・の・論・理…』で、残念ながら?「○本会長」が、選出されました時、妹尾教化部長先生が、
「○○副会長」として…補佐になりましたからと話された記憶があります。
今に思いますと、お会いするたびに〜〜〜「美しい人…」と言っていいのかしら〜〜〜ン!
「年・齢」は、まず!第一印象としては?感じられませんでしたが、最後にお会いしたのが〜〜〜
80歳近くなられていましたでしょうか?益々と〜〜〜モット!モット!それ以上に『心から聡明な感じ』を、
抱く方でした。…が?当時の私は、随分!「副会長さん」に甘えてばかりで……したかと。

一つ思い出したのが…当時「萩窪に在中の頃」の事なのです。【引っ越し…】がしたくて〜〜〜それでも
“年齢…”と言う制限があり、どうしても【保・証・人…は??】この事が直ぐ浮かんでしまいました。
このような時に「副会長さん」の誌友さんが…この先生に『賃貸の保証人』を依頼されたとか?その時に
「副会長さん」は

『まず〜〜〜「実・相・顕・現…」をしますと〜〜〜もう!すでに与えられたと
思って行動されなさい!そして、いつも神に、もう私は素晴らしい処に移り住んでいます〜♫ と…』

これを【言・葉・の・力…】で祈りきる事を指導されたそうです。

その後!半年後に『保証人も無く…夢のようなマンションに引っ越しが出来た事』この体験を話して下さいました。
更に!詳しい事情をお聞きしますと〜〜〜ご主人が会社を首になりまして、収入が無い最中での出来事で、
このような素晴らし〜〜〜い!住まいを与えられたと……それはそれは…当時の誌友さん達に、ご自分の事の
ように、うれしそうに話をされていましたのです…。
この時の私は「ひねくれ虫?」でしたから…ホントにホント!!〜〜〜作り話とか?思ったのです。…が?

■【神と一体=心地一体】とは、どこまで神にすがることが出来ますかと、そうなのです〜〜〜ョネ!
そこには「悩みも無い世界」が〜〜〜そこに現われる事になり…ようやく今の私は、理解出来た次第です。

今は【感・謝…】出来るし、嫌な出来事でも、それを理解することができる事…この事が、モット!
重要な気がしまして、その時に、「谷口雅春先生の言葉…」から 〜♫

>>われわれはこの実相浄土を表わすのに、常に老いぬ、無限に若いような、活気溌剌たる少
年のような感じを出す言葉を使いたいと思って、『生長の家』といい、仏教では「寂光土」
を現わしているのであります。<<  (一部投稿)

■□【実相浄土…】に入って行くのは〜♫
【 私の心=神に何処まで信じきる事…が出来るかが?? 】…それは【神・想・観…】意外に無いと、
言いきるようになりました。でも〜〜〜なかなか〜〜〜難しい?修行中です。(微笑)

                          再合掌

2799トキ:2014/04/02(水) 21:06:34 ID:DmFbtC8k
>>2798

SAKURA様

 立派な講師にお会いできて幸いでしたね。
こういうロールモデルに遭える事は、ものすごい財産だと思います。

 今度は、SAKURA様がみんなの見本になるように、頑張って下さい。
期待しております。

合掌 ありがとうございます

2800トキ:2014/04/02(水) 21:24:31 ID:DmFbtC8k
「上役のやさしいコトバ」

 人は本当に自由になったとき、責任感をもち、真面目に仕事をすることができるのである。
業主は従業員を自分の息子又は娘であると感じて、その幸福のために誠心を尽くしてやるべ
できである。誠心は誠心を招び出し、冷酷は冷酷を招び出すのである。冷酷なる親に対して
は子は親不孝になるのは当然である。子は親の愛を感じたら、親に対して反逆の心を起こし
たりすることはないのである。

 従業員は概ね貧しいのである。その生活には苦労が多いのである。その上経営者から辛く
扱われてはたまらないのである。経営者はもっと従業員の生活の苦労を軽減してやるように
意を用いてやれねばならないのである。上役のやさしいコトバや、同情ある態度、思いやり
ある扱いが、これらの従業員を明るい温かいものにしてくれるのである。人は何の位置にお
かれても人に愛を施すことができるのである。

新版 生活の智慧365章 谷口雅春先生著、242pより謹写

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 その前にちょっと考えて欲しいのは、大学病院の先生が全員、態度が悪いわけではない
ということです。ひとくちに大学病院としっても、医者の態度がものすごく悪い病院と
いい病院がある。その違いはどこからくるか?

 以前、東北大学医学部の老年内科に行ったとき、その理由がわかりました。

 と、言うのも、その老年内科の教授というのが、非常に人格者で、患者さん
にも若い医者たちにも、そのすごく愛想がいい。そればかりか、患者さんに
呼ばれたら、診察時間外でもいつでも、ホイホイと病棟に飛んで行くのです。

 だからその老年内科では、医局員全員、とても愛想がよく、サービス精神が
行き渡っていました。

 つまり、トップの問題だったのです。トップが患者さんにサービスするのが
当たり前だと思っていたから、それが全員に徹底されていたのです。それまで
威張っていたような人でも、自分より偉いトップの腰が低かったら、自分だけ
威張っているわけにはいきませんから。

「医学部の大罪」 和田秀樹著、ディスカバリー携書113 185pより

2801SAKURA:2014/04/02(水) 22:01:39 ID:CkiET3/Q
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

>>2799 「トキ様」 から頂きました…“言葉…”(此処にての返事…申し訳ございません。…が?) 

>> 立派な講師にお会いできて幸いでしたね。
こういうロールモデルに遭える事は、ものすごい財産だと思います。<< (一部抜粋)

本当にそうなのです〜〜〜ョネ!
私も、ここ最近まで、『感・謝…』は??と云いった感じでしたが〜〜〜><
「雅春先生」の今回の書籍本から、更に「カーネギーの書籍本」の中に〜〜♫〜〜

■【 神との一体感は〜〜〜〜? 】

そのように本を、拝読していきます内に、私の内部の“心の変化…”が生じてきたのです。
そして「副会長さん」のいつもの“言・葉”から、そのさりげない“シグサ”とかが、
思い出されます〜〜此処昨今でもあります。

本当に【素晴らし〜〜〜イ!素敵な講師】に会えたと思います。当時は、その認識が…不足していたように
思います。いつも!いつも!私達の身辺を心配されていたようです…。連絡を…一時とだえておりました時も
遠くから〜〜〜思念!聖使命…!こっそりして頂いておりました…。

実は!この「副会長さん」は〜〜〜【わたしの日時計日記】の管理人さんと同じ…
「津田塾…○期生」であられたそうで、そして、
当時の独身時代の職業は、『パン・アメリカンSW』でしたと…さらには「生命の実相」の中にも…
嫁がれた先の家……「家・名…も有名」のようなのです。…が?
「副会長さん」は、義理のお母さまが亡くならました時に、私どもに涙ながら…

私にも(副会長さん)にも、反対されていた結婚のようで【遺・産・の・分・与】を〜〜〜頂いてと!
反対されていると思っていましたら…このように、私にも分与の遺産を……泣きあかした事を…
それから〜〜〜必死に【生長の家の貢献…】をなされましたようです。…が?

■当時の私は【反・抗・期…】そのモノで…今にして思いますと、
当時!「副会長さん」の言葉!一つ一つが思い出されます…。
(当時の方針にて仕方なく動いていた事(上からの枠)が、此処の投稿させて頂いている内に、
理解する事が出来ました次第です…。)

今度!東京に上京しましたら、一番に〜〜〜お遭いしたい方だと、正直思っております…。
最後に…3年前に見ました時の姿が…印象的で…今でも、お元気なのでしょうか???

                          再合掌

2802SAKURA:2014/04/03(木) 22:07:33 ID:qG1K.PNs
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】  
(生長の家家族の祈願および修養)     谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 われらの祈願および修養 ― その4 ― 】*=======*=======* =======*=======*
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801投稿の続きです….。

■『法華経』の「寿量品」の「自我偈」には「衆生劫尽きてこの世が焼け尽くると見える時にも
わが浄土は壊せず」ということが書かれているのであります。が、その衆生がこの世を焼け
つくると見、憂苦が充ち満つると見ても、そういう憂苦満ち破壊満つると見える娑婆の
世界は、活動写真のような、念の化作した偽存在の世界であって、本当の世界には天人
が伎楽を奏している美しい堂塔伽藍が建ち並んでいる実に立派な世界、これが寂光土であ
る、そういうふうに書いてあるのであります。

寂光土といえば空な何もない静のほかには、何もない世界かと思ったら、天人が伎楽を奏し
歓楽が満ちている、喜びが満ちている、美しさが満ちている、無限の智慧が満ちている、
無限の喜びが満ちている、無限の楽しみが満ちている世界だと書いてある。そういう実相の
浄土を称して寂光土というのには相応しくないような気がする、やはり無限創造、無限伸展の
世界と言いたい、無限「生長の家」だと言いたい、それでわれわれはこの実相の浄土を無限
創造の「生長の家」と言うのであります。

この生長の家なる実相が仮に世界に影を投影して現われたのが、地上の「生長の家」で
あります。皆さんのお宅も実相の善さが顕現したら皆ことごとく生長の家であります。

この「実相の浄土」たる「生長の家」が地上に形を映して、文章に――その言葉の響きの現
われたのが、最初この『生長の家』という雑誌であったわけであります。その雑誌は最初、
昭和五年の一月に本当は誕生したのであります。その前年の十二月に、わたしがちょうど
関東大震災受難後二回目の泥棒に遭いまして、すっかり物がなくなって、それが機会に無
一物の「今」のうちに無限の力が宿っていることが本当に悟れて、「今」起たなければ、「今」
生きなければ生きる時機(とき)はないのである、現象的の条件が備わってから自分の使命
を遂行しようというふうな、そんな“あ”ま“い、”ま“だ”る“っ”こ“い”ことを考えて
いるようなことでは本当の生きる道はない、「今」の一瞬にいっさいが包蔵されているから、
「今」欲することに取りかかろうという大決心をいたしまして、十二月にさっそく家を移転
してそれから執筆を始めまして一月元旦には最初の第一号が出たのであります。

                      つづく

2803SAKURA:2014/04/06(日) 23:34:40 ID:bGw2IpeM
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……   ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802 投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】  
(生長の家家族の祈願および修養)     谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 われらの祈願および修養 ― その5 ― 】*=======*=======* =======*=======*

 ちょうど、その頃のは、わたしの著書の読者や、友人の雑誌の書いたわたしの文章を読
んだ人でよく手紙をよこしておられたような人たちが百五十人ばかりありました。その百
五十人の人たちに、新しく印刷した雑誌『生長の家』をお送りしたのであります。千部印刷
いたしましたけれども、知っている人は百五十人ぐらいしかない。そうして、弘めようと
いってもむやみに無駄に振り撒くわけにもゆかない、因縁のない人にあげて紙屑にされる
のもつまらないことである。それで、百五十人ぐらいの人たちにニ、三回ぐらいずつ上げ
て、誰か知人にやってくれませんか、いくらでもほしい人には上げますからというふうな
具合にして送っておったのであります。

それがちょうど昭和五年の一月の初めのことでありましたが、納本後二カ月の余裕を持たし
て創刊号の発行日は三月一日として印刷しておいたのであります。『キング』や『日の出』
は発行日の前月五日頃の出る、『生長の家』は前々月末に出たといううようなことになって
いた。というのは、最初の創刊号によって誌友を獲得して、どれだけの部数が出るかだい
たい見当をつけてから次の号を出したいので、一ヵ月のうちに誌友を獲得することはとうて
いできないので、その間に二ヵ月間の余裕を置いておきたい、とこういうのでその年の一月
の終わりごろの納本された雑誌に三月一日発行と日付して出しておったので、公の創刊号
発行記念日は三月一日ということになっており、これが、三月一日なら時候もよいので、
春季の生長の家記念日と後に定められることになったのであります。

                  つづく


PS: 「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ

当時の時代背景をみますと「創立者…雅春先生」が『生長の家…灯』をと立ち上がられました当時の
運動展開は〜♫ 正直申しますと…深い思慮の上で『無理難題が無〜〜〜イ』
そうなのです〜〜〜ョネ!『石橋を叩いて渡る…?と申しますか…地道に!シッカリとした光明化運動』を
感じる次第です…。

そうしますと…現在の【運・動・展・開…】は如何なモノなのでしょうか?

『2代目清超先生』からなのでしょうか?

■『数・の・論・理…優・先?』この事が…先行きの運動展開に陰りを…及ぼす事となり…敗因の一つでは?

しかも『少子化』この穴埋めをするように『光明化…国際運動』この事に…「栄える会を中心」に、
余りにも地盤である『日本国内の信者』を おろそかにした感が個人的には感じられます…。が?

毎回【 ボランティア… 】中心の行動のように「各本部講師のフェイス・ブック」を拝読しますと…
そのインパクトが…余りにも強く感じる次第です…。
理想としては〜〜〜やはり「真理の言葉…」「ご本人の体験談」…多少なりともその中に…取り入れて
「悩める人々へ」…【信仰団体としての…使命】を伝えて頂きたいものです〜〜〜ョネ!

従いまして「いつも…ボランティア!」感じますような…現状では?個人的には、この事は?
難しい〜〜〜問題のように受け止めている次第です…。

                             再合掌

2804訊商業:2014/04/07(月) 08:54:09 ID:???


『生命の實相』14巻31頁より謹写――

◇ 猫と雛鳥とはかくのごとく調和している

 昭和九年五月六日、わたしは上京しまして、浅草富士小学校で講演しました際に、千葉の松崎武雄という人が来ておられまして、こういう話をされたのであります。数年前、松崎君は百姓愛道場の江渡狄嶺さんの著書『ある百姓の家』というのをお読みになった。その中にこういうことが書いてある。江渡さんが鶏の雛を飼っておられた。それを泥棒猫がねらって、ともすれば捉えて食べてしかたがない。そこで江渡さんはある方法を考えつかれた。それは「兄弟なる猫よ、兄弟なる鶏の雛を食うなかれ」と紙に書いて鶏舎に貼り付けて置かれた。するとその日から猫が鶏をねらわなくなった。そこまではよいのですけれども、数日後に付近の線路で轢き殺されている猫を見いだしたというのであります。これはまさか泥棒猫がその貼り紙を見て、もう今後鶏の雛を食べるわけにはゆかないと思って悲観の極自殺したわけではありますまいが、雛鶏との間は江渡さんの愛の念波で調和してしまったけれども、猫自身に不調和な心が残っていて、その不調和な念の具象化として、その猫は轢殺されてしまったのであります。

 ところが松崎武雄君のお宅でも雛を飼っておられた。その雛を猫がねらってしかたがない。そこで松崎君は江渡さんのように貼り紙はせられなかったが神想観して、「猫と雛鶏とはその実相において完全に調和している。決して噛み合い殺し合いなどは存在しない」ということを念じられたのであります。すると不思議や、それ以来猫が雛鶏をねらわなくなったのであります。しかしその場合は、江渡さんの場合のように猫が殺されてそこにいなくなったのではない。猫はちゃんとそこにいる。そして猫と雛鶏との間が調和して猫が雛鶏をねらわなくなったのであります。

<了>


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