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『web「生命の實相」輪読会』 板

1トキ ◆UMw6UoGELo:2016/03/15(火) 11:09:09 ID:lgv9ASqI
 このスレッドは、生長の家信徒の人達の『web「生命の實相」輪読会』のために作成したスレッドです。『web「生命の實相」輪読会』についての話題は、このスレッドでお願いします。

(注意点)

 基本的に生長の家の教義と谷口雅春先生の説かれた教えを支持、共鳴する人のためにサイトです。生長の家の信仰と谷口雅春先生へのご批判をされる内容の投稿はご遠慮下さい。

 アダルトサイトや出合い系サイトの勧誘を含む内容など明らかに目的外の投稿は、削除の対象となります。明らかな他団体や特定の霊能力者の宣伝となる投稿も削除の対象になります。

 このスレッドは、「生命の實相」輪読会という目的だけの使用するスレッドです。それ以外の投稿はできません。目的外の投稿はすぐに削除します。

 目的外の投稿の判断は、最終的には、管理人である「トキ」ならびに輪読会リーダーの判断になります。ご理解下さい。

 目的外の投稿を繰り返す人は、管理人ならびに輪読会リーダーの判断で、投稿禁止にさせていただきます。

 それ以外の注意点は、他のスレッドと同じです。

 ご不明の点は、「コメント」板で管理人または輪読会リーダーへお尋ね下さい。

では、このスレッドを利用して、生命の実相の勉強をお楽しみ下さい! よろしくお願いします。

2a hope:2016/03/16(水) 10:43:17 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第1回 web「生命の實相」輪読会 案内

期間   平成28年3月16日〜4月30日まで
テキスト 「生命の實相」第25巻 教育実践篇 上
内容   人間を作る法〈上〉

     
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

みなさま おはようございます。

この度、管理人のトキさまが、この掲示板に『web「生命の實相」輪読会』板を開設してくださいました。 
これからも、大好きなこの掲示板で、大好きな「生命の實相」のお勉強が続けられることに心から感謝しています。 

感謝 合掌。

3a hope:2016/03/16(水) 10:45:45 ID:cEpBaIdo

それでは、第1回web「生命の實相」輪読会 を開会させていただきます。
開会にあたり、祈りの言葉を掲載させていただきます。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

住吉大神様 住吉大神様  谷口雅春先生 谷口雅春先生有難うございます、有難うございます。
 
生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給へ 
吾が生くるは吾力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能
天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家の大神まもりませ
  
住吉大神様、「本流復活」を考える 『web「生命の實相」輪読会』 板 に於ける
生命の実相 輪読会で、生長の家の御教えを正しく把握し、広く伝道するための 
必要な霊の選士を集え給うて、真理の研鑽を導き給う。
住吉大神様 勉強会を正しく導き給う 住吉大神様 勉強会を正しく導きたもう。
参加者お一人、お一人を浄化し給うて、使命を授け給う。
有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます

世界平和の祈り

神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。
その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。


光明思念の歌

天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

4a hope:2016/03/16(水) 10:47:22 ID:cEpBaIdo

つづきまして、「生長の家」とはなにか?を再確認するために、『生長の家の光明宣言』と、
創始者である谷口雅春先生の開教当初のご文章である『「生長の家」とわたし』を謹写させていただきます。

5a hope:2016/03/16(水) 10:48:19 ID:cEpBaIdo

生長の家七つの光明宣言

▽ 吾等は宗派を超越し生命を礼拝(らいはい)し生命の法則に随順して生活せんことを期す。
▽ 吾等は生命顕現の法則を無限生長の道なりと信じ個人に宿る生命も不死なりと信ず。
▽ 吾等は人類が無限生長の真道(まことのみち)を歩まんが為に生命の創化の法則を研究発表す。
▽ 吾等は生命の糧(かて)は愛にして祈りと愛語と讃嘆とは愛を実現する言葉の創化力なりと信ず。
▽ 吾等は神の子として無限の可能性を内に包有(ほうゆう)し、言葉の創化力を駆使して大自在の境に達し得ることを信ず。
▽ 吾等は善き言葉の創化力にて人類の運命を改善せんが為に、善き言葉の著述、出版、講習、講演、ラジオ放送、テレビジョンその他凡(あら)ゆる文化施設を通じて教義を宣布するものとす。
▽ 吾等は正しき人生観と正しき生活法と正しき教育法とにより病苦其(そ)の他一切の人生苦を克服し相愛協力の天国を地上に建設せんが為に実際運動を起す。

「生命の實相」第1巻 総説篇 p2 より謹写

6a hope:2016/03/16(水) 10:49:33 ID:cEpBaIdo

「生長の家」とわたし     谷口雅春先生


「わたしはこの『生長の家』の生き方がどんなに善い生活だかということについては、確信をもっている。

諸方の読者から集まって来る多くの賛辞は、わたしのこの確信がただのウヌぼれでないことを第三者として証拠だてている。

なかにはわたしを教祖あつかいにしてくださる誌友もあるが、わたしは『生長の家』の教祖ではない。

わたしは諸君と共に『生長の家』の教えを聴聞して、ひたすら、その教えのごとく生き行こうと努力する一人の求道者(ぐどうしゃ)にすぎない。

わたしがまだこの世的な悩みをいく分でも持っているのはわたしの生活がまだ『生長の家』の生き方には完全になり切っていないからである。

むろんこの雑誌の原稿はわたしの手にもったペンにより書かれる。

しかし、ひとたび『生長の家』を書こうとしてわたしがペンをもって机に向かうとき、わたしはもうふだんのわたしではないのである。

霊きたりてわたしを導く。

弱い性質のわたしにはとても書けない強い言葉が流れるように湧いて来る。

第二号の『生長の家の歌』(現在は『甘露の法雨』)のごときは自分ながら驚くほど強いことが書けている。

わたしが亀岡にいたとき、わたしが専念、教えのことを書いているのをかたわららで見ていた霊視能力者の加藤氏は、わたしと別な霊人が筆をとっている姿を見たといっていた。

それは信じてよいかどうかは知らない。

しかしもし『生長の家』に教祖というべきものがあるならば、この地上のわたしではないであろう。

およそ宗教的な深さをもったものは、それが教えであると芸術であると問わず、その源(みなもと)は霊界にあるのである。

古来から神品といい神徠(しんらい)といいインスピレーションといったのはこれである。

われわれはすべて霊界および現世の人々からラジオ的に放送されて来る思想波動を感受するところの受信機であるのである。

しかしJOAKの放送を受けるにはラジオの受信機の調節をJOAKの放送に合せなければならぬであろう。

それと同じくわれらがいっそう高き世界より来る思想波動に感ずるためには、自分の心をその思想波動に調子を合わさねばならぬのである。

ここにわれらは不断に心を清め、心をいっそう高き世界よりの波動に感ずるように訓練しなければならない。

この訓練がたりないと雑音が混じる。

受けるインスピレーションが不純なものとなる。

もしわたしの書くものに純粋でない雑音が混じっているならば、それはわたしの罪であって、霊界よりこの地上に『生長の家』運動をはじめた神秘者の罪ではないのである」


「生命の實相」第1巻 総説篇 p14 15 より謹写

7a hope:2016/03/16(水) 10:51:55 ID:cEpBaIdo

(a hope所感)

わたしは、聖典「生命の實相」のご文書を拝読したり謹写していると、自然に背筋が伸びて姿勢がよくなっています。
そして、気持ちが明るくなり、すべての出来事を肯定的に受け止められるようになって、あらゆることに自信がみなぎってきます。

<<われわれはすべて霊界および現世の人々からラジオ的に放送されて来る思想波動を感受するところの受信機であるのである。
しかしJOAKの放送を受けるにはラジオの受信機の調節をJOAKの放送に合せなければならぬであろう。
それと同じくわれらがいっそう高き世界より来る思想波動に感ずるためには、自分の心をその思想波動に調子を合わさねばならぬのである。
ここにわれらは不断に心を清め、心をいっそう高き世界よりの波動に感ずるように訓練しなければならない。>>

「生長の家」のみなさんは、今、どちらのラジオ局にチャンネルを合せていますか?

わたしはもちろん 谷口雅春先生ご放送の「生命の實相」ラジオ局 にチャンネルを合せますよ!

8a hope:2016/03/18(金) 07:56:36 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第25巻 p3


この世の中に「蛇が蛙を呑む」というごとき状態があるのは事実であります。

この生存競争、弱肉強食の事実を見つめる時、この世は善きものであること、調和せるものであることを認めることはできないとわたしは久しい間考えて悩んだのであります。

この生存競争弱肉強食の事実はその当時の自分にとっては否定することはできなかった。

そしてその嘆かわしい暗い影をじっと生活の奥に見つめてその光明化を思索している状態がしばらくつづいていたのであります。

その時代にわたしは『聖道へ』(現在は相補版)という論文集を書き、その次に小説『神を審判(さば)く』を書きました。

これは、ユダを主人公にした小説で、もしはたして善なる神が宇宙を作ったのならばなぜ世界に蛇が蛙を呑むような肉食または弱肉強食の悲惨がありうるのか、どうして戦争があるのか、どうして病人があるのか、どうして人間は苦しまねばならないのか等々とおよそ無神論者の言いそうなことをあげて神を訴え、神を審判(さば)くような調子で書いた小説でありまして『神を審判(さば)く』と題したのであります。

 (略)

震災後わたしは郷里である神戸に帰ってある心霊雑誌を頼まれて編集していたのでありました。

毎日ひまがありますので、本を読み思索を重ねていたのであります。

そのころ、わたしの心中にひらめいてきた真理がこのわたしの悩みを解いてくれたのであります。

それはこの世界は神のこしらえた世界ではない。

神を訴え、神を審判いたのはわたしのほうがまちがっていたのだ。

この五官に触れる世界は、ただ、われわれの心の現われである。

神は愛である、慈悲深きものである、その神のお創造(つく)りになった真実世界はその完(まった)き知恵と愛と生命とに満ちた大調和の世界である。

この真実の世界、久遠実成の完全世界がすでにあるという真理でありました。

それと同時に「本当の自分」というものが分かってきたのです。

本当の自分は久遠実成の仏である。

すでに久遠の昔から無限者、無限愛、無限生命なる神であるということが分かってきたのであります。

真実の世界、実在の世界は神の国である。

仏の国土である。

肉眼で見えるところの病苦充ち、人生苦満ち、蛇は蛙を呑み、弱者が強者の犠牲にならなければ生きられぬような世界は真実の世界ではない、真実に在る世界ではない。

悲惨満つるこの世界は皆心の影であって、実の存在ではない。

神はこんな世界をこしらえたのではない。

五官に視える世界は虚仮(うそ)の世界である。

かく病苦充ち、人生苦満ち、弱肉強食の修羅場が仮現(かり)のこの世界にあらわれて、在るように見えている時にさえも、神の創造(つく)り給うたままの真実の世界は常楽歓喜の世界である。

そしてわれわれは本来神の子である。

自分の中に無限の生命がある、自分の内に無限の知恵がある。

自分のうちに無限の供給がある。

これが、真実の世界、真実の我であって、この目に見える空間的世界は、われわれの肉体も環境もことごとくただ心の映像(かげ)であるとの自覚が、天の啓示であるかのように、魂の底からひらめいてきたのであります。

この天啓的神徠的信念が生長の家の根本思想になっているのであります。

9a hope:2016/03/18(金) 07:58:34 ID:cEpBaIdo

>>8 a hope所感)

今回のテキスト、「生命の實相」第25巻の冒頭に、【生長の家の根本思想】が、とても丁寧に説明されていました。

<<それはこの世界は神のこしらえた世界ではない。神を訴え、神を審判いたのはわたしのほうがまちがっていたのだ。この五官に触れる世界は、ただ、われわれの心の現われである。神は愛である、慈悲深きものである、その神のお創造(つく)りになった真実世界はその完(まった)き知恵と愛と生命とに満ちた大調和の世界である。この真実の世界、久遠実成の完全世界がすでにあるという真理でありました。
それと同時に「本当の自分」というものが分かってきたのです。本当の自分は久遠実成の仏である。すでに久遠の昔から無限者、無限愛、無限生命なる神であるということが分かってきたのであります。
真実の世界、実在の世界は神の国である。仏の国土である。肉眼で見えるところの病苦充ち、人生苦満ち、蛇は蛙を呑み、弱者が強者の犠牲にならなければ生きられぬような世界は真実の世界ではない、真実に在る世界ではない。悲惨満つるこの世界は皆心の影であって、実の存在ではない。神はこんな世界をこしらえたのではない。五官に視える世界は虚仮(うそ)の世界である。かく病苦充ち、人生苦満ち、弱肉強食の修羅場が仮現(かり)のこの世界にあらわれて、在るように見えている時にさえも、神の創造(つく)り給うたままの真実の世界は常楽歓喜の世界である。
そしてわれわれは本来神の子である。自分の中に無限の生命がある、自分の内に無限の知恵がある。自分のうちに無限の供給がある。これが、真実の世界、真実の我であって、この目に見える空間的世界は、われわれの肉体も環境もことごとくただ心の映像(かげ)であるとの自覚が、天の啓示であるかのように、魂の底からひらめいてきたのであります。>>


上の文章をまとめてみると谷口雅春先生の天啓的神徠的信念である【生長の家の根本思想】とは、

○虚仮の世界(現象世界・五官に触れる世界)の否定と真実世界(実相世界・完全世界)の肯定
○人間仏の子、神の子の自覚
○三界唯心所現の自覚

ということになります。


第1回 web「生命の實相」輪読会の最初に、「生長の家」の根本思想がなんなのか、再確認できたことも、
神さまのお導きのような気がして、感謝の気持ちでいっぱいになりました。 合掌。

10a hope:2016/03/18(金) 08:11:36 ID:cEpBaIdo

「生長の家」のみなさまへ

このweb「生命の實相」輪読会 は、これまでのweb誌友会と同じように進行させていただきます。

今回のテキストは「生命の實相」第25巻ですから、その中の印象に残った文章を謹写してくださるだけでも大歓迎ですし、
わたしのように(所感)を書いてくださってもいいです。

また、わたしやどなたかの謹写した部分や、所感等ににコメントやご意見をくださるのもありがたいです。

ですが、「生命の實相」の真理自体を否定するような内容や、真理の勉強に関係のないような内容のコメントでしたら、
コメント板、もしくは、今回新設された、「生長の家の教義を議論する」板の方にご投稿をお願いいたします。

そちらの方でお返事をさせていただきます。

基本的にこの『web「生命の實相」輪読会』板では、議論は控えひたすら「生命の實相」の輪読を進めていきたいと思っています。

「生長の家の教え」を愛するみなさまのご参加を、心よりお待ちしております。m(__)m

―――――――――――――――――
※りんどく【輪読】
( 名 ) スル
数人が一冊の本をかわるがわる読んで解釈し意見を交わすこと。 「万葉集を-する」

大辞林 第三版の解説より
https://kotobank.jp/word/%E8%BC%AA%E8%AA%AD-660163
―――――――――――――――――

11るん吉:2016/03/18(金) 18:46:39 ID:Jo.00maY
根本真理!すごいですよね。
他の宗教を信じてる人とか、良く「信じれるなあ」。と思いますわ

12a hope:2016/03/19(土) 08:14:20 ID:cEpBaIdo

>>るん吉さま

るん吉さまも、「生長の家」の根本真理がとてつもなくすごいことを察しておられるのですね。
この根本真理はすごすぎるから、一般にはなかなか理解しがたいのだと思うのです。

でもだからと言って、「真理」を補足しようとしたり捻じ曲げて解釈したりしたら、
もはやそれは「真理」からかけ離れたものになってしまいますね。

わたしはここで、ひたすら「生長の家」の聖典『生命の實相』を拝読することで、
谷口雅春先生から生長の家の根本真理を「直接伝授」したいと思っています。

るん吉さまがコメントくださると、やる気が倍増します。

また、いつでもご参加くださいね!

13るん吉:2016/03/19(土) 20:59:37 ID:Jo.00maY
うわぁー!a hopeさま

そんなふうに私の事言ってくださってありがたき幸せです!"(-""-)"てへっ

わたしは、なにかあると「物質あり」になって、現象にとらわれてしまってるバカ者です。何年やってるねん・・(/_;)

「現象無し。」とは 一般の常識からしたら、もう天と地がひっくり返るような お説 ですもの。難しい。(でもこれが真理!)

谷口先生は、ほんとにたくさん真理の御本を残していただいてもう大感謝ですよね。

>>わたしはここで、ひたすら「生長の家」の聖典『生命の實相』を拝読することで、
>>谷口雅春先生から生長の家の根本真理を「直接伝授」したいと思っています。

ほんとにありがとうございます。常に真理の書から離れたらいけないですね!

私の方が、「あ、a hope様が今日も真理の書を謹写してくださってる。」とreal timeで思えて「私も頑張ろう!」って思えて

嬉しさ倍増なんですよ!ほんとにありがとう!!

15a hope:2016/03/20(日) 23:51:46 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第25巻 p14 8行目〜

わたしがクタクタに疲れて家に帰って来ましても、われ神なりの自覚を喚(よ)び起こして書き出すと、かえってグングン元気が出てきて前よりもいっそう健康になってきたのでありました。

今、自分の内に無限の力がある。今が久遠の生命である。今、無限の富を受けているのである。

その「今」わが生命に無限の力があることが真実に解ってきた時に万事がよくなりだしたのであります。

『生長の家』を三号、四号と重なて執筆してゆきまして、六号あたりまで発行した頃、「あなたの雑誌を読んで、病が治った」と不思議なことを言って来る人が出て来たのであります。

はじめは、どうも妙だ、変なことを言って来る人があるものだくらいに思っていましたが、考えてみますと、それはちっとも変なことではない、釈迦の言ったとおり、三界が唯心の所現であるならば、心が進んで善くなれば生活状態も健康状態もよくなるのは当然であるのであります。

今ではあまり病気が治るものですから、「生長の家」は病気治しの宗教だとまちがわれているような状態でありますが、決して病気治しが「生長の家」の目的ではないのであります。

わたしは病人が大嫌い、それで父親から医者になれと言われるのをやめて文学に志したのでありましたが、わたしの書いた文章の力で読む人の心がうごかされて、人生観が一変し暗い生活が明るくなり、自然と病が治ることになったのであります。

16a hope:2016/03/20(日) 23:57:23 ID:cEpBaIdo

>>15 a hope所感)

<<三界が唯心の所現であるならば、心が進んで善くなれば生活状態も健康状態もよくなるのは当然であるのであります。>>

「われ神なり」の大自覚のある谷口雅春先生がお書きになった「聖典」を拝読することで、
自分にも神の子の自覚が生まれ、心が善くなって、暗い生活が明るくなり、病も治るということですね。

わたしは、このことは本当に実感しています。

どんなに仕事で落ち込むことがあっても子育てで悩むことがあっても、神想観をするか、「聖典」を拝読するか、どちらかちょっとするだけで、
すぐに気持ちが前向きになって明るくなります。

今も、この文章を謹写しているだけで、どんどん元気になってきてますもの・・・\(^o^)/

18るん吉:2016/03/21(月) 14:13:59 ID:Jo.00maY
a hopeさま

ちょっとお伺いしたいのですけど、よろしいでしょうか?

a hope様は、自分の感情をどうしてらっしゃいますか?
幸せな感情とか、楽しい感情は、そのままで良いのですが
苦しい感情とか、つらい感情、腹立ったり、恨みの感情とか。悪感情ですね
雅春先生の「まことに恨み心をもってしては恨み心はなくすことはできない。・・云々中略 恨み無き心でなければ・・」てありますね。
つまり、恨み無き心 を持って来たら、恨み心はなくなる。ということですね。でも恨み無き心は実相の心だから、・・・
難しいかなあ、出すのが。
で、私は訊けさまのブログにお世話になってますから、最近もそこにお邪魔して、よく登場される榎本先生のお言葉を読んだら

そのまま悪感情ちゅう別名暴れ馬はほうっといて、(中々感情はどうすることもできないので)

悪感情はあるがまま、気にしないで「実相を喜んでたら良い」「実相を感謝してたら良い」

と、こうでよいのかなあ。とおもってるんですけど、訊けさまにちょっと聞きたいな。と思ってるんですけど、

a hope 様はどう考えられますか?教えていただいたらありがたいのですが。

19a hope:2016/03/21(月) 23:13:28 ID:cEpBaIdo

>>18るん吉さま

興味深い質問をありがとうございます。

そうですね、わたしは子供のころから感情の起伏が激しかったので、昔はよく泣いたり笑ったり怒ったりしていましたね。

ですが最近では、悪感情(苦しい感情とか、つらい感情、腹立ったり、恨みの感情)にしても、
良い感情(嬉しい感情とか、楽しい感情…)にしても、相変わらず頻繁に感じてはいますが、
若かった時のように、その感情(特に悪感情)を激しく表現することがほとんどなくなってきました。

そんなわたしを見て、昔の激しかったわたし(笑)を知っている親類や親しい友人なんかからは、
「○○は大人になったね」とか、「ずいぶん丸くなったね」とか感心されていますので、
そうなのかな〜と思ってはいましたが…。

今まで、そんな自分の内面の変化を深く考えたことがありませんでした。

たぶん…今のわたしは、そういうさまざまな感情が自分の中に湧き上がってきても、
五官で感じる世界(現象世界)は実際には「ナイ」世界だと悟り始めているので、
無理なく感情抑制ができるようになってきているのかもしれません。

だから、榎本先生風にいえば、「気にしなくなった」のかもしれませんね。


たぶんですが…。

「生命の實相」を拝読して、本当に実相世界の素晴らしさが実感できれば、
いかなる悪感情もまったく気にならなくなるのかもしれませんね。

20るん吉:2016/03/22(火) 02:18:24 ID:Jo.00maY
a hopeさま

回答を下すってありがとうございます。

えっと、>>いかなる悪感情もまったく気にならなくなるのかもしれませんね。

ということは、榎本先生が言われたように

「そういう悪い感情はあっても(悪い感情がありながらも)「実相を遠慮なく喜んでたら良い。実相を遠慮なく感謝してたら良い。」

こんな感じでしょうか?

要するに私がお聞きしたかったのは、私が実相を感ずるときに(或は実相を感謝するときに)、ついつい

自分の普段持ってしまってるどうにも制御できない悪い感情(例えば自分の嫌いな相手、そしてその者に対する悪感情とかね、色々ネガテイブな感情や考え)
こんな感情を持ってたら、実相を自覚したり実相を喜ぶなんて権利あるのかしら・・?そんな風に思ってしまうときがあるんです。

心を何とかしないとダメ。(←こういう書き方じゃないけど)みたいな、悩み相談でもどっちか言うと心の法則の面に強きを置いた

回答があったりするでしょ。私の廻りにおひとりそういう考え方のお人がおって、その人としゃべってたら自分の悪い感情のことを意識してしまうようになって

それでこんなふうに(こんな自分に、実相を自覚する権利ある?)って考えてしまうようになって


それで、他の人はどうかな?てお聞きしたんです。

榎本先生も、そういう現象の心は放っておいて(現象の心は無いのだから)そのまま「実相を遠慮なく喜んでた良い」て書いて下さってるし。(訊けサンのブログからです)


ほんとはそんな風に(悪い感情等があるから実相を自覚する権利が無い)なんて考える必要はない、て榎本先生がおっしゃてるからだけでなく

自分でもほんとはわかっては いるのですけどね。(もち、榎本先生のお言葉は、色々迷いがある自分には有難いです)訊けサンに感謝)

ただ、横の真理ばかりいうお人(自分の身近にいる)とは、もう真理の話をしたくないかなあ。です・・・有難うございました。おやすみなさい。

何時も、有難う。

21a hope:2016/03/22(火) 11:49:34 ID:cEpBaIdo

>>20 るん吉さま

<< >>いかなる悪感情もまったく気にならなくなるのかもしれませんね。
ということは、榎本先生が言われたように
「そういう悪い感情はあっても(悪い感情がありながらも)「実相を遠慮なく喜んでたら良い。実相を遠慮なく感謝してたら良い。」
こんな感じでしょうか?>>

たぶん、そうだと思います。

榎本恵吾先生は、「実相独在」を貫かれた先生だとお聞きしています。
でもお若いころは、その「実相」を悟るために、たくさんの修行みたいなこともされ、
その後も谷口雅春先生ご指導の生長の家の教えを真面目に信仰されていたのだと思います。

そんな榎本先生だからこそ「実相を遠慮なく喜んでたら良い。実相を遠慮なく感謝してたら良い。」
と自信をもってご指導してくださっているのだと思います。


あと、「横の真理」についてですが、「生長の家」がなぜ縦の真理だけでばく「横の真理」も教義とり入れているか?
と考えてみると、答えがみつかるような気がします。

「横の真理」(心の法則)は他者を裁くためにあるのではなくて、
自分自身や他者に「縦の真理」を悟らせるための方便としてあるのだとわたしは理解しています。

生長の家の愛である「自他一体の自覚」をもってみれば、自分の前に現われた人はすべて自分の鏡、つまり観世音菩薩さまですから、
そう考えて、その人にどんなに辛い思いをさせられても、嫌な事を言われても、心から感謝できるようになれば、
相手の「実相」が現れて、すべてがうまくいきますよ・・・。
ということが生長の家の「横の真理」で説かれているような気がします。

でも、るん吉さまのご指摘のとおり、この「横の真理」って、他人から説教されると(特に実践できていない他人だとよけいに…)
素直に聞けないものなのかもしれません。

そんなわたもこの真理はなかなか実践できませんが・・・でもわたしはこの「横の真理」もまた、「縦の真理」を悟るための方便として、
決しておろそかにできない重要な「真理」だと感じています。


最後になりますが、るん吉さまご自身ももうお気づきのようですが、るん吉さまがどんな悪感情を持たれても、どんな悪人であっても、
「神の子」であることには変わりはありませんよね!

だから、榎本恵吾先生の「実相を遠慮なく喜んでたら良い。実相を遠慮なく感謝してたら良い。」というお言葉通りに、
堂々と、ご自分の「実相」を喜ばれ、感謝されたらいいのではないでしょうか?

23るん吉:2016/03/22(火) 18:23:58 ID:Jo.00maY
>>るん吉さまがどんな悪感情を持たれても、どんな悪人であっても、
「神の子」であることには変わりはありませんよね!
>>だから、榎本恵吾先生の「実相を遠慮なく喜んでたら良い。実相を遠慮なく感謝してたら良い。」というお言葉通りに、
>>堂々と、ご自分の「実相」を喜ばれ、感謝されたらいいのではないでしょうか?

a hopeさま
再度お答えありがとうございます。ほんとにうれしいです。

はい、そうしますね。一番大事なのは「実相を喜んでたら良い、感謝してたら良い。遠慮したらダメ。」榎本先生の言葉。訊けサンのブログより

いつも有難う。これからも応援します。また書かせてくださいね!

24a hope:2016/03/23(水) 22:56:09 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第25巻 p22 6行目〜

・・・わたしの教えを受けて以来、母親は
「今あばれているのは、それは息子の仮の相(すがた)である。ほんとの息子は少しも暴れていない癇癪(かんしゃく)も起こしていない神の子である」と信じ、
息子があばれ出すと、わざとその席を去って、あばれている息子の相(すがた)を見ないで、
二階の息子さんの部屋に安置してある大黒像の前に行って、
「息子の実相はこの大黒像のようなにこやかな、おとなしい子なのだ」と息子の円満完全なる実相を念ずるように、されたのであります。

すると今まであばれていた子が、不思議にたちまち静かになったのであります。

しかしこれは少しも不思議ではない。

あばれたり、癇癪をおこしたりすると、その現象を見て、その現象そのものを息子の実相だと思って、
「ウチの息子は悪い、いけない、いけない」と責めつけたり、説教したりして、心の中に悪を描くから、
心に描く者は皆形に顕われるという「心の法則」によってますます息子の悪が増長していたのです。

ところがその悪い現象を心に見ず、「そんなに悪い息子は無い。本当は神の子である」と、
実相を心の中でみるようにすると、すぐ静かになってしまうのであります。

これは事実であって理論ではない。

今ではこの息子さんはすっかり温順(おとな)しくなられて、勉強先から母親宛に実に優しい手紙を書いてよこされた。

わたしはその手紙を見せてもらいましたが、親を思う切々たる情がその手紙に出ていました。

今年は高等学校に入学せられました。

こうしてその息子が救われ、親が救われ、家庭が救われたのであります。

25a hope:2016/03/23(水) 22:57:23 ID:cEpBaIdo

>>24 a hope 所感)

<<あばれたり、癇癪をおこしたりすると、その現象を見て、その現象そのものを息子の実相だと思って、
「ウチの息子は悪い、いけない、いけない」と責めつけたり、説教したりして、心の中に悪を描くから、
心に描く者は皆形に顕われるという「心の法則」によってますます息子の悪が増長していたのです。

ところがその悪い現象を心に見ず、「そんなに悪い息子は無い。本当は神の子である」と、
実相を心の中でみるようにすると、すぐ静かになってしまうのであります。>>


これが、生長の家の教え(横の真理【心の法則】と縦の真理【人間神の子】)による個人救済の典型的な体験談ですね。

26るん吉:2016/03/24(木) 00:41:43 ID:Jo.00maY
a hopeさま

そうですね。
「縦の真理あって、初めて横の真理が生きる。」

横の真理だけいじっててもダメなんですよね。マーフイになっちゃいますよ。引き寄せとかになっちゃう。

本日も有難うございますね。いつも有難う。

27a hope:2016/03/27(日) 09:52:06 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第25巻 p24 後から1行目〜

誉めるということは実によいことであります。実に人類を光明化するのは誉め言葉であります。

ところがたいていの人はかわいい者ほど誉めない。人前で悪く言う。自分の子を悪くいう。

謙遜のつもりかもしれないけれど、自分の信頼している親が、自分を悪い悪いと言うものだからまちがいはない。

自分は悪い子だと思い込んでしまって、その子供は悪くなってしまうのであります。

誰の前でも、自分の子供を正直に誉めればよいのであります。

世の中では前科者を見ると彼は悪いことをした奴だ、前科者だといって爪はじきする。

だから、刑務所を出ても行くところがない、誰も雇ってくれ手がない。

それでもういっぺん悪事をやれという気になる、「悪人、悪人」というから、言葉の力で悪くなってしまうのです。

これまでの宗教家もそのとおりで、人類を愛するあまり、善くしてやりたいあまり、人類よ、お前たちは罪人であるぞ、悪人であるぞ、そんなことではいかんから善くなれと言って諭すのでありますが、「罪人罪人」と呼ぶ以上、「どうせ自分は善くなれっこはない」とますます悪くなってくるのであります。

宗教家が、人間は罪人である、罪深いものであるから改悛(かいしゅん)してよくならなければならないと、いくら大呼しても世の中を光明化することができなかったのは、「お前たちは罪人だ」という言葉の力であります。

「お前は罪人だぞ、罪人だぞ」といわれていて善くなれるものではありません。

今までの宗教家も決して人類を悪くするつもりではなかった。

母親が愛する子供に対するように、「お前たちは悪い人間である。人類よ、お前たちは罪が深いぞ。悪人よ、早く善くなれよ」といっていた。

ところが言葉の力ということを知らないために、結果は正反対でますます悪くなってきたのであります。

これは少し心理学を研究したほどの人ならだれでもすぐに解る道理であります。

催眠術を少し研究なさった方なら、誰でも知っていらっしゃることであります。

催眠術をかけて、ここにあるコップでも「このコップはとても重い。君は力が無い弱い者だ。あなたはもうこれをあげることはできないぞ。サア上げてごらんなさい」という暗示をかけて上げさせると、どうしてもこのコップをもちあげえないのであります。

今までの宗教家の言葉の使い方はまちがっていたのであります。

「お前は力が無い。サア持ち上げてみよ」と言うと持ち上がらない。

それと同じく「お前は悪人だ。サア善くなれ」と言っても善くなれない。

こうして今までの宗教家は人類を光明化そうと思いながらかえって人類を暗黒化していたのであります。

28a hope:2016/03/27(日) 09:59:16 ID:cEpBaIdo


>>27a hope 所感)

「罪なし」「実相独在」が生長の家の根本真理である「生長の家」は、
たとえ犯罪歴がある人であっても「実相」を見て、あたたかく迎え入れるというわけですね!

そこが、他の「人類暗黒化運動」の宗教との決定的な違いですね!

29a hope:2016/03/29(火) 08:29:42 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第25巻 p30 6行目〜

中野の結核療養所に入院されていた井上弘治という方も『生命の實相』の分冊、『吾が心の王国』というのをよんで、さっそく元気を回復し退院して、もう病気は無いと豪語せられました。

看護の人や近親の人は井上さんを気が狂ったのではないかと言ったそうであります。

十二月の下旬数回目の大喀血をして衰えていた人が、一月には本を読むだけですっかり元気になって退院した。

退院すると、その足でお礼に光明思想普及会を訪ねて来られた。

来てみると創立当時の社の間口が小さいので「これはやっぱりインチキかな」と思われたが、ともかく、中に入ってみて自分の病気のなおった話をされると、社の人たちはみんな仕事の手をやめて親身になって話をきかれ、わが子の病気が治ったかのように涙を流して喜んでくれた。

それで、やっぱりインチキではない、本物だったとわかったと、大変な喜びようで帰られました。

30a hope:2016/03/29(火) 08:31:28 ID:cEpBaIdo

>>29 a hope所感)

<<来てみると創立当時の社の間口が小さいので「これはやっぱりインチキかな」と思われたが、ともかく、中に入ってみて自分の病気のなおった話をされると、社の人たちはみんな仕事の手をやめて親身になって話をきかれ、わが子の病気が治ったかのように涙を流して喜んでくれた。
それで、やっぱりインチキではない、本物だったとわかったと、大変な喜びようで帰られました。>>


当時の「生長の家」は、他人を自分のことのように思いやるあたたかい愛で溢れていたのですね。

31トキ ◆NeaLgIQX3w:2016/03/29(火) 20:31:48 ID:LzMmjpuQ
>>30

 生長の家の信徒のことを昔は「家族」と言いましたが、戦前の生長の家のことを覚えている
人に尋ねると、本当に暖かくて、家族的な雰囲気だったそうです。

32a hope:2016/03/29(火) 22:04:29 ID:cEpBaIdo

>>31トキさま

やはり、宗教には「愛」が必要ですね。

お世辞みたいになっちゃいますが、トキさまには「愛」がありますね。
わたしも「生長の家の愛」でトキさまのように、個人救済がしてみたいです。

33a hope:2016/03/31(木) 22:57:48 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第25巻 p37 後から5行目〜

・・・その方は有名な人格者であって、額の真ん中に疣(いぼ)があった、それがその校長さんの人相の特徴をなしていたのであります。

ところが、講演をきき終ると同時に、その疣がころりと落ちたのであります。

これは本当の話で、不思議ではない。心が変われば肉体は変わるのであります。

肉体は心の影でありますから、病気を治したい人は、心を変わらすことのみが必要なのであります。

それが言葉の力であります。

なかには、話を聞いても治らない人もある。それは心が治らないからなのであります。

そんなことはあるものかと反抗する気持ちで聞いていたのでは治るものではないのであります。

なるほどと、幼な児(ご)のごとき白紙の心になって受け取る気持になりさえしたら治るのであります。

34a hope:2016/03/31(木) 23:06:45 ID:cEpBaIdo


>>33 a hope 所感)

<<なるほどと、幼な児(ご)のごとき白紙の心になって受け取る気持になりさえしたら治るのであります。>>

これが、『信じるものは救われる』という本来の意味なのではないでしょうか・・・?

35a hope:2016/04/02(土) 08:34:49 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第25巻 p49 8行目〜

十一、人類無罪宣言

「生長の家」は、在来の宗教家の人類有罪宣言に対して人類無罪の宣言をしたのです。

われわれは罪人にあらず、神は罪を創り給わない。

「生長の家」出現の使命はこの言葉の力によって人類の罪を消すことであります。

罪は本来ない、それは心に描かれた時だけ、アルかのごとき観を呈する。

その人類の罪を言葉の力によって、消すことが「生長の家」の使命であります。

(略)

イエス時代のユダヤ人はイエスが罪を消す事実に驚いた。

が罪を消すということがキリストにできるだけではなく、世のすべての人にできるものであることを生長の家は発見したのであります。

この聖典『生命の實相』を読むだけで、吾れ神の子なる実相を悟り、すべての生物と調和し、家庭はよくなり、人の病気までもどんどん治すことができるということはもう多勢(おおぜい)のみなさんがすでに実証していられるのであります。

「生長の家」は開祖だけが偉いのではない。

今までの宗教はおおむね何教でも釈迦、キリスト開祖自身はそんな説き方をせられないが、後の祖述者が開祖だけを偉くして、他の者は皆罪人であるぞ、お前たちは罪深いものであるぞ、というふうな調子に脅(おど)しつけて開祖を仲介にしてのみ辛(かろ)うじて罪の赦しを得るような説き方をしていたので、人類個々のうちに宿る無限の力を封じてしまっていたのであります。

ところが「生長の家」では、全人類みな神の子である、本来罪なく病なく死なく悩みなく、苦しみなきものであることを宣言して、今までの宗教家が人類罪ありと宣言してその無限生命を縛っていた言葉の呪縛を解いてしまったのであります。

「生長の家」の人類無罪宣言の言葉によって人類を今まで縛っていた言葉の呪縛が解けてすべての人間に無限の力が内から湧いてくるということになったのであります。

36a hope:2016/04/02(土) 08:37:47 ID:cEpBaIdo

>>35 a hope所感)

<<「生長の家」では、全人類みな神の子である、本来罪なく病なく死なく悩みなく、苦しみなきものであることを宣言>>

この真理が生長の家の「唯神実相」「実相独在」つまり、根本真理というわけですね。


※岡正章先生がブログ「みすまるの珠」で、この生長の家の「根本真理」と現教団の教義・運営方針の矛盾をご指摘され、
『教勢回復へ「起死回生」の手立ては、』というタイトルで、勇気あるご発言をされているのでweb「生命の實相」輪読会参考文献板の方に紹介させていただきます。 

http://misumaru.o.oo7.jp/

37トキ ◆NeaLgIQX3w:2016/04/02(土) 10:05:06 ID:rNf9Lqo.
>>32

 私より、a hope様のほうがはるかに愛深いですよ。

38a hope:2016/04/03(日) 18:13:01 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第25巻 p56 後から1行目〜

・・・たいていの人はスリという行為を見て、これは悪いと申しますけれども、なぜ悪いかとよく考えてみますと、ちょっと善悪の判断がつかなくなるのです。

それを善とか悪とかいうのは見る人の立場の相違になるのであります。

たとえば、物を掏(す)るということを一つの芸術として観ますと、それは奥堂に達すれば、天狗飛切りの術というか、忍術の達人というか、一つのすぐれた術ということができるのであります。

これはスリを芸術として観た場合であります。

ところが芸術方面から観たならかくも立派なスリを、悪いというのは、掏られた側から言うと、自分の物が減ったので悪いということになる。

またスリを奨励して、そういうことが殖えてくれば社会秩序をみだすことになり人心を不安ならしめるから悪いということにもなるのであります。

これはスリそのものが悪いのではなく、人の所有権の保護とか社会秩序の維持とかいう尺度というものが、いわば軌道であります。

軌道に乗って、ある一定の尺度から見る場合にはじめて善悪の見(けん)が生ずるのです。

そしてこの行為は、罪悪である、貴様は悪い人間であると判断が下されることになるのです。

そしてひとたびある尺度によって批判を下して、言葉によってお前は悪い者だと、こう断定してゆきますと、その断定を下された者は「わたしは悪人である」という自覚を得てくる、――そうすると、その人はなかなか善人に転向することができなくなってくるのであります。

これに反して、同じ行為をしましても、お前は悪人であると非難せずに、「これだけのことのできる君は天才である。立派な天分をもっている。何もこんなつまらない事をしなくても、良い素質があるのがお前だ」と教えてまいりますと、「そうか、本当はわたしは立派な者であったのか!もう一つ奮発すればこんなちっぽけなスリみたいなことをしなくてもいい人間なんだ」と気がついてくるのであります。

39a hope:2016/04/03(日) 18:34:10 ID:cEpBaIdo


>>38 a hope所感)

『「生長の家」の教義について議論する』板>>46に所感を書きました。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1458205600/46

40るん吉:2016/04/03(日) 21:05:30 ID:Jo.00maY
a hopeさま

>>「生長の家」では、全人類みな神の子である、本来罪なく病なく死なく悩みなく、苦しみなきものであることを宣言>>

この真理が生長の家の「唯神実相」「実相独在」つまり、根本真理というわけですね。


すごい真理ですね!私が中学の時に読んだ本でダンカスターて人の本ですけど、心の法則の本(マーフイがこの人の本をそっくりそのまま真似してます)なんですが、

罪に対してどういう考えかといいますと、「今はまじめに生きてたら、過去の罪はないのですよ」こんな教えでした。大概こんなことしか考え付かないのですね。

物質無しを知らないのですもの。こんなのしか知らなかったら、苦しかったと思います。谷口雅春先生はほんとにすごいです。

日本人で、そして生長の家のことを知っててよかったですよね!

41a hope:2016/04/05(火) 00:15:09 ID:cEpBaIdo
>>40 るん吉さま

<<罪に対してどういう考えかといいますと、「今はまじめに生きてたら、過去の罪はないのですよ」こんな教えでした。大概こんなことしか考え付かないのですね。>>

そうですね。
一般的に「悔い改める」とか「生まれかわって生きる」などという場合は、
『昔は悪いことをしたけれど、今は反省して真面目に生きています・・・』みたいな感じですものね。

ですが、「生長の家の教え」では「悔い改め」(生まれ更わり)とは、「われ神の子」の自覚であると学びました。

罪を犯したり、悪さをするような自分は本物の自分ではない、わたしたちはみんな神の子なんですよね!

わたしも日本人に生まれて、この教えが学べてほんとによかったと思っています。

42a hope:2016/04/08(金) 00:44:53 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第25巻 p72 後から1行目〜

生長の家へ来られて、煙草のやまる働き、酒のやまる原理もこの法則なのであります。

一言もわれわれは「煙草を止めなさい」と言いはしないし、「酒を止めなさい」とも言いはしない。

ところが、『生命の實相』を読んでいるうちに自然と煙草がやまり酒がやまるというのは、その人の人生観が変わり、本来「悪」というのもが非存在であるということがわかるので、「悪の魅力」というものが無くなるのです。


p75 後から4行目〜

要するに生長の家の「ねばならぬを解放する教育」というのは、「これをしたらいかん」といういっさいの縛りと制限とを撤廃してしまって、みんな善いものである。みんな善人であるということにしてしまったときに、今まで「悪」だと思えばこそ病的に魅力を感じていたものが、「悪」でないと知ると間もなく、その魅力を失墜して人間は生まれたるままの本性どおりに動き出す。

そうすれば自然に本然の調和が現われ何人も強制しないで、そこに本当の善なる世界が生まれてくるのであります。

「善」とは、一つの行為につけたる正札ではないのでありまして、調和ある相(すがた)に各要素が現われたのを善というのであります。

43a hope:2016/04/08(金) 00:47:37 ID:cEpBaIdo

>>42 a hope 所感)

悪癖にしても、犯罪にしても善いことだと思ってする人間はほとんどいないと思います。
でも、自分の意志だけでは、なかなか止められないのが現状なのではないでしょうか?

それが、『生命の實相』を拝読することで、無理なく止められるようになるのですから、
こんなにありがたいことはありませんね!

44るん吉:2016/04/13(水) 10:54:22 ID:Jo.00maY
>>自分の意志だけでは、なかなか止められないのが現状

そうなんですね。昔ね(昔と言っても4年くらい前かな・・)誰かのブログを読んでたんです。そこにこういうことが書いてあった。

「むか〜し、性格が暗かったので明るくなれるよう思い切ってなセミナーにいってみた。そういうのが流行った時代らしいです、

1週間のセミナーを受けて、「積極的になれて、明るく考えれて、性格も暗くなくなった」そう思えたらしいですが

帰ってきてものの1ッ週間もたたないうちに元の自分に戻ったらしいのです。その場の雰囲気で、性格が変われたように思っただけ。だったそうです。

意思の力、自我の努力って、そうなんですよね。

生長の家以外は「自我の努力」じゃない?「本当の自分は神の子 」ってうたってる本もいっぱいあるけど、

物質無しを知らないから結局「本人の努力、」自我の努力 なんですよね。

45a hope:2016/04/14(木) 10:48:13 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第25巻 p77 7行目〜

仏教の色即是空の哲学が生長の家において「物質無し」と実に簡単に喝破され、さらに「肉体無し」と断言されるにいたるや、「肉体は眼に見えているのに、それが無いというのは没常識な迷信である」と世人に驚異の眼をみはらしめつつある一方に、その「肉体無し」の断言がいかに人類を病気より、憂患より、生活苦より、回復しつつあるかは、その実績においてこれまことに驚異されつつあることである。

46a hope:2016/04/14(木) 10:50:49 ID:vdNCBnG6

>>45 a hope所感)

今朝、久しぶりに「蓮華日宝王地観」をしました。
その唱えの言葉の中に

物質はない 物質はない 物質はない…
肉体はない 肉体はない 肉体はない…
心もない 心もない 心もない…

とありますが、この生長の家の根本真理である「物質無」「肉体無」「心(人間知・偽我)無」 の真理を、
わたしたちは皆、現象世界に生きているが故になかなか自覚することができないのだなあ〜とぼんやり感じていました。

でも本当は、そう「感ずる(観ずる)心」もない!

47a hope:2016/04/14(木) 10:52:19 ID:vdNCBnG6

>>44 るん吉さま

<<生長の家以外は「自我の努力」じゃない?「本当の自分は神の子 」ってうたってる本もいっぱいあるけど、
物質無しを知らないから結局「本人の努力、」自我の努力 なんですよね。>>

わたしも、そのとおりなのではないかと思います。

「生長の家の教え」で一番肝心なところは、実は『「人間神の子」の自覚』ではなくて、『「物質なし・肉体無なし・心(人間知・偽我)なし」の悟り』なのではないかと…

その悟りがいい加減だと、「人間神の子」の真理を間違って解釈してしまい、増上慢になってしまうか、
もしくは、神を信じられなくなって堕落していってしまうのでないかと・・・

48a hope:2016/04/14(木) 10:54:49 ID:vdNCBnG6
>>47訂正
肉体無なし→肉体なし

49a hope:2016/04/15(金) 09:18:50 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第25巻 後から5行目〜

医学の研究はおおむね病気を起こすところの外的「縁(えん)」の研究であるが、病気を起こす内的「因(いん)」は遠くわれわれの潜在観念(なお、深く探れば念の蓄積すなわち業)の中にあるのである。

しかし「因」ありとも「縁」がなければ病気という「果」を結ぶことはないから、医学は医学で大いに研究してもらいたいものである。

生長の家は内的「因」の撲滅に専念するし、医学は外的「縁」の撲滅に尽してくれる。

「因」「縁」どちらを撲滅しても果(み)は結ばないのである。


たとえばここに植物の種子(たね)があるとする。

その植物の種子は五官に触れない透明な心的存在のようなものであるとする。

それに土壌をかけたとき植物は発生したならば、その土壌しか眼に見えない人間は、土壌が原因でその植物は発生したと思うであろう。

しかし土壌は「縁」であって、透明なる五官に触れない心的存在が原因なのである。

冷たい風に当たって風邪をひいたといえば、冷たい風が原因となって風邪をひいたように見えるが、冷たい風に当っても風邪を引かない人があることを思うと、冷たい風が風邪の原因ではなく、心に発熱痰咳(たんせき)などで象徴されるような因を持った人のみが、冷たい風という「縁」にふれて風邪を引くのである。

50a hope:2016/04/15(金) 09:27:01 ID:vdNCBnG6

>>49 a hope所感)

ここに「因縁果」の法則が説明されています。

今や「人間は病気になる」いうのは常識として、わたしたちの深層真理まで根強く広がってしてしまっていますし、
さらにそれが集団意識となって悪影響を与えてたくさんの人が病気で苦しんでいらっしゃるのが現代社会の現状なのではないでしょうか?

そして、現代医学や保健衛生学では病気の原因を、ウィルスだとか悪い生活環境だとかと考えて、治療を施したり生活改善策を指導したりしています。

ですが、ウィルスや悪い生活環境などは本当の「原因」ではなくて単なる「縁」だったのですね。

<<冷たい風に当たって風邪をひいたといえば、冷たい風が原因となって風邪をひいたように見えるが、冷たい風に当っても風邪を引かない人があることを思うと、冷たい風が風邪の原因ではなく、心に発熱痰咳(たんせき)などで象徴されるような因を持った人のみが、冷たい風という「縁」にふれて風邪を引くのである。>>

どんなにたくさんの良くない「縁」があっても、わたしたちが「病気なし」の悟りの心でいれば、病気を発病することはないという訳ですね!

51a hope:2016/04/16(土) 06:31:26 ID:vdNCBnG6
>>50 訂正
深層真理→深層心理(潜在観念)

52a hope:2016/04/16(土) 06:32:17 ID:vdNCBnG6
>>50補足

<<病気を起こす内的「因(いん)」は遠くわれわれの潜在観念(なお、深く探れば念の蓄積すなわち業)の中にあるのである。>>

実相(病気なし)を悟れば、この「念の蓄積すなわち業」も消えるわけですから病気も消えるということなのだと思います。

実相を悟るには、「生命の實相」の拝読しかありませんね!

53るん吉:2016/04/16(土) 16:17:43 ID:Jo.00maY
a hopeさま
>>実相(病気なし)を悟れば、この「念の蓄積すなわち業」も消えるわけですから病気も消えるということなのだと思います。

>>実相を悟るには、「生命の實相」の拝読しかありませんね!


そうですね!!

>>生長の家の教え」で一番肝心なところは、実は『「物質なし・肉体無なし・心(人間知・偽我)なし」の悟り』なのではないかと…

うん、うん、そうなんですよね!巷にある本なんかでも、本当の自分は「 神と一体」←こういう立派な本はいっぱいあるんですよ。

前にそんな本ばかり探した時期もありました。でも生長の家と違うところは、その人らは何らかの境地に入ってても「物質無し」を知らないのですよ。それを知らないから

神の子なる自分とはいったいどういうのをいうのか?これが、もうひとつうやむや なんです。雅春先生のように「罪無し、病なし、苦しみ無し。」とは教えて下さらないですよね。

何故か?それらのお人は「神と一体なる自分」を知ってはいても、「現象無し」を、知らないからですよね。

54a hope:2016/04/17(日) 09:22:02 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第25巻 p101 後から6行目〜

人間の実相は神の子である。仏子である。生きとおしの生命であるというようなことは「生長の家」の発明でもなんでもない。

古くから善き宗教はほとんどそのいずれもが口をそろえて説いてきたところであります。

では「生長の家」はどこが違うかというと言葉の力、文章の迫力がちがうのであります。

臨済(りんざい)の一喝といって臨済禅師の一喝をくらうと悟る弟子が多かったという。

一喝にもいろいろあって、耳で聞いたら臨済の一喝も凡僧の一喝も同じかもしれない。

しかしその一喝の中にこもっている生命は、その喝をくらわす指導者の悟りの程度にしたがっていろいろの段階があるのであります。

それで「生長の家」で説くところの宗教的真理は、多くの善き宗教の神髄をなしている宗教的真理と同じであり、むしろ多くの宗教の説く真理に開眼を与える底のものでありますが、どこがちがうかというと、文章によって一喝を与える点であります。

本を読めば病気が治るのもこの随伴的結果なのであります。

この生命の実相というものは、今までは文字言語のよく説くところではない、言詮不及(ごんせんふきゅう)、不立文字(ふりゅうもんいじ)であると言われていた。

それを文字を立て、文章を立て、言葉の力によって生命の実相を悟らせるようになったところが生長の家の独特なところであるのであります。

今までは真理と言葉が二つに分かれていて、言葉や文章は真理を完全にあらわすものではないと思われていた。

ところが生長の家では言葉と真理、文章と実相とをピッタリ一致させた。

古来、直接説法、以心伝心(いしんでんしん)でないと悟ることもできない真理を、ただ文章を読むだけで悟れるように、文字の中に生命あり、生命の中に文字あり、文字と生命とを一体というような域(いき)にまで達せしめたのだろうと思います。

さればこそ本を読むだけで、直接参禅しても得られなかったような悟りに到達する人が多勢(おおぜい)あらわれてきて、その影響を及ぼすところ、肉体の病気も治り境遇環境まで変化してくるということになってきたのであります。

55a hope:2016/04/17(日) 09:27:41 ID:vdNCBnG6

>>54 a hope所感)

ここのところには、なぜ、「生命の實相」やその他の雅春先生の聖典と呼ばれているご著書を拝読すると真理を悟ることができるのか、その理由が書かれています。

<<人間の実相は神の子である。仏子である。生きとおしの生命であるというようなことは「生長の家」の発明でもなんでもない。
古くから善き宗教はほとんどそのいずれもが口をそろえて説いてきたところであります。>>

とまず最初に、るん吉さまもご指摘のとおり「人間神の子」の真理は昔から他の宗教でも説かれていた真理で、
特別に「生長の家」が説き始めたものではなかったとあります。

ですが、次に、

<<が、【生長の家の】どこが【他の宗教と】ちがうかというと、文章によって一喝を与える点であります。>>(【 】は a hopeが入れました)

と言われています。
『文章による一喝』すごいですね!
これを、もう少し詳しくいうなら、『文章による「無」の一喝』なのではないかとわたしは思うのです。
(参考文献)
http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=188

<<ところが生長の家では言葉と真理、文章と実相とをピッタリ一致させた。
古来、直接説法、以心伝心(いしんでんしん)でないと悟ることもできない真理を、ただ文章を読むだけで悟れるように、文字の中に生命あり、生命の中に文字あり、文字と生命とを一体というような域(いき)にまで達せしめたのだろうと思います。>>

「生命の實相」こそ真(まこと)の聖典、人類の宝ですね!

56a hope:2016/04/18(月) 11:34:48 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第25巻 p109 4行目〜

かくして小西氏は身を神に捧げられたのであります。

神は生命である、生命は癒す。

その結果、小西氏の腸結核はズンズン治ってしまった。

そして二カ月ほど前から光明思想普及会へ頼って来られました。

今ではわたしなどよりも肥えてどこが腸結核であるかというような健康状態です。

左翼の錚々(そうそう)たる人であり、刑の執行停止中の人でありますので、誰も雇うて生活を保証する人がない。

社会はもっとこういう人を保証して正しい道に進みうるように導いてあげなければならない。

今の社会は、人を見るとすぐ「悪」に見すぎる。

刑余の人であるといっそうそれが甚だしい。

そのためにどれほど善人になるべきはずの人が悪人のままで残っているか。

これではいけない。

生長の家は『法華経』にある常不軽菩薩のように、すべての人の本性に善を見、神を見、仏を見て、その本性を生かしてゆくのです。

これが本当の教育である。

光明思想普及会ではこの小西茂国氏の身柄を非公式に預かって、ただ今編集の手伝いをしていただいているのであります。

時々新聞に出る広告文のうちにはこの小西氏の書いた文章があるのであります。

無神論者が転向して有神論の宣伝文を書いているのであります。

人の本性は本当はみんな善人であり、有神論なのであります。

生長の家はこういうふうに唯物論者を転向させて有神論にならせるのであります。

57a hope:2016/04/18(月) 11:37:20 ID:vdNCBnG6
(a hope所感)

「生長の家」のみなさんは、ここのところを読まれて何を思われますか?
「生長の家」教団のするべきことって、本当は何なんでしょうか?

九州で大きな震災がありました。
その被害の悲惨さと、被災者の救済・援助のはかどらなさを目の当たりにして、日本人であれば心を痛めていない人はいないと思います。

そんなとき、わたしたち「生長の家」の信仰者は何をすべきなのでしょうか?

生長の家の教えは「唯心論」で、さらには「唯神実相論」です。

亡くなった方々や、被災して苦しんでいる人々の心を神に向かわせること。
どんな過酷な状態にいても、本当は救われ済みで、生きとおしの生命であることを知らせてあげること。
それが、現実的に難しかったら、ただただ〝祈る〝 こと。

わたしは、それがまず第一に宗教団体「生長の家」の信徒のすべきことだと思うのですが・・・。

亡くなった方々や、被災された方々の魂の平安を心よりお祈りさせていただきます。合掌。

59a hope:2016/04/19(火) 09:26:45 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第25巻 p119 4行目〜

こういうように天災でも、心が光明に輝いている人には近づくことはできない。

近づいてもまたその人を害することができないのであります。

かの『観音経』には「あるいは巨海に漂流して竜魚諸鬼(りゅうぎょしょき)の難あらんにも、かの観音の力を念ずれば、波浪も没すること能わざらん」とありますように、われわれの心が光明に輝いてきたならば、どんな天災でもわれわれを害することができなくなるのであります。

天災はのがれることができないと考えるのは、大雨や、暴風や、地震はやはり物質でできていると思うからであります。

そんな程度の唯心論では決して唯物論を根本から破壊することはできない。

大雨も暴風も地震もことごとく唯心の所現であり、業の流転作用でありますから、観音妙智力、すなわち光明思想によって解脱してしまうことができるのであります。

それが理論だけならばなんにもならないのでありますけれども、理論だけでなしに、かくのごとくこれを多くの誌友によって実証させるのが生長の家であります。

観音を念じるというのにはただ観音さんどうぞ助けてくださいということではない。

観自在のその大自在の生命とわが生命と一つであるということを知ることなのであります。

自分が観世音であり、自分が如来であり、自分が神と一体であると知る。

そして環境はただこの自在の生命が念(おも)いによって自由に仮作(けさ)した世界であると知る。

この大自覚を得て自由に環境を征服しうるようになった時、われわれははじめて「人格の自由」というものを得るのであります。

この時「人格の自由」は単なる抽象でも理論でもなく、そのまま「実践」となるのであります。

物的環境がどうあろうともそのままで自分が自由の主体であるということがわかり、欲するとおりに環境が光明化されるといたしますと、もう戦争や直接行動などやっている必要もなくなるのであります。

時間がまいりましたからこれで失礼いたします。

―――昭和十年八月十一日大阪中央公会堂における講演――― より抜粋

60a hope:2016/04/19(火) 09:27:59 ID:vdNCBnG6

>>59 a hope所感)

「生長の家」のみなさま

<<大雨も暴風も地震もことごとく唯心の所現であり、業の流転作用でありますから、観音妙智力、すなわち光明思想によって解脱してしまうことができるのであります。>>

これが、「生長の家」の開祖、谷口雅春先生を通して下された「生長の家大神」のご教示です。

やはり、わたしたち「生長の家」の信仰者がすべきことは、光明思想の伝道で、
人々に「わたしたちは常に大自在の生命(神)と一体である」ということを知らせることなのですね。

そうすれば、

<<物的環境がどうあろうともそのままで自分が自由の主体であるということがわかり、欲するとおりに環境が光明化されるといたしますと、もう戦争や直接行動などやっている必要もなくなるのであります。>>

とあります。

まず人々の「心」を光明化すること、それがなにより重要なのですね。

61るん吉:2016/04/19(火) 23:04:55 ID:Jo.00maY
>>、ただただ〝祈る〝 こと。


〜しますように・・みたいな祈りは・・だめですよね・・

どういう風に祈ったら良いのか・・

既に完全円満な世界(被災された方々の実相を  地震で被災されてしまった地の実相を・・(信じて)感謝したら良いでしょうか・・?

62a hope:2016/04/20(水) 05:13:17 ID:vdNCBnG6

>>61るん吉さま

わたしも、「〜しますように」といい祈りは、「〜していない(不完全)」な状態を認めてしまっている祈りなので、よくないと思います。

以前、わたしも現象的に不幸な状態にある方々に対して、どのような祈りをしていいのか分からなかった時があります。

その問題は、宇治の練成で経験した「祈り合いの神想観」の実修や復興Gさまのご指導で解決しました。

以前の投稿を見つけましたので、ご参考にしてください。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1358650232/4265

祈りの前に、「同悲の心(愛)をもつ」ことが大切なのだと思います。

63a hope:2016/04/21(木) 09:21:32 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第25巻 p129 後から7行目〜

われわれの環境は普通それを自分の心とはまったく関係のない、自分の外界の出来事のように思っているのでありますけれども、その環境を打ち破る方法はわが内にあるのであります。

環境にいかにぶつかってゆこうとも、それを外部に厳存(げんぞん)する障礙であると思っているかぎり本当の自由は得られないのであります。

われわれの絶対自由を得る道は、ただ自分たちの実相を知ること以外にないのです。

われわれの本当の相はこの眼に見えるところの肉体ではない、われわれの実相は絶対的存在である。

絶対的存在なる自己が、絶対的環境の中に生活している。

我れ絶対者と一つである。

我れ宇宙と一つであり、我れ動けば宇宙動く。

この自覚を得たとき本当にわれわれは自由を得る。

この絶対自由の主体こそ本当の自分なのだ。

その実相を知らないかぎり、いかなる方法、いかなる実際運動をもってこの社会、この環境をぶち壊してさえも真の自由は得られないのであります。

環境を現実的存在――リアルな抵抗であると観るかぎり、それはリアルな障礙を認めるのであるから決してわれわれは絶対自由は得られない、かくのごときかぎり、左翼思想家がかくも望んだところの人間の自由というものは確保せられないのであります。


ところが、本来絶対的存在であるところの自分、無形の自分、本質において神と同体の、キリスト、釈迦と同体の自分、すでにすべてのものを完(まった)くそなえているところの自分を自覚する時には、忽然として自分の環境、外界の物質、固い、固定した、動かし難い、打ち壊し難い存在と思われていたところの障害は、それはすべて我が心の影の世界であったと分かるのであります。

外界はすべて自分の心の影であって、それはさながら蜃気楼のような世界である。

心に思ったとおりに現れる世界であるということが分かってくる。


この時、我れ宇宙に立って、心の利器をつかんで自由自在にふり廻すとき、環境も困難も自由自在になってくる。

必要に応じて雲を招び、雷霆(らいてい)を駆使し、いっさいの運命を飴のように捻じ曲げることができることが解ってくるのであります。

これが「生長の家」の説く根本真理であります。

64a hope:2016/04/21(木) 09:23:06 ID:xVBwxesw

>>63 a hope所感)

わたしは、この谷口雅春先生のお悟りの部分を拝読していると、超能力者がさわらずにスプーンを曲げたり、
まだ走っていない競馬の結果を当てたりするようなイメージが湧いてきます。

そういえば、聖経「天使の言葉」にも、

________________

汝ら近頃の心霊科学の実験を見しことなきや。
被実験者は椅子に緊縛せられて一毫もその肉体は動く能わずして、
尚、凝念(こころ)の力によりて
或は机を空中に浮揚せしめ、
或は手風琴を空中に飛翔せしめ、
或は空中のメガホーンより声を出ださしめ、
或は空中より手風琴を奏せしむることを得、
これ体なくして物に触れ物を動かしうる実例なり。

___________________

という部分があります。

まずは、いわゆる一般的に「超能力」と呼ばれているような力とか「超常現象」と言われることが信じられないと、
雅春先生が大悟された「生長の家」の根本真理を同じように悟ることはできないのかもしれません。

この「超能力」のことを生長の家の教えでは、「無限能力」といっていますね!

66a hope:2016/04/23(土) 08:34:23 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第25巻 p140 10行目〜

「生長の家」の教えはどういう教えかといいますと、一言でいえば「人間はみんな神の子である」と、こういう教えなのであります。

『法華経』のなかに常不軽菩薩がすべての人間に向かって合掌礼拝して「あなたは仏になられる方です」といって敬礼されたということがありますが、すべての人に向かって合掌敬礼して、あなたは仏になられる方ですといって拝む働きが、「生長の家」の働きなのであります。

すべての人に向かってあなたは本来仏なのです。すでに神の子であるのです。それゆえに恨み、憎み、怒り、といったような、あらゆる罪は本来ないのです、ということを知らせる――これが生長の家が、全人類を光明化するためにやっている運動なのであります。

ところが『法華経』の中に、すべての人を仏として拝む常不軽菩薩をばあいつは何をいっているのだ、気狂い野郎奴(やろうめ)といって、杖で打擲(ちょうちゃく)したり石をなげつけたものがあったということが経文に書いてある。

しかしながら、誰が何といおうとも、すべての人を神と見、仏と見て合掌して拝んだ常不軽菩薩こそは今釈迦牟尼仏となってここにいると釈迦は説いている。

この釈迦牟尼仏の働き、常不軽菩薩の働き、―――すなわちすべての人は神であり仏であって、罪は本来ないものである。

光の出現によってすべての暗黒が消え去るごとく、すべての罪は「生長の家」の出現によって消え去った、とこう説くのが「生長の家」なのであります。

この間、読売新聞の宗教欄に、武本喜代造という牧師さんが、「贖罪信仰の実際化」と題する稿(こう)を寄せられて、その中に光明思想についてちょっと言及しておられました。

それを読んでみますと、宗教によって病気が治るということは、あるべきことだといってある程度まで肯定しておられるのでありますが、「この頃『人間本来罪も汚れもない』という説があるがそれは受け取れぬ。そんなら強姦しても、その人間は罪がないというのか。そんな馬鹿なことはありえない」といったようなことを書いておられましたが、わたしはそれを読んで、ああいう人は神様の創造ったこの世界に本当に罪がないということが分からない憐れな人だと思わされたのでありました。

われわれがその人の実相を――本来神の子であり、罪なき者でるという本当の姿を――認めた時、その人は強姦することも、泥棒することも、いかなる悪を犯すことも自然にできなくなってしまう。

三界は唯心の所現でありますから、「罪あり」と認めたなら罪が現われ、「罪無し」と認めたら罪が消える。

泥棒や、強姦をするものは、人間とはそういう罪を犯すのがあたりまえの本来「罪アル者」だと思っているものなのです。(拍手起こる)
(つづく)

67a hope:2016/04/23(土) 08:37:33 ID:vdNCBnG6
>>66 つづき)
ところが、自分は神様の子であり、生まれつき正しい聖(きよ)い者だと悟ったら、しぜんにそんな罪を犯さなくなる。

つまり人間の実相はすでに神であり、仏である。

それを認める時に、その人にしぜんに実相の善さが現れてきて、いくら罪を犯そうとしても犯しえない。

いくら左翼思想に走って実際運動に自分を投じようとしても、転向せざるをえなくなるのです。

「生長の家」では、今まで努力して止めようと思っていてもやまらなかった酒や煙草も、しぜんにやまる。

これはしぜんに実相が現れてくるのであって、今までの努力してやめようと思ったのは、悪の存在を認めて、努力によってこれを抑えよう、抑えようとしていたのでありますが、それは最初から悪の存在を、罪の存在を認めてかかるからして、努力しても、その罪が、その悪がやまなかったのです。

ところが、そういう悪の存在をみないで、ただ、人間は神の子で無限に善いもので、本来罪なしと知れば、自然に悪は消え、善が強い力をもってでてくるのであります。(拍手)

これがわれらの光明思想のもつ権威なのであります。

われわれ、自分は神であり、仏である、罪はないと知る時、罪は自然に消えてしまうのです。

罪は本来ないから消滅するのです。

本来有るものならば消え失せることはない。

ないものをあるあると思っているから、あたかもあるがごとくに外界に現れてくるのである。

すべての人間はみんな神の子であり仏の子であって、罪は本来ないと認める時、世界中の人が神の子になり、これを知らされた時にすべての人が釈迦になり、キリストになる。

キリストの再臨ということは、自分に宿る神、仏なるものを見ないで、神は在(いま)さぬ、自分は罪深いものだとして自分の内に宿る神性を罪の観念で縛りつけてハリツケにつけていた、そのしばりを解き放って、本来罪のない神性、仏性を自覚するということであります。

この人間本然の善さをすべての人に知らせること、これこそ人間の本当の教育であります。

この人間の神性、仏性を現わすという真実唯一の教育が「生長の家」の教育法なのです。

68a hope:2016/04/23(土) 08:38:34 ID:vdNCBnG6

>>66 67 a hope まとめ)

○「生長の家」の教え ―― 「人間はみんな神の子である」

○「生長の家」の働き ―― すべての人に向かって合掌敬礼して、あなたは仏(神)になられる方ですといって拝む働き(実相礼拝)

○「生長の家」出現の意義 ―― すべての罪を消しさること(人類無罪宣言)

○光明思想のもつ権威 ―― 悪の存在をみないで、ただ、人間は神の子で無限に善いもので、本来罪なしと知ることで、自然に悪が消え、善が強い力をもってでてくること

○「生長の家」の教育法 ―― 人間本然の善さをすべての人に知らせ、人間の神性・仏性を現わすという真実唯一の教育

69a hope:2016/04/23(土) 08:41:07 ID:xVBwxesw

>>66 67 a hope所感)

この文章が掲載されている第五章は、昭和十年に行われた雅春先生の日比谷公会堂での講演記録ですが、
そこには「生長の家」の教えに触れたことで、今までの人生観をガラリと転向され幸せに暮らされている方々の体験談もたくさん紹介されています。

「人間神の子」の「生長の家」の教えによって、人々が明るくなり、社会が明るくなり、日本が元気になり、世界が平和になる!

この「人類光明化」の流れをつくることが、雅春先生のご悲願だったのでしょうね。

70a hope:2016/04/26(火) 19:05:05 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第25巻 p156 10行目〜

光明思想の普及事業を世の中の弱者に救恤(きゅうじゅつ)を与える慈善事業のように思っている人があるのはまちがいであります。

光明思想というものは、人生をそういう救済者と被救済者との対立の世界には見ていないのであります。

救われねばならぬような弱者なる人間は、神の造りたまえるこの世に本来存在しないという思想が、光明思想であります。

人間は本来神の子であるというのが光明思想であります。

(略)

……誌友が少なかったころは執筆のかたわら、いちいちわたしが返事を書きましたが、このころはあまりに多数で時間がないので自身で返事が書けないというお断りを差し上げると、それでは「人間は無限能力」だという貴様の根本思想に背反しているではないかというような手酷いお叱り方であります。

けれどもこういうお叱りをせられますのは、光明思想を皆見当ちがいしていられるのであります。

わたしが答える能力がないのではない。

わたしは常に書籍となって答えている。

『生命の實相』全集二十巻を本当にお読みになれば、どんな場合にも応用できる、それに対する答えは書いてあるのです。

それを読まないで、問いを発せられるのでは、これはわたしに答える能力がないのではなく、答えているのに聞く能力がないのであります。

71a hope:2016/04/26(火) 19:07:44 ID:xVBwxesw

>>70 a hope所感)

世間では「生長の家の教え(雅春先生の教え)」はインチキであるとか、古くて現代には適さないだとか、
そんな風に言ったり考えたりしている方々もいらっしゃると思います。

でも、そういう方々は、本当に「生命の實相」を何度も繰り返して拝読されているのでしょうか・・・?

<<『生命の實相』全集二十巻を本当にお読みになれば、どんな場合にも応用できる、それに対する答えは書いてあるのです。
それを読まないで、問いを発せられるのでは、これはわたしに答える能力がないのではなく、答えているのに聞く能力がないのであります。>>

谷口雅春先生は、「生命の實相」ですべてをお伝えしてくださっているとおっしゃっています。

ですから、本来の「生長の家の教え」を否定する人とは、谷口雅春先生に言わせれば、<<聞く能力のない人>>ということになってしまいますね…・


わたしたちには谷口雅春先生のお悟りのすべてが詰まった「聖典」が簡単に手届くところにあります。

こんなに有難いことはありませんね!  感謝 合掌。

72るん吉:2016/04/27(水) 19:39:43 ID:Jo.00maY
>>62 a hopeさま
>>祈りの前に、「同悲の心(愛)をもつ」ことが大切なのだと思います


はい 本当にそうですね。アドバイスをありがとうございます。

73るん吉:2016/04/27(水) 19:44:53 ID:Jo.00maY
>>68
a hope さま

>>68 素晴らしいです。有難いです!

74a hope:2016/04/28(木) 07:24:37 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第25巻 p171 後から4行目〜

三界は唯心の所現であり、業の流転でありますから、その根本原因たる「心」を治さないでいて「不幸」を取り除こうとすると、それが他の形の「不幸」になるのは当然であります。

病気は治ったが貧乏になったという人がありますが、児童の「成績不良」というものも業の所現でありますから、「成績不良」ばかりを治そうとしてやたらに学業を詰め込むと、家庭教師や参考書代に金を払って「成績不良」という「業」の現われは消える代わりに「貧乏」という「業」の現われとなって出るか、あまり詰め込んだり、入学試験に恐怖した結果、児童の健康を損ねて、成績不良が「病気」という業の現われに転換して出て来たりするのであります。

成績不良―病気―貧乏―こういうふうに一つの業の現われは、動悸を与えて流転せしめると形は変化して出るけれども、内容においては、依然としてわれらにとって「不幸」になるものとなって、その人に潜在せる業が形を表わすのであります。

そう言う人が、何か事業に成功して金持ちにでもなるとしますと、子供が不良青年になってみたりして、業が循環流転して、その不幸は尽くるところをしらないのであります。

(略)

苦しい業の顕われは、その一つを避けようとして攻撃すると、このように必ず他の形に業が転じて依然としてわれわれの苦しみは尽きないのであります。


こんなことではわれわれは永遠に業の苦縛(くばく)から脱することはできないのであります。

ではこの業の苦縛から脱する道はないのでしょうか?

否、否、それはないことはありません。

自己内在の「神の子」を悟ることであります。

自己内在の「神の子」を知ったときに「神の子」はすでにいっさいの業が贖(あがな)われていますがゆえに、もうそのような業の流転の世界に這入ることはないのであります。

75a hope:2016/04/28(木) 07:26:46 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第25巻 p173 後から5行目〜

ひとたび、「我れ神の子なり、我れ仏子なり」との自覚を得るとき、われらは心の底より、いっさいの業苦を横超(おうちょう)する世界にでることができるのであります。

第三者より見てなお困難と見ゆる世界に彼は住むといえども、彼はすでにかかる困難を横超せんがゆえに、困難としては感じないのであります。

彼にとってはなお盤根錯節(ばんこんさくせつ)はありといえども、すでにそれは苦しみではないのであります。

―――
盤根錯節は「生命」がたわむれるための一つの運動具である。
諸君はスキーを多難だと言うか。
登山を不幸だと言うか。
ゴルフを艱難だと言うか。
競泳を悲惨だと言うか。
いかなる苦しみも戯(たわむ)れに化するとき人生は光明化し、そこから剛健なる無限の生命力が湧いてくる。(『光明の生活法』より)
―――

とあるように、その人にとっては人生のいっさいが、平凡な茶判事も困難も苦痛もいっさいが光明化してしまうのであります。

人生のいっさいが光明を点じ、希望を点じ、興味を点ずるのは「汝、神の子なり」のこの中心教育よりくるのであります。

76a hope:2016/04/28(木) 07:42:44 ID:xVBwxesw

>>75 a hope 所感)

<<ひとたび、「我れ神の子なり、我れ仏子なり」との自覚を得るとき、われらは心の底より、いっさいの業苦を横超(おうちょう)する世界にでることができるのであります。>>

『業苦を横超する世界』っていったいどんな世界なんでしょうか?

それは、
<<第三者より見てなお困難と見ゆる世界に彼は住むといえども、彼はすでにかかる困難を横超せんがゆえに、困難としては感じないのであります。
彼にとってはなお盤根錯節(ばんこんさくせつ)はありといえども、すでにそれは苦しみではないのであります。>>

すごいですね。

困難…物事をするのが非常にむずかしいこと。また、そのさま。難儀。
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%B0%E9%9B%A3-506491#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89

とありました。

現象的にはひじょうに難しい状態でっても、それを困難として感じないような心境ってことなのだと思います。

う〜ん、そうか・・・(;’∀’)

ホントに深い教えですね〜「生長の家の教え」って・・・(@_@)

77a hope:2016/05/01(日) 08:37:49 ID:xVBwxesw

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第2回 web「生命の實相」輪読会  案内

期間   平成28年5月1日〜5月31日まで
テキスト 「生命の實相」第26巻 教育実践篇 下
内容   人間を作る法〈下〉

     
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

78a hope:2016/05/01(日) 08:38:48 ID:xVBwxesw

みなさま おはようございます。

5月になりましたので、第2回web「生命の實相」輪読会 開会させていただきます。
開会にあたり、祈りの言葉を掲載させていただきます。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

住吉大神様 住吉大神様  谷口雅春先生 谷口雅春先生有難うございます、有難うございます。
 
生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給へ 
吾が生くるは吾力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能
天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家の大神まもりませ
  
住吉大神様、「本流復活」を考える 『web「生命の實相」輪読会』 板 に於ける
生命の実相 輪読会で、生長の家の御教えを正しく把握し、広く伝道するための 
必要な霊の選士を集え給うて、真理の研鑽を導き給う。
住吉大神様 勉強会を正しく導き給う 住吉大神様 勉強会を正しく導きたもう。
参加者お一人、お一人を浄化し給うて、使命を授け給う。
有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます

世界平和の祈り

神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。
その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。


光明思念の歌

天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

79a hope:2016/05/01(日) 08:42:12 ID:vdNCBnG6

つづきまして、「生命の實相」第26巻より〝はしがき〝 を謹写させていただきます。


             はしがき


児童に優秀健康児になってもらいたいのは、両親の切なる願いである。

しかしその願いはなかなか完全には叶えられないのが現状である。

学校は鮨詰(すしづめ)教室であるし、日教組の先生がたは教育者としての聖職を忘れてみずから、〝労働者〝 と称しており、教師の真似をして、学業をストライキする生徒も出てくる。

「なぜ先生の言うことをきかないのか」と教師が生徒をなじると、「先生だって文部省の言うことをきかないじゃないか」と平然と答える生徒がザラに出てきたという。

この調子では、子供はなかなか両親の言うことをきかない。

群馬県のある女子高等学校ではその卒業式の答辞に「子供は親のものではありません。わたしたちは親のものではありません。したがって親に孝養を尽す義務も責任もないことをハッキリ知らせていただきました。これがこの学校で四年間教育を受けた収穫であります。ありがとうございます」と感謝したという事実も伝えらている。


こういう危機に立たされた日本の教育はどこに理想をもとめ、いかに教育技術を用うべきであろうか。

愛児をもつ父親も母親もとまどうほかはないであろう。

アメリカも日本も不良児の出現に困っているのである。

アメリカ式教育法の輸入だけではどうにもならないのが現状である。

しかしソ連や中共の教育のように国家がその社会主義目的のために教育を強制することも、戦争の反動で世界中でいちばん自由奔放にながれていっさいの統制を拒絶している日本の教育界では実現の見込みがないのである。

そのようなときに本当に効果をあらわすのは、本書の説く、児童の「実相を観る教育」である。
(つづく)

80a hope:2016/05/01(日) 08:43:10 ID:vdNCBnG6
(つづき)
「実相」とは児童に宿る「生命の本質の完全さ」である。

その人の「実相」を観ずれば、その人の完全さがあらわれるのである。

わたしはかつて、ドストエフスキーの『白痴(はくち)』の映画化を観たことがあったが、無貞操無道徳んお女主人公ナスターシャに公爵ムイシキンが面接して、「あなたは完全です」と言ってじっと彼女を見つめると、彼女に宿る実相の完全さがあらわれて、ムイシキン公爵の前では持ち前の〝あばずれ〝 の姿が消えてしまう。

そして、公爵の純情な求婚にもかかわらず「このような、〝あばずれ〝 が純情な公爵の生涯を汚してはならない」と、かえって雪の中を馬車で、公爵の前から姿を消して行くのである。

それは、「実相を観ずれば、いっさいの悪が面前から消えてゆく」という真理の象徴であるといえるのである。

こうしたわたしたちの教育法は関東医療少年院で採用されて、わたしたちの同志が毎月関東医療少年院へ往って、そこに収容されている少年たちに講話したりして成果をあげているし、わたしたちの練成道場では少年院から練成に送られてくる少年で、実に道徳性の高い立派な人間に更生する実例を出しているので悦ばれているのである。

いくぶん不良じみていて、教師や父兄から持てあまされているような少年ですらも、この教育方法によれば、このように効果があるのであるから、読者の家底にいられるような、普通の自動であったら、すぐに優良児になること疑いないのである。

本書は、このような教育法の立場から、近ごろ問題になっている道徳教育のやり方をはじめとして、早教育、芸術教育、宗教教育、その他、書道、茶道、華道等の技術の習得、修練、その向上などについて、その道の専門家の口をとおして、実際の対談形式をとって説かしめたものである。

卒然として本書からお読みになって、なおいっそう深く、この素晴らしい「人間の実相観入法」について知りたくなった方は、『生命の實相』第一巻、第二巻に収録されてある総説篇、実相篇、光明篇等(頭注版および携帯版では第一巻=第四巻に収録)を読んで、「人間の実相の完全さ」というものについての理解を深められれば、人生百般の問題ついて、自由自在の円熟境に達せられることも不可能ではないと信ずるものである。

昭和三十九年 十一月 十日           著者しるす

81a hope:2016/05/02(月) 21:09:56 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第26巻 p3 後から4行目〜

さて、しばらくぶりで皆様のお顔を拝しまして、何をお話しようかと改まりますと、何もお話することもないのであります。

要するに言うことなしにただ嬉しいというのが、われわれの生命の実相であります。

生命の実相というものは説こうと思って説けるものではない、ただ、ありがたい嬉しいものであります。

ですから、われわれが自分の生命の実相を悟りまして、それを生活に生きるということになりますと、ただもう生活が嬉しく明るく、家庭が円満に、見る物皆楽しくなってくるのであります。

ではどんなに生活が変わってくるかといいますと、どんなにも変わってこないのです。

やはり朝起きると顔を洗うのであります。(笑声)

そうして神様を拝む習慣の人は拝まれるでしょうし、あるいはご先祖を拝む習慣の人はご先祖を拝まれるでありましょうし、そしてその次に御飯をおあがりになる。

やがて出勤する人は出勤する。

外形を見ていますと生命の実相を悟っても悟らなくても同じことをなさるのです。

いっこう変わりがない。

変わりがないけれども変わりがあるのがこれが悟りであります。

変わりがあるのはまだ悟りが足りないのであります。

よく自動車にでも轢かれて、轢かれたけれども怪我しなかったからありがたいといって、これは「生長の家」のお蔭であるといって、わたしにお礼に来られる人がありますけれども、それはなるほど轢かれて怪我をしたり死んだりするよりはありがたいにちがいありませんけれども惹かれない人はもういっそうありがたいのです。

ところが「轢かれたけれども怪我をしませんでした」といってお礼を言う人はあっても、「先生、わたしは自動車に轢かれませんでした。ありがとうございます。」と言う人はほとんどいないのであります。

本当の悟りとは何事もないことがそのままそれが本当にありがたいということが分かるのでなければなりません。

悟りというものはなんの変哲もない、なんの変哲もないものが悟りなのであります。

何かあると思うのはまだ悟っていないのであります。

82a hope:2016/05/02(月) 21:12:10 ID:xVBwxesw

(a hope所感)

家で、家族と一緒に温かい御飯が食べられること。
それがなによりの幸せなんですね。

でもそう感じても、次の日にはまた、不平不満の感情が湧き上がってきてしまう・・・。

「生命の實相」が手放せない・・・わたしです(/ω\)

84a hope:2016/05/05(木) 06:49:25 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第26巻 p7 後から4行目〜

生命の実相の悟りというものは、常住坐臥、現象的に何がなくても嬉しい、ありがたい、なんでもないうちになんともいえない、爽やかな一種の喜びが続いているものであります。

この爽やかなありがたさというものが本当に体得でき時に、家庭はむろん光明化しますし、病気も治るし、運命も境遇もよくなるのであります。

これは副産物でありまして、病気が治らなければありがたくないというような悟りではまだ本当の悟りでありませんから病気などもかえって治りにくいのであります。

病気が治ってありがたいのなら、誰でも皆さんは、ここにおられる方々は、百歳くらいまでは長生きせられるかもしれませんけれども、しまいには死んでしまう。

その臨終の時に「ありがたくない」と思って怨めしい思いでしんでゆかねばなりません。

そんなことではせっかく今まで救われておったと思っておっても、それはウソで最後の土壇場で、今までの悟りはウソであったという事実を暴露し、結局、生命の実相の救いはその人にはなんの役にも立たなかったということになるのであります。

85a hope:2016/05/05(木) 06:51:13 ID:xVBwxesw

>>84 a hope 所感)

わたしが数年前、一番最初にこの部分を拝読した時は赤線は引きましたが、
その文章の内容の深さには気づかなかったのではないかと思います。

本当に「生命の実相」を悟っているか、悟っていないか・・・

それは臨終の時にすべてわかってしまうのですね。

86るん吉:2016/05/07(土) 08:40:53 ID:qSZ.KlGM
a hopeさま

>>本当に「生命の実相」を悟っているか、悟っていないか・・・それは臨終の時にすべてわかってしまうのですね。

自分は、今の段階で解ってます・・・・


まだまだ悟ってない。と・・全然かな・・て。

困ったことが何にもなかったら、「神の子なんだありがたい。」ってなるけど

でも生きてたらどうしても色々なことが有るし、その時ですね。その時にほんとに生長の家の真理を悟ってるかが解るんです。

絶対境地かなんかに入ってたら、また違うのかなぁ。とも思うのですけど・・

87a hope:2016/05/07(土) 16:28:16 ID:vdNCBnG6

>>86 るん吉さま

貴重なご意見をありがとうございます。

わたしも、理屈では「物質なし」や「神の子」は大分わかっているんですが、
まだまだ「実相を悟りました。」といえるような状態ではありません。


困難を乗り越えて「悟った!」と思っても、またちがう困難がやってきて、それを乗り越えたとき、また「悟った!」と思う、
そしてまたあらたな困難がやって来て・・・ときどきわたしの人生は、そんなことが永遠に続くのではないかとさえ思ってしまいます。

でも、「人生は魂の学校である」というのも「生長の家」の教えですから、
わたしたちは困難を乗り越えるたびに少しずつ生長していくんですよね。

そして、あるとき突然 「物質はない! 肉体もない! 心もない!」 「あるのは実相だけだ!!!」
って、ドーンって悟るのかな?

るん吉さんのいう、絶対境地ってそういう状態?

いずれにしても、自分の臨終の時に「あーありがたい人生だった」って思える、そんな人生を送りたいですね!

88a hope:2016/05/10(火) 07:00:11 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第26巻 p25 後から4行目〜

実際、勉強のできない、成績の悪い子を、「勉強のできる、成績の良い子だ」と信頼して思えといっても、そんなことはおもえませんといわれる人がたくさんあります。

それは思えないのがあたりまえなのであります。

それは五官の眼でその子の現象を見ているからであります。

しかし、五官は「信念の反影」を見るにすぎませんから、「できの悪い子だ」と信じているかぎりは、五官の眼で見ているかぎりはできが悪いのは当然です。

そんな時には五官の目を閉じて合掌し、そうして心を鎮めて相手の実相を観るようにすればよいのです。

良人の場合も子供の場合でも同じことです。

子供の場合には「自家(うち)の子供は神の子であって自由にしておいても勉強するのである。人間は勉強が楽しいのであるから、親が心配しなくても勉強するのがあたりまえであるから勉強する」と、こういう意味の言葉を静かに念ずるのであります。

これが「神想観」の応用法であります。

神想観の方法は『生命の實相』第四巻(頭注版・携帯版では八巻)または『詳説神想観』『光明の健康法』という本に発表しておきました。


『法華経』に、常不軽菩薩が、どんな人を見てもみんな仏の子であるとしておがんだということが書いてあります。

この行持(ぎょうじ)を子供に応用すれば子供がよくなり、この行持を良人に応用すれば良人もよくなり、この行持を姑(しゅうとめ)に応用すれば姑がよくなり、家庭が光明化するのであります。

どうぞ皆さん、今後も常不軽菩薩のように相手の実相を拝んで生活せられんことを希望いたします。

89a hope:2016/05/10(火) 07:01:42 ID:xVBwxesw

>>88 a hope所感)

あらためて気づきましたが、「神想観」とは、「実相」を礼拝することだったのですね。
頭ではわかっていることが、実感としてわかるようになるには、やっぱり聖典を拝読し続けるしかありません。

90a hope:2016/05/10(火) 07:15:01 ID:vdNCBnG6

『「生長の家」の教義について議論する』板>>49にわたしの「今の教え」に関する疑問を書きました。
みなさまのご意見をそちらでぜひお聞かせください!

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1458205600/49

91a hope:2016/05/14(土) 07:47:28 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第26巻 p44 7行目〜

その翌日から、一歩も外へ出なかったわたしが早朝から起きて散歩に出かけた、すると、これはまたどうしたことか。

空、大地、小鳥、わたしの目にふれるすべての物が、光り輝いているではないか。

なんという美しさだろう。

わたしの耳にふれるすべての音は、快い諧調を保っている。

わたしの歩いている――武蔵野の小さな一隅――周囲で畑に立つ人、歩く人、すべてが光をはなつ立派な存在ではないか。

わたしは一時間近くも歩き廻った。


わたしは一変した。


今までほとんど床(とこ)についていたものが、わずかの午睡のみにとどまった。

あまり急な変わり方なので、母に嬉しい半面にいくらかの不安があったらしく少しは床に着いたらどうだとまでいう。

これまで、滋養剤と薬を浴びるほど服(の)んでいたのを、すっかり止めてしまう。

毎日必ず体の苦痛を訴えたり、不平を言う必要がなくなった。

食事は与えられたものを全部食べる。

発病以来四カ月半不眠症で悩んでいたのが、眠ろうと思えば、いつどこでもねられるし、起きようと思えばいつでも目が覚める。


人に対しても真の親しみを感じる。

何かの機会があれば、なぐりつけてやろうと思っていた人を連想すると、その人の長所が頭に浮かんできて、逢うのすら厭(いや)であったのに、急に話しかけたくなる。

どんな人に話かけられても、どんな人が来ても前とはまったく異なった喜びを感ずる。

92a hope:2016/05/14(土) 07:49:36 ID:vdNCBnG6

>>91 a hope所感)

これは、当時美術学校の画学生であった、小林正氏のお悟りの体験談「光を観て」p39〜からの抜粋文ですが、
あらゆる手段をつくしてもまったく効果がなかった病状が、服部仁郎先生に面接するだけで、
全快してしまいったという体験談の後半部分からの抜粋です。

人が「生命の実相」を悟ると、目の前にパラダイスが現れるのですね\(^o^)/

93a hope:2016/05/16(月) 12:24:59 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第26巻 p81 後から7行目〜

・・・たとえば、わたしが講演していて、「わたしが言いたいのは、ここに生命の実相があるのだ」と、「これが生きとおしの生命である」と自分自身の身体を指さしていう。

するとそれを聴いていた人の病気が治ることがある。

これはその意味不明な言葉のうちに、その言葉を媒介として生命の骨髄が伝えられるのです。

むろんわたしのしゃべることはみな『生命の實相』に完全に書いてある。

『生命の實相』を読んだらいいのだ、こっちでしゃべらなくてもいいはずです。

だけれども、実際にこれがこうだと、ここがいいのだと、「ここ」というでしょう。

この言葉の響きの中にですね、達人が言葉に出して教えてくれたらそれがわかるのですよ。

それが先輩師匠のなすべきところであって、ここをこうしなさいよ、こうしなさいよ、こうですよ、とそれの導きがあると、それは実相の響きの鐘がゴーンと鳴ると一方潜在していた鐘の響きが共鳴の原理によって、ゴーンと鳴るのと同様である。

先覚者が側(そば)にいて指導して芸道の悟りをゴーンと撞(つ)き鳴らさなくても自分で発見する人もありますけれども、それは極めて稀(まれ)であって天才なんですよ。

それがもっと楽に天才を引き出すような方法――そこに教育の教育たる所以(ゆえん)がある、先覚の後進を導くことの価値がある。

94a hope:2016/05/16(月) 12:26:51 ID:vdNCBnG6

>>93 a hope所感)

第三章は「芸術教育の神髄を語る」というタイトルがついていて、彫刻家の山根八春氏、服部仁郎氏はじめ、
音楽家の方、軍人の方々、校長先生を始めとする教育家の方々が主に芸術教育について話し合われています。

そして上の謹写部分では雅春先生が、芸術教育の伝授の「コツ」を「生命の実相」の悟りに例えられて説明されています。

子供の習い事なんかを見ていても、良い先生に教えていただけるととても上達がはやいですが、
あまり評判のよくない先生だと上達がおそいばかりでなく、下手をするとその習い事自体への興味を失わせてしまうこともあります。

芸術も宗教も、本物を悟られた本物の達人(先覚者)につくことがとても重要だと思います。

谷口雅春先生は本物でした。

雅春先生が現象界にいらっしゃらない今、わたしたちはその谷口雅春先生の残された聖典を拝読することで、
本物の悟りを得ることが可能なのだと思います。

95a hope:2016/05/17(火) 08:34:56 ID:xVBwxesw

「生命の實相」26巻 p91 後から7行目〜

照井――ここで問題になることですけれども、いつか先生に申上げようと思うておったのですが、神想観の時に口と鼻とここ(眉間)から霊気(いき)が出るということですね。

あれを谷口先生および「生長の家」の方々に申し上げたいと思っておりましたが、わたしがかつて外国でゴロゴロしながら声のことを勉強していながら覚えたことですけれども、声の一番上の出し方では声が眉間からでるのです。

解剖学的に申しますとここに額の骨が下部に来て二枚になりまして頭(眉間)にきて分かれる、横断面的にみるとくるみの内部くらいのうつろがある。

眼と眼の間で、少し眉寄りの間の辺から、それに声がうまいこと共鳴してくれなければ本当の声が出ないのです。

それは谷口先生が合掌の時にここから霊気(いき)が出ることをお書きになったのを見ましたが、それでここが声のほんとの出所(でどころ)だということを感じさせられたのです。

ここからきたものが人に入るのです。(発声の見本を示さる、眉間から声がでるように聞こえる)

これが実に楽なんです。

これを練習していますと、体にかまわずに声ばかり出ているような感じになるのです。

そうでない出し方は、どうしても肉体に執(とら)われ、苦しいですから。

それでほんとの声の出るこの眉間の空洞、これがなんのために存在しているか十八世紀の末葉(まつよう)まではわからなかったのです。

声楽の発声法の研究がだんだん進歩するにつれてこの眉間の空洞が高音を出すために存在しているということを発見したのです。

それが偶然にもこの神想観の時にここから霊気(れいき)が出るのと符合するので、心息の神秘性といったようなことに、非常に感激しているしだいなのです。

生きの調節のしかたが合掌と同じなんです。

96a hope:2016/05/17(火) 08:37:01 ID:vdNCBnG6

>>95 a hope所感)

わたしはつい最近まであるコーラスグループに所属していて、ソプラノを担当していました。
(現在は事情によりお休みしていますが・・・)。

最初のころは、アヴェマリアなどの高音を出すときに、必ず喉を傷めていましたが、
ある時どんなに高音をだしても、まったく喉に負担がかからない方法を見つけました。

自分の声なのに、自分の身体からでていないようなそんな発声です。

わたしはコーラスは初心者の部類なので、その発声がうまくできるときもあればできないときもありましたが、
上手に発声できているときは、必ず、先生から褒められました。

今、この上の謹写部分を拝読して、「そういうことだったのか・・・」とすっきり納得しました(^◇^)

97a hope:2016/05/17(火) 08:41:05 ID:vdNCBnG6
>>95 訂正
生きの調節 →息の調節

98a hope:2016/05/21(土) 12:29:54 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第26巻 p106 3行目〜

「苦労をありがたく受けてゆける処世のコツがわかる」

栗原――今日は皆さんからいろいろ有益な話をお聞きしましたが、要するにわたしは、苦労というものは人間を研(みが)くものであって、それは何百冊の本を読んだよりもよけいに自分を研いてくれるような気がする。

しかしわたしはこの世に苦労があると思うていたがゆえに、苦労を引き受けていたような観がある。

そうして苦しみどおしで三十七歳の今日まで過ごしてきた。

過去の話は長いが十六歳の時から家を飛び出し、流浪し、苦学し、甚(はなな)だしい時には、二週間近くもごはんをたべられずにいたこもあり、今から顧みればいささかトッピにも思えるが文房具屋に一円五十銭借金してそれが返せないため、一カ月半のあいだ真剣に死ぬことばかりを考えていたこともあった。

こうしたことがしらずしらずのうちに自分を研いてくれたような気がする。

いかなる名誉もこの苦々しい体験から得たところの心の磨きにはとうてい及ぶべくないような気がします。

こうした問題について、教えてくれる学校はないのです。

本当に渇(かわ)き飢えた生命、枯死せんとする生命を蘇らしてくれるところの、真から蘇らしてくれるところの学問というものはない。

それでわたしはずいぶんと無駄に生命を摺り減らしていたような気がするが、やっと生長の家の『生命の實相』がそれを救ってくれたわけなのですが、わたしは小学校から大学を通じてこの生命の教育が本当に心から望ましい。

苦労を不幸だと呪いながらする苦労と、苦労を自分を研いてくれる砥石だとありがたく受けてする苦労とはおのずから千里の隔たりがあり、生命の伸展の上にもたいへんな相違ができてくるわけです。

そうしたなら、生活苦も、就職苦もいっさいが解決されて、人生とはかくも美しく明るいものであるとの、光明一元の生活ができるんですがねえ……。


谷口――あまり時間が長くなりますから、この辺で閉会します。皆様ありがとうございました。

(昭和十年一月二十九日、生長の家本部座談室にて)

99a hope:2016/05/21(土) 12:31:17 ID:xVBwxesw

>>98 a hope所感)

この世の中に苦労や困難がなかったら、わたしたちは何が本当に大切で、なにが本当の幸福なのか考えないまま一生を終えるのかもしれません。

『生命の實相』を拝読し続けていると、本当のことがだんだんとわかってきますね。

100a hope:2016/05/23(月) 20:42:46 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第26巻 p129 3行目〜

谷口・・・(略)・・・要するにこの宗教というものが、やはり、それを指導する師、家庭の親とか学校の先生とかというものが本当の自覚に入っていない場合には、同じ形式でやっても、お前は神も子であるといっても神とは何だかわからない。

ところが、実際に信じている指導者が、「あんたは神の子だ」とこう一言いえば本当に神の子であるということがわかってくるだろうと思うのです。

どこかで読んだのですが、宗教とはなんであるかという問題に対して「ひとつの尊敬すべき人格の周囲に集まった人々の団体である」というような定義を下しておられた人がありました。

これは神とは何ぞやというような抽象、問題でなしに、社会的現象として存在する、一つの生きた具体的事実としての宗教を説明していると思うのであります。

その場合、宗教とは、やはりその中心者となる人が本当に神の子の自覚、あるいは個我と全体我との一つの融合感を持っている、その一つの人格にあこがれて慕い寄ってくる一つの生きた具体的な団体であり、宗教教育を施すにも、そういうその中心者になれる人があって初めて、そこに完全な宗教的教育が施されうるということになるのだと思います。


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