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本迹に関して対話するスレッド

1沖浦克治 ◆sFO4WcF4K2:2008/11/10(月) 09:52:02 ID:AJ3hr85o0
 最近、私の問いかけにより、本迹論議が起きています。
 未だに論調が幼い感が否めません。
 このままでは世間様に学会員の教学と対話のレベルが疑われてしまうでしょう。

 いい機会ですのでスレッドを立てました。

 誹謗中傷は禁止。
 決め付けは駄目。

 戸田先生の仰せです。

 『御書を読むのに、これは絶対こう言う意味だ。はいけない。
 御本仏様のお書きになられたものを私共が決め付けることは謗法です。ここはこう拝せる。
 これが正しい読み方である。』(趣意)

 この点は守っていただきます。
 それと、御書や先生の指導、世間の学説などを引用する際、このスレでは趣意結構です。
 一字一句にこだわる方は他所でおやりください。

 では、皆様方のご意見をどうぞ。

412沖浦克治:2009/01/22(木) 19:19:57 ID:AJ3hr85o0
 白麦さん

 貴方がそう信じられることはご自由です。  
 ですが、私は貴方の信念より池田先生の講義を信じます。

413タカ:2009/01/22(木) 21:21:01 ID:qIvXPkFI0
沖浦さん、昨日から投稿しましたがメッセージは届きましたでしょうか?

414沖浦克治:2009/01/22(木) 21:30:34 ID:AJ3hr85o0
 タカさん、自己紹介スレッドに投稿なさいましたか?

 自己紹介が終わるまで貴方のスレッドは強制下げにしておりますし、コメントはいたしかねます。

415タカ:2009/01/22(木) 21:44:21 ID:qIvXPkFI0
はじめまして、高井義晴と申します。
信心を始めて10年になります。
拠点は千葉になります。
宜しくお願い致します。

416沖浦克治:2009/01/22(木) 21:45:03 ID:AJ3hr85o0
 師敵対の愚人の言い訳が目に浮かびますね。

 先生は、ここで言う凡夫とは、大聖人御自身の御事です。と言われている。
 俺達衆生のことじゃない。
 程度の愚論は吐くでしょうね。

 その後で先生は、戸田先生の

 『成仏とは、仏になる、仏になろうとすることではない。
大聖人の凡夫即極、諸法実相のお言葉を、素直に信じ奉って、この身このままが、永遠の昔より未来に向かって仏であると覚悟することである。』

 との御金言を引用され、この凡夫とは私どもの事なんだ。とあかされておられます。
 とうとう、師敵対の輩の邪義、人シャク仏本論には、先生がとどめを刺されましたね。

417白麦 ◆Ec49GnoeJE:2009/01/22(木) 23:00:11 ID:/.wVSr1g0
沖浦さんへ

先生は、ここで言う凡夫とは、大聖人御自身の御事です。と言われています。
そして、「成仏とは、大聖人の凡夫即極、諸法実相のお言葉を、素直に信じ奉って、
この身このままが、永遠の昔より未来に向かって仏であると覚悟することである」と。
私たちも、大聖人の仏法を信じて仏界を開く事が出来る、ということです。




大聖人も、
大聖人の仏法を信じている私たちも、
本来仏界を具えている全ての人も

     

       本     であり、



文上のきらびやかな仏様が


      
       迹     です。



    「私は、先生の言われている通りに信じます。」

















418沖浦克治:2009/01/23(金) 06:59:51 ID:AJ3hr85o0
 白麦さん、おはようございます

 先生はね、以前、本因本果について以下のようにご指導です。

 『大聖人様の仏法は本因妙です。
 釈迦は本因、大聖人様は本果でいらっしゃる。
 しかし、大聖人様の仏法で見た場合、大聖人と日興上人、大聖人様は本果でいらしゃる。
 日興上人は本因です。
 師匠が本果、弟子が本因。
 私は本果です、諸君たちは本因である。
 そして君たちが人を育てる時、君たちが本果になる、育てられる人が本因です。
 こうして、仏法っ本果本因、本因本果永久に続いて行くのです。
 だから仏法には独裁がありません。』(趣意)

 『下種十妙実体の本迹 日蓮は本因妙を本と為し、余を迹と為すなり、是れ真実の本因本果の法門なり。』
 (百六箇抄)

 本因が肝心です。
 私どもは本因。
 ですから私どもが本です。

419沖浦克治:2009/01/23(金) 07:01:56 ID:AJ3hr85o0
 418記入ミスです。

>釈迦は本因、大聖人様は本果でいらっしゃる。
 を、
 釈迦は本果、大聖人様は本因でいらっしゃる。
 に、訂正いたします

420沖浦克治:2009/01/23(金) 07:21:46 ID:AJ3hr85o0
 若鷹に今書き込んでおきました。
 創価を見失った、創価はぐれ人が大騒ぎしていましたね。
 師匠に弓引いて平気なんですね、あの人たち。

 まじめに教学学んだ方がいいですよ。
 すでに創価の人じゃないですね、命が。
 創価の信心から離れて仏果は得られませんよ。

 先生が新聞で仰せでしょう。 

 『釈迦は人間として法を説いた。
 だが、後世の人が自分たちを権威付けるために、色相荘厳にして神格化してしまった。』(趣意です、新聞取ってますね?読めますか??)

 大聖人さまを特別にして色相荘厳にし、神格化して権威で持って民衆を欺いたものが宗門です。
 貴方方同じことやってますよ。

 大聖人様はお一人の人間。
 私どもの人間。
 一切差別は無いのですよ。
 創価思想とはね、宗教が神仏を祭り上げ、権力と聖職者が結託して民衆を搾取する社会を革命する思想です。 
 人が本なんですよ。
 神仏はシャクです。

 覚えておきましょうね、日蓮正宗未練の皆様方。

421一壮年:2009/01/23(金) 07:35:11 ID:QOd0sUq6O
沖浦さん、昨日の新聞読みました。権威の為の宗教ではなく民衆の為の仏法なんだって事がよく理解出来ました。
日蓮正宗の御戒壇様が本懐じゃないですよね。勿論、御戒壇様を偽物とはいいません。
宗門が証明するのが筋なのでしょうが、やらないでしょうね。

422沖浦克治:2009/01/23(金) 07:41:01 ID:AJ3hr85o0
 一壮年さん、おはようございます

 戒壇様は本物のご本尊様です。 
 貴方や私の自宅のご本尊様とまったく同じお力を立派にお持ちです。
 ですが、戒壇様だけが本物で後コピーだと言ったことが寛師の間違いです。
 ご本尊様を色相荘厳にしてしまいました。 
 大聖人様は一度もおっしゃいません。
 道具だから上手にお使いなさい。と、仰せです。

 『つるぎなんどもすすまざる人のためには用る事なし、法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ鬼にかなぼうたるべし、日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ、』
 (経王殿御返事)

423あきら:2009/01/23(金) 12:22:02 ID:Haq9JdLU0
いわゆる、大切なもの、必要なもの、重要なものを履き違えることで
本迹に迷う結果となるんですね。
世の中に置かれた状況、環境によってはお金こそ重要なものに
見えてしまうことだってあります。
しかし、お金など使ってしまうことにより
跡形もなくなってしまいます。

大聖人は大慈大悲を持ってご本尊をご図顕あそばれました。
「大慈大悲」の意味を履き違え、混乱を起こしている方がいらっしゃる様です。

末法万年の先には、たとえコンクリートや鉄でしたためられた
ご本尊であっても、その形は失われてしまいます。
どんなものでもいつか陽子は崩壊し、消滅するんですよね。

まして木にしたためられ、たとえ彫られていたにしても
それはむなしく消滅していきます。
末法万年とはそうしたスケールである以上、
あくまでも道具であると思いますね。
仏法は魔法ではありませんから。

大聖人の仏法は、世の中の常識や法に背くものではない点から
考察しても、「人が本」以外に考えられません。

ご本尊に大慈大悲があるのではなく、
ご図顕あそばれた大聖人に大慈大悲が備わっているのです。

424白麦 ◆Ec49GnoeJE:2009/01/24(土) 00:19:31 ID:/.wVSr1g0


沖浦さんへ


大聖人の文底下種益の本因妙の仏法とは、

御本尊(境妙)を
信じて(智妙)
題目を唱え(行妙)
名字の凡身(位妙)を改めず即身成仏することです。


『下種十妙実体の本迹 日蓮は本因妙を本と為し、余を迹と為すなり
、是れ真実の本因本果の法門なり。』
 (百六箇抄)

「本因妙を本」とは、上記のことを本とする、ということです。





「凡夫即極の仏法」を教えて下さったのが御本仏である大聖人です。

そして、因果倶時の曼荼羅の御本尊は、大聖人の生命です。

そして、「大聖人を信じてお題目を唱えて即身成仏」(因果倶時)=
    「師弟不二」(因果倶時)です。


私たちの生命は尊極です。
そして、私たちの仏界は、大聖人の仏法を信じ行じることで開かれます。






聖教新聞1月8日付け。先生の講義「御書と師弟」に

「大聖人の仏法」は、弟子は因、師匠は果であり、「師弟不二」と言われています。

「師弟不二」の一念を因として、とも言われています。

また、仏法も人生も、成長の最高の「因」となるのが「師匠」の存在、と。




師弟不二、因果倶時不思議の一法の曼荼羅の御本尊です。



「法華経の智慧」には、

久遠の本仏()は、因果倶時の仏()である、と言われています。

菩薩(因)仏(果)であると。

大聖人は「人」であり、「御本仏」なのです、と。





鄯・鄴

425沖浦克治:2009/01/24(土) 05:42:45 ID:AJ3hr85o0
 白麦 さん

 私と貴方は意見が異なります。
 別にすり合わせることはないでしょうね。
 私は人が本だと仰せの池田先生を信じる立場です。
 貴方は漫荼羅が本で人に勝るとお考えのようですね。
 いずれにせよ、漫荼羅にお題目を唱え、創価を世間に宣揚するなら同じ結果です。
 目くじら立てるほどのことじゃありませんね。

426白麦 ◆Ec49GnoeJE:2009/01/24(土) 23:58:47 ID:/.wVSr1g0


沖浦さんへ


>私は人が本だと仰せの池田先生を信じる立場です。

>貴方は漫荼羅が本で人に勝るとお考えのようですね.。





私は、文上の迹仏に対して、人を本と仰せの池田先生を信じます。

私は「曼荼羅の御本尊と人」の関係は、

    
    御本尊(境妙)を
    信じて(智妙)
    題目を唱え(行妙)
    名字の凡身(位妙)を改めず即身成仏する、と言う


「境智冥合」をする関係である、と認識しています。





そして、私は、
本尊を相対した(比べた)場合は、



  下種文底仏法の大聖人の曼荼羅の御本尊が「本」 であり、
  脱益文上仏法の釈迦仏像や阿弥陀の仏像本尊は「迹」 である



  下種文底仏法の大聖人の曼荼羅の御本尊が「本」 であり、
  例えば、沖浦宗の沖浦と言う人本尊は「迹」 である、



と認識しています。

427白麦 ◆Ec49GnoeJE:2009/01/25(日) 00:07:20 ID:/.wVSr1g0
訂正

例えば、沖浦宗の沖浦と言う人本尊は「迹」 である


から、


例えば、沖浦宗の{沖浦}と言う人本尊は「迹」 である

428沖浦克治:2009/01/25(日) 06:02:17 ID:AJ3hr85o0
 白麦さん、おはようございます

 認識は結構ですよ。
 でも、間違っていますね。
 先ず、認識より信ですね。
 そして信よりおきる行です。
 信行を進める学です。
 信行学の順番です。
 ところが貴方はその三つのどれでもない、認識が最初に来ます。
 仏法の考え方じゃないんですよ。

 それと、沖浦教と言うものはありませんよ。

430白麦 ◆Ec49GnoeJE:2009/01/26(月) 02:01:51 ID:/.wVSr1g0
沖浦さんへ


私は、
大聖人・創価の三人の先生を信じ、
大聖人・創価の三人の先生が言われていること「A」を「A」と認識し、
「A」を信じます。

そして、「A」を信じ、
「A」を実践すれば、利美善の価値を生む、と信じます。


私は、
大聖人・創価の三人の先生のことや、
大聖人・創価の三人の先生が言われていること「A]や
「A」を実践して体験したことを、自分の力に随って、
一文一句でも語り伝えていきます。


私は、
大聖人・創価の三人の先生のことや、
大聖人・創価の三人の先生が言われていること「A]を
信行を強くするため学びます。



私は、曼荼羅の御本尊を大聖人の生命と信じ、
自行化他のお題目を唱え、広宣流布の実践をし、
大聖人の仏法・御書を学びます。


私は、
創価の三人の先生の指導を信じ、学び、
平和・文化・教育向上の実践をし、
地域、職場の人間関係において、
創価の人間として信頼を勝ち得て、実証を示し
和楽の家庭を築きゆき、
悔いない人生を送ります。


私は、
大聖人・創価の三人の先生が言われていること「A」を「B」と認識していることが分かれば、
大聖人・創価の三人の先生が言われていることは「A」である、と改めます。



牧口先生は、「認識せずして評価するなかれ」と言われています。



「喩えば」です。
沖浦さんが、私に、
「漫荼羅が本で人に勝るとお考えのようですね」と推察されていたので、
喩えを用いれば分かりやすくなる、と思いましたので。

改めます、
下種文底仏法の大聖人の曼荼羅の御本尊が「本」 であり
日顕宗の教祖である、日顕人本尊は「「迹」」 である、と認識し、そう信じます

注)日顕さん自身「自分が本で大聖人は迹」と言われている、とのことより、
「自分が人本尊である」と宣言されている、との意から。

あくまでも、喩えです。{(迹)にもならない}



私は「曼荼羅の御本尊と人」の関係は、
    
    御本尊(境妙)を
    信じて(智妙)
    題目を唱え(行妙)
    名字の凡身(位妙)を改めず即身成仏する、と言う

「境智冥合」をする関係である、と認識し、そう信じています。




私は、
沖浦さんの掲示板に来られる方々、
見ておられる方々の
大聖人の仏法の信行学の
より一層の向上を祈っています。







鄯・鄴

431沖浦克治:2009/03/17(火) 06:24:09 ID:AJ3hr85o0
 そろそろ真面目な話題をいたしましょう。

 『実相と云うは妙法蓮華経の異名なり諸法は妙法蓮華経と云う事なり、地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり、餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず、仏は仏のすがた凡夫は凡夫のすがた、万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり、』
 (諸法実相抄)

 実相と言うのは妙法です。
 諸法が妙法だと言うことです。 
 諸法とは世間一切の法社会活動、生命の動き、あらゆる現象です。
 それがそのまま妙法なんだよ、どこか遠いところに極楽のような理想社会があるんじゃないよ。
 このようにご指南ですね。

 地獄は地獄のまま、妙法蓮華経の当体なんだ。
 仏は仏の姿、凡夫は凡夫の姿、そのままで妙法の当体だよ。
 仏法を修行する事で何か違った存在になる事ではないのですよ。
 貴方方はそのままの姿が元々の仏様なんですよ。
 あらゆる物の本質が妙法蓮華経で差別はないんだよ。

 このように仰せですね。
 俺は創価学会員で池田先生の弟子だから偉いんだ。
 これはこの御文から間違いです。
 一切衆生が仏様です。
 他者を誹謗中傷することはこの御文に背く謗法です。

432沖浦克治:2009/03/20(金) 21:41:39 ID:AJ3hr85o0
 昨日の岩隈投手の快投、素晴らしかったですね。

 と、感動するのが迹。
 では自分はどうやって岩隈投手のように勝利して、世間に創価を示すのか?
 こう悩んで祈り行動する事が本。

 ネッ、簡単でしょう。

433沖浦克治:2009/03/20(金) 21:51:59 ID:AJ3hr85o0
 そう言う自分自身に向上への祈りと行動の無い人は、どのような高邁な法を聞いても、どんなに素晴らしい体験に接しても、いくら渾身の指導を受けても、所詮人事で終わる人生です。
 仏法は行です。
 行とは事実の実証ですよ。
 事実の実証への祈りと行動にかける人は、創価の人生は生きられません。
 ネットは、ほとんどが書き込みだけの世界です。
 行動を起こせないネット。
 一凶です。

434沖浦克治:2009/03/21(土) 07:31:10 ID:AJ3hr85o0
 物凄く簡単なんです。

 先生がご指導をされる。
 聞いた自分がその指導でどう行動するか?
 その行動の部分だけが本につながります。
 本は、創価を保った人間の人生における成功です。
 先生がこう言われた、ああ言われた。
 これは、理です。
 事じゃありません。
 事は行動です。
 それによる結果です。
 それ以外仏法の証明はありません。

 『日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず、』
 (三三蔵祈雨事)

 創価を保って功徳の体験を積む勝利の人生か?
 道を外れて功徳が語れない負けの人生か?

 どちらの人生を歩むか?
 その人の信心の厚薄によります。
 ですから、一切仏法は自己責任です。
 他者を非難中傷して創価の正義は語れません。 
 それは不可能なんですよ。
 池田先生のお振る舞いが証拠です。
 者共進め。
 じゃ無いんです。
 者共続け!
 これが正義の証明です。
 ネットで大言壮語しても、実生活で創価の勝利を功徳の姿で語れない人は、仏法者じゃないんです。
 ある掲示板での書き込みです。

>何故沖浦克治が、こうもわざとらしく「功徳」「功徳」と連呼するか?――それしか書けないからです。(^o^)

 功徳が語れないなら創価の意味はありません。
 この人は創価ではないですね。
 外道です。
 お気の毒です。

435沖浦克治:2009/03/21(土) 19:06:50 ID:AJ3hr85o0
 岩隈選手が大活躍した!

 池田先生がまた勲章をいただいた!

 それを聞き、自分はその様に創価の名前をたかめるか?
 これが本です。
 聞いて喜んでいる部分は理で迹です。
 自分が行動できるか否か。
 ネットで教学論じても、行動して社会で勝利の実証を示せない人は、迹です。
 無意味ですね。
 創価じゃないからですよ。

436京都乃鬼:2009/03/22(日) 15:52:50 ID:bLRjw1dY0
岩隈選手は大活躍した!
しかし・・・

沖浦克治さんは何回も、大事なスキーの大会で旗門不通過でした。

これは無意味ですかね。
順位さえ付かない「行動」は。
アナタの論ならば・・・創価じゃないからですか?(鬼クスクス)

437沖浦克治:2009/03/22(日) 16:47:12 ID:AJ3hr85o0
 京都の鬼さん

 私はね、たいしたレーサーじゃないですよ。
 でもね、全日本マスターズ選手権では二年連続入賞しております。
 マスターズ仲間ではトップレーサーとして認知されているんですよ。
 順位さえ付かないレース。
 敗北ですね。
 でもね、ある球聖と呼ばれた野球選手が引退の時に言った言葉です。

 私は数々の賞をもらった。
 だが誇りはそれではない。
 数限りないスランプに落ち、その度にそこから這い上がったことだ。

 わかりますか?
 世間の超一流は心に創価を保っているんですよ。
 自然にそうなるんです。
 いけないのは貴方のように他人の失敗を喜びあげつらう事なんですよ。
 創価の信心ではないですね。

438沖浦克治:2009/03/22(日) 16:54:58 ID:AJ3hr85o0
 京都さん

 私の旗門不通過を喜んでいる貴方は迹。

 よしチャンスが来た、今のうちに自分が何かで勝って私以上にアスリートをして有名になってやる。と、貴方が思い行動に移せば本。

 覚えておきましょうね。

439京都乃鬼:2009/03/22(日) 17:06:08 ID:bLRjw1dY0
ワシがキミの旗門不通過を喜んでいる?
そう捉えるキミの境涯が低い、ということや。

沖浦クン。
負けた言い訳はエエんや。
まずは旗門を通過した「実証」を示してから御託をのべなさい。
それが沖浦教の教えではなかったのか?

そうワシはキミに問うているんや。
「順位さえ付かない行動は無意味」(沖浦趣意)

話をそらすなよな!

440東空:2009/04/20(月) 21:42:55 ID:ZPjW1MZ.0
沖浦克治さん、こんばんは。
本迹に関する沖浦さんの書き込みが、気になりました。

よくあるたとえに、水面に映る月(迹門)と空の月(本門)ですが、(水面に映る月は仮の姿ですね)

一つの事象や事柄に対して、本質を探り(はたして、どちらが本物の月か?)明確にするために「本」と「迹」に立て分けるのに
用いるのが妥当と思います。

レストランでウィンドウケースに、見本として陳列されている作り物「蝋細工?」の食品(迹)があります
店に入り注文すると、調理された食べ物(本)が出てきます。
これが「本によって迹をたれ、迹によって本を顕す」ということになります。

>>19 人が本。 仏が迹。*
と、本迹の関係にあるわけではないと思います。
沖浦さんは、本迹の使い方に誤りがあると思います。

441東空:2009/04/20(月) 21:48:38 ID:ZPjW1MZ.0
続きです
>>7 沖浦克治 ◆sFO4WcF4K2:2008/11/11(火) 20:57:18 ID:AJ3hr85o0
>梅さん

 >本迹と、勝劣を同じで論じると駄目なんです。
 >勝劣はある意味では絶対的な優劣なんです。
 >本迹は現実主義なんです。

新・人間革命の8巻(宝剣の章)に先生の本迹に関するご指導が載っています。

★引用〜「百六箇抄」の最後の付文である「立つ浪・吹く風・万物に就いて本迹を分け勝劣を弁ず可きなり」
(御書P869)の個所では、伸一はこう語った。
「立つ波、吹く風、いっさいの現象について、本迹、勝劣を立て分けていきなさいという御文です。
つまり、私たちの人生にも、生活にも全部、「本迹」がある。それを、きちっと見極め、
立て分けていかねばならない。〜★引用ここまで

御書および先生の指導と、沖浦さんの発言には、このような違いが見られます。
訂正されたほうが、よろしいかと存じます。

442沖浦克治:2009/04/21(火) 04:56:26 ID:AJ3hr85o0
東空 さん

 訂正いたしません。
 但し、貴方が本迹を私と異なる捉え方をされても、気にはいたしません。

443沖浦克治:2009/04/21(火) 05:48:59 ID:AJ3hr85o0
 本迹もそうですが、一番いけないのは、御書を拝して、

 この御文は絶対にこう言う意味だ!

 この断定なんですね。
 これはダメなんです。
 こうも拝せるのではないか。
 これが正しい学び方ですし、読み方です。
 人間革命の中で戸田先生が御書の拝し方で仰せです。

 眺め人たちはここがわからない。
 人間革命眺めるだけ、御書眺めるだけ。

 本迹の御文があります。

 『迹門方便品は一念三千二乗作仏を説いて爾前二種の失一つを脱れたり、しかりといえどもいまだ発迹顕本せざればまことの一念三千もあらはれず二乗作仏も定まらず、水中の月を見るがごとし根なし草の波の上に浮べるににたり、』
 (開目抄上)

 これを衣文として、本は月そのもの、迹は水に映った月。
 このようにたとえますね。
 では、これはそのまま勝劣か?
 少し違います。
 水に映る月を水に映るものとして認識し、楽しんで観賞するなら、本物の月と勝劣はないですね。
 この場合の勝劣は、どちらの水面がよりよく月を美しく映すか?
 映る月同士の比較対照です。

 本迹を勝劣だと決め付けると間違います。
 
 私は本迹を、利か不利かで捉えます。
 牧口先生の価値論の、利・美・善のうちの、利の部分が最も本迹に近い考えだと思います。
 但し、これは私の意見です。
 他の方が違う考えをお持ちになられる事はご自由です。

444東空:2009/04/21(火) 09:52:52 ID:yI7NZLNw0
沖浦さん、おはようございます

>>443 >本迹もそうですが、一番いけないのは、御書を拝して、
   >この御文は絶対にこう言う意味だ!
  >この断定なんですね。
  >これはダメなんです。

しかしながら、沖浦さんは>>7にて
>本迹と、勝劣を同じで論じると駄目なんです。
と、断定されています。そして
>勝劣はある意味では絶対的な優劣なんです。
と記されていますが、

宗教批判の原理の、本迹相対は、法華経の本門と迹門のことで、比較相対して、
本門が優れる「勝劣」ですね。

「迹門」はインドで仏となった釈迦が、理論上の実相観を述べたもので、理論上の問題を取り扱ったもの、事実上の問題を取り扱っていません。
「本門」は釈迦が永遠の生命観に立って宇宙および、生命の実相を述べたものです。

>>441に引用した先生のご指導も「断定だからダメなんです」と仰られるのでしょうか?

>>443
>水に映る月を水に映るものとして認識し、楽しんで観賞するなら、本物の月と勝劣はないですね。

観賞するという視点においては、水月のほうが美しくみえる場合があるでしょうね。

445雨煽り:2009/04/21(火) 23:18:37 ID:NjA8zkPc0
東空さん

法華経の本門と迹門は、「本門」と「迹門」を「相対」して勝劣がありますから
言われている通りです。が、それは釈迦の「法華経」の「本迹相対」です。
宗教批判として「相対」した、理論立てをすれば勝劣がある。と言うことです。

「相対」等しない、理論立てはできますか?

では、大聖人の「妙法蓮華経」ではどうでしょうかね?

「本迹」とは本門と迹門だけの事ではありませんのはご存知でしたか?

「理と事」及び「理と智」についてもご存知でしょうか?

質問だらけになりました事をお詫び致します。すいません。

446東空:2009/04/22(水) 14:10:20 ID:BWA6azKU0
>>445 雨煽りさんへ

>「相対」等しない、理論立てはできますか?
>では、大聖人の「妙法蓮華経」ではどうでしょうかね?
・妙法蓮華経こそ“本仏”それに対して、釈迦・多宝の二仏は“用の仏”“迹仏”であると仰せられるのであります。「諸法実相抄:池田会長講義」

>「本迹」とは本門と迹門だけの事ではありませんのはご存知でしたか?
・「発迹顕本」仏が垂迹(仮の姿)を開いて本地(本来の境地)を顕すことです。「迹」とは、影、跡の意味です。「御書の世界:第2巻」

>「理と事」及び「理と智」についてもご存知でしょうか?
・「智如如真実の道に乗じて妙覚究竟の理智法界と冥合したる時理を如と名く智は来なり。」 P0409
 
★1質問です。沖浦さんの言われる:人が本。 仏が迹。:という説を、雨煽りさんは同調できますか?
同調できるのでしたら、文証、理証で示してください。文証は文献上の証拠です。理証は文証があるとして、
その文証が科学と矛盾せず、かつ理論としてあらゆる人が納得できるかどうかが重要です。

★2質問です。>>445 「法華経の本門と迹門は、「本門」と「迹門」を「相対」して勝劣がありますから
言われている通りです。が、それは釈迦の「法華経」の「本迹相対」です。宗教批判として「相対」した、理論立てをすれば勝劣がある。と言うことです。」

と、雨煽りさんは述べられておりますが、雨煽りさんの発言は「勝劣」を用いるのは、
釈迦の「法華経」の「本迹相対」だけに限る、というように見受けられますが、それですと
私が>>441に引用した文
〜引用:伸一はこう語った。「立つ波、吹く風、いっさいの現象について、本迹、勝劣を立て分けていきなさいという御文です。:〜引用ここまで

この引用で示した先生の、ご指導は間違いだと仰るのでしょうか?そしてその根拠は何でしょうか?

447ソウイチ:2009/04/22(水) 14:34:42 ID:qZp.bdpw0
東空さんはモヤシさんですか?

448東空:2009/04/22(水) 14:58:11 ID:BWA6azKU0
>>447 ソウイチさんへ
モヤシさん、という方は、このスレッドに書き込みされている「もやしの旦那」さんのことでしょうか
いいえ、違います。
掲示板管理者の方に、アクセス地域やホストをお尋ねになられれば、別人ということがわかります

449備前:2009/04/22(水) 16:12:06 ID:CTtMwhXY0
 >>446
   初めまして、東空さん

せっかくの雨煽り氏との討論に水を差す様で悪いのですが

少々お尋ねいたします。

 >〜引用:伸一はこう語った。「立つ波、吹く風、いっさいの現象に
 >ついて、本迹、勝劣を立て分けていきなさいという御文です。:
 >〜引用ここまで

ここでは「本迹、勝劣」であって「本迹勝劣」ではありませんよね

「本迹」と「勝劣」の間にある「、」は、いかなる意味を持つもなのでしょうか?

私は、単に読みやすいようにと使用されたものではないと思います。

重箱の隅を突く様で申し訳ありませんが(^^; 、その辺りいかがお考えでしょうか?

450東空:2009/04/22(水) 17:46:40 ID:pqsJ0MTI0
>>449 備前さん、はじめまして

>「本迹」と「勝劣」の間にある「、」は、いかなる意味を持つもなのでしょうか?


「、」は(読点)とうてん  「・」は(中点)なかてん

文の中で、語句の切れ目や、自然の息継ぎで間を取る場合などに使用する符号 、(読点)で

文の中で、語と語の区切りを明らかにするために使用する符号は ・(中点)です。

例>美・利・善

「新・人間革命」の文中においても、語と語の区切りを要する場合 ・(中点)が随所に用いられています。


>私は、単に読みやすいようにと使用されたものではないと思います。

「・」(中点)が使用されれば、そうかもしれません。

451日々朗らか(大勝利):2009/04/22(水) 19:42:59 ID:8FNX.yWoO
『、』は区切り。
『・』は同一(一体)。

を意味すると私は思います。

452ソウイチ:2009/04/22(水) 22:18:46 ID:qZp.bdpw0
東空さん。
もやしさんは以前引越しすると書きました。
ホストもアクセス地域も変わります。
東なんとかさんも多くのアドレスを持っていました。
貴方が最初に登場したときから疑いを持っていました。
もやしさんも最初沖浦さんの味方で登場し敵になりました。
貴方にも全く同じものを感じます。
今後の書き込みを注目しております。

453雨煽り:2009/04/23(木) 00:23:56 ID:NjA8zkPc0
東空さん

>>446 のレスを見る限りでは、
私との会話が成り立っていませんが…

「理論立て」並びに「立て分け」が出来無い。もしくは、知らない。
と、解釈して宜しいのでしょうか?

私の勘違いでしたらお詫び致します。

454東空:2009/04/23(木) 00:43:38 ID:pqsJ0MTI0
>>452 ソウイチさん
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/9645/1218983234/114
5月から区営住宅の公募が行われます、それに当選しなければ、私は引越しが出来ません

私に対する疑いや感じ方は貴方の自由です。最初はこの掲示板の「貴方の夢を語るスレッドですよ」に惹かれました。
それで書き込みに参加したのですが、「本迹に関して対話するスレッド」での沖浦さんの主張には納得がいかない、という事です。

455東空:2009/04/23(木) 00:49:49 ID:pqsJ0MTI0
>>453 雨煽りさん
寝ますので、また今度です、おやすみなさい。

456ソウイチ:2009/04/23(木) 07:21:54 ID:qZp.bdpw0
東空さん、5月の都営住宅は言い訳にならないでしょう。
もやしさんが引越しをするといったのは一年も前です。
都営住宅の5月はおかしいです。
あちらこちらの掲示板に貴方の意見が貼られて沖浦さん攻撃の材料になっています。
もやしさんとそっくりです。
本迹がわからないなら違う聞き方をするはずです。
ものすごく怪しいと思います。

457備前:2009/04/23(木) 10:30:31 ID:CTtMwhXY0
 >>450
   おはようございます、東空さん

その様に割り切った使い方ばかりではないと思いますが

 >ついて、本迹、勝劣を立て分けていきなさいという御文です。:

私は、「本迹や勝劣を立て分けていきなさいという御文です。:」と

捉えておりますが

貴兄は、「本迹の勝劣を立て分けていきなさいという御文です。:」と

捉えてみえられるのでしょうか?

458東空:2009/04/23(木) 10:32:31 ID:GRLqWMfk0
>>456 ソウイチさん

>都営住宅の5月はおかしいです。
私は「区営住宅」と言っています。

>もやしさんとそっくりです。
今、もやしさんが参加している掲示板に、私が書き込みをすれば、アクセスとホストの違いが明確にわかる事です
今は、もやしさんは、どこの掲示板に参加されているのでしょうか?

459東空:2009/04/23(木) 10:42:07 ID:GRLqWMfk0
>>453 雨煽りさん おはようございます
>>446で回答がひとつ抜けていましたね、申し訳ありません

>「相対」等しない、理論立てはできますか?
* 人が本。 仏が迹。*という「相対」はしません。本迹相対は「一つの事象や事柄」を立て分けることにあります

例:人が本。鏡に映したその人の姿は迹。 「人」を「立て分けて」いるので「相対」になります

例:人が本。鏡が迹。 これだけでは二つの異なるものを並べただけで「相対」しません。

本迹相対の立て分けは、どちらが優れているかの「勝劣」またどちらが「尊い」かですね。

>>457
>貴兄は、「本迹の勝劣を立て分けていきなさいという御文です。:」と捉えてみえられるのでしょうか?
そうです。宗教批判の原理の、本迹相対でも同じ事です

雨煽りさんへ質問した>>446 の回答をお待ちしております。

460日々朗らか(大勝利):2009/04/23(木) 11:40:36 ID:8FNX.yWoO
>>456
ソウイチさん。そのようなツッコミは、【今の所】不要かと思いますよ。
東空は東空さん。

それで言いのではないでしょうか。
いかなる人でもまず目の前の人(モニターの向こう側の)を信じる。
これがネットでの大前提です。

議論も盛り上がってきているようですし……。

461備前:2009/04/23(木) 12:55:02 ID:CTtMwhXY0
 >>459
   こんにちは

 >>貴兄は、「本迹の勝劣を立て分けていきなさいという御文です。:」と捉えてみえられるのでしょうか?
 >そうです。宗教批判の原理の、本迹相対でも同じ事です

なるほど、私と貴兄に捉え方に相違がある訳ですね

ならば、貴兄の >>441 の発言での

 >御書および先生の指導と、沖浦さんの発言には、このような違いが見られます。
 >訂正されたほうが、よろしいかと存じます。

この部分は訂正された方が良いのではないでしょうか

 それに「本迹」に配するのは別に法華経二十八品だけだではありませんよ

「本:日蓮仏法・迹:釈尊仏法」に配される時もありますし

何処の掲示板で読んだかは、忘れたのですが先生の指導(?)で

「学生は勉強している時が本、遊んでいる時が迹」と云われていると

何方かが書き込まれていたと記憶しております。

462東空:2009/04/23(木) 17:18:16 ID:QvnWkSMU0
>>461 備前さん こんばんは

>それに「本迹」に配するのは別に法華経二十八品だけだではありませんよ

>>441 で池田先生の指導を引用して載せています
★引用〜私たちの人生にも、生活にも全部、「本迹」がある。それを、きちっと見極め、
立て分けていかねばならない。〜★引用ここまで
このように、先生のご指導は「法華経二十八品だけ」ではありません。


>私と貴兄に捉え方に相違がある訳ですね
>ならば、貴兄の >>441 の発言での
>>御書および先生の指導と、沖浦さんの発言には、このような違いが見られます。
>>訂正されたほうが、よろしいかと存じます。
>この部分は訂正された方が良いのではないでしょうか

あなたと私に、本迹の捉え方に相違があるから、訂正された方が良い、
というだけの発言では、何の説得力もありません。

備前さん、* 人が本。 仏が迹。*という捉え方はなぜ正しいのでしょう?
文証(文献上の証拠)と、理証(あらゆる人が納得できる理論)で説明して下さい。

納得がいきましたら訂正いたします。

463雨煽り:2009/04/23(木) 22:12:58 ID:NjA8zkPc0
東空さん

あのぅ…引用貼り付けの後に何か言葉(説明とか)を入れてもらわないと、
その貼り付けだけでは東空さんの言われたい事を判断できませんので、会話が成り立たないと申しました。

「相対」等しない立て分けも理論立てできる。ということでよろしいですか?

釈迦の法華経ではなく、大聖人の妙法蓮華経に限定して説明致します。
私達にとっては大聖人の仏法こそが、その全ての筈ですからね。

迹門理の一念三千・迹門不変真如の理
本門事の一念三千・本門随縁真如の智
「理と事」「理と智」の立て分けですが、ここには勝劣や優劣はありません。
と、一応述べておきます。
厳密に言うと、勝劣はあるのですよ。しかし、立て分けによって変わってしまうので無いと言う事にしておきます。

事は本門、理は迹門ですね。事と智は同義です。
五重玄はご存知ですか?
「体」で述べますと、御本尊のことですね。
「宇宙根源の法・久遠元初の南無妙法蓮華経」が不変真如です。つまり迹門です。
大聖人の『たましいをすみにそめながして』の漫荼羅本尊が随縁真如です。本門です。

「用」で述べますと、衆生を成仏させる働き、功能です。
衆生が主体で、衆生から見て、御本尊が理になります。不変真如で迹門になります。
御本尊に自行化他の題目を唱えて成仏する当体、衆生が随縁真如です。事の一念三千です。本門です。

御本尊が立て分けによって、「本」になったり「迹」になったりします。衆生も同じです。
本迹に実質的な勝劣があると思いますか? 立て分けだけの問題でしかないと思われます。

巷で行われている論争は、立て分けの違う事を同じに論じているだけでしょう。
私の考えは、「どっちが本でもどっちが迹でも、どっちでもいい。どっちにしたって私達の信心が変わる訳ではありませんからね。」
と言う事です。
ただし、間違っていない義を間違ってると言う事は謗法ではないですかね。

最後になりましたが、文証をのせておきます。
日蓮大聖人御書講義 第七巻
当体義抄301ページ
『また、御本尊とわれわれとの関係として不変真如、随縁真如を論ずれば、先の真諦と俗諦の説明と同じになる。すなわち、大御本尊それ自体は「是の法法位に住した」お姿であり、不変真如の理である。それを、さらに御本尊を根底に信心を開き、人々の生活の上に、現実に智慧となり、大生命力となって涌現してくることを「世間の相常住」というのである。』
分り難いかもしれませんが、書籍をお持ちでしたら、前ページから読んでみて下さいね。

464ソウイチ:2009/04/24(金) 08:18:31 ID:qZp.bdpw0
東空さんと日々朗らか(大勝利)さん。
わかりました。
ロムに戻ります。
おかしくなったら又書きます。

465日々朗らか(大勝利):2009/04/24(金) 15:14:04 ID:8FNX.yWoO
>>464
ソウイチさん。見守ってください。
おかしくなったら、飛び込んで来てください。

466東空:2009/04/24(金) 17:02:27 ID:HGHiETdc0
>>463
雨煽りさん

>あのぅ…引用貼り付けの後に何か言葉(説明とか)を入れてもらわないと
>東空さんの言われたい事を判断できませんので

私の言葉は、先生の指導に同調すると言う事です。同調しているのですから、私見をはさむ余地はありません。
あえて言いますと「この引用文に私は同調しております」でしょうね。

>「相対」等しない立て分けも理論立てできる。ということでよろしいですか?

>>445では >「相対」等しない、理論立てはできますか?
と質問されています。「立て分け」という言葉はありません。
「本迹相対せずに立て分けができるという理論は成り立つか?」という意味の質問なのでしょうか??
それなら、一つの事象を立て分けて相対するので、立て分けなければ相対しようがないので理論立ては出来きないでしょう

簡単に言えば、事は行為で、理は言葉でしょう。

五重玄は二種有ります。・仏意の五重玄 ・機情の五重玄

>最後になりましたが、文証をのせておきます。
*人が本  仏が迹* という「人と仏」の本迹相対としての、立て分けの説明にはなっていませんね。
「帰というは迹門不変真如の理に帰するなり、命とは、本門随縁真如の智に命(もとづ)くなり、帰命とは南無妙法蓮華経是なり」(御書P708)

最後になりましたが御書の御文です
「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云。」(御書P760)

467東空:2009/04/25(土) 01:12:38 ID:vv8c7urA0
>>http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/9645/1225794198/641
日々朗らか(大勝利)さん

>そもそも『仏本人迹論』を唱える日顕宗の【対義する語】として出た言葉だと思いますね。

創価学会版の御書にあります


下種寂照・実事・体用無上の本迹
「生仏一如の事の上の本覚の寂照なり人は迹・仏は本なり云云。」(御書P867)

下種十界互具の本迹
「唱え奉る妙法・仏界は本・唱うる我等九界は迹なり、妙覚より理即の凡夫までなり、実の十界互具の勝劣とは是なり。」(同P868)

「自分自身が妙法の当体」は正しいです。だからこそ、わかりにくいのです。
「本迹相対」は理解しにくいと思います。五重の相対で言えば「同じ釈迦の法華経の中での相対」だからでしょうね。

*人が本 仏が迹* は、御本尊、軽視の愚を犯すことです。 


「法に依つて人に依らざれ義に依つて語に依らざれ知に依つて識に依らざれ了義経に依つて不了義経に依らざれ」(同P544)

(創価学会教学部の解説です)「仏の説いた経文によるべきであって、人師・論師によってはならない。常住不変の仏の実義に
よるべきであって、人師・論師の言葉によってはならない。
仏の智慧によるべきであって、人師・論師等の浅識(浅い知識)によってはならない。了義経(仏の真実の教え)に
よるべきであって、不了義経(方便の教え)によって法を説いてはならない」(涅槃経)

468東空:2009/04/25(土) 01:30:55 ID:vv8c7urA0
まことに勝手ながら、この掲示板から撤退させていただきます。
短い間でしたが、ありがとうございました

469日々朗らか(大勝利):2009/04/25(土) 04:29:38 ID:8FNX.yWoO
東空さん。
続けてください。
『本迹、勝劣』『本迹・勝劣』、学ばせてください。

せっかく有意義な議論ができているなあ。と思っておりました。
雨煽りさんも寂しがると思います。
また機会があれば、宜しくお願いいたしますm(__)m。

470雨煽り:2009/04/25(土) 08:07:07 ID:NjA8zkPc0
東空さん

なぜ撤退されるのですか?
まぁご自由ですが…


理解されたくなければされないのは結構ですが
理解された方が良いと思いますよ。
観念の遊戯では無く現実なのですからね。
『はたらかさず・つくろわず・もとの儘』なのです。元初から永劫までね。
拘る理由が何かありますかね。
本迹未分なものを、あえて本迹に立て分けた理論立てを
「どっちが本だ、どっちが迹だ」なんて、さも、重大そうに論議している。
その実は「衆生(自分?)から見て」「仏から見て」「信仰の姿勢」等を
混同しての議論しているだけのことではないでしょうか。
各々の論それ自体は間違ってはいませんが、間違いではないことを間違いだという事が間違いです。
中道ですからね。全て必要だと思われます。

日蓮大聖人を御本仏として信仰しているのですから、法華経や釈迦仏法がどうであれ
大聖人の言われた儘を信じますし、
同じように、学会員なのですから創価学会や池田先生の指導を信じます。
それが道理なのではないでしょうか。

>「相対」等しない理論立てはできますか?

は、私からの単なる質問ですが

>「相対」等しない立て分けも理論立てできる。ということでよろしいですか?

は、東空さんのレスを読んで私が思ったことです。
言葉は似ているが意味は違います。間にレスの存在がありますからね。

東空さんの言われる「同調」も、私の考えるものとは違っていると感じます。
極端に自分の言葉が少ない東空さんのレスを私が解釈をすると、
東空さんの真意とは違って来ると思います。

故に、会話は成り立たない。と言う事です。

結局東空さんの真意が私には解りませんでしたが、
お元気で…

471雨煽り:2009/04/25(土) 08:24:06 ID:NjA8zkPc0
坊主の説法を思い出しました。

「欝頭羅弗とはならじ。これをよく考えてもらいたい。」

よく考えてもらいたいって…おぃおぃお前が教えてくれるんじゃないのかぃ…
って、余談でした。m(__)m

472雨煽り:2009/04/25(土) 09:15:52 ID:NjA8zkPc0
解釈の違いが色々あります。

「人」は何を指すのでしょう
「仏」は何を指すのでしょう
「衆生」は何を指すのでしょう
「凡夫」は何を指すのでしょう
「体」とは…
「用」とは…
「総」とは…
「別」とは…


「妙法蓮華経」ですから「差別なし」です。
『総じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身は末法の法華経の行者なり』
『日蓮の弟子檀那』が『法華経の行者』で『如来』なのです。

473ソウイチ:2009/04/25(土) 11:39:16 ID:qZp.bdpw0
やはりそうだった。
あの人が言いたいこと。
>*人が本 仏が迹* は、御本尊、軽視の愚を犯すことです。 
これを言うためにあれだけの自己紹介までやったんです。
おかしいと思っていました。

474ソウイチ:2009/04/25(土) 21:07:42 ID:qZp.bdpw0
人間よりも本尊が優れる宗教に魅力を感じません。
宗教は人間のためにあるのです。
この大原則を外して宗教に意味がありますか?

475雨煽り:2009/04/26(日) 00:09:40 ID:NjA8zkPc0
えっと…

私の論も、東空さんの論も、沖浦さんの論も、表現等の違いはあれ、核心は、あまり違いはありません。が、
沖浦さんの表現だけを見ると、理解出来ない(したくない?)人からは誤解されるかも知れないところがあります。

しかし沖浦さんは、けっして御本尊を軽視している訳ではありません。
家では御本尊に向かって唱題するのですからね。
御本尊の無いところで唱題するのに、御本尊があっても無くても変わらない。と言われているのです。

それと、「用」の部分を強調しているだけです。例えば
「仏とは信心をしている貴方のことです。御本仏と雖も貴方を仏にする為の存在なのです。」
と言うように、主体を「人」にして、論じておられるだけです。
それは正論でしょう。

理解出来ない人がいるだけだと思います。

『一大秘宝義』『本迹論』については正論ですからね。

476雨煽り:2009/04/27(月) 01:52:33 ID:NjA8zkPc0
大事なことは

本迹未分な自性を、
機情に随って、
敢えて立て分けた。
というところです。

な〜んて、書いたって…
解らない人には、全く解らないでしょうね。

東空さんなら解るかも…ね。

477沖浦克治:2009/04/27(月) 05:43:29 ID:AJ3hr85o0
 東空さん

 またおいでなさいね。
 仏が迹が曼荼羅軽視?
 完全な間違いです。
 仏法の基本知識に欠けますね。
 
 仏法は人のための法です。
 人が仏法のためにあるのではないのです。
 これが創価思想の大原則です。
 大聖人様のご精神です。

 この点を先ず認識すべきですね。
 人のための法ならば、人は主体、法は従です。
 AのためのBは、文法上Aが本で主、Bが迹で従。
 これが当然の解釈です。
 ですから、法と人、どちらがどちらのためにあるか?
 これが理解できれば後は極めて単純明快なんですよ。
 人は迹だ。
 この人たちは仏法に無知です。
 人のために説かれる法が仏法ですから、この解釈は完全な誤りで邪義ですよ。
 そして、お曼荼羅も仏も一切は仏法の中に含まれて存在しています。
 ですから、お曼荼羅も仏も迹で従です。
 人は本です。
 この点をよく弁えてから御書を学びましょう。
 貴方があげた文証、

 「生仏一如の事の上の本覚の寂照なり人は迹・仏は本なり云云。」(御書P867)

 人としての姿が迹で、本来は仏だよ。だから衆生は仮に人間の姿をしているが本地は仏なんだよ。
 このように読めばいいと思います。
 仮に人間の姿です。
 方便で死んだり生まれたりするでしょう。
 この世はね、仮の姿なんですよ。
 ですから、方便で死にますね。
 するともう人間じゃないです。
 人では無くなるのです。
 でもね、命はそのままで仏なんです。
 生死ともに仏です。

 『いきてをはしき時は生の仏今は死の仏生死ともに仏なり、即身成仏と申す大事の法門これなり、法華経の第四に云く、「若し能く持つこと有れば即ち仏身を持つなり」云云。』
 (上野殿後家尼御返事)

 ほらね、このように仰せです。
 簡単な事を複雑にしてしまってはダメですよ。

478雨煽り:2009/04/28(火) 00:19:13 ID:NjA8zkPc0
「本」が「勝」で
「迹」が「劣」ですが…

釈迦の法華経の本門と迹門には「法」の勝劣と「機情」の勝劣があります。
もちろん、本門が「勝」です。

日蓮大聖人の妙法蓮華経には「機情」の勝劣はありません。
本迹とは事理です。

「本」が「事」で
「迹」が「理」です。

「事」とは「事実の上」「現実」ということです。
「理」とは「法」「理屈」等です。

御本尊を例えると…
久遠元初の法が「理」で、曼陀羅本尊が草木成仏の「事」です。

衆生を例えると…
御本尊が「法」・「理」で、自行化他の題目を上げて成仏して行く我々が「事」です。

勝劣では、どこまでも現実が「事」で「勝」だということです。

ですが、大聖人の妙法蓮華経は、釈迦の法華経のような本門・迹門はありません。
本有の本迹で、『はたらかさず・つくろわず・もとの儘』なのです。

479雨煽り:2009/06/05(金) 07:04:25 ID:NjA8zkPc0
>>463
で書き込んだ御書講義録ですが、
理解出来ない人が多いようですので、もう少し補足します。

前々ページに
『法華経に云く「是の法は法位に住して世間の相常住なり」云云』
の文についての講義が書かれています。
その13行目に
『御義口伝巻下に(中略)「是法住法位」を真諦、迹門、「世間相常住」を俗諦、本門と配当した次の文を示されている。』
と、あり、次ページに

真諦     俗諦
是法住法位  世間相常住
迹門     本門

と書かれています。

「是の法法位に住して」が真諦で不変真如で迹門です。
「世間の相常住なり」が俗諦で随縁真如で本門です。

御本尊が真諦で不変真如の理で迹門になり、
題目を唱える我々が俗諦で随縁真如の智で本門になります。

事と理ですが、この事理の認識が理解し難いのだと思います。
例えば…
他人が沢山儲けて、その家にどれだけお金があるのかを、いくら数えても、自分は全く裕福になどなりません。
儲かる方法を教えてもらって、実践し、自分が儲かって初めて自分が裕福になるのです。
と、こんなような話が確か戸田先生の指導にもあったと思います。(よく憶えていませんが)

他人事は、たとえそれがどんなに優れていたとしても、単なる理でしかありません。
自分が実践して初めて自分の現実になり、事になります。

大聖人が末法での成仏の法を示され、御自身をもって成仏の姿を現されました。
が、しかし、それだけでしたら、自分にとっては単なる理屈、理論、方法です。理にしかなりません。
自分が信仰して、実践して、初めて事になります。現実です。

池田先生が仏法を現代に約し、解釈してスピーチして下さいますが、それだけでしたら単なる理です。
それを指導として、人間革命していって、初めて、事です。

自分の家に御本尊があるからといって、成仏などしませんよね。
それがどんなに素晴らしい力のある御本尊であったとしても、それだけでしたら、成仏はできません。
自行化他の題目を唱えて、初めて成仏できるのです。
題目をあげて、己心の九界を仏界へと開くのが、事の一念三千です。
事の一念三千は任用の前に教えられてる筈ですね。

事が本門で、理が迹門です。

480雨煽り:2009/06/07(日) 04:58:22 ID:NjA8zkPc0
ある一事象を見る為に、本迹と立て分けるのですが、
立て分けた本迹に勝劣はあっても、立て分けられる゛そのもの゛に勝劣がある訳ではないのです。
『差別なし』ですからね。

衆生が成仏する。という用を見る為に、衆生を本として、成仏させる働きの仏を迹として、本迹を立て分けます。
本迹ですから、自ずから勝劣が生じてきますが、あくまでも、本と立て迹と立てたところに勝劣がある訳で、
衆生そのもの、仏そのものに勝劣がある訳ではないのです。『差別なし』ですから。

もちろんそれは仏を本と立てても同じです。『差別なし』です。
衆生と仏に勝劣などありません。

ところが、釈迦の法華経の本門と迹門には゛そのもの゛に勝劣があります。
法の勝劣と機情の勝劣です。
故に、釈迦の法華経では、本迹相対が勝劣として成り立つのです。

大聖人の『妙法蓮華経』は、『本迹殊なりと雖も不思議一』で『事理倶勝』です。
そして『差別なし』です。
一事象として、何を見るか、何を主体として考えるかで本迹に相当するものは変わりますが、
変わったところで、『差別なし』は不変です。

勝劣に拘る人の心には、差別があるんじゃないですか?
仏法は内道と言われるように己心の問題ですからね。己心が自分にとっての本です。

481備前:2009/06/07(日) 16:33:49 ID:CTtMwhXY0
 こんにちは、雨煽りさん

 >勝劣に拘る人の心には、差別があるんじゃないですか?

有るのか無いのかは、解かりませんが

私が相手してもらった方々の大半は「本迹=勝劣」の単純化された思考が

底辺にある故「衆生己心の妙法が本・御本尊が迹」が気にくわないと言うのが

現状かと思います。

そしてまた、「衆生己心の妙法が本・御本尊が迹」も一つの立場・見方とは

捉えず、御本尊と衆生の関係の全て思っている所に一因があると

思います。

もっとも「衆生己心の妙法が本・御本尊が迹」を、うまく利用して

立ち回っている御方も見えられるようですし(笑

いやぁ〜、ネットって複雑怪奇ですわ(爆

482粛々坊:2009/06/07(日) 21:34:43 ID:VUuZ458.0
>>481
備前君はオアシスがお似合いだよ。君は教学云云あと20年(未活のぶん)早いようだ。

これだけいっておこう。「本迹」と「本末究竟等」の違い分かるかな?。

483沖浦克治:2009/06/07(日) 23:01:34 ID:AJ3hr85o0
 粛々坊さん

 貴方百年はやい!

 引っ込んでなさい。

484沖浦克治:2009/06/07(日) 23:22:25 ID:AJ3hr85o0
 粛々坊さん

 もう一度レベルの低い揶揄入れたら、長期アク禁ですよ。

 注意してくださいね。

485雨煽り:2009/06/08(月) 00:06:47 ID:NjA8zkPc0
>>481
備前さん

よくある「驕慢だぁ〜謗法だぁ〜」と、のたまう禿人達と同義主張の人達ですね。
ほぉ〜んと、困ったちゃんです。
雨も降ってないのに紅い傘でも差して歩いてるのかも、しかも他人に持たせて…なぁ〜んて(笑)

長年「差別義」の中にいると『如蓮華在水』を忘れてしまって
七識に「仏は上」って組み込まれているのかも知れませんね。

御書には明確に『差別なし』と書いてあるのにね。

486雨煽り:2009/06/08(月) 00:26:35 ID:NjA8zkPc0
>>482
粛々坊さん

他人に質問するより、自分の理解を深めた方が良いと思います。
そんな質問をされているところを見ると、理解が浅いのだと見受けられます。
もう一段深く理解されると真実が見えてくるかも…ヒント『父子』

そんなことより、粛々坊さんが書き込まれると言われていた
『一大秘法義』(でしたよね?)早く書き込んで下さいね。

書き込まれるのを待っているんですから。

487粛々坊:2009/06/08(月) 00:56:39 ID:VUuZ458.0
>>486
一大秘法?あくまで「本門の本尊」ですね。法華経(題目)は御本尊にすべて集約されています。

それよりもなぜ「本末究竟等」と書くとアク禁なんですか?沖さん。

488粛々坊:2009/06/08(月) 00:59:35 ID:VUuZ458.0
>>486
雨煽りさんはぜひ粛板でお待ち申し上げます。

再度、徹底的に教義の検証をしたいと思います。論客揃いですよ(笑)。

489雨煽り:2009/06/08(月) 02:15:55 ID:NjA8zkPc0
>>488
粛々坊さん

何の事ですか?
何の脈絡も無く

>お待ち申し上げます。

と言われてもねぇ〜・・・・・・・
脈絡の無いところが、まるでテラオさんのようです(笑)

490雨煽り:2009/06/08(月) 02:23:58 ID:NjA8zkPc0
>>487
粛々坊さん

書き込むと言われていた事が、

たったそれだけの文章だったのですか?

・・・・・・・・・・

ナァ〜ンダ・・・・・ オヤスミィ〜

491雨煽り:2009/06/08(月) 02:34:31 ID:NjA8zkPc0
あっ、そうそう…

>>487
文証出してね。

モォイチド・・・・・ オヤスミィ〜

492沖浦克治:2009/06/08(月) 08:49:28 ID:AJ3hr85o0
 粛々坊さん
 
 本末云云えは無関係です。
 自分は知っている、お前達は知らない。
 示唆するだけの無責任がアク禁対象です。
 貴方は私に以前、創価の師弟は云云と言いましたね。

 では、宿題です。
 貴方は、創価の師弟について自分の主張お書きなさい。
 それと、本迹と、本末究竟等の違いについて論じなさい。

 この二つのテーマを終了して後、他の話題を語ることを認めます。
 それ以外を書けば、長期アク禁になります。
 ではどうぞ。

493粛々坊:2009/06/08(月) 09:47:00 ID:VUuZ458.0
それでは簡潔に行きましょうか。

仏教哲学大辞典 第三巻 368ページ



師弟不二・(二)師弟不二を明かされた御文⑫



「方便品にある『本末究竟等』の文。師匠は本であり、弟子は末である。

師匠は弟子を自分と同じ境涯に引き上げようとし、弟子もまた師匠の一切

を受け継ごうとして仏道修行に励む。これ本末究竟等をめざす師弟の姿、

行動であり、この師匠と弟子の人間対人間の生命の奥底におけるふれあい、

つながりの中に、仏法の血脈は伝わるのである。」(引用終わり)

494粛々坊:2009/06/08(月) 11:00:35 ID:VUuZ458.0
>>493
よって師弟関係は「本迹」ではありません。

以上師弟相対・師弟不二は終わりです。簡潔でしたね(笑)。

495沖浦克治:2009/06/08(月) 13:11:29 ID:AJ3hr85o0
粛々坊さん

 答えになっていません。

 これでアクセスをお断りいたします。

496雨煽り:2009/06/08(月) 16:28:07 ID:NjA8zkPc0
>>493
まるで子供が「山の形は三角だ!」と言っているようなものですね。

大「山は三角じゃないよ。」
子「だって三角じゃん、此処から見てよ。三角じゃん。」
大「そこから見ると三角に見えるだけで、山の形は三角じゃないよ」
子「三角ったら三角!」

自分の浅い知識が、その全体などと思わない方が良いですよ。
全体が見えてくるまで、ひたすら信行学に励むことですね。

497雨煽り:2009/06/21(日) 15:53:40 ID:NjA8zkPc0
そもそも本迹とは…

『言語道断・心行所滅』の『大分真如』である妙体を
機情に随って『証分真如』として説いたものなのです。
迹門の機情には『不変真如の理』を説き、
本門の衆生には『随縁真如の智』を明かしたのです。

釈迦の法華経の本迹には、上記の理由で、事・理の違い、久・近の違いがあり、
それがそのまま、法の勝劣、機情の勝劣になります。

しかし、大聖人の『妙法蓮華経』には機情の勝劣などありませんから
当然、法の勝劣もありません。証分真如を説く必要が無いのです。
随縁も不変も大分真如の説明をするものであって、勝劣を論じるものでは無いのです。
故に、『事理倶勝』と…

法の勝劣が無い。其の上での本迹です。本迹ですから勝劣は生じます。
が、あくまでも大分真如の事理の側面で、言語道断・心行所滅の上の勝劣です。
不可思議の中の勝劣です。本有の本迹です。
故に、『本迹殊なりと雖も不思議一』と…

上記を踏まえて、
仏法は、衆生が本来仏であり、仏と開く為に説かれたものですから
衆生を本と立て、成仏させる働きの仏を迹と立てるのです。

もちろん、仏を本と立て衆生を迹と立てても、
それはそれで仏法を論じているのですから間違いはありません。が、
衆生を本と立て仏を迹と立てる論を「間違い」と言う事が間違っている。と主張しているのです。

仏法の一側面や一考察をもって、その全体だ。などとの解釈は成り立ちません。
様々な側面、様々な立て分けがあり、言語道断・心行所滅なのですからね。


一大秘法義と同じく、こちらも、くれぐれも、
邪義だと言われる人は「衆生が本では無い」「仏が迹では無い」という
文証を上げてくださいね。

499沖浦克治:2009/06/21(日) 23:29:25 ID:AJ3hr85o0
 皆様方に

 以前、法華講関係の板で、衆生が本、仏が迹を私が主張し、仏が本、衆生が迹との立場の法華講員の方々と論議を致しました。
 今、小野さん、マグマグさんなどをはじめとする眺め人の方は、当時の法華講員の方と全く同じ発言をしています。
 明日から、少しアップして見ますので、両者を比較してください。
 眺め人教学は、正宗教学です。
 どうして創価を名乗るのでしょうね?
 不思議です。

500雨煽り:2009/06/22(月) 00:19:57 ID:NjA8zkPc0
>>498
ぜんまいさん

沖浦さんを批判し非難している人達の殆んどがそうですよ。
自分達が教学的に未熟で理解出来ないことを「邪義」と言って憚らないのです。

文証を出しても、その文証に書いてある言葉も理解出来ない程の未熟さですが、
もっと未熟な人からは立派な教学に見えるようです。(笑)

「魔」は確か紛らわしいのでしたよね。
尤もらしいことを書き綴って、さも仏法を知ってますよ。みたいな反論を書きなぐっています。
が、その実は、全く違う立て分けを論じて「衆生が本・仏が迹」を否定しているだけです。

それはそのまま、自分の無知を晒し出している。という事です。
否定する文証など無いのですからね。そんな仏法はありませんから。

501沖浦克治:2009/06/22(月) 07:24:59 ID:AJ3hr85o0
 人が迹、曼荼羅本の未熟さは何処から来るか?
 宗門教学ですね。
 この邪義を作ったのは寛師です。
 観心本尊抄の文段に以下の愚論があります。

>就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり。

 戒壇様が一大秘法だぞ!
 寛師はこれを言うために手間隙かけてますね。
 理由です。
 同じく文段からですよ。

>答う、実に所問の如し。乃ちこれ終窮究竟の極説なり。当に知るべし、智者大師は隋の開皇十四年、御年五十七歳、四月二十六日より止観を始め、一夏にこれを説いて四年後、同十七年、御年六十歳の十一月に御入滅なり。
吾が大聖人は文永十年四月二十五日に当抄を終り、弘安二年、御年五十八歳の十月十二日に戒壇の本尊を顕して四年後の弘安五年、御年六十一歳十月の御入滅なり。
これに三事の不可思議あり。

一には天台大姉は五十七歳にして止観を説き、蓮祖大聖は五十八歳にして戒壇の本尊を顕す。また天台は六十歳御入滅、蓮祖は六十一歳御入滅なり。これ則ち像末の教主の序、豈不思議に非ずや。
 
 天台は57歳で本懐である摩訶止観を説いて、60歳で亡くなった。
 大聖人様は、58歳で戒壇様を顕され、61歳で御入滅なされた。
 であるから、戒壇様こそが一大秘法で出世の御本懐だ。
 一年大聖人様が歳を重ねられたのは、像法に対する末法の順番だからだ。
 これね、こじつけですよ。
 御書の何処にこんな文証ありますか〜?
 だから、人師論師はダメなんです。
 こじ付けで人を惑わす事を、紛然と言います。
 眺め人さんは覚えておきましょうね。

>二には天台は四月二十六日に止観を始め、蓮祖は四月二十五日に当抄を終る。天台は十一月御入滅なり。蓮祖は十月御入滅なり。蓮祖は後に生れたまうと雖も、下種の教主なり。故に義、前に在り。
この故に蓮祖は二十五日応当抄を終り、十月の入滅なり。天台は前に生れたまうと雖も、熟益の教主なり。故に義、後に在り。この故に二十六日に止観を始め、十一月の入滅なり。種熟の序、豈不思議に非ずや。

 これも説明する必要のないほど幼稚ですね。
 こう言う低レベルをさも仏法の大事みたいに囃し立ててきたのが宗門教学です。
 それに踊らされているのが眺め人の方々です。
 相当情けないですね。

>三には天台・蓮祖は同じく入滅四年已前に終窮竟の極説を顕す。寧ろ不思議に非ずや。

 天台は亡くなる4年前に本懐を遂げた。
 だから大聖人様の御本懐は御入滅4年前でしかない。
 これね、相当無理ですよ。
 こう言う場合、どうして弘安2年、10月12日か?
 明確にしないとダメなんです。
 証拠にはなりません。
 弘安2年はね、360日ほどあるんです。
 すると、戒壇様の本懐確立は350分の1ですよ。
 そう言う不確かなものに人生かけますか〜〜??
 ここに橋があって、360回に1回は無事に渡れる強度がある。
 下は千尋の谷底です。
 貴方ね〜〜、渡りますか〜?
 私?
 嫌に決まってますよ。

502沖浦克治:2009/06/22(月) 07:56:04 ID:AJ3hr85o0
 ぜんまいさん、おはようございます
 
 以下眺め人のマグマグさんですよ。
 Fボーからです。

>沖浦克治氏は、三世諸仏の大事、受持即観心の南無妙法蓮華経、即ち「観心の本尊」「本門の本尊」を「迹」であると言いのけ、氏自身のことを「本」であると傲慢にも相対させた。

 先ずこの眺め教学は大間違いですね、前提が過ってます。
 受持即観心は法華経ですね、お題目です。
 曼荼羅じゃないのですよ。
 ところが眺め教学は寛師に騙されて、曼荼羅だと勘違いしてます。
 曼荼羅は迹です。
 当然です。 
 私共の師匠は仰せですよ。
 
 『虚空会の宝塔は衆生己心の妙法を書き写したものだから迹。
 己心の妙法が本体で本。』(趣意)

 曼荼羅は、その虚空会をもう一度書き写したもの。

 『爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり、是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎ(摺形木)たる本尊なり、』
 (日女御前御返事)

 我恋はふりたる経の摺形木絶えまがちにも成りにける哉
(私の恋は、使い込んで磨り減った摺形木の印字みたいに、あの人との逢瀬が途切れ途切れになってしまったなぁ)
 
 摺形木とはね、当時のコピーの事です。
 虚空会の儀式が迹で、それをコピーした曼荼羅が本??
 ありえませんよ。
 
>沖浦氏と違い、雨煽り氏の「人本仏迹」にないものが一つある―――御本尊は迹で道具だとする「道具」の文言だ。が、本質的には同じだ。沖浦、雨煽りの両氏の邪説「人本仏迹」に何の違いもない。マグマグ

 愚論重ねて恥じかいてうれしい??
 真面目に御書読んだらいかが?
 眺め教学楽しい〜???

504沖浦克治:2009/06/22(月) 21:27:01 ID:AJ3hr85o0
 ぜんまいさん、貴方はぜんまい忍者さんですか?
 そうでないなら、自己紹介してくださいね。
 そうなら、ハンネ変更を書き込んでください。

 ご意見はその後にしてください。
 今のところ削除いたします。

505ぜんまい:2009/06/22(月) 21:47:47 ID:MCEII2N20
>>498
では、改めて。雨煽りさん、こんばんは。

>>「衆生が本では無い」
>>これは誰が主張しているのですか?

>沖浦さんを批判し非難している人達の殆んどがそうですよ。

私がロムした限りでは、「衆生が本では無い」とは誰も主張していないと思います。

ただ最近の掲示板の流れが早い為、私が見落とした可能性もあります。「衆生が本では無い」と主張された方の書き込みを

具体的に教えてもらえませんか?

506沖浦克治:2009/06/22(月) 21:54:46 ID:AJ3hr85o0
ぜんまいさん、

 Fボーのマグマグさんです。
 人が迹だと言っていますね。

>簡単に破折すれば、衆生を「本」とすれば、衆生が本体となる。そこへ仏の「用」だけを持って来ても何の役にも立たない。この衆生には十界が互具されていないのか?この衆生には「仏界」が具わっていないのか?一体全体―――成仏させる働きの仏―――とは何を指して言っているのか?

この仏が御本尊のことであるならば、更に不適切な表現となろう。先ず、己心に具わる仏性、仏界を排除することになる。次に、仏の力用を安直に利用していることになる。三つには―――衆生が本来仏であり―――と、氏自身が大前提として書かれていることに矛盾する。本来、仏であるならば、成仏しているのだ。今更、成仏させる働きを他に頼んでどうするのか。前掲の通り、現実にまだ成仏の境涯にないからこそ、大聖人は―――生仏一如の事の上の本覚の寂照なり人は迹・仏は本なり―――と仰せなのではないか?

507沖浦克治:2009/06/22(月) 22:25:38 ID:AJ3hr85o0
 聖地奪回の十字軍は、ヨーロッパでは正義の戦士ですが、イスラムの人々にとっては野蛮極まりない侵略者に過ぎませんでした。

 戒壇様奪回!

 愚の骨頂ですね。
 何の価値も生みません。
 御本尊様に優劣があると思う人で、戒壇様が究竟中の究竟だと信じる人は、サッサト宗門に行くべきです。

 こう言う無駄なことに精力使うより、行動して解決すべきなのです。 
 信教の自由が完全に保障された国に住む意味がありませんね。

508雨煽り:2009/06/23(火) 02:59:55 ID:NjA8zkPc0
>>505
ぜんまいさん

あれっ…
誰もが知ってると思ってましたが、ぜんまいさんは知らなかったのですね。

沖浦さんを批判し避難している人達は殆んどが「衆生(人・己心の妙法)が本・仏(御本尊・大聖人)が迹」と、
「一大秘法題目義」を間違いだ。と言ってます。なかには表現の違う人もおられますが、
教学的にはこの二つです。

私はこの二つを間違いでは無い。と主張しているのですが、
非難している人達の中で理解出来た人は一人もいません。(もしかすると一人だけ理解しつつある人がいるかも)
まぁ、教学未熟な人には理解出来なくて当然ですが…

私がテラオさんと対話してた板の人達もそうですよ。
ただ、反論出来るだけの教学が無くて、直接仏法を出して反論などできず、
他人の尻馬に乗って、反論に同調したレスを書いたりしてます。

日々さんをアク禁にした理由を知っていますか?
「沖浦一派への見せしめ」だそうです。(笑) 
疑義を捏造までしてですよ。

ぜんまいさん、本当に知らなかったのですか。

あっ…
疑ってる訳じゃありませんからね。

509沖浦克治:2009/06/23(火) 07:34:10 ID:AJ3hr85o0
 私は御本尊様を疑ったことは一度もありません。
 だから仏前でお題目を唱えるのです。
 疑っていたらお題目は唱えません。
 私はベース弾きです。
 この楽器今日きちんと音が出るのか?
 このように疑ってはステージングも練習も不可能です。
 同じですよ。
 御本尊様を受持すると言う事が、我が身の仏界を観ることです。
 御本尊様は対境で助縁です。
 本体じゃないのですよ。
 本体は私共の命に本来備わっています。
 面白いと笑いますね。
 漫才見て笑うのは、面白いと言う気持ちが私共に本来備わっているからです。
 無いと笑えません。
 面白い気持ちはね、漫才と言う縁に触れて私共の命から涌現したのです。
 同じなんですよ。

 迹で道具だ。との立て別け。
 なくてもいいですよ、創価を信じるならね。
 ただ、現在の布教のためには、戒壇様本懐論は邪魔なんです。
 世界広布の障害になるんです。
 戒壇様本懐論は寛師です。
 当時は必要でした。
 幕末の攘夷ですよ。
 幕府を倒す口実として強力な武器だったんです。
 新政府が出来たら、邪魔なんです。
 同じですね。
 寛師の時代、邪義が宗門を圧倒してたんです。
 要報寺(この字でしたか?)から100年間法主を派遣してもらった後ですからね。
 で、大石寺の正当性を出すために考え出したものが、たまたま大石寺にあった、戒壇様を蓮祖本懐に祭り上げることでした。
 それで、色々と後付の理屈をつけて戒壇様を荘厳化し、その威力で大石寺の正当化を図ったんです。
 成功したのですね。
 でも、反面、曼荼羅が本である。
 こう言う邪義が付帯して後世に伝わりました。
 創価学会が日蓮正宗時代ならそれでいいんです。
 破門で袂を別ちました。
 すると戒壇様本懐論は創価学会としては困ります。
 だって、戒壇様は日蓮正宗のものですよ、創価学会にはないのですから。
 本懐取られたら道は二つしかありません。

 取り返すか?
 否定するか?

 私は否定するんです。
 元々大嘘なんですから。
 戒壇様が本懐のわけないですよ。
 御書読めば簡単に理解できます。

 今はもう、戒壇様本懐論は邪魔なんです。
 戒壇様本懐論を否定するのは極めて簡単なんです。
 曼荼羅が本、衆生が迹。
 これを覆すといい。
 世界広布のためにはもう少し深くする必要があります。
 それが、本尊は衆生己心の妙法なんだ。
 お曼荼羅はそれを紙に写し取ったもので、衆生が自らの仏界を涌現させるための道具です。
 世界に広めるものは、久遠元初から決まっている、一切衆生が仏の当体であると言う、最大の価値を民衆の心の中に創ることです。
 人間革命の運動の伝播です。
 そのため旗印がお曼荼羅です。
 御書に載っていますよ。 

 私共はね、地涌の菩薩なんでしょう?
 それとも迹化の菩薩ですか?
 本化の菩薩ならね、布教が命です。
 創価を広めたいなら、機根のあった教学を武器として持つ。
 一人で信じんするだけなら、宗門教学で満足する。

 私はね、創価の人間です。
 邪魔されても布教します。

510ぜんまい:2009/06/23(火) 23:08:46 ID:IAhWQBo.0
>>508
雨煽りさん、こんばんは。

>沖浦さんを批判し避難している人達は殆んどが「衆生(人・己心の妙法)が本・仏(御本尊・大聖人)が迹」と、
>「一大秘法題目義」を間違いだ。と言ってます。なかには表現の違う人もおられますが、
>教学的にはこの二つです。

「人が本・仏が迹」と本迹で建て分ける事が間違いであるとは言っていますが、だからといってそれが
=「衆生は本ではない」と主張しているとは違うと思いますが?

私自身教学未熟ですが、自分の目で確かめて考察したいと考えていますので、本迹での建て分けの指摘云々ではなく、
ではなく、明らかに「衆生は本ではない」と主張されている方がいるようでしたら、その方の書き込みを教えて
ください。

511ぜんまい:2009/06/23(火) 23:19:40 ID:JhGoiO1U0
>>510 訂正

>ではなく、明らかに「衆生は本ではない」と主張されている方がいるようでしたら、その方の書き込みを教えて

明らかに「衆生は本ではない」と主張されている方がいるようでしたら、その方の書き込みを教えて

「ではなく、」が2回続いてしまいました。すいませんでした<m(__)m>


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