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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

1避難民のマジレスさん:2020/11/18(水) 21:29:41 ID:Dp/qMVVc0
Sadhana path 修行の道
第1章 ようこそ
私は深い闇に包まれた人間を見ている。彼は暗い夜にランプが消された家のようになっている。彼の中の何かが消えてしまった。しかし消えてしまったランプは再び点火することができる。

私はまた、人間がすべての方向を失っていることが分かる。彼は公海で道を失った船のようになってしまった。彼はどこに行きたいのか、何になりたいのかを忘れてしまった。しかし、忘れられていたことの記憶は、彼の中で再び目覚めさせることができる。

闇はあっても、絶望する理由はない。闇が深ければ深いほど、夜明けは近い。沖合で私は全世界の霊的な再生を見ている。新しい人間が生まれようとしており、私たちはその誕生の苦しみの中にいる。しかし、この再生には私たち一人一人の協力が必要だ。それは、私たちを通して、私たちだけで起こる。私たちはただの見物人でいる余裕はない。私たちは皆、自分自身の中でこの再生の準備をしなければならない。

新しい日が近づいてきて、夜明けを迎えるのは、私たち自身が光で満たされたときだけだ。それは、その可能性を現実に変えるのは私たち次第だ。私たちは皆、明日の建築物のレンガであり、未来の太陽が誕生するための光線なのだ。私たちはただの見物人ではなく、創造者なのだ。しかし、必要なのは未来の創造だけではなく、現在そのものの創造であり、自分自身の創造なのだ。自分自身を創造することによって、人間は人間らしさを創造するのである。個人は社会の構成要素であり、進化も革命も彼を通して起こることができる。あなたはその構成要素だ。

だからこそ、あなたを呼びたい。眠りから目覚めさせたい。あなたの人生が無意味で役に立たない、退屈なものになっているのがわからないだろうか?人生はすべての意味と目的を失っている。
――
これは1964年6月、オショーの初の瞑想キャンプでの講話です。
私が修行の道に入ったのも、何をしても最後には死によって失われてしまうと実感し、せめてその前に真実を知りたいと切望したからでした。
オショーが「記憶は、…目覚めさせることができる」と言っているのは、自我が無いときの記憶という意味なのでしょうか? それとも、何かを象徴していますか?

353避難民のマジレスさん:2022/04/18(月) 02:27:07 ID:ETadziFU0
31.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号32-33)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号53-54)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

○一者行根本方便 謂觀一切法自性無生。離於妄見。不住生死。觀一切法。因緣和合業果不失起於大悲。修諸福徳。攝化衆生不住涅槃以随順法性無住故。

     一には行根本方便。謂はく、一切の法は、自性無生と觀じ、妄見を離れて、生死に住せず。    一切の法、因と緣と和合し、業果失(う)せずと觀じ、大悲を起こし、諸の福徳を修し、衆生を
    攝化(せっけ)して、涅槃に住せず、法性の無住に随順するを以ての故に。。

○二者能止方便 謂慚愧悔過能止一切悪法。不令増長。以随順法性離諸過故

     二には能止(のうし)方便。 謂はく、慚愧悔過(けくわ)して、能く一切の悪法を止(とど)め
    て、増長せしめず。法性の、諸過を離るるに随順するを以ての故に。

○三者發起善根増長方便 謂勸供養禮拝三寶讃歎隋喜勸請諸佛。以愛敬三寶淳厚心故。信得増長。乃能志求無上之道。僧力所護故能消業障善根不退。以随順法性離痴障故。

     三には發起善根(ぜんごん)増長方便。謂はく、勸めて三寶を供養し禮拝(らいはい)し、諸佛 
    を讃歎(さんだん)し隋喜(ずゐき)し勸請(くわんじゃう)し、三寶を愛敬(あいぎゃう)する淳厚 
    (じゅんこう)の心を以ての故に。信は増長することを得(え)、能く無上の道(だう)を志求(し
    ぐ)ず。又佛法僧の力(ちから)に護せらるるに因るが故に、能く業障を消(せう)し、善根退(し 
    りぞ)かず。法性の、痴障を離るるに随順するを以ての故に。

○四者大願平等方便 所謂發願盡於未來化度一切衆生使無有餘皆令究竟無餘涅槃。以随順法性無斷絶故。法性廣大徧一切衆生。平等無二。不念彼此究竟寂滅故

     四には大願平等方便。所謂、發願(ほっぐわん)し、未來を盡くして、一切衆生を化度(けど)
    し、餘(あまり)有ること無からしめて、皆究竟(くきゃう)じて無餘涅槃せしむ。法性(ほっ
    しょう)斷絶無きに随順するを以ての故に。法性廣大にして、一切の衆生に徧して、平等無二 
    なり。彼此(ひし)を念ぜず、究竟寂滅の故に
(´・(ェ)・`)b

354鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/18(月) 23:37:46 ID:1d4drIFg0

 一つ目は行根本方便なのじゃ。

 一切の法は自性無生と観て、妄見を離れて生死の俗世から離れるのじゃ。
 一切の法は因と縁が和合して、業の結果を生みだすと観るのじゃ。
 大慈悲を起こしていろろいな福徳を修めて、衆生を集めて教化して、涅槃にいかないのじゃ。
 法性が無住であることに随っているからなのじゃ。

 二つ目は能止方便なのじゃ。
 
 慙愧悔過して能く一切の悪法を止めて、増長させないからなのじゃ。
 法性がもろもろの過を離れていることに随っているのじゃ。

 三つ目は発起善根増長方便なのじゃ。

 仏と法と僧の三宝を供養し礼拝することに勤めてるのじゃ。
 諸仏を賛嘆し、喜び、教えを請い、三宝を愛敬することが厚い心を持っているからなのじゃ。
 信心が増長して、無上の道を志して求めるのじゃ。
 また仏法僧の力に護られるから、業の障害を消すことができて、善根も進んでいくだけなのじゃ。
 法性が愚痴の障害を離れることに随っているからなのじゃ。

355鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/18(月) 23:43:07 ID:1d4drIFg0

 四つ目は大願平等方便なのじゃ。

 未来の尽きるまで一切衆生を残らず教化して、みんな無余涅槃に導くと発願するからなのじゃ。
 法性が断絶しないことに随っているからなのじゃ。
 
 法性は広大にして、一切衆生にもあまねく満ちて平等で一つであるからなのじゃ。
 自分とか他人とかの観念も無く、究境寂滅であるからなのじゃ。

356避難民のマジレスさん:2022/04/19(火) 15:49:10 ID:64/cpPPY0
32.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号33-34)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号54)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

 菩薩發是心故則得少分見於法身。以見法身故随其願力。能現八種。利益 衆生。所謂從兜率天。退人胎住胎出家成道轉法輸入於涅槃

     菩薩、是の心を發(おこ)すがに、則ち少分に法身を見ることを得。法身を見るを以ての故に、    其の願力に随ひ、能く八種を現じて、衆生を利益す。所謂、兜率天(とそつてん)より、退し、      
    人胎(にったい)・住胎(ぢうたい)し、出家成道して、法輸を轉じ、涅槃に入る。

 然是菩薩未名法身以其過去無量世來有漏之業。未能決斷。随其所生與微苦相應。亦非業繫。以有大願自在力故

     然れども、是の菩薩は、未だ法身(ほっしん)と名づけず。其の過去無量世來(このかた)有漏 
    の業、未だ能く決斷せず、其の所生(しょしゃう)に随って、微苦(みく)と相應す。亦業繫(ご 
    うけ)に非ず。大(だい)願自在力有るを以ての故なり。

 如修多羅中 或説有退堕悪趣者非其實退。但爲初學菩薩未入正位而懈怠者恐怖令彼勇猛故

     修多羅の中(うち)に、或(あるひ)は悪趣に退堕する有りと説く如きは、其の實退に非ず。但 
    (ただ)初學の菩薩、未だ正位に入らずして、懈怠するを、恐怖(くふ)せしめ、彼をして勇猛 
    (ゆうみゃう)ならしめん爲の故なり。

 又是菩薩一發心後遠離怯弱畢竟不畏堕二乘地。若聞無量無邊阿僧祇劫勤苦難行乃得涅槃。亦不怯弱以信知一切怯從本巳來自涅槃故

     又此の菩薩、一たび發心して後は、怯弱(こにゃく)を遠離(をんり)し、畢竟じて二乘地に堕 
    するを畏れず、又無量無邊阿僧祇劫に、勤苦(ごんく)難行して、乃(すなは)ち涅槃を得と聞く 
    も、亦怯弱(こにゃく)ならず。一切の法は、本より巳來(このかた)自(おのずか)ら涅槃なりと 
    信知するを以ての故なり。
(´・(ェ)・`)b

357鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/20(水) 00:07:41 ID:1d4drIFg0

 このような方便を持つことのできる菩薩は、少し法身を見ることができるのじゃ。
 法身を観ることができるから、その願力に従って、八種の如来の生涯のできごとを表して衆生を助けられるのじゃ。
 その八種とは、兜卒天から降りて、胎に入り、胎の中で成長して、生まれて、出家して、悟りを得て、法輪を転じて、涅槃に入るのじゃ。
 
 しかしこのような菩薩もまだ法身とは名づけられないのじゃ。
 その過去の無量の生の有漏の業はまだ断たれておらず、その生まれに従って僅かな苦をうけるのじゃ。
 
 それは業に縛られたからではないのじゃ。
 大願自在法力があるからなのじゃ。

 経典の中に、或いは悪趣に堕ちる者もあると、説いているのは実は堕ちたのではないのじゃ。
 ただ初学の菩薩でまだ、正式な道に入っておらず怠ける者がいるから恐れさせて勇猛にさせるためなのじゃ。

 またこの菩薩は、一度発心して後には怯弱を厭離して、二乗に堕ちることを恐れないのじゃ。
 また無量無辺阿曽祇劫という長年月も実践修行して、涅槃を得ても怯弱ではないのじゃ。
 一切の法はもとよりこのかた、自ら涅槃で在ると信じ、知っているからなのじゃ。

358避難民のマジレスさん:2022/04/20(水) 00:12:28 ID:KBYeStX60
33.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号34)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号55)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

○解行發心者當知轉勝。以是菩薩。從初正信巳來。於第一阿僧祇劫將欲滿故。於眞如法中。深解現前所修離相。

     解行(げぎゃう)發心とは、當(まさ)に知るべし、轉(うた)た勝(しょう)なり。是の菩薩は、 
    初(しょ)の正信(しょうしん)より巳來(このかた)、第一阿僧祇劫に於いて、將(まさ)に滿ぜん
    と欲するを以ても故に、眞如の法中に於て、深解(じんげ)現前して、所修、相を離る。
 
 以知法性體無慳貪故。随順修行檀波羅蜜

     法性の體は、慳貪(けんどん)無しと知るを以ての故に、随順して檀波羅蜜を修行す。

 以知法性無染離五欲過故。随順修行。修行尸羅波羅蜜。    

     法性は染無くして、五欲の過を離ると知るを以ての故に、随順して尸(し)羅波羅蜜を修行す。

 以知法性無垢離瞋悩故随順修行羼提波羅蜜

     法性は苦無く、瞋悩(しんなう)を離(はな)ると知るを以ての故に、随順して羼提(せんだい)
    波羅蜜を修行す。

 以知法性無身心相離懈怠故随順修行。毘黎耶波羅蜜

     法性は身心の相無く、懈怠を離ると知るを以ての故に、随順して毘梨耶(びりや)波羅蜜を修
    行す。

 以知法性常定體無亂故随順修行禪波羅蜜

     法性は常に定にして、體に亂無しと知るを以ての故に、随順して修行禪波羅蜜を修行す。 

 以知法性體明離無明故。随順修行般若波羅蜜

     法性は體明(あきらか)にして、無明を離ると知るを以ての故に、随順して般若波羅蜜を修行  
    す。
 (´・(ェ)・`)b

359鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/20(水) 23:52:53 ID:1d4drIFg0

 解行発心とはとても優れた発心なのじゃ。
 このような発心を持つ菩薩は、初心で正しい信仰を持ち、一あそぎ劫で修行を終えようとするのじゃ。
 それ故に真如の法の中において深く理解して、観念の相を離れるのじゃ。

 法性の本体はけちくさいものではないから、それに随って布施の完成を修行するのじゃ。

 法性は染がないから、五欲の過ちを離れていると知って、それに随って戒の完成を修行するのじゃ。

 法性は苦がなく、怒りや悩みも離れていると知っているから、それに随って忍耐の完成を修行するのじゃ。

 法性は心身の観念がなく、怠けることもないと知っているから、それに随って精進の完成を修行するのじゃ。

 法性は常に定であり、本体に乱れがないと知って、それに随って禅定の完成を修行するのじゃ。

 法性は本体が明らかであり、無明を離れていると知って、それに随って智恵の完成を修行するのじゃ。

360避難民のマジレスさん:2022/04/21(木) 00:11:44 ID:oV2MQ03.0
34.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号34-35)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号55-56)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

○證發心者。從浄心地乃至菩薩究竟地。證何境界。所謂眞如。以依轉識説爲境界。而此證者。無得境界。唯眞如智名爲法身

     證發心とは、浄心地より、乃至菩薩究竟地に至までなり。何の境界を證するや。所謂、眞 
    如なり。轉識に依るを以て、説いて境界と爲す。而も此の證は、境界有ること無し。唯眞如
    智のみ。名づけて法身と爲す。
     
 是菩薩一於念頃。能至十方無餘世界。供養諸佛請轉法輪。唯爲開導利益衆生。不依文字。或示超地。速成正覺。以爲怯弱衆生故。或説我於無量阿僧祇劫。當成佛道以爲懈慢衆生故能示如是無數方便不可思議    

      是の菩薩、一念の頃(あひだ)に於て、能く十方無餘の世界に至って、諸佛を供養し、轉法 
     輪を請(しょう)す。唯(ただ)衆生を開導し利益(りやく)せんが爲なり。文字に依らず。」或ひ
     は地(ぢ)を超えて速に正覺を成(じょう)ずと示す。怯弱(こにゃく)の衆生の爲なるを以ての
     故なり。」或ひは無量阿僧祇劫に於て、當に成佛すべしと説く。懈慢の衆生の爲なるを以て
     の故なり。」能く是くの如き無數(むしゅ)の方便を示すこと、不可思議なり。

 而實菩薩種性根等發心即等所證。亦等無得超過之法。以一切菩薩皆經三阿僧祇劫故。
 但随衆生世界不同。所見所聞根欲性異故示。所行亦有差別

     而も實に菩薩の種性(しゅしゃう)は、根等しく、發心卽ち等しく、所證も亦等しくして、超 
    過(てうくわ)の法有ること無し。一切の菩薩は、皆三阿僧祇劫を經(ふ)るを以ての故に。
     但随衆生の世界同じからず、所見・所聞・根・欲・性異なるに随ふが故に、所行を示すこ 
    とも亦差別有り。

 又是菩薩發心相者。有三種心微細之相云何爲三。
 一者眞心無分別故。
 二者方便心自然徧行利益 衆生故。
 三者業識心。微細起滅故

     又是の菩薩の發心の相には、三種の心微細(みさい)の相有り。云何が三と爲す。
     一には眞心。分別無きが故に。
     二には方便心。自然に徧(あまね)く行じて、衆生を利益 するが故に。
     三には業識心。微細(みさい)に起滅するが故に。

 又是菩薩功徳成滿於色究竟處。示一切世間最高大身。
 謂以一念相應慧無明頓盡名一切種智自然而有不思議業能現十方利益衆生。

     又是の菩薩は、功徳成滿(じゃうまん)して、色究竟(しきくきゃう)處に於いて、一切世間の 
    最高大の身(しん)を示す。
     謂はく、一念相應の慧(ゑ)を以て、無明頓(とん)に盡くるを、一切種智と名づく。自然にし 
    て不思議の業有り、能く十方に現じて、衆生を利益す。

 (´・(ェ)・`)b

361鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/21(木) 23:34:26 ID:1d4drIFg0
 証発心とは、浄心地より、菩薩の最後の境地に至るまで持つものじゃ。
 何の境界を証明するのか。
 いわゆる真如なのじゃ。
 転識によるから境界にすると説いているのじゃ。
 しかもこの証明は境界がないのじゃ。
 ただ真如の智恵だけなのじゃ。
 法身と名づけるのじゃ。

 このような菩薩は一念の間に、十方の世界に至る事が出来て、諸仏を供養して転法輪を請うこともできるのじゃ。
 ただ衆生を導いて、利益するためなのじゃ。
 文字によらず、或いは境地を超えて、速やかに正覚を得られると示すのじゃ。
 怯弱な衆生のためなのじゃ。

 あるいは無量あそぎ劫において成仏すると説くこともあるのじゃ。
 怠けて慢心している衆生のためなのじゃ。
 このように不可思議の無数の方便を示すことが出来るのじゃ。

362鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/21(木) 23:47:33 ID:1d4drIFg0

 しかも実は菩薩の本性の根幹は等しく、発心も等しく、証も等しいものであり、過ぎたりするところもないのじゃ。
 一切の菩薩は皆、あそぎ劫において成仏するが故に。

 ただ衆生の世界が同じではなく、見る所や、聞く所や、六根や欲や本性が異なるが故に、菩薩の所業もまた差別があるだけなのじゃ。
 またこの菩薩の発心の相にはまた三種の心の微細な相があるのじゃ。

 その三つとは、

 一つ目は真心なのじゃ。
 分別がないからなのじゃ。

 二つ目は方便心なのじゃ。
 自然に遍く修行して、衆生を利益するからなのじゃ。

 三つ目は業識心なのじゃ。
 微細に起こり滅するからなのじゃ。

 またこのような菩薩は功徳が満ち足りていて、色究境所においても、一切世間の最高大の身を示すのじゃ。
 一切相応する智恵をもって、無明を瞬時に滅するのを一切種智と名づけるのじゃ。
 自然にして不可思議な技をもっているのじゃ。
 十方に現れることが出来て、衆生に利益を与えるのじゃ。

363避難民のマジレスさん:2022/04/22(金) 17:05:55 ID:xzr0rbR60
35.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号36.)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号56-57)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。

▲一切種智ノ問答

 問曰虚空無邊故。世界無邊。世界無邊故。衆生無邊。衆生無邊故。心行差別亦復無邊。如是境界不可分齊。難知難解。若無明斷。無有心想云何能了名一切種智

     問うて曰はく、虚空無邊なるが故に、世界無邊なり。世界無邊なるが故に、衆生無邊なり。衆生無邊なるが
故に、心行の差別も亦復(またまた)無邊なり。是くの如く、境界は分齊すべからず。知り難く解(げ)し難し。若し無
明斷ぜば、。心想有ること無し。云何ぞ能く了するを一切種智と名づくるや。
 
 答曰一切境界本來一心。離於想念以衆生妄見境故。心有分齊。以妄起想念。不稱法性故不能決了。

     答へて曰はく、一切の境界は、本來一心にして、想念を離る。以衆生妄(みだり)に境界を見るを以ての故に、
心に分齊(ぶんざい)有り、妄(みだり)に想念を起こし、法性(ほっしょう)に稱(かな)はざる以ての故に、決了する能
(あた)はず。

 諸佛如來。離於見想無所不徧心。眞實故即是諸法之性。自然顯照一切妄法有大智用無量方便随諸衆生所
應得解。皆能開示種種法義是故得名一切種智

     諸佛如來は、見想を離れて、徧せざる所無し。心、眞實の故に(なるが故なり)。卽ち是れ諸法の性(しゃう)な
り。自體〔は〕一切の妄法を顯照し、有大智用(ゆう)・無量の方便有り。諸の衆生、應(まさ)に解(げ)を得べき所
に随って、皆能く種種の法義を開示す。是の故に、一切種智と名づくるを得。

▲自然業智ノ問答

 又問曰。若諸佛有自然業。能現一切處。利益衆生者一切衆生。若見其身。若覩神變若聞其説無不得利云何世間多不能見。

     又問うて曰はく、若し諸佛に、自然業有り、能く一切處に現じ、衆生を利益(りやく)せば、一切の衆生、若しは
其の身を見、若しは神變を覩(み)、若しは其の説を聞いて、利を得ざること無けん。云何ぞ、世間多く見ること能
(あた)はざるや。

 答曰。諸佛如來法身平等徧一切處。無有作意故而説自然但依衆生心現衆生心者。猶如於鏡。鏡若有垢色像。不現如是衆生心。若有垢法身不現故

     答へて曰はく、諸佛如來の法身は、平等に一切處に徧じて、作意(さい)有ること無きが故に、自然と説く。但
衆生の心(しん)に依って現ず。衆生心は、猶ほ鏡の如し。若し垢有れば、色像は現ぜず。是くの如く、衆生の心
も、若し垢有れば、法身は現ぜざるが故に。

 (´・(ェ)・`)b

364鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/23(土) 00:11:58 ID:1d4drIFg0
 また聞いたのじゃ。
 
 虚空は無辺であるから、世界も無辺なのじゃ。
 世界が無辺であるから、衆生界も無辺なのじゃ。
 衆生界が無辺であるから、観念の差別もまた無辺なのじゃ。

 このように境界は量る事ができないものじゃ。
 知り難く、理解もし難いものじゃ。
 もし無明が断たれれば、観念はないのじゃ。
 とのようにして全てを知ることを、一切を知ることのできる智恵と名づけられるのか。

 答えたのじゃ。

 一切の境界は本来一心であり、観念を離れたものじゃ。
 衆生は妄りに境界を見るから、心に量ることも在るのじゃ。
 妄りに観念を起こして、法性に適合しないから、理解も出来ないのじゃ。

 諸仏如来は観念を離れて、遍く存在するのじゃ。
 真実であるからなのじゃ。
 それがすなわち諸法の本性なのじゃ。
 
 自体は一切の妄法を明らかにして、大智恵の用いる無量の方便があるのじゃ。
 もろもろの衆生が理解できるように、いろいろに法の意味を開き示すのじゃ。
 この故に一切種智と名づけられるのじゃ。

365鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/23(土) 00:23:02 ID:1d4drIFg0
更に又聞いたのじゃ。

 諸仏に不可思議な技があるというのじゃ。
 一切の場所に現われて、衆生に利益を与える事が出来るのじゃ。
 姿を現してみせたり、神通力を見せたり、説法したりすれば衆生は必ず利益を得るじゃろう。
 世間ではそのようなことを聞かないのはなぜなのか。

答えたのじゃ。

 諸仏如来の法身は、平等に一切の場所に遍く在り、作意がないから自然と説くのじゃ。
 ただ衆生の心によって現われるのじゃ。

 衆生の心は鏡のようなものじゃ。
 もし鏡に汚れた垢があれば何も写らず形は現われないのじゃ。
 衆生の心も同じく、心に垢があれば、仏も現われないのじゃ。

366避難民のマジレスさん:2022/04/23(土) 00:30:03 ID:Dnnbff0c0
36.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号37)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号57-58)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。

●正宗五分第四 修行信心分

 巳説解釋分。次説修行信心分。
 是中依未入正定聚衆生故。説修行信心。
 何等信心云何修行。
 畧説信心。有四種云何爲四(上來ハ大乘ヲ明シ今ハ正シク起信ヲ明ス)

      巳(すで)に解釋分を説けり。次に修行信心分を説かん。
      是の中(うち)、未だ正定聚(じう)に入らざる衆生に依るが故に、修行信心を説く。
      何等の信心を、云何が修行するや。
      略して信心を説くに、四(し)種有り。云何が四と爲す。

●四種ノ信心 

 一者信根本。所謂樂念眞如法故。

     一には、根本を信ず。所謂、眞如の法をするが故に。

 二者信佛有無量功徳常念親近供養恭敬發起善根。願求一切智故

     二には、佛に無量の功徳有りと信じ、常に念じて、新近(しんごん)し、供養し、恭敬(くぎゃう)して、善根をし、一
切智を(ぐわんぐ)するが故に。

 三者信法有大利益。常念修行諸波羅蜜故

     三には、法に大利益有りと信じ、常に念じて、諸(もろもろ)の波羅蜜を修行するが故に。

 四者信僧能正修行自利利他常樂親近諸菩薩衆求學如實行故

     四には、僧は、能く正しく、自利利他を修行すると信じ、常に樂(この)んで、諸の菩薩衆に親近し、如實行を求
學(ぐがく)するが故に。

▲五門ノ修行 

 修行有五門能成此信。
 云何爲五。一者施門。二者戒門。三者忍門。四者進門。五者止觀門

      修行に五門有り、能く此の信を成(じゃう)ず。
      云何が五と爲す。一には施門(せもん)、二には戒門、三には忍門、四には進門、五には止觀門なり。

(´・(ェ)・`)b

367鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/23(土) 23:45:02 ID:1d4drIFg0
 既に解釈分を説いたのじゃ。
 次は修行信心分を説くのじゃ。

 これを読む者の中で、まだ正定摂、つまり悟りをひらくことが定まっていない者のために修行信心分を説くのじゃ。

 どのような信心を、どのように修行するのか。
 略して説けば四種在るのじゃ。

 その四つとは、

 一つ目は根本を信じるのじゃ。
 いわゆる真如の法を安楽に観察し念じるからなのじゃ。

 二つ目は仏に無量の功徳があると信じて、常に念じて親近し、供養し、うやうやしく敬って善根を発起するのじゃ。
 一切智を願い求めるからなのじゃ。

 三つ目は法に大きな利益が在ると信じるのじゃ。
 常に念じてもろもろの波羅蜜を修行するからなのじゃ。

 四つ目は僧は正しく修行して自他の利益をもたらすと信じるのじゃ。
 常に好んでもろもろの菩薩衆に親近し、如実の行を求め学ぶからなのじゃ。

 そしてまたその修行にも五つの門があるのじゃ。
 この五門によって信心も成就するのじゃ。

 どのような門なのか。

 一つ目は布施の門なのじゃ。

 二つ目は戒の門なのじゃ。

 三つ目は忍耐の門なのじゃ。

 四つ目は精進の門なのじゃ。

 五つ目は止観の門なのじや。

368避難民のマジレスさん:2022/04/24(日) 07:48:58 ID:N9PuVr0M0
37.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号37-38)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号57-58)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。

▲第一 施門  

 云何修行施門。
 若見一切來求索者。所有財物随力施與。以自捨慳貪。令彼歡喜。若見厄難恐怖危逼随巳堪任施與無畏。若有衆生來求法者。随巳能解方便。爲説不應貪求名利恭敬唯念自利利他廻向菩提故

     云何が、施門を修行するや。
     若し一切の、來って求索(ぐさく)する者を見ば、有らゆる財物、力に随って施與(せよ)し、自ら慳貪(けんどん)を
捨つるを以て、彼をして歡喜せしめ、若し厄難(やくなん)・恐怖(くふ)・危逼(きひつ)を見ば、己が堪任するに随っ
て、無畏(むゐ)を施與(せよ)す。若し衆生、來って法を求むる有らば、己が能く解するに随って方便して、爲めに
説いて、應(まさ)に名利恭敬(くぎゃう)を貪求すべからず。唯自利利他を念じ、菩提に廻向(ゑかう)するが故に。

▲第二 戒門  

 云何修行戒門。
 所謂不殺。不盗。不婬。不兩舌。不悪口。不妄言。不綺語。遠離貪嫉欺詐諂曲瞋恚邪見。若出家者。爲折伏煩悩故。亦應遠離憒閙常處寂静修習少欲知足。頭陀等行。乃至小罪心生怖畏慚愧悔不得輕於如來所制禁戒。當護機嫌。不令衆生妄起過罪故

     云何が、戒門を修行するや。
     所謂、殺せず、盗せず、婬せず、兩舌せず、悪口(あくく)せず、妄語せず、綺語せず、遠離貪嫉(とんしつ)・欺
詐・諂曲(てんこく)・瞋恚(しんい)・邪見を遠離す。若し出家の者は、煩悩を折伏(しゃくぶく)せん爲の故に、亦應
(まさ)に憒閙(くわいねう(にょう))をし、常に寂静に處して、少欲知足、頭陀等の業を修習(しゅじふ)し、乃至小
罪にも、心怖畏を生じ、慚愧し、改悔(かいげ)して、如來の制する〔したまふ〕所の禁戒(ごんかい)を輕んずるを
得ざるべし。當(まさ)に機嫌を護って、衆生をして、妄(みだり)に罪過を起こさしめざるべき故に。

▲第三 忍門  

 云何修行忍門。
 所謂應忍他人之惱心不懷報。亦當忍於利衰毀譽稱譏苦樂等法故

     云何が、忍門を修行するや。
     所謂、應(まさ)に他人の惱(なやま)すを忍んで、心に報を懷(いだ)かざるべし。亦當に利衰・毀譽・稱譏(しょう
き)・苦樂等の法を忍ぶべき故に。

▲第四 進門  

 云何修行進門。所謂於諸善事。心不懈退。立志慳強。遠離怯弱。當念過去久遠己來虚受一切身心大苦。無有利益 。是故應勤修諸功徳自利利他遠離修苦

     云何が進門を修行するや。
     所謂、諸の善事に於て、心、懈退せず、志を立つること慳強(けんがう)にして、怯弱(こにゃく)を遠離し、當に過
去久遠己來、虚しく一切身心の大善を受けて、利益有ること無きを念ずべし。是の故に、應に勤めて、諸の功
徳を修め、自利利他して、遠かに衆苦を離るべし。
(´・(ェ)・`)b

369鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/24(日) 23:47:57 ID:1d4drIFg0

第一の施門なのじゃ。

 どのように修行するのか。

 もし衆生が法を求めてきたならば、あらゆる財物を力の限り施して自分が貪欲を捨てることで喜ばせるのじゃ。
 もし衆生が厄難、恐怖、危険が逼迫しているところを見たら、自分が出来る限りのことをして、恐れがない状態を施すのじゃ。

 もし衆生が法を求めてきたならば、自分が理解している限りのことを方便して説いて、名利や尊敬されることを求めてはいかんのじゃ。
 ただ自他の利益のために説いて、悟りの道に回向するためなのじゃ。

 第二の戒門なのじゃ。

 どのように修行するのか。

 いわゆる殺さず、盗まず、婬せず、両舌せず、悪口をせず、妄語をせず、綺語をしないことを守るのじゃ。
 貪欲、嫉妬、詐欺、怒りや邪見を遠離するのじゃ。
 もし出家の者であれば、煩悩を折伏するために、騒がしい街中から遠ざかり、常に静かな所に定住して、小欲知足をで貪欲を厭離するのじゃ。
 
 小さな罪にも心から恐れ、慙愧して、後悔して、如来が制定した禁戒を重んじるのじゃ。
 まさに他人の悪心を起こさないようにして、妄りに罪過を作らせないようにするのじゃ。

 第三の忍門なのじゃ。

 どのように修行するのか。

 いわゆるまさに他人から悩まされることを忍んで、報復したいという思いを心から遠ざけるのじゃ。
 また正に利衰、毀誉褒貶、苦楽等の法を忍ぶべきであるからなのじゃ。

 第四の進門なのじゃ。

 どのように修行するのか。

 もろもろの善事を心が怠けずに実践して、堅く強く志を立て、怯弱を遠離するのじゃ。
 久遠の過去からの大善を実践しても、その利益を願わないようにするのじゃ。
 正に勤めてもろもろの功徳を修めて、衆苦がないようにするのじゃ。

370避難民のマジレスさん:2022/04/25(月) 00:26:17 ID:ZMugjDbA0
39.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号40-41)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号60-61)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。

 復次依是三昧故則知法界一相。謂一切諸佛法身。與衆生身平等無二即名一行三昧。當知眞如是三昧根本。若人修行漸漸能生無量三昧

     復次に、是の三昧に依るが故に、則ち法界一相なりと知る。謂はく、一切諸佛の法身と衆生とは、平等無二
    なり。卽ち一行三昧と名づく。當に知るべし、眞如は是れ三昧の根本なり。若し人、修行すれば、漸漸に能く、
    無量の三昧を生ず。

 或有來生無善根力。則爲諸魔外道鬼神之所惑亂。若於坐中現形恐怖。或現端正男女等相。
 當念唯心境界則滅終不爲惱

     或(ある)は衆生有り、善根の力無ければ、則ち諸魔・外道・鬼神の爲に惑亂せらる。若くは坐中に於て、形(か
たち)を現じて恐怖(くふ)せしめ、或(あるひ)は端正(たんしゃう)の男女(なんにょ)等の相を現ず。 
     當に唯心を念ずべし。境界は則ち滅して、終(つひ)に惱を爲さず。

 或現天像菩薩像亦作如來像。相好具足。或説陀羅尼。若説布施持戒忍辱精進禪定智慧。或説平等空無想無願。無怨無親。無因無果。畢竟空寂是眞涅槃。
 
     或は、天像・菩薩像を現じ、亦は、如來像を作(な)して相好具足し、或は陀羅尼を説き、若くは、布施・持
戒・忍辱・精進・禪定・智慧を説き、或は平等・空・無想・無願・無怨・無親・無因・無果・畢竟空寂なる、是
れ眞の涅槃なりと説く。

或令人知宿命過去之事。亦知未來之事。得他心智辯才無礙能令衆生貪著世間名利之事。
 
     或は人をして、宿命・過去の事を知り、亦は未來の事を知り、他心智・辯才無礙を得せしめ、能く衆生をして、
世間名利の事(じ)に貪著(とんぢゃく)せしむ。
   
 亦令使人數瞋數喜性無常準。或多慈愛多睡多宿多病其心懈怠。或率起精進後便休廢生於不信。多疑多慮。或捨本勝行。更修雜業。若著世事種種牽纏。
 
     又令使人をして、數(しばしば)瞋(いか)り・數喜びて、性に常準なからしめ、或は多く慈愛し、多睡(たすゐ)・多
宿・多病にして、其の心を懈怠ならしむ。或は卒(にはか)に精進を起こし、後便(のちすなは)ち休廢(くはい)して、
不信を生じ、多疑・多慮ならしめ、或は本(もと)の勝行(しょうぎょう)を捨て、更に雜業(ざふごふ)を修し、若くは世
事に著(ぢゃく)して、種種に牽纏(けんてん)せらる。
     
 亦能使人得諸三昧少分相似皆是外道所得非眞三昧 或復令人。若一日若二日若三日乃至七日。住於定中。得自然香美飲食身心適悦不飢不渇。使人愛着。

     亦能く、人をして、諸の三昧の少分の相似を得せしむ。皆是れ外道所得にして、眞の三昧に非ず。或は復、
人をして、若くは一日、若くは二日(ににち)、若しは三日(さんにち)乃至七日(しちにち)、定中(ぢゃうちう)に住して、
    自然の香美(かうみ)の飲食(おんじき)を得て、身心適悦(しんじんちゃくえつ)して、不飢・不渇ならしめ、人をして
    愛着せしむ。

  或令人食無分齊。乍多乍少顔色變異。
  以是義故行者常應智慧觀察勿令此心。堕於邪網。當勤正念不取不着則能遠離是諸業障

     或は人をして、食に分齊なく、乍(たちま)ち多くし乍ち少くし、顔色を變異せしむ。
     是の義を以ての故に、行者は常に應(まさ)に、智慧もて觀察し、此の心を邪網に堕せしむることなかるべし。當
    に勤めて正念にして、不取・不著(ふぢゃく)ならば、則ち能く、是の諸の業障(ごふしゃう)を遠離すべし。

 應知外道所有三昧皆不離見愛我慢之心。貪着世間名利恭敬故
 眞如三昧者。不住見相。不住得相。乃至出定亦無懈慢。所有煩惱漸漸微薄。

     應に知るべし、外道所有の三昧は、皆不離見愛我慢の心を離れず。世間の名利恭敬に貪著(とんぢゃく)する
    が故に。
     眞如三昧とは、見相に住せず、得相に住せず、乃至定(ぢゃう)を出づるも、亦懈(げ)慢無し。所有の煩惱、漸
    漸に微薄(みはく)なり。
     
 若諸凡夫不習此三昧。法得入如來種性。無有是處
 以修世間諸禪三昧多起味着依我見。繫屬三界。與外道共。若離善知識所護則起外道見故

     若し諸の凡夫、此の三昧法を習せずして、如來の種性(しゅしゃう)に入るを得(う)る、是の處(ことわり)有ること
    無し。
     世間の諸禪三昧を修すれば、多く味著(みぢゃく)を起こし、我見に依って、三界に繫屬(けぞく)するを以て、外
    道と共(とも)なり。若し善知識の所護を離るれば、則ち外道の見を起こすが故に。

(´・(ェ)・`)b

371鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/25(月) 23:35:57 ID:1d4drIFg0
 また次にある人が信心して修行しても、前世からの多くの重罪悪業の障害がある故に、邪魔諸鬼のために悩乱させられることもあるじゃろう。
 或いは世間の仕事等のために、種々に時間を縛られ、或いは病苦に悩まされたりする者達もいるじゃろう。
 このように多くの障害があったりするじゃろう。

 このようなことがある故に、まさに勇猛精進して、昼夜常に諸仏を礼拝し、誠の心で懺悔して、教えを請い願い、教えを受けたら歓喜して菩提に回向するのじゃ。
 このように常に実践して休まず、止めなければ、もろもろの障害も免れるのじゃ。
 善根が増長するからなのじゃ。

 第五の止観門なのじゃ。

 どのように修行するのか。

 言う所の止とは、一切の境界の想念を止めて、シャマタの観に随順するのじゃ。
 
 言う所の観とは、因縁生滅の相を分別して、ヴィパッサナー観に随順するのじゃ。

 どのようにして随順するのか。
 この二つの法を少しずつ実践して、互いに離れる法ではないから、並べて現前するのじゃ。

 もし止を実践したいという者が居れば、静かなところに住んで、座禅して意を正すのじゃ。
 そして呼吸に依らず、形色に依らず、空に依らず、地水火風に依らず、乃至見る聞く等の知覚に依らないようにするのじゃ。
 一切の諸法も憶念に従って皆除き、一切の想念を除く実践をするのじゃ。
 一切の諸法は皆本来無想にして、刹那に生まれず、刹那に滅することもないと念じるのじゃ。

 また常に心の外の世界においては境界は無で在ると念じ、心によって除くことの出来ない心に至るのじゃ。
 心がもし乱れたら、すぐに集中し直して、正しい念に戻るのじゃ。
 この正しい念とは、唯心であり他に境界がないと正に知るべきなのじゃ。
 そしてまたこの心も自らの特徴はなく、刹那に得ることの出来ないものじゃ。

 もし座禅から立って、去来進止の動作をすることがあれば、全ての時において方便を念じて、ありのままに観察するべきなのじゃ。
 その実践に習熟すれば、その心は止まるのじゃ。
 故に少しずつ功徳が増大し、真如三昧に入れるのじゃ。
 煩悩を征服して、信心も増長して、ついに不退転の境地になるのじゃ。

 ただ疑惑や不信や、誹謗や、重罪の業障、我があるという慢心、怠けるというような煩悩を持つ者は除くのじゃ。


372鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/26(火) 00:01:59 ID:1d4drIFg0

 以上のような煩悩のある者には入れない境地なのじゃ。



 また次にこの三昧に入れば、法界は一相と知れるのじゃ。
 なぜならば一切諸仏の法身と、衆生の心とは平等で一つであるからなのじゃ。
 それをすなわち一行三昧と名づけるのじゃ。
 真如は正に三昧の根本と知るべきなのじゃ。
 もし人がそれを修行すれば、少しずつできるようになり、無量の三昧を生じるのじゃ。

 あるいは善根の力がない衆生がいれば、即ち諸々の魔、外道、鬼神に惑乱させれられるのじゃ。
 もしくは座禅の最中に、魔が形を現して恐れさせ、あるいは美男美女の心象を表したりするのじゃ。

 そのような時にはまさに唯心を念じるべきなのじゃ。
 そうすれば境界は即ち滅して、悩まされることも無くなるのじゃ。

 そのような魔はあるいは天人、菩薩の心象を現したり、相好を備えた如来を現し陀羅尼や、布施、持戒、忍耐、精進、禅定、智恵の完成を説いたりするのじゃ。
 あるいは平等、空、無相、無願、無怨、無親、無因、無果、畢竟空寂であるこれが涅槃であると説いたりするのじゃ。
 あるいは人に宿命通や過去未来のことを知ったり、他人の心を知り、自由な弁才を得さしめて、名声に執着させたりするのじゃ。

 あるいは人に喜怒の念をたびたび起こらせて、平静な心をなくさせるのじゃ。
 あるいは愛着を多くさせて、多く眠り、多く宿り、多く病を得させて怠けさせるのじゃ。
 あるいは人をいきなり精進させて、次には実践を休ませたり止めさせて不信を生じて、疑いや慮りを多くさせるのじゃ。
 あるいはもともとの優れた法わ捨てさせ、つまらぬ法を修行させて、あるいは世間の仕事に執着させて、いろいろに惑わせるのじゃ。


373鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/26(火) 00:18:34 ID:1d4drIFg0

 また人にもろもろの三昧に似た境地を得させるのじゃ。
 そのようなものは外道の得るものであり、真の三昧ではないのじゃ。
 あるいは人に数日の三昧において自然の香味を得させて、心身を喜ばせて飢えず渇せず、愛着させるのじゃ。
 あるいは人の食欲を際限なくして、多食や小食にしたりして病で顔色を悪くするのじゃ。
  
 このような魔があるから、修行者は、常に正に智恵を持って観察して、心を邪見の網に落ちないようにするのじゃ。
 正に勤めて正念を保って、何も取らず、何にも執着しないならば、このもろもろの魔の業障を遠離することができるのじゃ。
 
 外道の教える三昧は皆、見愛、我慢の心を離れられないと知るべきなのじゃ。
 世間の名利や尊敬の心を貪り執着するからなのじゃ。

 真如三昧とは、見る相に心を止めず、得る想念にも心を止めず、定を出ても怠け心や慢心が無いのじゃ。
 もっていた煩悩も少しずつなくなっていくのじゃ。

 もしもろもろの凡夫がこの三昧を習得しないで、如来になることはないのじゃ。
 
 世間の諸三昧を修得すれば、多くが三昧に執着して、我見をもって三界に縛られるから外道と一緒なのじゃ。
 もし善知識の守りから離れれば、すなわち外道の見解を起こすからなのじゃ。

374避難民のマジレスさん:2022/04/26(火) 00:51:12 ID:TPvzETQk0
n(´・(ェ)・`)n
お詫びと訂正。
前回掲載時、38をとばしてしまいました。
本日の鬼和尚訳、>>371 及び >>372の1行目 に該当する部分が、38↓であります。

38.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号39-40)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号59-60)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。

 復次若人雖修行信心。以從先世來多有重罪悪障故。爲邪魔諸鬼之所惱亂。或爲世間事務種種牽纒。或爲病苦所惱有如是等衆多障。礙是故應當勇猛精勤。晝夜六時禮拝諸佛。誠心懺悔。勸請随喜。廻向菩提。常不休廢。得免諸障。善根増長故

     復次に、若し人、信心を修行すると雖も、先世(せんぜ)より來(このかた)、多く重罪悪業の障有るを以て故に、
邪魔諸鬼の爲に惱亂せられ、或は世間の事務の爲めに、種種索纒(さくてん)せられ、或は病苦の爲に所惱まさ
る。是くの如き等の衆多の障礙(しゃうげ)有り。是の故に、應當(まさ)に勇猛精勤(ゆうみょうしゃうごん)して、晝夜
六時に、諸佛を禮拝(らいはい)し、誠心(じゃうしん)に懺悔し、勸請(くわんじゃう)し随喜して。菩提に(ゑかう)すべ
し。常に休廢(くはい)せざれば、諸障を免(まぬか)るるを得、善根増長するが故に

*【纏牽】てんけん:まといつなぐ。束縛

▲第五 止觀門 

 云何修行止觀門。
 所言止者謂止一切境界相随順奢摩他觀義故

     云何が、止觀門を修行するや。
     言ふ所の止とは、謂はく、一切境界の相を止(とど)めて、奢摩他(しゃまた)觀に随順する義の故に。

 所言觀者謂分別因緣生滅相。随毘鉢舍那觀義故

     言ふ所の觀とは、謂はく、因緣生滅の相を分別して、毘鉢舍那(びばしゃな)觀に随順する義の故に。

 云何随順以此二義漸漸修習不相捨離雙現前故

     云何が、随順するや。此の二義、漸漸に修習(しゅじふ)して相捨離せざるを以て、雙(なら)べて現前するが故に。

 若修止者住於静處端坐正意不依氣息不依形色不依於空不依地水火風。乃至不依見聞覺知。一切諸想随念皆除亦遣除想。以一切法本來無想念念不生念念不滅

     若し止を修する者は、静處(じゃうりょ)に住し、端坐して意を正し、氣息に依らず、形色(ぎゃうしき)に依らず、空
に依らず、地水火風に依らず、乃至見聞覺知(けんもん)に依らず、一切の諸想も、念に随って皆除き、亦除想
を遣(や)る。一切の法は、本來無想なるを以て、念念に生ぜず、念念に滅せず。

 亦常不得随心外念境界。後以心除心。若馳心散即當攝來住於正念。是正念者當知唯心無外境界。即復此心亦無自相。念念不可得

     亦常に、心外に随って境界を念じ、後(のち)、心を以て心を除くことを得ず。心若し馳散(ちさん)せば、卽ち當
(まさ)に攝し來(きた)って、正念(しゃうねん)に住すべし。是の正念とは、當に知るべし、唯心にして外(ほか)境界
無し〔きなり〕。卽ち復、此の心も亦、自相無し。念念に不可得(とく)なり。

 若從坐起去來進止有所施作於一切時常念方便随順觀察
 久習淳熟其心得住。以心住故漸漸猛利随順得入。眞如三昧。深伏煩惱。信心增長速成不退。唯除疑惑不信誹謗重罪業障我慢懈怠。如是等人所不能入

     若し坐より起(た)ちて、去來進止に施作する所有れば〔るも〕、一切時に於て常に方便を念じて、随順觀察す
べし。
     久習(くじふ)淳熟すれば、其の心住することを得(う)、故に漸漸に猛利(みゃえうり)にして、眞如三昧に随順し、
得入(とくにゅう)し、深く煩惱を伏(ぶく)し、信心增長して、速(すみやか)に不退を成(じゃう)ず。唯疑惑・不信・誹
謗・重罪業障・我慢・懈怠を除く。是の如き等(とう)の人は、入ること能(あた)はざる所なり。
(´・(ェ)・`)b

375避難民のマジレスさん:2022/04/26(火) 00:56:56 ID:TPvzETQk0
40.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号42-43)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号61-62)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。

▲眞如三昧十種ノ利益  

 復次精進專心修學此三昧者現世當得十種利益云何爲十

     復次に、精進して、專心に此の三昧をする者は、現世に當る十種の利益を得べし。云何が十と爲す。

 一者常爲十方諸佛菩薩の所護念
 二者不爲諸魔悪鬼所恐怖
 三者不爲九十五種外道鬼神の所惑亂
 四者遠離誹謗甚深之法重罪業障漸漸微薄
 五者滅一切疑惑諸悪覺觀
 六者於諸如來境界信得增長
 七者遠離憂悔於生死中勇猛不怯
 八者其心柔和捨於憍慢。不爲他人所惱
 九者雖未得定於一切時一切境界處則能滅損煩惱不樂世間
 十者若得三昧不爲外緣一切音聲之所驚動

      一には、常に十方の諸佛菩薩の爲に、護念せらる。
      二には、諸魔・悪鬼の爲に、能く恐怖せられず。
      三には、九(く)十五種の外道・鬼神(じん)の爲に、惑亂せられず。
      四には、甚深(じんじん)の法を誹謗することを遠離し、重罪業障、漸漸に微薄なり。
      五には、一切の疑惑と、諸の悪覺觀(かくくわん)とを滅す。
      六には、諸の如來の境界に於て、信、增長することを得。
      七には、憂悔(うけ)を遠(をん)離し、生死の中(うち)に於て、勇猛にして怯(けふ)ならず。
      八には、其の心柔和にして、憍慢(けうまん)を捨て、他人の爲に惱まされず。
      九には、未だ定(ぢゃう)を得ずと雖も、一切の時(じ)、一切の境界の處に於て、則ち能く煩惱を減損して、世
     間を樂(たのし)まず。
      十には、若し三昧を得れば、外(げ)緣一切の音聲の爲に驚動せられず。

▲修觀ヲ勸ム  

 復次若人唯修於止則心沈歿或起懈怠不樂衆善。遠離大悲是故修觀
 修習觀者當觀一切世間有爲之法無得久停須臾變懷一切心行念念生滅以是故苦。應觀過去所念諸法恍忽如夢。應觀現在所念諸法猶如電光。應觀未來所念諸法猶如於雲歘爾而起。應觀世間一切有身。悉皆不浄種種穢汚無一可樂

     復(また)次に、若し人、唯、止をのみ修すれば、則ち心沈歿(こころちんもつ)し、或は懈(げ)怠を起こし、衆善を
    樂(ねが)はず、大悲を遠離す。是の故に觀を修す。
     觀を修する者は、當に、一切世間有爲の法は、久しく停(とど)まるを得(う)ること無く、須臾(すゆ)に變懷(ゑ)す。
    一切の心行は、念念に生滅す。是を以ての故に苦なりと觀すべし。應に、過去に念ぜる所の諸法は、恍忽とし
    て夢の如し觀ずべし。應に現在に念ずる所の諸法は、猶ほ電光の如しと觀ずべし。應に、未來に念ずる所の諸
    法は、猶ほ雲の、歘爾(こつに)として起るが如しと觀ずべし。應に、世間一切の有身は、悉く皆不浄にして、種種
    の穢汙(ゑま(わいお))、一として樂むべき無しと觀ずべし。

(´・(ェ)・`)b

376鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/26(火) 22:57:40 ID:1d4drIFg0

 また次に精進して心を専らにしてこの三枚を修行する者は、現世で十種類の利益を得るのじゃ。

 その十とは、

 一つ目は、常に十方の諸仏に護られるのじゃ。
 二つ目は、もろもろの魔もの、悪鬼も恐れなくなるのじゃ。
 三つ目は、95種類の外道、鬼神に惑乱されないのじゃ。
 四つ目は、とても深い意味がある法を誹謗しなくなり、重罪の悪業も少しずつへっていくのじゃ。
 五つ目は、一切の疑惑と、邪悪なる法を滅するのじゃ。
 六つ目は、もろもろの如来の境界において、信じることが増して行くのじゃ。
 七つ目は、愁いや悔いを遠ざけ、生死の中において、勇猛で怯えなくなるのじゃ。
 八つ目は、心が柔和になり、驕りや慢心を捨てて、他人に悩まされないのじゃ。
 九つ目は、まだ定に入れなくとも、一切の時や境界の所で、煩悩を減らして世間を楽しまないのじゃ。
 十では、もし三昧を得れば、外からの全ての音声に驚き動じることがなくなるのじゃ。

377鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/26(火) 23:06:05 ID:1d4drIFg0

 また次にもし人がただ止観の止だけを実践すれば、心が沈んで、あるいは怠けたり、もろもろの善を願わなかったりして、慈悲の心もなくなるのじゃ。
 このために観も修行するのじゃ。

 観を修行する者は、まさに一切世間の有為の法は、ながく止まることがなく、瞬時に変り壊れるものと観るのじゃ。
 一切の心の働きは、刹那に生じ、滅するから苦になると観るのじゃ。
 まさに過去に念じた諸法は、ぼんやりとして、夢幻の如しと観るのじゃ。
 今念じている諸法は電光の如しと観るのじゃ。
 未来に念じるはずの諸法も、雲がもくもくと起こるようものと観るのじゃ。

 世間の一切の肉体も、ことごとくみんな不浄であり、種々の穢れがあり、一つも楽しめるものがないと観るのじゃ。

378避難民のマジレスさん:2022/04/26(火) 23:32:36 ID:GrWkzV0M0
41.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号43-44)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号62)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。

▲大悲觀   

 如是當念一切衆生從無始時來皆因無明所薫習故令心生滅巳受一切身心大苦現在即有無量逼迫。未來所苦亦無分齊難捨難離而不覺知衆生如是甚爲可愍

     是くの如く當に念ずべし。「一切の衆生は、無始の時より來(このかた)、皆無明に薫習せらるるに因るが故に、
    心をして生滅せしむ。巳(すで)に一切の身心の大苦を受け、現在に卽ち無量の逼迫有り、未來の所苦も亦分
    齊無く、捨し難く離し難くして、而も覺知せず。衆生は是くの如く、甚だ愍(あはれ)むべしと爲す」と。

▲大願觀   

 作是思惟即應勇猛立大誓願。願令我心離分別故徧於十方修行一切諸善功徳。盡其未來。以無量方便救拔一切苦惱衆生令得涅槃第一義樂

     作是(こ)の思惟を作(な)し、卽ち應に勇猛に大誓願を立つべし。「願はくは、我が心をして、分別を離れしむる
    が故に、徧(あまね)く十方に於て、一切の諸善功徳を修行し、其の未來を盡し、無量の方便を以て、一切の苦
    惱の衆生を救拔(くばつ)し、涅槃第一義の樂を得せしめん」と。

▲精進觀  

 以起如是願故於一切時一切處所有衆善。随巳堪能。不捨修學心無懈怠 
 唯除坐時專念於止若餘一切悉當觀察應作不應作 
 若行若住若坐若臥若起皆應止觀倶行 所謂雖念諸法自性不生而復即念因緣和合善悪之業苦樂等報不失不懷。雖念因緣善悪業報而亦即念性不可得。

     是(かく)の如きの願を起すを以ての故に、一切の時・一切の處(しょ)に於て、有らゆる衆善、己(おのれ)が堪能
    (かんのう)に随って、修學するを捨せず、心に懈怠無し。
     唯坐する時のみ專(もっぱ)ら止を念ずるを除く。若し餘の一切にも、悉(ことごと)く當(まさ)に、應作と不應作とを
    觀察すべし。 
     若くは行、若くは住、若くは坐、若くは臥(ぐわ)、若くは記、皆止と觀とを倶(とも)に行ずべし。所謂、諸法の自性
    は、不生なりと念ずと雖も、而も復(また)、卽ち因緣和合する善悪の業・苦樂等の報は、不失不懷(ゑ)なりと念
    ず。因緣善悪の業報を念ずと雖も、而も亦、卽ち性(しょう)は不可得なりと念ず。
 
 若修止者對治凡夫住着世間能捨二乘怯弱之見。
 若修觀者對治二乘不起大悲狹劣心過遠離凡夫不修善根 
   
     若し止を修すれば、凡夫の、世間に住著するを對治し、能く二乘怯弱(こにゃく)の見を捨す。     
     若し觀を修すれば、二乘の、大悲を起さざる狹劣(けふれつ)の心過を對治し、凡夫の、善根を修せざることを
    遠離す。

 以是義故是止觀二門共相助成不相捨離若止觀不具則無能入菩提之道

     是の義を以ての故に、是の止と觀との二門は、共に相助成(あひじょじゃう)して、相捨離せず。若し止と觀と具
    (そな)はらざれば、則ち能く菩提の道に入ること無し。

(´・(ェ)・`)b

379鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/28(木) 00:26:23 ID:1d4drIFg0
 このように念じるのじゃ。

 「一切衆生は始まりもない昔から無明に薫習されているから、心をして生滅させるのじゃ。
  すでに一切の心身の大きな苦痛を受けて、現在にも無量の逼迫があるのじゃ。
  未来に受けるであろう所の苦も限界なく、、捨て難く、遠ざけることも難しく、知覚もできないのじゃ。
  衆生はこのようにとても哀れむべきもの」

 このように思って勇猛に大誓願を立てるのじゃ。
 
 「願わくばわが心が分別を離れるが故に、遍く十方において一切の諸善功徳の法を修行し、
  未来の尽きるまで、無量の方便をもって、苦悩の衆生を救済し、涅槃第一義の楽を得させよう」

 このような誓願をすれば、どんな時や所でも自分が出来る限りのあらゆる善行と修学を捨てず、怠け心もなくなるのじゃ。

380鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/28(木) 00:35:20 ID:1d4drIFg0

 ただ座禅する時のみ止の行をするのは除くのじゃ。
 他の時にはことごとく自分のしたことやしなかったことを観察するのじゃ。

 行住坐臥や話すときに皆止観をともに行じるのじゃ。
 いわゆる諸法の自性は、不生であるがまた因縁和合する善悪の業、苦楽の報いは失うことも壊れることもないと念じるのじゃ。
 因縁善悪の業の報いを念じるといっても、なおまたまた性は得られるものではないと念じるのじゃ。

 もし止を修行すれば、凡夫の世間に住み執着することを退治して、二乗の怯弱い見解をすとるのじゃ。
 もし観を修行すれば、二乗の大悲を起こさない狭く劣った心の過失を退治して、凡夫が善根を修行することもできるのじゃ。

 このような意義があるから、この止観の二門は、共に相助成して、相捨離することもないのじゃ。
 もし止観を修行しないならば、悟りの道に入ることも出来ないのじゃ。

381避難民のマジレスさん:2022/04/28(木) 12:40:04 ID:D5cVyf3c0
42.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号44-45)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号62-63)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。

▲防退方法勸生浄土文  

 復次衆生初學是法欲求正信其信怯弱以住於娑婆世界自畏不能常値諸佛親承供養懼謂信心難可成就意欲退者當知如來有勝方便攝護信心謂以專意念佛因緣随願得生他方佛土常見於佛。永離悪道如

     復(また)次に、衆生、初めて是の法を學(がく)し、正信(しゃうしん)を欲求(よくぐ)するに、其の信怯弱(こにゃく)に
    て、此の娑婆世界に住するを以て、自ら常に諸佛に値(あ)って、親承し、供養すること能(あた)はざるを畏(おそ)る。
    懼(おそら)くは、信心成就すべきこと難(かた)し謂(おも)ひ、意に退せんと欲する者は、當(まさ)に知るべし、如來に
    勝方便有りて、信心を攝護す。謂(い)はく、專意念佛の因緣を以て、願に随って、他方の佛土に生ずるを得(う)、
    常に佛を見て、永く悪道を離る。

 修多羅説 若人專念西方極楽世界阿彌陀佛。所修善根廻向願求生彼世界即得住生 
 常見佛故終無有退。若觀彼佛眞如法身常勤修習畢竟得生住正定故

     修多羅に、若し人、專(もっぱ)ら西(さい)方極楽世界の阿彌陀佛を念じ、修する所の善根を廻向(ゑかう)して、
    彼(か)の世界に生ぜんと願求(ぐわんぐ)すれば、卽ち住生することを得と。
     常に佛を見るが故に、終(つひ)に退すること有ること無し。若し彼の佛の眞如法身を觀じ、常に勤めて修習(しゅ
    じふ)すれば、畢竟して生ずることを得。正定(しゃうぢゃう)に住するが故に。

▲正宗五分ノ第五(テキストは表記は四) 勸修利益分  

 已説修行信心分。次説勸修利益分。
 如是摩訶衍諸佛秘藏。我已總説
 若有衆生欲於如來甚深境界得生正信。遠離誹謗。入大乘道當持此論思量修習究竟能至無上之道。
 若人聞是法已。不生怯弱當知此人定紹佛種必爲諸佛所授記
 假使有人能化三千大千世界。滿中衆生令行十善。不如有人於一食頃正思此法過前功徳不可爲喩

     已(すで)に、修行信心分を説けり。次に勸修利益分を説かん。
     是くの如きの摩訶衍(ゑん)は、諸佛の秘藏なり。我已に總じて説く。
     若し衆生有って、如來甚深(じんじん)の境界に於て、正信を生ずることを得て、誹謗をし、大乘の道(だう)に入
    らんと欲せば、當(まさ)に、此の論を持して、思量し修習し究竟(くきゃう)し、能く無上の道(だう)に至るべし。
     若し人、是の法を聞き已(おは)って、怯弱(こにゃく)を生ぜざれば、當に知るべし、此の人は定(さだ)んで佛種を
    紹(つ)ぎ、必ず諸佛の爲に授記せられん。
     假使(たとひ)人有って、能く三千大千世界の中(うち)に滿てる衆生を化(け)して、十善を行ぜしめんも、人有っ
    て、一食頃に於て、正しく此の法を思はんには如かじ。前の功徳に過(く)ぐること、喩(たとへ)と爲すべからず。
(´・(ェ)・`)b

382鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/28(木) 23:33:01 ID:1d4drIFg0
 又次に衆生が初めてこの法を学んで、正信を欲求する時、その心が怯弱でこの娑婆世界に居るから諸仏に会って親しく供養できないことを恐れたりするかもしれん。
 恐らくは信心が成就することは難しいと思って、やめてしまうかもしれんのじゃ。
 そのような者達は如来に勝れた方便があって、信心の者達を擁護することを知るべきなのじゃ。

 いわく専らに念仏すれば、その因縁で願うとおりに、他の仏土に生まれることができるのじゃ。
 そこで常に仏陀を見て、永久に悪道を離れられるのじゃ。

 経典にはもし人が専らに西方浄土の阿弥陀如来を念じて、修めるところの善根を回向して、その世界に生まれたいと願うならばいそこに生まれると説いているのじゃ。
 そこで常に仏陀を見ているのであるから退転することはないのじゃ。
 もしその阿弥陀如来の真如法身を観じ、常に勤めて修行すれば、最終的には西方に行けるのじゃ。
 それが正しい定であるからなのじゃ。

 既に修行信心分を説いたのじゃ。
 次は勤修利益分を説くのじゃ。

 このような大乗は諸仏の秘蔵なのじゃ。
 我はそれを総じて説いたのじゃ。

 もし衆生が如来の甚だ深い境界を信じて、誹謗を遠離して、大乗の道に入ろうと思うならば、正にこの論をもって、思量して、実践を究めれば無上の道に入れるのじゃ。
 もしこの法を聞き終えて怯弱を生じない者がいるならば、そのような者は仏陀の世継ぎとなり、必ず諸仏に悟れると予言されるのじゃ。
 たとえ三千世界に満ちるほどの人を教化して十善を実践させても、その功徳は食事の時間ほどの間でもこの法を思うことで起こった功徳にはかなわんのじゃ。
 その功徳は比べることも出来ないほどなのじゃ。

383避難民のマジレスさん:2022/04/28(木) 23:55:33 ID:aUvETSdc0
43.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号45-46)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号63-64)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。

 復次若人受持。此論觀察修行若一日一夜所有功徳無量無邊不可得説。假令十方一切諸佛各於無量無邊阿僧祇劫。歎其功徳亦不能盡。何以故謂法性功徳無有盡故。此人功徳亦復如是無有邊際

     復(また)次に、若し人、此の論を受持して、觀察し修行すること、若くは一日一夜ならんも、所有(しょう)の功徳  
    は、無量無邊にして、説くことを得べからず。假令(たとひ)、十方一切の諸佛、各(おのおの)無量無邊(へん)阿僧 
    祇劫に於て、其の功徳を歎ずるも、亦盡くすこと能(あた)はず。何を以ての故に。謂はく、法性(ほっしゃう)の功徳
    は盡くること有ること無きが故に。此の人の功徳も、亦復(またまた)是の如く邊際有ること無し。

     
 其有衆生於此論中毀謗不信所獲罪報經無量劫受大苦惱是故衆生伹應仰信不應毀謗以深自害亦害他人斷絶一切三寶之種以一切如來皆依此法得涅槃故。一切菩薩因之修行得入佛智故
 
     其れ衆生有って、此の論の中(うち)に於て、毀謗(きぼう)して信ぜずんば、獲(う)る所の罪報は、無量劫を經て、    大苦惱を受けん。是の故に衆生は、但(ただ)應(まさ)に仰(あふ)いで信ずべし。不應(まさ)に毀謗して〔すべから 
    ず〕、以て深く自ら害し、亦他人を害し、一切三寶の種を斷絶すべからず。一切の如來は、皆此の法に依って、 
    涅槃を得たまへるが故に。一切の菩薩、之に因って修行し、佛智に入るを以ての故に

 當知過去菩薩已依此法得成浄信現在菩薩今依此法得成浄信未來菩薩當依此法得成浄信是故衆生應勤修學
 
     當に知るべし、過去の菩薩は、已(すで)に此の法に依って、浄信を成(じゃう)ずることを得たり、現在の菩薩は、
    今此の法に依って、浄信を成(じゃう)ずることを得、未來の菩薩は、當に此の法に依って、浄信を成ずることを得 
    べきが故に。衆生應に勤めて修學すべし。

     
●流通分     

 諸佛甚深廣大義 我今随分總持説
 廻此功徳如法性 普利一切衆生界

      諸佛の甚深(じんじん)廣大の義を 我、今、随分し總持して説きたり、
      此の功徳の法性(ほっしょう)の如きを廻(めぐら)して、普(あまね)く一切衆生界を利せん。

以上で、『大乘起信論』おわりであります。
鬼和尚、ありがとうでありました。
次に取上げるべきおすすめの書籍があれば、ご教示いただきたく、お願い申し上げます。
(´・(ェ)・`)b

384鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/29(金) 23:49:20 ID:1d4drIFg0
 また次にもしある人がこの論を受持して、観察して修行すること一日か、一夜であったとしても、得る功徳は無量無辺であり、説くこともできないほどなのじゃ。
 たとえ十方の一切の諸仏が各々、無量あそぎ劫もその功徳を賛嘆しても、尽きないほどなのじゃ。
 なぜなのか。
 
 法性の功徳は尽きないからなのじゃ。
 この人の功徳もまた限界がないほどなのじゃ。

 もしある衆生がこの論を誹謗して信じないならば、得る罪報は無量劫も大苦悩をうけるほどなのじゃ。
 そうであるから衆生はこの論を信仰するのじゃ。
 誹謗したりすれば、深く自分を害し又他人をも害して、一切の三宝の種子を断つことになるのじゃ。

 一切の如来は皆、この法によって涅槃を得たのであるから。
 一切の菩薩は、これによって修行して、仏智に入るからなのじゃ。

 まさに知るとよいのじゃ。
 過去の菩薩は既にこの法によって、浄信を成就することができたのじゃ。
 現在の菩薩は今この法によって、浄信を成就することができたのじゃ。
 未来の菩薩はまさにこの法によって、浄信を成就することができるじゃろう。
 衆生はまさに勤めて修行し学ぶとよいのじゃ。

 諸仏の甚だ深く広く大きな法の意味を、我は今、意味の通りに従って記憶して説いたのじゃ。
 この法性の如き功徳を、回向して遍く一切衆生に利益を得させるのじゃ。

385鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/29(金) 23:50:27 ID:1d4drIFg0
>>383 ご苦労さんだったのじゃ。
 正に菩薩の行ないじゃ。
 つぎはまだないから休むとよいのじゃ。

386鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/30(土) 22:07:46 ID:1d4drIFg0

 まとめなのじゃ。

 この論は大乗の教えを総じて説いたものじゃ。
 そうであるから時々二乗が劣っていると、書いてあるが妄想であるから捨てて善いのじゃ。

 この論で重要なのは真如というものが衆生にあると説いたところなのじゃ。
 全ての観念を捨てれば、真如に至れると実践の法も教えているのじゃ。
 それが大事なのじゃ。

 全ての衆生に真如はあるのであるから、自分は悟りを得られないのではないかとか、思わなくて善いのじゃ。
 真如は心の奥底にあり、観念がなければ誰でもたどり着けるのじゃ。

 そして真如は不空であり、大きな功徳があるというのじゃ。
 大抵の大乗の経論等には、空の法を説いているから、全ては空と説くのじゃ。
 しかしこの論では、空とはただ執着や観念を捨てるための方便であるというのじゃ。
 その方便によってたどり着いた、真如は空ではなく、大きな功徳があると言うのじゃ。

 その功徳とは当然ながら悟りの功徳なのじゃ。
 一切の苦から逃れ、永遠の喜びに回帰する大きな功徳なのじゃ。
 それがこの論で最も記憶すべき重要な教えといえるのじゃ。

387避難民のマジレスさん:2022/06/22(水) 23:07:37 ID:dsxzq4TQ0
『パーマティー』和訳

帰敬偶
 1.我々は、[まず]、不死であり、無限の幸福であり、無限の知であるブラフマンに 帰命する。[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ない二種の無明に助けられ1、 この主宰者(ブラフマン)は、[現象世界を構成する]虚空と風と火と水と地となって仮現(vivarta)した2。また、こ[のブラフマン]から、現象世界の中の動くものと動 かざるもの3一(それには)種々なものがある一もすべて、生じたのである。
 2.この[ブラフマンの]息がヴェーダであり、眼差しが五元素(虚空・風・火・水・ 地)であり、微笑が動くものと動かざるものであり、眠りが[現象世界の]最終的掃滅である。
 3.[次に]我々は,永遠なるヴェーダとバヴァ神(シヴァ神)に帰命する。[このう ち、ヴェーダには]六種の補助学(ańga)4が付属しており、種々の不変化詞(avyaya) が含まれている。一方、また、[バヴァ神にも]六種の部分(ańga)5と種々の特質 (avyaya)6が備わっている。
 4.[次に]、我々は、マールタンタ神(太陽神)とティラカスヴアーミン神(力一ルッティケーヤ神)7とマハーガナパティ神8に帰命する9。[というのは、これらの神々は]あらゆることをかなえてくれる[ので]、万人の崇敬の的だ[からである]。
 5.[次に、我々は]『ブラフマ・スートラ』の著者ヴェーダ・ヴヤーサ10に帰命する。 [彼は]ハリ神(ヴィシュヌ神)の知的能力の化身であり、[種々な聖典の]創造主(著者)11で[も]ある。
 6.[最後に]我々は、[『ブラフマ・スートラ註解』の著者]シャンカラー[彼は]清らかな知を備え、海のように深い慈悲の心を備えている一に帰命する。そして、師 (シャンカラ)の著した明析かつ深遠な『註解』を[本書『パーマティー』の中で]解 説してゆくつもりである。
 7.我々の言葉は汚れていても、師の著作に触れることで清められるのである。ちょうど、路上の水がガンジス河に流れ込んで清められるように。

脚注
1二種の無明とは、「無始の実体」としての無明と「それぞれ前の誤認より生じた潜在印象」としての無明である。
2仮現とは、不二一元論学派に特有の考え方で、『ブラフマ・スートラ』が現象世界をブラフマンの展開と考え、両者に同等の実在性を認めていたのに対し、シャンカラ以後は現象世界 にブラフマンより低い実在性しか認めないという仮現説に変わってゆき、プラカーシャートマン(890-980 頃)において、いわゆる仮現説が成立した。
3動くものと動かざるものとは個人存在のことである。
4六種の補助学(ańga)とは、祭事学・音韻学・韻律学・天文学・語源学・文法学である。
5六種の部分(ańga)とは、全智者性・充足・無始の悟り・独立性・常に損なわれることのない力・不可思議な力であるなお、 (4)と(5)のańgaは、原文では、これら二種の意味を含 む掛詞となっている。
6種々の特質として、Vedākarupataru、は、次の十種(avyaya)を 挙げている。智・離欲・主宰者・苦行・真実・忍耐 ・堅忍・創造者性・自己覚醒・支配者性。なおこの語も、原文では、不変化詞(avyaya)との掛詞になっている。
7シヴァ神の息子で軍神として名高い神である。
8シヴァ神の息子で象の顔と人間の体を持ち、知恵の神・障害を取り除いてくれる神として崇拝されている。
9Vedāntakalpatruは、典拠として次の文を引用している。「常にア−デイトヤを供養し、スヴァーミンのティラカ(額標)をつけ、マハーガナパティを供養する者は必ず成功を得るだろう」。
10ヴェーダ・ヴヤーサとは、ヴェーダの編者ヴヤーサのことで、彼は、伝説上の聖仙である。『マハーバーラタ』や諸プラーナも、伝説上彼の編纂とされている。
11彼が創造主に比せられるのは、ハリ神の知的能力の化身であることによる。


文中、文末の数字には、脚注が付されているが、くま判断で、本文理解に必須と思われるもの以外は、原文表記は省略した。
(´・(ェ)・`)つ

388避難民のマジレスさん:2022/06/23(木) 07:43:44 ID:buUDcD120
くま質問
脚注の>「無始の実体」としての無明   とは、ブラフマン=全て、に含まれている「無明」という意味でありましょうか?
全てであるから、有も無もなく、従って、本来無い、「無明」、みたいな意味でありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

389鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/23(木) 23:11:08 ID:1d4drIFg0
↑ それは始まりもない昔からある無明という意味じゃな。
  本来実体としては無いものであるが、衆生には実体としてはたらくからそのようにいうのじゃ。
 ただ自分が昔からあるという観念なのじゃ。

390避難民のマジレスさん:2022/06/23(木) 23:52:11 ID:sirSeXnI0
『パーマティー』序論  
1.『註解』冒頭文の趣旨説明
1.1。ブラフマンは考察の対象に価しないという反対主張  p201-202  

  [反対主張]疑問の余地のないものや無意昧なものは、賢者の考察の対象[に価し] ない。[疑問の余地のないものとは]、たとえば、思考器官(manas)と結合した感覚 器官が、明るい光のもとで接触した壷12である。また[無意昧なものとは]、たとえば、 烏の歯である。そして、[もし、ウパニシャッドに説かれているように、ブラフマンが アートマンと同一なら]、このブラフマンも、[疑問の余地がなく無意昧なものであると いう点では、壷や烏の歯と]同様である13。従って、[ブラフマンには]、領域を覆うもの(vyāpaka)[である疑問の余地があり意味のあるものであるという性質]14とは相反する[領域に存在する性質、すなわち、疑問の余地がなく無音味なものであるという性質]が認められる。[従って、ブラフマンは考察の対象に価しないのである。]
  詳論すれば以下の通りである。[ウパニシャッドでは、アートマンとブラフマンの同一 性が次のように説かれている]。すなわち、[アートマンだけが]偉大であり(brhatva)、 [身体等を]成長させる[存在]である(brmhatva)。従って、アートマンだけがブラフマンと呼ばれるのである」15と。身体・器官・統覚機能(buddhi)・思考器官16ー [それらは]、「これ」という語(経験)の対象の対象(idamkārāspada)17である一とは異なり、こ[のアートマン]は、「私」という直接経験(aparokusāubhava)一[それは]疑いの余地がなく錯倒することのない[経験]である一によって、虫や蛾から神々や聖仙に至るあらゆる生命体に広く知られている。それ故、[アートマンは]考察の対象[に価し]ない。というのは、この世の中に、「私は存在しているのかいないのか」と疑う者は誰もいないし、「私は存在しない」と錯倒した[考えを抱く]者はいないからである。

脚注
12ニヤーヤ学派の知覚論では、直接知覚は、対象一感覚器官一思考器官一アートマンが結合した時に得られるとされている。この種の結合が存在しかつその時に外界の光が不足していなければ、常に正しい知覚が得られるのである。
13『ブラフマ・スートラ』は、冒頭のスートラⅠ.1.1で、その書の考察の対象がブラフマンであることを述べ、スートラI.1.3では、そのブラフマンが、聖典すなわちウパニシャッドから知られることを述べている。この立場は、ヴェーダーンタ学派の基本的立場であり、『ブラフマ・スートラ註解』も複註『パーマティー』もそれを受けついでいる。ここで反対主張が提示しているのは、この立場に対する疑問である。
14領域を覆うもの(vyāpaka)とか領域を覆われるもの(vyāpya)とは、推論において用いられる概念で、・・・丁寧な脚注がつづくが、長いので省略する。
I5ここでは・Brahmanの語義を/brh(増大する)、/brmh(成長させる)という語源から説明しているのである。
16個人存在は、アートマンとその添性を構成する五種の構成要素よりなる。すなわち、(1)粗大な身体と微細な身体、(2)主要生気、(3)語・手・足’排便器官・生殖器官の五種の行動器官、(4)視覚・聴覚・臭覚・味覚、触覚の五種の感覚器官(5)統覚機能・思考器官という内官からなる。
17「これという語(経験)と訳したidamkāraという語は、私という語(経験)と訳(し)たahamkāraという語と対をなしており、ahamkāraという語か、ahampratyaya(私という観念)やahamanubhava (私という経験)と同義であるということに見られるように、語レベルと観念や経験レベルのものの両者を含み込んだ語である。
(´・(ェ)・`)つ
鬼和尚、いつもありがとうであります。

391鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/24(金) 23:15:08 ID:1d4drIFg0

 ↑どういたしまして、またおいでなさい。

392鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/24(金) 23:24:51 ID:1d4drIFg0

 これはバーチャスパティミシュラが書いたバーマティーの主要部分の抜粋なのじゃ。
 シャンカラが書いたブラフマ・スートラの注解をさらに注解したのじゃ。

 最初にブラフマンとアートマンが一つであり、自己を疑うものはいないから、考察するべきではないという反対意見が出されたのじゃ。
 想定問答なのじゃ。

393避難民のマジレスさん:2022/06/24(金) 23:51:41 ID:IwvwqAX.0
つづき    p202-203
  「『私はやせている。私は太っている。私は行く云々』という表現(経験)に見られ るように、私という語は、身体の属性[を表わす語]と同格関係(sāmānyādhikarnya) 18にあるから、その対象が身体である」というのは誤りである。何故なら、[「私」とい う語(経験)の]対象がそれ(身体)であるとすると、「子供の頃、両親[と共に過ご した]経験を持つ同じ私が、老人となって、[今]、孫達[と共に過ごすこと]を楽しんでいる」という再認識(pratisamdhāna)は存在し得ないことになるからである。と いうのは、子供の頃の身体と老人になった時の身体には、再認識の手がかりとなるもの一もし、そ[の手がかり]があれば、[両者の]同一性が確認しうるのだが が、 全く[認められ]ないからである。従って、変化してゆくものの中にあって変わるこ となく存在するものは、それら(変化してゆくもの)とは異なってい。たとえば、花 びら[を繋ぎとめている、花輪の]糸が、それら(花びら)とは異なっているように。 それと同じように、身体は、子供の頃[から老人になるまで]次々と変化していっても、「私」という語(経験)の対象の対象(アートマン)は、変化することなく[身体中に]存在している[ので、それは]それら(身体)とは異なっているのである。また、 夢の中で[人問の身体とは]別の神の身体を得て、そ[の神の身体]にふさわしい楽し みを味わい、目が醒めた時、自分の身体が人問のものであるのを見て、「私は神ではなかった。人間だったのだ」と、[夢の中の]神の身体を拒斥することがある、[その時]でも、「私」という語(経験)の対象は拒斥されない。[このことからも、「私」という
語(経験)の対象が]身体と異なることは明らかである。また、[聖者は]、ヨーガの力で虎となり、[人問の身体と]別の身体[を得て]も、アートマンに変わりがないことを体験している。それ故、「私」という語(経験)の対象の対象は、身体ではない。この[「私」という語(経験)の]対象が、器官ではないのも、同じ理由による。というの は、「私は、[以前、視覚を通して物を]見ていた。その同じ私が、今、[触覚を通して物に]触れている」という[経験に見られるように]、「私」という[語(経験)の]対象は、[用いられる]器官が異なっても、再認識されているからである。一方、こ[の 「私」という語(経験)の対象]が、外界の対象と異なることは、より一層明らかである。また、[「私」という語(経験)の対象は、統覚機能や思考器官ではない。というの は]、統覚機能や思考器官19は、[行為する時に用いられる]手段[であるから]、「私は行為主体である」という形で行為主体を表す表現[に用いられる「私」という語]の対 象ではありえないからである。従って、[「私」という語(経験)の対象が身体等と]同じでなくても、「私はやせている。私は盲目である」等の用法は、「ベッドが叫んでいる」など[の表現]と同じように、ある種の比喩的用法(aupacārikā)だと[考えるの が]正しいのだ、と我々は思っているのである。

脚注
18 同格関係は、語レベルでは、複数の語の示す対象が同一であることを示し、存 在レベルでは、複数の属性が同じ基体に存在することを示す語である。
ここでは前者の意味で、「私」という語は「太っている」という語と同格関係にあり、「太っている」とい う語の示す対象は身体であるから、「私」という語の対象も身体ということになる。
19ヴェーダーンタ学派では、統覚機能も思考器官も意識のない物質的なものであって精神的なものでは ないと考えられている。また、統覚機能は決定、を本質とし、 思考器官は疑惑を本質とするという点が違うとされている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

394鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/25(土) 22:53:08 ID:1d4drIFg0

 ここでは私という主体が肉体ではないと説かれるのじゃ。
 さらに意思決定のための器官や思考のため器官も私ではないと説かれるのじゃ。
 それらは主体によって用いられる手段に過ぎないからというのじゃ。
 言葉によって私が行為するとか、決定するとか、思考するというのは比喩として用いられるだけなのじゃ。

395避難民のマジレスさん:2022/06/25(土) 23:25:00 ID:GCyNwt.I0
つづき   p203-204
  それ故、全く自明な「私」という経験(anubhava)によって理解されるアートマンは、 「これ」という語(経験)の対象の対象である身体・器官・思考器官・統覚機能・外界 の対象とは異なり、疑問の余地のないものであるから、考察の対象[に価し]ない。このことが、[まず、これまでの論議により]確認された。
  [また、アートマンが、考察の対象に価いしない第二の理由は、それが]無意味なものだからである。詳論すれば以下の通りである。この[アートマンの考察]に関して、 [ヴェーダーンタ側が]主張しようとしている[考察の]意味(目的 prayojana)は、 輪廻の止滅(samsāranivrtti)すなわち解脱(apavarga)である。ところで、輪廻の原因は、ありのままのアートマンに[人々が]開眼(anubhava)しないところにある。 [従って]ありのままのアートマンが知られれば、[輪廻は]止滅するはずである。[これがヴェーダーンタ側の主張であろう]。しかし、この[輪廻は、無始であり、ありのままのアートマンに関する知識(ātmayāthātmyajñāna)もまた無始である。[従って、 これらはたえず]共存している。[それ故、ありのままのアートマンが知られたところで]、どうしてこ[の輪廻]が止減したりしようか。というのは、[これらは]相反する ものではないからである。また、[人々が]ありのままのアートマンに開眼しないことなど、どうしてありえようか。というのは、ありのままのアートマンに関する知識とは、「私」という経験にほかならないからである。
  アートマンは、「私」という万人に自明の経験によって良く知られており、身体や器官とは異なるものである。[従って]ウパニシヤッドが千[集まって]も、[このアートマンを]別なもの(ブラフマン)に変えることはできない。何故なら、[「私」という自明の]経験と反するからである。実に、聖典は、千[集まって]も、壷を布に変えるこ とはできないのである。それ故、[「私」という自明の]経験と反するから、[アートマンとブラフマンの同一性を説く]ウパニシャッドは比喩的意味しかもたない、と[理解するのが]正しい。[これが]我々の考えである。
(´・(ェ)・`)つ

396鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/26(日) 22:46:26 ID:1d4drIFg0

 以上のような手段によらない直接経験の主体は、疑問の余地もないものであるから考察に値しないというのじゃ。
 
 さらに二つ目の理由が語られるのじゃ。
 それは無意味であるからというのじゃ。
  
 アートマンの知識とは輪廻があるかぎり存在するものであるというのじゃ。
 その知識によって輪廻がとまるわけではないからというのじゃ。
 
 私という直接経験が得られればアートマンに開眼するというのじゃ。

 そして知識によってアートマンがブラフマンに変化するものできないというのじゃ。
 その知識は比喩でしかないから無意味というのじゃ。

397避難民のマジレスさん:2022/06/26(日) 23:28:57 ID:D5cVyf3c0
1.2.『註解』冒頭文前半部の語句説明 204-206 104左/229

  「私」という観念の対象である主観20と「汝」という観念の対象の対象で ある客観は、光と闇のように本性が相反しており、[主・客が]互いに入れ換 わること(itaretarabhāva)は起りえない。[この事実は]広く認められているので、そ(主観と客観)の諸属性に関しても、互いに入れ換わることはなおさら起りえない。従って、「私」という観念の対象であり、かつ純粋精神を本質とする主観に、「汝」という観念の対象である客観とその諸属性を附託すること21、またそれとは逆に、主観とその諸属性を客観に附託することは、誤り(mithyā)であると[理解するのが]正しい。[にもかかわらず・・・・]

  [反対主張者が]このような(先に紹介したような)考えを抱いて[まず]疑問を提示し、[それに対し、師シャンカラが答えているのが]「私」という観念の対象[である主観]と「汝」という観念の対象[である客観]は[云々の箇所]である。このうち、「私」という観念の対象[である主観]と「汝」という観念の対象[である客観]はから誤りであると[理解するの]が正しいまでが、[反対主張者の]疑問の箇所であり、にもかかわらず以下が、[それに対する]答えの個所である。この[答えの箇所には]にもかかわらず(tathā api)と述べられているので、疑問の個所に、たとえ...であっても(yady api)[という語]を[補って]読むべきである。[この箇所は]「私」という観念の対象[である主観]と「これ」という観念の対象[である客観]は、と言うぺきところであるが、[ここで]「汝」[という語]が用いられているのは、[主・客が]完全に異なることを暗示するためである。その典拠は、「『汝』という語は、『私』と いう語と相入れない(pratiyogin)。しかし、『これ』という語はそうではない。何故なら、『これが(ete)私達である。この(ime)私達が座っている』という用法が、よく 見られるからである」と[いう章句にある]。主観(visayin)とは、純粋精神を本質と するアートマンのことであり、客観(visaya)とは、物質を本質とする統覚機能・器 官・身体・外界の対象のことである。これら(統覚機能等)[が対象と呼ばれるの]は、 純粋精神であるアートマンを対象化する(visinvanti)22するからである。[すなわち、 アートマンを]束縛したり、[形態のないアートマンを]自己の形態で規定したりなどするからである。[このように主・客の]本質が完全に相反するところに、相互附託の 起りえない理由があり、[その]例として、光と闇のようにと[述べられているのである]。というのは、光と闇のように明らかに異なる存在(samudācaradvrttinī)23か互 いに[相手の]本質を共有しあっていると考えることは、決して誰にもできないから である。[このことが本文中では、主・客が]互いに入れ換わることが起りえないと述べられているのである。[主・客が]互いに入れ換わるとは・[主・客が]互いに[相手の]性質を有すること(itaretaratva)・[主・客の]同一性(tādātmya)等[の意味]である。[そして]それ(互いに入れ換わること)が起りえない時にというのが、[文の脈略である]。

脚注
20アートマンの本性である純粋精神が、意識のない物質的な、動作を本質とする統覚機能に附託されると、統覚機能は、アートマンの形相をとって純粋精神のようなものとなる。その時、私は・・・であるとい う観念が統覚機能に起こる。この観念が「私」という観念である 。だか ら、アートマン(主観)は、「私という観念によって間接的に(統覚機能のとったア−トマンの形相を通 して)指し示されるという意味で、「私」という語の対象といわれる。
21附託とは、「以前に経験されたXが、想起の形でYに顕現すること」と定義される。例えば、真珠母貝を見て、以前に見たことのある銀を、想起の形で、その真珠母貝の中に見ることである。不二一元論においては、この附託の観念は、単に誤認を説明する手段であるぱかりてなく、ブラフマンと現象世界との関係を説明する役割も担っている。
22ここでは、対象(visaya)の語源を/vis(束縛する)という動詞から説明しているのである。
23
(´・(ェ)・`)
(つづく)

398避難民のマジレスさん:2022/06/27(月) 10:44:15 ID:mgKnwXpc0
くまなりまとめ1。『パーマティー』序論  1.『註解』冒頭文の趣旨説明 

反対主張 
(一)考察の対象に価しない理由1
1、賢者の考察の対象は、疑問の余地があるものであるべき。ウパニシャッドに説かれているように、ブラフマンが アートマンと同一なら、このブラフマンは、疑問の余地が無い。(論理的反対主張)
2、(語源的には、)アートマンが偉大であり(brhatva)、 身体等を成長させる[存在]である(brmhatva)ので、ブラフマンと呼ばれるのであり、身体、感覚、思考等とは異なる。
3、身体、感覚、思考等は、経験を通して観念を介して間接的に知れるものであるが、「私」という「直接経験」は疑いの余地が無い。
4、私という語は、身体の属性を表わす語と同格関係にあるから、その対象が身体である
 というのは誤りである。
 加齢に従い身体は変化するが、

 変化してゆくものの中にあって変わることなく存在するものは、それら変化してゆくものとは異なっている。
 「私」という語(経験)の対象の対象(アートマン)は、変化することなく身体中に存在しているので、それはそれら(身体)とは異なっているのである。
 「私」という語(経験)の対象の対象は、身体ではない。又、器官でもない。
 「私は、以前、視覚を通して物を見ていた。その同じ私が、今、触覚を通して物に触れている」という経験に見られるように、「私」という語(経験)の対象は、用いられる器官が異なっても、再認識されているからである。
 一方、この 「私」という語(経験)の対象が、外界の対象と異なることは、より一層明らかである。また、「私」という語(経験)の対象は、統覚機能や思考器官ではない。というのは、統覚機能や思考器官19は、行為する時に用いられる手段であるから、「私は行為主体である」という形で行為主体を表す表現に用いられる「私」という語の対象ではありえないからである。従って、「私」という語(経験)の対象が身体等と同じでなくても、「私はやせている。私は盲目である」等の用法は、ある種の比喩的用法だと考えるのが正しいのである。

脚注
19ヴェーダーンタ学派では、統覚機能も思考器官も意識のない物質的なものであって精神的なものでは ないと考えられている。また、統覚機能は決定、を本質とし、 思考器官は疑惑を本質とするという点が違うとされている。

  全く自明な「私」という経験によって理解されるアートマンは、「経験」の対象の対象である身体・器官・思考器官・統覚機能・外界 の対象とは異なり、疑問の余地のないものであるから、考察の対象[に価し]ない。

(ニ)考察の対象に価しない理由2
 アートマンを考察の対象にすることが無意味だからである。
 ヴェーダーンタ側が主張しようとしている考察の意味(目的)は、 輪廻の止滅すなわち解脱である。ところで、輪廻の原因は、ありのままのアートマンに人々が開眼しないところにある。 従ってありのままのアートマンが知られれば、輪廻は止滅するはずである。これがヴェーダーンタ側の主張であろう。しかし、この輪廻は、無始であり、ありのままのアートマンに関する知識もまた無始である。従って、 これらはたえず共存している。それ故、ありのままのアートマンが知られたところで、どうしてこの輪廻が止減したりしようか。というのは、これらは相反する ものではないからである。また、人々がありのままのアートマンに開眼しないことなど、どうしてありえようか。というのは、ありのままのアートマンに関する知識とは、「私」という経験にほかならないからである。
  アートマンは、「私」という自明の経験によって良く知られており、身体や器官とは異なるものである。従って、このアートマンを別なもの(ブラフマン)に変えることはできない。何故なら、「私」という自明の経験と反するからである。従って、アートマンとブラフマンの同一性を説くウパニシャッドは比喩的意味しかもたない、と理解するのが正しい。

何やら、説得力のある反対主張と思えてしまうくまであります。
(´・(ェ)・`)ゞ

399鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/27(月) 23:07:57 ID:1d4drIFg0
 ↑そのような理解でよいのじゃ。

 それに対する反論として、まずは主客が入れ代わったりしないことをシャンカラは述べているというのじゃ。
 光と闇のように主客はあいいれない性質であるというのじゃ。
 つまりアートマンと、意思とか思考の機能はいれかわることはないというのじゃ。
 相互に依託する事もないというのじゃ。

400避難民のマジレスさん:2022/06/27(月) 23:33:02 ID:bd.fxOME0
(つづき)   206-207
   [反対主張に対する反論][主観であるアートマンと客観である統覚機能等という]基体[どうし]を互いに入れ換える(相互に附託しあう)ことはないだろう。しかし、 そ[の基体]の諸属性、すなわち、精神性と物質性、永遠性と無常性等を相互に附託しあうことはありうるのではないか。というのは、[よく]経験されるように、基体[どうし]が違うことは分かっていても、その諸属性を附託することはあるからである。たとえば、水晶は、非常に透明なので、ハイビスカスの花が反映すると、花と違うことは 分かっていても、「赤い水晶」だと[思う。このように、花の属性である]赤さが[水晶の属性と]誤認されること(vibhrama)があるのである。
   [反対主張者の答え]だから[本文中で]その諸属性に関してもと言っているのである。
[主・客の]諸属性が互いに入れ換って[別々の]基体に存在すること(itaretaratra,dharmini dharmānām bhāvah)、すなわち、相互に交換されること(vinimaya)、そ れは起りえない。[本文のこの箇所の]趣旨は以下の通りである。実に、色彩(rūpa) のある場合には、実体(dravya)Aは、実体Bと違うとは分かっていても、非常に透明なために、[Bの]影を宿し、[AにBの属性があると誤解されることがあり]得るで あろう。しかし、主観である純粋精神アートマンには、色形がない[ので]、客観の影が映ることはありえない。たとえば、[クマーリラも]「[色形のない]音声・香・味等が、どうして、[他のものに]反映しようか」24と言っているではないか。従って、この 場合には、消去法(pāriśasya)25を用いることにより、主観と客観の本質を互い.に混同した時にだけ、その諸属性も互いに混同される、すなわち、相互に交換される[という可能性]が残ることになる。[それ故]もし、これら[主観と客観という]基体[どうし]が完全に異なることを理解して、[その両者を]混同[さえ]しなければ、その諸属性を混同することはなおさらない。何故なら、[属性間の関係は]それぞれの基体を介在して[成りたって]いるので、[基体間の関係に比べて]疎遠だからである。だから、[本文中に]なおさら[・・・ない]と述べてあるのである。それとは逆にとは、客観とは逆にという意味である。[また]誤り(mithyā)という語は隠覆(apahnava)26を意味している。
   [従って、本文前半部の]趣旨[を要約すれば]次の通りである。すなわち、「[XとYとの]附託[が存在する領域]は、[両者の]違いに対する無理解[の存在する]領 域により覆われ(vyāpta)27ている。しかし、こ[の主観と客観の場合]には、それとは逆で、[主・客の]違いが理解されている。[従って]これ(主・客の違いに対する理解)が無理解を取り払えば、この[無理解の存在する]領域に覆われている附託も取り 払われることになる」[というのが趣旨である]。[そして]、たとえ[附託は]誤りで ある[と理解するのが]正しくても[という前半部は]にもかかわらず[以下の後半部 に]かかっていくのである。

脚注
24
25 反対主張者は、属性の附託が起こりうる可能性として、属性が基体に反映する場合で、基体どうしの附託(混同)を前提として属性の附託(混同)が起る場合の二つを想定し、ここまでで、前者の可能性がなくなったので、消去法によって残るは後者の可能性だけであると言っているのである。
26隠覆という語は、誤りが物事の真の姿を覆い隠すことから、ここで誤りと 同義語とされている。Pańcapādicāも、この同じ箇所に対する註で、誤り(虚妄)という語には この隠覆と[非実であるとも非実在であるとも]表現し得ないことの二義あることを述べ、この個所では隠覆の意味にとっている。Bhāmatīもこれに従ったのであろう。
27脚注14参照。
(´・(ェ)・`)つ

401鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/28(火) 23:39:12 ID:1d4drIFg0

 次は基体が入れ替わったり、付託することはなくとも属性が付託されることはあるのではないかというのじゃ。
 透明な水晶に赤い花が反映すると、赤い属性が付託されるようにというのじゃ。

 それに反論するのじゃ。
 主観であるアートマンは色形がないので、客観の影が反映することはありえないというのじゃ。
 もしそのように誤認したのならば、それは主観と客観の本質を理解せずに混同したときだけというのじゃ。

402避難民のマジレスさん:2022/06/28(火) 23:43:05 ID:t8tOrmO.0
1.3.『註釈』冒頭文後半部の趣旨説明[I]に価するという教証  p207-210 105右/229

  ここ(本文の後半部)では、[先に紹介した反対主張に対して、師シャンカラは]、も し「私」という経験にアートマンの真の姿(砒matattVa)が顕現しているのなら、[反 対主張者の]言う通りだろうが、[実際にはコそうではないのだ、ということを言お
うとしているのである。詳論すれば次の通りである。天啓聖典・聖伝書・叙事詩・プ ラーナには、アートマンの真の姿は、あらゆる添性(upadhi)28に限定されない、無
限の歓喜・精神性そのものであり、無関心(ud酎na)であり、不二(advitTya)であ る、と説かれている。これら[天啓聖典等の章句コは、序論部(upakrama)・本論部 (paramar≦a)・結論部(upas岬hara)を通じて、アートマンのこのような真の姿を繰
り返し(kriy語amabhiharepa)述べている。[従ってコそれ(アートマンのこのような 真の姿)が[天啓聖典等の章句の]主題である。[それ故たとえ]インドラ神でも、[こ れらの章句を]比喩的意味に解することはできない。その典拠は、「『なんて美しいん だろう。なんて美しいんだろう』[という例に見られるコように、繰り返して述へれば (abhy語ena)、意味が強まることはあっても弱まることはない。〔従って]比喩的意味になることなどなおさらない」29と[いう章句にある]。一方、「私」という経験の示す ところによれぱ・アートマンは・有限であり・多種多様な悲しみや苦しみ等に悩まされ てい乱[この「私」という経験の]対象が・どうして・アートマンの真の姿であった
りしようか。また、どうして、[私という経験に]誤りのないことがあろうか。
   [反対主張]直接知覚は、[聖典よりコ先に存在する認識根拠(jye§tapram師a)30で
あ乱[従って]聖典はそれ(直接知覚)に基づいている。[アートマンとブラフマンの 同一性を説く]聖典は・[この]直接知覚(私という経験)に反するので、誤った認識根拠であるか比喩的意味を持つか[のいずれか]である。
   [答論]こ[の反対主張]は誤りである。何故なら、[聖典]自身から生じた認識の妥当性[を証明するの]に、[聖典が他の認識根拠を]必要とすることはないからであ る。[その第一の理由は]、それ(聖典)は、[天啓であって]人間の手になるものでは ないので、欠陥があるのではと疑う余地が全くないからである。[また、第二の理由は、 他の認識根拠では知ることも拒斥することもできない事柄が、聖典から]知られることからも分かるように、それ(聖典)は、自立した認識根拠だからである。
   [反対主張][確かに、聖典は、それ自身からすでに生じた]認識の妥当性[を証明するの]に、[直接知覚に]基づくことはない。しかし、[聖典から認識が]生ずるため には、直接知覚が必要である31。[ところが、アートマンとブラフマンとの同一性を説く聖典は]、そ[の直接知覚(私という経験)]に反している。従って、[この場合、聖 典から認識が]生じないことになり、[聖典は]誤った認識根拠となる。
  [答諭]そうではない。というのは、[アートマンという真理に関する認識を]生み出す[聖典]は、[直接知覚には]反しないからである。何故なら、もし[聖典から生ずる認識が直接知覚の日常的な認識の妥当性を]否定すれば、[聖典から認識が生ずる ための]原因が存在しなくなるので、[認識が生じ]ないことになる。しかし、[実際には]、聖典[から生ずる]認識が直接知覚の日常的な認識の妥当性を否定することは ない、[聖典から生ずる認識が否定するのは、直接知覚の]究極的な(アートマンとい う真理に対する)認識の妥当牲である。また、それ(究極的な認識根拠としての直接知覚)は、それ(真理の認識)を生み出すことはない。というのは、よく経験されるよ うに、真理の認識は、世俗的な認識根拠[としての直接知覚]一[それが]究極的な (アートマンという真理に対する)認識根拠ではないにもかかわらずーから生ずるか らである、たとえば、[世の人々が]、長いとか短いなどの性質一[それは、音声の属性であって音節の]属性ではないのだが一を、音節に附託して、「真理」を認識する根拠としているように。すなわち、世の人々は、ナーガという語から象を、ナガという 語から木を[それぞれ]理解するが、[それは]誤りではないのである。

脚注
29 30
31 語から認識が生ずるのは、語を聞いたときだけである。この意味で聖典(語)から認識が生ずるのには、直接知覚が必要である。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

403避難民のマジレスさん:2022/06/28(火) 23:45:09 ID:t8tOrmO.0
くまなりまとめ2
1.2.『註解』冒頭文前半部の語句説明 

 「私」という観念の対象である主観20と「汝」という観念の対象の対象である客観は、主・客が互いに入れ換 わることは起りえない。従って、「私」という観念の対象であり、かつ純粋精神を本質とする主観に、「汝」という観念の対象である客観とその諸属性を附託すること21、またそれとは逆に、主観とその諸属性を客観に附託することは、誤りであると理解するのが正しい。
 主観とは、純粋精神を本質とするアートマンのことであり、客観とは、物質を本質とする統覚機能・器官・身体・外界の対象のことである。これら(統覚機能等)が対象と呼ばれるのは、 純粋精神であるアートマンを対象化する22からである。すなわち、 アートマンを束縛したり、形態のないアートマンを自己の形態で規定したりなどするからである。このように主・客の本質が完全に相反するところに、相互附託の起りえない理由があり、その例として、光と闇のようにと述べられているのである。

脚注
20アートマンの本性である純粋精神が、意識のない物質的な、動作を本質とする統覚機能に附託されると、統覚機能は、アートマンの形相をとって純粋精神のようなものとなる。その時、私は・・・であるとい う観念が統覚機能に起こる。この観念が「私」という観念である 。だか ら、アートマン(主観)は、「私という観念によって間接的に(統覚機能のとったア−トマンの形相を通して)指し示されるという意味で、「私」という語の対象といわれる。
21附託とは、「以前に経験されたXが、想起の形でYに顕現すること」と定義される。例えば、真珠母貝を見て、以前に見たことのある銀を、想起の形で、その真珠母貝の中に見ることである。不二一元論においては、この附託の観念は、単に誤認を説明する手段であるぱかりてなく、ブラフマンと現象世界との関係を説明する役割も担っている。
22

  [反対主張に対する反論]主観、客観の諸属性、すなわち、精神性と物質性、永遠性と無常性等を相互に附託しあうことがある(=反対主張?)のは、「誤認」に基づいている(=反論)。
たとえば、水晶は、非常に透明なので、ハイビスカスの花が反映すると、花と違うことは 分かっていても、「赤い水晶」だと思う。このように、花の属性である赤さが水晶の属性と誤認されることがあるのである。
 [反対主張者の答え]色彩(rūpa) のある場合には、実体Aは、実体Bと違うとは分かっていても、非常に透明なために、Bの影を宿し、AにBの属性があると誤解されることがあり得るであろう。しかし、主観である純粋精神アートマンには、色形がないので、客観の影が映ることはあり得ない。
主観と客観の本質を互いに混同した時にだけ、その諸属性も互いに混同される、すなわち、相互に交換されるという可能性が残ることになる。25(反対主張の答?)
それ故もし、これら主観と客観という基体どうしが完全に異なることを理解して、その両者を混同さえしなければ、その諸属性を混同することはなおさらない。
 
脚注
25 反対主張者は、属性の附託が起こりうる可能性として、属性が基体に反映する場合と、基体どうしの附託(混同)を前提として属性の附託(混同)が起る場合の二つを想定し、ここまでで、前者の可能性がなくなったので、消去法によって残るは後者の可能性だけであると言っているのである。

くま質問
「統覚」をググると、↓
哲学,心理学用語。 対象がよく理解され明瞭に意識される知覚の最高段階,あるいは個々の知覚内容を統合する精神機能をさす。 カントによって対象を認識する前提としての意識の統一をさして用いられた
とあるが、脚注20では、>意識のない物質的な、動作を本質とする統覚機能・・・とされている。
これは、「統覚」=精神機能は、意思的な側面よりも条件反射みたいな、物質的側面が本質であるという理解で良いでありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

404鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/29(水) 23:23:29 ID:1d4drIFg0
 ↑そうじゃろう。
 それも肉体の機能にすぎないというような感じじゃな。
 そうであるから主体ではなく、アートマンでもない客体であるというのじゃな。
 アートマンの法は主体でないものを全て排除していくから、全てと融合していくブラフマンの法とは道が違うということじゃな。

405鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/29(水) 23:37:54 ID:1d4drIFg0

 聖典に述べられているアートマンは真の姿であり、比喩ではないというじのじゃ。
 また直接経験も間違うことがあるから、考察が必要というのじゃ。

 また反対意見なのじゃ。
 聖典は直接知覚に基づいて書かれただけというのじゃ。
 そのもの直接知覚ではないから誤謬か、比喩であるというのじゃ。

 それに反論するのじゃ。
 聖典が誤謬か比喩でしかないならば、それを証明する他の経典が必要となるがそれはいらんというのじゃ。
 聖典は人が書いたのではなく神からの天啓であるからというのじゃ。
 さらに他の認識根拠では知られないことも、聖典で知ることができるからというのじゃ。

406避難民のマジレスさん:2022/06/29(水) 23:41:27 ID:2Eoa7xoQ0
(つづき)    p210-213

  [反対主張][比喩的意味]以外に趣旨の[理解でき]ない語は、[語]自身の意味に関して言えば、比喩的意味がある。
  〔答論]こ[の反対主張]は誤りである。というのは、[シャヴァラ]が「儀軌の場合、語には、[原義]以外の意味はない」32と(述べている)からである。また、先に生じたものであるということは、[それが後に生ずるものには]必要でない場合には、[後に生ずるものに]拒斥される(bādhya)理由にはなるが、[後に生ずるものを]拒斥する(bādhaka)理由にはならない33。というのは、よく経験されるように、[真珠母貝を銀と見誤った時に]、銀の認識は[真珠母貝の認識より]先に生じてはいるが、後に生ずる真珠母貝の認識こよって拒斥されるのが経験されるからである。何故なら、それ (真珠母貝の認識)は、それ(銀の認識)を拒斥することで成り立っているので、それ(銀の認識)が拒斥されなければ、生ずることができないからである。そして、すでに明らかにしたように、究極的な(アートマンという真理に対する)認識根拠として[の直接知覚]は、[後に聖典から生ずる認識に]必要ではない。[従って、聖典から生ずる認識によって拒斥されるのである]。また、偉大な聖者[ジャイミニの著した]スートラも、「前後関係がある場合には、前のほうが効力は弱い。たとえば基本祭(prakrti) のように」34と、同じ趣旨のことを[述べている]。同様に、「認識が互いに依存し合うことなく生ずる場合には、先[に生じた]ものより後に[生じた]もののほうが強力で ある、と理解すべきである」35と[いう章句もある]。


脚注
32ヴェーダは、儀軌・真言・祭名・禁令・ 釈義の五部門に分れる。「この中儀軌とはVeda中、未知の好ましき事柄を教える部分のことである。この儀軌は又、当該儀軌以外の量(認識根拠)によっては知ることの出来ない、有意義な結果をもたらす好ましい事柄を命ずるものであるという点にその存在意義を有する。 例えば、(『天界を望む者は[祭]を行うべし』とい う儀軌は、[当該儀軌]以外の量によっては知ることの出来ない、天界という有意義な結果をもたらす護 摩を行うことを吾等に命じているのである」。
33拒斥とは、本文中の銀と真珠母貝の例に見られるように、先に生じた認識を後に生じた認識が否定することである。不二一元論において、この拒斥の観念は、単に誤認を説明する手段であるばかりでなく、ブラフマンの知により、現象世界の真実性・実在性が拒斥されるというように、ブラフマンと現象世界との関係を説明する役割も担っている。
34「祭式は基本祭と応用祭とに大別できる。基本祭とはその祭式に対して従属関係にあるものがすぺてVedaの中で詳しく述べられている祭式のことである。応用祭とは基本祭に若干の変化をつけて行われる祭式のことである。このために応用祭について述べているVedaの章節中では応用祭に対して従属関係にある凡ゆる要素 が述べられているわけではなく、基本祭と異る部分だけが述べられている。そして基本祭と同じ部分は、『応用祭は基本祭にならって行うべし』)という拡張解釈の法則によって了解されるものとされている」。この場合、ヴェーダの 中で述べられている基本祭の従属要素(これが先に適用される)と、同じくヴェーダの中に述べられてい
る応用祭の従属要素(これが後に適用される)とが矛盾したら、後者が前者を拒斥して応用祭に適用される。例えば・基本祭ではクシャ草を供物として用いるように規定されていても、応用祭でシャラ草を用い るように規定されていれば、後者に従うのである。
35
(´・(ェ)・`)つ

>>402
訂正
以下の他、[  ]←が、コ になっている等細かい間違いがあります。

(matattVa)→ ātmatattva
(upadhi)→ upādhi
(ud酎na)→ udāsīna (advitTya)→ advitīya
(paramar≦a)→ parāmarśa
(upas岬hara)→ upasamhāra
(kriy語amabhiharepa)→
kriyāsamabhiharena
(abhy語ena)→ abhyāsena
(jye§tapram師a)→ jyestapramāna

407鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/30(木) 00:51:32 ID:1d4drIFg0


 さらに反対意見なのじゃ。

 聖典から正しい認識が生じるためには、直接知覚が必要というのじゃ。
 しかし、聖典は直接知覚に反しているというのじゃ。
 そうであるから聖典からは正しい認識が生じないことになり、誤った認識根拠になるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 聖典は直接知覚には反しないというのじゃ。
 聖典から生ずる認識が直接知覚の日常的な認識の妥当性を否定することはないからというじゃ。
 聖典から生ずる認識が否定するのは、直接知覚のアートマンという真理に対する妥当性だというのじゃ。

 要するに聖典によって、知覚できる全てがアートマンではないと認識できるというのじゃな。
 アートマンとは認識できない認識主体であるからのう。
 何かをアートマンであると知覚したならば、それはアートマンではないのじゃ。
 それを伝えられるから聖典は直接知覚に反しないものであり、必要であるというのじゃな。

408避難民のマジレスさん:2022/06/30(木) 10:11:20 ID:e7ptxvTU0
くまなりまとめ3
  天啓聖典等の章句は、アートマンの真の姿は、あらゆる添性に限定されない、無限の歓喜・精神性そのものであり、無関心であり、不二である、という、アートマンの真の姿を繰り返し述べている。従って、アートマンのこのような 真の姿が天啓聖典等の章句の主題である。それ故、こ れらの章句を比喩的意味に解することはできない。その典拠は、『繰り返して述べれば 、意味が強まることはあっても弱まることはない。〔従って]比喩的意味になることなどなおさらない』29
一方、「私」という経験の示すところによれぱ、アートマンは、有限であり、多種多様な悲しみや苦しみ等に悩まされている。この「私」という経験の対象が、どうして、アートマンの真の姿であったりしようか。また、どうして、私という経験に誤りのないことがあろうか。
   [反対主張]直接知覚は、聖典より先に存在している。従って、聖典は直接知覚に基づいている。アートマンとブラフマンの 同一性を説く聖典は、この直接知覚(私という経験)に反するので、誤った認識根拠であるか比喩的意味を持つかのいずれかである。
   [答論]この反対主張は誤りである。何故なら、聖典自身から生じた認識の妥当性を証明するのに、聖典が他の認識根拠を必要とすることはないからである。その第一の理由は、聖典は、天啓であって、疑う余地が全くないからである。また、第二の理由は、聖典は、自立した認識根拠だからである。
   [反対主張]確かに、聖典は、それ自身からすでに生じた認識の妥当性を証明するのに、直接知覚に基づくことはない。しかし、聖典から認識が生ずるためには、直接知覚が必要である。ところが、アートマンとブラフマンとの同一性を説く聖典は、その直接知覚(私という経験)に反している。従って、この場合、聖典から認識が生じないことになり、聖典は誤った認識根拠となる。
  [答諭]そうではない。というのは、アートマンという真理に関する認識を生み出す聖典は、直接知覚には反しないからである。何故なら、もし聖典から生ずる認識が直接知覚の日常的な認識の妥当性を否定すれば、聖典から認識が生ずるための原因が存在しなくなるので、認識が生じないことになる。しかし、実際には、聖典から生ずる認識が直接知覚の日常的な認識の妥当性を否定することは ない、聖典から生ずる認識が否定するのは、直接知覚の究極的なアートマンという真理に対する認識の妥当牲である。
また、究極的な認識根拠としての直接知覚は、真理の認識を生み出すことはない。というのは、よく経験されるように、真理の認識は、世俗的な認識根拠としての直接知覚一それが究極的な アートマンという真理に対する認識根拠ではないにもかかわらずーから生ずるからである。

  [反対主張]比喩的意味以外に趣旨の理解できない語は、[語]自身の意味に関して言えば、比喩的意味がある。
  〔答論]この反対主張は誤りである。
 先に生じたものであるということは、それが後に生ずるものには必要でない場合には、後に生ずるものに拒斥される理由にはなるが、後に生ずるものを拒斥する理由にはならない。
究極的なアートマンという真理に対する認識根拠としての直接知覚は、後に聖典から生ずる認識に必要ではない。従って、聖典から生ずる認識によって拒斥されるのである。「前後関係がある場合には、前のほうが効力は弱い。たとえば基本祭のように」34「認識が互いに依存し合うことなく生ずる場合には、先に生じたものより後に生じたもののほうが強力で ある、と理解すべきである」35という章句もある。

鬼和尚解説: 要するに聖典によって、知覚できる全てがアートマンではないと認識できるというのじゃな。 アートマンとは認識できない認識主体であるからのう。 何かをアートマンであると知覚したならば、それはアートマンではないのじゃ。 それを伝えられるから聖典は直接知覚に反しないものであり、必要であるというのじゃな。
・・・、バーマティーの解説本を読んでも、鬼和尚に↑の様に解説してもらわないと、深い理解ができないくまであります。
(´・(ェ)・`)つ

409鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/30(木) 23:16:54 ID:1d4drIFg0
↑そうかもしれん。
 アートマンやブラフマンについての知識がもとからないと難しいかもしれんのじゃ。
 基本が分かっていれば理解もできるのじゃ。

410鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/30(木) 23:32:27 ID:1d4drIFg0
>>406 またまた反対意見なのじゃ。
 比喩として以外に理解できない言葉は比喩であるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 
 比喩ではないと書いてあるのじゃ。
 
 貝を銀と見誤って、後に貝と気づくように、後の認識が正しいというのじゃ。
 瞑想中にアートマンを認識したとか思っても、経典によるアートマンは認識できないという知識で排斥できるというのじゃ。
 そうであめから聖典による考察が必要なじゃ。

411避難民のマジレスさん:2022/07/01(金) 05:39:25 ID:9bAKjdDg0
1.4.『註釈』冒頭文後半部の趣旨説明[II]
ブラフマンは考察に価するという論証      p210-211

   また、[反対主張者は]、アートマンが「私」という語(経験)の対象であることを論証しようとしていたが、[その]彼らでさえ、これ(「私」という語(経験)の対象としてのアートマン)が、[アートマンの]真の姿ではないことを認めないわけにはいけない。というのは、[「私」という語(経験)の対象が真のアートマンだとすると、アート マンは]遍在36している[はずなのに]、「私はこの家の中だけにいても知っている」と [いう表現(経験)に見られるように]、有限なものと理解されることになるからである。[それは]ちょうど、平地にいる人には、非常に高い山の頂上にある大木が、草の葉のように見えるようなものである。
  [反対主張]これは、身体が有限であることが経験されているのであって、アートマ ンが[有限であることが経験されているのでは]ない。
  [答論]それは誤りである。というのは、もしそうだとすれば、[この表現(経験) は]、「私は」と[いう形を取ら]ずに、[「身体が」という形を取るはずである]。また、 [「私」という語は]比喩的意味[で用いられており、実際には身体を意味している]とすると、[身体は物質的なものだから]、「知っている」と[いう表現には]ならないは ずである。
  さらに、比喩的意味[が成り立つの]は、話し手と聞き手の間に、「X[を意味する]語がYに対して用いられるのは、[XとY に共通に]認められる性質を通してである」 という理解が[成立している]時である。[従って]、それ(比喩的意味が成り立つ)に は、[XとYとの]相違を知っていることが前提となっている。それ(比喩的意味)の例には次のようなものがある。アグニホートラという語は、日々行わなければならないアグニホートラ祭をもともとは意味するが、「アグニホートラ祭を一ヶ月間行うべし」37という[儀軌に見られる]ように、カウンダパーイナーム・アヤナ祭に[用いられる。 これは]比喩的用法である38。何故なら、[この場合、アグニホートラという語が用い られるのは]、行わなければならない事柄(sādhya)が似ているからであり、[両祭式 が]異ることは、文脈(prakarana)39の違いにより確定しているからである。また、 ライオンという語が[人に]用いられるのも、人がライオンと違うことは経験上広く知 られているからである。[従って]、もし[「私」という語がもともとはアートマンを、意味していると経験的に知っていれば]、X(アートマン)[を意味する]語が身体等(Y) に[用いられることになるから]、比喩的用法ということになる。しかし、[実際には、 人々は]、「私」という語の一義的意味は身体とは別のもの(アートマン)であると、経験上はっきりと知っているわけではない。[従って、比喩的用法とは考えられない]。

脚注
36アートマンが遍在であることは、『ブラフマ・スートラ』において述べられており、シャンカラもヴァーチャズバティ・ミシュラもこの見解を受けついでいる。
37
38アグニホートラ祭は、日々義務として行わなければならない祭式で、一方、カウンダパーイナーム・アヤナ祭は、臨時に行われる祭式である。 「アグニホートラ祭一ヶ月を間行うべし」という儀軌中のアグニホートラという語がカウンダパー イナーム・アヤナ祭に用いられるのは、第一には両祭式において行わなければならない事柄、すな わち祭式が基本的に同じだからであり、第二には文脈が違うことによる。本文は、実際には、「ウパサッド(供養祭)を行なったのち、アグニホートラ祭を一ヶ月間行なうぺし」となっている。このウパサッド供養祭は、アグニホートラ祭では行われていない。従って、ここで命じられている祭式は、 アグニホートラ祭とは異なることになる。これが文脈の違いである。
39文脈とは、祭式の違いを判断する六つの認識根拠、すなわち、別の語・ 反復・数・従属要素・文脈・名称の一つであ る。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

412鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/02(土) 00:15:23 ID:1d4drIFg0

 さらに反対者が私という言葉の対象がアートマンではないとわかるはずというのじゃ。
 それは観念であるからのう。
 アートマンはどこにでも偏在しているのに、私は部屋にいるとか言えば有限なものとなるからなのじゃ。
 
 それに反論するのじゃ。
 それは身体が有限であるだけだというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 それならば身体がというように話すはずだというのじゃ。

 比喩であれば違う物事が、共通することについて喩える筈であるが、
 人々は私という言葉が身体とは別のものとしてのアートマンである事を知っている訳ではないから比喩ではないというのじゃ。

413避難民のマジレスさん:2022/07/02(土) 00:28:28 ID:wu9WNfNM0
(つづき)    p211-212
   [反対主張][「私」という語が身体等に用いられるのは]、全く慣習的用法なので、[実際には]比喩的用法であるにもかかわらず、[人々は、それが]比喩的用法だとは気 づかないのである。[それは]ちょうど、ごま油(taila)という語がカラシ油(sārsalpa)等の[意味にも用いられる]ようなものである。
  [答論]そのように考えるべきではない。この場合にも、[人々は]、「カラシ油等がごま油という語で表現されるのは、こまから生じた液体と[カラシ油との]違いが良く 知られている時だけである」ということに気づいている。[というのは、同じこま油と いう語の]対象でも、こま油とカラシ油が同じものと決まっているわけではない[から である]。
  従って、[以上の論議から]次のことが確定される。すなわち、「二つの[対象を]示 す[語]が持つ比喩的意味という性質[の存在する領域]は、一義的意味と比喩的意 味との識別智(vivekajñāna)[が存在する]領域により覆われている(vyāpta)。従っ て、この場合、領域を覆うもの(vyāpaka)40である識別智がめつすれば、比喩的意味という性質も滅することになる」と。
  [反対主張]「彼(子供の頃の私)が[今の]私(老人になってからの私)[になったので]ある」と[いう表現(経験)に見られる]ように、身体は子供の頃と老人になっ てからでは違っても、同一のアートマンが[「私」という語の対象として]再認識され る。従って、アートマンは身体等とは異なるものとして経験されていることになる。
  [答論][このような]主張をすべきではない。何故なら、これは、学者(Parīksaka) の場合の話であって、普通の人の場合の話ではないからである。また、学者の場合で も、日常的経験に関しては、普通の人ととりたてて違いがあるわけではない。その理由 についてはのちに『註解』の神聖な作者(シャンカラ)が、 [日常的経験に関しては、学者も動物も]違いがないからである41と[明らかにするであろう]。[このことは]他 学派の人達ですら言っていることである。たとえば、「実に、聖典を考察する人は、こ のように区別している。[ところが]学者はそうではない42と。
  従って、[ここで]消去法43を用いれば、次のように[考えるのが]正しいと我々は 思っている。すなわち、世の人々は「「私」という語の対象は純粋精神アートマンであ る」[と言いながらも、一方では、その語を]「私はこの家の中にだけいても知ってい る」というように用いているが、[これは比喩的用法ではない]。身体等と[アートマン との]違いが分からずに、アートマンは有限であると思い込んでいるのである。[それは]ちょうど、壼・水瓶・鉢等の添性に限定されているせいで、虚空[が有限だと考 えるようなもので]ある。


脚注
40脚注14参照。
41 42
43 210頁13行以下で・・「私はこの家の中だけにいても知っているという表現(経験)説明しうる可能性として、比喩的意味と附託のいずれかを想定し、ここまでで比喩的意味の可能性は否定されたので、消去法によって附託の可能性だけが残るのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

414鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/02(土) 23:55:44 ID:1d4drIFg0

 またまた反対論者が。私という言葉が身体等に用いられるのは、比喩だというのじゃ。
 ごま油がからし油にも用いられるようなものというのじゃ。

 答えのじゃ。

 人々はそれらの油の違いが知られている時だけということに気づいているというのじゃ。
 
 また反対するのじゃ。

 子供が年寄りになっても私というからには、アートマンは身体と違うものとして経験しているというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 世の人々は身体とアートマンの違いが分かっていないだけというのじゃ。
 そうであるからアートマンも有限であると思い込んでいるというのじゃ。

415避難民のマジレスさん:2022/07/03(日) 08:59:29 ID:hbWPqUMk0
(つづき)    p212-213
   [反対主張]身体のように、アートマンも有限である。
  [答論]「私」という語[の用法]の妥当性[を保つ]ために、このような[主張をする]のは、誤りである。この場合には、実に、これ(アートマン)は、原子大であるか身体大であるか[のいずれか]であろう44。[まず]原子大だとすると、「私は太っ ている。私は背が高い」という表現(経験)は[成り立ちえ]ないことになろう。[一方]身体大であるとすると、身体と同じように、[アートマンにも]部分があることになり、[永遠であるアートマンが]無常であるという[理論上の]誤謬に陥ることになる45。さらにまた、この[アートマンは身体大であるという]説に立てば、(アートマンの)精神活動を行うのは、部分の集合体か個々の部分か[のいずれか]であろう。[まず]個々の部分が精神活動を行うという説に立てば、[個々に]独立した多くの精神的存在は、統一(ekavākyatā)がとれていないのだから、相反する方向にばらばらに動いて、身体が分解してしまうか、活動が[生じ]ないことになるか、[いずれかの理論上の]誤謬に陥ることになるだろう。一方、[アートマンの]精神性は集合体[全体]と結びついている[という説]に立てば46、[その]ー部が破損すると精神アートマンも破損することになり、[アートマンは]精神的活動を行わないことになるだろう。ま た、[個々の部分がそれぞれ、必然的な関係で結びついて、集合体全体を構成する可能性も考えられるが]、多くの[個々の]部分[どうし]には、互いに[集合体を構成する]必然的関係(avinābhāva)47が見あたらない。また、[集合体の]ー部が滅すると、 そ[の一部]がなければ[集合体は成り立たないから、集合体が]精神的活動を行わないことになるだろう。
  [唯識論者の主張するような]識が[「私」という観念(語)の]対象だとしても、 「私」という観念が誤認(bhrānta)である点では、それ(身体)の場合と同じである。 というのは、それ(「私」という観念)からは永遠な実在が明らかになるのに、識は無常だからである48。
  以上[の論議]で、「私は太っている。私は盲目である。私は行く」等の〔日常的表現(経験)]も附託によることを説明し終ったのである。

脚注
44 アートマンの大きさに関しては、インド一般に三種の見解が見られる。(1)アートマンは極大であり、万物に遍在するという説、(2)アートマンは原子大であるという説、(3)アートマンは身体大である という説である。
45部分のあるものは、個々の部分に分解されて消滅するから、無常である。
46アートマンの精神性が集合体と結びついているという説を、(1) 精神性は身体という添性を通して集合体と結びついているという説、(2)精神性はそれ 自体で独立に集合体と結びついているという説、(3)精神性はたまたま偶然に集合体と結び ついているという説の三種に分け、以下の各文をそれぞれの説に対する答えと取っている。
47必然的関係とは、もともとはニヤーヤ字派において、因果関係の必然性を表す語であるが、ここではもっと広く必然性一般を表している。
48唯識論者によれば、識は刹那滅であるから、無常である。
(´・(ェ)・`)つ

416鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/03(日) 23:12:05 ID:1d4drIFg0

 今度は反対論者は、私という用語に妥当性をもたせるために、身体のようにアートマンも有限と言うのじゃ。

 答えたのじゃ。
 
 有限であるからには、アートマンは原子のように小さいか、身体と同じなのじゃ。
 原子大であれば、私は太っているとか、背が高いとかはなりたたないからいかんのじゃ。
 身体大であるとすると、身体と同じくアートマンにも部分があり、無常になるからこれもいかんのじゃ。

 さらに身体大であれば精神活動も部分であれ、全体であれ、無常になるからいかんのじゃ。
 識も無常であるからアートマンではないというのじゃ。

417避難民のマジレスさん:2022/07/04(月) 00:05:54 ID:Wv7DDlhM0
1.5.『註解』冒頭文後半部の語句説明   p213- 215 108右/229

  にもかかわらず、[それぞれ互いに]完全に異なる[主観と客観の]諸属性および[その諸属性の]基体[である主観と客観と]を互いに識別しないで ([文字通りには]互いの無識別によって)、主観に客観の本質と諸属性を、客 観に主観の本質と諸属性を附託し(adhyasya)([文字通りには]それぞれにそれぞれの本質とそれぞれの諸属性を附託して)、真実と虚妄とを混淆して (mithunikrtya)、「これが私である」「これは私のものである」[と言う。これ が]([文字通りには]というのが)誤った認識に基づく、生得の(naisargika)世俗的な日常的表現(経験)である。

  さて、以上順を追って述べてきたことから、「私」という観念は腐ったかぼちゃ[のよ うに価値のないもの]であることが明らかとなった。そこで、今や、神聖な天啓聖典は、「私」という経験から生じた[誤った考え]、すなわち、アートマンが行為主体であり経験主体であり・楽しみ・苦しみ・悲しみ等をその本質としている[という考え]を、なにはばかることなく否定することができるのである。このように、「私」という観念が 誤りであることは、信頼に価するすべての天啓聖典・聖伝書・叙事詩・プラーナ等ですでに良く知られていることである。だから[『註解』は]、それぞれに以下で49、「私」 という観念の本質と原因と結果とを説明するのである。 ここ(本文中)では、それぞれに、すなわち、[二つの]基体つまりアートマンと身体等に、それぞれの本質を附託して・・これすなわち身体等が、私である。と[というのが文脈である]。「これが[私である]」というのは、[人々がそうとは知らないで身体とアートマンを同一視しているという]事実に基づいて[述べて]いるのであり、 [「これすなわち身体が、私である」と人々が現実に]認識しているからではない50。世俗的な日常的表現(経験)(vyavahāra)とは、世間の人々の日常的表現のことである。 すなわち、それは「これが私である」という表現のことである。[「これが私である」 というのが]のというのが(iti)が暗に意味しているのは、認識対象全体を、正しい 認識根拠に基づいて、身体等に有益なものと有害なものとに識別し、それ(有益なもの)を受け入れ、それ(有害なもの)を排除すること等[の日常的経験]である51。それぞれの基体にそれぞれの諸属性を附託し。すなわち身体等の属性である生・死・老・病等を、すでに身体等の附託されている基体アートマンに[さらに]附託し、同じように、アートマンの属性である精神性等を、すでににアートマンの附託されている身体等 に[さらに]附託し「これが、すなわち、生・死・息子・雌牛・主人である[といった所有物および属性]が、私のものである」というのが、日常的表現(経験)すなわち表現である[というのが文脈である]。[「これが私のものである」というのがの]というのが(iti)が暗に意味しているのは、それ(「これは私のものである」という表現) にふさわしい活動等である。

脚注
49『註解』の本文後半部は、実際には、にもかかわらず、それぞれに...という形で始まっている。
50実際には、「私は身体である」と考える人はいない。しかし、「私」という観念自体が、アートマンと アートマン(身体等)との相互附託を前提として成立しているという意味である。
51 『註解』では、日常的表現も日常的経験も意味する語であるが、ヴァーチャスパティ・ミシュラはこの語を表現の意味に取ったので、このというのが(iti)に経験(活動)の意味を含み込ませているのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

418避難民のマジレスさん:2022/07/04(月) 08:17:59 ID:mNHkAFtI0
くまなりまとめ4

  反対主張者も、「私」という語(経験)の対象としてのアートマンが、アートマンの真の姿ではないことを認めないわけにはいけない。というのは、「私」という語の対象が真のアートマンだとすると、アートマンは遍在しているはずなのに、有限なものと理解されることになるからである。
 [反対主張]これは、身体が有限であることが経験されているのであって、アートマンが有限であることが経験されているのではない。
   [答論]比喩的意味が成り立つのは、話し手と聞き手の間に、「Xを意味する語がYに対して用いられるのは、XとY に共通に認められる性質を通してである」 という理解が成立している時である。従って、比喩的意味が成り立つには、XとYとの相違を知っていることが前提となっている。
実際には、 人々は、「私」という語の一義的意味は身体とは別のもの(アートマン)であると、経験上はっきりと知っているわけではない。従って、比喩的用法とは考えられない。
   [反対主張]「私」という語が身体等に用いられるのは、比喩的用法であが、人々はそれが比喩的用法だとは気 づかないのである。
  [答論]そのように考えるべきではない。「二つの対象を示す[語]が持つ比喩的意味という性質の存在する領域は、一義的意味と比喩的意味との識別智が存在する領域により覆われている。従って、この場合、領域を覆うものである識別智が滅すれば、比喩的意味という性質も滅することになる」と。
  [反対主張]身体は子供の頃と老人になっ てからでは違っても、同一のアートマンが「私」という語の対象として再認識される。従って、アートマンは身体等とは異なるものとして経験されていることになる。
  [答論]このような主張は、学者の場合の話であって、普通の人の場合の話ではない。また、学者の場合で も、日常的経験に関しては、学者も動物も違いがないと明らかにする。(シャンカラ)
  世の人々は「「私」という語の対象は純粋精神アートマンであ る」と言いながらも、一方では、身体等とアートマン との違いが分からずに、アートマンは有限であると思い込んでいるのである。それはちょうど、壼・水瓶・鉢等の添性に限定されているせいで、虚空が有限だと考えるようなものである。
   [反対主張]身体のように、アートマンも有限である。
  [答論]「私」という語の用法の妥当性を保つために、このような主張をするのは、誤りである。この場合には、実に、アートマンは、原子大であるか身体大であるかのいずれかであろう。まず原子大だとすると、「私は太っている。私は背が高い」という表現は成り立ちえないことになろう。一 方身体大であるとすると、アートマンにも部分があることに なり、永遠であるアートマンが無常であることになる。さらにまた、このアートマンは身体大であるという説に立てば、アートマン の精神活動を行うのは、部分の集合体か個々の部分かのいずれかであろう。まず個々の部分という説に立てば、個々に独立した多くの精神的存在は、統一がとれていないので、ばらばらに動いて、身体が分解してしまうか、活動か生じないことになる。一方、アートマンの精神性は集合体全体と結びついているという説に立てば、そのー部が破損すると精神アートマン も破損することになり、アートマンは精神的活動を行わないことになるだろう。また、個々の部分がそれぞれ、必然的な関係で結びついて、集合体全体を構成する可能 性も考えられるが、多くの個々の部分どうしには、互いに集合体を構成する必然的関係が見あたらない。また、集合体のー部が滅すると、 その一部がなければ集合体は成り立たないから、集合体が精神的活動を行わな いことになるだろう。
 識が「私」という観念(語)の対象だというのも、識は無常だから、誤認である。
(´・(ェ)・`)つ

419鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/04(月) 23:11:41 ID:1d4drIFg0

 ここまでで問答は終わったのじゃ。

 ここから自分という観念の誤りについて説かれるのじゃ。

 自分という観念は腐ったかぼちゃのように価値のないものだというじゃ。
 天啓聖典はアートマンが経験とか行為の主体ではなく感情を持つものでもないと説くのじゃ。
 私という観念が誤りであることは全ての聖典が示しているというのじゃ。
 人々は身体等をアートマンと混同していることが説かれるのじゃ。

420避難民のマジレスさん:2022/07/05(火) 07:06:19 ID:aoFe30dE0
(つづき)    p215
  また、ここで、附託と日常的表現(経験)という二種の行為から推論される行為主 体は、同一である。従って、[両行為の]行為主体が同じだから、附託し・・・日常的表現 (経験)であると[いう文が]成り立つのである。すなわち、[接尾辞ktvā(adhysya のsya)は、附託が日常的表現(経験)より]時間的に先であることを示しており、附 託が日常的表現(経験)の原因であることを示している52。〔このことが]誤った認識 に基づく日常的表現(経験)[と述べられているのである]。誤った認識とは附託のことである。それに基づいて[日常的表現(経験)がある]。すなわち、日常的表現(経験)の存在・非存在は、附託の存在・非存在に基づいているという意味である。
  さて、以上のように、[「私」という観念の]本質である附託とその結果である日常的 表現(経験)について述べたのち、[『註解』は次に]その原因について、互いの無識別 (無相違)によってと述べているのである。[無識別(無相違)(aviveka)によってとは]相違(viveka)に対する無理解によってという意味である。
   [反対主張]どうして、無識別(無相違)を文字通りにとらないのか。そして、・もし文字通りにとれぱ[両者が同一となり]、附託は存在しない。
  [答論]だから、完全に異なる諸属性および[その]基体をと述べられているのであ る。相違(vivekm)とは、本来は、基体間の場合には非同一性(atādātmya)を、諸属性問の場合には混同しないこと(asamkīrnata)を意味する。
   [反対主張]「異なる二つの実在(Vastusat)を同一であると誤認するのは、両者の相違を理解しないことによる」というのは確かに理にかなっている。[それは]ちょう ど、真珠母貝を銀と同一であると誤認するのは銀との相違を理解していないことによ るのと同じである。しかし、この(今問題となっている)場合には、究極的実在である純粋精神アートマン以外に53、実在するもの、たとえば身体等は存在しない。従って、 アートマンと[それ以外のものと]の相違に対する無理解がどうしてありえようか。ど うして、同一であるとする誤認がありえようか。

脚注
52 接尾辞ktvāが、行為の時間的前後関係を示す
53
(´・(ェ)・`)
(つづく)

421鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/05(火) 23:19:58 ID:1d4drIFg0

 誤った認識とは附託であり、それから日常的な表現があるというのじゃ。
 それは無識別、互いの相違に対する無理解によるものというのじゃ。

 反対するのじゃ。

 無識別、無相違を文字通りにとれば同一であり、付託はないというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 それは完全に異なるものごとの基体と諸属性を理解していないからというのじゃ。
 基体の非同一性を理解せず、諸属性を混同しているのが無識別だというのじゃ。

 反対するのじゃ。

 アートマン以外には存在はないから身体はないというのじゃ。
 ないものとの非同一性もないはずだというのじゃ。

422避難民のマジレスさん:2022/07/05(火) 23:36:43 ID:bM1Ezd960
つづき)    p215-216
  [答論]だから、真実と虚妄とを混淆してと述べてあるのだ。すなわち、[真実と虚妄とを混淆して、両者の]相違が分からないために附託して、というのが[本文の脈略なのである]。[また]真実とは純粋精神アートマンのことであり、虚妄とは統覚機能・器官・身体等のことであり、これら二つの基体を混淆してすなわち結びつけて、というのが[この句の]意味である。また、本来は、現象的存在と究 極的実在とが、実際に混淆されることはない。だから[混淆して (mithunīkrtya)という語に、本来]混淆されないものが混淆されるという意味を示す 接尾辞cvi(mithunīkrtyaのī)54が用いられているのである。その趣旨は、「[被附託 者(aropya)は]、認識されていなければ、附託されることはありえない。従って、[附 託に]用いられるのは、被附託者の認識であって、[被附託者という]実在[自体]で はない」という点にある。
  [反対主張]被附託者(非アートマン)が認識されている時に、以前に経験されたも の(非アートマン)が[アートマンに]附託される。そして、そ[の被附託者である非 アートマン]の認識は、[非アートマンのアートマンヘの]附託に基づいている。従っ て、[認識と附託とが]相互に依存しあう(parasparāśraya)[という理論的誤謬を]ま ぬがれないことになる。
  [答論]だから、生得の(naisargika)と言っているのである。この日常的表現(経 験)は、本源的(svābhāvika)であり、無始である。[この]日常的表現(経験)が無 始であるから、その原因である附託も無始であると言われているのである。従って、そ れぞれ前の誤った認識から生じた統覚機能・器官・身体等が、それぞれ後の附託に用 いられるのである55。こ[の過程]は、種と芽のように無始であるら、[認識と附託が]相互に依存しあうことはない。これが、[この生得のの]意味するところである。

脚注
54原文は「XでなかったものがXになること(あるいはXでなかったものをXにすること)」という意味である。例えば、白くなかったものを白くするという意味で、この接尾辞cviが用いられる。本文の場合、mithunam karotiというと、本来混淆し合って当然のものを混淆するという意味になるが、mithunīkarotiが用いられているので本来混淆されないものが混淆されるという意味になる、というのが本文の趣旨である。
55非アートマンのアートマンヘの附託Aから非アートマンAが生じ、その非アートマンAがアートマンに附託(附託B)される。その附託Bから非アートマンBが生じ、その非アートマンBがアートマンに附託(附託C)される...。このような過程が無始であるといわれているのである。
(´・(ェ)・`)つ

423鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/06(水) 23:41:16 ID:1d4drIFg0

 答えたのじゃ。

 それは真実と虚妄を混淆しているというのじや。
 それらの相違がわからないから付託しているというのじゃ。

 反対なのじゃ。

 アートマンでないものがアートマンに付託されるというのじゃ。
 アートマンでないものの認識は、アートマン゛ないもののアートマンへの付託に基づいている。
 それでは認識と付託が相互に依存しあっているという誤謬があるというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 それらは無始であり、生得のものというのじゃ。
 誤った認識から生じて意思とか、器官とか、身体がそれぞれ後の付託に用いられているというのじゃ。
 それは無始であるから、相互に依存しあうこともないというのじや。

424避難民のマジレスさん:2022/07/07(木) 04:38:05 ID:XIzJxhik0
くまなりまとめ5

 「私」という観念は、価値のないものである。聖典を読むことにより、「私」という経験から生じた誤った考え、すなわち、アートマンが行為主体であり経験主体であるという考えを、否定することができるのである。この『註解』は、以下で、「私」 という観念の本質と原因と結果とを説明するのである。 人々は、「これが私である」という表現を用いる。すなわち身体等の属性である生・死・老・病等を、すでに身体等の附託されている基体アートマンにさらに附託し、同じように、アートマンの属性である精神性等を、すでにアートマンの附託されている身体等 にさらに附託し「これが、すなわち、生・死・息子・雌牛・主人であるといった所有物および属性が、私のものである」というのが、日常的表現(経験)である。
 
  ここで、附託と日常的表現(経験)という二種の行為から推論される行為主 体は、同一である。附託が日常的表現(経験)より時間的に先であることを示しており、附 託が日常的表現(経験)の原因であることを示している。誤った認識 に基づく日常的表現(経験)と述べられているのである。誤った認識とは附託のことである。それに基づいて日常的表現(経験)がある。すなわち、日常的表現(経験)の存在・非存在は、附託の存在・非存在に基づいているという意味である。
 『註解』は次にその原因について、互いの無識別 (無相違)によってと述べているのである。無識別(無相違)によってとは相違に対する無理解によってという意味である。
   [反対主張]どうして、無識別(無相違)を文字通りにとらないのか。そして、もし文字通りにとれぱ両者が同一となり、附託は存在しない。
  [答論]だから、完全に異なる諸属性およびその基体をと述べられているのである。相違とは、本来は、基体間の場合には非同一性を、諸属性問の場合には混同しないことを意味する。
   [反対主張]「異なる二つの実在を同一であると誤認するのは、両者の相違を理解しないことによる」というのは確かに理にかなっている。しかし、今問題となっている場合には、究極的実在である純粋精神アートマン以外に、実在するもの、たとえば身体等は存在しない。従って、 アートマンとそれ以外のものとの相違に対する無理解がどうしてありえようか。ど うして、同一であるとする誤認がありえようか。

  [答論]だから、真実と虚妄とを混淆してと述べてあるのだ。両者の相違が分からないために附託して、というのが本文の脈絡なのである。また真実とは純粋精神アートマンのことであり、虚妄とは統覚機能・器官・身体等のことであり、これら二つの基体を混淆して、結びつけて、というのがこの句の意味である。また、本来は、現象的存在と究極的実在とが、実際に混淆されることはない。だから混淆してという語に、本来混淆されないものが混淆されるという意味を示す語が用いられているのである。その趣旨は、「被附託 者は、認識されていなければ、附託されることはありえない。従って、附託に用いられるのは、被附託者の認識であって、被附託者という実在自体で はない」という点にある。
  [反対主張]被附託者(非アートマン)が認識されている時に、以前に経験されたも の(非アートマン)がアートマンに附託される。そして、その被附託者である非 アートマンの認識は、非アートマンのアートマンヘの附託に基づいている。従っ て、認識と附託とが相互に依存しあうという理論的誤謬をまぬがれないことになる。
  [答論]だから、生得のと言っているのである。この日常的表現(経験)は、本源的であり、無始である。この日常的表現(経験)が無 始であるから、その原因である附託も無始であると言われているのである。従って、それぞれ前の誤った認識から生じた統覚機能・器官・身体等が、それぞれ後の附託に用 いられるのである。この過程は、種と芽のように無始であるら、認識と附託が相互に依存しあうことはない。これが、この生得のの意味するところである。
(´・(ェ)・`)b

425避難民のマジレスさん:2022/07/07(木) 05:02:59 ID:XIzJxhik0
2.附託と無明 2.1.附託の定義  p216-225

   [質問して]言う。この附託とはいったい何なのかと。答えて言う。[附託とは]以前に知覚されたXが、想起の姿で56別の場所Yに顕現することであると。
   [反対主張]確かに附託に用いられるのは、以前[に認識したことのある実在]の認 識に限られ、現に認識している実在(Paramārthatta)[自体]が[附託に用いられることはない]。しかし、[ヴェーダーンタ側の主張によれば]身体・器官等は・空中の蓮のように、全く実在しない[はずだから、それらが]認識されること自体ありえない [ことになる]。
   [反対主張に対する反論][身体・器官等は、全くの非実在ではない。それらは・実 在であるとも非実在であるとも表現し得ないものである。従って、全く認識しえない わけではない]57。
   [反対主張]実に、純粋精神であるアートマンの場合でも、[それが]実在である[根拠]は、まさに[それが]輝いている(認識の対象となっている)点(prakāśamāntā)にあ るのであり、それ以外の、実在性という普遍との内属関係(sattāsāmānyasamavāya) 58や効用を果す能力を持つものという性質(arthakriyākāritā)59が、[その実在性を決 定する根拠なの]ではない。というのは、[それらが純粋精神であるアートマンの実在 性を決定する根拠だとすると]二元論に陥ってしまうからである60。そしてまた[この場合]、実在性(sattā)[という存在]と効用を果たす能力を持つものという性質[が 実在する根拠として、さらに、それぞれ]に、別の<実在性>と別の<効用を果す能力 を持つものという性質>を想定しなけれぱならなくなり、無限遡及に陥ってしまうから である。従って、輝いている(認識の対象となっている)ことこそが、実在性[を決定 する根拠]なのだ、と認めるべきである。同じく、身体等も、輝いている(認識の対象 となっている)から、純粋精神であるアートマン同様、非実在ではない。あるいは、も し、[身体等が]非実在であれば、輝いていない(認識の対象となっていない)[はずであるが、実際には、輝いている(認識の対象となっている)。従って、身体等は実在で ある]。とすれば、どうして、[ヴェーダーンタ側の言うような]真実[であるアートマ ン]と虚妄(非実在)[である身体等]との混淆がありえようか。[そして]、それ(混淆)が在在しなければ、相違に対する無理解とは、一体、何の[相違に対する無理解]であり、[それは]何から[生じうるの]か。[さらに]、それ(相違に対する無理解)か 存在しなければ、どうして、附託がありえようか。このような考えを抱いて、[反対主 張者が]言う、すなわち反論する。この附託とは一体何のかと。何なのかという[語]は反論[の意味で用いられているの]である。

脚注
56 57
58実在性という普遍との内属関係とは、ニヤーヤ学派やヴァイシェーシ力学派で、物の実在性を決定する根拠として用いられる術語である。これらの学派によれば、個々の個物(たとえば個々の火)が共通に同一の語(たとえば火という語)で示されるのは、普遍(たとえば火性)があるからであるとされる。また、これらの学派は、物と物とを結びつける関係には、二種類あると考えてい る。すなわち、関係によって結びつけられた二つの物が不可分の関係にある場合(たとえば属性とその基 体等との関係)と、両者が分離可能な関係にある場合(たとえば壷と壷が置かれている場所等との関係) の二種である。前者は内属関係と呼ばれ、後者は結合関係と呼ばれる。そし て、普遍と物(実体・属性・運動)との関係は、内属関係であるとされている。従って・個々の火が共通 に火という語で示されるためには、それか火性という普遍と内属関係にあることが必要とされる。同じように、個々の物が実在という語で示されるためには(実在であるためには)、それらが実在性という普遍と内属関係にある必要があるのである。
59効用を果す能力を持つものという性質とは、仏教論理学派で対象の実在性を決定する根拠として用いられる術語である。この派によれば、対象(たとえば壼)が実在であるのは、それ に効用を果す能力(たとえば水が汲める)があるからであるとされている。
60不二一元論学派は、ブラフマン=アートマンのみが実在するという一元論の立場をとっている。従っ て、もし実在性という普遍との内属関係や効用を果たす能力を持つものという性質が実在性を決定する根拠だとすると、ブラフマン=アートマン以外に実在が存在することを認めることになり、その基本的立場
がくずれてしまうことになる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

426鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/07(木) 22:59:55 ID:1d4drIFg0

 質問したのじゃ。
 付託とは何なのかと。

 答えのじゃ。
 付託とは、以前に知覚されたものが想起の形で別の場所に現れたものであるというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 身体、器官等は実在しないから認識されることもないはずだというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 身体、器官等は全くの非実在ではなというのじや。
 全く認識されないということもないというじや。

 反対なのじゃ。
 アーマトンさえも実在の根拠はそれが認識の対象であるからというのじゃ。
 身体や器官も認識の対象であるはずだというのじゃ。
 そうであるならばどうして真実であるアートマンと非実在であるアートマンの混淆があるのかというのじゃ。
 混淆が存在しなければ無理解もなく、生じないというのじゃ。
 無理解がなければ付託もないというのじや。

427避難民のマジレスさん:2022/07/08(金) 03:49:46 ID:dqLu5VTI0
(つづき)
   [答論]答論者は、[次のように]、単に附託の定義一[それは]世間の人々に良 く知られたものである ーを述べるだけで、反対主張を退けているのである。答えて 言う。[附託とは]以前に知覚されたXが、想起の姿で、別の場所Yに顕現することであると。顕現すること(avabhāsa)とは、[のちに]消えざる(avasanna)、あるいは、 価値がなくなる(avamata)現れ(bhāsa )61のことである。そして、消えさること (avasāda)、あるいは、価値がなくなること(svamāna)とは、これ(顕現)が、別の 観念によって拒斥されること[を言っているので]ある。そのため、[顕現が]誤った 認識と言われるのである62。そして、以前に知覚されたX(pūrvavadrsta)等は、これ (顕現)の説明である。以前に知覚されたXが顕現すると(pūrvavadrstavabhāsa)とは、以前に知覚されたXの顕現のことである63。そして、誤った観念は、附託の対象 [たとえば真実である真珠母貝]と被附託者[たとえば虚妄である銀]とが混淆されな ければ、存在しない。それ故、以前に知覚されたXと述べることで、[まず]虚妄であ る被附託者を明示するのである。そして、知覚されたX(drsta)と述べてあるのは、 [附託に]用いられるのは、それ(被附託者)の知覚されたものであるという面だけであり、[それの]実在(vastusat)であるという面が[附託に用いられるの]ではないか らである。しかしながら、現に知覚されているもの、すなわち[その]姿(darśana) が、附託に用いられることはない。そのため、以前に(pūrva)と述べてあるのであ る。このうち、以前に知覚されたXは、本来は実在であるが、被附託者となっているので、[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないもの(anirvacanīya)64、すな わち虚妄(mithyā)である。[また]別の場所Yに(paratra)とは、附託の対象一 [それは]真実である ー のことを言っているのである。すなわち、別の場所Yにとは、 真珠母貝等の実在(paramāthasat)に[という意味である]。従って、以上[の論議]により、真実と虚妄とが混淆されることが明らかになった。
   [反対主張][しかし]以前に知覚されたXが、他の場所Yに顕現することというのは、[附託の十分な]定義ではない。なぜなら[定義の]外延が広すぎる(ativyāpaka)65からである。というのは、以前スヴァスティマティーという[名の]牛で見たことのある牛性が、他の場所すなわち力一ラークシー[という名の牛]に顕れるのは、[正しいことで]あるし、また、以前パータリプトラ[という町]で見たことのあるデーヴァタッタが、他の場所すなわちマヒシュマティー[という町]に顕れるのは正しいことだからである。さらに、顕現という語が、正しい観念(認識)にも[用いられるのは]周知の事実である。たとえば、青の顕現、黄色の顕現というように。

脚注
61 62 63
64ātmakhyātiによれば、誤謬とは内的なものである識を外界に存在する対象であると認識する ことである。第二に、asatkhyātiによれば、誤謬とは、非実在を実在と認識するこ とである。第三に、akhyātiによれば、認識はすべて正しいものだが、二種の正しい認識どうし(たとえば知覚と想起等)を正しく区別して認識しないことで誤謬が生じるとされる。第四 に、anyathākyātiによれば、誤謬とは、実在X(たとえば真珠母貝)を非実在Y(たとえば銀)として認識することであり、Yも本来は実在であるとされる。最後にanirvacanakhyāti(anirvacanīyakhyāti)よれば、誤謬とは、実在であるとも非実在であるとも表現し得な いものを認識することである。本文中では、2-1一附託の定義以下2.4.他学派による附託の定 義(3)までで、附託の定義をめぐって、anirvacanakhyātiの立場から他学派の誤謬論か批判されている のである。
65定義が正しいものであるためには、以下の三つの欠陥のないことが必要である。すなわち、(1)定義 の外延が狭すぎること、(2)定義の外延が広すぎること、(3)定義が全くあては まらないことである。ここで、附託の定義に欠陥(2)が認めら れるから十分な定義ではないと言われているのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

428鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/08(金) 23:46:54 ID:1d4drIFg0

 答えたのじゃ。

 付託の一定義を述べるだけで反対主張を退けているというのじゃ。
 付託とは以前に知覚されたものが、想起の形で別の場所に顕現することであるというのじゃ。
 顕現とは後に別の観念によって消え去ること、排斥されることだというのじゃ。
 顕現とは結局、誤った観念だというのじゃ。

 その誤った観念とは付託の対象と被付託者が混淆しなければ存在しないというのじゃ。

 反対するのじゃ。

 以前に知覚されたものが別の場所に顕現することは、付託の十分な定義ではないというのじゃ。
 なぜならば別の場所に正しい観念の対象が存在することもありえるからというのじゃ。
 顕現も正しい観念に用いられることもあるから正しくないというのじゃ。

429避難民のマジレスさん:2022/07/09(土) 04:37:58 ID:rxilBjuA0
(つづき)
    [答論]そこで答えていう。想起の姿(smrutirūpar)でと。想起の姿とは、それには想起の姿のような姿がある66[という意味である]。すなわち、想起の姿で[と言うことで]、対象を[現に]直接に知覚していないことを言っているのである。一方、正 しい認識である再認識(pratyabhijñāna)の場合には、対象を[現に]直接に認識し ている。従って、[この定義の]外延が広すぎる(ativyāpti)67ということはない。ま た、[この定義の]外延が狭すぎる(avyāpti)68ということもない。何故なら、夢の中の認識も、想起という[姿の]誤認であるが、[これも]このような(附託という)性 質を持っているからである。というのは、こ(夢の中の認識)の場合にも、[人は]、あ ちこちでまさに以前知覚したことのある、現存する場所と時間という性質を、想起した 父親等一[ところが、父親等を現に]直接に知覚しているのではないということは、夢に昏まされて理解されていない一に、附託するからである69。
   また、「真珠母貝が黄色い」とか「黒砂糖が苦い」という場合にも、同様に、こ(附託)の定義が当然適用される。詳論すれば、次の通りである。黄疸にかかった人(dravyamat)70は、胆汁という実体(bittadravya)一[それは]目から外に放射された非常に透明な光と接触している一に存する黄色という性質を、胆汁という実体とは無関係に、経験(知覚)する。一一方、[感官器官に]欠陥があるために、真珠母貝を白いものとは知らずに経験(知覚)する。さらに、黄色という性質が真珠母貝と無関係であることを
経駿(認識)しない。そして、[黄色という性質と黄金とが無関係ではないと考えるのと]71同じように、[黄色という性質と真珠母貝とが]無関係ではないと考えて、 「黄色い黄金」や「黄色いビルヴァの実」等の場合に以前に知覚したことのある[両者の]同格関係を、黄色という性質と真珠母貝に附託して、「真珠母貝が黄色い」と言うので ある。以上[の説明]で、「黒砂糖が苦い」という観念(認識)も説明したことになる。
[また]同様に、[鏡や水に映った顔を自分の顔だと思う]反映による誤認(Pratibimba- vilbhrama)72にも、[附託の]定義があてはまる。[すなわち、この場合には]服[から出た]光は、非常に透明な鏡や水等一[それらは]認識主体である人間と向かい合っている一と接触しても、[それより]強い太陽の光に[はねかえされて]逆流し、 顔と接触して、[認識主体に]顔を認識させる。一方、[眼に]欠陥があるため、[その 光は]、顔の[実際にある]場所および顔が[実際には自分と]向い合ってはいないことを[認識主体に]認識させることはない。そして、以前に知覚したことのある鏡や水 一[それらは、自分と]向い合っていた一のあった場所という性質および[それら が自分と]向い合っているという性質を、顔に附託するのである。以上[の説明]により、二つの月、方角を誤ること、火輪73、ガンダルヴァの町74、竹薮の蛇等の誤認の場 合にも、場合に応じて、[附託の]定義が適用されるはずである。

脚注
66ここで「想起のような姿」と述べているのは、まず、「想起の姿」と述べることで、附託が再認識とは 異なることを示し、「のような」と述べることで、附託が想起とは異なることを示しているのである。
67 68脚注65参照。
69この個所は、夢の場合には、真珠母貝を銀に附託するときの真珠母貝に相当する基体が存在しないから、附託の定義のうち、「他の場所Yに」という部分があては まらなくなるという反論に対する答た だとさている。
70 71 72
73たいまつの火などを速く回すと、実際には輪ができるわけではないのに、輪のように見えること。
74雲を天界の町と見誤ること。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

430鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/09(土) 23:45:58 ID:1d4drIFg0

 答えたのじゃ。

 付託では想起の姿で認識されるのであるからそれでよいじゃ。
 想起の姿であるとは、対象を直接に知覚していないのじゃ。

 正しい認識である再認識では、対象を直接に認識しているというのじゃ。
 これによって定義の外延が広すぎることも、狭すぎることもないのじゃ。
 夢の中の認識も誤認であるが、付託という性質を持っているからというのじゃ。

431避難民のマジレスさん:2022/07/10(日) 04:31:09 ID:bwOC2mBQ0
(つづき)    p221-222
   以上述べてきたことの趣旨は次の通りである。単に輝いていること(認識の対象に なっていること)だけが、実在性[を決定する根拠]ではない。[もし、それが実在性を 決定する根拠なら]身体・器官等は、輝いている(認識の対象となっている)から、実在であることになろう。[しかし実際には、それらは実在ではない]というのは、[縄等を蛇と見誤る時]、縄等は蛇の姿で顕れ、[水晶に赤い花か映っている時]、水晶等は 赤等の属性を備えたものとして顕れるが、[それら]顕れたもの(蛇等と赤等の)属性を 備えた水晶等)が、それら(蛇等と赤等の属性を備えた水品等)自体であったり、それ らの属性(蛇の属性等と赤等)を備えたりすることはないからである。もしそうなら、 砂漠で、上下に[揺れる]光線の束(唇気楼の河)75を[見て]、「「これは、さざ波という花輪をかけたマンダーキニー(天界のガンジス河)が、近くに降りてきたのだ」と 思って近づいた人は、その水を飲んでも、渇きをいやすことができるはずある。[しかし実際にはそうではない]。従って、たとえ意に添わなくても、「附託されたものは、輝いていても(認識の対象になっていても)、実在ではない」と認めるべきである。
    [反対主張]水は、光線(唇気楼)の姿では非実在である。しかし、それ自体ではまさに実在である。一方、身体・器官等は、それ自体でも非実在である。従って、[身体・ 器官等は]経験の対象とはならないから、附託されることなどどうしてあろうか。
   [答論]それは正しくない。というのは、もし、非実在が経験の対象とはならないのなら、光線(唇気楼)等の非実在が、水として、経験の対象となることはないからであ る。[すなわち、水]それ自体は実在だが、[光線(屡気楼の水)]も、水を本質としており実在である、ということはないのである。
   [反対主張]非実在(abhāva)とは実在(bhāva)と異なるものでは決してない。そうではなくて、まさに実在が、別の実在を[その]本質とすることで、非実在となるのである。[従って、非実在は]それ自体では実在なのである。このことが「非実在とは 実在の別[の形]にほかならない。ただし、[実在が]ある特定の観点から見られたものなのである」76と言われている。従って、[このように、非実在は]本質的には実在であると説明しうるら、これ(非実在)が経験の対象となるのは理にかなっている。 ところが、[身体等の]現象(Prapañca)は、[輝く(顕現する)能力や効用を果す能力 等の]能力をすべて欠き、かつ実在性(tattva)のない・全くの非実在である[から、それが]経験の対象となることはありえない。[従って、身体等の現象が]純粋精神で あるアートマンに附託されることなどありえないのである。
   [反対主張に対する反論]対象には、[輝く(顕現する)能力や効果を果す能力等の]能力がすべて欠けていても、それ(対象)に対応する識(認識、jñāna)一[その]個々の独特な本質は、良く知られており、[識]自らの観念(一瞬時前の識)の力により 得られる一自体が、非実在[である対象]を照らし出す(顕現させる)のであるか。 従って、非実在を照らし出す(顕現させる)こ(識)の力が無明(avidyā)[と言われるの]である。
    [反対主張者の答]それは正しくない。その理由は次の通りである。[そもそも]識
のもつこの非実在を照らし出す(顕現させる)力とは[一体]体]何なのか。また、こ [のカ]は、[一体]何を可能にするのか。もし、[この力が]非実在[の顕現を可能にする]とすると、それ(非実在)とは、これ(識のもつ力)の[生み出した]結果(kārya) なのか、それとも、識のもつ力によって認識させられるもの(jñāpya)なのか。[このうち]まず、[非実在は、識の力が生み出した]結果ではない。非実在がそれ(識の力が生み出した結果)であることはありえないからである。また、[識の力が非実在を]認識させるわけでもない。というのは、[非実在を認識させる識と同時に、それとは] 別の[非実在を認識する]識[が存在すること]は認められないからであり77、また、 [別に非実在を認識する識が存在するとすると、その識をさらに認識させる識が存在することになり]無限遡及に陥るからである。
   [反対主張に対する反論]識は本来非実在を照らし出す(顕現させる)ものなのである。
  [反対主張者の問い]実在と非実在はどのような関係になるのか。

脚注
75文脈に応じて、適宜、光線の束と蜃気楼の河、蜃気楼の水等とを訳し分けた。
76
77唯識論者によれば、識は刹那滅だから、ここに述べられているような二つの識が同時に存在することはありえない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

432鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/10(日) 23:28:20 ID:1d4drIFg0
今までのまとめなのじゃ。

 認識の対象であることが実在性を決定する根拠ではないというのじゃ。
 身体、器官も実在ではないというのじゃ。
 縄が蛇と認識されるとか、水晶に赤い色が反映されるとか蜃気楼のように付託があるからなのじゃ。

 反対なのじゃ。

 水は光線では非実在であるが、それ自体は実在はするのじゃ。
 身体、器官は自体も非実在であるというのじゃ。
 経験とか認識されるものではないから、非実在であり、附託されることもないのじゃ。

 答えたのじゃ。

 非実在が経験の対象とならないならば、光線が水として経験の対象となることはないから正しくないというのじゃ。

 反対なのじゃ。

 非実在が実在と異なるといことはないというじゃ。
 実在が別の実在を本質とすることで非実在になるというのじゃ。
 そうであるから非実在も経験の対象となるというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 対象は能力などが欠けていても、識によって顕現するというのじゃ。
 非実在を顕現させる力が無明というのじや。

 反対なのじゃ。

 識の非実在を顕現させる力は何なのかというのじゃ。
 さらに識を認識させる識が必要になり、無限遡及に陥るとのじゃ。

 答えたのじゃ。

 識は本来、非実在を顕現させるものというのじゃ。

 聞いたのじゃ。

 実在と非実在の関係はどのようなものなのかというのじや。

433避難民のマジレスさん:2022/07/11(月) 00:03:26 ID:DotYiV8Q0
(つづき) p223-224
   [反論者の答]実在である識[のあり方]は、非実在に基づいて決定される、という
のが実在である識と非実在との関係である。
  [反対主張][対象が]実在しなくても、これ(識)[のあり方]が決定されるとは、 このあわれな観念(識)は、実になんとまた運のいいことだろう。[そんな馬鹿なこと があるはずはない]。また、観念がそれ(非実在)に基づくことなど全くありえない。 というのは、非実在が基体となるのは埋に合わないからである。
  [反対主張に対する反論][確かに]これ(観念)が非実在に基づくことは決してな い。しかし、観念は、[常に非実在と共存しているから]、非実在がなければ現われる (prathate)ことはない。それが、まさに、観念の本質なのである。
  [反対主張]この観念は、それ(非実在)から生じるわけでも、それ(非実在)を本 質とするわけでもないのに、それ(非実在)と必ず必然的関係(avinābhava)にある とは、実になんとまた、非実在に未練がましいことか。[しかし、そんな馬鹿なことが あるはずはない]。従って、[以上の論議から明らかなように]、身体・器官等は、実在性(tattva)のない完全な非実在(atyantāsat)であって、経験の対象とはなりえない のである。
  [答論]ここで答えて言う。もし、実在性のないものは経験の対象とはならないとす ると、[光線(屡気楼の水)は水を本質とするものとして]経験の対象となっているから、 この場合、光線(唇気楼の水)も水を本質とするものとして実在している(satattva) ということになるのではないか。
   [反対主張][光線(蟹気楼の水)は]実在ではない。光線(蟹気楼の水)は、それ (水)を本質とするものとしては、実在しない(asat)からである。そもそも、事物のあり方(tattva)には二種ある。すなわち実在(sattva)と非実在(sattva)とである。 このうち、前者は、自らに基づいて(自己を本質として)[存在して]おり、一方、後 者は、他に基づいて(他の事物を本質として)[存在して]いる。このことが、「常に実在でありかつ非実在である事物に関して、ある人々は、ある時に、[事物]それ自体 の姿で、ある姿(実在)を認識し、ある人は、ある時に、[事物とは]別の姿で、ある 姿(非実在)を認識する」78と言われているのである。
  [答論]だとすると、光線(蟹気楼)を[見て]水が現われたと認識するの(pratyaya) は、真理(実在、tattva)を対象とする[認識だ]ということになるのだろうか。そう だとすると、[この認識は]正しい認識であり、従って、誤認ではないことになり、拒 斥されることもないはずである。[しかし実際には、この認識は誤認であり、のちに生じた認識によって拒斥されるではないか]。
   [反対主張]もし、[この認識が]、光線(屡気楼の水)一それは、実際には、水を本質とするものではない一を、水を本質としないものとして認識していれば、確かに、[この認識は]拒斥されることはない[し、誤認でもない]。しかし、[光線(蟹気 楼の水)を]水を本質とするものとして認識している場合には、[その認識が]どうし て誤認でなかったり、拒斥されなかったりしようか。

脚注
78
(´・(ェ)・`)
(つづく)

434鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/11(月) 23:30:41 ID:1d4drIFg0
 答えたのじゃ。

 実在である識は非実在に基づいて決定されるというのじゃ。

 反対なのじゃ。

 対象が実在しなくとも、識のありかたが決定されるとはおかしいといのじゃ。
 観念が実在しないものを基底にすることはありえないというのじゃ。
 存在しないのであるからのう。

 答えたのじゃ。

 観念は非実在と共存しているから、非実在がなければあらわれないというのじゃ。
 それが観念の本質というのじゃ。

 反対なのじゃ。

 観念は非実在から生じるのではなく、非実在を本質とするのでもないのに、必然的な関係なのはおかしいというのじゃ。
 そうであるから身体や器官は非実在で経験の対象にはならないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 
 実在ではないものは経験の対象とはならないならば光線による屡気楼の水は水を本質とするものとして経験の対象となっているから、
 光線(唇気楼の水)も水を本質とするものとして実在するということになるのじゃ。

 反対なのじゃ。

 それは違うというのじゃ。
 実在は自らに基づいて存在するものであるというのじゃ。
 非実在は他を本質とするものというじゃ。

 答えたのじゃ。

 だとすると蜃気楼の光線を見て水だと認識するのは正しいことになるというのじゃ。

 反対なのじゃ。

 それは正しくないというのじゃ。

435避難民のマジレスさん:2022/07/11(月) 23:54:39 ID:HbYTaiSg0
(つづき) p224-225
  [答論]実に、光線(蟹気楼の水)一[その]本質は水ではない一が、水であることを本質とするのは、まず、実在ではない。というのは、それ(光線=唇気楼の水) は、水でないものと異ならないから、水であることを本質とすることはありえないからである。また、[光線(蟹気楼の水)が水であることを本質とするのは]非実在でもない。というのは、[あなた方反対主張者は]「非実在とは実在の別[の形]である。[実 在と]異なるものでは決してない。何故なら、[実在とは別の非実在は]確証されないからである」79と主張しており、事物Xが実在しないということは、別の事物Y[が実 在すること]にほかならないということを認めているからである。また、[光線に]附託された[水という]姿は、[光線とも、また、水とも]異なるものではない。というの は、[もし、それらとは異なるものだとすると]、それ(光線に附託された水の姿)は、 光線であるか、ガンジス河等の水であるかのどちらかであろう。前者の場合には、光線があるという観念(認識)が[生ずる]はずで、水があるという[観念(認識)は生じ]ないことになる。後者の場合には、ガンジス河に水があるという[認識が生じる] はずで、ここに[水があるという認識は]決して[生じ]ないはずである。[また]、も し、特定の場所が想い出せない時には、水があるという[認識が生ずる]はずで、ここに[水があるという認識は]決して[生じ]ないはずである。
   [反対主張]これ(屡気楼の水)は完全な非実在であり、全く実体(svarūpa)のない単なる虚妄(alīka)のはずである。
   [答論]それは正しくない。というのは、それ(虚妄=完全な非実在)が経験の対象となりえないことは、すでに述べた通りだからである。従って、[屡気楼の水は]実在 でもなく、非実在でもない。また、実在でありかつ非実在であるということもない。というのは、[実在でありかつ非実在であるというのは]相矛盾することだからである。 だから、光線に[附託された]水(唇気楼の水)は、[実在であるとも非実在であると も]表現し得ないものであると理解すべきである。それ故、以上の論議から[次のこ とが結論づけられる。すなわち、光線に]附託された水(屡気楼の水)は、実在する水 (paramārthatoya)のようであり、従って、以前に知覚されたもののようであるが、実際には、水ではなく、以前に知覚されたものでもない。そうではなくて、虚妄(mithyā)、 すなわち、[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないものである。また、同様 に、身体・器官等の現象も、[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないものであり、[従って、それらは]以前に[知覚されたことは]なくても、以前の誤った観念から顕れたものであるかのように、別の場所すなわち純粋精神であるアートマンに、附 託されるのである。[そして]このことは理にかなっている。というのは、附託の定義 にあてはまるからである。また、身体・器官等の現象が拒斥されることに関しては、の ちに説明するつもりである80。
  一方、純粋精神であるアートマンは、天啓聖典・聖伝書・叙事詩・プラーナの対象で あり、[それが]本質的に、清浄で、悟っており、解脱したものであることは、それ(天啓聖典等)に基づきかつそれ(天啓聖典等)と矛盾しない論理によって確定している。 [従って、アートマンは]まさに実在であると表現し得る(nirvacanīya)のである。そ して、それ(アートマン)が実在である[根拠]は、[アートマンは]自ら輝いている[か ら、他の認識によって]拒斥されることはないという点(abādhitā svayamprakāśatā) にこそあるのであり、そして、それこそか、純粋精神であるアートマンの本質なのであ る。一方、それ(他の認識こよって拒斥されることのない、自ら輝いているという性質)とは異なる、実在性という普遍との内属関係や効果を果す能力を持つものという性質は、[アートマンが実在であることを決定する根拠では]ない。こうして、すべては 明らかとなったのである。

脚注
79 80
(´・(ェ)・`)つ

436鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/12(火) 22:48:16 ID:1d4drIFg0
 答えたのじゃ。

 蜃気楼の光線は水を本質とするものではないから、実在ではないというのじゃ。
 非実在でもないというのじゃ。
 反対者が実在と非実在は同じというからなのじゃ。

 反対なのじゃ。

 蜃気楼の水は非実在であるというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 非実在である虚妄が経験の対象になりえないことはすでに述べた通りなのじゃ。
 そうであるから屡気楼の水は実在 でもなく、非実在でもないというじゃ。
 実在であり、非実在であるということもないのじゃ。
 矛盾するからなのじゃ。

 同じように身体や器官等の現象も、また実在であるとも非実在であるとも表現できないものというのじゃ。
 アートマンに付託されたものであるというのじゃ。

 そのアートマンは聖典とかに記された論理で確定されているから実在といえるのじゃ。
 さらにアートマンは自ら輝いているから、他の観念によって排斥されないから実在なのじゃ。
 それがアートマンの本質であるというのじゃ。

437避難民のマジレスさん:2022/07/13(水) 10:33:39 ID:WCu/3GdE0
2.2.他学派による附託の定義(1):Ātmakhyātivādin 1. p225-226 114右/229

  そして、この[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ない附託一[その]定義は先に述べた通りである一は、実に、すべての人が認めているところである。[しかし]、その(附託の)詳細(bheda)に関しては、諸論者間に相当な見解の相違がある。 そのため[『註解』の作者シャンカラは、附託が実在であるとも非実在であるとも] 表明し得ないものであることを確定するために、[次のように]述べているのである。
  ある人々81は、それ(附託)とは、Xの属性82を別の場所Yに附託すること (文字通りには、別の場所Yに対するXの属性の附託)であると言っている。
  Xの属性のとは、識(認識)の属性の、[たとえば]銀の識の形相(jñānākākra)の、 等々[という意味]である。[それを]別の場所Yに、すなわち外界に、附託する。ま ず、経量部の見解では、外界の事物は実在であり、それ(外界の事物)に識の形相が附 託されるのである。[一方、唯識論者によれば]、外界の事物は実在しないが、無始である無明の潜在印象(Vāsanā)より生じた外界[の事物]ー[それは]虚妄であるーが存在する[から]、唯識論者の場合にも、それ(外界の事物)に識の形相が附託され るのである。[唯識論者が、外界の事物は虚妄であっても存在する、と認めている]理 由(upapatti)は次の通りである。すなわち、経験によって良く知られた姿は、[それ を拒斥する観念が生じないうちは]、そのままの姿で[存在するものと]認めておくぺ きである、という原則があるからである。というのは、それ(経験によって良く知られ た姿)が[拒斥されて、それとは]別の姿になるのは、[その経験を]拒斥するより強 力な観念の力によるからである。そして、[たとえば「これは銀ではない」83という拒斥の場合、[それは、銀が外界に存在することを示す] 「これ」という性質のみを拒斥 することによって可能となるのである。[従って]、この場合、[拒斥の]対象が銀であ るというのは適当ではない。というのは、銀という基体が拒斥されると、銀とその属性である「これ」という性質が[共に]拒斥されることになるから、基体である銀も拒 斥される[と考える]よりは、これ(銀)の属性である「これ」という性質だけが拒斥 される[と考える]ほうが、理にかなっているからである。そして、このように、銀が 外界に[存在在すること]は拒斥されるから、当然(arthāt)、銀は内的な識に[存在 するのだと]確定されるのである。従って、外界に、識の形相が附託されることが確立 されるのである。

脚注
81 82
83 以下、真珠母貝を銀と見誤る例に基づいて論議が進められるので、理解しやすくするため、適宜、真珠母貝と銀の例を補った。
くま注、経量部、部派仏教の一派である。説一切有部から分派した。3世紀末に開かれた。説一切有部、及び大乗仏教の中観派・唯識派と共に、「インド仏教4大学派」の1つに数えられたりもする。
説一切有部が論(アビダルマ)を重んじたのに対して、経典を重んじて基準(量)としたため、「経量」部と呼ばれた。
(´・(ェ)・`)つ

438鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/13(水) 23:53:03 ID:1d4drIFg0
このような実在でもなく、非実在でもないという付託の定義はすべての人が認めているというのじゃ。
 しかしその詳細には各派で違いがあるというのじゃ。

 それについてシャンカラが述べているというのじゃ。

 経量部は、外界の事物は実在であり、それに識の内部にある形相が附託されるというのじゃ。

 唯識派は、外界のものは存在しないというのじゃ。
 ただ無明によって生じた虚妄の外界の事物に、職の形相が附託されるというのじゃ。

439避難民のマジレスさん:2022/07/14(木) 01:07:11 ID:CztdSez.0
2.3.他学派による附託の定義(2):Akhyātivādin p227-228

  しかし、ある人々84は、[附託とは]XがYに附託された時、[Xと]Y85との区別を理解しないことに基づく誤認(bhrama)のことであると[言う]。
  しかし、ある人々は、すなわち、識の形相説に満足しない人々は、[附託とは]Xが Yに附託された時、[Xと]Yとの区別を理解しないことに基づく誤認のことであると [言う]。そして、[識の形相説に]満足しない理由を[次のように]述べている。すな わち、銀等が識の形相であることは、経験に基づいて確定されるか、推論に基づいて確定されるかのいずれかであろう。このうち、推論に関しては、のちに退けるつもり である86。[さてもし、銀等が識の形相であることが経験に基づいて確定されるとすると、その]わ87経験とは、さらに、銀等の観念であるか、[銀等の観念を]拒斥する観念で あるかのいずれかであろう。まず第一に、[それは]銀の観念ではない。というのは、 それ(銀の観念)は、「これ」という語(観念)の対象である(外界に存在する)銀を認識させるのであり、内的なもの(識の形相としての銀)を認識させるのではないからである。何故なら、その場合には(もし、銀の観念が、内的なものである識の形相としての銀を認識させるのなら)[「これは銀である」どういう認識ではなく]、「私は[銀である]」と[いう認識が生ずることに]なるはずだからである。というのは、[唯識論者にとっては]認識主体と観念(識)とは異ならないからである。
  [唯識論者]錯誤せる識が、まさに自己の形相を外界に存在するものとして定立するのである。従って、これ(識)の対象は、[外界に存在するものとして定立された識の 形相であるから]、「私」という語(観念)の対象ではない。さらに、これ(外界に存在 する銀等)が識の形相であることは、[外界に存在する銀等を]拒斥する観念から知られるはずである。[すなわち、外界に存在する銀等を拒斥するものが観念であるから、拒斥されるものすなわち銀等も観念、のはずである]。 [Akhyātivādin]ああ、あなたは長生きするよ88。[銀等を]拒斥する観念をよく考察してごらんなさい。[銀等を拒斥する観念は]ー体、眼前にある実体と銀とを識別するのか、それとも、[銀が]識の形相であることを示すのか。このうち、[銀等を]拒斥 する観念の機能は、[銀等が]識の形相であることを示す点にあると[あなたが]言うのなら、[あなたは]見上げた利口者であり、神々のお気に入り(馬鹿)である。
   [唯識論者][銀が]眼前にあることが否定される(pratisedha)のだから、当然(arthāt)、 これ(銀)は、[内的なものであり]識の形相である。
  [Akhyātivādin]そうではない。[銀が認識主体の]近くに存在していないことに対する無理解が否定されると、[銀等が]認識主体の近くに存在していない[ことが理解 されるだけで]あり、[そのことから]どうして、これ(銀)が認識主体を本質とするというような、[銀と認識主体との]極端な近接関係(sannidhāna)が[理解されたり]しようか。

脚注
84 85 86 87
88「長生きするよ」とか「神様のお気にいり」という語は、反対主張者なかでも仏教徒を郷楡して馬鹿よばわりするときに用いられる表現である。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

440鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/14(木) 23:50:40 ID:wWrqg5gM0
 しかし、他のものは付託とは、XがYに附託された時、それらの区別を理解しないことに基づく誤認だというのじゃ。
 唯識のものがいうように、たとえば銀の形相が経験に基づいて確定されるならば、それは銀の観念ではないというのじゃ。
 なぜならば唯識論者にとって観念と認識主体は異ならないから、私は銀であるという認識が起こるというのじゃ。

 唯識論者は反対するのじゃ。

 認識の対象は自分ではないからそれはないというのじゃ。
 外界に存在する銀等が識の形相であることは、それを拒斥する観念から知られるというのじゃ。
 なぜならば外界に存在する銀等を拒斥するものが観念であるから、拒斥されるものである銀等も観念のはずであるというのじゃ。

 
  答えたのじゃ。

 銀等を排斥する観念は、眼前にある実体と銀とを識別するのか、それとも銀が識の形相であることを示すのかと聞くのじゃ。
 銀等を拒斥 する観念の機能は、それ識の形相であることを示す点にあると言うのなら間違いなのじゃ。

 反対なのじゃ。

 銀が眼前にあることが否定されたのであるから、当然それは内的なものであり、識の形相だというのじゃ。

答えたのじゃ。

 それはただ銀が認識主体の近くにないことを示しただけなのじゃ。
 それだけで認識主体を本質とするということにはならないのじゃ。

441避難民のマジレスさん:2022/07/14(木) 23:56:03 ID:cOC89WfM0
(つづき)  p228-229    
  さらに、これ(銀を拒斥する観念)は、銀を否定するのでも、「これ」という性質 を否定するのでもなく、「これは銀である」という銀に関する日常的表現(経験)一 [それは、真珠母貝を対象とする「これ」という認識と想起された銀の認識との]区別 を理解しないことから生じたものである一を否定するのである。
  また、[anyathākhyāivadinが言うように]89、銀の認識によって銀自体が真珠母員貝に現われる(prsañjita)のではない。何故なら、銀が顕現する基体(ālambana)が 真珠母貝であるというのは、理に合わないからである。というのは、[それは]経験に 反するからである90。
  また、[真珠母貝は、真珠母貝であることは知られていなくても]存在するだけで (sattāmātrena)[銀が顕現する]基体となるということはない。というのは、[その場 合には、銀が顕現する基体となりうるものの範囲が]広くなりすぎるという誤謬に陥るからである。すなわち、すべての事物は、存在であるという点では変わりがないから、 [すべての事物が、銀の顕現する]基体となるという誤謬に陥るのである。さらに、[真珠母貝は、銀が顕現する(認識される)]原因であるから、[銀が顕現する基体(銀とい う認識の対象)である、というわけ]ではない。というのは、感覚器官等も[銀が顕現 する(認識される)]原因だからである。従って、基体(対象、ālambana)91が意味す るのは、顕現すること(認識されること)にほかならない。そして、真珠母貝が銀の認識に顕現することはないから、どうして、[真珠母貝が銀の顕現の(銀の認識の)]基体(対象)でありえようか。あるいは、[銀の認識に真珠母貝が]顕現することを認めた場合には、[銀の認識の対象が真珠母貝であるということになり]、どうして経験に反しないことがあろうか。[経験に反することになってしまう]。
  さらに、感覚器官等には正しい認識を生み出す能力[のあること]が認められているのだから、どうして、それら(感覚器官等)から、誤った認識が生じようか。
  [反論]これら(感覚器官等)は、欠陥を伴う場合には誤った観念[を生み出す]能力も持つのである。
  [Akhyātivādin]そうではない。何故なら[感覚器官等の]欠陥は、[感覚器官等に備わった]結果を生み出す能力を損う原因となるだけ[であって、誤った認識を生みだ す原因とはならない]からである。というのは、さもなければ、欠陥があればクタジャ の種からでも、バニヤンの芽が出る、という誤謬に陥ることになるからである。さら に、[銀が認識の対象でもないのに、銀が認識されるというように]、諸々の認識が自己 の[正当な]対象からはずれるとすると、あらゆる場合に、[認識が]不確実なものと なる(anāśvāsa)という誤謬に陥ることになる。それ故、認識はすべて正しいと認め るべきである。従って、「銀」という認識と「これ」という認識は、[それぞれ]想起と経験(知覚)という姿をした二種の[正しい]認識なのである。

脚注
89
90何故、経験に反するのかという点については、以下の論議を参照のこと。
91ālambanaという語には、基体という意味と対象という意味がともに含まれているので、ここでは、文脈に応じて、適宜、基体と対象を訳し分けた。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

442避難民のマジレスさん:2022/07/15(金) 09:56:22 ID:QQibwu9g0
「くまなりまとめ」は、長くなり過ぎるので、中断するであります。
 
鬼和尚の解説が優れた要約になっているので、それを参照しながらの読解の訓練が、集中力の鍛錬になるであります。
たいへんありがたいことであります。
(´・(ェ)・`)b

443鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/15(金) 23:30:30 ID:wWrqg5gM0

 さらに銀を排斥する観念は銀を否定するのではなく、性質を否定するのでもないというのじゃ。
 銀に関する経験を否定するのじゃ。

 また銀の認識で銀が真珠母貝に現れることもないというのじゃ。
 銀が顕現する基体が 真珠母貝であるというのは理に合わず、経験にも反するからなのじゃ。

 真珠母貝は真珠母貝として存在するだけで銀の基体になることもないというのじゃ。
 それだと全ての存在が銀の基体となってしまうからなのじゃ。

 真珠母貝は銀が顕現する原因であるから基体であることもないのじゃ。
 感覚器官も銀が顕現する基体となるかなのじゃ。

 基体とは認識されることに他ならないというのじゃ。
 真珠母貝が銀の認識に顕現することはないから基体ではないというのじゃ。

 感覚器官も正しい認識を生み出す能力があるから、それから誤った認識が起こることもないというのじゃ。

 反論なのじゃ。

  感覚器官は欠陥があれば、誤った認識を生み出すのじゃ。

 答えたのじゃ。

 感覚器官の欠陥は、結果を生み出す能力を生む原因となるだけで、誤った認識の原因とはならないというのじゃ。
 認識の欠陥である植物の種から、別の植物の実がなることはないからなのじゃ。

444避難民のマジレスさん:2022/07/16(土) 00:55:58 ID:kcJDodG20
(つづき) p229-230
  このうち、「これ」という[認識]は、眼前に[何か]実体があることだけを知覚しているのである。というのは、そ[の実体]に属す真珠母貝性という[真珠母に]共通 の特質(sāmānyaViśesa)92が、[感覚器官等に]欠陥があるために知覚されていないからである。そして、 「それ(眼前に存在する何らかの実体)だけが知覚されると、[その実体は、銀と]似ているので、[人に、過去に知覚したことのある銀の]印象を想い 起こさせることで(samskārodbhdakakramena)、銀を想起させるのである。そして、 それ(銀の想起)は、[過去に]知覚したことのある認識を本質とするものではあって も、[感覚器官等に]欠陥があるために、[過去に]知覚したことのあるものだという 面が欠落している(pramosa)から、[現存する]知覚としてのみ立ちあらわれているのである。このように、銀の想起と眼前に存在する[何らかの]実体のみを知覚することとは、[両者の]区別が理解されていないために、[認識]それ自体に関しても、ま た、[その]対象に関しても、混同されるのである。「これ」という[認識]と「銀」という[認識]は、知覚と想起というように[それぞれ]異なっているにもかかわらず、 [それらは、感覚器官と]結合した銀(眼前に存在する銀)を対象とする認識と似ているために、[両者を]区別しない日常的経験や[両者を]同格関係で表現することを引き起すのである。 また、ある場合には、二種の知覚の区別が互いに理解されないことがある。たとえば、「法螺貝が黄色い」という場合のように。この場合には、[眼から]外た出た光線 一[それは]水晶のように透明である一に存在する胆汁の黄色は知覚されるが、胆汁は知覚されず、[一方]ほら貝も、[感覚器官等に]欠陥があるために、白という属 性のない、単なる実体として知覚される。それ故、これら属性(黄色)と[その]基体 (法螺貝)とが無関係であることを理解しないことから[生ずる]類似性に基づいて、「黄金の塊は黄色い」という観念の場合と同じように、[「法螺員は黄色い」という、両者 を]区別しない日常的経験や[両者を]同格関係で表現することが[生ずるので]ある。 また・[想起と知覚あるいは二種の知覚の]区別を理解しないことから生じる、[両者 を]区別しない日常的経験が拒斥されることで、「これは...ではない」という[両者を]識別する観念が拒斥するもの(bādhaka)であることも成り立つのである。そして、こ のことが成り立てば、前に[生じた]観念は、[あとに生じた観念によって拒斥される から]誤認である、という世間で認められている事実も成り立つことになるのである。
  それ故、[次のような椎論式が成立する。すなわち]「(主張)疑問と誤認に満ちた相 矛盾する見解はすべて正しい(yathārtha)。(理由)というのは、[それらは]観念だからである。(実例)たとえば、壷等の観念のように」。
  以上のことが・Xが[Yに]附託される[時]云々と言われているのである。真珠母貝(Y)に銀等(X)が附託されるのは、世間で周知の事実である。[しかし]、それは、 YがXとして認識されること(anyathākhyāti)93に基づくのではない。そうではなく て、[それ(附託)とは、ある場合には、以前に]知覚したことのある銀等およびその [銀等の]想起が、「これ」という形で眼前に存在する[何らかの]実体およぴそ(実体) の認識とは異なるということを理解しないこと一[それは銀等の以前に]知覚した ことのあるものであるという面が欠落することによる一に基づく誤認である。また、[ある場合には・附託とは、以前に]知覚したことのあるものが、rこれ」という形で眼前に存在する[何らかの]実体およぴそ(実体)の認識とは異なるということを、理解 しないことに基づく誤認である。そして、知覚と想起を互いに同格関係によって表現することや・「[これは]銀である」等の日常的経験は、誤認[の結果]なのである。

脚注
92共通の特質とは、個物に対しては普遍であり、実在性に対しては特殊であるものを言い、類と同義である。
93 脚注64参照。
(´・(ェ)・`)つ

445鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/16(土) 23:24:38 ID:wWrqg5gM0
 認識は眼前に実体があることだけを知覚しているというのじゃ。
 それが実体をも否定する唯識論者との違いなのじゃ。

 実体に属する共通の特質が知覚されず、似たものが想起されるというのじゃ。
 以前に認識したものと眼前のものと区別しないから混同が起こるのじゃ。

 また二種の知覚の区別が理解されないために起こる事もあるというのじゃ。
 対象の属性と基体が無関係であることを理解しないから起こる事もあるというのじゃ。
 それらの無理解が拒斥されることで両者を区別される観念も成り立つというのじゃ。

 付託とは何かが別の何かに認識されるというだけではないのじゃ。
 眼前の対象が、以前に知覚された別の似たものに誤認されることが付託されたということだというのじゃ。

446避難民のマジレスさん:2022/07/17(日) 02:45:26 ID:qTt0I4uw0
2.4.他学派による附託の定義(3):その他の学派   p231-235

  しかし、別の人々は94、[附託とは]XがYに附託された時、Yにはまさに [それに]反する属性があると誤って構想すること(kalpanā)である、と主 張している。

  しかし、別の人々は、すなわち、これ(これまで述べてきたakhyātiの見解)にも満 足しない人々は、[附託とは]、XがYに附託された時、Yにはまさに[それに]反する 属性があると誤って構想することである、と主張している。ここ(本文中)で言おうと していることは以下の通りである。銀を求める人は、「これは銀である」という観念に 基づいて、眼前に存在する実体に向かったり、[その実体と銀とを]同格関係で表現し たりする。これは、広く知られているところである。[しかし]、知覚と想起およびその [それぞれの]対象が互いに異なることに対する単なる無理解から、このことが[起こ る]ということはありえない。というのは、精神神的存在の日常的経験(vyavahāra, 活動)95と表現は、理解に基づいており、[それらが]単なる無理解から[起こること]は決してありえないからである。
  [Akhyātivādin][それらは]単なる無理解から[起こるの]ではない。そうではなくて、知覚と想起は、それ自体に関しても、また、[その]対象に関しても、互いに異 なることが理解されていない場合には、[「これ」という知覚と「銀」という想起とが]眼前に存在する銀に関する正しい認識と類似しているために、[「これ」と「銀」とを]区別しない日常的経験(活動)や[両者の]同格関係による表現を引き起すのである。
  [Akhyati批判][このようにあなたは]言っていったが、では、これら(知覚と想 起)が正しい認識と類似していると理解されている時に、[その類似性が]日常経験(活 動)を引き起こす原因となるのか、あるいは、[類似していると]理解されていなくて [も]、単に[類似性が]存在するだけで、[それが日常経験(活動)を引き起す原因と なるの]か。[このうち、知覚と想起が正しい認識と類似していると]理解されている 場合には、[この理解は]、さらに、 「『これ』という[知覚]と『銀』という[想起]と いうこれら二種の認識は、正しい認識と類似している」という形の理解になるか、「こ れら二種[の認識]は、実に、[認識]それ自体に関しても、また、その[それぞれの] 対象に関しても、互いに異なることが理解されていない」という形の理解となるか[のいずれかであろう]。このうち、まず、 「正しい認識と類似している」という認識は、 正しい認識のようには、日常的経験(活動)を引き起すことはない。というのは、「カ ヴァヤ96は牛に似ている」という認識は、牛を求めている人を、ガヴァヤに向かわせる ことはないからである。一方、 「これら二種[の認識]は、実に、異なることが理解 されていない」という認識は、自己矛盾である。というのは、「[両者が]異なることが理解されていな」ければ、 「これら二種[の認識]は」という形はとらないし、 「こ れら二種[の認識]は」という理解があれば、 「[両者が]異なることが理解されてい ない」ということはないからである。従って、[次のように]言うべきである。すなわ ち、[「これ」という知覚と「銀」という想起が眼前に存在する銀に関する正しい認識と 類似しているという事実が]単に存在するだけで、[知覚と想起が]異なることを理解していないということが分からなくなり、[それが]日常的経験(活動)の原因となる のであると。

脚注
94Ratnaprabhāは、「空観派の人々」と解し、Nyāyanirnayaは、中観派の人々 と解している。Bhāmatīがどう解していたかは不明だが、その註釈は、(中観派の人々 )と解している。
95日常的経験という語には、日常的活動という意味あいも含まれている。
96 牛に似て牛に非ざるものの例としてよく用いられる雄牛の一種。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

447鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/18(月) 00:07:57 ID:7bvYmyZM0
さらに別の派のものは付託とは、あるものが付託され時にそれとは反する属性があると、誤って構想することというのじゃ。
 それは単なる無理解ではなく、知覚と想起が主客共々、互いに異なることが理解されていない時に区別しない表現を引き起こすというのじゃ。
 つまり真珠母貝が銀と誤認された時に、実は過去の記憶から想起されたものであるのに、知覚されたと思ってしまうということじゃな。
 それも類似しているからというのじゃ。

 反論なのじゃ。

 正しい認識と類似しているという認識が、それらの認識を引き起こすことはないというのじゃ。
 
 
 さらに二種の認識が異なることが理解されていないというのは自己矛盾であるというのじゃ。
 異なることが理解されていなければ、これら二種の認識はという形はとらないからなのじゃ。
 その理解があれば両者が異なることが理解されていないということはないからだというのじゃ。
 
 そうであるから、対象の知覚と想起が、想起対象の正しい認識と類似しているという事実が単に存在するだけで、
 知覚と想起が異なることの無理解が起こり、誤認の原因となるのであると言うのが正しいというのじゃ。

448避難民のマジレスさん:2022/07/18(月) 00:45:29 ID:ct57SF/Q0

(つづき)    p932-933
  [問]この場合、これ(知覚と想起が異なることに対する無理解)は、附託を生み出 すことで、日常的経験(活動)の原因となるのか、それとも、附託を生み出すことなし に、まさに、それ自身で、[日常的経験(活動)の原因となるのか。]
  [Akhyāti批判者]我々は[次のように]考えている。すなわち、精神的存在の日常 的経験(活動)が無知を前提とすることはありえないから、[知覚と想起が異なること に対する無理解は]、附託という認識を生み出すことによってのみ、[日常経験(活動) の原因となるのである]と。
  [Akhyātivādin][確かに]その通りで、精神的存在の日常的経験(活動)は、無知 を前提とすることはないが、[附託という認識を前提とするのではなくて]、異なること が知られていない知覚と想起とを前提とするのである。
  [Akhyāti批判]そうではない。というのは、「銀」という名詞語幹(prātipadika) の意味を想起しただけでは、活動の役には立たないからである。実に、銀を求める人々 の活動が、[ただ想起しただけの銀に向かうのではなく]、「これ」という語(観念)の 対象に向かっているのは、疑いのない事実である。もし、これ(「これ」という語(観 念)の対象)を求めていなければ、どうして、この人(「銀」という名詞語幹の意味だ けを想起した人)が、「これ」という語(観念)の対象に向かおうか。Xを求めてYに 向かうというのは自己矛盾である。もし、「これ」という語(観念)の対象が銀である と知らなければ、銀を求める人は、どうして、それ(「これ」という語(観念)の対象) を欲しがったりしようか。
  [Akhyāti批判に対する反論]そうでない(銀でない)ことが分かっていないから[銀を求める人は、「これ」という語(鮒念)の村象を欲しがるの]である。
   [Akhyāti批判]もし、そんなことを言うのなら、そうである(銀である)ことが分かっていないのだから、どうして、[「これ」という語(観念)の対象に対して]無関心 でいられないのか答えるべきである。[このように]この[銀を]求める精神的存在が、 [銀を]取りに行くほうにつくか、[銀に対して]無関心であるほうにつくかは確定して いないが、「これ」という語(観念)の対象に銀を附託することによって、[この人は、 銀を]取りに行くほうにのみ、確定させられるのである。従って、[知覚と想起とが]異なることに対する無理解は、附託を生み出すことによって、精神的存在の活動の原因 となるのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく

449鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/19(火) 00:23:36 ID:7bvYmyZM0
聞いたのじゃ。
 
 知覚と想起が異なることに対する無理解は、附託を生み出すことで、日常的経験の原因となるのか。
 あるいは附託を生み出すことなしに、れ自身で日常的経験原因となるのかというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 
 精神的存在の日常的経験が無知を前提とすることはありえないのじゃ。
 そうであるから無理解は附託を生み出すことで、日常的経験の原因となるというのじゃ。

 聞くのじゃ。

 精神的存在の日常的経験は、無知を前提とすることはないが、異なることが知られていない知覚と想起とを前提とするというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 想起だけでは人は日常的な活動はしないからそれは違うというのじゃ。
 想起の対象が必要なのじゃ。

 反対なのじゃ。

 銀でないことがわかっていないから、人はその想起の対象を欲しがるというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 銀でないことがわかっていないならばその対象に無関心でいられないのかというのじゃ。
 観念の対象に銀が付託されているから、人は銀を取りに行くというのじゃ。
 そうであるから知覚と想起が異なることに対する無理解は、附託を生み出すことで日常的経験の原因となるのじゃ。

450避難民のマジレスさん:2022/07/19(火) 08:03:53 ID:GORVQfcI0
(つづき) p233-234
  詳論すれば次の通りである。[「これ」という知覚と「銀」という想起とが]異なるこ とに対する無理解から、[まず]「これ」という語(観念)の対象に銀性を附託する。[次 に]その(銀という)種類に属すものは役に立つものであると考える。[そして]「これ」 という語(観念)の対象である銀は、その(銀という)種類に属するものであるから、それ(役に立つもの)であると推論する。[次に]それ(「これ」という語(観念)の対 象である銀)を求めて、人は、[その銀に]向かう。このような順序が確立されるのであ る。[一方]一般的な(tatastha)銀の想起は、「これ」という語(観念)の対象が役に立 つものであると推論するのには役立たない。というのは、[その場合には、「これ」と いう語(観念)の対象が役に立つものであることを推論する]原因(hetu)である銀性 は、場(paksa)に存在するもの(dharma)ではないからである97。実に、推論を成立 させるの(anumāpaka)は[推論によって立証しなければならないものと推論によっ て立証するための原因とが]同一の場に見られることであって、[両者が]別々の場に見られることではないのである。たとえば、[そのことが]「[遍充]関係(sambandha) を知る者は、[推論によって立証しなけれぱならないものと推論によって立証するための原因とが]同一の場に見られることに基づいて、[推論を行う]」98と述べられてい る。一方、附託の場合には、[推論によって立証しなければならないものと推論によっ て立証するための原因が]同一の場に見られる99。従って、[次のような推論が]成立 する。(主張)この論議の対象である銀等の認識は、眼前に存在する事物を対象として いる。(理由)何故なら、銀等を求める人を、必ず、そこ(眼前に存在する事物)へ向かわせるからである。(実例)Xを求める人を、必ず、Yへ向かわせる時、[その]Xに 関する認識はすべて、Yを対象としている。たとえば、[我々]両者が[そうだと]認 めている銀に関する正しい認識のように。(適用)これ(論議の対象となっている銀等 の認識)もそうである(眼前に存在する事物を対象としている)。(結論)従って、そう である(銀等の認識は眼前に存在する事物を対象としている)。

脚注
97推論が正いいものであるためには、二つの条件、すなわち、(1)推論の原因と推論によっ て立証しなければならないものとが同一の場に存在すること、(2)領域を覆うものの存在する領域が領域を覆われるものの存在する領域を覆って(あるいはそれと 重なっ)いるという関係にあることとが、満たされる必要がある。たとえば、山から立ち昇る煙を見て山 に火があることを推論する場合、山が場であり、煙が推論の原因であり、火が推論によって立証しなけれ はならないものである。また、火が領域を覆うものであり、煙が領域を覆われるものである。この推論が 正しいものでああるためには、(1)煙と火が同一の山にあること、(2)火の存在する領域が煙の存在する 領域より広い(あるいは同一である)ことが必要とされる。このことについては、脚注(14)でふれたの で、ここでは、詳しく説明することは避けたい。なお、本文の場合には、銀性が推論の原因であり、「これ」という語(観念)の対象の役に立つものであるという性質が推論によって立証しなけれぱならないも のであるが、銀性は銀という場に存在し、役に立つものであるという性質は「これ」という語(観念)の 対象である真珠母貝という場に存在しており、両者は同一の場に存在していない。従って、条件(1)が 満たされないから、銀の想起は、「これ」という語(観念)の対象か役に立つものであると推論する原因 とはならないのである。
98
99附託の場合には、銀性は「これ」という語(観念)の対象(真珠母貝)に附託されているのだから、 「これ」という語(観念)の役に立つものであるという性質も銀性もともに、同一の場、すなわち「これ」 という語(観念)の対象(真珠母貝)に存在することになり、推論が正しいものであるための条件(1)が満たされていることになる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

451鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/19(火) 22:51:45 ID:7bvYmyZM0
 知覚と想起への無理解から、知覚の対象に銀という観念を付託するのじゃ。
 それから銀が役に立つものと考えるのじゃ。
 そして銀が役に立つ貴金属であると推論するのじゃ。
 それから人は銀を求めて行動するというのじゃ。

 ただ想起するだけでは、人は動かないのじゃ。
 目の前に銀がないからなのじゃ。
 
 付託による認識は目の前にあるものを対象にしているというのじゃ。

452避難民のマジレスさん:2022/07/19(火) 23:42:31 ID:IB25p8NI0
(つづき) p234-235
  [Akhyātivādin]真珠母貝は、[銀の認識に]顕現しないから、[銀の顕現する]基 体([銀の認識の]対象)ではない100。
  [Akhyāti批判][このように、あなたは]言っていた。この場合、あなたに尋ねる。 説明せよ。「これは銀である」という認識の基体(対象)とならないのは、一体、真珠母貝性なのか、それとも、眼前に存在する白く輝く何らかの実体なのか。もし。真珠母貝性が[「これは銀である」という認識の]基体(対象)ではない[と言うの]なら、確 かにその通りである。[しかし]後者(眼前に存在する白く輝く何らかの実体)が[「こ れは銀である」という認識の]基体(対象)ではないと言うのなら、あなたはまさに、 経験に反することになる。というのは、「これは銀である」と経験している人は、経験しながら、眼前に存在する事物を、指等で指し示しているからである。
  [Akhyātivādin][感覚器官等の欠陥は、感覚器官等に備わった結果を生み出す能力
を損う原因となるだけであって、誤った認識を生み出す原因とはならない。というの は、さもなければ、欠陥があれば、クタジャの種からでも、バニヤン芽が出る、という 誤謬に陥ることになるからである。]101
  [Akhyāti批判][このように、あなたは言っていたが、そうではない]。というの は、欠陥のある原因は、通常の結果[が生じること]を妨げることで、[それとは]別 の結果を生み出すことができる、ということが経験されるからである。たとえば、山火事で焼かれると、竹の種から、カダリー木の茎が生ずることがあるし、また、体内の火は、過食病(bhasmaka)にやられると、多くの食物を消化することがある。
   [Akhyātivādin][次のような推論が成り立つことになる。「疑問と誤りに満ちた相矛盾する見解はすべて正しい。というのは、それらは、観念だからである。たとえば、 壼等の観念のように」。]102
  [Akhyāti批判][このように、あなたは言っていたが、そうではない]。直接知覚に よって[その]対象が拒斥された誤認が、正しい[などという]推論は、誤り(ānhāsa) である。たとえば、火が熱くないという推論のように。
  [Akhyātivādin][銀が認識の対象でもないのに、銀を認識するというように]誤っ た認識が、[認識自身の正当な対象から]はずれているとすると、あらゆる正しい認識根拠が不確実なものとなってしまう103。
   [Akhyāti批判][このように、あなたは]言っていた。[しかし]我々は、[認識は、人を]目覚めさせる(bodhaka)から、それ自体で正しいものであるのであって、[認識自体の正当な対象から]はずれることがないから[正しい]というわけではないの だ、と明言しており、これ(あなたの主張)は[すでに]、『ニヤーヤカニガー』の中 で104退けたので、ここでは、詳しくは説明しないことにする。
  また、[誤認の場合には、想起されたものの]想起という面が欠落しているのだ105[と いうakhyātivādinの主張]に対する批判については、ここ(akhyāti批判の箇所)で は、少しふれただけであるが、詳しくは、『タットヴァサミークシャー』106の中で、理解いただけるはずである。
  以上のことが、[『註解』本文中で]次のように述べられているのである。すなわち、
しかし、別の人々は、[附託とは]、XがYに附託された時、Yにはまさに[それに]反 する属性があると誤って構想することである、と主張していると。[附託とは]Xがす なわち銀等がYにすなわち真珠母貝等に附託された時、Yにはすなわち真珠母貝等に はまさに[それに]反する属性がと誤って構想することである。すなわち、銀牲という属性があると誤って構想することである、というのが本文の脈略である。

脚注
100 本訳228頁15-17行参照。
101 本訳229頁参照。
102 本訳228頁29行参照。
103 本訳230頁5-7行参照。
104
105 本訳229頁13-15行参照。
106これは、マンダナミジュラの『ブラフマ・シッディ』に対するヴァーチャスパティ・ミシュラの註釈であるが、現存しない。
(´・(ェ)・`)


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