したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

戦争を考える

1管理者:2005/11/14(月) 06:01:53

憲法改正について、戦争について、不戦について、戦争と不殺生戒について、などの議論が活発に展開される事を期待して、「世界の情報ボックス」スレツドでの議論から「戦争を考える」内容の議論を分離独立させたいと思います。よろしくお願いいたします。

241匿名:2005/12/10(土) 01:13:32
>242

あなたは、私に何を応じろと言っているのでしょう。
過去の投稿の番号ではなく、具体的に記してもらわないとわかりません。

242匿名:2005/12/10(土) 01:18:05
私の投稿を「恨み言」などと表すのは、大変失礼なことてですね。
議論が成り立たないのも、これは合意点ですから、当然のこと、おつき合いは求めておりません。
ただ、私が何かに応じないことを問題にされているというのであれば、それが何のことなのか、お尋ねしておきます。

243犀角独歩:2005/12/10(土) 01:31:49

以下の記述についてです。

>> 選挙…国民
>> 最大の戦争被害者である国民…戦争責任者でもある

> これはつまり、選挙によって選択をしたのだから、戦争は責任は国民にあるという
> 議論の運びなのでしょうか。

> わたしはこの考えは再考されるべきだ思います。
> なぜならば国民には、いま生まれたばかりの赤ん坊から、心的障害を持つ人まで含
> まれているからです。そのなかで、投票権を持っている人は常に限られています。
> それが国民総意であるとしてしまう丼勘定が、投票というシステムにはあるからで
> す。まして、先の大戦は非戦闘員、婦女子まで無差別に殺戮したものでした。その
> 極が原爆投下でした。先にも紹介しましたが、その原爆の開発・投下・写真撮影ま
> でしたアグニューと、あなたは意識してかしないでか同じことは言っています。こ
> の男は60年後の原爆の被災地広島に立ってまで「罪もない一般市民はいない」と言
> いました。この男の一流の論理から言えば、原爆投下によって、宗教的な意味合い
> としては捌きを与えた、政治的には国民に責任をとらせたのでしょう。異教の黄色
> 人種への裁き、そして、政治的には原爆投下に値する責任が非戦闘員である乳飲み
> 子から寝たきりの老人に至る一切が背負った‘責任’であるという政治的感覚から、
> 己とアメリカのあの人類史最高の極悪を肯定しています。

尚、この点に、いまさら応じていただく必要はありません。
削除対照になる無礼な文章を敢えて讃じて、わたしへの軽蔑を奨励するあなたと語るべきことは何一つありませんので。誤解なきように言っておきますが、応じていただく必要はありません。そのよう運びになっている文章に抗議したまでのことです。しかし、それも今は昔です。応じていただく必要はありません。あなたと議論をするつもりはありません。

244匿名:2005/12/10(土) 01:37:59
>243
>削除対照になる無礼な文章を敢えて讃じて

私の記述のどの文言を指しているのでしょう。
ご指摘ください

245匿名:2005/12/10(土) 01:39:32
>240において、私の投稿に対して「恨み言」と発言されました。
これは、私としては大変心外です。

犀角独歩さんには、前言の撤回を求めます。
もし撤回していただけないのであれば、以下のルールに即して

2「非礼・無礼、人権侵害、言葉の暴力」等の侮辱表現、侮辱発言は、理由の如何を問わず堅く禁止します。

管理者さんに犀角独歩さんへの投稿内容への尊重を促す注意、もしくは投稿の削除を求めます。

246匿名:2005/12/10(土) 01:49:37
>243
>削除対照になる無礼な文章を敢えて讃じて

>237のことですね。

よく読んでください。削除されるのは、仕方ないと書いてはずです。
しかし、その他の内容は、戦争の体験談であり、あなたのこととは関係ないでしょう。
その記述は、真に迫るものがあったと私は感じたのです。ましてや、私への忠告のために向けてくださった投稿です。
削除されたとはいえ、それに応じて何が悪いというのでしょう。
とにかく、もう応答ややめます。
私もそのつもりでいたのですから。
とにかく>240「恨み言」というのは、掲示板のルールに即して、撤回して頂きたいと思います。

247管理者:2005/12/10(土) 06:55:53

犀角独歩さん

>240レスの、「恨み言」と言う表現は匿名さんが指摘されるように、掲示板ルールに抵触していますので、削除いたします。

248犀角独歩:2005/12/10(土) 08:42:39

管理者さん

既に、削除されたことなので、致し方ありませんが、当方の弁明も聞かずの削除は一方的ではないでしょうか。

わたしは、匿名さんの

> 発言の自由はあるとはいえ、そもそも、あれは書くな、これは書くべきでないなど、あなたがいちいち検閲のようなことをすべき立場にでもいるのでしょうか。あまりにそれが繰り返されるので、とても不可解です

という文章を指して、「恨み言」と記しました。なんとなれば、わたしは検閲など全くしていないのであり、また、そのような立場としても振る舞っていません。わたしの文章の誤読から生じたこちらから申し出を無視した挙げ句、以上のような書き込みは、まさに「恨み言」以上の意味を持ちません。ですから、記したわけです。

「恨み言」という言葉が、「非礼・無礼、人権侵害、言葉の暴力」にどのように該当するのか、説明してください。

242に、わたしに尋ねた点について、わたしは243にその解答を載せています。しかし、それに、またもや、答えないばかりか、「非礼・無礼、人権侵害、言葉の暴力」などといういわれる筋合いはありません。

249犀角独歩:2005/12/10(土) 08:49:33

追加します。

わたしが投げかけた疑問に答えず、わたしの質問を一方的に「検閲」と決め付けることは、この掲示板の趣旨に反しないのでしょうか。

質問に対して、答えないばかりを、それを「検閲」だとされるのは、わたしのほうこそ、心外です。

よって、238の削除を求めます。

250犀角独歩:2005/12/10(土) 09:01:37

> 削除対照になる無礼な文章を敢えて讃じて

この点について、記します。

当掲示板では、文中に投稿ルールに違反する文言がある場合、投稿全文が削除されます。つまり、その段階で、削除された文章はそれ以後のロムの方々は見られないことになります。ですから、「削除対照になる無礼な文章」とは、削除文書全体を指して記すほかありません。

つまり、意味するところは、削除対照になった1投稿を肯定的に捉えてほどの意味になります。そして、その削除投稿が著しく、わたしの名誉を傷つけたものであれば、その傷つけた投稿を賞賛することは、わたしへの侮辱をも、含めて賞賛していると採らざるを得ない。なぜならば、その文章は既に削除対照文章ということで存在していないからです。

削除文章を取り上げるということは、以上のように連鎖的に、わたしへの侮辱を再燃、肯定される‘効果’を持ちます。故にわたしは「抗議」と記したわけです。

251管理者:2005/12/10(土) 09:26:58

犀角独歩さん

匿名さんの書き込みを「恨み言」と断定することは、相手に対する侮辱に当たると判断しました。たとえ、相手のレスが「恨み言」と取れる内容であっても、それを明からさまに書き込み事は、侮辱以外の何物でもないと思います。

匿名さんは、犀角独歩さんに撤回を求めていましたが、管理者はそれ以前の問題だと判断しました。

当掲示板では、当掲示板の趣旨、原則から見て、相手の発言が不適切な場合には、お答えにならないようにお願い申し上げています。相手の論理の非を攻めるのは何ら問題ではありませんが、既に議論がかみ合わないことが明らかになった段階では、非難の応酬になってしまいますので、双方とも自粛して戴きたく存じます。

252犀角独歩:2005/12/10(土) 09:29:15

以下の点も補足しておきます。

当スレのわたしの投稿は、匿名さん個人に向けて記しているものではありません。しかし、書くごとにすべての言葉が自分に向けられたようにレスされることは、実に迷惑です。また、そのような誤解に抗議しても、それを無視して論を進める在り方にはわたしは納得ができない。さらに勝手に自分に向けられた言葉であるとして、さらに侮蔑的言辞を吐くことにも納得はできません。

近日で、何をさしているかといえば、わたしが日韓併合を美化して語る政治に係る人々を「政治関連族」と記すと、それを自分に向けられた言葉であると即断し、「政治といえば、それだけで穿った目でタブー視する。そうした偏見」などと、わたしを偏見者扱いをしています。これだけでも十分に言葉の暴力であり、侮蔑表現です。この点について、わたしは抗議もしました。しかし、この点について、何ら謝罪もなく、謝罪もない点をまた抗議しています。

そもそも、わたしが匿名さんなる人物が、どのような信仰背景にあるのか、また、どのような職業にあるのか、もっと言えば、男なのか女なのかすらしりません。その職業も何も知らないわけですから、「政治関連族」という表現が本人を指したといわれるなど、思いもよらないことでした。また「〜族」という表現に問題があるという指摘と考えられなくもありませんが、しかし、たとえば「遺族」という語句はあります。反面、「暴走族」という語句もあります。つまり、「族」自体に何ら悪意、侮蔑の意は孕んでおらず、わたし自身その意図でも使用していません。また、わたしは、仏教という視点から、政治にもちろん、強い関心を抱いています。在り方に不満・疑問は持っていますが、偏見は持っていません。それにも関わらず、偏見者扱いされることはまことに心外です。それでも、敢えて削除依頼はしませんでした。しかしながら、昨晩の経緯がある以上、わたしはわたしで、自分の名誉を守らなければなりません。

よって、226の投稿も削除を求めることといたします。

253犀角独歩:2005/12/10(土) 09:38:15

管理者さん

> 相手の発言が不適切な場合には、お答えにならないようにお願い申し上げています

なるほど。このような「お願い」は確かにあったと記憶します。

「恨み言」という表現を、わたしは侮蔑表現であるとわたしは考えません。
しかし、以上のルールの提示は管理者さんからあった点は思い出しました。
これに従うことといたします。また、非難の応酬になっている点も否めません。
以上のご指摘に従い自粛をいたします。
今後、このような応酬にならないよう勉めます。

しかし、わたしは検閲、偏見者呼ばわりをされることを、自分に対する侮辱であるととらえます。よって、繰り返しになりますが、226、238の削除は重ねてお願い申し上げることといたします。

254管理者:2005/12/10(土) 09:58:51

犀角独歩さん

226、238の削除のご依頼の件、本日は家業が極めて多忙で、精査している時間が有りません。申し訳ありませんが、今晩まで判断をご猶予ください。本日中には必ず判断いたします。

255犀角独歩:2005/12/10(土) 10:25:11

254 管理者さん

了解しました。
ご多忙のところ、お手数をおかけいたします。

256犀角独歩:2005/12/10(土) 11:46:32

本日中のご判断ということですので、もう1点、追加します。
239の

> 参加者の投稿内容を仕切るが如き発言を続けることは、私からみれば、掲示板における「越権行為」

わたしは発言を仕切っておりませんし、何ら越権行為をいたしておりません。
このような断定は名誉を傷つけます。
そもそも発言の根拠を求めたり、再考を促すことは何ら越権行為に当たりません。
自分の考えと違うことを述べられることを「仕切る」などと表現される筋合いもありません。

226、238に併せて、239の削除も依頼します。

257犀角独歩:2005/12/10(土) 12:04:23

管理者さん、もう一点のみ。

> 匿名さんは、犀角独歩さんに撤回を求めていました

しかし、これに応じるのには、時間がありません。
匿名さんの要求はから、削除までは5時間16分、それも深夜から早朝にかけてのことです。この短時間、深夜に応じることはできません。

2005/12/10(土) 01:39:32
2005/12/10(土) 06:55:53


※ いずれにしても、ここ一連のやり取りは、原爆投下で虐殺された投票権もない子どもたちに、何の責任もないということを強調するためです。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1131915713/212

仏教徒として「戦争を考える」うえで、この点は、絶対に外せません。
原爆、無差別爆撃で殺された幼い命、なかにはいまだ母の胎内にあった子もいたでしょう。それらに戦争をしている国の民であるから、戦争責任があるなどという考えは、断じて再考されなければならず、仏教として、断じて認めることはできない。この点に議論の焦点があったことを、ロムの方々は見失わないでいただきたいと思います。

258匿名:2005/12/10(土) 12:12:12
管理者さん

>226、238、239

できれば、削除しないでいただきたい。その理由は後ほど記します。

もし、どうしても削除するというのであれば、投稿者である私が納得する明確なる根拠をご提示ください。

「恨み言」についても、管理者さんが注意や警告によって、相手が理解を示してくだされば、そのまま残しておいてもよかったと思っておりました。(今回の場合は、理解はされなかったようですが)

投稿をやたらと削除するというのも、これも自由発言の侵害にあたるものだと考えます。
また、そうしたことが濫用されていけば、自分にとてって不都合な意見を排除させる手段に用いられる危険性も孕みます。
そういうひとつひとつが、ある意味での言論統制につながるものではないでしょうか。

管理者さんには、お手を煩わせますが、言葉の言い回しによってはルール違反の判断が難しい場合もあります。
明らかなる侮辱言葉とはいえないけれども、抵触することが考えられるような発言が続いているときは、削除以前の、注意や警告という段階も必要ではないかと考えます。

259犀角独歩:2005/12/10(土) 12:40:27

既に、注意、警告を経ず、管理者さんの判断で即刻削除は、幾度となく、実施されています。
匿名さんに限り特別扱いはフェアではありません。

260犀角独歩:2005/12/10(土) 12:44:15

また、私自身、今回弁明の機会もありませんでした。
それにもかかわらず、理由を述べるから削除をしないでほしいというのも、フェアではありません。

261匿名:2005/12/10(土) 13:00:15
国民の政治責任については、憲法の前文冒頭に、しっかり示しています。

「日本国民は,正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し,われらとわれらの子孫のために,諸国民との協和による成果と,わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し,政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し,ここに主権が国民に存することを宣言し,この憲法を確定する。そもそも国政は,国民の厳粛な信託によるものであつて,その権威は国民に由来し,その権力は国民の代表者がこれを行使し,その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり,この憲法は,かかる原理に基くものである。われらは,これに反する一切の憲法,法令及び詔勅を排除する。 」
(続きは、こちらで)
http://www.houko.com/00/01/S21/000.HTM#s0 

投票権のない子どもたちには責任はありません。当然です。だけど、その子の親には一分の責任があります。政治家の責任に比べればその比ではありませんが、しかし、戦争を支持した一分の責任は国民にもあるのです。

国民といったときには、もちろん子どもも含みます。しかし、国民主権といったときの政治的主権は、投票権を持った人々を指します。その人たちには、選挙権のない人の分まで含めた政治的責任があるということです。

戦前の場合は、普通選挙法が制定されたとはいえ、治安維持法により投票行動はかなり統制されているものでした。
そのような中、日本人は戦争に邁進していった。また、そうせざるを得なかった世界情勢と日本の実情というのもあります。
そのことをよく認識しておかなければ、戦争回避の具体策は見えてこないでしょう。

また、戦前のように思想統制された政治が悪いというのであれば、尚のこと、今の私たちは政治に関心をもって統制されないようにしっかり監視しておかなければならないはず。私はそのことをずっと書いてきたつもりです。

262管理者:2005/12/10(土) 13:07:42

>明らかなる侮辱言葉とはいえないけれども、抵触することが考えられるような発言が続いているときは、削除以前の、注意や警告という段階も必要ではないかと考えます。

ご提案として承ります。「管理者からのお願い」スレッドにてご参加の皆様に「ルールの改廃提案」として議論して頂こうと思います。少し時間をください。

264犀角独歩:2005/12/10(土) 14:21:32

263について、わたしに関する一方的な評論であるので、このような何かと評論されることは不快です。また、全くわたしの内心と違っており、的外れです。この263もまた、削除してほしいほどです。

もとより、排除する意図などありません。しかし、こちらが仏教的見地から述べると、政治を考えない仏教はだめであるかのようなコメントが戻れば、議論は成り立ちません。
ですから、先の段階で、和解もし、終わりになったはずです。

しかし、わたしが再考を促した部分だけは、到底、承服しかねる。故にその再考を促したわけです。

わたし、子どもに責任はないと言ったのです。
それ以上のことを記しているわけではありません。
戦争で殺された子どもには、何の責任もありません。
また、子どもと親は別の人格であり、別の人権を有します。
親の決定は子どもの人権とはまったく別のものです。
子どもを踏みにじる権利は、親にはありません。国にもありません。
子どもは親の所有物ではありません。国の所有物でもありません。

なんで、このようなことに同意いただけないのか、不思議でなりません。
無残に殺されていった人々を弔う気持ちは、「だから、今憲法を、政治を」という話ではありません。いまから60年前、虐殺された人々、その遺族を思う心の話です。
わたしは、再考を促した段階で当然、投稿を訂正してくれるだろうと思っていました。
まして、批判するのではなく、一歩引いて、再考をと言葉も和らげてのことです。
しかし、事態はまったく違いました。残念なことです。

何もわからず、ただ虐殺された惨状を思うとき、憲法が、親の投票権がというより、なぜ、そのような惨状にリアリティを感じられないのか。人一人の命を考える心が喪われています。
このようなリアリティの喪失を考えるうえで、社会心理学の分析は必要であると思っています。
また、殺された人々を考え、残された人々の心を救ううえで仏教の叡智があると考えます。

政治に還元できない、政治、憲法、法律で割り切れない部分を仏教は語っています。
それを政治、憲法、法律で評論されても、当然、かみ合わないのでしょう。

なお、わたし自身が誰と議論するかは、わたしの自由です。議論をことわることに異議を申し立てることはわたしの自由の侵害です。
このような自由選択は、掲示板ルールに違反するものではありません。

なお、管理人さんに申し上げますが、ルールとは、施行後に有効になるものです。
今回の匿名さんの投稿への削除依頼は、このルール改案以前のことです。ですから、旧来の段階で判断されてしかるべきです。つまり、匿名さんの申し出を考慮して判断を下すことは、アンフェアであるとともに、ルール施行の精神に反することを申し添えておくことといたします。

265犀角独歩:2005/12/10(土) 14:26:55
『第三文明』06.1号に『師恩報謝を誓った日蓮門下の戦い」という東洋哲学研究
所・主任研究員・小林正博氏の文章が載っていました。その全体の内容は…、ま
あ、置くこととしますが、この書き出しは、当スレ、世界の情報ボックスの近日
のやり取りと関連するので、覚書代わりに紹介しておきます。

「鎌倉時代、一般的に師弟というと、僧侶と武家の関係を指していました。殺生
を生業とする武士にとって、「後生、自分は往生できる」は最大の関心事でした
。そのため、武士は定年退職すると、不安感を安心に変えていく存在として、師
を選んで出家し、師から法名をもらって、余生を仏門に投じたのです」(P30)

この小林氏の文章は最後に(談)と記されているので、どうやら、インタビュー
録音を編集が起こした文章であると目されます。ですから、直ちに小林氏の考え
とするのは早計でしょうが、いくつかの疑問点はあります。それはともかくとし
て、ここで「殺生と生業とする武士」という件は、武・仏の関係を示す認識とし
て、この部分ばかりは賛同します。

小林氏は「定年退職…出家…余生を仏門」というのは、少なくとも日蓮門下の実
際とは一致しないと思えます。たとえば四条金吾は寛喜2(1230)の生まれで入信
は、康元元年(1256)、つまり26歳で35歳の日蓮の‘檀那’となっています。また
、富木常忍は正安元年(1299)84歳の寂で、入信は建長5(1253)ですから38歳であ
ったことになります。その他の檀那は調べていませんが、この2人の年齢は「定
年退職後」とは言い難いと思われます。また、これら檀那は、単なる入信である
というより、入道(半僧半俗)であったのではないのかと思われます(例に挙げ
た2人の入道時期は確認していません)
北条時宗などの像をみても、髷はなく剃髪をしていますから、入道であったこと
が窺われます。以上の点から、どうも小林氏のこの点についての記述は不適切で
あると思えます。

しかしながら、武士が殺生を生業として、その殺生の贖罪として、仏教に帰依を
するという心的構造は外れたものではないとわたしは考えます。

このような仕組みは、中国における鎮護仏教の発達、また、インドにおける釈迦
の出家といったこととも通じるものなのだろうと考えられます。

日本の武士、中国の武人、インドのクシャトリアと仏教の関係は、ある面、重要な
テーマです。
これに日本では僧兵というテーマも加わるでしょう。

仏教から「戦争を考える」、原点がここにもあると、わたしは思います。

266犀角独歩:2005/12/10(土) 14:30:17

【264の訂正】

誤)惨状にリアリティを感じられないのか。人一人の命を考える心が喪われています
正)惨状にリアリティを感じられないのか。社会から、人一人の命を考える心が喪われています

267犀角独歩:2005/12/10(土) 14:42:47

管理者さん

やはり、読み直して納得がいきません。

> 「誰もあなたを相手にしない」などという心理的圧力もありました

わたしは、こんなことは一言も言っていないのであって、あたかもこのようなことをわたしがしているという作文は、わたしの名誉を傷つけています。

また、「他の掲示板へ行け」と「ここは仏教の掲示板であるから、政治の議論は政治の掲示板でしてはどうか」は明らかにニュアンスが違います。まったくの悪意に基づく改変と牽強付会です。

よって、この263の投稿も削除も依頼します。

268犀角独歩:2005/12/10(土) 15:40:37

もう一点。いちおう、訂正しておく必要があるでしょう。
昭和22年までの話は日本国憲法ではなく、大日本帝国憲法です。
しかし、この相違を論じる議論をしたいわけではありません。

http://list.room.ne.jp/~lawtext/1889C.html

敗戦前の日本国民の話を、政治的かつ、法律的にするのに、現行憲法を持って語ることができないので、いちおう指摘はしておくということです。

269管理者:2005/12/10(土) 15:55:40

犀角独歩さん
匿名さん
ご参加の皆さん


>なお、管理人さんに申し上げますが、ルールとは、施行後に有効になるものです。

削除依頼に付きましては、仮に、精査に手間取って、新しいルールが決められたあとに持ち越すことがありましても、従来のルールで判断いたします。

新しいルールが出来ましたら、その時点以降の書き込みに対して、新しいルールで判断することになります。

宜しくお願いいたします。

270犀角独歩:2005/12/10(土) 16:07:01

> 269

当然のご判断と拝します。安心しました。

27101:2005/12/10(土) 20:04:53
それにしてもメンドいことになってんね。
おれはでも、匿名さんを排除しようとなんて気はないよ。
わかんなければわらかんねぇ。変だと思えば変。そう書いただけさ。
するとそれが排除しようとしていることになる( ̄ー ̄?).....??アレ??
かったるいなぁ。
ああもいった、こうもいったと書き綴る『恨み節』て歌があったね。
おっと、歌、歌の話ですヨ。
さて、独歩さん、攻撃の抜書き、ありがとさんでした。
やっぱ、第十三章以降に赤丸チェックてわけですね。
何版使ってんですか。おれが持っているのと違うんだけど。
それと、被爆者に戦争責任があるかって? ないない、そんなもん、あるわけないよ。
投票したから責任がある。ないない。
戦争責任があるのは、ズバリ、天皇!
無条件降伏を決めたとき、本人も2500年の血統がここに終わり、自分が死刑にされると覚悟したんと違うだろか。
けど、臣民の総意は違った。アメリカもそうは言わなかった。
それで軍法会議かね。A級戦犯がわるいってことになったわけだね。
戸田先生は言いました。核兵器を使うやつは悪魔だ。死刑だ。正しいね。
当分、ローレンツ、ミルグラムといった話はお預けだね。
小林さんの文章、おれも読んだ。定年退職ていうのかね。ホンマ?隠居てぐらいいえばいいのだ。
とうぶん、おれも投稿やめ。独歩さん、質問はまたメールでします。よろぴく。

272犀角独歩:2005/12/11(日) 07:57:09

01さん

詳しくはメールで、ということで。
けれど、『攻撃』(みすず書房)については、抜き書きを投稿したので、他の方の便宜も考え、提示しておきます。

攻撃―悪の自然誌(1)
1970年1月30日 第1刷発行
1970年7月20日 第2刷発行

攻撃―悪の自然誌(2)
1970年5月15日 第1刷発行
1970年11月20日 第4サツ発行

Konrad Lorenz
Das sogenannte Bose―zur Naturgeschchte der Aggression
日高敏隆・久保和彦訳

273匿名:2005/12/11(日) 12:11:53
>> 「誰もあなたを相手にしない」などという心理的圧力もありました

>176
>以上なことから176に記されるような点は、まあ、言いたくありませんが、わかり切った話であると、皆さん、お考えなのではないでしょうか。ですから、議論に参加されないのでしょう。

2「非礼・無礼、人権侵害、言葉の暴力」等の侮辱表現、侮辱発言は、理由の如何を問わず堅く禁止します。

に抵触する文面です。

この掲示板の主旨からいって、参加者の投稿は主旨に反しない限り、最低限の尊重を心がける発言をするべきであろうと思います。

274犀角独歩:2005/12/11(日) 12:25:04

273に異議を申し立てます。

引文されているわたしの文章からも明らかなように「誰もあなたを相手にしない」と作文される内容とは異なっています。
これはそれまでの議論に対して、注意を促したものであり、非礼、無礼、人権侵害、言葉の暴力に該当する意図は、もちろん、ありません。
最低限の尊重を心がけてのものです。
それにも拘わらず、「誰もあなたを相手にしない」などと作文して、わたしの名誉を傷つけることから、削除を依頼したものです。

275匿名:2005/12/11(日) 13:56:39
最低限の尊重を心がけているであるなら、いきなりの削除要求ではなく、訂正、撤回など、手順を踏まれるものではないかと思います。

276匿名:2005/12/12(月) 01:30:09
戦前の日本は、明治憲法のもと、帝国議会に基づく政治システムでした。
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/teikokugikai.htm

貴族院と衆議院の二院制議会です。
貴族院は、いわゆる公家太政官要職・参議の流れの議会です。公選制ではなく、皇族や華族と、国に功績のあった人その他の中から天皇が任命する勅撰議員で構成されています。この貴族院が戦後は勅撰は廃止され、解散のない公選制の参議院になります。
一方の衆議院は、公選議員で組織されています。公選制とはいえ選挙権・被選挙権にきわめてきびしい制限がありました。普通選挙法施行以前に選挙権があったのは、名主や庄屋を中心としたいわゆる高額納税者です。戦前に身分制度が残っていたことは前に記したとおりですが、そうしたいわゆる特権階級と高額納税者にだけ選挙権がありました。
http://www.pref.ibaraki.jp/senkan/shikumi/sikumi_7.htm

戦争責任という意味では、選挙権を有していた階層の責任は存在するものでしょう。
しかし、選挙権のない国民も、富国強兵政策を強く支持していたのです。それは戦前の新聞の論調をみればよくわかります。
なにせ、浜口雄幸という首相などは、ロンドン軍縮条約に調印したということで、国民からの反感を受け、やがて暗殺されてしまったくらいですから。
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/hamaguti.htm

日露戦争に志願して出兵するなどは、国民として大変名誉なものだったわけです。それが国民世論だった時代です。
国家の操作というものもなかったわけではないでしょう。
しかし、もともと日本は幕府という軍事政権が680年も続いてきた国家ですから、基本的には好戦的な民族であるといえるのです。それは今の平和な日本人の感覚とは全然違うものといえるでしょう。ですから、今の私たち戦後世代の感覚で、戦前の日本人のことは、とても推し量れるものではありませんし、まるで想像を越えているものです。
しかし、同じ日本民族であることには変わりはない。とすると、もしかすると潜在的には今も好戦的な民族性が残っていて、たまたま敗戦と現行憲法によって封じ込めてもらっている。そんなところではないかと、私などは思うところなのです。

277匿名:2005/12/12(月) 01:32:36
大東亜戦争の最大の責任者は天皇であろうということ、私もそうなるだろうと思います。
昭和天皇には、そのお覚悟も十分おありだった。一身に戦争責任を負われるお覚悟で、マッカーサーに対面されているわけです。直立不動のモーニング姿でマッカーサーと写真に映るあのお姿に、その心情があらわれてるものと思います。自分の身はどうなってもいいから、国民だけはなんとか助けてほしい、そんなことを語られたことは有名です。
他国大半の国主は、このような敗戦後にはたいてい国民を見捨てて亡命を画策したり、命乞いをしたりするのが常です。しかし、日本の天皇は違っていた。もともと受け継がれてきた帝王学が全く違うのでしょう。
玉音放送の終戦詔書、ポツダム宣言受諾については、

「其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ」

通告せしめたりとは、つまり、「受諾してやった」もっと言い換えれば「負けてやった」という意味合いになるものです。
日本の誇りのために、多くの犠牲を払った日本ですが、まさにこれこそが最後に放った誇りの言葉といえるものでしょう。

その最大の責任者である天皇をを生かすも殺すも、これは勝戦国アメリカの手中というもの。そして、生かすことと判断した。
アメリカはある意味、日本人以上に、日本民族のことをよく研究し尽くしていたと思います。その結果が、天皇制の温存と、そして現行の日本国憲法なのだろうと思います。
この点は、私はアメリカという国を評価するところなのです。
ちなみに男女平等などは、アメリカの憲法といえども規定されていませんから、日本の憲法のほうが基本的人権は進んでいるといえるわけです。

とにかく、最大の戦争責任者は、天皇であった。しかし最大ということであって、戦争責任の全てが天皇にあるいうわけではありません。
軍部、政治家、マスコミ、財界…、たどっていけば、やがて国民にも到るものなのです。
そして、戦前以上に民主化された現代の日本における政治的責任は、選挙権を持つ大半の国民の意思に大きく存するものであるということでしょう。

278藤川一郎:2005/12/12(月) 12:15:08
>>しかし、もともと日本は幕府という軍事政権が680年も続いてきた国家ですから、基本的には好戦的な民族であるといえるのです。

物事を表面的に判断しすぎですね。幕府制度とは決して、軍事政権では無い。もっとも軍事的だったのは鎌倉幕府であり、その後戦国時代、室町時代、江戸時代とどんどん軍事的な臭いが薄まってくる。
もちろんそれぞれの初代が軍事的なのは当然でありますが、その後は将軍と雖も公家成りしていくのが現状です。
一例を挙げれば、江戸時代の忠臣蔵です。あれが、逆に珍しい事だから話題になるのです。
それ以外は儀式典礼を重んじ、無骨なことは流行らなくなってます。

では何故に武家政権が樹立したか?これは単純に桓武天皇が「軍事を廃止」したからです。
国が軍事を廃止したら、国民は自分らの身を自分らで守るしかない。そして国が護ってくれないのなら、農民は自らの農地を自ら護らねばならない。そうだ武装化しよう。そして発生したのが武士であります。その武士は最初は手弁当です。しかし血を流していることに対する正当な保証(恩賞)が欲しくなる。最初は公家の下について、恩賞を要求するが、後三年の役の時の源義家に見るまでもなく、手を汚す者にまともな恩賞すら無い。義家はやむを得ず、私財を家臣に分け与えて名を上げることになる。その後「将門の乱」等を経過し、武士は朝廷に対して、正当なる要求は諦める。
ならば自存自営せねばなるまい。そして出来たのが幕府である。最初は関東武士団のみの政権でしか無い。その後承久の変を経ても、領地が拡大しただけで、その基本姿勢は変わらない。ターニングポイントは元寇である。元寇にて元の使者が来たとき、書面を朝廷に提出して裁可を仰ぐが、最終的に朝廷から幕府に書面が返送されてくる。このとき初めて幕府は外交権を取得する。その後段階を踏んで、幕府の権益は増してくるのです。
長々と書くとキリがありませんが、このように日本国の国史を細かく紐解くと武士ですら、単なる自衛集団なのです。
また、近代以前の傾向として、全体の1割にも満たない武士同士の戦争がほとんどであり、それを庶民は平然と眺めていたんですよ。関ヶ原の戦いですら、庶民は傍観しておりました。それをもって好戦的な民族というのは「木を見て森を見ない」理屈ですね。

279藤川一郎:2005/12/12(月) 12:44:44
玉音放送で陛下がお読みになられた詔勅は内閣が作成したものであります。
それが決まるまでの閣議の様子は面白いのです。一例を挙げれば、詔書案にある「戦線非に非にして」の文を阿南陸軍大臣が数時間ごねて「戦局必ずしも好転せず」に変えさせたのは有名です(非に非にしてでは、負け続けたように思われるから)。
その詔書案に天皇陛下が御名御璽をされただけです。

戦前の天皇陛下は、天皇無責任制度の中におられます。内閣の補弼により、その名の元に統治権が総覧されるだけであります。
御前会議ですら、天皇陛下に拒否権はありません。奏上されてきたものを、ただ裁可するだけであります。
それを破ったのは、昭和天皇一代で考察すると、二回のみです。二二六事件と大東亜戦争終戦です。二二六事件は統帥権干犯問題以降であったこともあり、統帥権を形式的に握られていた陛下が、「逆臣」と断じられました。
大東亜戦争終戦に至っては、鈴木貫太郎首相が戦争継続派3人、和平派3人と伯仲し、自分が和平に一票を投じて終戦にするよりも、天皇陛下の「大御心(おおみこころ)」を頂いての終戦の方が国内が落ち着くとの、政治的な戦略から、あえて天皇にお聞き申し上げたのです。そして天皇陛下が「自分の意見は外務大臣(和平派)に同じである」から始まる発言をなさったのです。

280大崎:2005/12/12(月) 15:31:05
匿名さんの書いている内容って、富士門流信徒にとって、何の関係があるんですか。
政治というのであれば、別に当門流信徒だけの問題ではないはずです。
それをここで書かなければならない理由はいったいなんですか。

281匿名:2005/12/12(月) 17:10:02
>280

たぶん、まだ除名にはなっていないと思いますが、かつてある富士門の教団に在籍しておりました。
かなり熱心に参詣していた時期があります。
私の中では、その当時から日蓮聖人と政治というのは、大変関わりが深いものだと思っていました。参詣を止めた今でも、その名残がかなりあるのでしょう。

ところが、思い出される教団での法話といえば、そのほとんどが同じ富士門教団の争いごとばかり。それこそが信心とばかりに、ものすごく熱心なわけですね。
一緒になって悪口を言っている自分もいました。
その他の政治を含めた社会問題は、それこそ何ひとつ得るものがなかったわけです。
憲法問題も一度も、誰からも聞いたことがない。改憲も護憲も、全く関心がなかったのではないかと思うほどでした。

そんなことは当たり前だと思われるかもしれませんが、私にとってはいまだに、他の仏教徒とは違って日蓮門下は、政治に関心を持っていてほしいという思いがまだ残っているのです。
もちろん、それをこの掲示板で押し付けるつもりではありません。戦前の戦争責任という問題もありますから、政治に対して微妙であることは十分に承知しています。

ただ、いささか独り善がりではあるかもしれませんが、政治に関心を持つということが、教団から離れた私の最後に残された信仰の証みたいなものかもしれません。

仰る通り、そんなにムキになってこちらに投稿することではないですから、そろそろ、このへんで留めようと思っております。

282匿名:2005/12/12(月) 17:26:58
>278

武家政権が長く続いたということを根拠に好戦的民族というには早計だったかもしれません。
ただ、武士同士の血生臭い戦いを平然と眺めているというのも、かなり危うい神経とみることもできるかと。
ややもすると「戦だ!戦だ!」と高揚しやすい特性はあるのではないでしょうか。
まあこれは、日本人に限ったことではないかもしれません。

日本民族が好戦的ではないなら、それに越したことはないです。そう願いたいです。
たとえ憲法が改正されても、この先も戦争に巻き込まれずに時代を送ることができるかもしれませんし。

283大崎:2005/12/12(月) 17:37:39
匿名さん返信ありがとうございます。
わたしは長距離トラックの運転手で、あんまり、しょっちゅう、ゆっくり掲示板を見ることはできないし、これからまた走りますから、これ1回きりの投稿になると思います。ですから、返信は不要です。
あくまで、意見の違いということですから、批判として聞いてほしくないのですが、僕は匿名さんの書かれていることはどうもしっくりきません。
特に投票のこと、日本国民が好戦的、子供の戦争責任については賛成できません。
時間がないので投票のことだけ記します。僕はあまり学はありませんが、簡単な算数をしてみました。
☆過半数は本当に過半数?☆
全国民数を1(基数)とし、成人比率を仮に0.8とします。投票率を0.6として、多数決の分岐点、半数を割り出すために0.5をかけます。
1X0.8X0.6X0.5=0.24
24%です。現在の平均成人者数、投票率からの計算です。実際は小選挙区制、また、1票格差の問題がありますから、さらにこの比率は低いんじゃないでしょうか。国民の過半数というときの比率でもこの程度。過半数には遠く及びません。こんなんで国民の大多数とか総意とかと言われてもなあという気持ちがします。
あと、僕は日本国民ですが、好戦的ではありません。子供に戦争責任はないと思います。
また、ここの掲示板は、特に日蓮正宗、創価学会、顕正会がいがみ合っていない珍しく、そして、貴重な掲示板です。みんな、ここでは自分の立場を客観化する節度を持って記しています。それなのに、匿名さん一人が政治的観点の自分の考えを押し付けるような投稿しているように感じるんです。
とおりすがった投稿ですが、ここの掲示板は、とおりすがりとか、匿名とかが固有名詞になっているようなので、とりあえず、一時的なHNで失礼しました。お邪魔しました。

284匿名:2005/12/12(月) 18:08:20
私の、言い回しに問題があったのでしょう。
子どもに戦争責任があるみたいに思われてしまったみたいですが、投票権もない子どもには戦争の責任はまったくありません。だけど、その親には責任はあります。また、二十歳になければ、投票権があるわけですが、二十歳になって急に政治に関心と責任を持つなんてことは難しいですから、成人に満たなくとも、それなりの政治への意識付けというのは求められるところかと思います。概ね身近な大人、やはり親の意識というのは、子どもの将来の政治意識に大きく影響するものではないかと思います。

投票率のことが出ました。わずかな投票率をもって、国民の総意とするのはおかしいというご意見。確かにそうだと思います。だからこそ選挙制度というのは、あなどれない。また、いったん改正すると、元に戻すのに、政治運動を起こすことから始めなければならない。大変なことなわけです。
いろいろな政党が存在できる中選挙区制のほうが、より民意を反映することができて望ましいという意見は、ときどき聞かれるところです。政治の決定には時間がかかるかもしれませんが、極端な翼賛政治は避けられる制度といえるかと思います。
しかし、権力者にとっては反対勢力は少ないほうがやりやすいわけです。政権与党にとっては、投票率も下がる小選挙区制を望むのところなのでしょう。
前にも書きましたが、まさにここが政治家が国民操作として最も活用しやすいところだと思います。

最近の小泉さんの発言では、5年以内に、比例制の廃止を目的とした選挙制度改革を言っています。
こうなると、比例で議席を確保してきた公明党、社会党、共産党の今後の生き残りは大変に難しくなります。改憲に歯止めを利かせる政党が少ない中で、憲法改正草案が出される可能性もあるといえるでしょう。

国民の総意がどういう形で結果に表れるか、選挙制度ひとつとっても、政治の行方は大きいわけで、だからこそ政治の都合の良いほうに動かされないように、関心を持っておく必要があると思います。

幾度となくご忠告を頂きました。これ以上、掲示板を政治で荒らすのは私の本意ではありません。
書きたいことも概ね終えましたので、政治関連の長い投稿は、ひとまずこれをもって控えることといたします。

ありがとうございました。

285彰往考来(しょうおうこうらい):2005/12/12(月) 18:10:35

横レス失礼します。

全く大崎さんのご意見に同感です。
私も匿名さんの投稿は富士門流信徒の掲示板とどう関係があるのか疑問に思っていました。よって、このスレッドには投稿をしていません。
もちろん富士門流信徒が政治を、戦争を論じてもよいわけですが、ここでは仏法とどう関係するのかを論じなければ掲示板としての意味がないのではありませんか?

286匿名:2005/12/12(月) 19:17:59
>285

私も、ここまで長く投稿するつもりはなかったのですが、まあ、少し力が入りすぎ、ご迷惑をおかけしたと反省しております。
引き際というのは、実に難しいものと、つくづく思いました。
せっかくのスレッドですから、私の投稿には関係なく、まさに仏法から論じて頂きたく存知します。
私はロムで勉強させていただくことといたします。

287犀角独歩:2005/12/12(月) 21:16:58

まあ、いちおう、ここの諍論も終息と判断し、引き続き考えてまいりたいと思います。
今度は、仏教という視点から、匿名さんにはご投稿をいただければと思います。(強制ではありません、もちろん)

いきおい、天皇の戦争責任にということが話題になりました。
この件について、コメントをする気はありませんが、違う視点から少々。
『日本史から見た日本人・古代編』(祥伝社)で、渡部昇一氏は

「われわれは30年前に日本を破り、天皇を人にしたはずである。ところが、その天皇は健在で、日本は世界一のスピードで産業を発展させ、世界一強い円を持っている。勝者であったイギリスは、すでに追い越され、アメリカが追い越されるのも時間の問題である。そして当時の戦争に関係したヒットラーやムッソリーニが亡びたのはもちろんのこととしてチャーチル、スターリン、ルーズベルト、トルーマンもすでに亡い。しかるに日本の天皇はアラスカでニクソンに迎えられ、ヨーロッパでは歓迎されるうえに、戦争で失ったオキナワまで返してもらった。天皇は本当にゴッドなのではなかろうか」(あるアメリカ人の投書の趣旨)」(P132)

と記していました。

「人間宣言」ということを、わたしはどこか鵜呑みにしていましたが、先にも紹介した『玉体繁栄』の文は、一定の説得性をわたしは感じました。
ただし、

「天皇をもって現御神とし、かつ日本国民をもって他の民族に優越せる民族として、ひいて世界を支配すべき使命を有すとの架空なる観念に基づくものにもあらず」

この「架空なる観念」が、前文のどこまで係るのかが微妙な点だと思いました。
わたし自身の観念としては天皇は現御神ではなく、「カミ」なのだと考えています。

先の渡部氏の文章ですが

「『ニューズウィーク』(1973年7月30日号)は、今の陛下(昭和天皇)を「2633年の昔から中断されたことなき一系の皇統の第124代目の天皇」と表現している。これは神武天皇の即位が紀元前660年に行われ、その後も記紀に名前が挙がっている天皇が全部存在したという立場からの記述である」(P65)と紹介していました。

また、「仏教という高等宗教は、日本のカミに骨抜きにされ、先祖を祀る宗教にされてしまったのである。神仏習合説は最初、仏が神を包み込むために考え出されたものであったが、気が付いてみたら、ホトケとカミの差はなくなり、いつのまにか偉い死者はカミ、偉くない近親者の死者はホトケというような差までつけられてしまったのである。専門の学者はこのような現象をどう呼ぶのか知らないが、私はこれを「仏教のシャーマナイゼイション」、つまり「先祖崇拝化された仏教」、もっはっきり言えば、「カミに従えられたホトケ現象」と呼ぶことにしている」(P150)

288犀角独歩:2005/12/12(月) 21:17:28

―287からつづく―

渡部氏の分析のなかで特に興味深いのは、「日本人が死んだ祖先のことをいつも気にしているのは、明治に日本に来た外人の目にはひどく異様に見えたものらしい。それでラフカディオ・ハーンなども、日本の特徴を、「死者の支配(レグヌム・モルトオルム)」と言っているくらいである」(P86)

「日本人の「死」に関する特殊な観念……日本の死者は死んでもなくならない。……死ぬというのは「退去」なのであり消散ではない」(P81)

「日本で古い神々の神社が生きているのは、もちろんこの信仰と深い関係にあると見るべきであろう。「死んだ祖先がまだ生き続けて自分を見ているかのごとく感ずる」こと、これが後世の日本人の生活のあらゆる面に関係してくるのである」(P83)

以上のような日本人の認識は、東京招魂社から靖国神社に至るまで一貫したカミ概念に基づくのだろうとわたしは思います。

靖国の問題は政治に利用、悪用される側面は、先に述べたとおりですが、しかし、ここに政治利権とは別に一般国民が依然と参拝する理由は、所謂、仏教を超えた、渡部氏の言を籍りれば、「カミに従えられたホトケ現象」としての仏教…神仏習合の日本型の仏教と単純には言い難い…からの視点も必要だと思います。神本仏迹はここ富士門流においては、邪義であり、創価学会的な論調からいえば、これを鼓舞した石山老僧O師が「牧口先生を獄死させた」として狸祭り事件ともなったのかもしれませんが、2600年という時系列からすれば、このO師の視点は、帰結すべき日蓮仏教の終着点であったのかも知れません。ただ、それが敗戦によってご破算となったところから、次の戸田氏による新日蓮主義ともいうべき展開と国立戒壇構想がそこにあった。また、それも昭和45年というターニングポイントで再構築され、次の答を、平和憲法擁護の公明党と日蓮本仏教として創価仏教という政教分離によって800万人に指示されたというのが一連の流れです。しかし、この‘政教分離’が800万人に指示されたからといって、それが創価公明の勝利でも、それに倍する日蓮信者の敗北でもないわけです。700年来、継承された日蓮の教えを再構築の速度が、時代の流れに追いつかない現象であるに過ぎません。しかし、それは確かに致命的なことでもあるわけです。だからこそ、ここでも議論をしなければならないわけです。

先に「多数決」ということが話題になっていましたが、仏教という世界、道義を見極めることは多数決とは全く関係ありません。また、自分たちの考えを多数派にすることによって、正義の証明となるという類の数の暴力に屈するものでもありません。この点では、政治等で採用される方法と次元を異にしています。ただし、また、いらぬ誤解を招くと困りますので、ことわっておけば、これは匿名さんの政治投稿とは全く関係のないことです。

敢えて日蓮にその例を見れば、

「幸ひかな、楽ひかな、穢土に於て喜楽を受くるは但日蓮一人なるのみ」

というように、結論は、ある面、個人的修行と自得を目指す仏教の在り方では、民主主義、あるいは、多数決という観点方法論と根本的に立つ位置が違っているわけです。しかし、仏教徒であり、かつ国民でもあり続ける信者は、では、このダブルバインドのなかでどのような答を導いていくかに今後の課題があると考えます。

289犀角独歩:2005/12/12(月) 21:19:33

【288の訂正】

誤)国民が依然と参拝する理由は、所謂、仏教を超えた、渡部氏の言を籍りれば、「カミに従えられたホトケ現象」としての仏教…神仏習合の日本型の仏教と単純には言い難い…からの視点も必要だと思います。

正)国民が依然と参拝する理由を、所謂、仏教を超えた、渡部氏の言を籍りれば、「カミに従えられたホトケ現象」としての仏教…神仏習合の日本型の仏教と単純には言い難い…からの視点から考えることも必要だと思います。

290ラーメンマン:2005/12/13(火) 03:01:11
子供に戦争責任を問うことは出来ないでしょう。
しかし、戦争の時代、原子爆弾が落ちてくるような場所に生まれ合わせなければならなかった責任は、
それぞれの子供たち自身にあるのではないでしょうか。
少し表現を変えれば、その子供はいかなる因縁により、そのような果報を受けなければならなかったのかを考えるのが仏教的なアプローチではないかと考えています。

291犀角独歩:2005/12/13(火) 08:59:28

> 290

このような考え方は、仏教の不健全且つ、差別的側面を助長するもっとも忌まわしい考え方でしょう。もし、仏教がこんな解釈しかできないのであれば、この教えは、この世から葬り去るのが一番の得策であるとわたしは考えます。

また、因果応報論は、仏教の教えであるというより、元来、バラモン教から引き継ぎに過ぎません。バラモン(支配階級の白人)、クシャトリヤ(黄色人種の王族・武人)、バイシャ(庶民)、スードラ(奴隷にされた褐色人種)によるカーストは、バルナと言われ、その意味は‘色’、すなわち、肌の色を意味します。

インドを侵略入した白人アーリア人が先住の褐色人種ドラビダ人を奴隷にしていった肯定論です。しかし、アーリア人の信仰には、サンサーラ(輪廻)という考えはなかったと言います。長尾雅人師に拠れば、ドラビダ人の間に「悪い行いをすると豚に生まれる」という素朴な輪廻信仰があったと言います。バラモン教はこれを採り入れて、発展させ、支配の道具としていったわけです。つまり、バラモンに生まれることは過去の善行により、奴隷となるのは過去の悪業というそれです。このような信仰によって侵略者たちは、インドを統治する肯定論としていったわけです。

そのような背景で生まれた釈尊は、「人は生まれによってバラモンになるのではない、(現在の)行いによってバラモンになる」といったのです。仏教は過去の行いを問うているものではなく、今と未来を問う教えであるからこそ、その意義があります。

原爆、無差別攻撃で虐殺された人々に、何の責任もありません。
わたしは、日本が政治として戦争を選択したから国民に戦争責任があるという考えにすら反対です。その理由は追々記しますが、このような政治的選択は、政治に対する無知、無関心に原因があるのではなく、そのように選択してしまう‘操作’にその原因があるというのが近代の社会心理学が明らかにしたところであるからです。
また、因果応報に代表される仏教的性悪論は、それ以上の悪しき仏教理解であり、このような考えは21世紀に断じて持ち込んではならない、そのためにわたしは仏教を再考したいと考えています。

292匿名:2005/12/13(火) 09:39:03
社会心理学で明らかになっているからといって、それだけが戦争を起こす原因の絶対的分析ではないでしょう。
やはりこれもいろいろなアプローチがあるものかと思います。

まあ、論じられる以上は、政治に操作されない「方法論」までお示し頂きたく存じます。

それと犀角独歩さんは、政治に責任を持ちたくない、もっといえば、国民は政治的責任を持つべきではないというお考えなのでしょうか。

293犀角独歩:2005/12/13(火) 09:54:05

匿名さん

> 社会心理学…戦争を起こす原因の絶対的分析ではない

わたしが絶対的分析だと記しましたか。

> まあ、論じられる以上は、政治に操作されない「方法論」までお示し頂きたく存じます。

どのような論じるかはわたしの自由に属します。

> 政治に責任を持ちたくない、もっといえば、国民は政治的責任を持つべきではない

そんなことを記した覚えはありません。

294匿名:2005/12/13(火) 10:03:58
>わたしが絶対的分析だと記しましたか。

では、国民も責任を負うところがあるという分析は、否定されないということですね。

>そんなことを記した覚えはありません。

当然、記していれば、お聞きしません。
明確に記してはいないけれど、投稿内容からそのようにも感じとられるので、お尋ねいたしました。

ですので、政治に責任を持ちたくない、もっといえば、国民は政治的責任を持つべきではないというお考えなのか、再度お尋ねいたしたく存じます。

295犀角独歩:2005/12/13(火) 10:07:40


> …国民も責任を負うところがあるという分析

どのような学説の、何という学者の分析でしょうか。

> 政治に責任を持ちたくない、もっといえば、国民は政治的責任を持つべきではないというお考えなのか、再度お尋ねいたしたく存じます。

繰り返します。そんなことは記したことはありません。
また、ここでは、仏教から考えることを目的にしておりますので、政治を主語とする質問にお応えしないことといたします。

296匿名:2005/12/13(火) 11:05:16
>どのような学説の、何という学者の分析でしょうか。

学説ではなくて、以前、示しました憲法の前分がそのようになっています。
確かに、戦前は憲法が違いますから、国民に戦争責任はないという理論も成り立つかもしれません。
しかし、少なくとも選挙権のある国民には一分の責任はあるでしょうし、また当時の国民世論は今とは全然違うものだったわけですから、そうした国民にも一分の責任はあるという言論は散見されるところです。

もっといえば、そうした厳しい立場を踏まえない限り、現行憲法の前文が示す国民主権の意義はとうてい理解されないものではないかと思うところです。

者の学説があれば、追って記すことといたします。

しかし、そもそも、戦争を考えるとき、政治を完全に切り離して考えることなどできるものではないと思いますが、それをさらに仏法と結びつけて論じることなど、私にはとうていその器量はありませんので、議論を拝見させていただくことといたします。

297ラーメンマン:2005/12/13(火) 11:15:04
>291

衆生は千差万別の姿で生まれてきます。そしてその生まれがその後の生涯を決定的に方向付けます。
人として生まれれば人並みの生涯を送ることも可能でしょうが、牛や馬、あるいは魚や虫として生まれたなら
畜生としての生涯を送らざるを得ません。
この事の最も合理的な説明が因果応報論と言えるでしょう

>このような考え方は、仏教の不健全且つ、差別的側面を助長するもっとも忌まわしい考え方でしょう。もし、仏教がこんな解釈しかできないのであれば、この教えは、この世から葬り去るのが一番の得策であるとわたしは考えます。
また、因果応報論は、仏教の教えであるというより、元来、バラモン教から引き継ぎに過ぎません。

大筋正しいので仏教でもそのまま取り入れられたのではないでしょうか。
また「この世から葬り去るのが一番の得策…」と、そこまでおっしゃるのなら犀角独歩さんは出生時の差別をどのように説明なさるのでしょうか。

>そのような背景で生まれた釈尊は、「人は生まれによってバラモンになるのではない、(現在の)行いによってバラモンになる」といったのです。仏教は過去の行いを問うているものではなく、今と未来を問う教えであるからこそ、その意義があります。

人として生まれるというハードルを越えた者に対してのお言葉ですから、反論として引用することは出来ないと思います。

298犀角独歩:2005/12/13(火) 12:14:12

> 合理的な説明

別段、そのようには思いません。
そのようにこじつけられた物語ということでしょう。

> 出生時の差別をどのように説明

これが説明できるはずだという考えが元にあるのでしょう。
そのような説明も答えもないということです。

> 人は生まれによってバラモンになるのではない、(現在の)行いによってバラモンになる」といったのです。仏教は過去の行いを問うているものではなく、今と未来を問う教えであるからこそ、その意義があります。
> 人として生まれるというハードルを越えた者に対してのお言葉

なにか勘違いなさっていると思いますが、ブッダが自らを修行者として位置づけ、あとに続く修行者に話したことですから、その後の一切の仏教徒に語った言葉です。

301匿名:2005/12/13(火) 12:22:13
>政治を主語とする質問にお応えしないことといたします。

私の質問の主語は「政治」ではなくて、「犀角独歩さん」と「国民」ですね。
「政治」は目的語です。
回答拒否で構いませんが、念のため。

302犀角独歩:2005/12/13(火) 12:23:15

ラーメンマンさんが、290、297のように考えるのであれば、いままだ原爆症に苦しむ方々、実際に被爆で尊い家族を亡くした方々、はたまた、ハンセン病の後遺症に苦しむ方々すべての人々なかに、座って、その人人に向かって、「あなた方がこのような目に遭うのは過去世に悪いことをした報いだ」と語れればよろしい。

あなたはただちに人権侵害者として社会的な制裁を受けることでしょう。
そして、それが如何に人道に悖る悪業であるかを思い知ることになるでしょう。

303犀角独歩:2005/12/13(火) 12:25:56

当スレッドのテーマは、「戦争を考える」ということです。
この問題は当然、政治と抵触し、軍事問題と抵触します。
ひいては憲法改変問題とも関連することとなります。

ここは富士門流信徒という枠組みから考えてみたいと思います。
では、富士門流信徒とは何かといえば、ここで言われる富士門流とは概ね創価学会を含む大石寺という信仰圏内ということになります。
しかしながら、この範疇は日興に起源を持つ、日蓮が定めた派祖一派です。その意味において、他五老門破と近親関係にあります。また、法華宗という日蓮の自覚から、その基礎を天台に置きます。さらに漢訳仏典として羅什訳を採り、梵本としてSaddharmapundarikaと関連します。それが大乗経典であることから他大乗経典とも関連するでしょうし、上座部その他もGotama-Siddharthaを祖とする上で近親関係にあります。
また、その背景思想であったバラモン教、その後のヒンドゥー教は、密教と密接な関係にあり、日本に輸入された当初から最澄、空海の興隆でわかるとおり、富士門流に置いて、考証の対象となります。また、天台学は、華厳と涅槃、さらに般若とも密接に関連するでしょう。以上のことから、当掲示板で仏教全般が取り上げられることは一つの趨勢であると考えられます。

さて、近代の宗教分析は、宗教学、社会学、もしくは仏教学等々という学問を等閑にすれば、閉塞的な教学を形成することになります。学会を含む石山系の初心者を教え込む教学試験なるものをみればその時代遅れ、非科学性はいまさらか語るまでもないことになります。このような100年も時代が遅れた教学がいまだに信者たちに教え込まれている構造は何であるのか、また、それに誣いられていく人々が存在するのは何故か、このような問題を考えるとき、上記の一連の思想譜から、さらに宗教全般と密接な関係が認められることになります。この点は、政教、王仏、もしくは祭政といったカテゴライズにおける支配・被支配の関係にまで立ち入る問題となります。この関係は、実のところ、いわゆる民との問題ではなく、支配者である二頭(政教、王仏)の問題です。被支配者は、この‘カミ’から宛われた宗教を信仰してきたという構造もあります。
以上の構造下、国家という体制で支配は可能となり、これをミニチュアからすれば、いわゆるカルトを形成することは可能となります。

日本は民主国家であるというのは、政治構造上の問題であり、実際のところ、では、人心を領している心的背景は如何なるものであるのかということは、実は別の問題です。この点は、見落とされがちです。

わたしが社会心理学を視野に入れることは、いわゆる富士門流というカテゴライズと無縁であるという見方は可能であろうかと思います。しかし、実際のところ、この範疇の信仰者は100%と言わないまでも、近年のカルト理論を等閑にできない心象風景を抱えています。

また、近代の斯かる社会心理学の発展は、今さら記すまでもなく、ヒットラーとドイツ国民の分析に拠っています。その成果は、このような政治下にある人々の心理分析に拠りますが、その背景に永年のキリスト教の影響が潜んでいることをフロムは分析したわけです。つまり、政治的な動機と宗教的な動機は、同じ心理要因に拠っていたことを分析したところに、この研究の価値はありました。宗教と政治は、ここで一つの共通の心理要因に基づいている点が確認されたと言うことです。

304犀角独歩:2005/12/13(火) 12:26:20

―303からつづく―

では、その分析を端的に示すものは何かと言えば、「権威主義的パーソナリティ」と名付けられた人格モデルです。西田師の簡潔な説明を籍りれば

「フロム……によると、人間は根元的な不安をいだいている。現代人は共通して、その不安を克服しようとして、自らの自由を放棄し、強力な権威者に絶対的支配を受けたいと願う傾向にあるという。その傾向は、「権威主義的パーソナリティ(authoritarian personality)と呼ばれる性格構造としてとらえられ、非常に多くの研究がなされた」(『マインド・コントロールとは何か』紀伊国屋書店 P232)
「権威主義的パーソナリティの特徴は、強者への服従、弱者への攻撃、白か黒かといったステレオタイプ的判断、因習主義などの特徴を共通してもつとされた。その後の多くの研究で、これらに共通の特徴は「思考の固さ(rigidity)や「あいまいな状況に対する寛容性の低さ(ambiguity tolerance)」としてまとめられた」(同P233)

以上のような精神構造は操作者によって操作された埋め込まれた人格であるので、ここからものを考えても、操作者が決めたことを、自分の意志であると思って選択することがおきます。これは支配を可能にしている構造です。ですから、自分が自分として考えるとき、このような心理構造下に自分があるのか、また、発言者があるのかを注意深く観察してみる必要があります。重要な点は、同じ情報を与えられても、本来、人々は千差万別の選択をするものです。しかし、仕組まれた操作の場合、結論となることは一様となっていきます。このような皆が同じ結論に到達してしまう状況があるとき、斯かる操作が発揮されている点を注意して掛かる必要があります。

わたしは現行の政治議論が、何でも憲法改正の話になり、自衛軍の話になり、軍備増強の話になってしまう短原因は、ここにあるのではないのかと警告を発しているわけです。ですから、この問題を考えるとき、政治家や、それに連なる経済学者、ジャーナリズムが提供する情報を置き、いったん、どのような心理操作が働いていることを考えてみる必要があると考えています。それが、ここにおける投稿の意図です。

305犀角独歩:2005/12/13(火) 18:36:14

303〜304は301に対する答えです。

> 政治に責任を持ちたくない…国民は政治的責任を持つべきではない

犀角独歩が主語であるとき、このような考えはもちろんありません。
なぜ、このような質問が立つのか、疑問です。

政治的無関心で、責任をとりたくなく、政治情報に興味を持たないために、憲法改変、自衛隊、エネルギー問題などに関心を示さない、また、政治的関心が薄いから投票にいかない、だから政治が変えられないといった単純モデルでは考えないということです。

わたしは政治的な感心がないというのではなく、その‘感心と情報を処理できる心的能力を阻害する要因を考えること’を、現段階で主眼にしているということです。

政治と仏教という接点から、当スレのテーマを阻害しない範囲で、わたしのほうからも、いくつか質問をさせていただきたいと思います。
匿名さんは、

(1) Juan José Linz の権威主義体制の研究には、どのような見解をお持ちですか。
(2) Theodor Ludwig Wiesengrund Adornoの権威主義的パーソナリティの研究には、どのような見解をお持ちですか。
(3) Adolf Hitler『我が闘争』にはどのような感想をお持ちですか。
(4) Herbert Marcuseが示した文明モデル、エロス的文明については、どのような見解をお持ちですか。
(5) Jürgen Habermas の公共性理論から見た場合、仏教はどのような役割を果たすべきであると考えますか。
(6) 石橋湛山には、どのような見解をお持ちですか。

取り敢えず、わたしは Konrad Lorenz の同種攻撃の問題から考えた戦争について管見を述べ、その後、Stanley Milgram のアイヒマン実験ではなく、服従と権威について考え、その後、上記、6点について考えてみたいと自分なりの予定を立てていました。
しかし、どうも、わたしを政治的無関心、さらに社会情勢を考えない無責任者のように思われているのか?と疑いたくなるような質問を投げかけられましたので、その誤解を解くため、取り敢えず、冒頭のとおり、お応えしておきます。また、今後、以上のような道筋で考えてまいろうと思いますので、投稿を適宜とする助とさせていただきますので、ご見解をお聞かせください。

306犀角独歩:2005/12/14(水) 00:08:31

一つ落としましたが、当然のことながら、Erich Fromm の『自由からの闘争』は当然視野に入れています。
この点は、もちろん、記すつもりでいます。

307匿名:2005/12/14(水) 02:23:34
申し訳ないのですが、私は社会心理学は参考にはしますが、「考える」尺度の中心には据えておらず、見解といわれても、正直なところあまり書きようがないですのです。どうぞ、議論をお進め頂きたいと思います。

一つだけ、私の関心の高いもののみ、記述させていただきます。
ご質問の中で、私が最も関心をもっているのは、ヒトラーです。

『我が闘争』そのものについての見解というよりは、ナチス体制を生んだ政治的背景に私は関心があります。
言うまでもなく同書では、猛烈な反ユダヤ主義が顕著に記され、後にナチスのバイブルと言われ、夫婦に1冊の購入が要求されたといいます。ところが、実際にそれを読んだドイツ国民は意外と少ないともいわれ、本の売上がナチスの資金源になっていた意義のほうが大きいといえるでしょう。
むしろ、ドイツ国民の心を真にとらえたのは『我が闘争』より、大衆の感情に訴えるエキセントリックなヒトラーの演説そのものだった。大衆の感情に訴えるということ、つまりヒトラーが演説で猛烈に放ったことは、ドイツ国民自身が思っていたことであり、その強い共感がやがて絶大なる支持になっていったといえるでしょう。政治家には政治活動の大義が必要ですから、その理論的裏付が『我が闘争』だったといえるのではないでしょうか。

当時ドイツは第一次世界大戦の敗戦で、多額な賠償金を背負わされていました。戦勝国はベルサイユ条約でドイツからルール地方を除くほとんどすべての主要な生産手段を奪っています。残された生産手段ではとても支払い不可能な法外な賠償金が要求されていた。ある意味で、戦勝国のドイツいじめといっていいでしょう。戦勝国とユダヤ人は関係が深いですから、ドイツ国民の内心には、人種的差別を越えたユダヤ人への不満がものすごくあったわけです。
やがてドイツは、天文学的インフレとさらに世界恐慌の煽りを受けて、国民のほとんどが失業者という経済危機に直面します。もともと、資源は少なく土地も痩せている国土ですから、大変悲惨な状況だったでしょう。そこへ経済問題としてのユダヤ問題が内在している。
そこでナチスは、ベルサイユ条約を破棄し、失業対策として軍隊を再編成しますが、それだけでも短期間の間にドイツ経済は立て直ったといいます。社会科学的見地からナチスを論じるときには、どうしてもドイツが抱えていた経済的背景は避けられないものといえます。
ですから、第二次世界大戦後のドイツの賠償金問題がそれを裏付けています。東西に分断はされますが、賠償金についてはかなり免除されているわけです。
なぜ賠償金を免除されたのかは、他でもない、戦勝国とユダヤ人が一番わかっていることです。長年の不合理なまでのドイツいじめにおけるドイツ国民の反感が、ナチスヒトラーを台頭させた。これは戦勝国自身がその後の歴史の中ではっきり認めているところです。
ヒトラーについての私の見解というと、ざっとこういうところになるでしょうか。

308匿名:2005/12/14(水) 02:24:47
ところで、フロイトはユダヤ人で、ナチスから迫害を受けていたはずです。
ナチスに追い詰められたユダヤ人ですが、追い詰めさせたのもユダヤ人であるわけです。その後のヒトラーの研究は、ユダヤ人が2度とあのような忌まわしい迫害を受けないためにも、不可欠だったものといえるのではないでしょうか。
余談になりますが、今の日本にもこうした人間の心理は当て嵌まることではないかと思います。幾度となく書いたことですが、中韓の反日感情はわかりますが、しかし、これがあまりに行き過ぎると、やがて日本人のナショナリズムを目覚めさせてしまう恐れがあるわけです。今回の選挙での小泉自民党圧勝の背景には、そうした国民心理が影響している側面もあるものと思います。

ざっと見解を書けばこんなところですが、私の場合は、どちらかといえば社会科学的な見地になるかと思いますが、これを論じるとなると、ドイツ帝国の成り立ち、国の事情、内在するユダヤ問題、地政学的な見地、どうしてもそういった背景から記していかなければならなくなります。これを試みると、また膨大な投稿になってしまい、さらにクレームも出ることでしょうし、それと何より私自身が連日の投稿で、かなり心理的に疲労がたまっておりますので、本当にこれで留め、この先はしばらくロムで学ばせていただきたいと思います。

と記しながらいささか恐縮ですが、最後にどうしても一点だけ質問させてください。
これは私への返信というよりは、今後のご投稿の中で触れて頂ければありがたいのですが、宗教における権威が何であるかはわかりますが、政治の場合の権威の場合、帝国主義政治ならば「王」の権威を示すものだと思いますが、こと民主主義政治となった場合の権威とは何に当るものなのでしょうか。

309ラーメンマン:2005/12/14(水) 02:40:36
>298.302

>別段、そのようには思いません。
そのようにこじつけられた物語ということでしょう。

仮に仏教がフィクションであったとしても、因果応報という考え方は防非止悪の為に有効だと思いますが、この点はいかがでしょうか。

>ラーメンマンさんが、290、297のように考えるのであれば、いままだ原爆症に苦しむ方々、実際に被爆で尊い家族を亡くした方々、はたまた、ハンセン病の後遺症に苦しむ方々すべての人々なかに、座って、その人人に向かって、「あなた方がこのような目に遭うのは過去世に悪いことをした報いだ」と語れればよろしい。

別段そのようなことを語りたいとは考えていません。ただ、対告衆との人間関係にもよりますが、信頼し合える仲であれば「あなたがこのような目に遭うのは過去世に悪いことをした報いだ」と指摘することは最大級の励ましになるような気がします。
(「あなた方」は、「あなた」に変更させてもらいました。)

310犀角独歩:2005/12/14(水) 08:59:29

> 社会心理学は参考にはしますが、「考える」尺度の中心には据えておらず…社会科学

この意味がよくわかりません。社会心理学も社会科学の一分野ではないでしょうか。
また、307から308に記された内容は社会科学的見地ということですが、どのような学説から分析なのか。参考にされたものを紹介いただければ、お書きになられるところの証憑性は高まると思います。

わたしが『我が闘争』(ヒトラー本人の着題は『嘘と臆病、愚かさに対する4年半』)について、挙げたのは権威と父性に関する分析の資料と思ってです。この点は、追って記そうと思います。

「ドイツ人いじめ」という件はしかし、その後のユダヤ人大量虐殺の言い訳を与えかねないことなので、一般には言われないことで、この点についてコメントされるのは、なかなか勇気があると思いました。批判ではなく、わたしはこの点について、慎重です。

> ヒトラーの研究は、ユダヤ人が2度とあのような忌まわしい迫害を受けないためにも、不可欠だった

このような見解は成り立つと思います。
さらにこれらの研究は、単にユダヤ人に留まらず、戦意のメカニズム、権威、服従、その他諸々の心的要因の分析に多大な貢献をすることになっていきました。

ヒトラーの演説について触れておられますが、この点は、同書を執筆した投獄の原因になったミュンヒェン一揆との関連も書かれればと思いました。また、原書の日本語版は、原書にあるアジア人に対する蔑視的表現が削除されているということですが、ドイツ語が読めないわたしはこの点を確認できずにいます。国家観、もしくは人種偏見、もしくは宗教偏見は戦争の一要因になっており、経済問題、国家体制と共に考証の重要な資料であると思います。

> 中韓の反日感情…行き過ぎると、やがて日本人のナショナリズムを目覚めさせてしまう恐れ

これは仰るとおりでしょう。
ただ、この点は出来レースではないのか?というのが、先にわたしが記した靖国参拝への見解です。匿名さんが仰るとおり、小泉は公約を守るべく参拝しているといえば、そうでしょうが、それが反日感情を煽り、煽られた反日感情が日本のナショナリズムを刺激します。韓中首脳にすれば、自国民から自分たちの地位を脅かされないためにスケープゴートは日本です。批判その他の負の感情は半日と外に向いていれば、自国政府批判の安全弁になります。こうして生じた隣国の反日感情は、日本国民危機感を煽り、軍備増強、憲法改変の格好の材料となります。マッチポンプのような話ではないのかと、わたしは思います。しかし、これはいつの時代にも悪用される集団浅慮(グループダイナミクス)で、メカニズムとしては、ナチズムと同轍であるというのが囁かれる危機感です。ただし、それが靖国参拝の全貌だと言っているわけではありません。そのような側面もあるということです。

> …民主主義政治となった場合の権威

この点の考証のために挙げて、見解をお尋ねしたのが(1)〜(6)です。
1回の投稿では書ききれないので、少しずつ記していこうと思います。

311犀角独歩:2005/12/14(水) 09:29:11

ラーメンマンさん

> …仏教がフィクションであったとしても、因果応報という考え方は防非止悪の為に有効

有効な面もあるでしょう。反面、人権蹂躙の部分もあるでしょう。

> 別段そのようなことを語りたいとは考えていません

では、このような公開の掲示板で、そのようなことは語らないことです。
この掲示板にとって、実に不名誉なことであり、因縁話で、不幸な人々の人権侵害をこの板全体が行っているような誤解が生じるのは、遺憾です。

> 信頼し合える仲であれば…

では、信頼し合える仲、非公開の場でおやりになったらどうでしょうか。

312匿名:2005/12/14(水) 10:02:20
>この点は出来レースではないのか?

出来レースというのは、日本政府と中韓政府の間で、出来レースがあるのではないかということでしょうか。

313匿名:2005/12/14(水) 10:08:59
>社会心理学も社会科学の一分野ではないでしょうか。

そうです。ただ、私はその中で、中心には据えていないという意味です。
もちろん、重用な研究ですから、参考にはいたしますが、私としては、あくまで、one of themという観点でいます。
ただし、ここは仏教という内政的な信仰の場ですから、社会心理学からのアプローチというのは、私の投稿よりは馴染むものかと思います。

314匿名:2005/12/14(水) 10:10:06
>313訂正

誤)内政的
正)内省的

315犀角独歩:2005/12/14(水) 10:53:37

> 本政府と中韓政府の間で、出来レース

そういう意味ではありません。
わかりきったことをやっている程度の意味です。

316犀角独歩:2005/12/14(水) 11:05:05

藤川さん

もし、ご覧になっていらっしゃったら、天皇が靖国参拝をしない理由を、少しレクチャーいただけませんでしょうか。

317犀角独歩:2005/12/14(水) 11:14:49

匿名さん

お時間がある限りでけっこうですから、あなたがいう民主主義とは、どのようなものか。ご説明ください。
もちろん、強制ではありません。

318犀角独歩:2005/12/14(水) 11:43:59

読み直してみて、ちょっと、気になりましたので。
まさか、以下のような誤解はないと思いますが、305の(1)〜(6)のわたしの問いに対して、307に

> 社会心理学は参考にはしますが…

と応じられていたので、他のロムの方の便宜も含めて、一応記しておきます。
わたしが305、306に挙げた学者は社会心理学者というわけではありません。
社会心理学ということではフロムのみです。

Juan José Linz 政治学者
Theodor Ludwig Wiesengrund Adorno 哲学者、社会学者
Adolf Hitler 学者ではありません
Herbert Marcuse 哲学者
Jürgen Habermas 社会学者、哲学者
石橋湛山 日蓮宗僧侶(久遠法主)、ジャーナリスト、政治家(総理大臣)
Erich Fromm 社会心理学者、哲学者

319犀角独歩:2005/12/14(水) 11:51:03

【318の訂正】

誤)久遠法主
正)久遠寺法主

320犀角独歩:2005/12/14(水) 12:31:44

問いとは関係ありませんが
念のため、

Konrad Lorenz 動物学者
Stanley Milgram 社会心理学者

あと、石橋湛山は立正大学学長も勤めました。

321藤川一郎:2005/12/14(水) 14:13:43
 天皇陛下が、靖国神社に参拝されない理由ですか?
 風説によると、「昭和天皇は靖国神社A級戦犯合祀に反対であらせられて、それ以降参拝をおやめになられた」となっております。しかし、これは嘘であります。
 昭和50年,時の首相三木武夫氏が,終戦記念日に靖国神社を参拝するに当たり、政教分離の原則に反するのではないかとの批判に狼狽えた彼は「私的参拝である」と言い切りました。
 そして三木氏は私的参拝四原則と言うのを掲げました。
1 公用車を使用しない(タクシー使用)。
2 玉串料は私費から支出する。
3 記帳する際には肩書きを書かない。
4 公務員を随行しない。
 その流れで、同年11月21日に昭和天皇・香淳皇后が靖国神社と千鳥が淵戦没者墓苑に参拝した時に、この両陛下の参拝に際して国会で議論になりました。
「さて、両陛下の参拝は私的参拝なるか,公式参拝なるか?。」
 成り上がりである首相なら、私的参拝・公的参拝があるかも知れませんが、天皇陛下が皇居の外でなさる行事は全て公的行事であるため,天皇御自ら参拝すると騒ぎなることがお分かりになっているので,それ以降、参拝は中止されました(なお、A級戦犯合祀はそれ以降の昭和53年です)。
しかし、陛下のご真意は英霊鎮魂ですので、靖国神社の春、秋の例大祭には,陛下ご名代の勅使が下向なされております。

 なお、A級戦犯と言うのは誤訳です。「戦争犯罪分類A」が正しいです。つまり犯罪の大小ではありません。

322犀角独歩:2005/12/14(水) 14:27:42

藤川さん、有り難うございました。

仰る風説の部分を鵜呑みに出来ないのでレクチャーをお願いしました。
また、「戦争犯罪分類A」も適宜な訳と存じます。

323犀角独歩:2005/12/14(水) 16:42:14

藤川さんが指摘なさったとおり、A級戦犯というのは、分類Aです。それをA級としたのは多分恣意的な誤訳なのでしょう。(恣意的であれば意訳というべきかもしれません)

7人は処刑、荼毘、 遺骨はアメリカ軍によって東京湾に廃棄。
日本で死刑囚が、どのように埋葬されるかは知りませんが、勝戦国の軍人が、遺骨を海に捨てるというのは、かなり、考えさせられる措置です。
それはそれとして、そのような経緯にありながら、それを靖国神社に合祀した。断罪に処し、墓葬も許さなかったわけですから、それを英霊(=柱=神)として祀ったとすれば、この点は、勝戦国の先の措置を反古にしたうえ、そこに総理大臣が公式参拝をするというのは、政治的にどのような意味を持つのかは考えさせられる側面があります(ただし、これは宗教的に、という意味ではありません)

一方、海に捨てられた遺骨のほか、残った遺灰は共同骨捨場に捨てられた。それを秘密裏に集め、興禅寺預かり、のちに興亜観音に密葬。さらに殉国七士廟に分骨(分灰?)されたというわけです。こちらは、もちろん、国レベルのことではありませんから、並べ論じることではありませんが、慰霊、招魂、鎮魂という形で、政治と戦争が、宗教という形で落着していく図式も見られるのかも知れません。

ただし、ここで靖国問題を議論したいということではなく、覚書程度に記しました。

324匿名:2005/12/14(水) 20:36:44
>あなたがいう民主主義とは、どのようなものか。ご説明ください。

とりあえず、英・米・日の民主主義を考えています。
本当の意味での民主主義の実現というのは、恐らく、全員一致に向けて、繰り返し議論をするということだと思います。
たとえば学校で修学旅行の行き先を生徒で決めようということになったします。ホームルームで、ここがいいあそこがいいと意見が出されます。理由も述べてクラス全体を説得します。ある程度のところで、採決をとるわけですが、このとき限りの採決により、多数をもって決定というのでは少数意見を無視することになります。本当に民主主義を実現するとなると、さらに議論が交わされなければなりません。何度も何度も議論を繰り返して、全員一致にもっていくのが完全なる民主主義といえるでしょう。

しかし、そんなことはまず不可能です。人にはそれぞれ価値観があるわけですから、全員一致など望めるものではありません。時間もかかります。ですから、多数決、もしくは過半数を目指して決定する。これが、民主主義の合理化を図る方法なのだろうと思います。そして、そのルールを互いに尊重し、少数反対派も採決を認めるというのが、民主主義の原則かと思います。
最も大事なことは、採決に到るまでの「議論」といえるでしょう。

本当ならば、直接民主主義が理想なのかもしれませんが、国民全体で議論を交わすというのはなかなか難しい。政治の決定に時間がかかってしまいます。インターネットが普及した今日では、実現できなくもありませんが、しかしネットは匿名社会ですから、責任ある議論は望めません。やはり、大半のことは間接民主主義システムを採らざるを得ないといえるでしょう。

325犀角独歩:2005/12/14(水) 22:58:21

匿名さん、有り難うございます。

以下のサイト、わたしの知り合いというわけではないのですが、閲覧しました。
このような民主主義の分析はどのようにお感じになりますか。
重ねて質問、恐縮です。もし、よろしければ、お応えください。参考にさせていただきます。

http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/My%20Essay%20on%20Democracy.htm

326犀角独歩:2005/12/14(水) 23:33:16

匿名さん、もう一点、質問させてください。

英の民主主義とウェストミンスターモデルと考えてよろしいのでしょうか。

327犀角独歩:2005/12/14(水) 23:34:22

【326の訂正】

誤)英の民主主義と
正)英の民主主義とは

328匿名:2005/12/14(水) 23:52:01
石橋湛山は、記述をすべきかどうか迷いました。
私は、気骨の人として、立派な人だと思います。
自由主義思想の言論人という点において、尊敬する人は多いです。
戦前は、『東洋経済新報』で軍国主義に走る国民世論を批判し、戦後は政界に進出して大蔵大臣に就任しますが、GHQに屈しなかったことが原因で、公職選追放の憂き目にあうわけですが、その理由が、なんとも『東洋経済新報』で日本の帝国主義を擁護、推進したとういうものだったということですから、驚きです。
しかし、公職追放が解除されて再び政界入り。岸信介、石井光次郎らとの熾烈な総裁選で、大逆転をして首相に就任したにもかかわらず、肺炎により、医師から静養を勧められ、わずか2カ月ほどで総理大臣の職を辞しています。
政治家としては志半ばで辞しているわけでずが、政治家の進退の模範としても、後世に名を残しています。
石橋湛山は、当時の自民党の七大派閥のひとつに数えられていましたが、石橋湛山の政界引退を機に三木武夫の派閥に合流しています。
自民党の中では、社会主義思想に近いポジションといえるでしょう。少数派閥ですが、こういう存在は貴重だと思いますね。
余談ですが、自民党と連立を組む公明党は、派閥の力学からいって、かつての三木派のような存在を目指したのかもしれません。

私個人としては、政治家としての石橋湛山よりは、むしろ徹底した民主主義・自由主義・平和主義においてきわだっていた言論人としての石橋湛山に関心がありますね。
前にも記しましたが、軍縮会議に調印することを「弱腰外交だ」と国民が批判し、首相が暗殺されるような国民世論の時代です。そんな軍国主義一辺倒へ進む日本国民に、軍縮を舌鋒するどく主張したのは、並大抵の覚悟が必要です。しかも単なる反対のための反対というものではなくて、戦略と展望もしっかり示している。
日蓮門下ではありながら、あの時代に台頭していた日蓮主義とはかなり一線を画していながら、しかし行動原理は非常に日蓮的であるところが、注目すべきところと思います。

湛山の言論活動の時代は「大正デモクラシー」の時代であり、種々の言論が自由に咲きほこった時代でもあり、「学問の自由」を標榜する早稲田大学の出身者の多くが、言論界で活躍しています。湛山も、その早稲田大学の哲学科で学び、また何よりも、日本にプラグマティズムをもたらしたとされる田中王堂に出会ったことが、彼の思想に大きな影響を与えているのではないでしょうか。

ここから先は、記述すべきかどうかで迷ったところですが、私としては、日蓮聖人の行動原理を現代に置き換えるならば、言論行動としての社会運動に相当するのではないかという思いがあります。
ジャーナリズムは、日々の客観報道で、そこに価値判断が示されると評論になり、さらに、こうあるべきだという強い主張に到れば、言論となります。「立正安国論」を象徴的にとらえるならば、日蓮聖人の行動原理を現代に置き換えるならば、鋭い主張で弾劾する言論活動であったといえるのではないか。これは、あくまで私の私見ですが。この点に及んでしまうので、記述を戸惑いました。


あとの>305で頂いたご質問ですが、どれも学術的な文献に対する見解ですから、これを真剣に答えるとなると、小論文的に書かなければならない。にも関わらず、いきなりの質問にしては、あまりにも項目が多すぎて、気が重いです。
私の投稿内容についてのご質問ではありませんので、勝手ながら気が向かないということで、あとの項目は、遠慮させていただきたく存じます。

329匿名:2005/12/14(水) 23:52:51
>323
>この点は、勝戦国の先の措置を反古にしたうえ、そこに総理大臣が公式参拝をするというのは、政治的にどのような意味を持つのかは考えさせられる側面があります

確かに、東京裁判そのものに批判的で、「東京裁判史観」や「自虐史観」の呪縛から解放されるべきだとい考えに立脚した靖国参拝賛成論はあるでしよう。もしかすると、従来はそれが主流だったのかもしれません。

先に、石橋湛山の話を書いたわけですが、彼のような反戦軍縮思想は、国民全体からいえば極めて少数派であり、軍国主義思想が彼のような穏健思想を圧倒していたわけです。東京裁判では、穏健思想を圧倒した軍国主義者を裁いたというところではないでしょうか。
しかし、これは戦勝国が下した判決であって、国内的な戦争責任については、実は「一億総懺悔」に象徴するように、国民全体が負ったといえます。戦中は、「一億総特攻」に対して、戦後は、「一億総懺悔」ですから、ヒトラーみたいな独裁者がいるわけでもないのに、この団結力は他国にとって脅威だったといえるでしょう。
ただしこれらは、あくまで権力者が発した言葉ですから、それをもって国民の総意といえるものではありません。しかし形式的には、日本国民は、あの戦争責任について誰も裁かなかったといえるのではないでしょうか。
ましてやA級戦犯を靖国が祀ったことをもって、サンフランシスコ講和を反古にするなどというような挑発的な意味合いのものではないと思います。
日本には古来から、国家の為に亡くなった者を祭るという行為があります。それは、いかなる他国、民族といえども、非難される筋合いのものでは無く、思想信条の自由を重視する近代国家であるならば尚のこと、何の説明もいらず黙認してくれることであるはずです。
事実、私が知る限りでは、総理大臣の靖国参拝について、近代国家といえる戦勝国からは、何も公式的な批判は受けたことはないはずです。

政治的意味としては、高齢化していく遺族が、国家の為に亡くなった親族を忘れてほしくないという思いで参拝を求めるものだと思います。戦前とは大きく価値観が変わったのですから、思いはひとしおでしょう。
志願兵ではなく、徴兵された人の、信教の自由が無視されているという側面も確かにありますが、参拝そのものは、意図的に隣国を挑発する目的のものではなくて、本音は票田目的、建前では遺族の思いに答える、とみていいのではないでしょうか。

天皇陛下の靖国参拝に関連して、藤川一郎さんの記述を裏付ける内容のもので、A級戦犯の合祀の経緯など、けっこう詳しく記されているサイトをみつけましたので、紹介しておきます。
http://speech.comet.mepage.jp/mint_353.htm

ここの記述によると、靖国の本殿では、幕末から太平洋戦争までの軍人や軍属の戦没者の247万人が奉られていて、さらに境内にある鎮霊社には、本殿で奉られていないすべての日本人戦没者と世界中の戦没者が祭られているとのことです。

330匿名:2005/12/15(木) 00:31:49
>326
>英の民主主義とウェストミンスターモデルと考えてよろしいのでしょうか。

これは大事なことでした。
厳密にいえば、日本の場合は、ウェストミンスターモデルというよりは、コンセンサスモデルといわれる、合意形民主主義方式でした。しかし、ここへきて英・米の、ウェストミンスターモデル型に移行しつつあるといえるでしょう。
でも本当は、日本社会は、ウェストミンスターモデルの小選挙区制よりは、コンセンサスモデルの中選挙区制が望ましく、二党制よりは他党制が望ましいと私は思ってます。
先の話に加えるならば、合意形民主主義の場合、多数派の方針にに小数派の意見を取り入れるといったきめ細かい決定方法ができるでしょうから、極めて、日本人に馴染む民主主義だったと思います。
しかし、21世紀に入り、政治の決定にスピード性が要求される時代に入ってきていることを考えれば、ウェストミンスターモデルにならざるを得ないのかもしれません。
しかし振り返れば、日本は他党制でありながら、「保守VS革新」という二大勢力の構図があり、二党制の要素も包括していましたから、ウェストミンスターモデル的であったともいえるのかもしれませんね。

>325については、よく読んで、後日投稿いたします。

333犀角独歩:2005/12/15(木) 09:13:44

匿名さん、種々ご回答有り難うございます。

石橋湛山師を、話題に挙げていただいたので、少し記します。

ジャーナリズム、政治、戦争、日蓮というキーワードから1人挙げるとしたら、この人を除いてはいないと思います。しかし、記されるとおり、短命内閣で尻切れトンボのようになった点が惜しまれます。この内閣が長く続いたら、日本の歴史は変わったかも知れません。立正大学の学長であったという点は、教学的立場として大崎学派に属するのかどうか、ここのところは寡聞でよくわかりませんが、たしか小野文著師が論じておられた記憶があります。

匿名さんのご投稿でも『立正安国論』を記されていましたが、優那陀日輝の流れからすれば、立正安国、折伏というロジックは、一定の距離を置いてみられたであろうと思えます。もっとも、身延の法主でもあれば、もう少し、受容はあったかも知れません。

以下、靖国についての湛山師の言です。わたしは、この考えに一定の説得性を感じます。総理大臣経験者としての重みも感じます。(高橋哲哉著『靖国問題』(筑摩書房ちくま新書、平成17年6月10日発行)P228〜235)

*** 転載はじめ ***

靖国神社は、言うまでもなく明治維新以来軍国のことに従い戦没せる英霊を主なる祭神とし、其の祭典には従来陛下親しく参拝の礼を尽させ賜う程、我が国に取っては大切な神社であった。併し今や我が国は国民周知の如き状態に陥り、靖国神社の祭典も、果して将来これまでの如く儀礼を尽して営み得るや否や、疑わざるを得ざるに至った。殊に大東亜戦争の戦没将兵を永く護国の英霊として崇敬し、其の武功を讃える事は我が国の国際的立場に於て許さるべきや否や。のみならず大東亜戦争の戦没者中には、未だ靖国神社に祭られざる者が多数にある。之を今後従来の如くに一々調査して鄭重に祭るには、2年或いは3年は日子を要し、年何回かの盛んな祭典を行わねばなるまいが、それは可能であろうか。啻に有形的のみでなく、亦精神的武装解除をなすべしと要求する連合国が、何と之を見るであろうか。万一にも連合国から干渉を受け、祭礼を中止しなければならぬが如き事態を発生したら、却て戦没者に屈辱を与え、国家の蒙る不面目と不利益とは莫大であろう。

又右の如き国際的考慮は別にしても、靖国神社は存続すべきものなりや否や。前述の如く、靖国神社の主なる祭神は明治維新以来の戦没者にて、殊に其の大多数は日清、日露両戦役及び今回の大束亜戦争の従軍者である。然るに今、其の大東亜戦争は万代に拭う能わざる汚辱の戦争として、国家を殆ど亡国の危機に導き、日清、日露両戦役の戦果も亦全く一物も残さず滅失したのである。遺憾ながら其等の戦争に身命を捧げた人々に対しても、之を祭って最早「靖国」とは称し難きに至った。とすれば、今後此の神社が存続する場合、後代の我が国民は如何なる感想を抱いて、其の前に立つであろう。ただ屈辱と怨恨との記念として永く陰惨の跡を留むるのではないか。若しそうとすれば、之れは我が国家の将来の為めに計りて、断じて歓迎すべき事でない。
 言うまでもなく我が国民は、今回の戦争が何(ど)うして斯かる悲惨の結果をもたらせるかを飽まで深く掘り下げて検討し、其の経験を生かさなければならない。併しそれには何時までも怨みを此の戦争に抱くが如き心懸けでは駄目だ。そんな狭い考えでは、恐らく此の戦争に敗けた真因をも明かにするを得ず、更生日本を建設することはむずかしい。我々は茲で全く心を新にし、真に無武装の平和日本を実現すると共に、引いては其の功徳を世界に及ぼすの大悲願を立てるを要する。それにはこの際国民に永く怨みを残すが如き記念物は仮令如何に大切なものと雖も、之れを一掃し去ることが必要であろう。記者は戦没者の遺族の心情を察し、或は戦没者の立場に於て考えても、斯かる怨みを蔵する神として祭られることは決して望む所でないと判断する

上に関連して、茲に一言付加して置きたいのは、既に国家が戦没者をさえも之れを祭らず、或は祭り得ない場合に於て、生者が勿論安閑として過し得るわけはないと云うことである。首相宮殿下の説かれた如く、此の戦争は国民全体の責任である。併し亦世に既に論議の存する如く、国民等しく罪ありとするも、其の中には自ずから軽重の差が無ければならぬ。少なくとも満州事変以来軍官民の指導的責任の位地に居った者は、其の内心は何(ど)うあったにしても重罪人たることを免れない。然るに其等の者が、依然政府の重要の位地を占め或は官民中に指導者顔して平然たる如き事は、仮令連合国の干渉なきも、許し難い。靖国神社の廃止は決して単に神社の廃止に終わるべきことではない。

*** 転載おわり ***

334犀角独歩:2005/12/15(木) 09:14:05

―333からつづく―

以下を紹介して、日蓮宗現宗研、伊藤立教主任は

一、 政教分離を徹底することによって、「国家機関」としての靖国神社を名実ともに廃止すること。首相や天皇の参拝など国家と神社の癒着を完全に絶つこと。

一、 靖国神社の信教の自由を保障するのは当然であるが、合祀取り下げを求める内外の遺族の要求には靖国神社が応じること。それぞれの仕方で追悼したいという遺族の権利を、自らの信教の自由の名の下に侵害することは許されない。

 この二点が本当に実現すれば、靖国神杜は、そこに祀られたいと遺族が望む戦死者だけを祀る一宗教法人として存続することになるだろう。
 そのうえで、

一、 近代日本のすべての対外戦争を正戦であったと考える特異な歴史観(遊就館の展示がそれを表現している)は、自由な言論によって克服されるべきである。

一、 「第二の靖国」の出現を防ぐには、憲法の「不戦の誓い」を担保する脱軍事化に向けた不断の努力が必要である。

といいます。中野教篤師の遺志を継ぐ流れであり、一脈、当然、湛山師以来の日蓮宗の考えを一結したものであるといえる観察できます。もちろん、全日蓮宗僧侶の総意ということではないでしょう。

以上の考えにわたしは手放しで賛成というわけではありません。
ただ、日蓮という視点から政治、戦争を考え出すとき、戦前の日蓮主義、戦後の湛山師を知らず、放言することは出来ないという矜持を覚えます。その意味で、もう少し、湛山師の思想を探ってみようと考えています。

いずれにしても、宗教という視点からするとき、仏教はBuddhaを祀る信仰なのであって、覚者を崇拝するところにその意義を置きます。そして、その覚者は非暴力、不殺生の人でした。それに対して、靖国でいう英霊は、いわば軍神であり、祭神は殺生の軍人、不慮の死を遂げた戦死者です。このような人々に敬意を払わないということではなく、覚者、不殺生、非暴力の祖を祀る仏教徒にとって、これらの人々を神と崇めることはできません。仏事追善回向してこそ、成仏もあるという宗教観を富士門下に置いてもするわけです。となれば、靖国という‘宗教’とこの点で、整合性を見ることは有り得ないわけです。

靖国を認めるということは、仏教徒、取り分け、日蓮門下、もっと言えば富士門下、さらには学会を含む石山門下にとっては、教義の根本的改変と、‘謗法容認’を意図することとなるわけです。当掲示板は一定の矜持がありますから、このような点で感情的な議論とはなりませんが、いわば、靖国参拝を含む公・官の宗教を拒否して、創価学会の牧口師は獄死したというのであり、戸田氏も獄にありました。‘小説’『人間革命』で、巣鴨の牢獄から出所した戸田氏が電車で原宿を通り過ぎるとき、乗客全員が神社を通り過ぎるとき直立不動になって礼を為したのに対して、「戸田城聖」1人は席から立たないという描写があります。神札問題はまた、学会宗門の水を分けた大きなテーマでした。神本仏迹を唱えたO師は裸に剥かれて河に投げ込まれた挙げ句、詫び状まで書かされたわけです。このような違法行為が容認されるわけはありませんが、しかし、この‘憤慨’と事件こそ、ある面、戦前日蓮主義と神札強要に対し、日蓮を仏に仰ぐ、戦後最大規模に成長する民意であったわけです。しかも、湛山師と戸田氏には当然の距離もありながら、この点では結論は相似していた点は注視に値します。

戦死者が神であるという宗教観は、遠くギリシャでも見られるものですが、近代国家、たとえばアメリカの無名戦士の墓などとは、その意義を全く異にするわけです。

しかし、脱官営・脱宗教的な衣を着る靖国は依然として、その根治はなく、英霊を軍神とする宗教背景は、やはり、戦争翼賛、軍事・軍人賛美と内外に取られるのは当然のことであるとわたしも考えます。その意味において、政治色を濃くすることは必然です。その意味において、単に宗教的な範疇に留まらず、対外外交に刺激することは、小泉も十分に認識しているでしょう。この点をわたしはマッチポンプと評したわけです。

335犀角独歩:2005/12/15(木) 09:55:57

やや横道ですが、「天皇陛下」という用語が投稿中に見られましたので、参考に以下をご紹介します。

http://blog.livedoor.jp/seigijuku/archives/116581.html

336犀角独歩:2005/12/15(木) 11:03:53

少し補足します。

東京裁判の是非をここに問うことを目的にしませんが、わたしはいつも議論のなかで落ちていると思うことがあります。それは323にも挙げたことですが、処刑者7人の遺骨はアメリカ軍によって東京湾に捨てられたということです。わたしはこの点は、勝戦者が敗戦者を裁いた裁判内容以上に重大な意味を持っていると考えます。

遺骨廃棄。つまり、この断固たる措置は、処刑戦犯者の埋葬を拒絶したことを意味します。ならば、その人々を英霊祭神として祀ることとは180度逆の意味を持っています。

この処刑者に死者の尊厳は当時認められなかった。埋葬・祭祀を認めなかったということが勝戦国の共通の認識であれば、これを英霊祭神として祀ることがどのような意味を持つのか、わたしは議論はここから始まると思います。

今回の小泉の言辞を聞いていても、以上のような処刑7人への韓中感情を敢えて無視し、東京招魂社以来の全英霊に言い換えて強弁しているわけで、掛かる問題に関して十分な解答を示していないわけです。また、政治的な意図がないのであれば、休みの日に人知れず、参拝してくればいいわけですが、そうもしていません。首相として、挑発と取られても致し方のないところであると、わたしは考えます。

以上の点を、ここ仏教という立場から、いえば、掛かる小泉の行動は、純粋な信仰心、英霊鎮魂という人々の宗教的善意と宗教を、英霊を悪用する所行であると映じます。

小泉論法でいえば、英霊に参拝するのは当然のことであるといいますが、では、参拝しない天皇は、その当然のことをやっていないという批判として、わたしは受け止めます。

337パンナコッタ:2005/12/15(木) 13:21:16
独歩さん、
遺骨についての蛇足な情報ですが、
 http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/index.html
 http://www.arakawas.sakura.ne.jp/backn009/kouakann/kouakann.html

反発が大きい故、細々と守り続けている人がいるのが現状でしようか。

338藤川一郎:2005/12/15(木) 14:02:02
遺骨について
日本ではどのような残虐犯罪者であろうと、死刑囚の骨は遺族に引き渡されます。
これは、死者に鞭を打たないと言う伝統が生きているからだそうです。

これは「死者に追い打ちをかける=怨霊になる」と言う意味もあるから、それを避ける訳です。

中国では、昔から前王朝を倒すと、その祖先の墳墓まで破壊すると言う事が行われたそうです。死者への認識の違いです。
西洋でも似たようなものです。特にキリスト教ではイエスの再臨とともに墓から遺体が復活するのです。罪人まで復活してはたまらないので、骨すら残さなかったのだそうです。
近代以降はさすがにそのような事は無くなったと思いますが・・・。

次に、靖国神社は神道形式ですから、そもそも遺体も骨も関係有りません。魂魄を神格化するのだそうです。それにより、人に災いを呼ぶ「荒魂(あらみたま)」を幸いを呼ぶ「和魂(にぎみたま)」に変えるのです。そして変えた和魂は1つは「幸魂(さきみたま)」として、狩りや漁の収穫をもたらし、また奇魂(くしみたま)として、不思議な奇跡をもたらすのです。
神道では善人以上に悪人を神にします。悪人が怨霊として「荒魂」になるのを防ぐためです。そう言う意味では所謂「A級戦犯」が本当に罪があって裁かれたなら、それだからこそ祀らねば意味が無い。一般戦死者は逆に、慰霊施設を作れば宜しい!
そして総理こそ参拝して「A級戦犯様(荒魂様)、どうか怨霊にならずに、和魂におなりください」とせねばなりません。この意味を中国等に説明すれば良いのです。

彼らは戦争犯罪等、物理的な理論で来るのですから、こちらはそこに「怨霊」と言う概念を持ち込むのです。
他国の政治に干渉するのは内政干渉と言いますが、それ以上に他国の伝統文化に口を出すのはもっと国際的に問題に出きるでしょう。
もっとも小泉さんがそこまで神道知識があるかは、疑問ですが?


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板