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本門戒壇の大御本尊様の偽作説について

34問答迷人:2002/09/28(土) 18:41

弘安三年 日禅授与本尊(北山本門寺蔵 万年救護本尊)をアップしました。

http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/new_page_35.htm

35問答迷人:2002/09/28(土) 18:57

大石寺戒壇板本尊と比べてみると、四天王、主題、花押、梵字の配置は全く同じ。僅かに、花押の形や、梵字の形態に差があるのみで、ほぼ、全同とみてよいとおもわれます。十界については、墨の色が薄く、かすれてしまっているようなので、比較は困難です。河辺メモの記述が、俄然、真実味を増したように思います。

なお、河辺メモの日禅授与本尊と、北山本門寺蔵の日禅授与本尊は、剥離によるコピーで、全く同じ物と考えられます。堀上人も、区別が付かないと述べられています。

36いちりん:2002/09/28(土) 21:24

問答迷人さん
この日禅授与の本尊というのは、日蓮さんが、日禅という門弟に与えた曼荼羅ということでしょうか。
そして、「万年救護本尊」とありますが、曼荼羅のなかに、万年救護というような記述があるのでしょうか。
それと、保田妙本寺にあるのも「万年救護本尊」ですよね。
あれとは、違うのですよね。
違うとしたら、「万年救護本尊」と呼ばれる曼荼羅は、いくつかあるのでしょうか。

37問答迷人:2002/09/28(土) 22:38

いちりんさん

>この日禅授与の本尊というのは、日蓮さんが、日禅という門弟に与えた曼荼羅ということでしょうか。

仰る通りです。

>そして、「万年救護本尊」とありますが、曼荼羅のなかに、万年救護というような記述があるのでしょうか。

宗学要集によれば、「(御判の内に他筆にて)本門寺に懸け万年の重宝たるべし」(第八巻215頁)とあります。

>それと、保田妙本寺にあるのも「万年救護本尊」ですよね。
>あれとは、違うのですよね。

保田の万年救護と、北山の万年救護は、全く別の曼陀羅です。

>違うとしたら、「万年救護本尊」と呼ばれる曼荼羅は、いくつかあるのでしょうか。

一応、以上二種類の万年救護本尊が考えられますが、他に、弘安二年に日興上人に万年救護本尊が与えられたとする記述もありますから、日興上人の晩年に盗難に会った、弘安二年の曼陀羅も、万年救護本尊と呼ぶべきなのかも知れません。

38いちりん:2002/09/28(土) 23:00
問答迷人さん

ありがとうございます。過去に何度も、おんなじ論議はされていると思うのですが、しかしロムの人はいつも新しい方もおられますし、なんども蒸し返してもよいかなあと思ったものですから。

>宗学要集によれば、「(御判の内に他筆にて)本門寺に懸け万年の重宝たるべし」(第八巻215頁)とあります。

御判の内に他筆にて、というのは、日蓮さんの筆によるものだけれども、その本山書写のときに、えがいたのではなく、後の別の日に、日蓮さん自らが「本門寺に懸け万年の重宝たるべし」と書いたというのでしょうか。

しかし、「本門寺に懸け万年の重宝たるべし」などと日蓮さんが書くのは、なんとも眉唾なのですが。後の人が、日蓮さんの筆を真似て、そのように書き足したという可能性もありませんでしょうか。

>保田の万年救護と、北山の万年救護は、全く別の曼陀羅です。

保田の万年救護は、たしかに日蓮さん自らが「万年に救護」というふうに書いているのですよね。

>>違うとしたら、「万年救護本尊」と呼ばれる曼荼羅は、いくつかあるのでしょうか。
>一応、以上二種類の万年救護本尊が考えられますが、他に、弘安二年に日興上人に万年救護本尊が与えられたとする記述もありますから、日興上人の晩年に盗難に会った、弘安二年の曼陀羅も、万年救護本尊と呼ぶべきなのかも知れません。

「弘安二年に日興上人に万年救護本尊が与えられた」というのが真実ならば、まあいわゆる「出世の本懐」などという本尊があるとしたら、それが「そのもの」らしい感じですよね。

しかしまあ、盗難に遭ってしまった。そして、結局、それはどこかに行ってしまったわけですよね。

まあ、そのことも含めて、盗難にあったり、破かれたり、水に流れされたり、火災にあったりして、形が崩れたり消えてしまう可能性のある曼陀羅という「物体」をもってして、日蓮さんが出世の本懐であると宣言するなどというのは、やはりへんだなあとは思いますね。

やはり「有相」(うそう)の本尊が究極というのは、どうも日蓮さんの教えからして、また
仏教の教えからして、どあもおかしいなあという感じはしますです。

39みかん:2002/09/28(土) 23:13
西山にも「万年救護本尊」と通称されるのがありますよね。
建治2年。

40問答迷人:2002/09/28(土) 23:22

いちりんさん

>御判の内に他筆にて、というのは、日蓮さんの筆によるものだけれども、

これは、そういう意味ではなくて、『御判の内』とは、「花押の部分に」という意味ですね。他筆とありますから、日興上人か、そうでなければ、北山歴代の誰か、と言うことになるでしょう。


>やはり「有相」(うそう)の本尊が究極というのは、どうも日蓮さんの教えからして、また
>仏教の教えからして、どあもおかしいなあという感じはしますです。

そもそも、曼陀羅は、本尊を表した物ですから、本尊そのものではありませんね。それが、本懐だ、究極だ、というのは、やはり可笑しいと思います。「本門の教主釈尊」が本尊で有ることは、観心本尊抄の所説であり、それを曼陀羅それ自体とする事は、明らかに無理があると思います。

41問答迷人:2002/09/28(土) 23:30

みかんさん

初めまして いつも書き込みありがとうございます。

>西山にも「万年救護本尊」と通称されるのがありますよね。
>建治2年。

あぁ、この曼陀羅も万年救護と通称されるのですか。なるほど。

大聖人御筆曼陀羅の分
建治二年二月五日 (日興上人加筆)「本門寺に懸け万年の重宝たるなり」(富士宗学要集第八巻220頁)

42いちりん:2002/09/28(土) 23:36
>そもそも、曼陀羅は、本尊を表した物ですから、本尊そのものではありませんね。それが、本懐だ、究極だ、というのは、やはり可笑しいと思います。

わたしは浄土真宗の本尊観というのは、きわめて常識的であると思っています。

浄土真宗の本尊は、阿弥陀如来ですね。
で、実際に本堂や、家庭の仏壇に安置されるのは、「南無阿弥陀仏」の六字名号か「阿弥陀如来像」なんですね。

まあ、蓮如さんは、布教に際して、阿弥陀如来像は与えられませんから、たくさんの「南無阿弥陀仏」の六字名号を書きました。沢山それは、残っています。
紙幅に南無阿弥陀仏と墨痕あざやかにシンプルにあらわしたものです。

で、その紙に書いた南無阿弥陀仏や木造などの阿弥陀さんは、「有相の本尊」であるとしています。
ほんとうに本尊というものは、「無相」である「無相の阿弥陀如来」であるといいます。

これは、とてもわかりやすい、納得のいくものです。(阿弥陀さんが本尊でいいか悪いかという論議は、さておいて)

43犀角独歩:2002/09/29(日) 00:10

問答名人さん:

なかなか興味深いアップですね。
よく似ています。

並べてみました。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/kaidan_nitizen.gif

大きさはどうなんでしょうか。

日禅授与曼荼羅を「万年救護」と北山が呼ぶことは、『大石寺誑惑顕本書』のなかに見られますね。

44みかん:2002/09/29(日) 03:16
問答迷人さん、こんにちは。
西山の「万年救護」は2000年の同寺の虫払いでみたかもしれませんし、
見てないかもしれません。(うろ覚え)

西山の「万年救護」の相貌は昔の安国会版には乗ってないようです。
最新版には載っているかもしれませんが、不所持なので確認できません。
柳沢宏道氏の私家版「西山本門寺本尊の考察」(平成4年)に写真が
載ってます。

45旅人:2002/10/14(月) 18:14
ちょとした疑問なんですけど、

大石寺の板曼荼羅にある「弥四郎国重法華講衆」の法華講とは
どこの講のことなのでしょうか?大石寺ではないですよね?

大石寺が建立にともない大石寺についてきたのかな?

それとも願主の法華講衆は他山のままなのでしょうか?
もしそうだったら戒壇板本尊は他山の物???

48モトミナ:2002/10/15(火) 16:08
はじめまして。モトミナと申します。
私も>>46で云われている事、以前から疑問でした。
どなたかご存知の方、詳細をお教え下さい。
私は昔顕正会で活動しておりましたが、多くの疑問にぶつかり現在活動停止中の身です。
不自然に思われることが多々あるのですが、もし他のスレ等にあるのなら、どこを探せば
よろしいでしょうか?
1 先に申し上げた「弥四郎国重法華講衆」とは石山ではどのように捉えているのか。
2 戒壇大御本尊建立(そもそも存在の問題はありますが)と熱原法難の時期的相違について。
  (顕正会では熱原三烈士の頸が刎ねられて後、御本尊建立とありますが、否定論を読んだ事が
  あったので)
まだまだありますが、どなたかご存知であれば教えて下さい。
スレ違いですみません。

49犀角独歩:2002/10/15(火) 18:07

> 45、48

ある面、もっともな疑問であろうかと思います。ただ、基本的な勘違いがあるように思います。私は戒壇之漫荼羅には否定的ですが、単に意味するところとして、やや記します。

因師の記述に拠れば、戒壇之漫荼羅の該当の記述は「右為現当二世造立如件 本門戒壇之 願主弥四郎国重敬白 法華講衆等」です。

「講」というのは、元来、信徒の集まりを意味するものでした。もう少し正確に言えば、今でいう“講”義を聴聞する人々の集まりほどの意味です。ですから、これが伝説どおり熱原のことを指すのであれば、興師によって教化された、その地方の信徒の集まりを意味するのだと思います。ですから、「講衆」とは、その集まりの人々という意味であろうかと思われます。

さて、その前提で、頭に法華がつく「法華講衆」とは、興師の「佐渡国法華講衆等御返事」(さとの國の法花かうしうの御返事)という成句にも見られますが、当時、既に定着していた「講」という語彙を使い、特に聖人の信徒のの集まりを「法華講」と呼ぶ習慣があったことを想像させます。しかし、これは特に興師門下で言われるところで、他門ではそうではなかったのかも知れません。

旅人さんから「大石寺の講」かどうかという疑問を呈せられていますが、仮に戒壇之漫荼羅における「法華講衆」が熱原の衆徒を指すのであれば、弘安2年の段階で大石寺など、影も形もないわけですから、大石寺とはもちろん無関係でしょう。けれど、熱原の信徒は興師が身延より、重須へ移ったのちも、その連絡はあったようなので、興師門下として信仰を継いでいたのではないでしょうか。しかし、以上は戒壇之漫荼羅が石山で言われているようなものであれば、ですが。

モトミナさんが記される疑問では
> 1 「弥四郎国重法華講衆」とは石山ではどのように捉えているのか。

これは因師の言に随えば「弥四郎国重敬白 法華講衆等」ですが、結局のところ、いま現在でも決定的な結論は出ていないでしょう。

なお、ご質問とは、ややずれますが、この漢文は、私には不自然に見えます。もう一度、原文を挙げます。

「右為現当二世造立如件 本門戒壇之 願主弥四郎国重敬白 法華講衆等」

読み下せば、「右、現当二世の為に造立件(くだん)の如し。本門戒壇之(の)願主・弥四郎国重 敬白 法華講衆等」と読まれるわけですが、これはいかにも不自然です。文の並びで見る限り、敬白は「敬って白(もう)す」という述語的な位置にあり、となれば、「右、現当二世の為に造立件(くだん)の如し。本門戒壇之(の)願主・弥四郎国重、法華講衆等に敬って白す」とするほうが自然な読み下しであるかの如きです。こうなると、造立したのは、願い主・弥四郎であって、それを法華講衆に謹んで告げているという文章に読めます。もちろん、これは私の個人的な見解です。

> 2 戒壇大御本尊建立(そもそも存在の問題はありますが)と熱原法難の時期的相違

この点については、もちろん言われるところであって、因師の言をさらに挙げれば、先の文に「弘安二年十月十三日」と続きます。つまり、この造立は10月13日であることがわかります。しかしながら、熱原三烈士と言われる三人が斬首されたのは、遅れること2日後の10月15日のことです。つまり、聖人が斬首を見て戒壇之漫荼羅を図示したとすれば、日にちの順番が逆になってしまうわけです。つまり、この石山の説明はおかしいと非難されてきたわけです。

そもそも、弘安2年10月の熱原の事件は、道師の『御伝土代』に見られるものです。
「熱原の法華宗二人は頚を切れ畢、その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばす」

この「御本尊」が戒壇之漫荼羅であるというのが石山の主張ですが、私はこの点について大いに疑問を懐いています。既に記したことですが、この道師の文は曼陀羅図示を記したものではなくて、“日興上人と御本尊に記された”ことを伝える記事であるからです。
このことから、弘安2年のこの漫荼羅には「日興上人」の四文字が記されていたと思えるわけです。ところが戒壇之漫荼羅にはもちろん、その記述があったということはいずこにも言われませんし、また、該当する漫荼羅本尊は現存しません。よって、重須に興師寂8年前に盗難に遭い紛失した弘安2年漫荼羅(戒壇之漫荼羅とは別)こそ、道師の記述に該当する漫荼羅であったのであろうと議論してきたわけです。

この点は以下の過去のスレッドをご参考ください。

富士大石寺の歴史について
http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/keijiban/rekisi.htm
日本亡国の兆しと宗門の責任について
http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/keijiban/boukoku.htm
続 大石寺問題提起
http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/keijiban/mondaiteiki2.htm

50:2002/10/15(火) 21:06
モトミナさん、はじめまして。横レス失礼します。

部外者には、わけわからなくなってしまいました。
戒壇の大御本尊の図顕日は、宗門の「公式見解」では弘安2年10月12日でしょ。
熱原三烈士の斬首は、学問的には翌年の4月8日という説もあるようだけど、「日蓮正宗要義」(大石寺・宗務院)とやら(自分は見たことない)に10月15日とあるそうで、一応これが「公式見解」ですよね。

顕正会は斬首の日をいつだ、と主張しているのですか?
否定論どうこう、というより、宗門の公式見解と異なるんですけど。

51犀角独歩:2002/10/15(火) 22:29

あ、そうか。1点、書き落としましたね。
因師『有師物語聴聞佳跡 上』では10月12日ではなく「13日」になっているんです。
この点は、どっちは本当なのか。現在の石山のアナウンスでは12日でした。

52菊水護国:2002/10/15(火) 23:51
一つだけ云いますと「熱原法難」は戒壇本尊建立の機縁にはなりましたが、「弥四郎国重法華講衆」が熱原農民とはなりません。
また「戒壇本尊願主」では無く「本門戒壇願主」である以上、未来本門戒壇建立のとき現れるべき「国に重きをなす法華講衆」を予言しているとも読めます。
また「弥四郎」と「国重」とを分けて考える考え方もあるようです。

ですから、首が刎ねられたから本尊が建立されたと言い切っている浅井会長の弁は行きすぎでしょう。

53:2002/10/16(水) 02:14

私のレスが、モトミナさんに敵対的であるように見えてしまうか、と思って、反省しております。
そうではなくて、私は、モトミナさんが、私と同じような疑問を持っていらっしゃるか、と思って、うれしくなって、自分の無知を省みず、思わずレスしてしまいました。

54モトミナ:2002/10/16(水) 09:13
無智な私に対する多くのレス、本当に有難うございます。
顕正会で活動していた途上では、殆ど疑問に思うことすらなかった事を、
今更ながら活動停止状態ではっきり分別できるようになったわけです。
私自身は幹部クラスの(区長・隊長レベル)まで実践してきた驕りがあったのですが、
ここへきて、改めて現在の顕正会の薄学に驚いてしまった次第です。
私の現在のスタンスとしては、
1 日蓮大聖人の御遺命とは正しく「日蓮正宗」が秘護しているかという疑問を持っている。
2 1の疑を晴らせば日蓮正宗内部では顕正会論が尤も正しいのではないか、という自己完結的な発想。
ただしここを読んでいると、どうも1の疑問の時点からおかしいように思えてきます。
1がおかしいから故、2の正宗の内部での正邪云々をやってきた自らの滑稽さが、
自分の活動できなくなった理由だったと気付いてしまいました。
私は教学はあまり得意ではありません。
しかし「真実を求める」という気持ちは本来凡夫に必要不可欠なものだと思っています。
多くの方が言われているように、一方的な見解を押し付けるようなものは決して折伏などとはいえません。
じっくりと一言ごとにかみしめるように、勉強させて下さい。

55犀角独歩:2002/10/16(水) 13:47

○弥四郎国重に関する『富士宗学要宗』における記載

『日蓮聖人年譜』(日精)

「此処の地頭は南部六郎実長なり後に入道して法寂房日円とぞ申しける、先祖は新羅三郎義光の五男信濃守遠光の三男、南部三郎光行の次男実長なり、其の嫡子弥四郎国重と申す是即本門戒壇の願主なり」
「実長子息多々なり、嫡子弥四郎国重」

『富士門家中見聞抄目録』(日精)

「日円の本尊には法寂坊授与とありて年号なし、日番の本尊には年号ありて授与書なし(共に富士久遠寺に在り)、弥四郎国重事 日道を大石寺に移す」

『富士大石寺明細誌』(日量)

「同二年弥四郎国重なる者一説に南部六郎実長の嫡男と云ふなり霊端に感じて良材を得以て蓮祖に献ず、蓮祖満悦し本門戒壇の大御本尊を書して日法に命じ之を彫尅せしむ」

「古伝に云はく、此木甲州七面山の池上に浮び出て夜々光明を放つ、南部六郎実長の嫡男弥四郎国重之を取り上げ以て聖人に献ず等云云、又弥四郎国重の五字に就て表示し有りと相伝る云云」


※以上からもわかるとおり、弥四郎国重に関する記述は精師より遡れません。
 また、精師は弥四郎国重を波木井円師(実長)の子供であるとしています。
 さらに弥四郎国重は願主であるだけではなく、戒壇之漫荼羅の楠材の発見・献上者であるとされます。
 しかしながら、以上の点は北山志師との問答以降、言われなくなります。
 問答で突かれた結果、形勢不利と判断したためでしょう。
 ここのところ、取り上げている『悪書 板本尊偽作論』では“熱原法華講衆”として記述されるに至っています。
 
重要な点、精師の記述では弥四郎国重は熱原法華講衆であるとは一言も触れられていないのです。
 つまり、弥四郎国重が熱原法華講衆であるというのは“近代の捏造”に過ぎないと言うことです。

56犀角独歩:2002/10/16(水) 13:56

【55の訂正】

誤)『悪書 板本尊偽作論』
正)『悪書 板本尊偽作論を粉砕す』

57犀角独歩:2002/10/16(水) 14:47

―55からつづく―


「弥四郎国重は熱原法華講衆である」、こんなことが言われた資料を、私は昭和31年に発刊された『悪書 板本尊偽作論を粉砕す』以前で、いずこに載るのか、思いつきません。

例えば亨師は『熱原法難史』に

「先師がかつて直ちに『聖人御難事鈔』の余は二十七年、この文を以って戒壇本尊(板本尊)顕彰(アラワス)の依文(タヨルブン)とされたようだが直接の文使はないようである」(P72)

として、熱原法難との関係を一蹴しています。
また、精師・両師の記述にも見られるとおり、弥四郎国重は波木井嫡男とされてきたのであって、すなわち武士、つまり、熱原農民信徒ではないたわけです。因師の記述「本門戒壇之願主弥四郎国重」が波木井円師の嫡男であれば、聖人との関係もあったように思われ、身延を出なかった聖人が会われることもなかった熱原農民信徒の一人を取り立てたとするより説得性はあります。もちろん、事実であるというわけではありません。

ところで弘安二年という日付は確かに興門史においては重要な意味を持ちます。
その最たるものは導師『御伝土代』の

「日興上人の御弟子駿河国冨士の郡り熱原より二十四人鎌倉え召れ参る。一々に搦め取て平左衛門が庭に引据たり、子息飯沼の判官馬と乗小蟇目を以て一々に射けり、其庭にて平の左衛門入道父子打れり法華の罰なり、さて熱原の法華宗二人は頚を切れ畢、その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばすのみならず日興の弟子日秀日弁二人、上人号し給ふ、大聖人の御弟子数百人僧俗斯の如く頚を切たるなし、又上人号なし、是れ則日興上人の御信力の所以なり云云」

という熱原法難を記すところに「その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばす」という興師に係る弘安二年漫荼羅のことが記されるからでしょう。さらに『日興跡条々事』に「日興が身に宛て給う所の弘安二年の大御本尊日目に之を相伝す本門寺に掛け上る可し」また、精師に拠れば万年救護本尊が興師に授与されたのも、この弘安二年であると言います。

しかしながら、重要な点は、この弘安二年大御本尊が果たして戒壇之漫荼羅なのかという点です。これを証明するものは何一つありません。

弥四郎国重と熱原法華講衆が関連づけられていくのは「弘安二年十月十二日(因師記述では十三日)の日付と「法華講衆」という記述、また「弥四郎」という名前が熱原法華講衆の名前と類似していたからではないでしょうか。その連想から、弘安二年、興師授与、弥四郎国重、熱原法難・信徒名という材を組み合わされて考え出された物語であったのでしょう。

石山が弥四郎国重について、何等充分な説明が出来ないのは、元より波木井実長嫡男とされた人物を、いつの間にか熱原法難の受難者・農民信徒という物語で語ってしまったために、整合性がつけられなくなった結果であろうと思うわけです。

58モトミナ:2002/10/16(水) 17:52
あ さん。はじめまして。
>>50について遅ればせながらレスです。
取りあえず顕正会の公式書籍である折伏理論解説書から抜粋させて頂きます。
初版版と現在版は違うものですが、この部位については全く同じでしたので、
顕正会としての公式見解だということだと思います。

折伏理論解説書 新版 P116から(旧版P112から)
大聖人が身延に入山されてより、若き日興上人の猛然たる折伏が、富士南麓にくりひろげられた。
この弘教により、弘安元年富士熱原地方に、神四郎、弥五郎、弥六郎という農民の三兄弟が入信した。
この三人は宿縁のもよおすところ、日興上人の説法を聴聞するや、直ちに熱烈な信心に立ち、次々と
入信する農民と共に「法華講衆」と名乗った。
法華講衆の折伏弘通が進むにつれ、地元滝泉寺の邪僧・行智を中心とした激しい怨嫉が巻きおこった。
彼等は幕府の権力者・平左衛門と連絡を取りつつ、法華講衆の壊滅を策した。
ここに門下の信徒が受けた法難としては今までにない「熱原の大法難」が起きた。
弘安二年九月、官憲と結託した謗法者らは、日秀(日興上人の弟子)の田の稲刈りを手伝っていた法華講衆の一同をあろうことか、
”他人の稲を盗んだ”として捕縛し、直ちに鎌倉へ押送したのであった。
(中略)
神四郎・弥五郎・弥六郎を中心とする二十人は、自若として臆することなく、一死を賭して「南無妙法蓮華経」と唱え、以て答えに替えたのであった。
(中略)
飯沼判官の放つ矢は容赦なく、一人一人をさいなむ。そのたびに平左衛門は「念仏を唱えよ」と威し責めた。
しかし、一人として退する者はなかった。かえって一矢当たるごとに唱題の声は庭内に高まった。
法華講衆はただ「一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜しまず」の大信心に住していたのであった。
あまりのことに平左衛門は驚き、蟇目を中止させた。そしてのち、神四郎・弥五郎・弥六郎の三人を引き出し、ついにその頸を刎ねたのであった。

59モトミナ:2002/10/16(水) 17:52
法華講衆の身を案じ、幕府を直諌せんと鎌倉まで出向いていた日興上人は、直ちにこのことを身延の大聖人に急報申し上げた。
大聖人は深く深く御感あそばされ、神四郎等法華講衆を「願主」として、御一代の最大事・出世の本懐たる「本門戒壇の大御本尊」を建立あそばされた。
時に弘安二年十月十二日、聖寿五十八歳であられた。

と表記してあるわけです。これが顕正会では登用試験といって一年に一度開く教学試験の登竜門として、入信者はまずこの書を学ぶことになるわけです。
つまり顕正会員では必ず熱原法難についての解釈は以上の通りになるわけです。
更に
ここにおいて大聖人は、神四郎等法華講衆を「本門戒壇の大御本尊」の願主とし給うたのである。
とまであります。
どこをどうひっくり返して読んでも、
熱原法難>三人の斬首>出世の本懐建立>願主は神四郎等法華講衆
となるわけです。
これはどう考えても尋常ではないですよね。私も何年かはずっと上の図式の通りだと思っていましたし、学会員の方や法華講の方に突っ込まれても平然と言い返していました。
しかし、ここまで断言するということは顕正会には何か根拠でもあるんでしょうかね。

60犀角独歩:2002/10/16(水) 20:21

熱原法難と戒壇之漫荼羅は、もちろん無関係であるけれど、熱原法難は史実であって、この点について、聖人においては『滝泉寺申状』『聖人御難事』等にその記事が見られます。この点は特に知られる記述なので、ここに示すまでもないでしょう。

直接の教化者であった興師はこの事件について、いくつかの記録を残しています。3人の名前は本尊分与長(白蓮弟子分与御筆御本尊目録事)に見られます。

「次ニ在家弟子分
 一、富士方熱原郷の住人神四郎 兄
 一、富士方同郷の弥五郎 弟
 一、富士方熱原(郷ノ住人)□□朗
 此ノ三人は越後房下野房ノ弟子廿人の内也 弘安元年信じ始め奉る 舎兄弥籐次入道の訴えに所に依て鎌倉に召し上げられ 終に頚を切られ畢ぬ 平左右衛門入道の沙汰也 子息飯沼判官十三歳ヒキメを以て散散に射て念仏を申す可きの旨再三之を責むと雖も 廿人更に以て之を申さざる輭 張本三人お召し禁(とどめ)て斬罪せしむる也 枝葉十七人者禁獄せしむると雖も終に放たれ畢ぬ。其の後十四年を経て平の入道判官父子 謀反を発して誅せられ畢ぬ。父子これただ事にあらず 法華の現罰を蒙れり」

また、興師書写徳治3年卯月8日漫荼羅脇書に

「駿河国富士方熱原郷住人神四郎号法華衆為平左右衛門尉被切頸三人之内也 左右衛門入道切法華衆頸之後経十四年企謀反間被誅畢 其子孫無跡形滅亡畢」

ついで道師の『御伝土代』に

「日興上人の御弟子駿河国冨士の郡り熱原より二十四人鎌倉え召れ参る。一々に搦め取て平左衛門が庭に引据たり、子息飯沼の判官馬と乗小蟇目を以て一々に射けり、其庭にて平の左衛門入道父子打れり法華の罰なり、さて熱原の法華宗二人は頚を切れ畢」

となってくるわけです。
注意が引かれるのは道師は20人を24人、斬首を2人としている点です。
この興師との記述の相違は、道師が、その教導を充分に受けなかったことを物語るように思えます。

私がさらに注視するのは、興師は熱原信徒を「法華衆」、道師は「法華宗」と記す点です。仮に戒壇之漫荼羅が、この事件に係り図示されたものであり、かつそれを間近に興師が目撃し、さらに目師を経て道師がそれを相承しているとすれば、「法華講衆」と記されるところを確実に写したことでしょう。どこに記述されたか、失念しましたが、たしか石山では「法華講」を聖人の命名とまで言い切っていました。果たして、その名前を興師・道師が書き違えるでしょうか。結局、戒壇之漫荼羅のこの記述は両師の知るところではなかったのであろうと、私には思えます。

いずれにしても、これらの資料から戒壇之漫荼羅との関係はまったく浮かんできません。

熱原法難の研究は興師のよく為されたところで、また高木豊師も論文を結んでいるわけです。いま、この両書が手元にないのですが、ここでは戒壇之漫荼羅との関係を記されていますか。お持ちの方、ご教示ください。

なお、『悪書 板本尊偽作論を粉砕す』では


「日蓮大聖人が弘安二年十月熱原法難に御感あって御本尊を建立遊ばされた限り、その対告衆として熱原の殉教者を思し召されをられし事は言う迄もない。茲に其の対告衆弥四郎国重殿を熱原に求めれば、当時の信徒中弥四郎の名は幾人かあったことは記録によって明らかであるが、最も此の場合該当せられるのは神四郎兄弟であって、むしろ神四郎が弥四郎であったと断定するのが至当である」(P19)

なんとも、よく戒壇之漫荼羅の対告衆に関する見解を変えるものだと嘆息を禁じ得ません。昭和31年当時、弥四郎国重は神四郎であるという見解を達師は「日蓮正宗布教会」の名をもって記していたのでした。しかし、この記述は忘れられ、現代では結局のところ、明確な「弥四郎国重」論は石山に見ることは出来ない。それにも拘わらず、石山も、学会も、顕正会も、証拠も提示せず、熱原法難と戒壇之漫荼羅をいとも簡単に関連づけているのです。

この無定見にありながら、同書では安永師に対して、

「かような不確実極まる論定によるその受け売りは何の権威もない事である。…中世の諸文書を受け売りすることなく(浄師のことを指すのであろう)、古文書の原文に於て、材料を取って研究をなすことが今日の教学界のなすべき態度である」(P21)

という、もはや、なにをかいわんや、よくも自分のことを棚上げにして、斯様な言を吐いたものです。私はその有様にただ呆れるのです。

61犀角独歩:2002/10/16(水) 20:34

【60の訂正】

誤)熱原法難の研究は興師のよく為されたところで
正)熱原法難の研究は亨師のよく為されたところで

62五月雨:2002/10/17(木) 08:13
独歩さん

>どこに記述されたか、失念しましたが、たしか石山では「法華講」を聖人の命名とまで言い切っていました。

『信心の原点』―法華講員育成のために― P18法華講の組織と信仰 ○名称について

法華講の名称は、御本仏大聖人が直々に名付けられた呼称です。
一閻浮提総与・本門戒壇の大御本尊の脇書には「願主 弥四郎国重 法華講衆等敬白」と認められており、日蓮大聖人出世の本懐たる大御本尊が、法華講衆の信心の上に建立されたのであります。
誉れある法華講の名称を名乗る私達は其の名に恥じない信行を以て、御応え申し上げるべきであります。

この本は、法華講岡山県大会実行委員会、岡山妙霑寺内発行となっています。法華講に移ってすぐに貰った本だったように思いますが、ここにこんな記述がありました。

63犀角独歩:2002/10/17(木) 08:22

62 五月雨さん:

有り難うございます。
やはり、現石山では、「法華講」の名称は日蓮によって付けられ現在に至っている如く論じているわけですね、その根拠は戒壇之漫荼羅「法華講」にあると。そして、その始まりは熱原の農民信徒を言う如く扱いですね。

その割には興師は、農民信徒を法華衆といい、また道師は法華宗と天台宗以来継承される名前をもって記していたわけです。もっとも興師は「佐渡の国法華講衆」という記述が見られますから、興師在世には、名称として言われていたのかもしれません。しかし、熱原の信徒たちがこれに当たるという証拠とはならないわけですね。

64五月雨:2002/10/17(木) 08:38

「願主弥四郎国重」について、日蓮大聖人正伝P388第十七章 「大御本尊建立」


御本尊の願主は熱原の人々を代表とする法華講衆を、大聖人の境界中の己心の弥四郎国重として表わされた。すなわち、高位・高貴の人々ではなく、死身弘法の信仰を貫いた熱原の農民を願主として、一閻浮提総与の大御本尊の図顕されたところにも、大聖人の仏法の本質をうかがい知ることができよう。


このように書かれていますが、他にもいろんな説があることを知りまして、どれが本当のことなのか、よく分からなくなりました。大御本尊を認められた日も、熱原の農民が斬首されてからだと、学会でも法華講でも習った気がしていたのですが、この本には次のように書かれています。


弘安二年十月十二日、日蓮大聖人は熱原の農民衆が鎌倉において投獄され、門下に国家権力の弾圧の嵐が吹きあれる中、出世の本懐たる戒壇の大御本尊を図顕、建立された。

いつの間に違う話になっていたのかとキツネにつままれる思いがしています。

65犀角独歩:2002/10/17(木) 09:03

50に、あさんが『日蓮正宗要義』の名を挙げていたので、再読してみました。

ここでは「頼綱は十月十五日、遂に指導者と目された神四郎、弥五郎、弥六郎び三人の首を切る」(P202)と記されています。斬首は戒壇之漫荼羅の日付の3日前(因師の記述では2日前となる)であることを暗に認めています。

この本の記述で滑稽なのは「大聖人の大曼荼羅本尊…一には・個人の場合はほとんどの本尊に受者の名前が書かれている。二には特別な意義と目的の下に顕されるか、またその時々の境地より顕発される本尊で授与書が示されていない…本門戒壇の大御本尊は唯一究竟の大目的の下に“大聖人境界中の弥四郎国重の願いによって顕され”」(P205)たというのです。

何を混乱しているのかわかりませんが、特別な意義を目的の下に顕された漫荼羅は受者の名はがないけれど、唯一究竟の大目的の下に顕されると弥四郎国重の名前が書かれ、さらに本門戒壇とも書かれるというのは一体全体、何を言っているのでしょうか。

ここで注視すべきは精師・量師が波木井嫡男とし、それを翻して、昭和31年布教会として達師が神四郎とした弥四郎国重は、今度は「大聖人境界中」の人物とされてしまっている点です。境界中の人物と言うことは実在の人物ではないと言う意味になるでしょうか。よくまあ、コロコロ変わるものであると呆れます。

こんな文章を要義などと言って読まされ、疑うことを否定された信者は実に気の毒であると思うばかりです。

戒壇之漫荼羅に「仏滅後二千二百廿余年等と云云、御端書、右為現当二世造立如件、本門戒壇之、願主弥四郎国重敬白、法華講衆当、弘安二年十月十三日」と書いたのは“日蓮正宗大石寺第31世日因上人”であるわけです。いまでいう「御法主上人猊下様」の記述であるわけです。その弥四郎国重が、日蓮境界中の人物…言葉を換えれば架空の人物…なので、受者の名でもないも同様と言っているのか、あまりの明文(迷文?)に意味が取れません。

10月15日の斬首によって10月12日(13日)に本門戒壇を建立という矛盾を慌ててもみ消した狼狽が今度は「弥四郎国重は架空の人物、名前は書かれていないも同様」と記すことになったのかと揶揄の一つも投げつけたくなります。

66犀角独歩:2002/10/17(木) 09:12

64 五月雨さん:

「どれが本当なのか」ではなく、「どれも本当ではない」が正解でしょうね。

要するに熱原法難という歴史的な事実までが本当で、そのあとの戒壇之大御本尊との“関連づけ”は嘘と言うことなのでしょう。

いずれにしても弥四郎国重は架空の人物であるというのが現在の石山の見解なのでしょう。何を言っているんでしょうね、まったく。

67犀角独歩:2002/10/17(木) 09:21

> 65の自己レス

『日蓮正宗要義』から取り上げた記述は、もう少しわかりやすく書くと、石山が言う一機一縁・個人のための漫荼羅には受者の名がある。けれど、特別の目的の漫荼羅にはない。こういう主張がまずなされているわけです。ところが戒壇之漫荼羅には、現に弥四郎国重の名前があるわけです。この漫荼羅は寛師が「一閻浮提総与」といった特別な漫荼羅であるわけですから、先の主張からすれば名前があれば辻褄が合わなくなります。そこで、弥四郎国重は日蓮境界中の人物だから、名前が書かれてあっても書かれていない意味になる、こんなことを記したかのようです。

68五月雨:2002/10/17(木) 11:04
独歩さん

>「どれが本当なのか」ではなく、「どれも本当ではない」が正解でしょうね。
要するに熱原法難という歴史的な事実までが本当で、そのあとの戒壇之大御本尊との“関連づけ”は嘘と言うことなのでしょう。

やはり、「嘘」なのですか。最近、嘘だと解かっても妙に納得してしまう自分がいます。“マネッコ猿”だらけの石山だし、歴代の御法主上人は嘘には嘘の上塗りを平気でしているし、「今まで聞いてきた石山のアナウンス」と事実がこんなに違っても、ただ呆れ果るだけです。

御当代の御法主上人は「正直な信心」をいつも言われていますが、なにをもって「正直な信心」と言われているのかが、気になりますね。

69犀角独歩:2002/10/17(木) 11:20

68 五月雨さん:

『マインド・コントロールとは何か』のなかで西田公昭師は

「何か集団のメンバーになっていても、もし何か矛盾する事実に突き当たったら、徹底的に疑ってみることが大切である。もし、個人が疑うことに対して、何か罪的な否定的意識を教えこまれているとしたら、それは科学的思考を一切否定していることと知るべきだ」(P227)

と書いています。正直というのは疑った結果出た答えが、自分の信仰にとって甚だ不可であっても、正直に受け入れることであると思います。

つまり、団体、指導者、教義などというものに対してではなくて、「“真実”に対して正直であれ」、ということであると私は思います。

「組織・指導者が絶対だから、その教えのままにやれば絶対だ」などという考えは不正直な生き方であると思うのです。

70モトミナ:2002/10/17(木) 11:58
犀角独歩様 五月雨様、以降の記事しっかりと読ませていただきました。
特に「組織・指導者が絶対だから、その教えのままにやれば絶対だ」などという考えは不正直な生き方であると思うのです。
という文には全くの同意としか言い様がありません。
学会にしても顕正会にしても宗門にしても、トップをして「絶対」という認識を持たせ、その「絶対的威厳」の発言に疑問を持つようであれば、
それは「不忠」と指摘されるわけで、私が所属していた顕正会でも最も崇高な一部でもありました。
この発想が根本的に組織には存在する限り、譬え正しい信仰だと思えて入会したとしても、後に曲がっていく様には気づけなくなります。
これはどの組織に対しても大きく見れば組織と名づく存在に必ず有する問題なのかもしれません。
スレッドには関係ありませんでしたが、横レス入れさせていただきました。

71犀角独歩:2002/10/17(木) 12:07

(ここでは皆さん、「さん」付けですの、そうさせていただきます。また、私にも「様」付けは無用です)

70 モトミナさん:

ご賛同を心から嬉しく思います。

72モトミナ:2002/10/17(木) 12:39
犀角独歩さん。
そこで私が疑問になってくるのが、曖昧ながらも公言している歴代法主になってきます。
こうして過去の文献を紐解けば、現在、過去と定義が違ってくることは一目瞭然なのですが、
その程度の事も考えずに発言してしまうものなのでしょうか。
近く見ても、顕正会では大昔妙信講と名乗っていた時代には、確か戒壇大御本尊建立以後に斬首があったとの記述された文献があります。
にも関わらず最近の理論書には全く逆の事が提示されている。
同様に学会、宗門ですらコロコロと弥四郎国重についての見解が右往左往してしまうのは、どうしてなのでしょうか。
ここで問題にしているのは時代背景等が時の法主にそう言わしめてしまうのだろうか、という事です。
なぜ過去の法主が書面、公言等で見解を表明していることを、突然変えてしまう理由があるのでしょうか。
そこが不可解でならないのです。
弥四郎国重についてもそうですが、「戒壇大御本尊建立以後に斬首」という定義でも特に問題はないと思われるのですが、何か定義変更する人には不都合なことでもあるのでしょうか。
どうにも解せぬのです。

73五月雨:2002/10/17(木) 13:03

モトミナさん、初めまして。私にも「さん」づけでお願いします。

独歩さん

>正直というのは疑った結果出た答えが、自分の信仰にとって甚だ不可であっても、正直に受け入れることであると思います。

そうですね、今まで信じてきたことが崩れていく様を見るのは、これはかなり精神的にもキツイものがありますが、崩れていくものは、所詮後世の人達が作った作り事ですよね。聖人の本当の教えは微動だにしないものだと思います。これからも真実を正直に受け入れてまいります。

74犀角独歩:2002/10/17(木) 13:04

72 モトミナさん:

> 考えずに発言してしまうものなのでしょうか

まったくですね。私も不思議に思います。
結果論として、そうなってしまったというのが実際のところであろうとは思うのです。

ただ、熱原法難について、道師が興師の言と違ってしまっているのは、単に文章として見ず、伝聞をまとめたからであろうと思います。

波木井嫡男については、精師と量師はほぼ同一ですね。
この変化が起きるのは明治に霑師が北山志師の問答に窮して以降のように見えるのですが、結局、こんな形で批判に遭うと「取り繕い」、それを文書で著すと固定化する、また批判に遭い「取り繕い」、定着。こんなことが繰り返されてきたのではないでしょうか。

ただ、やや記したとおり、熱原法難と戒壇之漫荼羅をつなぐ線というのは、実は元々なかったわけです。これが関連して論じられるようになるのは、いつの頃なのか。亨師の熱原法難研究以降、もっとも信者の胸を打つ事件を、いちばんのお宝とつなげることによって、信者の求心力に使われてきたのであろうと思います。

これらの教学的な動向と創価学会の躍進は、やはり不可分で、その基となったのは、やはり学会の戸田さんでしょう。浅井さんが言うことも戸田さんとは基本的には類型に見えます。

石山にとって、亨師が教化した熱原信徒、戒壇之漫荼羅に次ぎ、大きなタームに身延離山があります。近年にいたり、石山系はやたら排他的となり、ことに身延を「邪宗日蓮」とまで言ってきたわけです。この傾向はいまも濃厚ですね。そうすると戒壇之漫荼羅の願い主が波木井嫡男はうまくない、熱原法難ともつなげたい。そんなノベライズが達師のような弥四郎・神四郎説を語らせることになるのでしょう。

しかし、こうしたご都合主義はボロがすぐ出ます。結局、またそれを取り繕う、そんな繰り返しが、年がら年中、漸減を翻す形で現れるのでしょうね。

まあ、顕正会のように、一切、他の批判はシャット・アウト、「邪宗・謗法」で片付けられるところは、恐ろしく旧態依然とした戦後の戸田さんなんかが騙った論法をいまに温存できるのしょうが、社会との脈絡を考える学会ではそうはいかなくなり、石山もいちおう仏教界の成果を意識するので修正を余儀なくされることになるのではないでしょうか。

あまり、答えになっていないかもしれませんが、そのように観察しています。

75犀角独歩:2002/10/17(木) 13:10

【74の訂正】

誤)年がら年中、漸減を翻す形で現れるのでしょうね
正)年がら年中、前言を翻す形で現れるのでしょうね

76犀角独歩:2002/10/17(木) 13:11

73 五月雨さん:

「真実に対して正直であれ」を信条にしてまいりましょうね。

77犀角独歩:2002/10/17(木) 23:39

いちおう、ここまでのことを書いてきたので、『御伝土代』の記述について、少し書いておきます。

「さて熱原の法華宗二人は頚を切れ畢、その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばす」

私は、ここを「日興上人」と漫荼羅に聖人が記されたと解釈してきました。

しかし、もちろん、石山の解釈は違います。先より挙げている『悪書 板本尊偽作論粉砕す』には「日蓮大聖人は熱原の法難に御感あって“日興上人と共に御本尊を建立”…板本尊」(P17)であるという。この見解は伝聞に拠れば亨師もこの説を述べていたようで、つまり戒壇之漫荼羅は聖人と興師が共同で建立したものであるというのです。現在ではこの解釈は表では語られないけれど、いまだにまことしやかに論じられています。

この解釈に私が反対なのは“てにをは”として違うだろうと思うからです。ここが「大聖人御感有て日興上人と御本尊“を”遊ばす」ならば、そう読めないことはないのですが、実際は「日興上人と御本尊“に”遊ばす」だからです。もちろん、そんな漫荼羅は現存しません。しかし、ここはこのように読むべきではないのかと思えます。ただし、これは憶測の域を出ない、私の管見であることは断っておきます。間違っているかもしれません。

この文をもう少し挙げると「日興上人と御本尊に遊ばすのみならず日興の弟子日秀日弁二人、上人号し給ふ」とありますから、興師に上人号を与え、さらにその興師の弟子、秀・弁二師にも上人号を与えたという記述と読めます。しかし、石山では興師と共に漫荼羅を作り、さらに弟子に上人号を与えたというわけです。

さて、事実はいずこにあるのでしょうか。この点を明らかにすることは、むしろ簡単で、石山が言うような戒壇之漫荼羅を共同で制作した証拠を挙げればよいだけのことです。(既にこの説はありますが、ここには挙げません)

もっとも、それ以前に戒壇之漫荼羅を興師が知っていたとは私には思えないのは、戒壇之漫荼羅に記される「法華講衆」という聖人命名の成句を興師は「法華衆」と記しているからです。興師ほどの厳格な人物がこんな言い換えをするとは思えないわけです。道師に至っては「法華宗」と記しています。果たして聖人の命名であり、かつもっとも中心の漫荼羅に書かれた言葉を間違えたり、言い換えたりするものでしょうか。このことから、この時代に戒壇之漫荼羅は“作られていなかった”と思えるわけです。

また斬首は15日であるのに、戒壇之漫荼羅の日付は12日(13日)、また、上にあさんが挙げているとおり、斬首の日付は別説もあるようです。この道師の記述信じるのであれば斬首のあとに図示された漫荼羅を当たればよいわけです。ちなみに、この10月に図示された漫荼羅は現存する中では

本尊集67
http://campross.crosswinds.net/GohonzonShu/067.html

のみのようです。斬首の何時であったのか、今後の研究を待ちたいと思います。

それにしても、仮に戒壇之漫荼羅が聖人と興師が共同で作られたのであれば、これほど、誉れ高い師弟相対の姿はないわけです。なぜ、この点を石山は高らかに述べないのでしょうか。このことがいっそうを謎を深めるわけです。

78犀角独歩:2002/10/18(金) 23:39

ここのところ、問題にしてきた戒壇之漫荼羅の端書、

「右為現当二世造立如件 本門戒壇之 願主弥四郎国重敬白」

もし、この言葉が本当に刻まれているのであれば、弥四郎国重とは、この板曼荼羅を造立したその人なのでしょう。造立した人とは実際に木に刻み彫刻した人、あるいは仏師に、その彫刻を依頼した人という意味です。

どのような経緯で板に彫刻したのか、また言うところの本門戒壇の願い主とは、どんな意味なのか、弥四郎国重が誰であるのか、それは皆目わかりませんが、この「造立(ぞうりゅう)件(くだん)の如し…敬白」とは造立した本人が記す銘文の常套句です。

たとえば、万年救護本尊の「大覚世尊御入滅後二千二百廿余年を経歴す、爾りと雖も月漢日三箇国之間未だ此の大本尊有らず、或は知て之を弘めず、或は之を知らず、我が慈父仏智を以て之を隠し留め末代の為に之を残す、後五百歳之時上行菩薩世に出現して始めて之を弘宣す」という文章が聖人が記されたものに違いありません。

けれど、「造立如件…敬白」とは漫荼羅図示を記すことではなく、板に彫刻した制作を意味するものです。たぶん、この端書は聖人の筆跡とは違うのではないでしょうか。

79問答迷人:2002/10/19(土) 07:06

たぶん、この端書は聖人の筆跡とは違うのではないでしょうか。

独歩さん

御宝蔵番をしたことのある方から、『戒壇板本尊の端書は、曼陀羅の字とは、書体が違っている』と聞きました。端書だけは、何か、楷書体のような感じで書かれているとのことです。

また、この端書の年号には大歳が書かれていません。聖人は、曼陀羅の年号には大歳を書かれており、これは特異ですね。

80犀角独歩:2002/10/19(土) 08:20

79 問答名人さん:

> 戒壇板本尊の端書は、曼陀羅の字とは、書体が違っている

やはり、そうですか。そうでしょうね。
私は永らく石山の言い分が固定観念になってきて勘違いをしていたのです。

弥四郎国重は、あの漫荼羅を図示する対告衆ではないのですね。
板の漫荼羅を彫造した張本人なんでしょう。

> 端書の年号には大歳が書かれていません

なるほど。これは確かに特異ですね。つまり、漫荼羅図示の日付でなく、何らかの意図で彫造に日を「弘安2年10月12日」としたのに過ぎないのでしょう。

この彫造した弥四郎国重なる人物は興門相伝で言われる漫荼羅讃文は「二千二百三十余年」であることも、また聖人が漫荼羅図示の日付を大歳を入れて書かれていたことも知らない程度の素養しかない人物であったのでしょうね。もしかしたら、弘安2年が「太才己卯」であることも数えられない程度の知識しか持ち合わせていなかったのかも知れません。
これは結局、学会が板に改めるとき、勝手に「池田大作」の名前を刻み込んだのと同様(自筆サインを彫り込ませたという)漫荼羅を板にしたり、臨写するとき、彫造・臨写の発願者が自分の名前を付した、その中の一人がたまたま弥四郎国重であったということなのでしょう。ただ、この漫荼羅は「本門戒壇」「弘安二年十月」という富士門徒であれば、目が惹かれる成句が刻まれ、さらに大きく豪華な作りであったので、珍重されたということではないでしょうか。

たぶん、この結論は、事実と大きくは外れていないと思います。

81犀角独歩:2002/10/19(土) 09:56

しかし、80で記したことは、問答名人さんが、有師造立説を支持されていた結論とは異なってしまいました。

有師造立説の根拠を、もう一度、ご教示いただけますでしょうか。

82問答迷人:2002/10/19(土) 10:43

独歩さん

やはり、根拠は、両山問答における、以下の記述ですね。

『一、宝冊に云く、元徳二年興師書を以て大石寺を視篆せんことを命ず師乃ち之れに応ず其の状に曰く日興跡条々の事。これを大事とす当山日浄記に云く、然るに日有未聞未見の板本尊之れを彫尅し己義荘厳の偽書を作る其の偽書とは、此の文並に番帳を指すなり、所言全く実跡たらば驚歎に堪へざる処、所言実に悪口ならば速に之を削除し復末徒の悪言をも禁ずべし、請ふ明示を惜むなかれ。(富士宗学要集第7巻42頁)

ここに言う、日浄記とは、以前、独歩さんが、北山本門寺の顕本書として引用されたものと、同じ内容で有ると思われます。

日浄記は、日有上人が「日興跡条々事」と、「未聞未見の板本尊」をベアーで偽作したと述べているわけです。

83犀角独歩:2002/10/19(土) 11:37

82 問答名人さん:

なるほど、そうでしたね。
『大石寺誑惑顕本書』の中の記述とも一致しています。

実際、有師が刻んだ身代わりの板漫荼羅が現存しているということですが、いまとなっては、私はこちらのほうが取り沙汰されたのではないのかと思うわけです。

これも既に記したことですが、『悪書 板本尊偽作論を粉砕す』のなかに

「日有上人は戒旦御本尊の御身替りの御本尊を模刻遊ばされたのは事実で、其の御本尊には日有上人が署名を遊ばされている、此は今日大石寺の御宝蔵に納められてある」(P65)

という記述が見られます。以前から、私が有師偽作説に消極的であったのは、ご承知のとおりですが、「身替りの御本尊」を作る者が、その前の物も作ったというのは如何にも不自然と感じるからです。

もう一点、確認できないのですが、この浄師の書とは何なのでしょうか。伝聞として浄師のこの記述はよく取り沙汰されるのですが、その正本を私は確認できないのです。

84七師外道:2002/10/19(土) 17:15
相貌は宗祖の筆。
年号は日興上人の筆。→だから太歳がない。
弥四郎云々は他筆。→誰かはわからない。
身延時代は紙幅。→同時代の門下の記録がない
板に彫ったのは離山後。→身延から大石まであんな大きくて重いものを運べるわけがない。
紙幅は重須で盗難にあった。

以上、堀日亨上人、富士宗学要集講義でのご発言。

85犀角独歩:2002/10/19(土) 18:39

> 84

堀ノートの記述で言われることですね。

86犀角独歩:2002/10/19(土) 18:57

> 年号は日興上人の筆。→だから太歳がない

これはピンとこない方がいるかもしれません。
興師は漫荼羅の年号には大歳を記さなかったのですね。
富要8巻本尊脇書からしか、私は確認していませんが。かつて意外に思った記憶があります。

逆に大歳がないから興師の筆と即断した可能性というものはないのだろうかと、疑問が涌きます。

また、板彫りであるわけですから、素材を集めてきて、適当に配置すること可能なわけですね。相貌は聖人の他の漫荼羅から採ってきて、年月は興師のものを使ったという可能性は考えられます。

紙幅の段階から蓮興二師が共同で造ったという考えは出来過ぎであると私には思えます。なぜか。そんな重要なことがあれば、必ずや興師は書き残されたのでしょうから。
また、この点を石山も伏せ続けるのは確証が持てないからでしょうか。

七師外道さん、どなたであるか存じ上げませんが、かなり正確に、いままで言われてきた戒壇之漫荼羅問題を掌握されていますね。よろしければ、私の疑問にお答え願えませんか。

87七師外道:2002/10/19(土) 18:58
>85
A堀日記→雪山日記=自筆
B堀ノート→資料筆写のみ→注記など無し=自筆→誤写多し
C富士宗学要集講義録→各受講者による記録
84はCより

88犀角独歩:2002/10/19(土) 19:06

> 87

なるほど。このような区別があるわけですね。

89七師外道:2002/10/19(土) 19:16
>86
堀日亨上人によると、
 年号は離山後、大石か重須で、日興上人による後加文
ということ。
 元々紙幅には相貌だけ書かれ、表装もされていなかった
というのが、堀日亨上人の考え。

日興上人に授与された本紙に、後日、熱原信徒追福の為に弘安の年号を書き入れられたのでは?

講義録によれば、
 重須で盗難にあった20幅の本尊に紙幅の本紙が含まれていた。
 年号の字体は日興上人のものである。

90犀角独歩:2002/10/19(土) 19:39

> 89 七師外道さん:

戒壇之漫荼羅、肯定論的な亨師の側面ですね。

では、弥四郎国重についてはどうなのでしょうか。

91七師外道:2002/10/19(土) 20:16
>90

堀日亨上人は、紙幅を以って戒壇之漫荼羅とは述べられていない。

1.宗祖は日興上人に相貌のみの紙幅の本紙を授与された。
2.その紙幅には年号、脇書きなどもなかった。
3.日興上人が後日、年号を後加された。
4.紙幅の本紙は「日興身に充て給わるところの弘安ニ年のご本尊」である。
5.「日興身に充て給わるところの弘安ニ年のご本尊」は重須で盗まれた。

つまり、同本尊は元々一機一縁の本尊だったということになる。
ただし、日興上人が後加された年号が熱原法難にちなんだものであったことから、後世の誰かが脇書きを後加し、「戒壇本尊」とした。

私見では、本門寺に「掛け」られない曼荼羅は本尊たり得ない。
戒壇本尊は板本尊ではなく、半丸太本尊であるから、置きものである。
しかも半丸太の本尊部分と台座を金具で打ちつけて固定しており、「ご本尊」の体に穴を穿ち傷をつけてしまっている。
これは不敬である。

92犀角独歩:2002/10/19(土) 20:26

> 91

つまり、何らかの理由で相貌のみを記した紙幅漫荼羅を興師に渡した。興師は熱原法難に因んだ年号を書き入れた。さらに後日、誰かが(私は弥四郎国重としましたが)「本門戒壇」と記し、それを彫造したという順番ですね。

すなわち、少なくても戒壇之漫荼羅と言われるものは3人の筆跡が確認でき、かつ、紙幅から板に改められていった経過があるということになるわけですね。

なるほど、私はパッチワークに対する(つまり、文字を寄せ集めて下書きとした)可能性が大であると思いますが、それは置きます。

重要なことは「本門戒壇」は聖人の字でも、興師の字でもないわけですね。もちろん、「弥四郎国重」の字も違うわけですね。

要するに後人が本門戒壇と書き込んだのに過ぎない、その時から戒壇之漫荼羅と扱われるようになっただけということなのですね。

93七師外道:2002/10/19(土) 20:31
>92
堀日亨上人の説明では

>要するに後人が本門戒壇と書き込んだのに過ぎない、その時から戒壇之漫荼羅と扱われるようになっただけということなのですね。

そのとおりの説となる。

94犀角独歩:2002/10/19(土) 20:51

> 93

なるほど。重要な点ですね。
有り難うございました。

95問答迷人:2002/10/19(土) 21:05

七師外道さん

横レス失礼します。

極めて重大なご指摘、驚いております。一点、お伺いします。

>91
5.「日興身に充て給わるところの弘安ニ年のご本尊」は重須で盗まれた。

重須で盗まれたのは、日興上人の晩年ですから、日興上人が生きておられるのにも拘わらず、誰かが本門戒壇と書き込んだとは、考えられないので、盗まれた以降に書き込まれたと考えるべきかと思われます。この点については、堀日亨上人の講義は無かったのでしょうか。

96いちりん:2002/10/19(土) 21:25

すると、掘さんは、日蓮本仏論は信じていたけれども、
大石寺の戒壇の本尊などというものは、ウソっぱちであると思っていたわけでしょうかね。

すると戸田さんが、これぞ出世の本懐だと大騒ぎして信徒を集めていたのをみて苦笑していたのでしょうか。

97ワラシナ:2002/10/19(土) 21:26
no89 七師外道 さん はじめまして。実に貴重な情報をご提供戴き嬉しく思います。

>講義録によれば、重須で盗難にあった20幅の本尊に紙幅の本紙が含まれていた。

0、げいかのこの盗難説に触れている「大日蓮」誌の御説法では、必ず「紙幅の本紙」除外説、になっていたから若干当惑しております。
1、そうすると「日興跡条条事」との関係についても堀上人は、「富士日興上人詳伝」には出せなかった別な解釈をされていたと想像したくなります。
1−1、大体「詳伝」読んでいて感じていたのは、いかに大事な事肝心なことを言わないで済ませるか腐心しているような感じのかきっぷりだ、という点でした。
これ以上際どい点は自分の頭で考えろ!みたいな。そのヒントばらしも各処の講義録で違うことを言うようにして分散させている感じだ、と。

98犀角独歩:2002/10/19(土) 23:10

問答名人さん:

> 誰かが本門戒壇と書き込んだ

これは絶対に紙幅に書き込んだのではないはずです。
先に記したとおり、「造立如件…敬白」とは、彫像した本人が書いた文章ですから、板にした段階でしょう。

しかし、この亨師の説はあくまで戒壇之漫荼羅を肯定的にとらえたものですが、私はどうしても、興師の介在には懐疑的です。

達師も言う共同で作った漫荼羅ならば、何でその事実を隠す必要があるのでしょうか。目師への座替漫荼羅では興目二人の花押が入っているわけですね。もし、共同で作る漫荼羅であれば、興師も花押を署してこそ師弟相対の共同作業となるはずです。しかし、実際はそうなっていない。

これならばむしろ、他の漫荼羅から相貌を取り、どこかから興師の字体を持ってきて、日付を入れたと考えたほうが納得がいきます。私は寄せ集めの下書きで彫像したと思います。戒壇之漫荼羅説は、どうしても真筆であって欲しいという窮余の憶測の域を出ないと思うわけです。

いちりんさん:

石山の坊さんは信者素人向けの教義と、坊さん仲間の話の使い分けがあまりにひどすぎると思うわけです。亨師は戒壇之大御本尊と言われるものの実態は熟知していたでしょうし、また、あれだけの学匠が日蓮本仏論が後世の捏造であることはわかっていたのではないでしょうか。

99問答迷人:2002/10/19(土) 23:46

独歩さん

>戒壇之漫荼羅説は、どうしても真筆であって欲しいという窮余の憶測の域を出ないと思うわけです。

僕が、とても興味を持ったのは、亨師の説によれば、重須から、御遷化記録、弘安二年の本尊を含む二十幅の曼陀羅を盗み出した下手人が、実は日目上人が住職を務める大石寺だったということになることです。なぜなら、その弘安二年の本尊を元に、大石寺戒壇板本尊が作られたからです。実に、日目上人並びに大石寺が、重須本門寺から、重宝を盗み取った悪行を暴き立てる結果になっています。亨師は、そのなとんでもない歴史を暴き立ててしまうことも承知の上で、この説を述べられたのであろうと思うと、そこに、信憑性を見てみる価値は有るのではないかと思えるのです。如何でしょうか。

100犀角独歩:2002/10/20(日) 00:03

99 問答名人さん:

なるほど。さすがに鋭い。久しぶりに鳥肌が立ちました。
2年近く、共に考えさせていただいた弘安二年本尊と御遷化記録の流れが、ここに見られるというわけですね、この洞察力には敬服します。

では、弘安二年漫荼羅は戒壇漫荼羅ではなかったという前提において、このお考えに賛同します。

第一回オフ会で出た、興師・目師不仲説も思い出しました。これは、もう少し拡大して言えば興師門・目師門不仲説と言えば、より闡明になりますね。

石山で植えられた固定観念を引きはがして見直すと、富士門正史は実に言われてきたことと真っ向から違っていますね。

弥四郎国重が漫荼羅の対告衆ではなく、彫造者であると謎が解けたところから転がるように色々なことが見えるようになりました。

七師外道さんの書き込みがこの裏付けを大いに力付けてくれました。

101犀角独歩:2002/10/20(日) 00:21

重ねて問答名人さん:

一点だけ、お尋ねします。
「二千二百三十余年」は順師(興師門)・道師(目師門)、共通のキーワードですね。
弘安二年漫荼羅と、どのように会通してお考えになりますか。

102問答迷人:2002/10/20(日) 08:04

独歩さん

僕も昨夜来、そのことを考えておりました。

安国会の御本尊集で見ると、弘安二年についても、弘安三年についても、二十余年と、三十余年がそれぞれ存在します。

ただ、この御本尊集で見る限り、どちらの年も、二十余年と、三十余年の曼陀羅は御図顕の時期がかたまっており、バラバラに二十余年と、三十余年と認められたわけではないことが知れます。弘安二年については、二月に一幅、二十余年の曼陀羅が有りますが、あとは、九月までの全ての曼陀羅は三十余年と認められています。そして、十月、十一月については、二十余年と認められており、日興上人に与えられた曼陀羅が十月の御図顕で有れば、二十余年と認められていた可能性が否定できません。むしろ、二十余年と認められていたと考える方が自然で有るようにも思えます。また、例の、日禅授与本尊ですが、同様の推測で考えると、同じく二十余年と認められているものと思われます。この本尊が北山本門寺において、盗まれた弘安二年の本尊の身代わりとされた経緯からも、同じく、二十余年と認められていたから、という推測も成り立ちます。

さて、それで、あと残された問題は、

>「二千二百三十余年」は順師(興師門)・道師(目師門)、共通のキーワード

という点ですが、これについては、今のところ、適切な会通は出来ていません。

103犀角独歩:2002/10/20(日) 08:15

102 問答名人さん:

有り難うございます。

> 二千二百三十余年…今のところ、適切な会通は出来ていません

結局、この会通は、亨師もできなかったことなのでしょうね。

104三学無縁:2002/10/22(火) 18:45
なんだか大変なことになっているようですね。
七師外道さまの指摘された富士宗学要集講義録というのは初めて知りました。
堀上人が富士宗学要集の講義をされていたことはなにかの記述で読んだおぼえがありましたが、講義録のようなものがあったとは・・・。

これまでの論議を整理すると以下のようになりますでしょうか。(但し順不同です)

1.弘安二年の大御本尊については、そうであると考えられるものが三通りほどあり、どれかひとつに確定することは現段階では難しい。
2.本門戒壇の大御本尊と称されるところの、現奉安堂安置の本尊は、仏滅年代表記からしても、相伝書に基く本尊ではない。
3.本門戒壇の大御本尊と称されるところの、現奉安堂安置の本尊の直接の依拠となる真筆ご遺文はない。
4.本門戒壇の大御本尊と称されるところの、現奉安堂安置の本尊について日蓮直弟が記した書面はない。
5.本門戒壇の大御本尊と称されるところの、現奉安堂安置の本尊は、河辺メモの記述にある「日禅授与本尊」をベースにした可能性が大きい。
6.「日禅授与本尊」は北山厳護の本尊を剥離したものである。
7.日蓮が直接筆を執った紙本は北山にあり、剥離した下の紙本は法道院から大石寺に納められた。
8.熱原法難を大石寺は、本門戒壇の大御本尊と称されるところの、現奉安堂安置の本尊建立の契機であるというが、堀上人の記述などから、その説には無理がある。
9.熱原三烈士の名前についても大石寺の伝承は誤伝されてきた。
10.本門戒壇の大御本尊と称されるところの、現奉安堂安置の本尊は、身延時代はもちろん身延離山後も紙幅であった可能性が高い。
11.本門戒壇の大御本尊と称されるところの、現奉安堂安置の本尊が板に造立されたのは、日蓮死後50年から150年を経過してからと考えられる。
12.本門戒壇の大御本尊と称されるところの、現奉安堂安置の本尊は、元は相貌だけが日蓮によって書かれた紙幅であり、表装もされていなかった。
13.本門戒壇の大御本尊と称されるところの、現奉安堂安置の本尊は、元は日蓮自筆の紙幅に日興上人が年号を書き加えたものである。
14.本門戒壇の大御本尊と称されるところの、現奉安堂安置の本尊は、日蓮自筆の紙幅に日興上人が年号を書き加えたものに、さらに後世の誰かが「本門戒壇…弥四郎国重…」を後加したものである。
15.本門戒壇の大御本尊と称されるところの、現奉安堂安置の本尊は、半丸太の本尊部分と台座でできている。
16.後世の誰かが「本門戒壇…弥四郎国重…」を後加した部分は、本門戒壇の大御本尊と称されるところの、現奉安堂安置の本尊の台座部分にある。
17.後世の誰かが後加した「本門戒壇…弥四郎国重…」の部分には、金箔は施されていない。
18.元の紙幅については重須で盗難にあった。
19.日興上人による年記は、熱原法難追福もしくは記念の為のものである可能性が高い。
20.仏紀については後世の後加部分の記述であり、後加した者は、本尊相伝を知らなかったことになる。
21.条条事については、真筆といわれる写真があるるものの、正本か草本かは明確ではない。
22.条条事の本文は、石山系の出版物ごとに異同が多く、正本本文の確定はできていない。
23.条条事は、不自然な削損が数箇所ある。
24.条条事は、堀上人の校定によるものでも異同があり、淳師、松本佐一郎氏らの記す本文とも異なっている。
25.本門戒壇の大御本尊と称されるところの、現奉安堂安置の本尊は、正本堂から遷座されたというが、新たに化粧直しが施されたかのようである。
26.化粧直しには、漆の塗り替え、金箔の塗り替えなどが行われる為、相当の期間を要する。

まだまだ列記しなければならないでしょうが、疲れましたのでこのくらいにしておきます。

あ、あと身代わり本尊の他にも、「戒壇本尊正写本尊」というのもありますね。
これまで戒壇本尊というのは不可侵のものとされてきたという話でしたが、これは嘘ですね。
歴代で「戒壇本尊正写本尊」をものしたかたがいますね。
一幅は大阪の旧蓮華寺にあります。
あと何幅か現存しています。
これは堀上人による紫宸殿本尊の写真拡大とは比較にならないくらいの謗法ということにならないのでしょうか。

本日は所用のため、これで失礼しますが、条条事の比較については後日pdfファイルを用意させていただきます。

105犀角独歩:2002/10/22(火) 23:07

三学無縁さん:

有り難うございます。
“表面”上は、ほぼ整理されたように思えます。

いずれにしても板は、日蓮の筆ではなく彫造である。
この点は、動かし難い事実ですね。

そしてまた、「戒壇本尊正写本尊」という在家に隠される動かし難い事実。
身替本尊も含め、板、紙幅共に複数の…あえて、レプリカというのはやめますが…臨刻、臨写があるということ。

そして、さらに“裏面”にある問題もあるでしょう。しかし、いちおう、このスレッドのテーマは尽くされたことになるでしょうか。

それにしても、戒壇の漫荼羅肯定論者の方々から、まったく声が挙がりませんね。

106犀角独歩:2002/10/22(火) 23:13

↑と言っても、私も少し前まではこの肯定論者の一人でした。
 いまは、その反省を籠めて事実に正直であろうと思っています。

107トゴシ:2002/10/28(月) 17:43
突然、お邪魔します。ここのサイトを友人に紹介されてみたんですが、弥四郎国重が戒壇の大ご本尊様を造った人であるって、なんかものすごいことを書いていませんか。
そうしたら、今まで言われてきたことがみんなひっくり返っちゃうわけですよね。
ここって、とんでもないこと書いていませんか。

108五月雨:2002/10/28(月) 21:54

トゴシさん、初めまして

>そうしたら、今まで言われてきたことがみんなひっくり返っちゃうわけですよね。
ここって、とんでもないこと書いていませんか。

ここのサイトってホントにとんでもないことばかり、書かれていますよ(笑)
とんでもないことを言われても、全てに文証が備わっているので異論を挟むどころか、大いに納得してしまいます。元々に教わってきたことは全てが欺瞞に満ち溢れていることは、いまの宗門の姿が物語っていますよね。
「真実に正直であれ」この言葉が唯一日蓮聖人の教えに結び付いていくのです。トゴシさんも戸惑っておられるようですが、真実を正直に見てみませんか。

109犀角独歩:2002/10/29(火) 08:11

107 トゴシさん:

はじめまして。

そのように新たな疑問を抱かれていくところに前進がありますね。

110ワラシナ:2002/10/29(火) 18:06
no84 七師外道さん こんばんわ

>以上、堀日亨上人、富士宗学要集講義でのご発言。 、、に関して。

*「堀日亨上人の富士宗学要集講義が与えた影響」

0、私の印象ですが、終戦直後から行われたらしい同上人の御講義を受講された当時の青年教師の方々には大きな意味を持っていたと想像する。

1、なぜなら、その中のお二人、久保川法章氏、手塚寛道氏は、最終的には石山離脱ですから。お二人とも戒壇板御本尊には冷めた考えを持っている様だ。

2、石山離脱など除名でもされれば別だが普通の信者では考えられないことである。普通の教団信心では戒壇の御本尊様絶対を叩き込まれる教育を受けるわけで、御僧侶などはもっとだろうし、御本尊教義情報などでは信者とは比較にならないほど恵まれているにも拘らず、、だからである。
「戒壇の御本尊様絶対」の「絶対」とは,それ一点に心が縛り付けられていることをいうから、石山離脱できた、ということは、当たり前のことだが、お二人はもはや「戒壇の御本尊様絶対」の信仰には立てなくなっていたのであろう。

3、久保川氏の雑誌が手に入らないので、手塚氏の雑誌「あんらか」を毎月めくってみているが、現代文明の中で宗祖日蓮大聖人の仏法をよみがえらせるために御講などやっているくらいであるから御書の拝読が載ってはいるが当然のことながら「大石寺」「戒壇の御本尊」「法主」「御登山」の単語など一切出てこない。中古天台学の解説をしている関係で「血脈」は出てくるが、大石寺のそれを語るためではない。

111三学無縁:2002/11/04(月) 21:57
素朴な疑問をひとつ。

日蓮さんが亡くなった時に、枕元に曼荼羅が掲げられたといいます。
この曼荼羅はどのような曼荼羅だったでしょう。
一般的には、朗師だか昭師だかのところから急ぎもって来た曼荼羅で、いわゆる臨滅度時本尊というものだとされています。
ということは、日蓮さんは、身延から出かけたときに、曼荼羅を持っていなかったということでしょうか。
そうすると、身延から池上までの道中は、曼荼羅ではなく、随身仏に向かって読経唱題していたということになりましょうか。
しかも、石山では、当時、すでに板曼荼羅はあった、というのですが、あの大きな板曼荼羅は池上鶴林のときにはどこにあったというのでしょうか。
日蓮さんが出かけた後の身延に置きっ放しにして、いたのでしょうか。
弟子達は日蓮さんの訃報を知らされて、やはり置きっ放しにして、池上にかけつけたのでしょうか。
だとしたら、その時に、板曼荼羅を身延で守っていたのはなんと言う弟子だったのでしょうか。
そもそも、一閻浮提総与という、しかも本門戒壇に安置する大切な本尊を、日蓮さんはほったらかしにして、湯治に出かけた、ということになります。

1.日蓮さんは曼荼羅を持たずに池上まできた。
2.道中の勤行は一体仏に向かっておこなった。

つまり、弟子や信徒は曼荼羅に向かって勤行していたが、日蓮さんは違っていたということになりますね。

3.板曼荼羅は身延に置き去りだった。
4.置き去りの板曼荼羅を守っていたのは誰だかわからない。

もしかしたら、大切な板曼荼羅ですから、池上まで、日蓮さんは持ってきたかもしれませんが、だとしたら、なぜ枕元に置かなかったのでしょうか。

御遷化記録だか御遺物配分帳に、板曼荼羅の記録がないのも不思議ですね。

独歩さん、問答さん、いかが御考えでしょうか、御教示いただけたらと思います。

112犀角独歩:2002/11/05(火) 00:50

> 111 三学無縁さん:

この答えは言わずと知れています。
要するに身延には戒壇之本尊と言われるものは紙幅であれ、板であれ、存在していなかったということですね。少なくとも、その存在を示す資料・文献も、史実も何一つないと言うことです。
私も三学無縁さんのお考えに同様です。

113問答迷人:2002/11/05(火) 18:50

> 111 三学無縁さん

しかも、石山では、当時、すでに板曼荼羅はあった、という

この石山の説を否定すれば、つまり、日蓮聖人が亡くなられたときには、まだ板曼陀羅はなかったと考えれば、三学無縁さんがご指摘になられたような様々な疑問点は全て解消されます。つまり、それは、石山の説に無理があるということを強く示唆していますね。なお、僕は、戒壇板本尊は、紙幅の形でも、その当時は出来上がっていなかったと考えています。

114トゴシ:2002/11/05(火) 21:09

108の五月雨さん

お返事、遅くなりました。
ほんとにすごいこと書いてありますよ。
正直に見てみます。ありがとございます。

115五月雨:2002/11/05(火) 21:53

トゴシさん

本当にすごい事だらけの掲示板ですから、少し頭がふらつく恐れがあるかも(笑)しれないですが、ご一緒に真実を見てまいりましょうね。
今後ともよろしくお願いします。

116匿名で失礼:2002/11/06(水) 18:32
板本尊と相伝書、どちらが先に作られたんでしょうか。
板本尊作成の動機がよくわからないので、その経緯などをお教えください。

117問答迷人:2002/11/06(水) 19:02

匿名で失礼さん 初めまして

板本尊について述べている文書、日興跡条条事は、北山の日浄記によれば、大石寺第九世の日有上人が偽作したとされています。日興跡条条事は、内容的に、二箇相承の唯授一人血脈相承を前提にして初めて、意味を持ちますので、二箇相承が北山で先に作られ、それを受けて、戒壇板本尊が作られたと思われます。

118問答迷人:2002/11/06(水) 19:58

つづきです。

北山で、日禅授与本尊が、戒壇本尊として位置づけられ、重要視されていたことを受けて、大石寺にも、戒壇本尊が必要であるとして、対抗するために作られたのではないかと思っています。

なお、116で、匿名で失礼さんは、「相伝書」と書かれていましたが、117では、二箇相承の意味として扱わせていただきました。

119ほほう:2003/01/05(日) 14:18
とすると創価学会の模刻は謗法との根拠は無くなるわけですか?どちらにしろ当時の聖教に件の板本尊に向かって日達氏とかが法要した記事がありますから氏が許可を失念していたという創価学会側の主張もアナガチ嘘とは言えない訳ですな。

120名無しさん@おなかいっぱい:2003/01/05(日) 19:29
>>119
飛躍しすぎ。
 模刻本尊は事後承諾だろ。
 「こんな物は金庫にでもしまっておけ!」発言は有名。
 ちなみに破棄された模刻本尊、本山の使われていない施設の中に置いてあるソーダ。

121ひみつくん:2003/01/05(日) 21:20
模刻本尊には「池田大作」という本人自著のサインが掘り込んでるのだ。
これが問題なのら。
保管されているのは御宝蔵という発表だね、大石寺的には。

122そうかくずれ:2003/01/05(日) 23:02
南無妙法蓮華経が本尊ってことだとおもうけどね。
誰が書こうが関係ないように思う。
預言者的な扱いで、大聖人を本仏とする石山は、釈迦滅後2000年ってのが
何年であるか調べたほうがいいんじゃないか?

123犀角独歩:2003/01/05(日) 23:13

本尊模刻が謗法かどうかという議論に参加する気はありませんが、達師を怒らせたのは、開眼供養を池田さんが自分でやってしまったことでしょう。このような事例は他にもあって、学会最初の墓園、高尾墓園での春季・秋季の合同慰霊祭の導師を、坊さんを呼ばずに池田さんが自分でやってしまった。開眼供養、法要導師、この坊さんの仕事を池田さんが代わりにやってしまったことに、石山各位は腹を立てたのではないでしょうかね。

まあ、いまやっている友人葬というものの、原型を、もう30年以上も前にやってのけ、更に漫荼羅をも刻したうえ、開眼供養をやってのけた。なかなかの猛者ですね。

なお、模刻漫荼羅は八体、事後承諾か、事前承諾かということが言われていますが、私は昭和50年代後半、信濃町の銀舞会館に副会長指導を受けに行ったとき、そこに安置されてあった漫荼羅本尊は、正本堂建立後、一定役職者以上に下付された達師の「特別御形木本尊」の板、黒漆・文字金箔に仕上げられたものでした。しかし、これはついに学会からも、石山からも取り沙汰されることはなかったですね。取り沙汰されることすらなかったわけですから、これは事後報告どころか、未承諾板本尊の見本みたいなものであったことになります。

なお、上に記されている池田さんの自筆サインを板本尊に彫り込んだものは、私は写真で見た記憶があります。まあ、よくやるよ、という感想を述べるしかありません。

124犀角独歩:2003/01/05(日) 23:27

> 122

もっともなご意見であろうかと存じます。

125ほほう:2003/01/06(月) 01:25
しかし、皆さんの偽作論が事実とするなら事後であろうと根拠はなくなる。どころか、直後で会館で自分達で法要したあとに意義を唱える石山は集団ボケかということになる。まあ、みなさんの主張を見れば、石山は案外確信犯だったのではないか、とさえ思える。逆に戸田・池田両会長は堀氏から話を聞いて実は知っていた故の確信犯ともとれる。ならば日寛本尊を世界中に流布しても差し支えない事にもなるか?池田書写本尊なぞを予言する向きもあるが、学会がわざわざ自ら大量脱会材料を作ることは考えられない。むしろ、本尊不要論に走るであろう。

126ほほう:2003/01/06(月) 02:59
別に池田氏が自分の名前をあとから彫り入れようと弥四郎国重の話し聞いたら、全然問題無いじゃないですか。といってもみなさんの説が戒檀本尊成立の真相で事実だったらですよ?学会員にとってどうかは判りません。本尊が偽作と確定されたら、さーてさてさて、どうなるか?私なら原法華が滅後五百年に成立した釈尊出世の本懐・戒檀本尊も滅後ン年に完成した蓮祖出世の本懐。天台止観は弟子章安作の出世の本壊。とこじつけますがね。

127犀角独歩:2003/01/06(月) 10:16

> 125

確かにそのとおりでしょうね。

> 126

これはちょっと、違います。
蓮祖は自分の漫荼羅が印刷(形木)されたり、まして板に彫られるなど複製することを前提にしていなかったであろうし、また、重須資料からすれば興師は複製、彫刻を厳禁していたと見られる。となれば、そもそも戒壇之漫荼羅なるものが造立することも、石山が板漫荼羅を造ることも形木漫荼羅を作ることも、学会が模刻することも、寛師の複製を作ることも、すべて蓮興二師の意図からずれていると言ってきたのです。

そして、「さーてさてさて」と書かれたあとのことは、議論は進行形にあるということです。

128ほほう:2003/01/12(日) 00:43
では、日蓮は自分の書いたマンダラは後世どうあるべきと思っていたのだろう?一尊四士等の仏像形か?有相仏像は貴方達は否定していた筈だ。では?

129犀角独歩:2003/01/12(日) 08:07

仏像を誰が否定していたと?

130波木井坊竜尊@日蓮宗葵講(元富士山東光寺預かり信徒):2003/01/12(日) 23:08
初期の富士門流で造仏が否定的だったか疑問。

祖師像も作ってるし目師が彫った鬼子母神像もあるよ。

131波木井坊竜尊@日蓮宗葵講(元富士山東光寺預かり信徒):2003/01/13(月) 19:50
岡山の興風談所で出してい興師の御本尊集はおもしろいそうじゃないか。

132ほほう:2003/01/25(土) 22:53
是非教えて下さい。
あと、目師の鬼子母神についても。詳しく。
造仏否定していないのなら、精師に関する創価学会と妙観講の議論は無意味になりますな。
色相荘厳対凡夫の構図も崩れますかな?


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