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本門戒壇の大御本尊様の偽作説について

57犀角独歩:2002/10/16(水) 14:47

―55からつづく―


「弥四郎国重は熱原法華講衆である」、こんなことが言われた資料を、私は昭和31年に発刊された『悪書 板本尊偽作論を粉砕す』以前で、いずこに載るのか、思いつきません。

例えば亨師は『熱原法難史』に

「先師がかつて直ちに『聖人御難事鈔』の余は二十七年、この文を以って戒壇本尊(板本尊)顕彰(アラワス)の依文(タヨルブン)とされたようだが直接の文使はないようである」(P72)

として、熱原法難との関係を一蹴しています。
また、精師・両師の記述にも見られるとおり、弥四郎国重は波木井嫡男とされてきたのであって、すなわち武士、つまり、熱原農民信徒ではないたわけです。因師の記述「本門戒壇之願主弥四郎国重」が波木井円師の嫡男であれば、聖人との関係もあったように思われ、身延を出なかった聖人が会われることもなかった熱原農民信徒の一人を取り立てたとするより説得性はあります。もちろん、事実であるというわけではありません。

ところで弘安二年という日付は確かに興門史においては重要な意味を持ちます。
その最たるものは導師『御伝土代』の

「日興上人の御弟子駿河国冨士の郡り熱原より二十四人鎌倉え召れ参る。一々に搦め取て平左衛門が庭に引据たり、子息飯沼の判官馬と乗小蟇目を以て一々に射けり、其庭にて平の左衛門入道父子打れり法華の罰なり、さて熱原の法華宗二人は頚を切れ畢、その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばすのみならず日興の弟子日秀日弁二人、上人号し給ふ、大聖人の御弟子数百人僧俗斯の如く頚を切たるなし、又上人号なし、是れ則日興上人の御信力の所以なり云云」

という熱原法難を記すところに「その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばす」という興師に係る弘安二年漫荼羅のことが記されるからでしょう。さらに『日興跡条々事』に「日興が身に宛て給う所の弘安二年の大御本尊日目に之を相伝す本門寺に掛け上る可し」また、精師に拠れば万年救護本尊が興師に授与されたのも、この弘安二年であると言います。

しかしながら、重要な点は、この弘安二年大御本尊が果たして戒壇之漫荼羅なのかという点です。これを証明するものは何一つありません。

弥四郎国重と熱原法華講衆が関連づけられていくのは「弘安二年十月十二日(因師記述では十三日)の日付と「法華講衆」という記述、また「弥四郎」という名前が熱原法華講衆の名前と類似していたからではないでしょうか。その連想から、弘安二年、興師授与、弥四郎国重、熱原法難・信徒名という材を組み合わされて考え出された物語であったのでしょう。

石山が弥四郎国重について、何等充分な説明が出来ないのは、元より波木井実長嫡男とされた人物を、いつの間にか熱原法難の受難者・農民信徒という物語で語ってしまったために、整合性がつけられなくなった結果であろうと思うわけです。


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