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本門戒壇の大御本尊様の偽作説について
49
:
犀角独歩
:2002/10/15(火) 18:07
> 45、48
ある面、もっともな疑問であろうかと思います。ただ、基本的な勘違いがあるように思います。私は戒壇之漫荼羅には否定的ですが、単に意味するところとして、やや記します。
因師の記述に拠れば、戒壇之漫荼羅の該当の記述は「右為現当二世造立如件 本門戒壇之 願主弥四郎国重敬白 法華講衆等」です。
「講」というのは、元来、信徒の集まりを意味するものでした。もう少し正確に言えば、今でいう“講”義を聴聞する人々の集まりほどの意味です。ですから、これが伝説どおり熱原のことを指すのであれば、興師によって教化された、その地方の信徒の集まりを意味するのだと思います。ですから、「講衆」とは、その集まりの人々という意味であろうかと思われます。
さて、その前提で、頭に法華がつく「法華講衆」とは、興師の「佐渡国法華講衆等御返事」(さとの國の法花かうしうの御返事)という成句にも見られますが、当時、既に定着していた「講」という語彙を使い、特に聖人の信徒のの集まりを「法華講」と呼ぶ習慣があったことを想像させます。しかし、これは特に興師門下で言われるところで、他門ではそうではなかったのかも知れません。
旅人さんから「大石寺の講」かどうかという疑問を呈せられていますが、仮に戒壇之漫荼羅における「法華講衆」が熱原の衆徒を指すのであれば、弘安2年の段階で大石寺など、影も形もないわけですから、大石寺とはもちろん無関係でしょう。けれど、熱原の信徒は興師が身延より、重須へ移ったのちも、その連絡はあったようなので、興師門下として信仰を継いでいたのではないでしょうか。しかし、以上は戒壇之漫荼羅が石山で言われているようなものであれば、ですが。
モトミナさんが記される疑問では
> 1 「弥四郎国重法華講衆」とは石山ではどのように捉えているのか。
これは因師の言に随えば「弥四郎国重敬白 法華講衆等」ですが、結局のところ、いま現在でも決定的な結論は出ていないでしょう。
なお、ご質問とは、ややずれますが、この漢文は、私には不自然に見えます。もう一度、原文を挙げます。
「右為現当二世造立如件 本門戒壇之 願主弥四郎国重敬白 法華講衆等」
読み下せば、「右、現当二世の為に造立件(くだん)の如し。本門戒壇之(の)願主・弥四郎国重 敬白 法華講衆等」と読まれるわけですが、これはいかにも不自然です。文の並びで見る限り、敬白は「敬って白(もう)す」という述語的な位置にあり、となれば、「右、現当二世の為に造立件(くだん)の如し。本門戒壇之(の)願主・弥四郎国重、法華講衆等に敬って白す」とするほうが自然な読み下しであるかの如きです。こうなると、造立したのは、願い主・弥四郎であって、それを法華講衆に謹んで告げているという文章に読めます。もちろん、これは私の個人的な見解です。
> 2 戒壇大御本尊建立(そもそも存在の問題はありますが)と熱原法難の時期的相違
この点については、もちろん言われるところであって、因師の言をさらに挙げれば、先の文に「弘安二年十月十三日」と続きます。つまり、この造立は10月13日であることがわかります。しかしながら、熱原三烈士と言われる三人が斬首されたのは、遅れること2日後の10月15日のことです。つまり、聖人が斬首を見て戒壇之漫荼羅を図示したとすれば、日にちの順番が逆になってしまうわけです。つまり、この石山の説明はおかしいと非難されてきたわけです。
そもそも、弘安2年10月の熱原の事件は、道師の『御伝土代』に見られるものです。
「熱原の法華宗二人は頚を切れ畢、その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばす」
この「御本尊」が戒壇之漫荼羅であるというのが石山の主張ですが、私はこの点について大いに疑問を懐いています。既に記したことですが、この道師の文は曼陀羅図示を記したものではなくて、“日興上人と御本尊に記された”ことを伝える記事であるからです。
このことから、弘安2年のこの漫荼羅には「日興上人」の四文字が記されていたと思えるわけです。ところが戒壇之漫荼羅にはもちろん、その記述があったということはいずこにも言われませんし、また、該当する漫荼羅本尊は現存しません。よって、重須に興師寂8年前に盗難に遭い紛失した弘安2年漫荼羅(戒壇之漫荼羅とは別)こそ、道師の記述に該当する漫荼羅であったのであろうと議論してきたわけです。
この点は以下の過去のスレッドをご参考ください。
富士大石寺の歴史について
http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/keijiban/rekisi.htm
日本亡国の兆しと宗門の責任について
http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/keijiban/boukoku.htm
続 大石寺問題提起
http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/keijiban/mondaiteiki2.htm
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