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素朴な疑問

1管理者:2002/02/20(水) 13:44

1 名前: 管理者 投稿日: 2002/01/28(月) 18:47

スレッド立ち上げの要請がありましたので、立ち上げます。皆様、気軽に御発言ください。要請文は以下の通りです。

>私の場合、皆様のように難しい事はわかりませんが、いわゆる「素朴な疑問」は
>あります。そのような質問でもよろしいでしょうか?
>もしくは、そのようなスレがあればいいのですが・・・

2977犀角独歩:2006/12/05(火) 09:02:45

どうも、文章が巧くないので、訂正し、再投稿とさせていただきました。

***

顕正居士さんのご投稿を頂いておりますので、こちらは拝読させていただくことといたします。
わたしも、まだ書きかけの部分がありますので、この点は引き続き記させていただくことといたします。

今回の投稿を始めるに当たり、三学無縁さんに、その粗筋を話したところ、「では、観心ずりで、本覚的な結論なのか」という問いをいただきました。

「本覚」という視点は、実に幅広く、一概に論じ切れませんが、以下の点のみ。わたしは、日蓮のいう観心とは、現在言われていることとは、違っていると考えます。

無作三身、凡夫即極といった本覚的結論は、結局のところ、仏・心の両面に亘り、それを修行者凡夫の一念に帰結していく傾向を有していると、わたしは観察します。しかし、日蓮は、この点において、仏と心と自分自身、すなわち、衆生との距離をしっかりと保って自身の法門を御立てていると思えます。

先に投稿を参考にしていただきたいのですが、結局のところ、日蓮が言う本門本尊は観心本尊を裏打ちされたものであり、この関係は仏と心です。この二つを、では、本来、自分自身に内在するものであるととらえてしまえば、上行所伝も、本仏崇敬も意味をなさないことになります。しかし、日蓮は衆生の立場にあって、久遠下種の本主、受け継ぐ妙法蓮華経の五字を己心からずらしたところでとらえたわけです。これが日蓮が言う本門本尊であると、わたしは考えます。つまり、言われてきたような‘観心ずり’とは異なっています。故に釈迦如来への信仰は厳として護られるわけです。妙法蓮華経という五字(法ではなく五字という文字)の題目を本尊という時、しかし、それは自ら本来覚ったものであるとはいわず‘所伝’というところに重点があります。そして、そこに裹まれる一念三千を観心の側面として打ち出しているのであって、本門本尊が表であれば、観心題目はまさに文字通り、内裏の心に観る本尊にほかなりません。

つまり、本門本尊と観心本尊という表裏をもって見るとき、観心を端的に述べて、教相を論じ儒外・内外・大小・顕密・本迹・教観に亘り整理した開目抄、その前提で、教相というより、直接的に観心を語り、本門と併せ両面から本尊を論じた本尊抄、本門本尊を表に論じた行者値難事、法華取要抄、観心を裏に裹んだ報恩抄、そして、実は本尊問答抄は、観心面から本尊を論じたと見れば、一連の著述は整合性のある脈絡でつながります。

顕正居士さんのお言葉を借りれば、本門本尊とは、本門を説かれた釈尊、観心されて見る無始古仏は、本門で説かれた観心される寿命無量の仏自体ということになりましょうか。

ともかくも、いましばらく、わたしは、一連の教学解釈を敢えて無視し、真蹟遺文を手だてに、日蓮の教説をさらに考えることといたします。
今回の論攷するに、独学徒さんのご紹介は参考になりました。重ねて御礼申し上げます。

2978しゅんかん:2006/12/05(火) 22:17:03
問答迷人さんすいません。
ここのところ仕事が多忙に付き、私の問いかけに
大変ご丁寧なお返事を頂きながらお礼を申し上げる事が
遅れてしまい申し訳ありませんでした。
本当にありがとうございました。
もう少し仕事がたて込んでいます、日を改めて再度、
書き込まして頂きます。

「しかし独歩さんと大変なお話に進展いているようですね」

2979独学徒:2006/12/05(火) 22:19:45

犀角独歩さん、

>今回の論攷するに、独学徒さんのご紹介は参考になりました。重ねて御礼申し上げます。

HPを紹介しただけで、誠に恐縮に存じます。

私は少し前に、犀角独歩さんに一対一で種々質問させていただき、多大なる御教授を賜りました。
加えて、今回の問答さんとの対話にも、日々眼から鱗の落ちる思いで拝しているわけです。
御礼を申し上げなければならないのは、私の方です。本当にありがとう御座います。

「冨士教学研究会の掲示板」にて、「報恩抄」の文について、れんさんがご投稿くださったとき、私は不遜にも蓮師があわてて書いて間違えたのではないか、などと申していました。
今回の犀角独歩さんのご投稿を拝し、報恩抄の一見矛盾する記述もすっきりと理解できました。そして、あらためて自身の教学の無さを痛感し、蓮師に懺悔したい気持ちになりました。

問答さんとの御討論、今後も注目致しております。

2980犀角独歩:2006/12/06(水) 11:23:45

独学徒さん、恐れ入ります。

2981問答迷人:2006/12/06(水) 13:28:14

犀角独歩さん

色々考えましたが、今ひとつ、ぴんときません。一つ質問させてください。

上行所伝の妙法蓮華経の五字が、観心の本尊なら、本門の題目と観心の本尊とが、同じく南無妙法蓮華経ということになります。

そうすると、本門の本尊とは、本門教主釈尊なのか、本門で説かれた釈尊なのか、どちらでしょうか。

もし、本門の本尊が本門で説かれた釈尊なら、それは観心の本尊ですよね、そうすると、それは本門の題目と一緒と言う事になります。これは変ですね。

又、本門の本尊が本門の教主たる釈尊ならば、本門の本尊は仏像ですね。その場合、曼荼羅はどうなるのか・・・

考えれば考えるほど判らなくなります。この辺り、もう少し判りやすく、三つの法門の上からご説明願えないでしょうか。よろしくお願いいたします。

2982犀角独歩:2006/12/07(木) 09:24:20

問答名人さん

どのように言語化して好いのか、やや限界を感じ始めました。けれど、やりとりのなかでできるだけ、埋めてまいりたいと思います。
少しずつ、細分化しながら進めます。

> 上行所伝の妙法蓮華経の五字が、観心の本尊

こう書けば、違いはしませんし、わたしもそのような文面になっていました。
もう少し詳細に論じられると思うのです。
所伝というのは‘伝えるところ’というのは他者から‘伝’であることを意味します。つまり、上行が釈尊からです。一方、観心本尊とは己心の一念三千観法に、仏界を教相との整合性から、さらにそれを超えて観いだしていくことですね。この二つには、以上のような相違がありませんか。

> 本門の題目と観心の本尊とが、同じく南無妙法蓮華経

ええ、言葉としてはそうです。

『報恩抄』で本門題目に該当するだろう件は「一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱べし」です。では、伝えられ授受される題目と唱える題目は同じでしょうか。伝え授かる題目は釈尊上行からの授かりもの、しかし、唱える題目は、己の口唱です。

> 本門の本尊とは、本門教主釈尊なのか、本門で説かれた釈尊なのか

本門教主釈尊ではないでしょうか。

> 本門の本尊が本門で説かれた釈尊なら、それは観心の本尊ですよね

いや、違うでしょう。法華経の文面では観心は表に現れていません。そのことを『開目抄』に「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」というのでしょう。教観相対を暗示しています。本門の本尊は、教相面から明らかな、文字通り本門の本尊、寿量仏ではないでしょうか。

> 本門の題目と一緒と言う事になります。これは変ですね。

わたしは、当初、本門題目というのは授与された題目の五字を言うのだと思っていました。これは間違いではないと思うのですが、先にも挙げた『報恩抄』では、唱える題目だというのです。たぶん、この点は、妙法蓮華経が能化からの授与の題目であれば、南無妙法蓮華経は所化が唱える題目なのだろうと思えます。
問答さんが疑問に思われるとおり、日蓮が題目と言うとき、所伝の題目、本門の題目、さらに本尊としての題目と三義に亘っています。わたしは、これを択一してどれか一つを選び出すという発想は、はじめの一歩で躓いているのだと思えます。答えは皆、真なのだろうということです。

勝劣的な発想であると、択一を繰り返し、ついに最勝の一つを択びとるのが日蓮の教学であると捉えがちですが、実際は、小さな集合を、より大きな集合で包括し、ついにすべて包括する集合に至るというのが日蓮の論法であると、わたしは観ます。

また、それぞれの用語において、どの言葉を表立てて論じるかで視点の変化があるので、その都度、縦横無尽に受け取る側も視点を変えてみないと景色は歪んでしまいます。

本尊というとき、これを本門立てで考えれば、儒外、内外、大小、顕密、本迹と追って、ついに寿量仏に至るという階梯を踏みますが、観心立てでは、内観し心のなかに仏を観、その仏の因果と功徳が直ちに妙法蓮華経五字に裹まれることを達観し、そこから三身所顕無始古仏という五百塵点成道の寿量本門仏より一重、立ち入っていきます。この点では、仏・菩薩・衆生・法・三世間という隔壁も時間の経過すら超越してしまうわけです。すべてが妙法蓮華経という題目五字に包摂し、しかし、個々が個たるまでで円満に具している様です。この観心は、本門からの景色とは違います。

本門本尊、観心本尊、同じ本尊であるという見方になりがちですが、視点が違っている以上、異なって映じます。また、表しているところも違っています。前者は教相面から本門寿量品に至る階梯で諦かにされるところ、しかし、観心本尊は文字通り、心を観るなかに見いだされる仏法界が三千不可思議境と広が因果が妙法蓮華経の五字に納まるという視点の相違です。前者は仏格からその心法への信仰へと進むのでしょうが、後者は心法から仏格が見いだされます。ところが、前者では仏格は寿量仏という五百塵点から今番という時間軸がありますが、後者の場合、その時間軸を超克するばかりか仏格までも五百塵点を超克し、寿量仏という法華会座も超克していきます。『本尊抄』に「今本時娑婆世界離三災出四劫常住浄土。仏既過去不滅未来不生。所化以同体。此即己心三千具足三種世間也」というのは、このことではないでしょうか。

2983犀角独歩:2006/12/07(木) 09:24:50

―2982からつづく―

同様に本門題目という妙法蓮華経と、題目本尊で妙法蓮華経とは文字は同じでも相違があります。本門立てでは、今番、末法に菩薩に妙法蓮華経を託したという時間軸で活躍する仏です。しかし、題目本尊とは、釈尊五百塵点成道已前の妙法蓮華経への信仰です。本門題目は、寿量仏 ― 四菩薩 ― 末法衆生へと所伝される妙法蓮華経でしょうが、題目本尊は、妙法蓮華経 ― 寿量仏 … というそれ已前の題目ではないですか。しかし、この点を日蓮は、寿量品の文底に観るわけですから、法華経典で文面に載らない観心の辺域の題目です。それを一念三千というか、無始古仏の己心というか、あるいは仏界所具仏界というか、妙法蓮華経というか、そこに文言表現の限界はありますが、題目本尊というのは、そのような規模で言われることではないですか。本門の題目と、本門寿量経典の文面の底・観心の妙法蓮華経は、やはり、違うと言わざるを得ません。

> 本門の本尊が本門の教主たる釈尊ならば、本門の本尊は仏像ですね。その場合、曼荼羅はどうなるのか

ええ、ここです。本門本尊を考えるとき、漫荼羅というのは立地がありません。
ですから、わたしの、漫荼羅を本当に拝んでいたのだろうか?という問いも起きたわけです。

大きな漫荼羅というのは道場奉懸の用途であろうとは思いますが、通常は、漫荼羅は身に帯する、懐中に持つことが基本だったのではないでしょうか。
何故かと言えば、上行所伝の妙法蓮華経とは下ろされた仏種そのものですから、心身に受け持たなければ、熟益の段に入り用がないからです。心田と言いながら、種を棚に祀っていては、田から芽の出ようはずがありません。

しかし、『本尊問答抄』の末には「此御本尊の御前にして一向に後世をもいのらせ給候へ」とあり、この文面からすれば、題目を記された漫荼羅は本尊として奉懸されていた如くです。

漫荼羅を、日蓮が如何に扱った、否、扱わせたかという点は、杳として明らかではありませんが、しかし、題目本尊といい、漫荼羅奉懸とさせたとしても、実のところ、それは厳格な意味での観心本尊ではないというパラドクスが、最終段階で持ち上がります。何故か。それはその成句の文字が表すとおり、観心本尊とは、心で観る本尊であるからです。しかし、題目本尊とは、その観心される心そのものである一念三千を裹む題目であり、実に裹まれているのは本門本尊の因行果徳の二法であるといいます。これはつまり、末法衆生救済の仏種にほかならないのだと思います。

観心は、教相を超えたところにあると思われがちですが、この二つの関係は表裏であり、視点の相違にほかならないのでしょう。しかし、本門より、観心はさらに広い範囲を包括している点を見落とすと、それを同一と見誤ることになるのだと考えます。

残念ながら、わずかな真蹟遺文から見える日蓮の真意には限界があります。それは、恰も手に入れた宝の山の地図が、大きく破れ失われているようなものです。
故にその後、700年、数多の偽書が捏造され、まことしやかに相伝・相承、口伝えされたのでしょう。しかし、わたしは、日蓮以後の言説に、ヒントを求めようとは思いません。なぜならば、そこには日蓮の答えがないからです。嘘と思いつき、虚を真を偽ったことが真と扱われ澱んでいった複合汚染もあるからです。真蹟遺文を明確できるわれわれは、700年来の人々の優位に立っています。過去の蓄積に溺れるより、遺された断片に真があります。

また、その地図が完全なものであっても、その文底に沈められたところは見えません。いずれにしても、日蓮の心は、遺文という文字がすべてではないのでしょう。言語道断という限界を、しかし、日蓮は法華経の文字に感じ、そして、文底観心の極意を踏み行ったのだと思います。これを言語化することは、もはや、不可能かもしれませんが、そのさわりの議論はできようかと存じます。

2984問答迷人:2006/12/07(木) 22:24:31

犀角独歩さん

詳細な書き込み誠にありがとうございます。この一点が疑問として残りますので、再度御質問させていただきます・

>題目本尊とは、その観心される心そのものである一念三千を裹む題目であり、実に裹まれているのは本門本尊の因行果徳の二法であるといいます。これはつまり、末法衆生救済の仏種にほかならないのだと思います。

題目本尊をそのまま顕したのが曼荼羅ではないのでしょうか。そうならば、蓮祖の真意は曼荼羅正意となるのでは有りませんか。

2985犀角独歩:2006/12/07(木) 23:37:20

問答さん

ちょっと、敢えて脱線します。
先般の合宿の前、楠山師と話していたのです。そのとき、わたしが「一致派と勝劣派、どちらが正しいでしょうか」、こう尋ねたのです。すると「どっちか一方が正しい、その発想が、勝劣派なんだなぁ」と。
ことんと、目から鱗が落ちる思いがしました。

ここなんですよね、わたしたちの勝劣育ちの習性というか、思考回路は。
蓮祖の正意は漫荼羅か・仏像か、正意はどちらか一方ではないのかという勝劣選択です。

楠山師は、こうも言いました。「法然上人のせんちゃくしゅう、せんちゃくって、どんな字を書く? 選択だよ」
われわれは勝劣という足がかりでやっていることは、まさにこの選択ではないかという指摘です。

前置きが長くなりました。

> 題目本尊をそのまま顕したのが曼荼羅ではないのでしょうか

いえ、そうではないと思うのです。題目をの所伝の有様を書き表したのが漫荼羅だと思います。一方、観心される一念三千観法で至る仏は観心本尊、寿量本門という設定で特化されるのが本門本尊ではないですか。

> 蓮祖の真意は曼荼羅正意となるのでは有りませんか。

択一することではないと思います。
観心本尊も、本門本尊も、題目本尊も、すべて日蓮聖人の正意ではないでしょうか。

2986問答迷人:2006/12/08(金) 10:13:18

>観心本尊も、本門本尊も、題目本尊も、すべて日蓮聖人の正意

ますます分からなくなってきました。少し整理させてください。

先ず、本門の題目。これは、「上行所伝の妙法蓮華経の五字を唱える事」これはそういう理解でよろしいでしょうか。

2987問答迷人:2006/12/08(金) 10:17:00

或いは、表現を変えれば、「上行所伝の妙法蓮華経の五字を信じて南無妙法蓮華経と唱える事」これが「本門の題目」

2988犀角独歩:2006/12/08(金) 10:36:21

問答名人さん

2986、2987、ご質問の趣旨がわからないので、どうお応えしてよいかわかりませんが、まず、そのようなことであろうと存じます。

2989問答迷人:2006/12/08(金) 11:15:45

ありがとうございます。

そうしますと、ここで言う「行所伝の妙法蓮華経の五字」、これが「題目本尊」と言う事になりますか、如何でしょう。

2990問答迷人:2006/12/08(金) 11:17:27

あっ、一字欠字です。

× 行所伝の妙法蓮華経の五字

○ 上行所伝の妙法蓮華経の五字

2991問答迷人:2006/12/08(金) 13:17:39

お忙しそうなので、もう一つ先まで書き込んで見ます。

「上行所伝の妙法蓮華経の五字」=「題目本尊」としますと、「本門本尊」と「題目本尊」とは、同じく本尊ですが、その関係はどのように捉えれば良いでしょうか。

2992犀角独歩:2006/12/08(金) 16:07:44

問答さん、本日、他用がございまして、落ち着いて書き込めません。
明日、改めて書き込ませていただきます。
恐れ入ります。

2993問答迷人:2006/12/08(金) 16:47:51

犀角独歩さん

ご多忙の所、恐れ入ります。

それでは、質問をもう少し進めておきたいと思います。

蓮師の三つの法門は、あくまでも、一人一人の成仏の為、そして立正安国の実現の為のものであると思います。そして、この三つの法門に蓮師の教えのエッセンスが凝縮されているのだと思います。
この考え方が正しいかどうかは分かりませんが、「本門の本尊、題目、戒壇」と述べられる内、本尊について、三種を説かれていると言うのは、不可解なのです。もし、そうであっても、それらは、一つに統合されていると思うのです。逆に言えば、観心本尊、本門本尊、題目本尊、これらの三つの本尊は「本門の本尊」として、或いは、「三つの法門」の構成要素として、統合されているのではなかろうか、そのように思えるのです。

これは、蓮師の法門が、最終的に「三つの法門」に統合されているはずだ、という仮説に立っての推論ですが、「三つの法門」が釈尊が末法の為に残された法門だ、という蓮師の教えから、そうでなければならないと思うわけです。

この点、如何でしょうか。

2994みかん:2006/12/08(金) 18:40:07
こないだから考えているんですが、なんで「本尊、題目、戒壇」なんすかね?

「本門の佛」とか、「本門の法(ダールマの法ね)」とか、「本門の経」とかでもよさそうなモンですが。

まあ、本門とそれ以外で、佛やら経やらダールマやらがかわっちゃったら可笑しいんですが。とくにダールマ。でも佛は変わるっていう人もいますよね。

だいたい、「本門の戒」じゃなくて、「本門の戒壇」ってのがよくわからない。まあ、この点は最澄の影響でしょうけれども。

2995犀角独歩:2006/12/08(金) 20:48:01

問答さん、本日は、地方に来ているのですが、モバイルが不調です。
わたしは、三法門というのは、本門立て、さらに観心立てがあるのだと考えています。
勝れた本尊はひとつ、だから、本門、観心、題目は、統一されて一つになる、というのが、お考えであろうと思いますが、わたしはこの点で考えが違います。
ともかく、明日ということで、申し訳ありません。

2996犀角独歩:2006/12/09(土) 19:10:40

問答さん

昨日は失礼いたしました。
ただいま、戻りました。

問答さんとわたしの見解の差は、ただ一点ですね。
要は本尊が「一つに統合される」か・否かです。

その前に本門の題目と題目本尊が同じか・否かという点ですが、『報恩抄』の文による限り、本門の題目は唱える(南無)妙法蓮華経、しかして、題目本尊は唱えられる妙法蓮華経五字の本尊という関係にあるように思えます。わたしが、題目本尊を観心として捌いたのは、本門という時系列の‘縛り’を題目本尊は超えているからです。そこに裹まれる一念三千は観心に摂すると判断したからです。

さて、本尊が統合されるか・どうかですが、この点についてですが、わたしは、それぞれの相違があり、かつそれらが鼎立することになんの不思議も感じないのです。

観心本尊というのは、観法上における本尊であり、この本尊を達観できたのは、結局のところ、日蓮聖人お一人であったのだと、わたしは思います。
この段階で、ご本人が上行の自覚であったかどうか、わたしはどうも疑わしいとは思っているのですが、それはそれとして、「三身所顕無始古仏」というところに行き着くわけですね。しかし、この仏は凡夫にしては「雖近不見」でしょう。

教義の理解を深めたところで、そのような形に行き着くも、それを実感として得心することは、ほぼ不可能な境地だと思います。しかし、師はここから始められたわけです。観心本尊とは、このようなものでしょう。

では、本門本尊はといえば、以上の観心本尊を得心した菩薩、つまり地涌千界、もっと特化すれば四菩薩が立てるというわけです。ところが、その後、題目本尊であるともいうわけです。

鎌倉時代とは身分制度の時代でした。漫荼羅は限られた人にしか授与されませんでした。この二つの点は看過できません。いまのような民主平等を謳い、漫荼羅濫造総下付をなした恥じることがない乱世とは違います。
現代のわれわれは三大秘法と聞けば、「一閻浮総与」よろしく、等しく民衆すべてがあやかれるものであるという前提で考えてしまっています。しかし、日蓮はそう考えていたでしょうか。

『本尊抄』と『本尊問答抄』を本尊というキーワードでみるとき、対告衆が違っていることに気づけませんか。本門本尊とは菩薩が立て、国家によって論じられています。しかし、題目本尊は「末代の凡夫」をもって論じられています。菩薩、凡夫、この差は看過できません。
三秘正法というのは、わたしは国王と国師(僧)、それも両者が四菩薩である国家の理想において語られるところです。これはまさに秘法に属しませんか。しかし、題目本尊論は違います。末代凡夫を相手取っています。

観心本尊は凡慮のまったく及ばざるところ、本門本尊は凡夫の及ばざるところ、題目本尊は凡夫をもって論じるところ、同じ本尊でありながら、この相違があります。では、この三つは、詰まるところ、まったく別のことを論じているのかといえば、実はそうではありません。そこにあるのは受ける側の相違です。

わたしは、この鼎立は、衆生の機根一様ならざれば、斯くあって然るべきであると思えます。つまり、統合の仕様がないことであれば、その三様ともに是という管見です。

2997犀角独歩:2006/12/09(土) 19:12:44

【2996の訂正】

誤)三秘正法というのは、わたしは国王と国師(僧)、それも両者が四菩薩である国家の理想において語られるところです。
正)三秘正法というのは、国王と国師(僧)、それも両者が四菩薩である国家の理想において語られるところです。

2998再挑戦者:2006/12/09(土) 21:40:14
 横から失礼します。 あまりにも高いレベルでの御提言ですので、、??です、。
 少し疑問ですが、某パトロンさまが「、本仏はいつ頃ですか、?」、という質問を記憶しています。
 これには、さすがの日蓮様も御狼狽なされたようでしょうか、?
 晩年期の「聖人傾向の心は、、???」、、疑問です、。 なぜ「生涯、一求道者としての道を捨て、本仏への思考に執着された」、のでしょうか、?
 また、パトロン様に発した「勧心本尊抄」さえも「ナぜ、秘すべし、秘すべし、、」ともうされたのでしょうか、、??  疑問だらけで済みませんです。

2999問答迷人:2006/12/09(土) 23:16:58

犀角独歩さん

>観心本尊は凡慮のまったく及ばざるところ、

これは違うと思います。確かに天台の説いた止観の法門は極めて高度な内容であり、凡人の到底及ば無い所であり、機根が合わないと思います。それが為に、蓮祖は、凡夫でも「妙法蓮華経の五字を受持すれば、自然に釈尊の因行果徳の二法を譲り受ける事が出来る」と説いたのが、観心本尊を説いた本義であったはずです。どこまでも凡夫の為の観心を説かれていると思います。それを、「凡慮のまったく及ばざるところ」とすれば、蓮祖の本意を見失う危険があると思います。
又、蓮祖の修行は立宗以降、一貫して題目を自らも唱え、他にも勧められた。どこまでも名字凡夫の修行に徹しておられます。題目本尊=観心本尊でなければ、蓮祖の名字凡夫の振る舞いに合致しないと思いますが如何でしょうか。

3001問答迷人:2006/12/09(土) 23:43:23

もう一点です。

>本門の題目は唱える(南無)妙法蓮華経、しかして、題目本尊は唱えられる妙法蓮華経五字の本尊

その関係であれば、「本門の題目は唱える(南無)妙法蓮華経」「本門の本尊は唱えられる妙法蓮華経五字」となれば、すっきりします。妙法蓮華経の五字に釈尊の因行果徳の二法が具わるのなら、「題目本尊」=「本門の本尊」としても少しもおかしくないのでは有りませんか。

3002問答迷人:2006/12/10(日) 06:27:32

2999の補足です。

四信五品抄で蓮祖は次のように説いています。

「問ふ、汝何ぞ一念三千の観門を勧進せずして唯題目許りを唱へしむるや。 ー中略ー 問ふ、其の義を知らざる人唯南無妙法蓮華経と唱へて解義の功徳を具するや不や。答ふ、小児乳を含むに其の味を知らずとも自然に身を益す。耆婆が妙薬誰か弁へて之を服せん。水心無けれども火を消し火物を焼く、豈覚あらんや。ー後略ー」

ここには、『蓮祖が自らも実践し、人々にも勧めたのは、題目を唱える事であり、それが、蓮祖の観心法門なのだ』と書かれていると拝します。

3003天蓋真鏡:2006/12/10(日) 06:54:13
みかんさん、はじめまして。挙証主義のサイトですが、私の所見を書いてみます。■インド・佛(仏の十号などに現される理想)法(ブッダガヤ其他遍歴して悟った真実)経(大乗教団が編纂した土台)⇒日本・本尊(尊ぶべきを形に表す)戒壇(乱世に規定)題目(理想を目指すための方法)■本門は真実開顕、法華一乗の到達点なので佛法経で無くて本尊戒壇題目で書いてあるのでは、と書き込みます。

3004犀角独歩:2006/12/10(日) 07:25:34

問答さん

問答抄に「不識一念三千者 仏起大慈悲 五字内裹此珠令懸末代幼稚頚」とあります。不識とは識(し)らざるということですね。これが、わたしが「観心本尊は凡慮のまったく及ばざるところ」といった根拠です。

> 蓮祖の本意を見失う危険があると思います。

そうは思わないですね。
引用されておられる「我等受持此五字自然譲与彼因果功徳」とは、本尊が観心できなくても、五字の受持によって「功徳」を譲られるという趣旨ですから、その意味がわかることとは別の話です。

> 蓮祖の修行は立宗以降、一貫して題目を自らも唱え、他にも勧められた。どこまでも名字凡夫の修行に徹しておられます。題目本尊=観心本尊でなければ、蓮祖の名字凡夫の振る舞いに合致しないと思いますが如何でしょうか。

ですから、そのためにご本人の到達した観心本尊という境地から、題目唱題行を立て、所伝の妙法蓮華経を譲与するという漫荼羅の図示を考案し、四菩薩出現に本門本尊の造立をお考えになるに三秘正法をお考えになった。そして、晩年にいたり、題目本尊というお考えにも至った。
しかし、それをすべて一つのもの=で結ぶことはできない。なぜならば、その意義がそれぞれ違うからです。

> 妙法蓮華経の五字に釈尊の因行果徳の二法が具わるのなら、「題目本尊」=「本門の本尊」としても少しもおかしくないのでは有りませんか

これは、わたしは短絡だと思います。仏と授ける法(妙法蓮華経)という関係が考慮されていません。このように考えてしまうと、法のみとなってしまい仏が不要になります。これでは、仏法とは言えません。日蓮の教えは‘恩’、殊に仏恩を重視しますから、このような考えになっているとは思えません。

3005犀角独歩:2006/12/10(日) 07:54:14

―3004からつづく―

本日はまた、これから出かけなければならず、詳しく記せません。
観心本尊は本門本尊であるということは、その用語の使い方からして、成り立ちません。観心は本門ではないからです。観心とは「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」という点にあります。
本門と文底、その文底の一念三千について論じていくのが観心本尊でしょう。これは本門寿量仏より一重立ち入った段です。

また、補足で引用された『四信五品鈔』の「不知其義人唯唱南無妙法蓮華経具解義功徳不」には、明確に「不知其義」とあります。『本尊抄』には「不識」、両意とも、一念三千を理解できないという意味ではないでしょうか。
問答さんの論法では、仏と仏が授けたものが混同され、さらに本門と観心が混同されていませんか。

3006犀角独歩:2006/12/10(日) 07:57:17

あと、一点だけ。

理解できないことは、通常、実践できないこととなります。
しかし、それを埋めるために五字の授受、実践を考案した。
それが唱題であるという点は、そのとおりです。
けれど、その実践は理解できないうえで可能にしたことに意義があります。
つまり、観心本尊は凡慮が及ばないという前提ではないでしょうか。

3007問答迷人:2006/12/10(日) 08:23:27

犀角独歩さん

>本尊が観心できなくても、五字の受持によって「功徳」を譲られるという趣旨ですから、その意味がわかることとは別の話です。

色々と思うところが有りますが、この一点に絞ります。

「ー観心本尊抄は、蓮祖が題号に書かれている通り、末法に入って、観心本尊を始める事を述べられた書であると思います。そして、本尊抄の趣旨は、妙法蓮華経の五字の受持で一貫されています。末法に始められる観心が「妙法蓮華経の五字の受持」である事は明らかであると思います。もし、そうでなければ、一体、どのような観心が末法に始められるのでしょうか。不可解です。少なくとも、本尊抄を読む限りでは、そのようにしか読めませんが。

また、功徳を得られる、と言うのは、観心が成就した結果であり、観心が成就しないのに、功徳だけが得られると言うのは、不可解です。


>本尊が観心できなくても

「観心本尊」の読み方について、本尊を観心する、という趣旨で独歩さんは書かれていますが、観心の為の本尊では無いかと僕は思っています。寛師の「受持即観心」説が正しいのでは無いかと思います。「本尊を観心する」という意味で書かれている箇所が、本尊抄の中にあるのでしょうか、明鏡の喩えが本尊抄に書かれていますが、その趣旨はやはり、観心の為の本尊としか読めませんが。

3008天蓋真鏡:2006/12/10(日) 12:08:00
横レス失礼します。●問答迷人さんの言いたい事って、三つの法門[本尊・戒壇・題目]は、題目本尊(弘教は其処の所は其処に任す)漫荼羅顕事法華堂、 本門本尊(日蓮の慈悲広大ならば未来万年続く)一尊四士像密事戒壇堂等に関係ありますか?●犀角独歩さん、日興上人が石川一族を頼り建てた?天照太神宮って何なのでしょう。

3009問答迷人:2006/12/10(日) 15:57:40

天蓋真鏡さん

>漫荼羅顕事法華堂、 一尊四士像密事戒壇堂等に関係ありますか

それがどのようなことなのか存じ上げません。関係あるか、関係ないか、解からないので、お答えする事も出来ません。それは、どのような事柄なのでしょうか、よろしかったら教えてください。

3010天蓋真鏡:2006/12/10(日) 18:04:55
私の個人的纏め方見渡し方ですけど、三つの法門(本尊・戒壇・題目)が法華一乗・立正安国の起点で、【顕事】題目本尊(≒漫荼羅)は、鎌倉時代の僧・日蓮を仰ぐ一人ひとりのため漫荼羅を信用信頼できる信心学問修行の人物に下賜されたはずなのでしょう。そして、漫荼羅≒法華堂いわゆる成仏得道の道場である。【密事】本門本尊(≒一尊四士像)は、東大寺、延暦寺を継ぐ密教化してない皆成仏道を求める僧を育てる戒壇堂等の中心でもある。■過去・法華経+現在・漫荼羅+未来・戒壇堂■御義口伝では無い御書遺文等全文を確かめられない事は残念無念です。

3011犀角独歩:2006/12/10(日) 19:29:54

問答さん

> 観心本尊抄…観心本尊を始める事を述べられた書

そうですか。では、なぜ、本門本尊なのでしょうか。

> 妙法蓮華経の五字の受持で一貫されています

そんなことはありません。四菩薩の出現、本門本尊仏像立てること、四菩薩僧摂受正法弘持・四菩薩賢王折伏誡責という多岐に亘ります。

> 末法に始められる観心が「妙法蓮華経の五字の受持」である事は明らかであると思います

何によって明らかなのでしょうか。
『本尊抄』で十界に亘り論じられる日蓮の観心は反故だというわけですか。

> 一体、どのような観心が末法に始められるのでしょうか。不可解です。少なくとも、本尊抄を読む限りでは、そのようにしか読めませんが。

そうでしょうか。先にも述べましたが、『本尊抄』では「観心之心如何」と問いを立て、その観心の実際を十界に亘って論じています。この様はまさに観心そのものです。そもそも「始」を、問答さんは「はじめる」と断定されていますが、「はじめ」と読むこともできます。つまり、末法の始めにおける観心という意味です。題号について、その読みの解釈は蘭菊に賑わいで、断定はできません。ここには述べません。

> 功徳を得られる、と言うのは、観心が成就した結果であり、観心が成就しないのに、功徳だけが得られると言うのは、不可解です。

では、不可能を可能であるというのが『問答抄』ではないでしょうか。
仰るところは道理がありますが、しかし、日蓮は「釈尊因行果徳二法妙法蓮華経五字具足。我等受持此五字自然譲与彼因果功徳」といい、「不識一念三千者 仏起大慈悲 五字内裹此珠令懸末代幼稚頚」といいます。つまり、本来、仏因仏果を得ていないもの、さらに観心出来ないもの=不識が対象となっています。

問答さんの解釈は、先に挙げた「不識」、『四信五品鈔』の「不知其義」という一節を無視することでしか成り立っていません。この点は如何でしょうか。


> …観心の為の本尊では無いかと僕は思っています

これは先の問いと同じになります。ならば、なぜ本門本尊なのでしょうか。

> 寛師の「受持即観心」説

日寛の説は正しくは「凡そ当家の意は唯信心口唱を以て、即ち観心と名づけ、而して受持とは正しく信心口唱に当る。故に受持即観心というなり」だと思いますが、いまは、日蓮の素意を論じているところなので、江戸時代の解釈はこれを議論の対象としないことにします。

> 「本尊を観心する」という意味で書かれている箇所が、本尊抄の中にあるのでしょうか

先にも挙げた「観心之心如何」という問いから「我等己心釈尊五百塵点乃至所顕三身無始古仏也…本尊」至る一連の脈絡は、本尊を観心する以外にどのような意味と採れるのですか。

では、逆にお尋ねしますが、『本尊抄』の段階で、如何なる本尊をもって、日蓮は観心しているというのでしょうか。

問答さんは「受持即観心」に重きを置いていらっしゃいますが、この五字熟語は、純天台文献にはその例を見ず、また、このたび、独学徒さんがご紹介くださった伝教大師全集でもありません。さらに日蓮の真蹟遺文にもなく、写本にもありません。なおのこと、観心を受持、さらには信心に当てはめるような日寛の連想ゲームは日蓮の素意とは無関係でしょう。いまここでは、日蓮の真蹟に基づいて考証を試みているのですから、中世以降の教学解釈を採って、日蓮を捌くことは慎みたいと思います。

以上、いくつか問いを立てました。お応えいただき、次に進めたいと存じます。

3012犀角独歩:2006/12/10(日) 20:20:30

天蓋真鏡さん

> 犀角独歩さん、日興上人が石川一族を頼り建てた?天照太神宮

この辺りの正確な歴史は、わたしよりも、れんさんほか、諸賢方がお詳しいと思います。わたしは余り詳しく調べておりません。
ただ、社檀の建立は、いわば当たり前のことで、天照八幡を祀る堂宇を建立したということだと思います。どなたか補完願えれば有り難く存じます。

3013大縫 薫:2006/12/10(日) 20:35:31
今晩は
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho33/s33_185.htm
昔、貫名上人から教わり現地調査に行きました。この論文を読んだ正宗僧侶からは
内容に衝撃を受けたと!!

3014問答迷人:2006/12/10(日) 21:32:43

犀角独歩さん

>なぜ、本門本尊なのでしょうか。

観心本尊が本門で説かれた本尊だから、本門本尊とされているのだと思います。本尊抄には「此の本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶文殊薬王等にも之を付属したまはず」とあり、「妙法蓮華経の五字」が本門の肝心であることが示されています。


>そんなことはありません。四菩薩の出現、本門本尊仏像立てること、四菩薩僧摂受正法弘持・四菩薩賢王折伏誡責という多岐に亘ります。

確かに内容的には多岐にわたりますが、本尊抄の最重要部分と思われる箇所において「問うて曰く、上(かみ)の大難未(いま)だ其の会通(えつう)を聞かず如何。答へて曰く、ー中略ー 私に会通(えつう)を加へば本文を黷(けが)すが如し、爾(しか)りと雖も文の心は、釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然(じねん)に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。」として、妙法蓮華経の五字の受持を勧め、結文においても、「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠(たま)を裹(つつ)み、末代幼稚の頚(くび)に懸(か)けさしめたまふ。」として、重ねて妙法蓮華経の五字を受持事を勧められて本尊抄を締めくくられています。


> 『本尊抄』で十界に亘り論じられる日蓮の観心は反故だというわけですか。

反故ではなく、この「妙法蓮華経の五字の受持」を述べるための前提として、十界に亘り論じられていると思います。


>『本尊抄』では「観心之心如何」と問いを立て、その観心の実際を十界に亘って論じています。この様はまさに観心そのものです。

ここに示される観心には、前提があります。「法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば自具の十界・百界千如・一念三千を知らざるなり。」と明鏡に依って観心を成就する事が示されています。この前提からすれば、観心の前提として明鏡が先ず示されなければなりません。この観心の前提としての明鏡として、観心本尊をとかれたのだと思います。


> 問答さんの解釈は、先に挙げた「不識」、『四信五品鈔』の「不知其義」という一節を無視することでしか成り立っていません。

そうでは有りません。鏡を見たことが無い人は、自分がどんな顔をしているのか知らないわけです。その知らない人に鏡を見せてあげれば、その人は、その鏡に依って今まで知らなかった自分の顔をはじめて知る事が出来るわけです。これが、蓮祖が明鏡の喩えとして述べられた内容であり、僕は、この蓮祖の説明に基づいて述べています。


> 江戸時代の解釈はこれを議論の対象としないことにします。

これは、了解です。寛師説を引き合いにすることは慎みます。


> では、逆にお尋ねしますが、『本尊抄』の段階で、如何なる本尊をもって、日蓮は観心しているというのでしょうか。

これは、「上行所伝の妙法蓮華経の五字」を以って観心しておられたと思います。

3015再挑戦者:2006/12/10(日) 23:38:49
、、ゴメンします、、。  余りにもハイ・レベルのやりとりのようで、オチコボレのアホ小生にはチンプンカンプンでげぜーーまする、、。
  ただ、両者・諸賢かたの真摯な求道のお姿だけは何とかボンヤリと判明いたしました次第です、、。 心底、、敬意を感じます、!!!

3016問答迷人:2006/12/11(月) 06:17:04

補足です

> では、逆にお尋ねしますが、『本尊抄』の段階で、如何なる本尊をもって、日蓮は観心しているというのでしょうか。

釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。

ここで、蓮祖は「我等」、つまり、「日蓮及びその門下」の観心をお示しであり、蓮祖は「妙法蓮華経の五字」をもって観心しておられると拝します。

3017犀角独歩:2006/12/11(月) 09:21:42

3014 問答名人さん

> >なぜ、本門本尊なのでしょうか。
> 観心本尊が本門で説かれた本尊だから、本門本尊とされているのだと思います。

これは違いますでしょう。何度も上げていますが、観心は法華経本門に説かれていません。故に「文の底」というのです。本門までは天台は証しましたが、観心は説いていない。故に『開目抄』に「龍樹天親知て、しかもいまだひろいいださず。但我が天台智者のみこれをいだけり」というのでしょう。
> 本尊抄には「此の本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶文殊薬王等にも之を付属したまはず」とあり、「妙法蓮華経の五字」が本門の肝心であることが示されています。

そうですね、本門です。ですから、なぜ本門が、観心になってしまっているのでしょうか。これでは迹門は本門であるというようなものでしょう。説明になっていません。

> 確かに内容的には多岐にわたりますが…妙法蓮華経の五字を受持事を勧められて本尊抄を締めくくられています。

この答えで、よくわかることがあります。これは長らく問答さんの思惟傾向として、わたしが見てきた点です。何かといえば、この『問答抄』において、まったく衆生を済度する仏格、その使者としての菩薩に対する信仰が考慮されていないことです。これはあたかも真言宗の法偏重のように映じます。妙法五字は「自然譲与」と言いながら、実際にその所持者である久遠釈尊、そして、使者として菩薩を明らかにしているのが『本尊抄』です。ところがこの仏菩薩が思惟からまったく欠落しています。故に妙法受持しか説かれていないように映じてしまうのではないでしょうか。しかし、これでは、仏法になりません。あるのは法だけです。
『本尊抄』で重要な点は妙法五字の受持であることは動きませんが、しかし、その受持の要法を所伝された菩薩と、久遠下種の本主が釈尊であることを明確に論じることです。ここに仏(久遠釈尊)法(妙法蓮華経)僧(四菩薩)の三宝は整って論じられています。しかし、問答さんの論調は、法のみに目が奪われ、仏菩薩を欠いています。ここから考えられる本尊は、やはり、法偏重となり、日蓮が本門の本尊は釈尊(脇士四菩薩)であるというも、妙法蓮華経五字のみとらわれて、仏菩薩を見落としているようにお見受けします。久種の覚知、その授受の道筋を忘却することは忘恩なのであって、これでは日蓮が言う仏法にはなりません。


> 「妙法蓮華経の五字の受持」を述べるための前提として、十界に亘り論じられていると思います。

ですから、それが観心です。

> …観心…前提…「法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば自具の十界・百界千如・一念三千を知らざるなり。」と明鏡に依って観心を成就…観心の前提…明鏡として、観心本尊

これはまったく牽強付会です。なぜならば、お書きになった文章のなかに、日蓮が何を明鏡と読呼んだのかが明らかであるからです。すなわち「法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡」という一文です。法華経と止観を明鏡といっています。ところが、それを観心本尊であるとすり替えてしまっています。

3018犀角独歩:2006/12/11(月) 09:22:11

―3017からつづく―

> …鏡

この点は上記に記したとおりです。問答さんは、日蓮が鏡というものを取り違えています。

>> 『本尊抄』の段階で、如何なる本尊をもって、日蓮は観心している
> 「上行所伝の妙法蓮華経の五字」を以って観心しておられたと思います。
つまり、これは妙法蓮華経という本尊をもって観心したということでしょうか。

> 釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。
> …蓮祖は「我等」、つまり、「日蓮及びその門下」の観心をお示しであり、蓮祖は「妙法蓮華経の五字」をもって観心しておられると拝します

これもまた、上述と同じく日蓮が明鏡を法華経・止観といっているにもかかわらず、妙法五字本尊とすり替えたのと同じ論法です。論として成立しません。

『本尊抄』は、その冒頭に「摩訶止観第五云」と明確にその論拠を示し、十界観心の様を示しています。止観は法華経によっていますから、日蓮が、明鏡を法華経・止観というのは至当です。また、ここで観心されていくのは妙法蓮華経の五字ではなく、己心十界であり、一念三千です。これは妙法五字が此珠(一念三千)を裹むという前段の話です。

この一念三千を観心した末、日蓮は「私加会通如黷本文。雖爾文心者釈尊因行果徳二法妙法蓮華経五字具足。我等受持此五字自然譲与彼因果功徳」といいます。つまり、問答さんは、まず、本尊ありきで観心であると論を構えておられますが、『本尊抄』の記述はまったく逆になっています。

日蓮は法華経を依経とした止観によって己心を観心し、その一念三千を観法したうえで、‘会通’を加えて五字に具足するとしていくわけです。この会通は観心かといえば、わたしは違うと思います。会通とは「多くの説を集めて説く」ことですから、むしろ、教相に属するでしょう。

故に妙法蓮華経を法華本門に立ち還して、今度は本門本尊を考え、寿量本仏を論じ、その仏像を四菩薩が出現させることを論じていくという側面を同抄は有しています。また、ここでいう本門は「五百塵点已前」というも、その初成道から今番法華会座に至る限って論じられるのが、本門であり、その本尊です。これは観心本尊とは、その意味を異にします。しかし、本門より観心に入り、そこで観る仏は五百塵点成道ではなく「無始古仏」であるという教相、ならぬ経相の紙背、つまり、文底に入っていくのが観心です。しかし、本門三秘正法とは、この観心に裏打ちされて成立していると言うことです。

いずれにしても『本尊抄』の段階で、日蓮は観心本尊を「三身所顕無始古仏…本尊」と言います。つまり、妙法蓮華経五字を本尊であると書いていません。

3019犀角独歩:2006/12/11(月) 11:00:02

【3017の訂正】

誤)この『問答抄』において、まったく衆生を済度する仏格、その使者としての菩薩に対する信仰が考慮されていないことです。
正)この『本尊抄』において、まったく衆生を済度する仏格、その使者としての菩薩に対する信仰が考慮されていないことです。

3020問答迷人:2006/12/11(月) 12:17:16

犀角独歩さん

> なぜ本門が、観心になってしまっているのでしょうか

要は「上行所伝の妙法蓮華経の五字」が観心本尊であるかどうかです。この点に付いては、関係箇所と一緒にご説明します。


>『本尊抄』で重要な点は妙法五字の受持であることは動きません

この点は、認識が合致しているわけです。


>しかし、問答さんの論調は、法のみに目が奪われ、仏菩薩を欠いています。

先日来の議論で、僕は蓮祖の「上行所伝の妙法蓮華経の五字」と言う表現を用いてきました。今、本尊抄の文を引用した関係で「上行所伝」という言葉を省略しましたが、意味するところは「上行所伝の妙法蓮華経の五字」です。
この蓮祖の表現には、この五字を説いた釈尊、並びに四菩薩等の諸尊を前提とた表現であり、法のみでは有りません。仏菩薩を欠くというのは当たらないです。


>「法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡」という一文です。法華経と止観を明鏡といっています。ところが、それを観心本尊であるとすり替えてしまっています。

この批判も当たらないと思います。蓮祖は「法華経と止観」は言っていません。「法華経と止観等」と言っています。この「等」が何を意味するのかが極めて重要であると思っています。これこそ、本尊抄で説かれた「観心本尊たる上行所伝の妙法蓮華経の五字」ではないでしょうか。これは、最初の御質問に対するお答えでもあります。なぜなら、何度も繰り返しますが、蓮師及びその門下は、妙法五字の受持することに依って観心を成就することが出来るからです。これが「観心本尊」という言葉の意味だと思います。


> つまり、これは妙法蓮華経という本尊をもって観心したということでしょうか。

少しニュアンスが違います。文字通り、「上行所伝の妙法蓮華経の五字」という本尊に依って観心しておられたと思います。


>いずれにしても『本尊抄』の段階で、日蓮は観心本尊を「三身所顕無始古仏…本尊」と言います。つまり、妙法蓮華経五字を本尊であると書いていません。

本尊抄の段階で、という事は、蓮祖の説は、後の「本尊問答抄」の段階では「法華経の題目を以て本尊とすべし」と明示されるわけです。

私見ですが、この「上行所伝の妙法蓮華経の五字」とは「法」ではなく、仏格としての「無始古仏」なのだと思っています。根拠は、「妙法蓮華経」という題号が指し示す実体は、単なる法ではなく、久遠仏であると読めるからです。

3021天蓋真鏡:2006/12/11(月) 12:49:17
犀角独歩さん、大縫薫さん、ありがとうございます。学問と見れば、分派も其れぞれの趣があり謎は尽きません。其れでも、私は鎌倉時代の僧・日蓮の出世の本懐は「一念三千因果倶時≒唱題」など思い考えます。21世紀には如来神通力を自然治癒力に端初を開き法華一乗と立正安国の理想を描く。喜怒哀楽に悩むヒトの人生に希望になるかは未知数な事で、先々長くなるかもしれませんが、過不足があれば注意を促してもらうと幸いです。

3022犀角独歩:2006/12/11(月) 13:27:04

問答さん

>…蓮祖の表現には、この五字を説いた釈尊、並びに四菩薩等の諸尊を前提とた表現であり、法のみでは有りません。仏菩薩を欠くというのは当たらないです。

この点はしかし、『本尊問答抄』をもってきてしまえば、瓦解しませんか。この点は、のちに記します。

>…「等」…「観心本尊たる上行所伝の妙法蓮華経の五字」ではないでしょうか。

違うと思います。この点は、先に記したとおりです。
また、‘等’とは止観のみならず、玄義・文句、さらに決・籤・記といった妙楽釈、また、その他釈と見るのが至当です。
なぜならば、『本尊抄』は冒頭に「摩訶止観第五」を挙げ、次いで「玄義」「文句」「妙楽釈」と挙げているからです。

そもそも‘等’が妙法蓮華経=本尊であるといい、『本尊問答抄』をもってもすれば「法華経並天台大師所述摩訶止観等明鏡」とは「法華経(=観心本尊)並天台大師所述摩訶止観観心本尊明鏡」ということになっていまいますが、如何でしょうか。証するもの(観心)と証拠(観心本尊)が同じになっています。こんな文章は成り立ちません。

それでももし、「等」が本尊であると仰るのであれば、この点を挙証する必要があります。

> 蓮師及びその門下は、妙法五字の受持することに依って観心を成就する
ことが出来る

これもまた、「受持即観心」という中世の解釈に依っています。
この点が違うことを「会通」という点を挙げて論じましたが、この点を省略して、過去の主張を繰り返しているに過ぎません。証なき反復です。

観心を成就出来るのではなく、観心はできない(不識)けれど、「自然譲与彼因果功徳」、仏因仏果の功徳を譲られることと、己心に十法界を観ることは意味が違います。

> …「観心本尊」という言葉の意味

では、本門本尊との異同は如何ですか。
本門・観心の捌きを、わたしは文底を挙げて論じましたが、この点は、証されていません。

> 「上行所伝の妙法蓮華経の五字」という本尊に依って観心しておられたと思います。

これも先に『本尊抄』の文の運びはそうはなっていないと記しました。この点を無視して、主張を繰り返しているのに過ぎません。これまた、証なき反復に当たります。

> 本尊抄の段階で、という事は、蓮祖の説は、後の「本尊問答抄」の段階では「法華経の題目を以て本尊とすべし」と明示されるわけです。

いまは『本尊抄』について、記しているのではないでしょうか。また、『本尊問答抄』について、記すのであれば、題目は上行所伝どころか、仏が本尊とするところであるというのです。『本尊問答抄』では上行所伝はまったく論じられていません。また、諸仏の師・本仏である法華経が上行によって所伝されてしまえば、これは下克上です。つまり、上行所伝を言う『本尊抄』と『本尊問答抄』は、その整合性を見ません。よって、『本尊抄』との整合性を証せず、『本尊抄』を考える資とすることは問題があります。また、日蓮の論調は、経年によって変化しているわけですから、過去の文献を挙げて証するのであればいざ知らず、未来の文章を挙げて証することは論攷としては甚だ不可でしょう。

> 「上行所伝の妙法蓮華経の五字」とは「法」ではなく、仏格としての「無始古仏」なのだと思っています。根拠は、「妙法蓮華経」という題号が指し示す実体は、単なる法ではなく、久遠仏であると読めるからです。

各人で、どう読もうとそれは勝手ですが、ここでは議論ですから、何故、そう読めるか記さなければ、単なる信念の押し売りに過ぎません。
わたしは、この考えは教相と観心の混同に原因があると思います。
本門-文底-観心という脈絡について、何度か、わたしは述べていますが、この点に触れず、単に過去の主張を繰り返しているのに過ぎません。

ここのところ、問答さんのご投稿は、わたしの証についても無視するか、反詰するにも証も挙げず、単に「…と思う」と考えのみを挙げるばかりです。これでは議論とは言えません。問答さんらしからぬ、ところと思えます。

3023天蓋真鏡:2006/12/11(月) 16:41:02
横レス失礼します。 問答迷人さんは、妙法漫荼羅には様々な要素・見方が備わるので中心に置いても良いのでは無いかと漫荼羅正意を結論しているのでは無いかなと考えます。犀角独歩さんは、御書遺文の語句を中心に学問を組み立てられて幅の融通が変わるので私は一度御書遺文の法門を整理整頓して語句の羅列形式で纏めて対照表にして頂くと解り易いと思います。表と言っても此の富士門流掲示板の議論に照らし合わせて、尚且、式次第のように見易い語句の羅列で冊子を発刊(範囲は真蹟だけで)してもらうと助かるのですが如何でしょう。

3024再挑戦者:2006/12/11(月) 20:42:55
  、、、横からゴメンします、、。  済みません。
  高いレベルでのヤリトリなのは理解します、、。 ここで、御一服なされてくださいませ、、。
 独歩さまも言われたように700数十年も過ぎ去った、中、での、、疑義などが満載のようでしょうか、? 
  ここで提言です、「、日蓮没後七百数十年を経過しましての、種々の疑問点・肯定店などを改めて議論いたす為の出発点=スタート・ラインのご提示されました、、ようでしょうか、。
 今後、諸賢様が、、立場を定めないで(自由に)、日蓮に関する、さまざまなご賢察こそが、我ら読者の自身の頭で思考する支えになるような気が致します、、。

3025問答迷人:2006/12/11(月) 20:45:05

犀角独歩さん

>「等」が本尊であると仰るのであれば、この点を挙証する必要があります。
>観心を成就出来るのではなく、観心はできない(不識)けれど、「自然譲与彼因果功徳」、仏因仏果の功徳を譲られることと、己心に十法界を観ることは意味が違います。

観心とは自分の心を観察して、そこに地獄から仏までの十法界を見ること。特にこの中で困難とされるのが仏界を観ること。この点を、本尊抄では「教主釈尊ー中略ー 是くの如き仏陀何を以て我等凡夫の己心に住せしめんや」との疑問を立て、無量義経、法華経、天台大師の釈を引きその解釈として「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。」「妙覚の釈尊は我等が血肉なり、因果の功徳は骨髄に非ずや。」と述べられています。ここで「妙覚の釈尊は我等が血肉」とは「凡夫の己心に妙覚の釈尊が住し給う」。或いは「我が身が妙覚の釈尊になる」。こういった意味合いでしょうから、観心の最難事たる、己心に仏界を観ることが、妙法五字を受持ことに依って成就することを述べられていることになります。
 

> 本門本尊との異同は如何ですか。

これは、思案中です。よく考えてお答えしたいと思います。なお、『本尊問答抄』は、例示であり、論証しているわけではありません。参考程度です。


>ここのところ、問答さんのご投稿は、わたしの証についても無視するか、反詰するにも証も挙げず、単に「…と思う」と考えのみを挙げるばかりです。これでは議論とは言えません。問答さんらしからぬ、ところと思えます。

独歩さんご指摘の点、読み返して見ますと、確かにそのような部分があります。議論が成立するように留意してまいります。今後もお気づきの点がありましたら、ご面倒でしょうが、ご指摘戴ければ幸いです。

3026犀角独歩:2006/12/12(火) 08:30:51

問答さん

もはや、水掛け論のような体を為していますが、問答さんの論法は、功徳を具することと観心を混同することによって、その結論を敢えて枉げていると思います。

では、どのように枉げているのか。それはご自身の漫荼羅を本尊とする日蓮没後以降信仰から読むということに、その原因があるとお見受けします。つまり、固定観念から遺文を読むために、ご自身の望む形に遺文が見えてしまっているということです。

これは恰も、創価学会は「仏とは生命のこと」「仏教は生命を説いている」と教え込まれ、固定観念化した眼から見ると、仏典も、遺文も、生命を説いたものと読めてしまうことと同様のことと観察されます。

しかし、考証とは、確実な資料を素直に読むことによって、事実を見ていく作業ではないですか。

本尊によって観心をした。これは日蓮が漫荼羅を確立した以降のことであれば、その信徒ができることです。しかし、『本尊抄』が書かれたころの日蓮は、漫荼羅の試行錯誤を始めたばかりの時期に当たります。拝んでいたのは伊東流罪已来の持仏の釈迦一体像。心血を墨に替え書き込みをしていた注法華経は所持していたでしょうか。梵音声として、寓居に安置した仏像の前に置かれていたことでしょう。また、日蓮の門下との関わりは毎月の大師講を中心とし、さらにしばしば止観を読誦していたことが記されています。

これが『本尊抄』記述の、真蹟から窺える背景です。
この状況で、日蓮が本尊と呼ぶものがあったら、それはまさに生死を共にした釈迦一体像をおいては考えられません。この一体像に向かい唱題をされ、日々、所持された経釈に眼を晒されていた姿が彷彿とします。しかし、この結論は、漫荼羅正意という信念体系から受け容れがたいことでしょう。そのために、自分の欲する‘結論’から遺文を読んでしまうのが富士の所論でした。批判というわけではありませんが、問答さんの言説からも、そのような側面を、わたしは感じます。

止観は禅の指南書であり、その記述の従って行ずるところに一念三千の観法があります。ここで己心仏界を見ることは至難なことですが、この書を通じれば、そのことを確信できます。これは、わたしが、ということより、天台を師と仰ぐ人々であれば、誰しも感じることでしょう。このことは日蓮にしても同様でしょう。日蓮は天台沙門であったし、比叡山に法華六大部を学んだ学僧でもあったのでしょう。となれば、日蓮は、天台妙楽の釈を頼りに法華経に信行学を立てたのでしょう。

その天台宗と決別を意識され本朝沙門の自覚に至った日蓮はしかし、天台と決別したわけでもなく、止観と決別したわけでもありません。講ずるところは、終生、法華経であり、止観その他の天台妙楽の釈であったでしょう。

その日蓮が観心本尊というとき、本尊(妙法蓮華経)で観心したという論調は、事実に沿ったものとは思えません。それは、一念三千の観法を、止観をもって試みたことがある人であれば誰しもわかります。止観なくして、己心仏界など思いもよらないからです。妙法蓮華経の五字を眺めたところで、そんな結論は出ません。南無妙法蓮華経と口ずさみにしても同様です。

止観という明鏡があってはじめて可能なことです。この点は‘人間’日蓮も同様でしょう。先人と同じように己心仏界を止観という明鏡をもって知ったのです。日蓮は特別な人だから妙法蓮華経を本尊であるとわかり、己心仏界をわかることができるというのは、事実の前には、荒唐無稽の理想化された日蓮像ではないでしょうか。

では、天台が三千に思い至れたのは妙法蓮華経の五字かといえば、これも違います。方便品の諸法実相十如是によるでしょう。つまり、法華経典に依ります。

以上のような事実から考えて、『本尊抄』の段階で、日蓮が妙法蓮華経を本尊として、己心仏界に至ったなどということは時系列を反映しているとは思えません。止観の明鏡によって己心仏界を観じ、そこから末法当機の本尊を考えるに至ったという道筋であると考えます。

3027問答迷人:2006/12/12(火) 09:41:43

犀角独歩さん

>その日蓮が観心本尊というとき、本尊(妙法蓮華経)で観心したという論調は、事実に沿ったものとは思えません

本尊抄執筆は52歳、立宗は32歳。この段階で既に20年間、妙法五字を唱え続けておられるわけです。この事実は動きません。それでは一体、何の為に唱えておられたのでしょうか。単に化他の為だけで唱えられたのでしょうか。独歩さんのお考え通りとしたら、この20年間の蓮師の修行・言動は極めて不可解です。

>もはや、水掛け論のような体を為しています

そのようですね。とりあえず、このあたりで中断する事とします。

3028天蓋真鏡:2006/12/12(火) 11:15:40
漫荼羅の本意を考える時「法華経の題目を本尊として唱題する事は動かない」が「シャカを三徳を具備する(本)仏と見ると、観心(無始古仏)&題目 (注法華経)&本門(一尊四士)を志向せざるをえない」と言う事でしょうか。 シャカ本仏論≒漫荼羅本意論≒皆成仏道論は成り立ちますか。

3029犀角独歩:2006/12/12(火) 11:36:55

問答さん

唱える・唱えないの話ではないでしょう。
ここでもまた、日蓮を事績を唱題のみとして、他を差し置いていませんか。
『十章鈔』には以下のとおりあります。

「止観に十章あり。大意・釈名・体相・摂法・偏円・方便・正観・果報・起教・旨帰なり。前六重依修多羅と申て、大意より方便までの六重は先四巻に限る。これは妙解迹門の心をのべたり。今依妙解以立正行と申は第七の正観十境十乗の観法、本門の心なり。一念三千此よりはじまる。
一念三千と申事は迹門にすらなを許されず。何況爾前に分たえたる事なり。一念三千の出処は略開三之十如実相なれども、義分は本門に限。爾前は迹門の依義判文、迹門は本門の依義判文なり。但真実の依文判義は本門に限べし。
されば円の行まちまちなり。沙をかずえ、大海をみる、なを円の行なり。何況爾前の経をよみ、弥陀等の諸仏の名号を唱をや。但これらは時々の行なるべし。
真実に円の行に順じて常に口ずさみにすべき事は南無妙法蓮華経なり。心に存べき事は一念三千の観法なり。これは智者の行解なり。日本国の在家の者には但一向に南無妙法蓮華経ととなえさすべし。名は必体にいたる徳あり」
ここで一念三千は止観にあり、南無妙法蓮華経を唱えることによって体にいたる徳ありといいます。日蓮は、単に題目だけを唱え得ていたわけではありません。また、信者も本尊に向かって、観法していたわけではありません。この事情は、文永10年の段階でも、さして変わってはいないでしょう。

3030問答迷人:2006/12/12(火) 14:30:14

犀角独歩さん

>「心に存べき事は一念三千の観法なり。これは智者の行解なり。」

日蓮は自分で自分の事をはたして「智者」と言うのだろうか、と思いました。「名字凡夫僧」を標榜された蓮師と「智者」との自称とは馴染まない様に感じます。他の真蹟で類似表現をご存知でしたら、ご教授戴ければ幸いです。

3031犀角独歩:2006/12/13(水) 08:06:07

問答さん、おはようございます。
日蓮における智者の用法は、主に天台智邈を指すようですね。「一閻浮提第一の大智者たる舎利弗」とも言います。対語としては愚者、順位としては、聖人・賢人・福人・智者、さらに智人といったところでしょうか。

さて、自身を指していったかどうか『清澄寺大衆中』に若い頃を述懐されて「日本第一の智者となし給へと申せし事」といい、満願したわけですから智者の自覚ではあったと思います。晩年はさらに聖人の自覚に至ったわけですね。『十章鈔』の用法から見ると智者は在家を簡ぶようで、‘出家’というのが大前提のように思えます。

守護国家論「智者の由を称するは自身を重んじ悪法を扶けんが為なり」「天台智者大師」「権教には学者多く、実教には智者少なし」
顕謗法抄「天台智者大師」「一念三千の法門は天台智者の法門」
南条兵衛七郎殿御書「天台智者大師」
薬王品得意抄「天台智者大師の釈」
法華題目抄「「天台智者大師」「法華経を智者大師」
法門申さるべき様の事「仏天智者の御眼」
十章抄「「心に存ずべき事は一念三千の観法なり、これは智者の行解」「当世に開会を心え(得)たる智者も少なくこそをはせすらめ」「愚者は智者の念仏を申し給ふをみ」
寺泊御書「天台智者大師」
善無畏抄「智者にて御坐せし」「智者大師」
八宗違目抄「「智者 天台なり」
開目抄上「我が天台智者」「陳隋の智者大師」「華厳・真言等の権宗の智者とをぼしき、澄観・嘉祥・慈恩・弘法等の一往権宗の人々」
開目抄下「華厳経乃至諸大乗経・大日経等の諸尊の種子、皆一念三千なり。天台智者大師、一人此の法門を得給えり」「法然智者ならば」「智者に我が義やぶられずば用ひじとなり」「諸経は智者猶仏にならず。此の経は愚人も仏因を種ゆべし」
祈祷抄「智者は麟角よりも希ならん」
木絵二像開眼の事「智者あって法華経を読誦して骨の魂となせば、死人の身は人身、心は法身」「華厳・方等・般若の円をさとれる智者は、死人の骨を生身得忍と成す」「法華を悟れる智者、死骨を供養せば生身即法身なり。是を即身といふ」
如来滅後五五百歳始観心本尊抄「智者の弘法三十年」「真旦の智者大師」「天台智者大師」「比叡山竜象の如くなる智者ども」
法華行者値難事「天台智者大師」
聖密房御書「天台智者大師」
可延定業御書「日輪のごとくなる智者」
曽谷入道殿許御書「法蔵・澄観は華厳宗を置いて智者に帰す」「陳・隋の比、智者大師」
依法不依人御書「天台智者大師」
不如治大悪御書「今の智者万善を勧めしむるよりは一大悪を治するには如かず」
法蓮抄「「智者」
一谷入道女房御書「師のごとくひろ(弘)めなら(習)う人々を智者とはをも(思)へり」
撰時抄「天台智者大師」「智者大師」「天台を讃して云はく『思禅師・智者等の如き』」「天台真言の智者」「日本国のそこばくの智者ども」「智者」
三三蔵祈雨事「日本国の智者」「漢土・日本の智者」
大学三郎殿御書「智者大師」「智者と尊む」
高橋入道殿御返事「国中の智者げなる持戒げなる僧尼」
太田入道殿御返事「智者大師」
減劫御書「智者」
清澄寺大衆中「日本第一の智者となし給へと申せし事」
王舎城事「聖人・賢人・福人・智者」
兄弟抄「第六天の魔王が智者の身に入って善人をたぼらかす」「智者大師」
報恩抄「大恩をほうぜんには必ず仏法をならひきわめ、智者とならで叶ふべきか」「漢土に一人の智人あり。始は智邈、後には智者大師とがう(号)す」「天台已前の百千万の智者」「慧観・慧厳・僧柔・慧次なんど申せし大智者」「智者大師」「智者なんども常の智人はしりがたし」「百余人の智者」「阿弥陀堂加賀法印、東寺第一の智者」「持戒の聖人も、富楼那のごとくなる智者も」「愚者と智者」
種々御振舞御書「天台智者大師」
一代五時鷄図「伝教大師…智者」「智者」
上野殿御返事「智者」
下山御消息「世間に智者」「智者賢王」「一閻浮提第一の大智者たる舎利弗」
富木殿御書「智者」
衆生身心御書「智者」「像法の中の陳・隋の代に智邈と申す小僧あり。後には智者大師とがう(号)す」「漢土日本に智者多しというとも」
千日尼御前御返事「天台智者大師」
大学殿事「智者疾を現じ」「智者」
日眼女釈迦仏供養事「天台智者大師」
滝泉寺申状「一閻浮提第一の智者」
諸経と法華経と難易事「天台智者大師」
大田殿女房御返事「天台智者大師」
上野殿御返事「智者も愚者も」
智妙房御返事「わわく(誑惑)のやつばらの智者げ」
越州嫡男並妻尼事「智者」

3032犀角独歩:2006/12/13(水) 09:13:16

> 「名字凡夫僧」を標榜された蓮師と「智者」との自称とは馴染まない

とのことですが、わたしは名字凡夫が智者ではないという論法は、よくわかりません。先に挙げましたが『報恩抄』に「大恩をほうぜんには必ず仏法をならひきわめ、智者とならで叶ふべきか」とあります。智者でないと報恩は叶わないというわけで、自ら報恩を勧める日蓮が智者でなければ空文となります。日本第一の智者としての自覚が唱題の勧めとなった考えたほうが自然ではないでしょうか。

ついでにもう一点。富士門下において、止観がなぜ軽視されるのか、それは、日蓮没後に捏造されていった相伝文などに原因があると思います。

「天台の漢字の止観を見て、眼目を迷はし心意を驚動し、或は仮字を漢字と成し、或は「止観明静・前代未聞」の見に耽(ふけ)りて本迹一致の思ひを成し、我が内証の寿量品を知らずして止観に同じ、但自見の僻目を本として予が立義を破失し三悪道に堕つべし」

けれど、日興作である証拠のない『遺誡置文』の

「当門流に於ては御抄を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞くべき事」

という如く、当初はもっと緩やかであったと想像されます。
遺文の重視は、日興に見られるところでしょうが、やがて、遺文は止観を凌駕していった爪痕が、上に引用した『本因妙抄』等に散見されます。
しかしながら、止観の重視は、むしろ、日蓮の特徴なのであって、真蹟遺文でざっと数えただけでも100近い使用が見られます。

また日寛の但行唱題といった解釈を日蓮の教えだと思うと、日蓮が止観などの学問を自らもしたにも進めていた実像がかき消されます。しかし、「止観云」とたびたび引用する日蓮が止観を廃していたなどとはとうてい思えません。むしろ事態は逆です。廃されていたものがあるとすれば、それは参禅ではなかったでしょうか。資料名を失念しましたが、日蓮出現前夜の比叡山では、参禅は廃れていたといいます。このような背景は、むしろ、称名念仏が流行る素地となったのかもしれません。次いで称名流行という背景は、唱題を受容する役割となったとも云えるかもしれません。

いずれにしても日蓮遺文は、弟子僧と入道といった学識のある‘智者’との熱心な経釈学習という日常の所作があり、そこから手紙の遣り取りであると見ないと、「日蓮の風景」は見えてきません。

3033問答迷人:2006/12/13(水) 10:22:52

犀角独歩さん

お手数お掛けしました。ありがとうございます。

>いずれにしても日蓮遺文は、弟子僧と入道といった学識のある‘智者’との熱心な経釈学習という日常の所作があり、そこから手紙の遣り取りであると見ないと、「日蓮の風景」は見えてきません。

この点は、全く賛同します。何ら異存ありません。

>止観がなぜ軽視されるのか、

この点に付いては、治病大小権実違目に蓮祖が次の様に述べられている教義に起因すると思います。「一念三千の観法に二あり。一には理、二には事なり。天台・伝教等の御時には理なり。今は事なり。観念すでに勝る故に、大難又色まさる。彼は迹門の一念三千、此は本門の一念三千なり。天地はるかに殊なり」

3034犀角独歩:2006/12/13(水) 20:15:44

問答さん

この一念三千の理事と止観をどのような関係でお考えになっていらっしゃいますか。

3035問答迷人:2006/12/13(水) 21:46:30

本尊抄に「像法の中末に観音・薬王、南岳・天台等と示現し出現して、迹門を以て面と為し本門を以て裏と為して、百界千如、一念三千其の義を尽くせり。但理具を論じて事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊、未だ広く之を行ぜず。」とあります。この文に依って

止観→理の一念三千

南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊→事の一念三千

という関係であると拝しています。

3036犀角独歩:2006/12/13(水) 23:18:36

問答さん

やはり。富士方で教学をすると、そのように考えることになりますね。
本迹は止観ではなく、法華文句に載るところです。
また、引用された『治病大小権実違目』の論理構造は以下のようではないでしょうか。

迹門:理:(方便)百界千如、一念三千其の義を尽くせり
本門:事:南無妙法蓮華経の五字並びに(寿量)本門の本尊

ここで、特に止観を簡ぶ理由は見当たらないと思いますが、如何でしょうか。

3037犀角独歩:2006/12/14(木) 08:46:55

【3036の訂正】

誤)富士方で教学をすると
正)富士方の教学ですると


『四信五品鈔』に「妙法蓮華経五字非経文 非其義 唯一部意耳。初心行者不知其心 而行之自然当意也」とあります。『治病大小権実違目』とあわせて考えると以下の関係になると思います。


┌──┬──┬──┬─┬─┬──────────┬──┬────┬───┐
│像法│天台│迹門│理│義│百界千如、一念三千 │禅 │    │方便品│
├──┼──┼──┼─┼─┼──────────┼──┼────┼───┤
│末法│日蓮│本門│事│意│南無妙法蓮華経の五字│唱題│本門本尊│寿量品│
└──┴──┴──┴─┴─┴──────────┴──┴────┴───┘
(図が乱れるときはhttp://www.geocities.jp/saikakudoppo/msfont.html

3038問答迷人:2006/12/14(木) 10:13:01

「百界千如、一念三千・禅」これは天台によつて「止観」に説かれます。
「南無妙法蓮華経の五字・唱題」これは日蓮によつて「観心本尊抄」に説かれます。

やはり、僕の頭では、どう読んでも、「止観」を簡んでいるとしか思えませんが・・・

3039犀角独歩:2006/12/14(木) 10:27:18

問答さん

『本尊抄』は『摩訶止観』によって書かれています。
その結果、日蓮は唱題行を採りました。けれど、天台は禅でした。
問答さんが仰っているのは、行の部分でしょう。

また、止観と本尊抄を比較することはできないでしょう。
最高位は法華経、ついで止観、そして、日蓮の著述。この順位は崩せません。
ただし、末法適時の行としては、禅ではなく、唱題であるということではないですか。

学として考えたとき、天台当時も、日蓮当時も、出家は止観を学んでいます。
そのことはいまもって、同様でしょう。学ばない僧侶がいれば、それは怠慢なだけでしょう。

こんな基本のことで、同意が得られないことを実に不思議に思います。
行と学、出家と在家、それらがごちゃ混ぜになっていませんか。

3040問答迷人:2006/12/14(木) 11:03:49

犀角独歩さん

>問答さんが仰っているのは、行の部分でしょう。

そうです。「摩訶止観」は「禅」の指南書だと認識しています。この認識が正しければ「行」についての指南書という認識で良いと思いますが・・・。

本尊抄は、「唱題」という「行」についての指南書であると認識していますから、止観と本尊抄を比較することは可能だと考えています。

3041犀角独歩:2006/12/14(木) 17:54:16

問答さん

では、『本尊抄』において、なぜ、『摩訶止観』が引用されているのでしょうか。

3042問答迷人:2006/12/14(木) 18:22:13

犀角独歩さん

>『本尊抄』において、なぜ、『摩訶止観』が引用されているのでしょうか。

本門の事の一念三千を説くために、先ず、迹門の理の一念三千を示されたのだと思います。

3043再挑戦者:2006/12/14(木) 20:52:06
 済みません、、。 何ゆえに「マカシカン」が重要視されるのでしょか、?
 やはり、、流れを無視・不可でしたでしょうか、、? 本佛さまならば「、、ショウムナイことはお見通しでしたでしょう、、」??
 しかるに「日蓮」、、といえど、「、、凡人、、??」、、かも知れません、???、、!!!

3044犀角独歩:2006/12/15(金) 00:10:25

問答さん

何度か申し上げたところと思いますが、最近の問答さんの論調は、挙証が曖昧です。引用されるところも、ご自身の考え … というより、富士方の学び … 文を取り違えていると、わたしには思えます。

話が、横に滑ってきていますが、ともかく、いまの議論は、日蓮は止観を軽視したということになってきています。この点はしかし、事実と違うとわたしは申し上げました。一つ、端的な証拠を挙げます。日蓮の晩年、弘安2年卯月、身延の山中での書です。

「我が身は釈迦仏にあらず、天台大師にてはなけれども、まかるまかる昼夜に法華経をよみ、朝暮に摩訶止観を談ずれば、霊山浄土にも相似たり、天台山にも異ならず」(松野殿女房御返事)

以上のように記されています。これでも、日蓮は止観を軽視していたことになりますか。止観を簡んでいますか。

> 「摩訶止観」は「禅」の指南書だと認識しています。この認識が正しければ「行」についての指南書という認識

章安は当然、そのつもりでまとめたのでしょう。しかし、この行の部分を日蓮は唱題と改案したということでしょう。天台法華宗の人々は止観を学んで禅を行じ、日蓮法華宗は止観を学んで唱題を行じた差です。

> 止観と本尊抄を比較できる

この点の根拠は、たぶん引用された『富木入道殿御返事』(治病大小権実違目)の「一念三千観法に二あり。一理、二事なり。天台・伝教等の御時には理也。今は事也。観念すでに勝る故、大難又色まさる。彼は迹門の一念三千、此は本門一念三千也。天地はるかに殊也こと也」に根拠を求めているのではないかと、想像します。

ここで、問答さんは理・一念三千は天台・止観、事一念三千は日蓮・本尊抄だというわけです。しかし、一念三千観法とはまさに止観なのであって、その相違は、前項に述べたとおり、行法にあります。止観は簡ばれるのではなく、唱題のための釈証となっているのでしょう。日蓮が終生、止観を講じ続けたことは、先に挙げた『松野殿女房御返事』からわかることです。また、先に問答さんが引用された「不見法華経並天台大師所述摩訶止観等明鏡 不知自具十界百界千如一念三千也」の一節からわかるとおり、日蓮は止観を明鏡として重視しています。(‘等’が本尊であるという挙証は畢えておられませんね)

問答さんは、止観か・本尊抄かという二者択一を考えているようですが、これは択一するものではなく止観によって本尊抄があるという関係です。まったく止観は簡ばれていません。

> 本尊抄は、「唱題」という「行」についての指南書

これも事実と相違していませんか。
本尊抄とは、観心本尊と本門本尊を勘えた書であって、唱題の指南書ではありません。その証拠に、この書の中に「唱」「唱題」に類する説明はただの一カ所も出ていません。それとも、これまた、証なきところを言わざるを得ません。

3046問答迷人:2006/12/15(金) 07:07:05

犀角独歩さん

>止観を学んで禅を行じ、日蓮法華宗は止観を学んで唱題

止観には座禅の作法が事細かく述べられていると理解していますが、唱題の作法についても述べられているのでしょうか。そうでなければ、「日蓮法華宗は止観を学んで唱題」というのは、無理が有りませんか。唱題はあくまでも、蓮祖の教えによると思いますが。


>観心本尊と本門本尊を勘えた書であって、唱題の指南書ではありません。

それではお聞きいたします。蓮祖は観心本尊をなんの為に勘えたのでしょうか。また、「妙法五字の受持」「事行の南無妙法蓮華経」とはどのような内容であるとお考えでしょうか。これらはいずれも唱題の為か、或いは唱題を意味していませんか。

3047犀角独歩:2006/12/15(金) 07:39:40

問答さん

> 「日蓮法華宗は止観を学んで唱題」というのは、無理が有りませんか

これは、意味とを取り違えていらっしゃるのでしょう。
日蓮が朝暮に講義する止観等の天台学を学びながら、行としては、唱題にいそしんだと言うことです。

日蓮が「止観を簡んだ」証拠を挙げてください。

> 唱題の為か、或いは唱題を意味していませんか。

では、反対にお聞きしますが、本尊抄のどの文が、唱題を意味しているのでしょうか。拡大解釈、類推的決めつけではなく、明確に該当する文を挙げてください。

むしろ、経・釈・書を挙げて、挙証をすべきは、問答さんのほうではないでしょうか。

3048問答迷人:2006/12/15(金) 08:37:15

犀角独歩さん

>挙証をすべき

平行線だと思いました。もう、何も申し上げる事はありません。

3049犀角独歩:2006/12/16(土) 08:13:56

問答さん

平行線というより、御説に関して、挙証未説と承っておきます。

わたしはいくつか図形化を試みましたが、このような整理をしていて気づくことは、日蓮の教説は実に簡潔で整合性が採れていることです。論理的も美を尽くしています。だからこそ、図形化が容易だという側面があります。

その日蓮の論理的整理を掴んでかかれば、理として詰まらず、挙として挙げざるはなしという実感を懐いています。

3050犀角独歩:2006/12/16(土) 08:48:10

【3049の訂正】

誤)その日蓮の論理的整理を掴んでかかれば、理として詰まらず、挙として挙げざるはなしという実感を懐いています。

正)その日蓮の論理的整理を掴んでかかれば、理として詰まらず、証として挙げざるはなしという実感を懐いています。(もちろん、日蓮の論法という範疇での話ですが)

3051しゅんかん:2006/12/18(月) 21:01:27
問答迷人さんお久しぶりです。
独歩さんとの論議に一段落着かれた様なので書き込ませて頂きます。
2920にて誠にご丁寧なおことば有難うございました。
大変な時間等を費やし折伏と言うものを行っておいて、自分は考えが
変わったから知りませんなんて事は無いだろうなあと、
その様な行為は何か無責任な感じを抱いてしまいますのでお聞きさせて
頂きました。
私は、人間と言うものは何らかの意味付けをしなければ何も出来ない動物
だと考えています。
例えば、店に行って商品を買う時(選択する)何がしかの意味付けをします。
歯を磨くのも、デートをするのも、仏壇の前に座るのも、ダイエットをするのも、
正月を迎えるのも、この様に板に書き込んでいるのもです。
意味付けをしなければ人は動きが取れなくなります。
でなければ自動販売機の前で固まってしまいます(早よ買えっちゅうねん、と
喧嘩になります)これはいけません。
折伏の対象者は事物の判断の出来る人だと思います。
つまり大人ですね。大人(二十歳以上を指していません)とも成りますと
そこそこ人生を経験しておられます。
自分はかくかくしかじかの物だとか、このような時はこうする
ものだとか、私は男だから(女だから)等です(しかしこれらは非常に不安定な
ものです、なぜなら人間は現実を直視出来ない生き物だと考えているからです)
折伏=今までの貴方の考え方(生きて行く術)を変えなさい。
といった所が内在されていると思われます。
先にも少し触れましたが、人間は生きて行くのが非常に不安定です
(これでいいのか?嫌われないないだろうか?躓かないだろうか等々)
不安定なところに新たに折伏されると言う未知の不安定要素が入り込んで
来て七転八倒の末受け入れたら自分に勧めた相手は何の報告も無く、
そそくさと居なくなってしまうのはあんまりだなあと思ってお聞き
したしだいであります。



(ちょっと大きく出ましたねヘヘヘ)

3052天蓋真鏡:2006/12/22(金) 22:45:52
日蓮の弟子の一人・日興は身延の貫首で導師を仰せつかったのでしょうか?漫荼羅の事、堂宇建立の事、ブレが多いのでは無いかと感じます。 《日蓮聖人の花押は前半不動、後半法華(ポロン)だそうです。》  教学大系に纏められていなかった事が、墓輪番制等を崩壊させた一因でしょうか。結果論で見れば「信じさせ給え」の漫荼羅が、成仏得道の基軸であっても可笑しく無いと想います。本尊(仏像)+戒壇(漫荼羅)+題目(法華経典)の三位一体で法華一乗に臨む。

3053犀角独歩:2006/12/23(土) 08:04:09

> 花押は前半不動、後半法華(ポロン)

違うと思います。

3054パンナコッタ:2006/12/23(土) 18:48:16
梵字に関しては、こちらのサイトがたぶん一番とっつきやすいと思います。
 http://www.tctv.ne.jp/tobifudo/bonzisyo/bindex.html

3055犀角独歩:2006/12/23(土) 23:38:08

パンナコッタさん、このサイト、わたしも愛読しています。

3056パンナコッタ:2006/12/24(日) 12:25:23
通常、蓮祖漫茶羅の向かって右が不動・右が愛染(例外もあり)、花押初期がバン
後期がボロン。 天蓋真鏡さん、ぜひ引用したサイトで形状を確認してください。


独歩さん、
梵字・花押に関してブログとの兼ね合いのところもありますが、元亀三年の妙本寺文書
日我授御判之筆法にでてくる「或時ニハキリク阿ミ陀字ヲ為 正ト」あたりをみると、
この時点で蓮祖から伝えられた直の相伝(この手の意味合いについて)は、ほとんど
無くなっているように思えますね。 御義の成立時期にも当たりますし、
むしろ直の相伝など日興のヘナヘナ不動の形状や、独歩さんが今試みられている
空間的な捉え方が弟子達には理解されていないような感じですね。
後代に無理矢理、陰陽道を当てはめるような事をしていますし、
極論ですが、初めから蓮祖の相伝など無かったんじゃないかと思えますね。

3057パンナコッタ:2006/12/24(日) 12:28:26
失礼、
 右が不動、左が愛染 です。(両愛染もあるけど)

3058天蓋真鏡:2006/12/24(日) 18:19:05
①書き出し母字バン字 ②終筆鍵手 ③バン字からポロン字 ④終筆蕨の穂先のような渦巻 ⑤一気筆運び蕨手 【シャクソンから法華経を本尊とする】

3059天蓋真鏡:2006/12/24(日) 19:07:58
パンナコッタさん、梵字サイトのバンとボロンに相当するかと見えます。

3060犀角独歩:2006/12/24(日) 20:50:39

パンナコッタさん、有り難うございます。
日我の相伝文は考慮していませんでした。
キリークですか、なるほど。これは面白い。

ただ、パンナコッタさんがご紹介くださったサイトの用語を使えばキリーク「右横に点々」が、では、花押のどの部分に当たることになるのかという点が読めないのです。
この点はボロンでも同様で一番右の「<」型の点が、では、花押のどこに当たるのだろうかで、頷けないわけです。

弘安元年から変わる花押のデザインは、しかし、その後、5年間、一定であるというより、前期はア字の如く、中期はボロンの如く、晩期には闊達になりすぎて原形を読み取るのが困難という変遷があります。ロールシャッハ・テストではありませんが、いったん、見えてしまった形が、頭にインプットして見ると、どうしても、そのように見えてしまうという視覚錯覚の側面も考慮しなければならなりませんよね。

わたしは当初、タラーク(虚空蔵菩薩)だと思ったのですが、すると、キリークと同様「右横に点々」の説明が付かないので躊躇いが出ました。

一往、ア(不軽菩薩)ではないかと‘仮設’したわけですが、もちろん、断定ではありません。山川師の‘ロールシャッハー’をいったん離れ、自由に、考えてみるという試みです。

山川、田中の亡霊に、21世紀になってまで、振り回されるのはゴメンという気持ちと、興風などというのは、「本弟子六人」と、当の日興が筆記した日蓮の意に反するという思いもあります。これらの権威を、ちょっと、いったん、横に置いて、自由に考えたいという気分があります。

殊に、談所への敬意は、はっきりと彫刻本尊の偽造を論証し、日興正嫡という偏向を停め、日蓮本仏も否定したあとでの話です。あと、坊さんでないのであれば、坊主頭と法号もやめたほうがいいですよね。坊さんならば、四弘誓願をしっかりと唱え、「愚痴の在家にお導きを」と申し上げたい。

まあ、こんなことを記すので、「坊さん」から憎しみを買うわけですが、折伏批判、田中智学批判をやると、途端に目の色が変わる人というのは、富士門下のみならず、田中の信念体系下でも同様で、大同小異、まるで変わらないという印象を懐いたここ半年でした。

もちろん、これはパンナコッタさんに申し上げているわけではありません。失礼しました。
ご教示につき、御礼申し上げます。

3061犀角独歩:2006/12/24(日) 21:26:05

大事な点を書き落としました。

> 初めから蓮祖の相伝など無かったんじゃないか

このご意見、大いに賛同します。
特に石山が歴代と呼んでいる蓮・興目道行時(阿が抜け)影有の本尊を、一つ不動梵字だけ取ってみても、まるで一貫性がありません。
この点は『日蓮と梵字』(6)で書きました。

それにしても、富要に堂々と本尊相伝を載せながら、頒布する印刷本尊は、その相伝と不一致、また、彫刻本尊とも違うわけです。本尊頒布につき、石山も、学会も、顕正会も、正信会も、もっと真面目に考え、責任を取らなければいけませんよね。

3062しゅんかん:2006/12/26(火) 20:01:53
独歩さん叉、お願いできますか。
① 数珠の持ち方ですが、多くの情報物を見てみましたが。
 梵天三つ(左)二つ(右)となっております。
 正宗系に於いては、逆ですね。
 私の記憶が正しければ、約35年以前では正宗系も梵天三つが(左)
 だったと思います。ある日、母から(今日から今までと反対の持ち方に
 しなさい)と言われた記憶があります。
 私の記憶が正しとすれば、この経緯をご存知ですか。
 先月、要山系のお寺へお会式に参加いたしましたが(左)三つと
 見受けられました。
② 独歩さんは本尊の奉安様式において一尊四士(二尊四士)とおっしゃっ
 ておられますよね(曼荼羅のみは良しとしないと)
 私が幾つか足を運んだ仏具店では(一塔両尊)や(曼荼羅に鬼子母神と
 大黒天)と言います。四士像は無いですと言う答えが返ってきます。
 どの仏具店でも(一塔両尊)や(曼荼羅に鬼子母神・・)で祀るのです
 と言われます。(口調としてはこうするものです言った感じです)
 ネット上で真門流のお檀家の仏壇が載っていましたが、四士像を奉安
 していました。独歩さんも四士像を奉安されているのですか?
 叉、(一塔両尊)や(曼荼羅に鬼子母神・・)は関西圏に多く見られる
 物でしょうか?宜しくお願い致します。

3063犀角独歩:2006/12/27(水) 09:39:29

しゅんかんさん

> ① 数珠の持ち方… 梵天三つ(左)二つ(右)

そうですね。ただ、日蓮宗では、読経などでは二つ輪にして左親指にかけます。

> 正宗系に於いては、逆ですね。

これは「学会が」ということでしょうね。

> 約35年以前…ある日、母から(今日から今までと反対の持ち方に
 しなさい)と言われた記憶

この点は、わたしも共有しています。
第一次紛争(所謂・52年度路線)で、学会が宗門から修正を求められた点の一つです。当時、わたしの地域では、それまで学会が逆にかけていた理由を「牧口先生が、御授戒の際に、日亨上人がかけていた数珠を、両手を差し出されてかけてもらった。向かい合っていたので、左右が逆になった…」などと言っていました。公式見解ではなく、口コミでした。

なお、石山系では、左右の大きな珠を親珠(父珠・母珠)といい、四つの小さな珠を四菩薩といいます。また、母珠に付される小さな珠を「心一境法性珠」といい、これは二房側に付いています。

ただし、数珠の形が左右、二房・三房になったのは、近代のことです。
以下、富要に載る図です。(ジャンプしないときは、アドレスバーにコピペしてください。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/_geo_contents_/juzu.gif

> ② 独歩…本尊の奉安様式において一尊四士(二尊四士)

この点は、一般の家庭での話ではなく、四菩薩が出現して立てる仏像奉安のことです。

> (曼荼羅のみは良しとしないと)

是としないというか、日蓮が漫荼羅を拝んでいた形跡がないということです。
真蹟遺文から見る限り、授与した漫荼羅を奉安し、仏像を拝むようなことはさせていた形跡も感じられないということです。
パンナコッタさんもご指摘なさっていましたが、日蓮は一体像を拝んでいたことは明白です。

> 仏具店でも(一塔両尊)や(曼荼羅に鬼子母神・・)で祀る

地域差があることだと思います。関東では、むしろ、漫荼羅で、プラス祖師像というのが一般的だと思います。

> 独歩…四士像を奉安

わたしは楠山泰道師がお手書きなさった曼荼羅二幅を頂戴し、かつ、中村行明師がインドから招来された仏像も頂戴しています。ですから、一方は曼荼羅の前に釈迦座像、もう一方は曼荼羅の前に二体の仏像といった形です。
ただし、これは信仰上の信念に基づいて、ということではなく、頂戴した以上、不敬に扱うことはできず、そのようにお飾りしているということです。

> (一塔両尊)や(曼荼羅に鬼子母神・・)は関西圏

このお話は、関東のわたしには、むしろ、新鮮な響きがあります。
わたしの交友では、自宅に一塔両尊四士を奉安されているのは、中村行明師お一人です。

3064犀角独歩:2006/12/27(水) 10:23:18

三学無縁さん
モーニングさん
藤川一郎さん

昨日は、どうも。
「櫻井よしこを読まずに批判している」という決めつけには驚きました(大笑)

わたしが櫻井氏の感覚を問題にするのは、防衛大学校教授の村井友秀氏を肯定的に捉えた軸から中国問題を論じているからです。
何故か、この教授をもって他国侵逼難をプロパガンダしているもう一人いるからです。言わずとしれた顕正会の浅井さんですよ。
同じ石山系で社会的影響力がある人物が村井氏を軸にして中国を語り、日本の軍備増強を語ることに問題を感じるということですよ。

http://blog.yoshiko-sakurai.jp/2006/05/post_437.html

かつてオウムは中沢氏の論調を大いに利用した。統一協会は島薗氏でした。
今回は村井氏から櫻井氏、それが一方で布教に悪用され、一方では軍需利権に塩を送る形になっています。

愛国心から自国防衛を考えるのは、結構なことですが、政治家連中のいう軍備増強は、結局のところ、軍需産業にまつわる利権が本音にあるのであって、その利得を肯定するために愛国家ぶっている構造がそこにあるわけでしょう。自ら武器を手にとって国を守る話ではなく、武器を持たせて自分を守らせる論法を、わたしは虚しいと言っているのですよ。

それが法華講であれば、では、石山信徒は国を守るために兵士になるのか、自衛省を奨励する公明党を支持する創価学会は、会を挙げて、会員が兵士になることを奨励するのか、それはしないが軍備増強賛成。では、誰に守らせるというわけなのかという疑問が残ります。

軍事増強を煽る論調は、結局のところ、軍需利権者の蜜を吸わせる方便になっている構造がある以上、櫻井氏の論を、わたしは手放しで賞賛するわけにはいかないということです。

3065天蓋真鏡:2006/12/27(水) 13:43:30
横レス失礼します。小学生の昔ですが●胸に合掌し「法」の字を唱える●廻向の題目、ぐらいでしょうか。愚痴に染まれば呪術になりかねないような気がする昨今。創価学会のみならず、鎌倉時代の僧・日蓮を信奉する人々は[信心、学問、修行]を重んじ『一念三千因果倶時唱題』を祈る事を思い考えて人生を歩まなければならないと想起します。其れから、仏像ではビジュアル的に『正念場』が統一出来辛いので漫荼羅正意なのですが【仏像・漫荼羅・経】が「本門」形成に不可欠なら揃えなければと感じます。

3066天蓋真鏡:2006/12/27(水) 14:00:27
連続?書き込み失礼します。軍国主義的システムに日本が成っても、アメリカと(専守)ミサイル防衛構想が実現するかしないかの話で、ロシアの原潜解体や中国等大気汚染をどう解決するか先決な案件が深刻な事態を突きつける現在、看板を「省」にするかしないかはどっちでも良い話。自衛隊の海外派遣が増えるか増えない話でしょう。自分が北朝鮮指導者なら日本の原子力発電所に(核)ミサイルで潰すだけで日本に兵を送るなんて遣りません。

3067しゅんかん:2006/12/27(水) 14:54:42
独歩さん、早速のお返事ありがとうございます。

>これは「学会が」ということでしょうね。

数日前ですが、正宗の僧侶も左二つだったと拝見したように記憶しているのですが。

>このお話は、関東のわたしには、むしろ、新鮮な響きがあります。
 
(一塔両尊)のことですかそれとも(曼荼羅に鬼子母神、大黒天)のことでしょうか、それとも両方でしょうか。
(一塔両尊)とは仏具店に於いては三宝尊のことです。塔中に首題(南無妙法蓮華経)一段下に釈迦、多宝が並座しています
雛壇のような型をしており私が幾つか見かけたものは一体物ですが、ご存知ではありませんでしょうか。
抜け落ちていましたが、奉安様式は(一塔両尊「三宝尊」)にも曼荼羅を掛けるようにも勧められます。
(曼荼羅に鬼子母神、大黒天)様式には(鬼子母神、大黒天)が掛け軸物か像物かを選択するようです。
(曼荼羅、一塔両尊「三宝尊」)も(曼荼羅に鬼子母神、大黒天)にも共通して最前列(下段)祖師像を奉安します。
数店におきましては祖師像のさらに前に八の巻(法華経の事のようです)を置きます。
(正確に八つ有ったかは判りません)私が八の巻の事を驚きますと、お寺などでは置いているでしょと言われました。
確かに身延系で見かけますよね。店員は八品派の檀家を捉えて言っているのでは無いようです。
沢山の選択様式があるようです、一塔両尊には曼荼羅の有無。祖師像の有無。八の巻の有無などです。
独歩さんのお住まいの関東方面では少し違いますでしょうか。

3068しゅんかん:2006/12/27(水) 15:01:15
3067の訂正
誤(一塔両尊)とは仏具店に於いては三宝尊のことです。
正、私が言う(一塔両尊)とは仏具店に於いては三宝尊のことを指されている様です。

3070犀角独歩:2006/12/27(水) 20:22:10

しゅんかんさん

わたしは学会を去ること16年、石山を去ること11年で、昔の記憶が曖昧になっていました。
しゅんかんさんが仰るところが合っていました。石山は、日蓮宗とは逆だったんですね。
写真は、聖教新聞社発行『日蓮正宗』の丑虎勤行のショット。日達氏です。わかりづらいかもしれませんが、二房が左になっています。
手前の鶴丸バッジ(創価学会・財務部員の証)を付けた青年は左が三房ですね。
話題からは逸れますが、この写真、大客殿なのでしょうが、導師の前まで在権信者が入り、小僧さんも後ろになっています。学会登山の盛況ぶりが窺えます。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/siryoshu/juzugyaku.html

いま藤川さんに尋ねたら、この件では顕正会も学会と同様で、批判されていたということでした。わたしはほとんど見ることがないサイトですが、以下を紹介されました。

珠と母珠を逆に指導
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Hanamizuki/1558/page019.html#gyaku

日蓮宗一般では以下のとおりです。

お数珠の持ち方と基礎知識
http://www2.117.ne.jp/~daishoji/q&a2.html


>> このお話は、関東のわたしには、むしろ、新鮮な響きがあります。
> (一塔両尊)のことですかそれとも(曼荼羅に鬼子母神、大黒天)のことでしょうか、それとも両方でしょうか。

両方です。
もっとも、わたしは、仏具店というのはあまり行きませんし、まして、仏像、漫荼羅の類を買ったことはありませんから、知らないだけかもしれません。

> (一塔両尊)とは仏具店に於いては三宝尊

これは、仏壇屋さんの慣習は間違っていますよね。三宝は仏・宝・僧ですから、僧は日蓮大菩薩とした祖師像ではないでしょうか。一塔両尊とは別のはずです。

> 「三宝尊」)にも曼荼羅を掛けるようにも勧められます。

それはそうでしょうね。門下一般、漫荼羅は法本尊ですから、三宝というのであれば、必須となります。
日蓮宗では、購入した漫荼羅掛け軸を寺院に持っていき、裏書きをし開眼とするのだそうです。その段階ではじめて本尊となります。

> 祖師像のさらに前に八の巻(法華経の事のようです)を置きます。

これは一般的です。石山は日有化儀抄で定められてありますが、いまの宝前の経箱は空箱という杜撰さです。

> 関東方面では少し違いますでしょうか

違わないと思いますが、漫荼羅に祖師像というのが、まあ、一般信徒の家での奉安ではないでしょうか。

3071しゅんかん:2006/12/27(水) 21:08:59
独歩さん、重ね重ね誠に懇切丁寧な御文有難うございます。
勉強になりました。

3072犀角独歩:2006/12/28(木) 09:06:35

【3070の訂正】

誤)珠と母珠を逆に指導
正)父珠と母珠を逆に指導

3073しゅんかん:2006/12/28(木) 17:14:40
ご存知のお方宜しくお願い致します。

富士宗学要集 史料類聚別巻 富士宗学要集 10冊 11巻欠
著者名:雪山書房 刊行年:昭14
下記書店のHPで見かけました。
有限会社 東陽堂書店 東京都千代田区神田神保町1-1
http://touyoudou.jimbou.net/

上記の富士宗学要集は堀 日亨師によるものではないのでしょうか?

※情報のお願いを致します。
富士宗学要集(堀日亨師、編纂)ですが1.2.3.6巻が入手出来ません。
聖教新聞社(現在の取り扱い者)に問い合わせましたが、絶版で上記四巻も在庫なしとのことです。
どなたか入手方法をご存知の方お知らせ頂けますでしょうか。(古書でもけっこうです)
宜しくお願い致します。


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