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御遺文関係は此方で

1管理者:2003/11/12(水) 21:46
便宜上、このスレッドを立ち上げました。

2管理者:2003/11/12(水) 21:48
空き缶さんへ。本来は真言宗系に属するものかとは思いますが、独断で、即身成仏のレスの一部を此処に張り付けます。

かつて川蝉さんだと思いますが、某掲示板にて修行僧「蓮長」の卒論的文献として「戒體即身成佛義」を上げておられました。
この「戒體即身成佛義」等は、顕教の戒體より密教の戒體の方が優れているとする結論だと思いますが、この辺からの発想なんでしょうかね?

3川蝉:2003/11/17(月) 10:05
空き缶さんへ。
冨士門流信徒掲示板には投稿しないようにしていますが、一日おきぐらいに閲覧しています。
空き缶さんが「幽霊」という言葉にかんしてコメントされているのを拝見しました。

弘安三年八月の「内房女房御返事」真無に
「幽霊生存之時」とあり、
また、建治元年四月の「法蓮鈔」真蹟にも
「慈父幽霊第十三年忌辰」
と幽霊と云う言葉があります。

4空き缶:2003/11/17(月) 11:35
川蝉さん

御教授ありがとうございます。

私はあちらこちらで、臆面も無く恥をさらしている次第です。

5空き缶:2004/01/03(土) 20:01

 管理人さんへ、「類纂 日蓮聖人遺文集」を拝して、御教授願いたいことなどを、今後こちらのスレッドを活用させて戴きたく存じます。
 何卒、宜しくお願い申上げます。

「類纂 日蓮聖人遺文集」には、多くの御遺文に「泰堂云く・・・」といった奥書がみられますが、これは「類纂 日蓮聖人遺文集」を編集された、泰堂上人によるものでしょうか。

6管理者:2004/01/04(日) 09:48
皆さん、お早う御座います。

空き缶さんへ。

>多くの御遺文に「泰堂云く・・・」といった奥書がみられますが、これは「類纂 日蓮聖人遺文集」を編集された、泰堂上人によるものでしょうか。
大聖人滅後二百余年に「五大部」を元として収録をした物を「録内」と称し、其の余の口伝・秘訣等と称して寺院に収蔵相承した物を「録外」として珍蔵してました。その後、諸師が御遺文を刊行しました。
小川泰堂居士、御書を一読して感ずる処ありて帰仰し祖書を拝読す。然し版本誤謬多く、其の版本の校訂を誰も成し遂げていないことを遺憾とする。時に尾張に日明師の稿本、今尚存在すると聞き、嘉永の春にその地に至り相議し、此の遺稿を書写す。
泰堂居士、真跡を一々に拝し、版本の誤謬を訂正し、全財産を御遺文の校訂につぎ込み、完成したのが「高祖遺文録」三十巻です。
類纂の「泰堂云く」とは、御真筆を拝したときの注記として「高祖遺文録」に一々に書かれて居られるのをそのまま載せて在ります。
以上、簡単ですが質問の一端を書きました。

7れんげ:2004/01/04(日) 16:48
管理人さん、皆さん、こんにちは。でももうすぐ、こんばんわですね。(^^ゞ

私は今日から仕事です。。
いまひと段落ついてコ−ヒ−タイムしています。(^.^)v

管理人さん
某掲示板等へのご遊行、とても嬉しく拝見させていただきました。(*^.^*)
本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。m(__)m 
本日も護法務ご苦労様でございました。m(__)m 合掌

8れんげ:2004/01/04(日) 16:52
あれれ(~_~;) 雑談スレッドに書き込みしたつもりが・・・
管理人さん、ごめんなさい。m(__)m お正月ボケからまだ覚めていませんでした。(-_-;)
どうぞ宜しくお願い申し上げます。m(__)m 合掌

9野菊:2004/01/04(日) 18:47
それでは、スレッドを戻しましょう。
今年はじめて読んだ御遺文は、
「忘持経事御書」
中国の歴史上もの忘れのひどい人は夏の桀王、殷の紂王であることを記され、
ついで仏弟子の中では須梨槃特は自分の名前を忘れるほどであるから、世界一
の忘れん坊で、いまの常忍上人は持経を忘れたのであるから日本第一の忘れん坊
とユーモアいっぱいに書かれ、経は持っていっても心を忘れている者が多くいる
ことを嘆かれています。そして、最後に常忍上人の孝行と日ごろの信仰を褒め、
母子ともども成仏間違いなし!と結ばれていました。

たまたま開いたご遺文でしたが、今年は、この「忘持経事」を忘れずに過ごしたい
と思います。みなさんはどの御遺文を今年のテーマにされますか?すべてでしょうか?

10うらら:2004/01/04(日) 22:28
みなさん御遺文の研究をしてますか?
私も住職さんのとこで研究してます。
立正大学の日蓮教学研究所の研究員です。
今年は最初に読んだのは唱法華題目鈔の205ページです。

11野菊:2004/01/04(日) 22:43
うららさんこんにちわ(^○^)
住職さんが、日蓮教学研究所の研究員さんなのですか?
うららさんが、研究員さんなんですか?
>唱法華題目鈔の205
って?
>>故に堕悪道事無疑。同くは法華経を強て説聞せて毒鼓の縁と可成歟。
>>然れば説法華経可結謗縁時節なる事無諍者をや。又法華経の方便品に
>>五千の上慢あり。 
というところですか?

忘持経事御書で感激したのはですね。
僕は、会社でよく忘れ物をするんですよ。「行ってきまーす」と言って
出てから、2、3度戻るのはしょっちゅうです。東海一の忘れん坊です。
だから、近親感を覚えたのと、やはり大聖人のやさしさですね。
あとは、形だけ持っていても心で持っていないといけないというところ
また、富木上人の母親に対する親孝行のところを見習いたいと思いました。
研究などとは、私は程遠い者ですが昨年、縁有ってたくさん資料をいただ
いたので少しでも読みたいと思っています。でも正月は映画ばかり見てしまった。爆
ラストサムライとか、マトリックスのDVDとか−−(-_-;)反省

12空き缶:2004/01/05(月) 00:16

 管理人さん、皆さん、こん○○わ。ご丁寧にありがとうございます。

 「小川泰堂居士」とありましたが、私は編集の労をとられました「上田泰堂上人」による奥書かと思っていました。
 「小川泰堂居士」とは、「居士」といわれるところから在家の方とおみうけしますが、いかがでしょうか。

 私はこれまで、大石寺系の御書(御遺文)を中心に拝していましたので、読み下しの段階で違いのある「開目抄」と「観心本尊抄」、また大石寺が僧侶用に出版した「昭和新定日蓮大聖人御書」に唯一掲載をみなかった「日朗御譲状」(但し断簡類や註法華経も不掲載)等をまず最初に拝しています。
 
 「類纂 日蓮聖人遺文集」によりますと、「日朗御譲状」は京都本圀寺に御真筆があるとされています。にもかかわらず、大石寺はなにゆえいずれの遺文集にも掲載をみなかったのか不思議でなりません。

 また、「立正安国論(広本)」の奥書にも興味深いものを感じましたが、これ以上は長くなりますので、また後日にします。

13管理者:2004/01/05(月) 11:11
空き缶さん。
>「上田泰堂上人」による奥書かと思っていました。
そーでしたか、紛らわしいですね。(^_^;
昔、昭和48年頃に御遺文を検索出来るようにと、カードに御遺文を書き取りしてまして、昭和53年に泰堂が生まれました、その時、小川泰堂居士御遺文編纂の偉業を思い付けさせて頂きました。名前負けしてます。(^.^;
>在家の方とおみうけしますが、いかがでしょうか。
はい、在家の方です。藤沢にお墓が在ります。お子様は田中智學大先生に嫁がれ、身内は国柱会の会員です、小川冨士子先生は泰堂居士の系統です。野菊さんが詳しいかと・・・
>「日朗御譲状」は京都本圀寺に御真筆があるとされています。
此の書は、「類纂 日蓮聖人遺文集」では付録的に扱ってます、つまり偽書説が在るからです。現に京都本圀寺所蔵ですが、真筆では無く偽書です。
>「立正安国論(広本)」の奥書にも興味深いものを感じましたが、
またお書き下さい。

14野菊:2004/01/05(月) 22:15
小川泰堂居士は、智学先生の父と同じ幕末のお医者様でした。ちなみに
智学先生の二人目の奥様(諸事情ありまして)泰子さまは、小川泰堂居士
のお孫さんです。里見岸雄氏の母にあたると思います。メルマガの大橋
冨士子先生は、前妻周子様のご子息、芳谷先生のお子様です。小川姓を
継がれた御血縁の方もいらっしゃいますが、名前は忘れました。でも、
冨士子さんだったかも?確か、国文学に詳しい方だと思いました。
なんせ、一男四女いらっしゃいますので−−(-_-;)

15空き缶:2004/01/05(月) 22:30

管理人さん、野菊さん、こん○○わ。御返事ありがとうございます。

「日朗御譲状」について、「真筆では無く偽書」との事ですが、興風談所の御書システムでも偽書の部類に入っていましたが、どのような理由で偽書といわれているのでしょうか?筆跡でしょうか?よろしければ御教授下さい。

京都要法寺に伝わった、日目門流の相伝書「具騰本種正法実義本迹勝劣正伝」(百六箇抄)には、「先陣者毎度日興、後陣日朗、其外臆病者、大難悪風吹散彼此たゝすみ、大将の日蓮をも見失けり。日興日朗なくは、某大陣あやうくや見けん。日興先かくれは無辺行菩薩歟、日朗後ひかうれは安立行菩薩歟、日蓮大将なれは上行菩薩歟、日目毎度幡さしなれは浄行菩薩歟。」(大石寺堀日亨師は富士宗学要集にて後加としている個所)というくだりが有り、また日興師には二箇相承(これも偽諸説有り)があることなどから、日興師・日朗師には特別な相伝があったのではないかと思わせる記述があります。そのような意味から、日朗御譲状や二箇相承の偽書説の根拠に強く関心をもっています。どうぞ宜しくお願いします。

16空き缶:2004/01/05(月) 22:32

 スミマセン訂正です。

 (これも偽諸説有り)→(これも偽書説有り)

17直人:2004/01/05(月) 23:28
>>15
空き缶さん、横から失礼します。

「百六箇抄」附文について

まず、この附文は弘安三年庚辰正月十一日の成立と記されていますが、その
附文には「経巻相承直授日蓮」(宗全2−P28)とあって、経巻相承は顕本法華
宗の日什師の立義であり、それは宗祖滅後100年代を待たねばならないことか
ら、「弘安三年庚辰正月十一日」の成立とすることは到底できません。
次に、「六人の遺弟を定むることは表事(中略)直授結要付属は唯授一人」(宗
全2−P27)等として日興正嫡思想が見られるが、二箇相承は宗祖滅後120年代
以降、重須によって偽作された文書であり、先に述べた如く後加文には宗祖滅後
100年代のことが記されていることから、「弘安三年庚辰正月十一日」に記された
と伝えられる文は宗祖滅後120年代以降の偽筆と見るのが正しいのであって、堀
師が後加文としたことは当然です。
詳細はかつて会員制掲示板に投稿したのでここでは記しませんが、「弘安三年庚
辰正月十一日」に記されたと伝えられる文の内容は日教師の思想が所々に見られ
ることから、「弘安三年庚辰正月十一日」の附文の成立時期は恐らく宗祖滅後200
年代でしあろうけれども、宗祖滅後120年代以降に附文が記され、両巻抄を相伝し
た日教師が自著の中にそれを略記したものかもしれない。とすれば、附文の成立
時期は宗祖滅後120年代から宗祖滅後190年代の間であろう。

18空き缶:2004/01/06(火) 00:04

直人さん、お久しぶりです。本年も宜しくお願いします。また、新HPの開設おめでとうございます。

 以前にも、二箇相承は宗祖滅後120年代以降に偽作されたものとおっしゃられていましたが、その根拠となるものを御教授いただければ幸です。
 佐渡世尊寺には、日頂上人の「本尊抄得意抄副書」が現存するといわれていますが、この書には日頂上人が「一期弘法抄」を拝した旨が記されています。
 この「本尊抄得意抄副書」も日宗全1巻によりますと、疑義有りと見受けられますが。先ほど引用しました百六箇抄後加文部分と同様に「日興は無辺行の再来として・・・」というくだりがあり、「末法本門の教主日蓮」や「具騰本種」等百六箇抄と同様の記述がみられます。
 何故か大石寺系の日蓮本仏論で使用される用語が目立つと思うのは、私だけでしょうか。

19直人:2004/01/06(火) 00:50
空き缶さん、こんばんは。こちらこそよろしくお願いします。

○宗祖滅後120年代成立説の論拠

日時師の『大石記』には日妙師以降の重須には血脈がないことや
日代十二通の譲状(八通の誤りか)のことが記されています。こう
した背景で重須が日順師の血脈思想(興師正嫡思想)を土台とし、
重須流血脈思想の確立手段、また西山(日代置状)への対抗手段
として、重須がこの頃(日時師の時代)に偽作したものであろうと推
考する次第です。そして、それが、宗祖滅後187年に日廣師によって
書写され、以後、日教師・日辰師らに書写されていったものではない
かと考えています。

追記
『大石記』の成立は1417年ですから、厳密には宗祖滅後130年代ですね。

○「本尊抄得意抄副書」について

これは宗祖滅後27年の著述と伝えられていますが、日興上人も日
道師も久遠実成釈尊を本門教主としていましたから、宗祖本仏思想
が見られる「本尊抄得意抄副書」は後代の成立ということになります。
つまり、「本尊抄得意抄副書」がまず成立して「百六箇抄」附文が成
立したのではなく、「百六箇抄」附文の影響を受けて「本尊抄得意抄
副書」が偽作されたと考える方が妥当なわけです。そうすると、「百六
箇抄」附文の成立時期は宗祖滅後宗祖滅後130年代から190年代ま
での間であり、この頃には宗祖本仏思想が成立していたので「本尊抄
得意抄副書」に「末法本門の教主日蓮」として宗祖本仏思想が見られ
てもむしろ当然と言えるわけです。

20直人:2004/01/06(火) 00:53
[訂正]
>宗祖滅後宗祖滅後130年代から190年代

〔正〕宗祖滅後130年代から190年代

PS.日興上人・日道師の本仏思想
http://www.sincere.ne.jp/~naohito/k001.html

21管理者:2004/01/06(火) 09:21
直人さん、有り難う御座います。

HPの「大石寺流宗祖本仏論について」の
>彼らはまず宗祖遺文を精読せねばならない。
同感です。御遺文を中心として研鑽をしたならば末書の説に惑わされずに済みます。

22川蝉:2004/01/06(火) 11:27
朗師御譲状について、

古来
「朗師を六哲の最としても、文体が祖師の筆致でない。かつ後世に論議された本迹問題が、この書において解決せられているのは訝しい、本圀寺門流の偽作であろう」
と云う見解があるそうです。

「日蓮聖人御遺文全集講義第二十六巻」において、北尾日大師が、本文に
「末法相応一閻浮提第一立像釈迦仏一体」と有るについて、釈迦仏一体像を「末法相応一閻浮提第一」と形容することに不審がある。
また、末尾の
「寿量品に云く、我本立誓願、乃至、皆令入仏道。毎自作是念、乃至、速成就仏身。」と有るについて
「我本立誓願、乃至、皆令入仏道。」は寿量品の文でなく方便品の比丘偈二十六行目「 我本立誓願 欲令一切衆 如我等無異 如我昔所願 今者已満足 化一切衆生 皆令入仏道 」
の省略であって、もし真蹟で有るとすれば、日蓮聖人の失念と云うことになろう。と指摘しています。

23空き缶:2004/01/06(火) 15:39

皆さんこんにちは、川蝉さん本年も色々と御教授ください。

 日朗御譲状について、色々とありがとうございます。
 「我本立誓願、乃至、皆令入仏道。」について、方便品の御文を引用されながら失念されているところなどは、二箇相承の一つ「池上相承書」の「身延」が「身遠」になっているところと併せて、終末期のために起きた失念とする方もいました。
 興風談所の御書システムでは、「末法相応一閻浮提第一立像釈迦仏一体」について、西山本門寺蔵の宗祖御遷化と池上本門寺蔵の御遺物配分事の内容と筆跡を比べ、後者に疑義有りとしながら、この御遺物配分事の内容とリンクする日朗御譲状(冒頭部分)に疑義を呈しています。

 日朗御譲状が「日蓮聖人真蹟集成」に掲載をみなかったのは、京都本圀寺蔵の伝真筆が偽書であるということがほぼ定説となっている為でしょうか。

24空き缶:2004/01/07(水) 10:13

皆さんおはようございます。早速ですが、昨日のカキコの訂正です。(スミマセン!!)

興風談所の御書システムでは→興風談所の御書システムや日興上人全集では

宗祖御遷化→宗祖御遷化記録

25うらら:2004/01/09(金) 19:48
川蝉さんへ!お晩でございます。

>「日蓮聖人は、誓願はされたけれど、祈願はされなかった。」

川蝉さんは、なぜそんなこと言われたのですか?

「日蓮聖人も教化の一助として、時に応じ祈祷を行っておられます。たとえば、伊豆流罪の折に地頭伊東八郎左衛門の病悩を祈祷したり、母のために病気平癒の祈祷をしたりしておられます。」
って、でんでん和尚さんは言っておられましたけど・・・

26川蝉:2004/01/09(金) 20:43
うららさん今晩は。

「>「日蓮聖人は、誓願はされたけれど、祈願はされなかった。」
川蝉さんは、なぜそんなこと言われたのですか?」

尼僧喫茶の管理人さんのお師匠さんが
「日蓮聖人は、誓願はされたけれど、祈願はされなかった。」
と云われているというコメントでしたね。

私は桃青さんの師匠でありませんので、私が言っている事ではありません。
うららさんは、私が桃青さんの師匠であると勘違いされたようですね。

私も
「日蓮聖人も教化の一助として、時に応じ祈祷を行っておられます。たとえば、伊豆流罪の折に地頭伊東八郎左衛門の病悩を祈祷したり、母のために病気平癒の祈祷をしたりしておられます。」
と云う見方をしています。

27ご本人の希望により削除しました:ご本人の希望により削除しました
ご本人の希望により削除しました

28ご本人の希望により削除しました:ご本人の希望により削除しました
ご本人の希望により削除しました

29慎之輔(野菊):2004/01/10(土) 09:33
管理人さんへ上記27、28削除してください。下記の内容に訂正いたします。

>某掲示板にて桃青さんが川蝉さんが師匠ですと言われたのはWEB上で
>いつも助言を頂いているよ。という話で、彼女の実際の師匠筋はスライドショー
>にも登場されている○○寺の上人様のことだと思います。

>祈願は他力本願的なイメージですが、誓願というのは自力、自分の責任で何
>とかしようという意思を表現しようとされたのではないでしょうか?

30うらら:2004/01/11(日) 18:32
川蝉さん慎之輔さんごめんなさい(^^;)
私、勘違いしていましたようでした。

>私は桃青さんの師匠でありませんので、私が言っている事ではありません。

あーー良かった!・・ホッ・・・

31空き缶:2004/01/15(木) 16:26

 皆さん、こん○○わ。お久しぶりです。
 チョッと教えてください。

1、日蓮聖人は他門からはなんと呼ばれているのでしょうか。
  たとえば、「法然上人」は「法然房源空」、「極楽寺良観」は「良観房忍性」等とよばれますが、日蓮聖人は「是聖房日蓮」でいいのでしょうか?

2、真筆遺文「三部経肝心要文」とは断簡のことでしょうか?手持ちの御書・御遺文を検索しましたがみつかりません。別名があれば教えてください。また断簡であれば番号を教えてください。

32慎之輔(野菊):2004/01/15(木) 18:06
空き缶さんこんばんわ!「三部経肝心要文」って、何が書いてあるのですか?
探したけど、私もわかりませんでした。

33空き缶:2004/01/15(木) 18:34

慎之輔(野菊)さん、こんばんわ。

→「三部経肝心要文」って、何が書いてあるのですか?

内容は私もわかりませんが、正信会(恐らく興風談所)の山上師の説によりますと、宗祖が「天台沙門 日蓮」と名乗られている唯一の直筆遺文といわれています。
立正安国論日興写本(玉沢本)も主題の下に「天台沙門日蓮勘之」と書かれているそうで、佐渡已前の日蓮聖人の御立場を拝する上で参考にさせていただいています。

34慎之輔(野菊):2004/01/15(木) 18:53
参考までに
『法華題目鈔』では「根本大師門人日蓮」(定三九一頁)
根本大師とは比叡山を開創した日本天台宗の祖伝教大師最澄である。
その最澄の直弟と表明されたことは、当時の天台教学に対する批判が
あったからにほかならない。(日蓮宗事典より)
立正安国論以外では、「天台沙門日蓮」は探せませんでした。

35管理者:2004/01/16(金) 09:09
空き缶さんへ。
>日蓮聖人は他門からはなんと呼ばれているのでしょうか。
私の聴く範囲では「日蓮聖人」と他宗門の方々は話されます。

>真筆遺文「三部経肝心要文」とは断簡のことでしょうか?
此は要文と在りますように、法華三部経の経文を抜き書きした物です。が、今大聖人門下の目録を調べましたら、在りません。但し富士門流の事は分かりません。
御書の中には、○○要文等のご遺文が多々在ります。「三部経肝心要文」も在っても可笑しくはありません、何故なら「天台要文」「○○経要文」等が残されているからです。

36川蝉:2004/01/16(金) 09:44
空き缶さんへ。

「三部経肝心要文」の事、私も知りません。
日蓮聖人は、経・論の抜き書き(要文集)をされていたようですから、真言三部経の抜き書きかも知れませんね。
日蓮聖人の述作でないので、もし真蹟であっても、御遺文集に収録されてないのでしょうね。


文永八年七月の「行敏御返事」に、
行敏初度の難状の文面が記されています。それを見ると
行敏は宛書きを「日蓮聖人阿闍梨御房」としていますので、当時の人は正式には「日蓮聖人阿闍梨御房」と呼んでいたようですね。

また宗学全集の第二巻に、興門の日大上人と天台の大学匠の直兼大和尚との問答記「日大直兼台当問答記」(1363年・祖滅81年)が収録されています。
直兼は、敬称を付けずに「日蓮」と呼んでいる事がわかります。


他宗は批判されるので、内々では敬称を付けないで「日蓮」と呼んでいたのでしょうね。

37川蝉:2004/01/16(金) 13:28
変換間違いをしました。

文中に「日蓮聖人阿闍梨御房」とあるのは、正しくは
「日蓮阿闍梨御房」です。
訂正してお読み願います。

38空き缶:2004/01/16(金) 23:02

川蝉さん、管理人さん、慎之輔(野菊)さん、皆さんこん○○わ。

 様々な御教授ありがとうございます。三部経・・の件は、私が数年前の夏に「日蓮聖人の世界展」(正信会共催)に参加した時に購入した、「図録日蓮聖人の世界」P88に出ているコラムを読んでの疑問でした。

 「日蓮阿闍梨御房」との事、ありがとうございます。「蓮長」から「日蓮」と改めた時点で「是聖房」という名乗りもされなくなったということですね。

39愚鈍凡夫:2004/01/18(日) 13:56
横レス失礼します。皆さんこんにちは。

手元に資料があるわけではないのですが、確か、「蓮長別人説」というのがあったと思います。
というのは六老僧の一人、日興師の弟子の中に「甲斐公蓮長」という人がいたそうです。
この名からみて、はたして日興師が諱といえど、尊敬する師匠の名を弟子に使うだろうかとの疑問が湧いてきます。
このことから逆に考えて、「蓮長」というのは別人ではないかとする説です。

40慎之輔(野菊):2004/01/19(月) 09:40
おはようございます。
蓮長別人説→高木豊「日興とその門弟」『研究年報日蓮とその教団』第四集
の出典だと要傳寺のHPにありました。
http://www.asahi-net.or.jp/~ia8d-tkmr/index.html

でも、私の母は日舞をやっていますが田舎にいくと
家元に近いようなすごい名前を名乗っている舞踊家もいますから
意外と知らずに同じ名を名乗っていったような気がしますけど?
特にその方がスポンサーであったりすると−−。(-_-;)

41空き缶:2004/01/20(火) 00:46

愚鈍凡夫さん、お久しぶりです。
「蓮長」を興風談所の御書システムにて検索してみると、「戒体即身成仏義」「戒法門」「産湯相承事」の三つが該当しました。日蓮聖人の御真筆には「蓮長」は出てきませんね。
「戒体即身成仏義」と「戒法門」(ほぼ偽書と断定されている)は著者名として出ているにすぎず、本文中に出てくるのは、かの疑わしき富士方の相伝書である「産湯相承事」のみです。

 また、門下最古の史伝書といわれる、大石寺第四祖日道師による「三師御伝土代」にも「蓮長」の名は出てきません。
 いわれてみれば、不思議なことですね。

42川蝉:2004/01/20(火) 10:05
日祐目録に「戒体即身成仏義」の名があります。

日祐上人は(祖滅16年後の生まれ)中山法華経寺第三世貫首で、 身延山三世貫首日進との深い親交があった人です。

「日蓮聖人御遺文辞典歴史編」の「戒躰即身成仏義」の項には、特別に真偽論を述べていません。

「蓮長 」と云う名は身延11世の日朝上人著述の「元祖化導記」
に初めて出てくるそうですが、「戒躰即身成仏義」に「蓮長」とあることを根拠にしたかも知れませんね。

ただし「録内本」には「安房国清澄山住人日蓮撰」とあるそうです。
開宗前の作であることは間違いないとのことですから、「録内本」の「日蓮撰」とあるのは間違いという事になりますね。

43川蝉:2004/01/20(火) 11:16
追補です。

「元祖化導記」には

《 五、得名のこと
 或る記に云く、童体をば薬王丸と号すなり。御出家の初めの仮り名は是生なり。実名は蓮長なり。後これを改め日蓮と号し奉るなり。委しくは別紙にあり。 》

とありました。
「或る記」とは何か正確には分からないそうですが、原本・写本とも現存しないのですが、身延二世の日向上人の日蓮聖人の一代記『高祖一期行状日記』があったと伝えられています。その『高祖一期行状日記』を「或る記」と指しているのであろうと云う見解もあるそうです。
とすると「元祖化導記」は「戒躰即身成仏義」の「蓮長」に依るので無く、「或る記」すなわち『高祖一期行状日記』によったかも知れません。

44空き缶:2004/01/20(火) 12:18

 川蝉さん、こんにちわ。いつも色々と教えていただきありがとうございます。

「始めは是生実名は蓮長と申し奉る後には日蓮と御名乗り有る御事」これが「産湯相承事」上の文です。

行学院日朝上人の「元祖化導記」は、ここ ↓ にデジタル化されたものがありましたので、ご紹介します。

         http://www.ginpa.com/karagura/ronbun.html

現在、時間をみつけては「国立国会図書館」のHPより「高祖遺文録」(全30巻)をダウンロードしています。
この「高祖遺文録」は手書きによる編纂と見受けられますが、いかがなものでしょうか。
↓ここから「高祖遺文録」と入力して検索すると出てきます。

http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BISmplSrchWindow.cgi

その他「伝教大師全集」や「妙宗先哲本尊鑑」等なかなかよい資料が閲覧・ダウンロードできます。

但し画像としてのダウンロードになりますので、チョッと大変です。

45愚鈍凡夫:2004/01/20(火) 12:55
皆さんこんにちは。

慎之輔(野菊)さん、空き缶さん、川蝉さん、レス有り難うございました。お手数を掛けてしまったようですね。 m(_ _;)m ゴメン!!

>>43:川蝉さんのレスにある、

> 「元祖化導記」には
>
> 《 五、得名のこと
> 或る記に云く、童体をば薬王丸と号すなり。御出家の初めの仮り名は是生なり。実名は蓮長なり。後これを改め日蓮と号し奉るなり。委しくは別紙にあり。 》
>
> とありました。
> 「或る記」とは何か正確には分からないそうですが、原本・写本とも現存しないのですが、身延二世の日向上人の日蓮聖人の一代記『高祖一期行状日記』があったと伝えられています。その『高祖一期行状日記』を「或る記」と指しているのであろうと云う見解もあるそうです。

の「或る記(高祖一期行状日記)」と、「産湯相承事」とが何か関連性がありそうで面白いですね。
「産湯相承事」の冒頭に、

「御名乗りの事、始めは是生、実名は蓮長と申し奉る。後には日蓮と御名乗り有る御事は、悲母梅菊女〈童女の御名なり〉平の畠山殿の一類にて御座す云云。」(産湯相承事)

とありますから。
しかし、「高祖一期行状日記」と「産湯相承事」、どちらが引用したのでしょうか。

もう一つ、
「録内本」に「安房国清澄山住人日蓮撰」とあるのに、昭和定本では「安房国清澄山住人蓮長撰」としたのでしょうか。

46愚鈍凡夫:2004/01/20(火) 13:00

あっ・・・・・、空き缶さんに先を越されてしまった。 (^▽^;)

47管理者:2004/01/20(火) 13:30
空き缶さん。
貴重なサイトを有り難う御座います。
此を観るためにインストールしたのですが今一(^.^;不明・・・手順を教えて下さい。

48管理者:2004/01/20(火) 13:32
追伸、
観られました。(^.^;

49川蝉:2004/01/20(火) 14:25
愚鈍凡夫さん今日は。

化導記の「御出家の初めの仮り名は是生なり。実名は蓮長なり。後これを改め日蓮と号し奉るなり。」
の部分は、たしかし「産湯相承事」の初行の部分と似ていますね。
しかし、「産湯相承事」には、「童体(幼名)薬王丸」がないですね。

化導記は「ある記」にある父親名を挙げていますが、「産湯相承事」の父親名と違いますね。

どちらが参考にしたのか、あるいはしなかったのか私にはちょっとわかりません。

化導記の「ある記」は、すべて同一資料かどうか分かりませんが、もし同一資料だとすると、日蓮聖人の御生涯全般にわたって相当くわしく記してあった文献のようですね。
とすると「ある記」は「産湯相承事」でないと云う事になるのでしょうか。

録内本の「日蓮」を「蓮長」としたのは小川泰堂居士編纂の遺文録からのようです。

50愚鈍凡夫:2004/01/20(火) 19:54
川蝉さん、いつもながらのご丁寧な御教示、有り難うございます。 m(_ _)m

今調べてみたのですが、大石寺版昭和新定の「戒体即身成仏義」も「安房国清澄住人蓮長撰」となっています。「昭和定本」とネタ元が同じということでしょうね。

51空き缶:2004/01/20(火) 23:27
皆さん、こん○○わ。

 管理人さん、閲覧できてよかったです。ダウンロードするには「gif画像」として表示しなければいけません。
 私は、1日1巻のペースでダウンロードしていこうかと思っています。
身延山の本尊論資料など、個人的に興味のある資料が結構あり、時間を見つけてはダウンロードしようかと思っています。

 立正安国論広本の小川泰堂居士奥書について、富士方の見解と正反対であったため、いずれ書込みしようと思っていましたが、だいぶ間があいてしまいました。

 立正安国論略本の真蹟は、中山法華経寺所蔵の八木氏が日蓮聖人に願って書写して戴いた日蓮聖人による転写本が有名であり、広本の真蹟は京都本圀寺所蔵です。
 広本は主題の下に「沙門日蓮勘」と書かれています。中山本は、幕府に提出したものと内容的には同じ「略本」ですが、門下に与えた転写本であるためか主題の下は空白になっています。
 そこで、幕府に提出した「立正安国論」はどのような御名乗りであったかを知る手がかりとして、玉沢妙法華寺所蔵の六老僧の一人日興師の写本が上げられます。この玉沢本(日興写本)は主題の下に「天台沙門日蓮勘之」と入っており、日蓮聖人が幕府に立正安国論を提出されたときには「天台沙門」と名乗られていたことを、うかがい知ることが出来ます。
 参考までに大石寺にも、立正安国論日興写本が伝わっていますが、こちらは「天台沙門日蓮勘之」とは入っていません。しかし、興風談所の日興上人全集によれば当本は「第一紙は遺筆」となっており、「天台沙門」という名乗りに敏感な富士方としては、この御名乗りの入った第一紙を改ざんした可能性を否定できません。
 富士方では、広本は身延期以降に元本(略本)に文言を添えられた、「建治の広本」に代表されるように、あとから執筆されたものとしています。この説の根拠は、日興監修重須初代大学頭日澄執筆と伝えられる、「富士一跡門徒存知事」によります。(本文参考→http://nakanihon.net/nb/yousyuu/yousyuu1_6.htm
 この「富士一跡門徒存知事」には、「五一の相対」が書かれており、重須第2代大学頭日順の著書と伝わる「五人所破事」(http://nakanihon.net/nb/yousyuu/yousyuu2_1.htm)とも通じるものがあります。つまり六老僧の内、日興以外の五人は「天台沙門」と名乗って幕府に申状を出しているから「謗法」の輩だとしているのです。
 このような問題を研鑚する上で、日蓮聖人ご自身の御名乗りを時系列にて整理したいと思いました。そこで「三部経肝心要文」のことが出てきたわけです。
大変長くなってしまいましたので、この辺で失礼します。

52愚鈍凡夫:2004/01/21(水) 04:52
皆さん、お早うございます。

「立正安国論」について。

幕府上呈本(原本)は伝わっていないのですが、蓮祖は「立正安国論」を複数書写しています。
現在、曾存を含めて蓮祖の筆による写本3本が確認されているそうです。

①身延久遠寺曾存
 全20紙。文応元(1260)年7月16日と記されていたと伝えられている。明治8(1875)年の大火によって焼失。
②中山法華経寺所蔵(国宝)
 全36紙(第24紙欠)。文永6(1269)年12月8日の記年がある。
③京都府本圀寺所蔵
 全24紙。無記年(推定、建治弘安の交)。

また、真蹟断片14紙が10箇所に散在し、現存する2本以外にも書写された「立正安国論」が存在すると考えられています。日興写本によれば、中山法華経寺所蔵本には題号の下に「天台沙門日蓮勘之」との記述があったとされ、本圀寺本には「沙門日蓮勘」の記述が残っているそうです。

蓮祖は12年間、比叡山で修行されていたわけですから、「天台沙門日蓮」との名乗りが不自然とは思えません。
「立正安国論」を幕府に上呈する際、僧籍を持たない私度僧として上呈したのでは門前払いを喰うだけでしょう。天台宗の僧として修行していたことは事実なわけですから「天台沙門日蓮」と名乗って上呈するのは当然だと思います。むしろ、名乗りの変遷に注目すべきではないでしょうか。
「立正安国論」以降の名乗りの変遷として、「法華宗内証仏法血脈」(写本)では「法華宗比丘日蓮」と記され、「観心本尊抄」(真蹟)では「本朝沙門日蓮」と記されています。また、「撰時抄」(真蹟)では「釈子日蓮」とされています。
石山教学圏では五一相対の立場から「天台沙門日蓮」との名乗りを認めませんが、名乗っていた時期があったと考えるほうが自然だし、また、そのことが何ら蓮祖の功績に傷を付けるものでもないと思います。

53管理者:2004/01/21(水) 09:30
皆さん、お早う御座います。

私は富士門流のことも分かりませんが、愚鈍凡夫さんの
>名乗っていた時期があったと考えるほうが自然だし、また、そのことが何ら蓮祖の功績に傷を付けるものでもないと思います。
と、同感です。
>むしろ、名乗りの変遷に注目すべきではないでしょうか。
ですね。逆に、富士門流でも「天台沙門日蓮」を認めている流派が在るのでしょうか。

54空き缶:2004/01/21(水) 11:35
管理人さん、愚鈍凡夫さん、皆さんこんにちは。昨日の愚考の続きです。

「天台法華宗の沙門日向・日頂謹んで言上す。」とは、五人所破事に出てくる一文ですが、日蓮宗宗学全書第1巻(P40〜)によれば、当申状は「天台法華宗沙門日頂謹言上」となっており、富士方の論師がいわれる表記と異なっています。
 富士方では、日順師の五人所破事以外に門下最古の史伝書と言われる、大石寺第四祖日道師の「三師御伝土代」があり、「三師御伝土代」では「日頂日向一紙の申状に云く、天台の沙門日向日頂等謹て言す」と出てきます。
 ところが、日蓮宗宗学全書第1巻(P36〜)には日向上人の申状は別になっており、「日蓮聖人遺弟日向申」(紙上では『日聖聖人』となっている)です。
 富士方の思想は日澄師・日順師の著書と伝えられるもので、身延本山側との相違が顕著になったと思われます。
 ちなみに日興上人の真蹟では「白蓮弟子分に与へ申す御筆御本尊目録の事」(北山本門寺所蔵)に「古聖人の御弟子六人の中に五人は一同に聖人の御姓名を改め天台の弟子と号して・・・」(富士宗学要集第8巻P6)があり、先の二書(富士一跡門徒存知事と五人所破事)と少なからず関連があると思われます。但し「白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事」と「富士一跡門徒存知事」「五人所破事」は矛盾点も多いのが事実です。

 恐らく、立正安国論広本の成立時期についての見解の相違も、元をたどれば日澄師・日順師の著書と伝えられるもの(富士一跡門徒存知事と五人所破事の事、両書とも正本不伝)の成立時期までさかのぼれるのではないかと思います。

 しかし富士方の元祖は、なんといっても日興上人であり、その日興上人による立正安国論の写本に「天台沙門日蓮勘之」と入っている以上、日蓮聖人が幕府に立正安国論を提出されたときに「天台沙門」と名乗られていたことを、いの一番に主張してもおかしくありません。
 むしろ御名乗りの変化は、日蓮聖人の「折伏観の変化」と併せて考えてみると、富士方の人にも理解ができるのではないかと思います。天台沙門として提出された立正安国論では、摩訶止観の折伏観(涅槃経の折伏観)が思想的背景となっており、佐渡期以降の日蓮聖人オリジナルな折伏観は「開目抄」にて示される、「折伏=不軽品」という修行法です。

 話はだいぶ脱線しましたが、元来の富士方の主張はさておいて、この御名乗りの変化と併せて「立正安国論広本」の成立時期を愚考しますと、「天台沙門日蓮勘之」ではなく「沙門日蓮勘」とされているところなど、「天台沙門」としての御名乗りをされなくなった後の成立ではないかと思ったりします。
 それとも、やはり私の思考回路が富士方なんでしょうか?

55管理者:2004/02/02(月) 12:16
>「不動・愛染感見記」は、文字は宗祖直筆であるが、中尾教授が「愛染明王図の方は、仏像彫刻専門家が描いたものと思う」と感想を述べて居られた。

参考文献として

「日蓮宗的学説攷究」未定稿 大川善男
 【不動・愛染感見記】

 『真蹟集成』によると、この遺文は次の如く、 (図絵・略)
と二紙から成っている。
 しかるに、『定本遺文』(第一巻十六頁)外部欄外には、愛染明王拝見記を「七行」、不動明王拝見記を「八行」と注記している。だが、右の通り(図絵)原本は愛染は十行、不動は十一行に記されている。また『定本遺文』は「日虫虫」を「日蝕」と活字化している。そして『定本遺文』を証本として、「二つの感見記のうち、愛染明王のそれには、日蝕中の太陽のなかに感見した愛染明王の姿の図絵が、不動明王のそれには、満月中に感見した明王の姿の図絵が、それぞれ描かれている。」(高木豊著「二人の日蓮−改稿・『大崎学報』135号1982)と説いている。しかし「虫虫」は「蝕」の異体ではなく、「アキラカ」とか「オオシ」という意味の正しい漢字であって、「日虫虫」とは「日が明るい」という意味であって「昼日中」のことである。従って「日虫虫」を「日蝕」と理解して「日蝕の太陽の中に愛染明王を感見した」と説いた論考は正しくない。
 いわゆる、この感見記の年記は建長六年であるが、この年(1254)日蝕ではない。建長年中に日蝕があったのは、同元年五月十四日(旧暦六月六日)同七年三月一日(旧暦四月八日)の二回である。ならば日蓮が誕生した貞応元年(1222)から建長六年(1254)の間の日蝕を調べると、貞応二年(1223)九月二十六日、延応元年(1239)十二月十九日、寛元元年(1243)三月二十二日、同三年(1245)七月二十五日、建長元年(1249)五月十四日の五回の日蝕(※国立三鷹天文台調べ)があったが、正月一日に日蝕があったことは無く、「日蓮が正月一日の日蝕時に愛染明王を感見した」というのは単なる虚妄に過ぎない。また、「この感見記は日蓮の現存真蹟中最古のものであるが、後年の筆跡からしても、確かに日蓮の真蹟としてもよいものである」(高木豊著「二人の日蓮−改稿・『大崎学報』135号1982)という説もある。だが、若き頃の筆跡を後年の筆跡と比べて真偽を判定するのは正しい方法だろうか。要は、この御書にはいろいろな疑問があっても、これが重要文化財に指定されているために、現在では何ら疑われることなく日蓮の御書として扱われている。しかし、重要文化財に指定されているといえども、重要文化財に指定されたものの中にも実際には偽書はある。故に、重要文化財に指定されているからといっても完全なものばかりではない。
 例えば、重要文化財に指定されていた「永仁の壺」が、現在陶芸家で先頃亡くなった加藤唐九郎氏の作品であった如くものもある。いわゆる、指定品の中にはそうしたものが実際にあり、それは文化財が完全に科学的検査を経て真物と解って指定されたものばかりではなく、真偽委員の眼力のみで真物と判定・答申された指定品もある。そういう指定品の中に偽物があり、文化財に指定された日蓮聖人の御書は、凡そ一部の権威による眼力で真蹟と判定されたもので、科学的に鑑定されたものは一点も無い。
 従って、いくら重要文化財に指定されていると雖も、該『不動・愛染感見記』も完全に日蓮聖人の真蹟と断定できるものでなく、偽書の疑いが全く無いわけではない。

以上です。

56川蝉:2004/02/02(月) 16:34
「不動・愛染感見記」について。
開宗後に、大日如来よりの相承云々とあるのは、どうも腑に落ちませんね。
講習時の配付資料を見ると、たしかに「日虫虫」のようです。
「虫虫」は「蝕」の異体ではなく、「アキラカ」とか「オオシ」という意味であるなら、大川義男博士の指摘のように「日蝕の太陽の中に愛染明王を感見した」と云う従来の説明はおかしいですね。

国立三鷹天文台調べでは、建長六年正月一日は日蝕でなとの事からも「日蝕の太陽の中に愛染明王を感見した」と云う従来の説明はおかしいと云う事になりますね。

「不動・愛染感見記」はどうもすっきりしないですね。

57慎之輔:2004/02/03(火) 09:01
おはようございます。
日蓮宗事典を見ていたら、
>九字の初見は日蓮聖人御消息の『四条金吾殿御返事』(剣形書・定一六八五頁)で
>「臨兵闘者皆陳列在前の文も法華経より出てたり」とあるが御遺文で九字を出されたのは、
>この御書だけであり、この御書については真偽未詳のところである。
また
>九字を取上げて初めて解説したのは身延山第一二世円教院日意で、文亀三年(一五〇三)著
>の『首題剣形相伝』の中において剣形の大事と共に九字の大事を会通している。
とありました。
九字とか、密教的な修法?は大聖人のご意思とはあまり関係ない感じですね。
でも、形益で受けるほうがより感ずるところがあればそれでよいのかな?
要は悩みや苦しみから解放されれば、その手法は大筋で間違ってなければ
良いような気もしますけど、昨今は、そのビジアル的な霊能力だの除霊だの
魅力でTVによく紹介されたり出たりしている方がいますが、TVに出ると
胡散臭く感じてなりません。どういうものなのでしょうか?

58ご本人の希望により削除しました:ご本人の希望により削除しました
ご本人の希望により削除しました

59管理者:2004/03/31(水) 09:04
今日の朝、大川先生より電話がありまして、色々な話の中で、是非とも皆さんに教えて上げて下さい。
との、伝言を受けました。

大川先生の話、
「顕佛未来記の最後から3行目に、『安州の日蓮は恐らくは三師に相承し……』とあって、恐らく=おそらくと皆読んでるけど可笑しいではないか、あれは『つつしんで』と読むもので、恐々謹言を『つつしんで……』と同じ意味合いの物」

と、ご助言を頂きました。大川先生に「掲示板」へ書き込みをお願いしましたが、「貴方が変わりに書きなさい」との事。何時かは書いて貰いたいです。

60慎之輔:2004/03/31(水) 10:33
ほんとですね。日蓮宗事典も「恐らく」と読んでますね。!(^^)!
大川先生の書込を期待したいですね。

ところで、
御義口伝(妙行正軌の讃嘆)
妙楽釈云子弘父法有世界益矣。
子者地涌菩薩也。父者釈尊也。
世界者日本国也。益者成仏也。
法者南無妙法蓮華経也。今又以如此。
父者日蓮也。子者日蓮弟子檀那也。
世界者日本国也。益者受持成仏也。
法者上行所伝題目也。
に出てくる世界とは日本国なりの世界とは
四悉檀(ししつだん)の世界悉檀と聞き、山川先生の妙行正軌講義でも
確認しましたが、今一、世界悉檀の意味がわかったようでわかりません。
わかりやすく教えていただけませんか?
どうもこの世界を誤解している人が多くて−−。

61川蝉:2004/03/31(水) 11:08
「日蓮聖人遺文全集講義第12巻(清水龍山・仲谷良英師担当)」では
「安房に生まれた日蓮は、恐れ多いことだが、釈尊・天台・伝教の三師に相承して」
と口語訳されています。

「恐らくは 」を 「恐れ多いことだが 」の意味としています。
「恐々謹言」に近い解釈をしています。

「恐らくは 」でなく「恐れながら」と訓じたほうが良い感じですね。

もっとも私は、勝手に、いままで「推測するに多分そうで有るに違いない」の意味に取っていました。

大川博士の御指摘を教えて頂き、「遺文全集講義」の解説を改めて読んで、私の解釈の誤りに気が付きました。

62ご本人の希望により削除しました:ご本人の希望により削除しました
ご本人の希望により削除しました

63川蝉:2004/03/31(水) 17:05
慎之輔さん今日は。

たしかに四悉檀のなかで世界悉檀は概念がつかみにくいですね。

「法華玄義巻第一」に、
無因縁や邪因縁に計する者があるが、それらに対して
「衆生の聞かんと欲楽する所に随順して、分別して為めに正因縁世界の法を説きて世間の正見を得せしめたもう。是れを世界悉檀の相と名ずく」

と説明しています。
また、方便品の文
「衆生の諸行 深心の所念 過去所習の業 欲性精進力 及び諸根の利鈍を知しめして 種々の因縁譬喩亦言辞を以て 応に随って方便して説きたもう」
の文中にある
「欲」とあるが、これは欲楽の事で、欲楽に応じての説法の相が世界悉檀である。
と説明しています。

また寿量品の文
「諸の衆生、種々の性・種々の欲・種々の行・種々の憶想分別あるを以ての故に、諸の善根を生ぜしめんと欲して、若干の因縁・譬喩・言辞を以て種々に法を説く」
の文中に
「種々の欲」に応じて説法するとあるが、その説法の相が世界悉檀である。
と説明しています。

相手が喜んで聞くように、相手にあわせて説いて正見に導くことが世界悉檀と云うことのようですね。

64管理者:2004/03/31(水) 18:10
慎之輔さんへ。訂正です。

>父者日蓮也。子者日蓮弟子檀那也。世界者日本国也。
の「世界者日本国也」は、世界歓喜の益の間違いです。訂正します。

65慎之輔:2004/03/31(水) 21:38
川蝉さん管理人さんありがとうございます。
なんか、ますます混乱してきました。山川先生の講義を読んだり、会の
講師の話では世界悉檀で間違いなさそうですが、世界歓喜の益?
うむ、わかりません。この場合、世界とは世間というよに捉えてよいの
ですよね。ようは、世界悉檀で説かなければいけない世間というのは
日本のことで、この日本こそ法華経因縁の地とご聖人は言っていらっ
しゃるということでしょうか?

66川蝉:2004/04/01(木) 11:47


>御義口伝(妙行正軌の讃嘆)
>妙楽釈云子弘父法有世界益矣。

法華文句の釈従地涌出品の中の、
「下方(本化菩薩)を召して来るにも三義あり。
是れ我が弟子は応に我が法を弘むべし。縁の深広なるを以て、能く此の土に遍じて益し、分身の土に遍じて益し、他方の土に遍じて益す。
また開近顕遠することを得。是の故に彼(迹化菩薩等)を止めて而も下(本化菩薩)を召したもう。」

の部分について妙楽大師の解説(文句記)は四悉檀を配当しています。
「我が弟子は応に我が法を弘むべし」の部分を世界悉檀。
「縁の深広なるを以て」の部分を、縁深く利多いので、為人悉壇。
「開近」の部分を、近成の疑いを破すので、対治悉檀。
「顕遠」の部分を、遠本を顕すので、第一義悉檀。
に配当しています。

「我が弟子は応に我が法を弘むべし」の部分を世界悉檀に配当する理由は述べていないですが、正像末に応じたて仏使が法を説くとことは、楽欲に応じて法を説く事に相当するので、「我が弟子は応に我が法を弘むべし」の部分を世界悉檀に配当したのであろうと思います。

世界悉檀の説法の相を表す言葉なので、世界(世間)に法を広めると云う意味ではないですが、御義口伝は、
「子父の法を弘む世界の益あり」との妙楽の言葉を、いわゆる随義転用して、「世界・世間に広める(広まる)」の意味として使っているようですね。

67川蝉:2004/04/01(木) 14:02

すいませんが訂正です。

お終いの四行を下記と変えてお読み下さい。


世界悉檀の「世界 」とは、場所を意味する世界・世間ではないですが御義口伝は、
「子父の法を弘む世界の益あり」との妙楽の言葉を、いわゆる随義転用して、「世界・世間に広め、人々に利益を与える」の意味として使っているようですね。

68慎之輔:2004/04/01(木) 16:58
川蝉さんありがとうございます。<(_ _)>

69直人:2004/04/03(土) 19:42
○「諌暁八幡抄」について

文献を整理していたら『富士大石寺』に「諌暁八幡抄 弘安3年12月 59歳御作」
(P124)として「諌暁八幡抄」の写真が載っていた。ただ、あら?っと思ったの
が末尾に日道師が署名・花押を記していること。『富士年表』で調べたら延元元年
(建武三年)の項に「6.6 日道 諌暁八幡抄に奥書す」と記されている。
ところで、『平成新編日蓮大聖人御書』によれば、「諌暁八幡抄」には宗祖の署名・
花王も日道師の署名・花押も見られないのであるが、不可解なことに『日蓮正宗聖典』
にはあったり、なかったりするのである。

少しく纏めてみると次のようになる。

1.『富士大石寺』―日道師の署名・花押有り
2.『平成新編日蓮大聖人御書』―署名・花押無し
3.『日蓮正宗聖典』(昭和27年版)―宗祖の署名・花押有り
4.『日蓮正宗聖典』(昭和36年版)―署名・花押無し
5.『日蓮正宗聖典』(昭和38年版)―宗祖の署名・花押有り
6.『日蓮正宗聖典』(昭和53年版)―署名・花押無し

宗祖の署名・花押のある3.5.
日道師の奥書(署名・花押)がある1.
宗祖・日道師何れの署名・花押のない2.4.6.

『富士大石寺』によれば、宗祖の署名・花押はなく、日道師の署名・花押のみで
あるから、宗祖の署名・花押が記されている3.5.、何れの署名・花押が記されて
いない2.4.6.はいったい何なのであろうか。
(何れも「宗祖日蓮大聖人御真跡 諌暁八幡抄 総本山大石寺蔵」と記されている。)

大石寺の宗祖遺文に対する扱い方は甚だ疑問である…。

70直人:2004/04/03(土) 20:00
>>69自己レス

もともとは2.4.6.の如くであったのが、後年(延元元年)、日道師が加筆した
ものが1.であるということであろうか。とすれば、宗祖の署名・花押が記され
ている3.5.は何なのであろうか。まさか後人の偽筆?(^^A

ここまで書いて、『平成新修日蓮聖人遺文集』で確認したところ、末尾には、
「弘安三年太歳庚辰十二月日」(P866)とあった。これが正であれば、宗祖の
署名・花押のない2.4.6.は何であろうか。

御真筆が現存するにもかかわらずどうしてこうした有るもの、無いもの、別な
ものとなるのだろう。同例としてやはり「日興跡條條事」が正本が現存すると
伝えられているにもかかわらず同文(2.3.4.6.)であったり、別なもの(5.)
であったりするのであるが…。

71慎之輔:2004/04/03(土) 23:49
こんばんわ<(_ _)> 直人さん話かわってすいません
「御義口伝」も最近では室町時代の偽書という説が有力ですね。しかし、
私どもでは、智学先生が妙行正軌の讃歎として取り入れた仏のご修行を
褒め称える文にこれしかない!と定められた御文ですから、改定するなら
大先生を超えるほどの教学のあるかたがなさなければいけません。
世界に関しては、仏が教えを説く領域(時間、空間を含む)のことと考えれば
仏が教えを説くことによって歓喜するのは、この上行菩薩日蓮聖人のお生まれ
になった日本であり、仏からご聖人へ、ご聖人から弟子、門下へとお題目が
受け継がれ受持成仏していくことはすばらしいことですね。
納得しました。世界=日本と勘違いしないようにします。!(^^)!<(_ _)>

72直人:2004/04/04(日) 00:10
慎之輔さん、こんばんは。

>直人さん話かわってすいません

いえいえ構いません。

>「御義口伝」も最近では室町時代の偽書という説が有力ですね。

中古天台の文献に酷似する文が出てくるから「御義口伝」は中古天台の文献を
換骨奪胎したものであるとする説がその例ですね。
けれども、私は現時においては「御義口伝」には慎重で偽作と断じるまでには
至っていません。むしろ、御真筆と照らして依用している方です。

>大先生を超えるほどの教学のあるかたがなさなければいけません。

日蓮宗では執行海秀氏の研究によって偽作説が有力となったとしているよう
ですね。これとは逆に三宅重也氏が真筆説の立場から論文を書いていたよう
ですね。

73川蝉:2004/04/04(日) 11:17
直人さん今日は。

「諌暁八幡抄」は、
昭和定本によりますと、第1紙から29紙までが(ただし所々断欠)が身延曽存(乾師目録)。第16紙から47紙まで富士大石寺蔵と注記され、また、終行の日付と書名花押とは真蹟に無しと注記されています。

直人さんが御覧になった『富士大石寺』に載っていた「諌暁八幡抄」の写真が、末尾に「建武第三丙子六月六日□□奉畢日道花押」とあるものなら、真蹟末尾の写真ですから、そこに、日付と日蓮花押がなければ、大石寺にある真蹟には、日付と日蓮花押がないということになりますね。

身延に第1紙から29紙まで、大石寺には第16紙から有るとのことですから、少なくとも身延に有った本と大石寺にある本と二通有ったことになりますね。

身延本には日付と日蓮花押が署名されたいた可能性がないとも断言出来ませんね。

74直人:2004/04/04(日) 12:05
川蝉さん、おはようございます。

>終行の日付と書名花押とは真蹟に無しと注記されています。

としますと、「平成新修」の「弘安三年太歳庚辰十二月日」というものは何に
よったものなのでしょうか。私が見たものは下記に写真を掲載しましたが「日蓮
花押」とあるのみで「弘安三年太歳庚辰十二月日」は見られないのですね。

>大石寺にある真蹟には、日付と日蓮花押がないということになりますね。

日付と日蓮花押がないものもあれば、日付がなく日蓮花押のみあるものも
あります。((資料)宗祖日蓮聖人御真跡「諌暁八幡抄」について)

○(資料)宗祖日蓮聖人御真跡「諌暁八幡抄」について
http://www.sincere.ne.jp/~naohito/k004.html

『日蓮正宗聖典』には何れも「宗祖日蓮大聖人御真跡 諌暁八幡抄 総本山
大石寺蔵」とあるので不可解なわけです。

75直人:2004/04/04(日) 12:19
補足訂正

川蝉さんの、
>身延本には日付と日蓮花押が署名されたいた可能性がないとも断言出来ませんね
という御教示を見落としていました。m(__)m
としますと、天竺国〜給への御文は大石寺本、末尾の「弘安三年太歳庚辰十二月日
日蓮花押」は身延本によったと考えられますね。

76川蝉:2004/04/04(日) 16:24
直人さんへ。

わっ。大石寺には三本の真蹟諫暁八幡抄があることになりますね。

>大石寺の宗祖遺文に対する扱い方は甚だ疑問である…。

同感ですね。三本とも真蹟なのかはっきりしてもらいたいですね。

「日蓮聖人遺文辞典・歴史篇」を見たところ、大石寺に三本あることは述べていないですね。

末尾に「建武第三丙子六月六日読誦奉畢 日道花押」とあるものを大石寺現存の真蹟本として説明しています。

身延曾存本とは別本としています。
理由は、
身延曾存本は裏表記載(紙の裏表に書かれている)と日乾目録にあるが、大石寺本は「真蹟集成九巻」解説に裏面記載の指摘はない。
からと説明しています。

大石寺本は、随所に訂正があり、それが薄墨で行われ、さらに棒線をもってした見消(みせけち)もあるから、身延曾存本と同じく草稿本ではないかということを考えさせる。と説明しています。

両方ともが草稿本とすると、清書本があった可能性もありますね。

『真蹟集成』編集作成に大石寺がどのように係わったのか分かりませんが、大石寺が日道花押のある本を提供したのなら、大石寺では日道花押のある本を真蹟としていたことになりますね。

77慎之輔:2004/04/04(日) 21:23
「御義口伝研究」 三宅重也著は古書で\60000となっていました。!(^^)!
今日は、ちょっと早い釈尊降誕会でした。

78管理者:2004/04/05(月) 10:27
皆さん、お早う御座います。

諫暁八幡抄『真蹟集成』第9巻129頁第47紙に
川蝉さんご呈示の
>末尾に「建武第三丙子六月六日読誦奉畢 日道花押」
と成っています。また、直人さんの
>(『富士大石寺』P125)
と同じで、御真筆集に納められてます。

因みに、46紙後半は闕失。類纂日蓮聖人遺文集の370頁の3行目から欠
『法華経の行者日本国に有るならば其の所に栖給ふべし。』以下欠…第47紙(遺文集の370頁の7行目)『天竺国をば月氏国と申すは佛の出現し給ふべき名也、……』
です。

79管理者:2004/04/05(月) 10:38
補足、

其の所に栖給ふべし。』
此の間が闕失、で
第47紙(遺文集の370頁の7行目)『天竺国をば……』からが現存です。

80直人:2004/04/05(月) 12:27
川蝉さん、管理人さん、こんにちは。

>末尾に「建武第三丙子六月六日読誦奉畢 日道花押」とあるものを大石寺現存の
>真蹟本として説明しています。(>>77
>御真筆集に納められてます。(>>78

C本が御真蹟ということですね。
としますと、A本、B本が疑問ですね。
写真を見る限りA本は本来、「建武第三丙子六月六日読誦奉畢 日道花押」とある
箇所に■ ■として何らかの加工でも施したのではないかと思うような感じがする
のは私だけでしょうか。(紙を置いて日付と日道花押を隠したとか)
そうすると宗祖の署名・花押のあるB本は何でしょう…。

素朴な疑問なのですが、今回の「諫暁八幡抄」のように、宗祖真蹟遺文に後人が
加筆するということは通常あり得るのでしょうか?

81川蝉:2004/04/06(火) 09:39
直人さん今日は。

「日乾目録 」では、書き抜き・要文集の類の中には「他筆の部分がある」旨の注意書きされているものがありますが、「他筆が加わっている」旨の注意書きがされている御書は無いようです。

写真のように御真蹟の終行にくっつくように、「自分が読んだ」という旨の文字を記入するということなどは、御真蹟格護の上からは考えられない暴挙ですね。

諫暁八幡抄が日道上人個人の所有物でないのに、神経が疑われますね。

82直人:2004/04/06(火) 20:19
川蝉さん、こんばんは。

>「自分が読んだ」という旨の文字を記入するということなどは、御真蹟格護の
>上からは考えられない暴挙ですね。

やはり《暴挙》ですか。
こうした例を私は他に知りませんので今回初めて写真を見たときは困惑しました。

>日道上人個人の所有物でないのに、神経が疑われますね。

ほんとうに大石寺の宗祖遺文の扱い方には神経を疑います。
最重要視する相伝書(特に「百六箇抄」)でも自門に都合の悪い箇所はバッサリ
削除するくらいですから…。

今回は貴重な御教示をありがとうございました。

83直人:2004/04/07(水) 19:24
>>15「日朗譲状」に関して〕

今更ですが、『富士学林教科書研究教学書』を読んでいたら「日朗譲状」に
関する記述がありましたので抜粋しておきます。これは要法寺日住師「興門
百圍論」であり本宗教学とは相容れないものです。あくまでも参考資料という
ことで…。

○若し朗師が付法の弟子と定め玉ふ何そ身延山の別当と玉はさるや
(研教20巻P238-239)

○数輩御弟子ありも嗣法相承の弟子は唯一人に限る(研教20巻P239)

○若し朗師に御付法あらは第一御本尊の相傳あるへき事然るに彼門流の
書写の体は一同に蓮祖の御本尊に背けり(研教20巻P242)

○若し付弟たらは蓮祖出世の本懐たる三大秘法の法門を傳へ玉ふへき道
理曽て其義なし(研教20巻P242)

○本門の本尊を譲り玉ふへし何そ伽耶始城の拙佛を譲り玉ふや(研教20巻
P242)

○朗師には付法沙門の号なし興師には当山の御真筆の御本尊に付法沙門
日興の号ある二幅の大曼荼羅あり(研教20巻P243)

  問答第一行戒智徳筆跡付法沙門日興(文永九年正月元日、通称「称徳付
  法の本尊」、要法寺所蔵)

  付法沙門日興授与之(建治二年正月元日、通称「付法の曼荼羅」、要法
  寺所蔵)

「興門百圍論」ではもっと駁論していますが抜粋するほどのことじゃないので
ここまでにしておきます。

84直人:2004/04/08(木) 00:05
「興門百圍論」にみる「百六箇抄」附文について

日住師は血脈論を論ずるとき、両巻血脈抄を依文としている。一例を挙げれば
次の如くである。

  此書は蓮祖自ら筆、興師は相承し玉へり興師是を目師と尊師とに伝え玉へ
  り、尊師へ付属は正和元壬子十月十三日興師御年六十七歳の時也。今現に
  當山には尊師の自筆也。(研教20巻P476)

ここで云う「尊師へ付属」とは「百六箇抄」附文−すなわち、「日興日尊に之
を示す」(宗全2巻P31)をさすものであろう。しかしながら、疑点がないわけ
ではない、それは「百六箇抄」附文では、

  日興先かくれは無辺行菩薩歟、日朗後ひかうれは安立行菩薩歟、日蓮大将
  なれは上行菩薩歟、日目毎度幡さしなれは浄行菩薩歟。(宗全2巻PP29)

となっているのに対して、「興門百圍論」には、

  當山相承には日蓮上行菩薩、日興無辺行菩薩、日目浄行菩薩、日尊安立
  行菩薩と相承するなりこれは客殿の儀式中央の曼荼羅と本有の五大を表す、
  これ則別体の地涌の義也。御堂には一人此四具総体の地涌の義なり。宝蔵
  は総別不二也。もとより互具融即せり(研教20巻P165)

として、《日朗師=安立行菩薩》とあるべき文が《日尊師=安立行菩薩》となって
いる。「百六箇抄」はその内容からして尊門の偽作であることは明らかである。け
れども、真実、そうであるならばなぜ《日朗師=安立行菩薩》と記されているので
あろうか。尊門思想から云えば「興門百圍論」の方が相応しいように思うのは私だ
けであろうか。

85空き缶:2004/04/09(金) 15:53
 直人さん、お忙しい中でのご研鑚頭が下がります。

 両巻相承もさることながら、先に話題に上がりました「御義口伝」も尊門で作成されたものかな?と思われますが、いかがでしょうか。
 
 「御義口伝」は上巻下巻とも巻末に「弘安元年戊寅正月一日」という、歴史上存在しない日付があること(建治四年から弘安元年への改元は二月である)。宗祖の註法華経講義録であるはずなのに、宗祖滅後に日本へ伝わった法華経科註が引用されている事、等から「御義口伝」は疑義をもたれていますね。
 
 話は変わりますが、最近の事ですがこの春休み中に、子供達と一緒に中伊豆の日蓮宗本山實成寺にお邪魔してきました。
 このお寺は、第四祖(実質開山)を日尊師におく寺院ですが、第五祖が日郷師という日目上人有縁の尊門郷門合同流派のような寺院です。この寺院には、「聴講見聞録」という筆者不明の身延における宗祖の註法華経講義の記録が伝わっており、巻末には「建治三年二月書了」とあり次行には日目上人の自署花押があるそうです。この「聴聞見聞録」は既刊書では未見ですが、どなたかご存知ありませんでしょうか?

86慎之輔:2004/04/15(木) 22:13
>建治四年から弘安元年への改元は二月である
確かに2月29日に改元してますね。また、実相寺御書 建治四年正月十六日
や「弘安元年〈太歳戊寅〉、建治四年二月二十九日改元。疫病の故か。」
などという御遺文などがあるのを見ると、偽書だと思います。(^^ゞ

87川蝉:2004/04/16(金) 15:23
空き缶さん、慎之輔さん今日は。

>「御義口伝」は上巻下巻とも巻末に「弘安元年戊寅正月一日」と
>いう、歴史上存在しない日付があること(建治四年から弘安元年
>への改元は二月である)。

以前、「御義口伝」の日付が偽相伝書の理由の一つであると、私も書いたことがありますが、その後、平楽寺書店刊・宮崎英修著「日蓮とその弟子」において、宗祖の誕生日についての記述のなかで、

「年号はしばしば改められ(日蓮在世に23回)一般に改元の元年をもって旧年を含めるから、承久壬午は貞応元年壬午とも呼ばれる」(14頁)

と有ることに気づきました。

貞応元年は承久4年4月13日の改元。
故に、2月は改元以前なので、貞応元年壬午2月16日は、正確には承久4年2月。

こうした年号の書き方があるというと、
建治四年二月に弘安に改元された場合は、建治四年正月1日を弘安元年正月一日と書く場合もあったと云うすいろんもが成り立ちます。

ということで、「御義口伝」の日付を偽相伝書説の理由に挙げる根拠がうすくなることに気が付きました。

と云っても、
老僧の連判があると云うことは正式文書であるから日付は正確に書かれるはずであるから、やはり日付の問題は偽書説の根拠になると思います。

また、慎之輔さんのご指摘の通り、改元直前の「実相寺御書」を始め、「始聞仏乗義」などの日付は正確に書かれているくらいですから、日蓮聖人に習って老僧達も日付を正確に書く習慣があったはずと考えてよいのではと思われます。

88直人:2004/04/16(金) 21:39
空き缶さん、こんばんは。

>「御義口伝」も尊門で作成されたものか

 私は「御義口伝」の真偽に関しては、二箇相承、両巻血脈抄、御本尊七箇相承
といった相伝書ほど知識がないのであまりコメントできませんので、手元の資料を
参考にしつつ愚考を述べてみます。
 執行海秀先生の御指摘によれば「御義口伝」の一番早い写本は八品門流の日
経本(宗祖滅後245年)、興門では日辰師の「負薪記」(宗祖滅後290年)。また、
日隆師が「御義口伝」を引用した例がないことから、八品門流の成立であるとする
稲田海素師の説を退けています。(『興門教学の研究』P63−64)
 私の考えは結論から云えば、尊門偽作説です。その論拠は「御義口伝」の、

  ──────────────────────────────
  秘すべし秘すべし、唯授一人の相承なり、口外すべからず

  (「御義口伝」『昭和定本日蓮聖人遺文』P2701、1971年)
  ──────────────────────────────

という文です。二箇相承は別としても「唯授一人」云々は尊門思想であると思って
いるからです。なぜなら、日尊師は「本尊書写は附弟一人に限る」と考えていたこ
と、「百六箇抄」後加文に、

  ──────────────────────────────
  直授結要付属は一人なり、白蓮阿闍梨日興を以つて惣貫首

  (「百六箇抄」『日蓮宗宗学全書』第2巻、P27、1983年)
  ──────────────────────────────

と記されていることによるからです。
 執行先生は日教師の石山帰伏を「百五十箇条を著して不造不讀、宗祖本佛論を主
張し、従来の尊門教学に反対」(『日蓮宗教学史』P143)したものと説明されています。
私もおそらくはこうであったであろうと思っています。なぜなら、「御義口伝」には、

  ──────────────────────────────
  法華経の行者は真に釈迦法王の御子也。然る間王位を継ぐ可き也。悉是吾子
  の子と是真仏子の子と能く能く心得合す可き也。今日蓮等之類南無妙法蓮華
  経と唱へ奉る者は釈迦法王の御子なり。

  (「御義口伝」『昭和定本日蓮聖人遺文』 2650頁 1971年)
  ──────────────────────────────

  ──────────────────────────────
  法華経一部は一往は在世の為也。再往は末法当今の為也。

  (「御義口伝」『昭和定本日蓮聖人遺文』 2680頁 1971年)
  ──────────────────────────────

とあって、日教師の《宗祖本仏・一部不読》とは相容れない思想があるからです。
 ところで、「御義口伝」の、

  ──────────────────────────────
  久遠とははたらかさずつくろわずもとの儘と云う義なり

  (「御義口伝」『昭和定本日蓮聖人遺文』P2671、1971年)
  ──────────────────────────────

という文は中古天台の「文句略大綱私見聞」の、

  ──────────────────────────────
  されば久遠の文点〈をもとのまま〉久遠とも久遠〈ツクロハズ〉とも読む也

  (「文句略大綱私見聞」『大日本佛教全書』18巻、P159下、1990年)
  ──────────────────────────────

という文と全同と云っても過言ではないでしょう。「本因妙抄」が「三大章疏七面
相承口決」を日蓮思想的に換骨奪胎したものであるように、「御義口伝」もまた、
「文句略大綱私見聞」を日蓮思想的に換骨奪胎したものではないでしょうか。そ
して、「本因妙抄」の偽作者が尊門僧であったならば、「御義口伝」も同じく尊門
僧によって偽作されたものであることは想像に難くないのです。
 私の考えはこんなところです。全然役に立たずすみません。

89空き缶:2004/04/16(金) 23:37
皆さん、こん○○は。

慎之輔さん、川蝉さん、直人さん、レスありがとうございました。

やはり尊門偽作説が出てきましたね。
また、最古の写本が八品派とのご指摘も頷けます。
八品派の祖山の一つ、岡宮光長寺には「聖人之御法門聴聞分集」(伝日法記)の写本が伝わっており、尊門といえるかわかりませんが、先にカキコしました実質開山を日尊師におく「日蓮宗本山實成寺」には興尊高弟の一人である日目師の自署花押があるといわれる「聴講見聞録」が伝わっています。
どちらも、註法華経講義の記録であり、これら定本となりうる文献が伝わっている門派であれば、直人さんご指摘の通り偽作も可能かなと思ったりします。

90直人:2004/04/21(水) 01:12
空き缶さん、こんばんは。

>「日蓮宗本山實成寺」

 本山会が編纂した『日蓮宗の本山めぐり』(ニチレン出版)には、

  ────────────────────────────
  寺宝 日蓮聖人御真筆本尊のほかに、日興上人の真筆本尊六幅、
  日目上人及び日尊上人の真筆本尊、日目上人の消息及び聴講見
  聞録(中略)尚、聴講見聞録というのは筆者不明であるけれども、延
  山に於て宗祖の講義を筆録せるもので、巻末に建治三年二月書了
  とあり、次行には日目上人の自署花押があるので、重要資料たるを
  失わない。

  (『日蓮宗の本山めぐり』P126、1981年)
  ──────────────────────────

とありますね。「聴講見聞録」については近く、要法寺に行く予定ですので
その際に聞いてみたいと思います。
 それにしても不思議なのが「日尊上人の真筆本尊」です。大石寺の所伝
によれば、日尊師は「本尊書写は附弟一人に限る」として本尊書写を行って
いないと云います。

  ────────────────────────────
  一、 本尊書写の事 尊仰せに云く、大聖人御遷化の刻六人の老僧
  面面に之を書写し給へり、然るに異議は無く其の後は面面末流、初
  心後心、戒行の有無、曾て以て之を糾明する事無し、面面に之を書
  写云云、此れ等の次第且は法滅の因縁か五人方は且く之を閣く富
  士門跡は、付弟一人を書写し奉る由、日興上人御遺戒也云云、其の
  故は法燈を賞め以て根源を立てんが為なり云云、之に依て本尊の銘
  に云く、仏滅後二千二百三十余年之間一閻浮提内未曾有大曼荼羅
  也云云、予も又此の義を存ずる之所、日興上人御入滅後、一門跡に
  面面争論出来、互に偏執を成し邪論を起して、人人面面に之を書写し
  奉る云云、然れば則ち仏意は測り難く聖意恐れ有り所詮吾が一門に
  於ては、本義の如く一人之を書写し奉るべきか云云。
  
  (「尊師実録」『日蓮宗宗学全書』2巻、P418、1983年)
  ────────────────────────────

 もっとも、この文を依文として大石寺門流を正統化することはできません。
日尊師には大石寺を本寺とする本末意識はなく、日尊門流は独立した教団
であったからです。したがって、文中の「吾が一門」とは日尊門流をさすので
あって、決して大石寺をさすものではないですね。大石寺門流の論客は我田
引水・牽強付会が目立って困ります。(苦笑)
 脱線してしまいましたが、日尊師は本尊書写を行っておらず、宗祖の曼荼
羅を模刻していますが、「日尊上人の真筆本尊」とは日尊師の模刻本尊をさす
のでしょうか。

91空き缶:2004/04/21(水) 03:22

直人さん、こん○○は。

>日尊上人の真筆本尊

なにやら實成寺の霊宝は、通説等と矛盾しますね。日目師の御本尊についても、いまいち疑問ありみたいで。

本堂には、一遍主題の板曼荼羅がありました。うーん「曼荼羅」と呼べるかわかりませんが、主題の左右は不動・愛染のみで、主題の下は自署花押も無く本当に題目と不動愛染だけの板本尊でした。

平日の昼間だった為、お堂は拝観できませんでしたが、日尊師が随身した宗祖御尊像が安置されているようです。

92川蝉:2004/04/21(水) 11:04
直人さん今日は。
若くして在家でありながら研究の熱意に頭が下がります。

>大石寺の所伝によれば、日尊師は「本尊書写は附弟一人に限る」
>として本尊書写を行っていないと云います。

直人さんが掲示された「尊師実録」(日蓮宗宗学全書2巻・P418)
の文に依って、大石寺の所伝では「日尊師は本尊書写を行っていない」といっているようですね。

「尊師実録」の「本尊書写の事」は
「御本尊は資格の無い者が勝手に書写すべきではない。興師も付弟一人(相承を受けた跡継ぎの弟子)が書写すべきものであると御遺戒されている。
我が一門も一人だけが(一番弟子的跡継ぎの弟子が)、書写して与えるべきである。」

と云う趣旨であると理解出来ます。
ゆえに、日尊上人が御本尊を書写しなかったと云うことにはならないと思います。

>文中の「吾が一門」とは日尊門流をさすのであって、決して大石
>寺をさすものではないですね。大石寺門流の論客は我田引水・牽
>強付会が目立って困ります。(苦笑)

その通りですね。

93直人:2004/04/21(水) 23:16
川蝉さん、こんばんは。

>若くして在家でありながら研究の熱意に頭が下がります。

 碩学である川蝉さんからそう云われると嬉しいようであり恐縮でもあります。

>「本尊書写の事」
>日尊上人が御本尊を書写しなかったと云うことにはならないと思います。

「尊師実録」の「本尊書写の事」を読む限りは日尊上人は御本尊書写に関して
は比較的厳格であったように思いますね。
私は日尊上人が御本尊を書写できない立場にあったとは思いませんが、日尊
上人の書写本尊が現存しないことからあのように書いてしまいました。書写す
ることはできてもあえてしなかったと云うべきなのでしょうか。富谷日震師も

  ──────────────────────────────
  他門流近く富士門流に於ても相傳の深義と宗學の精髄を極めざるに動もす
  れば宗門の大事たる曼荼羅の書写を敢てするは宗義の神聖を損する甚しと
  て親ら一幅の本尊をも謹書拝写することを為さず堅く門下の諸弟を誡め付弟
  一人の外濫りに書写するを許されないで、吾れ所存ありとて大聖人の親筆を
  摸写し自ら彫刻して後世の道俗に遺された

  (『先徳遺風』P29、2002年)
  ──────────────────────────────

と述べていますし・・・。
日尊上人の御本尊がないゆえに大石寺に「日尊師は附弟一人に限るということ
を自覚していた」などと云われてしまうのは遺憾です。

94川蝉:2004/04/23(金) 11:42
直人さん今日は。

「日尊上人仰云」の「本尊書写の事」の終わり部分
「仰せに云わく。之に付いて、予が思う事、之れ有り。所詮大聖人御自筆の本尊を印板に彫み、当座道場六人の衆徒一同の評定を為して、信心の強弱、行業の久近、給仕の忠否、香華供養の堪否を糾明して、一揆の衆義を以て、之を授与すべし」

の部分によって、富谷日震師は
「親ら一幅の本尊をも謹書拝写することを為さず堅く門下の諸弟を誡め付弟一人の外濫りに書写するを許されないで、吾れ所存ありとて大聖人の親筆を摸写し自ら彫刻して後世の道俗に遺された」

と推測しているようですね。

印板で摺った御本尊を、この者ならばと云える道俗に授与すべきであると、日尊上人は考えていたようですね。
とすると、日尊上人自ら謹写した御本尊を授与するより、印板で摺った御本尊を授与する方が良いと考えられていたことは確かのようですね。

95直人:2004/04/23(金) 23:15
川蝉さん、こんばんは。

>日尊上人自ら謹写した御本尊を授与するより、印板で摺った御本尊を
>授与する方が良いと考えられていたことは確かのようですね。

 そのようですね。ただ、日尊上人がそうであったのに対して、日大師は
御本尊を書写(1334年、出雲妙伝寺所蔵)しています。日尊上人が御本
尊書写をしなかったのであれば日大師は何を拠りどころとして御本尊書
写をしたのか気になるところです。
 また、「日興上人御遺戒也」という記述も気になります。もしかしたら、
その当時、何らかの口伝、或いは、伝承があったのでしょうか。よく似た
例は「久成釈迦造立の事」に「本門寺の本尊造立記文相伝別に之有り」
として記されながらも、そうした史料(伝承)がないことでしょうか。(私が
知らないだけかもしれませんが)

96直人:2004/04/24(土) 05:34
自己レス

>「本門寺の本尊造立記文相伝別に之有り」

 日尊上人がこう云われたのは日興上人から本門寺本尊造立に関する教示
を受けたからではないだろうか。とすれば、当然、日興上人在世の時代には
本門戒壇之大御本尊など存在しなかったことになる。
 「久成釈迦造立の事」は造仏について触れられており、日興上人は「広宣
流布の時分まで大曼荼羅を安置し奉る」(宗全2-419)と云い、日尊上人は
宗祖在世の時代に造立された二つの仏像(富木常忍・浄妙比丘尼)を「略本
尊」(宗全2-420)とした上で、「但し本門寺の本尊造立記文相伝別に之有り」
と述べている。「久成釈迦造立の事」全体から察せば広宣流布のときに造立
される御本尊は一尊四士のような仏像であったかもしれない。日順師・日代師
に同様の思想が見られることがそれを裏づけているように思える。察して云え
ば「本門寺の本尊造立記文相伝別に之有り」とはどの大曼荼羅を設計図とし
て造立されるべきかについて記されていたものかもしれない。

97川蝉:2004/04/24(土) 11:40
直人さん今日は。

>日尊上人が御本尊書写をしなかったのであれば日大師は何を拠り
>どころとして御本尊書写をしたのか気になるところです。

日尊上人より「付法の弟子なら書写してよい」との教示を受けていたこと、日尊制作の本尊の印版が手元になかったことから、御本尊書写をされたとも推測出来ますね。

日尊制作の本尊の印版は、日尊上人が建てられた上行院を継いだ日伊上人の手元に保管されていたのであろうと推測出来ます。系図によると、日大上人は住本寺祖ですので、手元に日尊制作の本尊の印版が手元になかったのでしょう。

>「本門寺の本尊造立記文相伝別に之有り」

興門には、本尊造立ついての何かの相伝が残っていたようですね。
『宗学全書第二巻・410頁5行目から8行』を見ると、
上行院の日伊上人が日代上人(西山本門寺)に

「伝わっている話によると、大聖人の御記文に、帝王が崇敬し本門寺が建立される前には仏像造立してはいけないとあり、また故上人(日興)も同じ見解であるとの事だが、事実そうした記文が伝えられているのなら、記文の文面を教えて頂きたい」旨を依頼した事が分かります。

この「日代上人に遣す状」も、「本門寺の本尊造立記文相伝」のような物が有ったことを示していますね。

直人さんの云われるように、
「本門寺の本尊造立記文」と云われる物には
国主が帰依したさ建立される本門寺の本尊は、一尊四士像か曼荼羅の木像化であることを記していたいたようですね。

98直人:2004/04/24(土) 19:41
川蝉さん、こんばんは。

>御本尊書写をされたとも推測出来ますね。

 私も川蝉さんと同じように考えています。

>上行院の日伊上人が日代上人(西山本門寺)

 これは釈迦立像・十大弟子像の寄進をめぐっての質疑ですね。西山で思い出し
ましたが、西山には「円融大曼荼羅口決」という御本尊書写に関する相伝書があ
るようです。これは『本尊論資料』『富士学林教科書研究教学書』にも載っておらず、
如何なる内容かは私にはわかりませんが、西山の「円融大曼荼羅口決」と云い、
大石寺の「御本尊七箇相承」と云い(西山は「御本尊七箇相承」を「円融大曼荼羅
口決」の換骨奪胎と云いますが)、尊門では尊師実録に「本尊書写の事」があり、
上代興門には御本尊書写に関する何らかの伝承があったものかもしれませんね。
 「御本尊七箇相承」には宗祖本仏思想が見られますから、後代の偽書であること
は明らかですが、偽文書と云ってもイキナリ作れるわけではないでしょうから、上代
興門には御本尊書写に関する何らかの伝承があり、その発展として「御本尊七箇
相承」といった本尊相伝書が成立していったものかもしれませんね。
 実際、興門諸師の書写本尊を見たとき、首題の直下の「日蓮」「日蓮在御判」「日蓮
聖人」は別としても、大体は同じように御本尊を書写しているようです。(小泉久遠寺
蔵・日郷上人書写本尊は他の興門諸師と比べてシンプルすぎますが)


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