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御遺文関係は此方で
55
:
管理者
:2004/02/02(月) 12:16
>「不動・愛染感見記」は、文字は宗祖直筆であるが、中尾教授が「愛染明王図の方は、仏像彫刻専門家が描いたものと思う」と感想を述べて居られた。
参考文献として
「日蓮宗的学説攷究」未定稿 大川善男
【不動・愛染感見記】
『真蹟集成』によると、この遺文は次の如く、 (図絵・略)
と二紙から成っている。
しかるに、『定本遺文』(第一巻十六頁)外部欄外には、愛染明王拝見記を「七行」、不動明王拝見記を「八行」と注記している。だが、右の通り(図絵)原本は愛染は十行、不動は十一行に記されている。また『定本遺文』は「日虫虫」を「日蝕」と活字化している。そして『定本遺文』を証本として、「二つの感見記のうち、愛染明王のそれには、日蝕中の太陽のなかに感見した愛染明王の姿の図絵が、不動明王のそれには、満月中に感見した明王の姿の図絵が、それぞれ描かれている。」(高木豊著「二人の日蓮−改稿・『大崎学報』135号1982)と説いている。しかし「虫虫」は「蝕」の異体ではなく、「アキラカ」とか「オオシ」という意味の正しい漢字であって、「日虫虫」とは「日が明るい」という意味であって「昼日中」のことである。従って「日虫虫」を「日蝕」と理解して「日蝕の太陽の中に愛染明王を感見した」と説いた論考は正しくない。
いわゆる、この感見記の年記は建長六年であるが、この年(1254)日蝕ではない。建長年中に日蝕があったのは、同元年五月十四日(旧暦六月六日)同七年三月一日(旧暦四月八日)の二回である。ならば日蓮が誕生した貞応元年(1222)から建長六年(1254)の間の日蝕を調べると、貞応二年(1223)九月二十六日、延応元年(1239)十二月十九日、寛元元年(1243)三月二十二日、同三年(1245)七月二十五日、建長元年(1249)五月十四日の五回の日蝕(※国立三鷹天文台調べ)があったが、正月一日に日蝕があったことは無く、「日蓮が正月一日の日蝕時に愛染明王を感見した」というのは単なる虚妄に過ぎない。また、「この感見記は日蓮の現存真蹟中最古のものであるが、後年の筆跡からしても、確かに日蓮の真蹟としてもよいものである」(高木豊著「二人の日蓮−改稿・『大崎学報』135号1982)という説もある。だが、若き頃の筆跡を後年の筆跡と比べて真偽を判定するのは正しい方法だろうか。要は、この御書にはいろいろな疑問があっても、これが重要文化財に指定されているために、現在では何ら疑われることなく日蓮の御書として扱われている。しかし、重要文化財に指定されているといえども、重要文化財に指定されたものの中にも実際には偽書はある。故に、重要文化財に指定されているからといっても完全なものばかりではない。
例えば、重要文化財に指定されていた「永仁の壺」が、現在陶芸家で先頃亡くなった加藤唐九郎氏の作品であった如くものもある。いわゆる、指定品の中にはそうしたものが実際にあり、それは文化財が完全に科学的検査を経て真物と解って指定されたものばかりではなく、真偽委員の眼力のみで真物と判定・答申された指定品もある。そういう指定品の中に偽物があり、文化財に指定された日蓮聖人の御書は、凡そ一部の権威による眼力で真蹟と判定されたもので、科学的に鑑定されたものは一点も無い。
従って、いくら重要文化財に指定されていると雖も、該『不動・愛染感見記』も完全に日蓮聖人の真蹟と断定できるものでなく、偽書の疑いが全く無いわけではない。
以上です。
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