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鷹目遊里史板
1
:
鷹目
:2006/03/12(日) 14:04:22
一流への道
≫活魚料理店の水槽を撮らずして一流とは言えないでしょう。
道は険しいな・・・。
>bananaさん
情報ありがとうございます。そちらも次回候補に入れておきます。会場選定が一番悩みます(笑)。
68
:
今里X
:2006/07/03(月) 21:17:32
(無題)
>k_taiiさん
今治は遊廓としては明治初めまでで、明治十八年には貸座敷と娼妓の営業場所から外されています。
その後は芸妓・雇仲居の花街となり大正十二年に移転、昭和五十年ごろまで賑わってたそうです。
>氷之助さん
誘惑の華、テレビでやってたんですか・・・(´・ω・`)ショボーン
レンタルするしかないかな。
あくまで料理を楽しむだけなのは、じつに正確な表現で胸を撫でおろしました。Σ(^∀^;)
69
:
yutaka
:2006/07/05(水) 11:36:47
「ミナミの帝王」見ました
>氷之助さん
情報ありがとうございました。未見でしたので、早速レンタルしてきました。
冒頭のシーンから、表通り(裏通りは訪れたことがないので、わかりませんが)の風景描写は良くできていますね。セットではなくロケのならではの雰囲気が好きです。
あの店の内部もセットではなく、ロケなのですかね。
その手に関しては余り詳しくないもので・・・。
70
:
今里X
:2006/07/05(水) 15:00:25
内部は…
料亭の室内は一万なんぼ払って見学しましょう。Σ(^∀^;)
71
:
夕凪
:2006/07/05(水) 22:40:47
著者略歴
大正2年5月18日(1913年)東京下谷に生る。
最終学務はアテネフランセ。
昭和10年(1935年)亀井勝一郎のすすめで日本浪漫派に参加。
文学評論にのせた小説「詫びる」が第1回芥川賞の候補となった。
20年間記者生活と旅の空に送る。
日本経済新聞記者などを経て現在は東京通信編集局長。
交通記者連盟・労農記者会員。
主な著書は「こけし風土記」「おんなの味」など。
現在、産経よみものに「おんなの旅」執筆中。
現住所・葛飾区柴又○ノ57。
渡辺寛著『鄙びた湯・古い湯治場』(昭和31年6月1日、万記書房)より
72
:
夕凪
:2006/07/05(水) 23:58:43
にっぽんぱらだいす
赤本にも紹介されていた桜原遊廓を舞台にした「にっぽんぱらだいす」(松竹、1964)が
新世界の日劇会館で7月8日(土)〜7月14日(金)まで上映されます。
ご覧になってない方は、ぜひこの機会に!
あらすじ ttp://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD21487/story.html
同時上映は「すっ飛び五十三次」(松竹、1958) 出演は高田浩吉、花菱アチャコ
入場料は900円(安い!)
73
:
今里X
:2006/07/07(金) 23:33:52
まさか…
ま、ま、まさかハッテン映画館じゃないですよね。
高校時代、映画好きの友人が新世界の映画館にいくたびに手を握られたり、いろんなところを触られたりしたそうなので… (゚Д゚;)
櫻新地蔦屋さん●●支店に大島渚監督『太陽の墓場』があったので借りようと思ってます。
74
:
夕凪
:2006/07/09(日) 14:49:22
にっぽんぱらだいす?
昨日、見てきましたが、内容的には、
敗戦(復員)→R・A・A→赤線再建→公娼廃止→転業と言った
一連の時代背景に、コミカルな味付けと、
赤線の中でしか生きれなかった一人の娼婦の短い一生を絡めた
興味深い作品でした。
でも、あまりにもステレオタイプだったような気もしますが。
あのテーマソングが暫く頭から離れそうにありません?
「高校時代の映画好きの友人」が♀であれば問題は無い(?)気もしますが、
そんな訳はないですよね。
75
:
今里X
:2006/07/13(木) 00:03:45
二本立て
「高校時代の映画好きの友人」はオンタです。
オンタがオンタの太腿や手を撫で摩ってくるそうです。
高校生だっただけにどう断ってよいか分からなかったみたいで、黙って映画を見てたようですが…
一度ぼくもいっしょに見に行ったんですが、ぼくはなにごともなく、その友人は手を握られたそうです。
やってた映画は『スターウォーズ』と『魔界転生』の二本立てでした。( ;∀;) カンドーシタ
76
:
夕凪
:2006/07/16(日) 14:16:17
東京案内 №4
『東京案内』(第4号、昭和29年10月1日、黄土社)
1.渋谷特集
?谷底の盛り場?道玄坂附近?鐘の音
?街のこえをきく座談会?澁谷センターを科学する
2.青線コッソリ案内記・・・・・成野一夫
※残念ながら、渡辺寛氏の赤線記事は掲載されていませんでした。
77
:
鷹目
:2006/07/16(日) 17:49:44
RE:東京案内 №4
>夕凪さん
毎度です。『東京案内 №4』には渡辺氏は執筆していないとか・・・。う〜む、他の号はどうなんでしょう。でも渡辺氏ではないけれど青線案内も面白そうですね(笑)。
78
:
夕凪
:2006/07/16(日) 18:41:07
東京案内 №5 次号予告
『東京案内』(第5集 クリスマス号、昭和29年11月初旬発売予定、黄土社)
特集☆歳末経済学☆金になる東京、金にならぬ東京
東京港特集−クリスマス随筆−
盛り場特集 東京の裏玄関−上野特集− (その他満載)
次号の予告を見る限り、渡辺寛氏の記事らしいものは無さそうです。
『東京案内』自体何号まで発行されたのかは分かりませんでした。
79
:
鷹目
:2006/07/16(日) 20:01:24
東京案内
1〜3集まで季刊で、4以降月刊になったですよね。今同じような内容の本って出しても宝○社ぐらいですかね。そう考えると昭和30年代高度成長期は面白い時代ですね。
80
:
しにょ〜る
:2006/07/28(金) 00:08:42
島原
大変ご無沙汰しています。こんなムックが出ていました。
田沢裕賀 『遊楽図と歌舞伎図 日本の美術 No.483』 至文堂
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4784334831/249-1520046-2151549?v=glance&n=465392
洛中洛外図屏風や四条河原図屏風など、近世初期の京の遊里を描いた美術を解説したものですが、巻末に、著者と輪違屋主人・高橋利樹さんとの対談「島原の太夫とその文化」が収録されています。
81
:
鷹目
:2006/07/28(金) 23:57:53
お久しぶりです。
>しにょ〜るさん
お久しぶりです。
本の情報ありがとうございました。早速注文しました。見る、読む、考えると三つ楽しめそうな本ですね。来るのが楽しみです。
私個人ではセブン&ワイで注文しますけどアマゾン利用者ってやっぱり多いのかな・・・。
82
:
yutaka
:2006/08/05(土) 11:00:07
荷風!vol 9
にちぶんムック「荷風!vol 9」創刊の新宿特集から数年経っていますが、今回も新宿特集です。
赤線時代の2丁目など未見の画像もありました。ちょっとお勧めです。
http://www.nihonbungeisha.co.jp/books/pages/ISBN4-537-11444-4.html
83
:
鷹目
:2006/08/10(木) 00:14:02
RE:荷風!vol 9
>yutakaさん
毎度です。すみません、遅レスで・・・。
荷風!も9号目なんですね。6号までしかまだ購入していないので急いで残りを揃えます(笑)。遊里関係の記事がなくてもこのムックは結構楽しんで読んでいます。
84
:
夕凪
:2006/08/19(土) 23:45:50
住吉大社 夏越の祓
●名越女の記念帳を成すにあたりて
抑も我が住吉新地の開発は大正11年5月5日、
菖蒲帷子風薫り、浅沢沼の杜若ゆかりの色も類なき、
目出度き端午の日にそありける、
かくて年と共に発達し、席貸料理屋の数も加はり、
南大阪の人気を茲指定地の一角に集め、
芸妓舞妓に美人あり、妓昌の向上やむ時なき勢ひとなりたり、
これしかしながら挙廓一致の力とは云へ、
まさに驚異に値すと餘品たゝへも無理ならず、
されど新開の地なればこそと云ふ重き行事もなきに
占部寺岡正副取締以下議員役員の面々、
何をかふところの賑わひともなりぬべき事をこそと
思案し居たる折から昭和4年7月30日、
住吉大社にて名越の祓再興の事ありたり(以下略)
※本書には住吉新地の席貸料理屋、芸妓等の写真多数あり
85
:
:2006/09/30(土) 08:21:16
木江遊郭跡 他
ご無沙汰しております。
近々、瀬戸内海の島の遊郭跡を散歩し、銭湯にいくつか入って来ようと考えています。
予定しているのは、以下の遊郭跡&銭湯ですが、何か情報をお持ちの方があれば、ぜひご教示下さい。。。
大崎上島 : さくら湯 〜木江遊郭跡散策
大崎下島豊島 : 豊島温泉 〜御手洗遊郭跡散策
倉橋島室尾 : 西の湯、さくら湯 〜音戸遊郭跡散策
呉 : 石川湯 〜呉・朝日町、吉浦新地跡散策
86
:
嶋原G
:2006/09/06(水) 23:15:03
木江はすごいらしい
木造高層ファンの私としましたら、木江は凄いらしいです。
木造5階建てもあるとのことです。
道幅が狭いのに木造3階が乱立する町並みは素晴らしいと思います。
87
:
夕凪
:2006/09/07(木) 01:11:01
おちょろ舟
夕やみ迫るころ、港の両岸の突堤に赤旗が高く掲げられると、
ラッパの合図と共に数十隻の屋形式のおちょろ舟がいっせいに
沖合いの泊まり船をめがけて漕ぎ出し、先陣争いをした。
船に着くや女は猿(マシラ)のように身軽く船によじ登り、
船人と直接交渉のあげく一夜妻となる。
そして翌朝、迎えのおちょろ舟に乗り、別れを惜しむ。
船内での遊興が別段航海に支障がないこと、
或はともすれば荒みがちな船員の心に人間味を取戻させる
ということで人気を呼んだ。(中略)
一隻のおちょろ舟に平均五、六人の遊女が乗り合わせ、
ちょろ押しと称する船員くずれの男によって操船される。
遊女たちの置屋は普通の人家とかわらず点々と散在していたものである。
某本ヨリノ孫引キデス
被免許地廓接岸の船舶に出稼ぎは構わないが、
二十四時間を越えてはならないとの規定があったそうです。
既に江戸末期、大崎下島・御手洗等からの遠征おちょろ群と
尾道妓楼衆との間でもめごとが絶えなかったそうな。
※おちょろはオジョロ(女郎)の転訛だそうです。
○比較的入手しやすいモノとしては
加太こうじ編『色街−日本の名随筆 別巻?』(1992年、作品社)に
井伏鱒二の「消えたオチヨロ船」と言う一文が興味深いかと思います。
88
:
黄線
:2006/09/07(木) 15:50:59
木江のチョロ
鷹目様と皆様、初めて書き込みさせていただきます。
ナカムラ様
瀬戸内の遊女の風、チョロについて某本より引用いたします。
木江では遊女をおく置屋があり、チョロはその楼主の所属の場合もあり、チョロをのみ持っている人もあった。置屋にチョロを持っているものの場合、チョロ押しは、おかにいる時は、船を洗ったり、水をくんだり、風呂を焚いたりし、それがすむと、寝ている。夕方になると女たちをのせて沖へ出て行く。沖からは霧笛を吹く。その吹き方によって何楼の誰をよんでいるかが判る。(某本より)
広島木ノ江名物のチョロですが、もとは瀬戸内の各港にあり、制度は港々で多少違ったそうです。大崎上島のある古い港では、今は勿論考えられないことですが、時には良家の子女も加わることがあったそうです。娘が嫁に行って恥をかくことがあってはならぬと、一通りのことを覚えさせるために、そういうことをさせた親も時にいた時代もあったそうです。相手をした船乗りもなじんだ女が豪家へ嫁に行ったと聞くと、いつまでも懐かしがったそうです。なんだかホノボノとするエピソードですが、さらにに引用しておきます。
周防では上関に一番いい女郎がいたそうで、そこの女たちは、声の修行のために、チョロで沖の方へ出かけ、師走の時雨空の下で、カン(寒)の声をとるとて長襦袢一枚に三味線をかかえて唄ったものだという。チョロオシにはなかなかの権力があって、声が出ねば鞭打ったものだときいた。毎日毎日寒い日を出て行くので、喉はさけて血を吐くことも多かったという。そうして一人前になったとか。遊女の話には、こうした痛ましいものが多いい。(某本より)
海の交易が活発な時代、交易船だけでなく時には海賊たちも、相手にしたかもしれない、瀬戸内ならでは独特の遊郭巡りの旅が、好天といい湯に恵まれるといいですね。
89
:
:2006/09/07(木) 23:45:33
おちょろ舟
>島原Gどの
そうなんです。木造の造船技術なのでしょうか、木造の高層の建物があるようです。
木造3階建の徳森旅館に泊まろうとしたら、廃業でした・・・。
でも、洋風の映画館だった建物などもあり、楽しみにしています。
日曜日から、3〜4箔で回ることにしました。
>夕凪どの
わざわざ、文献を転記していただき有難うございます。
相変わらず、考証(高尚)的ですね・・・。
昨冬尾道に行ったのですが、尾道辺りと競合したとは、興味を持ちました。
>黄線どの
>沖からは霧笛を吹く。その吹き方によって何楼の誰をよんでいるかが判る。
実に詩的で、優雅ですね。。。
御手洗には、掘り出された、遊女の墓があるそうです。
投げ込みではなく、墓を建ててもらえたということは、それなりの扱いをされたということなんでしょうか。
90
:
風俗散歩
:2006/09/09(土) 19:54:09
雑誌新刊
本屋で、「別冊歴史読本 歴史の中の遊女・被差別民 謎と真相」という本を見かけました。巻頭カラー2頁と本文50頁ぐらいを木村聡さんが執筆しています。「秋田紀行 遊廓跡を訪ねて」は、新しい部分でしょうか。
http://huusan.exblog.jp/
91
:
:2006/09/10(日) 00:53:26
ちょっと気づいたので・・・・
鷹目さん、皆さん、たいへん、ご無沙汰しております。
夕凪さんの「おちょろ舟」についての引用、原典は、
沖浦和光『瀬戸内の民俗誌―海民史の深層をたずねて』
(岩波新書 1998年7月)
だと思います。
この本、民俗学者による「おちょろ舟」に関する聞き取りして、
貴重です。
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/200602170000/
92
:
黄線
:2006/09/11(月) 02:26:32
黄線
>ナカムラ様
私の引用は民俗学者、宮本常一氏の「〜周防大島を中心としたる〜海の生活誌」からです。
遊女に関する内容は数頁ですが、観察眼に優れ、文章がまた素晴らしいので、時々ページをめくっています。
>墓を建ててもらえたということは、それなりの扱いをされたということなんでしょうか。
どうなのでしょうか?瀬戸内のそういった島に住む港の女には、くろうとだけでなく、港に船が入ったときだけ遊女になる女など、いろいろな種類の女がいたようです。大崎上島へ行ったことがないので想像ですが、遊女塚でなく墓なら近隣に親族がいたのでしょうか?その後、血縁が絶えてしまったのでしょうが、島の人間模様が関係するのかもしれないですね。
鷹目様
入院されていたとは全く知りませんでした。
楽しみのこの掲示板に、鷹目様の書き込みが無かったのはそういう事だったのですね。
どうぞお大事に。これからも時々書き込みさせていただきます。よろしくお願い致します。
93
:
k_taii
:2006/09/11(月) 23:42:46
写真がなくなって
しまったので、今回温泉旅行を兼ねて上田に行ってきました。昔しあった遊郭は戦時中に
閉鎖されたようなので、誰に聞いても場所がわかりませんでした。廃止された上田花園駅
の近くで北国街道沿いにあったそうなのですが、現在は市街地なので場所の特定はできませんでした。戦後の盛り場であった旧袋町ではスナック、風俗店などが隙間なく立っており
古い建物はありませんでした。次にしなの線の坂城駅へ。ここには 坂木宿 ふるさと
歴史館 がありますが、その建物が一時期遊郭として使用されていたとのことでした。
建物は三階建てでキレイに修復されていますが、遊郭として使用されていた雰囲気は
いっさいありませんでした。近くにも古い建物はいくつかありましたが、これが元遊郭
というものありませんでした。泊まったのは長野 善光寺 の精進落としで賑わった
戸倉上山田温泉です。朝早くかつて赤線があった場所を歩きましたが、その当時の建物
で残っていたのは3軒ぐらいでした。以前はこれこそ赤線という和風の建物がありましたが、もう残っていませんでした。最後にしなの鉄道の大屋駅の近くにあった遊郭の建物に
行きましたが、残念!1月前に取り壊された後でした。しかし近くに雰囲気のいい料理屋
の建物があり見る価値のあるものでした。温泉でお年寄りの何人かに赤線のことを聞いた
ところ更埴にもあったそうですが、場所は教えてくれませんでした。
94
:
夕凪
:2006/09/19(火) 02:38:18
おちょろ舟 の引用
??遅レスですみません。
●先日の書込みの原典は、小川吾一『木ノ江町通俗史』および古老からの
聞き書きのようです。また引用した本自体は2000年発行のものです。
(参考)ttp://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0247020/top3.html
●この関係は、先人も「特殊な世界だけに記録は少なく、随筆家が何かに書いている位です。
(中略、極一部の廓を除いて)組合にも記録は残っておりません。」と記しており、
木村聡さんも単行本や月刊誌の記事の中に市史の中の記事を引用しているものが
見られると嘆いておられ、同時に御自分を戒めてられますね。
いずれにしても大部分の人は体験した事の無い世界であり、触れられたくない部分
でもありますので、その記録等はごく限られたものしか残っておらず、
同じものの使い回しになってしまうのも、止むを得ないことかもしれませんね。
もちろん引用等にはルールがありますが。
●ゆまに書房より下記の資料モノが今年の12月より刊行開始されます。
コレクション・モダン都市文化 第2期 全20巻
昭和初期に花開いたモダン都市文化の魅力が満載。
詳細な年表も付したモダニズム研究の基本文献。
■第22巻 花街と芸妓
松川二郎『三都花街めぐり』(1932)/ 三宅孤軒『芸妓読本』(1935年)/
エッセイ「モダン都市の花街と芸妓」
■第34巻 遊廓と売春
『全国遊廓案内』(1930)/ 市川伊三郎・他編『新吉原遊廓略史』(1936)/
エッセイ「モダン都市の遊廓と売春」
?? (参考)ttp://www.yumani.co.jp/detail.php?docid=311
95
:
鷹目
:2006/09/20(水) 00:41:19
長文随時復帰
遅レスすみません。さらっと掲示板なり、メールなりを見る分にはさほど問題ないのですが、長文書き込みはまだ少し疲れますので暫くは遅レスになると思うのでご容赦ください。。
>ナカムラさん
お久です。伝言板での速報、ありがとうございました。
大崎上島、木江はで3階建の妓楼跡に出会えたようでよかったです。しかし廃墟化が進んでいるとは残念です。
>風俗散歩さん
お久しぶりです。
『別冊歴史読本 歴史の中の遊女・被差別民 謎と真相』の木村さんが書かれている秋田紀行は新しくかかれたものだと思いますよ。それ以外でもこの本は読んでいて面白いのでお薦めですよね。
>順子さん
お久しぶりです。
私も沖浦氏の『瀬戸内の民俗誌』持っています。良書ですよね。現在春に沖浦氏がだされた『「悪所」の民俗誌』を疲れない程度で読んでいます。こちらも面白いですね。
>黄線さん
はじめまして。遅レスですみません。
おちょろ舟、木ノ江について書き込みありがとうございました。未読の本なので非常に興味を覚えました。
ご心配をおかけして申し訳ございませんでした。今後とも宜しくお願い致します。
>k_taiiさん
お久です。信州遊里の旅、お疲れ様でした。 建物の残存率もすくなく、寂しい様子ですね。以外と信州方面、みなさん手薄な感じですよね。もっと資料が手元にあれば、もう少し面白いかも知れない場所ですね。
>夕凪さん
毎度です。おちょろ舟文献の紹介ありがとうございます。私も夕凪さん、木村さんと同じ意見です。それとは別に記録が少ない現状を何とか変えていきたいものです。なかなか難しいことですけどね。
ゆまに書房、面白そうですね。12月が待ちどおしいです。
96
:
夕凪
:2006/09/23(土) 10:11:12
飛田遊廓
飛田遊廓はその字を音で読んで「ヒデン」、略して「ビタ」、
又は「ジャンプ」と呼ばれる。
大阪のずっと南、例の林芙美子の書いたジャンジャン横丁を南へ、
関西線のガードを抜けて、飛田の大門まで5・6町あろう。
飛田は遊廓としての面白さより、この5・6町の飛田道に、
より特長があり、生彩があるといえよう。
同じ大阪の遊廓である松島に比して、歴史も浅いし、規模も小さい。
が、すでに古色をおびて老衰に近かった松島にくらべると、
新興の飛田は、建築や調度も新鮮味あふらせ、昭和のはじめ、
ダンスホールやネオンサインのモダニティーを採入れたのも、
全国で飛田がその嚆矢であった。
そして、その間の戦争で松島は全焼したが、飛田は半焼にとどまって、
その面影をのこした。
1950年頃の長谷川幸延の小説より抄録
※一応、特別OFF会協賛のつもり?
97
:
夕凪
:2006/09/27(水) 08:13:28
海の赤線部隊
― 木ノ江港に灯のつくころは 沖へ沖へとチョロがでる ―
絵のように美しい瀬戸内海をつっ走って大崎上島木ノ江の港につく。
夕暮れが港を包むころ波止場に待機していたおちょろ船20隻が湾になった
港の中央を目指して?おでまし?になる。
以前は碇泊船めがけて激しい客取りの先陣争いをしたものだが芸者(女郎衆)が
争いすぎたため船と船の間に挟まって死んだり、海に落ちたりしたもので
あるので、戦後は先陣争いはやめることになった。
だが沖に向かって集結するおちょろ舟は芸者たちが女とは思えない腰つきで
舟を漕ぎながら夜の獲物をあさっていく情景はまさに奇観であり壮観、
薄暗い海に咲いた花のようだ。
1955年頃のグラフ雑誌より抄録
98
:
:2006/10/11(水) 02:36:23
木江
ナカムラです。
木江の写真をアップしました。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~masayuki/kinoe20060911_12.html
99
:
嶋原G
:2006/10/07(土) 18:53:59
ありがとうございます
ナカムラさん、木江写真拝見させていただきました。
木江には「広角レンズを手に入れてから」と思ってましたが、
急に行きたくなりました。ありがとうございました。
100
:
彷徨人
:2006/11/12(日) 11:02:21
橋本の火事について
京都府八幡市橋本で火事があり,3棟全焼というニュースをききましたが,旧遊廓街は大丈夫
だったでしょうか?
101
:
ナカムラ
:2006/11/12(日) 16:40:57
北近畿、小樽行
ナカムラです。
11月下旬に向けて、以下の遊郭跡地(銭湯も)散策する予定でおりす。
何か、アドバイスをいただけないでしょうか。恐縮ですが、よろしくお願いいたします。
●宮津:万年町新地、魚屋町、新浜町新地界隈
●東舞鶴:市場竜宮町界隈
●西舞鶴:朝代神社界隈
●綾部:若松町界隈
●福知山:猪崎界隈、中ノ町界隈
●小樽:手宮タヌキ小路界隈
日蓄小路界隈
旧北郭(梅ヶ枝町界隈)
旧南郭(松ヶ枝町界隈)
102
:
鷹目
:2006/11/12(日) 17:40:27
(無題)
>彷徨人さん
毎度です。
橋本の火事はこれですね。↓
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20061109i501.htm?from=main5
番地までは判りませんが、ずばりその地かその近隣なのは確かです。でも木造平屋が現場だったみたいなので多分大丈夫かと。
>ナカムラさん
毎度です。
福知山に関しては初夏に訪れました。猪崎は6、7軒残っています。そのうちいい感じの旧楼が3軒ほどというところですね。中ノ町は旅館や風俗店、飲み屋がある小さな歓楽街となっています。
その他地域は私は未見なので、ほかの人のアドバイスをお待ちします。
103
:
嶋原G
:2006/11/12(日) 21:15:55
ナカムラさんへ
こんばんは。
去年に朝代へ行ったとき、5〜6軒残存でした。
木造三階建てが1軒ありました。
ついでに、綾部の旧郡是(グンゼ)本社は見応えあります。
104
:
ナカムラ
:2006/11/14(火) 21:17:01
北近畿行
>鷹目どの
>嶋原Gどの
有難うございます。
明日、新幹線の始発で出発します。
北近畿・京都行の最終日は、中書島の旅館に泊まって、「新地湯」に浸かります。
翌日は、撞木町遊郭、橋本遊郭、枚方新地と廻ろうと考えています。
105
:
鷹目
:2006/11/16(木) 17:00:16
堺
先日、今里Xセンセより下った指令により堺竜神栄橋に行ってきました。ここにも訪れる方々が最近堺方面を訪れ写真に収めていました。その中で前に見たある物件の写真が見当たらないために下った指令でした。
まず阪堺電車の御陵前でおり臨江時へ。こちらには乳守之旧跡なる石碑と乳守の遊女に崇められた乳女郎さま(乳守宮)の確認のためです。その二つ境内にありましたが、それ以上に乳守遊廓との関連がある遺物は見つかりませんでした。
そのまま、徒歩で竜神栄橋へ。問題の物件は物の見事に建売住宅へと変貌しておりました。星型の窓が印象的な建物だっただけに非常に残念です。
106
:
今里X
:2006/11/17(金) 10:23:22
いろいろ
>ナカムラさん
小樽は北廓・南廓の両遊里とも昔の面影はないです。
色内・手宮もニオイを感じないくらいの変わり様です。
ところで綾部の若松町は何かあるんでしょうか?
>鷹目さん
お疲れ様でした。
龍神栄橋は空襲を受けた関係か戦後に急拵えで建てたような建築が多いような感じだったので仕方ないですね。
乳守も現在建ってる住宅の前の時代の建築物が残っていれば良かったんですが、まるごと同時期に建て替えられたようで残念です。
107
:
今里X
:2006/11/17(金) 10:39:00
回禄の災
>彷徨人さん
先程下記のURLからニュースを見ましたが、現場は橋本遊廓とは駅を挟んでの反対側の町名なのでだいじょうぶかと…
これから冬場はこわいですよね。
うちも近くに倉庫に使われてるあばら家があるので近くで出火するとヤバいです。・・・(;´Д`)ウウッ…
108
:
彷徨人
:2006/11/18(土) 22:49:33
お礼
>今里Xさん
わざわざお知らせありがとうございました。今年の初めにこの橋本遊廓を訪れ,立派な建物と町並みが好きになってしまいました。先日たまたま車の中でこの火事のことを知り,驚いたものですからさっそくおたずねした次第です。ありがとうございました。また機会があれば,行きたいと思います。
109
:
ナカムラ
:2006/11/18(土) 23:34:35
綾部・月見町
>今里Xどの
今さっき、3泊4日の京都行から帰館しました。
綾部は若松町をウロウロしていても何も見つからず・・・。
歩いている古老をつかまえ確認すると「月見町」とのこと。
数軒それらしい建物がありました。
松本湯の奥に明治時代の旧松本湯が曳家で移され、残っていました。
木村氏も書いていましたが、「北」は収穫が少ないようですね。
一応、小樽は以前から気になっているので、とりあえず見てきます。
今朝、橋本を2時間くらい歩いたのですが、洋風の印象深い一軒が新築の家に変っていました。3年振りですが、他にもいくつか建物が減った気がします。
多津美のダンスのステンドグラスとアーチ型の張見世の跡(?)を見ることができました。
110
:
ナカムラ
:2006/11/25(土) 00:47:48
小樽行
>今里Xどの
小樽行から帰館しました。
やはり、南郭、北郭、手宮タヌキ小路、日蓄小路、信香町と「ニオイ」もしてませんでした・・・。(笑)
強いていえば、花園町の飲食店街の奥に怪しい雰囲気が残っているというくらい・・・。
その代わり、銭湯と寿司を堪能してきました。
111
:
今里X
:2006/11/27(月) 18:56:49
小樽遊里史 幕末〜明治
●遊里のはじまり
『小樽海路にお神威なくば 連れて行きたい奥地まで』
小樽の町は松前藩政時代にオタルナイ河口(小樽市東端)の漁港を現在の小樽市住吉町辺りに移転させ漁港を開いたことに始まるそうで、移転後もオタルナイの地名はそのまま引き継ぎました。
漁港移転では出稼ぎの和人の漁師たちとともにおそらくアイヌ人も移住してきたようです。
当時は海路しかない上に、江差から小樽に船で渡る途中に海上の難所でアイヌが崇める神威(カモイ)岬があり、和人の女は通るのを戒められていました。
安政2年、幕府の役人が妻を伴い神威岬を越え小樽に無事到着、このできごとで迷信は払拭されることになり、和人の女の渡航が解禁となると旅籠などに飯盛りが現れ、飯盛りとともに『浜千鳥』などと呼ばれる賎娼もあらわれました。
安政4年、無宿者や博徒たちが悪事の魂胆をめぐらすことから後の金曇町となるコンタン小路という通りができましたが、アイヌも移住していましたので、古くはアイヌ人集落のコタンだったのではないかと思います。
役人も取締りをしましたがなかなか改善できず、コンタン小路を無くすことはできませんでした。
本土から渡ってきた無宿渡世の者が根を下ろし小樽最初の侠客となり、この頃から飯盛りや浜千鳥をコンタン町に束ねて管理された売春街いわゆる遊廓をつくりあげていったのではないかと思います。
安政6年にはコンタン町という遊所として存在していました。
コンタン町は金曇(コンドン)町と改められましたが住人達はコンタンと呼びつづけ、金曇町と書いてコンタンチョウと呼ぶようになります。
●金曇町遊廓
明治2年、オタルナイを小樽に。
明治4年、開拓使は金曇町の遊女屋や料理屋を遊廓と指定、資金援助をしたり見番制度を整えようとします。
明治6年2月「娼妓解放令」布告で遊女屋が貸座敷となり、金曇町および新地町が貸座敷の免許を受けます。
しかし、この時点での実際の営業地域は特に金曇町に集娼されていた訳ではなかったようです。
明治10年5月「札幌小樽貸座敷並ニ芸娼妓営業規則」により貸座敷を金曇町と新地町に限定し集娼。
当時は廓内に17〜8軒、芸妓、娼妓、二枚鑑札で遊廓花街の区別はなく、廓外の料理屋・旅籠では貸座敷いわゆる遊廓の営業ができなくなってしまいました。
明治10年11月再び料理屋の貸座敷営業を3年に限り許可し、入船町辺りを中心に再び散娼状態に…
見番の始まりは、この頃、明治10年もしくは明治11年の浮田見番からだそうですが、まだ芸娼妓を管理する見番としての機能は備えていませんでした。
●住ノ江町遊廓
散娼状態にもどったため、民家や商家と貸座敷が軒を連ねることとなり、住民の陳情等で遊廓を移転することになったようですが、明治14年大火で金曇町新地町遊廓を含め焼失。
焼失戸数は560戸とも580戸とも伝わっています。
『かわい金曇町何して焼けた 寝てて金取った其の罰で 三十三軒ばらっと焼けた』
明治14年5月芝居町から出火、明治14年5月21日金曇町から出火、明治14年4月8日廓内から出火、などの諸説あり、新暦旧暦としても食い違うのでもう少し調査の必要あります。
また、焼失した妓楼数を23軒と俗謡を紹介している文献もあり、後に新遊廓移転時の業者数26名に含まれた入船町の2〜3の支店を引くと近い数字になるので、1名1軒という計算では23軒焼けたというのも可能性のある数字です。
明治16年、新たに切り開いた土地を住ノ江町と名付け新遊廓指定地とし、金曇町と新地町以外の貸座敷もすべてここに移転させることとなり、入船町の2〜3の支店も含めて26名の貸座敷業者が移転完了。
当時の妓楼は、南部屋、丸立(おそらく丸辰のこと)、大友楼、小林楼などがあったそうです。
明治17年、曲北、柳川、丸辰、早川などの貸座敷が共同で本格的な見番である住ノ江見番を発足するがすぐに解散、その中の1人が個人経営ではじめた曙見番が長続きし、これを小樽の見番の元祖とするようです。
この年あたりから芸妓は廓内に居住しないこととなり、緩やかに遊廓と花街が分かれていったのではないかと思います。
住ノ江町遊廓はかなり繁昌したようで営業者数も増加していきました。
住ノ江町とは別に、明治25年頃、廓外の妙見町に曖昧屋ができはじめ、明治27年に色内見番発足。
●松ヶ枝町遊廓
明治29年4月27日、住ノ江町遊廓の南楼から出火し遊廓とその付近がまたもや焼失。
同年、新遊廓指定地として入船町奥が指定されますが、当時は人家と離れた土地であり、貸座敷業者の移転反対運動により移転延期、一部は住ノ江町で営業を続けていたようです。
明治33年7月、入船町の奥地を造成し住ノ江町遊廓の業者が移転、小樽の町から遠くて淋しい場所だったので新遊廓に移転せず廃業する者もいたそうです。
今までの文献や資料であまり取り上げられていないですが、この明治33年7月の移転でかなり明確に遊廓と花街が、貸座敷と料理屋が分かれたのではないかと思います。
この新遊廓は小樽の町側から柳町・京町・仲ノ町・辨天町・羽衣町と5つの区画でできており、一辺が300メートル弱のやや変型した四角形で、大阪の飛田新地とほぼ同じ形・面積で、姿は大遊廓ですが実際に移転した時の軒数は30軒足らずではないかと思います。
松ヶ枝町の町名は大正4年の町名大改正で名付けられたもので、それより前の明治40年に北廓ができてからは北廓に対して南廓と呼ばれたのは確かですが、さらに以前の開業当初は単なる遊廓とでも呼ばれていたんでしょうか?
全国遊廓案内(昭和5年)に小樽南仲桝遊廓と書かれていることも合わせて謎が残ります。
実際に小樽の市街地から歩いてみましたが、築港から約2.5km、当時の町の中心の南小樽駅周辺から約2km、だらだらとした上り坂が続くので、遊びに行くのもかなり億劫な場所だったと思われ、住ノ江町とくらべると立地条件は圧倒的に不利です。
●花街の変遷
先にも書きましたが、明治25年あたりから妙見町方面に曖昧屋ができはじめ、明治27年に色内見番も発足します。
明治29年、住ノ江町遊廓が焼失した後から妙見町方面が発展し料理屋が多数できたそうです。
貸座敷営業の許可はされていないはずなので、芸妓中心の花街という建前で営業していたのでしょう。
しかし、料理屋とは別に曖昧屋の酌婦が娼妓の役割をしていたと思われます。
明治30年、丘陵地帯で民家も少なかった花園町を地主の依頼で入船町の見番業者が開発をはじめます。
明治31年、花園町の料理屋、見番などが竣工、その後も周辺の開発が進み一大歓楽街となっていきます。
同年には稲穂町にも見番ができ、明治33年に入船町の奥地に貸座敷が移転してからは、歓楽街は妙見町方面となり、その後、入船町・妙見町・稲穂町の中央に誕生した生まれながらの花街である花園町が小樽の歓楽街の中心となってゆき、この状況は100年以上経った現在まで続いています。
●梅ヶ枝町遊廓
明治30年代は、貸座敷が移転した後に料理屋が残った入船町花街、新たに発展した妙見町花街、それに続く稲穂町花街、その三ケ所の中心に産声をあげた花園町花街など、料理屋と曖昧屋の体勢で、ほぼ遊廓と変わらない状況が旧小樽の北に広がっていました。
明治13年に開通した鉄道ともに整備され拡大されつつある小樽港(旧手宮港)が手宮方面にあったので、市街地の発達していく方向は誰の目にも明らかだったからだと思います。
明治44年には石炭積出し用の世界最大級の高架桟橋が完成、全長約400m、海上部分約300m、高さ19mの偉容だったといいます。
小樽港の発展とともに船員工員や沖仲仕相手に飲食店において密売淫が行われ、それを防止するためか遊興税を当込んでか、手宮裡の原野を切り開き新遊廓が誘致されます。
明治40年3月28日遊廓指定地に許可され、明治41年に貸座敷業者16軒開業、先に存在する遊廓に対して北側にあるので北廓と呼ばれます。
大正4年、町名大改正が行われ花見町との案もあったそうですが、南廓が松ヶ枝町と名付けたのに呼応して梅ヶ枝町と名付けられます。
------------------------------------
幕末のコンタン町に始まった小樽の歓楽街は、明治の終わり頃、南廓北廓の2遊廓、花園町を中心として広がる花街、点在する曖昧屋や後家屋と呼ばれる私娼窟、という形で完成したのではないかと思われます。
大正〜現代は校正中、しばしの御猶予を…
112
:
今里X
:2006/11/27(月) 19:23:50
小樽
>ナカムラさん
ナカムラさん小樽行に合わせて協賛企画(笑)です。
後編はかなり軟らかい内容になりそうです。(゚Д゚;)
ところで月見新地は遊廓というより花街だと思います。
113
:
ナカムラ
:2006/11/27(月) 22:04:05
郡山・赤木町
>今里Xどの
何か、凄いですねぇ・・・・・・。
花園、妙見だけでなく、稲穂や色内にも見番があったのですね。
「消えた赤線跡放浪記」にあった、郡山・赤木町と堂前町を歩いてきました。
赤木町は、木村氏の記した通りです。
堂前町にも当時の建物は見当たりませんでしたが、路地の奥に風俗店があったりと、かなり怪しい感じが残る街でした。
114
:
今里X
:2006/11/27(月) 22:35:26
『はるか、ノスタルジィ』
下記のようなわけで、花園町の独特の雰囲気は起源そのものが歓楽街だからみたいです。
あれだけノスタルジックな市街地なのに遊里の名残りが少ないのは惜しいですね。
『蟹工船』&「特高に虐殺」でおなじみのプロレタリア作家小林多喜二氏の元カノは色内・稲穂あたりの曖昧屋の酌婦だったそうです。
日蓄小路がそれらの名残りではないかと考えてるんですが、確証はないです。
たまには文学作品を読んでみないといけないなぁと思いつつ買いもしてないです。
115
:
今里X
:2006/11/30(木) 16:49:12
感想文?
エメラルドの砂・石田ピカりさん主演の『はるか、ノスタルジィ』見ました。
以前に小樽に行った前後に見ようかと思ったけど3時間近くの長い映画なのでめんどくさくて見ないままでした。
大林宣彦監督作品は結構知ってたつもりですが、呉一郎の松田洋治氏が主演の1人だとは恥ずかしながら見るまで気付いてませんでした。
学制服姿の松田洋治氏、記憶喪失、離魂病、作中作、記憶の転生などなど、「軽めの『ドクラマグラ』かよ!」とツッコミたくなる内容…
主人公の義母が勤める私娼街のシーンはセット撮影みたいですが、曖昧屋の密集する路地風に自然な感じで仕上げられてたのでおもしろかったです。
116
:
ナカムラ
:2006/11/30(木) 20:45:29
『はるか、ノスタルジィ』
『はるか、ノスタルジィ』はロードショウで見て、ビデオも買って何回か見ました。
セットに気合を入れている映画で、今里Xどのが言われているように、曖昧屋の雰囲気がいいですね。映画のパンフレットでは、日畜小路の辺りだとコメントしていた気がします。
原作者(山中恒)が撮影現場に訪れた時、大林監督がカメラを立てていた場所が、まさしく原作者の住んでいた場所だったそうです。大林監督はそれを知らなかったそうで、山中は運命的なものを感じだそうです。
117
:
:2006/12/01(金) 20:54:36
新吉原・伏見町通りの現況
ご無沙汰しております。
ちょっと報告です。
11月28日「三の酉」で1年ぶりに新吉原に行き、
伏見町通りに残っている赤線時代の娼館を見てきました。
昨年まで健在だった1軒(旧:金よし)が更地になっていて、
とうとう残るは1軒(旧:プリンセス)だけになっていました。
もはや「風前の灯火」といった感じです。
築60年近い老朽建築だし、行政も文化人も、
娼館なんて目もくれませんから、保存は無理なのですけど、
時代の生き証人が消えていくのはやはり残念です。
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/200602170000/
118
:
今里X
:2006/12/06(水) 22:43:18
鷹目小唄(大阪編)
鷹目小唄(大阪編)
チンチン電車の今池降りて
おばちゃん花売る本通り
大門はいった角の派出所
おまわりさんと目が合った
上本町から鶴橋こせば
ここは猪飼野湿地帯
アーチのネオンに吸い寄せられて
新地公園盆踊り
秋風しみて人恋しくば
尋ね来てみよ和泉なる
信太の森の葛の葉きつね
山と呼べども町に住む
ミドリの各停ひらりと乗って
ボーナス片手に千林
月も見てます今宵の出会い
裏の滝井の運試し
九条新道ぶらりと歩きゃ
茨住吉初もうで
松島新地をぶらりと歩きゃ
おとそ気分で姫はじめ
飛田・今里・信太山・滝井・松島の順です。
季節ははっきりしないのもありますけど、春・夏・秋・冬・お正月に設定しました。
上から四つは花・鳥・風・月を取り入れてみました。
7・7・7・5を2回連ねて1コーラスにしました。
思い立って2、3時間で書いたのでいい加減なものですが、マニアックなネタも入れることができ、ちょっぴり自己満足してます。
なにも鷹目さんの普段の行状を書いたものではありません??
119
:
夕凪
:2006/12/10(日) 23:52:58
築港大潮湯
大正3年(1914年)大阪市港区に大潮湯と言う海水を利用した一大ヘルスセンターがありました。
その規模たるや建坪3千坪、延坪1万坪、南欧風の4層の大建築だったそうです。
この大潮湯の別館に温泉割烹・ご宴会場の「志ほゆ花壇」と言う施設があり
そこのパンフレットに下記のような記述がありました。
○舞妓サービス・・・御宴會、御席貸、いづれも志ほゆ花壇御利用の場合は
花の如き舞妓姿のサービスガールが皆様の御手傳いをします。
●藝妓有藝仲居・・・弊舘有藝仲居と港新地の美妓連は御豫算以内で即座に・・・・・・・・。
※現物のパンフレットでも「即座に」の後は「・・・・・」となっています。
舞妓・有藝仲居はともかく、港新地の美妓連とありますが、
港新地は御存知の通り、芸妓居住指定地として許可を受けましたが、
芸妓って指定地以外でも出張営業が可能だったんでしょうか?
そして、そこでまさか・・・・・・・
※志ほゆ花壇には大は千人収容可能な部屋から、小は2〜5人用の部屋10数室がありました。
120
:
今里X
:2006/12/14(木) 00:43:30
即○即●ッド???
ま、まさか「志ほゆ花壇」で即○即●ッドですか?
大潮湯ってやはり大阪港の海水を湧かしてたんでしょうか?
古い大潮湯の写真を見たら紅葉パラダイスを思い出しました。
芸妓は居住指定地以外にも料理屋や旅館の宴会には出れるんじゃないですか?
即座に自由恋愛は無理でしょうけど…ノ(´д`*)
121
:
鷹目
:2006/12/15(金) 10:06:32
久々にカキコ
>順子さん
お久です。
吉原もひどい状態のようですね。今年は全国的に見ても取壊、荒廃が加速したと感じている年だけに来年が心配です。
また吉原も散策に出かけたいものです。
>夕凪さん
毎度です。
やはり港新地から派遣ですかね。出花をつけるという手もあるとは思います。芸妓取締規則が、どれかの本の巻末に載っていたような気がしたんで探したのですが、スミマセン不明です。
>今里Xさん
鷹目小唄ありがとうございます(笑)。よくきれいにまとめられたと感心しています。しかし、背後に気を付けねば、いつどこで監視されているか判らないですね(爆)。
浜千鳥、語源は不明です。昭和57年の『花柳風俗語辞典』には、その名前が記載されているようですが。『日本花街史』にちょろっとそこから典拠で載っていましたが、小樽地方の売春婦の名称とだけコメントされていました。
122
:
夕凪
:2006/12/30(土) 23:35:03
遊廓と橋本
明治10年(1877)3月19日、淀川対岸(=右岸=山崎側)の
東海道線京都大阪間の鉄道開通により、京阪間の通運は大きな変化を遂げた。
それまで淀川通船を利用する八幡神宮参詣者によって盛況を呈していた
京街道沿いの宿場町である橋本は決定的な衰微に見舞われた。
元遊廓の復興は必要悪として、明治20年(1887)6月京都府知事の許可を受け、
木津警察署の監督のもとに、小字北○町、中○町、○金川に遊廓地域が設定された。
楼主たちは貸座敷・芸妓・娼妓・引手茶屋・紹介業の五業種関係者で五業組合を組織し、
事務所を中○町に娼妓検黴場を兼ねて設立した。
・明治30年(1897)許可されたのは貸座敷7軒、芸妓9名、娼妓9名であった。
その後八幡紡績会社をはじめ工場などの設立もあり近隣人口も増加し、
・明治30年(1897)6月には貸座敷13軒、芸妓10名、娼妓23名となった。
明治33年(1900)11月8日京都府から貸座敷取締規則が出され、
五業組合を橋本地域貸座敷組合と改称した。
・貸座敷21軒、芸妓16名、娼妓30名の規模であった。
明治43年(1910)4月京阪電車の開通(淀川左岸=橋本側)により
京都・大阪から1時間以内で来れるようになり、
男山八幡宮への参詣者の増加によって、橋本も次第に賑わいをみせるようになった。
そして第1次大戦による空前の好景気により
・大正12年(1923)時で貸座敷46軒、芸妓60名、娼妓127名を数えるに至った。
同年7月時焼野に10万円の費用で歌舞練場兼芸娼慰安余興場を建設
しかし金融恐慌による全世界的な不況の中で(芸妓は激減し)娼妓の数だけが増え続け、
・昭和12年(1937) 貸座敷業者81名、芸妓3名、娼妓675名と数の上での全盛期を迎える。
※橋本は明治元年(1868)に戊辰戦争で大半が焼亡したそうです。
八幡市誌(1984年)より要約
123
:
夕凪
:2006/12/31(日) 00:59:21
売防法・観光開発と橋本
昭和30年12月に男山ケーブルが11年ぶりに復活した。
昭和32年(1957)1月八幡宮を中心に観光と信仰のオアシス−男山府立公園の
開発を目指し、八幡町が中心となり観光協会を設立した。
観光開発に力を入れた背景には、昭和31年(1956)5月に成立した売春防止法によって、
2年後の昭和33年(1958)に廃止が決定づけられた橋本遊廓への対処も含まれていた。
町当局としては年間町民税の3分の1が減少するのであるから、大きな痛手であり、
新しい財源を見つける意味からも観光客の導入に力を入れていたのである。
昭和31年(1956)当時80軒あった貸席は橋本貸席組合を通じて、
自民党に集団入党し法案の実施延期を要望したり、
府立公園の一環に温泉旅館に衣替えして人工温泉設置等の転業対策を講じてはいたが
2年間の猶予期間と法案の抜け穴が多い事を見越して積極的な対策は出ず、
成り行きを見守る態度が強かった。
また売春防止法完全施行後の昭和34年(1959)には温泉発掘を目指したボーリング調査を
行い、その水質を調査した結果、炭酸鉄泉(23℃)で神経痛やリウマチに効果ありと判定され、
転業者を中心に橋本温泉開発協議会を結成し、7月京都府知事から温泉利用許可が下りた。
昭和35年(1960)4月から各旅館に送水管が敷設され、「淀川温泉」として
数軒が手始めに開業する事になって、協議会も「淀川温泉三業組合」と改められた。
組合長が「転業3年目に温泉街で出直しできる」と張り切っている新聞記事も出たりしたが、
再開発できるほどの効果は上がらなかった。
前掲書より要約
124
:
夕凪
:2006/12/31(日) 10:07:58
八幡町遊廓
京都府綴喜郡八幡町字橋本にあって、
京阪電鉄橋本駅以西が全部遊廓の許可地になっている。
明治10年の創立で、歌舞伎で有名な「引窓」の「橋本の里」が今遊廓の在る所だ。
淀川、桂川、宇治川の三川の合流に沿って居るので、風景もよく夏は涼しく、
多数の綱船が出漁して、夜間の不夜城、川岸にさんざめく辺りは実に別世界の感じがある。
丁度京、阪の中間に位置しているので、こうした情景を慕い寄って来る者が多いので
花街はめきめきと繁昌し、今では貸座敷の組合員が75人おり、娼妓は470人、芸妓は30名と
言う大舞台になっている。女は主に中国、四国、九州方面が多い。
店は陰店式で、娼妓は居稼ぎもやれば、また送り込みもやっている。
遊興はもちろん時間花制または通し花制で廻しは絶対に取らない。
費用は1時間遊びが1円で、引継ぎからの一泊は56円だ。台の物は付かない。
芸妓の玉代は1時間が1円50銭で、2時間目からは1円あてである。
主なる妓楼は第二中川楼、第一勝山楼、第一成駒楼、辻本楼、第一友栄楼、藤井楼、森田楼、
辻よし、大金楼である。
昭和8年(1933)発行の雑誌より
125
:
夕凪
:2006/12/31(日) 10:53:00
京阪沿線の遊廓
先に書き込んだ『八幡町遊廓』なる一文は、
郷土研究「上方」上方遊廓号(昭和8年発行)の99ページに記載されている
『京阪沿線の遊廓』と言う記事からの100%転載です。
この記事の中で、八幡町遊廓は、伏見撞木町遊廓、伏見中書島遊廓と共に紹介されています。
でもこの記事自体が、あの『全国遊廓案内』(日本遊覧社刊、昭和5年(1930)発行)の
該当遊廓記事の極々々一部を省略し、表現も全く同じまま転載したものです。
両書とも直接の執筆者の氏名の記載はありません。
したがって同じ方が書いたものかどうかは判りませんが一応紹介しておきます。
※当時他紙の記事の転用等は多数(?)見られますのでその辺の事情を斟酌願います。
※橋本遊廓の許可・開設年度等に齟齬がありますが、検証はしていませんので悪しからず。
※既知の事でしたら年の瀬の座興として御笑納下さい。
126
:
鷹目
:2006/12/31(日) 11:50:12
橋本発祥は?
>夕凪さん
毎度です。
橋本についてカキコありがとう御座います。「あと2年で売防法成立50周年だから」と某X氏に各遊里史を充実するようプレッシャー掛けられているので(笑)大いに参考にさせて頂きます。
≫※橋本遊廓の許可・開設年度等に齟齬がありますが、検証はしていませんので悪しからず。
その点が悩みの種ですね。再開を決めた年なのか、許可が出来た年なのか、組合が出来た年なのかはっきりしない点が多いです。そもそも宿場遊里として産声を上げたようですが、それがいつ頃なのかも漠然として判明しないのも事実です。
旧妓楼が橋本の地から消えてしまう前に解明したいものですね。
127
:
夕凪
:2006/12/31(日) 12:56:55
橋本遊廓沿革誌
●橋本遊廓に関しては、橋本地域貸座敷組合が1937年に発行した標題の本が
R大学のF図書館にあるので、そのうち見てきたいと思っています。
●売春防止法は昭和31年(1956)5月12日に衆議院法務委員会で可決され、
5月21日に国会で可決されたそうです(公布は昭和31年5月24日)。
その後昭和32年(1957)4月1日に一部施行され、
そして昭和33年(1958)4月1日に刑事処分規定が施行され、
全面施行となったそうです。
このため昭和33年(1958)3月31日が赤線最後の日となる訳です。
したがって458日後の2008年4月1日は売春防止法の全面施行50周年となります。
●山崎の渡しは、広瀬の渡し分も吸収し、対岸への唯一の足として
戦後も細々と続けられたが、橋本遊廓の消滅(?)等により、利用者が激減し、
昭和37年頃には全く廃止されてしまったそうです。
(昭和62年のある雑誌より)
?? (参考)ttp://www007.upp.so-net.ne.jp/ofg/watasi3.htm
不精な私には某X氏のように足で稼ぐ事は、現役・跡地ともできませんが
資料の紹介でもさせて頂けたらと思っております。
128
:
某X
:2006/12/31(日) 16:35:43
あと458日
来年はがんばりマッスル!
129
:
夕凪
:2007/01/01(月) 09:12:52
十二月 (じゅうにつき) 手まり唄
先ず初春の、暦開けば心地よいぞや皆姫はじめ、
ひとつ正月年を重ねて、弱いお客はつい門口で、お礼申すや、
心いきいきついお戎と、じっと手に手を〆の内とて、
奥も二階も羽根や手まりで拍子そろえて、
音もトンドと突いてもらえば、骨正月や、
こたえかねつついく如月(きさらぎ)の、
●明治時代まで、色町でも町家でも盛んに歌われた手まり唄。
1年12ヶ月の季節の変化や大阪の年中行事を読み込んであり
上方趣味の最もよく現れたもの。
特に花街では正月の座興として芸妓がこれを弾いた。
と、ある本に書かれていました。 ※歌詞はもちろん一部です。
さすが色町で歌われただけあって粋と言うか、意味深な歌詞ですよね。
でも町家でも普通の女の子が手まり唄として歌ってた言うのは本当でしょうか?
それとも替え歌があったんでしょうか?
また正月の寄席でも出囃子として使われたそうです。
●私も門口で、お礼申す年になってしましました!?
元気な皆様、本年もよろしくお願い致します。
130
:
今里X
:2007/01/01(月) 12:00:47
謹賀新年
あけましておめでとうございます。
今年はもっと元気になりますように。(´∀`*)ウフフ
131
:
T-レッド
:2007/01/02(火) 18:09:50
淀川?温泉?
「淀川温泉」の謎が解けました。ありがとうございました。
132
:
鷹目
:2007/01/03(水) 16:57:40
新年
遅ればせながら、明けましておめでとうございます。皆様今年も宜しくお願い致します。
133
:
夕凪
:2007/01/05(金) 01:17:04
自由国民バイブル版 と 旅行の手帖
●毎号好評の「旅行のバイブル」はいよいよ「旅行の手帖」と改題大飛躍します
??“旅行のバイブル”の第1集「一度は行きたい名所と温泉のバイブル」を出してから、
この“全国都市特集”で、ちょうど6冊分をお送りしたことになりますが
号は号を逐うて創刊当時は夢想もしなかったほど読者層がひろがり、
おそらく発行部数から云っても、広範な大衆性を持つ点から云っても、
殆ど唯一の旅行雑誌に発展しました。皆様に心から御礼申し上げます。
つきましては甚だ不満足という読者諸兄の声にこたえ御支援に励まされまして、
次号から「旅行の手帖」と改題、春夏秋冬の季刊発行といたします。
新年号、桜月号を加え、年6回発行の計画を進めております。
なお本誌は知名の旅行専門家ばかりでなく、各地方の愛読者の御協力を得て
「旅行の手帖通信員システム」を確立する予定です。
なにとぞ皆様の倍旧の御声援を御待ちしております。
編集部
?? ※上記は自由国民社が発行した『自由国民バイブル版』(昭和28年)と言う
雑誌の最終ページにある編集後記(?)です。
134
:
嶋原G
:2007/01/06(土) 15:11:22
橋本について
文禄年間(1592〜96)、豊臣秀吉は治水のため淀川に堤防を築き、そこに京都と大坂(大阪)とを結ぶ京街道を設けた。伏見宿と枚方宿との間に位置する橋本には、いくつかの宿泊施設と共に遊廓も存在した。明治初期、公娼制度を採らなかった橋本は衰退したが、1887年(明治20年)に遊廓街として再興された。対岸の水無瀬(みなせ)と繋いだ渡船、更に1910年(明治43年)に京阪電鉄の開業に伴って橋本駅が開業すると、遊廓を訪れる人々が多くなった。1935年(昭和10年)頃に橋本遊廓街は最盛期を迎え、86軒の妓楼、81名の妓楼経営者、3名の芸妓と675名の娼妓を数えるに至った。
街道に沿っては、平入りの木造二階建ての妓楼が建ち並んでいた。遊廓には、街道に面した一階の半分に張り見世と呼ばれる格子に囲まれた突出部があり、ここに娼妓たちが顔見せのために並んだ。代表的な妓楼の一つであるA楼では、その奥に娼妓用の食堂、経営者用の座敷が続いた。
経営者の多くはかつて淀川沿いの山崎や樟葉などで舟運業に関わっていたため、一角には金比羅が祀られていた。通り庭を挟んで井戸やクド(かまど)を備えた台所、そして便所や洗面所の他に、娼妓が身体を洗う洗浄場も設けられていた。螺旋(らせん)階段を上がった二階には、4畳半の小部屋が約10部屋程連なり、8畳と10畳の宴会場もあった。A楼のように、ステンドグラスや鏡などを張り巡らされたダンスホールが設置されたのも多く、昭和初期には木造建築に代わってコンクリート造のものも見られるようになった。
1958年(昭和33年)の売春防止法の施行後、下宿屋や料理旅館などに転業した妓楼もあったが、往事の面影を残すものは僅かである。それらは、軒先の菊や蓮の花をかたどった電灯の笠、淀川を往来した三十石舟のほか、鯉(「客よ来い」の意味)や水車(「客が来る、来る」と「水車がクルクル回る」とを掛けている)等が彫刻された欄間、社交ダンスをする男女が描かれたステンドグラスなどから伺える。
また、検番を兼ねた歌舞練場は、一時は紡績工場に改築されたが現存し、その庭先には弁天と稲荷を祀った祠が佇んでいる。
2005年発行建築系大辞典より抜粋。
※尚、この文章の参考文献は、1930年発行書籍、1937年発行書籍(夕凪さんの書かれてる課題の本)である。
135
:
鷹目
:2007/01/06(土) 21:32:21
爆勝宣言(意味判りますかww)
これで橋本もある程度、歴史の道筋はまとめられそうです。ありがとう御座います。
136
:
夕凪
:2007/01/07(日) 02:53:04
八幡山から橋本見れば 赤い女が出て招く
淀川三十石船の舟唄にも歌われたほど有名な遊廓であったが、
いつ頃できたのかわよくわからない。
史料によると江戸初期の1649年正月20日に
橋本で荷物を盗んだ者があり淀で捕まえられた。
この時橋本には遊女を置く店が20軒ばかりあり、
盗人がしばしば出入りするので、以後は遊女を置かないようにと、
京都所司代から橋本町の年寄りに申し渡しがあった。
この事から街道筋の往来も賑やかで、遊廓も繁昌し、
治安はかなり乱れていたのだろうとの推測も成り立つ。
1984年発行の本より
※上記の記述は、淀川両岸のガイドブックからの引用、要約です。
単に遊女を置く店が、複数軒在る地区=遊廓としている可能性もあります。
※淀川三十石船の舟唄には、伏見中書島、撞木町、枚方、鍵屋浦や
水車(ミズグルルマ)=淀の名物の川瀬の水車も唄い込まれています。
(参考)ttp://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/hu047.html
※舟唄の節を知りたい方は、落語の『三十石』(但し、長時間バージョン)を聴かれるのが
手っ取り早いかと思います。
(参考)ttp://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi/bunkazai_hunauta.html
137
:
楽天地
:2007/01/07(日) 13:40:39
小沢昭一さんの本
遅ればせながら明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
調べものをしていたらこんな本(復刊?)が出てきました。
『珍奇絶倫小沢大写真館』
ttp://www.7andy.jp/books/detail?accd=31785172
138
:
鷹目
:2007/01/07(日) 16:21:55
『珍奇絶倫小沢大写真館』
>楽天地さん
おめでとう御座います。今年もよろしくお願いします。
面白そうな本をご紹介頂き、ありがとう御座います。早速本屋に行ってみたいと思います。
追伸
実行するかは未定ですが、五條楽園歌舞練場でのオフ会を春頃企画中です。
139
:
楽天地
:2007/01/08(月) 00:12:14
五條楽園歌舞練場
>鷹目さん
オフ会、ぜひ参加したいです。
今度は怪我しないよう気をつけます(笑)
先日、久しぶりに城東園へ行ったら、かなりの建物が取り壊されていました。
140
:
鷹目
:2007/01/08(月) 18:00:16
待ってます
>楽天地さん
次回はお待ちしております。まあ歌舞練場で出来なくても飛田百番か松島の新居酒屋あたりでは計画いたしますんで、その時はぜひ。
城東園、未見だけに取り壊されていくのは残念。ある程度残っている間に行きたいものです。
141
:
夕凪
:2007/01/08(月) 23:59:16
小沢昭一さんの 残したい“日本”
●日本遊廓建築残骸大全
日本全国各地にある旧遊廓の、由緒もあり、
建築物としてもおもしろい、お女郎屋さんの建物が、
ここ10年ばかりの間に、あっというまにこわされてしまいました。
もったいない、残念至極のことであります。
明治村にも監獄はあっても、お女郎屋さんはありません。
どちら様も、旧遊廓建造物に冷たいのでありますが、
私の「残したい日本」の最たるものは、お女郎屋さんでありまして、
いえ、その建物でありまして、庶民文化の華でありますヨ。
だいいち、いま、その廃屋を見てもいろいろ、部分部分オモシロイのです。
今からでもおそくない、せめて、とりあえず、
芸術新潮増刊号“日本遊廓建築残骸大全”を!
それに、もうひとことつけ加えれば、昭和の建築物だということで
軽んじるのですね。昭和も遠くなりにけりですが、
もう昭和のものを残さなければなりません。
『芸術新潮』のアンケートに答えて(1987年) ※一部略
○小沢村長さんは「明治村には牛肉屋さんがあっても、
お女郎屋さんはありません。どちらも肉を売る商売なのに・・・・・」
旨の発言を行って、一部で物議をかもしたとか・・・・・
●『小沢大写真館』は1974年に、?話の特集から出版されました。
その中の亀有の、ある建物の写真でも、
『私が文化庁長官なら、特別保存建築物にしていするのだが・・・。
犬山でも何処でもいいから「女郎屋村をつくれ。」村長は俺だ!』
とコメントされています。(本当に村長になってしまいましたね。)
また同書の巻頭に「私は写真屋のセガレである。」とも書いています。
(参考)ttp://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480422668/
○ちなみに私の持っている『珍奇絶倫小沢大写真館』には
「写真は真を写さない」との小沢昭一さんの識語があります。
はたして、その意味するところは!?
142
:
嶋原G
:2007/01/09(火) 17:19:13
あぁ淀川温泉
「橋本鉱泉」
○環境及び沿革
淀川左岸の府境に接して、男山と淀川堤防に狭まれた狭長な平地に橋本の集落があり、人家が密集櫛庇している。この地は往時より交通の要衝で、最近まで遊廓地として知られ繁栄してきたが、昭和32(1957)年売春防止法が公布されて以来、同地区の三業組合員が早急に転業の必要を迫られ、政府及び京都府当局の指導の許に対策委員会を組織して協議の結果、全国観光連盟理事、O氏の勧告に基づき在来の招客施設をその儘活用して温泉地として更生する方針をとり、昭和33(1958)年12月より同地区50余ヶ所の井水を採取して京都府衛生研究所に分析を依頼した結果、料理業T氏宅の堀泉が最も有望であると判明した。昭和34(1959)年2月正式に同泉を現地採水して鉱泉分析を行い、炭酸鉄泉として療養泉規格に適合するとの判定を得たので、3月には温泉開発協議会(会長、Y氏)を結成し同年7月利用許可を得るに至った。
○利用状況
本泉は昭和35(1960)年2月、源泉地より同区内の各所に配管工事を完了し、現在4軒の旅館で内湯として利用されているが、給湯量の許す限り、将来も利用施設を増加させて、土地の繁栄に寄与するものと思われる。本泉の運営は全て温泉開発協議会により統制的に行われている。名称も開発当初は「橋本温泉」と称していたが、その後「淀川温泉」と改称された。
1964年発行『京都府鑛泉誌』より抜粋
『廃滅諸鉱泉・橋本鉱泉』
○所在地:八幡市橋本某町
○概 説:橋本は淀川左岸の交通の要衝で、宿駅として賑わい、遊廓も設けられていたが、昭和32(1957)年、売春防止法公布と共に転業を迫られ、温泉地として更生する方針をとり、京都府の援助もあって泉源調査の結果、昭和33(1958)年、府衛生研の分析により、同地区内一民家の井戸が多量の鉄分を含み、単純炭酸鉄泉として療養泉規格に達することが判明した。地元三業組合では昭和34(1959)年6月利用申請を提出し、組合加入各戸に配管工事を行い『淀川温泉』の名で新温泉境の実現をはかったが、期待したほどの浴客招致に成功せず、昭和52(1977)年、源泉所在家屋の改築を機に廃止のやむなきに至った。
1984年発行『京都府温泉誌』より抜粋
143
:
ナカムラ
:2007/01/09(火) 22:17:32
橋本が凄いですね。。。
ナカムラです。
皆様、今年もよろしくお願いします。
暮れから、「橋本」が凄いですね。それも、高尚で・・・。
11月に橋本を再訪したのですが、遠方から再訪を促すような、力のある町ですね。
ストーリーと関連がないのに、映画「鬼龍院花子の生涯」に橋本の風景が使われているというのを何かで読んだことがあります。五社英雄も惹かれていたということでしょうか。
皆さんの書き込みをみて「淀川温泉」の経緯がよく判りました。
1軒残っている旅館の看板に「淀川温泉 旅館 ○○○」とあったので、何だろうと。
すぐ近くの「橋本湯」は評判の銭湯ではありますが、鉱泉ということでもないので、不思議に思っていました。
144
:
嶋原G
:2007/01/11(木) 16:17:51
橋本の転業状況
参考程度でよろしく。
橋本の転業業種だと思います。後日(つづき)を出します。
1960年発行
貸席7軒、スタンド5軒、サロン1軒、料理屋8軒、旅館2軒、質屋1軒、アパート2軒、薬局2軒、タバコ屋4軒、食品3軒、食堂2軒、理容パーマ3軒、ホルモン1軒、
麻雀1軒、鮨1軒、牛乳1軒、履物1軒、電機屋1軒
屋号のみの怪しいもの14軒
↓↓↓
1967年発行
お茶屋5軒、料理屋5軒、料理旅館2軒、旅館2軒、居酒屋1軒、アパート1軒、
薬局2軒、タバコ屋3軒、食品2軒、菓子屋2軒、食堂5軒、理容パーマ3軒、
八百屋1軒、カメラ1軒、鮨1軒、牛乳1軒、履物1軒、電機屋2軒
屋号のみの怪しいもの3軒
↓↓↓
(つづく)
参考文献:とある住宅地図。
145
:
嶋原G
:2007/01/13(土) 23:58:32
あぁ橋本
売防法施行前に発行された2冊の書籍よりの抜粋です。
廓内の情景が赤裸々と描かれてます。
駅の改札口に立つと、何となく遊廓の木戸口のような感じを受ける。どちらが表口か、裏口か分からない。夏の夕暮れなど改札口に子供を連れて、電車に乗るでもなく、乗降の客をぼんやりと見送っている脂粉の女をよく見受ける。故郷の想い出などに耽っているのであろう。
背景は低い屋並みの遊女町が下の方に拡がって、涼しい河風が襟元を吹き抜けていく。
私はここから山崎へ渡る渡船場の夕暮れの風景を見に行くことがあった。
町と言っても一筋か二筋の廓内の道を突き切って行くと、開け放たれた青楼の張店の片隅に鏡台を据えて、今宵の持場、持場につかうとする露は女の裸体が、白日に曝し出されている。腰巻き一つで双乳を露出したまま、平気で莨(タバコ)を口にしながら行人を眺めている女。
赤い長襦袢などの、ぞろりと掛かっている柱の脇に「初店△△子」などと書いた貼紙が白々として、ステンドグラスの飾窓に屋根越しの夕陽が明々と照り渡った。
町を突き抜けていくと、土塀のように行手を防いでいる草の堤が見える。京阪国道の淀川堤防である。国道が出来なかった以前は川沿いの座敷から漫々たる淀川の流れを背景にして、低い堤と渡船場の風景が見渡せたものだが、今では狭い溝川を隔てて、国道の高い堤で眼隠しをされたような形になってしまった。
堤の上に登り立つと乾かし広げた腰巻きや、敷布や、座布団などから縁近く持ち出された椅子や鏡台などまでが、ずっと下の方に見潰される。
1946発行書籍より抜粋。
橋本遊廓がいつ頃に出来たのかあきらかではありませんが、井原西鶴の『好色一代男』等を見ると、主人公の世之介が一夜をここで明かすところが出てくる位ですからやはり江戸時代からあったものと思われます。
今は京阪電車の橋本駅を降りたところがすぐ遊廓の入口といった具合で、あくどい化粧をした女が待ち構えていたように袖をひきます。カメラでも肩に提げていようものなら絶対にタダでは通り過ごせません。散々女に引っ張られ抱きつかれたりして、やっと150軒余りの遊廓街を通り抜けてすぐ裏の淀川堤に出ました。
堤の上からはここの遊廓の素顔とも言うべきもの、例えば物干しに広げられた赤い腰巻きや布団、縁側に持ち出された鏡台、立て膝をして煙草を吹かしている半裸の女たちなどが、どす黒く澱んだ川と共に、ネオンで飾られた表とはがらりと変わった遊廓の裏側の表情として一眼で見下ろせます。
1957発行書籍より抜粋。
しかし「150軒余り」とは大袈裟だなぁ。
146
:
夕凪
:2007/01/14(日) 23:43:32
橋本遊廓の許可区域
橋本遊廓区域は漠然たるものにして明瞭ならざるも、
東は西遊寺山裏を廻る小径より、
津○電線?八幡工場北側の道路を西行して軌道を横断し
小字○金川の南端を京阪国道(の淀川堤防)に出で
北上して○之町を横断し軌道を越えて狩○神社参詣道より
東の境界線(小径)に接続す(許可当時:1887年の地域図に拠る)
1937年発行の資料より
○1887年頃の橋本では、都市部のように細かく地番が決められて
いなかったのでしょうか?
それとも川の氾濫があったりして、その度に、道が多少なりとも
変ったりして、地番等を確定できなかったのでしょうか?
また橋本地域貸座敷組合と言う名称も独特なのでしょうか?
●ここの花街も明治時代は足場が悪く振るわなかったが、
大阪へ通じる京阪電車が廓の前を通り、八幡の駅を設けてから、
男山の山頂に祀る石清水八幡宮の参詣客が、忽ちその恩恵を受け、
この廓ばかりは昔の面影今何処と、
逆なコースの繁昌を極め今日の盛況を得た。
しかし京の郊外といっても2、30分で着く近いところだが、
都の風は届かぬと見え、繁昌は八幡宮一辺倒に依存して、
行事も催さなければ、宣伝の必要もなく、
極めてのんびりと朝に京の客を送り、
夕べに大阪の客を迎えている頼母しさである。
1956年の本より
147
:
嶋原G
:2007/01/17(水) 22:49:12
大阪と愛知
売春防止関係調査結果を御報告いたします。
まず、大阪府においては、Y副知事外関係部課長ら10名の出席を得て、種々状況を聴取いたしました後、夜間松島新地の実態を視察し、K組合長外業者代表6名と懇談して参ったのであります。
かように大阪府においては、昨年11月婦人相談所を設置し、昭和32年より経営委託により婦人保護施設2カ所を設置し、婦人相談員は大阪市10名、その他11名を配置しており、今後なお、婦人保護施設1カ所、婦人相談員数名を増設する予定となっております。相談所の活動状況は、数字的になりますので説明を省略いたします。
このほか、売春対策機関として本年4月より婦人保護対策協議会が知事の付属調査審議機関として発足し、9月より売春防止対策本部が設置せられ活動に入っておりますほか、近く啓蒙宣伝及び対策本部への協力機関として、売春対策推進委員を設置することになっております。
かように大阪府の売春防止体制は着々整備されておりますが、府下の売春地区は、赤、青線その他を含め52カ所、業者1575名、従業婦6164名を数え、潜在売春婦を入れると約18000余名を見込まれるにもかかわらず、業者の転廃業状況は、法施行後、廃業12件、休業18件という微々たる現状であります。大阪市内の代表的赤線地区は飛田、松島、港、住吉、今里の5地区でありますが、このうち転廃業に積極的であるのは松島新地ぐらいのものであって、飛田に至っては全くその動きもないということであります。
私どもが視察したのは、この最も積極的であるとされている松島新地でありますが、ここでは転業対策委員会を設け、早期転廃業、従業婦全員解雇の2つの方針をうたっており、常業にも一応自粛のあとがうかがわれるのであります。しかし、この新地の業者195名の軽業希望を見ますと、旅館が最も多く約50%、次いで待合16%、アルバイト料亭13%、下宿9%、料理屋5%、その他となっておりますが、その前途は必ずしも明朗ならざるもろもろのデータをはらんでいるようであります。即ち、業者の約半数は自己資金不足のため、未だに国庫補助を希望してむなしく下をこまねいております。従業婦の方も700人のうち500人は親や子持ちで、月々送金しなければならないという状態に置かれております。従ってまた、業者も全員解雇の線を打ち出しているといっても、希望者には転業後の旅館の住み込み女中、料理屋、待合の住み込み仲居等に再雇用するという、牛は牛連れ式の態度を捨て切れないのであります。また、直接私どもが見聞した範囲では、業者は業者で自己の転廃業に苦慮することで精一杯の有様で、実際は従業婦に対する積極的な相談もなく、従業婦は従業婦で明日は明日まかせの態度で計画もなく、ぎりぎりまで商売することも仕方がないとしております。これが大方の実情であります。ここに私どもは関係当局の一層の努力を要望しなければならないのでありますが、それについては、後に纏めて申し上げたいと存じます。
次に、愛知県においては、U民生部長、O衛生部長、I県警防犯部長外関係課長等6名出席のもとに種々懇談の後、夜間、名楽園新地の実情を視察し、Mカフエー組合連合会長外業者代表5名と会ってきたのであります。
愛知県においては、本年11月婦人相談所を設置し、経世委託により婦人保護施設1カ所を設置し、婦人相談員は県下に24名、うち名古屋市内に7名を配置しておりますが、これらの活動状況は、大阪府と同様数字的になりますので、省略いたします。
このほか、売春対策機関として、本年10月より売春対策本部と売春対策推進委員を設置して活動に入っておりますが、対策本部では、11月婦人保護、取締り、転業の三対策を推進するため要綱を決定し、これに基き現在従業婦の一斉調査を実施中であります。
かように、愛知県においてはむしろ大阪府以上に法の運用を薄々進めておりますが、県下の赤線地区は29カ所、その赤線業者699名、従業婦2715名、昨年10月より一年間の転廃業状況は業者33名、従業婦670名という、理想には至って遠い現状であります。もっとも愛知県の赤線業者は、岐阜、三重、静岡三県の赤線業者とともに性病予防東海連盟なる団体を結成し、全国に先がけて年内転業を声明し、売春企業の放棄、従業婦の解雇、前借金の棒引の三原則を打ち出し、愛知県内傘下の組合員694名の殆ど全部が年内転業の確約書を提出したという目ざましい進展をみたのであります。その転業希望の内訳は、旅館が最も多く、次いで料理店、飲食店、下宿屋、喫茶店、カフエー等の順序になっております。連盟の幹部諸君は、年内転業実現のため、非協力者に対する警察取締りの強化、転業許可面の便宜操作、転業資金の融資あっせん、従業婦の更生資金の援助等について強力な行政の推進を要望しておりますが、これが関係当局との間に完全な了解がついていないためもありまして、最近に至って転廃業確約者の約70%が自信を失い、中には年内転廃業反対の動きも出ているとのことであります。
昭和32年国会法務委員会議事録より。
ps52カ所と29カ所ですか。あと、つづきがあり、後日掲載。
148
:
嶋原G
:2007/01/18(木) 00:14:33
書籍情報
2月3日発売「東京人」3月号。特集江戸吉原。以上です。
149
:
鷹目
:2007/01/19(金) 00:38:40
押忍!
皆々様、橋本ご苦労様です。
来週あたり紹介者の方と一緒に楽園組合長さんの処へ行ってまいります。春に歌舞練場で本当に開催できるように祈ってください。
某京都の任侠集団会津の三代目、五条の組合長を一時やってられたんですね。今発売中の実録マンガを読んではじめて知りました。
>島原Gさん
『東京人』情報ありがとう御座います。ジュンク堂に買いに行くか、注文することにします。
150
:
嶋原G
:2007/01/21(日) 03:00:19
新むつ旅館
八戸の新むつ旅館が年末に文化庁の登録有形文化財に答申。
ttp://hac.cside.com/shinmuturyokan/
151
:
夕凪
:2007/01/22(月) 00:07:58
枚方遊廓の転廃業
1956年5月 売春防止法公布、しかし全面施行は2ヵ年後と言う事情を利用して、
同法の弱体化をはかる運動が各地で見られた。
1958年1月 大阪府売春防止対策本部は、新地業者に営業許可取扱い要領を制定し
転業の期日を1958年2月末とした。
1958年3月 業者・一般従業員49人、従業婦74人が新地協同事務所で解散式(3/1)
1958年3月 全業者による「学生下宿組合」結成(初旬)
?? ???????? ※学生下宿業への転業が遅すぎ学生は殆ど集まらなかった。
1958年4月 一般人も対象とした「枚方下宿組合」(37業者)に変更。
※売春防止法全面施行(4/1)
1958年6月 早くも4軒が旅館に転業申請
1960年 ?? 17軒の業者が、置屋、揚屋(料理屋)、検番を再興(新起興業?結成)、
?? 芸妓に踊り・小唄・三味線を習わせ、桜新地の復興をはかる。
1962年 ?? 第1回の温習会を検番2階広間にて開催(温習会は年1回、1969年まで実施)
?? また淀川まつりには川原に舞台を作り、その艶姿を披露したりもした。
1965〜1967年頃が最盛期で、芸妓も37人前後いたが、
いつしか枚方市駅周辺の繁華街に客足を奪われ、
1979・1980年頃には芸妓も3、4人を数えるに過ぎなくなった。
今日(1984年)、料理屋、レストラン、スナック、すし屋等の営業が行われているが、
かっての繁栄した桜新地の面影はみられない。
桜新地の町名も、住居表示の改正によって1965年4月1日から現在の桜町に変更された。
1984年発行の資料より
152
:
夕凪
:2007/01/22(月) 00:49:58
大阪の群小赤線の変貌
大阪の飛田、松島以外の群小赤線では、
まず“飛田”の出方をみてと、事態静観のかたちだが、
今里新地(212軒、芸妓約500名)は昨年の秋から待合に切替え、
堺市の竜神遊郭(竜神カフェー組合75軒、約430名)も
明年4月1日から“芸妓組合”として新発足の予定で
“女”を芸妓として登録するため舞踏、三味線をはじめ教養講座を開くというが、
戦後大阪の新興赤線、布施新地(布施市、23軒、接客婦約80名)が心配するように、
待合にするにしても、これまでコロビ専門だった女が、どれだけ“芸”に赴くか、
甚だ疑問で、他の面倒臭くない業態に、逃げられるオソレもある。
1956年6月の新聞社系の雑誌より
153
:
嶋原G
:2007/01/22(月) 15:23:27
京都府調査報告。
京都の取締り対策について申し上げます。
まず、売春関係地区の現況は、京都における赤線地域は京都市一帯の8カ所、即ち西陣新地、祇園、宮川町、七条新地、島原、中書島、撞木町、橋本の8カ所と、府下6カ所、即ち月見、猪崎、朝代、龍宮、丸山、新浜の6カ所に分けられますが、営業者及び従業婦の数において、京都市一帯は全体の八割以上を占め、昭和32年10月末現在、京都府警察本部の調査によりますれば、京都府赤線業者1020人・従業婦2408人に対し、京都市一帯のそれは業者887人・従業婦2094人で、業者1人に対し従業婦数は平均2、3人の計算となり、業種は貸席、お茶屋等であります。赤線以外の地域における売春業態として容疑のあるものは総数781で、そのうちで旅館業が最も多く404で、全旅館数の約3割に当り、その他は料理屋、飲食店、カフェーの順であります。
また、警察の厳格な推定では、この他散娼約200人、ポン引き約135人とされ、新検芸妓323名のうち6割が売春の対象となり、もぐり・やとなが50名存在し、席貸しを利用いたしており、売春の8割が旅館で行われているという現状であります。売春事犯の取締り状況につきましては、本年1月から11月末までにおける検挙件数と検挙人員を昨年のそれと比較いたしますると、検挙件数は昨年の41%・841件、検挙人員は昨年の25%・468人にそれぞれ減少しております。従業婦の漸次的減少傾向がおもな原因と思われまするが、警察取締りの困難牲を物語るもので、特に夜間の取締りの実際に当っては困難をきわめ、人権尊重と取締りの徹底化との大きな矛層に逢着し、成果のあがらない結果となっている現状であります。さらにつけ加えますと、本調査の前々日の事例でありまするが、一赤線業者の検挙で、組合登録の3名の従業婦のほかに8名の闇売春婦が存在していたことが発見されております。かような実情、これはその実情を察知する一つの好適例であろうかと存じます。
以上の現況から、警察側は、来春4月に至っても取締り陣容に変りなく、しかも取締り地域が全般に拡大されるに及んでは、真に徹底した取締りの成果をあげることができるかどうか、深い危惧の念をもって臨んでおります。
最近の業者並びに従業婦の転廃業その他の動向であります。
まず、業者についてみますと、京都府貸席お茶屋組合連合会では、去る11月26日業者転廃業に関する基本方針を決定し、転業促進を申し合せました。それによりますると、?完全転業すると共に接客婦についても明朗な就業を勧める。?転廃業の時期は、明年2月末日までとする。
これは全国性病予防自治会連合会の申し合せ時期たる明年1月末より1ヶ月遅れることになりまするが、京阪神地区業者の申し合せによるもので、正月の収入期をはずさないためと言われております。?転業上所定基準に欠ける場合の行政措置について条件又は期限を付してもできるだけ便宜を払われたい。?当面の資金は自力と組合の資力に待つこととし、不能の場合は融資の斡旋方を当局にお願いする。?転廃業完了後本連合会を解散する。
というものであって、右のような申し合せを行いつつも転業資金に悩みがあり、転業構想を巡る利害関係もあり、業者の大半は転業について自己の腹がまえがまだ決まっておらず、また、組合も指導精神なく、政府当局の出方を見守っている現状であると見受けられました。最近に至って政府は、各都道府県あてに売春関係業者の職業指導についての通牒を発したと承わっており、今後、業者転業が大いに促進されることと思われますが、本年1月以降11月末までの転廃業率は約5%・53名でしかない状態であります。
転業希望業種について最近一部組合で纏めたものを見ますと、旅館、風俗営業希望が圧倒的で約8割を示しております。旅館等への転業については、擬装転業でないと言い切れぬものがあるとする警察側の見方と、まず、希望業種に常業許可を与
えるべきで、違反行為があれば取り消し処分にすればよく、転業前から疑いを持たれるのは心外だとする業者の意見との対立がここでも見られました。
次に、従業婦の場合ですが、本年10月末現在で2400人の赤線従業婦が存在し、新規雇用が禁止されているので、業者は現在員の温存に力を入れており、それでも毎月平均50人から100人ずつの減少傾向を示してはいるものの、このままでは来春4月に至ってもなお、2000人の従業婦が残存することになり、更生意欲のない者が大半で、かつ、1人平均3万円から5万円の前借ある者が半数であるという実情を考えますと、誠に憂慮にたえないものがあります。
昭和32年国会法務委員会議事録より。
他方面調査報告あり、後日掲載予定。
154
:
鷹目
:2007/01/22(月) 20:19:39
オランダでは
海外でも大変なようですな。
ttp://www.zakzak.co.jp/top/2007_01/t2007012201.html
オランダの赤線地帯「飾り窓」が廃止に追い込まれそうな雰囲気・・・。どうなるのやら。
155
:
嶋原G
:2007/01/26(金) 01:51:27
九州報告その1。
昭和32年1月21日以降9日間にわたって、大村、諌早、長崎、福岡、小倉、別府、大分の7市3県に出張いたしまして所定の調査を行なって参りました。
まず、第一点の売春防止法の運用に関する問題ですが、本件につきましては、各県とも厚生省の指示に従って婦人の保護更生施設、同相談所、同相談員等に対する所用の予算を昭和32年度に要求いたし、これを実現するため準備を進めている段階であります。すでに数名の相談員を任命いたし、活動を開始している県や市もありましたが、いまだ任命していない所もありました。
各地業者の動向は、一般的にひより見的態度で、実際に転廃業等いたした業者は至って少い実情であります。特異的なものといたしましては、長崎県佐世保市勝富町の貸席業者60名が昨年5月全員出資によって西海国立公園観光株式会社を設立いたし、その事業といたしまして現在の施設を観光ホテルに改造するため、政府の援助を得べく活動を開始していることでありました。
それから、売春禁止法、この問題につきましても、長崎でも福岡でも大分でも、検察庁、裁判所、警察、それから厚生関係の方々の御参集を願いまして懇談をいたしましたが、業者の人たちは、ほとんど4月の実施を控えて転廃業というようなものを考えておらないのでありまして、こんなことを言ってもとうてい実行不可能である、多分4月の法律は延期になるだろう、実施されないだろうというような考えが一般的であります。
S32国会議事録より。
156
:
鷹目
:2007/01/26(金) 19:22:12
五條楽園
本日、紹介してくださる方と共に五條楽園の組合長さんの処を訪ねました。もちろん用件は春のオフ会の件でです。
驚いたことにこのHPを閲覧してくださっており、五條楽園史のページをプリントアウトして持って下さってました。当HPを開設して初めてお茶屋料亭関係者の方にお会いしたのですが、「余計な事書くな」なんて怒られるのかなと思っておりましたが、「よく調べているHPの管理人の方に会えました」と好意的なお言葉を掛けて頂きました。正直うれしかったですね。
そこで内部を見学されて頂いたり、色々と残っている資料を見せて頂いたり、話を色々と聞かせていただきました。もちろんオフ会についても話しましたよ。
ただ五條楽園、経営者の方が高齢で後継者も決まっていないお茶屋さんも多く、また新妓さんも最近は少なく寂しい状態が続いているとか。資料も昔のはあるがS33以降の資料は諸事情により少ないようです。
ですが、現組合長さんになり、少しずつオープンになって来ている部分もあるようで歌舞練場の貸し出しもその一環ですね。また卒論等の問い合わせにも応えているようです。
ともかくオフ会に向かって詳細を練っていきます。また参加者も多数募集します。当日何か余興をしたいという人があればそちらも大歓迎です。2月半ば頃には詳細をUPしたいと思います。
なお当HP「鷹は舞い降りた」と管理人鷹目は五條楽園を応援します。何か五條楽園に対し手伝えることがあればお手伝いしたいと思います。頑張れ!五條楽園!!
157
:
夕凪
:2007/01/27(土) 01:09:39
1966年頃の五條楽園
かって“七条新地”の名で馴染まれた廓。
明治以来というから京都では新興の口だろう。
従来は祇園甲部と変わらぬお茶屋街であった、
それが自然に純お茶屋が祇園の方に移動、自然娼妓が隆盛となった。
昭和14、5年の不況旋風に、芸妓は金がかかる、
てっとり早く金にできるのは肉体を売る方法という事で
全面的に娼妓一本 ―― つまり赤線になってしまった。
全盛時代には、やかた185軒、娼妓800人を抱えたというから大変なものである。
売防法以来はもっぱら旅館に転向したが、
女抜きではさっぱり客も集まらず、お茶屋に生まれ変わった。
お茶屋84軒、バー、スタンドなど19軒。芸妓は100人もいるという。
芸妓は名前だけ芸妓とつけているのでなく、
6ヵ月間はお座敷にも出さず、みっちり芸を仕込んでいる。
芸といっても長唄、三味線の類では、いまの若い人たちにアッピールしないとあって、
もっぱらギター、アコーデン、歌謡曲などのレッスンが主。
芸妓たちはすべて通い。ここがミソでお座敷で話し合って勤めの終わった11時頃から
2人っきりでどこへ行こうと、それは束縛するすべもない。
「お茶屋だってレンアイできますよ。あそこは十席(5千円)が相場。
座布団を丸めて枕に、裾をめくるだけでやるのは飛田や松島と変わりませんネ。」
という声もあるが、彼女らも生身の女性だから、
馴染みのいい男には浮気もするということだろうか。
1966年の盛り場案内より
158
:
夕凪
:2007/01/27(土) 19:21:22
三重県の特殊カフェー
01.水郷園(長島村) 02.桑陽園(桑名市) 03.朝明待合組合(富田町)
04.菰野東町待合組合(菰野町) 05.湯ノ山支部(湯ノ山) 06.神戸六郷園(十日市町)
07.江島組合(江島町) 08.亀山待合組合(亀山町) 09.藤枝待合組合(津市)
10.久居支部(久居町) 11.上野支部(上野市) 12.名張支部(名張町)
13.松坂貸席組合(松坂市) 14.山田支部(宇治山田市) 15.神社三業組合(宇治山田市)
16.田丸支部(田丸町) 17.尾鷲支部(尾鷲町) 18.紀伊長島組合(長島町)
19.鳥羽待合組合(鳥羽町) 20.二見浦待合組合(二見浦) 21.浜島待合組合(浜島町)
22.渡鹿野待合組合(的矢村) 23.木ノ本支部(有井村) 24.引本待合組合(引本町)
25.阿下喜支部(阿下喜町) 26.港楽園(四日市市) 27.一身田支部(一身田町)
1950年の資料より
159
:
夕凪
:2007/01/27(土) 21:48:10
愛知県の特殊カフェー
01.花岡園(一宮市) 02.曳馬園(小牧町) 03.桜楽園(犬山町)
04.新天池(津島市) 05.陶華園(瀬戸市) 06.道風園(春日井市)
07.清娯園(半田市) 08.海楽園(内海町) 09.常楽園(常滑町)
10.昭和園(岡崎市) 11.衣浦荘(新川町) 12.千鳥園(矢作町)
13.陽貴園(安城市) 14.鶴城園(西尾町) 15.睦荘(一色町)
16.観月境(挙母町) 17.有楽荘(豊橋市) 18.円福荘(豊川市)
19.新栄連(新城市) 20.三谷観楽荘(三谷町) 21.蒲郡歓楽荘(蒲郡町)
22.共楽園(田原町) 23.五楽園(福江町) 24.名楽園(名古屋市)
25.八幡園(名古屋市) 26.城東園(名古屋市) 27.港陽園(名古屋市)
1950年の資料より
160
:
夕凪
:2007/01/27(土) 22:05:08
岐阜県の特殊カフェー
01.金津組合(岐阜市) 02.旭日園(大垣市) 03.西ヶ原組合(多治見市)
04.夜城園(墨俣町) 05.花岡組合(高山市) 06.船津花岡組合(船津町)
1950年の資料より
161
:
旧赤線族
:2007/01/28(日) 01:16:42
貝塚
自分が見た中では、橋本、それと貝塚も
あまり知られていないが
いい味だしている建物が残っている。
ここに投稿している方は皆詳しいですね。
162
:
夕凪
:2007/01/28(日) 11:01:16
貝塚新地 (旧赤線地帯)
江戸時代紀州候の参勤交代の道中筋の宿場として発展し、
明治11年11月検梅所が設けられ、毎月6回検査が行われた事からして、
当時は相当いんしんを極められていたようである。
明治末期において今の近木に移った。
その後昭和20年の空襲でその半分が焼失したが、漸次復旧したのである。
ここは和歌山市、堺市(竜神)の中間に位し、
近時交通機関の発達と共に遊客の訪れは減少し、
次第に寂れつつある時、売春防止法の施行となり、速やかに解散した。
しかしその現況は旧新地域内小料理屋の従業婦35人内外、
客に飲食を供する業者は11件で、旧接客婦の経歴者は現在3人程度に減少、
収入は固定給2,000円乃至3,000円その他はチップかせぎ、
しかるべきサービス等でまかなっているものと判断される。
業者間の自粛は徹底しているようで、ただ1軒のみが狡猾に、
表裏とおり抜け営業を行って、場所提供で検挙経歴を持っている。
旧業者は全て土着と言うべき程の永住者であった事、
経済力豊かな農家または他に事業所を持つ者、会社役員等
総対的に法を潜ってまであくせくする必要がない為、
転業が鮮やかに行われた事と思料される。
1961年の行政機関の資料より
※私も貝塚で「しかるべきサービス等」を受けてみたかったです・・・・・
163
:
鷹目
:2007/01/28(日) 11:16:30
余談等々
>夕凪さん
五條その他情報ありがとうございます。某氏もしばらく五条を調べてみると言っておりました。
>旧赤線族さん
はじめまして。
橋本は確かにいい味出してますね。最近数が少なくなっているのが残念ですが。貝塚もそれなりに残っていますね。最近覗きに行っていないので今はどうなっているのだろう。また見に行きたいと思います。
五條楽園で書き忘れていました。最近のタクシーの運転手さん、「五條楽園へ」と言っても場所が解らない人が多いとか、組合長さん少し嘆息していました。由々しき問題ですよね。
164
:
旧赤線族
:2007/01/28(日) 12:03:37
泉佐野の若松町
泉佐野駅の南側の踏切を海側に越えたあたりに
和風ビジネスホテルが数件あり、その一角に
和風建築の遊郭のような立派な建物が一件
残っています。 それ以外にも数件それらしい
残骸があります。
残っている一軒は民家のようです。
書物にもででいませんが、お座敷遊びをする店
というのが一件だけ検索で出てきましたが。
実情はよく知りません。
なお、年齢は40手前のさえないサラリーマンですので
赤線は実体験したことはまったくありません。
ただ、建物を見ていると吸い込まれそうになるんです。
先祖が赤線通いしてたかな。
大阪の南の出身なもので限定されたところしか知りません。
165
:
鷹目
:2007/01/28(日) 12:37:10
新地通り
>旧赤線族さん
松→宮ですよね。
位置は確認してんですが、どうもいつ頃出来たのか判らないのですよね。花街として泉佐野の名前が挙がっている資料があることはあるんですが・・・。
166
:
鷹目
:2007/01/28(日) 12:41:28
五條小唄
一 芸者ワルツで ステップか 五條楽園花えくぼ
柳並木と ぼんぼりが ほのかに浮かぶ 恋のみち
二 甘い夜風か 三味の音か かわす情に ほだされて
むせぶ瀬音の 加茂の川 恋は せつないものか知ら
三 雨の木屋町 いと柳 恋しと想ふ あなた故
たゞ一筋の 高瀬川 人目忍んで 来たものを
四 見知らぬ人と 知り染めて 添ふに 添はれぬ 胸のうち
想ひ焦がれる 大文字 焦がれこがれりや 火ともなる
作詞 松森明
作曲 浅田憲司
編曲 浅田純一郎
歌 泉セツ子
歌 栢チエ子
作詞作曲者歌手等について情報求む!
167
:
旧赤線族
:2007/01/28(日) 16:00:29
(無題)
大変失礼しました。
ご指摘どおり若宮町です。
だいたいこのあたりです。
いい物件があるのは。
ttp://map.yahoo.co.jp/pl?lat=34%2F24%2F28.475&lon=135%2F19%2F3.228&layer=1&sc=2&mode=map&size=m&pointer=on&p=&CE.x=388&CE.y=300
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