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『web「生命の實相」輪読会』 板

1トキ ◆UMw6UoGELo:2016/03/15(火) 11:09:09 ID:lgv9ASqI
 このスレッドは、生長の家信徒の人達の『web「生命の實相」輪読会』のために作成したスレッドです。『web「生命の實相」輪読会』についての話題は、このスレッドでお願いします。

(注意点)

 基本的に生長の家の教義と谷口雅春先生の説かれた教えを支持、共鳴する人のためにサイトです。生長の家の信仰と谷口雅春先生へのご批判をされる内容の投稿はご遠慮下さい。

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では、このスレッドを利用して、生命の実相の勉強をお楽しみ下さい! よろしくお願いします。

127a hope:2016/06/15(水) 06:10:13 ID:xVBwxesw

>>126 a hope所感)

そうでした、「生長の家の教え」はすべてに感謝する教えでした。

自分を害するかもしれない、食事の中の油虫にさえもその存在価値を見つけて感謝する・・・。

それができたとき、わたしたちははじめて、「天地一切のものとの和解」を成立させることができるのかもしれませんね!

128a hope:2016/06/15(水) 06:59:13 ID:vdNCBnG6

>>127補足)

ここの「油虫への感謝」のところはちょっとややこしくて混乱するかもしれません。

なぜなら、生長の家の教えでは、一方で「天地一切のものとの和解」を説きながら、他方では「虚説や、黴菌とは和解してはいけない」と説いているからです。

「虚説や、黴菌とは和解してはいけない」という意味は、

虚説や黴菌は人間に害を及ぼすので、その害を及ぼす部分(内容)は決して受け入れるな、という意味なのだと思います。

でも、その「虚説」(間違った教え)があるお蔭で、わたしたちは何が真説なのか自ら考えることができるわけです。

そういう意味で、その「虚説」の存在に感謝できるのだと思います。

つまり、油虫に感謝するからいって、油虫の入った料理を食べ続けたら必ず健康を害します。

「真説」は雅春先生のお残しになった『聖典』のなかにあります。
(わたしは、雅春先生のお書きになった愛国書と呼ばれるものは『聖典』だとは思っていません。)

いつまでも「虚説」を食べつづけないように気をつけてくださいね。

129a hope:2016/06/15(水) 08:44:28 ID:vdNCBnG6
頭注より 

油虫・・・ごきぶり。

130a hope:2016/06/17(金) 06:58:33 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第27巻 p103 後から1行目〜

皆さん、ただ今、眼を瞑(つぶ)って「肉体は無い」と観じ、そうして「南無阿弥陀仏」を称えてごらんなさい、キリスト教の人ならば「神と一体」と称えてごらんなさい、神道の方であれば「天之御中主神(あまのみなかぬしのかみ)と一体だ」と考えてごらんなさい。眼を瞑っているから肉体がないように思われ、その無いように思われる程度にしたがって、われわれは、阿弥陀仏または神様と一体だということがいっそう深く感じられるのであります。

131a hope:2016/06/17(金) 07:00:34 ID:vdNCBnG6

>>103 a hope所感)

みなさま、おはようございます。

今日は、谷口雅春先生の御命日です。 
大感謝、合掌。

そして、上に謹写したお言葉は、間違いなく谷口雅春先生のお言葉です。

ここに、ハッキリ、<<われわれは、阿弥陀仏または神様と一体だということがいっそう深く感じられる>>とあります。

わたしたち人間は本来神様と一体なんですから、まことに〝肉体無し〝 の真理を理解してれば、
「無限絶対の神は、だから感覚できないのである。」などという軽々しい発言は絶対ありえないと思います。

(参照) 『「生長の家」の教義について議論する』板 >>108
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1458205600/108-n

132a hope:2016/06/17(金) 07:05:01 ID:vdNCBnG6
>>131訂正
>>103 a hope所感)→(>>130 a hope所感)

133a hope:2016/06/22(水) 18:15:33 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第27巻 p108 後から6行目〜

「物質は無い」「肉体は無い」ということがわかれば、わが身というものはみんな幻のようなもので何も無いのだと思う観方を「断見」といって、釈迦がまちがった見解の一つして排斥されたところであります。

「物質が無い」と知ったと同時に「実相がある」と知り、「肉体が無い」と知ったと同時に「ほとけ が有る、それが自分だ、神がある、それが自分だ」と知らねばなりません。

「実相がある」「我(が)がある」と言ったら、その実相とはこの肉体の自分のことだ、「この肉体が有る」のだ、と思うのは「常見」といって釈迦はまた排斥されたのであります。

この「断見」「常見」いずれにも堕(だ)さないようにしなければ正しい悟り(正見 しょうけん)ではないのであります。

正しい悟りというものは、「無くて有る」この反対のことを一つに自覚したような状態にあります。

肉体の無がわかっていて、金剛不壊の実相が有ることがわかることが断常二見に堕さない正見なのであります。

この正見を得たときには「無くてしかも有る」ことがわかりますから、肉体が眼に見えていても、それがただちに無いとわかり、実相身が眼に見えないでも、それがただちに有るとわかり、「臨終の一念」を待たないでこのまま、今(いま)成仏していることがわかるのであります。

134a hope:2016/06/22(水) 18:18:25 ID:vdNCBnG6

>>133 a hopeまとめ)

「何もない」・・・断見 ×
「肉体が実相」・・・常見 ×

「(肉体)無くて(実相)有る」・・・正見(正しい悟り)○

135a hope:2016/06/22(水) 18:18:59 ID:xVBwxesw

>>133 a hope所感)

聖典の言葉はどこを拝読しても格調高く、魂に響きます。

それはこの聖典を書かれた谷口雅春先生が、「正見」つまり正しいお悟りを得られた方だったからに他なりませんね。

136a hope:2016/06/24(金) 08:17:39 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第27巻 p128 3行目〜

生長の家はかく「実相世界」のみを強調して、「現象は無なり」と現象的不幸一切を空(くう)じ去る。

さればこそ現実を征服する現実的威力を発揮するのである。

「現象あり」を観ずればわれらは現象に力を認めるがゆえに現象を征服することができないのである。

「現象も現象として在るのであって、かく本体界のみ主張し、本体界の完全観念を現象界にも適用せんとするのは、本体界と現象界を混同するのである」との諸宗教家または哲学者よりの非難があるが、われわれは本体界と現象界とを混同するのではない、混同とは現象界を在りと認めての立場であるが、われらは現象無しと自覚するゆえに、無きものは混同するの恐れなきがゆえに、われらはただ常に本体界の完全性のみを主張するのである。

その結果、本体界の完全性がそのまま現象界に投影して、現象界の不幸を征服することができるのである。

「現象は現象として在るのである」といって現象界を本体界に対立せしめたり、「本体界の自叙自展(じじょじてん)が現象界であって、本体界と現象界とは一如である、そして、現象界は本体界のうちに包摂(ほうせつ)せられるものである」というような在来の見方を脱しえないような宗教では、とうていそれは現実人生を支配することができないのである。

生長の家の思想が、かく素晴らしい現実人生の支配力を有しているのは、主として「現象無し」とスカッと截ち切り、「実相独在」を明快に斬然(ざんぜん)と主張しているからである。

※ 本体界・・・実在の世界。実相界。(頭注より)

137a hope:2016/06/24(金) 08:19:49 ID:xVBwxesw

>>136 a hope所感)

「実相独在」・・・これが、まことの「生長の家」の思想なんですよね。

でも、今現在の「生長の家」の現実をみると、現象、現象、現象・・・・

ある団体が運動をしていく上には、現象を見なければ始まらないというのもわかりますし、
「生長の家」教団の総裁としての谷口雅春先生も、現象を見てたくさんの運動を指揮されていたのだと思います。

そしてその一つが、雅春先生の愛国心から生まれた政治運動だったのではないでしょうか?

わたしは、右翼とか左翼とか、政治に関してはよくわかりませんが、今、現象の「生長の家」が分裂して、
大変な危機的な状態にあるのだけはわかります。

なぜこんな状態になってしまったのかな〜と考えたとき、この「現象無し」の「実相独在」の思想が、
信徒の心から忘れさられてしまっているからなのではないか・・・と漠然と感じています。

138a hope:2016/06/25(土) 12:55:37 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第27巻 p139 後から4行目〜

本当に肉体のお釈迦さんが説いても、まちがいはまちがいであるし、肉体の釈迦が説かなくとも、真理は真理ですから、必ずしも肉体のお釈迦さんが説くからありがたいということではないのであります。

本当にわれわれを成仏させてくれる、「仏」を得、「自由解脱」を得させてくれる教えなら、キリスト教であろうと生長の家であろうと、すべて仏教であり、ホトケ(解脱)の道なのであります。

それだのに「肉体の釈迦」にこだわっていますと、相当の仏教学者が「釈迦は大乗を説かず、小乗仏教のみを説いた。大乗は後世のこしらえた物だ」と言って、仏教の中でも互に喧嘩していなければならなくなるのであります。

しかし喧嘩することが本当の仏教ではありません。

仏教は聖徳太子の仰(おおせ)せ給うたように和(わ)をもって尊(とうと)しとするのであります。

和を説いているのが本当の仏教であるのに、仏教内部で互いに相排擠(はいせい)して争っている。

ちょっと良い説がでると自分の宗教が潰(つぶ)れるといかんと、すぐそれを邪教だと言って、撃滅しなければならぬと、秘かに運動資金を撃滅運動者に回して騒ぎたてるのは、本当の仏教ではないのであります。

そんな撃滅の心がすでにお釈迦さんの心ではないのであります。

139a hope:2016/06/25(土) 12:57:30 ID:vdNCBnG6

>>138 a hope所感)

なんか、ここのところのご文章は、他人事ではないような感じですね・・・。

雅春先生は、現在の「生長の家」の混乱を予測されていたようですが、この文中の「お釈迦さん」を「谷口雅春先生」と置き換えて、
「仏教」を「生長の家の教え」と置き換えて読んでみると、今の「生長の家」の様子にそっくりで驚いてしまいます。

まあ、ここで、わたしが何を発言しても、今の皆さんには何の関心も持っていただけないかもしれませんが
何度でも言わせていただきます。

みなさん、和の心が説かれた真理の書「聖典」を拝読しましょう!

140るん吉:2016/06/25(土) 18:57:48 ID:TWYtDbA.
>>a hopeさま

>>生長の家はかく「実相世界」のみを強調して、「現象は無なり」と現象的不幸一切を空(くう)じ去る。

>>さればこそ現実を征服する現実的威力を発揮するのである。

>>「現象あり」を観ずればわれらは現象に力を認めるがゆえに現象を征服することができないのである。


この文、ググっと来ました。(*^-^*)あ〜、うれしっ!

いつもありがとうございます。読ませていただいてますよ。ありがとー。

141るん吉:2016/06/25(土) 19:02:33 ID:TWYtDbA.
現象無し!

なんと「現象無し」ひぇ〜〜〜 あまりにもすごすぎてどう表現してよいのか?くらいすごすぎる真理です。
誰も思いもつかないこの真理。すごすぎですね!

142神の子さん:2016/06/25(土) 19:13:12 ID:nFi3G1bg
生長の家はかく「実相世界」のみを強調して、「現象は無なり」と現象的不幸一切を空(くう)じ去る。
「現象あり」を観ずればわれらは現象に力を認めるがゆえに現象を征服することができないのである。

という生長の家にあって

今の「生長の家」の様子にそっくりで驚いてしまいます。
まあ、ここで、わたしが何を発言しても、今の皆さんには何の関心も持っていただけないかもしれません

なんて現象ありの感想が何処から出て来るのか、不思議です。

143a hope:2016/06/25(土) 19:29:01 ID:xVBwxesw

>>140 るん吉さま

いつも励ましのメッセージをありがとう(*^▽^*)

わたしは「現象なし」って考えると、いろんな現象的な問題があっても負担に感じなくなって、
むしろ、「よーし、魂みがいてやるぞ!」って生きる意欲が湧いてきます。

生長の家の教えは最高ですね!

144a hope:2016/06/25(土) 19:33:00 ID:vdNCBnG6

>>142 曳馬野さま

いつも同じようなメッセージをありがとうございます。

そうですね、わたしも一日も早く「実相独在」を大悟して、ホントの「現象無しの自覚」に入りたいです。

145神の子さん:2016/06/25(土) 20:59:46 ID:nFi3G1bg
『煩悩本来無し、唯菩提あるのみ、現象本来無し、唯実相あるのみ』これ以外無いのが真理であり、これ以外無いのが生長の家である。天地崩るるとも此処以外に心走らない人間であること。

『身は是れ菩提の樹、心は明鏡の臺の如し。時に拂拭して塵埃を惹かしむること莫れ』と示した神州上座の心と、
『菩提は本樹無し、明鏡亦た臺にあらず。本来無一物、何れの處にか塵埃を惹かん』と示した慧能禅師の心と。

慧能は心安穏とし、神秀は心苦しみに覆われていたことであらう。神のみあること。完全のみあること。そして、それ以外には遂に一物の存在も無いこと。今から完全にして行く自分ではないこと。今から完全にしていく自分はないこと。今完全であり、それだけであって其れ以外は無いこと。この自覚に帰るとき、其処が其の儘道であり、神の子である。そして誰もが今此の儘でそれなのであった。

『其の儘でよいのである、人間は其の儘で完全である。人間の其の儘が神である』の恩師の御言葉が新たなる響きを持って身に沁みる今日である。  常楽への道

146a hope:2016/06/26(日) 10:35:30 ID:xVBwxesw

>>145 は吉田國太郎先生の「常楽への道」からの抜粋文でしょうか?

ですが、この板は「生命の實相」の輪読会用の板ですので、次回からは「生命の實相」以外の文献や御子弟やご文章は、
Web「生命の實相」輪読会参考文献板
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1458099618/l50
の方に謹写していただき、その旨のコメントをいただけるとありがたいです。

ところで、ご紹介のご文章の中に、中国禅宗の第六祖の法燈をついだ慧能(えのう)大師の「本来無一物」のお話がありますが、
これはとても有名なお話ですね。

わたしは、もう10年以上前になりますが、近所の曹洞宗のお寺の法話で初めてこのお話を聞きました。

今、丁度この輪読会でも、「久遠佛性篇」を学んでいます。

貴重なご文章の紹介に感謝いたします。

147a hope:2016/07/01(金) 06:09:52 ID:vdNCBnG6
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第3回 web「生命の實相」輪読会案内 改訂版

期間   平成28年6月1日〜7月31日まで
テキスト 「生命の實相」第27巻久遠仏性篇 上p117〜 第28巻 久遠仏性篇 下
内容   7月1日〜「われらの祈願および修養」「近眼・色盲等は治るか」「体験談」
    
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

148a hope:2016/07/01(金) 06:11:34 ID:xVBwxesw

みなさん、おはようございます。

7月に入りましたが、「生命の實相」第27巻の第八章「われらの祈願および修養」は、
第28巻に続く内容となっているため、輪読会の方もそのまま続けさせていただきます。

この第八章「われらの祈願および修養」の最初の文章を紹介させていただきます。

<<これから「生長の家家族の祈願および修養」の講義の概略を申し上げます。生長の家の家族たち誌友たちの祈願として修養せんとするところの箇条書がこれにかいてあるのであります。順々にそれを説明いたします。>>

今、現象の「生長の家」はとても混乱しています。

このタイミングで、「生長の家家族の祈願および修養」の内容を学ぶというのは、
わたしたち「生長の家」の信徒の本来の使命とすべきことはなんなのかを学び直すいい機会が与えられたのだと思います。

現象的な運動をする前に、まずは生命の実相の真理の説かれた「聖典」をぼろぼろになるまで拝読しその真理を自分のものとしなければ、
まことに谷口雅春先生の御遺志を継いだ運動をすることは不可能だと思います。

今、この混乱の中で、一人でも多くの信徒さんが本来の「生長の家」の信徒に戻られることをお祈りしながら、
「『生長の家』の家族の祈願及び修養」の箇条書きをすべてここに謹写させていただきます。

149a hope:2016/07/01(金) 06:22:13 ID:xVBwxesw

『生長の家』の家族祈願及び修養 (新編 聖光録 p74 75より謹写)

一、『生長の家』の誌友及び読者はすべて『生長の家』の家族として此の祈願に従いて、生活し、修養し、各々隣人を照す燈台たらん事を期す。

二、吾らは凡(あら)ゆる宗教が大生命より発せる救いの放射光線なることを信じ、他宗をそしらず、他人の尊崇の対象たるものに敬礼せんことを期す。

三、吾らは自己を神の子(又は仏子)なりと信じ、常にけだかく人生の道を歩み、内なる魂の矜持(ほこり)を傷つけざらん事を期す。

四、吾らは野を、野の花を、み空を、み空の星を、蒼海(あおうみ)を、大地を、火を、水を、一切の大自然と生物とを観るに、その背後に神の生命の円相を観、その生命を敬し、礼し、愛し、苟(いやし)くも浪費せざらんことを期す。

五、吾らは『心の清き者は神を見る事を得(う)』との真理を信じ、心を飽くまで清く尚(たか)く純に素直に保たん事を期す。

六、吾らは『類は類を招(よ)ぶ』の心の法則を以て苟(いやしく)も自己の欲せざることを心におもわざらんことを期す。

七、吾らは自他の悪を云為(うんい)する時間あらば、神を想い、完全を想い、自己の新生と生長とに利用せんことを期す。

八、吾らは常に無限力と偕(とも)に生くることを信じ、神に背く事のほか、何ものをも恐れず、取り越し苦労をせざらんことを期す。

九、吾らはたとい躓(つまず)くことありとも渋面せず、その瞬間起き上がりて光明に面せんことを期す。

十、吾らは出来る限り悩める隣人を扶(たす)けてその暗黒なる生活を光明に転向せんことを期す。

十一、吾らは自己の好む所を他に施し、自己の好まざる所を他に転嫁せざらんことを期す。

十二、吾らはすべての人類をして健康と幸福と安住との生活を得しめんがため、この光明思想『生長の家』をひろめ全人類に真理を伝えん事を期す。

十三、吾らは生命は永遠なるを信じ、毎朝、皇霊を遥拝(ようはい)し奉り、次いで一家の祖先の霊魂を祀れる祭壇又は仏壇の前に坐してその冥福と守護を祈願し、且つ自己の生命も永遠なれば常に若く愉快に青年の如く生きんことを期す。

十四、吾らは実在の実相のみを見、移り変わる仮の相(すがた)にとらわれず、常に光風霽月(こうふうせいげつ)の如き生活を営みて情(こころ)を動ぜざらんことを期す。

十五、吾らは今日一日出来る限り強く明るく正しく充分生き抜き生き尽して悔いなき生活を送らん事を期す。

十六、吾らは常に善と愛と智慧と光明とが人の実相なることを信じ、常につとめて善に還(かえ)り、愛を行い、真理の書を読み、全人格の雰囲気と心の習慣とを神の如く完全なるものたらしめんことを期す。

『生命の實相』「久遠佛性篇」より


ありがとうございます。 合掌。

150a hope:2016/07/01(金) 19:40:12 ID:vdNCBnG6

一、『生長の家』の誌友及び読者はすべて『生長の家』の家族として此の祈願に従いて、生活し、修養し、各々隣人を照す燈台たらん事を期す。

151a hope:2016/07/01(金) 19:41:35 ID:vdNCBnG6
>>150 つづき

【第一条、説明文の抜粋】 副題 「生長の家の意義と誕生について」

生命の實相 第27巻 p177 後から1行目〜 

そもそも、この生長の家というのは何であるかといいますと、最初はわたしが修養雑誌を出したその雑誌にたまたま付けた名前ではあったのですが、しかしながら本当の「生長の家」というのはこの雑誌の名前だけではない、といってまたわたしの個人の家の名前でもないのであります。

「家」というと、何か屋根のある、ある一定の建物のような気がするのでありますけれども、「生長の家」というのは「大宇宙」ということであります。

「生長する」というのは創造(クリエート)することで、いくらでも無限に創造し伸びてゆくのが宇宙の実相である。

だから大宇宙のことを「生長の家」と申しますので、この大宇宙に満ちてる生命創化の法則を研究し、その法則を宣べ伝えて、広く人類を教化しようという目的の団体を現在「宗教法人生長の家」と称されています。

「宗教法人生長の家」と「大宇宙」そのものなる「生長の家」とは別物であります。

で、この「実相の世界」のことをわたくしどもでは「生長の家」とこういっている。

(略)

この生長の家なる実相が仮に世界に影を投影して顕われたのが、地上の「生長の家」であります。

皆さんのお宅も実相の善さが顕現したら皆ことごとく生長の家であります。

この「実相の浄土」たる「生長の家」が地上に形を映して、文章に――その言葉の響きの現われたのが、最初この『生長の家』という雑誌であったわけであります。

(略)

ともかく、こういうふうにして、実相の浄土にあるところの、喜びに満てる、光に満てる実相の言葉が地上の雑誌として初めてこの世に現われてきたのであります。

そうしてその言葉に最初触れる人たちが、地上における「生長の家家族」ということになったわけであります。

むろん、この「生長の家」の家族というのは必ずしも『生長の家』の誌友あるいは読者には限らないのであります。

本当に実相の浄土を地上に生きる人、この人はむろん生長の家の家族であるわけであります。

だけれども、まず第一にここでは本当にこの生長の家すなわち実相の浄土を地上に生きる第一世として現われた『生長の家』誌友が、この現世を照らす光となり、おのおの隣人を照らす燈台となるようにしようじゃないか、こういうのがわれらの祈願の第一条の標識であります。

152a hope:2016/07/01(金) 19:53:32 ID:vdNCBnG6

>>150 >>151 a hope所感)

わたしは、「生命の實相」を拝読していると、本当に嬉しくて、嬉しくてたまらなくなります。

なぜなら、聖典「生命の實相」は真実のみをはっきり伝えてくださるからです。
今、流行りの言葉で言えば、「聖典はウソをつかない」でしょうか・・・

<<「宗教法人生長の家」と「大宇宙」そのものなる「生長の家」とは別物であります。>>

谷口雅春先生が現象世界に生きられていたころから「宗教法人生長の家」と真の「生長の家」とば別物だったわけです。

だったら、現在の「宗教法人生長の家」が、真の「生長の家」ではないのは当然なわけです。

<<むろん、この「生長の家」の家族というのは必ずしも『生長の家』の誌友あるいは読者には限らないのであります。
本当に実相の浄土を地上に生きる人、この人はむろん生長の家の家族であるわけであります。>>

言い換えれば「実相の浄土を地上に生きる人」なら教団の信徒でなくても、
雅春先生の崇拝者でなくても、み〜んな「生長の家」の家族ということになります。

わたしは教団にも、どこの団体にも所属していませんから、この真実は本当に嬉しいです。

それでは、「実相の浄土を地上に生きる人」とは具体的にはどんな人なのでしょうか?

輪読をつづけます。

153a hope:2016/07/03(日) 07:19:51 ID:vdNCBnG6
二、吾らは凡(あら)ゆる宗教が大生命より発せる救いの放射光線なることを信じ、他宗をそしらず、他人の尊崇の対象たるものに敬礼せんことを期す。

【第二条説明文抜粋】副題 各宗教に対する生長の家の立場 

「生命の實相」第27巻 p182 後から5行目〜

いろいろの宗教がこの世に出ておりますけれども、その宗教はどれもみなこの世の光となろうとする使命をもって生まれているのでありまして、電燈の光も、ガス燈の光も、ランプの光も、あるいはマッチの光もことごとくこれ照らさんがために現われているのであります。

(略)

こんなわけで、この世の宗教は、おのおのの総ての電燈は照らす光として働いているのと同じように、すべて人生の燈台となり、人の心を照らす光の働きをしているのであります。
それに、いちいち相手をけなして自分ばかり良いのであると、こういうような宗教争いをするようなことでは実にみっともないことであります。
宗教は要するに愛を説くものである。愛とは仏教でいえば慈悲と申しますが、キリスト教でいえばたいてい愛という。愛とは何であるかというと自他一体の実相の働きです。

(略)

すべての生きとし生けるもの、すべての人間を愛によって結びつけ自他一体であるという実相を知らせ本当の相(すがた)を悟らせるために現われたところのこの宗教が、宗教同士仲がわるくて、互いに欠点をあばいて石を投げ合いして、あいつはわるい、あいつは撲滅しなければならない、あいつが栄えたらわたしの方の宗教は栄えなくなるというふうな利己的な観念をもって、争いあうというふうでは本当に宗教がこの世を照らすために現われ他という目的に反(そむ)くわけであります。

かく、宗教というものはこの世を照らす光でありますから、どれだけ他にあってもよいのであります。自分は自分で光ればよいのであって、他は他でまた光ればよい。人類も多種多様であるからその対象たる人類に適するように多種多様の宗教が現われてこれを照らす、五百燭光(しょっこう)の電燈がありさえすれば、懐中電灯は要らぬというわけではない、太陽が出ている時でも、活動写真を映すときには電燈の光が要るのであります。

生長の家では決して他の宗教を悪くいわないのであります。みんな結構である――。

154a hope:2016/07/03(日) 07:20:55 ID:vdNCBnG6

>>153 a hope所感)

<<それに、いちいち相手をけなして自分ばかり良いのであると、こういうような宗教争いをするようなことでは実にみっともないことであります。>>

<<すべての生きとし生けるもの、すべての人間を愛によって結びつけ自他一体であるという実相を知らせ本当の相(すがた)を悟らせるために現われたところのこの宗教が、宗教同士仲がわるくて、互いに欠点をあばいて石を投げ合いして、あいつはわるい、あいつは撲滅しなければならない、あいつが栄えたらわたしの方の宗教は栄えなくなるというふうな利己的な観念をもって、争いあうというふうでは本当に宗教がこの世を照らすために現われ他という目的に反(そむ)くわけであります。>>

ほんとに、そうですよねぇ(;´∀`)

でも、きっと宗教争い真っ最中の方々は、ご自分自身が「虚説」だと感じるもの(違和感を覚えるもの)に和解しないために、
一生懸命戦っておられるんだと拝察いたします。

わたし自身、現教団の運動や雅宣先生の教義内容、そして、本流関係の掲示板で見られる教団や雅宣先生への執拗な批判文等には、とても違和感を覚えます。

違和感を覚えれば、排斥したくなるのは当然ですよね。

でも、でも、ですよ・・・ それって、本当に、「虚説」なんでしょうか・・・?

以前、復興Gさまに『「虚説」とは無いものである。』と教わりました。
「本来無いもの」をありとして見て、批判し続ければ、それは当然現象となり現れてきてしまう・・・、
それが、「心の法則」なのではなかったのでしょうか?


ですがだからと言って、
<<生長の家では決して他の宗教を悪くいわないのであります。みんな結構である――。>>

この、聖典のお言葉の意味を軽く考えていると、本当に「虚説」に和解することになってしまいます。


自分が違和感を覚えることには従わず、「自己内在の神」を信じて、自分が正しいと思う信仰をし続ければいいのだと思います。

「自己内在の神」を信仰すること、それが、本来の「生長の家」の信仰だとわたしは信じています。

155a hope:2016/07/05(火) 10:57:51 ID:xVBwxesw

三、吾らは自己を神の子(又は仏子)なりと信じ、常にけだかく人生の道を歩み、内なる魂の矜持(ほこり)を傷つけざらん事を期す。

【第三条説明文の抜粋】 副題 「神の子の生活を今生きよ」

さて、この自分は神の子であるということがわかりましたならば、そのわかった神の子を生きて行くということが必要なのであります。

「自分は神の子である」とわかりながらそれを今生きて行かないというのは、これは実に矛盾したことであります。

そういう人は実際は、本当は神の子であるとわかっていないのであります。

そういう人が神の子であると思うのは、偽存在(にせもの)の自分を神の子であると思っている場合にそうなるのであります。

偽存在(にせもの)の自分、我の働きが神の子であるとこう思っている、その場合には、いくら聖典を読んでも実際に神の子らしき行いとしてそこに現われてこないのであります。

真鍮の指輪をもってきて、磨いたら黄金になるであろうと思っていくら磨いたって、真鍮はやはり真鍮なのであります。

それと同じく、この偽存在の自分をもって「神の子である、神の子である」とこう思っても、なかなかわれわれは神の子になれっこはない。

それでわれわれは神の子でありという自覚を実相から出してくるということが必要であります。

(略)

それでわれわれは神の子であると知るということは、結局は神の子を生きるということで、「知る」ということと「生きる」ということと別にあると思うとまちがいであります。

つまり、「知る」とは「生きる」ということである。

(略)

本当の信心というのは「ここに神が生きる」「ここに仏が生きる」この自覚で生ききるのが信心であります。

156a hope:2016/07/05(火) 11:00:11 ID:xVBwxesw

>>155 a hope所感)

わたしは、聖典「生命の實相」の真理に感動して「生長の家」教団に入信しました。
なので、その聖典の真理を説かない教団には、なんの未練も愛着もなかったので、すぐに退会しました。

ですが、退会した後も宇治別格本山の練成会には何度も参加だせていただきました。

当時の宇治別格本山には、楠本加美野先生もおられて、霊的な雰囲気に満たされていて、魂が震えるような体験を何度もしました。

「人間は神の子だ」「神の子なんだー」「嬉しい楽しいあっはっはー」「お父さん、ありがとうございます。 おかあさん、ありがとうございます。」・・・

今でも、練成の思い出がはっきりと蘇ってきます。

自殺未遂をされた自営業の男性、若い娘さんを亡くされたお父さん、拒食症の少女、末期がんを宣告された女性、職場で窃盗をしてしまった青年・・・。

ほとんどの方が、心に大きな不安や悲しみ、絶望を抱きながら、最初は暗い暗い表情で練成に参加されていました。

それが、練成最終日には見違えるように元気になって明るい表情で帰って行く・・・。

もちろん、全員がそうなったわけではありませんが、最終日までしっかり参加されていた方のほとんどは、生きる希望を取り戻されていました。

今思えば、参加者のみなさんは、練成によって「辛い現象はすべて影」であり、
本当の自分は「神の子」であったと自分の実相を知り、「神の子を生きる」決意をされていたんですね。

宇治別格本山の練成会は、本当に素晴らしかったです。

157神の子さん:2016/07/06(水) 21:19:00 ID:1ThqK4Lc
それにしても輪読会、盛り上がらないスね。。

皆、教団の内紛とか政治の話の方が好きなんでしょうね。

158トキ ◆UMw6UoGELo:2016/07/06(水) 21:24:13 ID:D6liK7g.
 いえ、じっくりと読む人が多いので、この輪読会は人気ですよ。

159神の子さん:2016/07/07(木) 13:29:51 ID:ylBQgeIU

現象に完全を求むることなかれ

 「現象は時間と空間の制約を通し

  実相が展開する過程なり。

  過程は常に中途にして完璧ならざること、

  楽曲が中途にして完結すること能わざるが如し。

  汝、人生の楽曲を正しく味わうべし。

  曲の最中に

  完結を急ぎて声上ぐるは愚かなり。

  曲は必ず完結するが故に、

  心静かに曲の進行と転調を楽しむべし。

  世界の実相、必ず完全なるがゆえに、

  創造神を信じ

  人生の変化と多様な進展を味わうべし。」

(『観世音菩薩賛歌』より)

160法の精神:2016/07/07(木) 13:31:11 ID:ylBQgeIU
>>159は私です。

161a hope:2016/07/07(木) 16:14:31 ID:xVBwxesw
四、吾らは野を、野の花を、み空を、み空の星を、蒼海(あおうみ)を、大地を、火を、水を、一切の大自然と生物とを観るに、その背後に神の生命の円相を観、その生命を敬し、礼し、愛し、苟(いやし)くも浪費せざらんことを期す。


【第四条 説明文抜粋】 副題 「いっさいのものを拝め」

生命の實相 27巻 p199 後から4行目〜
そこで、自分自身が神の子であると自覚した時に、次いでこの神の自覚が発動し動き出した場合に神の子が活動する環境はどういう世界であるかというと、これは第一ヶ条のところでいったとおり、無限創造の宇宙すなわち「生長の家」であります。

仏教でいうと寂光土である。

寂光土というとちょっと平和すぎるので、活気溌剌たる「生長の家」すなわち無限創造の宇宙だとわれわれはいうのですが、この無限創造の宇宙たるやどういうものであるかというと、聖経『甘露の法雨』の講義の時に申しましたように、それは無限次元の世界である。

われわれの住んでいるこの三次元(縦・横・厚みの三つの広がり)の世界だけでもこんなに美しい世界があるのに、それが無限次元の妙なる世界である。

その妙なる世界が、この五官にはその全体の貌(すがた)は見えないけれども、妙なる世界のうつしとし、写真として見える。【たとえば写真ですが、実際のわれわれ人間の相(すがた)は写真に比べると、もっと複雑な相(すがた)をし、もっと複雑な次元を備え、もっと複雑な色彩を備えているのであるけれども、写真にはただ一色の平面の姿に写っている。】

それと同じに、われわれの五官で認識(みと)める三次元の世界では実相の世界の複雑微妙な無限次元の妙なる美しい世界が平凡な世界に見えているのであります。

けれどもわれわれはこの肉眼で見るところの野を、野の花や、み空の星や、蒼海(あおうみ)や、大地や、火や、水や、いっさいの大自然や、生物や、味の少ない世界とは見ないで、その奥の奥を観て、もっと無限に美しい円満な、完全な神の生命というものを観る、そうしてそれを敬し、礼し、愛し、いやしくも浪費せざらんことを念願とするのが生長の家の生き方であります。

「生長の家」は、ここに明らかに生命礼拝の宗教でありますが、原始人の生命礼拝の宗教とはちがう。

原始人は物の奥の奥にある実相などというものを知らない。

だから生命礼拝といっても浅薄な現象生命の礼拝であったので、現象そのものを不思議がって礼拝していたのであります。

(略)

「生命の實相」第28巻 p6 1行目〜
ともかく、われわれは現象を見ても現象だけを見てそれを全部だと思ってはいけないのです。

その現象の奥にある実相を見、そこに十全なる神の相(すがた)、実相の円満な相を観て、そうしてそれに対して敬礼をするという気持ちにならなければならないのであります。

(つづく)

※十全・・・少しも欠けたところがなく、すべて完全なこと。頭注より

162a hope:2016/07/07(木) 16:16:00 ID:xVBwxesw


>>161 a hope所感)

ここで説かれている内容を簡単に要約すると、わたしたちが五官で確認できる三次元の世界はそれがどんなに美しく見えても感じてもそれがすべてではない。
その奥にある無限次元の世界の「実相」を観て、「生命の実相」を礼拝せよということなのだと思います。

つまりそれが副題の「いっさいのものを拝め」いう意味になるのだと思います。

だから、ここでいう「いっさいのもの」とは、現象的に見えているものの奥にある実相が含まれるわけですね。

そしてその「実相(生命)礼拝」こそが、わたしたち「神の子」の活動であると・・・。

世の中のほとんどの社会運動は、現象社会の不完全さを良くしようとして始められるのだと思いますが、
「生長の家」の人類光明化運動は、実相世界の完全円満さを人類に伝えていく運動なわけです。

だから「生長の家」の運動は他の社会運動とはまったく〝 次元〝 が違う、「実相世界の運動」なんですね!

163a hope:2016/07/07(木) 16:19:11 ID:vdNCBnG6

>>159 法の精神さま)

『観世音菩薩賛歌』の一節をご紹介くださいましたが、ここは「生命の實相」の輪読会板です。
「生命の實相」以外の聖典やその他の文献のご文章の紹介はご遠慮ください。

また、今回『観世音菩薩賛歌』の一節をご紹介くださった理由はなんでしょうか?
もし、質問等があるのであれば『「生長の家」の教義について議論する板』の方にお願いいたします。

164るん吉:2016/07/07(木) 22:18:07 ID:TWYtDbA.
>>それにしても輪読会、盛り上がらないスね。


一番、好きなスレッドですが?

165a hope:2016/07/08(金) 10:29:46 ID:xVBwxesw

>>158 トキさま >>164るん吉さま

ありがとうございます(*^^*)

166a hope:2016/07/09(土) 08:18:34 ID:vdNCBnG6
>>161 つづき)

「生命の實相」第28巻 p6 4行目〜

蓮如常人(れんにょじょうにん)は「一枚の紙もすべて仏物(ぶつもつ)である」と言われたそうでありますが、その心持こそ大切である。

「生長の家の経済学」には「物質は無限供給であるから使うほど殖える」ということが書いてあります。

「使うほど殖える」から、紙でも無暗に一字くらい書いて紙屑籠に捨てると、これは大変経済循環をよくしていいことだろう、こう考える人もあるかもしれない。

しかし、それは嘘である。

本当に使えば使うほど殖えるけれども、それは破って捨てるのは使うのじゃないのです。

われわれは一枚の紙にも、その背後に神の生命を見、神の無限の光を見、神の無限の愛を見、これを拝まずにはおれない。

これを礼拝して使わずにはおられない。

今までは「もったいない」ということは棚の上に上げて蔵(しま)って置くとこういうふうな考え方が多かった。

それで「もったいない、もったいない、食べたらもったいない。着たらもったいない」と戸棚や箪笥に入れて置くという、これじゃいけないのです。

神の生命は、使ったら減るというふうなものでない。

実に立派なものであるから、この立派なものを、その顕われている生命の働きを十二分に発現させて使えば使うほど増えるということになるのであります。

無限供給であるから破って捨てるというのじゃないのであって、用途に従ってそこに顕れている神の生命を使えば使うほど、神の生命がはっきり顕わされてくる、それが無限供給である。

「物質は無い」ということは、そこに何も無いということではない。

みんな仏物である、みんな神の生かす力の顕現(あらわれ)である。

その奥には物質ならぬ実相があるということであります。

これを履き違えると大変なまちがいになるのであります。


生命は生きる、生きるから生活であります。

我れ神の子なりと知ったら、神の子を今生きるということ、これが神の子を知るということであると申しました。

それを客観界のものにしましたならば、紙が一枚ここにある。

この紙一枚が、その奥にある実相を見れば、それが仏様であり、神様であって、ここに神の生命が現れているということを知れば、それを生きるということは、ことごとく与えられたる生命を完全に発揮させるということです。

この「生命を発揮させる」ということが紙を使うということです。

すると使えば使うほど殖えるのであります。

この一枚の紙の使命を完全に発揮させたならば、そこに神の生命が生きてきて無限供給ということが出てくるのであります。

167a hope:2016/07/09(土) 08:20:34 ID:xVBwxesw

>>166 a hope所感)

現象に見える物質は本来ないものだけれども、その肉眼で見える物質の背後に神の生命を見、
神の無限の光を見、神の無限の愛を見、それを礼拝して使う・・・

その「心」が大切なんですね。。

「天地の萬物(すべてのもの)へ感謝せよ」とはこのことだったのですね・・・。

今、わたしのまわりにあるすべてのものが光り輝いて見えます。

168a hope:2016/07/12(火) 09:04:32 ID:vcpdnQEI
五、吾らは『心の清き者は神を見る事を得(う)』との真理を信じ、心を飽くまで清く尚(たか)く純に素直に保たん事を期す。


【第五条、 説明文の抜粋】 副題「心を清く空虚にせよ」
「生命の實相」第28巻 p10 7行目〜

『心の清き者は神を見ることを得(う)』ということは、キリスト教のバイブルにある句であります。

「心の清き者」というのはどういうものであるかというと、何も無い人です。

何もない人が「心の清き者」です。つまり「我」のない人であります。

この幼児(おさなご)の心を持ったものが初めて真理を知ることができるということは、バイブルにも、『生長の家』にも書いてあるのでありまして、われわれがいくら知恵や学問をもっておりましても、本当に心が虚無(からっぽ)になっていないと本当の真理を受け容れることができないのであります。

(略)

世の中には妙な人があって、生長の家では病気が治る事実があるのに、「宗教で病気が治るはずがない、若(も)し治ったらそれは邪教だ」という理屈を製造して躍起になっている人もあります。

理屈で「治らない」と弁証し、多数決で決定しても事実治ったら仕方ないのであります。

それと同じくわれわれが「神の子である」とはなぜ人間は神の子であるか、なぜ人間は神の子でないのかとこういったところが、神の子であるから神の子である、これはもう理屈ではないのです。

神の子であるから神の子である。

(略)

ともかくこういうふうに理屈が心の中にいろいろと詰まっている人は事実があっても本当に素直に受容(うけい)れることができない。

現に眼の前で病人が一人減り二人減り続々と減っている事実を見ても、全人口でどこが減っておるかという、こういうことを言いたくなってくる人を、こういう我の理屈や塵埃(ごもく)を心の中にいろいろともっていて真実を受入れることが出来ない人を、心の清くない人というのであります。

心の清き人は本当に神を見る、実相を見ることができる。

心の中に塵埃(じんあい)が一パイにないからするすると真理が入るのであります。

(略)

それで、われわれは『生命の實相』を読んでも、この心の清き人ものになって『生命の實相』を読まなければならないのです。

『生命の實相』を読んでもすぐに病気が治らないような人は、きっとこの心の清くない人です――心が清くないというても、泥棒するとかそういうふうな意味ではないのです。

――知恵や学問の塵埃(ごもく)でいっぱいに詰っている、そういう人ほどかえって生命の実相を素直に受け容れることができないので――まず一遍いっさいの知恵学問を捨てて『生命の實相』を読まなくてはならない。

いっさい人知を否定してしまうのじゃありませんけれども、一度は傍(かたわら)のバケツへ知恵の水を移し代えておいて、心のコップの中に水を注ぐように入れるわけです。

コップの中に濁った液体を入れておいて、その上からさらに清い水を容れてやろうと思ってもなかなか入りにくいのであります。

それで一度は心のコップを空けてしまっておいて、空虚(からっぽ)にしておいて入れる。

この虚無のこの心、空虚(からっぽ)の心が「清きもの」であって、嘘を吐く(つ)かぬとかそういうふうなことじゃないのであります。

本当にこの虚無(からっぽ)の心になった時に初めて神を観ることができるというわけであります。

169a hope:2016/07/12(火) 09:05:53 ID:vcpdnQEI

>>168 a hope所感)

<<――知恵や学問の塵埃(ごもく)でいっぱいに詰っている、そういう人ほどかえって生命の実相を素直に受け容れることができないので――まず一遍いっさいの知恵学問を捨てて『生命の實相』を読まなくてはならない。>>

この情報化が過剰に進んだ社会で生きてゆくためには、わたしたちはそれが正しい情報なのか間違った情報なのかを見分ける力が必要です。

それと同じことが宗教や思想に関しても言えるのだと思います。

ですがまずは、その宗教や思想が真理なのか虚説なのか、自分自身で考え、判断することが大切ですね。

実際、「生長の家」と名乗っている現教団の思想は、「生長の家」の教えとはまったく別物になってしまっています。

まちがいない「真理」を学びたいのであれば、『生命の實相』を心を空っぽにして拝読し続けるのが一番確かな方法なんですね。

170a hope:2016/07/14(木) 12:18:28 ID:HpPPMIUs
六、吾らは『類は類を招(よ)ぶ』の心の法則を以て苟(いやしく)も自己の欲せざることを心におもわざらんことを期す。

【第六条 説明文の抜粋】 副題 「自己の欲せぬことを思うな」
生命の實相 第28巻 p15 10行目〜

「類は類を招(よ)ぶ」というのは生長の家の横の真理であります。仏教でいえば「三界は唯心の所現」である。

これは現象界が展開して来る、業の流転してくる法則を顕わしたものであります。

業はいかにして流転するかというと、この「類は類を招ぶ」という法則によって流転しているのであります。
(つづく)

171a hope:2016/07/14(木) 12:20:04 ID:HpPPMIUs

>>170 a hope所感)

この第六条では「横の真理」である心の法則(三界唯心所現)と、「縦の真理」である神の子の自覚(唯神実相)の関係が説明されています。

この関係性がよくわかっていないと、『現象は時間と空間の制約を通し実相の展開する過程なり』みたいな、
間違った思想をもつことになってしまいます。

上に謹写した部分に、<<現象界が展開して来る、業の流転してくる法則>>という部分がありますが、
現象界の展開は業の流転による影の世界の展開なんですから、悪い念(迷いの心)を持っていれば悪い結果が現れるし、
良い念(悟りの心)を持っていれば実相さながらの現象が現れてくるということになるのだと思います。

ですから、頭で「実相」が完全だとわかっていても、自分の悪い念(迷いの心)をなおざりにしていては、
いつまでたっても現象に良い結果は現われてこないということになります。

それでは、悪い念(迷いの心)を捨て去り、良い念(悟りの心)を持つためにはどうしたらいいのでしょうか?

つづけて謹写していきます。

172a hope:2016/07/14(木) 12:25:31 ID:HpPPMIUs
>>170 つづき)

「生命の實相」第28巻 p22 5行目〜

病気の人を見て人の心持ちを何でも良く当てることができるのは「類は類を招ぶ」ということによって、心のとおりの相(すがた)が肉体に現われているのを看破(かんぱ)するから当てられるのです。

このように、肉体は心の影でありますから、われわれが円満完全な相好(そうごう)をし、円満完全健康な肉体をし、円満完全で何不自由なき境遇になろうと思うならば、まず心が円満完全にならねばならないのであります。

その円満完全なる心になろうとしましても、修養や克己(こっき)で、腹立つ心を抑えたり、憎む心を制したり、不平不足な心を抑えたり、いろいろわるいことを一つ一つ抑えてゆこうとすると、こいつはなかなかむつかしいのである。

けれども、われわれは、そういう怒る心、腹立つ心、憎む心というような一つ一つの心を抑えなくても急所がある。

猫でも首の上のところを撮(つま)んでひょいっと上げる、急所を捉(つか)むとじっとしている。

それと同じで、われわれの感情でも急所を把(つか)んでひょっと上げるともう温和(おとな)しくなってしまうのです。

その急所はどこにあるかというと「実相」です。

われわれは「生命の実相」を捉(つか)む、人間の実相を捉んでぶら下げると誰でもみな温和しくなる。

ほかの修養では心を外から抑えてゆこうとしますが、「生長の家」では『生命の實相』を読んでいるうちに「実相」を表現した文章の力、言葉の力で、読むだけで心が和んでき、心の欠点が直ってくるようになっていて、外から無理に抑えなくても万事がよくなるようになっているのです。

それでそんなに意地悪な姑(しゅうとめ)さんでも猫と同じことで、こちらの心が穏やかになって、相手の実相――神の子――という急所を把むと、そうするとみんな猫のように、イヤそうじゃない、神の子のように温和しくなりまして、そうしてみんなあの人も神の子である、この人も神の子であると、本当に大調和した世界が、家庭にも環境にも実現してくると、自分のゆくところ神の子たらざる人はないというようになって円満完全な調和した世界が現われるということになるのであります。

173a hope:2016/07/14(木) 12:32:27 ID:HpPPMIUs

>>172 a hope 所感)

「生命の實相」を拝読するだけで、「迷いの心」が消えて「悟りの心」が現れる・・・、
そして「類は類を招ぶ」の法則によって、周りの環境もどんどん良化していくんですね!

聖典を拝読しない人って、なんか、すっごく損しちゃってる感じですね。

174a hope:2016/07/16(土) 08:33:40 ID:9YJfssAE
七、吾らは自他の悪を云為(うんい)する時間あらば、神を想い、完全を想い、自己の新生と生長とに利用せんことを期す。

【第7条 説明文の抜粋】 副題「自他の悪を思わず常に光明に転向せよ」

生命の實相第28巻 p26 3行目〜

「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」と申しますが、なおいっそうそれよりも真実なのは「健全なる肉体は健全なる精神の反映である」ということであります。

概して健全なる肉体を反映するところの健全なる精神は、

『自覚(さとり)の心』
一、 平和の心
二、 明るい心
三、 悦びの心
四、 深切の心
五、 有難い心
六、 無我の心
七、 自在の心

でありまして、その反対の

『迷いの心』
一、 不安、焦燥、恐怖の心
二、 暗い心、陰鬱の心
三、 不平、不満足な心
四、 冷淡な心
五、 忘恩的な心
六、 利己的な心、嫉妬、猜疑、羨望
七、 一事物に引っかかる心

などは病気を起こす心であり、その症状も心の状態相応の形をもって現われるのであります。

細かく分類すれば、病気の数だけ「迷いの心」もあるわけですが、それを一つに纏(まと)めると、「迷いの心」とは、「我執の心」であります。

我執があるから、一事物に引っかかり、不安、焦燥、恐怖、憂鬱、不平、不満足、冷淡、忘恩、嫉妬、猜疑、羨望などがおこってくるのであります。

(略)

不安、焦燥、恐怖が起ってきたときには、不安に思うまい、イライラすまい、焦るまいと思ってそれを抑圧してもたいていは駄目であります。

不安に思うまいと努めれば務めるほど焦り出し、焦るまいと思えば思うほど焦り出し、恐れまいと恐怖を抑えれば恐怖し出すのがわれわれの心であります。

それは「不安を……」と思ったときにすでにわれわれは「不安」を心に描きますから、心に描いたものが強く現れるのが心の法則でありますから、「不安を……抑えよう」と思ったのでは不安は決して無くならないのであります。

「不安」をなくするには、「不安を……」とすら考えないで、全然別なる完全なる状態に心を集中しなければならないのであります。

すなわち、この時こそわれらは、「神を想い、完全を想い」心を旧我から一転せしめて、「神と一つなる自分」を新しく発見するように努めなければならないのであります。

その方法の一つとしては、神想観を行うに当って招神歌(かみよびうた)を誦(とな)え終ると次のように念ずるのがよろしい。

「自分は神の子であるから、本来神と波長の合った心の波動をもっているのである。神と波長の合った心の波動をもっている自分はただ神の大調和の念波を受けるだけであっていかなる不調和の念波をも受けることはないのである。我は神の子であり、我が環境はわが心の影であるから、我が環境は今現実に大調和であり、神の無限の智慧と愛と生命と供給とが満ちているのである」

この光明思念を繰り返しつつ精神統一状態に入り、いっさいの悪を思わず、今現実に大調和の世界がここに展開しているという大信念に到達してその神想観を終わり、神想観後の日常生活もできるかぎり明朗なる心境を持続するように努めれば、現実の苦難の状態は克服され実相世界の完全なる状態がしだいに現実生活にまで再現してくるのであります。

175a hope:2016/07/16(土) 08:34:46 ID:9YJfssAE

>>174 a hope所感)

日常生活に追われていると、つい「神想観」を怠りがちになってしまうことがあります。
そんなときは、自分の心が「迷いの心」で満たされているな〜と感じることが多いです。

先日「神想観」の時に、初めの経験ですが、完全に「我執の心」がなくなったように感じました。(自分の存在が無くなったような不思議な感覚)

今まで、坐禅をしても、ヨガの瞑想をしてもそういう気持ちになったことはありませんでした。

生長の家の「神想観」は自分一人が行ずるのではなくて、「生長の家の大神さま」のお導きとお守りがあって行ずるわけですから、
神さまと波長さえ合えば「神さまを感じる」ことができるのだと思いました。

176るん吉:2016/07/17(日) 12:59:44 ID:TWYtDbA.

>>先日「神想観」の時に、初めの経験ですが、完全に「我執の心」がなくなったように感じました。


すんごい体験ですね!
Congratulations on your mysterious experience!(*^▽^*)

177a hope:2016/07/18(月) 08:48:03 ID:xVBwxesw
八、吾らは常に無限力と偕(とも)に生くることを信じ、神に背く事のほか、何ものをも恐れず、取り越し苦労をせざらんことを期す。

【第八条 説明文の抜粋】 副題 「神と偕(とも)に無畏無憂(むいむゆう)の生活を送れ」

われらの心の明朗の極点は「神の無限力」と一体で生きているという自覚であります。

他のいろいろの方法によって心の明朗さを得ようとも、それはたいてい一時的の明朗さであります。

また次なる重大なる事件が起こってくるとともに、その明朗さは破壊せられずにはいないのであります。

どんな重大なる事件が起こって来ようとも、我が味方は「神」であり「神」がその事件をわれらの真の幸福にまで導き給うものであるとの自覚さえありさえすれば、われわれはその重大なる事件を静かに支配することができるのであります。

かかる重大事の起こっている時に際して、最も恐れるべきは「重大なる事件」そのものではなく、重大なる事件に驚愕し周章(しゅうしょう)狼狽して「神吾と偕(とも)に在り」との自覚を失ってしまうことであります。

この自覚さえあれば「重大事」はいつの間にか方向転換して幸福の曙光(しょこう)が見えはじめます。

しかし「神と偕なる」自覚を失ってしまったが最後、事件は層一層危険の度を加え、その人は加速度をもって危殆(きたい)の世界に押しやられて行くのであります。


ですから、われわれは何事が起ろうとも事件そのものは恐ろしくない。

どんな成功者といえども必ずや幾度も失敗と見える経験を繰り返したのです。

しかし彼が成功したのは普通ならば「失敗」として悲観し退嬰(たいえい)してしまうような時にも、それを「失敗」とは見ないでその「失敗」を次なる成功の足場としたのでありあす。

ヘンリー・フォードは言っています。

「自分はいまだかつて事業に一度も失敗したことはない。われらの事業はたとえば化学の実験のようなものである。予定の結果が出て来る時も、また別の結果が出て来る時も、共に科学の実験としては成果を収めているのである」と。

まったく常住「楽観病」と評されるヘンリー・フォードが言いそうなことであります。

この常住「楽観病」こそ事業を成功にまで導き来す大原動力であって、その背後には「神と一体」の自覚があって可能なのであります。

取越し苦労患者は、常住楽観者の反対であります。

常住楽観者は失敗の中にでも成功を見て心を明るくするに反して、取越し苦労患者は成功の中でも失敗を見るのであります。

こんな人は幸福の真最中にいてすらも、「こんなに幸福であったらもったいない」とか、「幸福が続けば必ず不幸がくるのだ」とか。「悪」を心に描いて恐怖します。

そして実際不幸が来ればいよいよますます恐怖し、悲観し、周章狼狽して手を束ねて策の施すところをしらないのであります。


およそこのような取越し苦労、不安、恐怖は精神力の適用でありますから、精神エネルギーを消耗することおびただしく、明るい希望に満ちた心で考えれば疲労もせずに名案が浮かぶものを、いたずらに憂苦し懊悩するために、頭脳は疲労し、よき考えは逃げてしまい、時局を好転するに必要なる縦横(じゅうおう)な機略は姿を潜(ひそ)めて出て来なくなるのであります。


取越し苦労や心配が心の底から湧き起こるときには、ただちに心を一転して「われ神の子である、われ神と偕に生く、われ神と偕に歩む、わが砦(とりで)は神であるから恐るるところのものはない」と断々乎(だんだんこ)として心の中に唱えて自分自身に言って聞かすようにする習慣をつけるがよい。

またヘンリー・フォードが考えたように、人生の体験はどんな体験でも失敗はない、どんな体験も次なる成功に達する一段階であると喜び勇んで、その現在の地点を足場として明朗な心境で新たに出発するものは必ず最後に成功するのであります。

178a hope:2016/07/18(月) 08:49:33 ID:vdNCBnG6

>>177 a hope所感)

わたしは「現象は無いんだ、すべて影なんだ」って思うと、反対に「この現象世界で思いきり生きてみよう!」という力が湧いてきます。

なぜなら、この現象が影だったら、必ずその影を映し出す元の光があるわけで、
それは、とてつもなく大きくて明るい一つの光 …… つまり「神」なんですよね。

そして、現象でどんな悲惨なことが起っているように見えても、わたしたちは常に「神の光」の中にいるんですから、そう思うと、わたしはとてつもない安心感と幸福感につつまれます。

179a hope:2016/07/18(月) 08:55:02 ID:xVBwxesw

>>176 るん吉さま ありがとうございます(#^^#)

You will have the same experience as me if you do ' sinsoukan ' every day.

Let's enjoy our spiritual life!


わたしも英文で、がんばってみました💦

180誌友会ファン 一読者です。:2016/07/20(水) 12:21:04 ID:j41BUutM
トキさんへ
ユタカですけど?

181トキ ◆UMw6UoGELo:2016/07/20(水) 12:29:11 ID:mh4XEL12
>>180

『web「生命の實相」輪読会』へのご参加を心から歓迎申しあげます。
また、ご迷惑をおかけしてすみませんでした。

今後とも宜しくお願いします。

宜しくお願いします。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

182a hope:2016/07/20(水) 15:15:23 ID:xVBwxesw
>>180 ユタカさま

お久しぶりです\(^o^)/

183a hope:2016/07/20(水) 15:15:57 ID:xVBwxesw
九、吾らはたとい躓(つまず)くことありとも渋面せず、その瞬間起き上がりて光明に面せんことを期す。

【第九条 説明文】副題 躓く刹那に光明に転向せよ
「生命の實相」第28巻 p34 9行目〜

人生にはいろいろのことが起こってきます。それは無限創造の世界であるからであります。

われわれが自分だけの小さき立場から、かくあれかしきと祈っても、事件は自分の欲するとおりに展開しないことがあります。

しかしそれは神が諾(き)き給わないのだろうか。

否々否(いないないな)、この時こそ神がわれらにいっそう大なる生長を遂げしめんためにわれわれの内部より無限の力を引き出さんとしてその動機を与え給うているのであります。


あまり裕福な家庭に生まれ、欲しいものはすべて親より与えられ、なんの苦労なくしていっさいの必要品が贅沢に揃えられるというような家庭に育った子女たちは一面においてはまことに不幸な人たちであります。

なぜなら、そういう人たちは、すべての善き物はことごとく外からのみ与えられて、自分自身の内部から生み出す機会を恵まれないからです。

本当の幸福というものは、自分の内にあるところの善きものを生み出すことにあるのです。

他から与えられた幸福は他(ひと)が立派な着物を着ているのと同じであって、自分自身の立派さでないのです。

自分自身が立派になることのほかに自分が幸福になる道はないのです。自分自身に力がつくほかに自分の強くなる道はないのです。


かかる意味において逆境はわれわれを鍛えて、われわれの中味の善さを引き出してくれる冶金の坩堝(やきんのるつぼ)なのです。

冶金の中に投げ入れられて、われわれは鉛か金か、鍍金(めっき)か本物かがわかるのです。

われわれは好んで逆境を招(よ)ぶのではありませんが、逆境がいかにわれわれを捉えようとも、それはわれわれをいっそう聖化し強化するところの機会だとして、内より奮迅(ふんじん)の力を奮い起こすものはついに大成して逆境を脚下に蹂躪(ふみにじ)ることができるのであります。


されば逆境の来たるごとに※莞爾(かんじ)として感謝せよ。これが「生長の家」の生活であります。

微笑は心の中に光明を点じていっさいの苦難を耐え易からしめ、失われたる希望を喚(よ)びおこし、再起の勇気を奮い立たし、暗黒なる生活を光明に転向せしむるのであります。

キリストは「死にし者は死にし者に葬らせよ」と言っています。

すでに来れる逆境を嘆いたとてなんになりましょう。すでに来たり終われるものは「すでに死せる者」なのです。

「すでに死せる者」について歎いてみたとてなんになりましょう。すでに来たり終れるものを嘆き悲しむ暇(いとま)あらば、莞爾として新しい幸福に突進すべきであります。

光明に満てる微笑こそはわれらによき運命の微笑を招ぶのです。我れ渋面すれば運命も渋面するのです。

「嬉しいぞ、これから運命が開けるのだ。」苦難に捉われず、難関の来たるごとに、莞爾として微笑しつつ奮迅の勇気を奮い起こすものこそ生長の家の生活であって、必ずいかなる難関をも征服して自己自身の力で幸福になる運命を建設することができるのであります。

※莞爾… にっこり。 (頭注より)7

184a hope:2016/07/20(水) 15:19:54 ID:xVBwxesw

>>183 a hope所感)

「生長の家」の伝道とは、もちろん、個人指導をして現実的な悩みを解決してあげることも含まれると思いますが、
それよりも重要なことのは「真理」を自分自身で追究し、悟り、すべての悩みを自分の力で解決できるように
人々を導いていくことなのではないかとと思っています。

いつまでも人の力に頼っていては、その人の魂の生長はないと思うのです。


次の第十条には、どうして隣人救済(個人救済)が重要なのか、どんな風に助けていったらよいかが詳しく説明されています。

素晴らしい内容なので、みなさんも第28巻をお持ちでしたらぜひ拝読してみてください!

186トキ ◆UMw6UoGELo:2016/07/20(水) 21:00:48 ID:mh4XEL12
>>184

 そうですね、基本的に生長の家というのは、生命の実相を読んで感激した
人達が自発的に集まって、この喜びをみんなに広げよう、という運動を始め
たのです。それが、いつの間にか、変な方向へと曲がりましたが、本当は
一人一人が神の子の自覚を持つことなんですね。

 以前、復興G 様が、一人一人が法灯継承をする、ということを言われまし
たが、そういう発想が大事なのかもしれません。

187a hope:2016/07/23(土) 22:10:50 ID:xVBwxesw
十、吾らは出来る限り悩める隣人を扶(たす)けてその暗黒なる生活を光明に転向せんことを期す。

【第十条 説明文の抜粋】 副題 隣人を光明生活に生かせ
生命の實相第28巻 p36 後から6行目〜

人間は自己が幸運を築き上げたばかりで満足すべきではありません。自己が幸福になったならばこの幸福を人に及ぼさなければなりません。

われわれは肉体的には周囲の人とはなんの関係もない孤立した存在のように見えますけれども、その実、われらはことごとく一体なのでありますから、周囲の人が本当に幸福にならない限りは、自分一個人も本当には幸福になれないのであります。

単に病気の問題のみからいってみましても、良人の病気が妻の心の反映から来ている場合はザラにあります。妻の病気が良人の心の反映から来ている場合もたびたびあります。子供の病気が親の心の反映で起こっている場合もたびたびあります。

さらに祖先の霊魂の霊界での悩みが現実の世界の子供に不幸や病気を起こしていて、祖霊に対して『生命の實相』を読んで聞かせるだけで子孫の病気が消えたり、運命が好転したりしてくる場合がたびたびあります。

そのほか他人の嫉視憎悪反感がわれらに不幸をもたらし、それが解消することによって不幸が消えてなくなることもあります。

このようにわれわれの肉体としては離ればなれのように見えましても、心の世界では一つでありますから、自分自身が本当に幸福であるためには、推し及ぼして周囲の隣人をも幸福にしてあげなければならないのであります。
(つづく)

188a hope:2016/07/23(土) 22:14:46 ID:xVBwxesw

>>187 a hope所感)

ここの部分を拝読すると、なぜ、隣人救済をすることが自分の本当の幸せに繋がるのかががよくわかります。

これは「情けは人のためならず」という日本のことわざの意味とも通じると思います。


※情けは人の為ならず (故事ことわざ辞典より)

【読み】 なさけはひとのためならず
【意味】 情けは人の為ならずとは、人に情けをかけるのは、その人のためになるばかりでなく、やがてはめぐりめぐって自分に返ってくる。人には親切にせよという教え。

http://kotowaza-allguide.com/na/nasakewahitono.html 


それでは、いったいどういう「情け」をかければ本当に隣人が救われて、自分自身も本当の幸せを感じることができるのでしょう・・・。

189a hope:2016/07/24(日) 07:16:41 ID:vdNCBnG6
(>>187 つづき)
p37 8行目〜
ある場合には物質で扶(たす)けてあげることもよろしい。しかし物質で扶けることは一時的の救助になっても永遠の救いとはならないことが多いです。

物質で扶けてもらう習慣性がつきますと、その人の他に頼る依頼心が増大し、かえってその人の永久の救いとならないことが多いものです。

ですから隣人を救うには、心に光明を点ずる方法を教えてあげる方がいっそうよろしいのであります。

といって、全然「物質」で隣人を扶けるのが悪いというわけではありません。「物質」で人を扶けてよい場合は、……

(略)
p38 後から6行目〜
いつも物質を与えるばかりで人を助けるのは、年中消化剤を与えて胃腸を丈夫にしようとするのと同じことです。そんなことをすれば本人自身の自活能力は減ってしまうのです。これでは人を助けたことにならないのです。

本当に助けることは本人の力を強め、価値を高め、その人格を向上さし、神の子そのままの自主的完全さにまで生長せしめてあげることでなくてはなりません。

(略)
p39 8行目〜
「物質では短期間助けよ。温かい愛では常に助けよ」とは生長の家の標語であります。

温かい愛はいくら常に与えても与え過ぎるということはありません。

明るい希望に満ちた深切な言葉、優しい眼光(まなざし)、愛情のこもった手紙、好意に満ちた握手、愛嬌ある微笑、「何、大丈夫だよ」という激励、「愛する兄弟姉妹!」と呼びかわす言葉――これこそ永久に癖にならない魂の強壮剤であります。

かかる光明を降らすような交わりこそ生命の泉であります。その生命の泉に触れるときわれわれの衰えた活力は蘇生(よみがえ)るのです。

これは外のものに頼るところの依頼心ではありません。われわれの愛が、相手の内に埋蔵(かく)されていた無限の力を喚び起こすのです。

これこそ本当に隣人への助けです。

生長の家の誌友は互いに兄弟なのですから、ただひとり聖典を読んで高慢に他(ひと)を批評するようなのは本当ではありません。

本当の悟りは人間互いに兄弟であることを悟って、互いに好意の花葩(はなびら)を投げかけ合うことです。

好意ある微笑、希望に満ちた光明の掛声こそ失意のドン底にある人々にとってどんな物質的扶助(たすけ)よりも、大きなる助けになるのです。

悟りとは、人を審判(さば)くところの鋭い知識のメスを研ぎすますことではありません。

悟りとは広く大いなる明るい人物になることです。

悟りとは山に籠って行いを澄ましていることではありません。

市(まち)に下って誰にてもあれ、魂の光明を打ち開いてその光で相手を包んでしまう人のことです。
(つづく)

190a hope:2016/07/24(日) 07:17:55 ID:vdNCBnG6

>>189 a hope所感)

本当にここの第十条の説明文には、まさに、わたしたち「生長の家」の家族がどういう態度、
どういう心持で隣人扶助をなすべきかが述べられているとても重要な箇所であるとわたしは感じていますが、
みなさんはどう思われますか?

省略した部分にもとても大切なことが書かれているので、本当は全文を謹写したいのですが、
それではすごい長文になってしまうので涙を呑んで割愛しています。

「生長の家」のみなさん、ぜひ、聖典「生命の實相」第28巻のp36「隣人を光明生活に生かせ」を全文を拝読してみてください。

<<「物質では短期間助けよ。温かい愛では常に助けよ」とは生長の家の標語であります。
温かい愛はいくら常に与えても与え過ぎるということはありません。
明るい希望に満ちた深切な言葉、優しい眼光(まなざし)、愛情のこもった手紙、好意に満ちた握手、愛嬌ある微笑、「何、大丈夫だよ」という激励、「愛する兄弟姉妹!」と呼びかわす言葉――これこそ永久に癖にならない魂の強壮剤であります。
かかる光明を降らすような交わりこそ生命の泉であります。その生命の泉に触れるときわれわれの衰えた活力は蘇生(よみがえ)るのです。>>

特にこの部分を拝読している時、わたしは、宇治別格本山で受けた練成会での数々の素晴らしい出会いを思い出していました。


ところで、いつだったか、純子先生がブログで、月1回「子供食堂」をはじめられたと発表されていましたが、
あれは現在も継続されておられるのでしょうか?

子供食堂で無料、もしくは格安の金額で食事を提供するのは、物質的援助に当たると思われますが、
「生長の家」の白鳩会総裁であられる純子先生はすでに物質的援助は終了されて、生長の家のお山のオフィスから市井に下られて、
生活難や病気で苦しんでおられるたくさんの市井の方々を生長の家の「温かい愛」で救済されてくださっておられるのでしょうか?

191a hope:2016/07/28(木) 14:02:17 ID:xVBwxesw
>>189 つづき)

「生命の實相」第28巻 p40 8行目〜

われわれの心が狭くなれば、われわれは生長したのではなく、縮小したのです。

宗教家が宗派で互いに相争っているのは醜いことです。彼らは「縮小」を「生長」と思い違いしているのです。

誰にてもあれ、人を審判(さば)く一つの尺度を持つようになったならば、その人には「型」ができたのであり、「殻」を造ってその中へ入ったのであり、大きくなる代わりに小さくなったのであります。

その時その人には人を排斥する力ばかりが強くなり、容れる力がなくなって、味方となるべきはずの人も逃げ去り、事業の発展は停(とま)ってしまうのであります。

皆さんはただその人の側へ坐るだけでもなんとなく険しい、気詰まりな、憂鬱な、窮屈な感じを受ける人がありましょう。

またある人の側に坐ると春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)のような感じがして、なんでも打ち明けて話したい、その人の胸に飛び込んで抱擁されたいような感じがすることがありましょう。

これは人それぞれの人格の雰囲気でありまして前者のような感じがする人は何事をやっても発達しない人であり、後者のような感じのする人は何ごとをやっても発達する人であります。

192a hope:2016/07/28(木) 14:04:10 ID:vdNCBnG6

>>191 a hope 所感)

<<宗教家が宗派で互いに相争っているのは醜いことです。彼らは「縮小」を「生長」と思い違いしているのです。
誰にてもあれ、人を審判(さば)く一つの尺度を持つようになったならば、その人には「型」ができたのであり、「殻」を造ってその中へ入ったのであり、大きくなる代わりに小さくなったのであります。
その時その人には人を排斥する力ばかりが強くなり、容れる力がなくなって、味方となるべきはずの人も逃げ去り、事業の発展は停(とま)ってしまうのであります。>>

「生長の家」のみなさんはこの聖典のお言葉を読まれてどう解釈されますか?

193神の子さん:2016/07/28(木) 14:21:32 ID:IN5M8yuw
>>「生長の家」のみなさんはこの聖典のお言葉を読まれてどう解釈されますか?

他人のことはどうでもいいでしょう。自分の見ている世界は自分の心で翻訳した世界ですから。
目を瞑っている時だけ実相世界に住んでいて、目を開いている時には違う世界が見えるのであれば、あなたが違う世界に住んでいるというだけのことです。

194a hope:2016/07/28(木) 14:48:36 ID:vdNCBnG6

>>193

そうですね、ここは「生命の實相」を拝読して、自分の所感を述べる輪読会板でした。

それでは、a hopeの>>191の所感を述べますね。

わたしは、現在の「生長の家」教団も本流関係のどこの団体もまことの「生長の家」を信仰されていないと思っています。

理由は、和解されていないからです。

でもだからと言って、今のわたしにはそれを批判するつもりはまったくありません。

これからも、どこの団体にも属さず「生長の家」を信仰して行きたいと思っています。

195神の子さん:2016/07/28(木) 15:13:02 ID:IN5M8yuw
>でもだからと言って、今のわたしにはそれを批判するつもりはまったくありません。

気持ちは分かりますが

>これからも、どこの団体にも属さず「生長の家」を信仰して行きたいと思っています。

となりますとほかの団体に所属している人達から見れば、この人は『私たちの生き方は可笑しいと思っているのだ』と考えるでしょうね。
本流を自認する人たちが教団の中で、自分たちの生き方により、教の理解の正しさを証明したらよかったけれど、五官で環境を見てしまった結果今の状態になったのでしょう。

大調和の神示の実践は難しいものですね、自分がある人にとっては、虚説とは和解してはならないというけれど、虚説を信じている人とどのようにして現実に和解するのでしょうか。

196a hope:2016/07/28(木) 15:57:30 ID:vdNCBnG6
>>195

<<となりますとほかの団体に所属している人達から見れば、この人は『私たちの生き方は可笑しいと思っているのだ』と考えるでしょうね。>>

はい、そう思っています。

<<本流を自認する人たちが教団の中で、自分たちの生き方により、教の理解の正しさを証明したらよかったけれど、五官で環境を見てしまった結果今の状態になったのでしょう。>>

いえ、それは、組織の中にいたらとても難しいことだと思います。


本流を自任する人たちの生き方に原因があるのではなくて、
「生長の家」の総裁・副総裁が「生命の實相」の教えを実践していないということが、
今の生長の家騒動の、一番の原因になっているのだと拝察しています。

197a hope:2016/07/28(木) 16:30:41 ID:vdNCBnG6
「生命の實相」第28巻 p42 7行目〜

生長の家とはわたしの家でもなければ、また「生長の家」という表札を出してある大きな建築物をいうのではないのです。

心の法則に従って宇宙生々の雰囲気を漂わせている皆様自身の家庭が生長の家なのです。

そういう家庭の満つる国家は、「生長の国家」であり、全世界がそういう国家ばかりになったら、地上に天国が成就したことになるのです。

何でも一歩からです。

まず一人が和顔愛語の「生長の人」になることが肝心です。

顧みて自分が和顔愛語の人たらずして、人の好意と深切とを受ける雅量なく、順序を誤ったからどうだとか、体面にかかわるからどうだとか、手続きにまちがいがあるからどうだとか、形にあらわれている一つ一つの欠点を拾い上げて、相手を審判(さば)いているようなことでは、あなたの事業は生長の家ではなくて伸びるべきものも伸びなくなるのですから、この点大いに御注意ありたいのであります。

198a hope:2016/07/28(木) 16:32:26 ID:xVBwxesw

>>197 a hope所感)

正直にいえば、わたしの現象の家庭は<<心の法則に従って宇宙生々の雰囲気を漂わせている家庭>>とはいいがたい状態です。

だから、わたしはどなたのことも批判はできないのです。

ただ、自分の思っていることを、ここで素直に述べさせていただいています。

そして、一人でも多くの人に聖典「生命の實相」の素晴らしさを再確認していただいて、まことの「生長の家」の信仰を取り戻していただきたいと思っています。

わたし自身も、一日もはやく常に和顔愛語の「生長の人」となれるように「生長の家」を信仰しつづけます。

199a hope:2016/07/30(土) 19:07:39 ID:vdNCBnG6
十一、吾らは自己の好む所を他に施し、自己の好まざる所を他に転嫁せざらんことを期す。

【第十一条 説明文の抜粋】  副題「まず自分に深切であれ」
「生命の實相」第28巻 p43 

この「生長の家」の生き方はどこから出てくるかと申しますと、われわれの実相から出てくるのであります。

自分の好まないところを他人(ひと)に施さず自分の好む所を他人に施す、これは実践道徳上の最も根本となる指導方針であります。

生長の家では「自分に深切であれ」という金言があります。

世間普通の道徳では「他人に深切であれ」というのでありますけれども、生長の家ではまず「自分に深切であれ」というのであります。

キリスト教の聖書にも「己を愛するがごとく神を愛せよ」あるいは「己を愛するがごとく隣人を愛せよ」というような言葉がありますが、この聖句を考えてみますに、「己」というものが、神を愛し隣人を愛する基準になっているのであります。

神を愛するのも、己を愛するのも、まず「己を愛するがごとく」でありますから、もしわれわれが本当に自分を愛することができなかったならば、本当に神を愛することも、また本当に隣人を愛することもできないのであります。

それで、われわれの道徳の根本原因になるのは、いかに自分を愛することができるか、という程度にあるのであります。

それでは「自分自身を愛する」とはどういうことであるか、と申しますと、自分というものを最も尊敬すること、自分の実の相(すがた)を本当に知って尊敬することであります。

自分の実の相が神の子である、あるいは仏の子であるということを根本的に知ることこそ、自分を本当に愛するということになるのであります。

普通世間の人は「自分を愛する」といえば、自分が金儲けするとか、あるいは地位や名誉を得るとか、そういう利己的なことで得をすることを「自分を愛する」ことだと思っていますけれども、それは本当は自分を愛するものではないのであります。

自分自身を愛するということは、自分自身を最も大きく観るということであります。

この自分自身を最も大きく観ることができる人にして、はじめて他の人をも愛することができるのであります。

自分を愛する程度にしたがって本当に他をも愛することができるのです。

人間なんてつまらないものだと考えて自分を軽蔑している人は、その同じ人間であるところの他人をも軽蔑する人であります。

200a hope:2016/07/30(土) 19:09:50 ID:xVBwxesw

>>199 a hope所感)

以前「わたしかわいい」を連発してひんしゅくを買っているアイドルがいましたが、
「生長の家」の「自分を愛する」とはそういうことでもありませんね(笑)

ここでいう「自分を愛する」というのは、現象の自分に自己陶酔(ナルシシズム)することではなくて、
「神の子」である自分の実相を自覚することなのですね。

だから、どんなにかわいい子でも、「神の子」らしからぬ行動をしたら、ピシッと叱ってあげ、
「本当のあなたはそんなことはしないはずよ」と教えてあげるのが、本当にその子を愛するということになるのだと思います。

それは、相手が大人であっても同じですよね?

「あなたのしていることは間違ってますよ」と教えることこそ、本当に深切な、本当にその人を愛することなのだと思いました。

201a hope:2016/07/31(日) 19:52:51 ID:vdNCBnG6

みなさん こんばんは。

今日で7月も終わりますが、第8巻が終わらないので第3回「生命の實相」輪読会をこのまま継続させていただきます。

「われらの祈願および修養」は、生長の家の信徒の「神の子」としてとしての心構えや、なすべきことが確認できる素晴らしい内容です。
みなさまのご参加を心からお待ちしています\(^o^)/

202a hope:2016/07/31(日) 19:53:24 ID:vdNCBnG6

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第3回 web「生命の實相」輪読会案内 改訂版

期間   平成28年6月1日〜8月31日まで
テキスト 第28巻 久遠仏性篇 下
内容   8月1日〜「われらの祈願および修養」p43〜
    
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

203a hopea:2016/08/04(木) 18:09:38 ID:vdNCBnG6
十二、吾らはすべての人類をして健康と幸福と安住との生活を得しめんがため、この光明思想『生長の家』をひろめ全人類に真理を伝えん事を期す。

【第十二条 説明文の抜粋】 副題 「真理を伝えるのは愛の道」
生命の實相第28巻 p53 10行目〜

さて、この光明思想「生長の家」を人類に弘めるということは、何も自分が物質的利益を得るために弘めるのでもなければ、自分は人に道を説くところの第一番の高き導師(どうしであるという名誉心を満足せしめるために弘めるのではない。ただわれわれは、自分が仏であるという自覚を得たときに、そうしてまた他の人々も同じく仏であるということを知った時に、その仏であるべき人間が仏でないような相(すがた)の現われているのを見た時に気の毒になってたまらない、自分は仏である、あの人も仏であるのに、あんなに仏でないと思って、あんなに貧しい相(すがた)をし、あんなに病める相(すがた)をしている、あんなに悲しい相(すがた)をしている、とどうも気の毒でならない、とこう気がついた時に、どうしてもその人が仏であるという実相を知らせてあげなくてはならない衝動に駆られるのです。

これは結局「自分と他とは本来一体である」事実から出てくる衝動であって、自分が仏であるということがわかったら相手に対しても仏であるということを知らせずにおれない。

自分が神であるということがわかったら相手に対してもまた神であるということを知らさずにはおられない――これが自他一体の愛――仏の愛であり、神の愛である。

そしてそれを実行するのは菩薩の行であるわけであります。
(つづく)

204a hopea:2016/08/04(木) 18:10:45 ID:vdNCBnG6

>>203 a hope 所感)

ここに、真理を大悟された谷口雅春先生が、人類の苦悩を見て大慈悲心をおこされ、
「生長の家」の火をかざさして人類の前に起たれた時の心境が述べられています。

「気の毒でならない… 実相を知らせてあげなくてはならない… 衝動に駆られる…」と、
心の内側から湧き起こってくる感情(慈悲心)に突き動かされた様子がとてもよく伝わってきます。

まことに「自他一体」を悟ると、自分の利益や名誉などどうでもよくなり、人類救済のために起たずにはいられなくなってしまうようですね。

206a hopea:2016/08/08(月) 12:55:30 ID:xVBwxesw
(>>203つづき)
「生命の實相」第28巻 p54 7行目〜

ですから、この「生長の家」を弘めるというと、何か雑誌を弘めるというようにお考えになる方もあるかもしれませんけれども、これは雑誌を弘めるのではない、「仏」を弘めるのである、「神の子」をひろめるのである。

すべての人間を「仏」にし、「神の子」にする言葉の響きを弘めるのであります。

キリストは路傍で説教した。日蓮は辻説法した。

これは何も自分自身のためにするところの運動ではない。

辻で説法するのは下品だとか何だとかいっておれないのは人類を愛するからなのです。

すべての人間を、われ自らのごとく愛するから、その悟った真理を伝えずにはいられないので、世間から見たら格好が、悪いのいいのといってはいられないのです。

自分自身が「神の子」であり「仏」であると悟ったらそれを全人類に弘めなくてはいられない。

ですから今までいろいろ宗教が現れてきておりますが、すべての教祖はその已(や)み難き衝動に駆られて「仏」を伝え、「神の子」を伝えたのであります。
(つづく)

207a hopea:2016/08/08(月) 12:56:54 ID:xVBwxesw

>>206 a hope所感)

本当は「仏」「神の子」を人類に伝えるのが、「生長の家」の人類光明化運動なんですよね…。

ですが、

<<すべての教祖はその已(や)み難き衝動に駆られて「仏」を伝え、「神の子」を伝えたのであります。>>

とありますから、悟り切れていないわたしたち信徒には、その<<已(や)み難き衝動>>が足りないのかもしれませんね。

谷口雅春先生が起こされた「生長の家」も、谷口雅春先生が天界に昇天された今はこのように混乱してしまっています。

つづけて謹写していきます。

208a hopea:2016/08/08(月) 17:03:17 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第28巻 p55

しかしそれぞれの時代、その環境に応じて、その教えを伝え広める形式は変わってきたのであります。

過去の時代には、通信機関や印刷機関が不便でありましたので、おおむね直接説法によらなければならないから、説法のコトバの力で「仏」を大量生産することができなかったのであります。

ところが、現代においてはこの「生長の家」が出現して、印刷物によって「仏」をヒビキ伝えるという不思議な、現代応現の用(はたらき)というものが出てきたのであります。

現代のようにこんなに人口が殖え、そうして学問が進歩し、印刷術が発達している時代に、今までのような姑息な、単に教会という一つの建物、あるいは寺院という一つの建物の中で牧師や坊さんが喋っているというだけでは、なかなか人類全体に「仏」を伝えることはできないのです。

ですから、この時代に最も相応(ふさわ)しく、活字の力というもの、印刷の力というものを以て、また大量生産的に「仏」の響きを出させて、したがってまた大量生産的に救われるということになったのであります。


そんなわけで、この「生長の家」からでる出版物は、活字を組んで列(なら)べてあるだけでありますけれども、その列んでいる言葉そのものは「仏」のヒビキでありますから、解脱して自由自在になった生命のヒビキでありますから、『生長の家』がある誌友のところへ着いただけでその誌友の病気がよくなったとか、あるいは乱視が治ったとかいうふうな不思議なことも往々起こってくるのは、「生長の家」の出版物が単に活字を列べて紙の上に印刷してあるというだけのこのではない、そこに文字に「仏」の自在無礙の響きがあり、言葉に「神の子」の解脱の響きがあるからであります。

その言葉の響き、文字の響きを全世界に弘め、これによって全世界が光明化され、それを受け取りそれを読んだすべての人が自己のうちに宿っている仏の響きに共鳴して、発現されて、そうしてみなみな自分が仏であるということを自覚することができる。

こうなれば「仏陀(ほとけ)」の大量生産が成就するのであります。

209a hopea:2016/08/08(月) 17:04:24 ID:xVBwxesw
>>208 a hope所感)

そうなんですよ。
たとえ、谷口雅春先生がもうこの現象界にいらっしゃらなくても、わたしたちには「生命の實相」を始めとするたくさんの聖典があるのです。

たくさんの聖典を残して下さった雅春先生に心から感謝します。
ほんとにわたしたちは幸せですね!

210a hopea:2016/08/09(火) 19:10:17 ID:xVBwxesw
十三、吾らは生命は永遠なるを信じ、毎朝、皇霊を遥拝(ようはい)し奉り、次いで一家の祖先の霊魂を祀れる祭壇又は仏壇の前に坐してその冥福と守護を祈願し、且つ自己の生命も永遠なれば常に若く愉快に青年の如く生きんことを期す。

【第十三条 説明文の抜粋】副題 「皇室および一家の祖先を礼拝せよ」
「生命の實相」第28巻 p65 後から3行目〜

このわれわれの生命が永遠なる存在であるということは、生長の家の真理の根本を貫くところのものであります。

これがハッキリわからなければ「皇霊を遥拝(ようはい)し」ということの意義もわかりません。

皇霊を礼拝するということも虚礼ではありません。

いろいろの批判はあるにしても、われわれ日本人は日本国の歴史を通して「今」の一点に生きているのです。

そしていろいろの日本国の興隆浮沈(こうりゅうふちん)はあったにしても、どんなときにも日本国が動揺せずに、ここまで日本民族が発展してきました不倒翁(おきあがりこぼし)の重心のごとくドッシリとして、その中心がどんな時にも日本国が立ち直ることができた重心は天皇がましましたからであります。

われわれは歴代の天皇のこの御恩沢(ごおんたく)を忘れてはならない。

恩を知るということが実践道徳と実践宗教との中心になるのであります。

だからわれわれは歴代の皇霊に対して崇敬の誠(まこと)を捧げるのであります。

211a hopea:2016/08/09(火) 19:11:16 ID:xVBwxesw

>>210 a hope所感)

天皇陛下が生前退位に関するお気持ちを表明された映像を拝見しました。

一つ一つのお言葉に気持ちをこめられて、丁寧に文章を読みあげられている天皇陛下を拝見していて、
たいへん不遜ではありますが、わたしの心に肉身のお父さんの言葉を聞いているような不思議な感情が湧き上がってきました。

天皇陛下は、全国民のことを、自分の肉身の子供のようにお感じになっておられるのではないか・・・?

お言葉の中に、「とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません」という件がありましたが、
天皇陛下におかれましては、わたしたち全国民が家族であるとお感じになって、
その家族の心からの安寧を思っての今回のお気持ちの表明だったのではないかと感じました。

わたしは、天皇国日本に日本人として生まれたことを誇りに思っています。

そして、天皇陛下、皇后陛下を心から敬愛しています。

212a hope:2016/08/13(土) 11:26:20 ID:xVBwxesw
>>211 訂正

肉身→肉親と置き換えて読んでください。大変失礼しましたm(__)m

213a hope:2016/08/13(土) 11:26:55 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第28巻 p68 6行目〜

「実相の生命」には来世ということはない、生まれ更(か)わるということはないのでありますが、仮存在としての生命は生まれ更わるのであります。そうしてこの肉体の世というものもこの仮存在の一つであります。さて、その仮の世というものが何でできているかと申しますと、業でできているのです。業というのは何であるかというと、「念波」であります。「念波」の集積が業であります。

そこでわれわれの肉体というものは、科学的にはこれは物質の体(たい)で、物質の体とは何であるかというと、エーテルの波の中にできた渦巻の塊(かたまり)である。そのエーテルも本来無いというような最近の説もありますが、結局「何もないもの」無の一種の波であることになっているのであります。

そんなわけで、この肉体というものも何もないものも一種の波であるのでありますが、肉体として現われている波と、霊魂として現われている波とがあるのです。眼に見える波動(すなわち肉体)だけを存在すると思ってはなりません。眼には見えない、われわれの五官に触れない無数の波動が存在することを知らねばなりません。赤外線でも紫外線でも眼に見えませんが、眼に見える可視的光線よりもかえって強い働きを現わすのであります。

われわれはこの地上の生活においては肉体という眼に見える波動的体を現わして、この物質界という波に触れることによって、この波の世界ならでは体験するできない経験を得て、だんだん修行しつつ、この地上の生活によって「有」の第一段階を終えると、今度は肉体という粗雑な波動の体を脱いで、そうしていっそう精妙な霊体の波だけになるのであります。これがいわゆる日蓮上人のいわれた「魂魄(こんぱく)」であり、霊体の波だけになってそうしていろいろまた霊界において活動するということになるのであります。

われわれの祖先も肉体を滅しても霊体の波はやはり存在しておりますので、その霊体の波たるや、その人の悟りの程度にしたがって千差万別の状態を現わしているのであります。それは現世においてもこの肉体という波動的存在がその人の悟りの程度にしたがっていろいろの波を現わして、健康であったり病気を顕わしたりしているのと同じことであります。

(略)

p70 後から6行目〜
ですから、われわれが自身が霊界に行きましても、この世で生活が下手な人は霊界でも生活が下手である。霊界で病気している霊魂もあれば、悩んでいる霊魂もある。それはちょうど、下手な画家であれば板の上に描いても布カンバスに描いても依然として下手であるというのと同じであります。ですからわれわれ自身がまたは他(ひと)の霊界における生活状態というものを良くしようと思うと、やはりどんなカンバス――現世とか来世とかいうカンバスがどんなに変わっても――どんな画布(カンバス)の上に描いてもいい絵がかけるようにしておかなくちゃならない。

われわれは「現世」とか「来世」とかいうカンバスに何でも絵を描くかというと、念波で絵を描くのであります。念波といる絵具をもって絵を描くのでありますから、その念波を善くし、またよくしてあげることが必要であるのであります。

最もよい念波は何であるかと申しますと、悟りの念波なのであります。この真理の念波を人に与えるということ、これが仏教でいう法施というものでありまして、最も尊い施しであります。われわれは人に物を施すのは、物施といって物を施すのと、それから法施といって悟りの念波を施すのとがありますが、真理(さとり)の念波を施すということが本当の最も根本的な供養になるのであります。
(つづく)

214a hope:2016/08/13(土) 11:28:49 ID:vdNCBnG6

>>213 a hope所感)

本当に不思議に感じるのですが、ここで聖典「生命の實相」を学んでいると、その時の状況にピッタリの内容を学ぶように導かれていきます。

わたしは、この輪読会板(web誌友会板)では、ただひたすら第1巻から順番に何の作為もなく聖典「生命の實相」を学ばさせていただいています。

ですが先日、ちょうど天皇陛下が生前退位のお気持ちを表明された映像を拝見した直後に開いたページには、
日本において皇室がどれほど大切なものであるかが述べられていて驚きました。

そしてお盆の入りの今日、謹写した部分には、まさに先祖供養の重要性が書かれています。

本当にわたしは、何かに導かれてここでお勉強をさせていただいているとしか考えられません。

心をこめて、聖典「生命の實相」のお言葉を謹写させていただくことも、とてもよい先祖供養になると思われます。

謹写をつづけさせていただきます。 合掌。

215a hope:2016/08/13(土) 13:02:32 ID:vdNCBnG6
>>213つづき)p71 9行目〜

むろん、われわれは霊界へ行きましても、しばらくの間はこの地上における薫習(くんじゅう)が脱げないのでありまして、地上において御飯を食べておったような霊魂たちは、霊界へ行っても「御飯を食べたいな」というふうな感じがするのであります。

そういう霊魂たちに対して食物をお供えしてあげるということは必要であります。

「食物をお供えしても、お下がりを見ると何も食っておらん。何も食っておらんからあんなことはただ形式的である」とこうお考えになる人もあります。

けれども本当はそうじゃない。

霊魂は何を食べるかというとわれわれがこれをお供え申したいという「念波」を食べるのであります。

それでリンゴならリンゴをわれわれが持って行って「リンゴをお供え致します」と、本当にその念を切実に念ずると、われわれの心にリンゴというものが念によって描かれ、そうして念に描かれたリンゴと、あの人にあげたいというすなわち念送の原動力が結合する。

すなわちリンゴを祖先の霊(みたま)に送ろうという念波の放送により、供える人の念によって造られたリンゴというものが霊魂の世界へ念波の放送に乗って行くということになるのであります。

すると霊界には念によって仮作されたリンゴが出来上がる、そうすると「あれはわたしに供えて下さったのだからいただこう」という気が起こると、すっと自分の口へ入ってしまって、そうして「おいしい、ああ満足した」という気持ちが起こるのであります。

その状態は「無量寿経」に書かれている極楽浄土の状態のようなものであります。

霊界は念波で作られた世界であって、われわれは供養の念を供えて、食べていただくということになるのであります。

むろんもっと向上した霊魂――肉体は無い、何も食べなくてもわれわれは神の生命によって生かされているのであるという自覚を得た霊魂たちは決して何も食べたいとは思わないのでありますけれども、しかし、自分に対する愛念をもって供えて下さったという愛の念(こころ)はやはり喜びとなり、その人を生長させることになるのであります。

霊界は念の世界であって霊魂たちというものは何を食物として生きているかというと、念を食物として生きているのです。

善念は最も生長せしめる滋養物となるし、悪念は霊魂を低下せしむる害物となるわけであります。
(つづく)

216a hope:2016/08/13(土) 13:03:19 ID:vdNCBnG6
>>215つづき)p72 後から1行目〜

ですから、われわれは近親者が旅行でもするという時に、陰膳(かげぜん)というのを据える人がある。

あれもまたはなはだよいことであって、迷信ではないのであります。

その人を目当てに陰膳を据えて、「どうぞおあがり下さい。どうそ健康でいらっしゃいますように……」と念ずると、必ずその念波がその人に通じて、その人が食物に不自由しない、あるいは不自由するようなことがあってもあまり腹が減らないで、念波の食物を吸収しているから腹が減らないで、不思議に元気で働けるということになるのであります。

そういうふうに霊魂の食物というものは、われわれから与えられる善念をもって最も滋養物とするのであります。

ことに、われわれが真理(さとり)の念波を放送して、真理の念波を相手方の霊魂に吸収させてあげるということは霊魂には絶大な供養になる。

それですから、この『甘露の法雨』のようなお経でも、『生命の實相』でも、また真理が書いてあるものならキリスト教の聖書でも、仏教のお経でもよろしいのです。

それを先祖の霊魂に、意味がわかって読んで誦(あ)げるということは大変よろしい。

ただ意味の分からぬ漢文の棒読みを、何が何やら分からないで誦(あ)げているのでは、供養の愛念の放送としてはいくぶん効果があっても、それはサトリの念波ではないから最高の救いにはならないのであります。

最高の救いは、やはり真理のお経を意味が本当に分かって読むに限るのです。

そうしますとそのお経を捧げられる相手方の霊魂は非常に心が富み、心が満腹し、生命が生長するということになるのであります。

ですからわれわれは暇があれば朝晩は必ず「祖先の霊魂の悟りのための供養として……」といって生長の家の聖経『甘露の法雨』を誦(よ)むなり、先祖から伝わっている宗教の経典を読むということにされることが祖先に対する子孫の務めなのであります。
(つづく)

217a hope:2016/08/13(土) 13:04:22 ID:xVBwxesw
>>216つづき)p74 4行目〜

よく病気の方で、あんたは祖先の障(さわり)りがあるからこれを誦んであげなさいと申しますと、治ったら読まなくてよいかというようなことを考えておられる利己主義者の人もありますけれども、これは自分が病気でなくても、病気が治っても、治らなくともわれわれは祖先というものがあって今ここに生きている機縁を与えられているのでありますから、その祖先に対してわれわれが供養する、お経をよんで真理の念波を供養する、実相のサトリを供養するということは実に大切な子孫の務めであります。

この子孫の務めを行うことそのことが善事であって、その結果自然とわれわれに幸福が恵まれてくるということは、これは副作用とでもいいますか、随伴的な功徳であって、その功徳そのものを目指すのではないのであります。

しかし実際上祖先に対してよく真理を施しておられる人々は、祖先の守護も多く、また自分の善念の具象化として不幸というものがないのであります。

218a hope:2016/08/13(土) 13:05:42 ID:vdNCBnG6
>>215>>217 a hope 所感)

生長の家の信徒の方だったら、当然先祖供養には「甘露の法雨」を読誦されておられると思いますが、
わたしは聖典「生命の實相」をじっくり拝読することもまた、最高の先祖供養になるのではないかと感じています。

祖先は木の根っこ、そして両親は幹、わたしたちは枝であると教わりました。

わたしたちの生命はいつも祖先と繋がっている・・・本当にありがたいですね!

合掌。

219浄円月:2016/08/19(金) 19:57:57 ID:USIpXU9o
私も生命の實相や、真理の吟唱を拝読することも、ご先祖供養に繋がると思います。
この板は、素晴らしいですね。
以前投稿したことがありましたが、久々の投稿です。

220a hope:2016/08/20(土) 11:02:05 ID:xVBwxesw
十四、吾らは実在の実相のみを見、移り変わる仮の相(すがた)にとらわれず、常に光風霽月(こうふうせいげつ)の如き生活を営みて情(こころ)を動ぜざらんことを期す。

【第十四条説明文の抜粋】副題 「ものの内在生命の尊さに目覚めよ」

「生命の實相」第28巻p79 後から3行目〜

生長の家でよく「肉体はない」「物質はない」などと申しますと、何もないかのようにお考えになり、何物も無いと思って、「物質なんて粗末にしてもいいんだ、物質は無いのだから」というような人があります。

これは空思想に捉われた断見であります。

何も無いのではないのであって、そこに実相があるのであります。

物質は無い。物質は無い代わりに実相があるのであります。

「物」を見て「物質」だと思うからいけないのです。

神の生命だと見るのであります。

(略)

p81 5行目〜

……物質と見えるものの観方にも、それを単に「物質」と見る観方と、生命の表現として見る観方と二つあります。

生長の家の教育は物質を物質と観ないで生きた生命の表現として観、そこから生命を引き出すという芸術的観方であります。

(略)

p82 2行目〜

すべてのものは物質を見ていると善さが分からない。ジッと実相を見るとそのよさがわかってくるのであります。

芸術家は表現の上に生命の善さを現わし、教育家は生活の上に生命の善さを引き出すのであります。

すべての人々の実相を見るという立場になった時に、すべての人間がすなわち生命である――神の子であるということが感得されるのであります。

そういう立場において、はじめてすべてのものが、なるほど美しいものである、善なるものである、調和したものであると感じられるのであります。

こう感じるように生命を引き出すのが本当の教育であり本当の宗教であり、本当の芸術であります。

生長の家の生き方はすべての事物に対してその奥底にある善さを見出して、それを生かす生活であります。

221a hope:2016/08/20(土) 11:03:18 ID:vdNCBnG6
(a hope 所感)

「物質なし」の教えを「何もない」って解釈すると、虚無感だけが増してたいへんなことになってしまいます。

つまり、わたしたちが物質だと思っているものは「影」に過ぎないけれども、その影を映しだしている実相は確実に実在している、
だから、「物質を物質と見ずにその奥にある実相を見よ」というわけなんですね!

222a hope:2016/08/20(土) 11:12:05 ID:vdNCBnG6
>>219 浄円月さま

輪読会ご参加、そしてあたたかいお言葉をありがとうございます。
とてもマイペースですが、ここでお勉強を続けさせてただくことが生活の励みになっています。

浄円月さま、またいつでもご参加くださいね!

223浄円月:2016/08/20(土) 13:31:46 ID:pWbnGXMw
a hope様

ありがとうございます。また参加させてください。
物は物ではなくて、神の生命の現れなのですね。
生長の家の生き方は、すべての事物に対してその奥底にある神を見出してそれを生かす生活であるとのこと。。家庭も会社もすべてに通じますね。
目の前に自動車がありますが、この車をどう観て使用していくか。。
何に対してでも言えますよね。
午後もすべてに神を観て生活していきます。

224a hope:2016/08/20(土) 21:15:24 ID:xVBwxesw

>> 233 浄円月さま

<<物は物ではなくて、神の生命の現れなのですね。
生長の家の生き方は、すべての事物に対してその奥底にある神を見出してそれを生かす生活であるとのこと。。家庭も会社もすべてに通じますね。
目の前に自動車がありますが、この車をどう観て使用していくか。。
何に対してでも言えますよね。
午後もすべてに神を観て生活していきます。>>

素晴らしいご指導をありがとうございます。合掌。

お恥ずかしいのですが、わたしは「実相」や「神」のことは頭では理解できているんですが、、
なかなか実践できないのが現状なんです(/ω\)

それに、最近はちょっと新しい事をはじめたりして、生活(心境?)に余裕がなくなってきてしまっています。

でも、こんなときこそ、もっともっと聖典を拝読して神想観を実修したいと思います。

浄円月さまの<<午後もすべてに神を観て生活していきます。>>のお言葉で目が冷めました!

またのご参加を心からお待ちしています!

225るん吉:2016/08/21(日) 12:53:26 ID:Bu2jtqiM

ちょっと忙しかったので久々に来させていただきました。(*ノωノ)ohisa
沢山の心にグッとくる文章、有難うございます。
来てよかったー。

>>最近はちょっと新しい事をはじめたりして、生活(心境?)に余裕がなくなってきてしまっています。

そうなんですか?具体的なことは解らないけど、頑張ってくださいね。
人生、色々ありますね。自分も(ここに書きませんが)色々ありまして「しんどいなぁ」って思うことがあるんですけど
それが人生なんですね。
>>午後もすべてに神を観て生活していきます

それ、すごいですねぇ。(*^。^*)物を神の生命だと見るんですね。

えっと、私がいま、しっくり来るのは「、たかが現象ぽっち。(こんなの無いのだから)無いものに、とらわれないよーだ!」
ですね。アハうまく書けないけど。実相には存在しない状況が現象に表れてる時ね。

うまく書けないや。ごめんなさいね、とりとめのない書き方で・・。

毎日、お忙しいのに、本当に有難うございますね。
お身体ご自愛くださりませね。

226a hope:2016/08/21(日) 15:10:12 ID:vdNCBnG6

>>225るん吉さま

ご参加ありがとうございます。

わたしが始めている新しいことって、具体的には書けど、すっごくインターナショナルなことです。
だから、英語ももちろん使ってるし、世界各国のいろんな人とお話する機会があって、
特に、途上国の人たちと話ていると、自分がいかに恵まれた環境で生活をしているかに気づかされます。

「たがが現象ぽっち」ほんとにそうですね!
たかが現象、だから現象は本物ではないから決してとらわれないけど、
でも、自分がこの現象で生かされていることにも大切な意味があるような気がします。

つまり神さまからの課題は、この「現象で何を学んでどう生長しますか?」なんだと思うんです。

もしかしたら、神さまは、生長する能力のある人間には特に大きな試練を与えるのかもしれませんね。
だから、わたしはどんなに現象が悲惨でも、神さまの愛を信じたいです。
そして、この与えられた現象の中で思いっ切り神の子を表現して生きていきたいです。

るん吉さまのご参加にはいつも励まされています。
あー、わたし一人じゃなかったって・・・(#^^#)。

 これからも、ご参加どうぞよろしくお願いいたします!


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