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Web誌友会 板/2

5127a hope:2015/01/20(火) 00:18:04 ID:brQxC10.

>>5126 a hope所感)

なんて素晴らしい真理なんでしょうか!

「悪い日はない」「悪い方角もない」「悪い相性もない」「病気もない」、
あるものは「善い日」「善い方角」「良縁」「健康」だけなんですね!

今夜も善い夢が見れそうです・・・(*^-^*)
それではみなさま、おやすみなさい。

5128a hope:2015/01/21(水) 09:25:09 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第15巻 p176 

どんな美人でも眉を顰(ひそ)める習慣のある人を奥様に貰うと、よほど男の方が修養の足りた人でないと相性が悪くなり良人の運命が悪くなるのであります。
眉の間の晴れやかな暗いところのない婦人ならなんの歳生まれの人でありましょうともたといひのえうまの婦人でありましょうとも必ず相性がうまくいくのであります。
眉の間を常にしかめている人は常に不快な感情を自分で味わっているのでありまして、必ずその人は不健康か、不運なのであります。

5129a hope:2015/01/21(水) 09:25:59 ID:cEpBaIdo

>>5128 a hope所感)

わたしはここのところの文章を拝読して、思わず鏡を手にして、自分の「眉間」を確認してしまいました。(笑)
幸せになりたいみなさん、特に、p177の後から5行目〜は必見ですよ!
これって、一番簡単に運命を好転できる「裏ワザ」なんじゃないですかね。

女性のみなさん、こめかみにテープ貼って、目じりの皺や、顔のたるみ引っ張ってる場合ではないですよ!
伸ばすところが違いますよ!!!

5130a hope:2015/01/23(金) 00:01:12 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第15巻 p179 7行目〜

谷口――(略)
『神想観』をする時にも、精神を統一すると眉を顰める習慣のある人がある。こういう人は自己の放散する霊波が暗いから、ともすれば低級霊の霊波を感受致しますから今後は眉をできるだけ伸ばすようにして精神統一をし、自分自身より放散する心的霊波を朗らかなものにしていっそう高い明るい霊波を感受するようにせられるのが、神に近づく道であります。

眉というのは人間というラジオ的受信機の捻子(ねじ)のようなものでありますから、眉をひそめて神想観なり鎮魂なりしている方の様子をみていますと、その肩のところに悪霊波が客観化したのが見えることがあります。

5131a hope:2015/01/23(金) 00:02:36 ID:cEpBaIdo

>>5130 a hope所感)

わたしは神想観は大好きですが、たまに、気分のあまり良くない時にしたりすると肩が重く感じられ、意識も「祈りの言葉」に集中できないときがあります。
もしかしたら、こういう時には低級霊の霊波をキャッチしてしまっているのかもしれませんね。

この後、この座談会で雅春先生は、『狐狸等の「憑霊」』と『人間の「念」の形象化』の関係を説明してくださっています。

とても興味深いです。

5132a hope:2015/01/23(金) 10:21:27 ID:cEpBaIdo

(a hope まとめ) テキストp179〜182


「狐狸の憑霊」と「念の形象化」とは・・・

○人間は万物の霊長であるから、動物の霊に支配されるといことはない

○憑霊というのはほとんどが人間の「念」形象化である

○「念」は形に化して顕れる傾向がある

○一つの「迷いの念」が客観化して物質的にみえるのが病気であるのと同様に、
「迷いの霊波」がその地方独特な迷信と結合し、人間について狐狸の姿等に客観化してワザをするのが憑霊である

○感受した念の象徴化には一定の法則がある
・狡い懶(なま)け者人に感受した念(こころ)―― 狸の形に象徴化して見える
・賢(さか)しく敏捷で化粧好きな人に感受した念(こころ)―― 狐の形に象徴化見える
・執念深い人に感受した念(こころ)―― 蛇の形に象徴化して見える
・高慢な人に感受した念(こころ)―― 鼻の高い天狗に見える


※たまに何の罪もないのに故意に殺されたような場合に山野自生の狐狸の怨霊の憑依するような例【祟(たた)りの霊の襲撃】もあるが、
恨みも由縁(ゆかり)もないのに野生の狐狸の霊魂が感応憑依するものではない


p180 後から2行目〜
<<恨みも由縁もないのに人間に感応して来る狐狸の霊というものは、実は野生の狐狸の霊波ではなく、人間から発する善からぬ念波がその地方特有の迷信に則(のっと)って凝集作用、変形作用、象徴作用によって形象化したものが類似の念を有する人間に感応して、その姿をあらわしているのであって、人間の念同志だから最も感応しやすいのであります。>>



【対策】

○観念の波として心の中に存する病気が、心の中の観念を取り去ったら治るように、いわゆる狐狸の霊も心の迷いを消せば消えてしまう


p182 5行目〜
<<しかし形象化した以上はそれぞれ個性的に独立した働きをするので、霊眼にも見え、喋らせればペラペラ喋ったりしますが、本来それは無いものですから、その棲家(すみか)やら、生年月日やらいろいろ分析して追求してゆきますと、しだいにその答えが支離滅裂になって、結局、何も無いということになってしまうので、わたしはこれを象徴的憑依と称しています。>>

5133a hope:2015/01/23(金) 10:24:39 ID:cEpBaIdo

( a hope所感)

テキストではこの後(p182 9行目〜)「象徴的憑依」と「業の流転」そして「生霊」「怨霊」「障礙霊」との関係が説明されています。

雅春先生って、ほんとすごいですね!

5134トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/01/23(金) 11:50:26 ID:qhzd28iE
>>5132

 この憑霊については、正しい知識を持つことが本当に大事だと思います。

 かなり前ですが、タヌキにとりつかれた親族を真言宗の祈祷僧のところへ連れて
行った人がいて、加持祈祷をしていている最中に祈祷された人が亡くなり、結果と
して、祈祷をした人が逮捕され、有罪の判決を受けた事があったそうです。

 こういう悲劇をなくすためにも、このご文章は大事だと思います。

5135a hope:2015/01/24(土) 10:00:29 ID:cEpBaIdo

>>5134 トキさま

コメントをありがとうございます。
「生長の家」の教えからいえば、?神の子人間? が、動物や、
暗黒世界を支配する悪魔のような存在に支配されるということは在り得ないと思うのです。

ですが、そのような動物憑依の迷信や「罪あり悪あり現象あり」の暗黒思想がこの世の中に少なからず広まってしまっているのが現状です。

その迷信や暗黒思想を信じてしまい、波動を合わせてしまったときに『象徴的憑依』や『病気』や『不幸』のような良からぬ現象が起こるのだと思います。
(わたしは雅宣先生や純子先生のご思想もこの暗黒思想であり、現教団はこの暗黒思想の影響を受けてしまっているが為に衰退現象が起きているのだと思っています。)


完全なお悟りを得ている雅春先生の光明思想の『聖典』を拝読して、その心の「迷い」を完全にとりさって、
?神の子? の自覚がまことに得られればみな幸せになれますのにね!

その光明思想を広める運動こそ、本来の生長の家の「人類光明化運動」なのですよね!

現生長の家教団が一日も早く、本来の「人類光明化運動」を取り戻して下さること祈っています。

5136a hope:2015/01/24(土) 10:03:16 ID:cEpBaIdo
>>5135 訂正

?神の子? →?神の子?

5137a hope:2015/01/24(土) 10:05:23 ID:cEpBaIdo
>>5136
訂正になっていませんね(笑)

5139a hope:2015/01/25(日) 13:30:34 ID:cEpBaIdo

(a hopeまとめ) テキストp183


人間がある『念』を起こした場合に起る二つの作用

○ 外に放射 → 漠然たる念波 → 1、波長の合う他人に作用 2、凝縮作用により独立した個性的生霊になる 3、象徴作用により象徴的憑依を起こし、怨霊、障礙霊などになる

○ 自分自身の内に印象 → 『業』として潜在 → 生を生まれかわってもその業が流動流転してくる

5141a hope:2015/01/25(日) 16:07:31 ID:brQxC10.

「生命の實相」p183 後から4行目〜

伊藤――わたしは法華経の修験者として以前多数の病人を治したことがありますが、わたしの師匠になる方から霊術で病気治しをした者の末路は必ずよくないから止す方がよいと教えられ病気治療を止しました。それ以来諸方の霊術家の末路というものを考えてみるとたいていよくない。

ある霊術家は友だちと一緒に河豚(ふぐ)を食って自分だけ食傷して死にました。ある霊術家は腕に肉腫といいますか、女の尻ほどの大きな瘤(こぶ)ができて死にました。これなどは確かに霊術で退散せしめた悪霊の怨念に祟(たた)られたのだと思います。


野田――それは法力で病気を治すだけで病人に真理を知らせて治さぬためにそんなことになるのでしょう。真理を知れば、そんなことはない。病人が真理を知り、「生命の実相」を知り、障りをする悪霊の波長と合わなくなって病気が治る段には悪霊は障りをすることができなくなるにちがいありません。


伊藤――本人に悪霊が感応しなくなるだけで、その悪霊そのものを教化することができなければ、その悪霊はまた他の人に感応して禍(わざわい)を起すにちがいありませんから、わたしは、悪霊は何よりも教化しなければならんと思うのです。

日蓮宗の方では第一鑑定、第二教化、第三経文ということになっています。「鑑定」というのはいかなる悪霊が障りをしているかこれを鑑定しなければならない。「教化」というのは、その悪霊を霊媒に招霊して、よく教えを説いて聞かし、改心して再び禍を起さなくさせるのです。「経文」というのは経文を誦(よ)んで仏力によって悪霊を救いとるのです。

5142a hope:2015/01/25(日) 16:08:53 ID:cEpBaIdo

>>5141 a hope所感)

誰でも「重い病気」にかかれば、藁をもすがるような気持ちになって、その病気を治す努力をするのではないでしょうか?

良い医者にかかったり、食べ物を工夫したり、ご先祖さまや神さまにすがってみたりもするでしょうし、

狐狸の霊や悪霊が憑いていると言われれば、祈祷師や霊術家にその霊を祓ってもらおうとするのかもしれません。

ですが、ここでは一見、「命を救う」というとても尊い仕事をされている霊術家と言われる方々の末路があまりよくないという、
その原因についてみなさんで話し合われています。

この後、雅春先生がその原因について生長の家の「迷いの自壊作用」を根拠にした説明と、
「怨霊」や「障礙霊」などの『憑霊』を根拠にした説明を二方面からしてくださっています。

雅春先生は、どんな時にも相手の立場や理解力を考慮しながら、自由自在の方便を用いて真理を説明されています。

すごいです!!

5143a hope:2015/01/26(月) 10:53:23 ID:cEpBaIdo

「霊術で他人の病気を治した者の末路がよろしくない理由」の二面的説明

説明その一、自然(因果)の大法を破ったことへの報いを受けたから

○病気は「迷いの自壊作用」であるから、そのことによってその人の神性が磨き出される自然的過程になっている
○それを横合いからいって突然その病気を治すと、治された人は真理もなにも知らないままになる
○それは病人を治しながらかえって相手の向上をさまたげたことになる

p185 後から6行目〜
<<「迷いの自壊作用」として真理を知らす自然の過程として起ってきた病気がその意義を全うせずして捨てられる。これは因果の法則を破ったことになる。ここに病気を不法に治した人に責任が問われなければならない。だからわたしは直接治療で法力で患者を治すということはしないのです。そんなことをしなくても本を読むだけで、神想観をするだけで、真理を知ればそれだけで、病気は治るのです。>>



説明その二、障礙霊の復讐を受けたから

○怨霊その他の障礙霊にもそれ相当に理由があって病人を悩ましている
○それを霊術を用いて悪霊を退散せしめると、その悪霊の憤りによる害悪の念波が術者を襲う

p186

<<われわれがその病人を治すのにある種の霊術を用い、法力という強制力によってその悪霊を退散せしめますと、「盗人にも五分の理」という諺もありますとおり怨霊その他の障礙霊にもそれ相当の理由があって病人を悩ましているのでありますから、それ相当の理由で不平があり、憤りを発して、その憤りによる害悪の念波が、常にその術者を襲っているわけでありますから、術者の心が真理を知らず、ちょっと隙ができたとなると、その害悪の念波が術者を襲うことになり、心霊術家の末路はおもしろくないといあれるようになるのでありまして、これは一面から言えば因果の大法を破った報いであり、他面から言えば、障礙霊の復讐を受けたことになる。
生長の家では本を読んで真理を知って自分で治るからそんな弊害はありません。>>

5144a hope:2015/01/26(月) 10:54:33 ID:cEpBaIdo

>>5143 a hope所感)

「生長の家」の唯神実相の真理から言えば、「心(念)もない」わけですから、
その念波が凝縮したり象徴したりしてあらわれている悪霊など本来存在する筈はないのですが、
それを信じてしまっている人にとっては存在しているのも同然なのですから、
その原因を理解できるように説明してあげることも重要なのではないかと感じました。
それが、説明その二になるのだと思います。

この真理をちゃんと悟ることができれば、心霊現象なども全く怖くなくなるような気がします。

<<そんなことをしなくても本を読むだけで、神想観をするだけで、真理を知ればそれだけで、病気は治るのです。>>
<<生長の家では本を読んで真理を知って自分で治るからそんな弊害はありません。>>

いずれにしても、「聖典」を拝読することにより、真理を知ればこの人生でなにも恐れることはなくなりそうです。

5145a hope:2015/01/29(木) 23:44:51 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第15巻 p191 2行目〜

谷口――・・・(略)
・・・このように念の力というものは黙念でも感応していろいろな禍(わざわい)をしたり、あるいはそれが善い念であったら幸福や健康を与えたりするものでありますが、また、この「念」はある人から放射された時だけ働くのではなく、いったん放射された「念」が一定の場所や物に蓄積されていまして禍を与えることもあります。

わたしは以前住吉の某所にいたことがあります。それはまだわたしが因縁を超越する真理を悟っていない前でしたので、その家に住まっている間中わたしは不健康でした。まだわたしが不健康で死ぬような気がする。・・・

5146a hope:2015/01/29(木) 23:46:00 ID:cEpBaIdo

>>5145 a hope所感)

人間の「念」の力というのはすごいものですね。
むかしの日本の幽霊は「うらめしや〜」といって出てきたようですが、幽霊の姿を見ないまでも、
そのような「悪念波(怨念)」に波長を合わせてしまうと、怨み殺されてしまうということも本当にあるようです(◎_◎;)。

まだお悟りになる以前の雅春先生も、当時住んでいた家に蓄積されていた「肺病で亡くなった方々」の悪念波を受けて体調を壊されていたようですね。

一時的な対策としては、その悪念の蓄積されている場所や物をさけるのがいいのでしょうが、
ふつうの人間ではどの場所やどんな物に悪念が蓄積されているかなんてわからないと思うのです。
ですから、自分自身の波動を良化しない限り、何度でも悪念波を受けてしまい、健康を害したり不運に見舞われたりする可能性はあると思います。

ですが、真理を悟って因縁を超越すれば、どこにいようが、何を持っていようが、そのような禍に巻き込まれることはなくなるようです。

わたしたちは、谷口雅春先生の「聖典」を拝読しつづけることで波動を良化できますし、
生まれ持った因縁も超越できるのですから本当にありがたいですね!

5147志恩:2015/01/30(金) 09:15:35 ID:.QY5jUA6
伝統さま掲示板より
人時処の三相応に適して生きるNEW (134)
日時:2015年01月30日 (金) 04時44分
名前:伝統

           *『白鳩』誌(昭和49年9月号)より 

私は家内にその曇っている内障ある眼のレンズ 〈水晶体〉 を切除して、
人工のレンズで補うことを勧めたのである。 私は理論的にそのことを勧めた。

「生長の家の誌友や信徒の中には老人性白内障にかかっても、聖経読誦で治したい、
神想観で治したい、悟りを深めて治したいと一心にあんたのように苦労している人も
あるが、そうして治るのは若い人の白内障である。 

老人性白内障は60歳を越えると誰でも顔にシミが出来るが、
これは色素排泄の調節力の老衰であるが、あんたには顔に他の人ほどにあまり
シミが出来ない。 

その代りにそのシミが不幸にして眼の水晶体に出来てそのために
レンズが不透明になって来たんだ。 

その不透明なレンズを人工的に切除して眼鏡のレンズと置き換えることは、
蝕くった歯に金充填するようなもので、歯は金充填をする手術をしながら、
眼の手術を恥じる必要はない。 

宗教人であるから、静坐や、悟りや、読経で治さ‘ねばならぬ’と頑張るのは、
柳生但馬守が自分は剣者だから雨を刀を揮って斬り払わ‘ねばならぬ’と考えたり、
沢庵禅師が、自分は禅者であるから坐禅によって雨に濡れないでいなければならない
と考えて、濡れていながら、実相は濡れていないと頑張るのと同じことだ。

生長の家はそんな‘ねばならぬ’を放ち去って、人時処の三相応に適するように
雨には傘をさして濡れずという風に物質的に処置し得るものは、簡単に物質的に
処置するのが三相応の道であり、それが生長の家の生き方だ。


あんたが白内障にかかって手術によって視力を恢復したということを聴いたら、
今のあんたのように老人性白内障にかかりながら信仰によって、悟りによって
直さねばならぬと頑張って苦しんでいる信者が “生長の家でも手術しても好いんだ” 
と安心してそれによって多くの人々が救われることになるのだ」

 
わたしはこんな話をして、家内をして、ついに白内障の外科手術をすることを
納得せしめたのであった。

http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18684691.html
 
           <感謝合掌 平成27年1月30日 頓首再拝>
……………………………………………………………..
a hopeさん

信仰は、両刃の剣だと思います。
病気になった場合、医者に行けばいいし、霊障害をうけていると分かった場合は、
ほんものの霊能者のところへ行ってお祓いを受ける事も、まちがいではないと私はおもいます。

本を読んだだけで,治る人も居ますが、そうではない場合もありますから。
その点は、本に書いてあるからと言って、あまりこだわらないほうがいいのではないでしょうか。

昔、谷口先生ご一家も、虫歯になれば、みなさま、歯科医へ行き、虫歯の治療をされてましたからね。

5148志恩:2015/01/30(金) 09:42:07 ID:.QY5jUA6
5143:a hopeさん

>>「霊術で他人の病気を治した者の末路がよろしくない理由」の二面的説明<<
これも、全員がそうだというわけではなく、そういう人が多々あるということだと思います。

前にも、お話しましたが、
私の母は、生長の家に入信する前は、知り合いの医学博士のすすめで
趣味で「心霊科学研究会」をされていた浅野和三郎先生の直弟子のお一人である竹内先生がされていた
集まりに参加しておりました。

その心霊科学研究会で、母も私も、当時の医学では治らなかった病気を一度行っただけで、完治して
頂いたことがございました。(私の病気とは、重度の腎臓病)

でも、竹内先生は、東大出の弁護士だったので、お金は困っておらず、
趣味でやっているからといわれて、お金は一円も
受け取られませんでした。
そのような、志の高い、霊能者でいらした竹内先生は、末路も晩年も幸せにお暮らしでした。

私は、いちどだけでしたが、先生の晩年にご挨拶にご自宅へ伺い、
年賀状の交換は、先生が亡くなられるまで、させて頂いていましたから
先生の実際の末路のご様子は、よく存じ上げているのです。

ですが、この世には、お金儲けのために、インチキまがいの霊能を商売にしている
霊能者があふれているのも事実ですから、
そのような悪徳霊能者の末路、晩年はよくないということだと、私は受け取らせて頂いております。

で、霊能力で病気が治った体験のある私は、その後,私が中学2年生頃のこと、、
母が、生長の家に入信しましたので,私も母とともに生長の家に入信し、
その後は、心霊のほうの集まりへは、行っておりませんでしたので、

心霊は、やめて、
心の問題専門に學んで参りましたから、母の晩年も私の晩年も幸せに過ごさせて頂いております。

5149志恩:2015/01/30(金) 10:19:47 ID:.QY5jUA6
つづき
私の実母は、生長の家に入信後、竹内先生宛に毎月、神誌「生長の家」誌を送る
愛行をし続けておりましたし、【生命の實相】全巻も 寄贈していました。

なので、竹内先生は、生長の家の教えにとても好感を持っておられることは、
先に書きましたように、
先生の晩年に 私が、先生のご自宅へご挨拶に伺いましたおり、、
生長の家の話がでましたから、そういうこともあり、末路が良かったのかもしれません。

5150a hope:2015/01/30(金) 11:14:26 ID:cEpBaIdo

>>5147志恩さま

貴重なアドバイスをありがとうございます。 合掌。

<<信仰は、両刃の剣だと思います。
病気になった場合、医者に行けばいいし、霊障害をうけていると分かった場合は、
ほんものの霊能者のところへ行ってお祓いを受ける事も、まちがいではないと私はおもいます。
本を読んだだけで,治る人も居ますが、そうではない場合もありますから。
その点は、本に書いてあるからと言って、あまりこだわらないほうがいいのではないでしょうか。
昔、谷口先生ご一家も、虫歯になれば、みなさま、歯科医へ行き、虫歯の治療をされてましたからね。 >>


わたし自身も病気になれば病院へ行きますし、わたしの家族もみな病院へ連れて行っています。
「因縁を超越する真理」を本当に悟るまでは、世間一般の常識に沿って生活していた方が無難だと感じています。


>>5148

<<>>「霊術で他人の病気を治した者の末路がよろしくない理由」の二面的説明<<
これも、全員がそうだというわけではなく、そういう人が多々あるということだと思います。>>

わたしももちろん、そうだと思います。
現在も、世界中にたくさん志の高い高潔な霊術者の方々がご活躍されているのだと思います。


>>5143での説明その二は、あくまでも、

『術者の心が真理を知らず、ちょっと隙ができたとなると、その害悪の念波が術者を襲うことになり、
心霊術家の末路はおもしろくないといあれるようになるのでありまして…』

と雅春先生もおっしゃっているように、術者が「因縁を超越する真理」を悟っていない場合に起ることなのだと思います。

志恩さまも、お母さまも、竹内先生も その後、「生長の家」にご縁があったのですね!
おそらく、当時はたくさんの霊能力者の方々が「生長の家の真理」で救われていたのではないかと感じています。

5151志恩:2015/01/30(金) 12:18:36 ID:.QY5jUA6
a hopeさん
>>5143での説明その二は、あくまでも、

『術者の心が真理を知らず、ちょっと隙ができたとなると、その害悪の念波が術者を襲うことになり、
心霊術家の末路はおもしろくないといあれるようになるのでありまして…』

と雅春先生もおっしゃっているように、術者が「因縁を超越する真理」を悟っていない場合に起ることなのだと思います。

志恩さまも、お母さまも、竹内先生も その後、「生長の家」にご縁があったのですね!
おそらく、当時はたくさんの霊能力者の方々が「生長の家の真理」で救われていたのではないかと感じています。<<

a hopeさんの 仰る通りだと私も思います。
だって「生命の實相」は、2000万部、2 0 0 0 万 部 もですよ、売れた空前の大ベストセラー本なんですから、

アクエリアンさんがご紹介下さったモーリーさん以外にも,隠れ生長の家人の甚大な数の人が、地底に潜んでいると想像できますものね。
やめちゃったかどうかは、しりませんけれど。。。

5152a hope:2015/01/30(金) 23:19:51 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第15巻 p193 2行目〜

井上――念は自己から発射されて自己を放れてしまい、あたかも発射された弾丸(たま)のように自己から独立した念波は、弾丸が物に当たって運動慣性がなくなるように、目的を達した後は自然に消えてしまうということは解りますが、念を発したならば、自己自身がその念の印象を受けて、それを業として背負わねばならないということを承りますと、わたしにはこの問題の方が重大です。

この自己自身が業として背負わねばならぬ念の印象、念の習慣性というようなものは実に恐ろしい気がします。この業の解消法というものがありましたら、それを詳しくお教えしていただきたいと存じます。


(a hope所感)

この後この井上さんの質問に対して、雅春先生がとても詳しく沢山の例え話を交えながら「業の流転」の仕組みをお答えくださっています。

その中でもわたしが、特に印象に残ったところは、p199の4行目からの文章で、
「病念をまだ一度ももったことのない生まれたばかりの赤ちゃんがなぜ、病気にかかるのか」ということが説明されている箇所です。

その個所をつづけて抜粋謹写させていただきます。

5153a hope:2015/01/30(金) 23:20:41 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第15巻 p199の4行目〜

・・・こうしてわれわれは生まれながらにして、いろいろな業をもっている、この業の内容というものは蓄積されたる過去の念でありますから、赤児(あかご)はまだ病気というものを思ったことがないのに病気しているから、病気というものは念のあらわれだということは承認できないといわれる人があっても、それは見当違いでわれわれは生まれながらにしていろいろな業をもっているということが解れば、疑問が氷解するのであります。

この業は幾度も生まれ更わった霊魂ほど現世、幽界を度かさねて浄化作用を営んでおります。で現幽両界の境を超ゆる時、および幽界にて浄化を遂げるうち、神の摂理によって業の濾過作用が行なわれているので、この業の濾過作用の一つは過去世の記憶のいっさいを拭い取られてくるということであります。

ですからわれわれの小児時代は比較的清らかでありますが、必ずしも幼児の心はキリストの言ったように天国の心ばかりはもっていないで、生まれつきの意地悪や、盗癖なども持っています。これは過去世の業を持ち越している証拠です。・・・

5154a hope:2015/01/30(金) 23:27:27 ID:cEpBaIdo

>>5153 a hope所感)

わたしは自分の子供達をくらべ見てみますと、みな自分と主人の子供で、同じように育てているつもりなのですが、
それぞれ持って生まれた性質も違いますし、成長するに従がって、得意なことや、好き嫌い等もハッキリ別れてきています。

そのことは、本当に不思議に感じていましたが、前世からの「業の流転」であると考えるとすべてが納得できます。

「業の流転」を考えて子供達を見直してみると、なんだか子供たちの悪癖まで、すべてが愛おしく感じられてきました!

5155a hope:2015/01/30(金) 23:36:14 ID:cEpBaIdo

>>5151 志恩さま

<<だって「生命の實相」は、2000万部、2 0 0 0 万 部 もですよ、売れた空前の大ベストセラー本なんですから、
アクエリアンさんがご紹介下さったモーリーさん以外にも,隠れ生長の家人の甚大な数の人が、地底に潜んでいると想像できますものね。>>

本当ですね。
そんな素晴らしい聖典「生命の實相」をないがしろにしている、現「生長の家」教団はクレイジーとしか思えません。


今の教団が恥ずかしくて、「自分は生長の家の信徒だ」とか「自分は生長の家の信仰をしている」とか公言できずにいるたくさんの方々が、
志恩さまのおっしゃる、『隠れ生長の家人』と言う訳ですね。

わたしもその一人ですが・・・。

5156志恩:2015/01/31(土) 06:34:19 ID:.QY5jUA6
5154:a hopeさん

神様から 授かった 子供たちは、神様から 預かった 子供達だと教えて頂いていますものね。
前世において深い縁(えにし)のあった人たちが、自分のところへ来てくれてるようです。

自分が居たと 同じ星から来た人もいれば、違う星から来た人もいるようです。
うちは、3人の子がいますが、a hopeさんとこのお子さんたちと同様、3人とも、それぞれ、性格が ちがいます。

小さいときは、いろいろと、子供はやるもんで、大人になってから、なんで、あんな危険なことを したんだろう、と
自分で言って、笑ってますよ。

うちの子供達、特に娘は、幼い頃は、うちが小高い丘のてっぺんにあるせいか、どんな高い所も
怖くない性格だったんですよね。高所安心症?

あれは、娘が、4、5歳くらいだったかしら、近所にマンションが建つので、大手の建設業社が、地面の造成工事をしてて、
どのくらいの はしごの長いクレーン車だったか、工事現場に、クレーン車が、置きっぱなしになっていたんです。

日曜日ですから、工事は休み、白いテントを 敷地の周囲に、ハリメグラシテあり、
「立ち入り禁止」の札が、吊るしてあるのもかかわらず、うちの子達3人は、日曜日、テントをくぐって、こっそり、敷地内に入って行った。
長男と次男は、低学年。女の子は、幼稚園。

3人が、敷地内に侵入した共通の目的は、クレーン車の、あの高い高い はしごのてっぺんまで、登ってみる事(汗)。

なにも臆せず、先頭を切って、どんどんと、当たり前のように、目標のクレーン車のはしごのてっぺんまで 登って行ったのは、娘だったそうです。

二人のおにいちゃんは、半分も登らないうちに、怖くなって、やばい、やめよう.降りよう、帰ろうと、言ったけれど,妹は、
高いところが ぜんぜん怖くないタチなので、お兄ちゃんたちが、制する言葉も きかず、

娘は、ひとりで、てっぺんまで 登って行ったそうです。あとから 娘に聞いたところによると、
その時は、なにせ、目標の てっぺんに いくことしか、頭になかったそうです。

娘は、一人ではしごの てっぺんまで 行っただけじゃなく、おまけに、てっぺんまで行く途中のところに、少しだけ 広くなってるところがあり、
そこで、おにいちゃんたちに、「こわくないよ」と言って、
でんぐり返しを してまで、みせたそうで、それで、てっぺんゆきの目標を達成したので、何事も なかったように、
満足そうな顔をして、降りて来たそうなんです。(あれは、登るときより、降りるときのほうが、落ちる危険性が高いと思います)

その直後は、3人とも親に言うと,𠮟られると思って、しばらくは、内緒にしていましたが、しばらくたってから、子供達は、私に打ち明けてくれました。
誰かを いじめるとか、迷惑を かけるということは、その点は、厳しく言っていたので、あまり なかったと記憶していますが、

後で聞いたら、身が縮むような悪さは、そのようにしていたんですよね。

あの時、子供達が、誰ひとり、クレーン車の高い はしごから落ちて、
死んでなかったのは、神様、産土神様、ご先祖様のご守護のお蔭ですけれど、本人も、まだ、この世に 生きる使命があったからだったと思います。

(娘の娘たちは、あの頃の年齢ですが、恐がりなので、そのようなことは、していません。)

5157志恩:2015/01/31(土) 06:41:43 ID:.QY5jUA6
たしかに、今の生長の家は、本来の生長の家とは、別物になってしまいましたから、
私は生長の家ですと、世間に いいずらくなりました。

教団本部からみたら、雅春先生の「生命の實相」を基に生きているわれわれは、大東亜戦争に関する
考え方でも、ウルトラ右翼に見えるのでしょうけれど、

教団は、ウルトラ左翼ですからね。

雅春先生と雅宣総裁は、真逆の世界を生きておられます。

5158a hope:2015/01/31(土) 12:48:36 ID:cEpBaIdo

>>5156志恩さま

お子さんたちの小さい時のお話を聞かせてくださりありがとうございます。
お話を拝見していて、その時の状況が目に映るように想像できました。

そのおてんば(?)だった娘さんも、今は二人(?)の娘さんのお母さまなのですね。
でもその娘さんたちが、お母さんと違う「恐がり」という性質なのもまた何か意味がありそうですね。


<<神様から 授かった 子供たちは、神様から 預かった 子供達だと教えて頂いていますものね。
前世において深い縁(えにし)のあった人たちが、自分のところへ来てくれてるようです。>>

<<あの時、子供達が、誰ひとり、クレーン車の高い はしごから落ちて、死んでなかったのは、
神様、産土神様、ご先祖様のご守護のお蔭ですけれど、本人も、まだ、この世に 生きる使命があったからだったと思います。>>


「児童教育に関する神示」は子育てにおけるわたしの心の支えとなっている神示ですが、
その中にも、

『・・・神の子は神が育て、人間の子は人間が育てる。
人間の子だと思うものは終世、取り越し苦労をして育てねばならぬ。
子供を神の子だと思うものは、子供を尊敬して出来るだけその世話をさせてはいただくが、
神が守ってい給うと信ずるがゆえに取り越し苦労は必要はないのでる。
人間力で子供を生かしうると思うなら終日終夜起きて子供の番をしておれ。
それはできなかろう。
できない間に子供を生かしているのは神の力である。 』

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1358650232/3879

とありますものね。

子供を自分の所有物だと思って育てていると、子供を心で拘束してしまうのだと思います。

子供には子供の「神の子」としての使命があるのだから、
その使命を全うできるように感謝してお世話させていただきたいと思います。


志恩さまのお話はいつもとても具体的で解り易いので、閲覧者の方々も楽しみにされていると思います。

わたしも、いつもほとんど一人でweb誌友会をさせていただいていますので、
時々でも志恩さまやトキさま、その他の方々が参加くださると、ホッとします。

これからも、どうぞよろしくお願いいたします。 

感謝 合掌。

5159a hope:2015/01/31(土) 19:37:37 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第15巻 p199 後から1行目〜

・・・過去世の業のうち、善くないものとしてわれわれの主として持ち越して来るものは、(一)個我をありとする念、(二)物を有りとする念の二大業であります。これが我欲の根本となり、たいていの人は本能的に個我を有りとして愛するがために、「物」本来ありと思うがために、「我」に少しでも「物」を所得せしめておかなければ自分自身を保護することができないと思い、己を愛し己を保護せんとして、遮二無二突貫して行きますから、自分自身を愛するのに邪魔となるもの、自分から「物」を持ち去ろうとするものに対しては、それを憎む念、憤る念を誘発しやすい傾向をもっております。これを業の催しと申します。・・・

(中略)

・・・この業の催しの中心力となるものは「個我を有りとする念」と「物を有りとする念」とでありますが、本来われわれは大生命と一体であって、個我はない、実在するいっさいは霊的大生命の所現であって、「物」は無いのでありますのに、なぜ、「個我」をありと思う念が起こり、「物」がありと思う念が起こったかと申しますと、現象界というものは、時間空間の縦横組み合わせのフィルムの上に映し出されますので立体写真的に写され、フィルムの一駒一駒中の映像を空間的に実在すると思い違いしやすいのです。その結果は一駒一駒を全体としての一つの流れに融け込ますことを惜しく思うのであります。・・・

(中略)

・・・つまり、個我と個我の所得に執着するときは、現象界は善い具合に順調に運ばないのであります。それで釈迦は「個我は無い」「所得はない」「無我」「無所得」ということを強調されたのであります。無我、無所得であることが悟れて、個生命が我執で執着しなくなったとき、現象界のフィルムは自動的に淀みなく回転し、一駒一駒のフィルムは全巻のフィルムの中に融け込んで一体となり、そこに現象界なるスクリーンには完全なる生命的映画が映ることになるのであります。

一駒一駒のフィルムが全巻のフィルムに融け込むとは、無我になって全体のために、または愛他的のために奉仕するということです。人を救い国のために尽す時のわれわれの心持ちの何物にもたとええぬ快さはここからくるのであります。この時には過去の持ち越しの自利的我欲的な業に縁を与えませんから、そういう業の催しは起らず、いったんかかる善業を積んでおきますと今後同様の縁が与えられる場合には前の善業が働き出して比較的容易に全体奉仕または愛他的の行為ができます。・・・

5160a hope:2015/01/31(土) 19:42:36 ID:cEpBaIdo

>>5159 a hope所感)

今回のテキストである第15巻の最後(p192〜204)に「業の流転」についての説明があるのですが、ここのところのご説明は、
唯物論者や、「生き通しの生命」を信じていない方々には、とても理解しがたい内容なのではないかと感じています。

わたしは以前、仏教に興味をもって少し勉強したことがあるのですが、その時にはまったく「無我」「無所得」の意味が解りませんでしたが、
今回、雅春先生のここのところのご説明を拝読して、やっと意味が通じました。

ですが、真理の「意味が解る」のと「悟る」のでは全く違うと思うのです。

『無我、無所得であることが悟れて、個生命が我執で執着しなくなったとき、現象界のフィルムは自動的に淀みなく回転し、一駒一駒のフィルムは全巻のフィルムの中に融け込んで一体となり、そこに現象界なるスクリーンには完全なる生命的映画が映ることになるのであります。』

現象界が上に抜粋した文章のような状態になって、自分の前に地上天国が顕われたとき、その時が本当に悟れた時なのですよね・・・。

「雅春先生のお書きになった聖典や愛国書をそのまま後世に伝え残すこと」も「生長の家」にご縁があった信徒の大切な使命なのかもしれませんが、
わたしはそれが雅春先生の本当の御遺志ではないと思うのです。

「わたしたち信徒一人一人がその聖典の真理を学び続けることで、雅春先生のお悟りに少しでも近づき、人類を光明化し続けること。」
それが雅春先生が一番お望みになっていることであり、本当のご遺志だったのだとわたしは理解しています。

今現在、雅春先生の聖典が地上からすべて消え去ってしまったわけではないのですから、
今手に入る聖典を熟読し、雅春先生のお悟りに少しでも近づくこと、それが一番雅春先生がお喜びになることなのだとわたしは信じています。


ところで、今日で、1月も終わりです。
明日になりましたら、第32回 web誌友会を開会させていただきます。

感謝 合掌。

5161a hope:2015/01/31(土) 19:45:52 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第32回 web誌友会 予告

期間   2月1日〜2月28日まで
テキスト 「生命の實相」第16巻 人生問答篇 下
内容   人生の悩みを解く(下)
     
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

5162a hope:2015/02/01(日) 00:26:56 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第15巻 p204 3行目〜

・・・業はどこにある。捉えんと欲しますれば、鏡にうつる波動的映像ですからどこにも本来ありません。本来無いものでありながら波動であるがゆえに何全何万年も経ましてもその力の流転を継続するものであります。石炭が燃焼するのは、実は数百万年前の木材の業の流転であります。この業の流転こそ、現象宇宙進化の大原動力ともなるのであります。

人間も業は恐るるに足らず、業が集積し流転しこれによって現象人間が進化するのであります。だから悪業を積む、病気になる、心が神に向かうというような経路によって高められる人が大勢あるのであります。それはなぜか。業の流転の奥には必ず実相があるからであります。

鏡面(かがみ)の中に映像が映るのは源(みなもと)に実体があるからである。映像がしだいに実相の完全さを映すように運命つけられているのであって、決してショーペンハウエルの言ったように盲目的意志に導かれているのではありません。業を恐れず、業をきよめつつ業を積んでゆく時、人生はただ光明への旅路となるのであります。

『生命の實相』(頭注版)第十五巻 <<完>>

5163a hope:2015/02/01(日) 15:24:36 ID:cEpBaIdo

2月に入りましたので、第32回web誌友会を開会させていただきます。
開会にあたり、祈りの言葉を掲載させていただきます。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

住吉大神様 住吉大神様  谷口雅春先生 谷口雅春先生有難うございます、有難うございます。
 
生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給へ 
吾が生くるは吾力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能
天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家の大神まもりませ
  
住吉大神様、今月の 生長の家 本流復活について考える WEB誌友会板 に於ける
生命の実相 輪読誌友会で、生長の家の御教えを正しく把握し、広く伝道するための 
必要な霊の選士を集え給うて、真理の研鑽を導き給う。
住吉大神様 勉強会を正しく導き給う 住吉大神様 勉強会を正しく導きたもう。
参加者お一人、お一人を浄化し給うて、使命を授け給う。
有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます

世界平和の祈り

神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。
その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。


光明思念の歌

天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

5164a hope:2015/02/01(日) 15:26:40 ID:cEpBaIdo

つづきまして、今回のテキストである 第16巻の「はしがき」を謹写させていただきます。

「生命の實相」第16巻  

はしがき

わたしが兵庫県武庫郡住吉村で生長の家を始めたころに集まってこられた求道者との対談や、質問に対する回答の筆録は、今ではなかなか得がたい文献になっているのである。なぜなら、今ではあまりに生長の家の人類光明化運動が拡大してその規模が大きくなり、数名の熱心な求道者や悩んでいる人たちにしみじみわたし自身対談して個人指導を与えている時間的余裕がないからである。

昨今、わたしは大都会では大講堂で四、五千名を一堂にあつめて真理の講演をするし、小都会でも一千名より聴衆の少ないことは稀である。個人個人の悩みを親しくきいてあげ、その求めるところにしたがって回答を与えて差し上げることはまことに尊いことである。しかし、このように運動が拡大してくると、数人または一人ずつに対談していることは時間的に不可能となったのである。

講演または講習会によって大量に教化するより仕方ない。そうしてみると、わたしの住吉在住時代の対談の記録には講習会では得られないしみじみとした深いものが、その在々所々に真珠のように鏤刻(るこく)されているはずである。そのころにはテープレコーダーもなかったし、わたしの貧しい経済では速記者をやとうこともできなかったから、その記録は、会が終わってから、わたし自身がその場の光景や雰囲気を思い浮かべながら書いたのである。

書くにしたがって次々とその光景があらわれ、対話そのままが髣髴(ほうふつ)とあたかも霊示できくかのように浮かび上がってくるものであるから、翌月の『生長の家』誌にその記事がのると、翌月求道の集まりに集まって来られた人たちから「先生はどこかに速記者を隠しておいて筆記せられたのではありませんか。まったくあの場そのままの雰囲気と対談とが再現されている」と誉められたものである。


本巻に収録されている問答は、霊魂および心霊問題に関する多くの疑問や、因縁因果や、業に縛られて幸福になろうと思ってもなかなかなれない人たちに、その業因から解脱する方法についてこたえたものが多いのである。霊媒に出てくるいろいろの現象のうちには、真(しん)の霊魂の憑依ではなく、たんなる念の感応や、象徴的に動物霊の形をもってあらわれて来るものもある。

詳しいことは本文を読んでもらうより仕方ないが、いっさいの不幸は「迷い」から生ずるのである。よろしく、迷いから脱却すべきである。そのほか病気や老衰現象を克服して、この世に生を受けているかぎりにおいて健康であるにはいかにすべきかなどのことも取り扱われている。それらの問題はすでに『生命の實相』第一巻から第四巻(本全集及び携帯版では第一巻かた第八巻)の間に詳しく説かれてきたのであるが、なお十分納得のゆくように個人的に相談された場合にいちいち答えた章もある。

最後の章は、わたしが家庭光明寮という花嫁学校で若い人たちを指導していたころに、そこから巣立ちして人生に出発しようとする卒業生に贐(はなむ)けした言葉である。今では、この花嫁学校は広島県府中市本山町見晴団地に生長の家養心女子大学寮という名称で、嫁入前の娘さん達に家庭の諸芸と共に精神的修養を与える機関として経営されている。あまりにも終戦以来、生活の理想を失って止め度なく暗黒の道にさまようて行こうとする若い人の多きとき、この養心女子大学寮がこれらの若き女性に対してなんらかの光明を与えるものとなれば幸いだと思っている。

昭和三十八年 七月 十日  

著者しるす

5165a hope:2015/02/01(日) 15:30:08 ID:cEpBaIdo

トキさま みなさん こんにちは


今回も、こちらで第32回web誌友会を開催させていただけることに心から感謝いたします。 合掌。

ですが、わたし自身なぜこの「生命の實相」の学習会でもあるweb誌友会を
こんなにも熱心に続けているのか時々不思議に感じています。

一体、いつからこんなことを続けているのかと思って、第1回web誌友会がいつだったのか探してみました。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1324435617/1735

そしたら、なんと2012年の4月14日にこの掲示板の部室板で第一回目の誌友会をしているのです。
今年は2015年ですから、もうすぐ3年になりますね。

当時は「訊け」管理人さまがとても楽しい司会進行をしてくださっていて、
ユタカさまも「おみくじ」なんかを用意してくれたりして盛り上げてくださっていて、
たくさんの方々が参加されて和やかな雰囲気の中で誌友会をしています。

また、そんな感じで誌友会ができたらどんなにうれしいことでしょう!

みなさま、どうぞご気軽にご参加くださいね。

5166トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/02/02(月) 10:49:34 ID:jnvqNl/M
>>5164

a hope様、いつも誌友会のお役を務めてくださり、心から感謝申し上げます。

 少し本題から外れますが、戦前はもちろん、戦後しばらくも谷口雅春先生と信徒が直接の
交流を持つことは普通だったみたいです。古い信徒さんの話を聞くと、谷口雅春先生と奈良
の橿原神宮の勤労奉仕で一緒にモッコをかついだ、とか、谷口雅春先生ご夫妻を囲んで、
ご講演後にお食事会を開いた、という話をよく聞きました。

 現在の信徒はもちろんのこと、昭和30年以後入信の信徒さんは、谷口雅春先生といえば
遠くから拝む存在になっていますが、それ以前の信徒さんが異口同音に言われるのが、
「人間味のあふれる、暖かい人柄」ということでした。

 明窓浄机に、谷口雅春先生が奥様のお手紙を引用して、組織が拡大し、人間が増えすぎた
ために、人との交流がおろそかになった点を憂いておられる御文章が掲載されていますが、
谷口雅春先生の真意が、この御文章にも伺えると思います。

 心して学びたいと思います。皆様のご参加をお待ちしております。

合掌 ありがとうございます

5167a hope:2015/02/04(水) 11:53:26 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第16巻 p13 後から1行目〜

船橋――・・・(略)
・・・わたしは以前は軍医でありましたが、軍隊などでは二、三種の一定の薬剤をどの病気にも使うのでありまして、それを服(の)ませて次の診察の時が来ると「どうじゃ、もう治ったろう」と命令のように怒鳴りつけると、兵卒などはその瞬間気を呑まれて気をつけの姿勢をして、間髪を容れず「ハイ、治りました」と答える。

「治らない」などとは絶対に言わせない。「治った」とこっちからも言えば、あっちからも「治りました」と言う。両方の言葉の力で治してしまう。治らないなどと言えば厳しいいっそう痛い治療法を受けさせられる。「軍人たる者が、これくらいの病気で弱ることがあるか!」と一喝される。いやでも治ったといい、また治ってしまわなければならぬ。治らないと損だから治ってしまうのであります。

谷口――そうです。病気に対しては、寸毫(すんごう)も妥協するような気持があってはならないのです。病気である方がなんらかの利益があるとか、都合が良いとか、その病気というものを口実にするような気持が少しでも潜在意識の底にあってはその潜在意識が病気を製造することになるのです。・・・

5168a hope:2015/02/04(水) 11:54:50 ID:cEpBaIdo

>>5167 a hope所感)

この船橋氏と雅春先生の御会話は、わたし自身も経験としても思い当たることが沢山あります。

自分自身が小学校の高学年だったころ、練習不足だったリコーダーの発表の直前に激しい腹痛が起きて保健室に運ばれました💦
あれは、仮病ではなくて本当にすごく痛かったですし、顔色まで真っ青だったそうなので友達が心配してくれたのを覚えています。

わたしの子供達も学校で嫌な事があったときなど、朝なかなか起きてこないで、「頭がいたい」「お腹が痛い」「気持ち悪い」などということが良くありますが、
一応額に手を当てて大した発熱がない場合は、わたしが気合をいれて「えー、でも○○ちゃん今朝はすごく顔色もいいし、元気そうだよ!」と断言し、
「学校行ってみて、それでも調子悪かったら、先生にすぐに言うんだよ!お母さんがすぐ迎えに行ってあげるから・・」と
有無もいわさず支度をさせて学校に行かせてしまいます。
そうすると、ほとんど何事も起きず、元気に学校から帰ってきます(笑)

ですから、わたしは「病は気から」ということわざは、真理であると確信しています。

5169トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/02/04(水) 20:23:19 ID:q.BS7ms2
>>5167

 この船橋さんは軍医さんだったみたいですが、思い出した事があります。

 先の戦争でビルマ戦線にいたお医者さんの回顧録では、前線で負傷してようやく
野戦病院にたどり着いた患者さんに優しい言葉をかけると、そのまま気が緩んで
亡くなるケースが多かったみたいです。そのため、患者が到着すると、あえて
厳しい言葉をかけたり、場合によっては殴ったりしてから、病院に収容したと
聞いています。

 言葉の力が生命をも左右するという事でしょう。

5170a hope:2015/02/05(木) 23:58:49 ID:cEpBaIdo

>>5169 トキさま

「気が緩んで亡くなる」というトキさまのお話を聞いて思い出したのですが、
海上で何日も漂流して衰弱している遭難者が他船を発見した場合なんかでも、
自分が救助されるとわかった瞬間、「気が緩んで」死んでしまうこともあるので、
そのように衰弱している遭難者を発見した場合は、焦らしながら遠回りに徐々に救助に向かうようですね。

「生きたい」という欲望は、言いかえれば現象世界や肉体への執着でもあるわけですが、
「これで助かった!」と思った瞬間「気が緩んで」、本望ではなく霊魂が肉体から離れてしまうということなのでしょうか・・・?


ところで、「魂は生き通し」であり、本来人間は「死ぬ」ということはないわけですが、
その真理を悟らずに、現象世界や自分の肉体に執着しながら亡くなってしまった霊魂は、
自分の肉体が死んだということを理解できず迷ってしまうことがあるようです。
そうすると、成仏できませんから、憑霊となって誰かに善くない念波を送り病気にさせてしまうこともあるようです。


その具体例のようなお話がいくつか、テキストのp16の5行目からされています。

特に「前妻の逆念」のお話(p23 2行目〜)などは、雅春先生「生命の実相」の真理によるご解説がなかったら
「恐ろしい怪談」のような内容です(/ω\)

5171a hope:2015/02/06(金) 09:59:54 ID:cEpBaIdo

みなさま おはようございます。

今回も、大熊先生が素晴らしいご講話を you tube に upしてくださいました!

「肉体としての命も大事でありますが、精神・魂としての生命(いのち)も大事であります。どちらも大事であります。
本当の、本当の、本当の生命(いのち)を大事に生きてまいりましょう。
うれしい 楽しい ありがたい うれしい 楽しい ありがたい
今日は人生最良の日だ 今日は人生最良の日だ 今日は人生最良の日だといえるような人生を歩んでいきましょう」

わたしは宇治の練成で大熊先生のご講義は受けたことはありませんが、
大熊先生のこの講話を拝聴していると、宇治の練成が懐かしく思い出されました。

これぞ、「生長の家」のご講話ですね!

愛を生きる <いのちより大事なものがある>
http://blogs.yahoo.co.jp/panda41415151

5172a hope:2015/02/07(土) 00:12:01 ID:cEpBaIdo

(a hope 赤線ヵ所)

<<谷口―― 父の霊魂は決して子供を病気にするために念波を送っているのではないのです。ただ自分の肉体が死んでしまっているという自覚がない。自分が霊界に属していてこれから霊界の修行にいそしむべきであるという自覚がなく、あくまでも自分自身が現実界に属していると思っているから現実界に執着がとれない。執着がとれないから現実界への執着の念を送る。ところが、その念が苦しんでいる人の念、病気の人の念ですから、それを受ける人が病気になるのです。>>p19 2行目〜

<<谷口――・・・(略)・・・その病人の救われる唯一の道は肉体死後にも人間の生命は存続していて、依然として生きているという事実を話してあげるほかはない、病気は本来存在しないという真理を悟って死ねば、死後その病気は治っているけれども、意識というものは肉体の産物だと思って、肉体が死ねば意識がなくなるものだと思っている人が、死後霊界において意識を回復した時には、自分は生きていると思い、肉体もあると思い、自分は病気だったと思い出すと、霊界における自己の状態は自己の念の客観化でありますから、自分の身体(この時は、もう肉体ではなく幽体であります)が、やはり病気だったと思っているのです>>p21 後から4行目〜

<<こういうように一家の家庭的乱れというものが、一人の迷える霊魂を導くだけでこんなにも改善されてくる場合があるのであります。だから先祖とか親類縁者の祭祀(まつり)というものは決しておろそかにしてはならないのであります。
この祭祀に幽斎と顕斎とがありまして、顕斎とは形の上の御宮とか仏壇とか各宗で定められた一定の形に顕れた方式で祀るのであります。幽斎というのは心をもって心に相対するので、精神統一をして実相を念じ、人間の実相が円満完全であって悩みも病もないという念を霊界の諸霊に放送してあげて、念波によって霊界の諸霊の苦悩を除いてあげるのであります。
これは相手たる霊を生前の名前で招(よ)び出して置いて、一緒に神想観をするつもりでやられてもよい。念だけで頼りなければ、言葉で真理を説いてきかすがよい。それには聖典の「實相篇」を読んできかせてあげるのがよろしい。>>p30 2行目〜

第1章「念の病気に及ぼす力」終わり

5173a hope:2015/02/07(土) 00:13:45 ID:cEpBaIdo

>>5172 a hope所感)

この第1章を拝読して、わたしにも先祖供養の大切さがよくわかりました。
この対談のあった時代にはまだ聖経「甘露の法雨」がなかったのでしょうか?
ここでは、雅春先生は先祖供養には生命の實相の「實相篇」を読んできかせるようにとのご指導をされています。

あらためて「甘露の法雨」を読誦してみますと、この第1章の雅春先生のご指導内容は〝霊〝 の項目にそっくりだと感じました。

以下に、謹写させていただきます。 合掌。

5174a hope:2015/02/07(土) 00:19:13 ID:cEpBaIdo

「霊」

感覚はこれ信念の影を視るに過ぎず。
汝ら霊眼を備えて霊姿を視るとも
実在を視たるに非ず、
感覚にて視得るものは
すべて心の影にして第一義的実在にあらず、
霊姿に甲乙あり、
病める霊あり、
苦しめる霊あり、
胃袋もあらざるに胃病に苦しめる霊あり、
心臓も有(も)たざるに心臓病にて苦しめる霊あり、
これすべて迷いなり。

斯くの如き霊、人に憑(よ)れば
憑られたる人或は胃病を顕わし、
或は心臓病を顕す。

されど霊覚に映ずる
さまざまの苦しめる霊は、
第一義的実在にあらず、
彼らは誤れる信念によりて
流転する迷いの影なり。

迷い迷いて流転する心は
その信念が形となりて仮の相(すがた)を現ずべし。

されど如何に相を現ずるとも
仮相(かりのすがた)は永遠に仮相(かそう)にして実在となることを得ず。
汝ら、実在にあらざる物を恐るること勿(なか)れ、
実在にあらざる物を実在せるが如く扱うこと勿れ。

実在にあらざる物には実在をもって相対せよ。

真にあらざる物には真をもって相対せよ。

仮相(かりのすがた)に対しては実相を以て相対せよ。

闇に対しては光をもって相対せよ。

非実在を滅するものは実在のほかに在らざるなり。

仮相(かりのすがた)を破るものは実相のほかに在らざるなり。

虚妄を壊(え)するものは真理のほかに在らざるなり。

闇の無を証明するものは光のほかに在らざるなり。

彼らに生命の実相を教えよ。

彼らに生命の実相が神そのものにして完全なる事を教えよ。

神はすべてなるが故に
神は罪を作らざるが故に
神のほかに造り主がなき故に
此の世界に犯されたる罪もなく
報いられるべき罪もなきことを教えよ。

三界の諸霊
三界の諸生命
この真理を観じ、
この真理をさとりて、
一切の苦患(くげん)の源となるべき
顛倒妄想(こころのまよい)を摧破(さいは)すれば、
天界の諸神(しょじん)ことごとく真理の合唱(コーラス)雨ふらし
現世(このよ)の生命ことごとく光を仰ぎ、
惑障(わくしょう)ことごとく消滅し、此世はこの儘にて光明世界を示現せん。

5175a hope:2015/02/08(日) 23:30:45 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第16巻 p31

山本――(画家、山本博士の息)―― 僕には神様があるということがどうしても解らないのです。それが解ったら安心できるのです。


(a hope所感)

第二章「治す念波の話」は、この画家である山本氏の発言から始まっています。

「生長の家の教え」では、「人間神の子」が真理だとされていますが、
ここでは雅春先生は「神の子」とは言わず『「自分が神だ」というのが「生長の家」の信仰なのです。』
とお答えされています。

「生命の實相」を拝読してお勉強しているかぎり、わたし自身は「人間は神の子である」という言葉より、
「人間は神である」という言葉の方が、ずっとすっきり納得できます。

ですが、「人間は神である」と表現すると、実相世界の存在を知らないほとんどの人が
「現象人間」のことを神だと言っていると勘違いをしてしまうからでしょうか・・・

いつの頃からか生長の家でも「神の子」という表現が定着していったのですね。きっと・・・

5177a hope:2015/02/10(火) 00:33:22 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第16巻 p31 

谷口―― 自分のそとに神様を求めるから解らなくなるのです。自分の内にある生命力――これを神様と見ておれば、だいたいまちがいないのです。自分をアミーバ-のような小体から、現在のような複雑微妙な人体に造り上げた不可思議な生命力――この生命力は、どんな医学者、生物学者よりも、偉大な力をもっている。どんな医学者、生物学者でも胃袋の一片をも製造することができない。

学者は、この不思議な生命力の歩いた足跡を調べてみるが、それは不思議な生命力の行く先にいろいろ実験的に何物かを置いてみて、こうすればその生命力はどういうふうに歩みを変えるかと観察しているにすぎないのです。学者は観察する、ただそれだけです。創造(つく)るのは神のみです。自分の内にやどる生命力のみです。


山本(医博、画家の父)――なるほど〝There is no God, I am God.〈神は余所(よそ)にいない、自分が神だ〉というわけですね。三十年前にわたしはインディアン・コイン(インディアン貨幣)を手に入れたことがあります。だいぶ古いものですが、四角な銀で造ったものでして、それに梵語でなにかかいてある。それを二人の外国人に翻訳させて、両方比較してみて誤訳のないことを確かめてみたのですが、それは「神は余所(よそ)にいない、自分が神だ」と書いてあったのです。

「自分が神だ」――わたしは余所へ交渉に出かけるようなときには、このインディアン貨幣を持って出ると必ずその交渉に成功する。妙なものですねえ。「自分が神だ」という観念があるので、心に自信力ができて心の力で成功するのですねえ。


谷口―― そうです。「自分が神だ」というのが「生長の家」の信仰なのです。「自分が神だ」といっても何も傲然と構えて相手を軽蔑するわけではないのです。自分が神だと解ったら他(ひと)も神だと解るのです。だから他をも尊敬するようになれるのです。人皆に「自分は神だ」と自覚させるようにするのが「生長の家」の教えなのです。

ある宗教では神を自分と懸け離れた手の届かないような非常に遠い所にいられるもので、どんなに修行しても近づけないもののように説いていますし、ある一派ではキリストだけが神の一人子(ひとりご)であって、他の人間は神の子ではないようにも説いていますし、またある宗教では、その宗祖だけが神の顕現であって、他の人間は下らない無価値な凡夫のように説いていますが「生長の家」ではみんなに「自分は神だ」というメダルをぶら下げさせるのです。そのアイ・アム・ゴッドのインディアンの貨幣は大変結構な護符ですねえ。

5178a hope:2015/02/10(火) 00:37:33 ID:cEpBaIdo

>>5177 a hope所感)

<<人皆に「自分は神だ」と自覚させるようにするのが「生長の家」の教えなのです。>>

これが、生長の家の「唯神実相」の自覚なのではないかと思うのですが、
だからといって、実際に「自分は神だ」「あなたも神だ」「みんな神だ」なんて言って歩いたら、
気が触れたかと思われてしまいそうですね(;’∀’)

一方「人間は神の子だ」といえばその意味を素直にとれば『人間は神そのものではなくてその子供である』という意味ですから、
わたしには、御親としての「神」が自分の外に存在しているのではないかというイメージが湧いてきてしまい少し混乱してしまうのです。

みなさんはどうですか?

ですが、この対談で雅春先生は、

<<自分のそとに神様を求めるから解らなくなるのです。自分の内にある生命力――これを神様と見ておれば、だいたいまちがいないのです。>>
<<「自分が神だ」というのが「生長の家」の信仰なのです。>>

とはっきりご指導くださっています。

わたしたちはそとに神を求める必要はないのですね!
だって、自分の中にちゃんと神さまがいるのですから・・・そういう意味ですよね?

5179a hope:2015/02/12(木) 09:39:44 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第16巻 p40 7行目〜

山本(画家)―― 人間に生きる力が宿っている――その力を神と名づける、各人が皆一個の神である。そういえばそういえぬこともないとは思いますが、宇宙にも神があるということ、全体を生かしている神があるということが、どうも解らないのです。

谷口――自分のうちに神秘な生命力が宿っている、それは認める。それならば他の内にも神秘な生命力が宿っている、それをも認めなければならなくなるでしょう。その自分のうちに生きている生命力と、他人のうちに生きている生命力とが、一つの源(みなもと)のいっそう大きな生命力から来ているということは、われわれの内に生きている力が、誰も彼も同じ相似の働きをしているのでも知ることができるでしょう。

誰でも胃袋があり、腸があり、心臓があり、肺臓がある。その細部の構造設計までも似ている。別にある人が発明した「人体」という機械を、他の人が真似をしてこしらえたわけではないのに、その細部の構造設計までが一貫した一つの同じ原理ででき上がっていることを思えば、われわれ各個人に宿る生命力は、各個人の肉体から出る個々別々の力ではなく、全体の生物を一貫して生かしている、共通的生命力というようなものを認めずにはいられないでしょう。

この共通的大生命力――これを称してわれわれは本源の神と呼ぶので、われわれにはこの本源の神の生命力が宿っていて、いろいろ生きた活(はたら)きをしたり、物を考えたりしている。その「活きている自分」というものはこの「本源の神」が宿っていて「自分」となっているのですから、「自分は神だ」ということになるのです。この「自分が神だ」とい真理がわかり、そしていっそう大きな生命に結ばれているということがわかると、われわれはわれわれ自身の内に宿っている大きな生命力に信頼することができ、安心がそこから湧いて来、大きな自己癒能もそこから湧いてくるのです。

5180a hope:2015/02/12(木) 09:41:43 ID:cEpBaIdo

>>5179 a hope所感)

『「われは神と一体なり」そして「彼も神と一体なり」(神人一体の自覚)ならば、「われと彼も一体なり(自他一体の自覚)」、
つまりは、わたしたちは「すべてが一つ」〝Oneness〝 というわけなんですね!!

わたしは生長の家の教えに触れて間もないころ、「実相を観ずる歌」が好きでよく唱えてました。
そして、宇治の練成に参加して、その歌に素晴らしい曲がついていることを知りました。
今回のこの部分の雅春先生のご説明は、この「実相を観ずる歌」の内容とそっくりだと感じました。

実相を観ずる歌

(一)
神はすべてのすべて
神は完(また)き生命(いのち)
神は完き叡智(みちえ)
神は完き聖愛(みあい)。

すべてのものの内に、
神の生命は生くる、
神の叡智は生くる、
神の聖愛は生くる。

神はすべてにして、
すべて一体なれば、
よろずのもの皆共通(ひとつ)の
ちから是を生かせり。

天地(あまつち)の創造主は、
唯(ただ)一つの神にませば、
天地はただ一つに、
いと妙に調和満つる。

吾座す妙々実相世界
吾身は金剛実相神の子
万ず円満大調和、
光明遍照実相世界。
 
(二)
・・・省略・・・

5181ヌん吉:2015/02/12(木) 22:24:41 ID:p..UGkhA
曲、もひとつかな・・・っと。にゃひっ。

5182a hope:2015/02/13(金) 08:13:23 ID:cEpBaIdo

ヌん吉(るん吉)さま?

きっと「ひとつ」だと思いますよ。
魂に響くような善い音楽はもとは「ひとつ」であり、すべてが『天楽』の顕われなんだと思います。

ヌん吉さまは、宇治の練成に参加したことがありますか?
わたしはまたいつか、宇治の練成に参加して「生長の家」の聖歌をみなさんと歌いたいです。

5183a hope:2015/02/15(日) 19:16:10 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第16巻 p55 後から2行目〜

谷口――神は宮(みや)の中にいないということを知ると共に、本当の人間――「神の子」すなわち真人は肉体の中にいないということを知ることが肝心なのです。それでは肉体の人間は本物でないから、他人にでもその肉体に不親切にあたってやってもよいかというと、そうではないでしょう。

肉体は「真の人間」ではないけれども、われわれは隣人を愛するのに、その隣人の肉体をとおして愛し、隣人をいたわるのにその隣人の肉体を通していたわるしか愛を表す道がないでしょう。愛とはその肉体を象徴として肉体ならざるもの、隣人の神性に敬礼するにあるのです。

それと同じようにわれわれは神が霊であって宮の中にいないのを知る、知るけれどもその宮を象徴として神の霊に敬礼するために宮の前で敬礼をするのです。キリスト教は神殿偶像だといって軽蔑しますが、キリスト自身は神殿を尊敬して、エルサレムの神殿の境内で鳩を売ったり両替する商人を神社の境内を汚すものものとして、彼らを縄の鞭で逐(お)い払ったりしました。

5184a hope:2015/02/15(日) 19:20:58 ID:brQxC10.

>>5183 a hopeまとめ)

○肉体 ―― 肉体は「真の人間」ではないけれども、肉体を象徴として肉体ならざるもの、隣人の神性に敬礼するためにある。 または愛を表現するためにある

○宮・神殿 ―― 神はその宮・神殿の中にはいないけれども、その宮・神殿を象徴として神の霊に敬礼するためにある。 宮・神殿はあってもよく、なくてもよい


(a hope所感)

「わたしのお墓の前で泣かないでください。そこにわたしはいません、死んでなんかいません。・・・」

と「千の風になって」の歌詞にありますが、だったらお墓を建てる必要もないわけですが、
わたしたち人間はおそらくどこの国の人間であっても、身内が亡くなればお墓を建てて供養するのではないでしょうか?

それは、この説明から考えれば、亡くなった方の霊(実相・神性)をお墓を象徴として敬礼するためということになります。

確かに霊は肉眼では見えませんから、礼拝(敬礼)しにくいですし、年月が経つにつれてその存在自体を忘れてしまいがちになります。
ですが、お墓や宮・神殿のように形になって顕れていると礼拝しやすいですし、その存在を忘れてしまうということがありませんね。

一方、肉体をもっているわたしたちは、そのお互いの肉体を霊(実相・神性)の象徴として礼拝し愛することができるのですね。

すべてが「生長の家」の『実相礼拝』ということになりますね!

5185a hope:2015/02/15(日) 19:30:17 ID:cEpBaIdo
>>5183訂正 
最後の段落文中の【  】内の文章が抜けていました。m(__)m

<<それと同じようにわれわれは神が霊であって宮の中にいないのを知る、知るけれどもその宮を象徴として神の霊に敬礼するために宮の前で敬礼をするのです。【この境地に達すると宮は毀(こぼ)たなくともなんの障りにもならないのです。宮はあってもよく、なくともよい。】キリスト教は神殿偶像だといって軽蔑しますが、キリスト自身は神殿を尊敬して、エルサレムの神殿の境内で鳩を売ったり両替する商人を神社の境内を汚すものものとして、彼らを縄の鞭で逐(お)い払ったりしました。>>

5188a hope:2015/02/20(金) 09:55:31 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第16巻 p41 後から6行目〜

山本(画家)――そういうわれわれに共通した大きな生命がある。その大きな生命に繋がっているということが解ってもわれわれはやっぱり死ぬのが恐ろしい気がします。そうした生命の海というものに没し込んでしまうのは恐ろしいですね。

谷口――死ぬのが恐ろしいのは、この肉体を人間だと思っているからでしょう。あなたは死ぬのが恐ろしいといわれますが、人間は決してしなない、生き通しのものですよ。これが解れば人間は死ぬことが恐ろしくなくなる。死なない者に「死」を恐れるはずがない。死なないから、死を恐れようがないのです。・・・

5189a hope:2015/02/20(金) 09:56:28 ID:cEpBaIdo

>>5188 a hope所感)

「肉体なし」、「死なし」、あるのは「生きとおしの生命」だけであるという『生長の家の根本真理』を、
この後、雅春先生が詳しくご説明くだっています。
そして、「肉体なし」、「死なし」と聞いて、そのコトバの表面だけを捉えて勘違いをして、
現象の苦しみから逃れるために自殺したりする人がいることに警鐘を鳴らして下さっています。

<<・・・現界で病気であって、死んだら肉体はないから病気はないと思って自殺する人もありますが、肉体が死んだ後も霊魂は存続している。霊魂は死の刹那のショックで意識を失うが、霊界で意識を回復すると、なんでも周囲が見えるものだから「自分は生きている」と思う、そうしてその次には「自分は病気だった」と思う、すると「自分は病気だ」という念によって、その霊魂体に病気をあらわす。先日もそういう例がありました。ある霊媒に十七年も前に亡くなった人の霊魂があらわれて来ましたが、依然として十七年前の臨終の苦しみを継続して苦しんでいました。>>p43 6行目〜

現象の苦しみから逃れるために「自殺」するということは、実際には何の解決にもならないということが解ります。

5190トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/02/21(土) 21:42:42 ID:v52dWahU
>>5189

 過去、たくさんの人と関わりを持った中で、この自殺願望の人とも何人もお話をしました。
生長の家の真理をお伝えすることで何人もの人が自殺を思い留まってくださったことは嬉しい
ですが、反面、私の徳が足りないために、亡くなられた人がいることは反省しています。

 これは私の独断と偏見ですが、自殺をする人も内心では生きていたい、と思っています。
しかし、勝手に、他に選択肢がないと思い込んでいるような気がします。パソコンがフリーズ
した時に、リセットをするような感覚でいるのでしょう。しかし、リセットをしても結果は
同じどころか、もっと悪くなると知っていれば、リセットのボタンを押さないように、
自殺をしても、もっと悪くなると知ることが必要だと思います。それに、神様は、
「この世で起きたことは、この世で解決する」という方針でおられますから、解決は
できるのが当たり前です。

 それと、こういう自殺などの問題は、正直、手間も時間もかかり、相談を受ける側
もそれなりの覚悟が必要です。私が青年会の頃は、まだ、こういう問題について、
正面から向き合った人が多かったような気がします。しかし、そういう「手間のかかる」
ことを嫌う風潮が出てきているのは困ったものかと感じます。

 最澄は「一隅を照らすもの、これ即ち国宝なり」と説きました。西洋でも道徳再武装運動
では、「闇夜を嘆くより、一本のローソクになりなさい」と言います。一人の人が自殺を
思い留まり、前向きになってくれたら、それは素晴らしい事だと思います。

 そのためにも真理をお伝えしたいと思います。

5191a hope:2015/02/23(月) 00:56:24 ID:cEpBaIdo

>>5190 トキさま

素晴らしお話をありがとうございます。

生き通しの人生にはリセットボタンはないのですね。

わたしたちはこの現象世界に生まれて色々な経験をすることで、魂が向上していくのですから、
人生で困難に出会うということは、むしろ魂向上の大きなチャンスなのですよね!

ですが、「真理」を知らなければせっかくのそのチャンスも生かせない。

だから、人々にその「真理」をお伝えして、魂の向上のお手伝い(個人救済)をしていくのが、
わたしたち「生長の家の教え」に出会った者の使命なのだとわたしは思うのです。

その伝道すべき真理は聖典「生命の實相」の中にしっかりと書かれていますよね!


たしかに、かつて雅春先生が「政治運動」等の現象問題に対応した運動をされていたことを考慮すれば、
「生長の家」を信仰するということは、聖典の中の真理を人々に伝え個人の魂の救済するというだけでは物足りないのかもしれません。

ですが、今、このように現象の「生長の家」が混乱している状態の中では、
個人の魂の救済という本来の光明化運動をおろそかにしていては、他のどんな運動をやってもうまくいかないのではないかと感じています。

5192a hope:2015/02/25(水) 09:46:32 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第16巻 p57〜

谷口――何教でなければ救われないというのは、人間の生命を知らないからです。どんな祀り方でなければ、神の気に入らないというのは、神の実相を知らないからです。ある一定の祀り方で祀ってもらわなければ腹が立つというような神なら、それは「神」ではなく迷いでありましょう。

つまり社(やしろ)とか儀式とかによって沽券(こけん)をつけてもらわなければ、自分の「生命の実相」に威厳が出ないと思うからこそ、祀り方のいかんによって腹も立つのでしょう。それは何か他のものを外から付け加えてもらわなければ、自分が完全になれないという弱みがあるから、その外からの付け足しにようが悪いと腹が立つのであって、外から付け加えてもらう必要はないのです。

神は神であるから尊い、神は神であるから自由自在である、神は神であるから円満完全である、その尊さと、自由自在さと、完全さとは外からの付け足しによらず、それ自身の本質にあるのです。人間の生命の尊さも、神の子たる自身の本質にあるのですから、何教でなければ救われないということはないのです。

仏教よし、キリスト教よし、神道よし、なんでなくともよし、何であってもよいのです。人間の生命(たましい)が救われるのは外の力によるのではなく、それ自身の本質が「神の子」であるからです。それ自身の本質が「神の子」でなかったら、外からどんな力を加えても救われるはずがありません。

5193a hope:2015/02/25(水) 09:48:43 ID:cEpBaIdo

>>5192 a hope所感)

「生長の家」の聖典である「生命の實相」だけを拝読していているかぎり、「生長の家」が「天皇信仰」であり、
「光明化運動」が「愛国運動」であるとはとても思えないというのが、わたしの正直な感想です。

ですが、谷口雅春先生も「生長の家」も天皇国であった日本に誕生しました。
それには、とても深い因縁があったのだろうと感じでいます。

5194a hope:2015/02/27(金) 12:09:52 ID:cEpBaIdo

(a hope まとめ)

「生命の實相」第16巻 
二 神社と信仰より


【神はその宮を毀(こわ)されたら神罰を当てるか?】

<<谷口――本当の神様なら神罰は当たらないはずです。本当の神様は神の宮の中にいられないから神の宮を毀(こぼ)っても神自身は汚されようがないのです。神は神の宮が毀(こわ)れたり、立派になったくらいで、自分の神聖さが殖えたり減ったりするものではない。だから神にとっては神殿の立つも毀れるもおなじことです。それほどの神様であってこそ尊いのです。>>p59 2行目〜



【ではわれわれ人間はなぜ、宮や神殿を拝するのか?】

<<われわれが神殿を拝するのは自分の信仰を外に出して形に顕してそれを拝むことになるのです。・・・(略)
・・・それと同じく心のうちにある信仰を外界へ投影(うつした)して拝みたいという人間の要求が宮を作り神殿を構え、神体を安置することになるのです。>>p59 8行目〜



【宮や神殿は実在か影か?】

<<実在の神は霊であって物質に憑(よ)るものではありません。その宮は、人間が実在の神をわが心に反射して、外の形ある姿に翻訳し客観化したのです。画家が「実在の美」を感得する程度にもいろいろあり、その程度に従って絵の形が変わってくるように、人間が神を感得する程度にもいろいろあり、その程度に従って、神の宮や、神体にもいろいろ形が相異してくるのです。>>



【神社が『鏡(かがみ)』を御神体とし拝する理由】

<<われわれが神を祭祀するのに一点「私」の姿を映さないで、立ち向かうものすべてを自分の内に映す「鏡」を御神体として拝するということは誠に意義のあることだと思います。神はすべてを包容して無相(すがたなし)であると同時に、拝む人の心のとおりに顕われ給うのですから、鏡をもって象徴するのが相応(ふさわ)しいのです。>>

5195a hope:2015/02/27(金) 12:12:48 ID:cEpBaIdo


>>5194 a hope所感)

近年、日本各地に点在する小さな神社などが老朽化し朽ち果てていく様子を見ていると、
なんとなく神さまの罰が当たりそうな気がしてしまいますが、
そんな状態であっても本当の神さまは罰を当てるということはないのですね。

その時代の人間の信仰を形に顕したものが宮や神殿であるのならば、現在のわたしたちがその信仰を継続しないのであれば、
その宮や神殿は朽ち果てていってしまうのが当然の結果なのかもしれません。

ですが、当時の人々の念(業)が流転していることを思えば、もし現在も継続してその宮や神殿を信仰し続けるのであれば、
その宮や神殿を拝してきた人々の真剣な信仰態度や伝統を尊重して同じように祭祀し続けるのが当然だと思います。

そういう意味で、今回の雅宣先生の総本山の「鎮護国家外し」や、「ご祭神の変更」は善くないことだったのではないかと感じます。

5196トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/02/27(金) 13:00:50 ID:cw0xKYtE
>>5195

a hope様のご意見に同意します。

と、言うか、こういう祭祀を弄ぶ行為をしたら、それなりの事が起きると危惧しています。

5197a hope:2015/02/27(金) 21:31:41 ID:cEpBaIdo

>>5196 トキさま

<<こういう祭祀を弄ぶ行為をしたら、それなりの事が起きると危惧しています。>>

本当ですね。
神罰は決して起こりませんが、人間の念の憑依は十分考えられますものね。

雅宣先生は「生長の家の教え」のみならず、今までの「生長の家」の伝統的な祭祀の方法なんかまでも自分勝手に変質させてしまっているので、
それまで真剣に伝統的な「生長の家」を信仰してきたたくさんの信徒の恨みを買ってしまっていますからね。

それに、総本山の祭祀の弄びともなると、過去に総本山を拝していて、
今は他界されたたくさんの信徒の方々霊魂の念をも巻き込みそうですね・・・・(◎_◎;)

ですからわたしも、雅宣先生やその方針に従う本部の方々などがその「恨みの念」の憑依を受け、
何か善からぬことが起こるのではないかと危惧しています。

というか、もうすでに「今の教え」を信仰していて、不幸な状態になってしまった人が何人もおられるのですよね?

すべての問題の根本的な原因は「生長の家」総裁である雅宣先生がご兄弟や分派の方々と和解せず、不調和でいるということなのだと思います。

雅宣先生には、ご自分自身とご家族と部下を守るためにも、一刻もはやくそのことに気づいてほしいです。

5198a hope:2015/03/01(日) 21:34:40 ID:cEpBaIdo

みなさま こんばんは

本当なら、2月が終わり3月に入りましたので第32回web誌友会を終了し第33回web誌友会を開会するのですが、
わたしの勝手でたいへん申し訳ないのですが、「生命の實相」第16巻をもう少し続けてお勉強させていただきたいと思いますので、
今月も第32回web誌友会を続けさせていただきます。

よろしくお願いいたします。 合掌


☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第32回 web誌友会 案内 (訂正版)

期間   2月1日〜3月31日まで
テキスト 「生命の實相」第16巻 人生問答篇 下
内容   人生の悩みを解く(下)
     
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

5199a hope:2015/03/01(日) 22:49:26 ID:cEpBaIdo

うのはなさま

独占板でweb誌友会の案内をご紹介くださりありがとうございます。

本当に最近はweb誌友会が地味になってしまいましたが、
わたしは聖典「生命の實相」の勉強は続けることに意義があると思っているので、
マイペースではありますが、これからもweb誌友会続けていかせていただきます。

うのはなさまがいつもわたしを応援してくださっているような気がするのはわたしの思い違いでしょうか?

うのはなさま、わたしは今でもうのはなさまが大好きですよ!
あまり無理をせず、これからもこの掲示板でご活躍くださいね!!

5200a hope:2015/03/01(日) 23:50:16 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第16巻 p63 6行目〜

谷口――心霊現象とは名前は心霊現象でも、実は半物質的現象なんです。全然心霊的である場合にはわれわれの五官にそれが見えてこないのですから、心霊現象は成り立たないのです。そこで心霊現象はその実、半物質的現象であるとしますと、この現象は物質的性質を多分に有した霊魂――いいかえると、物質的執着を脱け切らないでいる霊魂と、人格の低い霊媒とは親類筋になるわけですから、「類は類を招(よ)ぶ」の心の法則により、人格の低い霊媒には物質的心霊現象を起こす霊魂がおおむね感じて来るのです。

三枝――霊魂とは実際人間にかかってくるのでしょうか。 『生命の實相』の「創世記」の解釈(頭注版・携帯版では〈十一巻〉愛蔵版では〈六巻〉のこと)によりますと、人間は万物の霊長であるからいかなる霊魂にもかかられるものではないというようなことがありますが。

谷口――それはかかるという言葉の定義いかんによります。第一義的大自覚に入れば、人間は神の子でありますから、いかなる悪霊にもかかられるということはないのです。第二義的には、悪しき霊に憑かられるという信念をもつことによって、悪しき霊の波長に合うラジオ的受信機となり悪しき霊の霊波を感じて、悪しき霊の声を出し、悪しき霊の姿を感ずるのです。それはIOBKの波長に合うラジオの受信がJOBKの声を出し、その放送者と同じ言葉を喋るのと同じです。それは放送者と同じ言葉を喋るけれども、何もJOBKのアナウンサーはここに実際この受信機の側まで来て喋っているのでありますまい。それと同じで、悪霊が憑いて狐つきのような言葉でしゃべったりしましても、悪霊は実際人間に憑いてはいないのです。ただそこには悪霊が在るという夢と、悪霊に憑かれるという夢とがあるばかりです。すべてこの世の悪しきものは神の創造の繁栄ではなく、迷いが反射した白日夢です。

5201a hope:2015/03/01(日) 23:54:06 ID:cEpBaIdo

>>5200 a hope所感)

第一義的大自覚、つまり「人間神の子」「唯神実相」の自覚に到れば、悪い波長と合うということは一切なくなりますから、
悪霊にとりつかれなくなるのは勿論ですが、悪念波を受けて病気や不幸になるということもなくなるわけですね。

この対話のあとに三枝さん御自身が、あまり程度の高くない霊(神)に繫らて、
「神懸かり」状態になった時のお話をされていて興味深いです。p67 後から6行目〜

そして、「神想観」をするために精神統一をするたびに、その霊が懸かって来て「神想観」の邪魔をする、と雅春先生にご相談されています。

このあと、雅春先生は「神想観」の精神統一と無念無想(無想観)の違いをご説明くださっています。p69 4行目〜

5202a hope:2015/03/05(木) 07:52:19 ID:cEpBaIdo
(a hopeまとめ)p69 

「無想観」と「神想観」の違い


○「無想観」・・・精神統一して無念無想になること
→自分で自己を支配する権利を放棄してしまうから、ポカンとしたり、ボンヤリし意識が朦朧となり、他からくる霊波に支配されてしまう


○「神想観」・・・ひたすら精神をあつめて神なる自己の本質を思うこと
→自己の善意識を完全に自己の支配下に置き、意識を明瞭にして一つのことに集中しているので、低級な霊にかかられることは断じてない

5203a hope:2015/03/05(木) 07:53:52 ID:cEpBaIdo

>>5202 a hope所感)

わたしは以前、何年間か、近くの禅寺の坐禅会に参加していたのですが、坐禅というのは、この「無想観」に近いのではないかと思います。

何度参加しても、足は痺れましたし、完全に無念無想の状態になるのはむずかしかったのですが、
ある日、偶然、わたしの坐る場所がその寺の高僧のすぐ近くだったことがあるのです。

その時だけはまったく足も痺れず、自分でも驚くほど意識が集中して、無念無想状態を体験できました。

あの時は、その高僧の高級な念波(氣)がわたしに影響していたのだと思います。

5204a hope:2015/03/05(木) 20:28:46 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第16巻 p70 3行目〜

谷口――「神想観」というのは心を集めて「生命の実相(ほんとうのすがた)」を想うことですから、必ずしも静坐せねばならぬということでもないのです。 『生長の家』を読むだけでも感激に満ちて、それに書いてある神の子としての自己生命の実相がピッタリと心に自覚できればよいのです。『生命の實相』を読むだけで病気が治るなどの例があるのはそのためであります。

釈迦は菩提樹下で静座している間中、悪魔波旬(はじゅん)に襲われていた。ところが、尼連禅河(ナイランジャナーかわ)で沐浴して心がサッパリした刹那、「なんじゃ『生命』はどんな行もしないでも、このままで完全じゃないか」と自己の「生命の実相」――神性が自覚できた。すると悪魔波旬は逃げてしまった。

ここが肝腎ですね。あなたのように、静坐式のものをすると、直ぐ、常に憑(かか)りつけの霊が憑って来て「神想観」のできにくいというのは、霊がまた憑ってくるであろうという予想や恐怖があるためにそうなるのですから、そういう人は、釈迦が菩提樹下の静坐を捨てて、沐浴一番自己の「生命の実相」を自覚した例に倣(なら)うべきですなあ。

釈然と自己の「生命の実相」さえ自覚(さと)れるなら、その方法はどれでもよいわけでしょう。常に聖典『生命の實相』を読むことを怠らず、我欲を捨てて他のために働いて働いて生活全体が捧げ切ったものとなられるとき自分と全世界とが一体だという「生命の実相」がわかってきます。これが一等穏健な自己の神性の自覚の仕方ですなあ。

5205a hope:2015/03/05(木) 20:30:00 ID:cEpBaIdo

>>5204 a hope所感)

わたしは「神想観」が大好きですが、たまに、雑念ばかり浮かんできてしまい充実した神想観ができない時があります。

そのような時はだいたい、仕事で嫌な事があったり子供たちのことで問題があったりして、
感情が高ぶっていたり、または反対に精神的に疲れきっていたりしています。

わたしは今回、上の雅春先生のご指導内容を読んで目からうろこが落ちました!

これからは、気持ちが乗らない時には静坐式の「神想観」は控えて、聖典「生命の實相」の拝読をするようにしたいです。

それにしても、やはり「生長の家」の信仰には聖典『生命の實相』の拝読は欠かせないようですね!

5206トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/03/06(金) 20:50:54 ID:1.Hn0ILE
>>5203

 谷口雅春先生が先導をされた「神想観」に参加された方の話では、
霊的な雰囲気が素晴らしく、初参加ですら奇跡が起きたと聞いています。

 霊的な体験も続出したそうです。

 あの圧倒的な雰囲気だけは忘れられない、と話しておられました。

5207a hope:2015/03/07(土) 22:36:05 ID:cEpBaIdo

>>5206 トキさま

谷口雅春先生は真理を大悟されたお方ですから、
それはそれは素晴らしい光明の念波を放っておられたのだと思います。

ああ、一度でいいからわたしも雅春先生に直接お会いしたかったな(≧◇≦)

5208K機関諜報員:2015/03/07(土) 22:58:21 ID:???

昨日、神想観をしていたときのこと。

瞑目合掌している自分を取り囲むような形で亡くなった両親やご先祖様が合掌し、
自分を祈ってくださっている姿をありありと観じました。

理屈抜きに「生かされている!ありがたい!」と思うことができました。

5209a hope:2015/03/07(土) 23:30:22 ID:cEpBaIdo

>>5208 K機関諜報員さま

素晴らしい神想観を体験されましたね!

わたしも、神想観がうまくいくと自然と感謝の気落ちが溢れてきて、
物事をとても前向きに考えられるようになり、体中に生きる力がみなぎってきます。

「神想観」って、ほんとに素晴らしいですね!!

5210a hope:2015/03/07(土) 23:32:19 ID:brQxC10.

>>5209訂正

感謝の気落ち→感謝の気持ち(笑)

5211a hope:2015/03/08(日) 12:04:42 ID:cEpBaIdo

(a hopeまとめ)

「生命の實相」第16巻 
五 祖霊祭祀の形式 (p71 〜 p77 )


Q1【祖先はいかなる形式で祀るのが本当か?】

A1○第一義的・・・神性を自覚した霊にとっては物質でこしらえたお宮や墓やお堂は不要である

A2○第二義的・・・サトリの境地に達していない霊魂には、宮を欲するものには宮を与え、仏壇を欲するものには仏壇を与えて供養して誠をつくすのが道である


Q2【子孫が祖先のもった宗教と同じ宗教でなくなった場合はどうなるのか?】

A1○第一義的・・・自由自在なわが「生命の實相」(神性)が把握された霊であれば、「ある一定の形式で祀ってもらわねばやりきれない」というようなことはない

A2○第二義的・・・①人間は皆が皆までサトリの境地に達しているわけではなく、完全でないサトリはどこかに片寄りがある、その偏寄(かたよ)りが流派となり宗派となって現れている。
②この偏りがある限り、霊魂になっても一つの宗派をもっている。
③しかし、霊魂もわれわれと同様の一個の人格であるから、生前にもっていた宗派を死後の悟りの程度によって改宗することがある。
④子孫が切実に一つの他の宗教に改宗したい内的要求にかられた場合には、祖先の霊魂の思念が子孫に感応してきている場合が多い。
⑤そういう場合にはその内的欲求にピッタリする宗派の形式でお祀りしてあげればよい。

※しかし、宗教に好き嫌いをしているようでは、まだ信仰に偏寄りがある

5212a hope:2015/03/08(日) 12:07:42 ID:cEpBaIdo

Q3【キリスト教徒が「生長の家の大神」を祈るのに矛盾を感じるが・・・】


A1○<<生長の家の神さまを祈るのと、キリストを礼拝するのと心のうちに矛盾をお感じになるのは、神に関する考え方に偏寄りがあるからです。個人の人間霊は別として、救いの神は一つだということが本当に自覚できていないからです。>>p75 8行目〜 

A2○<<キリストの神と「生長の家の神」とが互いに相容れないようにお考えになるのは、キリストの神だとお考えにならないで、他の神と対立的に存在するような小さな神だとお考えになっている傾きがあるからです。全包容的な神ならば、自己のうちにすべての神仏を包容して少しも矛盾を感じない神でなければならぬ。】p76 6行目〜



Q4【本当の神(全包容的な神・救いの神)とはどのようなものなのか?】


A○<<神はイスラエルだけの神ではない。日本だけの神でもない、キリストが出て来られない前にも人類は救われたのである。それまでは人間を救わずに放って置くような神ならば本当の神ではない。イエスのまだ生まれない以前や、イエスの名の及ばないどんな辺鄙な世界にさえも救いの手のとどいている神であってこそ、本当の神である。>>p75 後から7行目〜



Q5【本当の神はひとつなのに、地上にはなぜたくさんの神があらわれるのか?】


A○<<神の方は一つであるけれども、地上の人間の方は、国々および時代によって習慣や風俗や思想にいろいろ変化がある。そのために、神はその各種各様な人間が救いを受け容れるために時代および国々によっていろいろちがう神となってあらわれなければならぬのです。旧約時代の神とキリストの神とは、大いに変わっている。これは神が進化したためでなく、人間が進化したために神がそれに相応(ふさわ)しい姿で顕われたのである。>p75 後から2行目〜>



Q6【「生長の家の神」の出現の理由は?】


A○<<時代が変わってきて今までの宗教では迷信臭くて入れぬという人のために同じ一つの神ではあるけれども顕現を異(こと)にしてお顕われになったのが、「生長の家の神」であります。>> p76 4行目〜

5213a hope:2015/03/08(日) 12:09:27 ID:cEpBaIdo

Q7【生長の神の特徴は?】


A1○<<生長の家の神さまは、どの神を拝んではならぬとは仰せられない。どの神も同体であるから、どの神を拝んでもよいと仰せられています。>>p76 7行目〜

A2○<<この点においてキリストの神の神髄を伝えているのは「生長の家」です。この点において仏教の本当の神髄を伝えているのは、「生長の家」です。一切包容のすべての宗教の神髄を伝えているのは「生長の家」です。一切包容のすべての宗教の神髄を伝えるために神界に顕われられた一個の天使が――言いかえると一つの救いの霊波――生長の家の大神であるとすると、キリストの聖名(みな)と一緒に生長家の大神の聖名を称えても一向矛盾を感じないのは当然ではありませんか。>>p76 後から4行目〜



Q8【排他的な神は本当の神か?】


A○<<排他的な神は、本当の神ではなくて執着をもった人間の顕現であるか、そうでなければ本当の神をば信者が勝手に人間的に解釈して、人間同様排他的に伝えるのです。>>p76 後から5行目〜



Q9【生長の家の根本的お教え(本当の真理)とは?】


A<<本当の真理はみな一体というところにあるのです。人間も形の上では個人別別に分かれているけれども、「みんな一体」という真理がわかれば争いが無くなるのです。国家も「みんな一体」という真理がわかれば戦争の必要も各国の軋轢もなく、世界一つになるのです。「みんな一体」だということがわかれば、宗教上の争いも無くなるのです。ユダヤの神、インドの神、日本の神と区別して、彼の国の神は邪神などといっているのです。全包容的な神の前には、邪神としてその神に対立しうるものがないのです。みんな一体、宗教も一体、人間も一体、世界も一つ、別れているのは迷いであるというのが「生長の家」の根本的教えになっているのです。>>

5214a hope:2015/03/08(日) 12:13:05 ID:cEpBaIdo

>>5211>>5213 a hope所感)

p71〜77までの 「五 祖霊祭祀の形式」の所の文章を、Q&A式にまとめてみました。

聖典「生命の實相」の文章は座談会形式になっていたり、論文形式になっていたり、講演会形式になっていたり様々です。

この章は座談会形式になって、参加者の質問に雅春先生がお答え下さるという形でまとめられています。

今回は、わたしが自分自身の疑問を雅春先生に質問しているつもりになってこの箇所をまとめてみました。

ただ、漠然と通読するだけではあやふやだった、「祖霊祭祀に関する真理」がとてもよく理解できました。

特に、Q5の【本当の神はひとつなのに、地上にはなぜたくさんの神があらわれるのか?】と
Q6の【「生長の家の神」の出現の理由は?】いう二つの疑問への雅春先生のお答えは、「へ〜、そういうことだったのか・・・」と妙に納得できました。

世の中の状況がどんなに悪くなっているように見えても、人間の魂は進化し続けているということなのですね。

そしてQ9の【生長の家の根本的お教え(本当の真理)とは?】という質問のお答えにあたる雅春先生のご文章を拝読すると、
あらためまして全包容的な「生長の家の教え」のすごさが伝わってきます。  

感謝 合掌。

5215a hope:2015/03/09(月) 08:27:22 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第16巻 p77 後から3行目〜

水田――わたしは今まで神さまというものは近づき難いほど遠いところにいられる方で、どんなに人間が努力してもなかなか神さまのところへ近づけないように思っていました。それにいろいろの宗教でいう神さまとか仏様とかいわれる方が、みんな別々のようでありまして、宗派ちがいの神様を、拝んではならないように説かれる宗教家が多い。まるで神様というものが一つの宗教に立て籠もって排他的に争っているようなんです。そこに非常に矛盾を感じて苦しんでおったのであります。

ところが『生長の家』を読むと神様はもとは一つということが書いてある。そして千変万化せられて境に従い人に従うてお出でなさるためにいろいろの宗教、いろいろの神に顕われあそばされているということがわかった。それで今までのような排他的な神さまの間に挟まって苦しむということがなくなったのであります。

それにありがたいことには、今まで神様は遠いところにあるとばかり思っていたが、神様はわがうちにある、神さま!と一念を起こせば、そのままに通じ、神がわがうちに生きてくる。それはちょうどラジオのスイッチを一つ押せば東京の放送でもすぐ自分の内に来て響をたてると同じようなものであることを悟らせていただいて非常にありがたく、常住坐臥つねに神とともにあるありがたさを感じさせていただいてこんな結構なことはないのであります。

もとから、わたしは胃腸が常に弱くて・・・・(この後、体験談が続く)

5216a hope:2015/03/09(月) 08:30:54 ID:cEpBaIdo

>>5215 a hope 所感)

わたしが「生長の家」の信徒になろうと決心したのは、生長の家が「万教帰一の教え」だったからです。

<<ところが『生長の家』を読むと神様はもとは一つということが書いてある。そして千変万化せられて境に従い人に従うてお出でなさるためにいろいろの宗教、いろいろの神に顕われあそばされているということがわかった。それで今までのような排他的な神さまの間に挟まって苦しむということがなくなったのであります。>>

わたしも、聖典「生命の實相」を初めて拝読した時、上の水田さんとほぼ同様の感動体験をし、心が解放されたのを思い出しました。

ですが、いざ信徒になってみると、この「万教帰一の教え」や「人間神の子」を信仰しているはずの「生長の家」が内部分裂を起こし、
信徒同士が裁判で争ったり、悪口を言い合ったりしていました。

そしてわたしの求めていた、全包容的な「生長の家の大神」は雲隠れしてしまっていたのです。

5217トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/03/09(月) 22:45:49 ID:TIiLraUE
>>5216

 私が生高連時代はもちろん、青年会時代でも、谷口雅春先生の直弟子の方々が多数ご健在
でした。その先生方が、よく、

 「組織が大きくなったのは嬉しいが、教団の雰囲気が全然変わってしまった。」

と嘆いておられたのを思い出します。この原因はいくつかありますが、運動偏重というか、
教団内が形骸化、官僚化し、訳がわからないまま、運動を展開するような状態にあったの
は否定できません。教えへの信仰が、組織への忠誠へと変貌したと思います。「明窓浄机」
を拝読すると、谷口雅春先生ご自身も、同様のご感想を持たれていたと拝察します。

 やはり、基本に還るべきなのでしょう。

5218a hope:2015/03/09(月) 22:51:03 ID:cEpBaIdo
>>5213訂正

下の部分の{   }内の文章が抜けていました。m(__)m

Q9【生長の家の根本的お教え(本当の真理)とは?】


A<<本当の真理はみな一体というところにあるのです。人間も形の上では個人別別に分かれているけれども、「みんな一体」という真理がわかれば争いが無くなるのです。国家も「みんな一体」という真理がわかれば戦争の必要も各国の軋轢もなく、世界一つになるのです。「みんな一体」だということがわかれば、宗教上の争いも無くなるのです。ユダヤの神、インドの神、日本の神と区別して、彼の国の神は邪神などといっている{のでは、かくのごとき信仰を奉じている人がいかに迷いに捉われているかを暴露している}のです。全包容的な神の前には、邪神としてその神に対立しうるものがないのです。みんな一体、宗教も一体、人間も一体、世界も一つ、別れているのは迷いであるというのが「生長の家」の根本的教えになっているのです。>>

5219a hope:2015/03/09(月) 23:15:02 ID:cEpBaIdo

>>5217 トキさま

生長の家の教えの信仰の基本っていったい何なんでしょうか?

>>5218で訂正した文章の中に、

<<みんな一体、宗教も一体、人間も一体、世界も一つ、別れているのは迷いであるというのが「生長の家」の根本的教えになっているのです。>>

とありますが、「生長の家」の根本的教えが、みんな一体、宗教も一体・・・であるのに、
その生長の家が、教団と本流復活派に分かれていること自体、この教えに反していませんか?


別れているのは迷いである・・・・ 


もしかして・・・「生長の家」が 教団や本流復活派に分かれているように見えてしまうのは、わたしの「心の迷い」ということなのでしょうか?

本当は、別れてなんていないのかもしれない・・・

別れて見えるのは、わたしの「心の迷い」なのか・・・

別れてなんかいないのかもしれない・・・

5220神の子さん:2015/03/09(月) 23:57:38 ID:???
「生長の家」の根本的教えが、みんな一体、宗教も一体・・・であるのに、その生長の家が、教団と本流復活派に分かれていること自体、この教えに反していませんか?

貴女も教団と別れているでしょう。人のことは言えないですね。『救い』とは何でしょう。救われたとはどんなことなのでしょう。
私には本流派の方たちは教にとらわれ『自由』になっていない人のように見えますが。

5221大和撫子:2015/03/10(火) 09:20:18 ID:???
現象世界において.「教団」と「本流」に別れているとスクリーンに映って見えても、魂の奥底の願いは誰しもが本来は真理を求めてやまないのだと感じます。

5222大和撫子:2015/03/10(火) 09:26:58 ID:???
いろんな見方考え方かあると思います。
この考え方が絶対に正しいというのはないと思います。
天皇國日本實現のために、通らなくてはならない過程かもしれません。
現象世界に別れて映って見えても、そこにとらわれ頭脳智において、何とかせねばと考えてはならないと思います。

5223トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/03/10(火) 10:14:09 ID:7hgdBF1o
>>5219

a hope様

 「基本」というのは、私自身は、「信」ではないか、と考えています。
藤原俊之先生は、よく信仰で一番大事なのは、「信」である、と言われて
いました。

 教団が分裂しているのは寂しい事ですが、これはよくなるための一過程
ですから、その意味では心配はしていません。

5224神の子さん:2015/03/10(火) 19:13:14 ID:???
>>5221大和撫子さん
魂の奥底の願いは誰しもが本来は真理を求めてやまないのだと感じます。


魂の底は神でありますから何も求めてはいないのでありませんか?満たされないものがあると云うことを感じるものは本来存在しない自我ではないですか?

その自我で、何かを信じるのが『信仰』なんでしょうかね。「信仰で一番大事なのは、「信」である」なんて言っている人がいますが、『全てが在ると云う実感』

の人には『不足感』はないですよね。『信』は『自覚』に至る過程でしかないと思うのですがいかがでしょうか。

『全てがある』と信ずることと『全てがある』と自覚する事とはまるで違うと思うのです。

5225大和撫子:2015/03/10(火) 22:00:21 ID:???
神の子様

私の知人に教団を辞めた方かおられました。
その方がこうおっしゃいました。
「甘露の法雨をしっかりあげたり、神想観をしているから救われるとか、願いが叶うという考えが間違えていることに気づいた。そうでないの。私たちは、みな救われ続けていて、すでに神が内在していて、私たちがその自覚に気づいてないだけ」

その知人の話と、神の子様の言われた事がダブってしまいました。
信じることの言葉の意味は、信じなくなる可能性が含まれます。
私たち自身が神であり、それを常に実感し生活していく中に自覚が生じていくのでしょうね。

私自身は、その自覚を深めるため神想観を実修します。
神様が内にあるからこそ、神様を求めてやまないのも事実だと思います。

5226レイ:2015/03/10(火) 22:13:20 ID:1ThqK4Lc
しつも〜ん(^o^)/

生長の家の神様についてどなたか良かたら教えてくらはい。
生長の家の主斎神・副斎神は何か?
神想観は生長の家の大神(住吉大神)に対して祈るって事で良いですか?

『生長の家30年史』の102P〜103Pでは…

さて吾々生長の家の団体では、心に宇宙大生命を祭るのであります。その宇宙大生命と云う文字の下に括弧して「(ソノ幽之幽ナル神トシテ天之御中主神、幽ナル神トシテ天照皇大神、現人神トシテ天皇)ヲ礼拝ス」と書いてありますが、

次に宇宙大生命即ち宇宙大生命の道を現わし、日本国威を発揚し、国体を明微にするところの導きの神様として心の幽斎する副斎神として生長の家の大神を礼拝すると云うことをハッキリ本尊の項目にあらわして置きました。
この生長の家大神とは誰方であるか、生長の家大神と云う文字の下に括弧をしまして、(『古事記』、『日本書記』に現われたる住吉大神)と申しました。


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