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Web誌友会 板/2

5160a hope:2015/01/31(土) 19:42:36 ID:cEpBaIdo

>>5159 a hope所感)

今回のテキストである第15巻の最後(p192〜204)に「業の流転」についての説明があるのですが、ここのところのご説明は、
唯物論者や、「生き通しの生命」を信じていない方々には、とても理解しがたい内容なのではないかと感じています。

わたしは以前、仏教に興味をもって少し勉強したことがあるのですが、その時にはまったく「無我」「無所得」の意味が解りませんでしたが、
今回、雅春先生のここのところのご説明を拝読して、やっと意味が通じました。

ですが、真理の「意味が解る」のと「悟る」のでは全く違うと思うのです。

『無我、無所得であることが悟れて、個生命が我執で執着しなくなったとき、現象界のフィルムは自動的に淀みなく回転し、一駒一駒のフィルムは全巻のフィルムの中に融け込んで一体となり、そこに現象界なるスクリーンには完全なる生命的映画が映ることになるのであります。』

現象界が上に抜粋した文章のような状態になって、自分の前に地上天国が顕われたとき、その時が本当に悟れた時なのですよね・・・。

「雅春先生のお書きになった聖典や愛国書をそのまま後世に伝え残すこと」も「生長の家」にご縁があった信徒の大切な使命なのかもしれませんが、
わたしはそれが雅春先生の本当の御遺志ではないと思うのです。

「わたしたち信徒一人一人がその聖典の真理を学び続けることで、雅春先生のお悟りに少しでも近づき、人類を光明化し続けること。」
それが雅春先生が一番お望みになっていることであり、本当のご遺志だったのだとわたしは理解しています。

今現在、雅春先生の聖典が地上からすべて消え去ってしまったわけではないのですから、
今手に入る聖典を熟読し、雅春先生のお悟りに少しでも近づくこと、それが一番雅春先生がお喜びになることなのだとわたしは信じています。


ところで、今日で、1月も終わりです。
明日になりましたら、第32回 web誌友会を開会させていただきます。

感謝 合掌。


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