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Web誌友会 板/2
5030
:
トキ
:2015/01/11(日) 22:39:07 ID:DdasF.5E
>>5025
a hope様
本当に、その通りです。しかも、なりすましをするような人が
青年会の先達を自称するのですから、驚いています。
こういう人たちに関わり会わずに、真摯に谷口雅春先生の教えの勉強
をしましょう。
5038
:
るん吉
:2015/01/12(月) 09:03:52 ID:???
>>物質もある、心もある」という二元論に引っかかって、現象界が変にみだれて集金が集まらなくなったり、商売がうまくゆかなかったり、歯痛(はいた)が酷くなった数氏の実例
現象有り、という説(妄説)を心に受け入れると、とたんに 上記のようになっちゃうんですね。
・・・・・
5039
:
a hope
:2015/01/12(月) 10:03:18 ID:cEpBaIdo
>>5038
るん吉さま
そうなのですよ!
だから、わたしは4年前からそのことに警告を発しているつもりなんです。
当初は本流宣言掲示板へ投稿していましたが・・・
雅宣先生のご文章や祈りの言葉の内容は現象や物質を認めてしまっているんです。
現教団の運営はうまくいっているのでしょうか?
病人が増えてはいないでしょうか?
人間関係はどうでしょうか?
心が調えば環境(現象)もおのずから調うというのが、本来の「生長の家の教え」なのだと思うのです。
そして、その教えを広めるのが人類光明化運動ですよね。
それなのに雅宣先生は人間の犯した罪だとか欲望だとか、破壊されつつある自然だとか、
そのような暗い現象面を最初に見つめるところから、運動を出発させてしまっているから、
その認めた通りの現象がこれからどんどんあらわれてきてしまうのだと思うのです。
よくこういうと、雅春先生も人類が苦しんでいる姿(現象)をみて人類光明化運動を始められたという方がいらっしゃいますが、
これは、復興Gさまもおっしゃっていましたが、まったく違うと思います。
雅春先生には最初に、完全円満な「実相世界のお悟り」があったのです。
そのお悟りの心(明るい歓びの心)を人類に伝え、地上天国を実現したいという使命感から立たれたのです。
雅宣先生の運動とは全く違うとわたしは思っています。
5040
:
曳馬野
:2015/01/12(月) 13:04:24 ID:???
本当に、その通りです。しかも、なりすましをするような人が
青年会の先達を自称するのですから、驚いています。
訊け本人が何も言わないうちからなりすましだと判断し、削除と云いだすこの不思議さ驚き桃の木山椒の木
トキ=訊け なんかな そして教団の大幹部
5047
:
a hope
:2015/01/12(月) 15:38:54 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」 第15巻 p123 後から4行目〜
谷口――わたしは誌友の方に、推しつけがましいことをいっさいしようとは思っていません。「生長の家」は誌友が助かるために出現したのであって、わたしの生活費が助かるために出現したのではないのですから、誌友が自分で進んで聖典を欲しいと申し込まれるのでなければ送ろうとは思いません。
そうでないと義理に縛られて聖典をとるというようになられると「生長の家」で説く道が立たなくなるのです。誰かのためになるということが、そのためになったことをいいがかりにして、あとでその恩義でその人を縛るようなことにでもなると、始めからその人のために尽くさずにいればよかったということにもなるのです。
「生長の家」の生きる道は、人間を縛る道ではなくて、いろいろのものから縛られているその縛りからその人間を解放する道なんです。医学や衛生に縛られている人なら医薬や衛生から解放する、人相や家相に縛られている人なら人相や家相から解放する、因縁に縛られている人なら、その因縁から解放する。職業に縛られている人なら、その職業を乗り越えてなお生きる道があることを示す。
こういうように人間の生命を縛っているあらゆる束縛を解き放って「生命」本来の自由さを奪還させるのが「生長の家」の道なのですから、「生長の家」が誌友に対して少しでも押しつけがましいことをすれば、たとい聖典の売れ行きはよくなり、経済的に、「生長の家」が大きくなっても「生長の家」の道が立たなくなるのです。
5048
:
a hope
:2015/01/12(月) 15:40:56 ID:cEpBaIdo
(
>>5042
a hope所感)
この第四章の対談も、まだ、雅春先生がバキュームオイルカンパニーでお仕事をされながら、「生長の家」誌を発行されていた時のようです。
野田氏(第三章に出てこられた野田氏と同一人物でしょうか?)が雅春先生に、今の仕事をやめて「真理」の執筆に専念した方が、
「生長の家」も発展するし、「生長の家」の生き方にかなっているのではないかと、提案されています。
何年か後には雅春先生はそうされたようですが、当時はその提案を否定され、
<<人間の生命の偉大さは、その仕事の形の大いさで計られるべきものではないのです。欧州全土を征服したナポレオンの事業よりも、本間俊平氏が困れる人に与えた一足の草鞋(わらじ)の方が尊いのです。>>p138 後から8行目〜
といわれ、ナポレオンも偉大だけれども、それよりも、キリストが『兄弟のいと小さき者になせる愛の行為はわれにしたのと同じことである』
と言われたように、本間俊平氏のごとく今の自分にできることをして、目の前の困った人を助けることこそ、
神の御心にあった生き方であると教えてくださっています。
[
「生長の家」の信仰の基本ですね!
5059
:
a hope
:2015/01/12(月) 17:13:52 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第15巻 p140 5行目〜
谷口――
(略)
「生長の家」の生活が我の生活ならわたしの定めたように進んでも行きますが、聖意(みこころ)を行わんがために出現した生活であるこの生活は神のみこころに従って千変万化するほかはありません。
我で貫きとおす自信と、大生命にバックされて大生命の流るるままに動く自信とがあります。ナポレオンの自信が前者ならば、「生長の家」の自信は後者です。
時が来ればわたしは会社員生活を止(よ)すことにもなるでしょう。また止さないかもしれません。いずれにせよ、それは雑誌を大きくするという野心のためにするのでは普通の雑誌業者になってしまいます。
わたしが今会社員でいるのは、人類全体が今はまだわたしに普通の会社員生活をしながらでも、自分も生き、人も助け、万人に光を与える生活ができるという範例を示してくれと望んでいるからです。
もうそんな範例は十分見せてもらったから、今度は会社員でない生活も見せて欲しいという人類の声がより多くなってくれば自然に神催(かんもよお)しでわたしの生活は変わってくるのです。それは自然に神催しにです。「我」で変えるのではないのです。
「生命」はどういう形でいけねばならぬということはない。大生命に押し流されて生きる時最も自由なのです。形の方は「執して執せず」です。形というものは影であるから執する必要はないのです。「生命」が主です。「生命」さえわれかくのごとくして生きるという筋道が立っているなら、形は千変万化してもよいのです。
その反対に形は一つを貫いていても、形を維持することに「生命」の方が支配されていてはその人の生活は生きたものではありません。そうかといって形の方をむやみにやり方を始終変えてゆくのかというとそうでもないのです。しっかりと自分の魂の底に死んでも死なない生きとおしの生命が自覚されてきますと、自然に時に応じた最も適当な生き方ができてくるのです。
「我」の力で焦る生活、力む生活、こうでなければならぬと形を極(き)めすぎた生活は、ある時期は大いに生長してもやがては行き詰まるのです。幸いにして、その人が死ぬ瞬間までは行き詰まらないにしても、そのいよいよの瞬間には行き詰る。ナポレオンも行き詰り、豊臣秀吉も行き詰ったのです。いわんや雑誌経営の夢は捨てなければならないでしょう。われわれは死の時になってさえも行き詰らない生活をしなければならないのです。
形には執して執さず、ただわれわれの「本当の生命」が影を映して進む生活なら、死んでさえも行き詰らないのです。
5064
:
a hope
:2015/01/12(月) 17:17:23 ID:cEpBaIdo
(
>>5059
a hope所感)
「生長の家」の生活は、神催しの生活で自由自在なのですね。
<<「我」の力で焦る生活、力む生活、こうでなければならぬと形を極(き)めすぎた生活は、ある時期は大いに生長してもやがては行き詰まるのです。>>
『都会ではいけない、森でなければいけない』って本当に「生長の家」の生活でしょうか?
5067
:
a hope
:2015/01/12(月) 17:18:31 ID:cEpBaIdo
閲覧者のみなさま
わたしの雅宣先生批判などの投稿が気持ち悪ったら、読まないようにしてくださいね。
身体によくないですから・・・
ところで、今までずっと観察してきましたが、わたしが、聖典の真理に照らし合わせて雅宣先生の教えを批判すると、
曳馬野さまが激しいアラシを開始されるようです。
(わたしの思い違いならごめんなさい)
曳馬野さまって、初心者さまやさくらさまにソックリですね。
5077
:
神の子さん
:2015/01/12(月) 17:33:03 ID:3/GnsEUs
これほどしつこく妨害する曵馬野さんは
この掲示板に素晴らしい投稿があると認めているんですね。
5078
:
a hope
:2015/01/12(月) 17:35:12 ID:cEpBaIdo
トキさま
いつも、お世話になっています。
わたしは、曳馬野さま(「訊」さまを名乗る)から何を言われても大丈夫ですので、
ご心配なさらないでくださいね。
まだ、どれだけアラシが続くかわかりませんので、削除は明日にでもまとめてしてください。
トキさまの優しい心遣いには、いつも心から感謝しています。 合掌。
5099
:
a hope
:2015/01/13(火) 08:20:40 ID:cEpBaIdo
>>5067
訂正
曳馬野さまって、初心者さまやさくらさまにソックリですね。
↓
曳馬野さまって、初心者さまやさくらさまとされることがソックリですね。
誤解を招く発言をし、申し訳ありませんでした。
わたしは、曳馬野さま=初心者さま=さくらさま だとは思っていません。
ただ、お三方とも、聖典「生命の實相」の真理が蘇ると都合が悪いお立場にいる方なのかもしれませんね。
5103
:
a hope
:2015/01/13(火) 21:01:02 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第15巻 p147 3行目〜
肉体の年齢は仮の年齢であって、本当の年齢ではない。本当の人間の年齢はその霊魂の年齢である。霊魂の年齢とは、どれだけその人間が真理を悟ったか、「実相の人間」に近づいたかということで定(き)まるのです。
5104
:
a hope
:2015/01/13(火) 21:04:05 ID:cEpBaIdo
(
>>5103
a hope所感)
以前、このweb誌友会で霊界篇をお勉強しているときに、
神の子さんが小林春恵先生の「わが信仰の旅路」を紹介してくださいました。
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1358650232/3670
その時は、トキさんや志恩さんもいろいろ春恵先生のお話を紹介してくださったりしたので、
わたしも興味をもったので、「わが信仰の旅路」を拝読してみました。
そして、衝撃を受けました!
なんと、春恵先生は、20歳年下の小林昭三氏と結婚されたのですよね!!
当時、そういうことは珍しいことだったと思いますが、
「生長の家の教え」では『肉体の年齢は仮年齢であって本当の年齢ではない』とありますから、
春恵先生も、昭三氏もその真理をよく悟られていたのでしょうね。
また、この第5章には、楠野という青年が登場して、自分の恋愛問題を雅春先生に相談しています。
当時の「恋愛」は当事者同士の問題にとどまらず、家族、親せき、霊学者なんかまでも関わってきていて、
なんだか大変そうです(;´∀`)
今の日本では、不倫や離婚があたりまえのようになってしまっていますが、この章を拝読していると、
当時は、今ほど恋愛の自由がなかったかもしれませんが、
現代よりも、もっとずっと純真な美しい恋愛をする人が多かったのではないかと感じます。
5106
:
神の子さん
:2015/01/14(水) 00:15:53 ID:???
1908 :神の子さん :2015/01/13(火) 23:46:42 ID:???
>>1905
レイさん くだらんレスするな。汚物は消毒だ〜!
管理人を真っ先に消毒しなければなりません。なりすましはいかんと速攻消毒にかかった管理人でありましたが、
1901 :トキ :2015/01/12(月) 12:41:18 ID:A3MA1f1M
>>1900
曳馬野 様 あらあら、とうとう、うのはな様まで攻撃の対象にしましたか。うのはな様、味方と思っていた曳馬野 様が裏切りました。 の投稿に対して何もしない。
一日半何もしないと云うことは、なりすましではないと云うことになります。となりますと独占版でうのはなさんが、この一連のやり取りについて正しく読んでおられる。
管理人は簡単な内容を敢えて、『裏切りました』という言葉を使うことで、荒れる版にしようと自らしたことになります。管理人の価値が全くないと云うことになります。また
>>1901
の投稿者「トキ」なるものがナリスマシであるならば、消毒の措置に出るのが管理人の一貫性から当然であります。然るに削除の行為はしない。ナリスマシを肯定している。
どちらにしても版が荒れればよいと云う行動をトキ管理人自ら採っているのです。
こんな管理人に護ってもらいながら投稿したい、いくら気取っても腹の中は詮索好きの、人を軽蔑する傲慢な人間、a hopeさん
5107
:
a hope
:2015/01/14(水) 09:26:34 ID:cEpBaIdo
>>5105
曳馬野さま
わたしが詮索好きだと見抜かれたようなので、それならば、正々堂々と反論させていただきます。
本当に雅宣先生が「生長の家」の教えを正しく法燈継承されていて、
教えの神髄を変えることなく時代に合わせて説いていらっしゃるのであれば、
わたしのこの掲示板での雅宣先生の教えへの「批判」など、なんの影響力ももたないと思います。
曳馬野さまや初心者さまやさくらさまは、雅宣先生の教えが、
本来の「生長の家」の『光明思想』とは真逆の『暗黒思想』であるとわかっていて、
敢えて援護されているのではないですか?
その目的は何ですか?
5110
:
a hope
:2015/01/14(水) 21:57:08 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第1巻 p152
「言葉」でこの世界に健康を満たせば、この世界の人類が健康になる。「言葉」でこの世界に光明を満たせばこの世界が光明化される。「生長の家」は実にこの「言葉の力」によって人類生活を健康化し、幸福化し、光明化せんがための「神の国運動」であって、「生長の家」の発行部数がふえるほど、この世界に「善き言葉の力」がふえることになる。
「善き言葉の力」がふえればそれだけ人間の心が光明化し、地上に浮動している人間の「想念波動」が光明化し、いっさいの現実的悪の種子(たね)が浄められ、キリスト教でいえばキリストの再臨、仏教でいえば弥勒菩薩下生、すなわち地上天国建設の時期が早まることになるのであります。
こうして「コトバの力」の見地から考えてみますときには「生長の家」のコトバの力によって人類生活を健康化し、幸福化し、光明化しようという運動に相反して、いかにこの世界にはコトバの力によって人類を不健康化し、不幸化し、暗黒化そうという運動が多いことでしょう。
毎日日本国中に合計なん百万なん千万という発行部数をもったジャーナリズムは皆いちようにこの人類生活不健康化、不幸化の運動に味方しているようにみえる。全世界でいうときは十数億の発行部数に達するジャーナリズムが毎日コトバの力で人類生活を不健康にするための印刷物をバラまいていることになる。
新聞紙の大半は栄養剤と薬との広告で埋まっている。その広告は「おまえたち物質で造られた人間よ、おまえたちはこの薬を飲まないと治らないぞ」「この栄養剤を飲まないと健康になれないぞ」とおどしつけている。
これは新聞が広告料という金のために牽制されて「悪しき言葉」の力の宣伝に利用されているからであって、こんな広告を読めば読むほど、われわれ人間が神の子だという信念、物質ではなくて生命であるという信念が失われて、人間は物質であるから永久に薬物の奴隷として永久にその前にひざまずくべきものなりとの烙印を押されることになるのであります。
5111
:
a hope
:2015/01/14(水) 21:58:58 ID:cEpBaIdo
(
>>5110
a hopeまとめ)
「コトバの力」の見地から考えてみる『光明化運動』と『暗黒化運動』
『光明化運動』――「生長の家」のコトバの力によって人類生活を健康化し、幸福化し、光明化しようという運動
『暗黒化運動』――『おまえたち物質で造られた人間よ』という「悪しき言葉」の力によって人類を不健康化し、不幸化し、暗黒化そうという運動
5112
:
a hope
:2015/01/14(水) 22:03:38 ID:cEpBaIdo
>>5108
曳馬野さま
<<そんな息子を敢えて副総裁にし、組織を任せた清超先生の行動は、なんと評価しますか貴女は。>>
わたしには、当時の清超先生のご意志はまったくわかりませんから、お答えしようがありません。
<<それよりも復興Gさんが去って後、あなた以外誰が参加されていますか誌友会に。>>
トキさま、訊けさま、志恩さま、るん吉さま、SAKURAさま、トンチンカンさま、
最近は忙しそうで参加が少ないですが、ユタカさまなんかが参加されていますよ。
曳馬野さま(仏心さま)だってこうして参加されているではないですか・・・
それに、書き込みはされなくても、何人もの閲覧者の方がご覧になってくださっているとわたしは信じています。
だから、わたしは、曳馬野さまに「傲慢」と言われようが、「強情」と言われようが、「臭い」と言われようが、
トキさまのお許しがある限りこのweb誌友会を続けたいと思います。
わたしは、大好きな聖典「生命の實相」をここで学ばせていただくことで、
本当の「生長の家の教え」が何なのか明らかにしたいだけなのですから・・・。
曳馬野さまこそ、何の目的もないのであれば、どうぞお体に障りますから、
こんな傲慢なわたしの「臭い」投稿はもう読むのをおやめになって心安らかにお過ごしください。
「臭い物には蓋」という諺もありますから、曳馬野さまにはトキ掲示板自体をご覧にならない事をお勧めいたします。
ご自愛くださいね!
5117
:
トキ
◆AXzLMGIbhk
:2015/01/15(木) 10:14:34 ID:t.y68kmc
a hope様
いつも素晴らしい御文章を書いてくださり、心から感謝申し上げます。
web誌友会でのご活躍は、管理人としても嬉しい限りです。
最近、悪意に満ちた投稿者が、心ない投稿を繰り返しておりますが、
無視してください。釈尊やイエスキリストがお悟りを得る前には、悪魔
が現れて妨害をしたとお経や聖書にはあります。
真理について書かれて、妨害投稿がある、ということは、内容が正しい
という事です。
これからも、よろしくお願いします。
合掌 ありがとうございます
管理人敬白
5118
:
神の子さん
:2015/01/15(木) 10:19:10 ID:???
5113 :神の子さん :2015/01/15(木) 02:02:29 ID:???
そういう寝言は部室版
>>2502
と少し前からの訊けのもの読んでから言ってね
こんな人間、本流よりはるかに心の汚い人間を生み出したのが、生長の家なんだ
自らはお高く留まるけれど心は低い、そんなトキ&訊けに感応する貴女 すばらしいです
5119
:
a hope
:2015/01/15(木) 23:36:37 ID:cEpBaIdo
>>5117
トキさま
あたたかいお言葉をありがとうございます。
「生命の實相」がこんなにも素晴らしい聖典でなかったら、
わたしはここでこんなに長くお勉強させていただいてはいないと思います。
<< 真理について書かれて、妨害投稿がある、ということは、内容が正しい
という事です。>>
わたしは、聖典を拝読し、謹写して、そのことへの感想を述べているだけですが、
いつかは、自分自身の口から直接「真理」が語れるようになりたいです。
この掲示板では、トキさまがいつも見守ってくださっているので安心してお勉強できます。
こちらこそ、これからもどうぞよろしくお願いいたします。
感謝 合掌。
5120
:
a hope
:2015/01/16(金) 20:00:15 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第15巻 p148 後から6行目〜
有名な観相家石竜子(せきりゅうし)も「人相は信仰生活に入らないまでの人には的中するが、信仰生活に入った人には的中しない」と言っています。人相も、姓名も、家相も、体相も、健康状態も、およそ形なるものは、われわれの過去からの念の集積の形象化(かたちにか)したものであります。
(中略)
人間は生まれると一定の姓名を与えられ、また大体一定の人相も備えられていますが、これはその人間の霊魂が現世に生まれるまでの過去生活において得たる念の集積(業ともいいます)が形に出てるのであって、業というものは自動的に流転する一種の波動ですから、われわれが自身の生命の実相を自覚し、真理を悟って超越しない限りは、業の自転する力によってわれわれの運命は生まれた時にはすでにその大体が定(き)まっているといってもよいのです。だから、 人相を見てその人の運命を言い当てることができる――これは当然であります。
ところが病気とか不幸とかを起す念は妄念であるが、妄念に捉われている人から観れば厳然たる存在でありますのは夢見ている人にとって夢が確乎たる存在であるがごとくでありますが、真理の上から言えば根柢のない存在であります。なぜなら神はそのような病気とか不幸とかを造り給わないから、それを起す念も真存在ではなく、偽存在、空しき虚の念、妄念なのであります。
だから真理を知り、自分の生命が神の子であって事情円満なものであるという実相を自覚すれば、業の流転から超越することになるのです。そうなさりますと、その人の運命は観相家が観ても当たらない、姓名判断の大家が観ても当たらない。自分の「生命」が自由な世界へ出て過去に捉われない自由創造を続けてゆくからです。
この自由創造の働きとして人相もそれに追随して変わってくることもあり、姓名も自然に変えたくなり、変わってくることもあります。
(中略)
心をあとにして形ばかりを追うている者は、とんだ失敗を演ずるものです。心が整い、自然に人相のよくなるような人は、また自然に善い家相に住むように事情が運(めぐ)って来、善き家相の家が誂(あつら)えたように見つかるとか、今までの家に住んでいても、自然に、物のならべ方や造作の仕方などにも、生き生きとした光明が見えて来、家相が一変してしまうのであります。だからこの変化というのはどこまでも真理を知った上での自由創造の働きとしてそうなってくるのでなければなりません。
「人間の生命は形に縛られるものだ」という迷いに捉われている結果、姓名を変えられるような方は、いかに姓名を変えてもやはり不幸が付随しますので、この姓名も欠点がある、あの姓名も欠点があるといって、始終転転として姓名を変えながらなお安住を得ないで、その不安の念がさらに次の不幸を起す集積となることがあります。
姓名が「生命」を支配するのではなく、あらゆる現象は「生命」が進軍して行く際に周囲に投映した念の影でありますから、「生命」こそ主なのであります。生命の自由創造として人相が自然変わるならば、それもよろしい。生命の自由創造として善い家相にすむようになれば、それもよろしい。生命の自由創造として改名したくなったり新しい屋号や仮名や雅号(がごう)をつけたくなるならば、それもよろしい。しかしいかなる場合にも、われらは「生命」が主であって、いっさいの形相は従だということを知らねばなりません。
5121
:
a hope
:2015/01/16(金) 20:01:37 ID:cEpBaIdo
(
>>5120
a hope所感)
わたしは昔から、「占い」の類にはほとんど興味がありませんでした。
「今日の○○座の運勢」とかTVなんかでやっていますと、あえて見ないようにしていました。
当時は「自分の運命は、自分で支配したい」という気持ちが強かったのですが、今は「わたしの運命は、神さま任せ」という心境になってきました。
<<心をあとにして形ばかりを追うている者は、とんだ失敗を演ずるものです。心が整い、自然に人相のよくなるような人は、また自然に善い家相に住むように事情が運(めぐ)って来、善き家相の家が誂(あつら)えたように見つかるとか、今までの家に住んでいても、自然に、物のならべ方や造作の仕方などにも、生き生きとした光明が見えて来、家相が一変してしまうのであります。だからこの変化というのはどこまでも真理を知った上での自由創造の働きとしてそうなってくるのでなければなりません。>>
「真理」を知って心が整えば、こちらから求めなくても、自然に幸福がやってくるということのようです。
そのためにやるべきことは、『聖典を拝読』して、『神想観』をして、周りの人に深切を尽す(『愛行』)こと、つまり「生長の家」の三正行ですね!
5122
:
るん吉
:2015/01/17(土) 13:54:56 ID:p..UGkhA
a hopesama
ずーっと読ませて頂いてますよ。
有難うございますねっ。
5123
:
a hope
:2015/01/18(日) 00:25:16 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第15巻 p159 4行目〜
谷口―― (略)
真にあなたと民子さんとが誓ったとおりに純情で愛し合っているならば、二人の心は一年や二年離れているだけでは変わらないでしょう。今民子さんを遠山さんが郷里へ帰されたのは遠山さんの心では、あなたたちの恋愛が本当の永続性をもったものであるか、一時の浮気の熱病であるかをわからすためです。
別れているうちにお互いに気が変わるようでは浮気な出来心で本当にそれは神の結び給いし縁ではなかったのです。そこにあなたたちの前にテストが置かれてあるのです。今あなたたちの幸福のためにこのテストをパスしなければならないのです。
楠野――(切なそうに)一年も二年も、二人はわたしたちの愛が永遠性のものであるということを人々の前に実証するまでは会えないのですか。
谷口――恋するもの同士が逢いたいのは無理もない。その時期はもっと早く来るでしょう。あなたは倉田百三氏の戯曲『出家とその弟子』を読んだことがありますか。あの戯曲のなかで、唯円坊と「かえで」とが恋をする、恋して二人は会いたくてたまらないけれども相手の幸福を希(こいねが)って逢わないで耐えしのんでいる場面がある。会いたくて会いたくてたまらぬけれども、相手の幸福を欲して会わないでいる心持ちには、会いたくて会う心持よりも、いっそう深い愛と美が輝いている。肉体の会いたさに打ち克っている。
それには感覚的な騒がしい美はないけれども、魂の静かな美がある。ここからのみ本当の明るさが来るのです。こうして魂が整ってから、その心の反影として肉体の世界が整う。こうして得られる男女の結ばれ方が本当の結ばれ方なんです。
楠野――よく解りました。目が覚めたようです。行手がハッキリしてきたようです。先生のおっしゃるように努めます。(小声で)皆様失礼いたします。(退場)
5124
:
a hope
:2015/01/18(日) 00:27:33 ID:cEpBaIdo
(
>>5123
a hope所感)
正直に言えば、この第五章のここのところの楠野青年の恋愛相談を拝読していて、わたしは楠野青年と民子さんを気の毒に感じていました。
二人とも離婚歴や女性遍歴はあったとはいえ、お互いに当時は独身で、普通に考えれば恋愛するのも自由なはずなんですが、
ここでは、まわりの人々に過去の行動なんかを評価され、無理やり一時的に別れさせられてしまったという結果になってしまいました。
昔の恋愛というのはみな、そんな感じだったのでしょうか?
ですが、
<<会いたくて会いたくてたまらぬけれども、相手の幸福を欲して会わないでいる心持ちには、会いたくて会う心持よりも、いっそう深い愛と美が輝いている。肉体の会いたさに打ち克っている。
それには感覚的な騒がしい美はないけれども、魂の静かな美がある。ここからのみ本当の明るさが来るのです。こうして魂が整ってから、その心の反影として肉体の世界が整う。こうして得られる男女の結ばれ方が本当の結ばれ方なんです。>>
という雅春先生の素晴らしいいお言葉を読んだとき、恋愛においても「環境は心の影」「肉体は心の影」という真理は普遍なんだな〜と納得しました。
でも、まてよ、わたしはそんな恋愛を今迄に経験したのだろうか・・・
もちろん、主人とは恋愛結婚でしたが、そこに「魂の静かな美」があったのだろうか・・・
あらためてチャレンジしてみようかな・・・
そして、主人に「また君に恋してる」なんて言わせてみようかな・・・(笑)
5125
:
a hope
:2015/01/18(日) 00:31:45 ID:cEpBaIdo
>>5122
るん吉さま
あたたかいお言葉をありがとうございます。 合掌。
また、いつでもご参加くださいね!!
5126
:
a hope
:2015/01/20(火) 00:14:39 ID:cEpBaIdo
「生長の家」第15巻 p172
平井―― (略)
人の転住に方角の吉凶、男女の相性の吉凶、生年月日による吉凶、事を始めるのに日の吉凶があるのでしょうか?
谷口―― 人間は神の子であってひとりひとり宇宙の中心でありますから、どの距離へ対しても無限でありまして、本来東西なく南北ないのであります。だからどちらを向いても、みんな善い方角であるのが真理なのであります。
周囲がいかに暗くともわが行く先に光明を必ず見る、われ自身が光明であるからだというのが「智慧の言葉」にありますが、そのとおりでありまして、人間は神の子でありますから、どちらの方角を向いても皆善い方角なのであります。
また「思い立ったら吉日」という諺が昔からある。この諺は真理をうがっているのでありまして、人間は思い立ったときに恐れることなく断行する、この恐るるところなく断行するところに鬼神も避くる誠が出てくるのであります。
(中略)
方角の吉凶も、日の吉凶もみんな自分の心に在る。出かけしなに、今日は悪い方角へ向いて行かねばならぬ、何か悪いことが起こらねばよいがとふと思う、――あとは忘れて別に気にかけないでも、最初に「今日は悪い方角へ向いて行く」と思ったときに、心の力でその方角が悪くなっているのであります。
その代り「今日はよい日だ」と思えばその日は必ず善くなる。「智慧の言葉」に「天気の小言を言うな」と書いてあります。「日の小言」も同じことである。神のお創造(つく)りになった日に、悪い日などというものは一日もない。どの日も皆善い日である。方角でもみんな善い方角である。
世間では人間には健康者と病人とがあるという。しかし「生長の家」ではあらゆる人間は神の創造(つく)り給うた神の子であるから、みんな健康者であって病人は無いという、人間に病人があるのは迷信だという。人間が病気に見えているのはその迷いが影を肉体という鏡に映しているのだという。そして真理を悟らして人間本来無病完全の神の子だという真理に悟らしたとき今までどうしても治らなかった病が消える。その実例は『生長の家』誌友の中にたくさんある。
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