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Web誌友会 板/2

5159a hope:2015/01/31(土) 19:37:37 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第15巻 p199 後から1行目〜

・・・過去世の業のうち、善くないものとしてわれわれの主として持ち越して来るものは、(一)個我をありとする念、(二)物を有りとする念の二大業であります。これが我欲の根本となり、たいていの人は本能的に個我を有りとして愛するがために、「物」本来ありと思うがために、「我」に少しでも「物」を所得せしめておかなければ自分自身を保護することができないと思い、己を愛し己を保護せんとして、遮二無二突貫して行きますから、自分自身を愛するのに邪魔となるもの、自分から「物」を持ち去ろうとするものに対しては、それを憎む念、憤る念を誘発しやすい傾向をもっております。これを業の催しと申します。・・・

(中略)

・・・この業の催しの中心力となるものは「個我を有りとする念」と「物を有りとする念」とでありますが、本来われわれは大生命と一体であって、個我はない、実在するいっさいは霊的大生命の所現であって、「物」は無いのでありますのに、なぜ、「個我」をありと思う念が起こり、「物」がありと思う念が起こったかと申しますと、現象界というものは、時間空間の縦横組み合わせのフィルムの上に映し出されますので立体写真的に写され、フィルムの一駒一駒中の映像を空間的に実在すると思い違いしやすいのです。その結果は一駒一駒を全体としての一つの流れに融け込ますことを惜しく思うのであります。・・・

(中略)

・・・つまり、個我と個我の所得に執着するときは、現象界は善い具合に順調に運ばないのであります。それで釈迦は「個我は無い」「所得はない」「無我」「無所得」ということを強調されたのであります。無我、無所得であることが悟れて、個生命が我執で執着しなくなったとき、現象界のフィルムは自動的に淀みなく回転し、一駒一駒のフィルムは全巻のフィルムの中に融け込んで一体となり、そこに現象界なるスクリーンには完全なる生命的映画が映ることになるのであります。

一駒一駒のフィルムが全巻のフィルムに融け込むとは、無我になって全体のために、または愛他的のために奉仕するということです。人を救い国のために尽す時のわれわれの心持ちの何物にもたとええぬ快さはここからくるのであります。この時には過去の持ち越しの自利的我欲的な業に縁を与えませんから、そういう業の催しは起らず、いったんかかる善業を積んでおきますと今後同様の縁が与えられる場合には前の善業が働き出して比較的容易に全体奉仕または愛他的の行為ができます。・・・


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