したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2

1410閲覧者99:2013/11/17(日) 09:51:15 ID:YicepKDo

>國弘昭義 先生「尊師の御悲願実現に向けて」

 これって、タイトルからして光明思想に満ち溢れていますね。
 素晴らしいです!これだけで聖典百回読んだような気分になります。

1411トキ:2013/11/17(日) 10:26:45 ID:KiO9057.
 不況が長引いているせいか、お商売の事で困っている人が多いです。

 私の身近にいる生長の家の人で、商売が順調な人に話を聞くと、

 『生長の家は感謝の教えですから、それは、もう、感謝をするしかない」

と言います。従業員に感謝、お客様に感謝、地域の人に感謝・・・・から
果ては、机や椅子にも感謝というレベルになるみたいです。お金にも感謝
です。

 また、他人の幸せを祈る事。徳積みも大事。周囲の人に深切にする事。
先祖供養も大事です。

・・・・という事でした。

1412閲覧者99:2013/11/17(日) 11:28:51 ID:Pg6t4V.2

昔、生長の家公式サイトで繁栄体験談かなにかそんなところで、ある社長さんが
マンションの役を住民の中から抽選で選ぶということになったとき、ひとりのおばあさんが
「私があたったらどうしよう」と困惑している姿をみて、その社長さんが
「私がやります」と決意決断して、役を引き受ける申し出をしたという話を読みました。

 他の人への攻撃が許せなかったとか、そんなことを「男気」「大義名分」だと思ってる人は
事業環境悪化。世の中はそんなものなのだって、妙に納得しますね。

1413a hope:2013/11/17(日) 11:47:13 ID:/9IAdiFk

>>1411 トキさま

わたしも、まことに天地一切のものに感謝することができるようになった時、
すべてがうまくいくようになるのだと感じています。

でも、「感謝します。」「ありがとうございます。」とただ言葉で表現したり、
心で思うだけでは本当ではないですよね。

心の底から「あーありがたいな〜」「幸せだな〜」と湧き上がってくるような『感情』を伴わないと、
まことの感謝ではないですよね。
その状態に自分の心を持っていくように努力するのが「生長の家」を信仰するということなのではないでしょうか?

教団に所属していても、「学ぶ会」さまや「ときみつる會」さまに所属していても、
いのちを守る親の会に所属していても、また、たとえどの団体にも所属してなくても、
この「生長の家の感謝の教え」を忠実に信仰されている方がまことの「生長の家」人なのだとわたしは思います。

そして、神のご加護(すべてがうまくいく状態)というのも、どの団体に所属していようがいまいが関係なく、
その信仰心が厚い方であれば、誰でも公平に受けられるのではないかと感じています。



>>1407でトキさまが、『生命の實相』の拝読の仕方について、

<<私が先達から言われたのは、『公案を持ちなさい」という事でした。公案とは禅宗の言葉で
すが、自分なりのテーマを持ちなさい、という事かと私は理解しました。これは、生命の実相
を拝読する時にも無関係ではないかと思います。『何か困った事があれば、生命の実相を読みなさい。
生命の実相の中には必ず回答が書いてあります。書いてなくても、読んでいるうちに、自分なり
の答えが浮かんで来ます。」という先達もいました。
 漫然と読んでいるのと、何か目的とか動機があるのでは、生命の実相に限らず、本を読む
熱意は違います。
 ですから、古い信徒さんで、信仰がマンネリ化した人は、調べ物をするつもりで、日常生活
の中で、自分や周囲の人に生じた疑問や問題をテーマに、生命の実相を拝読するのが良いかと
勝手に考えています。>>

と書かれていますが、楠本加美野先生編纂の『人類無罪宣言』や『信仰の活人剣』『わたしは無限能力者』などは、
まさに楠本加美野先生が『ご公案』(テーマ)を持たれて『生命の實相』や他の聖典から編纂されたものであると思います。

その中の『わたしは無限能力者』の編者はしがきに、とても心に響く箇所があったので、
あとで時間のある時に聖典引用板に謹写させていただきます。

1414トキ:2013/11/17(日) 12:55:12 ID:KiO9057.
閲覧者99 様

 お役を引き受けた社長さんは、ご多忙なのに決断をされたのでしょう。
こういう小さな事が、大きな幸せにつながると思います。

1415トキ:2013/11/17(日) 12:57:39 ID:KiO9057.
a hope 様

 おっしゃる通りですね。生長の家では、よく「ありがとうございます」を1000回とか
10000回とか唱える、という行を勧めます。外形から入って、内心に写る、という発想み
たいです。笑いの練習などもそうです。大事なのは、内心だと感じます。

1418うのはな:2013/11/17(日) 19:13:07 ID:qpZ7SNkk

 まあ、あたくし、日時計24今月号の「よい生活習慣を造り出す祈り」を
 暗記中だったんでしたわ。
 珍文家同士、波長があうときがあるんですねえ。
 谷口雅宣先生、ありがとうございます。

1419うのはな:2013/11/17(日) 19:14:09 ID:qpZ7SNkk

 良い生活習慣を創り出す祈り に訂正します。

1420流氷:2013/11/17(日) 20:24:14 ID:HOn6WDMY
      今・ここで天地は創造されている

 『古事記』と五十音の持つ緻密な体系性、すなわち階層性と統合性には、誰しも
息をのむほどの美を見出すはずだ。だがそれと同時に、このような創世神話を知ることに何の意味があるのかと
いぶかしく思う向きもあるだろう。

 これについて、小笠原孝次氏の『言霊百神』は、『古事記』に描かれた宇宙創造は遠い過去に起きたものではないと説明する。

 それは歴史的考古学的に遡った歴史以前の未開時代に有るわけではない。生物学的に原形質、アミノ酸の発生の期に有るわけではない。
天文学的に星雲の回転の出発点に有るわけでもない。宗教的に要求された神と云う意志的存在が遠い昔に創造を開始したわけのものでもない。
 宇宙の始まりは常に今、此処now hereに存在する。これを中今(続日本紀)と云う。
今と云う刹那の時点、此処という空間の質点に、意識としての、自覚としての人間の生活と云わず、文明と云わずあらゆる営みの出発点がある。

 つまり、今この瞬間である「中今」において宇宙は絶えず創造され、「中今」においてその創造の源へ帰還するというのが言霊学における『古事記』の理解である。
そして、これは現代の量子力学の考え方にもつながってくる。
 量子力学では、「無」では、常に電子と陽電子の対生成や対消滅が起きていると説かれるが、これは「中今」における創造並びに創造の源への帰還と相似の現象だといえるだろう。

 そこで生じる電子や陽電子は対消滅によって瞬時に消滅してしまうが、「対称性の自発的な破れ」が起こることで消滅を免れたものが質量を持つことになり、物質として産み落とされる。
その「対称性の自発的な破れ」とは、『古事記』の創世神話と五十音の構成における対称性の破れと同様のものと考えていいだろう。
 ここで、量子力学の理論と神話の構造とをそのまま関連づけることに疑問を呈する人がいるかもしれない。

 だが、宇宙の構造がミクロの原子からマクロの太陽系、銀河系を貫いて相似性を持つ事実を考えるなら、『古事記』と五十音には、無から有を生み出す仕組みが組み込まれていると考えても
決して間違いではない。それは森羅万象どんな物事にも適用可能なはずだ。
 人の意識はこの「中今」において、思考や感情の創造と消滅を目撃し、天地自然はこの「中今」において生命の誕生と死を包容している。
その構造を言霊として意図的に活用するなら、天地自然と感応して祈りを叶えることも可能であろう。

 そう、無の世界からわれわれは日々創造され、無の世界へと消滅している。そして、言霊百神はどこか遠くに存在するのではなく、まさに今この瞬間に、
われわれの内に生き生きと働いているのである。
 『古事記』そして五十音に通じることは、その創造と消滅のプロセスへ意識的に参入することにつながるのだ。

 『言霊はこうして実現する』 大野靖志 著

1421流氷:2013/11/18(月) 12:14:04 ID:lR6g/IpA
                 言語エネルギー研究所ブログから

 先日とある神社に行きましたら、「生命(いのち)の言葉」と書かれた神社庁が発行する短い紙片に、「未だかつて邪は正に勝たず」という菅原道真の言葉が載っていました。

真実でないものは必ず廃れる運命にあります。どんなに隆盛を誇っても、それが時代に合わなければ消えていきます。ある時期はよくても、たまたまそれが時流に乗っていたというだけで、その時々の微細な変化を感じることができなければ、虚を掴むことになります。

この激動の時代に勝者が出てくるとすれば、それは、これまでの概念における勝者、つまり、戦争に勝った、富を得た、出世した、などという旧来の価値基準で計れないことは確かです。本来の意味での正、真実(=神)を掴んだ人が勝者となり、新しい時代をつくることでしょう。

1422流氷:2013/11/18(月) 12:16:52 ID:lR6g/IpA

 『生命の實相』が原動力
 http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/17775753.html

1423トキ:2013/11/18(月) 20:31:00 ID:pV28pxMg
 信仰を始めて間もない人の場合、神想観が苦手だ、という人は多いと思います。
しかし、『甘露の法雨」は読めるという人は多いと思います。

 この『甘露の法雨」は、大変功徳のあるお経で、これを仏前で読む事でいろいろ
な奇跡が起こっている事は、皆様が承知の通りであります。このお経は、仏教や
キリスト教の聖職者がご覧になっても感心する内容であります。

 ただ、ご自分のご先祖にあげるのは良いですが、関係のない霊にあげると、
どんどんいろいろな霊が集まり、収集がつかなくなります。自分に縁のない人の
霊を祀りたい場合は、生長の家宇治別格本山の霊牌に書いて、納めるのがよい
とされています。

1424トキ:2013/11/19(火) 22:07:31 ID:YitZ16MA
 生長の家の本来の任務は、『救済」であります。これは、時代が変わっても変化はしません。
環境や政治も大事ですが、それよりも『救済」はもっと大事です。

 さて、救済と言っても、何をしたら良いか? というのは問題です。

 やはり、真理を伝える事が大事でしょう。しかし、一言で『真理」を伝える、と言っても、
容易な事ではないです。イメージがわかない、という人も多いでしょう。

 ポイントを一つあげると、谷口雅春先生は、「他人を変えようと思うな。他人を喜ぶよう
な事をしなさい。」と言われました。普段から他人に深切な事をしておくことが大事です。
もちろん、無理な事はしなくてもいいです。出来る事でいいのです。(このあたりは、
『菩薩は何をなすべきか」を読んで下さい。)

 そういう事の積み重ねが、他人を動かし、信頼を得て、教えが伝わる基礎になります。

1425うのはな:2013/11/19(火) 23:00:15 ID:/V8VI2EM
783 :うのはな:2013/05/06(月) 15:56:04 ID:U7JnXV5.> 訊けが宇治観光へ行く前に

 邪霊をひきつけやすいみたいだから気をつけてください。

 榎本先生の御文章より

 神想観は神が為し給うということは、神想観は神であるということである。無の門関において、一切を光りとして放って、中心に霊なる自己なるものの復活を受くるとき、その自己なる霊なるものの合掌の内に、渾べての渾べてなるものが持されているのである。至大無外(しだいむがい)にして至小無内(ししょうむない)なるものが握られているのである。

784 :トキ:2013/05/06(月) 17:43:25 ID:eaw/TCPU>>783

迷っている霊はひとつもない。

汝迷える霊よ、と呼びかけてはならない。

霊が迷っているのではなくて、自分が迷っているのである。

藤原敏之先生が引用された谷口雅春先生のお言葉。

785 :うのはな:2013/05/06(月) 18:41:07 ID:EebPmb4M
わたしは宇治でもどこでも邪が背景にある人、霊障を受けてる人を
多数しってるから書いたのです。
 神想観中に「行け」とささやきが聞えた、自分の子どもの大量夜尿は
他の人のせいかのように迷っている人もいるようなので。

786 :うのはな:2013/05/06(月) 18:45:18 ID:VupkP9xU  トキさんへ

 訊けが藤原先生の練成会を引きあいにだして、ぼくは悪くないと主張しているようですが、
このひとは、もともと論点がずれています。
 他の掲示板で、ふつうの信徒だったらこう考えるが、それが理解できないようだとか
 評されていたと思いますが、話にならないかんじがするので、
 この話題を振って来ても、まともに相手にしないでください

1426うのはな:2013/11/19(火) 23:02:08 ID:/V8VI2EM
784 :トキ:2013/05/06(月) 17:43:25 ID:eaw/TCPU>>783

迷っている霊はひとつもない。

汝迷える霊よ、と呼びかけてはならない。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 しかし、どなたかが、宇治の慰霊塔から悪い波長の者が出ている話を
 書かれていましたねえ。

1429閲覧者99:2013/11/20(水) 13:25:17 ID:2EZyrckE

 やこぜん http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=623

1430トキ:2013/11/20(水) 14:32:23 ID:LuR7Ta0I
>>1425

 御質問、ありがとうございました。

 先祖供養については、「人生を支配する先祖供養」の27pに『先祖に迷える霊と呼びかけてはならない」
という趣旨の話が書いてあります。これに対して、詳説 神想観のp34から36には、迷える霊について
の注意が書かれています。矛盾するようですが、私の考えではそうではないと思います。

 先祖供養で供養をされる御霊様は、肉体を持っていません。霊ですから、聖経の意味も肉体を持っている
私達よりもすぐにお分かりになります。この点は人生を支配する先祖供養の76pをご覧になればお分かり
になると思います。そういう方々には、悪霊云々の話は無関係であり、また、迷える霊よ、とよぶのは
害があれ、益はないのであります。

 これに対して、私達は肉体を持っていますから、その分、迷う事もあります。変な波動にひっかかると
おかしくなる事例は、「詳説 神想観」の35pに書かれています。

 これを要するに、肉体を持たない人と持つ人では、注意するポイントが違う、という事かと考えています。

 ただ、これは、私が調べた結果ですから、異なるご意見の方は御教示をお願いします。

1431「訊け」管理人:2013/11/20(水) 15:36:54 ID:???

>>トキ理事長

 『「甘露の法雨」解釈』だったと記憶しておりますが、面白い例もありましたよね。『甘露の法雨』を読誦しますと、邪霊が守護霊に変ると云う・・・・おもしろい話です。

 今まで障りの因縁となっていた邪霊ですが、『甘露の法雨』をあげますと今度は、守ってくださる模様です。まあ、こんな話が雅春先生は、おもしろいですよね。以上、余談でした。



1432トキ:2013/11/20(水) 15:50:47 ID:LuR7Ta0I
>>1431

「訊け」管理人 様

 それは私も実際に見聞をした経験があります。詳細は言えませんが、悟りの程度の低い霊がよってきた
のが、甘露の法雨の功徳で心境が高まると、今度は自分を護ってくれるようです。

 その意味でも、聖経は真面目に読まないといけませんね。これ、私の反省です。

1434神の子さん:2013/11/20(水) 16:49:33 ID:???
部室板、廃止した意味あるのですか?
結局、他が荒らされるだけなような
>>1433のようなカキコは本人が自制できるかどうかに掛かっているので
アクセス禁止をしない本板としてはお手上げでしょう。

1435志恩:2013/11/20(水) 19:10:07 ID:.QY5jUA6
風呂で体を清めて簡単に邪霊が、落ちたり、
素人が、ちょっとばかしお経をよんだくらいで、
簡単に心を入れ替えて守護霊に変わる程度の邪霊は、もともと性格がおひとよしだったか、本当に”へっぽこ”程度の奴らですので、
その辺のところを、どうぞご承知置き下さい。

1439トキ:2013/11/20(水) 19:22:25 ID:LuR7Ta0I
 以下の投稿は、『あらし」投稿と管理人が認定し、移転しましたが、投稿者様から
真面目な意図で書いたものである、という申立があったので、復活いたします。

 投稿者様にはお詫び申し上げます。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

-----------------------------------------------------------

1433 :閲覧者99:2013/11/20(水) 16:28:45 ID:dPPQnKGQ
名前:部外者の友 投稿日: 2013/11/09(土) 18:43:00   〝○○○○○○○○○○”から悪い波長が出ているというトキ様情報
 
  部外者といっしょに貧民街ならぬ宇治まで行って遊んでい人の情報だけあって
 説得力がありましたね。


  
 http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=554

1440トキ:2013/11/20(水) 19:53:47 ID:LuR7Ta0I
>>1435

志恩 様

 例えば、生長の家宇治別格本山が聖地なのは、本山職員、練成会参加者、研修生、近隣の信徒の有志
など多数の人が、多数回、甘露の法雨を読んでいるので、清められていると思います。

1441神の子さん:2013/11/21(木) 17:53:07 ID:???

>>1440

>例えば、生長の家宇治別格本山が聖地なのは、本山職員、練成会参加者、研修生、近隣の信徒の有志
など多数の人が、多数回、甘露の法雨を読んでいるので、清められていると思います。<

これからは・・・大変ですね。

1442志恩:2013/11/21(木) 18:18:45 ID:.QY5jUA6
1440:トキ様

>> 例えば、生長の家宇治別格本山が聖地なのは、本山職員、練成会参加者、研修生、近隣の信徒の有志
など多数の人が、多数回、甘露の法雨を読んでいるので、清められていると思います。<<

それならいいのですけれど、
「大自然賛歌」経も毎日読誦していて、その上、雅宣様のお経を 念には念をいれて、
宇治では、皆さんで「写経」までしているそうですから、
プラス マイナス「0」に、なりは しまいかと......💦💦

1443トキ:2013/11/21(木) 18:47:40 ID:QIFJWRAU
>>1442

 研修生をしていた友人に尋ねると、やはり甘露の法雨と『新経本」を読む比率はかなり違うみたいです。

1444トキ:2013/11/21(木) 20:58:12 ID:QIFJWRAU
 最近、ネットをご覧にならない一般信徒さんから、

 『今度、新しいお経が生長の家でできたそうですが、あれは読まないといけないので
しょうか?」

とよく質問を受けます。尋ねる方は、出来れば読みたくない・・・というのが表情に
出ています。こういう場合、組織に居る人は、『読んではいけない」とは言えません。
また、争いがあるなどと説明をして、せっかく純粋に信仰をしている人達の心を乱す
のも良くないと思います。

 そこで、

 「あのお経は、聖経を補完するという意味合いのもので、聖経ではありません。
ですから、四部経を読んだ後、時間があればお読みなさい。」

という説明をする事にしております。まあ、四部経を読んだ後、何かを読みたいと
思う人はまずいないので、それで実質、読まない事になってしまいます。

 とにかく、聖経が大事でありまして、それをひたすら読む事が大事かと思います。

1445SAKURA:2013/11/22(金) 11:51:07 ID:LgWWHqv.
「トキ様」 へ   「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……  ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1444 トキ様の投稿コメントより

>> 「あのお経は、聖経を補完するという意味合いのもので、聖経ではありません。
ですから、四部経を読んだ後、時間があればお読みなさい。」<< (抜粋文)

■□????東京の知り合いの方は、毎日の時間の兼ね合いで…一例を申しますと 〜♫
今日は〜〜〜「聖経読誦…」の時間が無い時は〜〜〜短いお経の「讃歌…」とか??
更に「讃・歌…」は分かりやすい表現ですので、今までわからなかった“意味”が簡単にわかった!!
…と?言っていました。…が?

以前は、かなり【分派の方達…】から・ある面では“振り回された!”ようですので……、
そうこうしていますと、久しぶりに再会しますと、モ〜〜〜ウ!以前のような“輝いた顔”ではなく、
相当の心の葛藤でしょうか? 神経質のようなイラ!イラ!感が伝わって来ましたのです。…が?

私達と【再・会】してから、その後!元気を取り戻したような感じです。今では、彼女の「信仰生活」は
生き! 生き! 〜〜〜生き!している様にも見えますが???何分にも、近くにいませんですので、
何処まで御本人の“心…真実”かは、???明確には当然!分かりませんモノ〜〜〜ネ!
やはり思いますに【すべて…心で物事を決めていく事】を見ていて、私も実感した次第なのです。…が!!

■□ 『 甘露の法雨 』の中にも、やはり“心の事…”を説いています。(以下、抜粋投稿)

神が一切ののものを造りたまうや
粘土を用い給わず 
木材を用い給わず
槌を用いたまわず
鑿を用いたまわず、
如何なる道具も材料も用い給わず、

ただ「心」をもって造りたまう。
「心」はすべての造り主、
「心」は宇宙に満つる実質、
「心」こそ「全能」の神にして遍在したまう。

この全能なる神、
完全なる神の
「心」動き出でてコトバとなれば
一切の現象展開して万物成る。
万物はこれ神の心
万物はこれ神のコトバ
すべてはこれ霊、
すべてはこれ心、
物質にて成るもの一つもなし。
物質はただ心の影、
影は見て実在と見るものはこれ迷い。
汝ら心して迷いに捉わるること勿れ。

■□この様に、すべて『 心はコトバから成り立ちます 』この様に、人の心は
全て千差万別化しているのでしょう!!
ですので〜〜〜「トキ様」は?投稿の内容から【讃・歌・は・意・味・が・な・い】と思えば?
それが❤【コトバ=言霊】ですから、あくまでも「トキ様の心の世界観…」でしょうか??

此処で、私は「讃歌…」を読み終えた時は、爽やかな気持ちになります??…が??
さらに「甘露の法雨…」は、正直!よく睡魔になって…眠くなるのですョネ!これは、読誦していく内に、
属に言います『低級霊が頼って来る!!』ということになるのでしょうか??

どうかしますと食いしん坊なのでしょうか?“食物…”が良く浮かぶのです。 
今にして思いますと〜♫ 先祖が何か私に伝えているのでは?この頃思います。…が?
それでも、やはり「聖経読誦…」は?毎日読んでいましても〜〜〜「低い霊…」が入って〜〜〜
来ましたら〜〜〜益々と“心=意志”を強くして読誦していきます…。逆に云いますと?眠くなる?…
この事は?先祖の方々も聖経に耳を傾けているということでありますから?“救い…”を求めている事に
なりますのでしょうか?

さて!こちらも場合により「讃歌…読誦」に切り替えていくような事が ><個人的ですが?
このごろ起きています次第ですかと…。読誦して爽やかな気持ちの事もあり〜♫この事は?
どういう事なのでしょうか? もしかしますと…「心を強く―意志力=イメージトレーニング」
この様になりますのでしょうか?? ボンヤリ〜♫ ボンヤリ〜♫ 考えながら……

■ですので「心での讃歌…」も〜〜〜♫ この様に含めまして……
【 聖・教・読・誦 】自体が……必ず!道が開けて行く事と、信じて行く事が〜〜〜
最終的には『 信・力 =コ・コ・ロ 』がいかに大事ではと!思う次第です。…が?

                         再合掌

1446閲覧者99:2013/11/22(金) 17:27:55 ID:IRtVZGfo

人間の生命は永遠不滅 谷口雅春先生
 http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/17786496.html

1447霊界人:2013/11/22(金) 18:07:54 ID:Axa1l47E
>>1446

人間は心において一体である。各人は光源の周りに置かれた百万の鏡のようなものでしかない。

信仰を持つ者は、自他一体の自覚を持つ。それゆえに、生死を超えて、高い心境において魂の共有を確認して喜ぶのである。

信仰深きものは神のごとくどのような小さきものも愛し、理解し、その働きを助けあうのである。

一枚の枯葉の舞うことさえ精緻な知恵と愛と生命の成せる技であると知るのである。

既に帰幽されて久しいが、今日は雅春先生の誕生日だった。

うのはな(閲覧者99)さん、よい記事を貼ってくれてありがとうございます。

重引:雅春先生曰く、

 人間は死なないんです。 これが生長の家の哲学であります。 およそこの世に生命を与えられた生きとし生けるものは、どんなに老いても死ぬことはないのであります。 死んだように見えた時に、それは新たなる境涯に新たなる幕を開いて、又、別なる舞台に活動するように準備がちゃんとできているのが、人間の生命であります。 これが人間の寿命であります。 人間の生命は無限であります。 皆さんの生命も無限であります。 私の生命も無限であります。


 いつか私がこの地上から姿を消すように見えたので、谷口雅春はとうとう亡くなったと思う時がくるかもしれませんけれども、決して亡くならないんです。 又、お目にかかります。 皆さんもその時には又別の立派な生き生きとした姿で現われておられ、そして再び会うことができるのであります。 再びどころではない、何回でも会えるのです。 神の子たる吾々は神縁深く、一度会った人に別れるということは決してないのであります。 必ず再び、三度、四度、繰り返し生まれてきて 〈氣がつかない人もあるけれども、それは神縁深く、吾々の兄弟姉妹として会った、全ての人の生命を表現している人達であります〉 会うことになるのであります。


 そういうように、『生命の實相』 という方から見るとですね、人間は死なないものだということが解るのであります。 皆さんも死なないのです。 私も死なないのです。 そして又、度々お目にかかる機会がきますから、その時にはやはり今日の如く大勢集まって、いや今日よりももっと広い会場ができて、そこに集まった御挨拶を申し上げ、その挨拶を受けて下さることになると信ずるのであります。


 私の誕生日の祝いにこういう話をするのは、私は誕生した時に生れたのではない、もっとズーッと前から生まれて、又、やがて死ぬ時があっても死ぬのではないのである、永遠の生命であるということを、皆さんに知って戴き、私の生命が永遠の生命であると同じように、皆さんも永遠の生命であるということを知って戴くためであります。 これが 『生命の實相』 の悟りであります。


 今日は私の誕生祭に大勢集まって下さいまして、有難うございました。 これをもって挨拶と致します。 有難うございます。


 昭和57年11月22日

1448閲覧者99:2013/11/22(金) 18:54:45 ID:8eQOPkmI

 これは貴重な映像ですね。雅春先生御出演「子供の教育」
  http://www.youtube.com/watch?v=rSZuFlHYhHY

1449トキ:2013/11/22(金) 18:55:25 ID:vSeQgxCk
うのはな様

 本日、谷口雅春先生のお誕生日に素晴らしいご文章を紹介して下さり、
深く感謝申し上げます。

 信徒の一人として、心から谷口雅春先生のご誕生をお慶び申し上げます。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

1450霊界人:2013/11/22(金) 20:03:09 ID:Axa1l47E
>>1448

うのはなさん、連続ヒット。

教育の要諦、真理は時代を超えて人間を導くので、観世音菩薩のように何回でも聴いて念々不離心とするべきです。

老婆心ながら、「子どもの教育」の後半を貼っておきます。

http://www.youtube.com/watch?v=LjTtX7DcsGs&amp;feature=player_detailpage

1451神の子さん:2013/11/22(金) 20:12:18 ID:raDj9y4A
>>1446

ありがとうございます。
私は雅春先生の御教えによって大きく人生が変わりました。
このすばらしい御文章を拝読しまして涙がでてまいりました。

ご紹介ありがとうございました。

1455SAKURA:2013/11/23(土) 00:11:01 ID:4bzfQCNk
「トキ様」 へ   「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……  ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1444 トキ様の投稿コメントより

>> 「あのお経は、聖経を補完するという意味合いのもので、聖経ではありません。
ですから、四部経を読んだ後、時間があればお読みなさい。」<< (抜粋文)

■□????東京の知り合いの方は、毎日の時間の兼ね合いで…一例を申しますと 〜♫
今日は〜〜〜「聖経読誦…」の時間が無い時は〜〜〜短いお経の「讃歌…」とか??
更に「讃・歌…」は分かりやすい表現ですので、今までわからなかった“意味”が簡単にわかった!!
…と?言っていました。…が?

以前は、かなり【分派の方達…】から・ある面では“振り回された!”ようですので……、
そうこうしていますと、久しぶりに再会しますと、モ〜〜〜ウ!以前のような“輝いた顔”ではなく、
相当の心の葛藤でしょうか? 神経質のようなイラ!イラ!感が伝わって来ましたのです。…が?

私達と【再・会】してから、その後!元気を取り戻したような感じです。今では、彼女の「信仰生活」は
生き! 生き! 〜〜〜生き!している様にも見えますが???何分にも、近くにいませんですので、
何処まで御本人の“心…真実”かは、???明確には当然!分かりませんモノ〜〜〜ネ!
やはり思いますに【すべて…心で物事を決めていく事】を見ていて、私も実感した次第なのです。…が!!

■□ 『 甘露の法雨 』の中にも、やはり“心の事…”を説いています。(以下、抜粋投稿)

神が一切ののものを造りたまうや
粘土を用い給わず 
木材を用い給わず
槌を用いたまわず
鑿を用いたまわず、
如何なる道具も材料も用い給わず、

ただ「心」をもって造りたまう。
「心」はすべての造り主、
「心」は宇宙に満つる実質、
「心」こそ「全能」の神にして遍在したまう。

この全能なる神、
完全なる神の
「心」動き出でてコトバとなれば
一切の現象展開して万物成る。
万物はこれ神の心
万物はこれ神のコトバ
すべてはこれ霊、
すべてはこれ心、
物質にて成るもの一つもなし。
物質はただ心の影、
影は見て実在と見るものはこれ迷い。
汝ら心して迷いに捉わるること勿れ。

■□この様に、すべて『 心はコトバから成り立ちます 』この様に、人の心は
全て千差万別化しているのでしょう!!
ですので〜〜〜「トキ様」は?投稿の内容から【讃・歌・は・意・味・が・な・い】と思えば?
それが❤【コトバ=言霊】ですから、あくまでも「トキ様の心の世界観…」でしょうか??

此処で、私は「讃歌…」を読み終えた時は、爽やかな気持ちになります??…が??
さらに「甘露の法雨…」は、正直!よく睡魔になって…眠くなるのですョネ!これは、読誦していく内に、
属に言います『低級霊が頼って来る!!』ということになるのでしょうか??

どうかしますと食いしん坊なのでしょうか?“食物…”が良く浮かぶのです。 
今にして思いますと〜♫ 先祖が何か私に伝えているのでは?この頃思います。…が?
それでも、やはり「聖経読誦…」は?毎日読んでいましても〜〜〜「低い霊…」が入って〜〜〜
来ましたら〜〜〜益々と“心=意志”を強くして読誦していきます…。逆に云いますと?眠くなる?…
この事は?先祖の方々も聖経に耳を傾けているということでありますから?“救い…”を求めている事に
なりますのでしょうか?

さて!こちらも場合により「讃歌…読誦」に切り替えていくような事が ><個人的ですが?
このごろ起きています次第ですかと…。読誦して爽やかな気持ちの事もあり〜♫この事は?
どういう事なのでしょうか? もしかしますと…「心を強く―意志力=イメージトレーニング」
この様になりますのでしょうか?? ボンヤリ〜♫ ボンヤリ〜♫ 考えながら……

■ですので「心での讃歌…」も〜〜〜♫ この様に含めまして……
【 聖・教・読・誦 】自体が……必ず!道が開けて行く事と、信じて行く事が〜〜〜
最終的には『 信・力 =コ・コ・ロ 』がいかに大事ではと!思う次第です。…が?

                         再合掌

1462閲覧者99:2013/11/23(土) 13:55:12 ID:mXRXQArw

意外と知られていない 『甘露の法雨』お守り 発売
      http://www.komyoushisousha.co.jp/pg360.html

1470神の子さん:2013/11/26(火) 13:09:42 ID:???

實相の完全な世界 ― 祈り合い神想観
http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32

1471a hope:2013/11/26(火) 19:42:42 ID:/9IAdiFk
本流対策板より転載させていただきます。

4645 :「訊け」管理人:2013/11/25(月) 16:00:16 ID:???


>>4636 a hopeさま

 お久しぶりです。いやさて、以下ですが、


>>>自分にとって一見「不利な出来事」や、「不幸に感じられる出来事」にも感謝できるようになってきました。<<<


 素晴しいですね。私にはなかなか、デキナイことです。・・・・・・(中略)・・・・・・いやところで、「私はなかなかデキナイ」などは、マチガイですね。これは、誤れる謙遜です。ですんで「私も実行できている」に訂正、致します(笑)
 ・・・・さて、それではこれに関連しまして、以下ご紹介します。テーマは「罪も光だ」というものです(!)ちなみにこんな言い方、「罪も光だ」なんて方便は聖典でも、出てこないモノです。おもしろい話です。

 いやさて以下は、以前訊けブログにもアップしたものです。音声ご講話の「榎本惠吾」先生なのですがおそらく、聖典のどこを探しても「掲載されてナイ言い方」です。(または、どこにもない「方便・対機説法です」)『生命の實相』を拝読されておられる方あらば、「おおっ!」と驚かれること、必至ですよ。さて、どんな内容なのか ―― どんな内容かと申せば既述のごとく、


 罪も「光である」


 と云うものです。榎本先生がそう、断言して乱舞(?)されておられます。ちなみにどうですか、こんな説明、聖典に御座いますか。(まあ、趣旨として同種のものはあれ・・・・こんな言い方&断言ぶりは、他にナイですよ)いや個人的には、すごく新鮮な説明でしたね、この、

 罪も「光である」


 との御主張は。

 非常に腑に落ちるご講話ですんで、まだお聴きになられてなかったら、どうぞ拝聴くださいませ。

――――――――――――――

○ 榎本惠吾先生ご講話「9」(パスワード「0000」)
http://ndrive.naver.jp/shareUrl/0gMtdF6wltY79N2MYfrdoQ2nktmZEwAnaQeoaUDlAuMCylfA-G5PQ3vwo5bKzl51Cg%3D%3D

――――――――――――――

(以下、榎本先生ご発言の趣旨)

○ 實相を包んでしまってるんじゃナイ!「包んで下さっている」んだ!
○ 罪は、包んでいても「光」なんだ!観世音菩薩が包んでくださっているんだ!
○  もう、「罪はナイ」を通り越して「光だけを認めていく」という生き方に(榎本先生は最近)なってきたんですね。「心がつつまれて實相が出て来なくて困る」という生き方じゃなく、もう、それを楽しんで、ですねえ、もう、「つつんでくださっているんだ」とね。
○  今まではニコニコマークを描いて、それを「罪が包んでいる」と説明して来たけれども・・・・
○  「自壊作用で清まっていく」、そんなコトバはキライだね。それではやっぱ、どこか私たちは喜べないね。やっぱり「なぐさめ」みたいになって、「今はよくない」ってことになるからね。「これで消えた」という、まあ、敵にまわしてケンカするよりはいいんだが、はっきり歓べないよね。

――――――――――――――

 ・・・・・こういう趣旨のご発言が、音声ご講話内にあったのです。榎本惠吾先生の徹底ぶりは、すごいですね。雅春先生の御文章もよいのですが、榎本先生の御主張はより、光明思想を鮮明なものにしてくださいます。いや、同先生の御主張って、

 「罪すらも『光』なんだ!」

 「必要なものなんだ!」

 ですよ。なにか、感激があります。「今までは實相を『包んでいる』と説明してきた『罪』だけど、『包んでくださっておられる!』とね」「必要なものだったんだ!と云うね」という、感じです。土・日にでも聴いてみてください。榎本先生もお話しになられながら、ご自身も感激し乱舞しているかのようです(笑)。オススメです。




(つづく)

1472a hope:2013/11/26(火) 19:43:43 ID:/9IAdiFk

4646 :「訊け」管理人:2013/11/25(月) 16:00:54 ID:???
(つづき)


追伸


 本文に関連するご講話は、「講話9」になります。ちなみに「10」のご講話内容も素晴しいです。簡単に以下、ご紹介致します。

(ご講話「10」最初)

 榎本惠吾先生が、宮崎県高千穂で神想観をされた際のことが述べられております。曰く「天孫降臨とは、雲を使って行われた」のだと。雲は通常、迷いの象徴として扱われますが、榎本先生、高千穂で神想観された際に「雲を活用したのではないか」との気づきを得られた模様です。雲(=迷い)すらも、必要なものだったのだ ―― そんな気づきを得られた、榎本先生です。(オモシロイ解釈です)


 (ご講話「10」18:30付近)

 「光が無くても大丈夫なんですよ。我々はただただ光を造る側にいる。神は光よりも先にいたのだから。自分が神として、造る側にいる」

 「過去の失敗を吹っ切ってはダメですよ。光として礼拝するのです。實相の神が責任を取ってくださる。神が常に責任を取る。過去の失敗も光です」

(24:11付近)

 「過去にやれたこと、やれなかったこと、どちらも正しかった。神さまは全部、『満点の卒業だった!』と言っておられる。現象の自分から自分がシタ、これだと満点にならない。落第の状況を認めたら、埋め合わせをせにゃならん。そしてそれに、ひきづられる」


<了>

1473a hope:2013/11/26(火) 19:50:07 ID:/9IAdiFk

本流対策室 >>2645 2646 訊け管理人さま

お返事ありがとうございます。
あちらの板ではすぐに上に行ってしまったので、こちら転載させていただきました。

ところで、榎本恵吾先生の ″罪も「光である」″発言は、正直ちょっとわたしには衝撃的でした。
だって、生長の家の教えでは「罪なし」ですからね。
それを、「罪も・・・」と発言してしまった時点で、罪を認めることになってしまうと感じたからです。
ですが、訊け管理人さまがまとめてくださってある内容を拝見して、意味がわかりました。
(ご紹介のご講話は、まだ拝聴していませんが・・・・)

<<「罪すらも『光』なんだ!」
 「必要なものなんだ!」
 ですよ。なにか、感激があります。「今までは實相を『包んでいる』と説明してきた『罪』だけど、『包んでくださっておられる!』とね」「必要なものだったんだ!と云うね」という、感じです。>>

ここは、素晴らしい解釈だと感じました。

つまり、わたしたちにとって「″悪″と見えるもの」や「″罪″と感じられるもの」は魂の成長に「必要なもの」であって、
「すべてが光なんだ!」ということになるのだと思います。

榎本恵吾先生に言わせれば、この「生長の家」の最悪と感じられる現状も、
「すべてが必要なことなんだ!」「すべてが光っているんだ!」ということになるのでしょうね。

すごいですね。ご講話を聴くのが楽しみです。

訊け管理人さま、素晴らしいご指導をありがとうざいます。合掌。

1474「訊け」管理人:2013/11/27(水) 07:02:30 ID:???


>>1473 a hopeさま


 ありがとうございます。良い反応を頂戴し、嬉しいです。たぶん貴女ならば、感激してくださると思っておりました。

 さて、今朝『甘露の法雨』を読誦していた際、「おや」と思った件があります。この、「罪も光だ!」に関連するのですが『甘露の法雨』にも、それらしき文言があったのです。それは、以下です。


――――――――――――――

真理のみ実在、
無明(まよい)はただ悟らざる真理にして

(聖経『甘露の法雨』より)

――――――――――――――


 ・・・・いままで読み飛ばしておりましたね。徳久先生風に言えば、「チャーチャーチャカチャーで読んでいた」わけですね(笑)。『甘露の法雨』に書いてあります。「無明(まよい)はただ悟らざる真理にして」の箇所です。

 いやここが、たとえば「悟らざる虚相にして」とか「仮相あるいは幻想にして」ならば、話はわかります。でも、無明(まよい)とは悟らざる「真理にして」なんですよね・・・・・・ここがなんか、はっ!と思いましたね、今朝(笑)。

 無明とは悟らざる「真理」なんですよね。決して仮相や虚相あるいは、幻の類としては、書かれてはいなかったのです。あくまでも悟らざる「真理」(!)なんですよね・・・・・こんなことを今朝、「罪は光だ!」に関連して考えておりました。



1475「訊け」管理人:2013/11/27(水) 07:03:07 ID:???

>>1474追伸

 以前訊けブログにアップしたものです。榎本惠吾の音声ご講話からのものです。文章前後での関連は薄いですが、かつ、「罪も光だ」とも無関係ですけれども、以下箇条書きにて。



○ 喜ぶために「ヤル」のでは、「ない」。「喜びが展開していく」のが、光明化運動。

○ 神聖なるものが、自分で展開して行くのだ。自力は、要らないんだ。

○ 真理は自らを「実現する」のであって、真理は自ら「栄える」のであって。

○ 自らを実現するチカラを備えていてこそ、「完全円満」なのであって。自覚できる、できないなんて、関係ない。「私は實相を、なかなか自覚できません」と云う人もあるが、そんなものは無関係なんですからねえ。なぜなら谷口先生は、「オマエが實相そのものだッ!」とね、我々を礼拝しておられるんだからねえ。

○ 「真理がすべてをやってくれるんだッ!」「自分が真理そのものだッ!」

○ 「愛行が足りていない」「先祖供養が足りていない」「潜在意識が浄まっていない」・・・・・そんなことはもう、無関係なんですからねえ。實相をただ「ありがたい」と拝むこと、これが「浄まる」という意味なんだからねえ。

○ 「熱心になってから」だと、熱心にはなれないです。神様の、暖かい心に触れたら、熱心になるんですからねえ。

○ 自分と神とは、離れてナイんだよッ・・・・・・・

○ 「悩む」というのは、素晴しい。「悩まされる」というのは、いけないんだね。
 
○ 「痛みを作った側」に、まわってごらん。痛みそのものになって、ごらん。其処に、實相をおいてごらん。

○ 自分が悩むのであって、悩みながら作品を造っているのであって、「自分が悩んでいるんだ」と云うのがあれば、それは「光」なんだ。悩まされるのとは、違うんだ。

○ 光が無くても大丈夫なんですよ。吾々はただただ、「造る側にいる」のだ。神は光よりも先に、存在したんだから。自分は神として、造る側にいるんだから ―― 現象すらも光だ。そう言えるようになるのが「現象なし」

○ 過去の失敗を見て、吹っ切ってはダメなんです。「光として礼拝する」んです。

 
○ 心はコロコロ動く。だけど、そのまま宝物なんだ。

○ 今まで私は、「ニコニコマーク」を描いて、その周りに雲を描いて、「雲が實相を包んだ」と説明していたが、今からは「雲そのものも光だ」と言いたいんです。實相を「包んでいる」のではなく、「包んで下さっているんだッ!」と・・・・・服部先生は、そう、仰っておられる。

○ 實相と言ったら、「實相が自分で自分をやってくれる」と言う意味であって・・・こっち(肉体我)が要らないのだよねえ。「実行することが要らない」、そんな事をこっちが喜んでいくのが、実行ということだからねえ。

○ 楠本先生がこれを聞いたら、喜んじゃってねえ。朝、皆を集めてしゃべっておられた。「實相は、自分で展開していくんだッ!」と。「たしかにそう、『生命の實相』に書いてありますな」と。


○ 自分を出すのではなく、「消えている」ということ。自分の念などで、なにかするのではない。自分を「消すだけ」で、いい。だって、「既に完成している」のだからねえ。既に完成されてアルものを、出していく。そのためには、「自分を溶かすだけで」よいのだよねえ。



○ 「ありがとう」の意味。

あ ・・・ 天照大御神の「あ」
り ・・・ 利
が ・・・ 我(真の吾)
と ・・・ とどまる
う ・・・ 生む、生み出す

 「ありがとう」とは、「天照大御神が全てを生み出して私に展開しているので御座います」の意味。


(まだまだありますが、今日はこの辺で)

1476「訊け」管理人:2013/11/27(水) 07:06:33 ID:???

(×)かつ、「罪も光だ」とも無関係ですけれども


 ・・・・・「罪も光だ」との関連、ありました。

1477榎本先生ファン:2013/11/28(木) 10:44:36 ID:FrUWTGvA
感動!!

1479a hope:2013/11/28(木) 23:32:55 ID:/9IAdiFk
訊け管理人さま

「無明(まよい)はただ悟らざる真理にして」

ほんとですね!
今まで、全く意識していませんでしたが、無明(まよい)を「悟らざる真理」であると断言していますね。

今朝、「甘露の法雨」を読誦して感動してしまいました。

つまりは、悟れば、無明(まよい)だと思っていたことも真理に変る、ということでしょうか・・・?
うーん。正しい意味はまだわかりませんが、すごいところに気が付かれましたね。

本当に「生長の家の教え」は深い。

まだまだ、色々な発見がありそうです。

恵吾先生の「常楽への道」は訊けブログから「1」から「12」までダウンロードさせていただきましたが、
すべてが1時間以上の長い内容なので時間が取れなくて拝聴していませんでしたが、
昨晩どうしても拝聴したくて、「9」をスマホに取り込んで、夜寝る前にベッドの中で聴いてみましたが・・・・・
案の定、数分で寝てしまいました(笑)、

週末、再挑戦します!

1480「訊け」管理人:2013/11/29(金) 08:53:56 ID:???

>>1479 a hopeさま


 おはようございます。二日酔いですが、以下の箇所に返信してみます。さて、貴ご投稿の、


>>> つまりは、悟れば、無明(まよい)だと思っていたことも真理に変る、ということでしょうか・・・?
うーん。正しい意味はまだわかりませんが、すごいところに気が付かれましたね。 <<<


 の部分ですけれども「活用」と云うのが、キーワードになると思うのです。以下に説明、致します。

 さて、先日触れた(>>1472文)榎本先生の「高千穂での神想観」話を材料にしますけども、天孫降臨は、「雲の上から天下って来た」とあります。同先生はこれを、「雲を『活用した』の意味ではないのか」と、解釈されたのですが、これが「罪も光だ」の意味になろうかと思ってます。雲とはイコール、「迷いを象徴するもの」ですからね。
 例示するならば「不便」があるからこそ、「便利」が創造されるワケです。便利が創造されたとなれば、以前の「不便」ってのは、光だったとも言えるでしょう。ですんで、「無明が真理に変る」と云うよりも、「真理そのものだった」と云うことにも、なろうかと思います。

 で、次の話です。「真理そのものだった」という言い方に関してです。

 さすがに無明ですが、それを「真理そのもの」とは、現象の我々には解し難い考え方です。そこで忽然と浮上したのが、あの、『甘露の法雨』にある「悟らざる真理」という文言だったのではないでしょうか・・・・・云うまでもなく、私見です。聖典にはこんな説明、ありませんので。


 ・・・・まあ、ざっくりまとめますけども、「無明(迷い)も真理そのもの」なんだと、思います。「活用された際」にその無明、創造の呼び水となるからです。天孫降臨が「雲を活用して行われた様に」そして、「『不便』が『便利』を創造するように」ですね。



1481「訊け」管理人:2013/11/29(金) 09:12:50 ID:???

>>1480文「補足」


 二日酔いついでに(?)補足してみます。

 さて、「天孫降臨が雲を活用して行われた」に関してですけれども、ツラツラと例示してみます。雲(=迷い、問題)を活用する例示です。雲を活用して「光が差した例」とも、云えましょうか ―― 


○ 受験という不安(雲)をきっかけに勉強し、英語が得意になった。
○ 「初戦で難敵と対戦」(雲)なる事件をきっかけに、危機感が増し、以前よりも効果的に練習するようになった。
○ 「女にモテない」現実(雲)をきっかけに、モテんがためだけに「野球部」に入った。


 ・・・・・・まあ、眺めてみると「雲」ってのは、素晴しいものです。(改めて思いましたが)雲があった(かのように見えた)からこそ、實相が発現したのかも、しれませんよね。これが、天孫降臨が「雲を活用して行われた」の、榎本解釈の真意だとも思いますし、「罪も光だ」の意味だとも、思えます。受験という不安は一見、「敵対すべき悪」です。でも、それをきっかけに「英語が得意になった」のだとしたら不安とは、「光だった」とも云えましょうね。

 ・・・・余談になりますが、それでも「関連する余談」ですけれどもやはり、「汝ら天地一切のものと和解せよ」とは、素晴しい教えですよね。「受験で不安?ラッキーじゃないか!」ですし「女にモテない?ラッキーだね!」でしょう。

 すべて「敵対する」のでは〝なく〟、光として礼拝していく生き方ですよね。





追伸

 さてこの、「罪は光だ」ですが、藤原先生風に云えば「徹頭徹尾すべてを礼拝する生き方」となりましょう。國太郎先生風ならば「自分はカラッポだった。(格闘しないでよいの意)」となりましょうし、徳久先生ならば「そんなモン心配せんでエエんですよ」「谷口先生が大丈夫って言ってんだから、大丈夫と思いなさい。だははは(笑)」に、なりましょうかね。

1482「訊け」管理人:2013/11/29(金) 09:25:47 ID:???


超余談


 さて、現教団の問題という「雲」ですが、いったい「どんな活用を待っている」のでしょうかね。どんな活用のされ方が、天地一切との和解となるのでしょうか。

 ものスゴイ公案ですが。



1484トキ:2013/11/29(金) 21:35:17 ID:ffgjVbP6
 『神 真理を告げ給う」(谷口雅春先生著)の44pには、以下のご文章があります。

------------------------------------------------------------------------------------

 あなたは仏教の『煩悩即菩提」という語をたびたび聴いたこともあるし、読んだこともあるであろう。
”迷い”がそのまま”菩提”の道程であるということである。”迷い”という『菩提とは別なもの」があるので
はないのである。”迷い”と見えているものが、実は、”悟り”が動きだし、現象化しつつある道程であるか
ら、”迷い”本来無しと言い得るのである。

 あなた達が”迷い”と思っているものは、実は、”わたし”が”神の国”を地上に顕現するための土台又は基盤
になるための精神的基礎工事を行うために授けたところのものなのである。

-------------------------------------------------------------------------------------

 現在の生長の家本部は、一見、”迷い”としか思えないです。しかし、もし、本部が正常に機能していたら
一連の掲示板は誕生しなかったでしょうし、多くの信徒が独自の道を歩む事もなかったでしょう。すると
信徒は、いわゆる”教団”という狭い世界でのみ満足し、本当の信仰について、考えたり、発言をする事も
無かったと感じます。

 ミクロの視点では、一連の混乱は深く悲しむべきでしょうが、マクロの視点では、喜ぶべき現象かと
考える次第であります。

1485復興G:2013/11/29(金) 22:36:29 ID:AB6RqYXc

>>1484 :トキ様

これぞまさに 「神が真理を告げ給うた」 お言葉だと感じました。

「訊け」管理人様、a hope 様、皆さま。
ありがとうございます。

1486曳馬野:2013/11/30(土) 07:00:32 ID:TUEhTkAQ

 >>1484

● 多くの信徒が独自の道を歩む事もなかったでしょう。すると信徒は、いわゆる”教団”という狭い世界でのみ満足し、本当の信仰について、考えたり、

  発言をする事も無かったと感じます。

聖典引用版 >>2684

●  無礙になるとは無我になることです。我がなくなってなんの引っかかりもないようになる道を教えるのが生長の家であります。


この二つの言葉に何の矛盾も感じませんか?

私の妻や仲間の『信徒は、いわゆる”教団”という狭い世界でのみ満足し』雅宣先生に何の不満もなく『我がなくなってなんの引っかかりもないよう』に生きています。

それと違い、トキさん、復興Gさんなどは、『本当の信仰について、考えたり、発言をする事』をして、現教団の有り方に疑問を呈して、無碍の大道を歩んでいる

ようには見えないのです。


● まして『 あなた達が”迷い”と思っているものは、実は、”わたし”が”神の国”を地上に顕現するための土台又は基盤になるための精神的基礎工事を

行うために授けたところのものなのである。』が神の言葉という事であれば、教団の在り様も、分派の在り様も其の儘でよい、そして基礎工事の済んだ暁に、

行くべき生長の家の道が開かれるというのでしょうか?

1487「訊け」管理人:2013/11/30(土) 08:07:14 ID:???


>>1486 曳馬野さま


 うーん。ちょっと、一言。まあ、復興Gさまやトキさんのコメントを待つべきでしょうが、「私はこう思った」ということを文章にします。

 いや、1486の御投稿とは直接関係はナイ内容になりますが、それでも、「以下は重要な視点ではないか?」と思えるからです。最初に結論を申せば、復興Gさまトキさま共に、「矛盾はナイと思います。」になり、根拠としては「両氏は教団関係者」と云うものです。説明します。

 いやたとえば、以下は〝有り得ないこと〟ですけども「本流派が本流派を自己批判していた」とします。身内誉めに堕している彼等ですが、そんな彼等がある日、「本流派はオカシイ」とか言い出したら、どうでしょうか。自分たちを反省し、自己批判するようになったら、本流派も天晴れだと思うのです。「無我だと思うから」です。で、この視点を上記両氏に、適用してみましょうか。

 さて、両氏は組織に残られながら、「自己批判・反省」を行なっているのです。そうなりますよね。組織の方が組織に疑問を呈するのは、健全なものを感じます。本流派は自分たちを批判しませんが両氏は、「自分たちをも批判している」のです。こんな点にはやはり、「無我を感じます」が、いかがでしょうか。

 ・・・・まあ、冒頭書いたごとく本件は本来、復興Gさまやトキさんのコメントを待つべきでしょう。しかし、貴>>1486の御投稿とは直接無関係な内容になりますが、それでも、「上記は重要な視点ではないか?」と思えます。ゆえに投稿させて頂きました。




1488「訊け」管理人:2013/11/30(土) 08:22:48 ID:???

>>1484トキさま
>>皆さま


 トキさん、>>1484御文章をありがとうございます。さて、この御文章に関連するものとして、私も以下を紹介させて、頂きます。ちなみに以下は以前、復興Gさまがご投稿くださったものです。素晴しい真理が、述べられております。それでは、どうぞ。


∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

『生活と人間の再建』第11章 「信仰生活の種々相」より謹写――

◇祈りの反応としての不調和

 祈りの反応として現れて来る不調和な状態の中には、時として自分自身が病気になり、時として自分の愛する家族が病気に罹ることがあるのである。そんな時に祈りの効果を疑ってはならないのである。それはむしろ祈りの効果が現れつつあるのである。

 すべて古きものの破壊は新しきものの実現の場所を造りつつあるのである。発熱の中に、発疹の中に、下痢の中に、古きものが燃焼しつくされ、排泄され、新しき組織ができつつあるのである。これは祈りの応答として、神があなたに病気を課しつつあるのではないのである。肉体は魂の「機関」であり、精神の「座」であるから、発達せる魂が、尚一そう自由なる精神をその機関を使って働かせんがために、必要なる所の改造が行われつつあるのである。それは肉体の不調和の状態の如く見えているかも知れぬけれども、それは病気でもなければ不調和でもないのである。魂の機関が、精神の座が、それによって浄められつつあるのである。祈りの応答としてのかくの如き肉体の状態の意味を吾々が本当に知ることができるならば、吾々はその肉体の状態に対して、否、その奥に動いている所の浄化作用に対して「ありがとうございます」と感謝しなければならないのである。

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽


 特に、前半部分が素晴しいと思うのです。「祈りの反応として現れて来る不調和な状態の中には、時として自分自身が病気になり、時として自分の愛する家族が病気に罹ることがあるのである。」とあります。祈ってるのに悪いことが起りますと、「祈りも効果がナイな〜」なんて事を呟きがちですが、「さにあらず」と云うわけですね。むしろそれは、祈りが聴かれつつある証拠とも云えそうです。なぜならつづけて、こんな御文章があるからです。それは、

 >>> そんな時に祈りの効果を疑ってはならないのである。それはむしろ祈りの効果が現れつつあるのである。(上記御文章より)<<<

 と(!)

 この御文章も、素晴しいですよね。





追伸

 教団問題にも、言えることではないでしょうか。

 私の周囲の白鳩姉さんたちも、「静かに和解を願って」おられます。でもその願いは一見すると、「なんの効果も顕わしていない」ようです。むしろ、「以前よりも悪化しているかの様子」でもありますが、「さにあらず」ではないでしょうか。いや、上記、『生活と人間の再建』第11章を論拠にすればそれら〝悪現象〟ですけれども、「それはむしろ祈りの効果が現れつつあるのである。」からです。

1489神の子さん:2013/11/30(土) 09:51:02 ID:v8IIEFCo

229 名前:「訊け」管理人 :2013/11/29(金) 12:03:42
 さ、3時間も経ってんのに、まだ読める!

http://jbbs.livedoor.jp/study/11346/

 もう、感激ですよ(笑)

 3時間も経ってたら今までは、もう、50文くらい過去送りされてたんですからね(笑)もう、皆さんには「アタリマエ」の事でしょう。けども、私には心底新鮮な感覚なんです。「3時間経ってんのに!まだ、オレの投稿文がアル!」と。

 ・・・・つくずく「平和」は、ありがたいですね。
 


1490トキ:2013/11/30(土) 10:13:21 ID:H.NCUxa.
曳馬野 様

 コメント、ありがとうございました。現在、教区にいる人で、組織に満足している人は
少数意見だと思うので、貴重なご投稿です。心から歓迎申し上げます。

-------------------------------------------------------------------------------------------------

 『神 真理を告げ給う」の1931pに以下のご文章があります。
謹写させていただきます。

 生命のは相形なくして宇宙に充ち満ちており、それが”わたし”である。
あなた達に生命が宿っているのは、”わたし”があなた達に宿っているの
である。生命は生きているのであるから常に動いているのである。しか
し、生命は真に生きているのであるから、単に物理的振動を繰り返すだ
けではなく、また単に惰力だけで運動方向が決定せられるというような
ものではなく、知性をもち、その個性ある知性に従って自主的に、その
知性の動きによって個性あるアイディアを心に描く。生命はそのアイディア
を載せてアイディアの指向する方向に向かってアイディアの内包する様相
を実現するために動く。それゆえに、生命の波動に載せられたアイディア
そっものも恰も生きていて、自働的にアイディアの内包する形相を具体化
する力があるように見えるのである。

----------------------------------------------------------------------------------------------------


 私は『霊格の低い人間」(ある人の表現)ですが、復興G様はたいへん
高いお悟りをされていると信じます。しかし、何か大いなる力により、
動かされているという点は共通するかと思います。

 こういう場合は、人間知では計り知れない計画があるので、結果は何かは
言えないかもしれません。

 しかし、一人一人の声を大事に、祈りを中心に動いていれば、その結果は
きっと良い方向へ動くと信じています。

 今後ともよろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

1491トキ:2013/11/30(土) 10:18:35 ID:H.NCUxa.
>>1488

訊け管理人様

 素晴らしいご文章のご紹介、ありがとうございました。
自分もその通りだと思います。

 吉田茂は、戦争中、自分の家に書生として潜り込んだスパイに密告され
憲兵に捕まってしまいました。しかし、戦後、その逮捕歴が評価され、
総理になりました。吉田茂は、その書生が謝りに来ると、笑って許して
あげ、仕事の斡旋をしています。

 佐藤栄作は、若い頃、結核で長く休職になり、出世が遅れました。しかし、戦後、
公職追放で先輩や同期生が全部いなくなり、出世が遅れた佐藤がいきなり
昇進し、ついには総理大臣になりました。

 世の中、何が幸いするかわかりません。

1494トキ:2013/11/30(土) 13:41:32 ID:H.NCUxa.
復興G様

 貴重なコメント、ありがとうございました。実は、『神 真理を告げ給う」のあの
くだりは、私の縁者の『一白鳩会員」が言った事の受け売りでして、私は脚色したのに
過ぎないので、申し訳ないです。

 でも、あの本は素晴らしいご本で、今、じっくりと読んでいる最中です。

 確かに組織はいろいろとありますが、それに振り回されると健康にもよくないような
気がします。ここは腰を据えて、聖典を読み直し、祈る事が大事と個人的にはかんがえ
ております。

 何ぶん、若輩者ですので、今後ともご指導のほど、お願いいたします。

1495トキ:2013/11/30(土) 14:15:23 ID:H.NCUxa.
曳馬野様

 これは思うのですが、総裁のご発想というのは、東京一極集中はよくないよ、地方分権にしなければ
いけないよ、ライフスタイルは変えないといけないよ、という内容です。別に、その主張自体は悪く
ないと思っています。

 私の同級生でも、脱サラして、田舎に移転して農業を始めた人がいます。今、大企業でもある程度
の年齢になると、嘱託扱いになり、給与も下がるし、役職も失います。また子供もその年齢になると
独立をしています。それなら田舎に行って農業や漁業をしようか、という人は増えると感じます。

 あと、ネットの影響もあり、東京一極集中はすごく進んでいます。同じ先進国でも、ドイツなどは
地方都市もそれなりに栄えています。もし、大地震などで、東京が壊滅したら、その時点で日本は
機能停止になってしまいます。

 ライフスタイルを変えないといけない、というのも生長の家だけではなくて、いろいろな人が提唱
している事です。米国では9.11,日本でも3.11以降、生活のあり方を考え直す人は多くなっていると
言われています。

 以上は生長の家内部に限らず、外の世界でも議論がされている事です。その意味で、普遍的な内容を
持っていると感じます。

 宗教団体としての優先順位はどうあるべきか、という論点はありますが、それは今は置いておいて、
こういう総裁の言われている事について、私は否定をするつもりはありません。

 ただ、そういう意見に対して、当然、異論もあるのも当然です。また、理念としては立派としても
それを現実の世界で実行する場合、当然、いろいろな障害や問題点が出て来るのが普通です。それを
どうすべきか、は、公開された場所で議論をして、解決すべきだという考えを持っています。

 おそらく、曳馬野様は、中心者の言う事に無条件で「ハイ」という中心帰一の観点からのご発言だと
思います。が、中心帰一という理念だけで問題が解決するという発想を私は持っていません。これ
はきっと私の信仰の程度が低いせいでしょうが、多くの信徒は似たような考え方を持っていると思い
ます。

 総裁を援護し、尊敬するという発想自体を否定するつもりはありませんが、ある事柄について自由に
議論をし、議論を通じて自分の見識を深め、他の人に多様性のある意見を紹介し、情報をつたえ、最後に
問題を解決する、という発想も大切だと考えている次第であります。

合掌 ありがとうございます

1496復興G:2013/11/30(土) 22:03:07 ID:AB6RqYXc

>>1487 :「訊け」管理人さま

>>最初に結論を申せば、復興Gさまトキさま共に、「矛盾はナイと思います。」になり、根拠としては「両氏は教団関係者」と云うものです。…(略)… 両氏は組織に残られながら、「自己批判・反省」を行なっているのです。

 そうなりますよね。組織の方が組織に疑問を呈するのは、健全なものを感じます。…(略)… 両氏は、「自分たちをも批判している」のです。こんな点にはやはり、「無我を感じます」が、いかがでしょうか。<<

 すばらしい愛あるコメント、ありがとうございます。

 そうでした。

 私は、自分を批判していたのでした。

 一切は、自分の責任なのでした。

 そのことに、今、はっきり気がつきました。

 顧みれば、自分の責任であることを、他人(ひと)のせいにして、総裁や教団幹部に責任をなすりつけていた点がありました。正直に告白し、懺悔します。

 気がつかせて頂いて、うれしいです。

 現在の教団のあり方・組織運動に、疑問は感じています。組織にある者として、疑問を感じたら、自己の責任として、それを質す(正す)ことは、「無我」 ということと矛盾しないと思います。他に責任を押しつけていた点があったことは、反省します。

 しかし、謙虚な心を忘れず一切は自分の責任としながら、素直に疑問は疑問として、何も恐れることなく申し上げることは、これからも、積極的にして行く義務があると思っています。それは神を現すためです。

 ありがとうございます。

1497「訊け」:2013/12/01(日) 07:09:45 ID:???


>>1496復興Gさま

 おはようございます。さて私ですが、「完全な第三者」です。教団にも、本流にも「無関係」です。それ故に状況が、他の方よりも客観視できるのかも、しれませんね。それだけの話だと、思います。

 ところで、わざわざのご返信を、ありがとうございました。




追伸

 余談です。余談とは申せ上記、>>1488文関連です。たとえば、安倍政権の公約違反の数々ですが・・・・・・やっぱ、赦せません。なんの話かと申せば、「解ってはおりますが、やっぱ赦せん」です。TPPや減反補助金廃止等の〝悪現象〟ですけれども、やはり「良いことのはじめ」には、観えて参りません。あるいは、「消費税増税」「高校授業料復活(無償化廃止)」「特定秘密保護法」等・・・・・眺めてみるに、怒りだけです。体がもうひとつあれば、竹中平蔵を暗殺しそうな、勢いの私です。とてもこれら〝悪現象〟ですが、「祈りが聴かれたゆえ」にとは、思えません。

 ですが、それでも、「和解」しかナイのですよね。雅春先生や榎本惠吾先生が御存命ならば、私は上記の件を相談しそうな勢いの現在です。

1498SAKURA:2013/12/02(月) 20:48:37 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ   「観覧者の皆様」 へ 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA・NANCY】で〜〜〜す。
>>1038>>1042>>1052 >>1052>>1053>>1054>>1058>>1059>>1060>>1122 >>1140>>1141>>1171
>>1186>>1194>>1195>>1206>>1214>>1215>>1218>>1228>>1318>>1332>>1333>>1342>>1343
>>1376の投稿の続きです

■□ それでは神と霊魂と人間と †††『 因霊の世界 』††† 

――― 第 3  章  神々の世界 ――   お稲荷さんは一番身近な神
―†―【  信仰と先祖供養との違い  】―†―  その①

 信仰と先祖供養とはちがうということについて、少しお話してみたいと思います。
 まず人間はこの世に生まれた瞬間から、前世の業(因縁)を背負って生れた変わっている
のです。こうした前世因縁が、あの世から私たちの“運命”を縛りつけています。それを“神
神“は知っているのです。

 神といっても、善神もいますし、悪神もいるのです。人間の罪業の深さによって、“因縁”
という糸は、善神にたぐられるか、悪神にたぐられるかします。

 子供の頃の運勢というのは、まだ心が小さいので、易や星占い判断でも運力に対して比較
的当る確立が高いものです。しかしそれが中年頃までで、勉年といわれる大人の運勢は、ま
ったくちぐはぐな人生を歩まなければならないことが多くなってしまします。

 なぜかといいますと、前世の業(因縁)が支配し、その業が運勢にからまり、その業を断
ち切れないまま人生を突っ走ってしまうからです。“因縁因果”の恐ろしさを引きずったま
ま生きることは大変なことです。

 やがてそれに気づいて恐ろしくなり、信仰という名をかりて、助けを求めて手を合わせま
すが、しかし、それは“功徳”というものではなく、罪障消滅一筋の念願であろうと私は考
えるのです。

 しかし欲念の深い人間は、罪障消滅を念願しながら、その一方では「金儲けをさせてくだ
さい、病気を治してください」と願っていることが多いのです。

 仏教では、“法華経”がありがたいとか、“念仏”がありがたいとか、陀羅尼“が功徳
ある…といわれますが、これも人間にめぐり合わせてくる業(因縁)を断ち切ることが唯
一の目的ではないかと思います。

 つまり、仏教のなかにはたくさんの教えがあっても、そのすべてが譲られるものではあり
ません。信仰の深い人のなかにも、恵まれない人もたくさんいます。してみれば、仏教という
のはなにか、ということになります。

                       つづく

1499SAKURA:2013/12/02(月) 20:50:27 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ   「観覧者の皆様」 へ 
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA・NANCY】で〜〜〜す。
>>1038>>1042>>1052 >>1052>>1053>>1054>>1058>>1059>>1060>>1122 >>1140>>1141>>1171
>>1186>>1194>>1195>>1206>>1214>>1215>>1218>>1228>>1318>>1332>>1333>>1342>>1343
>>1376>>1498の投稿の続きです

■□ それでは神と霊魂と人間と †††『 因霊の世界 』††† 

――― 第 3  章  神々の世界 ――   お稲荷さんは一番身近な神
―†―【  信仰と先祖供養との違い  】―†―  その②

>>1498 その①之投稿の続きです…。
 信仰というのは、自分がこの信仰が一番好きで価値があると思う信仰が一番正しいのです。

 先祖霊を成仏の境涯に導く、導かないということは別の問題になります。
 こうしたことから、私は先祖霊に対して線香をともす時には「南無阿弥陀仏」と唱え、仏
壇や神殿に向かっては「南無妙法連華経」と唱えるのです。

 最近はお墓参りする人もたいへん多くなっているということです。嬉しいことですが、し
かしさきほども申しましたように、先祖代々は“念仏”であるのに、墓石に“法華経”を彫
刻しては、これはまた、実にこっけいな話ではないかと思います。

一度ぜひ、先祖代々の墓がどうなっているか調べて見てください。
                            つづく
PS: 「トキ様」 「観覧者の皆様」へ
■【 信仰 と 先祖供養 】が違う???

只今!【 SAKURA 】は“思考回路の旅〜♫”に出ていま〜〜〜す。
では〜♫ 次回!!さらに、分かりかけていくのでしょうか???

ただ『 先祖供養 』は、私どもの【ご先祖様…を供養し祀る】事ですし???
【信・仰】は〜〜〜我が“魂…”を、より!高く!高く!〜〜〜高く!向上=聡明になっていくモノ??
そうなのです〜〜〜ョネ!【魂…の向上】が益々と…そして、それに伴い“意志…”が強くなっていく!
最終的には〜【 心・の・法・則 】を如何に駆使する事が出来るのかが?課題でもありますでしょうかと。

只今!ボンヤリ〜ボンヤリ〜考えながら…それが【信・仰…】なのかしら〜〜〜ン??

それでは〜〜〜次回!〜〜〜を、お楽しみに〜〜〜♫

                            再合掌

1500うのはな:2013/12/13(金) 16:01:56 ID:tdVffrPY

  聖経 続々甘露の法雨(朗読女性)  谷口雅春先生著
   http://www.youtube.com/watch?v=7nQ3PI_p24A

1501うのはな:2013/12/13(金) 19:45:42 ID:/QLW1zdI

 来たる日の 道に花咲く須臾(たまゆら)の 神の愛こそ礎えぞ 知りて語れよ 我が子らよ

 山須臾の実 http://ameblo.jp/kitakamakurahibiki/entry-11014285587.html

1502うのはな:2013/12/13(金) 19:50:11 ID:VSe/s8Ao

 谷口雅春先生の「生命の實相」を学ぶ 谷口貴康先生の映像
 http://blog.livedoor.jp/seimeinojissoh/archives/22788772.html

1503名無し:2013/12/14(土) 00:23:09 ID:JJ2GRsqw
第1回 谷口雅春先生を学ぶ会全国大会 ダイジェスト版
http://www.youtube.com/watch?v=pgtVWsLzh1Q

1504a hope:2013/12/15(日) 12:25:38 ID:/9IAdiFk

みなさま こんにちは。

12月の週末はクリスマス関係の行事が多くて忙しいく、なかなか書き込みできずにいます。
web誌友会板では、復興Gさまと曳馬野さま、他の方々が「悟り」についてお話をされているようですが、
わたし自身は、以前お話しましたが20代前半のころに幽体離脱した時に、
初めての「悟り」といえるような経験をしたような気がしています。

その後の人生でも、何度も苦境のような状態に陥るのですが、苦しみや悩みや絶望感のなかでも、
それでも人生をあきらめないでがんばっていると、
必ず人生がひらけるような出会い(仕事、主人、気功、「生命の實相」などとの聖典との出会い等)があり、
なんどもの「悟り」と言えるような心境の変化を経験してきたような気がしています。

「悟り」とは個人の絶対的体験ですから、どんな「コトバ」で言いあらわしてみても
それと同質の「悟り」の経験をしたことのない人の心には響かないのではないかと思っていたので、
今まで自分のそういう経験をあまり人に話したことはありませんでした。

ですが、聖典「生命の實相」の「オコトバ」は違うと感じています。
なぜなら、全巻を通して拝読してみるとわかりますが、その「オコトバ」は、さまざまなレベルから、
さまざまな角度から、さまざまな波動で自分の内面のあらゆる部分に響いてくるからです。
だから、全巻を通して拝読すれば、どんな人の心にも必ず響く部分があると思うのです。

そして誰もが、わたしが 聖典引用板>2700 に謹写させていただいた、


―――――――――――――――――


頭注版 生命の實相 第35巻 下化衆生篇 p71 (日本教文社)

『生命の實相』を読んでいてある瞬間に達すれば必ず真理の光がたましいの中へ射し込んでくるのである。
その光は太陽の光よりもなお明るい光である。
自分の身体(からだ)が透明になったような感じがする。
自己の生命が無限生命の光線の中につつまれる。
その無限の光線の中に溶け込みつつ燦然として輝いている生き通しの生命こそわが生命であることが悟られる。
これこそ自分の本当の生命であったのだ――今生きつつある地上の生命の小さきことよ。
それはただ自分の本当の生命の輝きが、迷いの雲間を洩れて、地上に記(しる)した小さな光の点々にすぎなかったのだ。
迷いの雲間は裂ける。
本当の自分は輝き出でる。
地上の晴天の日の太陽が照らすごとく、本当の自分は無限の輝きを放って地上の生活を照らすのである。

――――――――――――――――――


というような、すばらしい「悟り」の状態をかならず体験できるようになっていると思うのです。

「生命の實相」は本当に、すごい聖典だと感じています。

ですから、その神聖性を汚したらいけないと強く思います。
それこそ、「聖霊をけがす罪」となってしまうと思うからです。

「聖霊をけがす罪」については、聖典引用板に謹写させていただきますが、
もしかしたら、谷口雅春先生がご昇天された後の「生長の家」においても、
信徒が聖典「生命の實相」の真義を誤解して、この「聖霊をけがす罪」が犯されてはいないでしょうか?

(ここでわたしのいう「生長の家」とは、教団のことでも、他の「生長の家」関係の団体さまのことでもありません。
わたしたち、「生長の家」の教えを信仰する一人一人の信徒、という意味で使わせていただきました。)

1505女神の部屋判事:2013/12/15(日) 20:11:47 ID:..YX5cx.
1384 :「訊け」管理人:2013/09/06(金) 16:20:06 ID:???

 「和解せよである。それ以外、一言も要しないのである」(吉田國太郎先生『常楽への道』より)


 うのはなさん、うのはなさんが生長の家関連の掲示板に書き込みを「したい」のであれば、雅春先生への異論は、許されないと思います。

 いかがでしょうか。

 和解の否定とは即、雅春先生の否定です。(雅春先生のご思想否定は、掲示板投稿禁止となっております)




1506女神の部屋判事:2013/12/15(日) 20:15:18 ID:..YX5cx.
>>1505

というようなことを、信仰資質に恵まれながらも各所の誌友会で問題を起こし、あちこちで顰蹙を買い、
不調和の見本みたいな商売人が、長年組織会員に向かっていわなくてもいいです。

1507閲覧者99:2013/12/15(日) 20:17:28 ID:..YX5cx.

 礼節を大切にすべしhttp://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/25124491.html

1508うのはな:2013/12/20(金) 20:30:30 ID:3x4g7HcQ
      「不滅のご慈愛」 ご復活の日・六月十七日を偲んで 
                           
                           宮澤次郎(故人)

 昭和六十年六月十五日(土)朝、いつものように四時四十分ごろ起床し、洗面を終えて五時過ぎに、
毎日の行事である氏神さま氷川神社への朝詣でに出かけようとしましたが、ふと長崎の雅春先生ご夫妻にしばらく
ご無沙汰をして申し訳ないなあ、という気持ちがこみあげてきました。今日は土曜日でもあるし、よし、長崎へ行こうと決め、
電話で午前八時五十分発の航空券予約をとりました。

 長崎空港に到着した私はすぐに公衆電話で総裁公邸にお電話しましたところ、お側付きの人から「総裁先生(雅春先生)は
長崎大学の病院にご入院中である」とお答えを耳にし、瞬間愕然として信じられない思いが致しました。更に確かめると、ご病室をお教えいただき、
これは事実だ、思いもかけない事が起った、と胸がドキドキする思いで空港の屋外へ飛び出しました。ちょうど市内行きのバスが出発しようとしているころに
乗せてもらい、バスのスピードのおそいのを気にしつつも大学病院に着いて先生のご病室のドアをノックしました。

 出て来られたお付添いのお話で、先生はいま静かにおやすみになっておられること、輝子先生は現在公邸にいたっしゃるが、恵美子先生方は担当医師とのご対談中で、
別室に居られるとのこと、などを知りました。
 私としては、恵美子先生がたが医師との話を終えられたあと、ご一緒にご病室に入らせて頂こうと思いSばらくお待ちしましたが、時間がかなり経過し、遂に待ち切れず再びドアを
ノックし、お付添い人の了解を得て、ようやくご病室の先生に拝顔することができました。

 このように病院のベッドの上にお寝みになっている先生にお目にかかれることは、今朝東京を出発するときには夢にも考えていなかっただけに、私は夢中の思いで先生のベッドに手をつき、
お耳に自分の口を近づけて思わず大声で「先生、宮澤次郎です、お見舞いに参りました。おわかりになりますか」と叫んだのでした。
 先生は、それまでウトウトしておられたようですが、有難いことに私のことばをお判り預けたと見え、そのときお眼をはっきりとお開きになり、再度うなずいて下さいました。そしてその後はまたお瞼を閉じられ
静かにお寝みになるご様子でした。

つづく

15091508 つづき:2013/12/20(金) 20:31:19 ID:3x4g7HcQ
 ご病床の先生は、少しおやつれの気配は拝されるものの、お顔色も唇の色も平常と変わりなく、そのときにはご病状の急変が起ることは全く予想されない思いで、私は静かにご病室の外に出ました。
ご病床にあらせられる先生のご慈愛あふるるご温容には、平生と些かの変りもなかったことが私の心にはっきりと灼きつけられています。
 このようにして私がお目にかかることができた日の翌々日の朝七時五十三分、雅春先生は従容としてご天寿を全うされご昇天あそばされたのでした。私は、偶然にこの最後の先生とのお別れとなった日の
勿体ない貴重な思い出を、生涯自分の胸裡に刻んで大切にさせて頂きます。

 私は、雅春先生の身に余る勿体ない深い温かいご愛念の中に抱かれて今日まで生きてくることができました。ご生前のなつかしい思い出の数々は到底筆紙に尽し切れない感謝と感激と感銘の連続でした。
先生のおかげで私の人生は此の上もなく輝かしい充実した人生となりました。
 僭越ではありますが、私の拝する限り、雅春先生がそのご生涯を通じて凡ての人々に垂れ給うたご愛念は、まことに限りも無く偉大であり深遠であり、人々の魂に深く染み透り、人々の生命を真に蘇らせて下さいました。
「神は愛なり」という真理のことばは、とりもなおさず「谷口雅春先生は神なり」という永遠不滅の事実を啓示しているものと私は信じます。
谷口雅春先生は生死を超越され人類への無限の愛の象徴として無量寿如来として、現在から未来に向け永遠に私たちを導き給うことを固く信じております。

 ご昇天によって、もはや二度と先生のお姿を身近に仰ぐことのできなくなったことは、まことに涯しもない悲しみと寂しさに身も心も打ちひしがれる思いでありますが、それと同時に私は、この六月十八日の葬場祭の終りに臨み、
輝子先生が喪主としてごあいさつされましたお言葉の一つ一つが胸に染み、特に次のお言葉は私にとって深いお諭しでありました。
「・・・・・私はね、あれで一番よい最後をなさった。ほんとうに神様に戴いた限りを生き切って、あれでもう充分この世の使命を果して下さったという感じしか今ございませんので唯々合掌するばかりでございます。どうぞ皆さんも先生の尊い御教えを、
お亡くなりになっても忘れないで下さいませ。・・・・・ほんとうにこの世に何の心残りもなくお亡くなりになったのだと思います。どうぞ皆さんも泣かないでお見送りして下さいませ。ありがとうございます。」と。
 私は、輝子先生の此の崇高な御心に従い、雅春先生のご遺訓を更に一そう深く肝に銘ずるよう努めて参る所存であります。

(宮澤次郎の稿、終了)
『心のかけはし』誌 平成18年


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板