したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

聖典引用 板

2855a hope:2014/05/18(日) 10:12:31 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻 p82

宗教争いは偶像崇拝より起こる

物質的な形あるものを礼拝の的にするようになりますと、物質的な形あるものは有限でありますから、ここまでは自分の領分であって、お前の領分ではないというような争いができてくるのであります。人間を和合させる働きをせねばならぬ宗教でさえも、肉体キリストという物質的顕現に捉えられていましては、顕現せられましたそれぞれの応身または報身は異なりますから、互に信者争い、領分争いをしなければならぬようになってくるのは当然であります。

その宗教が偶像崇拝教である程度は他教を排斥する程度でわかるのであります。

つまり、すべての争いの第一の萌芽(ほうが)は、物質的な形あるものを崇拝すること――すなわち偶像崇拝――よりくるものであります。

すなわち「すべての罪のうち最も重きものはなんであるか」と問う人がありますならば、「偶像崇拝をもってその第一とす」と「生長の家倫理学」は答えるのであります。

キリストでもこれを肉体イエスという「物質的形体」に見いださず、「アブラハムの生まれぬ前よりわれは在り」といわれた「永遠神性」にこれを見いだし、仏でもこれを肉体釈迦に見いださず、「過去の諸仏は皆わが弟子なり」と阿難答えた「久遠の釈迦」に見いだし、「生長の家」でもこれを肉体谷口の家に見いださず「すべての教えわれに流れ入りて生命を得ん」と示された「久遠実在の生長の家」に見いだすとき、すべての教えは、ここからあすこまでは自分の領分だなどという縄張り争いをする必要がなくなるのであります。

2856SAKURA:2014/05/18(日) 19:32:11 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808 
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  
*========*【 各宗教に対する生長の家の立場 ―その15 ― 】*=======*=======* =======*=======*

■「われのもの」であると思っているが、その「われ」というものすら無いものだとすっかり何も無く
なってしまって、もう“神様だけである”、神様のみが実在である。

ここに神様がいる、あるいは親兄弟姑さんとか、意地悪の小姑さんとかがいるとしても、そんな悪いよ
うに見えるものは、アルように見えても何もない。みんな神である、神以外のもは一つもない。そうい
うことがわかるのが「みんな神様に上げてしまいなさい」ということである。

存在のすべてを神に託したのですから、みんな神に献げたことになる。所有財産中の一部の百万円や、
五百万円や、財産残らず持って行ってもそんなことでは全部を神様に献げたことにならない、そんな
不徹底なやり方ではいけないのです。もう生きているこの生命の元さえも少しも残るところもなく全
部神様に上げる。そしてここに「神だけがある」というふうにしなさい。

これが本当に全部神様に捧げるということであります。こういうふうに説いてあげますから天理教の
信者たちも、あの自分の信じた天理教はそんなに立派な教えであったのか、と喜んでお帰りになるの
であります。

天理教もこう見てくると実に立派なものである。仏教の極地の「ただ実相のみがある」という仏教の
極地と天理教の極地とは実にぴたりと一つになれる。
天理教を病気だけ治してもらう宗教だと思って病気を治してもらうことばかりを思うのはまちがいで
ある。もっとあんたは自分の信ずる宗教を立派な宗教と思いなさい、と、信者自身が思っていりより
ずっと立派なものであると、おう称えてあげるのが生長の家であります。宗教というものは、ずっと
その奥堂へ入ってゆくと、こういうふうに実相の世界へ入ってゆく、実相の世界とは先刻申しました
おり、「生長の家」でありますから、天理教は天理教のままで生長の家に入れ、仏教は仏教のままで
神道のままでみんな生長の家に入れるのです。

それで、聖書にも「父の国には住居多し」と書いてある。

つまり、生長の家は、アパートみたようなもので、天理教の住まう家もあれば仏教の住まう家もあると、
まぁこういうふうな一切包容の「家」であります。

                       つづく
PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
分かりやすく説いてくださっています。
【神に全托なさる事】とは、もう【無限供給の門】を一歩踏み出した事と!!この様に解釈しました。
「神様」にすべてにお任せして〜現在の掟ます事も含んで、まず!「マザーテレサなみになる事」かと。
私自身の「魂の向上」に向けて下さって居ます事の「お知らせ…配信」つまりは、
【神様からの配信…】と、只今思えるようになりました。
複雑な現在社会構造の中で、益々【心のよりどころ】は、まず!当然ながら【心の形成を建てなおす事】
でしょう!!もう少し私自身の【心を大海原に走って行こう…!】と思います。
「雅春先生」…ますますと、この自覚が入りました事に、ありがとうございます!! 再合掌

2857a hope:2014/05/19(月) 09:22:42 ID:cEpBaIdo
>>2855つづき)

「生命の實相」第13巻 p83

人間の不自由の萌芽(ほうが)

ところが、これに反して、少しでも物質的形体に捉われはじめますと、人間は本来の「自由」をわれとわが念で固定して「不自由」ならしめるのであります。「争い」というのも「不自由」の一面のすがたであります。すなわち本来の全体としての自由を失っているから「争い」が起こりのであります。

時計の歯車でも全体としての自由が失われていなければ、どの歯車も不自由にカチ合い争うなどということはないのでありますが、全体としての自由が失われると、歯車と歯車とが互いに調和して運行しないで、カチ合って時計が止まってしまうのであります。

この全体としての自由を失った「カチ合い」が、「争い」なのであります。

宗派争いをして仏教を罵ったり、キリスト教を排斥したりして、和協合同しえないのは、この「カチ合い」でありまして、人類の和協合同を説くべき宗教みずからが、和協合同を失っているという矛盾を演じているのでありまして、これというのも礼拝の本尊をば、「永遠の神性」とか、「久遠本仏」とかに見いださず、物質的形体のイエスに見いだしたり、肉体釈迦に見いだしたりして、「第一の神性隠蔽」に捉われているからであります。

宗教でさえも礼拝の本尊を「物質的形体」においたならば、このように争いが起こるのでありますが、個人の生命を「久遠の生命」の流れの中に見いださず、それを「肉体」に置き換えた原罪(第一の神性隠蔽)から出発して諸々の罪悪が発生するのであります。

2860SAKURA:2014/05/20(火) 22:58:27 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808 
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  
*========*【 神の子の生活を今生きよ ―その1 ― 】*=======*=======* =======*=======*

■>>われらは自分を神の子(または仏子)なりと信じ、常にけだかく人生の道を歩み、内な
る魂の誇持“ほこり”(きょうじ)を傷つけざらんことを期す。<<

 さて、この自分は神の子であるということがわかりましたならば、そのわかった神の子
を今生きて行くということが必要なのであります。「自分は神の子である」とわかりながら
それを今生きて行かないというのは、これは実に矛盾したことであります。そういう人は
実際は、本当に神の子であるとわかっていないのであります。そういう人が神の子である
と思うのは、偽存在“にせもの”の自分を神の子であると思っている場合にそうなるのでありま
す。偽存在の自分、我の働きが神の子であるとこう思っている、その場合には、いくら聖
典を読んでも実際に神の子らしき行ないとしてそこに現れてこないのであります。偽存
在の自分をいくら磨いても本物になるわけはないのであります。真鍮の指輪をもってき
て、磨いたら黄金になるであろうと思っていくら磨いたって、真鍮はやはり真鍮なのであ
ります。それと同じく、この偽存在の自分をもって「神の子である、神の子である」とこう
思っても、なかなかわれわれは神の子になれっこはない。それでわれわれは神の子である
という自覚を実相から出してくるということが必要であります。

                      つづく

2861a hope:2014/05/21(水) 08:48:04 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻 p88

久遠神性にある救い

何人の肉体的顕現を通さなくとも、「久遠の実在」としての実相人間を信ずる者には、永遠の生命が与えられる、これが「生長の家」の発見した真理であります。すべての人間が「久遠の実在」の顕現であり、現象世界が善かろうと悪かろうとそんなことは写真の映りが善いとか悪いとかの問題であって「実際の人間(リーアル・マン)は悪くはないのであります。

この事実を知らないから、人間は自己軽蔑する。「自分などはとても駄目なものだ」と思って「神性隠蔽」(罪)をするのであります。神性隠蔽をしておいて現象界も映し出しても、完全な神性が映るはずはないのであります。

人間を風呂敷で包んでおいて写真をとってごらんなさい。完全な人間の姿は写りますまい。それと同じく、自己の「神性」を包み隠しておいて、「自分はとても駄目だ」などという念のレンズで現象界を造り出したのでは、完全な現象界は出現するはずはないのです。

それで「自分は罪人だ」という観念はすべて現象界の罪悪の母胎であり、自分は神の子だという観念は善き現象界を造る母胎となるのであります。

2864a hope:2014/05/24(土) 20:12:58 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻 

隣人に対する罪 p102 

・・・その次にイエスがあげた第二の誡命(いましめ)はなんであるかといいますと、「おのれのごとくなんじの隣人を愛せよ」ということであります。

そこで隣人に対する罪とは、この第二の誡命を破るということにあたるのでありますが、なぜおのれのごとく隣人を愛しないことが罪であるかと申しますと、それはわれと隣人とは本来一体であるからであります。

「われと隣人は本来一体である」という事実は、どこから来るかといいますと、「われは神と一体である」との第一最大の真理から必然生まれてくるのであります。

甲も神と一体であり、乙も神と一体であり、丙も神と一体である。

かかるがゆえに甲も乙も丙も神と一体であることになるのであります。

隣人を愛しないというのはこの自他一体であるという実相を見ないからであります。

それは五官の眼で自分と他人とを見ますと、自分というものは他と離れ離れのものであるということを結論しなければならない、肉体は一人一人別々である、頭は一人一人離れている、手足は一人一人離れているということになるのでありますけれども、それは五官のまどわしに捉えられているからであります。

五官を離れて、あるいは五官を深く掘り下げてゆきますならば、自と他とは本来一体であるということがわかってくるのであります。

2865a hope:2014/05/26(月) 08:25:03 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻 p105〜

利己主義すなわち自他一体の実相の隠蔽

・・・だから、より大いなる自他一体に進展しようとしないところの、小さな自他一体の団体は、一時は大いに発展するようにみえましても、やがては全体からの生命の供給を
はばまれ、それ自身たつことができぬようになるのであります。

周囲に反対して無理に成就せしめた恋愛などが、一時は大変好都合にゆくように見えましても、いつの間にか夫婦の愛に異常を生じて破綻をきたしたりする例がおいおいありますが、それはやはり全体からの生命の供給をはばまれた結果、その恋愛が正常の発達を遂げることができず、歪(いびつ)に不自然になってしまった結果でありあす。 

恋愛そのものが悪いのではなく周囲との不調和がわるいのであります。

なぜわれわれが利己的動機に陥るかと申しますと、五官をもって事物を見る結果、その印象にあざむかれて物質有限の感を抱くにいたるからであります。

物質が「心の影」だとわかったならば、心にしたがってどんなにでも、多くでも少なくでも顕すことができるのでありますから、他を制して自分の方へ集めましても、物質無限でありますから、「他を制する」必要だけは全然なくなるのであります。

この「他を制して自分の方ばかり集める」という利己主義の展開としてやる商売や職業は、結局行き詰まってくるのであります。

2866SAKURA:2014/05/26(月) 21:52:23 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808 
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  
*========*【 神の子の生活を今生きよ ―その2 ― 】*=======*=======* =======*=======*

■よく病気の方などで、あんた『生命の実相』をよく読んでおられますかというと、よく読んで
います、朝から晩まで『生命の実相』ばかり読んでそうして疲れてしまって何もできません(笑声)
とこういう人があります。

こういう人は『生命の実相』の真理をどこへ滲み込ませようとしているのであるかというと、偽存
在の自分の中に滲み込ませようとしているのあります。だから何か金粉のようなものを付け加えて
磨いておったらしまいには金になるであろう、こういうふうに思って朝から晩まで真鍮を磨いてい
る方である。

それじゃいけないのであります。それでわれわれは神の子であると知るということは、結局は
“神の子を生きる“ということで、「知る」ということと「生きる」ということと別にあると思うと
まちがいであります。つまり「知る」とは「生きる」ということである。

親鸞聖人が「信心よろこぶその人を如来とひとしとときたまう。
大信心は仏性なり。仏性すなわち如来なり」ということを『弥陀和讃』の中で説いておられる。
という意味は、信心を起こす心、この本当の信心というものは、如来と同じものであるということである。

では、如来はどういう働きをしたかというと、一切衆生を生かさんがために、いろいろ無限の愛を
もって超載劫の永い間行をして、今西方に安楽国という浄土を建設して、そうしてそこに、わたし
を頼むと利他的な念願で働きをしておられるのであります。その仏の働きが自分の中に出てきたら
これが信心である。

信心というのはただ南無阿弥陀仏とこう口先にいって、「偽存在の肉体の自分」が蓄音器のレコード
みたいに「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」といいながら、行の上で嫁いじめをしているというふうな
ことではこれは信心ではない。

“信心とは仏の心が自分の中に生きる“ことである。金光教祖は、「日に日に生くるが信心なり」と
こういわれた。日に日に生くるが信心なり――そうしますと、この南無阿弥陀仏というのは何である
かというと、「南無」というのは帰命である、弥陀の命に帰一するということです。

阿弥陀様の生命のままに生きましょうというのが南無阿弥陀仏であります。

                    つづく

2867SAKURA:2014/05/26(月) 21:59:50 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808 
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  
*========*【 神の子の生活を今生きよ ―その3 ― 】*=======*=======* =======*=======*

ところが、阿弥陀様の生命のままに生きましょうと口に唱えて、その――阿弥陀様は慈悲の権化で
あるのに、その阿弥陀様の生命のままに生きましょうといいながら、嫁をいじめてみたり、欲ばっ
て泥棒してみたり、無理なことをして儲けてみたり、「このくらいのことはよいだろうから、ちょっ
とだけ猾いことをしよう」とそういうふうなことを考えているようなことでは、「阿弥陀様の生命の
ままに生きましょう」とこういいながら、阿弥陀様に背を向けている、どこにも阿弥陀さまに帰命し
ていない。これではその人は信心じゃないのであります。

本当の信心というのは「ここに神が生きる」「ここに仏が生きる」この自覚で生ききるのが信心であります。

今まで仏様というものをまちがって解釈して、なんでも涅槃寂静であって、力のない、空のなんにも
ないようなものである、とこういうふうに考え、なんの力なく、死んだように、空になったように
遁世してしまう。これが仏様の命令のままに生きるのだと考えたらまちがいなのであります。

仏様は無礙自在の働きをして、少しも休む暇なく働いていられるのであります。人のために休む暇も
なく働いて働いてやまない、これが仏様の心をわが心とし、仏様に帰命することであります。

この世、現世は無常であって、本来ない空であると仏典はいう。そして仏様も空である、みんな空で
あるからどうでもよいのだと、したいままをして、結局空に帰して、それで一生涯であるというふう
な考え方をして、この世をつまらなく否定してしまうことを本当に仏道を生きることだと思っていると、
それはまちがいなのであります。現代の仏教が本当の教祖たる釈迦の御教えから外れてしまって、ただ
この現世は無常である。空々漠々である、仏様も空である、みんな空であって、その空から阿弥陀如来
というものが現われて、そうして西方極楽浄土に報土を作って、この南無阿弥陀仏と口の先だけで称え
ておったら、死んでからそういう極楽浄土で楽をさしてもらうのだというような、そんな馬鹿な考えを
もっている似而非仏教信者があるために、せっかくの尊い釈迦の教えが死んでしまい現実を生かさない
という残念なことになっているのであります。

この釈尊の御教えを本当に生かし、同時にすべての善き宗教の教祖の御教えの神髄を生かすのが
生長の家であります。

本当の信心は、今自分が仏子であり、神の子であるということを知る、そうして、今自分がその仏なり
神の子なり生きることであります。

つづく

2868SAKURA:2014/05/26(月) 22:02:05 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808 
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  
*========*【 神の子の生活を今生きよ ―その2・3の引用編 ― 】*=======*=======*

>>2866>>2867投稿の続きです…。
PS:「トキ様」・ 「観覧者の皆様」 へ
『人間の真理』について書かれています。〜〜「複・雑・感…」でしょうか??
当時の信者もどれくらいの理解力が〜〜〜><と思いつつ、そうこうしております、現代の私達の
置かれています【生長の家のお家騒動…】を思いながら〜〜久しぶりに閲覧しますと?
「皆様」は、こうなければ〜〜〜こうだったとか〜〜〜??色んな捉え方が〜〜〜??

しかしながら今回の「雅春先生の言葉」から、やはり【信・仰】について詳しく取り上げて頂き、
この本は「信者に向けての中身…」でしょうか??
今回!私も「総裁先生」を応援しながら〜〜始めて【ネット…】での『生長の家のグループ』に、
参加……その後!その後!〜〜〜の私の見方が〜〜〜180度変化したのです。

そこでは、私は、いろんな“形でのアクシデント…”から、【フェスブックの友人達】を、意を決して、
かなり白紙と致しました。残ったのは〜〜〜ごく【少・数…】でしたし〜〜〜更に!!
パートナーの「ナンシーさん」のフェイスブックの問題があり、いろいろな形で〜〜〜「総裁先生」に、
一言〜〜〜言いたいで〜〜〜す。

■【他人まかせ…】で、行きますと〜〜〜怖いですネ!!ある時!〜〜〜><
【ネット関連の方達の信頼度】は〜〜〜不思議と閲覧していますと、此処で、私は、ある面では、
彼らからの被害者という事になりますでしょう。…が?
お陰さまで【神・想・観…】中に 気をつける事とのメッセージを頂く事となり、色々考えたすえ、
【決・断】した行動は〜〜〜「フェイスブック研究会…49のグループ」は脱退しました。
詳しくは、また後に……そして【信・仰】しながらの、相手の『悪・口・論・争』のコソコソは??
…と、改めて思いました。
やはり【生長の家は信仰】ですので、まず【真・理】からが大事!!しかも〜〜〜
間違った解釈は??でしょうか?
■まだ!まだ!私も!!【真理=実行】の私にと…【有・言・実・行】当に勉強中で〜〜〜す!!

                         再合掌
:

2870トキ:2014/05/28(水) 18:44:06 ID:K6oful.2
>>2868

 生きて居る限り、誤解をされるのは仕方がないです。

 釈尊はダイバダッタに背かれ、キリストはユダに裏切られました。
谷口雅春先生ですら、弟子に裏切られています。

 でも、それでも、以上の方々は人類に多大な貢献をしました。

 「倒されし 竹はいつかは 起き上がり、 倒せし雪は いつかは 消え去る」

 頑張って下さい。

2871SAKURA:2014/05/28(水) 21:12:15 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808 
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  
*========*【 神の子の生活を今生きよ ―その4 ― 】*=======*=======*

>>2866>>2867投稿の続きです…。
 「日に日に生くる信心なり」を本当に知ったならば今生きることである。仏様は衆生を救わんが
ために千変万化していられることを知ったら、自分もそのとおりに生きることです。

これが本当の信心なのであります。
たとえばわれわれが百万長者であるということを本当に知ったら、その百万円の金をじっとさして
おくはずがなにのであります。あれも買いたい、これも買いたい、あの人にもちょっとやって喜ば
してやりたい、こういう事業も起こしたいと、これは本当に百万円を持ったということを知った人
のことです。だけれども百万円親が遺産として残しておいてくれても、そいつを見つけない間は、
百万円持っていてもそういう働きが起こってこないのです。

ところが、われわれが本当に百万円を持っているということを知ったら、そこに百万円の活動が
始まってくる。知るということは活動することである。われわれが仏の子であり、神の子である
ということを知ったならば、その仏を生活に生き、神を生活に生きるということになってこなけ
ればならないのです。

それを生活に移さないのはまだ本当に知らないということです。だからわれわれは仏の心を行動に
移すということによってはじめて仏をここに実現したということになるのです。

仏は法である、法は「宜」であり「述べる」であり、コトバである。また聖書のいうとおり、神も
コトバである。コトバとは何であるかというと震動である。震動とは何であるかというと活動で
ある。活動が神であり、仏である。仏は涅槃寂静で、空で何にもない――そんなことじゃないのです。

活動が仏である。法藏菩薩は活動せられて極楽浄土を建立せられた、今もまだ働き給うのです。
仏の本願とは、仏の活動です。仏とは“ほどける”ことで、縛りがなくなって自由自在になること
であって、無礙自在な働きができなくては、これは仏ではない、神ではないということになるので
あります

だから今、皆さんが神の子であるという実相を「生長の家」によって知らして頂いたならば、た
だちに、即刻、今日から、今から、この瞬間から「神の子」を活動させる、愛によって隣人に
働きかけてこれを光明化し救うということが必要なのであります。

                       つづく

2872SAKURA:2014/05/28(水) 21:15:02 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808 
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  
*========*【 神の子の生活を今生きよ ―その4の引用編 ― 】*=======*=======*

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
■>>日に日に生くる信心なり」を本当に知ったならば今生きることである<<

人間…生まれた以上は、まず!「働く事」と〜〜〜そう!!そうなのです!!
日日!!活かす事が全てを生かすモノに繋がる事でしょうか??

例えば「百万円の価値観」は、その人の中身…“心”からスタートと思います。ですので…
ユダヤの長者のお話??【バビロンの大富豪のお話】からも〜〜〜♫
【お金の価値観は、まず活かす事】から…そうしますと?私達の「生活習慣」も…
■【時は金なり〜〜〜】と言われます様に、すべて“心”からでしょうか??

■昨日私の「フエイスブックの友人」から【 祈りの招待状 】が舞い込みました。
正直な話…いつもなら、私の偏見が〜〜〜どうしても先に脳裏に浮かぶのです…。…が?

例えば…「整形しているから子供…その“業”として…子孫にきたのョ」と、いつもの私が…
ところが?昨日の「友人の招待」から…WEB投稿記事を見ますと…
■母親の“愛”に動かされたのです。「霊界の法則」にも〜〜〜いわれます様に【 “愛”!! 】

■創立者「雅春先生」が【真・理】・【光・明】・【智・慧】・【絶・対・の“ 愛 ”】この言葉から…
〜♫ 汝ら天地一切のものに感謝せよ ♫〜の冒頭が浮かんで…
そして、子供に対するひたむきなる母親の【 愛…の・姿 】…涙が…心を動かされました。

もう一度!もう一度!「皆様」の……【集団の祈り】
【集団の祈り】が〜〜〜??そうです。必ず!必ず!必ず!【叶・う!】
〜〜そして、主催者が「四万人の呼びかけ運動」なのです。

■【祈りリレ−】が、今!今!世界中に始まっているのです〜〜〜??
それで、此処【2チャネルに投稿】更に【わたしの日時計日記】にも呼びかけました。
昨日の結果は「5人の皆様のイイネ」を頂きました。【 感謝 】です。…が?
【祈りあい神想観】という「雅春先生の時代から…隣人愛」への素晴らしい【祈り方】…
それで、当時は、多々なる【奇・蹟】がありましたと思います…。
この事は「生長の家」…【光明化運動】に置けます【専売特許??】みたいにも思えるのですネ!
お忙しいと存じますが「皆様」……宜しくお願い致します…。

余談ですが〜〜〜何と!何と!この信仰に「無関係の友人の名前」が〜〜〜すばらしい方!!
本当に“活かす事”は、ここから!そうなのです!【愛…】からと思いました。
これこそ…【祈りにての…想念で…救済】すばらしい〜事と思うのです。…が?
この事は?「トキ様」全く!【信・仰…】とまったく無関係な事と思われますのでしょうか〜〜〜?

                                   再合掌

2873志恩:2014/05/29(木) 08:24:09 ID:.QY5jUA6
 藤原敏之先生著・「あなたは必ず救われる」より

【人生とは 魂向上のための 学校の様なものでありますから、何も問題がなくなるということはないのであります。
 人生とは問題のあるところだと考えた方がよろしいのであります。】

   {人生は魂修行の道場}

ものには裏と表があるように、人生観にも表(実相)から観た人生観と裏(現象)から観た人生観とがあります。
この自分の側(現象面)から観た人生観でありますが、それは人生とは魂修行の場であり、道場であるとする観方であります。

私達の霊魂は永遠に不滅でありまして無限に向上を続けているのであります。

 若い方が私に良く質問されることの中に、「人間死んだらどうなるか」というのがよくあります。
そんな時私は「死んでから先のことを知ろうとすれば、今を見たらよろしい」と申します。これは類推といって、今ある現実を通して未だ来ておらないことを予知して、予見する方法であります。

「君は今のあることを認めるかね」と言いますと「いまあることは認める」と言われますか「それでは死んだ先にも今と同じように世界があり、続きの世界があり、続きの生活があるよ」と申します。

今日があることを認めるものは明日のあることを認めるでしょう。
今年のあることを認めるものは来年のあることを認めるでしょう。今日があるということは昨日があった証拠であります。
してみれば今があるということは未来、死んだ先がある証拠でありますよと申しますと大抵は納得せられます。

その様に私達は仏教でいう始めなき始めから終わりなき終りと無限に続く旅路のようなものでありまして、向上への道程なのであります。
従って人生とは魂向上のための学校の様なものでありますから、

何も問題がなくなるということはないのであります。

 ですから人生とは問題のあるところだと考えた方がよろしいのであります。

学校には上級になればなる程、勉強の内容が難しくなるのであります。決して楽にはならないでしょう。それは力に応じて問題が与えられるからであります。

小学生には必ず小学生にあった教科書や授業が行われれます。中学生には中学生、高校生には高校生と段々に難しくなり、それに合った科目や授業が課せられます。

その様に私達も魂の向上の程度に従って、最も合った問題が与えられることになるのであります。
つづく

2874志恩:2014/05/29(木) 08:27:02 ID:.QY5jUA6
つづき

そのことが分らないと、やたらと問題が苦になり逃れることばかり考えるようになります。
そうなりますと、やれば出来る力がありながら力を発揮することが出来ず、
逃れることばかりに力を入れることになります。

これは大変な間違いであります。

 中学生の教科書が与えられ、中学生の試験問題がでるのは中学生の力があるからです。高校生の教科書が与えられ、高校生の試験問題が出るのは高校生の力があるからです。

それを忘れて努力しようともせず、中学生が小学生の問題を見て「小学生はいいな!」と羨んだとしたら中学生でありながら、中学生であることを忘れて中学生の資格を放棄することになります。

高校生が中学生の問題を見て中学生が羨ましくなり、こんな難しい問題は嫌だといって試験を逃れようとすることは
試験をボイコットすることになり、逃げ出そうとすることであります。

この様に自分に与えられた問題を他人に比べて、私だけが何でこのような目に合わなければならないのだろうかと愚痴を言ったり、不平不満ばかり言っている人は、

ちょうど学生が下級生の試験問題を羨んで試験を受けようとしないのと同じように落第することになり、落第すれば何遍でも及第するまで同じ試験を受けなければならないことになるのであります。

同じ問題で何時まで経っても解決しないで悩み続けている人は、この学生の試験ボイコットと同じであります。

 どんな問題でも、ちょっと大変だと思われるような事件でも、ああ私の魂は修行のために、
向上のためになくてはならない尊い問題が今与えられたのだ、これは私に必ず解決する力がある証拠だと信じて
「ありがとうございます」と感謝して受けたとき、どんな問題もスラスラと解決するのであります。

人間はもともと神の子であって無限力が与えられてありますから、どんな問題でも逃れようと思わず、
「ありがとうございます」と感謝で受けたとき必ず良くなるのであります。

向う倍力といって、逃れようと思わなければ、5の問題が与えられたら必ず10の力が湧き、10の問題が与えられたら20の力が湧いて来て必ず処理出来るのであります。

このことを信ずることが大切であります。

全て何でも他人と比べる位無駄なことはないのであります。人間の不幸の原因はみんなこの比べたがる心から起るのであります。

比べることは相対でありますから、不足はあっても感謝はありません。
感謝とは絶対のもの、必要なものとして、また神様からの授かりものとして受ける心であります。

「私だけが何故であろうか」と考える時、有る力も失われ苦しみは増すばかりであります。

2875a hope:2014/05/29(木) 10:26:02 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻 p109

第三の神性隠蔽としての罪の弁解

神と一体であるところの自己の実相を知らないことは第一の神性隠蔽であり、他と一体であるところの自己の実相を知らないことは第二の神性隠蔽となるのでありますが、これらの神性隠蔽を弁解してごまかしてしまう心は第三の神性隠蔽を生ずるのであります。

罪があればそれを隠して放さずにおくようなことをしないであからさまにして放置すれば、(知られまいとして「念」の力で繋ぎとめておかなければ)神性は「実」であり神性隠蔽は「虚」でありますから、自然に隠蔽は消え神性は顕れて出るのでありますが、なんとかいって神性隠蔽を(罪)でないと言いくるめようとするならば、弁解は隠蔽を生み、隠蔽は弁解を呼び、ツミ相(あい)相続して、実相の神我はますます深く隠蔽されてしまうのであります。

これに反して隠蔽(つみ)を罪と正直にみとめてそれを懺悔してしまい、謝罪(あやま)りきってしまいますと、それはちょうど夏の夕立が過剰の空中水分を泄瀉(せっしゃ)してしまいますように、あとにはすがすがしい神の子たる己(おの)が実相があらわれるようになるのであります。

罪の弁解は良心の麻痺を伴います。良心とは罪を犯しているところの肉我(にくが)の叫びではなく、自己に宿っているところの神(すなわち真我)の叫びなのであります。

だから、自己の罪の弁解は必然「真我」をくらますことになるのであります。

真我をくらませばますます真我の浮かぶ瀬がなくなるのであります。

だから、自己の罪を弁解して言葉で言いくるめましても、その勝つものは「偽りのわれ」のみでありまして、真我はますます覆いかくされ、内なる敗北はとうていそれをくらますことはできないのであります。

しかし、真我は敗北したのではない、内なる敗北は依然として「ニセ物のわれ」のみであります。

どんなにか罪を弁解しても、どんなにか罪を隠蔽してみても、心の奥底には蔽(おお)えば蔽うほど隠せばかくすほど、圧力を与えれば与えるほどハネかえる圧搾空気のように、良心の叫びというものは力強くなり、それをさらに潜在意識の底の方へ推し込んで忘れてしまえば、それはさらに肉体の病気というような別の姿で表面にあらわれてくるのであります。

2876a hope:2014/05/29(木) 10:27:23 ID:cEpBaIdo

トキさま、みなさますみません。

今、web誌友会板は志恩さまがわたしの質問にお答えくださっていますので、こちらでテキストのお勉強の続きをさせていただきます。
最初にもいいましたが、今回のテキスト第13巻14巻には現在の「生長の家」の問題を解決する大切なヒントが隠されていると思っているので、
中断したり、飛ばし読みしないように、丁寧にお勉強を続けてさせていただきたいのです。

トキさま、ですが不都合がありましたら、別の板に移動しますのでその時はご指示くださいね。

2877a hope:2014/05/29(木) 10:29:14 ID:cEpBaIdo

>>2875 a hope所感)

ここで言う「罪」とは、

1、 神と一体であるところの自己の実相を知らないこと
2、 他と一体であるところの自己の実相を知らないこと

になるのだと思います。

そして、

<<どんなにか罪を弁解しても、どんなにか罪を隠蔽してみても、心の奥底には蔽(おお)えば蔽うほど隠せばかくすほど、圧力を与えれば与えるほどハネかえる圧搾空気のように、良心の叫びというものは力強くなり、それをさらに潜在意識の底の方へ推し込んで忘れてしまえば、それはさらに肉体の病気というような別の姿で表面にあらわれてくるのであります。>>

とあります。

「神我一体」「自他一体」の真理こそ生長の家の『唯神実相』なのだと思いました。

それでは、「罪の弁解」「罪の隠蔽」とは、具体的にはどのようなことなのでしょうか?

このまま聖典をお勉強して行けば、より深く理解できるような気がしています。

2878トキ:2014/05/29(木) 10:44:17 ID:hDbyuNQo
>>2876

 いえいえ。何も問題はありません。よろしくお願いします。

2879志恩:2014/05/29(木) 13:01:57 ID:.QY5jUA6
トキ様

本流のお方から a hopeさんに お返事がなかったので、本流の代わりに、
少し、出させて頂きましたが、

すみませんけれど、私は、卒業したので、もう、消えたいのです。
あとの続きは、トキ様、ご指導を よろしく。
…………………………………………………...
a hope様

お返事は、私宛でなく、トキ様にお願いしましたので、私宛でなく、
できましたら、トキ様宛で、お願いします。

2880SAKURA:2014/05/29(木) 17:56:19 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808 
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  
*========*【 神の子の生活を今生きよ ―その4 ― 】*=======*=======*

>>2866>>2867投稿の続きです…。
 「日に日に生くる信心なり」を本当に知ったならば今生きることである。仏様は衆生を救わんが
ために千変万化していられることを知ったら、自分もそのとおりに生きることです。

これが本当の信心なのであります。
たとえばわれわれが百万長者であるということを本当に知ったら、その百万円の金をじっとさして
おくはずがなにのであります。あれも買いたい、これも買いたい、あの人にもちょっとやって喜ば
してやりたい、こういう事業も起こしたいと、これは本当に百万円を持ったということを知った人
のことです。だけれども百万円親が遺産として残しておいてくれても、そいつを見つけない間は、
百万円持っていてもそういう働きが起こってこないのです。

ところが、われわれが本当に百万円を持っているということを知ったら、そこに百万円の活動が
始まってくる。知るということは活動することである。われわれが仏の子であり、神の子である
ということを知ったならば、その仏を生活に生き、神を生活に生きるということになってこなけ
ればならないのです。

それを生活に移さないのはまだ本当に知らないということです。だからわれわれは仏の心を行動に
移すということによってはじめて仏をここに実現したということになるのです。

仏は法である、法は「宜」であり「述べる」であり、コトバである。また聖書のいうとおり、神も
コトバである。コトバとは何であるかというと震動である。震動とは何であるかというと活動で
ある。活動が神であり、仏である。仏は涅槃寂静で、空で何にもない――そんなことじゃないのです。

活動が仏である。法藏菩薩は活動せられて極楽浄土を建立せられた、今もまだ働き給うのです。
仏の本願とは、仏の活動です。仏とは“ほどける”ことで、縛りがなくなって自由自在になること
であって、無礙自在な働きができなくては、これは仏ではない、神ではないということになるので
あります

だから今、皆さんが神の子であるという実相を「生長の家」によって知らして頂いたならば、た
だちに、即刻、今日から、今から、この瞬間から「神の子」を活動させる、愛によって隣人に
働きかけてこれを光明化し救うということが必要なのであります。

                       つづく

2881SAKURA:2014/05/29(木) 17:57:57 ID:Do8GpIFQ
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808 
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  
*========*【 神の子の生活を今生きよ ―その4の引用編 ― 】*=======*=======*

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
■>>日に日に生くる信心なり」を本当に知ったならば今生きることである<<

人間…生まれた以上は、まず!「働く事」と〜〜〜そう!!そうなのです!!
日日!!活かす事が全てを生かすモノに繋がる事でしょうか??

例えば「百万円の価値観」は、その人の中身…“心”からスタートと思います。ですので…
ユダヤの長者のお話??【バビロンの大富豪のお話】からも〜〜〜♫
【お金の価値観は、まず活かす事】から…そうしますと?私達の「生活習慣」も…
■【時は金なり〜〜〜】と言われます様に、すべて“心”からでしょうか??

■昨日私の「フエイスブックの友人」から【 祈りの招待状 】が舞い込みました。
正直な話…いつもなら、私の偏見が〜〜〜どうしても先に脳裏に浮かぶのです…。…が?

例えば…「整形しているから子供…その“業”として…子孫にきたのョ」と、いつもの私が…
ところが?昨日の「友人の招待」から…WEB投稿記事を見ますと…
■母親の“愛”に動かされたのです。「霊界の法則」にも〜〜〜いわれます様に【 “愛”!! 】

■創立者「雅春先生」が【真・理】・【光・明】・【智・慧】・【絶・対・の“ 愛 ”】この言葉から…
〜♫ 汝ら天地一切のものに感謝せよ ♫〜の冒頭が浮かんで…
そして、子供に対するひたむきなる母親の【 愛…の・姿 】…涙が…心を動かされました。

もう一度!もう一度!「皆様」の……【集団の祈り】
【集団の祈り】が〜〜〜??そうです。必ず!必ず!必ず!【叶・う!】
〜〜そして、主催者が「四万人の呼びかけ運動」なのです。

■【祈りリレ−】が、今!今!世界中に始まっているのです〜〜〜??
それで、此処【2チャネルに投稿】更に【わたしの日時計日記】にも呼びかけました。
昨日の結果は「5人の皆様のイイネ」を頂きました。【 感謝 】です。…が?
【祈りあい神想観】という「雅春先生の時代から…隣人愛」への素晴らしい【祈り方】…
それで、当時は、多々なる【奇・蹟】がありましたと思います…。
この事は「生長の家」…【光明化運動】に置けます【専売特許??】みたいにも思えるのですネ!
お忙しいと存じますが「皆様」……宜しくお願い致します…。

余談ですが〜〜〜何と!何と!この信仰に「無関係の友人の名前」が〜〜〜すばらしい方!!
本当に“活かす事”は、ここから!そうなのです!【愛…】からと思いました。
これこそ…【祈りにての…想念で…救済】すばらしい〜事と思うのです。…が?
この事は?「トキ様」全く!【信・仰…】とまったく無関係な事と思われますのでしょうか〜〜〜?

                                   再合掌

2882a hope:2014/05/30(金) 08:41:33 ID:cEpBaIdo
「あなたは必ず救われる」藤原敏之先生著
『正しい人間観とは何か』p90〜

生長の家の『生命の實相』第一巻(頭注版)の七九ページに、「真理はなんじを自由ならしめん」という見出しで次のように書かれてありますが、これが生長の家の救いの根源なのであります。

<<「『生命』自身の力で治すには『生命』とはいったいどんなものであるかということを知らねばなりません。

表面の心で知るだけではなく、奥底の心で知らねばなりません。

『生命とは神の子である』―― 一言にしてこういえばなんでもないけれども、なかなかこの真理が本当にわかる人が少ない。

本当にこれがわかれば自分で自分を治すことができる。病気だけでなく境遇でも運命でも自分で治すことができる。

治すだけでなく、真理を本当に知ったときひとりでに治っているのである」 (p92 8行目〜)>>


<<谷口雅春先生も常に、「私が発見したことは字の数にすればたった五文字でありますよ」と申され、それが「人間神の子」の五文字なのであります。

このことをはなれて生長の家はありません。

他に沢山のことが書かれていますが、みんなこの「なぜに人間が神の子であるか」ということをあらゆる角度から説明せられているだけであります。

せんじ詰めれば、あくまでもこの五字なのであります。

ですからこの五文字の意味が頭の先だけでなく腹の底(魂)までわかったとき、救いが成就するのであります。(p93 5行目〜)>>

(つづく)

2883a hope:2014/05/30(金) 08:44:43 ID:cEpBaIdo
>>2882 つづき)

<< 影は影である

このように人生は神様からの尊い御使命であると同時に、自己の魂の向上のための道場でもありますから、何でも「ありがとう」と感謝して受けることが肝心なのであります。

生長の家は「天地一切のものに感謝せよ」との教えでありまして、都合のいいものだけや、よくしてくれるものだけに感謝するのであれば楽でありますが、そうではなく最も都合のわるいものや、自分を苦しめるものにまで感謝せよというのでありますから、ちょっとむずかしいのであります。

以上が生長の家の御教えの根本であるところの縦の真理であり、実相直視、本当のことを観ることによってどんな難問題でも立ちどころに解決する根本真理であります。

これを抜きにして現象だけを処理し解決しようとすることは、夢の中で夢を無くしようと努力するようなものでありまして、正しい解決法ではないのであります。

宗教の救いは無い現象を無くすことではなく、実相を現すことによってもともと無い現象が消えていくのであります。

それはもともとない暗(やみ)を無くしようと努力することではなく光をもってくることによって、あるかのごとく現れていた暗が自然に無くなるのと同じであります。

救いが現実に現れないのは、実相と現象、実体と影の関係を明確にしないで混同するからであります。

影は影であるとわかるとき、何が現れても心配がなくなるのであります。(p149 後ろから4行目〜)>>

感謝 合掌。

2884a hope:2014/05/30(金) 09:04:54 ID:cEpBaIdo
>>2882訂正 

【<<】を付ける位置を間違えました。
文章の始まりに付けてお読みくださいm(__)m。

2885a hope:2014/05/31(土) 22:29:24 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会  案内 ☆ ☆ ☆

期間  5月 6月
テキスト 「生命の實相」第13巻 及び 14巻
場所  聖典引用板

※管理人のトキさまから御承認いただきましたので、こちらでweb誌友会板でしていた聖典「生命の實相」のお勉強の続きをさせていただきます。
13巻と14巻は両方とも倫理篇ですので、6月になりましても第25回web誌友会をそのまま継続させていただきます。ご了承ください。

みなさまも是非ご参加くださいね!

2886a hope:2014/05/31(土) 22:30:58 ID:cEpBaIdo
☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

第四章 自心の展開としての客観世界 p111〜

第四の隠蔽は、三界唯心の理(り)を隠蔽すること

前節までにおいて、わたしは「罪」とは神性隠蔽であり、その第一は自己と神とが一体なる「神我一体」の実相の隠蔽であり、第二は自己と他己とが一体なる「自他一体」の実相の隠蔽であり、第三の隠蔽は隠蔽を生んで、自己弁解という第三の隠蔽を生ずるということを説いてきました。

「罪」とはじつは実相の隠蔽なのでありました。

なぜ「罪」というものができ上がるかと申しますと、外界は一見自己の外にあるように見えますから、外界というものが内界の投影であるという事実を忘れて、外界そのものとして、自己とは独立した存在であると思い込んでしまうところに、「罪」すなわち「実相隠蔽」ができ上がるのであります。たとえば

・・・(略)・・・

仏教では「三界は唯心の所現であり、心外に別に存在無し」と申しますが、それを徹底的に実生活の上でも実証せしめているのが「生長の家」であります。

キリスト教でも「口に入るものはなんじを汚さず、口より出(い)ずるものなんじを汚す」とイエスがいっていますのは、外にあるように見えているものは、本当は外に独立性をもっているものではないから、それ自身で穢す力はない、外の物で穢されるとか穢されぬとかいうけれども、実は外は内界の投影であるから、もし汚されるならば、内から出るものすなわち「心」によって、および心によって発せられる「言葉」によって汚されるのだといっているのであります。

われわれは日常生活において、「これは外界だ、われわれの心ではどうすることもできない」と思っている事件や、周囲の人々の行為や心持ちが、われわれ自身の一個の心を変えることによって、事件が変わっていき、人々の行為や心持ちが変わってくる事実によって外界はわれわれ自身の内界の投影だということがわかってくるのであります。

それは理論ではなく、事実なのであります。

2887a hope:2014/05/31(土) 22:33:27 ID:cEpBaIdo

>>2886 a hope所感)

第四章には、とても厳しい真理が述べられていると思いました。

ここのところを拝読すると、「生長の家」の信仰とは、決して生易しいものではないということがわかります。

<<われわれは日常生活において、「これは外界だ、われわれの心ではどうすることもできない」と思っている事件や、周囲の人々の行為や心持ちが、われわれ自身の一個の心を変えることによって、事件が変わっていき、人々の行為や心持ちが変わってくる事実によって外界はわれわれ自身の内界の投影だということがわかってくるのであります。
それは理論ではなく、事実なのであります。>>

この文の内容を素直に解釈すると、

自分にとって「不都合」であったり、「間違い」であると感じられる三界(現象世界)の出来事や、悪人と思える人物の所業ですら、
すべて自分の心の投影であるということになってしまいます。

そしてさらに雅春先生は、

『それは理論ではなく、事実なのであります。』

と断言されているのですから、ただならぬ気迫を感じてしまうのは、わたしだけでしょうか?

2888a hope:2014/06/01(日) 07:45:42 ID:cEpBaIdo
☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

「生命の實相」第13巻 p117〜

子供は母親にとって一見すれば外界の存在のように見える。外界の存在だと思って、外界扱いして、内界をうっちゃらかして、外界ばかりを治そうとしてみても治らないが、内界を治してしまうと、外界と見える子供の病気が治ってしまう。

すなわちこの二人の母親にとっては、彼女の子供は彼女の「外界」ではなく「内界」だったのであります。

これを押し広めて考えてみますと、彼女の子供だけなく彼女の周囲いっさいの人々が、彼女の外界の存在ではなく、彼女の内界の存在であることが判明するのであります。

さらにこれを押し広めて考えてみますと、すべて「外界」というものは無い。

すべてが自己の「心内の存在」だといいうるのであります。

こういうようにしてすべてが自己の心内の存在であるということを悟るのが、本当の知恵というものなのです。

すべてが自己の心内であるということが解ると、本当に「自他一体の実相」がわかってくるのであります。

言葉の便宜上、自他一体と仮に申しますけれども、「他」は本来無い、「自」ばかりなのであります。彼Aも「自分」であり、彼Bも「自分」であり、彼Cも「自分」なのであります。

三界は「ただわが心の所現」であることがわかるのであります。


で、罪とは「自他一体」の実相を知らないことであるとともに、「三界はただわが心の所現である」との真理を隠蔽して知らないことをいうのであります。

客観世界からただ自心の展開であることを悟らないために、外界に見える事物を「内界(こころのうち)の存在」だと知らず、外界に心を捉えられ、心をひっかからすために、ここに「五官的存在」に捉われる罪(隠蔽)が顕われてくるのであります。

2889a hope:2014/06/01(日) 07:53:44 ID:cEpBaIdo
>>2888 a hope 所感)

<<すなわちこの二人の母親にとっては、彼女の子供は彼女の「外界」ではなく「内界」だったのであります。
これを押し広めて考えてみますと、彼女の子供だけなく彼女の周囲いっさいの人々が、彼女の外界の存在ではなく、彼女の内界の存在であることが判明するのであります。
さらにこれを押し広めて考えてみますと、すべて「外界」というものは無い。
すべてが自己の「心内の存在」だといいうるのであります。
こういうようにしてすべてが自己の心内の存在であるということを悟るのが、本当の知恵というものなのです。
すべてが自己の心内であるということが解ると、本当に「自他一体の実相」がわかってくるのであります。
言葉の便宜上、自他一体と仮に申しますけれども、「他」は本来無い、「自」ばかりなのであります。彼Aも「自分」であり、彼Bも「自分」であり、彼Cも「自分」なのであります。
三界は「ただわが心の所現」であることがわかるのであります。>>


仏教で説く「三界唯心所現」の真理も、万教帰一の生長の家が解釈すると、「自他一体」の真理に行きつくようです。

ここの部分を拝読すると、生長の家の「心の法則」つまりは「唯心所現」の真理は、家族などの身近な人間だけではなくて、
自分の周りのすべての人々にあてはまってしまうのが本当の生長の家の教えのようですね。

2890SAKURA:2014/06/02(月) 14:57:24 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808 
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871>>2881 の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  
*========*【 いっさいのものを拝め ―その1の転載編 ― 】*=======*=======*

>>われらは野を、野の花を、み空を、み空の星を、青海を、大地を、火を、いっ
さいの大自然と生物とを観るに、その背後に神の生命の円相を観、その生命を敬し、
礼し、愛し、いやしくも浪費せざらんことを期す。<<

■そこで、自分自身が神の子であると自覚した時に、次いでこの神の自覚が発動し動き出
した場合に神の子が活動する環境はどういう世界であるかというと、これは第一カ条のと
ころでいったとおり、無限創造の宇宙すなわち「生長の家」であります。

仏教でいうと寂光土である。寂光土というとちょっと平和すぎるので、」活気溌溂たる
「生長の家」すなわち無限創造の宇宙だとわれわれはいうのですが、この無限創造の宇宙た
るやどういうものであるかというと、聖教『甘露の法雨』の講義の時に申しましたように、
それは無限次元の世界である。

われわれの住んでるいるこの三次元(縦・横・厚みの三つの広がり)の世界だけでもこんなに
美しい世界であるのに、それが無限次元の妙なる世界である。

その妙なる世界が、この五官にはその全体の貎は見えないけれども、妙なる世界のうつしとし、
写真とした見える。
(たとえば写真ですが、実際のわれわれ人間の相は写真と比べると、もっと複雑な相をし、も
っと複雑な次元を備え、もっと複雑な色彩を備えているのであるけれども、写真にはただ一色
の平面の姿に写っている。)

                       つづく

2891SAKURA:2014/06/02(月) 14:59:15 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編&引用編】
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808 
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871>>2881>>2890 の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  
*========*【 いっさいのものを拝め ―その2の転載編&引用編 ― 】*=======*=======*

□それと同じに、われわれの五官で認識める三次元の世界では実相の世界の複雑微妙な無限次元
の妙なる美しい世界が平凡な世界に見えているのであります。

かれどもわれわれはこの肉眼で見るところの野を、野の花や、み空の星や、蒼海や大地や、火や、
水や、いっさいの大自然や、生物や、いっさいの現象を見るのに、この第三次元の「縦横厚み」
厚みのこんな下らない、単純な、味のすくない世界とは見ないで、その奥の奥を観て、実相を観て、
もっと無限に美しい円満な、完全な神の生命というものを観る、そうしてそれを敬し、礼し愛し、
いやしくも浪費背せざらんことを念願とするのが生長の家の生き方であります。
                         
(その3)につづく

PS:「トキ様」・「観覧者の皆様」へ
『生長の家』の教義について、今回!私自身のフエス・ブックにて、前回より、こちらのコーナーで、
『絵本の「ジュリアの音信」…』を、シリーズで投稿しておりますが、やはり!やはり!
【人間の心…で決まる事】が、更に【霊・界】でも、それは「生前の行為」…更に、
【その奥の〜〜〜奥の潜在意識】とかが、全て!ごまかしが出来ないのが【霊界の世界】なのですネ!!

つまり【スケスケ〜〜〜の「神様」が全て…見通し】ということですネ!!

毎日の通勤にて【金光教の教祖のお言葉】が毎月!月初めに…「掲示板」に貼られていました。
そうです!“今月…6月も〜〜〜新しい〜「コトバ」がその掲示板に…!!それを読んで、やはり、
同じ事を〜〜〜今!現に「教え=心の訓練」を現実界で訓練していかないと…いけない!!
今!今!しか出来ない!!

■それは「ジュリアの音信」の本文の書籍本が入手出来まして、その本からも、
【人間は、霊的人間ですから…一日必ず!瞑想が大事です。その時間を無駄にされる事は???
更に、正しい固定観念の理念も…】と…言われています。

□【信・仰】しながら、媚を打つ事が【信・仰】ではない!!!更に、悪口とかも〜〜!
【信・仰は正しい理念をもつ事】なのではないでしょうか!!

では、次の続きを〜〜〜また!次回投稿させて頂きます…。
今回、私は「総裁先生」は、ある面では「エコ運動」が全面的に打ち出されています解釈になり、
従いまして【唯・物・論…】に見えてきます〜〜。

□■【人の心】は何処へ〜〜〜と…
この奥深い思考回路は??いかようにお考えなされていますのでしょうかと??「考える人」です。

                               再合掌

2892a hope:2014/06/03(火) 18:41:15 ID:cEpBaIdo
☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

「生命の實相」第13巻 p123〜

感覚世界の自主的征服

さて、この「三界はただ自心の展開である」との事実に眼が覚めてきますと、すべての感覚的事物への自己の奴隷的屈従がなくなるのであります。

ほとんどすべての悪徳は、一切事物を「自己の心内(こころのうち)の存在だ」と気がつかず、独立せる外界を構成せる事物であるとして、自己の内界(こころのうち)を調べないで、外界をできるだけ多く、自己の所有としようとし、他を制して、他と争い(利己主義)、あるいは自己を忘れて外界に隷属(感覚的耽溺)することになるのであります。

かくのごとくして、いっさいをただ「自身の展開」と見ないものには、利己主義と「感覚的事物への隷属」とがこもごも生ずることになり、争い、嫉妬、羨望、憤怒、憎悪、焦燥、貪欲、虚飾その他あらゆる罪悪(真理隠蔽)が、「三界はただ自心の展開である」という根幹的真理の隠蔽の枝葉として繁茂するのであります。


考えてみますのに、「争い」というものは、いっさいをただ自心の展開としてみないで、幸福の源泉を「物」にありと観、あるいは自己の幸福を奪うものを他者にありとして、他に犯されまじとして防ぎ、あるいは他者を侵して他者より「物」を奪うことによって、自己の幸福を増大せしめようとして、互に侵し防ぐことによって生ずるのであります。

すべてが「自心の展開」である、ということが判明しますと、ただわれわれの幸福を得るための仕事は、互に争うことではなく、ただ自心をととのえれば自己が生きるとともに、自他一体なるがゆえに他者もともに生きるという幸福なる環境が展開し、いっさいの争いは滅尽(めつじん)してしまうのであります。

羨望、嫉妬、憤怒、憎悪などという対他的悪感情は、争いと同じくいっさいを「自心の展開だ」とみないために起る第五、第六等々・・・の神性隠蔽として起るのでありますから、羨望するな、嫉妬するな、憤怒するな、憎悪するな、などと一々その悪徳について従来の「なかれ主義」の修養的倫理学によってこれを制しようとしましても、なかなか制しきれるものではないのであります。

それにはどうしても「生長の家の倫理学」によって「いっさいは自信の展開である」との真理をきわめ、それを実証的に自己自身の上に体験して初めて、対他的に争っても憤怒しても嫉妬しても羨望しても憎悪してもなんにもならない。

ただ自心を豊かにすれば、物が豊かに集まる。ただ自心を尖らせれば、自己を鋭く刺すがごとき尖った環境がやって来る。

すべては自心のとおりのものが現れて集まって来ることを如実に悟ったとき、自然にいっさいの対他的悪徳が消滅してしまうのであります。

2893a hope:2014/06/03(火) 18:43:21 ID:cEpBaIdo
>>2892 a hope 所感)

<<考えてみますのに、「争い」というものは、いっさいをただ自心の展開としてみないで、幸福の源泉を「物」にありと観、あるいは自己の幸福を奪うものを他者にありとして、他に犯されまじとして防ぎ、あるいは他者を侵して他者より「物」を奪うことによって、自己の幸福を増大せしめようとして、互に侵し防ぐことによって生ずるのであります。

すべてが「自心の展開」である、ということが判明しますと、ただわれわれの幸福を得るための仕事は、互に争うことではなく、ただ自心をととのえれば自己が生きるとともに、自他一体なるがゆえに他者もともに生きるという幸福なる環境が展開し、いっさいの争いは滅尽(めつじん)してしまうのであります。>>


ここに、「和解の方法」がしっかりと示されていますよね。
『聖典裁判』真只中の「生長の家」ですが、雅宣先生はじめ「教団」や「本流復活派」の講師の先生方は、
練成会や講習会でこの真理をどのようにご指導くださるのでしょう?

a hopeは興味津々です。

2894a hope:2014/06/05(木) 08:28:30 ID:cEpBaIdo
☆  ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

「生命の實相」第13巻 p125

第五章 実相を隠蔽する驕慢と自卑

第一の神性隠蔽(罪)としては「神我一体」の実相を包んで見ざること、第二の神性隠蔽としては「自他一体」の実相を隠して見ざること、第三の隠蔽としては「隠蔽(つみ)の隠蔽(いんぺい)として自己弁解すること、第四の隠蔽としては外界がただ自心の展開なる事実を観ず悟らず、外界をもって自分に対立するところの有限の世界だとして観じ、自心の整理を先にせず、物に執し物を奪い合わんがために、兄弟と相争い――ここにこれら四つの根本的神性隠蔽が相寄り相混じて、種々なる罪を構成するにいたるのであることは、前節までにおいて詳細説明せるところであります。

「物あり」と思うがゆえに、物に執着し迷うのであります。「物」が自心の展開であるということが判れば、自心を整えるよりほかに物を得る道はないので執着が破れてしまうのであります。

「自他一体」の事実が悟れないゆえに、利己主義が生じ、利己主義が、「物あり」という迷いと混合して、貪欲、怒り、憎み、嫉妬、虚栄などの諸罪を構成するので

2895a hope:2014/06/05(木) 08:31:10 ID:cEpBaIdo

>>2894 a hope 所感)

この部分は、今回のテキストである倫理篇のお勉強に入る前に、一度謹写させていただいたものの再掲載ですが、
「神性隠蔽」(罪)の仕組みがわかり易く説明されていると思います。

今まで、テキスト内容をじっくりお勉強してきましたので、今、あらためて拝読してみると、その言葉の意味がさらによく理解できるようになりました。


「罪なし」の生長の家の教えであっても、例外的にこの「四つの罪」は認めているようです。

<<ここにこれら四つの根本的神性隠蔽が相寄り相混じて、種々なる罪を構成するにいたるのである>>


「罪」とは ・・・

1、「神我一体」の実相の隠蔽
2、「自他一体」の実相の隠蔽
3、自己弁解
4、兄弟との相争い

2896carpinteyroywz:2014/06/05(木) 21:04:27 ID:???
|Avoid hot water when bathing and showering. Hot water causes your pores to open and lets natural skin oils escape. These oils are essential to keep your skin moisturized. The easiest way to avoid this is to use warm or tepid water. Doing so is more likely to keep your skin soft. You will also save money on energy bills.

2897曳馬野:2014/06/05(木) 22:20:10 ID:I/wU8psA


>>2893  a hope さん

すべてが「自心の展開」である、ということが判明しますと、ただわれわれの幸福を得るための仕事は、互に争うことではなく、ただ自心をととのえれば
自己が生きるとともに、自他一体なるがゆえに他者もともに生きるという幸福なる環境が展開し、いっさいの争いは滅尽(めつじん)してしまうのであり
ます。

ここに、「和解の方法」がしっかりと示されていますよね。
『聖典裁判』真只中の「生長の家」ですが、雅宣先生はじめ「教団」や「本流復活派」の講師の先生方は、
練成会や講習会でこの真理をどのようにご指導くださるのでしょう?

a hopeは興味津々です。
************************************************************************************
a hopeさんの云う事、笑っちゃいますね。この『生命の実相』の言葉が真理であると云うのであれば、
【ここに、「和解の方法」がしっかりと示されていますよね。】と「しっかりと」の修辞つきで断定しているのですから、ご自分が実践しさえすれば事足
れりではないですか。興味津々です、なんて周りを冷やかす必要はないですよ。【和解の方法】なんて言い方、そもそも可笑しいでしょう。第三者として
評論家になっているからこその発言ですね。あなたの心の影としての外界しか無い、というのが上の真理の言葉の意味でしょう。
雅宣先生や教団本流派の講師の先生方、というあなたと別人の見解なんて何で関係あるのですか。ご指導くださるのでしょうか、なんて言い方は、
「私から見たら皆さん真理の実践がありませんね」と云うのと変わりません。そのように自分と切り離された周りの人々がいる、と自ら真理に外れている
ことを表明しているのですよ。まして向こうに出張ってまで自分の信念を述べる、これは恥の上塗りでありましょう。

2898SAKURA:2014/06/05(木) 22:47:58 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808 
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871>>2881>>2890>>2891>>の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 いっさいのものを拝め ―その3 転載編 ― 】*=======*=======*

「生長の家」は、ここに明らかに生命礼拝の宗教でありますが、
原始人の生命礼拝の宗教とはちがう。
原始人は物の奥にある実相などというものを知らない。

だから生命礼拝といっても浅薄な現象の生命の礼拝であったので、
現象そのもを不思議がって礼拝していたのであります。この現象の奥の実相を観て礼拝することを
教えたのはまず『法華経』であります。
生長の家と仏教とは根本において少しもちがっておりませんけれども、現在世人が
普通に考えられている仏教というものとはややちがうのであります。

というのは、釈迦の説き方がわるいのでない、釈迦の説き方を理解することができなかった後の
祖述者が教祖の正説を完全に伝えなかったというわけであります。
仏教では「色即是空」――物質は空であると、こういうぐあいにいうのであります。

「生長の家」でも物質は本来空であるというのでありますが「生長の家」では
もう一つ「空」を越えた存在に「実」というのを付けているのであります。
仏教でもむろん「実相」という言葉は使っておりますけれどもそいつが時々誤れまして、
実相はすなわち空なり」というぐあいに説いている人が多いのであります。

実相を空であるとすると、そうすると、その「空」とはどんなものであるかというと、
空であるから、空気みたいで、エーテルみたいで形がない。形がないから、
何もないようなものであるから金剛不壊である。

たとえば空気はいくら斬っても斬れやしない。もう一つ空気よりも、手にも触れない、
エーテルみたいなものになってしまうといよいよ斬ることができないものである、
それであるから金剛不壊である。実相はエーテルみたいなものであるから自由自在であると、
こう実相を空々漠々なものとある仏教家は考える。

                    つづく

2902a hope:2014/06/06(金) 07:33:21 ID:cEpBaIdo
☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

「生命の實相」第13巻 p128〜

実相我を隠蔽する自卑(じひ)

驕慢(きょうまん)はかくのごとく「肉体我」を強調させた果てに「われ神なり」もしくは「われ神と高さを競うべきものなり」との自覚に入(い)るのでありますが、「肉体我」は本来無いのでありますから、それをいくら強めていってもくだけてしまうのであります。

驕慢の反対に、実相我を隠蔽する罪としては、自卑があります。

自卑と謙遜とが相似ることは、あたかも驕慢と自尊とが相似ているがごとくであります。

驕慢は肉我に対する過度の信頼であり、自尊は実相我に対するまったき信頼でありますが、それと相対照して、謙遜とは肉我の価値なき誇るに足らざることの自覚であり、自卑とは実相我のまったきことを知らず認めず、われ全体を不完全無力な採るにたりないものとして、みずから卑しめてしまうのであります。

謙遜の裏には「実相の自覚」があり、実相を尺度として反省し、まだ足りない、まだ足りないと自分を伸ばしてゆくのでありますから、いくらでも無限に伸びてゆく可能性がありますが、自卑の裏には自卑があるばかりでありますから、生長することができない、常にみずからの不完全を嘆き、失望落胆自棄あるのみとなるのであります。

2903a hope:2014/06/06(金) 07:35:20 ID:cEpBaIdo
>>2902 まとめ)

驕慢・・・肉我に対する過度の信頼
自尊・・・実相我に対するまったき信頼

謙遜・・・肉我の価値なき誇るに足らざることの自覚 。→「実相の自覚」。
自卑・・・われ全体を不完全無力なものとして、みずから卑しめてしまうこと。→「実相我の隠蔽」

2905SAKURA:2014/06/06(金) 22:08:38 ID:Do8GpIFQ
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808 
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871>>2881>>2890>>2891>>2898>>の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 いっさいのものを拝め ―その3 転載編・引用編 ― 】*=======*=======*

■ところがもしわれわれの実相というものがエーテルみたいなものであって、空々漠々のもで無色
透明の、ちっとも美しいこともなんともない、そういうふうなものが実相であって、変化の姿、美し
い姿というものは幻みたいな何もないものであると、こういうふうに説くまちがった仏教者に従って
「汝ら実相に還れ」という教えを生きることになったら、空になる、エーテルみたいになる、死んで
超高熱度で焼かれて、透明なガス体になるのが、仏教に従うことになってしまう。これではさしずめ
三原山の浅間山の噴火口に賑うことになるのでありますが、これではいけないのであります。

 空を単に解すれば実相というものはそんな空じゃないのっです。空は現象であって、実相は空では
ない、それは無限荘厳の世界である。無限の荘厳(うつくしき)のあるせかいなのであります。
ここが大切なところでありまして、『法華経』以前の仏教では「一切皆空」となっているのであります。
『華厳経』なんかでも、心・仏・衆生三無差別であって本来空のものである。心が悟れば仏になり、
仏が迷えば衆生になる。そうして仏といえども本来は空であって、なんにもないようなものであると、
こういうぐあいに説いてあるところがある。そうするとわれわれが悟りを開いて涅槃寂静、本来の
実相に帰するということは空になってエーテルみたいなものになることだとこういうぐあいに考え
られる。そうなると、われわれは首でも縊って自殺してしまったならば、座禅も禅定も要りはしない。
そういうエーテルみたようなものがわれわれの生命の実相であり、それに帰するのが実相に帰する
のだとしたならば、生きているのは何のために生きているのだかわからない、こういうふうに仏教
をまちがって解釈した人が多かったのが仏教衰頽の原因なのであります。

                         つづく

2906SAKURA:2014/06/06(金) 22:10:27 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808 
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871>>2881>>2890>>2891>>2898>>2905 の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 いっさいのものを拝め ―その4 引用編 ― 】*=======*=======*

PS:「トキ様 」へ「観覧者の皆様」へ
■只今!また「霊界通信」に此処昨今は、ハマって!読みふけっています。
「霊の世界」では、一人一人各自が「死後の世界」で導かれて行かれる世界は違うとの事!!
そして、さらに「悪霊」もしくは「憑依」とかの話なのです。…が?当時の「イギリス」での事です。
或る精神病院の博士は、「悪霊」に憑依された人は、その実験をなされ、その博士は〜〜〜?
「迷える霊」との対話の基本あるモノとは、一刻も霊的実相に目覚めさせて、迷いから救って
あげると同時に患者も正常に戻してあげたいという……では!どのような実験かと申しますと、

>>迷える霊を救うことに、三十年以上も、続けた精神科医は
米国人ですが、まず、「精神病」は“憑・依”であるとして、自ら考案した特殊装置で、患者に静電気を
掛ける。すると、その電波が霊にはカミナリに当ったような反応をするらしく、いたたまれなくなって、
患者の身体から離れる。そこを、この時と言わんばかりに…つかさず「背後霊団…」が捕えて、
今度は「霊媒」であるウイックランド夫人に乗り移らせる。霊は生身の人間に乗り移っているという
自覚なしにに霊媒師と対話を交わし、次第に自分の置かれている実情に目覚めていく。
これを“超霊実験”と言われるそうです<<。

このお話から【先祖供養】も「地・獄」に行かれた方には、まず!目がつぶれているのですョネ!
別の表現では〜〜〜『真っ暗な世界』そこからの〜〜〜精神の修行は??まず!無理ですが?
この方は、それでも〜〜〜「供養」もある面では、大事です〜〜〜ョネ!!
「西・洋」でのこの博士の「供養方法」も、それなりに『霊界の供養…救出は大事だと』思いました。

■【迷える羊】は、まず!!!【真理=心の展開】からだと思います。
今!今!私にかせられた課題は〜〜〜【出来る事をもっと!もっと!有言実行…】と思いました。

                             再合掌

2907SAKURA:2014/06/07(土) 20:57:15 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808 
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871>>2881>>2890>>2891>>2898>>2905>>2906>> の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 いっさいのものを拝め ― その5 【転載編】 ― 】*=======*=======*

■けれども、『法華経』は決してこの、そういうエーテルみたいな千遍一律の、空気よりも
まだまだはかないような同質平等な世界を説いているのじゃないのであります。

『法華経』の「自我偈」に書いてある実相の世界は、一様平等なホモジニヤスな世界では
なく、実に実に美しい世界が書いてある。園林諸々の堂閣、種々の宝をもって荘厳せり、
宝樹華果多くして衆生の遊楽する所なりと書いてある。

あれが本当の実相の世界です。

言葉に現わしてあるからまだ完全に現われてない。
それはただ形容が書いてあるだけでありますけれども、あれが実相の世界であります。
その美しい実相の世界が、われわれの五官のレンズを通して眺めると、そのレンズに
曇りがあるから今われわれが肉眼で見ているような、こういう美しさやら、汚れやら、
愛やら、争いやらが取り交ぜて現われている。美人もあれば、病人のような憔悴した
醜い相もあるというふうにでているのでありますけれども、本当のわれというものは
「無限荘厳の我」である。活気溌溂たる無限に生きる力を持って、無限荘厳の身を持ち、
無限荘厳の世界の中に今現に住んでいるのであります。

今現にその実相世界に住んでいるのです。

今現に住んでいるその世界を、肉体が死んでからそういう実相荘厳の世界へ住くのだと
思うとまちがいであります。衆生劫尽きて大火に焼かるると見る時にも、病苦にて痩せ
さらばうて貧しい病床にいるように見える時にも、今現に、われわれは宝樹華果多き実相
の国土に安楽身を逍遥させているのです。

今現に実相の国土にいるけれども、五官のスクリーンすなわち網目を通して、下へ映る
世界は縦・横・厚みだけしか映らない。それ以上のひろがりの世界はスクリーンの上に
あって残っているので、われわれの五官という網目を通して見るとどうしても縦横厚み
の三次元しか見えない。

その三次元だけでも完全に原型そのままに見えれば良いのだけれども、念のレンズに凹凸
さまざまの歪みがあるために、真直な顔が歪んで見えたり、近眼でないものが近眼に現わ
れたりしている。

それでその念のレンズの無明(くもり)というものを断ってしまったら近眼が近眼でなくなり、
あるいは病人が病人でなくなるというふうになる。けれども、ここに健康になり、近眼の治っ
た人間でも、それが五官に見える現象人間である限り、まだまだ本当の人間ではない。

それは本当の無限荘厳の、無限の美しさ――その何といおうか、言いようのない、無限の妙なる
実相人間の姿を、ただ縦横厚みの三次元(みっつのひろがり)だけを撮影する写真機で映した
人間なのです。

                     つづく

2908SAKURA:2014/06/07(土) 20:58:33 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808 
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871>>2881>>2890>>2891>>2898>>2905>>2907の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 いっさいのものを拝め ― その6【引用編】  ― 】*=======*=======*

PS:「トキ様」「観覧者の皆様」 へ 
【念の具象化】は、それぞれ“環・境”によって異なります〜〜〜ョネ!
ある人は裕福な生活をしている。ある人は生活貧窮に陥ってる環境それぞれ見方は
異なるのです〜〜〜ョネ!そうしますと【念の具象化】もまた異なる訳です〜〜〜ネ??

さて【念…】とは、その人の持ってるモノ=人格形成=思考になりますから、見方は
いろんな形で〜〜〜「変・形」!!

■私達の住んでいますこの「地・球」自体…現実!現象!が〜〜〜これが「三次元」なのでしょうか?
もしくは?あの世の集合体…此処では全て「思・考からのスタート」で〜〜〜す。

しかし、私達!現実の生活園内は「地球を自転」として動いています“環・境”……
言い換えますと…思うのですが??
「現象・現実として…五官の世界で見る事の出来ます“地球”を中心」にでしょうか?

此処で【霊の世界】では〜〜〜♫
「思考」で動いていますから、ここからも「念の取らえ方〜〜〜?」はと思いました。

【念=思考】もやはり、すべてが環境から来る訳ですから、今の私は、今現在、置かれて
います現状の出来事での【思考】よりも、
まずは、この「思考」を「4次元…の世界観での優先にと…」この様な【訓・練】が〜
大事ではないか〜〜〜な??と思えるようになり、現象で物事を理解するのではなく!

モット!モット!「心の目」を見つめての「無限なる思・考」……
此処からが本当に【こころが〜〜〜形に現われた世界観〜〜〜】が出現!!
これが……「谷口雅春先生」の…
>>それは本当の無限荘厳の、無限の美しさ<<が、
必ずや!「現象世界」でも現われるモノと…確信した次第なのです。     再合掌

2909SAKURA:2014/06/08(日) 19:58:17 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808 
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871>>2881>>2890>>2891>>2898>>2905>>2907>>2908の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 いっさいのものを拝め ― その7【転載編】  ― 】*=======*=======*

■それからじゃ無限次元の複雑な美しさが捨象られている、ただそれが比較的歪みなしに映って
いるのは、健康な人間として顕われているのであります。

そうして誌友皆さんの家庭生活等でも、「生長の家」へ入信して以来、本当に極楽のような円満な
家庭が出てきたという事実がたくさんありますけれども、たといそれが極楽の“よ”う“な家庭で
ありましても、現象世界の極楽状態は本当の実相の極楽状態には及ばないのであります。

ともかく、われわれは現象を見て現象だけを見てそれを全部だと思ってはいけないのです。その現
象の奥にある実相を見、そこに十全なる神の相、実相の円満な相を観て、そうしてそれに対して敬礼
をするという気持にならなければならないのであります。

蓮如上人は「一枚の紙もすべて仏物である」と言われたそうでありますが、その心持こそ大切である。
「生長の家の経済学」には「物質は無限供給であるから使うほど殖える」ということが書いてあります。

「使うほど殖える」から、紙でも無暗に一字ぐらい書いて紙屑籠に捨てると、これは大変経済循環を
よくしていいことだろう、こう考える人があるかもしれない。しかし、それは嘘である。
本当に使えば使うほど殖えるけれども、それは破って捨てるのは使うのじゃないのです。

われわれは一枚の紙にも、その背後に神の生命を見、神の無限の光を見、神の無限の愛を見、
これを拝まずにはおれない。これを礼拝して使わずにはおれない。今までは「もったいない」ということ
は棚の上に上げて蔵って置くとこういうふうな考え方が多かった。
それで「もったいない、もったいない、食べたらもったいない。着たらもったいない」と、戸棚や箪笥に
入れて置くという、これじゃいけないのです。

神の生命は、使ったら減るというふうなものでない。実に立派なものであるから、この立派なものを、
その顕われている生命の働きを十二分に発揮させて使うほど殖えるということになるのであります。

無限供給であるから破って捨てるというのじゃなにのであって、用途に従ってそこに顕われている
神の生命を使うほど、神の生命がはっきり顕われてくる、それが無限供給である。
使えば使うほど殖えるということになるのであります。

「物質は無い」ということは、そこに何も無いということではない。みんな仏物である、
みんな神の生かす力の顕現(あらわれ)である。その奥には物質ならぬ実相があるということであります。
これを履き違えると大変なまちがいになるのであります。

                         つづく

2910SAKURA:2014/06/08(日) 20:00:15 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808 
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871>>2881>>2890>>2891>>2898>>2905>>2907>>2908>>2909の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 いっさいのものを拝め ― その8【引用編】  ― 】*=======*=======*

PS:「トキ様」「観覧者の皆様」へ
そうです〜〜〜ョネ!物に関しても、私たちの世代は、どうしても?「親譲りの癖」が…
まるで伝統みたいに、ありますでしょうか??【モノを粗末に使用してはいけない!!】と…
或いは【質素倹約】…etc と言って、捨てきれない事が〜〜〜私もそうですが?
いつの間にか【ゴミの山…と】です〜〜〜ョネ!きっと〜〜〜「両親の時代」から受け継がれた?
いい事か?悪い事か?別問題と致しまして「親達の癖」…これは、戦争体験からの【物の無い時代】
…受け継ぐ事になりますのでしょうかしら〜〜〜ン!

今回!「亡きの母」の遺品の品の数々の整理に、正直!私も“思い出”があり、捨てきれなくて、
これが〜〜〜かなりあり、部屋が〜〜〜狭くなってしまいました。…が?今回!あるキッカケから、
全てを処分する“決心・決断”が出来たのです。!!

■それは〜〜〜人間は“霊・的・人・間…!”なのです〜〜〜ョネ!『ステッドの書籍』から〜♫

この頃では、死後直前に私に知らせてくれた「亡き母の白い〜白い〜丸い〜丸い〜御霊様」…
「亡き母」は?どこの部屋の世界に移動していますかと?勿論!知る由もありませんが「亡き母」の
大事なモノは〜〜〜きっと『心の想念』で、『霊の世界』では、全て目の前に出てくるようです。
きっと「亡き母」も、そのような『世・界』にいるモノと思えるような気持になりました。

それから「パートナーのお母様」が、若い頃に着物など、殆ど!手を通してないモノがあり、
多分〜〜〜きっと当時は、もったいない!もったいない!といって、着る機会を失くしたのでしょうか?
それから、【宝・石】も〜〜〜そうです。…が?
その年齢に応じたときの宝石の品があるモノと…それに身に着けて…それが活かされる「年齢に応じ」…
と言いましょうか?或る「一定の年齢」になると、これは【宝のもちぐされに等しい】モノへと、
移り変わっていく事と〜〜〜これが【無限供給】が?消えゆくのカモ〜〜〜><
さて、私も〜〜〜「もったいない!もったいない!〜〜〜のこのコトバ」から、今からは?
ドン!ドン!使用していきたいと思いま〜〜〜す。

今現在、沢山の『シルクの生地』があり、或る人は「スカーフに作られて商品化したら?」と…
言われました。当時の私は『シルクのスカーフ〜〜♫〜〜に??』…正直!ピンと?きませんでしたネ!

先に、どうしても「もったいない病」と言う感情が〜〜〜どうしても芽生えたモノでしょうか?
今では『お蔵に保管する』よりも、これを活かす事が『無・限・供・給』なのです〜〜〜ョネ!!

私は、実に、かなりの『無限なる宝物…失くしていたのでしょうネ』この様に思える昨今です。
今から【無・限に広がるアイディアを活かそう!みんな一人一人の…心を駆使しての運・動!】
このような『心の想念』をしていきま〜〜〜す。

■「神様」へ〜〜〜『天の倉に〜〜〜届け〜〜〜!願いを〜〜〜!』    

再合掌

2911神の子さん:2014/06/08(日) 21:44:55 ID:JJ2GRsqw

素晴らしい御教えを初心に帰って、学びましょう。 (106)
日時:2014年06月08日 (日) 18時36分
名前:感謝感激雨霰



素晴らしい御教えを初心に帰って、学びましょう。

http://blog.livedoor.jp/seimeinojissoh/archives/36749841.html
注目投票をする(12)


ええ…すごすぎる。。 (107)
日時:2014年06月08日 (日) 18時41分
名前:奈良の幽斎殿フアン



今朝の幽斎殿は、すごすぎる。

有り難いです。。。

2912トキ:2014/06/08(日) 21:47:33 ID:IhPq/Qug
>>2910

 質素倹約はいいと思いますよ。
ただ、程度が大事なのでしょうね。

 私も気をつけたいと思います。

2913a hope:2014/06/11(水) 10:04:38 ID:cEpBaIdo
☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

「生命の實相」第13巻 p130〜

不信仰は迷信の因(もと)

恐怖、臆病は究極において自卑の一種でありますが、焦燥不安の状態を喚起し、神への従順――ジッと大きなものにお委(まか)せすること――ができないような状態にいたらしめるのであります。

お委せの心がないから恐怖する、恐怖するからジッと委せておくことができない。

二つの隠蔽は、互に相反映して、ますます実相無畏(むい)の状態を隠蔽(いんぺい)してゆくのであります。

実相本源の神に委すことができず、実相無畏の状態が隠されてきますと、何か物質的な眼に見えるもので霊妙な働きをするものに頼らずにはおられなくなる。

そのためにいろいろの迷信発生し、偶像崇拝となり、本源神を忘れて、霊媒に乗りうつって出てくるいろいろの霊たちの教えを本源の神の示しと取り違えて、まことしやかに信ずることになるのであります。

ここにまた実相の神を隠蔽(いんぺい)する隠蔽(つみ)を生ずるのであります。

霊媒信頼は、かくのごとく実相本源の神にお任せすることができない不信仰のあらわれなのであります。

淫嗣邪神(いんしじゃしん)の崇拝も、人から見たら「あの人は信心深い人だ」と思われるかもしれませんが、また本人も自己を信心深いと思っているかもしれませんが、決して本当に信心深いのではありません。

それはかえって実相本源の神を信じないから、アチラの神を拝み、コチラの神を拝するようになるのであります。

2914a hope:2014/06/11(水) 10:06:37 ID:cEpBaIdo
>>2913 a hope 所感)

「実相本源の神」とは、「自分自身の実相」のことになるのだと思います。
そして、「神我一体」「自他一体」の真理から考えると、目の前に現れた自分とはかけ離れているように見える人物の中にも、
全て自分と同じ神(実相)が宿っていて、兄弟であるどころか、その人とは一体だということになります。

だから、わたしたちは本来「アチラの神を拝み、コチラの神を拝する」必要はなく、
目の前に現れている人間を、自分だと信じて、神だと信じて、常に拝んでいればいいのですね。

常不軽菩薩のような心になることこそ、生長の家の「実相礼拝」なのだと思いました。

なかなか難しいことだと思いますが、これができた時が大調和の時ではないかと感じています。

そういえば、わたしが入信したばかりの頃(4年前くらいですが)は、出会うと必ず信徒の皆さんはお互いに手を合わせて、
「ありがとうございます」と言って、拝み合っていたような気がします。

最近の生長の家は、どうなのでしょうか?

2915SAKURA:2014/06/11(水) 20:33:21 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
>>2778>>2779>>2784>>2786>>2794>>2795>>2796>>2797>>2798>>2801>>2802>>2803>>2807>>2808 
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871>>2881>>2890>>2891>>2898>>2905>>2907>>2908>>2909>>2910>>の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 いっさいのものを拝め ― その9【転載編】  ― 】*=======*=======*

 生命は生きるから生活であります。我れ神の子なりと知ったら、神の子を“今”生“き”る
と、いうことと、これが神の子を知るということであると申しました。それをまた客観界の
ものにしましたならば、神が一枚ここにある。この紙一枚が、その奥にある実相を見れば、
それが仏様であり、神様であって、ここに神の生命が現われているということを知れば、
それを“生”き“るということは、ことごとく与えられたる生命を完全に発揮させるという
ことです。この「生命を発揮させる」ということが紙を使うということです。すると使えば
使うほど殖えるのであります。この一枚の紙の使命を完全に発揮させたならば、そこに神
の生命が生きてきて無限供給ということが出てくるのであります。

 光明思想普及協会(この仕事は、現在は財団法人世界聖典普及協会がしている)が設立いた
しまして、たくさんの働く人が要るからというので就職希望の人は、就職希望願いを出してお
きなさいというふうに、広告が出ておりましたら、それに対して、就職願いをお出しにな
った方がたくさんある。そのすべての人に対してはまだ返事を差し上げていないのであり
ます。写真をみな写真ブックに貼りましてそれに番号を付し、そうしておのおの経歴を表
のようにして写真と経歴とを一目瞭然としてわかるようにして事業の伸張するに連れて
この人が欲しいなという人を一人来て下さいというふうに通知をすることになっておりま
す。そうして現在ではもう百名以上も社員が出来ているのであります。おころが、こんな
人がある。「実はわたしは生長の家の誌友になって実に自信に満ちておる、自分の願うこ
とは必ず成就すると信ずる、それで光明思想普及会へ雇われようと思ったら必ず成就する
とわたしは信じて、今まで余所に働き口があっても、働かずに何もしないで待っておりま
したが、とうとう一文も無くなりましたから、どうぞ使って下さい」とこういう人があり
ます。なぜこの人は働き口があっても働かなかったのでしょうか。今自分が神の子である
ということを知ったら、今「神の子」を生きるということを知らなければならないのです。

この一枚の紙ですらも、この一枚の紙の使命を発揮させるということが“生きる”という
ことである。いわんやここに人間がいるのに、今を生きるということを知らないで、「自分
の希望は必ず成就さしてくれるであろうから、成就さしてもらったら、雇ってもらったら
働こう、それまではまァ待命だ」とこう思っている――会社や軍隊なら待命があるかもしれま
せんけれども、この宇宙という「大生命の会社」には待命の期間というものは一つもないの
です。今ここに自分が生命として現われている限りは“もう常に現職です。

                      つづく

2916a hope:2014/06/12(木) 10:36:44 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

「生命の實相」第13巻 「第六章 価値の本質 」 

(p135 4行目〜)
・・・存在するように見えていても、本当にそれがなかったら値打ちがないでしょう。
そうすれば値打ち本体は「本当に存在する」ということから始まります。
そこで生長の家では、「本当に存在する」ものを実相と申します。・・・(略)


(後ろから4行目〜)
・・・それでは「本当にある」というものは一体なんであるかというと、相対的に表れたり消えたりするものは、「本当にある」とは言えないのです。

真とか善とか美とか仏性とか神性とかいうものは、それが現れていても現れていなくとも普遍的に存在するものであって、そこに条件がととのったときに認識せられるように顕現するのであります。・・・・(略)


(p138 後から5行目〜)
・・・真、善、美と三つを同列に並べて説明する人がありますが、真とは本当にあるものということで、「本当にあるもの」の道徳的活動が善であり、「本当にあるもの」の芸術的活動が美であります。

人生の目的とはなんぞや?

といいますと、人生に「真(しん)」すなわち「本当にあるもの」すなわち実相を表現することであります。

2917a hope:2014/06/12(木) 10:37:41 ID:cEpBaIdo
>>2916 a hopeまとめ)

本当に存在するもの = 実相 (真・善・美・仏性・神性などの不偏的存在)
本当には存在しないもの = 仮相 (相対的に表れたり消えたりする物質的・現象的存在)

○真・・・本当にあるもの 
○善・・・「本当にあるもの」の道徳的活動
○美・・・「本当にあるもの」の芸術的活動
○人生の目的・・・人生に「真(しん)」すなわち「本当にあるもの」すなわち実相を表現すること

2918SAKURA:2014/06/12(木) 22:41:34 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871>>2881>>2890>>2891>>2898>>2905>>2907>>2908>>2909>>2910>>の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 いっさいのものを拝め ― その10【転載編&引用編 ― 】*=======*=======*

■現職ではない人は一人もないのです。それを自分で勝手に休職にしているから金も入らなくなり、
あるいは病気の人ならどんどん身体が弱ってくるのです。これは自分の生命を休職にさしているか
らです。

生命を休職にさしていたら経済的に窮迫し、肉体的には生命が涸渇してくるのは当然のことです。
われわれは常にこの「宇宙大生命の大会社」の中に常に現職で雇われているということをしらな
くちゃならないのです。そうすればどこにいても現職の社員であるから、一生懸命に今働かな
くちゃならない、これが肝心であります。今、普及会に働いておられる人でも、雇ってあげると
いわないうちから、勝手にやってきて一生懸命荷造りしたり外部で一生懸命に宣伝していたよう
な人が多いのです。

その中に「あの人あんなに頼まないでも働くのだから入社させて上げたら」ということになって
社員になっておられる人もあります。こんな人は、光明思想普及協会の就職の辞令はずっと後に
出たかもしれないけれども、実相では宇宙大生命の会社に就職していた人です。

ところが、じっとしておって、「わたしは就職するにちがいないのであると思念していて、それま
で何もしないでいましたら、無一物になりました。生長の家を信じたら無限供給だと思って、信
じてじっとして待っていたのですからぜひやとって下さい」と、そういうようなのは、ちょっと
根本の解りようがまちがっているということになるのであります。

常にわれわれは自分の生命を、あるいは「物」の生命を、百%生かすということが必要なのであ
ります。人間に雇われなくても、大生命に雇われて働けるような人でなければ、本当に雇ってみ
ても本当に働けやしないのであります。
                     つづく
PS:「トキ様」  「観覧者の皆さま」 へ
複雑な心境です…。確かに!勉強もしなければ〜〜〜いい点を取る事はできない事。。。
ここが〜〜〜“努・力”なのです。…が?神の生命を生かす事とは、大生命をフルに使う!使いきる!
事でしょうかと??
当時の「雅春先生時代」の「職員の採用」は〜〜〜??如何なる募集法なのでしたかと??

私の記憶では?今回の記載されています事が、全てそのような形での「社員採用」がなされたとは?
或る面!言い難い面が見えます。…が?更に「信者」に対しての〜〜〜『見方』の伝統は?
どうだったかと思いますと、今にしてみますと、当時の「亡き両親の見方」…そして、
「私達の世代の見方」が、そこに時代背景も含めての【偏・見】が生じているように思えます。

「私の同世代の方」は、逆に【就・職】は〜〜〜当時「大卒は?本部職員としての希望」は?いたのでしょうか??
知る限り〜〜〜当時は、殆んど「企業就職」に行かれた方が多いように思えました。…が??
当時!知りあいの幹部は「大卒」が入社して来ないので、困っているとか?当時の教区幹部の大人の人が
言っておりましたが、それくらい「大・卒」は少なかったのです〜〜〜ョネ!
ですので、此処からも〜〜〜ある面では「矛・盾」を感じるモノがあります…。

■当時の採用の仕方を見ますと〜〜〜どれが正しいのか〜〜〜複雑です…。
現在の状態からも見ますと、自ずから「答え…」が出てきます。
〜〜あまりにも〜〜あまりにも〜〜他人任せが〜〜〜浮き彫りに感じる次第です…。

【いい人材…確保】〜〜これは『信・仰』という立場では〜〜どのように考慮すべきなのでしょう。

                                  再合掌

2919SAKURA:2014/06/15(日) 17:37:55 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871>>2881>>2890>>2891>>2898>>2905>>2907>>2908>>2909>>2910>>2915>>2918>>
の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 心を清く空虚にせよ ― その1【転載編&引用編 ― 】*=======*=======*

■「心の清き者は神を見ることを得」*ということは、キリスト教のパイプルにある句であり
ます。「心の清き者」というのはどういうものであるかというと、何も無い人です。何もない
人が「心の清き者」です。つまり「我」のない人であります。この幼児の心を持ったものが
初めて真理を知ることができるということは、バイブルにも、『生長の家』にも書いてあるので
ありまして、われわれがいくら知恵や学問をもっておりましても、本当に心が虚無(からっぽ)
になっていないと本当の真理を受け容れることができないのであります。

きのうも、ある青年学生が来て、「水素と酸素とを合わしたら水になるという化学の実験を
見てきたが、その時気がついたことですが、なぜ水素と酸素とを合わしたらどうして水ができ
るか、その『どうしてできるか?』というわけを教えて下さい」といってきたのであります。

それは原子価の関係や、イオンの関係で水素と酸素とが合したら水になると説明すること
ができますが、その奥をまた尋ねて原子価がこう、イオンがこうであれば、なぜそう結合し
て水になるかの理屈をさらに尋ねられたら理屈では答えられない。これは理屈ではない事実
なのです。
「水素と酸素と合したら水になる」ただそれは事実だから否定できないのである。これは事実で
ある。あるいは酸素と水素と合したら炭になるというふうな理屈が仮に成り立ったところが、
ただ「酸素と水素と合すれば水ができる」ということが事実であれば、事実ほど強いものはない、
こう答えたのであります。世の中には妙な人があって、生長の家で病気が治る事実があるのに、
「宗教で病気が治るはずがない、もし治ったらそれは邪教だ」という理屈を製造して躍起に
なっている人もあります。理屈で「治らない」と弁証し、多数決で決定しても事実治ったら
仕方がないのであります。

 それと同じくわれわれが「神の子である」ちはなぜ神の子であるか、なぜ人間は神の子で
ないのかとこういったところが、神の子である、これはもう理屈ではないのです。
神の子であるから神の子である。

 よく「無明(まよい)はどうして無いのか」と、こういわれる。「無明はないから、ないのだ」
と、これしか答えようがない。いろいろ理屈をいうことはできます。ある程度まで、
八十パーセントまで、なるほど、なるほどと思われるくらいには説明もできますけれども、
いくら巧みに弁舌巧妙に理屈を説いてみたところが、事実そうでなかったら何にもならない。
ところがいくら理屈で言えなくても事実がそうであればそれはもう否定することができないので
あります。
                             続く
PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
心を清く空虚にしますには、「我」失くすことでしょうかと「谷口雅春先生」がおっしゃています。
そうしますと「我」とは〜〜〜相手を捌く心持ちも“我”なのですョネ!!
【 捌く=砂漠 】ですから、本当に“心を空虚”になることは『砂・漠』のような心持でしょうか??
 (微笑)何処までも〜何処までも〜何もない!無の世界!!しかし其処には【無限に広がるモノ】が??
                             再合掌

2920a hope:2014/06/16(月) 09:28:41 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

「生命の實相」第13巻 p140〜

教育の目的

教育とは道徳教育にせよ、職業教育にせよ、芸術教育にせよ、知能教育にせよ、本来あるものを現れの世界に引っ張り出すところの方法、本当にある値打を現実の世界に延長しだしてくるということであります。
  
そこでこの人生の目的も、道徳の目的も、教育の目的も、芸術の目的もみな一つの本当にあるものに一致してくるということになるのであります。

むろんそれが一致してこなければならないというのは、それはすべての価値は本当にあるものに源を発するのであり、人生の目的は、本当にあるものを現すにあるからなのであります。

人生の目的がそうであるとしますと、道徳の目的も、芸術の目的も、教育の目的も、さらにもっと進んでいえば、あらゆる人間の文化活動の目的はいずれも本当にある値打をいかに現すか、ということが根本になるわけなのであります。

2921a hope:2014/06/16(月) 09:30:16 ID:cEpBaIdo
>>2920 a hope所感)

「人生の目的は何?」

これは、人間として生まれてきたからには、誰でも一度は考えることなのではないでしょうか?

人によっては哲学的に深く掘り下げて考えたり、精神世界に目覚めて来世に期待をかけてみたり、
また、魂や来世なんてないと信じて唯物的に勝手気ままに生きてみたり、人それぞだと思います。

わたしは今まで、人一倍、この「人生の目的」について考えて生きて来たと自負しています。
そして、たどり着いたのが、この「生命の實相」でした。

谷口雅春先生はご昇天されましたが、こんなに素晴らし聖典をわたしたちに残してくださいました。

だからわたしは、谷口雅春先生のご遺志を引き継ぐために、「生命の實相」をお勉強せずにはいられません。

2922a hope:2014/06/17(火) 08:23:26 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

「生命の實相」第13巻 

教育の方法論の根拠 p141 後から5行目〜

今まで教育盛んにしてますます「悪」が盛んになったのは、「悪」を指摘し、「悪」を心の世界に描くようにしたからであります。

心の世界で「『悪』というものはないんだ、あるかのごとく見えても、それは心をそこから放下してしまえば本来無いのであるから消えるほかはない」と、全然考えないことにしますと、それで消えてしまうのであります。


ある宗教で「かんしゃくを起こすな」という御神宣をいただいたとする。

しかし癇癪を起すまいとしましても、腹が立つ。

「そんな値打ちのないことしなさんな」といわれるけれども、「値打ちがないこと」も、それが言葉で表現する限り、「アル」として表現されているので、人生は言葉の表現を模倣するものですから、腹立ちも「値打ちのないこと」も本来ないにもかかわらず消えないのであります。

2923a hope:2014/06/17(火) 08:24:17 ID:cEpBaIdo
>>2922 a hope 所感)

催眠術は、相手を催眠状態にして、暗示の言葉で相手の体や心を自由に動かしますが、
この「心の法則」は、自分の心の波動を整えることで、相手の心の波動もよくしてしまうという原理なのではないかと感じています。

また、反対に自分の心を尖らせて波動を悪くすれば、相手の波動も乱れ、不機嫌になったり怒り出したりするのだと思います。

ですから、この「心の法則」は個人の力では、より心情的に身近な家族や友だち、同僚、直属の上司などにはより強く働きかけるのでしょうが、
その一人一人の波動が集結して大きな集団になった時には、善いことにせよ悪いことにせよ、
信じられないような大きな力を発揮することになるのだと思います。

2926a hope:2014/06/18(水) 10:18:08 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

「生命の實相」第13巻 p142〜

悪は実在しない

「悪しきもの」は「価値がない」、「あるものは必ず価値がある」「価値の本体はあるということである」だから、「価値がない」ということは本来存在しない、あるいは本当にあるものが現れていないことである。

ここまでわかれば釈迦の説かれた――「まことに『怨み心』をもってしては、怨みをとくことができない。『怨まない心』のみ『怨み』を解くことができる」といわれた本当の意味がわかるのであります。

憎む、腹が立つ、怨めしい!ああしかしながら、「悪」は恕(ゆる)さなければならぬから、恕してやりたいと、そんな心構えでは怨みは解くことはできないのであります。

実在の世界は善のみであるから、恨むべきような悪があるがごとく見えても、そんなものは無いんだ、ただ愛のみ実在であるから、彼は自分を愛し、自分は彼を愛している、これのみ本当にあると、これのみ実在であると、それのみを念じておりましたら、実在は「念」を表現の媒体として顕現してくるものでありますから、怨み憎しみは消えてしまって、本当にある愛の生活のみが顕現してくるのであります。

『甘露の法雨』に「仮想(かりのすがた)に対しては実相を以て相対せよ」とあるのはこれでありまして、これが「生長の家」の倫理学および教育学の根本になるのであります。


ともかく倫理学とは価値の学問であり、教育学とはその価値を引き出す学問であり、価値とは値打であり、値打は、有るという実相からくる。

そこで「ある」とは一体なんであるか、世界は見えるとおりにあるのではあるか、世界は「物質」でできているのであろうか、「心」でできているのであろうか。

今しばらくその点を再論してみたいと思います。

2927a hope:2014/06/18(水) 10:20:51 ID:cEpBaIdo

>>2926 a hope所感)

<<実在の世界は善のみであるから、恨むべきような悪があるがごとく見えても、
そんなものは無いんだ、ただ愛のみ実在であるから、彼は自分を愛し、自分は彼を愛している、
これのみ本当にあると、これのみ実在であると、それのみを念じておりましたら、
実在は「念」を表現の媒体として顕現してくるものでありますから、怨み憎しみは消えてしまって、
本当にある愛の生活のみが顕現してくるのであります。>>

ここにも、具体的な和解の方法が述べられていました。

「彼は自分を愛し、自分は彼を愛している」と念じていれば、「怨み心」は消えてしまうと書かれています。

そして、そう念ずることで、自分の中に「怨まない心」(愛)が現れた時、
現象的にも大調和が訪れる(本当にある愛の生活のみが顕現する)ということですね!

2928a hope:2014/06/18(水) 10:23:31 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第13巻」p54

仏陀の聖訓

「まことに『恨み心』をもってしては、その怨みを解くことはできない。ただ『怨みなき心』によってのみ怨みを解くことができる。このことは、永恒(えいごう)に易(かわ)ることのない真理である」とは『法句経(ほっくきょう)』の第五にある仏陀の聖言である。

「恨み心」をもってしては怨みを解くことはできない、「怨み無き心」によってのみ怨みを解くことができるなどと実にきまりきったことだというような、怒っている心は怒っているのだ、笑っている心は笑っているのだというようなあたりまえのことを仏陀は何故いったのであろうか。

これは「迷っている妄心」で「迷い」を無くしようと思っても、結局その迷いを解くことはできないものであるという真理を説かれたものである。

怨みを解くには、怨んでいる心でその怨みを解消しようと思っても駄目なのである。

「本来怨んでいない心」を出して来た時、怨みはひとりでに解けてしまってしるのである。

「暗(やみ)の心」で「暗の心」を消そうと思っても駄目である。

「光の心」を出して来さえしたら暗の心は自然に消える。

そのほかの心をもってしては「暗の心」はとうてい消えないのである。

「暗の心」は「無い」と知ったら、「怨み心」は本来無いと知ったら、もう暗の心は消えており、恨み心は消えているのである。

2930うのはな:2014/06/18(水) 16:32:20 ID:HRiaVPh.

   生長の家は『生命弁証法
  http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1424

2931SAKURA:2014/06/18(水) 17:31:19 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871>>2881>>2890>>2891>>2898>>2905>>2907>>2908>>2909>>2910>>2915>>2918>>
の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 心を清く空虚にせよ ― その1【転載編&引用編 ― 】*=======*=======*

■「心の清き者は神を見ることを得」*ということは、キリスト教のバイブルにある句であり
ます。「心の清き者」というのはどういうものであるかというと、何も無い人です。何もない
人が「心の清き者」です。つまり「我」のない人であります。この幼児の心を持ったものが
初めて真理を知ることができるということは、バイブルにも、『生長の家』にも書いてあるので
ありまして、われわれがいくら知恵や学問をもっておりましても、本当に心が虚無(からっぽ)
になっていないと本当の真理を受け容れることができないのであります。

きのうも、ある青年学生が来て、「水素と酸素とを合わしたら水になるという化学の実験を
見てきたが、その時気がついたことですが、なぜ水素と酸素とを合わしたらどうして水ができ
るか、その『どうしてできるか?』というわけを教えて下さい」といってきたのであります。

それは原子価の関係や、イオンの関係で水素と酸素とが合したら水になると説明すること
ができますが、その奥をまた尋ねて原子価がこう、イオンがこうであれば、なぜそう結合し
て水になるかの理屈をさらに尋ねられたら理屈では答えられない。これは理屈ではない事実
なのです。
「水素と酸素と合したら水になる」ただそれは事実だから否定できないのである。これは事実で
ある。あるいは酸素と水素と合したら炭になるというふうな理屈が仮に成り立ったところが、
ただ「酸素と水素と合すれば水ができる」ということが事実であれば、事実ほど強いものはない、
こう答えたのであります。世の中には妙な人があって、生長の家で病気が治る事実があるのに、
「宗教で病気が治るはずがない、もし治ったらそれは邪教だ」という理屈を製造して躍起に
なっている人もあります。理屈で「治らない」と弁証し、多数決で決定しても事実治ったら
仕方がないのであります。

 それと同じくわれわれが「神の子である」ちはなぜ神の子であるか、なぜ人間は神の子で
ないのかとこういったところが、神の子である、これはもう理屈ではないのです。
神の子であるから神の子である。

 よく「無明(まよい)はどうして無いのか」と、こういわれる。「無明はないから、ないのだ」
と、これしか答えようがない。いろいろ理屈をいうことはできます。ある程度まで、
八十パーセントまで、なるほど、なるほどと思われるくらいには説明もできますけれども、
いくら巧みに弁舌巧妙に理屈を説いてみたところが、事実そうでなかったら何にもならない。
ところがいくら理屈で言えなくても事実がそうであればそれはもう否定することができないので
あります。
                             続く
PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
心を清く空虚にしますには、「我」失くすことでしょうかと「谷口雅春先生」がおっしゃています。
そうしますと「我」とは〜〜〜相手を捌く心持ちも“我”なのですョネ!!
【 捌く=砂漠 】ですから、本当に“心を空虚”になることは『砂・漠』のような心持でしょうか??
 (微笑)何処までも〜何処までも〜何もない!無の世界!!しかし其処には【無限に広がるモノ】が??
                             再合掌

2932SAKURA:2014/06/18(水) 21:03:41 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編・引用編】
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871>>2881>>2890>>2891>>2898>>2905>>2907>>2908>>2909>>2910>>2915>>2918>>2931
の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 心を清く空虚にせよ ―その2【 転載編&引用編 ―】*=======*=======*

■人間はどうして神の子であるのか、人間はどうして物質ではないのか――ゆうべ
出た話ですが――人間はどうして神でないのか、こういったところが、これはそんなよう
な理屈が成り立っても、人間は神であるという事実があれば仕方がない。事実が実相であ
る。それできのうもある人が来られて言われるのに、「先生は実相は真理である、真理ほ
ど確かなものはないと言われますが、わたしはその真理という言葉が感心しない、理とい
うとなんだか理屈で本当の真ではない気がする。こんな気になったのは、先生実はある雑
誌に生長の家の妄評が書いてある、本を読んで病気が治るなんて、そういう馬鹿なことは
あるはずがない、もし治るのなら、生長の家が騷ぎ出してから、日本全人口の中ので何パー
セント死亡率が減ったか、何パーセント罹病率が減ったかということを示してみよ、生長
の家が宣伝し出してから、ちっとも日本人全体の罹病率は減ってはおるまいがな、という
ふうなことが書いてある。なるほどひと理屈らしいのですが、これは理屈です。日本人総
体の死亡率が減っていなければ、いくら個々の人の病気が治った実例があってもそれはウ
ソだとその雑誌は言っているのです。先生こんなのを事実を無視した理屈の『真理』と言う
のですなァ」と言われるのです。この人は生長の家で現に病気の治る事実を見て知ってい
られるのです。幸いに生長の家では罹病率の激減した会社の統計や、事故率が絶無に減じ
た鉄道の統計があったからそれを発表しましたが、仮にここに三十人の生徒が近眼であっ
た、その三十人の近眼が治ったら、近眼が三十人減ったということは事実である。理屈で
推論して、とっとも日本人全体の病人数は減っておらぬといっても、十人病気が治ったら、
事実十人病人は減ったのであって、これほど確実なことはないのです。理屈さえ通ったら
事実が消せると思ったらまちがいです。そのうち日本人総隊の死亡率が減ったとわかる
時代が来ると信じます。

ともかくこういうふうに理屈が心の中にいろいろと詰まっている。人は事実があっても
本当に素直に受容れることができない。現に眼の前で病人が一人減り二人減り続々と減って
おる事実を見ても全人口でどこが減っておるかという、こういうことを言いたくなってくる
人を、こういう我の理屈や塵挨を心の中にいろいろともっていて真実を受入れることが出来ない
人を、心の清くない人というのであります。

心の清き人は本当に神を見る、実相を見ることができる。心の中に塵挨(ごもく)が一パイ
にないからするすると真理が入るのであります。かえって幼児に、なんの学問もない、小さ
な五つ六つぐらいの子供が生長の家の真理を知り、神を知っているというような実例がたく
さんあります。
                           つづく

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」へ
実例?事実?〜〜〜これって…本当に「素直に受け入れる事」でしょうか??

■私事ですが?「私自身のフエイス」には【霊界通信…新樹】を投稿していま〜す。前回の
「ジュリアの音信」から続いての投稿なのです。…が?

実は、「トキ様」が紹介して頂きましてから「新樹の通信」を、一度!は、読んでいたのです。
今回、“ライティング”という事で、もう一度復習し直し!改めて「霊界の中身」が見えてきます。

                              つづく

2933SAKURA:2014/06/18(水) 21:05:25 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871>>2881>>2890>>2891>>2898>>2905>>2907>>2908>>2909>>2910>>2915>>2918>>2931>>2932
の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 心を清く空虚にせよ ―その2【 引用編 ―】*=======*=======*
>>2932 【転載編…投稿】の続きです…。

更に「ステッド通信」と交互に読んでいく内に、私達一人一人には【守・護・霊】がいますョネ!
海外の「イギリス」では、その方が亡くなられますと、その【守・護・霊】なのですが〜〜〜
年代の背景が余り大差がなく、身内とか?〜〜〜時代の誤差はあまり生じていないのですョネ!

ところが?「日本」の場合は〜〜〜何と!何と!「新樹の母様の守護霊」は〜〜〜
足利時代の方が【守・護・霊】という事で〜〜〜ビックリマークです。
更に「新授の守護霊」は〜〜〜かなりお爺様!!しかも『年代の差』があるように見えます。

そうしますと、このように【西洋】対【日本】との比較では?どうしても隔たりが……><
当時!昭和五年前後の中身にてなのです。…が?これも事実なのです〜〜ョネ??

■では「現在の私達」は〜〜〜どうなんでしょうか??「考える人」

しかも?思うに…現在の私達の【日本語=漢字】が〜〜〜簡略化に成り過ぎていますし、
更に、江戸から〜〜〜現在まで〜〜〜【幽・界】では殆んどが〜〜〜「地・獄」と思えてしまいます。

┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏
┏━━━┓
┃\_/┃ " ステッド通信からの言葉より〜♫〜 "
┗━━━┛            ■【 ステッドの言葉 】…
 この実在界では、いかなる存在との間にも親和力を感じます。地上で人間どうしで
感じる親近感よりはるかに親密です。その親和力がこの世界全体に光輝をを生み出して
います。地上のように光線となって放たれているのではありません。この世界の大気
に相当する雰囲気そのもが、明るい活性力をもった生命力にあふれているのです。

 ここで生命活動は壮麗という形容がふさわしいでしょう。大胆になるといっても
よいでしょう。幸福感に満ちあふれております。しかし、そうした恩恵に浴すること
ができるのは、地上で分別あるまともな生活を送った人間に限られます。

無分別な生活、自己中心の欲望に駆られた人生を送った者は、死後、困難と苦悶と悲哀
とが待ちうけております。げに、“蒔いたタネは自分で狩り取らねばならない”のです。
┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏

上記に【ステッド通信…】からの抜粋投稿なのです。
「ステッド氏」が【ブルーアイランド】から次ぎの界に上昇した世界の処を、
紹介しておりますが、【霊界の入口】には、【ブルーアインランド】・【サマ−アイランド】があり、
そこでも、厳しい現世での行為への「おさらい?」があるようです。そして、更には、その上の階級に
上昇して行く過程にても、やはり「過去のおさらい事?」があるのです〜〜〜ョネ!!
【 蒔いた種は〜〜〜自分で刈り取らなければならない 】…

■このような事でも〜〜〜或る人は信じる事となり?或る人はいや信じない事と?〜〜〜
これも?「死後の世界=あの世」…旅立って分かる事でしょうか??
「ステッド氏」は、この事を「理解出来る人」そして「それを信じる事」も〜〜〜
「素直な心」だとも言っています。

歴史上有名な…あの「タイタニック号」の現場で…「ステッド氏」はご自身の生命を顧みずに、
命がけで「700のボートに人々を乗せた救命活動」は〜〜〜スゴイ!一言に尽きますネ!!

さて!「トキ様」…これも【理・屈】で考えますでしょうか??それとも【屁・理・屈】???
やはり、すべて【真・理】をつかんだモノが〜〜〜【天国の門=狭き門】なのですョネ!!
                                再合掌

2936トキ:2014/06/19(木) 13:51:10 ID:9YaKBDTs
>>2933

 タイタニック号は、心霊現象に関する話題が多いです。
衝突を事前に予言していた人も多いみたいでした。

 理屈も大事ですが、事実は説得力がありますね。
科学理論でも、実験という事実で裏付けされて、初めて
真実だとされますから。

2940SAKURA:2014/06/19(木) 22:19:45 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871>>2881>>2890>>2891>>2898>>2905>>2907>>2908>>2909>>2910>>2915>>2918>>2931>>2932
>>2933の投稿の続きです….。

>>2936「トキ様」……お返事ありがとうございます。

最近!まじめに、取り組んでいるのです。…が??
今まで「心霊現象」を或る方は〜〜〜“タタリ…”とか??“魔物が取りつく…”とか??
そのように、子供の頃は、実に〜〜〜“怖い存在”でしたのですネ?

■私の「フエイス・ブック」に投稿するようになりましたキッカケは、最近!
【人間の心が枯れて行ってる状態〜〜〜??】ではないのでしょうか?

しかも!特に私の周辺に出没します…「皆様」も御存知の「吸血鬼・ゾンビ達」の
【常識のない行動】には〜〜〜モウ!モウ!モ〜〜ウ!と言いた感じで。。。
毎日毎日【心…がドンドン枯れて行っていました!】そのような時に、
正直申しますと「雅春先生の書籍本の数々」を読んでも〜〜〜><
また!【現・象】にどっぷりと?浸るような錯覚現象がおきていたので〜〜〜す。

或る時、何気なく「アマゾン」のコーナーから【ジュリアの音信】の本…
それも“本文”で「中古の本」〜〜〜それを注文して、その後!「心が何となく〜〜〜スッキリ!」
まるで!雲の間から…光〜☆!が……それから、去年!買っておりましたが「本棚」に…
「タイタニック号の書籍」が……その本を開きますと!何と!何と!【ステッドの通信…】

■ 【 人間は〜〜〜霊的人間〜〜〜魂は永遠〜〜〜!!! 】

また!また!その内容から〜〜本当に「真実論に展開して行く」のですから〜〜〜気が附きますと、
「谷口雅春先生のお言葉」が〜〜〜自称!前以上に理解が出来まして、この頃では
【神想観】が出来ない時は、電車の中で“瞼”をつむって…【瞑・想】その時?オカシナ現象事ですが?
【実相円満行…】をしている私なので〜〜〜す。

■現象で物事を見て行く時…どうかしますと【相手を捌く心】がどうしても心の中に…生じます。
その時の私は〜〜〜「人間!皆神の子なのだヮ!!」と云い聞かせて〜〜〜みても〜〜〜><
正直!なかなか「心…」そのモノが〜〜〜変わるわけでもない〜〜〜意味がないように思え〜〜〜
そこで“瞼”を閉じて【円満な世界観を描く…円満行】をしますと〜〜〜♫
不思議な現象事が〜〜〜起きるのです。
■やはり「人間は霊的に備わっている!」のです〜〜〜ョネ!そのように納得しています。…が?

※「トキ様」は?どのように思われますでしょう〜〜〜か??    再合掌

2945トキ:2014/06/20(金) 18:48:10 ID:yJ0/2CfA
>>2940

SAKURA 様

 素晴らしいご投稿、ありがとうございました。

 そういう細かいですが、大事なポイントを実行するのは大切ですね。
電車の中で、自分なりの実相円満唱行を実践して、それが効果があれば
掲示板をご覧になっている皆様に、その効果のほどを知らせるのは、そ
れも伝道だと感じます。

 頑張って下さいね。

合掌 ありがとうございます

2946SAKURA:2014/06/20(金) 21:13:35 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871>>2881>>2890>>2891>>2898>>2905>>2907>>2908>>2909>>2910>>2915>>2918>>2931>>2932
>>2933>>2940の投稿の続きです….。

>>2945 「トキ様」……お返事ありがとうございます。

※その中からの一部抜粋なのです。…が?
>>自分なりの実相円満唱行を実践して、それが効果があれば掲示板をご覧になっている皆様に、
その効果のほどを知らせるのは、それも伝道だと感じます。<< (トキ様の投稿文より…)

■確かに、そう思います。…が?ここ【2チャンネル】の方達の「上げ足論」には、どのような
真実でも〜〜〜果たして「理解度」となりますと?どうなんでしょうか??

今までの私は『おまじないのような感じ?』でした。…が??今回は、
【霊・界・通・信】から〜〜〜本当に、まず【心・の・浄・化・作・用】が大事なんですョネ!!

いずれ?『旅立つ世界=死後の世界』…私もこの世界に行きます時〜〜〜は??さて!
どのような「展・開」にと?思ってしまうので〜〜〜す。
何故なら【ステッド氏】が、生前の時に、出会った書物から…既に本人は、この「霊界の意味」が
判りかけて…まず!【信じる事…信じて其処からの活動事】で〜〜〜す。
いざ!『死後の世界=霊界』にいきますと〜〜〜死後は?本当に!その人の書物が正しいとの「判・断」
しかも信じたおかげで、無事に『霊界の世界』にスムーズにとけこんで行けた事と。。。

■これは?信じる!信じない!は〜〜〜その後に起きる問題なのですかと、更には?
『信仰も正しい理念が無くては…』と思うのです。
そうしませんと〜〜〜その後の形として…自分自身で刈り取る事になるようです。。。と!!

このようにいろいろな「文・章」にて、いろいろなる観点から教えてくださっていますし、
私も今までの「心の心境」が〜〜〜あの世では〜〜〜アケスケですから、
表面上は「イエス!」と云っても〜〜〜心が「ノ―!」ではと…このように、まずは、今の気がついた
時点から〜〜〜訓練中なのです。

■例えば…
まず「心の浄化作用訓練」は、【神・想・観】が一番と思うのです。…が?
時として?出来ない状況=環境…と云いましょうか??
具体的には?電車の中で(どうしても時間制限の時)…そこに「関わりたくない人」が乗車して
来たと致します。

その時は〜〜〜これは「神様」へ身近に祈る【実・相】をみつめ…【祈る事】が先決だとは思うのです。
つまり「心の眼で見つめて行きます。」心静かに〜〜〜深層部まで〜〜〜

ところが?その場では?〜〜〜どうしても「ネガティブ感情」が〜〜〜先立ってしまいます時、
簡単な「瞑・想・法」。。。それは〜♫ 瞼を閉じて【実・相】を見つめると同時に「実相円満完全」と、
唱えて行きますと、不思議なモノで〜〜〜本当に【いやな現象が消えて行く】ので〜〜〜す。

そして、更に!心が〜〜〜スカッと!さわやか!になり、そうこうしていく内に、気が附きますと
モウ!何もかも〜〜〜「神様」におまかせム―ドに、心境が変化しているのですから、
本当に「亡き母」の世代の【祈・り】は簡単ですし、更にいつでも?どこでも?唱える簡単な呪文
なのですョネ〜〜♫

■このように、公の場にて、人に公表するようなモノではなく、当たり前の【生長の家】の信者なら
すこぶる当たり前の事ではないのでしょうかと?思う次第なのです。…が??

「トキ様」は如何お考えでしょうかしら〜〜〜ン!!     再合掌

2947SAKURA:2014/06/20(金) 21:25:06 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載・引用編】
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871>>2881>>2890>>2891>>2898>>2905>>2907>>2908>>2909>>2910>>2915>>2918>>2931>>2932
>>2933>>2940>>2946の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 心を清く空虚にせよ ―その3【 転載編 ―】*=======*=======*

わたしが服部さん宅の誌友会へ行きました時に、弘ちゃんという五、六歳の子供がいて
どこかの柱で手を打った。誌友の一人が痛いでしょうといったら、「痛いというから痛い
のだ、痛いことないよ。僕は神の子だから痛いことなんかないよ」といって威張っている
のです。子供というものは心に塵埃がないから実に素直だ!この子供の親は熱心な生長
の家の誌友だったから、親の時々言う言葉をそのままなんの疑いもなく受け入れて自分は
神の子であると信じきっている。痛いの?といえば心が痛いのであって実際の人間は痛
くないとちゃんと知っている。

これは心の清き人にしてはじめて可能のことである。

それで、われわれは『生命の実相』を読んでも、この心の清きものになって『生命の実相』を
読まなければならないのです。『生命の実相』を読んでもすぐに病気がなおらないような人は、
きっとこの心の清くない人です――心が清くないというても、泥棒するとかそういうふうな
意味ではないのです。――知恵や学問の塵埃でいっぱいに詰まっている、そういう人ほど
かえって生命の実相を素直に受け容れることができないので――

まず一遍いっさいの知恵学問を捨て『生命の実相』を読まなくてはならない。いっさい人知を
否定してしまうのじゃありませんけれども、一度は傍のバケツへ知恵の水を移し代えておいて、
心のコップの中に水を注ぐように入れるわけです。コップの中へ濁った液体を入れておいて、
その上からさらに清い水を容れてやろうと思ってもなかなか入りにくいのであります。

それで一度は心のコップを空けてしまっておいて、空虚にしておいて入れる。この虚無の心、
虚無のこの心が「清きもの」であって、嘘を吐かぬとかそういうふうなことじゃないのであり
ます。本当にこの虚無の心になった時に初めて神を観ることができるというわけであります。

                         つづく

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」へ

■【虚・無…】〜〜〜??やはり「実相円満行」も、やはり!空っぽの心!!何ですョネ!!
モット!モット!モット!『心を円満…』にして行かないといけないでしょう〜〜〜☆…と
また!また!一つの宿・題が〜〜〜出来ましたのです〜〜〜ョネ!!

                          再合掌

2949a hope:2014/06/21(土) 08:57:40 ID:cEpBaIdo
☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆


「生命の實相」第13巻 第六章 「価値の本質」

(キーワード&キーセンテンス)

p146〜
○価値要求
・・・われわれの生活に「価値」がないということを、甘んじて許しておかない本性の要求 
・・・「善」をなせ、値打ある行いをなせという要求、


○悟性
・・・誰かが善いことをした時、われわれの心の中でそれは値打のある行為であると認める判断力(哲学上の言葉)
・・・人の行為の善悪価値を判断する力

p149〜
○価値感
・・・「善」を実行した時に感じる喜びの念
・・・生き甲斐の感じ「値打」の感じ
・・・内部にある価値の標準に合ったものを賞賛する感じ


○絶対的な価値(善悪)の判断
・・・普遍的で時代によって変化しない

例)人類の福祉のために己(おのれ)を空(むな)しゅうして仕えるというような値打ある行いを「善」とする


△相対的な価値(善悪)の判断
・・・時代によって変化してくる。

例)主君の怨みを晴らす敵討(かたきう)ちは、その時代には「善」であったが、現代では「善」だとは考えられない

2950a hope:2014/06/21(土) 08:58:45 ID:cEpBaIdo

p151〜
○当為
・・・「価値」「値打ち」の表現要求
・・・「当(まさ)に為すべし」という内部からの本当にあるものの表現要求
・・・道徳的良心の叫びで内部よりわれわれを強制する

例)内部から至上命令的に何々せよ、善をなすべしというふうに迫ってくる力で、それをしない時にはどうしても気持ちが悪い


△不可不
・・・自然界(現象世界)の法則
・・・「ザルベカラズ」というのであって、このほかにありようがない絶対法則と言われている
・・・かくあるよりしかたないと外部よりわれわれを強制する

例)ここに水がある。あるいは酸素と水素が結合した場合水になるのである、これは真理である


△【今までの倫理学の考え方】
「不可不」と「当為」が衝突する場合には、「当為」は「不可不」に打ち負かされる
自然界の法則は「不可不」の法則(絶対法則)であるから善も悪も征服して働く
それはなんとも避けることができない法則である

例1)泥棒しようと思って、「悪」の動機で忍び込むために、水の冷たい中に這入って三十分もしゃがんでおったにせよ、また、子供が溺れようとしているのを助けようと思って、「善」の動機で冷たい水の中におったにせよ、やはり同じように冷たい水の影響を受け、自然界の法則によって風邪を引いて、肺炎になって死んでしまうのです。(p153 後ろから5行目〜)

例2)心に愛の念を抱こうが、憎しみの念を抱こうが、日向(ひなた)に出れば暖かいし、陰におれば涼しい、そういう具合に自然界の法則というものは「不可不」に働くというものであります。(p154 4行目〜)

2951a hope:2014/06/21(土) 09:01:31 ID:cEpBaIdo

>>2949 >>2950 a hope所感)

テキストである「生命の實相」第13巻のp146〜154 までのキーワード&キーセンテンスをまとめてみました。

p154からは、いよいよ、「生長の家の倫理学」の神髄が説かれています。
雅春先生はどういうわけかその「教え」を、「谷口倫理学」と呼ばれ説明されていて興味深いです。
ここのところの真理を体得できれば、かつて「生長の家」の奇蹟とよばれてきたようなことが起こせるようになるのだと思います。

ですから、あせらず、ゆっくり、丁寧にお勉強していきたいです。

2953SAKURA:2014/06/21(土) 20:06:53 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
>>2871>>2881>>2890>>2891>>2898>>2905>>2907>>2908>>2909>>2910>>2915>>2918>>2931>>2932
>>2933>>2940>>2947の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 自己のホッせぬことを思うな ―その1【 転載編 ―】*=======*=======*

■ われらは『類は類を招ぶ』の心の法則を知るをもっていやしく自己の欲せざること
を心に思わざらんことを期す。

 「類は類を招ぶ」というのは生長の家の横の真理であります。仏教でいえば「三界は唯心
の所現」である。これは、現象界が展開して来る、業の流転してくる法則を現わしたもの
であります。業はいかにして流転するかというと、この「類は類を招ぶ」という法則によっ
て流転しているのであります。ここへ集まっておられる方はそれぞれまた「類は類を招ぶ」
という法則によって集まっておられるのでありますから、ここにおられる皆さんの心はよ
く調和している、そして仲のわるい人は一人もない、みんな生長の家の家族であるという
懐かしい感じがする。根本の思想というものがちょうど相牽引する類似の人ばかりが集ま
っていられるからであります。

よくお嫁に行かれた御婦人が嫁いだ先の姑さんはひどい姑さんであったと、こういって
自分のことを棚に上げておいて姑ばかりひどいひどいと思っているようなお嫁さんが往々に
してありますけれども、「類は類を招ぶ」という心の法則をもし知ったならば、自分自身が
姑と類似の心をもっていたということに気がついて、自然に懺悔の心が起こってきて、
ああわたしがわるかった、これは自分の心の鏡であった、本当に申しわけなかったという
ことに気がつくのであります。

                       つづく


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板