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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

1避難民のマジレスさん:2020/11/18(水) 21:29:41 ID:Dp/qMVVc0
Sadhana path 修行の道
第1章 ようこそ
私は深い闇に包まれた人間を見ている。彼は暗い夜にランプが消された家のようになっている。彼の中の何かが消えてしまった。しかし消えてしまったランプは再び点火することができる。

私はまた、人間がすべての方向を失っていることが分かる。彼は公海で道を失った船のようになってしまった。彼はどこに行きたいのか、何になりたいのかを忘れてしまった。しかし、忘れられていたことの記憶は、彼の中で再び目覚めさせることができる。

闇はあっても、絶望する理由はない。闇が深ければ深いほど、夜明けは近い。沖合で私は全世界の霊的な再生を見ている。新しい人間が生まれようとしており、私たちはその誕生の苦しみの中にいる。しかし、この再生には私たち一人一人の協力が必要だ。それは、私たちを通して、私たちだけで起こる。私たちはただの見物人でいる余裕はない。私たちは皆、自分自身の中でこの再生の準備をしなければならない。

新しい日が近づいてきて、夜明けを迎えるのは、私たち自身が光で満たされたときだけだ。それは、その可能性を現実に変えるのは私たち次第だ。私たちは皆、明日の建築物のレンガであり、未来の太陽が誕生するための光線なのだ。私たちはただの見物人ではなく、創造者なのだ。しかし、必要なのは未来の創造だけではなく、現在そのものの創造であり、自分自身の創造なのだ。自分自身を創造することによって、人間は人間らしさを創造するのである。個人は社会の構成要素であり、進化も革命も彼を通して起こることができる。あなたはその構成要素だ。

だからこそ、あなたを呼びたい。眠りから目覚めさせたい。あなたの人生が無意味で役に立たない、退屈なものになっているのがわからないだろうか?人生はすべての意味と目的を失っている。
――
これは1964年6月、オショーの初の瞑想キャンプでの講話です。
私が修行の道に入ったのも、何をしても最後には死によって失われてしまうと実感し、せめてその前に真実を知りたいと切望したからでした。
オショーが「記憶は、…目覚めさせることができる」と言っているのは、自我が無いときの記憶という意味なのでしょうか? それとも、何かを象徴していますか?

760鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/06(火) 22:56:47 ID:OLmpJp6.0
 反対なのじゃ。
 では何故、プルシャは自ら以外のものに従属することはないのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 特定の祭式と無関係に学習される諸ウパニシャッドは、文章の前後の関係を考察してみれば、プルシャを説明するためのものだと分かるので、この箇所は、主にプルシャにのみ関係しているというのじゃ。
 プルシャは、祭式を扱う箇所とは]独立した箇所で取り扱われるのじゃ。
 以上のような性質を備え、諸ウパニシャッドに基づいて認識されるプルシャが、存在しないなどと言うことはできないというのじゃ。
 
 反対なのじゃ。
 ブラフマンは、聖典以外の認識根拠の対象ではないので、語と関係する語によって表されると世間一般には知られていないのじゃ。
 従ってブラフマンは、語の対象ではないので、文章の対象であることはありえないのじゃ。
 とすれば、どうして、ウパニシャッドという文章の対象でありえるじゃろうかと、聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは「まさにこのアートマンは『そうではない。そうではない』と説かれ云々]」とあるように、天啓聖典中にアートマンという語が用いられているからそれもありえるのじゃ。
 アートマンは、牛などとは異なり、聖典以外の認識根拠の対象ではないが、まさに輝いている、認識そのものであるので、あれこれの添性を滅してゆけば、文章の対象として表現することが可能なのじゃ。
 腕輪、耳飾り等を破壊すれば、 金があるようなものじゃ。
 実に、輝ける自己認識 (ブラフマン=アートマン)が、輝かない、認識されないということはなく、また、 それを限定している身体・器官等の集合体が認識されないということもないのじゃ。

 まさにこのアートマンは『そうではない。そうではない』云々」という形で、あれこれの限定(添性)を滅してゆけば、自ら輝けるものは、増大し広がってゆくので、「ブラフマンである」とか「アートマンである」という文章によって表現することができるのじゃ。

 つまり実体として言葉で表すことはできないが、そこへ辿り着く法として言葉に表すこともできるというのじゃ。


 反対なのじゃ。
 添性によって限定されているアートマンの存在は、何故、添性が否定されるようには否定されないのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 アートマンは、否定することはできないからなのじゃ。
 実に輝きが、万物のアートマンなのじゃ。
 何故なら、アートマンは現象世界という虚妄の基体だからなのじゃ。
 基体が存在しなければ、虚妄は存在しえないのじゃ。

 とえば縄が存在しないのに、縄を蛇だとか水の流れだとか誤認することはないようにのう。
 現象世界の認識はアートマンの輝き、光なのじゃ。
 たとえば、天啓聖典に「その光に基づいてすべてが輝き、 その光がこのすぺてを輝かせる」とあるようにのう。
 
 アートマンの輝きが否定されれば、現象世界の認識は成り立たないのじゃ。
 従って、アー トマンを否定することはできないので、ブラフマンの本質についての理解は、諸ウパニシャッドに基づいて成り立つのじゃ。

761避難民のマジレスさん:2022/12/07(水) 01:06:33 ID:3wstc7Bc0
5.2.ブラフマン=アートマンはウパニシャッドにおいてのみ認識される  p421- 423 212右/229

   [反対主張]アートマンは、「私」という観念の対象なので、ウパニシャッドにおいてのみ認識されるというのは正しくない。
   [答論]そうではない。何故なら、[このような反対主張は、アートマンが]それ(「私」という観念の対象である個人存在)の観照者なので、否定されるからである。すなわち、それ(個人存在)の観照者は、「私」という観念の対象である行為者(個人存在)とは異なり、あらゆる存在に内在し、平等で、唯 一であり、変異することのない永遠なプルシャ、万物のアートマンであって、 [ヴェーダの]儀軌部(祭事部)や論理に基づく教義からは誰も理解できない。従って誰も、それを否定することはできないし、また儀軌こ従属させることもできない。さらに[それは]、万物のアートマンであるので、受け入れることも捨て去ることもできないのである。実に、プルシャを除くすぺてのものは、変化してできたものであって、可滅であり、現に滅してゆく。[だが]プルシヤは、滅する原因が存在しないので、滅することはない。また、変化す る原因が存在しないので、変異することのない永遠な存在である。だからこそ[プルシャは]、本性上永遠で、清浄で、悟っており、解脱しているのである。従って、「プルシャを超えるものはなにも存在しない。それ(プルシャ) は最高の帰着点であり、最高の到達点なのである」713とか、「ウパニシャッド に説かれているそのプルシャについて、私はお前に尋ねたい」714というように、[プルシャに]「ウパニシャッドに説かれている」という限定詞がつい ているのは、ウパニシャッドにおいてプルシャが主要なものとして説明され ているときに[のみ]理解しうるのである。それ故、「ヴェーダにはすでに存在する事物について述べている箇所は存在しない」という[反対論者の]主張は、速断にすぎないのである。

  [アートマンが]ウパニシャッドにおいてのみ理解されるという限定に耐えられない人が、[次のように]反対主張を提示している。
  [反対主張]アートマンは云々と。実にアートマンは、すべての人の持っている「私」 という観念の対象であり、行為主体、経験主体であって、輪廻する者である。何故なら、世間一般の人々や論者たちは、それ(「私」という観念の対象)に対してのみアートマンという語を用いているからである。世間一般に用いられている語もヴェーダで用いられている語も、その意味は同じである。従って、ウパニシャッドで用いられているアートマンという語も、それ(「私」という観念の対象)に対してのみ用いることが できるのであって、それに反対する別の意味に[用いることはできない]。以上が[反 対主張の]趣旨である。
   [答論][このような反対主張に対して、師シャンカラが]答えている。そうではないと。すなわち、ウパニシャッドに説かれているプルシャは、「私」という観念の対象ではないのである。何故か。何故なら、それの観照者なので、すなわち、最高のアートマンは、「それ」=「私という観念の対象=行為主体=身体と器官の集合体という添性 に限定された者=個人存在」の観照者なので、[それが]「私」という観念の対象であることは否定されるからである。その趣旨は以下の通りである。「この生命(個人存在) であるアートマンとともに云々」715とあるように、個人存在とアートマンは、究極的 には同一ではあるが、その添性によって限定された姿が個人存在であり、一方、その [なにものにも限定されない]清浄な姿が観照者なのである。そしてこのことは、[ウパニシャッド]以外の認識根拠によっては理解されず、ウパニシャッドの領域なのであ る。まさにこのことを、[師シャンカラが次のように]説明している。すなわち、[それ(個人存在)の観照者は]、「私」という観念の対象である云々と。

脚注
713 714 715
(´・(ェ)・`)
(つづく)

762鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/08(木) 00:04:35 ID:ctNYYH960
 反対なのじゃ。
 アートマンは、「私」という観念の対象なので、ウパニシャッドにおいてのみ認識されるというのは正しくないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 アートマンとは私という観念の観照者なので違うというのじゃ。
 その観照者とは、「私」という観念の対象である行為者とは異なり、あらゆる存在に内在し、平等で、唯一であり、変異することのない永遠なプルシャ、万物のアートマンであって、 ヴェーダの儀軌部や論理に基づく教義からは誰も理解できないのじゃ。
 
 誰もそれを否定することはできないし、また儀軌こ従属させることもできないのじゃ。
 さらに[それは]、万物のアートマンであるので、受け入れることも捨て去ることもできないのじゃ。
 プルシャを除くすぺてのものは、変化してできたものであって、可滅であり、現に滅してゆくのじゃ。

 プルシヤは、滅する原因が存在しないので、滅することはないものじゃ。
 また、変化す る原因が存在しないので、変異することのない永遠な存在なのじゃ。
 だからこそプルシャは、本性上永遠で、清浄で、悟っており、解脱しているのじゃ。

 従って、「プルシャを超えるものはなにも存在しない。それは最高の帰着点であり、最高の到達点なのである」とか、
 「ウパニシャッド に説かれているそのプルシャについて、私はお前に尋ねたい」というように、「ウパニシャッドに説かれている」
 という限定詞がつい ているのは、ウパニシャッドにおいてプルシャが主要なものとして説明されているからと理解できるじゃろう。

 それ故、「ヴェーダにはすでに存在する事物について述べている箇所は存在しない」という主張は間違いなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 実にアートマンは、すべての人の持っている「私」 という観念の対象であり、行為主体、経験主体であって、輪廻する者だというのじゃ。
 何故なら、世間一般の人々や論者たちは、「私」という観念の対象に対してのみアートマンという語を用いているからなのじゃ。
 世間一般に用いられている語もヴェーダで用いられている語も、その意味は同じである筈だから、ウパニシャッドで用いられているアートマンという語も、それ(「私」という観念の対象)に対してのみ用いることができるというのじゃ。

 インドでは一般的に輪廻するものがアートマンとされているのじゃ。
 

 答えたのじゃ。
 シャンカラはウパニシャッドに説かれているプルシャは、「私」という観念の対象ではないから違うというのじゃ。
 何故なら、それの観照者なので、すなわち、最高のアートマンは、「それ」=「私という観念の対象=行為主体=身体と器官の集合体という添性 に限定された者=個人存在」の観照者なので、[それが]「私」という観念の対象であることは否定されるからなのじゃ
 「この生命(個人存在) であるアートマンとともに云々」715とあるように、個人存在とアートマンは、究極的 には同一ではあるが、その添性によって限定された姿が個人存在であり、一方、その なにものにも限定されない清浄な姿が観照者なのじゃ。
 それはウパニシャッド以外の認識根拠によっては理解されず、ウパニシャッドの領域なのじゃ。

763避難民のマジレスさん:2022/12/08(木) 07:00:27 ID:bsNDPAaU0
(つづき)   p423-424
  また、儀軌に従属させることもできない。何故か。何故なら、[それは、万物の]アートマンであるので云々だからである。すなわち、アートマンは、それ以外のもののた
めに存在するのではない。それ以外のものすべてが、アートマンのために存在するのである。たとえばこのような趣旨で、[次のような]天啓聖典句がある。「実に一切に対して愛情があるために、一切が好ましいのではない。そうではなくて、自身(アートマン)を愛するが故に一切のものが好ましいのである」716と。さらに、万物のアートマンであるという同じ理由で、[プルシャ=アートマンは]受け入れることも捨て去ることもできないのである。すなわち、あらゆる現象すべてにとって、ブラフマンこそが真のアートマン(本性)なのである。そして本性は、捨て去ることができないので捨て去ることのできるようなものではなく、また、すでに獲得されているので受け入れることのできるようなものでもない。従って、捨て去ったり受け入れたりできるものを対象としている儀軌と禁令が、それとは反するアートマンという真理を対象とすることはないのである。それ故、あらゆる現象すぺてにとって、アートマンこそが真理なのである。このことを説明して、[師シャンカラが次のように]言っている。実に、プルシャを除くすべてのものは、変化してできたものでありって、可滅であり、現に滅してゆくと。その意味は以下の通りである。実にプルシャは、天啓聖典、聖伝書、叙事詩、プラーナおよびそれらと矛盾しない論理によって確立されているので、究極的な 実在である。だが現象世界は、無始の無明が生み出したものなので、究極的な実在ではない。そして、究極的な実在が[究極的な実在ではないもの、すなわち現象世界の] 資料因なのである。それはちょうど、縄という真理が[それから]変化してできた蛇という虚妄の[質料因]であるようなものである。従って、これ(現象世界)は、[実在 であるとも非実在であるとも]決定できないせいで、その本性が不安定な[ため]滅してゆくが、プルシャのほうは究極的な実在なのである(すなわち滅することはない)。これ(プルシャ)は、千の原因によっても、非実在とすることはできないのである。そ れはちょうど、職人が千人集まっても、壷を布にすることはできないのと同じである。このことについてはすでに述べた通りである717。従って、ちょうど銀や蛇が、真珠母貝や縄だけを残して滅してゆくように、変化してできたものは[すべて]、滅することのないプルシャだけを残して滅してゆくのである。実にプルシャだけが、現象世界という変化してできたもの総体の真理なのである。そして、プルシャは無終なので、減 することがないのである。
  [反対主張] [プルシャにも]減することはあるであろう。
  [答論][このような反対主張に対して、師シャンカラが次のように]答えている。 プルシャは、滅する原因が存在しないので云々と。すなわち、原因が千集まっても、あるもの(実在)を別なもの(非実在)にすることはできないのである。このことについてはすでに述べたところである718。
   [反対主張][確かに]プルシャは、本質的に、捨て去ったり受け入れたりできるようなものではないであろう。だが、それ(プルシャ)のある属性が捨て去られ、ある属性が受け入れられるということはあるであろう。
   [答論][このような反対主張に対して、師シャンカラは次のように]答えている。また、変化する原因が存在しないので、変異することなく永遠な存在であると。三種 の変化、すなわち性質の変容・時相の変容・状態の変容が、ともに存在しないということについては、すでに述べた通りである719。さらに、究極的な実在であるアートマンの属性も究極的な実在なので、それは、アートマンの場合と同じように、諸原因によって別なもの(非実在)に変えることはできない。そして、属性を別なものに変えること以外に、変化というものは存在しないのである。まさにこのことを、[師シャンカラが]、変化する原因が存在しないのでと述べているのである。[なお『註解』本文の]その他の箇所については容易に理解される。

脚注
716
717 本訳204頁参照。
718本訳204;265;369頁参照。
719 本訳335頁参照。
(´・(ェ)・`)つ

764鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/08(木) 23:17:18 ID:lBbJcM520
 また、アートマン儀軌に従属させることもできないものじゃ。
 アートマンは、それ以外のもののために存在するのではないからなのじゃ。
 それ以外のものすべてが、アートマンのために存在するのじゃ。

 聖典にも書いてあるのじゃ。
 「実に一切に対して愛情があるために、一切が好ましいのではない。そうではなくて、自身(アートマン)を愛するが故に一切のものが好ましいのである」と。
 
 さらに万物のアートマンであるという同じ理由で、[プルシャ=アートマンは]受け入れることも捨て去ることもできないのじゃ。
 あらゆる現象すべてにとって、ブラフマンこそが真のアートマンであるからなのじゃ。
 本性は捨て去ることができないので捨て去ることのできるようなものではなく、また、すでに獲得されているので受け入れることのできるようなものでもないのじゃ。
 捨て去ったり受け入れたりできるものを対象としている儀軌と禁令が、それとは反するアートマンという真理を対象とすることはないのじゃ。
 それ故、あらゆる現象すぺてにとって、アートマンこそが真理なのじゃ。

 シャンカラはプルシャを除くすべてのものは、変化してできたものでありって、可滅であり、現に滅してゆくと言っているのじゃ。
 実にプルシャは、天啓聖典、聖伝書、叙事詩、プラーナおよびそれらと矛盾しない論理によって確立されているので、究極的な実在なのじゃ。
 
 啓聖典、聖伝書、叙事詩、プラーナおよびそれらと矛盾しない論理によって確立されているので、究極的な 実在である。
 だが現象世界は、無始の無明が生み出したものなので、究極的な実在ではないのじゃ。
 そして、究極的な実在が現象世界の資料因なのじゃ。
 
 縄という真理が変化してできた蛇という虚妄の質料因であるようなものじゃ。
 現象世界は実在であるとも非実在であるとも決定できないせいで、その本性が不安定で滅してゆくが、プルシャのほうは究極的な実在なので滅しないのじゃ。
 
 プルシャは、千の原因によっても、非実在とすることはできないのである。
 そ れはちょうど、職人が千人集まっても、壷を布にすることはできないのと同じ

 ちょうど銀や蛇が、真珠母貝や縄だけを残して滅してゆくように、変化してできたものはすべて、滅することのないプルシャだけを残して滅してゆくのじゃ。
 プルシャだけが、現象世界という変化してできたもの総体の真理なのであるからなのじゃ。
 そして、プルシャは無終なので、減することがないのじゃ。

 反対なのじゃ。
 プルシャにも減することはあるじゃろうというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラプルシャは、滅する原因が存在しないから滅しないと言ったのじゃ。
 原因が千集まっても、あるものを別なものにすることはできないからなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 プルシャは、本質的に捨て去ったり受け入れたりできるようなものではないのはその通りというのじゃ。
 だが、プルシャのある属性が捨て去られ、ある属性が受け入れられるということはあるじゃろうと言うのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは変化する原因が存在しないので、変異することなく永遠な存在であると言ったのじゃ。
 三種の変化、すなわち性質の変容・時相の変容・状態の変容が、ともに存在しないからなのじゃ。

 さらに、究極的な実在であるアートマンの属性も究極的な実在なので、それはアートマンの場合と同じように、諸原因によって別なものに変えることはできないのじゃ。
 属性を別なものに変えること以外に、変化というものは存在しないのじゃ。

 シャンカラが変化する原因が存在しないといったのは、このような意味だというのじゃ。

765避難民のマジレスさん:2022/12/09(金) 01:35:20 ID:SDbF0agI0
6.ヴェーダの目的は行為(祭式)を教示することだけではない  214左/229

6.1.理由(1)現にウパニシャッドではすでに存在する事物(ブラフマン=アートマン)が教示されている  p424-426

  また[先に]、聖典の趣旨を知る者(シァヴァラスヴアーミン)の[次のような言葉、すなわち]「実に祭式について教えることがそれ(ヴェーダ)の目的であると認められている」720が引用されていたが、それらは、祭式の考究に関係するものなので、儀軌と禁令を説く聖典(祭事部)の趣旨を述べているのだと解すべきである。またもし、「聖典は行為(祭式)のためのものであるから、それ(行為)を目的としない[諸聖典句]は無意味である」721というこの[文章]を、絶対的なものだと認めると、[聖典が実際に]すでに存在するものについて教示しているのは無意味であることになる、という理論的欠陥に陥ることになろう。[さらに]もし、活動を促したり停止させたりする儀軌およぴそれら[の儀軌]に従属するものとは別に、[聖典が]すでに存在する事物をこれから実現しなけれはならないものとして教示しているとすると、 変異することのない永遠な存在(すでに存在するもの)を教示しない理由は 存在しないであろう。何故なら、[聖典が]教示しているすでに存在するものは、行為(祭式)ではないからである。
   [反対主張]すでに存在するものは、行為(祭式)ではないが、行為を実現する手段であるから、すでに存在するものについての教示は、行為のためにこそ存在するのである。
   [答論]このような批判はあてはまらない用故なら、たとえ行為(祭式)のためであるにせよ、行為を実現する力のある事物が、現に教示されているからである。すなわち、確かに、それ(教示)の目的は行為のためではあるが、たからといって、事物について教示していないことにはならないのである。
  [反対主張][すでに存在する事物が聖典で]教示されているとして、それがお前にとって何の意味があるのか。
   [答論]アートマンという、まだ理解されていない事物について教示することにも(ca)[<行為を実現する手段としての事物>について教示することと]同じように、[意味(目的)がある]はずである。すなわち、それ(アートマン)を理解(悟る)ことによって、輪廻の原因である誤った知識が滅せられること、[それが]目的だとされるのである。このように、[すでに存在する事物についての教示は]、<行為を実現する手段としての事物>に関する教示に劣らず、意味(目的)があるのである。

  またある者[反対主張者]が、聖典を知る者の言葉を[自己の主張の]根拠として引 用していたが、それを[師シャンカラは次のように、反対主張者とは]別の形 で解釈している。また[先に]、聖典の趣旨を知る者(シャヴァラスヴァーミン)の[次のような言葉]が引用されていたが云々と。「それ(ヴェーダ)の目的は明白である。有意義な結果をもたらす好ましい事柄を教示するところにあるのである」722と述べるべきところを、[そこでは]ダルマの考究が主題となっており、かつ、ダルマとは祭式のことにほかならないので、「祭式を教示するところにあるのである」と述べられているので ある。しかしながら、[この引用文が]、すでに存在するブラフマンを教示するという ヴェーダの働きを妨げることはない。何故なら、ソーマシャルマンが主題となってい る箇所で、その(ソーマシャルマンの)美点を述べることは、ヴィシュヌシャルマンが 美点を備えていることを否定することにはならないからである。また、儀軌[を述べる]聖典句の対象は、儀軌によって命じられている祭式であり、禁令[を述べる]聖典句の対象は、禁令によって禁じられている祭式ではあるが、[儀軌と禁令の]両者はともに、祭式を教示するためのものなのである723。

脚注
720 本訳374頁参照。
721 本訳355頁参照。
722 ダルマが「教令によって規定されている好ましい事柄がダルマである」と定義されており、その注釈では、教令とはヴェーダにほかならないとされているが、ここの論議はこの箇所を前提としているのである。
723「禁令」以下の箇所は、「諸々の禁令は遂行すべきことを認識させるわけではないのにどうして祭式を教示するためのものであるのか」という反対主張に対する答えであるとされている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

766避難民のマジレスさん:2022/12/09(金) 07:44:00 ID:WCE8/RIU0
『プルシャ』ジャンカラの言及 1/4
>>471
内的アートマン とその認識とが]区別されるのは、比喩的用法(upacāra)なのである。[それは]ちょうど、[プルシャは精神性そのものなのに]プルシャの精神性[と言われる]ようなも のである。

>>489
[「天界を望む者はジュヨーティシュトーマ祭を執行すべきである」とい う、祭式を執行する]資格について[述べている]聖典は、天界を望む者が天 界と関係していなければ成り立たないということを暗に意味しているだけであって、 これ(天界を望む者)が輪廻の主体ではないということを[も暗に意味しているわけ では]ない。というのは、それ(輪廻の主体ではないという性質)は、[祭式を執行す る]資格と合わないからである172。また、ウパニシャッドの説くプルシャ(=アートマン)は、行為の主体でも経験の主体で(古をい✖️)もない[ので、祭式を執行する]資格と矛盾するからである。

>>491
ウパニシャッドの説くプルシャについての理解が、[祭式を執行する]資格と矛盾するというのは確かにその通りである。しかし、 それ(ウパニシャッドの説くプルシャについての理解)以前には、祭式[の執行を命ずる]諸儀軌は、自らに適した日常的活動を行うのであって、[それらが]未だ生じて いないブラフマンに関する知識によって妨げられることはありえないのである。

>>692
  [反対主張]身体のない状態こそがダルマの結果ではないのか。
  [答論]そうではない。[身体のない状態は]、それ(アートマン)にとって本来の状態だからである。というのは、「賢者はアートマンを、身体の中にあって身体のないもの、変化するものの中にあって変化しないもの、偉大にして遍在するものと知って、悲しむことがない」580「アートマンは生気を備えず、思考器官をもたず、清らかである」581「実にこのプルシャは無執着である」582等の天啓聖典句があるからである。以上のような理由で、解脱と呼ば れる身体のない状態は、執行すべき祭式の果報とは異なり、永遠であると確定したのである。

>>751
  [反対主張]ヴェーダには、活動を促したり停止させたりする儀軌およびそれら[の儀軌]に従属するものとは別に、単独で事物について述べている箇所は存在しないのである697。
   [答論]そうではない。ウパニシャッドに説かれているプルシャは、自ら以外のものに従属することはないからである。何故なら、ウパニシャッドで理解されるこのプルシャは、輪廻することのないブラフマンであって、「生みだされるべきもの」等の四種のもの698とは本質的に異なり、独立した箇所で取り扱われるものであって、自ら以外のものに従属することはないからである。 そしてまた、これ(プルシャ)は、存在しないとか理解されないとかいうことはできない。何故なら、(1)「まさにこのアートマンは『そうではない。そうではない』[と説かれ云々]」699とあるように、[天啓聖典中に]アートマンという語が用いられているからであり、また、(2)アートマンは、[その存在を] 否定するその者のアートマンなので、否定することはできないからである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

767避難民のマジレスさん:2022/12/09(金) 07:47:34 ID:WCE8/RIU0
『プルシャ』シャンカラの言及 2/4
>>757⭕️
  だから[師シャンカラは]、正しく[次のように]述べているのである。そうではない。ウパニシャッドに説かれているプルシャは、自ら以外のものに従属することはないからであると。「ウパニシャッド」という語は、語源的には、「破壊する」という意味 の/sadという語根の前に、[「近くに」という意味の]upaという接頭辞と[「確定」という意味の]niという接頭辞がつき、後ろにkvip接尾辞がついてできたのだと説明されるが708、それは[本来は]ブラフマンの知識のことを言っているのである。何故なら、不二であることが身近に確実なものとなるべきブラフマンが、潜在印象とともに 無明を破壊するからである。[だが]ウパニシャッドの諸聖典句も、それ(ブラフマンの知識)の原因なので、ウパニシャッド[と呼ばれる]。そして、それ(ウパニシャッドの諸聖典句)から知られるのが、ウパニシャッドに説かれているプルシャなのである。まさにこれ(ウパニシャッドに説かれているプルシャ)を、[師シャンカラは次のように]詳しく説明している。ウパニシャッドで[理解される]この云々と。[そしてこのプルシャを]輪廻することのないと、「私」という観念の対象(個人存在)とは異 なるとしている。だからこそ[プルシャは]、行為とは無縁であり、そのため[「生み出されるべもの」等の]四種のものとは本質的異なるのである。さらに以下の理由で、四 種のものと本質的に異なるものは、自ら以外のものに従属することがない。すなわち、 自ら以外のもの[たとえば祭式]に従属する存在である物(dravya)を作り出そうとする場合には、「祭式用の杭を削る」等の場合のように、生み出すこと等によって実現することは可能だが、自ら以外のものに従属しないものは、「金を身につけるべきである。とか「小麦粉を捧げる[べきである]」等の場合のように、すでに存在するものという性質があり、[他の祭式には]役に立たないのである709。

>>759
  [反対主張]では何故、これ(プルシャ)は自ら以外のものに従属することはないのか。
   [答論]だから[師シャンカラが、次のように]言っているのである。何故なら、独立した箇所で取り扱われるものであるからであると。特定の祭式と無関係に学習される710諸ウパニシャッドは、[文章の]前後の関係を考察してみれば、プルシャを説明するためのものだ[と分かる]ので、この[ウパニシャッドという]箇所は、主にプルシャにのみ関係しているのだ[と分かるのである]。また、「プルシャ(人)は、ジュフー祭杓とは異なり、祭式と一定の関係にはない」ということについては、す(べ→で)に説明した通 りである711。以上のような理由で、[プルシャは、祭式を扱う箇所とは]独立した箇所で取り扱われるのである。[そして]以上のような(輪廻することのない等の)性質を備え、諸ウパニシャッドに基づいて認識されるこれ(プルシャ)が、存在しないなどと言うことはできないのである。以上が[『註解』本文のこの箇所の]意味である。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

768避難民のマジレスさん:2022/12/09(金) 07:48:52 ID:WCE8/RIU0
『プルシャ』シャンカラの言及 3/4
>>761
   [反対主張]アートマンは、「私」という観念の対象なので、ウパニシャッドにおいてのみ認識されるというのは正しくない。
   [答論]そうではない。何故なら、[このような反対主張は、アートマンが]それ(「私」という観念の対象である個人存在)の観照者なので、否定されるからである。すなわち、それ(個人存在)の観照者は、「私」という観念の対象である行為者(個人存在)とは異なり、あらゆる存在に内在し、平等で、唯 一であり、変異することのない永遠なプルシャ、万物のアートマンであって、 [ヴェーダの]儀軌部(祭事部)や論理に基づく教義からは誰も理解できない。従って誰も、それを否定することはできないし、また儀軌こ従属させることもできない。さらに[それは]、万物のアートマンであるので、受け入れることも捨て去ることもできないのである。実に、プルシャを除くすぺてのものは、変化してできたものであって、可滅であり、現に滅してゆく。[だが]プルシヤは、滅する原因が存在しないので、滅することはない。また、変化す る原因が存在しないので、変異することのない永遠な存在である。だからこそ[プルシャは]、本性上永遠で、清浄で、悟っており、解脱しているのである。従って、「プルシャを超えるものはなにも存在しない。それ(プルシャ) は最高の帰着点であり、最高の到達点なのである」713とか、「ウパニシャッド に説かれているそのプルシャについて、私はお前に尋ねたい」714というように、[プルシャに]「ウパニシャッドに説かれている」という限定詞がつい ているのは、ウパニシャッドにおいてプルシャが主要なものとして説明され ているときに[のみ]理解しうるのである。それ故、「ヴェーダにはすでに存在する事物について述べている箇所は存在しない」という[反対論者の]主張は、速断にすぎないのである。

  [アートマンが]ウパニシャッドにおいてのみ理解されるという限定に耐えられない人が、[次のように]反対主張を提示している。
  [反対主張]アートマンは云々と。実にアートマンは、すべての人の持っている「私」 という観念の対象であり、行為主体、経験主体であって、輪廻する者である。何故なら、世間一般の人々や論者たちは、それ(「私」という観念の対象)に対してのみアートマンという語を用いているからである。世間一般に用いられている語もヴェーダで用いられている語も、その意味は同じである。従って、ウパニシャッドで用いられているアートマンという語も、それ(「私」という観念の対象)に対してのみ用いることが できるのであって、それに反対する別の意味に[用いることはできない]。以上が[反 対主張の]趣旨である。
   [答論][このような反対主張に対して、師シャンカラが]答えている。そうではないと。すなわち、ウパニシャッドに説かれているプルシャは、「私」という観念の対象ではないのである。何故か。何故なら、それの観照者なので、すなわち、最高のアートマンは、「それ」=「私という観念の対象=行為主体=身体と器官の集合体という添性 に限定された者=個人存在」の観照者なので、[それが]「私」という観念の対象であることは否定されるからである。その趣旨は以下の通りである。「この生命(個人存在) であるアートマンとともに云々」715とあるように、個人存在とアートマンは、究極的 には同一ではあるが、その添性によって限定された姿が個人存在であり、一方、その [なにものにも限定されない]清浄な姿が観照者なのである。そしてこのことは、[ウパニシャッド]以外の認識根拠によっては理解されず、ウパニシャッドの領域なのであ る。まさにこのことを、[師シャンカラが次のように]説明している。すなわち、[それ(個人存在)の観照者は]、「私」という観念の対象である云々と。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

769避難民のマジレスさん:2022/12/09(金) 07:49:47 ID:WCE8/RIU0
『プルシャ』シャンカラの言及 4/4
>>763
  また、儀軌に従属させることもできない。何故か。何故なら、[それは、万物の]アートマンであるので云々だからである。すなわち、アートマンは、それ以外のもののた
めに存在するのではない。それ以外のものすべてが、アートマンのために存在するのである。たとえばこのような趣旨で、[次のような]天啓聖典句がある。「実に一切に対して愛情があるために、一切が好ましいのではない。そうではなくて、自身(アートマン)を愛するが故に一切のものが好ましいのである」716と。さらに、万物のアートマンであるという同じ理由で、[プルシャ=アートマンは]受け入れることも捨て去ることもできないのである。すなわち、あらゆる現象すべてにとって、ブラフマンこそが真のアートマン(本性)なのである。そして本性は、捨て去ることができないので捨て去ることのできるようなものではなく、また、すでに獲得されているので受け入れることのできるようなものでもない。従って、捨て去ったり受け入れたりできるものを対象としている儀軌と禁令が、それとは反するアートマンという真理を対象とすることはないのである。それ故、あらゆる現象すぺてにとって、アートマンこそが真理なのである。このことを説明して、[師シャンカラが次のように]言っている。実に、プルシャを除くすべてのものは、変化してできたものでありって、可滅であり、現に滅してゆくと。その意味は以下の通りである。実にプルシャは、天啓聖典、聖伝書、叙事詩、プラーナおよびそれらと矛盾しない論理によって確立されているので、究極的な 実在である。だが現象世界は、無始の無明が生み出したものなので、究極的な実在ではない。そして、究極的な実在が[究極的な実在ではないもの、すなわち現象世界の] 資料因なのである。それはちょうど、縄という真理が[それから]変化してできた蛇という虚妄の[質料因]であるようなものである。従って、これ(現象世界)は、[実在 であるとも非実在であるとも]決定できないせいで、その本性が不安定な[ため]滅してゆくが、プルシャのほうは究極的な実在なのである(すなわち滅することはない)。これ(プルシャ)は、千の原因によっても、非実在とすることはできないのである。そ れはちょうど、職人が千人集まっても、壷を布にすることはできないのと同じである。このことについてはすでに述べた通りである717。従って、ちょうど銀や蛇が、真珠母貝や縄だけを残して滅してゆくように、変化してできたものは[すべて]、滅することのないプルシャだけを残して滅してゆくのである。実にプルシャだけが、現象世界という変化してできたもの総体の真理なのである。そして、プルシャは無終なので、減 することがないのである。
  [反対主張] [プルシャにも]減することはあるであろう。
  [答論][このような反対主張に対して、師シャンカラが次のように]答えている。 プルシャは、滅する原因が存在しないので云々と。すなわち、原因が千集まっても、あるもの(実在)を別なもの(非実在)にすることはできないのである。このことについてはすでに述べたところである718。
   [反対主張][確かに]プルシャは、本質的に、捨て去ったり受け入れたりできるようなものではないであろう。だが、それ(プルシャ)のある属性が捨て去られ、ある属性が受け入れられるということはあるであろう。
   [答論][このような反対主張に対して、師シャンカラは次のように]答えている。また、変化する原因が存在しないので、変異することなく永遠な存在であると。三種 の変化、すなわち性質の変容・時相の変容・状態の変容が、ともに存在しないということについては、すでに述べた通りである719。さらに、究極的な実在であるアートマンの属性も究極的な実在なので、それは、アートマンの場合と同じように、諸原因によって別なもの(非実在)に変えることはできない。そして、属性を別なものに変えること以外に、変化というものは存在しないのである。まさにこのことを、[師シャンカラが]、変化する原因が存在しないのでと述べているのである。[なお『註解』本文の]その他の箇所については容易に理解される。
(´・(ェ)・`)b

770鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/09(金) 23:33:44 ID:DGDxIUq.0
 聖典の趣旨を知る者、シァヴァラスヴアーミンの「実に祭式について教えることがヴェーダの目的であると認められている」という言葉が引用されていたが、それらは祭式の考究に関係するものなのじゃ。
 それは儀軌と禁令を説く聖典の趣旨を述べているのだと解すべきなのじゃ。
 またもし、「聖典は行為)のためのものであるから、それを目的としない[諸聖典句]は無意味である」というこの文を、絶対的なものだと認めるとすでに存在するものについて教示しているのは無意味であることになるのじゃ。
 
 もし、活動を促したり停止させたりする儀軌およぴそれらに従属するものとは別に、すでに存在する事物をこれから実現しなけれはならないものとして教示しているとすると、 変異することのない永遠な存在を教示しない理由はないのじゃ。
 何故なら、聖典が教示しているすでに存在するものは、行為ではないからなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 すでに存在するものは、行為ではないが、行為を実現する手段であるから、すでに存在するものについての教示は、行為のためにこそ存在するといのじゃ。

 答えたのじゃ。
 たとえ行為のためであるにせよ、行為を実現する力のある事物が、現に教示されているのじゃ。
 確かに、教示の目的は行為のためではあるが、たからといって、事物について教示していないことにはならないのじゃ。

 反対なのじゃ。
 すでに存在する事物が聖典で教示されているとして、それが汝にとって何の意味があるのかと問うのじゃ。

 答えたのじゃ。
 アートマンという、まだ理解されていない事物について教示することにも同じように、意味があるはずなのじゃ。
 アートマンを理解することによって、輪廻の原因である誤った知識が滅せられることが目的なのじゃ。
 このようにすでに存在する事物についての教示は、行為を実現する手段としての事物に関する教示に劣らず、意味があるのじゃ。

 ある反対主張者が、聖典を知る者の言葉を反対の根拠として引用していたが、それをシャンカラは次のように、別の形で解釈しているというのじゃ。
 ヴェーダの目的は明白である。有意義な結果をもたらす好ましい事柄を教示するところにあるのである」と述べるべきところを、ダルマの考究が主題となっており、かつダルマとは祭式のことにほかならないので、「祭式を教示するところにあるのである」と述べられているのじゃ。
 この引用文が、すでに存在するブラフマンを教示するという ヴェーダの働きを妨げることはないのじゃ。
 あるものの美点が述べられることが、他のものの美点を否定することにはならないからなのじゃ。
 儀軌聖典句の対象は、儀軌によって命じられている祭式であり、禁令聖典句の対象は、禁令によって禁じられている祭式ではあるが、両者はともに祭式を教示するものというのじゃ。

771避難民のマジレスさん:2022/12/09(金) 23:44:50 ID:wgpj1qQI0
(つづき)   p426-427
  [反対主張]ところで、「聖典は行為(祭式)のためのものであるから云々」という、 聖典(『ミーマーンサー・スートラ』)の作者の言葉がある。ここでもし、「ためのもの (意味、対象artha)」という語を言葉の対象(abhidheya)を示すという意味に取れば、 その場合には、実体、性質、運動というすでに存在するものは、[聖典の]言葉の対象ではないという意味で無意味であることになろう。何故なら、それらは行為(祭式)を言い表してはいないからである。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して次のように]答えて いるのである。またもし、「聖典は...」云々と。
   [反対主張]行為(祭式)のためのものというのは、行為(祭式)を言い表しているという意味ではなくて、行為(祭式)を目的とするという意味なのである。そして、実体や性質を表す[聖典中の]言葉が、すでに存在する実体や性質について述べているのは、[それらが行為(祭式)]に役立つ(目的とする)からなのであって、[実体や性質] 自身を表すためではないのである724。たとえば、聖典を知る者(シァヴァラスヴアーミン)は、 「実に教令は、すでに存在するもの、現に存在しているもの、[将来存在す るであろうもの、微細なものを教示するのである]」725と述べている。その意味は以下の通りである。すなわち教令は、行わなけれはならないことを理解させると同時に、それ(行わなければならないこと)に役立つすでに存在しているものをも理解させるので ある。
   [答論]これ(反対主張)に対して[師シャンカラは、次のように]答えている。[さらに]もし、活動を促したり停止させたりする儀軌[およびそれらの儀軌に従属するもの]とは別に726、[聖典が]すでに存在する[事物を]云々と。その趣旨は以下の通りである727。まず、「語は]、その固有の意味のなかでも、行わなけれはならないことに 役立つものだけに関係するのであって、それ以外の意味とは関係しない」と知られているわけではない。このことについては、「[語は)すでに存在するものをも表示する」 ということを示そうとした人々によって、すでに明らかにされた通りである728。さらに語は、[他の語の意味と無関係に]語固有の意味だけを表しているのではないのである729。もしそうなら(語が固有の意味しか表さないとすれば)、文章の意味は認識されないことになるであろう。何故なら、[文章の語の意味が]それぞれ独立した形で主要なものであれば、主要な意味とそれに従属する意味という関係が存在しないことになり、[それらが]一つの文章を構成することは経験されなくなるからである。従って、 諸語が固有の意味を表示しながらも一つの文章を構成するのは、[文章の意味という] 同一の目的をもった<語の意味>をも表示するからである。そしてこのようにして、一 つの文章の意味一 [それはその文章の意味を]構成する個々の[語の]意味によって限定されている一についての認識が成り立つのである。たとえば、聖典の意味を知る者(クマーリラバッタ)が[次のように]述べている。「文字は直接に語の意味を明らかにするが、そんな無意味なことだけで終わるわけではない。語の意味を明らか にすることは、それら(文字)が文章の意味を生み出すために機能する際に必要不可欠なのである。それはちょうど、料理の際に薪の炎が[必要不可欠である]ようなものである」730と。従って、[語が固有の意味]以外の意味との関係を表示するだけで、文章の意味についての認識が成立するとすれば、語が行わなけれはならないことの関係を表示するという決まりは存在しないことになる。とすれば、[語が]変異することなく 永遠なブラフマンの性質を表示するのも理論的欠陥とはならないのである。
  [ところで]これから実現しなけれはならないものとはこれから行わなけれはならないことのことである。

脚注
724 725 726
727 以下の論議は、語には、(1)行わなけれはならないことと結び付いた語自身の意味を表示する能力があるのか、(2)語自身の意味を表示する能力があるのか、(3)行わなければならないこと以外のものと結び付いた語自身の意味を表示する能力があるのか、という問題に対す る解答であるとされている。
728 本訳416頁以下参照。
729
(´・(ェ)・`)
(つづく)

772鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/10(土) 23:28:05 ID:9N5aHE1w0
 反対なのじゃ。
 「聖典は行為(祭式)のためのものであるから云々」という、 聖典(『ミーマーンサー・スートラ』)の作者の言葉があるというのじゃ。
 ここでもし、「ためのもの」という語を言葉の対象を示すという意味に取れば、 その場合には、実体、性質、運動というすでに存在するものは、言葉の対象ではないという意味で無意味であることになるというのじゃ。
 何故なら、それらは行為を言い表してはいないからなのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラはすでに否定しているというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 行為(祭式)のためのものというのは、行為(祭式)を言い表しているという意味ではなくて、行為(祭式)を目的とするという意味なのじゃ。
 そして、実体や性質を表す言葉が、すでに存在する実体や性質について述べているのは、それらが行為(祭式)に役立つからなのであって、自身を表すためではないのじゃ。
 たとえば、聖典を知る者(シァヴァラスヴアーミン)は、 「実に教令は、すでに存在するもの、現に存在しているもの、」と述べているのじゃ。
 教令は、行わなけれはならないことを理解させると同時に、それに役立つすでに存在しているものをも理解させるのじゃ。

 答えたのじゃ。
 まず、「語は]、その固有の意味のなかでも、行わなけれはならないことに 役立つものだけに関係するのであって、それ以外の意味とは関係しない」と知られていないのじゃ。
 さらに語は、[他の語の意味と無関係に]語固有の意味だけを表しているのではないのじゃ。
 もしそうなら文章の意味は認識されないことになるじゃろう。
 何故なら、語の意味がそれぞれ独立した形で主要なものであれば、主要な意味とそれに従属する意味という関係が存在しないことになり、一つの文章を構成することは経験されなくなるからなのじゃ。
 
 従って、 諸語が固有の意味を表示しながらも一つの文章を構成するのは、同一の目的をもった語の意味をも表示するからなのじゃ。
 このようにして、一 つの文章の意味についての認識が成り立つのじゃ。

 たとえば、聖典の意味を知る者(クマーリラバッタ)が、
 「文字は直接に語の意味を明らかにするが、そんな無意味なことだけで終わるわけではない
 語の意味を明らか にすることは、それら(文字)が文章の意味を生み出すために機能する際に必要不可欠なのである。
 それはちょうど、料理の際に薪の炎のようなものである」と述べているのじゃ。

 従って、語が固有の意味]外の意味との関係を表示するだけで、文章の意味についての認識が成立するとすれば、語が行わなけれはならないことの関係を表示するという決まりは存在しないことになるのじゃ。
 とすれば、語が変異することなく 永遠なブラフマンの性質を表示するのも理論的欠陥とはならないのじゃ。

 これから実現しなけれはならないものとは、これから行わなけれはならないことのことなのじゃ。

773避難民のマジレスさん:2022/12/10(土) 23:53:15 ID:KkFqgyN60
(つづき)  p428-429
  [反対主張]これから実現しなけれはならないもののために、すでに存在するものが 教示されているとすれば、それはすでに存在するものではない。何故なら、これから実現しなければならないものと結合した姿をしているので、それもこれから実現しなけれはならないものにはかならないからである。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して次のように]答えているのである。[何故なら、聖典の]教示している[すでに存在するものは、行為(祭式)では]ないからであると。その意味は[次の通り]である。まず[この]結合とは同一性のことではない。そうではなくて、これから行わなけれはならないことと[すでに存在するものとが]、目的とその目的に役立つものという関係にあるということなのである。ところが、それ(目的とその目的に役立つものという関係)を対象とする< これから生ずるもの> (bhāvārtha,活動)とすでに存在するものとは、行為と〈行為 に関係する要素> (kāraka)という[関係]にあるのである。従って、すでに存在するものは行為のために存在するのではない731のである。
  [反対主張][すでに存在するものは]行為(祭式)ではないが云々。従って、変異することなく永遠なブラフマンについての教示は、行為に役立たない[ので]成り立たない、という意味である。
  [答論]このような批判はあてはまらない。何故なら、たとえ行為(祭式)のためであるにせよ云々。すなわち、すでに存在するものは、行為のために教示されるとすでに存在するものではなくなる、などということはない。そうではなくて、それは、行為を実現する力を備えてはいるが、まさにすでに存在するものなのである。また言葉は、 すでに存在するものを表示する力(śakti)があると確定しており、かつ、ある場合には固有の(行為とは無関係な)すでに存在するものを表示すると経験されていれば、やせてもかれても、行為を表示することを[人に]理解させるなどということは決してありえない。実に、[行為に]限定されたものを百回見ても、[行為に]限定されていないものをどこかで見たことがあれば、[それが]見たことのないものに変わるということはないのである。そしてまた、現に存在しているものについての教示(たとえば森 の描写)は、存在という行為によって[のみ]限定されており、行わなけれはならないことには役立たないが、世間一般にしばしば見られるのである。同様に、関係だけを以て終わる(表示する)[言葉]のなかには、行為(動詞)を表示していないものもあ る。たとえば、「この人はだれのものか」という質問に対する答え「王の」がそうである。同様に、名詞語幹の意味のみを表示するものもある。たとえば、「木々はどのよう なものか」という質問に対する答え「実をつけたもの」がそうである。[このような場合に]質問者は、人や木々の存在・非存在を知りたいと思っているわけではない。そうではなくて、その人の特定の主人や木々の特定の様子を[知りたいと思っているのである]。そして、質間者が期待していることを知っている人は、特定の主人や特定の様子だけを答えるのである。それが存在することを[答えるわけ]では決してない。何故なら、その人(質間者)が知りたいと思ってはいないからである。なお、「語は、意味 (目的)のあるものであればすでに存在するものをも表示する」ということについては、 すでに明らかにした通りである732。
  [反対主張]すでに存在するものが[聖典で]教示されているとして、[それが]お前にとって、すなわち教示者あるいは聞き手にとって何の意味(目的)があるのか[意味などないであろう]。だから、すでに存在するもののなかでも、意味のあるものだけが教示されるべきなのである。意味のないものがではない。だがブラフマンは、意味のないものである。何故なら、それは、無関心な存在であって、あらゆる行為と無縁なので、役に立たないからである。以上が[『註解』中の反対主張の]趣旨である。
   [答論]アートマンという、まだ理解されていない[事物]について教示することも(Ca)、同じようである、すなわち意味(目的)があるはずである。[ここで用いられている]Caという語は、「もまた」という意味である。[『註解』のこの箇所の]趣旨は次の通りである。すなわち、ブラフマンが無関心な存在ではあっても、それを対象とする言葉の認識一つまり悟りを以て終わる明知一は、自己と対立するもの一つまり輪廻の根本原因である無明一を断ち切るので、意味(目的)があるのである。

脚注
731 行為に関係する要素については、脚注151参照のこと。
732 本訳416頁以下参照。
(´・(ェ)・`)つ

774鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/11(日) 23:02:46 ID:4UdMzx4g0
 反対なのじゃ。
 これから実現しなけれはならないもののために、すでに存在するものが教示されているとすれば、それはすでに存在するものではないというのじゃ。
 何故ならばこれから実現しなければならないものと結合した姿をしているので、それもこれから実現しなけれはならないものであるからなのじゃ。

 答えたのじゃ。
 まず結合とは同一性のことではないのじゃ。
 そうではなくて、これから行わなけれはならないことと、目的とその目的に役立つものという関係にあるということなのじゃ。

 それを対象とする< これから生ずるもの>とすでに存在するものとは、行為と行為 に関係する要素という[関係]にあるのじゃ。。
 すでに存在するものは行為のために存在するのではないのじゃ。

 反対なのじゃ。
 変異することなく永遠なブラフマンについての教示は、行為に役立たないから成り立たない、というのじゃ。

 答えたのじゃ。
 それは、行為を実現する力を備えてはいるが、まさにすでに存在するものなのじゃ。
 また言葉は、 すでに存在するものを表示する力があると確定しているのじゃ
 かつ、ある場合には固有のすでに存在するものを表示すると経験されていれば、行為を表示することを理解させるなどということは決してありえないのじゃ。

 限定されたものを百回見ても、[行為に]限定されていないものをどこかで見たことがあれば、[それが]見たことのないものに変わるということはないのじゃ
 現に存在しているものについての教示は、存在という行為によって限定されており、行わなけれはならないことには役立たないが、世間一般にしばしば見られるのじゃ
 
 同様に、関係だけを以て終わる言葉のなかには、行為を表示していないものもあるじゃろう。
 たとえば、「この人はだれのものか」という質問に対する答え「王の」がそうじゃ。

 同様に、名詞語幹の意味のみを表示するものもあるじゃろう。
 たとえば、「木々はどのよう なものか」という質問に対する答え「実をつけたもの」がそうなのじゃ
 質問者は、人や木々の存在・非存在を知りたいと思っているわけではないじゃろう。
 そうではなくて、その人の特定の主人や木々の特定の様子を知りたいと思っているのじゃ

 質間者が期待していることを知っている人は、特定の主人や特定の様子だけを答えるのじゃ。
 それが存在することを[答えるわけ]では決してないじゃろう。
 何故なら、その人(質間者)が知りたいと思ってはいないからなのじゃ。
 なお、「語は、意味 (目的)のあるものであればすでに存在するものをも表示する」ということについては、 すでに明らかにした通りなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 すでに存在するものが教示されているとして、教示者あるいは聞き手にとって何の意味があるのかと聞くのじゃ。
 ブラフマンは意味のないものというのじゃ。
 何故ならば、それは無関心な存在であって、あらゆる行為と無縁なので役に立たないからだというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ブラフマンが無関心な存在ではあっても、それを対象とする言葉の認識は、自己と対立するものを断ち切るので、意味があるのじゃ。
 アートマンも同じなのじゃ。

775避難民のマジレスさん:2022/12/11(日) 23:56:43 ID:130rHkDU0
6.2.理由(2)ヴェーダの目的が行為(祭式)を教示することのみにあるとすると、活動の停止を教示するヴェーダの文章(禁令)が無意味であることになる   p429-431 216/229

  さらにまた、[ヴェーダには]「バラモンは殺すべきではない」(brahmano na hantavyah)等の活動の停止が教示されている。そしてそれ(活動の停 止)は、行為(祭式)ではない。また、行為(祭式)を実現する手段でもない。 もし、行為(祭式)を目的としない[ヴェーダ]の教えが無意味であれば、「バラモンは殺すべきではない」等の、活動の停止を教示する[ヴェーダの文章] は無意味であることになる。だがそれは望ましいことではない。
  [反対主張]否定詞nañは、[「殺す」という語根から]自然に知られる「殺す」という意味と結び付いているので、殺すという行為の停止という、[行為に対して]無関心な状態[を表すの]ではなくて、[語根から自然には]知ら れない行為(すなわち殺すこと以外の行為)[を命ずる]ためのものだと考えることができるのである733。
  [答論]そうではない。この否定詞 nañの本来の性質は、否定詞nañと結び付いたものが存在しないことを認識させるところにある。そして、存在しないという認識は、無関心な状態の原因なのである。さらにそれ(存在しないという認識)は、薪の燃えてしまった火のように、自ら消え去ってゆくのである734。従って、「バラモンは殺すべきではない」等の場合には、プラジャーパティに対する誓い等735の場合とは異なり、積極的な活動を停止することという、[積極的な行為に対して]無関心な状態こそが、その否定の意味 なのである、とわれわれは考えている。それ故、「[行為(祭式)を目的としな い諸聖典旬は]無意味である」という[『ミーマーンサー・スートラ』の]言明は、人問の目的に役に立たない物語等からなる釈義(arthavada)736等に関するものだと理解すべきなのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

776避難民のマジレスさん:2022/12/12(月) 05:48:47 ID:C52H0cTM0
(つづき)
脚注
733「殺すべきではない」の意味の解釈に関して、否定詞の機能が定立否定にあるのか、それとも非定立否定にあるのかという問題が前提となっている。すなわち、否定詞の機能が定立否定にあるのか、それとも非定立否定にあるのかという問題である。そのうち、否定詞の機能は定立否定にあるというのが、ここの反対主張の趣旨であるが、その場合には、「殺すべきではない」という文章は次のように解釈されることになる。すなわち、否定詞は「殺すべきである」という語の語根の意味(殺すこと) と結びついてその意味を否定し、そうすることによって逆に、語根の意味以外の意味(殺すこと以外のこと)を定立するのだとされるのである。説明の都合上、語根の意味を表す(殺すこと)と接尾辞の意味を表す(「すべきである」)に分けて考えてみると、語根の意味と結びつくわけであるから、置き換えられることになるが、この際は (殺すこと)以外のこと(たとえば、叩くことや、あるいは『バーマティー』の例に従えば殺さないという決意等)を意味すると解釈されるのである。従って、叩くことや殺さないという決意等を行うことを命じていることになり、その結果「バラモンを殺すべきではない」という文章 は、前後の文脈に応じて「バラモンを叩くこと」とか「バラモンを殺さないという決意」などをを行うこと(すなわち行為)を命じているとされるのである。それに対して、否定詞nañの機能は非定立否定にあるというのが、答論の立場であるが、それによれば、「殺すべきでない」という文章は次のように解釈され ることになる。すなわち、否定詞nañは「殺すべきである」という語の接尾辞の意味(すべきである)と結びついてその意味を否定するのだとされるのである。先と同じように、置き換えると、naは接尾辞の意味を表す語と結びついて、行わないこと(行為の停止)を命じていると解釈されるのである。従って、「バラモンを殺すべきではない」 という文章は、定立否定による解釈とは異なり、なんら行為を命ずるものではなく、「バラモンを殺すことを行わないこと」すなわち「バラモンを殺すという行為の停止」を命じているとされるのである。
734この箇所は、nañと結びついたものすなわち活動が存在しないという認識が消滅したあとに、再び無関心な状態に行為が生じて来る余地があるのではないか」という反論に対するる答えであるとされる。すなわち、行為が存在しないという認識は、活動を完全に根絶やしにしたのち、自らも消え去っていくから、再び活動の生ずる余地はないということを言ついるのだとされているのである。
735プラジャーパティに対する誓いとは、学生期を終えた若者が家住期に入る際に、創造神プラジヤーパティに対して行う誓いで、「昇りつつある太陽あるいは沈みつつある太陽を見るべきではない」等の内容の ものである。この場合には、誓いという積極的決意を示すものであるという性貢上、この「べきではない」 という否定を、積極的な活動を停止するという非定立否定の意味に解釈することは適当ではない。従って、 この文章中の否定は、定立否定の機能を持ち、「昇りつつある太陽あるいは沈みつつある太陽を見ないとい う決意」を間接的に表示しているのだと解釈すぺきであるとされるのである。
736釈義に関しては、脚注493;496参照。
(´・(ェ)・`)つ

777鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/12(月) 23:04:34 ID:ySja09TI0
 さらにまたヴェーダには「バラモンは殺すべきではない」等の活動の停止が教示されているというのじゃ。
 それは行為ではないじゃろう。
 また、行為を実現する手段でもないのじゃ。

 もし、行為を目的としない教えが無意味であれば、「バラモンは殺すべきではない」等の、活動の停止を教示するのは無意味であることになるのじゃ。
 だがそれは望ましいことではないのじゃ。
 戒律が無意味になってしまうからのう。

 反対なのじゃ。
 否定詞は殺すという語根から自然に知られる「殺す」という意味と結び付いているので、殺すという行為の停止という無関心な状態を表すのではないというのじゃ。
 語根から自然には知られない行為、すなわち殺すこと以外の行為のためのものだと考えることができるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 この否定詞本来の性質は、否定詞と結び付いたものが存在しないことを認識させるところにあるというのじゃ。
 そして、存在しないという認識は、無関心な状態の原因なのじゃ。
 さらにそれは、薪の燃えてしまった火のように、自ら消え去ってゆくのじゃ。

 従って、「バラモンは殺すべきではない」等の場合には、プラジャーパティに対する誓い等の場合とは異なり、積極的な活動を停止することという無関心な状態こそが、その否定の意味なのじゃ。
 それ故に、「[行為を目的としな い諸聖典旬は無意味である」という『ミーマーンサー・スートラ』の言明は、人問の目的に役に立たない物語等からなる釈義等に関するものだと理解すべきなのじゃ。。

778避難民のマジレスさん:2022/12/13(火) 00:32:17 ID:J2AF3r0.0
6.2.1.儀軌は行為を命ずる p431-432 217右/229

  あらゆる語は行わなければならないことを表示すると認めている人たちでさえ、「バ ラモンは殺すべきではない」とか「酒を飲むべきではない」等[の文章]が、行わなければならないことを表現していると認めることはできない。何故なら、行わなければならないことは、その領域が意欲(krti)によって限定されている[ので]、意欲の存在 する領域のなかに含まれている(vyāpta)からである737。[従って]、その(意欲)が なくなれば、[行わなければならないことも]なくなるのである。それはちょうど、木という性質がなくなれば、シンシャパー738という性質も[なくなる]ようなものである。ところで、意欲とは人の努力のことである。そしてそれ(意欲)は、対象に基づいて決定される。そしてその(意欲の)対象は、これから実現しなければならないものという本性を備えているので、生ずるもの(bhāvārtha,活動)一[それは]前後関係のある[多くの行為からなり]、他のものを生み出すのに適してしいる一でしかありえないはずであり739、実体や性質では[ありえ]ない。何故なら、意欲の対象は、意欲の存在する領域のなかに直接的に含まれているからである。そして、実体や性質というすでに実現されているものが、意欲の存在する領域のなかに含まれることはない。だからこそ、聖典(『ミーマーンサー・スートラ』)の作者の[次のような]言葉があるのである。「行為を表す言葉(動詞)は生ずるもの(活動)を表しており、[新得力が] 生ずることはそれ(生ずるものを表す動詞)から認識されるのである」740と。
  [反対主張]実体や性質を表す言葉も、なにか原因がある場合には(naimittikavāsthā)、 行わなければならないことと関係するではないか741。

脚注
737 要するに、行わなければならないのだという意欲が存在していてはじめて行わなければならないことが遂行されるのだということ。なおvyāptaに関しては、脚注14参照。
738アショーカ樹のこと。
739たとえば、御飯を炊くという料理を例に取れば、それは、まず鍋を火にかけて温めるという行為から始まって、最後に御飯が炊きあがるという行為までの前後関係のある多くの行為からなっており、またそれは、料理という行為以外のものすなわち炊きあがった御飯を生みだすのに適しているのである。この点で壼等の実体とは異なっているのである。
740
741「語によって思い起こさせられたものと結び付かないものが原因であるときに、生ずるもの(活動) と結び付いている状態が、なにか原因がある場合であり、その場合には、すでに実現されているものである実体や性質も、行為と結び付くことによってこれから実現しなけれぱならないものとなる。従って、実体・性質・生ずるもの(活動)を表す言葉はともに、これから実現しなけれぱならないものを表し、かつこれから実現しなけれぱならないものを対象としているので、[それらの語の]用法はともに[語を]用 いた対象を実現するところにあるのである」
(´・(ェ)・`)
(つづく)

779鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/14(水) 00:03:53 ID:OkPEYBXc0
 あらゆる語は行わなければならないことを表示すると認めている人たちでも禁止を命じる文章を、行わなければならないことを表現していると認めることはできないというのじゃ。
 何故ならばそこには意欲が欠けているからなのじゃ。
 意欲とは人の努力のことであるというのじゃ。

 意欲は対象に基づいて決定されるものじゃ。
 そして意欲の対象は、これから実現しなければならないものという本性を備えているので、生ずるものでしかありえないのじゃ。
 実体や性質ではないのじゃ。

 何故ならば意欲の対象は、意欲の存在する領域のなかに直接的に含まれているからなのじゃ。
 そして、実体や性質というすでに実現されているものが、意欲の存在する領域のなかに含まれることはないからなのじゃ。

 聖典『ミーマーンサー・スートラ』の作者の次のような言葉があるのじゃ。
 「行為を表す言葉は生ずるものを表しており、新得力が 生ずることはそれから認識されるのである」と。

 
 反対なのじゃ。
 実体や性質を表す言葉も、なにか原因がある場合には行わなければならないことと関係するではないかと聞いたのじゃ。

780避難民のマジレスさん:2022/12/14(水) 00:15:15 ID:3G6klO0I0
(つづき)   p432-433
  [答論]ところが、生ずるもの(活動)[を表す言葉]は、それ自体で行わなけれぱならないことと関係しているのに、実体や性質を表す言葉は、活動と結び付くことによって行わなけれぱならないことと関係するのである。従って、生ずるもの(活動)を表す [言葉]からのみ新得力が理解されるのであり、実体や性質を表す言葉からではない。 また、「ヨーグルトによって護摩を行う[べきである]」742とか、「絶え間なくギーを振り掛ける[べきである]」743等の場合にも、[ヨーグルト等の]実体(供物)が行わなけれぱならないことの中味ではない。何故なら、この場合にも、護摩や振り掛けることという生ずるもの(活動)が、行わなければならないことの中味だからである。[だが]だからといって、「[『ヨーグルトによって護摩を行うべきである』とか『絶え間なくギーを振り掛けるべきである』という儀軌が]、『ソーマによって供犠を行う[べきで ある]』という[儀軌]の場合と同じように、ヨーグルトによって限定された護摩や絶え間ないことによって限定された振り掛けることを命じているので、『アグニホートラ [という護摩]を行う[べきである]』とか『ギーを振り掛けることを行う[べきである]』という[文章]は、それら(護摩やギーを振り掛けること)に再び言及している のである」744というわけではない。何故なら、[確かに]この場合にも、行わなければならないことの中味は、生ずるもの(護摩やギーを振り掛けること)ではあるが、実体 (供物すなわちヨーグルト)や性質(すなわち絶え間ないこと)は、[行わなければならないことの]中味ではなくても生ずるものと関係しているので、それが命じられているのである。というのは、生ずるもの(活動)は、<行為に関係する要素> (kāraka)の単なる働きにすぎないという形で特(教→)徴付けられることはないが、特定の〈行為に関係する要素> (たとえば実体等)によって特徴付けられているので、実体等がそれ(生ずるもの)と関係している(の)からである745。従って、生ずるもの(活動)が命じられているときには、それ(生ずるもの)自身が、それ(生ずるもの)と関係しているもの (たとえば実体や性質等)とともに命じられるので、実体や性質は、[行わなけれぱならないことの]中味ではないが、それ(行わなければならないこと)と関係するものとして命じられているのである。だがこのように、儀軌が生ずるものを媒介として実体等 と結び付くというのは、まわりくどくなる(gaurava)746という恐れがある。従って、 [このような儀軌は]、その対象(生ずるもの)がそれ以外の[儀軌]から知られるので、それ(生ずるもの)に再言及することによって、それ(生ずるもの)と関係のある 実体等を述べているのである747。それ故儀軌は、まさに生ずるもの(活動)を対象としている(命じている)のである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

781避難民のマジレスさん:2022/12/14(水) 00:16:10 ID:3G6klO0I0
(つづき)  p432-433
脚注
742 出典不明。 743出典不明。
744「ヨーグルトによって護摩を行うべきである」とか「絶え間なくギーを振り掛けるべきである」とい う儀軌の場合には、この儀軌以外にそれぞれ祭式そのものを命じている儀軌(根本儀軌)「アグニホート ラ[という護摩]を行う[べきである]」「[火に]ギーを振り掛けることを行う[べきである]」があるので、「ヨーグルト云々」「絶え間なく云々」という儀軌は、これらの祭式に付属する供物(ヨーグルト)や性質(絶え間ないこと)を命じている従属儀軌(で)あるとされる。だが、「ソーマによって供犠を行うべきである」という儀軌の場合には、この儀軌以外に祭式(供犠)そのものを命じている儀軌が存在しないので、 ソーマによって限定された供犠を行うべきことを命じている限定儀軌であるとされる。すなわち、この儀軌は、(1)供犠そのものを行うべきことと同時に、(2)その際ソーマを供物として捧げるべきことをも命じているのだとされるのである。さてここで、「ヨーグルトによって護摩を行うべきである」とか「絶え間なくギーを振り掛けるべきである」等の儀軌の場合に、護摩やギーを振り掛けることという生ずるもの(活動)が、行わなけれぱならないことの中味であるとすると、これらの儀軌はそれぞれ、「ソーマに よって供犠を行う[べきである]」という儀軌同様、(1)祭式(ギーを振り掛けること)そのものを命ずると同時に、(2)その際ヨーグルトを供物として用いるべきこと、絶え間なく捧げるべきことをも命じ ている限定儀軌であることになる。すなわち、言い換えれば、ヨーグルトによって限定された護摩や、絶え間ないことによって限定された振り掛けることを命じていることになる。そしてもしそうだとすれぱ、 これらの儀軌によってすでに、護摩を行うべきこと、振り掛けることを行うべきことはすでに命じられてしまっているわけであるから、今度は逆に、「アグニホートラ[という護摩]を行うべきである」「ギーを 振り掛けること行うべきである」という文章は、すでに命じられた護摩やギーを振り掛けることに再度言 及していることになり、未知のことを命ずるものである儀軌ではないことになってしまうのである。
745 行為に関係する要素(kāraka)については、脚注151参照。
746 論理学上の誤りの一つで、より簡潔な方法があるのに、まわりくどい方法を用いることを言う。
747「ヨーグルトによって護摩を行う[べきである]」という儀軌を例に取れば、この儀軌は、その対象 (生ずるもの、活動)すなわち護摩が、それ以外の儀軌(すなわち「アグニホートラ[という護摩]を行う [べきである]」)から知られるので、それ(護摩)に再言及することによって、それ(護摩)と関係のある 実体(供物)であるヨーグルトを述べているのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

782鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/15(木) 00:25:38 ID:awZraiYk0
 答えたのじゃ。
 生ずるものはそれ自体で行わなけれぱならないことと関係しているが、実体や性質を表す言葉は、活動と結び付くことによって行わなけれぱならないことと関係するというのじゃ。
 生ずるものを表す言葉からのみ新得力が理解されるのであり、実体や性質を表す言葉からではないのじゃ。

 また、「ヨーグルトによって護摩を行う]とか、「絶え間なくギーを振り掛ける」等の場合にも、実体が行わなけれぱならないことの中味ではないのじゃ。
 何故なら、この場合にも、護摩や振り掛けることという生ずるものが、行わなければならないことの中味だからなのじゃ。

 しかしそれらの儀軌がヨーグルトによって限定された護摩や絶え間ないことで限定された振り掛けることを命じているので、『アグニホートラを行う』とか『ギーを振り掛けることを行う』という文章でそれらに再び言及しているわけではないというのじゃ。
 何故ならばこの場合にも、行わなければならないことの中味は、生ずるものではあるが、実体や性質は中味ではなくても生ずるものと関係しているので、それが命じられているのじゃ。

 生ずるものは特定の行為に関係する要素によって特徴付けられているので、実体等がそれと関係しているからなのじゃ。
 従って、生ずるものが命じられているときには、それ自身が、それと関係しているものとともに命じられるのじゃ。
 そうであるから実体や性質は行わなけれぱならないことの中味ではないが、それと関係するものとして命じられているのじゃ。

 だがこのように、儀軌が生ずるものを媒介として実体等 と結び付くというのは、まわりくどくなるという恐れがあるのじゃ。
 従ってこのような儀軌は、その対象がそれ以外の儀軌から知られるので、それに再言及することによって、それと関係のある 実体等を述べているのじゃ。
 それ故儀軌は、まさに生ずるものを対象としているのじゃ。

783避難民のマジレスさん:2022/12/15(木) 02:46:59 ID:CejTC7aE0
(つづき)   p433-435
  以上の理由によって、「『八つのかわらけ(くま注)に盛られた[祭餅]を[火の神アグニに]捧げるアーグネーヤ祭は、[新月の日と満月の日に決まっているの]である』748という場合には、この儀軌は、[供物と祭神との]関係を対象としている(述べている)」という[主張も]退けられたことになる。
   [反対主張]儀軌の対象は生ずるものではない。何故なら、生ずるもの(bhavitr,生み出されるもの=活動)がすでに存在しているとすると、そのすでに存在の確立している<生ずるもの>には、それを生み出すものが存在しないからである。実に、[すでに存在している]虚空が生ずることはないのである。また、[生ずるものが]存在しない場合にも、[儀軌の対象は生ずるものではない]。何故なら、虚空に浮かんだ花のような非存在に対して、儀軌が適用されることはないからである。従って、儀軌の対象は、[動作や心の動きを]引き起こすもの(prayojaka)、すなわち、生じさせる者(bhavayitr) の心の働き(vyāpāra)であり、その心の働きは、生むもの(bhavanā)、すなわち引き 起こされる心の動きや動作から暗に知られるのである。そしてこの心の働きが、志向 (bhāvanā)、意欲(krti)、努力(prayatna)なのである749。そして、これ(心の働き) は、その対象が存在しなければ認識できないので、その対象が必要である。そのとき、「アーグネーヤ祭」(āgneya,文字通りには火の神アグニに関係するもの、すなわち捧げ られるものという意味)という言葉から思い起こされる、実体(供物)と祭神との関係 こそが、これ(心の働き)の対象となるのである。[従って、儀軌の対象は供物と祭神 との関係なのである]。
  [答論]人間の努力の対象は働き(vyāpāra)であるのに、働きではない関係がどうして人間の努力の対象となろうか。何故なら、「壷を作れ」という場合も、人間の努力は、名詞が表現している壷を直接に対象としているのではなくて、[壷を作るのに用いる]棒などを手などで動かすのである。従って、壷を作ろうという意欲は、[手などで棒などを動かすという]働きこそを対象としているのだと理解されるのであって、直接に壷を対象としているのではないのである。すなわち壼は、[「壷を作れ」という文章が命じているもの(すなわち手などの働き)と関係するもの(uddeśya)として、 それ(壷を作ろうという意欲)のなかに存在しているのであって、[この文章が命じている]対象としてではないのである750。[「壷を作れ」という文章が命じている]対象としては、手などの働きだけが存在しているのである。従って、「アーグネーヤ祭は」 というこの場合にも、儀軌が命じている内容は、行わなければならないこと、すなわ ち、実体(供物)と祭神との関係から暗に知られる供犠という行為なのである。では、「アーグネーヤ祭が...である(行われるべきである)」というのは、どういう意味なの だろうか。「アーグネーヤという供犠によって[好ましい事柄すなわち天界を]生ずるべきである」という意味なのである。従って、「このように知る者は、プールナマーサ 祭を行うべきである」とか、「このように知る者は、ダルシャ祭を行うべきである」と いうのは、「アーグネーヤ祭は云々」等の儀軌がすでに命じた六種の供犠に再び言及しているのである。そしてまさに同じ理由で、すでに儀軌によって命じられた(アーグネーヤ祭)に再び言及しているそれ(「このように知る者はプールナマーサ祭を行うべ きである」 「このように知る者はダルシャ祭を行うべきである」)が、「天界を望む者はダルシャプールナマーサ祭によって供犠を行うべきである」という[儀軌に述べられている]執行資格と結び付くのである751。従って儀軌は、どんな場合でも必ず、意欲を媒介として、生ずるもの(活動)を対象としている(命じている)のである752。
(´・(ェ)・`)つ

784避難民のマジレスさん:2022/12/15(木) 02:47:35 ID:CejTC7aE0
脚注
(くま注);かわらけ;日本の中世から近世にかけて製作・使用された素焼きの土器。その中でも特に碗・皿形の器種を指す語である。古墳時代以来の土師器の系統に連なるため、土師質土器や中世土師器などとも呼ばれる。
748この儀軌は、祭神と供物との関係を述べているのだとする反対主張者の見解によれば、「アグニ神に捧げられた」という語によって祭神アグニが示され、「八つのかわらけに盛られた〔祭餅]」という語が供物を示しているのだとされる。それに対して、答論者によれば、この儀軌が命じている内容は、祭神と供物との関係から暗に知られる供犠という行為が命じられているのだとされるのである。
749「生み出すもの」と「生むもの」 (志向)と「生み出されるもの」の関係に関しては、脚注507参照。
750「関係するもの」とは、「命じられるべきもの」がそれを命ずる儀軌以外の認識根拠によって知られていないものであるのに対して、すでに他の認識根拠によって知られているもので あり、それが「命じられるべきもの」と関係するものとして述べられているような場合にこう呼ばれるのである。すなわちここでは、「壷を作れ」という文章によって「命じられるべきもの」(文章の命じている対象)は、手の動きであり、壼についてはすでに直接知覚等の他の認識根拠によってに知られているので、この壺は「命じられるべきもの」(手などの動き)と関係するものとして述べられているのである。
751Darśapūrnamāsa祭は、新月の日に行われるDarśa祭(新月祭)と満月の日に行われるPūrnamāsa祭(満月祭)からなる。そしてさらにDarśa祭は、Āgeneya祭、Agnīsomīya祭、Upāmśu祭の三種から なり、Pūrnamāsa祭は、Āgeneya祭、Aindram dadhi祭、Āindram payas祭の三種からなる。そして これらの六種の祭式の総体がDarśapūrnamāsa祭だとされるのである。これらの六種の祭のうち、Darśa祭とPūrnamāsa祭のĀgeneya祭に関しては、「八つのかわらけに盛った[祭餅]を[火の神アグニに]捧げるアーグネーヤ祭は、新月と満月の日に決まっているのである」という儀軌によって、執行すべきことが 命じられており、その他の四種の祭式に関しても、それぞれ執行すべきことを命ずる儀軌(根本儀軌)が存在している。従って、「このように知る者は、プールナマーサ祭を行うべきである」という文章は、満月の日に行われるアーグネーヤ等の三種の祭式に再度言及しており、「このように知る者は、ダルシャ祭を行うべきである」という文章は、新月の日に行われるĀgneya祭等の三種の祭式に再度言及しているのである。 このように、これらの二つの文章は、結局はDarśapūrnamāsa祭に再言及していることになるので、「天界を望む者はダルシャプールナマーサ祭によって供犠を行うべきである」というDarśapūrnamāsa祭の執行資格(天界を望む者であること)とも結びついてゆくのである。
752このように儀軌は常に、生ずるもの(活動、行為、祭式)を命ずるところに集約されていくので、「ど んな場合でも必ず、意欲を媒介として、生ずるもの(活動)を対象としているのである」。
(´・(ェ)・`)つ

785鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/15(木) 23:51:04 ID:awZraiYk0
 以上の理由で『八つのかわらけに盛られた餅を捧げるアーグネーヤ祭は、新月の日と満月の日に決まっているのである』という場合にこの儀軌は、関係を対象としているという主張も退けられたことになるというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 儀軌の対象は生ずるものではないというのじゃ。
 何故なら、生ずるもの,生み出されるものがすでに存在しているとすると、そのすでに存在の確立している生ずるものには、それを生み出すものが存在しないからなのじゃ。
 虚空が生ずることはないように。

 また生ずるものが存在しない場合にもそうなのじゃ。
 何故なら、虚空に浮かんだ花のような非存在に対して、儀軌が適用されることはないからなのじゃ。

 従って、儀軌の対象は引き起こすもの、すなわち、生じさせる者の心の働きであり、その心の働きは、生むもの、すなわち引き起こされる心の動きや動作から暗に知られるのじゃ。
 そしてこの心の働きが、志向、意欲、努力なのじゃ。
 そして、これらは、その対象が存在しなければ認識できないので、その対象が必要なのじゃ。
 そのとき、「アーグネーヤ祭」という言葉から思い起こされる、実体と祭神との関係こそが、これの対象となるのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 人間の努力の対象は働きであるから、働きではない関係が人間の努力の対象となることはないのじゃ。
 何故なら、「壷を作れ」という場合も、人間の努力は壷を直接に対象としているのではなく、棒などを手などで動かすことなのじゃ。
 従って、壷を作ろうという意欲は働きこそを対象としているのだと理解されるのであり、直接に壷を対象としているのではないのじゃ。
 すなわち壼は「壷を作れ」という文章が命じているものと関係するものとして、 それのなかに存在しているのであって対象としてではないのじゃ。
 「壷を作れ」という文章が命じている対象としては、手などの働きだけが存在しているのじゃ。

 従って、「アーグネーヤ祭は」 というこの場合にも、儀軌が命じている内容は、行わなければならないこと、すなわち、実体と祭神との関係から暗に知られる供犠という行為なのじゃ。
 アーグネーヤという供犠によって好ましい事柄、すなわち天界を生ずるべきである」という意味なのじゃ。
 従って、「このように知る者は、プールナマーサ祭を行うべきである」とか、「このように知る者は、ダルシャ祭を行うべきである」というのは、「アーグネーヤ祭は云々」等の儀軌がすでに命じた六種の供犠に再び言及しているのじゃ。

 そしてまさに同じ理由で、すでに儀軌によって命じられた(アーグネーヤ祭)に再び言及しているそれが、「天界を望む者はダルシャプールナマーサ祭によって供犠を行うべきである」という執行資格と結び付くのじゃ。
 従って儀軌は、どんな場合でも必ず、意欲を媒介として、生ずるもの、活動を対象としているのじゃ。

786避難民のマジレスさん:2022/12/16(金) 07:25:00 ID:qwUhXL3Y0
6.2.2.禁令は行為を命じない  p435-437 219右/229

  とすれば、「殺すべきではない」とか「飲むべきではない」という[儀軌の]場合にも、 もし行わなければならないことが存在すると認められれば、それ(行わなければならな いこと)の存在する領域を包み込んでいる(vyāpaka)意欲も存在すると認められることになろう。そして、それ(意欲)の存在する領域を包み込んでいる生ずるもの(活動)が、[これらの儀軌の]対象であることになろう。また同じように、プラジャーパティの誓いという原則に従えば、これらの儀軌は、定立否定(Paryudāsa)753の働きにより、殺さないあるいは飲まないという決意を間接的に表示する(laksanā)するので、それ (決意)を対象としていることになろう。とすれば、非定立否定(prasajyapratiseda) 754が放棄されるという理論的欠陥に陥ることになる。すなわち、[非定立否定による直接表示の]可能性がある場合には、[定立否定による]間接表示は正しくないのである。 ただし、「昇りつつある太陽を見るべきではない」等の場合には、[その儀軌が]「彼の誓いは」で始まっているので、非定立否定は不可能であり、そのため、定立否定の働きにより、見ないと決意することを間接的に表示する、というのは正しいのである。従って、「殺すべきではない」とか「飲むべきではない」等の非定立否定の場合には、生ず るもの(活動)が存在しないから、それ(生ずるもの)の存在する領域のなかに包み込まれている(vyāpta)意欲も存在しない。そして、それ(意欲)が存在しないときに は、それ(意欲)の存在する領域のなかに包み込まれている行わなければならないことも存在しない。それ故、あらゆる文章が行わなければならないことを表現しているというような決まりはないのである。だから[師シャンカラは、次のように]言っている。「バラモンは殺すべきではない」等の云々と。
  [反対主張]活動の停止それ自体あるいはそれ(活動の停止)の手段は、何故、行わなければならないことではないのか。
  [答論]だから[師シャンカラが、次のように]答えているのである。そしてそれ (活動の停止)は行為ではない云々と。[ここで]「行為」という言葉は、「行わなければならないこと」を表しているのである。[そして]同じこのこと(活動の停止は行為で はないということ)を、[師シャンカラが次のように]詳しく説明している。[もし]、 行為(祭式)を目的としない云々と。
  [反対主張]命令の意味を表す人称語尾を耳にすると、そこですぐに、行わなければならないことが認識される。そしてそれ(行わなければならないこと)は、生ずるもの (活動)が存在しなければ存在しないのである。また、食欲のせいで殺害や飲酒に手を染めた人の場合には、やめようという努力もしないで偶然に、[殺害や飲酒に対して]無関心な状態が生まれてくるなとということはない。従って、活動しようとしている心や言語器官や身体が[その活動を]やめようと努力すること、それこそが禁止を命ずる儀軌の対象となっている行為なのである。それ故、行為を表さない文章はなんら存 在しないのである。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して次のように]答えて いるのである。否定詞nañは、「殺す」という行為の停止という、[行為に対して]無関心な状態は言うに及ばず、[貪欲から自然には]生じない行為(すなわちやめようという努力)[を命ずる]ためのものだとも考えることはできないのである755と。

脚注
753 脚注733参照。
754 脚注733参照。
755この箇所は、『註解』本文の訳文とは異なるが、以下の『バーマティー』の説明へと繋げていく都合上、『バーマティー』にあわせて訳しておいた。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

787鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/17(土) 00:16:04 ID:3.U9QtD60
 とすれば「殺すべきではない」とか「飲むべきではない」という儀軌の場合も、 もし行わなければならないことが存在すると認められれば、その存在する領域を包み込んでいる意欲も存在すると認められることになるというのじゃ。
 意欲の存在する領域を包み込んでいる生ずるもの(活動)が、これらの儀軌の対象であることになるじゃろう。
 また同じように、プラジャーパティの誓いという原則に従えば、これらの儀軌は、定立否定の働きにより、殺さないあるいは飲まないという決意を間接的に表示するするので、決意を対象としていることになるのじゃ。
 とすれば、非定立否定が放棄されるという理論的欠陥に陥ることになるのじゃ。

 非定立否定による直接表示の可能性がある場合には、定立否定による間接表示は正しくないのじゃ。

 ただし、「昇りつつある太陽を見るべきではない」等の場合には「彼の誓いは」で始まっているので、非定立否定は不可能であり、そのため定立否定の働きにより見ないと決意することを間接的に表示する、というのは正しいのじゃ。
 
 従って、「殺すべきではない」とか「飲むべきではない」等の非定立否定の場合には、生ずるものが存在しないから、それの存在する領域のなかに包み込まれている意欲も存在しないのじゃ。
 そして、意欲が存在しないときに は、その存在する領域のなかに包み込まれている行わなければならないことも存在しないのじゃ。
 それ故、あらゆる文章が行わなければならないことを表現しているというような決まりはないのじゃ。

 反対なのじゃ。
 活動の停止それ自体あるいはその手段は、何故、行わなければならないことではないのかと聞くのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラが活動の停止は行為ではない云々と答えているのじゃ。
 「行為」という言葉は、「行わなければならないこと」を表しているのであるからなのじゃ。 

 反対なのじゃ。
 命令の意味を表す人称語尾を耳にすると、そこですぐに、行わなければならないことが認識されるじゃろう。
 そしてそれは、生ずるものが存在しなければ存在しないのじゃ。
 また、食欲のせいで殺害や飲酒に手を染めた人の場合、やめようという努力もしないで偶然に、無関心な状態が生まれてくるなとということはないのじゃ。
 従って、活動しようとしている心や言語器官や身体がやめようと努力すること、それこそが禁止を命ずる儀軌の対象となっている行為なのじゃ。
 それ故、行為を表さない文章はなんら存在しないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは否定詞は「殺す」という行為の停止という、無関心な状態は言うに及ばず、生じない行為のためのものだとも考えることはできないのであると言ったのじゃ。。

788避難民のマジレスさん:2022/12/17(土) 03:51:34 ID:SfjsdjQI0
(つづき)   p437-438
  [反対主張]どういう理由でできないのか。
  [答論]だから[師シャンカラが]、否定詞nañは、[貪欲から]自然に生ずる殺すことと結び付いているのでと答えているのである。その趣旨は以下の通りである。命令の意味を表す接尾辞は、殺害や飲酒を表す語とともに認識されたときには、それら (殺害や飲酒)を命じている。これが一般規則である。だが、それら(殺害や飲酒)を命ずることは不可能である。何故なら、[それらは]貪欲から生じたものだからである。 また、否定詞nañが非定立否定を命じているということもない。何故なら、無関心な 状態を本質とするそれ(非定立否定)は、[存在が生ずる以前の非存在(prāgabhāva) という形で]756すでに存在しているので、すでに成立しているからである。また、[否定詞nañが命じているのは]やめようという努力でもない。何故なら、それ(やめようという努力)は、直接表示されていないので、間接に表示されていることになるが、 [直接表示の]可能性がある場合には、間接表示は正しくないからである。さらに、命 令の意味を表す人称語尾が、貪欲から生じた活動に再言及しているので、[やめようという努力が]儀軌(命令)の対象となるのは不適当だからである。従って、[命令の意味を表す人称語尾が]、「飲むべきである」とか「殺すべきである」という[儀軌]に再び言及したのち、[否定詞nañが]「それは[するべきでは]ない」と禁止しているのである。すなわち、[否定詞nañは]、それ(殺害や飲酒)が存在しないことを認識させはするが、否定詞nañの表す対象を命じているわけではないのである。そして非存在は、自己と対立する存在によって限定されているので、存在の影を宿している。そ のため、[存在が]すでに存在する場合には、[非存在も]すでに存在するかのように見え、また、[存在が]これから実現しなければならないものであれば、[非存在も]これから実現しなければならないものであるかのように見えるのである。従って、否定詞 nañの表す対象(非存在)は、これから実現しなければならない存在との関係で、これから実現しなければならないもののように見えるのである。それ故、否定詞nañの 表す対象が行わなければならないことであるというのは、錯誤なのである。まさにこのことを、[師シャンカラは次のように]述べているのである。この否定詞nañの本来の性質は云々と。
  [反対主張]否定詞nañは、それと関係づけられているもの(たとえば殺害や飲酒) が存在しないことを認識させるのだ、としておこう。だが、活動しようとしている心や言語器官や身体が、どうして、原因もないのにその活動を停止したりしようか。

脚注
756
(´・(ェ)・`)
(つづく)

789鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/18(日) 00:14:04 ID:ew2h/pV60
 反対なのじゃ。
 なぜ出来ないのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 命令の意味を表す接尾辞は、殺害や飲酒を表す語とともに認識されたときには、それらを命じているのじゃ。
 これが一般規則であるなのじゃ。
 
 だが、それらを命ずることは不可能なのじゃ。
 何故なら貪欲から生じたものだからなのじゃ。
 命令によって行ったものではないからだというのじゃ。

 否定詞が非定立否定を命じているということもないのじゃ。
 何故なら、無関心な 状態を本質とするそれ非定立否定は、存在が生ずる以前の非存在という形ですでに存在しているので、すでに成立しているからだというのじゃ。

 また否定詞が命じているのはやめようという努力でもないというのじゃ。
 何故なら、それは直接表示されていないので、間接に表示されていることになるが、直接表示の可能性がある場合には、間接表示は正しくないからなのじゃ。

 さらに、命令の意味を表す人称語尾が、貪欲から生じた活動に再言及しているので儀軌の対象となるのは不適当なのじゃ。
 従って「飲むべきである」とか「殺すべきである」という儀軌に再び言及したのち、否定詞がそれはするべきではないと禁止していることになるのじゃ。
 すなわち否定詞は、それが存在しないことを認識させはするが、否定詞の表す対象を命じているわけではないのじゃ。
 
 そして非存在は自己と対立する存在によって限定されているので、存在の影を宿しているのじゃ。
 非存在は潜在的に存在するものを示しているというのじゃ。
 そ のためあるものごとがすでに存在する場合には、非存在もすでに存在するかのように見え、また、存在がこれから実現しなければならないものであれば、非存在もこれから実現しなければならないものであるかのように見えるだけなのじゃ。

 従って否定詞の表す対象は、これから実現しなければならない存在との関係で、これから実現しなければならないもののように見えるだけなのじゃ。
 そうであるから否定詞の表す対象が行わなければならないことであるというのは、錯誤なのであるとシャンカラは言っているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 否定詞はそれと関係づけられているものが存在しないことを認識させるのだ、としても活動しようとしている心や言語器官や身体が原因もないのにその活動を停止したりしないというのじゃ。

790避難民のマジレスさん:2022/12/18(日) 01:04:22 ID:uToyqa4E0
(つづき)   p438-439
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して次のように]答えているのである。そして、存在しないという認識は無関心な状態を保持する原因なのであると。その趣旨は以下の通りである。「熱のあるときには体に良いものを食べるべきである」とか「蛇に手を出すべきではない」等の言葉を聞くとすぐに、そう命じられた年長者が、体に良いものを食べ始め、また蛇に手を出そうとしていればそれをやめるのを見て、学習意欲のある子供は、命じられた年長者が活動を始めたり停止したりする原 因、すなわち欲求と嫌悪の情を推論するのである。さらに詳しく説明すれば次の通りである。年長者が活動を始めたり停止したりする原因は、それぞれ欲求と嫌悪の情で ある。何故なら、われわれが自らに基づいて活動を始めたり停止したりするのと同じように、[年長者も]自らに基づいて活動を始めたり停止したりするからである。そして、彼(年長者)の欲求と嫌悪の情は、望ましいことを実現する手投が存在することと望ましくないことをもたらす手段が存在すること一[それらは]行わなけれぱならないことという性質とともに同一の[動詞語根の]意味に内属している757一についての理解を、それぞれ前提としている。何故なら、[それらは]、われわれが活動を始めたり停止したりする原因となる欲求と嫌悪の情と同じもので、[年長者が]活動を始めたり停止したりする原因となる欲求と嫌悪の情だからである。すなわち、われわれ の場合には、欲求や嫌悪の情は、言葉や言葉の働きや[話し手である]人の意図や[過去・現在・未来の]三時によって限定されていない志向や新得力の認識を前提として生ずるわけでは決してない758。そうではなくて、[われわれの欲求や嫌悪の情は〕、繰り返し繰り返し自己自身を見つめることにより、先に述べた原因759を前提としてのみ現 れてくるのである。従って、年長者が自らに基づいて活動を始めたり停止したりすること、および年長者の様々な欲求と嫌悪の信も、望ましいことを実現する手段が存在することと望ましくないことをもたらす手段が存在すること一ー[それらは]行わなけれぱならないことという性質とともに同一の[動詞語根]の意味に内属しているーーについての理解を前提としているのである。そしてこのような順序で、原因と結果の関係が確立されるのである。従って、[先のように]命じられた年長者は、望ましいことを実現する手段が存在するという理解と望ましくないことをもたらす手段が存在するという理解とに基づいて、活動を始めたり停止したりするのだ、と確定したのである。そしてこの理解は、[言葉を聞く]以前には存在していないが、言葉を聞くとすぐに生じるので、言葉を聞くことがその原因なのである。

脚注
757
758「子供の欲求や嫌悪の情は、新得力を以て終わる言葉についての認識を前提としているわけではない。直接知覚という日常的経験の場合には、それらすべてが存在しないからである。『料理する』等の場合に、志向が認識されても、それが人に活動を開始させるわけではない」。
759「望ましいことを実現する手段が存在することと、望ましくないことをもたらす手段が存在すること 一「それらは」行わなければならないことという性質とともに同一の[動詞語根の]意味に内属している一についての理解」のこと。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

791鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/19(月) 00:25:00 ID:bw2qRRBI0
 答えたのじゃ。
 存在しないという認識は無関心な状態を保持する原因だとシャンカラが言ったというのじゃ。
 年長者が行ったことで、子供は活動を始めたり停止したりする原 因、すなわち欲求と嫌悪の情を推論するというのじゃ。
  
 年長者の欲求と嫌悪の情は、望ましいことを実現する手投が存在することと望ましくないことをもたらす手段が存在することについての理解を、それぞれ前提としているのじゃ。
 われわれの欲求や嫌悪の情は、繰り返し繰り返し自己自身を見つめることにより、先に述べた原因を前提としてのみ現れてくるからなのじゃ。
 このような順序で、原因と結果の関係が確立されるのじゃ。
 そしてこの理解は、言葉を聞く以前には存在していないが、言葉を聞くとすぐに生じるので、言葉を聞くことがその原因と言えるのじゃ。

792避難民のマジレスさん:2022/12/19(月) 01:47:17 ID:PR.wvHKw0
(つづき)    p439-440
  従って、「供犠を行うべきである」等の活動を促す文章の場合には、言葉だけが、行 わなければならないこととしての働き(言葉によって表される志向)と望ましいことを実現する手段としての働き(結果をもたらす志向)とを理解させ、また、それ(働き=志向)が望ましいことを実現する手段(結果をもたらす志向)と行わなければならないこと(言葉によって表される志向)とであることを理解させるのである760。何故なら、それら両者(行わなければならないことと望ましいことを実現する手段)は、 言葉以外からは知られず、言葉以外からは知られないものが言葉の対象(意味)だからである。しかし、「殺すべきではない」とか「飲むべきではない」等の場合に、殺すことや飲むことという活動は貪欲から生ずるように、行わなけれぱならないこととい う性質がもし[言葉]以外のものから知られるとすると、否定詞nañと結び付いた願望法等の人称語尾は、それ(行わなければならないことという性質)に再言及することによって、この両者が悪の原因であること一[そのことは、否定詞nañと結び付いた願望法の人称語尾]以外からは知られない一だけを理解させるのである。実に、 この両者(殺すことと飲むこと)が望ましいことを実現する手段であるということは、直接に理解されるのである。何故なら、さもなければ貪欲の対象ではありえないからである。従って、「殺すべきではない」とか「飲むべきではない」等の文章は、貪欲等から知られた行わなければならないことという性質に再言及することによって、[殺す ことや飲むことが]悪をもたらす手段であることを知らせることを目的としているのである。行わなければならないことを目的としている(表示している)のではないのである。それ故、禁令は行わなければならないことを表示するのではないと、すでに はっきりと述べておいたのである761。そして、禁止されていることは悪をもたらす手段であるという認識こそが、禁止されていることが存在しないという認識なのである。 実にその[認識]に基づいて、われわれ精神的存在(殺そうあるいは飲もうとしている人)は、一見魅力的なものの性質を見ても、将来[生ずるであろう結果]762を考えて、活動の非存在すなわち活動の停止に目覚め、活動を停止するのである。すなわち、自らの無関心な状態を確立するのである。
   [反対主張]もし、存在しないという認識が無関心な状態を確立するの原因であれば、[それは]無関心な状態が存在する限り継続するはずであるが、[実際には]継続することはない。何故なら、[ある対象には]無関心な人でも、他の対象にはとても執心している[ので]、それが存在しないという認識をもっていないからである。そして、確立させる原因(存在しないという認識)が存在しないときに、結果(無関心な状態)が確立されるなどということは経験されない。すなわち、柱が倒れても、宮殿が建っているということはないのである。

脚注
760 言葉によって表される志向(依言志向)と結果をもたらす志向(依果志向)については、脚注507参照。
761 本訳436頁参照。
762
(´・(ェ)・`)
(つづく)

793鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/19(月) 23:02:56 ID:DsXGvZOI0
 活動を促す文章の場合には、言葉だけが行わなければならないこととしての働きと望ましいことを実現する手段としての働きをを理解させるというのじゃ。
 さらにそれが望ましいことを実現する手段と行わなければならないこととであることを理解させるのじゃ。
 何故ならばそれら両者は、 言葉以外からは知られず、言葉以外からは知られない言葉の対象だからなのじゃ。

 「殺すべきではない」とか「飲むべきではない」等の文章は、貪欲等から知られた行わなければならないことという性質に再言及することによって、それらが悪をもたらす手段であることを知らせることを目的としているのじゃ。
 行わなければならないことを目的としているのではないのじゃ。
 禁令は行うことではないというのじゃ。

 禁止されていることは悪をもたらす手段であるという認識こそが、禁止されていることが存在しないという認識だというのじゃ。
 、禁止されていることは悪をもたらす手段であるという認識こそが、禁止されていることが存在しないという認識なのじゃ。
 実にその認識に基づいて、われわれ精神的存在は、一見魅力的なものの性質を見ても、将来を考えて、活動の非存在すなわち活動の停止に目覚め、活動を停止するのじゃ。
 すなわち、自らの無関心な状態を確立するのじゃ。

 反対なのじゃ。
 もし、存在しないという認識が無関心な状態を確立するの原因であれば、無関心な状態が存在する限り継続するはずであるが、継続することはないというのじゃ。
 何故ならばある対象には無関心な人でも、他の対象にはとても執心しているからそれが存在しないという認識をもっていないのじゃ。
 そして、確立させる原因が存在しないとき、結果が確立されるなどということはないというのじゃ。

794避難民のマジレスさん:2022/12/20(火) 00:03:02 ID:bIYX4EK60
(つづき)   p440-441 
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して次のように]答えているのである。さらにそれ(存在しないという認識)は、燃えてしまった薪の火のように、自ら消え去ってゆくのであると。実にまずこの人(殺そうあるいは飲もうとし ている人)は、これ(殺害や飲酒)が悪の原因であることを理解しない間は、[それら の]活動をしようとする。[だが]、これ(殺害や飲酒)が悪の原因であるという理解は、[その]活動を根こそぎ根絶やしにし、[そののち]燃えた薪の火のように消え去ってゆくのである。すなわち、その趣旨は以下の通りである。存在しないという認識が無関心な状態を確立する原因であるというのは、柱が宮殿を確立する(建てる)原因であるというのと同じではない。そうではなくて、非本来的な滅びる原因から護るという形で、確立する原因となるのである763。それはちょうど、亀の甲羅のように囲い鎧が、武器による攻撃を防ぐことによって、戦士の命を護る(確立する)原因となるようなものである。しかし、鎧がなくても、武器による攻撃がなければ、戦士の命が失われることはないのである。[そして師シャンカラは、次のように]結論づけている。従っ て、[「バラモンは殺すべきではない」等の場合には、プラジャーパティに対する誓い 等の場合とは異り]、積極的な活動を停止することという、[積極的な行為に対して] 無関心な状態こそが、[その否定の意味なのである、とわれわれは考えている]と。 すなわち、[悪の原因であるとは]知らなくても、無関心な状態は存在するので、それは、積極的な行為を停止することという偶然的な特性(upalakasana)によって特徴づけられているのである764。
   [反対主張]では、[ウパニシャッドの諸聖典旬は]行為を目的としないから無意味なのではないかと疑い、[それらが]行為を目的とすることを明らかにしていたジャイミニの見解は、全くの誤りなのであろうか。
  [答論][このような疑問を師シャンカラは]、結論という形で[次のように]退けているのである。それ故、「行為(祭式)を目的としない諸聖典句は無意味である」という[『ミーマーンサー・スートラ』の言明は]]、人間の目的に云々と。

脚注
763「実に、存在しないという認識が無始の無関心な状態(すなわち本来のアートマンの状態)を確立する原因なのではない(もしそうなら、存在しないという認識が存在しないときには、原因が存在しないわけだから、無関心な状態も存在しないであろうが)。そうではなくて、隙関心な状態を]否定するものを取り除くものなのである」。従って、存在しないという認識は、アートマ ンの本来的な状態である無関心な状態を覆い隠すようなアートマンの無関心な状態にとっては非本来的な ものから、無関心な状態という本来的な状態を護るという形で、無関心な状態を確立する原因となっているのである。
764 ものの特性には、本来的な特性、添性、偶然的な特性の三種が あるとされる。そのうち、ものの本来的な特性とは、ものに内属する本来的な特性で、たとえば、青い蓮 の青さという特性などがそうである。他の二つは、ものの非本来的な特性であるが、そのうち添性は、そのものに内属してはいないが、そのものが存在する限り認められるような特性で、たとえば、赤い水晶の赤さ(水晶は本来透明であるから、この赤さは水晶に内属してはいないが、水晶から分離することはできない)のようなものである。一方、ものの偶然的な特性とは、そのものから分離可能な特性のことで、たとえば、家に止まっている鳥(この鳥は、その家を他の家から区別しているという意味で、家の特性だと考えられるが、家に内属しているわけでも家が存在する限り存在しているわけでもない)のようなもので ある。
(´・(ェ)・`)つ

795鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/20(火) 23:22:56 ID:xvjJNvjE0
 答えたのじゃ。
 シャンカラは存在しないという認識)は、燃えてしまった薪の火のように、自ら消え去ってゆくと言ったのじゃ。
 殺害や飲酒が悪の原因であることを理解しない間は、それらをしようとするが、理解すれば消えるのじゃ。
 
 存在しないという認識が無関心な状態を確立する原因であるというのは非本来的な滅びる原因から護るという形で、確立する原因となるというのじゃ。
 
 積極的な活動を停止することという無関心な状態こそが、その否定の意味なのである、とわれわれは考えていると言うのじゃ。
 悪の原因であるとは知らなくても、無関心な状態は存在するので、それは積極的な行為を停止することという偶然的な特性によって特徴づけられているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ではウパニシャッドの諸聖典句は行為を目的とする、とを明らかにしていたジャイミニの見解は、全くの誤りなのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは行為、祭式を目的としない諸聖典句は無意味である」という『ミーマーンサー・スートラ』の言明は祭事部にのみ適用されると言ったのじゃ。




 この章では昔から言われていた、行為、祭式を目的としない諸聖典句は無意味である」という言葉が祭事部にのみ適用されるものであり、ブラフマンを説いた聖典句には適用されないと明かしたのじゃ。
 ブラフマンは唯一存在するものであり、全てであるから何かをすること、として説かれてはいないのじゃ。
 それでは前述の反対の見解と矛盾するから、それを論破したのじゃ。

796避難民のマジレスさん:2022/12/21(水) 02:24:17 ID:6LMfD5tA0
7.ウパニシャッドがすでに存在する事物(ブラフマン=アートマン)について教示していることの意義  222右/229

7.1.身体等をアートマンだとすると思い込みが取り除かれる p441-442

  [反対主張]行わなければならないことと無関係に、単独で事物についてだけ述べるのは無意味であろう。たとえば、「大地は七州からなる」等[と述べる]場合のように765。
  [答論][先にこのような反対主張が]述べられていたが、それはすでに論破されている。何故なら、「これは縄である。これは蛇ではない」という場合には、単独で事物について述べていても、[誤った認識やそれから生ずる恐怖を取り除くという]目的(意味)が認められるからである。
   [反対主張]ブラフマンについて聞いても、それ以前と同じように輪廻していることが経験されるので、[単独でブラフマンという事物についてだけ述べている箇所は]無意味である。このことはすでに述べた通りである766
   [答論]これ(反対主張)に対して[次のように]答える。ブラフマンがアートマンであると悟った者が、それ以前と同じように輪廻しているなどということを示すことはできない。何故なら、ヴェーダという正しい認識根拠から生じた事実、すなわち、ブラフマンがアートマンであるという事実に反するからである。確がに、身体等をアートマンだと思い込んでいる人には、苦しみや恐れと等が存在すると認められる。しかしだからといって、その同じ人 に、ヴェ一ダという正しい認識根拠からブラフマンがアートマンであるという悟りが生じて、その(身体等をアートマンだとする)思い込みがなくなって [も]、誤った知識に基づく苦しみや恐れ等存在すると考えることはできない。 確かに、財産のある家長であって、財産を誇っている人には、財産が失われることから生ずる苦しみが認められる。しかしだからといって、その同じ人が、 出家して、財産を誇る気持ちを捨てて[も]、財産を失うことから生ずる苦しみが存在するなどと考えることはできないのである。また、イヤリングをつけている人には、イヤリングをつけているのだという誇らしい気持ちから生 ずる楽しみが存在すると認められる。しかしだからといって、その同じ人が、イヤリングを捨て、イヤリングをしているという誇らしい気持ちをもたなくなって[も]、イヤリングをつけていることを誇る気持ちから生ずる楽しみが存在するなどということはないのである。このことが[天啓聖典句に]「実に 身体がなければ好悪に影響されることはない」767と述べられているのである。
   [反対主張]身体が滅すれば(すなわち死ねば)、身体のない状態となるであろうが、生きている者が[そのような状態になることは]ないであろう。
  [答論]そうではない。何故なら、身体があるという状態は、誤った知識に基づいているからである。というのは、身体をアートマンだと思い込むことをその特徴とする誤った知識とは別に、それ以外のものに基づいて、アートマンが身体をもつと考えることはできないからである。すでにわれわれが述べたように768、[アートマンは]行為に基づがないので、常に身体をもたないのである。

脚注
765 本訳380-381頁参照。
766 本訳380-381頁参照
767
768 本訳382-384頁参照。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

797避難民のマジレスさん:2022/12/21(水) 12:46:54 ID:dO0Uw3z20
6/22に始めました『バーマティー』は、あと10回で年内に完結する予定であります。
次の講読会では、『荘子』を取り上げようと思うのでありますが、鬼和尚、いかがでありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

798鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/21(水) 23:39:44 ID:CymlWYU60
>>797 よいことじゃ。
 どんどんやるとよいのじゃ。

799鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/21(水) 23:48:15 ID:CymlWYU60
反対なのじゃ。
 行わなければならないことと無関係に、単独で事物についてだけ述べるのは無意味ではないかというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 誤った認識やそれから生ずる恐怖を取り除くという目的があり、意味が認められるのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ブラフマンについて聞いても、それ以前と同じように輪廻していることが経験されるので無意味であるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ブラフマンがアートマンであると悟った者が、それ以前と同じように輪廻しているなどということはないというのじゃ。
 何故なら、ヴェーダという正しい認識根拠から生じた事実、すなわち、ブラフマンがアートマンであるという事実に反するからなのじゃ。
 
 身体等をアートマンだと思い込んでいる人には、苦しみや恐れと等が存在するが、ヴェ一ダという正しい認識根拠からブラフマンがアートマンであるという悟りが生じればそれはないのじゃ。
 天啓聖典句にも「実に 身体がなければ好悪に影響されることはない」と述べられているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 身体が滅すれば身体のない状態となるであろうが、生きている者がそのような状態になることはないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 身体があるという状態は、誤った知識に基づいているから、それは間違いだというのじゃ。
 身体をアートマンだと思い込むことは誤った知識なのじゃ。
 アートマンは行為に基づがないので、常に身体をもたないのじゃ。

800避難民のマジレスさん:2022/12/22(木) 00:12:27 ID:5lp/F30k0
(つづき)   p442-444
   [反対主張][アートマンは]、それ(自ら)が行ったダルマと非ダルマに基づいて身体をもつのである。
  [答論]そうではない。何故なら、(1)身体と[アートマンと]の関係が確立していないので、ダルマと非ダルマがアートマンによって行われるということも確立していないからである。(2)さらに、[このような困難を克服しようとして、アートマンと身体との関係は、ダルマと非ダルマがアートマンによって行われることに基づくのだ考えると]、[アートマンと]身体との関係と ダルマ・非ダルマがそれ(アートマン)によって行われることとが、相互に依存し合うという理論的誤謬に陥ることになる769。従って、[両者の関係は無始 であるとする]このような想定は、盲人の行列のようなもので770、[あてにならないのである]。(3)そしてさらに、アートマンは、行為と内属関係にないので、行為者たりえないからなのである。
   [反対主張]王などは、単に近くにいるだけで、[他の人を動かして]行為者となることが経験されるではないか。
   [答論]そうではない。何故なら、彼ら(王など)は、財産を与えること等 によって雇った召使と関係しているから、行為者たりうるからである。しかしアートマンの場合には、財産を与えること等のような、召使(身体等)と主人(アートマン)との関係[を生ずる]原因をなんら考えることができない。 [身体とアートマンとを]関係づける明らかな原因は、[身体等をアートマンだとする]誤った思い込みなのである。
  以上で、アートマンが祭式の執行者とされる事情を説明し終わったのである771。

  ウパニシャッドに説かれているアートマンを知ることは人間の目的ではないと考える人が、[次のように]述べていた。
   [反対主張]行わなければならないことと無関係に云々と。
   [答論]それに対して[師シャンカラは]、その意図を隠して、先にすでに述べた論駁を、[われわれに次のように]思いださせるのである。[先にこのような反対主張が]述べられていたが、それはすでに論破されていると。
  それに対して反対主張者は、自らすでに述べたことを、[われわれに次のように]思い起こさせるのである。
  [反対主張]ブラフマンについて聞いても云々と。
  [そこで]答論者(シャンカラ)は、隠していた意図を[次のように]明らかにするのである。

脚注
769 論理学上の誤りの一つで、論証すべき事柄とその論拠が、前者が成り立ってはじめて後者で成り立ち、 後者が成り立ってはじめて前者が成り立つというような形で、相互に依存しあっていることを言う。
770
771 アートマンは、自己が身体と結び付いていると誤って思い込んでいる限りにおいて、祭式の執行者であるのであり、このような思い込みはブラフマンの知識によって取り除かれるのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

801鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/22(木) 23:21:19 ID:ctleNbDI0
反対なのじゃ。
 アートマンはそれが行ったダルマと非ダルマに基づいて身体をもつというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 身体とアートマンとの関係が確立していないので、ダルマと非ダルマがアートマンによって行われるということも確立していないから違うというのじゃ。
 さらにアートマンと身体との関係と ダルマ・非ダルマがそれによって行われることとが、相互に依存し合うという理論的誤謬に陥るのじゃ。
 またアートマンは、行為と内属関係にないので、行為者たりえないから違うのじゃ。

 反対なのじゃ。
 王などは、単に近くにいるだけで、他の人を動かして行為者となることもあるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 王など)は、財産を与えること等によって雇った召使と関係しているから、行為者たりうるから違うのじゃ。
 アートマンには主従関係はないのじゃ。
 アートマンが身体の主人と考えるのは間違いなのじゃ。

 
 アートマンが身体の主人であり、身体を動かしているとか考えるのは間違いだというのじゃ。
 アートマンは観照者であるから、身体等の活動には関与しないのじゃ。

802避難民のマジレスさん:2022/12/22(木) 23:41:50 ID:mZKLGTVs0
(つづき)   p444
   [答論]これ(反対主張)に対して[次のように]答える。ブラフマンがアートマンであると悟った者が、[それ以前と同じように輪廻しているなどということを示すことはでき]ないと。確かに、単なるブラフマンの知識は、輪廻者であるという性質を滅する原因ではない。そうではなくて、[ブラフマンの知識が]直証(sāksātkāra)をもって終わることが、[輪廻者であるという性質を滅する原因なのである]。そして、ブラフマンの直証とは、内官の変容の一種であり、聴聞・思惟等から生ずる潜在印象に助けられて心(manas)に生ずるのである。それはちょうど、音楽理論の書を繰り返し聴聞する(学習する)ことで生じた潜在印象を備えた心に、シャドジャ等の音階を区別できる直観(sāksātkāra)生ずるようなものなのである772。そしてそれ(ブラフマンの直証)は、[われわれが]あらゆる現象という大魔術を直接に知覚しているの(sāksātkāra)を根絶し、そして自らも、現象であることには変わりがないので、根絶やしになってゆくのである。こめことは先に説明した通りである773。従って、この場合(ブラフマンについて述べる場合)にも、縄の本質について述べるのと同じで[意味が]あるのだ、 と確定した。ただしこの場合(ブラフマンについて述べる場合)には、ヴェーダという正しい認識根拠に基づいているので、[師シャンカラが]ヴェーダという正しい認識根拠から生じたと言っているのである。[さらに師シャンカラは]、このことに関して、 楽しみや苦しみが生じないという区別に応じて、[次のような]二つの例を挙げている。 確かに、財産のある云々と。[そしてさらに、師シャンカラは]このことに関して、[次 のような]天啓聖典句を引用しているのである。 「実に身体がなければ云々」と。
   [反対主張]身体が滅すれば云々。
  [答論]そうではない。何故なら、身体があるという状態は云々。もし、身体があるという状態が実在であれば、生きている者がそれ(身体のある状態)を滅することは ないであろう。だがそれ(身体のある状態)は、誤った知識に基づいているのである。 それ(身体のある状態)は、真理の知識が生ずれば、生きている者でも滅することがで きるのである。また、身体のない状態は、この者(身体のある者)の本質なので、滅することはできない。何故なら、本質を破壊すると存在が滅するという理論的誤りに陥るからである。だから、[師シャンカラが、すでにわれわれが述べたように、アートマンは行為に基づかないので]常に身体をもたないのであると述べているのである。

脚注
772 本訳288頁および脚注258参照。
773 本訳289頁以下参照。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

803鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/24(土) 00:27:29 ID:xTS7dFUc0
 答えたのじゃ。
 単なるブラフマンの知識は、輪廻者であるという性質を滅する原因にはならないが、ブラフマンを直証すれば輪廻者であるという性質を滅する原因になるのじゃ。
 そして、ブラフマンの直証とは、内官の変容の一種であり、聴聞・思惟等から生ずる潜在印象に助けられて心に生ずるというのじゃ。


 つまりは悟りを得ることじゃな。

 それはちょうど、音楽理論の書を繰り返し聴聞することで生じた潜在印象を備えた心に、シャドジャ等の音階を区別できる直観生ずるようなものじゃ。
 ブラフマンの直証は、あらゆる現象という大魔術を直接に知覚している幻想を根絶し、そして自らも現象であることには変わりがないので、自我を根絶やしになってゆくのじゃ。
 従って、このブラフマンについて述べる場合にも、意味があると確定したのじゃ。

 ただしそれはヴェーダという正しい認識根拠から生じた直証でなければならないとシャンカラは言ったのじゃ。
 さらにシャンカラはこのことに関して、 楽しみや苦しみが生じないという区別に応じて、財産のある云々とか「実に身体がなければ云々」とかの聖典句を引用しているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 それは身体が滅すれば楽しみや苦しみが生じないという意味ではないか、とか聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 もともと体などはないから違うというのじゃ。
 誤った知識で自分の体があるとか思っているだけだというのじゃ。
 
 自分の身体のあるという謬見は、真理の知識が生ずれば、生きている者でも滅することができるのじゃ。
 体のない状態は、人間の本質なので、滅することはできないのじゃ。
 何故なら、本質を破壊すると存在が滅するという理論的誤りに陥るからなのじゃ。
 そうであるからシャンカラはアートマンは行為に基づかないので、常に身体をもたないのであると述べているのじゃ。

804避難民のマジレスさん:2022/12/24(土) 00:34:40 ID:5uVmpFNs0
(つづき)   p444-445
  [反対主張]身体がある状態は誤った知識に基づくのではない。そうではなくて、ダ ルマと非ダルマに基づくのである。そしてそれ(身体のある状態)は、その原因であるダルマと非ダルマが滅しなければ滅することはない。そして、それ(ダルマと非ダルマ)が滅したときこそが死なのである。従って、生きている者が身体のない状態になることはない。このような疑問を[次のように]提示しているのである。[アートマンは]それ(自ら)が行った云々と。[ここで]それというのは、アートマンのことを言っているのである。
  [答論][このような反対主張を、師シャンカラが次のように]退けている。そうではない。何故なら、身体[アートマンと]の関係が云々と。すなわち、まず、アートマンは、直接にダルマと非ダルマを行うことができないのである。何故なら、それら (ダルマと非ダルマ)は、言語器官や統覚機能や身体の努力から生ずる[ので]、身体 と[アートマンと]の関係が存在しなければ存在しないからである。一方、それら(ダルマと非ダルマ)に基づいて身体と[アートマンとの]関係を[確立]しようとする人 は、明らかに相互依存という欠陥に陥るのである。そのことを[師シャンカラは、次の ように]述べている。[アートマンと]身体との関係と云々と。
  [反対主張]確かに相互依存は存在する。だがそれは欠陥ではない。何故なら[アートマンと身体との関係は]、種子と芽の場合のように、無始だからである。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して次のように]答えているのである。[両者の関係は無始であるとする]このような想定は、盲人の行列のよ うなもので、[あてにならないのである]と。
  ある人が[次のように]考えている。
  [反対主張]これ(アートマンと身体との関係)が無始であるのは、盲人の行列と同 じではない。実に、ダルマと非ダルマ<A>からアートマンと身体との関係<A>が 生じたとき、同じそれ(アートマンと身体との関係<A>)からダルマと非ダルマ<A>が生ずるのではない。そうではなくて、これ(現在のアートマンと身体との関係< A>の原因であるダルマと非ダルマ<A>)は、それ以前のアートマンと身体との関係 <B>から生じ、[そのアートマンと身体との関係<B>は]それ以前のダルマと非ダ ルマ<B>から生じているのである。一方、この(現在の)アートマンと身体との関係<A>は、ダルマと非ダルマ<A>から生じたのである。
  [答論]それ(このような反対主張)に対して、[師シャンカラは次のように]答え ている。 [そしてさらに、アートマンは]、行為と内属関係にないので云々と。
  [反対主張][王などは]、単に近くにいるだけで云々。
  [答論]そうではない云々。[この箇所で]雇ったというのは、「自分のものにした」 という意味である。しかしアートマンの場合にはそうではないというので、[師シャン カラが次のように]述べているのである。しかしアートマンの場合には... [考えることができないと。
(´・(ェ)・`)つ

805鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/25(日) 00:23:59 ID:rKwd4jgk0
 反対なのじゃ。
 身体がある状態は誤った知識に基づくのではなくて、ダ ルマと非ダルマに基づくというのじゃ。
 身体のある状態は、その原因であるダルマと非ダルマが滅しなければ滅することはないというのじゃ。
 ダルマと非ダルマが滅したときこそが死なのであり、生きている者が身体のない状態になることはないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 アートマンは、直接にダルマと非ダルマを行うことができないのじゃ。
 ダルマと非ダルマは、言語器官や統覚機能や身体の努力から生ずるので、身体 との関係が存在しなければ存在しないからなのじゃ。
 ダルマと非ダルマ)に基づいて身体との関係を確立しようとする人 は、明らかに相互依存という欠陥に陥るとシャンカラは言っているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 相互依存は存在がそれは欠陥ではないというのじゃ。
 何故ならばアートマンと身体との関係は、種子と芽の場合のように、無始だからというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 両者の関係は無始であるとするこのような想定は、盲人の行列のよ うなもので、あてにならないのであるとシャンカラは言っているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ダルマと非ダルマからアートマンと身体との関係が 生じたとき、同じそれからダルマと非ダルマが生ずるのではないというのじゃ。
 現在のアートマンと身体との関係の原因であるダルマと非ダルマは、それ以前のアートマンと身体との関係 から生じ、そのアートマンと身体との関係はそれ以前のダルマと非ダ ルマから生じているというのじゃ。
 現在のアートマンと身体との関係は、ダルマと非ダルマから生じたというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラはアートマンは、行為と内属関係にないから違うというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 王は行為をしなくともできるからアートマンも行為と内属関係でなくともできるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 王は人を雇ったりするからできるが、アートマンの場合にはそうではないとシャンカラはいうのじゃ。

806避難民のマジレスさん:2022/12/25(日) 00:28:40 ID:AIZjCESs0
7.2.身体等をアートマンだとする思い込みは比喩的なものではな くて言呉りである  p446-447 225左/229

  これに対して[反対張者が次のように]主張する。
   [反対主張]身体とは異なるアートマンが、身体等を自己のものだと思い込んでいるのは、比喩的な意味であり、誤りではないのである。
  [答論]そうではない。何故なら、事物間の違いを良く知っている人が、一 義的な意味と比喩的な意味を[用いるの]だ、というのは周知の事実だからである。すなわち、事物間の違いを良く知っている人、たとえば、一方では、肯定法と否定法によって、たてがみ等のある特定の姿をした[動物]が、「ライオン」という名称と観念の用いられる一義的なものだと良く知っており、[他方では]、それ(ライオン)とは異なる人間が、[ライオンと]共通の性質一 すなわち、残酷さや勇猛さ等一を備えていると良く知っている人の場合には、その人が人間に対して「ライオン」という名称と観念[を用いるの]は比喩的な意味である。だが、事物間の違いを良く知らない人の場合はそうではな い。すなわちその場合には、事物Aに対して名称・観念B[を用いるの]は、 まさに錯誤に基づくのであり、比喩的な意味ではないのである。たとえば、薄暗がりのなかで、「これは柱である」という形ではその特徴が把握されていな いときに、柱に対して「人間」という名称や観念が[用いられ]、またたとえ ば、真珠母貝に対して、「これは銀である」という形で、何の根拠もなく名称 と観念が確定されるが、それと同じように、アートマンと非アートマンとを 識別することなしに、身体等の集合体に対して、「私」という名称と観念が二義的な意味で(nirupacārena)774用いられるとき、[それが]どうして比喩的な意味だと言えようか。アートマンと非アートマンとを識別している学者たちでさえ、山羊飼や羊飼たちと同じように、 [アートマンと非アートマン に関しては]、名称や観念を識別して[用いて]いないのである。従って、身体とは異なるアートマンが存在すると主張する人たちの場合には、身体等に 対して「私」という観念[を用いるの]は誤りであり、比喩的な意味ではないのである。それ故、身体があるという状態は誤った観念に基づいているので、知者は生きていても身体がないのであると確定した775。
  そして同じ趣旨で、ブラフマンに関して[次のような]天啓聖典句がある。「あたかも、蛇の脱穀が脱ぎ捨てられて生命を失い、蟻塚のうえに横たわって いるように、まさしくこの身体は横たわっている。しかし、この身体のない不死の生気は、まさしくブラフマンであり、まさしく光輝なのである」776「眼があるのに眼がないかのようである。耳があるのに耳がないかのようである。言語器官があるのに言語器官がないかのようである。思考器官があるのに思考器官がないかのようである。生気があるのに生気がないかのようである」777と。 さらに聖伝書も、「知恵定まった者はどう描写したらよいのか云々」778と、知恵定まった者の特徴を述べて、知者があらゆる活動と無縁であることを示している。従って、ブラフマンがアートマンであると悟った人が、それ以前と同じように輪廻しているなどということはないのである。だが[逆に]、以前と同じように輪廻している人は、プラフマンがアートマンであると悟っていな いというのは誤りではない。

脚注
774 修辞学およびニヤーヤ・ヴァイシェーシ力学派の用語で、「完全に異なるもの二つの類似性が極めて大きいために〔互いに]異なるのだという認識をただ覆い隠してしまうこと」 「本来的な意味を捨て去ることによって、間接表示機能に基づいて、それ以外の意味を認識する」だとされ、その例として、「座席が泣く」(座席に座っている人が泣くという意味)や「男の人は火である」(男の人が非常に怒っているという意味)が挙げられている。
775これはいわゆる「生前解脱」という考え方を示すものである。
776
777 出典不明。
778
(´・(ェ)・`)
(つづく)

807鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/25(日) 23:36:55 ID:h2xQJFKA0
 反対なのじゃ。
 身体とは異なるアートマンが、身体等を自己のものだと思い込んでいるのは、比喩的な意味であり、誤りではないというのじゃ。


 答えたのじゃ。
 事物間の違いを良く知っている人が、一義的な意味と比喩的な意味を用いるというのは周知の事実だから違うというのじゃ。
 アートマンと非アートマンとを識別することなしに、身体等の集合体に対して、「私」という名称と観念が二義的な意味で用いられることは比喩的な意味ではないのじゃ。
 
 アートマンと非アートマンとを識別している学者たちでさえ、アートマンと非アートマン に関しては、名称や観念を識別して用いていないのじゃ。
 身体とは異なるアートマンが存在すると主張する人たちは、身体等に 対して「私」という観念を用いるのは誤りであり、比喩的な意味ではないのじゃ。
 それ故に、身体があるという状態は誤った観念に基づいているので、知者は生きていても身体がないのであると確定したのじゃ。
 
 それに関して次のような聖典句があるのじゃ。
 「あたかも、蛇の脱穀が脱ぎ捨てられて生命を失い、蟻塚のうえに横たわって いるように、まさしくこの身体は横たわっている。
 しかし、この身体のない不死の生気は、まさしくブラフマンであり、まさしく光輝なのである」

 「眼があるのに眼がないかのようである。耳があるのに耳がないかのようである。言語器官があるのに言語器官がないかのようである。思考器官があるのに思考器官がないかのようである。生気があるのに生気がないかのようである」
 

 さらに聖伝もあるのじゃ。
 「知恵定まった者はどう描写したらよいのか云々」
 知恵定まった者の特徴を述べて、知者があらゆる活動と無縁であることを示しているというのじゃ。
 ブラフマンがアートマンであると悟った人が、それ以前と同じように輪廻しているなどということはないのじゃ。
 以前と同じように輪廻している人は、プラフマンがアートマンであると悟っていな いというのは誤りではないのじゃ。

808避難民のマジレスさん:2022/12/26(月) 00:29:29 ID:QvGBnO/o0
(つづき)   p447-449
  ところである者たちは[次のように]考えている。
  [反対主張]身体等をアートマンだと思い込むのは、誤りではなくて比喩的なもので ある。それはちょうど、若者などをライオンだと思い込む(考える)ようなものなので ある。
  [答論][師シャンカラは]、このような人の考えを、これに対して[反対主張者が次 のように]主張する云々と紹介して、[そののち]批判しているのである。ある人に事 物間の違いが良く知られているとき、その人がこのように(事物問の違いを良く知っ ている人と)言われているのである。そしてこのこと(事物間の違いを良く知ってい る人が、一義的な意味と比喩的な意味を用いるということ)は、附託の章(序論)です でに説明したので779、ここでは説明しないこととする。
  薄暗がりのなかで、ある事物が「これは柱である」という形で人間と区別して把握さ れていないときには、疑問の余地は残しながらも、柱に対して「人間」という名称や観念が[用いられる]。この場合には実に、人間という性質は、不確定なものではあるが、附託されたものなのである。このように疑間の場合には、不確実なものが附託されるという例を挙げたのち、[師シャンカラは次のように]、誤認の場合には確実なものが [附託される]という例を挙げている。またたとえば、真珠母貝に対して云々と。[こ(こ)でもし、真珠母員を銀だと誤認する原因が両者に共通な属性の基体だとすると]、白く輝く実体は真珠母貝と銀[の両者とも]に共通の基体であるのだから、それ(目の前にある白く輝く実体)が銀だと確定されるのなら、どうして真珠母貝だと確定されることはないのだううか。疑問であるというのが二通りの意味で正しいのである。何故なら、 (1)[両者に]共通な属性をもった基体が知覚されているので、[どちらかの属性が]知覚されることもないし、[どちらかの属性が]知覚されないということもないからであり、また、(2)両者の特性が想起されているので、潜在印象を生み出す原因である類似 は両者に存在するわけであるから、それ(類似性)は両者に共通だからである780。
  だから[師シャンカラが]、何の根拠もなくと言っているのである。すなわち、こう述べることによって、「目に見える[誤認の]原因は[真珠母貝と銀の両者に]共通であっても、目に見えない[誤認の]原因[が存在する]」と述べているのである。そしてそれ(目に見えない原因)は、結果を見ることによって推論されるので、[両者に] 共通ではない。これが〔何の根拠もなくという箇所の]意味なのである。また、アートマンと非アートマンとを識別している[学者たちでさえ]とは、単に聴聞と思惟に長けているだけの学者たち、すなわち、真理をいまだ直証していない人たち等々の意味である。このことはすでに[以前に]、動物等と区別がないからであると述べた通りである781。なお[『註解』の]その他の箇所に関しては、その意味は明らかである。
  そして、知者は生きながら身体をもたないということに関して、[師シャンカラは次 のように]天啓聖典と聖伝書を引用している。そして同じ趣旨で云々と。理解は容易である。[そして最後に、師シャンカラは次のように]主題を結論づけている。従って、 ブラフマンがアートマンであると悟った人が云々と。
(´・(ェ)・`)つ

809避難民のマジレスさん:2022/12/26(月) 00:30:12 ID:QvGBnO/o0
つづき

脚注
779 本訳210-211頁参照。
780この箇所では次のような問題が論じられているとされ ている。すなわち、真珠母貝と銀との両者に共通な基体(白く輝く実体)が知覚されているときに、(1) その共通の基体のみが錯誤の原因なのか、それとも、(2)両者の類似性等の欠陥と混ざりあった共通の基 体が錯誤の原因なのか、ということがまず問題とされる。このうち、前者を否定しているのが、「白く輝く 実体が...確定されることはないのだろうか」という箇所である。一方、後者を否定しているのかが、「そう でなければ、疑問であるというのが二通りの意味で正しいのである」以下の箇所である。ここで、真珠母 貝を銀だと誤認するのは、錯誤ではなくて、疑問であるとされたのであるが、 それが、「二通りの意味で正しい」とされるのは、次の理由によるのである。すなわち、まず第一の理由 は、「錯誤の場合には、『これは銀である』という形で、銀に確定する根拠(たとえ誤ったものにせよ)が あるはずである。そしてその根拠は、『銀の属性は認められるが、真珠母員の属性は認められない」とする知覚と無知覚なのである。だが、銀と真珠母員の両者は、共通の属性 をもった基体として知覚されているのであるから、錯誤であるとは言えない。従って疑問なのである」と いうところにあるのである。さらに、もう一つの理由は、「二つの特性が想起される場合が疑問であるが、 この(真珠母員と銀の)場合には、銀であるということだけが想起されているのだから、錯誤ではないか」 という反村主張に対する答えだとされるのであるが、以下の通りである。すなわち、「生じてきた潜在印象が想起の原因である。それ(想起)を生み出す原因が類似性である。それ(類似性)は真珠母貝と銀と の両者に存在しているのだから、その類似性は[両者に]共通である」という理由によるのである。
781 本訳256頁参照。
(´・(ェ)・`)つ

810鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/26(月) 23:34:02 ID:IhRfASI.0

 昨日と同じなのじゃ。

 アートマンの知識と直証は違うというのじゃ。
 アートマンの知識だけでは身体は厭離できないのじゃ。
 しかしアートマンを直証した者は、身体を厭離して生きながら身体がない者になるのじゃ。
 身体という観念から離れるから。なのじゃ

811避難民のマジレスさん:2022/12/27(火) 03:13:27 ID:TAUgXWLM0
8.『ブラフマ・スートラ』が開始された意義  p449-450 226右/229 最終章

  [反対主張][聖典句によれば、ブラフマンについて]聞いた(聴聞した)のち、[それを]思惟、瞑想すべきことが示されているので、ブラフマンは儀軌に従属するのであって、それ自体で完結している(の)ではない。
  [答論]さきにこのように述べられていたが782、そうではない。何故なら、 思惟と瞑想は[ブラフマンを]悟るためのものだがらである。すなわち、もし、悟られたブラフマンが、それ以外のもののために用いられるのであれば、 [ブラフマンは]儀軌に従属することになろう。だがそのようなことはない。何故なら、思惟も瞑想も、聴聞とおなじように悟りのために存在しているからである。従って、「ブラフマンは、知ることを命ずる儀軌の対象なので、聖典がその典拠なのである」などということはありえないのである。それ故、「諸ウパニシャッドは、[ブラフマンを教示するという点でその趣意が]ー致しているので、ブラフマンはまさに独自に聖典を典拠としているのである」と確定した。
  そしてもしそうだとすれば、「そこで、この故に、ブラフマンの考究が[開始されるべきである]」783という形で、それ(ブラフマンの考究)を対象とする別個の聖典が開始されるのは妥当なのである。実にもし、[ブラフマンが] 知ることを命ずる儀軌に従属するとすれば、「そこで、この故に、ダルマの考究が[開始されるべきである]」784という形で、[すでに『ミーマーンサー・ スートラ』が]開始されているのであるから、[ブラフマンを対象とする]別個の聖典(『ブラフマ・スートラ』)が開始されることはないであろう。さらにもし、[儀軌に従属する形でブラフマンの考究が]開始されるとすれば、[それは]「そこで、この故に、[考察し]残されたダルマの考究が[開始されるべきである]」という形で開始されるはずである。それはちょうど、[『ミーマーンサー・スートラ』に]「そこで、この故に、供犠に役立つものと人間に役立つ ものとの考究が[開始されるべきである]」785とあるようなものである。しか しながら、ブラフマンとアートマンとの同一性は、[『ミーマーンサー・スートラ』では]論議の対象とされていない。たがら、それ(ブラフマンとアートマンとの同一性)を主題として、「そこで、この故に、ブラフマンの考究が[開始されるべきである]」という形で、聖典(『ブラフマ・スートラ』)を開始するのは妥当なのである。
  従って、儀軌すべてとその他すべての認識根拠は、「私はブラフマンである」786というこれ(悟り)をもって終わるのである。何故なら、取捨とは無縁な不二のアートマンが悟られれば、対象もなくなり、認識主体もなくなり、認識根拠は存在しえないからである。[そしてこのことが]さらに、[次のように] 説かれている。「比喩的な意味でのアートマンと誤ったアートマンが存在しなければ、息子や身体等[と自己との同一視が]否定される。従って、『私は実在ブラフマンであり、アートマンである』という覚り、すなわち、実現しなければならないことがどうして存在しえようか。探究の対象であるアートマンが認識される以前には、アートマンは認識主体なのである。[だが]探究し終われば、[それは]まさに罪や欠点等と無縁な認識主体(最高のアートマン)となろう。[日常的には]身体をアートマンだとする観念が認識根拠だと見なされているように、実にこの日常的な認識根拠は、アートマンが確知されるま では妥当するのである」787と。

脚注
782本訳381頁参照
783 784 785 786 787
(´・(ェ)・`)
(つづく)

812鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/27(火) 23:17:30 ID:S1FOI8Gw0
 反対なのじゃ。
 聖典句によればブラフマンについて]聞いたのち、思惟、瞑想すべきことが示されているからブラフマンは儀軌に従属するのであり、それ自体で完結していないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 その思惟と瞑想はブラフマンを悟るためのものだから違うというのじゃ。
 もし、悟られたブラフマンが、それ以外のもののために用いられるのであれば、 ブラフマンは儀軌に従属することになるがそのようなことはないのじゃ。
 思惟も瞑想も、聴聞とおなじように悟りのために存在しているからなのじゃ。

 「ブラフマンは、知ることを命ずる儀軌の対象なので、聖典がその典拠なのである」などということはありえないのじゃ。
 「諸ウパニシャッドは、[ブラフマンを教示するという点でその趣意が]ー致しているので、ブラフマンはまさに独自に聖典を典拠としているのである」と確定したのじゃ。

 ブラフマンとアートマンとの同一性は、『ミーマーンサー・スートラ』では論議の対象とされていないのじゃ。
 ブラフマンとアートマンとの同一性を主題として、「そこで、この故に、ブラフマンの考究が開始されるべきである」と、聖典『ブラフマ・スートラ』を開始するのは妥当なのじゃ。

 従って、儀軌すべてとその他すべての認識根拠は、「私はブラフマンである」という悟りをもって終わるのじゃ。
 取捨とは無縁な不二のアートマンが悟られれば、対象もなくなり、認識主体もなくなり、認識根拠は存在しえないからだというのじゃ。

 次のように] 説かれているのじゃ。
 
 「比喩的な意味でのアートマンと誤ったアートマンが存在しなければ、息子や身体等[と自己との同一視が]否定される。
 従って、『私は実在ブラフマンであり、アートマンである』という覚り、すなわち、実現しなければならないことがどうして存在しえようか。
 探究の対象であるアートマンが認識される以前には、アートマンは認識主体なのである。
 
 探究し終われば、まさに罪や欠点等と無縁な認識主体なろう。
 身体をアートマンだとする観念が認識根拠だと見なされているように、実にこの日常的な認識根拠は、アートマンが確知されるま では妥当するのである」

813避難民のマジレスさん:2022/12/28(水) 01:46:14 ID:.1auzAos0
(つづき) p450-451

  [反対主張]もし、個人存在がブラフマンをアートマンだと悟ることこそが、輪廻者であるという性質を滅する原因であれば、思惟等を命ずる儀軌はなんと、無意味であることになってしまうではないか。従って、諸ウパニシャッドは知ることを命ずる儀軌に従属するのである。
   [答論]このように先に述べられていたが788、[師シャンカラは次のように]そのことに再び言及し、批判してゆくのである。「[聖典句によれば、ブラフマンについて]聞いた(聴聞した)のち云々」と、先に述べられていたが云々と。思惟も瞑想も儀軌ではない。何故なら、それらの果報は一致と矛盾(anvayavyatireka)によって確立され た直証なので、それら(思惟と瞑想)は儀軌に似た聖典の言葉によって再言及されているからである。そのことを[師シャンカラが、次のように]述べている。[何故なら、 思惟と瞑想はブラフマンを]悟るためのものだからであると。悟りとはブラフマンの 直証のことであり、思惟と瞑想がそれ(悟り)のためのものであることは、肯定法と否定法(anvayavyatireka).によって確立されるからである789。これが[『註解』のこの 箇所の]趣旨である。
   [反対主張]何故、思惟等を命ずる儀軌ではないのか。
   [答論]だから[師シャンカラは、次のように]答えているのである。すなわち、もし、悟られた云々と。まず、思惟と瞑想は、新得力を対象としかつ不死性を果報とする ような主要祭ではない、ということについては先に述べた通りである790。従ってそれ らは、[穀粒を]ついたり[穀粒に]水をかけたりするのと同じで、従属祭である791という可能性が残ることになる。だがそれも正しくない。何故なら、アートマンの場合 には、それ以外のものに[これまで]用いられたこともないし、また[これから]用いられることもないからである792。というのは、ウパニシャッドに説かれている[アートマン]は、特に、祭式の執行とは対立するからである。これが[『註解』のこの箇所 の]趣旨である。[そして最後に、師シャンカラは、次のように]主題を結論づけている。従って云々と。
  このように、諸ウパニシャッドは、すでに存在するブラフマンを専ら教示しているのである。そして、[『ブラフマ・スートラ』という)聖典の教えるブラフマンはダルマとは異なり、また、主題が異なれば[それについて教える]聖典も異なるので、「そこで、この故に、ブラフマンの考究が[開始されるべきである]」というこれ(『ブラフマ・ スートラ』I.1.1)が、『ブラフマ・スートラ』という]聖典の始まりとなるのは、理にかなっているのである。だから[師シャンカラが]、そしてもしそうだとすれば云々と 述べているのである。
   [反対主張]だがもしそうでなけれぱ、[このスートラも]、ダルマの考究にすぎない ことになり、その結果別個の聖典ではないことになり、従って聖典の始まりではないことになろう。

脚注
788 本訳373頁以下参照。
789 anvayavyatirekaをここで「一致と矛盾」と「肯定法と否定法」と訳し分けたが、前者の意味、および直証が一致と矛盾の方法によって確立されるということに関しては、脚注325および本訳411頁参照。 また後者の意味および思惟と瞑想が悟りに必要不可欠である点に関しては、脚注473および島 岩,参照のこと。
790 本訳382頁以下参照。
791
792 従属祭が、祭式ですでに用いたものを浄化する祭式とこれから祭式で用いるものを浄化する祭式の二種に分かれることに関しては、脚注541参照のこと。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

814鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/28(水) 23:47:52 ID:ICV94VMw0
 反対なのじゃ。
 もし個人存在がブラフマンをアートマンだと悟ることこそが、輪廻者であるという性質を滅する原因であれば、思惟等を命ずる儀軌は無意味になるというのじゃ。
 そうであるから諸ウパニシャッドは知ることを命ずる儀軌に従属するというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 思惟も瞑想も儀軌ではないというのじゃ。
 なぜならばそれらの果報は一致と矛盾によって確立され た直証なので、それらは儀軌に似た聖典の言葉によって再言及されているからなのじゃ。
 それらは悟るためのものだからとシャンカラも言っているのじゃ。
 悟りとはブラフマンの直証のことであり、思惟と瞑想がそのためのものであることは、肯定法と否定法によって確立されているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 なぜ思惟等を命ずる儀軌ではないのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 まず、思惟と瞑想は、新得力を対象としかつ不死性を果報とする ような主要祭ではないというのじゃ。
 従属祭でもないというのじゃ。
 何故ならばアートマンの場合には、それ以外のものに用いられたこともないし、また用いられることもないからだというのじゃ。
 ウパニシャッドに説かれているアートマンは、特に、祭式の執行とは対立するからなのじゃ。

 諸ウパニシャッドは、すでに存在するブラフマンを専ら教示しているのじゃ。
 『ブラフマ・スートラ』という聖典の教えるブラフマンはダルマとは異なり、また、主題が異なれば聖典も異なるのじゃ。
 それ故にブラフマンの考究が[開始されるべきである]という文が、『ブラフマ・スートラ』の始まりとなるのは、理にかなっているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 もしそうでなけれぱ、これもダルマの考究にすぎない ことになり、その結果別個の聖典ではないことになり、従って聖典の始まりではないことになるのではないかというのじゃ。

815避難民のマジレスさん:2022/12/29(木) 07:37:10 ID:orjQ3/iE0
(つづき)   p451-452
   [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して、次のように]答えているのである。[実にもし、ブラフマンが]知ることを命ずる儀軌に従属するとすれ ば云々と。ただ単にすでに存在するものであるからという理由で、ブラフマンとアートマンとの同一性がダルマとは異なるのではない。そうではなくて[ダルマと]矛盾するからなのである。このことを[師シャンカラが、次のように]結論という形で述べている。従って、[儀軌すべてとその他のすべての認識典拠は]、「私はブラフマンである」という云々と。[ここで]という(iti)という語は、知識に言及しているのである。実に諸儀軌は、ダルマを認識する根拠である。そしてそれら(諸儀軌)は、目的 (sādhya)と手段(sādhana)と方法(itikartavyatā)の区別に基づいて、ダルマを生ずる793。だが、ブラフマンとアートマンとの同一性が存在するときには、それら[の 区別]に基づくことはできない。何故なら、[ブラフマンとアートマンとの同一性は、それらの区別と]矛盾しているからである。これが[『註解』のこの箇所の]趣旨である。[ところで]このことは、ダルマの認識根拠となる聖典だけの運命ではない。そうではなくて、すべての認識根拠の[運命なの]である。だから[師シャンカラが]、その他のすべての認識根拠は云々と述べているのである。何故か。何故なら、[取捨とは 無縁な不二のアートマンが悟られれば...]ないからである。すなわち、不二なるものは、主観と客観という関係が存在しないのである。また行為者であるという性質も存在しない。何故なら、行わなければならないことが存在しないからである。また、手段という性質も同じ理由で存在しないのである。このことが、認識主体もなくなりとあるなかのもという言葉で述べられているのである。

脚注
793ここで言うダルマとは、「三つの要件をもつ志向」だとされているので、それに従えば次のように考えられる。志向には、「言葉によって表される志向」 と「結果をもたらす志向」の二種があることについてはすでに述べた 通りであるが(脚注760の箇所参照)、それぞれ三つの要件を必要とするとされる。それらは目的と手段と方法であるが、その三つの要件はそれぞれ、「何を生じさせるべきか」「何によって生じさせるべきか」「どのようにして生じさせるべきか」という問に答えるものでなければならない。まず、「言葉によって表される志向」の場合には、それらはそれぞれ、目的が三つの要件を備えた「結果をもたらす志向」で、手段が願望法等に関する知識で、方法が釈義等に述べられている祭式の効果に対する賛美であるとされる。一方、「結累をもたらす志向」の場合には、目的が天界等の果報で、手段が供犠等で、方法がその供犠に従属する従属祭であるとされる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

816鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/30(金) 00:11:24 ID:Dp94ztNg0
 答えたのじゃ。
 ただ単にすでに存在するものであるからという理由で、ブラフマンとアートマンとの同一性がダルマとは異なるのではなく、ダルマと矛盾するからなのじゃ。
 
 諸儀軌はダルマを認識する根拠であり、目的と手段と方法の区別に基づいて、ダルマを生ずるというのじゃ。
 だが、ブラフマンとアートマンとの同一性が存在するときには、それらに基づくことはできないのじゃ。
 何故なら、ブラフマンとアートマンとの同一性は、それらの区別と矛盾しているからなのじゃ。
 このことは、ダルマの認識根拠となる聖典だけの運命ではなくて、すべての認識根拠の運命なのじゃ。

 不二なるものは、主観と客観という関係が存在しないからなのじゃ。
 また行為者であるという性質も存在しないのじゃ。
 何故なら、行わなければならないことが存在しないからなのじゃ。
 
 また行為者であるという性質も存在しないのじゃ。
 何故なら、行わなければならないことが存在しないからなのじゃ。
 また、手段という性質も同じ理由で存在しないのじゃ。
 このことが、認識主体もなくなりという言葉で述べられているのじゃ。


 つまりアートマンとブラフマンを直証する手段は聖典に法として書いてあるのじゃ。
 しかしアートマンとブラフマンが直証されてしまえば、それらは全て捨て去られる運命なのじゃ。
 もはや観念がないからなのじゃ。
 主客もなくなり、行為も行為者もなくなり、無為にあるのみなのじゃ。

817避難民のマジレスさん:2022/12/30(金) 02:50:58 ID:UB9I6rQs0
(つづき)   p452-453
  まさにこの同じことに関して、[師シャンカラは次のように]、ブラフマンを知る者794の 詩句(偈)を引用している。[そしてこのことが]さらに[次のように]説かれている 云々と。息子や妻をアートマン(自己)だと思い込むのは、比喩的なものである。たとえば、自己の苦しみによって苦しみ、自己の楽しみによって楽しむように、息子等の [苦しみや楽しみによって]も[自らが苦しんだり楽しんだりするの]である。従って、これは比喩的なものなのである。だが[この場合には、息子と自己とが]同一だと思い 込んでいるわけではない。何故なら、[息子等と自己との]違いが経験によって確立しているからである。従って[これは]、「ヴァーヒカーという国の人は雄牛である」795という場合と同じで、比喩的な意味なのである。しかし、身体等をアートマンだと思い込むのは、[両者の]違いが経験されていないので、比喩的なものではない。そうではなくて、真珠母貝を銀だと認識するのと同じで、誤りなのである。このように、アートマンに関するこの二種の思い込みが、日常的な世界を支えているのである。だが、それ(この二種の思い込み)存在しなければ、日常的な世界も存在しないし、しいては、 ブラフマンとアートマンとが同一であるという開眼も存在しないのである。何故なら、 それ(開眼)の手投である聴聞・思惟等が存在しないからである。まさにこのことが、 [次のように]述べられているのである。息子や身体等[と自己との同一視]が否定されるとと。比喩的な意味でのアートマンが存在しなければ、息子や妻など[との同一 視]が否定される。すなわち、「私のもの」という意識が存在しなければ等々という意味である。誤った思い込みが存在しなければ、身体・器官等[との同一視]が否定され、聴聞等も否定される。従って、ただ単に日常的な世界が破壊されるだけではなく、 「私は実在ブラフマンであり、アートマンである」という覚りという性質をもつ、実現しなければならないこと、すなわち不二なるものを直証すること等々も、どうして存在しえようか。
  [反対主張]それは何故存在しえないのか。
  [答論]だから、探究の対象であるアートマンが認識される以前には、アートマンは 認識主体なのであると述べられているのである。[ここで]これ(認識主体であるというの)は、偶然的な特性(upaalkasana)であり、認識・認識対象・認識根拠という区別も[そのなかに含まれていると]理解すべきである。その趣旨は以下の通りである。 すなわち、これらの区別が不二なるものを直証する原因なのである。何故なら、[それは]常にそれ(不二なるものの直証)以前に存在しているからである。従って、それ (認識・認識対象等の区別)が存在しなければ、結果は生じないのである。さらに、認識主体であるアートマン以外にアートマンを探究すべきではないというので、[だが] 探究し終われば、[それは]まさに罪や欠点とは無縁な認識主体(最高のアートマン) となろうと述べられているのである。[なお]首に掛かっているネックレスの例につい ては、すでに述べたところである796。

脚注
794このブラフマンを知るものとは、スンダラ・バンディヤであるされれる。
795 雄牛のように力強いという意味。
796 本訳369頁参照。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

818鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/31(土) 00:28:30 ID:T.EvGghI0
 身体等をアートマンだと思い込むのは、両者の違いが経験されていないので、比喩的なものではないというのじゃ。
 アートマンに関するこの二種の思い込みが、日常的な世界を支えているの

 この二種の思い込み)存在しなければ、日常的な世界も存在しないし、しいては、 ブラフマンとアートマンとが同一であるという開眼も存在しないのじゃ。
 何故なら、 それ(開眼)の手投である聴聞・思惟等が存在しないからなのじゃ。

 誤った思い込みが存在しなければ、身体・器官等[との同一視]が否定され、聴聞等も否定されるのじゃ。
 ただ単に日常的な世界が破壊されるだけではなく、 「私は実在ブラフマンであり、アートマンである」という覚り、不二なるものを直証すること等々も存在しないのじゃ。

 反対なのじゃ。
 なぜそれらは存在しないのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 探究の対象であるアートマンが認識される以前には、アートマンは 認識主体なのであると述べられているのじゃ。
 認識主体であるというの)は、偶然的な特性であり、認識・認識対象・認識根拠という区別もそのなかに含まれていると理解すべきなのじゃ。

 これらの区別が不二なるものを直証する原因になるのじゃ。
 常にそれ以前に存在しているからなのじゃ。
 従って認識・認識対象等の区別が存在しなければ、結果は生じないのじゃ。

 さらに、認識主体であるアートマン以外にアートマンを探究すべきではないというのじゃ。
 しかし 探究し終われば、まさに罪や欠点とは無縁な認識主体となろうと述べられているのじゃ。





 アートマンの実現、直証には、認識、認識主体、認識根拠という心の働きの区別が必要だというのじゃ。
 それらを心を観察して詳しく区別したならば、アートマンの直証の原因になるのじゃ。
 そしてアートマンを直証してしまえば、もはや法もアートマンもブラフマンも世界も存在しないのじゃ。
 全てはただ一つであるからなのじゃ。
 それが不二一元なのじゃ。

819避難民のマジレスさん:2022/12/31(土) 01:37:47 ID:rk9kXnYA0
(最終回) p453-454 229/229
  [反対主張]正しい認識根拠でないものから、どうして究極的な不二なるものへの開眼が生ずるのか。
   [答論]だから、[日常的には]身体をアートマンだとする観念が認識根拠だと見なされているように、実にこの日常的な認識根拠は妥当するのであると言われているのである。そしてこの限界を、アートマンが確知されるまではと述べているのである。 すなわち、ブラフマンの本質を直証するまでは等々という意味である。その趣旨は以下の通りである。現象世界が究極な実在であると主張する人たちでも、身体等をアートマンだとする思い込みは誤りであると言うべきである。何故なら、[それは]正しい認識根拠によって否定されるからである。[だが]それ(身体等をアートマンだと思い込むこと)が、あらゆる認識根拠の原因であり、現実の日常的な世界を支えているのだと認めるべきである。そして、まさにそれ(身体等をアートマンだとする思い込み)が、われわれの場合にも、不二なるものを直証する際に、手だてとなるであろう。さらに、この不二なるものの直証も、内官の変容の一種であって、完全には究極的なものではないのである797。そうではなくて、責実の直証は、実現されるようなものではないのである。何故ならそれは、ブラフマンを本質としているからである。一方、無明は、[他の]無明を滅ぼそうと生み出そうと、その場合にはなんら理解しがたいことはない。同じ趣旨で[次のような]天啓聖典句がある。「無明と明知の両者をともに知る者は、無明によって死を超え。明知によって不死を享受する」798と。以上ですべてが 明らかとなった。

脚注
797,798
(´・(ェ)・`)
(おわり)

次回、新春より、荘子の講読会を開始します。

820鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/01(日) 00:09:05 ID:X58HOuLs0
 反対なのじゃ。
 正しい認識根拠でないものから、どうして究極的な不二なるものへの開眼が生ずるのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 現象世界が究極な実在であると主張する人たちでも、身体等をアートマンだとする思い込みは誤りであると言うべきだというのじゃ。
 何故なら正しい認識根拠によって否定されるからなのじゃ。
 しかしそれが、あらゆる認識根拠の原因であり、現実の日常的な世界を支えているのだと認めるべきなのじゃ。

 そして、まさにそれが、われわれの場合にも、不二なるものを直証する際に、手だてとなるというのじゃ。
 さらに、この不二なるものの直証も、内官の変容の一種であって、完全には究極的なものではないのじゃ。

 責実の直証は、実現されるようなものではないからなのじゃ。
 何故ならそれは、ブラフマンを本質としているからなのじゃ。

 無明は、無明を滅ぼそうと生み出そうと、その場合にはなんら理解しがたいことはないというのじゃ。
 次のような天啓聖典句があるのじゃ。
 「無明と明知の両者をともに知る者は、無明によって死を超え。明知によって不死を享受する」

 アートマンを身体と混同する無明そのものが、アートマンを直証する手段となるというのじゃ。
 仏教で言えば煩悩即菩提じゃな。
 
 無明や煩悩を知り尽くし、極めつくせば明知であるからなのじゃ。
 悟りはそこに訪れるのじゃ。
 もはや悟りきってしまえば、悟りもないのじゃ。

 悟りすらもやはりブラフマンに回帰するための手段と言えるのじゃ。
 悟りを得ることによって、無明と明知を知り尽くし、ブラフマンに回帰するのじゃ。

821避難民のマジレスさん:2023/01/01(日) 00:27:59 ID:akDRw6KA0
明けまして おめでとうございます。
本年も宜しくお願い致します。

荘子1.
原文、書き下し文及び註解は主に ↓ に従い、
荘子 (哲学館第10学年度漢学専修科講義録) - 国立国会図書館デジタルコレクション

段落分け、活字は ↓ に従った。
荘子内篇の素読(漢字家族)
(´・(ェ)・`)b

822避難民のマジレスさん:2023/01/01(日) 01:19:34 ID:akDRw6KA0
荘子1.
内篇
逍遙游 斉物論の序章

逍遙游第一(1) 
北 冥 有 魚 。 其 名 為 鯤 鯤 之 大 、 不 知 其 幾 千 里 也 。 化 而 為 鳥 。 其 名 為 鵬 。 鵬 之 背 、不 知 其 幾 千 里 也 。 怒 而 飛 、其 翼 若 垂 天 之 雲 。 是 鳥 也 、 海 運 則 將 徙 於 南 冥 。 南 冥 者, 天 池 也 。  

北 冥 に 魚あり、其の名を鯤(コン)と為す。鯤は大。其の幾千里なるを知られざる。化して鳥と為る。其の名を鵬(ホウ)と為す。鵬の背(そびら)は、其の幾千里なるを知られざる。怒(ド)して飛べば其の翼(つばさ)は垂天(スイテン) の雲の若(ごと)し。是(こ)の鳥や、海運すれば則将(まさ)に南冥(ナンメイ)に徙(うつ)らんとす。南冥とは天池(テンチ)なり。

注:
冥:めい、海
怒して:力を入れて、
魚は海中広く前後左右に泳ぎ回れども、上下すること能はず故に鳥に化せしめて、四方上下の六合に通達するようにしたる也。

逍遥遊第一(2)
 齊 諧 者 、志 怪 者 也 。 諧 之 言 曰 鵬 之 徙 於 南 冥 也 、 水 擊 三 千 里 、摶 扶 搖 而 上 者 九 萬 里 、 去 以 六 月 息 者 也 。 野 馬 也 塵 埃 也 、生 物 之 以 息 相 吹 也 。 天 之 蒼 蒼 、其 正 色 邪 。其 遠 而 無 所 至 極 邪 。上 視 下 也 、亦 如 是 則 已 矣 。  

齊諧(セイカイ)とは怪(カイ)を志(し)るす者なり。諧の言に曰(い)わく、「鵬の南冥に徙(うつ)るや、水擊する(水を撃(う)つ)こと三千里、扶搖(フヨウ・つむじかぜ)に摶(う)ちて上(のぼ)ること九万里、去りて六月を以て息(いこ)ふ者なりと。  野馬(ヤバ・かげろう)や塵埃(ジンアイ)や、生物の息を以て相(あ)い吹くなり。天の蒼蒼(ソウソウ)たるは其れ正色(セイショク・まことのいろ)なるか、其れ遠くして至極(シキョク)する所なければか。上の下を視(み)るや、亦(ま)た是(か)くの如(ごと)きのみ。

注:
斉諧記(せいかいき):六朝時代の文語志怪小説集。宋
 の東陽无疑 (むぎ) の著。
扶 搖:風の下より上に向きて吹くものなり
以六月息:(南海に行くまでには幾年を要するや知る
 能はざれども)六ヶ月にて一休息する
野馬也 、塵埃也 、生物之以息相吹也 :かげろうの如
 き、塵埃の如きもの、生物の息を以て相吹けるも
 の即ち風気。(この僅かなる風気に乗りて彼の大鵬
 は南海にうつりしなり)
天の蒼蒼たるは其の定りたる色なるか、将(は)た其
 の高く遠きが為に、かかる色を為せるか、必ずや
 多く重なりたるが為の色なるべし、然れば大鵬が
 上より下を見るもまた、下より上を見ると同じこ
 となるべし、誠に斯くの如く多くを積むにあらざ
 れば、大鵬を乗することは成しえざるなり、大鵬
 を乗するを見ても、天地間の高大なるを知るべし
 となり
(´・(ェ)・`)つ

823避難民のマジレスさん:2023/01/01(日) 22:38:34 ID:Dp/qMVVc0
>>270
>>>268
書籍化の進行は如何なものでしょうか?

大変お待たせしました。さしあたりオショーの講演の翻訳分を電子書籍化しました。読みやすくするために、意味を変えないようにして元記事から修正した部分があります。
また、鬼和尚のコメント入りのものは現在作成中です。

https://bccks.jp/bcck/172187

824鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/02(月) 00:01:49 ID:HVCklxms0
あけおめことよろなのじゃ。


 荘子は2300年ぐらい昔の人じゃな。
 道家の元祖の一人というのじゃ。
 実は老子の道徳経も大部分は荘子の書いたものではないかというのじゃ。
 道家の教えは荘子でほぼわかるのじゃ。

825鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/02(月) 00:04:26 ID:HVCklxms0

 北の極地にでかい魚がいるというのじゃ。
 変化してでかい鳥になるというのじゃ。
 海を飛んで天の池に行くというのじゃ。

 昔の怪奇本にも書いてあるのじゃ。

826避難民のマジレスさん:2023/01/02(月) 05:10:18 ID:eP38pctc0
荘子2.
逍遥遊第一(3)且夫水之積也不厚 、則其負大舟也無力 。覆杯
水於坳堂之上 則芥為之舟 。 置杯焉則膠。水
淺而舟大也 。風之積也不厚 則其負大翼也無
力 。 故九萬里 、則風斯在下矣 。而後乃今培
風 背負青天 、而莫之夭閼者。 而後乃今將圖
南 。 且つ夫(そ)れ水の積むや厚からざれば、則ち
其の大舟を負(おお)ふ力なし。杯水を坳堂
(オウドウ・ヨウドウ)の上に覆(くつが)えせ
ば、則ち芥(カイ•あくた)これが舟と為り、
杯を焉(ここ)に置けば則ち膠(コウ)す。水浅
くして舟大なればなり。風の積もる厚からざ
れば、則ち其の大翼を負(おお)ふ力なし。故
に九万里なれば即ち風斯(かよう)に下に在
り。而る後乃今や風に培(の•つちかひ)り、
背に青天を負ふて、これを夭閼(ヨウアツ・さ
えぎる)する者なし。而る後乃今や将に南する
を図らんとす。

注:
坳堂(オウドウ・ヨウドウ):凹みある所なり
膠:ぴたりと付くこと
風:気を指す
培風:風を揺すること
夭閼(ヨウアツ・さえぎる): 夭は折、閼は
 止、又は塞ぐ
*以上により、鵬の大を説き、鵬に因りて宇  
 宙の大なるを説く

逍遥遊第一(4)蜩 與 學 鳩 笑 之 曰 、 我 決 起 而 飛 搶 楡
枋 、時 則 不 至 而 控 於 地 而 已 矣 。奚 以
之 九 萬 里 而 南 為 。適 莽 蒼 者 、三 餐 而
反 腹 猶 果 然 。適 百 里 者 、宿 舂 糧 。適 千
里 者、三 月 聚 糧 。 之 二 虫 又 何 知 。小 知
不 及 大 知 、小 年 不 及 大 年 。  蜩(チョウ・ひぐらし)学鳩(ガクキュ
ウ・こばと)とこれを笑いて曰(い)わく、
「我れ決起(ケッキ)して飛べば、楡枋(ユ
ボウ)を搶(つ)く、時には則ち至らずして
地に控(なげう)つのみ。奚(なに)を以て
九万里にして南するを以て為さんと。莽蒼
(モウソウ)に適(ゆ)く者は三餐(サンサ
ン)にして反(かえ)れば、腹なお果然(カ
ゼン・ふくれ)たり。百里に適(ゆ)く者は
宿(シュク)に糧(かて)を舂(うすづ)
き、千里に適(ゆ)く者は三月(みつき)糧
(かて)を聚(あつ)む。之(こ)の二虫は
また何をか知らんや。小知は大知に及ばず、
小年は大年に及ばず。

注:
蜩(チョウ):小蟬(ひぐらし)
学鳩(ガクキュウ):小鳩
搶(つ)く:突く、つきすすむ
楡:にれ、檀:まゆみ 小木、低木
莽蒼(モウソウ): 莽(くさ)の蒼みたる近
 き野原(に行く者)
三餐:三度の食事
果然:腹満つる
宿に:前日に
㫪(うすづ)く:糧の用意をする
ニ虫: 蜩と学鳩
(´・(ェ)・`)つ

827避難民のマジレスさん:2023/01/02(月) 05:13:03 ID:eP38pctc0
>>823
有難うであります。
続編もあるのでありますか?
(´・(ェ)・`)b

828避難民のマジレスさん:2023/01/02(月) 21:23:11 ID:Dp/qMVVc0
>>827
今回のはオショーの講話のみですが、今、鬼和尚の解説が講話の間に入っているものを作っています。Sadhana pathはこれまで日本語訳がなかったようですので、それだけを読みたい人もいるかと思い、先に発行しました。

829鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/02(月) 23:57:56 ID:mCQRrvfA0

 水か少なければ船も浮かばないというのじゃ。
 杯の水を机にたらせば塵は船に見えるが杯を置けば固まるのじゃ。
 水が小さくて船が大きいからなのじゃ。

 空気が多くなければ大きい鳥も飛べないのじゃ。
 九万里もはばたいてやっと飛べるのじゃ。
 そしてやっと南に向かえるのじゃ。

830避難民のマジレスさん:2023/01/03(火) 02:23:01 ID:4TRupBI60
荘子3.
逍遥遊第一(5)奚 以 知 其 然 也 。 朝 菌 不 知 晦 朔 、蟪 蛄
不 知 春 秋 。此 小 年 也 。 楚 之 南 有 冥 靈
者 。 以 五 百 歳 為 春 、 五 百 歳 為 秋 。上
古 有 大 椿 者 。 以 八 千 歳 為 春 、八 千 歳
為 秋 。 而 彭 祖 乃 今 以 久 特 聞 、衆 人 匹
之、 不 亦 悲 乎 。
奚(なに)を以て其の然(しか)るを知る
や。朝菌(チョウキン)は晦朔(カイサク)
を知らず、蟪蛄(ケイコ)は春秋を知らず。此
れ小年なり。楚(ソ)の南に、冥霊(メイレ
イ)なる者あり、五百歳を以て春と為し、五
百を秋となす。上古に大椿(タイチン)なる
者あり、八千歳を以て春と為し、八千歳を秋
と為す。而るに彭祖(ホウソ)は乃(すな
わ)ち今、久(ひさし•いのちなが)きを以て
特(ひと)り聞こえ、衆人これに匹(ひつ)
せんとす、亦(ま)た悲しからずや。

注:
朝菌(チョウキン):夜生じて、朝枯るる菌
晦朔(カイサク): みそかと、ついたち。一
 か月間。朝と晩。一日間。
蟪蛄(稽古)ツクツクボウシをいう。夏だけ生
 存して春や秋を知らないところから、短命
 のたとえとする。
冥霊(メイレイ):木の名。葉の出を春とな
 し、葉の落つるを秋となす。二千歳を以て
 一年となす。
大椿(タイチン):木の名。三万二千歳を以て
 一年となす。
彭祖(ホウソ): 神話の中で長寿の仙人であ
 り、八百歳の寿命を保ったことで有名

逍遥遊第一(6)湯 之 問 棘 也 是 已 。 窮 髮 之 北 有 冥 者 、
天 池 也 。 有 魚 焉 、其 廣 數 千 里。未 有 知
其 脩 者 。 其 名 為 鯤 。 有 鳥 焉 、其 名 為
鵬 。背 若 泰 山 、 翼 若 垂 天 之 雲 。摶 扶
搖 羊 角 而 上 者 九 萬 里 、絶 雲 氣 、負 青
天 、然 後圖 南 。 且 適 南 冥 也 。 斥 鷃 笑
之 曰 。彼 且 奚 適 也 。 我 騰 躍 而 上 、不
過 數 仞 。而 下 翱 翔 蓬 蒿 之 間 。此 亦 飛
之 至 也 。而 彼 且 奚 適 也 。 此 小 大 之 辯
也 。  湯(トウ)の棘(キョク)に問ふや、是
(こ)れのみ。窮髮(キュウハツ)の北に冥 
海(メイカイ)あり。天池(テンチ)なり。
魚あり、その広さ数千里。未(いま)だ其の
脩(なが)さを知る者あらず。其の名を鯤
(コン)と為す。鳥あり、其の名を鵬(ホ
ウ)と為す。背(せ)は泰山(タイザン)の
若(ごと)く、翼は垂天(スイテン)の雲の
若し。扶搖(フヨウ・つむじかぜ)に摶
(う)ち羊角(ヨウカク)して上ること九万
里、雲気(ウンキ)を絶ち、青天を負いて然
る後に南するを図(はか)る、且(まさ)に
南冥(ナンメイ)に適(ゆ)かんとするな
り。 斥鷃(セキアン•うずら)これを笑いて
曰わく、彼且(まさ)に奚(いず)くに適
(ゆ)かんとするや。我れ騰躍(トウヤク)
して上るも数仞(スウジン)に過ぎずして下
(お)ち、蓬蒿(ホウコウ•よもぎ)の間に
翱翔(コウショウ)す。此(こ)れ亦
(ま)た飛ぶの至りなり。而るを彼且(ま
さ)に奚(いず)くに適(ゆ)かんとするや
と。此(こ)れ小大の辯(ベン・ちがい)な
り。
注:
これらの話は大に過ぎて、偽りと思うものあ
 るべし、されども、このことは、斉諧にも
 記してあり、又、古昔、湯王が棘に問いし
 ことも是と同じである。
棘(キョク): 湯(トウ)の時の賢人
湯王:中国古代の 殷 いん 王朝の創始者。
窮髮(キュウハツ): 窮は猶ほ無の如し、髪
は猶ほ毛の如し。毛は草也、故に藭髪は不毛
の謂いなり。
羊角:旋風、つむじ風のこと。羊の角のように
 風が曲がって吹くこと。巻曲(けんきよく):
 まがりくねる。
騰躍(トウヤク):躍り上がる
仭(じん):7尺≒175cm
蓬 蒿 (ほうこう):よもぎ。1m前後の多年草
翱翔(コウショウ):翔(か)け廻る
至:至極 この上なしと思うこと
小 大 之 辯 :大きな者と小さな者の見解の違い
(´・(ェ)・`)つ

831鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/04(水) 00:04:15 ID:PUhIq.bY0

 どのようにしてそんなことを知ることができるのかというのじゃ。
 朝に生えるきのこは夕べにはしおれ、小さい虫は一年も生きていないのじゃ。
 寿命がすくないからなのじゃ。
 
 楚国の南に冥霊という者がいて、五百年で成長し、五百年で衰えたのじゃ。
 昔には大椿というものがいて、八百年で成長し八百年で衰えたのじゃ。
 
 今は彭祖という者が八百歳の長寿でみんなそのようになりたいとか思っているのじゃ。
 悲しいものじゃ。

832避難民のマジレスさん:2023/01/04(水) 00:40:45 ID:B4tcI.nA0
荘子4.
逍遥遊第一(7)故 夫 知 效 一 官 、 行 比 一 鄕 、德 合 一 君
而 徴 一 國 者 、其 自 視 也 、亦 若 此 矣 。
而 宋 榮 子 猶 然 笑 之 。 且 舉 世 而 譽 之 而
不 加 勸 、舉 世 而 非 之 而 不 加 沮 、定 乎
内 外 之 分 、辯 乎 榮 辱 之 境 。斯 已 矣 。
彼 其 於 世 未 數 數 然 也 。 雖 然 猶 有 未 樹
也 。 夫 列 子 御 風 而 行 、冷 然 善 也 。旬
有 五 日 而 後 反 。 彼 於 致 福 者 未 數 數 然
也 。 此 雖 免 乎 行 猶 有 所 待 者 也 。若 夫
乘 天 地 之 正 、 而 御 六 氣 之 辯 、以 游 無
窮 者 、彼 且 惡 乎 待 哉 。故 曰 至 人 無
己 、神 人 無 功 、聖 人 無 名 。
故に夫(か)の知は一官に効あり、行いは一
郷を比(した)しませ、徳は一君に合(がっ)
し 而(のう)は一国に徴(しるし)ある者
は、其の自(みずか)ら視るや、また此
(か)くの若(ごと)し。而(しかるに)宋
の栄子(エイシ)は猶然(ユウゼン)として
之(人中の最小なる者)を笑う。 且つ世を挙
(こぞ)りて、これを誉(ほ)むれども勤
(つとむ•はげみ)を加(くわへ)ず、世を挙
(こぞ)りてこれを非(そし)れども沮(は
ばむ•くじけ)を加(くわへ)ず、内外の分を
定め、栄辱の境(キョウ)を弁(つまびらか
に)す。斯(こ)れのみ。彼れ其の世に於
(お)けるや未だ数数然(サクサクゼン)た
らざるなり。然りと雖(いえど)も猶(な)
お未だ樹(た)たざるものあるなり。夫
(そ)の列子(レッシ)は風に御(ギョ)し
て行く、冷然(レイゼン)として善(よ)き
也。旬有五(ジュンユウゴ)日にして後(の
ち)に反(かえ)る。彼れ福を致す者に於いて
未だ数数然たらざるなり。此れ行(ある)くこ
とを免(まぬか)ると雖も、猶お恃(たの)む所
あるなり。若(も)し夫(そ)れ天地の正に乗じ
て六気の弁に御し、以て無窮に遊ぶ者は、彼
且(まさに)悪(いずく)にか恃(たの)まんとす
るや。故に曰わく、至人(シジン)は己(おの)
れなく、神人(シンジン)は功なく、聖人(セ
イジン)は名なしと。

注:
比:親しむ
徴:証、成功あること
而(のう):能、才能
其 自 視 也 、亦 若 此 矣(其の自(みずか)ら
 視るや、また此(か)くの若(ごと)
 し。) :その知識は一つの官職に功績あるに
 足るのみの者、その為すところは一地方の
 人々と親しむに足るのみの者、その道徳と
 する所は一君の心に合するに足るのみにし
 て、充分その道を行い得ると雖も、只一国
 に功績あるのみなる知行徳共に僅少なる者
 も、其の自ら其の身をみれば、うずらがよ
 もぎの間を飛び回ることこそが、至高の飛
 ぶと言うことだと思い、却って大鵬が天外
 に飛ぶのを笑う如く、己を越えたる者あれ
 ば、即ち之を笑うなり、蓋し是等は人中の
 最小なる者なり。
榮 子 猶 然 笑 之: 栄子は猶然として之(=人中
 の最小なる者)を笑う
彼 其 於 世 :彼、世に立つや、(僅少のことに
 心煩わすことなどない)
数数然(さくさくぜん):常に間事に心を労し、
 終日心に暇なきをいう。
樹つ(たつ):独立して他に依頼せざる心をいう
列子:戦国時代の諸子百家の一人列禦寇(れつ
 ぎょこう)
御風:風に乗って
冷然:軽妙なり
旬:十日なり
致福:我身に幸福を致すをいふ
免乎行(行(ある)くことを免(まぬか)る:風に
 乗りて行くを以て、歩くことは免れるなり
猶有所恃者也(恃(たの)む所あるなり):(歩く
 ことは免れても)風を恃(また)ざれば、行く
 こと能わざるなり
天地の正に乗じ:天地:万物、正:正気、自然の
 気。其性に随い、強いて之を求めざるなり
六 氣 之 辯:左傳(春秋左氏伝)に陰・陽・風・
 雨・晦 ・明を六気と称しあり。辯は変と音
 通、即ち万物の変化を謂ひ、上句の正気に
 対す。
無窮: 南溟(なんめい)はるか南方にひろがる
 海に対して言う

*若し夫れ真誠の逍遙游は物を須(また)ず、
至る所界限なく、其の世に存在するとも、年
歳日月を以て限る能わずとなり、上文鯤鵬の
逍遙游にあらざるは此に至りて益々明らかな
らん、至人(しじん)には己なし、己なきが故
に、万物に逢いひて直に其の物に順ひ得るな
り。神人は万物の成滅を以て至理と一となす
、故に功なし、聖人とは万物其性を得るの名
なりとす、故に物を成敗し、事を救溺する皆
自然となす、是れ聖人名なりき所以なり、此
の末段稍(やや)齋物論の意を顕せり。
(´・(ェ)・`)つ

833鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/05(木) 00:12:35 ID:QZnwmUrw0

 儒教の批判じゃな。
 儒教では知とか行とか徳とか能を尊ぶのじゃ。
 そんなものは卑小なものだというのじゃ。
 儒教の知とは役人の小賢しい保身に役立つだけというのじゃ。
 儒教の行とは地方の人々と親しくなるだけというのじゃ。
 徳とは一人の君主の心に合致するだけというのじゃ。
 能は一つの国で重宝とされるだけというのじゃ。
 そんな者たちはうずらがよもぎの間を飛びまわって、大きな鳥を笑うようなものじゃ。 
 人の中でも器の小さいものなのじゃ。
 
 そんなものより宋国の栄子というものは、そんな者を悠然として笑うのじゃ。
 そのようなものたちは俗事に塗れて終日ひまがないものじゃ。
 
 列子は風に乗って風に乗って歩かなくて済む仙人だったのじゃ。
 しかしそのような者でさえ風がなければどこにもいけないのじゃ。
 
 天地の正気に乗る者はその本性に従い、なにも要らないのじゃ。
 自然の陰陽等の六気を制御して極めつくしているからなのじゃ。

 悟りに至った至人は無我であり、神の人、神人は何もしない無為であり、聖人は名声を求めないのじゃ。

834避難民のマジレスさん:2023/01/05(木) 00:34:08 ID:U7vFdjbk0
荘子5.
逍遥遊第一(8)
堯 讓 天 下 於 許 由 曰 。日 月 出 矣 而 爝 火
不 息 、其 於 光 也 不 亦 難 乎 。時 雨 降 矣而
猶 浸 灌、其 於 澤 也 不 亦 勞 乎 。夫 子 立 而
天 下 治 。而 我 猶 尸 之、吾 自 視 缺 然 。請
致 天 下 。許 由 曰 。子 治 天 下 、天 下 既 已
治 也 。而 我 猶 代 子、吾 將 為 名 乎 。名 者
實 之 賓 也 、吾 將 為 賓 乎 。鷦 鷯 巣 於 深
林 、不 過 一 枝、偃 鼠 飲 河 、不 過 滿 腹 。
歸 休 乎 君 、 予 無 所 用 天 下 為 。庖 人 雖
不 治 庖 、 尸 祝 不 越 樽 俎 而 代 之 矣 。
 
堯(ギョウ)、天下を許由(キョユウ)に譲(ゆ
ず)りて曰わく、日月出(い)で ぬ 而、爝火
(シャクカ)息(や)まざれば、其の光に於ける
や亦た難(かた)からずや。 時雨(ジウ)の降(
ふ)りぬ而、猶(な)お浸灌(シンカン)せば、
其の沢(うるおい)に於けるや亦た労(いたず
き)ならずや。夫子(フウシ)立たば而、天下治
まらん。而我れ猶おこれを尸(つかさど)ら
ば、吾れ自ら視るに欠然(ケツゼン)たり。
請(こ)う天下を致さんと。 許由曰わく、
子、天下を治めて、天下既已(すで)に治ま
る。而(しかるに)我れ猶お子に代らば、吾れ
将に名の為にせんとするか。名は実(じつ)
の賓(ヒン)なり。吾れは将に実の為にせん
とするか。鷦鷯(ショウリョウ・みそさざ
い)は森林に巣くうも一枝(イッシ)に過ぎ
ず。偃鼠(エンソ・むぐらもち)は河に飲(み
ずの)むも腹を満たすに過ぎず。休(いこえ)
君(きみ)に帰せん。予(わ)れは天下を用
(もちい)て為(な)す所なし。包人(ホウ
ジン)、包を治めずと雖も、尸祝(シシュ
ク)は樽俎(ソンソ)を越(うば)いてこれ
に代わらず。

注:
堯(ぎょう):神話上の君主
天下:天子の位
許由:伝説上の隠士(いんし)
日月:許由に喩う
爝火(しゃくか):僅少の火 燈火の如き小火は 
 夜中は物を照らして明らかなりと雖も、日
 月出る時は其の光薄らぐものなり、然る
 に、日月出たる後尚其の光を日月と争はし
 めんとするは甚だ難事にあらずや
時雨: 許由に喩う
浸灌(シンカン):田に水をそそぐこと
労(いたずき):ほねおり、苦労
夫子:許由を指す
尸:(つかさど)る、その位にある、
欠然(けつぜん): 自ら省みて及ばざる所あるを
 いう。
賓(ヒン):そえもの
鷦鷯(ショウリョウ):みそさざい、小鳥
偃鼠(エンソ):むぐらもち、田に居る鼠
包人(ホウジン):厨(くりや、厨房)を掌る人
尸祝(シシュク): 神主、尸は神を祭る時に
 当て、その代わりになる人、祝は、神人の
 間に立ちて双方の意を紹介する人
樽俎(ソンソ):祭祀の器物
越:うばうの意、他人の職分、権限を犯すこ
 と。越権行為。
*此の一段は至人無為を引証す。

逍遥遊第一(9)
肩 吾 問 於 連 叔 曰 。吾 聞 言 於 接 輿 。大
而 無 當 、往 而 不 返 。 吾 驚 怖 其 言 猶 河
漢 而 無 極 也 。大 有 徑 庭 、不 近 人 情
焉 。

肩吾(ケンゴ)、連叔(レンシュク)に問ふ
て曰わく、吾れ言(ゲン)を接輿(セツヨ)
に聞けり。大にして当たるなく往(ゆ)きて
反(かえ)らず、吾れ其の言の猶(な)お河漢
のごとくにして極まりなきに驚怖せり。大い
に徑庭ありて人情に近からずと。

注:
肩吾(ケンゴ)、連叔(レンシュク):古の賢人
接輿(セツヨ):楚人、躬(みずか)ら耕す。王之
 を召せども応ぜざりしという人也。
無当:言語宏大にして徴証なきをいう。
河漢: 黄河と漢水
大:甚だ
徑庭(けいてい):小道と広場、遠隔
(´・(ェ)・`)つ

835鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/05(木) 23:06:18 ID:itNjT.X60

 昔ギョウという者が天下をとって、天下を許由にゆずろうとしたのじゃ。
 しかし許由は天下などいらないといって受けなかったのじゃ。

 ケンゴという者が連叔(レンシュク)に聞いたのじゃ。
 セツヨというものにものを聞いたらわけがわからないことを言ったというのじゃ。
 まるで大河のようであり、世間の話とはまるで違うのじゃ。

836避難民のマジレスさん:2023/01/05(木) 23:12:44 ID:VEckXysQ0
荘子6. 
荘子:逍遥遊第一(10)
連 叔 曰 其 言 謂 何 哉 。曰 藐 姑 射 之 山 有
神 人 居 焉 。 肌 膚 若 冰 雪 、 綽 約 若 處
子 。不 食 五 穀 。 吹 風 飲 露 。乘 雲 氣 御
飛 龍 而 游 乎 四 海 之 外 。其 神 凝 使 物 不
疵 癘 而 年 穀 熟 。 吾 以 是 狂 而 不 信 也 。

連叔曰わく、其の言は何と謂(い)ひしか
と。曰わく、藐(はる)かなる姑射(コヤ)
の山に神人 (シンジン)のありて居る。肌膚
(キフ)は冰雪(ヒョウセツ)のごとく、綽
約(シャクヤク)たること処子(ショシ)の
若(ごと)し。五穀を食(くら)わ ず、風を
吹 き 露を飲み、雲気に乗じ、飛龍に 御(ギ
ョ)し、而(しこう)して四海の外に遊ぶ。
其の神(シン)凝(こ)れば、物をして疵 癘
(しれい)せず、(疵(きず)つけ癘 (や)ま
しめず)、年穀(ネンコク)をぞ熟せしむ。
と。吾れ是れを以て狂として信ぜざるなり
と。

注:
藐(はるか): 遠なり、遠くはなれたさま。
姑射(コヤ):北海中にある山、不老不死の仙
 人が住んでいるという想像上の山。
 藐姑射之山(ハコヤのやま):日本語>上皇を  
  祝って上皇の御所をいふ。長寿の仙人に
  たとえていう。仙洞(セントウ)御所とも。
肌膚(きふ): 皮膚
綽約(シャクヤク):弱々しいさま。しなやか
 なさま。 女性のたおやかで美しいさま。
処子:未婚の女性。 おとめ。 処女。
吹 風 (風を吹き←テキストに吹風とあり、吹
 キとある。):(熟語としては、吸 風 飲 露(き
 ゅうふういんろ):仙人などの清浄な暮らし
 のこと。五穀を食べずに、風を吸い露を飲
 んで生活する意から。
 五穀(ゴコク):五種の穀物。稲(米)・黍(シ
  ョ・もちきび)・稷(ショク・こうりゃん)・
  麦・菽(シュク豆)のこと。一説に、麻・
  黍・稷・麦・豆とも。穀物類の総称。
  日本語>米・麦・黍(きび)・粟(あわ)・豆。
其 神 凝 (其のしん凝れば):精神を凝集すれば
疵厲(シレイ):災害。わざわい。やまい。病
 気。
(´・(ェ)・`)つ

837避難民のマジレスさん:2023/01/06(金) 20:16:43 ID:Olzm/byY0
>>823
270です。あけおめことよろ。いつもありがとうございます。

南無ステ南無ステ(ー人ー)感謝!

838鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/06(金) 23:28:25 ID:X67rR5xk0

 連叔は何と言ったのか聞いたのじゃ。
 遠くの姑射の山に神人がいて肌は白くものごしはやわらかく
 五穀を食べず風を吹かせ霧を飲み雲に乗り飛竜にのって四海の外まで遊ぶのじゃ。
 精神を集中すれば病を治し穀物を成長させるのじゃ。
 こんな人がいるなとどは、狂っているとしか思えないというのじゃ。

839避難民のマジレスさん:2023/01/07(土) 07:18:08 ID:N1Nhmr4k0
荘子7.
逍遥遊第一(11)
連 叔 曰 然 。瞽 者 無 以 與 乎 文 章 之 觀 、
聾 者 無 以 與 乎 鐘 鼓 之 聲 。 豈 唯 形 骸 有
聾 盲 哉 。夫 知 亦 有 之 。 是 其 言 也 猶 時
女 也 。 之 人 也 、之 德 也 、 將 旁 礴 萬 物
以 為 一 。世 蘄 乎 亂 孰 弊 弊 焉 以 天 下 為
事 。 之 人 也 物 莫 之 傷 。 大 浸 稽 天 而 不
溺 、 大 旱 金 石 流、 土 山 焦 而 不 熱 。 是
其 塵 垢 秕 糠 將 猶 陶 鑄 堯 舜 者 也 。孰 肯
以 物 為 事 。

連叔曰わく、然り。瞽者(コシャ)は以て文
章の観に与(あずか)ることなく、聾者(ロウ
シャ)は以て鐘鼓(ショウコ)の声(こえ)に与
かることなし。豈(あ)に唯(た)だ形骸にのみ
聾盲(ロウモウ)あらんや。夫(そ)の知にも亦
(ま)たこれありと。是れその言や猶お時女の
ごとくなり。之(こ)の人や、之の徳や、将
(まさ)に万物を旁礴(ほうはく)して以て一と
為(な)さんとす。世(よ)乱(おさ)めんことを
蘄(もと)むるも、孰(たれ)か弊弊焉(ヘイヘ
イエン)として天下を以て事と為(な)さん
や。之(こ)の人や、物(なにもの)も之(これ)
を傷つくることなし。大浸(タイシン・おおみ
ず)の天に稽(とどく)るとも溺れず、大旱(タ
イカン・おおひでり)して金石流れ土山焦(こ
が)げるとも、熱せず。是(こ)れ其の塵垢秕
糠(ジンコウヒコウ・ふけあかくいかす)も、
将に猶お堯舜(ギョウ・シュン)を陶鋳(トウチ
ュウ)せんとする者なり。孰(たれ)か肯(あ)
えて物を以て事と為さんや。

注:
然:接輿の言は然るか。然りと雖も汝之を会得
 し得ざるは、至言の極妙を知らざればなり
瞽者(コシャ):盲者
文章:采色模様、あやいろどり、風采と顔色
観:観月、観梅の如く文彩(あやいろどり)あ
 るものを見て之を娯しむなり。
瞽者は文采粲然足るを観て娯しむことを得 
 ず、聾者は鐘鼓鏗鏘たるを聴きで楽しむこ
 とを得ざるなり
文采粲然:文才が発揮され、美しく見事である
鐘鼓鏗鏘(しょうここうしょう): 楽器の美し 
 いひびきのさま
形骸:聾瞽を受けていふ。その形骸上耳目が人
 に異なるのみにあらず。形骸(からだ)の能
 力だけに限ったことではない。
時女:猶ほ処女の如し、処女は虚静柔順(先入
 観なく、素直)にして、喧噪ならず。時女は
 異説多し。→自ら至理自然を判定弁別する
 を得ざる者は又此の智識上の楽しみを得る
 こと能わざるなり、汝が接輿の言を以て狂
 となし、痴となすも此が為のみ、接輿の言
 は恰も処女の恬淡柔順にして、功名を争う
 の念起さざるが如しと
恬淡(てんたん):あっさりとしていて、名誉・
 利益などに執着しないさま。
旁礴(ほうはく):混同、充塞なり、万物の長
 短高低貴賤等を混同するの謂なり
蘄(もと)むる:求る
亂•乱:治むと読む
弊弊焉(ヘイヘイエン)として:齷齪(あくせく)
 として、
莫 之 傷(これを傷つくることなし)
塵 垢 秕 糠(ジンコウヒコウ・ふけあかくいか
 す):些末なものを謂ふ
陶鋳(トウチュウ):陶治、鋳造
此の神人は絶対的の大徳ある者なれば堯舜く
 らいの徳は垢 秕 の如き些末のところにて為 
 し得らるるなり  
*此の一段は、神人無効を引証す  
(´・(ェ)・`)つ

840鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/07(土) 23:32:02 ID:c7DDMUiw0

 連叔は接輿は正しいといったのじゃ。
 目が見えなければ文の美がわからず、耳が聞こう無ければ音楽はわからないように知恵も足りなければ真実がわからないのじゃ。
 
 この神人はその徳が万物を全て包含して一とするものじゃ。
 天下が乱れても苦労しておさめることもないのじゃ。
 
 このような神人はなにものも傷つけることはできないのじゃ。
 水害にもおぼれず、日照りにも熱くなることもないのじゃ。
 
 その体のあかから昔の聖人のぎょうとしゅんを作り出すほどじゃ。
 世俗のことに勤めることも無いのじゃ。

841避難民のマジレスさん:2023/01/08(日) 04:47:31 ID:fNDcKFYY0
荘子8.
逍遥遊第一(12)
宋 人 資 章 甫 而 適 諸 越 。越 人 斷 髮 文
身 。無 所 用 之 。 堯 治 天 下 之 民 、平 海
内 之 政 、往 見 四 子 藐 姑 射 之 山 。汾 水
之 陽 、窅 然 喪 其 天 下 焉 。

宋人(ソウひと)、章甫(ショウホ)を資し
て諸越(ショエツ)に適(ゆ)く。越人(エ
ツひと)は髪を断て身を文く。これを用うる
所なし。堯(ギョウ)は天下の民を治め、海
内(カイダイ)の政(セイ・まつりごと)を
平 に し、往きて四子に藐(はる)かなる姑射
(コヤ)の山に見る 。汾水(フンスイ)の陽
(きた)にて窅 然(ヨウゼン)として其の天
下を喪 ふ。

注:
章甫(しょうほ) :緇布(しえ)(=くろぎぬ)
 の冠で、中国殷(いん)代のもの。孔子がか
 ぶったので、儒者が多く用いた。
資:資本の資にて蓄えの意。
諸越:諸字は越は部落多きを以ていふ
四 子:誰なりや判然せず、或は云ふ、許由、
 齧缺(げきけつ)、王倪(おうげい)、被衣(蒲
 衣子)の四人なりと。
汾 水: 黄河の2番目に大きな支流。堯の都は
 此の近傍にあり、陽は山は南を陽といひ、
 川は北を陽といふ。
窅然(ヨウゼン):茫然として忘れたる心をいふ
 窅:目が窪んでいる様子を意味する。遠くを
眺めるという意味もある。
喪:四子と談話して、其の志を大にし、遂に
 役々として天下を治むるが如き心を喪ひた 
 るなり。役々:苦心して努める様
*此の一段は至人己無しを引証す
(´・(ェ)・`)つ

842鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/08(日) 22:55:32 ID:c28Ln87k0

 宋国の人が冠を仕入れて越国にうりにいったが、越人は髪を切る風俗でそんなものは買わなかったのじゃ。
 堯は天下を取ってから仙人の住む山に行って四人の仙人に会って話しをしたのし゛ゃ。
 川の北あたりにきところで天下を忘れてしまったのじゃ。

 神人に会えば万人が望む天下も世俗のこととして、忘れてしまうということじゃな。

843避難民のマジレスさん:2023/01/09(月) 05:38:34 ID:G4ovvSpQ0
荘子9.
逍遥遊第一(13)
惠 子 謂 莊 子 曰 。 魏 王 貽 我 大 瓠 之 種 。
我 樹 之 成 、而 實 五 石 。 以 盛 水 漿 、 其
堅 不 能 自 舉 也 。 剖 之 以 為 瓢 、 則 瓠 落
無 所 容 。 非 不 呺 然 大 也 。 吾 為 其 無 用
而 掊 之 。

莊 子 曰 。 夫 子 固 拙 於 用 大 矣 。 宋 人 有
善 為 不 龜 手 之 藥 者 。 世 世 以 洴 澼 絖 為
事 。 客 聞 之 、 請 買 其 方 百 金 、聚 族 而
謀 曰 。我 世 世 為 洴 澼 絖 不 過 數 金 。 今
一 朝 而 鬻 技 百 金 請 與 之 。 客 得 之 以 說
吳 王 。 越 有 難 、吳 王 使 之 將 。 冬 與 越
人 水 戰 大 敗 越 人 。裂 地 而 封 之 。 能 不
龜 手 一 也 。 或 以 封 、 或 不 免 於 洴 澼
絖 、則 所 用 之 異 也。 今 子 有 五 石 之
瓠 、何 不 慮 以 為 大 樽 而 浮 乎 江 湖 、而
憂 其 瓠 落 無 所 容 。則 夫 子 猶 有 蓬 之 心
也 夫 。

恵子(ケイシ)、荘子に謂(い)ふて曰わ
く、魏王(ギオウ)、我れに大瓠(ダイコ)
の種 を貽(おく)れり。我れこれを樹(う
え)て成る、而して実(みみのる)五 石(ゴコ
ク)なり。以て水漿(スイショウ)を盛れ
ば、其の堅(おも)くして自ら挙(あ)ぐる
能(あた)わず。これを剖(さ)きて以て瓢
(ひしゃく)と為せば、則ち瓠落(カクラ
ク)として容(い)る る 所 な し。呺然(キ
ョウゼン)として大 ならざるに非ざる。吾れ
其の無用なるが為(た)めに掊(うつ)と。

荘子曰わく、夫子(フウシ)は固(もと)よ
り大(ダイ)を用ふるに拙(つたな)し。宋
人(ソウひと)に善(よ)く不亀手(フキン
シュ)の薬を為す者あり、世世(よよ)絖(ぬ
め•わた)を洴澼(さら)するを以て事(こと)
と為す。客これを聞き、其の方 を百金にて買
わんことを請(こ)う。族を聚(あつ)めて謀
(はか)りて曰わく、我れ世世に絖(ぬめ)
を洴澼(さら)すことを為するも、数金に過
ぎず。今一朝にして技(わざ)を百金に鬻(ひ
さ)かば 請(こ)うこれを与 えんと。客これを
得て、以て呉王に説けり。越(エツ)に難あ
り、呉王これをぞ将たらしむ。冬、越人(エ
ツひと)と水戦して、大いに越人を敗(やぶ)
る。地を裂(さ)きてこれに封(ホウ)ず。不
亀手を能(よ)くするは一なるに、或(ある)い
は以て封ぜられ、或いは絖(ぬめ)を洴澼
(さら)すより免(まぬか)れざるは、則ち
用ふる所の異なるなり。今、子に五石(ゴコ
ク)の瓢(ふくべ)あらば、何ぞ以て大樽と
為(な)して江湖に浮か ぶ を 慮(おもわ)ずし
て、其の瓠落(カクラク)と ぞ 容(い)るる
所なきを憂(うれ)うるや。則ち夫 子 は 猶
(な)お蓬(ホウ・とらわれたる)の 心 あ る
か な と。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

844避難民のマジレスさん:2023/01/09(月) 05:39:11 ID:G4ovvSpQ0
注:
恵子(けいし、:惠子•恵 施)(紀元前370年頃
 - 紀元前310年頃)、古代戦国時代の政治
 家・思想家。宋の出身。魏の宰相。諸子百
 家の名家の筆頭。
大瓠(ダイコ): 瓠・瓢(ふくべ)夕顔の一変
 種。果実は干してかんぴょうとして食用。
 また果肉をとり去って加工し、炭入れや花
 器などを作り、これも「ふくべ」と言う。
 瓢はひさごにあらず、柄杓の如き物なり。
 瓠を割りて柄杓の如き物を作りしに、本と
 甚だ大なりしが故に、平にして浅く、水を
 要るべき凹みなくなりしなり。
瓠落(カクラク):其の形平く且つ浅く、物を
 要るること能わざるを形容したるなり。
五石:瓢の重量。一石は百二十斤。
水漿(スイショウ)の漿:米を洗ひて得たる白
 き水。
呺 然(きょうぜん):呺(こう•ごう):大きいさ
 ま。からっぽで大 きいさま。
掊(うつ):打破ること
*大瓠が甚だ大なるが故に実用に用いる処な
 し、故に之を打ち破りたりと、大言用ふる
 所なきをいふ。
亀手:手の皮膚亀甲の如く拆(さ)くるをいふ、
 俗に云ふ、ひびあかぎれの類なり
絖(ぬめ): 生糸を用いて繻子織 (しゅすおり) に
 して精練した絹織物。
洴澼(絹、綿の糸を洗いさら)す
客:或人
方族:製法
族:親族
鬻(ひさぐ):売る、養い育てる、粥
封 之:大名に取立たるなり
大 樽(おおだる):樽に縄を結びつけ、江湖を渡
 るの具となす、南人之を腰舟といふ、言い
 しは、斯かる大瓠なら、これを腰に付けて
 域外(宇宙の外)に逍遙すべしとなり
蓬 心(ほうしん):欲にとらわれている心。のび
 のびとしていない気持。蓬(よもぎ)の如
 く、根浅く、其考慮浅狭なりといふ意。
(´・(ェ)・`)つ

845鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/09(月) 23:37:29 ID:tChNJCqc0
恵子が荘子に言ったのじゃ。
 魏王がでかいひょうたんの種をくれたが、でかすぎて役に立たなかった。

 荘子は恵子に言ったのじゃ。
 それはでかいものの使い方がわかっていないからなのじゃ。
 あかぎれの薬もうまく売り込めば大金になるのじゃ。
 でかいひょうたんも船にすればよいだけなのじゃ。

 
 つまりでかいことを言っても役に立たないではないかという批判に、でかいものは使い方で役に立つといったのじゃな。

846避難民のマジレスさん:2023/01/09(月) 23:59:15 ID:rcvDr6Oo0
荘子10.
逍遥遊第一(14)
惠 子 謂 莊 子 曰 吾 有 大 樹 。人 謂 之 樗 。
其 大 本 擁 腫 而 不 中 繩 墨 。 其 小 枝 卷 曲
而 不 中 規 矩 。 立 之 塗 、 匠 者 不 顧 。 今
子 之 言 大 而 無 用 。衆 所 同 去 也 。 莊 子
曰 、 子 獨 不 見 狸 牲 乎 。卑 身 而 伏 、以
候 敖 者 、東 西 跳 梁 不 辟 高 下 。中 於 機
辟 、 死 於 罔 罟 。 今 夫 斄牛 , 其 大 若 垂
天 之 雲 。 此 能 為 大 矣 。 而 不 能 執 鼠 。
今 子 有 大 樹 患 其 無 用 、何 不 樹 之 於 無
何 有 之 鄕 廣 莫 之 野 、彷 徨 乎 無 為 其
側 、逍 遙 乎 寢 臥 其 下 。 不 夭 斤 斧 物 無
害 者 。 無 所 可 用 安 所 困 苦 哉 。

恵子 荘子に謂(い)ふて曰わく、吾に大樹あ
り、人これを樗(おうち)と謂ふ。其の大本
(タイホン・みき)は擁腫(ヨウショウ)し
て縄墨(ジョウボク)に中(あ)たらず、そ
の小枝は巻曲(ケンキョク)して規矩(キ
ク)に中たらず。これを塗(みち)に立つる
も、匠者(ショウシャ)顧みず。今、子の言
は大にして用無し、衆の同く去る所なりと。
荘子曰わく、子は独(ひと)り狸牲(リセ
イ)を見ざるか。身を卑(ひく)くして伏
し、以て敖者(ゴウシャ)を候(うかが)
ふ。東西に跳梁(チョウリョウ)して高下を
避(さ)けず。機辟(キヘキ・わな)に中
(あ)たり、罔罟(モウコ・あみ)に死す。
今、夫 れ 斄 牛(リギュウ)は、其の大なる
こと垂天(スイテン)の雲の若(ごと)し。
此れ能く大 と 為 す。而(しかれど)も鼠
(ねずみ)を執(と)る 能(あた)わず。
今、子に大樹ありてその用無きを患(うれ)
ふ。何ぞこれを無何有(ムカユウ)の郷(キ
ョウ)広漠(コウバク)の野(ヤ)に樹(う)
え、彷徨乎(ホウコウ)として其の側(そば)
に無為(ムイ)にし、逍遥(ショウヨウ)と
して其の下に寝臥(シンガ)せざるや。斤斧
(キンフ)に夭(たちき)られず、物の害す
る者なし。用ふべき所なきも、安(なん)ぞ困
苦する所あらんやと。

注:
樗(おうち、ちょ、ごんずい、せんだん)落葉
 小高木。 役に立たないもののたとえ。悪木
 にして用ひ所なきなり。
大本:幹の根
擁腫(ヨウショウ):人体に腫物生じたるが如く 
 腫れ上りたるをいふ。
縄墨(じょうぼく)すみなわ、直線を引く道 
 具。のり、規則、標準。
規矩(キク): 規(ぶんまわし=コンパス)や
 矩(さしがね)
塗(みち)
匠者(しょうしゃ):大工
狸牲(リセイ):野猫の類、いたち
敖者(ゴウシャ):小さな獲物。遨翔の者:遨 (ご
 う、あそぶ)、翔(しょう、かける、飛ぶ)
機辟(キヘキ・わな)にはまり、
罔罟(もうこ•あみ)にかかって
斄 牛(リギュウ•からうし): 斑牛:黄と黒と
 のまじった、うすぎたない耕牛。まだら牛。
 斄 牛は垂天の雲の様に大きいが、鼠を捕ま
 えることさえ成し得ず。然れども、狸牲の
 ように罠に掛かって死ぬことはない。
無何有之鄕 及び 廣莫之野:共に寂絶無用の地
彷徨乎(ホウコウ):さまよう
(´・(ェ)・`)つ

847鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/10(火) 23:32:53 ID:XhN7owFA0
 恵子が荘子にさらに言ったのじゃ。
 自分のところにはでかい木があるが何にも使えないのじゃ。
 荘子のいうこともでかすぎて何の用もできないからみんな聞かないのだと。

 荘子は言ったのじゃ。
 いたちは小さいがあまりに動きすぎて網に捕まって殺されてしまうのじゃ。
 牛はねずみをとれないが、雄大なのじゃ。

 でかい樹があるならばその下で無為になればよいのじゃ。
 無用の木はそのために人に刈られず長生きなのじゃ。

 無用の用ということじゃな。
 世間の価値や役割とは無縁でいるから長生きで真の道に違うことがないというのじゃな。

848避難民のマジレスさん:2023/01/10(火) 23:44:02 ID:5oa.khJE0
内篇
斉物論
荘子11.
荘子:斉物論第二(1)
南 郭 子 綦 隱 几 而 坐 、仰 天 而 嘘 、荅 焉
似 喪 其 耦 。 顏 成 子 游 立 侍 乎 前 曰 。何
居 乎。形 固 可 使 如 槁 木 、而 心 固 可 使 如
死 灰 乎 。今 之 隱 几 者 、 非 昔 之 隱 几 者
也 。
子 綦 曰 。偃 不 亦 善 乎 、而 問 之 也。今 者
吾 喪 我 。汝 知 之 乎 。女 聞 人 籟 而 未 聞
地 籟 、女 聞 地 籟 而 未 聞 天 籟 夫 。

南郭子綦(ナンカクシキ)、几(キ・つく
え)に隠(よ)りて坐(ザ)し、天を仰いで
嘘(いき)し、荅焉(トウエン)として其の
耦(からだ)を喪(わす)るるに似たり。(別
読み: 其の偶(つま)の喪にあるに似る。)顔
成子游(ガンセイシユウ)、立ちて前に侍し
て曰わく。何居(なん)ぞや、形 (からだ)
は固(もと)より槁木(コウボク)のごとく
ならしむべく、心は固より死灰(シカイ)の
ごとくならしむべきか。今の几(つくえ)に
隠(よ)る者 は、昔(さき)の几に隠(よ)
る者に非(あら)ざるなりわと。
子綦曰わく、偃(エン)や、亦(ま)た善か
らずや、而(なんじ)のこれを問ふ。今者(い
まは)、吾れ我れを喪(うしなへ)り、汝(なん
じ)これを 知れるか。汝人籟(ジンライ)を聞
き、未(いま)だ地籟(チライ)を聞かず。汝地
籟を聞き、未だ天籟(テンライ)をきかざる
と。

注:
南郭子綦(ナンカクシキ):城郭(まち)の南 
 はずれに住んでいた子綦。楚の昭王の庶
 弟、哲人。
嘘(いき)し:ほっと息を吐き、
荅焉•荅然(トウエン):萬事萬物皆忘れ、その
 容姿茫然自失したるが如き貌(すがた)
耦•偶(ぐう•つま•つれあいからだ•われ):対耦 
 (タイグウ)、例えば、男女善悪邪正方円等
 の如く、全て相対するものあるをいふ。
顔成子游(ガンセイシユウ):南郭子綦の弟子。
 名は偃(えん)
何 居 乎(何ぞや)居:與に通して助語なり。
形: 形貌、からだ
槁 木(こうぼく):枯れた木
而 問 之: 而 (汝)が之を問ふ
吾 喪 我: 我に対する耦を喪ふのみならず、我
 が身まで之を忘れたりと、
籟(らい):風なり
人籟(ジンライ): 人間が奏でる楽器より発する声音
地籟(チライ): 大地の営みが風として発する音
天籟(テンライ): 天の発する音、物論を指す
(´・(ェ)・`)つ

849鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/11(水) 23:52:45 ID:JPTL/99Y0

 南郭子?ナンカクシキという者が机によりかかって座して天を仰いで息を吐いたのじゃ。
 肉体をも忘れたかのようであったというのじゃ。
 顔成子游が前に立って言ったのじゃ。
 体が枯れ木になり、心は灰になったようじゃ。
 いつもどおりではないのじゃ。
 
 子?は答えたのじゃ。
 よい質問なのじゃ。
 わしは今我を忘れる忘我にあったのじゃ。
 
 おぬしはそれを知れるじゃろう。
 おぬしは今人の笛は知っているが、地の笛を知らない、地の笛をしっていても天の笛はしらんのじゃ。


 忘我であるとはサマーディに達していたということじゃな。
 自我の働きを無くし、無為に座っていたのじゃ。

850避難民のマジレスさん:2023/01/11(水) 23:59:30 ID:zC.HohMw0
荘子12.
荘子:斉物論第二(2)
子 游 曰 敢 問 其 方 。 子 綦 曰 夫 大 塊 噫
氣 、其 名 為 風 。 是 惟 無 作 。 作 則 萬 竅
怒 呺 。 而 獨 不 聞 之 翏 翏 乎。 山 林 之 畏
佳 、 大 木 百 圍 之 竅 穴 似 鼻 似 口 似 耳
似 枅 似 圈 似 臼 似 洼 者 似 汚 者 。 激 者
謞 者 叱 者 吸 者 叫 者 譹 者 宎 者 咬 者。
前 者 唱 于 而 隨 者 唱 喁 。泠 風 則 小 和 、
飄 風 則 大 和 。 厲 風 濟 則 衆 竅 為 虛 。 而
獨 不 見 之 調 調 之 刀 刀 乎。

子游(シユウ)曰わく、敢えて其の方を問う
と。子綦曰わく夫(そ)れ、大塊(タイカイ)の
噫気(アイキ・おくび)、其の名を風と為(な)
す。是れ惟(ただ)作(おこ)る無し。作れば則
ち萬 竅 怒 呺(バンキョウドゴウ)す。而(なん
じ)は独り之の翏翏(リュウリュウ)たるを聞か
ざるか。山林の畏隹(いし•ワイサイ)なる、大
木百囲の竅穴(キョウケツ)は、鼻に似、口に
似、耳に似、枅(ますがた)に似、圈(さかず
き)に似、臼に似、洼(ふかきくぼみ)に似るも
の、汚(オ・ひろきくぼみ)に似るものあり。
激(げき•しぶき)する者(おと)、謞(コウ•さけ
ぶ)する者(おと)、叱(しっ)する者(おと)、吸
う者(おと)、呌(きょう•さけぶ)する者(お
と)、譹(ごう•なきさけぶ)する者(おと)、宎
(ヨウ•くぐもる)する者(おと)、咬(コウ•か
む)する者(おと)。前(さき)なる者は于(ウ・
ふうっ)と唱え、而して隨(したがう・あとな
る)者は喁(ギョウ・ごうっ)と唱ふ。泠風(レ
イフウ)なればは則ち小和し、飄風(ヒョウフ
ウ)なれば則ち大和す。厲風(レイフウ)済
(や)めば則ち衆竅(シュウキョウ)も虚と為
(な)る。而(すなわ)ち独り之(こ)の調調(チョ
ウチョウ)と之の刀刀(チョウチョウ)たるを見
ざるかと。

(´・(ェ)・`)つ

851避難民のマジレスさん:2023/01/12(木) 00:00:11 ID:zC.HohMw0
注:
方:類と同じ、方物(ほうぶつ): 識別すると。
 雑り合ったものを正しく分けること。
 三籟(三らい、人籟•地籟•天籟)の種類や如
 何、強いて告げ給ふべしと。
大 塊(たいかい):地球、大地
噫 氣:(アイキ•おくび):天地間に風吹くは、人
 の惓(う)みてアクビするが如く、地球上に
 生じる一種の気なりといふなり。
萬 竅 怒 呺(バンキョウドゴウ): 竅 (キョウ):
 穴。一朝風起これば、幾万の大地の穴を吹   
 きて、種々の音響を出して怒 呺(ドゴウ)す
 るものなり。
翏翏乎:風の長く吹く貌
畏隹(いし):嵔崔(いさい)と同じ:山岳の或は
 突出し、或は窪入(陥没)して自然竅穴とな
 りたる処、即ち小風にては音響を発せざれ
 ども、大風に逢えば大音を発する所なり。
 別読:(ワイサイ)畏(ざわ)めき隹(ゆ)れる
百圍之竅穴(百かかえのきょうけつ): 百圍、
 (囲)(い•かかえ):百拱(かかえ)の如し。: 拱
 は両手の指を以て円を作る貌。畏隹よりは
 小なりと雖も、他の竅穴あるものに比して
 は大なる竅穴あるものなり。
枅(ますがた):柱の上に置き棟を支える角材。
圈 (さかずき):木をまげて作りたる杯
洼 (ア・ふかきくぼみ):窪、洿(くぼみ)
汚(オ・ひろきくぼみ)
激(しぶき):水の石に当たる時の勢いなり、転
 じて其の時に発する音を形容したるなり
吸者(吸う音):気を吸い込む時の音
宎者(くぐもれる音•ヨウ): 風が洞穴になどに
 吹き通って発する音。音のこもったさま。
 音が、かすかに響くさま。
咬者(かむ音):俗にいふ金切声の誠に哀れにし
 て、身に染み渡るが如き音をいふ
唱 于(于(う)を唱 (とな)え):声の前後相和す
 音なり
唱 喁(喁ギョウ・ごうっ)と唱え
泠 風 :小さくして軽き風
則小和:風小なれば、此に和して鳴る音も亦小
 なり
飄 風 (ヒョウフウ):大風
則 大 和:風大なれば、此に和して鳴る音も亦
 大なり
厲 風:(レイフウ):飄風よりは一層大なる猛風
濟(やめば)則 衆 竅 為 虛 :猛風千万の竅穴を
 ふきて後やむをいふ
而 獨 不 見 、別読み、而(なんじ)獨(ひと
 り)〜を見ざるか
之調 調 之刀刀:風静まりて後猶樹上の枝葉微
 かに動揺する貌
*人の見る処異なるによりて、是非善悪成敗
 得失を相差するが如く、風一吹して衆竅の
 音を発すること各異なるをいふ。
*衆竅が受くる所に随いて各音を発し、又止
 む。夫れ物論の聚多なる、甲是乙非、停止
 することなきは、恰も萬 竅 怒 呺するが如
 し、然れど、飄風は朝を終えず(老子23章•
 つむじ風が朝の間じゅう吹きつづけること
 はない。不自然な出来事は長くは続かな
 い)、遂に静虚に帰す、汝ら今の調 調 刀刀
 たるを見ずや、其の形既に異なれるにあら
 ずや、夫れ声異にして、形同じからずと雖 
 も、主鳴者は即ち風、被鳴者は即ち穴、其
 の帰するを要すれば、風の物を吹くのみと
*所見に就きてその実を説くなり。
(´・(ェ)・`)つ

852鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/12(木) 23:14:25 ID:htgEM7JI0
子 游はあえてそのことわりを聞いたのじゃ。

シキは答えたのじゃ。
大地が吐き出す息を風というのじゃ。
さまざまな形の穴にふきつけるとさまざまな音が出るのじゃ。
おぬしはそれをみたことがないのかと聞いたのじゃ。

853避難民のマジレスさん:2023/01/12(木) 23:47:37 ID:.WEBYE5o0
荘子13.
荘子:斉物論第二(3)
子 游 曰。 地 籟 則 衆 竅 是 已 。 人 籟 則 比
竹 是 已。 敢 問 天 籟。

子 綦 曰。 夫 吹 萬 不 同。 而 使 其 自 己 也、
咸 其 自 取 。 怒 者 其 誰 邪 。

子游曰わく。地籟(チライ)は則ち衆竅(シュ
ウキョウ)これのみ。人籟(ジンライ)は則ち
比竹これのみ。敢えて天籟(テンライ)を問う
と。

子綦(シキ)曰わく。夫(そ)れ吹く万(よろず)
同じからず。而(しか)も其の己(おのれ)自
(よ)り使(つかわ)せしむ。咸(み)な其れ自か
ら取る。怒らす者は、其れ誰ぞやと。

注:
萬 不 同:不同萬種とのこと、即ち萬音萬別な 
 ることなり。 
咸: みな・ことごとく,かん
怒 者:怒號せしむる者は何ぞや即ち風なり號:
 号の旧字体。ごう、さけぶ、よびな
比 竹 : (しょう・ふえ)
*地籟、人籟による音は、萬 不 同にして、而
 も各々其の己より発するを以て自ら我が専
 有となせり。怒(おと)たてしむる者は風
 であり、背後において響きとならしめる格  
 別の何者かが存在するわけではない。(それ
 は、天籟に於いても同じである)

荘子:斉物論第二(4)
大 知 閑 閑、小 知 閒 閒。大 言 炎 炎、小
言 詹 詹。其 寐 也 魂 交、其 覺 也 形 開。
與 接 爲 搆、 日 以 心 鬪。 縵 者 窖 者 密 者。
小 恐 惴 惴、大 恐 縵 縵。 其 發 若 機 栝、其
司 是 非 之 謂 也、其 留 如 詛 盟、其 守 勝 之
謂 也、其 殺 若 秋 冬、以 言 其 日 消 也、其
溺 之 所 爲 之、不 可 使 復 之 也、其 厭 也 如
緘、以 言 其 老 洫 也、

大知は閑閑(カンカン)たり、小知は間間
(カンカン)たり。大言は炎炎(タンタン=
淡淡)たり、小言は 詹詹(センセン)たり。 
其の寝(い)ぬるや魂(ゆめ)交わり、其の覚
(さ)むるや形(からだ)開く、与(とも)に
接して構(コウ)を為し、日心を以て闘ふ。
縵(マン)なる者、窖(コウ)なる者、密な
る者。小恐は惴惴(ズイズイ) 大恐は縵縵
(マンマン)。其の発する機 栝(キカツ)の
若(ごと)しとは 其の是非を司(つかさ)ど
るものの謂いなり。其の留まる詛盟(ソメ
イ)の如しとは、其の勝ちを守るの謂いな
り。其の殺(サイ)する秋冬の若しとは、以
て其の日に消するを言うなり。其の溺るる
の之(ゆ)くを爲 (な)す所は、これを復
(かえ)らしむべからざるなり。其の厭(あ
っ)せらるること緘(カン)の如しとは、
以て其の老洫(ロウキョク)するや 死に近
き心は、復(ま)た陽(よみが)えらしむる
莫(な)きを言ふなり。
(´・(ェ)・`)つ

854避難民のマジレスさん:2023/01/12(木) 23:48:17 ID:.WEBYE5o0
注:
閑閑:寛裕にして静正、其の量大にして能く物
 論を容る、而も未だ一切の物論を同視する
 こと能わざるなり。寛裕: 心が広くてゆっ  
 たりしていること。また、そのさま。
 斉物論(せいぶつろん):諸子の様々な論を帰
  一させるという意,物を一源に基づかせ
  るという意などと解する説がある。人間
  の認識は虚妄,相対的であるから,否定
  的思弁によって,無の境地にたって絶対
  的,一元的認識があることを説く。
間間:其の量狭小にして、万物を間別し、善悪
 正邪の外に出づること能わざるなり
 炎々(淡々(たんたん)):淡々:あっさりと淡白
 である様
詹詹(センセン): 齷齪(あくせく)然として唯
 多く詞(ことば)を費やすの貌
魂 交:((寝てる時は)夢に交り:精神物と交わり
 て夢中に相争ふなり。別読み、夢に交(う
 なさ)れ
形 開: (目覚めてる時は) (体開く):肉体が外界 
 に開かれ身体の感覚がはたらいて心が乱さ
 れ、落ち着きがなくなる。形骸(体)相開き
 是非を争ひて相闘ふ。別読み、体おちつき
 なく
與 接 爲 搆:ともに接して搆を為し:大小相交際
 して互に争ふなり。別読み、與(かたみ)に
 接(う)ちあたりて、搆(わずら)ひを 爲(ひ)
 きおこし、
日 以 心 鬪: 日心を以て闘ふ。別読み、日 ご
 とに心を以 (くだ)きて鬪(せめ)ぎたたかふ
縵 (まん•せめ•おおまかなる):寛(ゆるやか)
 に過ぎて却って決断を失えるが如き貌
窖 (コウなる•暗く険しき•):地を穿たる穴にし
 て、隱險測るべからざる貌。窖:穴
密 (密なる •こまかき ):緻密にして僅少の差
 も能く比較する貌
惴惴(ずいずい):物に恐怖し易く心寧(やす)か
 らざる貌
縵縵(まんまん):恐るることありと雖も他より
 見分けのつかざるが如き貌
機栝:機: 弩の弦を掛くる牙、括は箭(やは
 ず)の弦に触るる所。石弓の引き金。僅少の
 物にして非常の働きを成す物
其 司 是 非 之 謂 也:別読み、(其の是非を司
 (あげつらふ)の謂ひなり。事毎に是非の見
 解を下すを謂ふ。(=知者)
其 留 如 詛 盟:別読み、(其の留(まも)ること
 詛盟(かみにちか)へるが如し。留:固く守り
 て動かざるを謂ふ
其 守 勝 之 謂 也:別読み、其の勝ちを守(お)
 しとほさんとするの謂ひなり
其 殺 若 秋 冬:別読み、其の殺(しぼ)みかかる
 こと秋冬の如し
其 溺 之 所 爲 之:別読み、其の溺(まどひ)の
 之(すす)み為(ゆ)くところ、
不 可 使 復 之 也:別読み、之を復(さと)らし
 むべくもあらず
其 厭 也 如 緘:別読み、其の厭(おほ)はれたる
 こと緘(とざ)されたるが如し。厭: 壓(圧)
 搾と同じ、緘:封緘と同じ。
以 言 其 老 洫 也:別読み、以て其の老洫(ろう
 きょく)せるを謂ふ。老洫:衰弱なり
其 日 消 也:別読み、其の日に消(おとろ)ふ
 以 言 其 老 洫 也:別読み、以て老 洫せるを
 言ふ。
近 死 之 心、莫 使 復 陽 也:別読み、死に近づ
 ける心は、復(また)陽(よみが)へらしむる
 術莫し。
(´・(ェ)・`)つ

855鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/13(金) 23:42:12 ID:KvLKz.gQ0
子游が言ったのじゃ。
 地籟はいろいろな穴であり、人籟は竹である。
 天籟とはなにか

 シキは答えたのじゃ。
 さまざまな笛が鳴るのは同じではなく、自らの本性に従うのじゃ。
 その背後には誰がいるというのじゃ?


 全ては無我にして自然に起こるというのじゃな。

856鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/13(金) 23:59:44 ID:KvLKz.gQ0
  大いなる知恵は広々として隙間があるようじゃ。
 小さな知恵はこまごまとして隙間がないようじゃ。
 大いなる言葉は簡単であるものじゃ。
 小さな言葉は煩雑なものじゃ。

 そのような小さな知恵と言葉に囚われていれば、寝る時には魂が全てと交わっているが、起きれば他人とあれこれ争うものじゃ。
 さまざまに心が囚われるのじゃ。
 小事を恐れればびくびくするものであるが、自然に畏敬の念を持つものは落ち着いていられるのじゃ。

 石弓の如く発するというのは他人の是非をあげつらうことなのじゃ。
 留まることが神の誓いのようだというのは、勝利の権利を守ることなのじゃ。
 しおれていくこと秋冬の如くであるというのは、そのようにして時間を失うことなのじゃ。
 日々の雑事におぼれれて戻ることがない時間を失うのじゃ。
 そのようにして老いて死に近づけば戻ることはできないのじゃ。

857避難民のマジレスさん:2023/01/14(土) 00:03:06 ID:ZD6iVm.o0
荘子14.
荘子:斉物論第二(5)
喜 怒 哀 樂 慮 嘆 變 慹 姚 佚 啟 態 。 樂 出 虛
蒸 成 菌 。 日 夜 相 代 乎 前 而 莫 知 其 所
萌 。 已 乎 已 乎 。旦 暮 得 此 其 所 由 以 生
乎 。 非 彼 無 我 。 非 我 無 所 取 。 是 亦 近
矣 。 而 不 知 其 所 為 使 。 若 有 真 宰 而 特
不 得 其 眹 。 可 行 已 信 而 不 見 其 形 。 有
情 而 無 形 。 百 骸 九 竅 六 藏 賅 而 存
焉 。 吾 誰 與 為 親。 汝 皆 說 之 乎、 其 有
私 焉。 如 是 皆 有 為 臣 妾 乎。 其 臣 妾 不
足 以 相 治 乎。 其 遞 相 為 君 臣 乎。 其 有
真 君 存 焉。 如 求 得 其 情 與 不 得、 無 益
損 乎 其 真。

喜怒哀楽(キドアイラク)慮嘆変慹(リョタ
ンヘンシュウ)姚佚啓態(ヨウイツケイタ
イ)あ り。楽(ガク)は虚(キョ)より出
(い)で、蒸(ジョウ)して菌を成す。日夜
前に相代わりて、其の萌(きざ)す所を知る
莫(な)し。已(や)めん已(や)めん、旦暮
(たんぼ)に此の、其の由(よ)りて以て生
ずる所を得ん。彼に非ざれば我なし、我に非
ざれば取る所なし。是れ亦近し。而(しか)
も其の使 (せし)むるを為す所を知らず。真
宰(シンサイ)有るが若(ごと)くして、而
(しか)も特 に 其の朕(あと)を得ず。行な
う可(べ)きはわ已(すで)に 信(まこと)
なれども、而(しか)も其の形を見ず。情
(まこと)は有れども形無なればなり。百骸
(ガイ)九竅(キョウ)六藏 賅(かにょ)ヰ
て存す。吾れ誰と与(とも)にか親(しん)
を為さんや。汝(なんじ)皆これを説(よろ
こ)ばんか、其れ私すること有るか、是
(か)くの如 (ごと)くんば、皆臣妾(シン
ショウ)と為すことあるか。其臣妾は以て相
治むるに足らざるか。其れ遞(たが)いに君
臣と相為るか。其れ真君(シンクン)の 存す
る有るか。其の情を求め得ると得ざるとの
如きは、其の真に益損(エキソン)なし。

注:
慮嘆変慹(リョタンヘンシュウ):慮(りょ):思量
 なり。變(へん):志の定まらざるな り、移
 り気。慹(しゅう):固く執りて動かざるな
 り、執念深い。
姚佚啓態(ヨウイツケイタイ): 煩わしいことと
 安らかなこと、姚(しなつ)くるかとみれば
 佚(きまま)にふるまい、啓(あけすけ)なる
ものあり、態(もったい)ぶるものあり
萌(きざ)す:何かが起ころうとする動きが感じ 
 られる。また、心が動く。草木の芽がわず
 かに出る。芽ぐむ。芽ばえる。
已(すで)に:そうでないと疑う余地がないほど
 の状態である意。
百骸(ガイ):多くの骨
九竅(キョウ): 口・両眼・両耳・両鼻孔・ 
 尿道口・肛門 の総称
六藏 :古より心肺肝脾腎の五臓をいへども六
 藏 の出処明らかならず。
賅:兼なり(かにょ)い。別読み、賅(そなわ)
 りて。賅:足りる。備わる。完備している。
 包括する。含む。普通でない。不思議
為 親: 百 骸 九 竅 六 藏の内何れに最も親し
 むべきか、
説:愛するなり
私:偏頗(へんぱ)の私 :片寄って不公平な私
真君:身体上の真宰なり
真宰:宇宙の主宰者造化の神。造物主。
(´・(ェ)・`)つ

858鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/14(土) 23:08:13 ID:GX8SFBx60
 喜怒哀楽とか慮嘆変執とか姚佚啓態等の感情は、虚しいものであり朝に生まれて夕べにはなくなるきのこのようなものじゃ。
 囚われてはいかんのじゃ。
 そのような感情を自分だと思ったり、それ以外に自分はないと思うのが妄想なのじゃ。
 感情がどこから起こるのかしらんのじゃ。

 その主体があると思っているだけで、実際にはとらえられないのじゃ。
 感情はたしかにあると認識できるのに、主体はないのじゃ。
 
 肉体は確かにあると認識できるがのう。
 情がどようなものか認識できないのじゃ。
 それなのにそれを喜びとして、自分があるとしているのじゃ。

 それがどのように自分のものとか自分とか思うのか、観てみるのじゃ。
 そのようにして本当の感情の生起、縁起を見れば喜怒哀楽等が起きても、実は何も存したり利益を得たりしていないとわかるのじゃ。



 つまり感情についてよく注意して観察すれば、何も利益も損失もない観念遊戯とわかるというのじゃな。
 感情を満足させるために生きるのは時間の無駄ということじゃな。

859避難民のマジレスさん:2023/01/15(日) 04:14:25 ID:hB6eOluY0
荘子15.
荘子:斉物論第二(6)
一 受 其 成 形 不 亡 以 待 盡 。 與 物 相 刃 相 靡
其 行 盡 如 馳 而 莫 之 能 止 。 不 亦 悲 乎 。 終 身
役 役 而 不 見 其 成 功 。 薾 然 疲 役 而 不 知 其 所
歸 。 可 不 哀 邪 。人 謂 之 不 死 奚 益 。其 形 化
其 心 與 之 然 。 可 不 謂 大 哀 乎 。 人 之 生 也 固
若 是 芒 乎 。 其 我 獨 芒 。 而 人 亦 有 不 芒 者 乎


一たび其の成形(セイケイ)を受けてより、亡(ほ
ろ)ばずして以て尽くるを待つ。物と相い刃(せつ)
し相い靡(ま)し、其の行き尽くること馳(は)する
が如(ごと)くして、これを能(よ)く止(とど)
むるなし。亦(また)悲しからずや。終身役役(エ
キエキ)として其の成功を見ず。薾(苶)然(デツゼン)
とぞ疲役(ヒエキ)して、其の帰(キ)するところ
を知らず。哀(かな)しまざるべけんや。人は之を
死なずと謂うも 奚(なん)の益あらん。其の形(か
たち)化すれは 其の心も之と然り。大哀(タイアイ
)と謂わざる べけんや。人の生くるや 固 (もと)
より(か)くの若(ごと)く芒(ぼう) たり。其れ我
れ独(ひと)り芒(ぼう)か。人 亦(また)芒(ぼ
う)ならざる者あらんや。

注:
一 受 其 成 形 不 亡 以 待 盡 。別読み、一たび其の
 成形(セイケイ)を受くれば、亡(ほろぼ)さず
 して以て尽くるを待つ。
與 物 相 刃 相 靡 、別読み、①物と相い刃(さから)い
 相い靡(そこな)い、② 相い靡(なび)き、
 刃:切ること。靡:磨(す)ること。
薾(苶)然(でつぜん):疲労する貌
化:死して土化するをいふ。
若 是 芒 乎 、別読み、是(か)くの若(ごと)く芒
 (くら) きか
其 我 獨 芒 。 而 人 亦 有 不 芒 者 乎、別読み、其れ
 我れ独(ひと)り芒(くら)くして、人も亦(ま
 た)芒(くら)からざる者あるか。芒:取り留めな
 き形容なり。(芒然=形 固 可 使 如 槁 木 、而 心 固
  可 使 如 死 灰 乎 。 荘子11 斉物論第二(1))

荘子:斉物論第二(7)
夫 隨 其 成 心 而 師 之 誰 獨 且 無 師 乎 。 奚 必 知
代 而 心 自 取 者 有 之 。 愚 者 與 有 焉 。 未 成 乎
心 而 有 是 非 是 今 日 適 越 而 昔 至 也 。 是 以 無
有 為 有 。 無 有 為 有 、 雖 有 神 禹 且 不 能 知。
吾 獨 且 奈 何 哉 。

夫(そ)れ其の成心(セイシン)に随(したが)ひ
て之を師とせば、誰か独り且 師 無 から ん と す る
や。 奚(なん)ぞ必ずしも代(か)わるを知りて、
而(しか)して心に自ら取る者のみ之あらん。愚者も
与(とも)に有り。未(いま)だ心に成さずして是
非有るは 是れ今日越に適(ゆ)きて昔 至るなり。
是(こ)れ 有る無しを以て有ると為さば。有る無きを
有と為さば、神禹(シンウ)有りと 雖(いえど)も
、且(まさ)に知ること能(あた)わざらんとす。
吾れ独り且(は)た奈何(いかん)せんとするや。

注:
*この節は、11.の『而 心 固 可 使 如 死 灰 乎 』に対するなり。
知 代:15の『日 夜 相 代 乎 前』を受けたるなり。
成心:是非利害善悪等に就き一定の識見あるをいふ。
成心なくして是非有るは、今日出発して昨日到着す
 ると同じく必無の事なり。
是 以 無 有 為 有:別読み、 是れ無有(ムユウ)を以
 て有と為(な)すなり。
無 有 為 有:別読み、無有を有と為さば、
(´・(ェ)・`)つ


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