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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば

246鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/04(金) 23:42:54 ID:1d4drIFg0
もはや人類は地球をも破壊できる兵器をもってしまったからのう。
知性に拠ってそれを使えば全て破壊されるのじゃ。
知性は戦争を正当化してそれを使うようにするじゃろう。
それは今までになかった危機なのじゃ。

247避難民のマジレスさん:2020/09/05(土) 23:59:48 ID:nenS2e0o0
最初と最後の自由 第二部質疑応答

一 現在の危機について 2

 また、先例のない危機を表示する他の原因もあります。それらの一つが、感覚的価値に、財産に、名前に、カ-ストと国に、あなたが身につけている特定のレッテルに、人が与えているとてつもない重要性です。あなたはイスラム教徒かヒンドウ-教徒、キリスト教徒か共産主義者です。名前と財産、カ-ストと国が、支配的に・優勢的に重要になってしまったのです-それは、人が、感覚的価値 [に捕らわれ] 、精神により、手により作られたものごとの価値に捕らわれている、という意味です。私たちはそれらのために殺し、破壊し、屠殺し、粛清しあっているほどに、手により、精神により作られたものごとがあまりに重要になってしまったのです。私たちは崖っぷちに近づいているのです。あらゆる行動が、私たちをそこへ導いているのです。あらゆる政治的 [行動]、あらゆる経済的行動が必然的に私たちを崖に連れていき、この混沌とした混乱させる深淵に引きずり込んでいるのです。ゆえに、危機が先例がないので、それは先例のない行動を要求するのです。その危機から離れ、踏み出すには、時間のない行動、観念、体系に基づかない行動が、必要です。なぜなら、体系に、観念に基づいたどんな行動も、必然的に挫折につながるであろうからです。そういう行動は、たんに違った道によって私たちを深淵に連れ戻すだけです。危機が先例がないので、また先例のない行動がなければなりません-それは、個人の革新は、時間の過程 [をとおして]ではなく、 瞬時でなければならない、という意味です。それは明日ではなく、今起きなければなりません。というのは、明日は崩壊の過程であるからです。私は明日、自分自身を変容させようと考えるなら、混乱を招きます。私はやはり破壊の領域の中にいるのです。 今変えることは可能でしょうか。 即時に、今、自分自身を完全に変容させることは、可能でしょうか。それは [可能]であると、私は言います。
 要点は、危機が例外的な性格のものなので、それに出会う・対処するには、考えることに革命がなければならない、ということです。そしてこの革命は、他の人をとおしても、どんな書物をとおしても、どんな組織をとおしても起こりえません。それは、私たちをとおし、私たち各自をとおして来なければなりません。そのときだけ、私たちは、この恐怖から離れた [社会、構造] 、蓄積され、積み上げられつつあるこれらのとてつもなく破壊的な力から離れた新しい社会、新しい構造を、造り出せるのです。そしてその変容は、個人としてのあなたが、あらゆる思考、行動、感情において自分自身に気づきはじめるときだけ、生じるのです。
(´・(ェ)・`)つ

248避難民のマジレスさん:2020/09/06(日) 00:07:48 ID:nenS2e0o0
くまめも2-1-2
先例のない危機を表示する他の原因
感覚的価値が、支配的に・優勢的に重要になってしまった。手により、精神により作られたものごとがあまりに重要になってしまった。あらゆる政治的、経済的行動が必然的に私たちを崖に連れていき、この混沌とした深淵に引きずり込んでいる。危機が先例がないので、それは先例のない行動を要求する。その危機から離れ、踏み出すには、時間のない行動、観念、体系に基づかない行動が、必要。なぜなら、体系に、観念に基づいたどんな行動も、必然的に挫折につながるであろうから。そういう行動は、たんに違った道によって私たちを深淵に連れ戻すだけ。個人の革新は、時間の過程ではなく、 瞬時でなければならない。それは明日ではなく、今起きなければならない。私は明日、自分自身を変容させようと考えるなら、混乱を招く。破壊の領域の中にいる。今変えること、即時に、今、自分自身を完全に変容させることは、可能である。
要点は、危機が例外的な性格のものなので、それに出会う・対処するには、考えることに革命がなければならない、ということ。そしてこの革命は、他の人、書物、組織をとおしても起こりえない。それは、私たち各自をとおして来なければならない。そのときだけ、私たちは、この恐怖から離れた社会、構造、蓄積され、積み上げられつつあるこれらの破壊的な力から離れた新しい社会構造を、造り出せる。そしてその変容は、個人としてのあなたが、あらゆる思考、行動、感情において自分自身に気づきはじめるときだけ、生じる。
(´・(ェ)・`)

249鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/06(日) 22:40:18 ID:1d4drIFg0
今は前例のない危機的な状況にある。
そうであるから前例の無い行動をしなければならぬというのじゃ。
それは書物とか他人とか組織では出来ないのじゃ。
自らに気付くことでのみ起こるというのじゃ。

250避難民のマジレスさん:2020/09/07(月) 21:02:48 ID:RoJ3t8Ms0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二 国家[・民族]主義について1

質問
 国家 [・民族]主義が去るとき、 [次に]来るのは何でしょうか。

  明白に智恵です。しかし、残念ながら、それが質問に含まれている意味ではないように、私は思います。含まれている意味は、何が国家 [・民族]主義の代用でありうるのか、です。どんな代用も、智恵をもたらさない行為です。私が一つの宗教を去って、もう一つに加わるなら、または一つの政党を去って、後に何か他のものに加わるなら、この常なる代用は、 [そこに]智恵のない状態を表示しています。
 国家 [・民族]主義はどのようにして去るのでしょうか。その充分な含意を、私たちが理解することにより、それを検討することにより、外側と内側の行動 [・作用]におけるその意義に気づくことによってだけ [去るの]です 。外側で、それは人々の間の分割、分類、戦争、破壊をもたらします-それは、誰でもよく観察している人にとって明白です。内側で、心理的に、もっと偉大なものとの、国との、観念とのこの同一化は、明白に一つの形の自己拡大です。小さな村や大きな町や何であろうと [そこに] 住んでいると、私は誰でもないのです。しかし私が自分自身をもっと大きなものと、国と、同一化するなら、自分自身をヒンドウ-教徒と呼ぶなら、それは私の虚栄心をくすぐるのです。それは私に満足・喜び、威信、幸福感を与えてくれるのです。そしてもっと大きなものとのその同一化-それは、自己拡大が本質的 [・不可欠]であると感じる人たちにとって心理的な必要物・必需品です-はまた、人々の間に抗争、闘争をも造り出すのです。こうして国家 [・民族]主義は、外側の抗争 [を造り出す]だけではなくて、内側の挫折をも造り出すのです。国家 [・民族]主義を、国家 [・民族]主義の過程全体を理解するとき、それは消えてしまうのです。国家 [・民族]主義の理解は、国家 [・民族]主義、愛国心の過程全体を気をつけて観察することにより、中を探ることにより、智恵をとおして来るのです。その検討から智恵が訪れます。そのとき国家 [・民族]主義のかわりの何か他のものの代用はないのです。あなたが国家 [・民族]主義のかわりに宗教を代用するなら、宗教は自己拡大のもう一つの手段、心理的心配・懸念のもう一つの源、信念をとおして自分自身を養う手段になるのです。ゆえに、どんな形の代用も-どんなに高尚でも-一つの形の無知です。それは、人が喫煙のかわりにチュ-イングガムやビンロウジや何であれ、代用するのと似ています。ところが、喫煙、習慣、感動、心理的要求、その他すべての問題全体を、ほんとうに理解するなら、そのとき喫煙は、いつのまにかなくなるのです。智恵の発達があるとき、智恵が機能しているときだけ、あなたは理解できるのです。そして智恵は、代用があるとき、機能していません。代用は、あなたにこれをしないよう、あれをするように誘惑する、たんに一つの形の自己賄賂です。国家 [・民族]主義とともにその毒、その悲惨と世界の闘争は、智恵があるときだけ、消え去ることができるのです。そして智恵は、たんに試験に通ることと書物を研究することによっては、来ないのです。智恵は、私たちが問題を生じるままに理解するとき、生じるのです。異なった水準で問題の [理解があるとき] -外側の部分だけではなく、その内側の心理的な含意の理解があるとき、そのとき、その過程において、智恵が生じるのです。ですから、智恵があるとき、代用はありません。そして智恵があるとき、そのとき国家 [・民族]主義、愛国心は-それは一つの形の愚かさです-消え去るのです。
(´・(ェ)・`)つ

251避難民のマジレスさん:2020/09/07(月) 21:03:57 ID:RoJ3t8Ms0
くまめも2-2-1
国家主義はどのようにして去るのか。その充分な含意を、理解、検討し、外側と内側の行動におけるその意義に気づくことによってだけ去る。外側で、それは人々の間の分割、分類、戦争、破壊をもたらした。内側で、心理的に、偉大なもの、国、観念との同一化は、一つの形の自己拡大。自分自身を国と、同一化するなら、それは虚栄心をくすぐる。それは満足・喜び、威信、幸福感を与えてくれる。そして大きなものとのその同一化はまた、人々の間に抗争、闘争をも造り出す。こうして国家主義は、外側の抗争だけではなくて、内側の挫折をも造り出す。国家主義の過程全体を理解するとき、それは消えてしまう。その理解は、その過程全体を気をつけて観察することにより、中を探ることにより、智恵をとおして来る。その検討から智恵が訪れる。かわりに宗教を代用するなら、宗教は自己拡大のもう一つの手段、心理的心配・懸念のもう一つの源、信念をとおして自分自身を養う手段になる。ゆえに、どんな形の代用も一つの形の無知。智恵の発達があるとき、智恵が機能しているときだけ、あなたは理解できる。そして智恵は、代用があるとき、機能していない。代用は、あなたにこれをしないよう、あれをするように誘惑する、たんに一つの形の自己賄賂。その毒、その悲惨と世界の闘争は、智恵があるときだけ、消え去ることができる。智恵は、問題を生じるままに理解するとき、生じる。問題の外側の部分だけではなく、内側の心理的な含意の理解があるとき、その過程において、智恵が生じる。だから、智恵があるとき、代用はない。智恵があるとき、そのとき国家主義、愛国心は消え去る。
(´・(ェ)・`)

252避難民のマジレスさん:2020/09/08(火) 20:21:28 ID:1NnBepF.0
最初と最後の自由 第二部質疑応答三 なぜ霊的教師なのか 1

質問
 (導師)たちは不必要であると、あなたは言われます。しかし、(導師)だけが与えられる賢明な助けと導きなしに、どうして私は真理を見つけられるのでしょうか。

 質問は、(導師)は必要であるのか、ないのか、です。真理は、他の一人をとおして見つけられるでしょうか。或る者は、それはできると言い、或る者は、できないと言います。他の一人の意見に対比しての私の意見ではなく、私たちはこれの真理が知りたいのです。私はこの件において意見を持っていません。それはそうであるか、そうでないか、どちらかです。あなたが(導師)を持つべきか、持つべきでないかということが、本質的 [・不可欠]であるかどうかは、意見の問題ではありません。事柄の真理は、意見に依存しません-たとえどんなに奥深くて、学識があり、一般的で・評判がよくて、普遍的でも、です。事柄の真理は、事実において見出されるべきです。
 まず最初に、なぜ私たちは(導師)が欲しいのでしょうか。私たちは導師が必要です。なぜなら私たちは混乱しているし、導師 は助けになるからです、と私たちは言います。彼は真理が何であるかを指摘してくれるだろう。彼は、私たちが理解するのを助けてくれるだろう。彼は私たちよりも生についてはるかに多く知っている。彼は私たちに生を教える父として、教師としての役割を果たすだろう。彼は膨大な経験を持ち、私たちはわずかしか持っていない。彼は、より大きな・偉大な彼の経験をとおして、私たちを助けてくれるだろう、などなどです。すなわち、基本的にあなたは混乱しているから、教師のところへ行くのです。もしも明晰であったなら、あなたは導師 に近づかないでしょう。明白に、もしもあなたがとても深く幸せであったなら、もしも問題がなかったなら、もしもあなたが生を完全に理解したなら、あなたはどんな導師 のところへも行かないでしょう。あなたにこれの意義をわかって欲しいと、私は思います。あなたは混乱しているから、教師を捜し出すのです。あなたは生き方を与えてもらうため、自分自身の混乱を明らかにする・晴らすため、真理を見つけるために、彼のところへ行くのです。あなたは混乱しているし、自分が求めるものを彼が与えてくれるだろうと願うから、自分の導師 を選択するのです。すなわち、あなたは自分の要求を満足させてくれるであろう導師 を、選択するのです。彼があなたに与えてくれるであろう満足・喜びに応じて、あなたは選択するのです。それであなたの選択は、あなたの満足・喜びに依存しているのです。あなたは、「あなた自身に依存しなさい」と言う導師 を選択しません。あなたは自分の先入観に応じて彼を選択するのです。それであなたは、彼が自分に与えてくれる満足・喜びに応じて導師 を選択するから、あなたは真理を [求めているの]ではなくて、混乱からの抜け出し方を求めているのです。そして混乱からの抜け出し方が、誤って真理と呼ばれるのです。
(´・(ェ)・`)つ

253鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/08(火) 22:56:06 ID:1d4drIFg0
本当に国家や民族という観念が無ければ智慧があるのじゃ。
しかし、人はそんなことは聞きたくないじゃろう。
神とか信仰があるとか聞きたいのじゃろう。
それもまた観念による統制に過ぎないのじゃ。
本当の解放は知恵に拠ってのみあるものじゃ。

254避難民のマジレスさん:2020/09/09(水) 20:36:30 ID:qC4HxYB20
最初と最後の自由 第二部質疑応答三 なぜ霊的教師なのか 2

 導師 が私たちの混乱をきれいに片づけられるというこの観念を、初めに検討しましょう。誰かが私たちの混乱をきれいに片づけられるでしょうか-混乱は私たちの応答の産物です。私たちがそれを造り出したのです。他の誰かがそれを-中と外の、存在のすべての水準におけるこの悲惨、この戦いを-造り出したと、あなたは思うのでしょうか。それは、自分たち自身についての知識の欠如の結果です。私たちが導師 のところへ行くのは-私たちがその混乱から自由であるのを、彼が助けてくれるであろうと考えるのです-私たちが自分たち自身を、自分たちの葛藤、応答、悲惨を、理解しないからです。私たちは現在との関係においてだけ、自分たち自身を理解できるのです。そして外側の誰かがではなく、その関係自体が導師 です。私がその関係を理解しないなら、たとえ導師 が何を言うとしても役立ちません。なぜなら、私が関係を-財産との、人々との、観念との私の関係を-理解しないなら、誰が私の中の葛藤を解決できるでしょうか。その葛藤を解決するには、私はそれを自分自身で理解しなければなりません-それは、私が関係において自分自身に気づかなければならない、という意味です。気づくには、どんな導師 も必要ではありません。私が自分自身を知らないなら、導師 が何の役に立つでしょうか。混乱 [状態]にあって、ゆえに彼らの選択もまた混乱している人たちにより、政治的指導者が選択されるのと同じように、私は導師 を選択するのです。私は自分の混乱に応じてだけ、彼を選択できるのです。ゆえに彼も、政治的指導者と同じように、混乱しているのです。
 重要であることは、誰が正しいのか-私が正しいのか、導師 は必要であると言う人た
ちが正しいのかどうか-ではありません。なぜあなたが導師 を必要とするのかを見出すことが、重要です。導師 は、様々な種類の搾取 [・利用]のために存在しています。しかしそれは関係ありません。あなたがどのように進歩しつつあるかを、誰かがあなたに言ってくれるなら、それはあなたに満足を与えてくれるのです。しかし、なぜあなたが導師 を必要とするのかを見出すこと-そこに鍵があるのです。他の人は道・やり方を指摘できます。しかしたとえあなたが導師 を持つとしても、あなたが作業すべてをやらなければなりません。 あなたはそれと向き合いたくないから、導師 に責任をなすりつけるのです。ごくわずかの自己認識があるとき、導師 は役に立たなくなるのです。どんな導師 も、どんな書物や聖典も、あなたに自己認識を与えられません。あなたが関係において自分自身に気づくとき、それは来るのです。ある [・生きる]ことは関係することです。関係を理解しないことは、悲惨、闘争です。財産とのあなたの関係に気づかないことが、混乱の原因の一つです。あなたが、財産との自分の正しい関係を知らないなら、必ず葛藤があります-それが社会に抗争を増大させるのです。あなたが自分自身と自分の妻との間の、自分自身と自分の子供との間の関係を理解しないなら、その関係から生じている葛藤を、どうして他の一人が解決できるでしょうか。観念、信念などについても同様です。人々との、財産との、観念とのあなたの関係において混乱しているので、あなたは導師 を求めるのです。彼はほんとうの導師であるなら、あなたに自分自身を理解するようにと言うでしょう。あなたがすべての誤解と混乱の源です。そして関係において自分自身を理解するときだけ、あなたはその葛藤を解決できるのです。
(´・(ェ)・`)つ

255鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/09(水) 22:38:01 ID:1d4drIFg0
導師は必要とする者にのみ現われるというのじゃ。
必要としないものには現われないのじゃ。
ただ自らを理解するだけで善いのじゃ。
導師はそのためにのみ現われるのじゃ。

256避難民のマジレスさん:2020/09/10(木) 20:28:25 ID:tQxP6Xgs0
最初と最後の自由 第二部質疑応答三 なぜ霊的教師なのか 4

 あなたは他の誰をとおしても真理を見つけられません。どうしてできるでしょうか。真
理は何か静止したものではありません。それは固定した住所を持ちません。それは目的、目標ではありません。反対に、それは生きて、動的で、鋭敏で、生き生きしているのです。どうしてそれが目的でありうるでしょうか。真理が固定点であるなら、それはもはや真理ではありません。そのとき、それはたんなる意見です。真理は知られないものです。真理を求めている精神は、決してそれを見つけないでしょう。というのは、精神は知られたものから作り上げられているからです。それは過去の結果、時間から出てきたものです-あなたはそれを自分自身で観察できます。精神は知られたものの道具です。ゆえに、それは知られないものを見つけられません。それは知られたものから知られたものへ動けるだけです。精神が真理を-書物で読んだことがある真理を-求めるとき、その「真理」は自己投影されています。というのは、そのとき精神は、たんに知られたもの-以前のものよりもっと満足できる知られたもの-を、追求しているからです。精神が真理を求めるとき、それは真理 [を求めるの] ではなく、それ自身の自己投影を求めているのです。結局、観念は自己投影されています。それは虚構で非真実です。真実であるものは、対極のものではなく、あるがままです。しかし真実を求め、神を求めている精神は、知られたものを求めているのです。あなたが神について考えるとき、あなたの神は、あなた自身の思考の投影、社会的影響の結果です。あなたは知られたものについてだけ、考えられるのです。あなたは知られないものについて考えられません。あなたは真理に集中できません。あなたが知られないものについて考えた瞬間、それはたんに自己投影された知られたものです。神や真理については考えられません。あなたがそれについて考えるなら、それは真理ではありません。真理は求められません。それはあなたに来るのです。あなたは知られているものを追いかけられるだけです。精神が知られたものにより、知られたものの影響により、拷問にかけられないとき、そのときだけ、真理が正体を現せるのです。真理はあらゆる木の葉に、あらゆる涙にあるのです。それは瞬間瞬間知られるべきものです。誰一人あなたを真理へ導けません。誰かがあなたを導くなら、それは知られたものへ [導かれる] だけです。
 真理は、知られたものが空っぽである精神に、到来しうるだけです。それは、知られたものが不在であり、機能していない状態に来るのです。精神は知られたものの倉庫、知られたものの残り滓です。精神が、[そこに] 知られないものが生じる状態にあるには、それはそれ自体に [気づく] 、意識的と共に無意識的なそれの以前の経験に、それの応答、反応、構造に、気づかなければなりません。完全な自己認識があるとき、そのとき知られたものの終わりがあります。そのとき精神は完全に、知られたものが空っぽです。真理が招かれずにあなたのところへ来るのは、そのときだけです。真理は、あなたにも私にも属していません。あなたはそれを崇拝できません。それは知られた瞬間、真実ではないのです。象徴は真実ではありません。イメ-ジは真実ではありません。しかし自己の理解が、自己の停止があるとき、そのとき永遠性が生じるのです。
(´・(ェ)・`)つ

257鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/10(木) 21:52:58 ID:1d4drIFg0
真理と呼べるものは自分を知ることでしかたどり着けないというのじゃ。
自らを知り、自らが無であると気付いた時真理は在るのじゃ。
本で読んだ知識とか、過去の記憶からは生まれないのじゃ。
自らを追及する事でのみそれはやってくるのじゃ。

258避難民のマジレスさん:2020/09/11(金) 21:39:28 ID:sfCtiVOE0
最初と最後の自由 第二部質疑応答四 知識について 1

質問
 私はあなたから、学び・学問と知識は妨害であるということを、明確に推測します。それらは何に対して妨害なのでしょうか。 

 明白に、知識と学びは、新しいもの、時間のないもの、永遠のものの理解にとって妨害です。完璧な技術を発達させることは、あなたを創造的にしません。あなたはどのようにすばらしく絵を描くかを知っているかもしれません。あなたは技術を持っているかもしれません。しかし、あなたは創造的画家ではないかもしれません。あなたは、技術的にもっとも完璧な詩を、どのようにして書くかを知っているかもしれません。しかし、あなたは詩人ではないかもしれません。詩人であるとは、新しいものを受け入れる能力がある、何か新しい新鮮なものに応答するに充分敏感である、という意味を含むのではないでしょうか。私たちのほとんどにとって、知識や学びは中毒・耽溺になってしまいました。私たちは、知ることをとおして創造的であるだろうと、考えるのです。事実を、知識を詰め込んで身を固めた精神-それは、何か新しい、突然の・不意の、自発的なものを受け入れる能力があるでしょうか。あなたの精神が知られたもので詰め込まれているなら、そこには、知られないもののものである何かを受け入れる空間が、何かあるでしょうか。確かに知識はいつも知られたものについてです。そして知られたものをもって、私たちは知られないものを、何か尺度を超えたものを、理解しようとしているのです。
 私たちのほとんどに起こるごく普通のものごとを、例に取りましょう。宗教的な人たちは-さしあたり・当座は、その言葉が何を意味するとしても-神が何であるかを想像しようとしたり、神が何であるかについて考えようとしたりします。彼らは無数の書物を読んできました。彼らは様々な聖者たち、大師たち、マハトマ(偉大な魂)たちとその他すべての経験について読んできました。そして他の一人の経験が何であるかを想像しようとしたり、感じようとしたりするのです。すなわち、知られたものをもって、知られないものに接近しようとするのです。あなたはそれができるでしょうか。あなたは、何か知ることのできないものについて考えられるでしょうか。あなたは、何か自分が知っているものについて考えられるだけです。しかし現在の世界には、このとてつもない倒錯・歪曲が起きているのです。私たちはもっと多くの情報、もっと多くの書物、もっと多くの事実、もっと多くの印刷物を持つなら、理解するだろうと思うのです。
 知られたものの投影ではない何かに気づくには、理解をとおして、知られたものの過程の排除・除去がなければなりません。精神がいつも知られたものにすがりつくのは、なぜでしょうか。それは、精神が常に確実性、安全を求めているから、ではないでしょうか。まさにその本性こそが、知られたものに、時間に固定されているのです。そういう精神が-まさにその基盤・土台そのものが、過去に、時間に基づいているのですが-どうして時間のないものを経験できるでしょうか。それは知られないものを考えつき・構想し、定式化し、思い描く・描き出すかもしれません。しかしそれはすべて不合理です。知られたものが理解され、解消され、脇に置かれるときだけ、知られないものが生じうるのです。それは極めて難しいのです。なぜなら、あなたが何かについての経験をした瞬間、精神はそれを知られたものの用語に翻訳して、それを過去に還元するからです。あらゆる経験が即時に知られたものに翻訳され、名前をつけられ、一覧表にされ、記録されるということに、あなたが気づいたことがあるかどうか、私は知りません。それで知られたものの動きが知識です。明白にそういう知識、学習は障害です。
(´・(ェ)・`)つ

259鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/11(金) 23:17:14 ID:1d4drIFg0
知識と学習とは共に記憶に基づいた理解の方法なのじゃ。
記憶に拠って知識を蓄え、記憶されたことを公式とか概念として分別するのじゃ。
それらは記憶に依存している故に、新しいものこどを受け入れられないのじゃ。
過去を今ここにあてはめて解釈しているだけなのじゃ。
どんな先入観念も無い心にのみ、新しいものごとが受け入れられるのじゃ。

260避難民のマジレスさん:2020/09/12(土) 19:02:33 ID:Guh03MSU0
最初と最後の自由 第二部質疑応答四 知識について 2

 仮にあなたが、宗教的または心理学的な書物を、今まで一度も読んだことがなかった。そして生の意味、意義を見つけなければならなかった、とします。あなたはどのようにそれに取りかかるのでしょうか。仮に大師たちも、宗教的組織も、ブッダも、キリストもいなかった。そしてあなたは初めから始めなければならなかった、とします。あなたはどのようにそれに取りかかるのでしょうか。初めに、あなたは自分の考える過程を理解しなければならない、のではないでしょうか-自分自身を、自分の思考を未来に投影して、あなたを喜ばせる神を造り出すのではありません-それはあまりに子供じみている・幼稚すぎるでしょう。それで初めに、あなたは自分の考える過程を理解しなければならないでしょう。それが、何か新しいものを発見する唯一の道なのではないでしょうか。
 私たちは、学習や知識は妨害、障害であると言うとき、技術的な知識-車をどう運転するのか、機械類をどう動かすのか-や、そういう知識がもたらす能率・効率は含んでいません。私たちは全く違ったことを精神に持っています・考えています-どれほどの量の知識や学習ももたらさないであろう [ところの]あの創造的幸せの感覚 [のことです] 。その言葉のもっとも真実の意味において創造的であるとは、瞬間瞬間過去から自由であることです。なぜなら、継続的に現在に影を落としているのは、過去であるからです。情報に、他の人たちの経験に、たとえどんなに偉大でも誰かが言ったことに、たんにすがりついて、自分の行動をそれに近づけようとすること-そのすべては知識なのではないでしょうか。しかし、何でも新しいものを発見するには、あなたは自分自身から始めなければなりません。あなたは、特に知識を完全に剥ぎ取られた旅に、とりかからなければなりません。なぜなら、知識と信念をとおして経験をすることは、とてもたやすいからです。しかしそれらの経験は、たんに自己投影の産物です。ゆえに全く真実ではなく、偽りです。あなたが何が新しいものなのかを自分自身で発見しようとするなら、古いものの重荷を、特に知識-たとえどんなに偉大でも他の一人の知識-を運んでいてはダメなのです。あなたは知識を、自己投影の、安全の手段として使います。そしてあなたは、ブッダやキリストやXと同じ経験をすることを、全く確信したいのです。しかし、知識をとおして常に自分自身を保護している人は、明白に真理を求める者ではありません。
 真理の発見のための道はありません。あなたは海図なき海に入ってゆかなければなりません-それは憂鬱ではありません。それは冒険好きであることではありません。あなたが何か新しいものを見つけたいとき、何でも実験しているとき、あなたの精神はとても静かでなければならない、のではないでしょうか。あなたの精神が、事実、知識で詰め込まれ、充満しているなら、それらは新しいものへの妨害として作用するのです。困難は、私たちのほとんどにとって、精神があまりに重要に、あまりに支配的に・優勢的に意義深くなってしまったこと、それが、何でも新しいかもしれないものに、何でも知られたものとともに同時に存在しているかもしれないものに、常に邪魔をしている・妨害しているということ、です。こうして知識と学習は、求めようとする人たち、時間のないものを理解してみようとする人たちにとって妨害です。
(´・(ェ)・`)つ

261鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/12(土) 23:10:45 ID:1d4drIFg0
もしも何の知識も無しに生の意味、意義を見つけなければならないとしたら、先ずは自分の思考過程を理解するところから始めるというのじゃ。
自分がどのようにしてものごとを知るのか、わからなければ全てが謬見になるからなのじゃ。
それは科学者が正確な顕微鏡を求めてちいさいものを見るのと同じなのじゃ。
観察する道具が狂っていては全てが狂うからなのじゃ。
自分の心の働きを知って全ては理解できるようになるのじゃ。

262避難民のマジレスさん:2020/09/13(日) 16:16:00 ID:8a63LH/E0
最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 1

質問
すべての宗教は、人の残忍性・獣性の本能を調節する・適度にするために、何らかの種類の自己修練を、主張してきました。自己修練をとおして、聖者たちと神秘主義者・論者たちは、神性・神格に到達したと断言・主張してきました。今あなたは、そういう修練は、神の実現・悟りにとって障害であることを示唆しているように見えます。私は混乱しています。この事柄において正しいのは誰でしょうか。

 それは、この事柄において誰が正しいのか、という問題ではありません。重要であることは、私たち自身で事柄の真理を見出すことです-特定の聖者や、インドからやどこか他の所-異国的であればあるほどいいのです-から来た人物に応じて [見出すの] ではありません。
 あなたはこれら二つの間に捕らわれて・挟まれています。ある人は修練を唱えます。他の一人は無修練を唱えます。一般的に起きることは、より便利である・都合のいいもの、より満足させるものを、あなたは選択するということです。あなたは、 [その] 人、彼の容貌、彼の私的な性向、彼の私的な偏愛、その他すべてが好きなのです。そのすべてを脇に置いて、直接的にこの疑問を検討して、私たち自身で事柄の真理を見出しましょう。この疑問には、たいへん多くの意味が含まれています。私たちは用心・注意深くためらいがちに、それに接近しなければなりません。
 私たちのほとんどは、何をすべきかを私たちに教えてくれる誰か権威者が、欲しいのです。私たちは行いの指示を期待します。なぜなら、私たちの本能は、安心すること、もはや苦しまないことであるからです。誰かが幸せ、至福-何であれ-を実現したと言われています。すると私たちは、そこに到り着くために何をすべきかを、彼が私たちに教えてくれるだろうと、願うのです。それが、私たちの欲しいものです。私たちはその同じ幸せ、その同じ内側の静けさ、喜びが欲しいのです。そしてこの狂った混乱の世界で、私たちは、誰かに何をすべきかを自分たちに教えてもらいたいのです。それが、私たちのほとんどにとって、ほんとうに基本的本能です。その本能に応じて、私たちは自分たちの行動を様式化するのです。神、その最高の、名づけられない、言葉で測るべきでないもの-それは、修練をとおし、特定の行動の様式に付いていくことをとおして、偶然手に入るのでしょうか。私たちは特定の目標、特定の目的に到り着きたいのです。そして私たちは、実践により、修練により、抑圧することや解放すること、昇華することや代用することにより、自分たちが求めているものを見つけることができるだろうと、思うのです。
(´・(ェ)・`)つ

263鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/13(日) 22:44:37 ID:1d4drIFg0
人が権威に縋ろうとするのは親から条件付けされているからなのじゃ。
子供の頃に親からやるべきことやしてはいけないことを教わってきた故に、大人になってからもそのような対象を探して縋ろうとするのじゃ。
それは宗教によって最も顕著に現われるものじゃ。
神という親の代理を作り出して安心感をもたらすのじゃ。
それでは子供の頃と何も変らないのじゃ。
自ら観察して己を見出すことのみが正しい道なのじゃ。

264避難民のマジレスさん:2020/09/14(月) 19:13:57 ID:3QLePqvQ0
最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 2

 修練に含まれている意味は何でしょうか。私たちは修練するとしても、なぜ自分たち自身を修練するのでしょうか。修練と智恵は共存できるのでしょうか。ほとんどの人たちは、何らかの種類の修練をとおして、私たちのなかの獣性・残忍性、醜いものを、服従させたり制御したりしなければならないと、感じています。その獣性、その醜いものは、修練をとおして、制御できるでしょうか。私たちのいう修練とは、どういう意味でしょうか。報賞を約束してくれる [ところの] 行動の進路・道筋。もしも追求したなら、私たちに欲しいもの-それは肯定的であったり否定的であったりするかもしれない-を与えてくれるであろう [ところの] 行動の進路。もしも精出して・勤勉に、丹念に、とてもとても熱烈に実践したなら、最後に私たちに欲しいものを与えてくれるであろう [ところの]行いの様式 [という意味]です。それは苦痛であるかもしれません。しかし私はそれ [欲しいもの] を得るために、進んでそれ [修練] を経てゆこうとするのです。自己は攻撃的で、利己的で、偽善的で、心配で、恐れています-あなたはそのすべてを知っています-その自己が、私たちのなかの獣性の原因です- [その自己を]私たちは変容させ、服従させ、破壊したいのです。これはどのようにしてなされるのでしょうか。それは、修練をとおして [なされるのか]、それとも自己の過去-自己とは何か、それはどのようにして生じるのか、など-についての智恵ある理解 をとおして、なされるのでしょうか。私たちは人の獣性を、強制をとおして [破壊するのでしょうか] 、それとも智恵をとおして破壊するのでしょうか。智恵は修練の事柄でしょうか。聖者たちとその他すべての人たちが言ったことは、当分は忘れましょう。まるで私たちが初めてこの問題を見つめるかのように、自分たち自身で事柄に入りましょう。そのとき私たちは、その終わりに、他の人たちが言ったことのただの引用ではなく-それはすべてあまりに空虚で役にたちません-何か創造的なものを、得るかもしれません。
 私たちには葛藤-白に対する黒、無欲に対する貪欲など-があると、私たちは初めに言います。私は貪欲です-それは苦痛を造り出します。その貪欲を取り除くには、私は自分自身を修練しなければなりません。すなわち私は、自分に苦痛を与えるどんな形の葛藤にも抵抗しなければならないのです-この場合は、それを貪欲と呼びます。そのとき私は、それは反社会的である、それは非倫理的・不道徳である、それは聖人らしくない、などなどと言います-私たちはそれに抵抗するために、様々な社会的、宗教的理由を与えます。貪欲は、強制をとおして破壊されたり、私たちから片づけられるでしょうか。初めに、抑圧、強制、それを片づけること、抵抗することに関与している過程を、検討しましょう。あなたがそうするとき、あなたが貪欲に抵抗するとき、何が起きるでしょうか。貪欲に抵抗しているものは何でしょうか。それが最初の疑問なのではないでしょうか。なぜあなたは貪欲に抵抗するのでしょうか。そして「私は貪欲から自由でなければならない」と言う実体は誰でしょうか。「私は自由でなければならない」と言う実体もまた、貪欲なのではないでしょうか。今までは、貪欲が彼に報いてきました。しかし、今やそれは苦痛です。ゆえに彼は「私はそれを取り除かなければならない」と言うのです。それを取り除こうとする動機も、やはり貪欲の過程です。なぜなら、彼は、何か自分ではないものでありたいと思っているからです。無欲は今や利益になるのです。それで私は無欲を追求しているのです。しかし、動機、意図は、やはり何ものかであること、無欲であることです-確かに、それもやはり貪欲です。それもまた、否定的な形の「私」の強調です。
(´・(ェ)・`)つ

265鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/14(月) 22:00:09 ID:1d4drIFg0
変容とは修練によってなされるのか、それとも知恵に拠って理解することできるのかというのじゃ。
そして修練は貪欲の表れでしかないというのじゃ。
無欲を目指していてもそれを望む貪欲になるのじゃ。
すると結局は変容は知恵による理解しかないということになるのじゃ。

266避難民のマジレスさん:2020/09/15(火) 19:25:47 ID:Hg2uwcrw0
最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 3

 私たちは、明白である様々な理由のために、貪欲であることが苦痛であることを、見つけます。私たちがそれを楽しむかぎり、貪欲であることが、私たちに報いてくれるかぎり、問題はないのです。社会は私たちを貪欲であるよう、違った仕方で励まします。宗教もまた、違った仕方で私たちを励まします。それが利益になるかぎり、それが苦痛でないかぎり、私たちはそれを追求するのです。しかしそれが苦痛になった瞬間、私たちはそれに抵抗したいのです。その抵抗が、貪欲に反して・対抗して修練と呼ばれます。しかし私たちは、抵抗をとおし、昇華をとおし、抑圧をとおして、貪欲から自由であるでしょうか。貪欲から自由でありたいと思う「私」の方のどんな行動も、やはり貪欲です。ゆえに、貪欲に関する私の方のどんな行動、どんな応答も、明白に解決ではないのです。
 まず初めに、何かを [理解するには] 、特に、何か私の知らないもの、何か私の精神が推し量れないもの-すなわち、この質問者が言う神-を理解するには、静かな精神、動揺のない精神が、なければなりません。何かを、何か錯綜した問題-生や関係の [問題]、要するに何かの問題-を理解するには、精神にとって一定の静かな深みがなければなりません。その静かな深みは、何かの形の強制をとおして偶然手に入るでしょうか。表面的な精神は、それ自体を強制し、それ自体を静かにさせるかもしれません。しかし、確かにそういう静けさは、腐敗の、死の静けさです。それは適応・順応性、柔軟性、敏感性・感受性の能力がありません。ですから抵抗は [正しい]道ではありません。
 そこで、それがわかるには、智恵を必要とするのではないでしょうか。精神は強制により鈍らされるということがわかることが、すでに智恵の始まりなのではないでしょうか-修練は、たんに恐れをとおした行動の様式への順応であることが、わかることが、です。それが、私たち自身を修練することに示唆されていることです。 私たちは欲しいものを得ないことを恐れています。あなたが精神を修練するとき、あなたが自分の存在を修練するとき、何が起きるでしょうか。それはとても堅く [なる] -柔軟でなく、すばやくなく、適応・調節できなくなるのではないでしょうか。あなたは、自分たち自身を修練してきた人たちを、知らないでしょうか-そういう人たちがいるとして、です。結果は明白に腐敗の過程です。片づけられ、隠された内側の葛藤があるのです。しかし、それはあるし、燃えているのです。
 こうして私たちは、修練、すなわち抵抗は、たんに習慣を造り出すだけであり、習慣は明白に智恵を産み出す力がありえないことが、わかるのです。習慣は決して [智恵を産み出す力がありえ]ない、実践は決して[智恵を産み出す力がありえ]ないのです。あなたは一日中ピアノを練習すること、自分の手で何かを作ることにより、指先がとても器用になるかもしれません。しかし、手に命令するには、智恵が要求されます。私たちは今、その智恵を探究しているのです。
(´・(ェ)・`)つ

267鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/15(火) 23:42:46 ID:1d4drIFg0
貪欲は最初は快楽であるがいずれは苦をもたらすものじゃ。
それを何かの修練によって除こうとすれば、それがまた貪欲を生み出すのじゃ。
その循環は止まる事が無いのじゃ。
ただありのままに見ることに拠ってのみ、それは止められるのじゃ。

268避難民のマジレスさん:2020/09/16(水) 19:05:25 ID:5SfEipAk0
最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 4

 あなたは、幸せである、または悟っていると考える誰かを、見ます。彼は一定のことをします。あなたはその幸せが欲しいので、彼を模倣します。この模倣が修練と呼ばれるのではないでしょうか。私たちは、他の一人が持つものを受け取るために、模倣します。私たちは幸せであるためにまねをします-彼がそう [幸せ] であると、あなたは思うのです。幸せは、修練をとおして見つかるでしょうか。一定の規則を実践することにより、一定の修練を、行いの様式を実践することにより、あなたはいったい自由でしょうか。確かに、発見のための自由がなければならない、のではないでしょうか。あなたは何かを発見しようと思うなら、内側で自由でなければなりません-それは明白です。あなたは、修練と呼ぶ特定のやり方で、自分の精神を形造ることにより、自由でしょうか。明白に、あなたは [自由では]ありません。あなたは、一定の結論に応じ、一定の行いの様式に応じて抵抗している、たんに反復的な機械であるだけです。自由は修練をとおして来ることができません。自由は、智恵をもって生じうるだけです。内側でも外側でも、どんな形の強制も、自由を否定するということがわかった瞬間、その智恵が目覚める、またはあなたはその智恵を持つのです。
 修練としてではなく、最初に必要なものは、明白に自由です。美徳だけが、その自由を与えてくれるのです。貪欲は混乱です。怒りは混乱です。苦さ・辛さは混乱です。あなたはそれがわかるとき、明白にそれらから自由です。あなたはそれらに抵抗しません。あなたは、自由においてだけ発見できること、どんな形の強制も自由ではなく、ゆえに発見はないことが、わかるのです。美徳のもたらすことは、あなたに自由を与えることです。美徳のない・不徳な人は、混乱した人です。混乱の中で、あなたはどうして何かを発見できるでしょうか。どうしてできるでしょうか。こうして美徳は、修練の最終産物・成果ではありません。美徳が自由です。美徳のない、それ自体において真実でないどんな行動をとおしても、自由は来ることができません。私たちの困難は、私たちのほとんどがあまりに多く読んできたこと、私たちのほとんどがあまりに多くの修練に表面的に付いていったこと、です-毎朝一定の時間に起きて、一定の姿勢で座り、自分たちの精神を一定の仕方に抑えようとすること-知っているでしょう、実践、実践、修練を。なぜなら、あなたは、何年間かこれらのことをするなら、その終わりに・最後に神を得るだろうと、言われてきたからです。私はそれを露骨に・ぞんざいに述べるかもしれません。しかし、それが、私たちの考えの基本です。確かに、神はそれほどたやすく来るとはかぎらないでしょう。神はたんなる市場で取り引きできるものではありません-私がこれをすると、あなたがそれを私にくれる [といったものではありません]。
(´・(ェ)・`)つ

269鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/16(水) 21:30:02 ID:1d4drIFg0
修練や規則、様式を繰り返すことはむしろ観察には不向きなのじゃ。
自らの心を観察して、新たな事実を発見することが大事なのじゃ。
修練等を繰り返すとそのような肝心な観察と発見による気づきを取り逃がしてしまうのじゃ。
観察し、発見することは記憶に拠らないものであるからのう。
記憶による修練はその妨げになるばかりなのじゃ。

270避難民のマジレスさん:2020/09/17(木) 19:02:16 ID:7OJSsgOo0
最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 5

 私たちのほとんどは、外部の影響により、宗教的な教義、信念により、何かに至り着きたい、何かを獲得したいという自分たち自身の内側の要求により、あまりに条件づけられているために、修練という見地に立って考えることなく、私たちがこの問題について新たに考えることは、とても難しいのです。初めに私たちは、修練が含んでいる意味が[とても明確に見えなければなりません] -それが、私たちの願望をとおし、影響とその他すべてをとおして、どんなに精神を狭めてしまい・限定し、精神を制限し、精神を特定の行動に強制するか [が見えなければなりません]-条件づけられた精神は、その条件づけがたとえどんなに「美徳がある」としても、とうてい自由でありえないし、ゆえに真実を理解できないということが、とても明確に見えなければなりません 。神、真実、何であれ-名前は大事ではありません-は、自由があるときだけ、生じうるのです。そして恐れをとおして、肯定的でも否定的でも強制があるところ、自由はありません。あなたが目的を求めているなら、自由はありません。というのは、あなたはその目的に縛られて・つながれているからです。あなたは過去から自由であるかもしれません。しかし未来があなたを拘束します・離しません。それは自由ではありません。何かを-新しい観念、新しい感情・気持ち、新しい知覚-を発見できるのは、自由においてだけです。政治的であれ宗教的であれ、強制に基づいたどんな形の修練も、その自由を否定します。そして修練、すなわち目的を視野に入れた行動への順応が、縛りつけているから、精神は決して自由でありえないのです。それは、蓄音機(レコ-ド)のように、その [修練の] 溝の中でだけ機能できるのです。
 こうして実践をとおし、習慣をとおし、様式の育成をとおして、精神は、それが視野に持つものを達成するだけです。ゆえに、それは自由ではないのです。ゆえに、それは測ることのできないものを悟れないのです。その過程全体に気づくこと-なぜあなたが世論に、一定の聖者たちに合わせて、常に自分自身を修練して・律しているのか-聖者のであれ隣人のであれ意見に順応するというやっかいなこと全体-それはすべて同じ事です- [に気づくこと]。 実践をとおし、甘受し、否定し、主張し、抑圧し、昇華するという微妙なやり方-すべてが様式への順応という意味を含んでいます-をとおした、この順応全体に気づくこと。これがすでに自由の始まりです。そこから美徳があるのです。美徳は確かに、特定の観念の育成ではありません。例えば、無欲は、もしも目的として追求されたなら、もはや美徳ではない、のではないでしょうか。すなわち、自分が無欲であることを意識しているなら、あなたは美徳があるでしょうか。それが、私たちが修練をとおしてやっていることです。
(´・(ェ)・`)つ

271鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/17(木) 21:33:32 ID:1d4drIFg0
なぜ修練がいかんのかというと、それが視野を狭めるからだというのじゃ。
修練はその目的のものしか見えなくなるから、自由な視野を失い、記憶の中だけで生きることに成るのじゃ。
修練によって達成できるのは、予め記憶された境地のみだというのじゃ。
無欲であることさえ意識して行うならばもはや美徳でもないのじゃ。
そのような修練とその結果全体に気付くことが自由の始まりなのじゃ。

272避難民のマジレスさん:2020/09/18(金) 19:04:09 ID:vvZ4Fpoo0
最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 6

 修練、順応、実践は、何ものかであるという自意識に、強調を与えるだけです。精神は無欲を実践します。ゆえにそれは、無欲であるというそれ自身の意識から、自由ではないのです。ゆえにそれは、ほんとうは無欲ではないのです。それはたんに無欲と呼ぶ新しいマントを採用した・選び取っただけです。私たちはこのすべての総合過程がわかります-動機づけ、目的への願望、様式への順応、様式を追求するなかで安全でありたいという願望-このすべては、いつも精神自身の自己閉鎖的な過程の制限の中で、たんに知られたものから知られたものへ動くことです。このすべてがわかること、それに気づくことが、智恵の始まりです。そして智恵は、美徳があるのではなく、また美徳がないのでもありません。それは、美徳や不徳として様式にはめ込むことはできません。智恵は自由をもたらします-それは放蕩ではなく、無秩序ではありません。この智恵なしには、美徳はありえません。美徳は自由を与えてくれます。そして自由において、真実が生じるのです。あなたは過程全体を、完全な形で・まるごと総合的にわかるなら、そのとき葛藤がないことを見つけるでしょう。私たちが様々な形の修練、否定、適応に頼る・訴えるのは、私たちが葛藤 [の状態]にあるから、その葛藤から逃避したいから、です。何が葛藤の過程であるかがわかるとき、修練の問題はないのです。なぜなら、そのとき私たちは、葛藤の仕方を瞬間瞬間理解するからです。それは、大いなる鋭敏さ、いつのときも自分自身を見守る・見つめることを、必要とします。それが好奇心をそそる・不思議な部分は、いったん意図があれば、あなたがいつのときも見守っているわけではないとしても、記録する過程が内側で続いているということです-敏感さ、内的な敏感さが、いつのときも写真を撮り、そのためあなたが静かになった瞬間、内的なものがその写真を投影するでしょう。  
 ゆえに、それは修練の問題ではありません。敏感さは、強制をとおしては、決して生じえません。あなたは子どもに何かをするように強制し、隅に追い込むかもしれません。そして子どもは静かになるかもしれません。しかし内側で、子どもはたぶん波立ち・沸き立ち、窓の外を見、逃げようと何かをしているのです。それは、私たちもやはりしていることです。それで修練 [の問題] と、誰が正しく、誰が間違っているのかという問題は、あなた自身によってだけ、解決されうるのです。
 またあなたは、私たちは成功したいから、間違う・うまくいかないことを恐れていることも、わかります。恐れが、修練されたいという願望の底にあります。しかし、知られないものは、修練の網に捕らえられません。反対に、知られないものは、あなたの精神の様式 [を持つの]ではなく、自由を持つ・有するにちがいありません。そういうわけで、精神の平静さが本質的 [・不可欠]です。精神が平静であることを意識するとき、それはもはや平静ではありません。精神が無欲で [あること] 、貪欲から自由であることを意識するとき、それは無欲という新しいロ-ブ(礼服)を身につけたそれ自身を認識します。しかし、それは平静さではありません。そういうわけで、制御する人と制御されるものというこの疑問においても、また問題を理解しなければならないのです。それらは分離した現象ではなくて、共通の現象です。制御するものと制御されるものは一つです。
(´・(ェ)・`)つ

273鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/18(金) 21:51:03 ID:1d4drIFg0
修練は結局自我を強化するだけというのじゃ。
実際に自分が座禅をしているからと増上慢になる者も多いのじゃ。
それは逃避でしかないのじゃ。
ぶざまな自己イメージからの逃避であるから、それで自己を理解することはありえないのじゃ。

274避難民のマジレスさん:2020/09/19(土) 17:21:12 ID:WIUog5qw0
最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 7

質問
 私は、自分がとても孤独である・寂しいということを、実感し[悟り]はじめています。どうすべきなのでしょうか。

 質問者は、なぜ自分が孤独・寂しさを感じるのかを知りたいのです。孤独とはどういう意味なのかを、あなたは知っているでしょうか。そしてそれに気づいているでしょうか。それはとても疑わしいと、私は思います。なぜなら、私たちは諸々の活動、書物、関係、観念で自分たち自身を窒息させてきたからです―それらはほんとうは、私たちが孤独・寂しさに気づくのを妨げるのです。私たちのいう孤独とはどういう意味でしょうか。それは、空っぽである、何も持っていない、どこにも[固定した]停泊地がなく、とてつもなく不確実である、という感覚です。それは失望ではなく、また絶望でもなくて、空虚の感覚、空っぽの感覚、挫折の感覚です。私たちは皆、それを感じたことがあると、私は確信します―幸せな人も不幸せな人も、とてもとても活動的な人も、知識に耽っている人たちも、です。彼らは皆、これを知っています。それは、ほんとうの尽きることのない苦痛 [の感覚] 、私たちはそれを覆い隠そうとするけれども、覆い隠すことのできない苦痛の感覚です。
何が現実に起きているのかを見るため、あなたが孤独を感じるときどうするのかを見るために、もう一度この問題に接近しましょう。あなたは自分の孤独の感情・気持ちから逃避しようとします。あなたは書物と親しもう・近づこうとします。誰か指導者についてゆきます。または映画を見に行ったり、社交的に・社会的にとてもとても活動的になったり、[教会や寺院へ]行って礼拝して祈ったり、絵を描いたり、孤独について詩を書いたりします。それが現実に起きていることです。孤独、その苦痛、そのとてつもなく測り知れない・底無しの恐怖に気づくと、あなたは逃避を求めます。その逃避のほうがもっと重要になって、ゆえにあなたの活動、知識、神々、ラジオすべてが、重要になるのではないでしょうか。あなたが二義的な価値に重要性を与えるとき、それらはあなたを悲惨と混沌に導きます。二義的な価値は、必然的に感覚的な価値です。これらに基づいた現代文明は、あなたにこの逃避を与えます―あなたの仕事、家族、名前、研究をとおし、絵を描くこと等をとおした逃避を、です。私たちの文化すべてが、その逃避に基づいています。私たちの文明はその基礎の上に建てられています。それは事実です。
あなたは今まで一人であろうとしたことがあるでしょうか。あなたはそうしようとするとき、それがどんなにとてつもなく難しいか、一人であるにはどんなにとてつもない智恵がなければならないかを、感じるでしょう。なぜなら、精神は(どうしても)私たちを一人にさせないからです。精神は落ち着かなくなります。それは逃避するのに忙しいのです。それで私たちは何をしているのでしょうか。私たちはこのとてつもない空虚を、知られたもので充たそうとしているのです。私たちは、どのように活動的であるか、どのように社交的であるかを発見します。私たちは、どのように研究するか、どのようにラジオをつけるかを、知っています。私たちは、自分たちの知らないものを、知っているもので充たしているのです。私たちは、その空っぽ [の空しさ] を、様々な種類の知識、関係やものごとで充たそうとします。そうではないでしょうか。それが私たちの過程です。それが私たちの存在です。そこであなたは、自分が何をしているかを悟るとき、それでもその空虚を充たせると思うでしょうか。あなたは、この孤独の空虚を充たすあらゆる手段を、試してきました。あなたはそれを充たすことに成功したでしょうか。あなたは映画を試してみましたが、成功しませんでした。ゆえに自分のや書物を追いかけたり、社会的に・社交的にとても活動的になったりします。あなたはそれを充たすことに成功したでしょうか。それともたんにそれを覆い隠しただけでしょうか。たんに覆い隠しただけなら、それはやはりあります。ゆえに戻ってくるでしょう。あなたはすっかり[全く]逃避することができるなら、アシュラム [保護施設・避難所] に閉じ込められるか、とてもとても鈍感になるか、です。それが世界で起きていることです。
この空っぽ [の空しさ] 、この空虚は、充たすことができるでしょうか。できないなら、私たちはそれから逃げ出し、それから逃避できるでしょうか。一つの逃避が無価値であることを経験し、わかったなら、ゆえに、他のすべての逃避が無価値ではないでしょうか。空っぽ [の空しさ] を、これで充たすかあれで充たすかどうかは、大事なことではありません。いわゆる瞑想もまた逃避です。あなたが逃避の仕方を変えることは、あまり大事なことではありません。
(´・(ェ)・`)つ

275鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/19(土) 21:40:37 ID:1d4drIFg0
孤独からの逃避として、文明が起こったというのじゃ。
全ての芸術とか宗教までも逃避だというのじゃ。
それらは全て無価値であるのじゃ。
何も変容をもたらさず、老病死の苦からも逃れられないからなのじゃ。

276避難民のマジレスさん:2020/09/20(日) 11:46:12 ID:Y9d16ak.0
最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 8

 ではあなたは、この孤独についてどうすべきかを、どのようにして見つけるのでしょう
か。あなたは逃避するのを止めてしまったとき、どうすべきかを見つけられるだけです。そうではないでしょうか。あなたが進んであるがままと向き合おうとするとき―それは、あなたがラジオをつけてはならないという意味です。それは、あなたが文明に背を向けなければならないという意味です―そのとき、その孤独は終わります。なぜなら、それは完全に変容しているからです。それはもはや孤独ではありません。あなたがあるがままを理解するなら、そのとき、あるがままが真実[のもの]です。精神は、あるがままを見ることを連続的に避け、逃避し、拒んでいるから、それ自身の障害を造り出すのです。私たちは、見ることを妨げているほど、あまりに多くの障害を持っているから、あるがままを理解しないのです。ゆえに真実から逃げているのです。これらすべての障害は、あるがままを見ない[ようにする]ために精神によって造り出されてきたのです。あるがままを見るには、たいへんな(行動の)能力と行動への気づきを必要とするだけでなく、またあなたが築き上げてきたあらゆるものごと―あなたの銀行預金、あなたの名前、文明と呼ばれるあらゆるものごと-に背を向ける、という意味です。あるがままを見るとき、どのように孤独が変容するかが、わかるでしょう。
(´・(ェ)・`)つ

277鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/20(日) 22:54:22 ID:1d4drIFg0
あるがままを見ることができれば、既にもう変容しているというのじゃ。
気付けば変容は直ぐに起きるからのう。
その時には逃避でしかなかった文明はもはや無力なのじゃ。
そのようにして孤独も滅することが出来るのじゃ。

278避難民のマジレスさん:2020/09/21(月) 19:13:35 ID:9PoQw6NM0
最初と最後の自由 第二部質疑応答六 孤独[寂しさ]について 1

質問
 私は、自分がとても孤独である・寂しいということを、実感し[悟り]はじめています。どうすべきなのでしょうか。

 質問者は、なぜ自分が孤独・寂しさを感じるのかを知りたいのです。孤独とはどういう意味なのかを、あなたは知っているでしょうか。そしてそれに気づいているでしょうか。それはとても疑わしいと、私は思います。なぜなら、私たちは諸々の活動、書物、関係、観念で自分たち自身を窒息させてきたからです―それらはほんとうは、私たちが孤独・寂しさに気づくのを妨げるのです。私たちのいう孤独とはどういう意味でしょうか。それは、空っぽである、何も持っていない、どこにも[固定した]停泊地がなく、とてつもなく不確実である、という感覚です。それは失望ではなく、また絶望でもなくて、空虚の感覚、空っぽの感覚、挫折の感覚です。私たちは皆、それを感じたことがあると、私は確信します―幸せな人も不幸せな人も、とてもとても活動的な人も、知識に耽っている人たちも、です。彼らは皆、これを知っています。それは、ほんとうの尽きることのない苦痛 [の感覚] 、私たちはそれを覆い隠そうとするけれども、覆い隠すことのできない苦痛の感覚です。
何が現実に起きているのかを見るため、あなたが孤独を感じるときどうするのかを見るために、もう一度この問題に接近しましょう。あなたは自分の孤独の感情・気持ちから逃避しようとします。あなたは書物と親しもう・近づこうとします。誰か指導者についてゆきます。または映画を見に行ったり、社交的に・社会的にとてもとても活動的になったり、[教会や寺院へ]行って礼拝して祈ったり、絵を描いたり、孤独について詩を書いたりします。それが現実に起きていることです。孤独、その苦痛、そのとてつもなく測り知れない・底無しの恐怖に気づくと、あなたは逃避を求めます。その逃避のほうがもっと重要になって、ゆえにあなたの活動、知識、神々、ラジオすべてが、重要になるのではないでしょうか。あなたが二義的な価値に重要性を与えるとき、それらはあなたを悲惨と混沌に導きます。二義的な価値は、必然的に感覚的な価値です。これらに基づいた現代文明は、あなたにこの逃避を与えます―あなたの仕事、家族、名前、研究をとおし、絵を描くこと等をとおした逃避を、です。私たちの文化すべてが、その逃避に基づいています。私たちの文明はその基礎の上に建てられています。それは事実です。
(´・(ェ)・`)つ

279鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/21(月) 22:48:20 ID:1d4drIFg0
二日前に見た気がするのう。
疲れているのかもしれん。
或いは孤独に囚われがあるのかもしれん。
心を見るのじゃ。

280避難民のマジレスさん:2020/09/22(火) 00:45:49 ID:9v3JJ83c0
>>279
鬼和尚、ご指摘ありがとうであります。
『五 修練について』は >>272まででした。
>>274『六 孤独[寂しさ]について 1』
>>276『六 孤独[寂しさ]について 2』
>>278 ご指摘どおり重複でありました。
(´・(ェ)・`)

281避難民のマジレスさん:2020/09/22(火) 00:55:35 ID:9v3JJ83c0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
七 苦しみについて 1

質問
 苦痛と苦しみの意義は何でしょうか。

 あなたが苦しむとき、苦痛があるとき、その意義は何でしょうか。身体的苦痛には一つの意義がありますが、たぶん私たちのいうのは、心理的苦痛と苦しみという意味です―それは違った水準で、全く違った意義があるのです。苦しみの意義は何でしょうか。なぜあなたは苦しみの意義を見つけたいのでしょうか。それには意義がないということではありません―私たちは見出そうとしているのです。しかし、なぜあなたはそれを見つけたいのでしょうか。、自分がなぜ苦しむのかを、なぜあなたは見つけたいのでしょうか。あなたは「なぜ私は苦しむのか」というその疑問を自分自身に出して、苦しみの原因を探しているとき、苦しみから逃避していないでしょうか。私は苦しみの意義を求めるとき、それを避け、回避し、それから逃げ出していないでしょうか。事実は私が苦しんでいるのです。しかしそれを操作[処置]するために精神を持ち込んで「では、なぜ」と言った瞬間、すでに苦しみの強烈さを薄めてしまったのです。言い換えれば、私たちは苦しみを薄め、軽減し、片づけ、説明してしまいたいのです。確かにそれは、苦しみについての理解をもたらしません。それから逃げ出したいというその願望から自由であるなら、そのとき私は、何が苦しみの内容[中身]であるかを、理解しはじめるのです。
苦しみとは何でしょうか。動揺なのではないでしょうか。違った水準での [動揺] ―身体的水準での、そして潜在意識の違った水準での [動揺]、です 。それは、私が好きでない鋭い形の動揺です。私の息子が死にました。私は彼のまわりに自分の希望のすべてを築いてきました―または自分の娘や夫や何でもあなたの望むもののまわりに。私は彼にそうあって欲しいと思うものすべてとともに彼を祭って・秘蔵してきました。そして彼を連れ合いとしてきました―ご存知でしょう、その種のことすべてを。突然、彼は逝ってしまいました。それで動揺があるのではないでしょうか。その動揺を、私は苦しみと呼ぶのです。
私はその苦しみを好きでないなら、そのとき「なぜ私は苦しんでいるのか」、「私は彼をたいへん愛していた」、「彼はこうだった」、「私はそれを持っていた」と言います。私たちのほとんどがするように、私は言葉に、レッテルに、信念に逃避しようとします。それらは麻酔剤・麻薬として作用するのです。私がそうしないなら、何が起きるでしょうか。私は単に苦しみに気づいています。それを非難しません。正当化しません―私は苦しんでいます。そのとき私はその動きに付いていけるのではないでしょうか。そのときそれが意味するものの内容・中身全体に付いていけるのです―何かを理解しようとする、という意味において「私は付いていく」のです。
(´・(ェ)・`)つ

282鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/22(火) 21:44:18 ID:1d4drIFg0
苦しみは愛する者を失ったりすると起こるというのじゃ。
愛別離苦じゃな。
その苦から信念への逃避も起こると言うのじゃ。
非難も正当化もせずにそれを見守る時、それは消えるというのじゃ。

283避難民のマジレスさん:2020/09/23(水) 20:36:58 ID:wrd1GIiU0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
七 苦しみについて 2

 それはどういう意味でしょうか。苦しんでいるのは何でしょうか。なぜ苦しみがあるのかではなく、何が苦しみの原因なのかではなく、何が現実に起きているのでしょうか。あなたにその違いがわかるかどうか、私は知りません。そのとき私は単に苦しみに気づいています―私から離れたものとして[の苦しみに気づくの]ではなく、苦しみを見張っている観察者として [の私が気づくの] ではなく-それは私の一部です。すなわち私の全体が苦しんでいるのです。そのとき私はその動きに付いていく [ことができ] 、それがどこにつながるのかを、見ることができます。確かに、私がそうするなら、それは [扉を] 開くのではないでしょうか。そのとき私は、「私」を強調していたことがわかります-自分の愛している人物を [強調していたの] ではありません。彼はただ私を、私の悲惨から、孤独から、不幸から覆い隠す・かばう作用をしただけです。私は何ものでもないので、彼にそうあって欲しいと願ったのです。それは消えてしまいました。私は取り残[置き去りに]されます。私は途方に暮れます・路頭に迷います。私は孤独です。彼なしには、私は無です。それで私は泣きます。それは、彼が逝ってしまったということではなく、私が取り残されたということです。私は一人です。その地点に至る[そこまで来る]ことは、とても難しいのではないでしょうか。それを本当に認識して、たんに、「私は一人だ。どのようにして、その孤独を取り除くべきなのか」と言うだけではなく―それももう一つの形の逃避です-それを意識すること、それと共にとどまること、その動きを見ることは、難しいのです。私はこれを一つの実例・一例として取り上げているだけです。徐々に・次第に、それが展開し、[扉を]開くのを許す・それが開くのにまかせるなら、私は、自分が途方に暮れている・路頭に迷っているから苦しんでいるということが、わかるのです。私は、何か進んで見ようとしないものに自分の注意を向けるよう、呼びかけられているのです―何か見ること、理解することに気がすすまないものが、私に押し付けられ・強いられているのです。私が逃避するのを助けてくれる無数の人たちがいます―信念、教義、希望、幻想を持った、何千ものいわゆる宗教的な人たちです。「それはです。それは神の意志です」―ご存知でしょう、すべてが私に抜け出し方を与えてくれるのです。しかし、それを私から片づけるのではなく、制限し・境界線を引いたり否定したりしようとするのではなく、私がそれと共にとどまることができるなら、そのとき何が起きるでしょうか。精神がこうして苦しみの動きに付いてゆきつつあるとき、私の精神の状態は何でしょうか。
(´・(ェ)・`)つ

284鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/23(水) 21:56:08 ID:1d4drIFg0
単に苦しみに気付いていることこそ大事だというのじゃ。
己の全体として苦しんでいると観る時、その心の働きに付いていき、どのように起こるのか見ることができるというのじゃ。
その時、苦からの逃避があったことをも気付くのじゃ。
苦だけではなく、苦からの逃避があったと全体に気付いた時に観察は完全になるのじゃ。

285避難民のマジレスさん:2020/09/24(木) 21:07:05 ID:ur8PhUy20
最初と最後の自由 第二部質疑応答
七 苦しみについて 3

苦しみはたんに言葉でしょうか、それとも現実でしょうか。それが現実であって、ただの言葉でないなら、そのとき言葉は今や意味がありません。それでたんに強烈な苦痛の感情だけがあるのです。何に関して[の苦痛]でしょうか。イメ-ジに、経験に、何かあなたが持っていたり持っていなかったりするものに関して [の苦痛]です 。あなたはそれを持っているなら、楽しみと呼びます。持っていないなら、それは苦痛です。ゆえに苦痛、悲しみは、何かとの関係においてあるのです。その何かは、たんに言語作用・言語表現でしょうか、それとも現実でしょうか。すなわち悲しみが存在しているとき、それは、何かとの関係においてだけ、存在しているのです。それはそれ自体では存在できません-ちょうど恐れがそれ自体では [存在でき]なくて 、何かとの関係においてだけ存在できるように-個人との、出来事との、感情との[関係において]。今やあなたは苦しみに充分に気づいています。その苦しみは、あなたから離れているでしょうか。ゆえにあなたは、たんに苦しみを知覚する観察者でしょうか、それともその苦しみがあなたでしょうか。わわ
苦しんでいる観察者がいないとき、苦しみはあなたと異なっているのでしょうか。あなたが苦しみである、のではないでしょうか。あなたは苦痛から離れていません―あなたが苦痛です。何が起きるでしょうか。レッテル貼りはありません。それに名前を付けること [はありません] 、よって払いのける・はねのけることはありません―あなたはたんにその苦痛、その感情、その苦悶の感覚です。あなたがそれであるとき、何が起きるでしょうか。あなたがそれを名づけないとき、それに関して恐れがないとき、中心はそれと関係しているでしょうか。中心がそれと関係しているなら、そのとき、それ [中心] はそれ[苦しみ]を恐れています。そのとき、それは行動して、それ[苦しみ]について何かをしなければなりません。しかし、中心がそれ[苦しみ]であるなら、そのときあなたはどうするでしょうか。なすべきことは何もないのではないでしょうか。あなたがそれであって、それを受け入れず、それにレッテルを貼らず、脇へのけていないなら-あなたがそのものであるなら、何が起きるでしょうか。そのとき、あなたは苦しい・苦しんでいると言うでしょうか。確かに、根本的変容が起きたのです。そのときもはや「私は苦しい・苦しんでいる」 [ということ] はありません。なぜなら苦しむ中心がないからです。そして中心が苦しむのです。なぜなら私たちは、中心が何であるかを決して検討したことがないからです。私たちはただ言葉から言葉へ、反応から反応へと生きる・生きていくだけです。「苦しむそのもの[苦しんでいるそのもの]が何であるのか見てみよう」とは、私たちは決して言いません。強制により、修練によっては、見ることはできません。興味を持って、自発的な了解を持って見なければなりません。そのとき苦しみ、苦痛と呼ばれるもの、私たちが避けるもの、修練、すべてが消えてしまったことが、わかるでしょう。私が自分の外側としてのものごとと関係を持たないかぎり、問題はないのです。私が自分の外側のそれと関係を確立した瞬間、問題があるのです。私が苦しみを何か外側のものとして扱う限り―私は兄弟を亡くしたから、お金がないから、あれこれのために、苦しむのです―それとの関係を確立します。その関係は虚構[架空]です。しかし私がそのものであるなら、事実を見るなら、そのとき、ものごと全体が変容するのです。そのすべてが違った意味を持ちます。そのとき充分な注意、統合された注意があります。そして完全に見られるものは理解され、解消します。そのため恐れはないし、ゆえに「悲しみ」という言葉は存在していないのです。
(´・(ェ)・`)

286鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/24(木) 21:23:40 ID:1d4drIFg0
苦しみは言葉ではないというのじゃ。
苦しみは自分そのものであるというのじゃ。
自己同一化しているのじゃ。
それが見られたならば苦しみは即座に停止するのじゃ。

287避難民のマジレスさん:2020/09/25(金) 23:06:34 ID:aUlu60.o0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
八 気づきについて 1

質問
 気づきと内省の間の違いは何でしょうか。そして気づきにおいて、気づくのは誰でしょうか。

 初めに、私たちのいう内省とはどういう意味なのかを、検討しましょう。私たちのいう内省とは、自分自身の中を見る、自分自身を検討する、という意味です。なぜ自分自身を検討するのでしょうか。改善する・向上させるため、変えるため、修正するため、です。あなたは何ものかになるために内省します。そうでないと内省に耽らないでしょう。もしも修正したい、変えたい、あるがままのあなたより他の何ものかになりたいという願望がなかったなら、あなたは自分自身を検討しないでしょう。それが、内省のための明白な理由です。私は怒ります。すると怒りを取り除いたり、怒りを修正したり変えるために、私は自分自身を内省し、検討します。内省-それは、自己の応答、反応を修正したり変えたいという願望です-があるところ、いつも視野に目的があるのです。その目的が達成されないとき、不機嫌さ、憂鬱さがあるのです。ゆえに内省は必ず憂鬱さを伴います。あなたは内省するとき、自分自身を変えるために自分自身の中を見るとき、いつも憂鬱の波があるということに、気づいたことがあるかどうか、私は知りません。あなたが [それと] 戦わなければならない不機嫌な波が、いつもあるのです。あなたはその気分などに打ち勝つために、再び自分自身を検討しなければならないのです。内省は [そこに]解放のない過程です。なぜならそれは、あるがままを何かそうではないものに変容させる過程であるからです。 私たちが内省するとき、その特定の行動に耽るとき、明白に、それがまさに起きていることです。その行動にはいつも蓄積過程 [があり] 、それを変えるために何かを検討している「私」があり、そのためいつも二元的葛藤 [があり、]ゆえに挫折の過程があるのです。決して解放はありません。そしてその挫折を悟ると、憂鬱さがあるのです。
 気づきは全く異なっています。気づきは非難なき観察です。気づきは理解をもたらします。なぜなら、非難も同一化もなくて、静寂な観察があるからです。私は何かを理解したいなら、観察しなければなりません。批判してはなりません。非難してはなりません。楽しみとしてそれを追求したり、楽しみでないとしてそれを避けたりしてはなりません。たんに事実についての静寂な観察があるだけでなければなりません。視野に目的がなくて、生じるままにあらゆるものごとへの気づきがあります。非難、同一化、正当化があるとき、その観察と、その観察の理解は止みます。内省は自己改善です。ゆえに内省は自己中心性です。気づきは自己改善ではありません。反対にそれは、そのすべての奇妙な性向、記憶、要求、追求を持った自己の、「私」の終わりです。内省には、同一化と非難があります。気づきには、非難も同一化もありません。ゆえに自己改善はありません。二つの間には広大な違いがあります。
(´・(ェ)・`)つ

288鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/26(土) 22:47:36 ID:1d4drIFg0
内省と気付きは違うものというのじゃ。
内省にはまだ目的があり、自己同一化や分別も在るのじゃ。
気付きは目的は無く、自己同一化がなく分別もないと言うのじゃ。
静寂な観察に拠って気付きは起こるのじゃ。
それは自己の終わりをもたらすものというのじゃ。

289避難民のマジレスさん:2020/09/27(日) 17:40:09 ID:Cu43pdJw0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
八 気づきについて 2

 自分自身を改善したいと思う人は、決して気づけません。なぜなら改善は、非難と結果の達成という意味を含んでいるからです。ところが気づきには、非難のない、否定も受け入れもない観察があります。その気づきは外側のものごとから始まります-気づくこと、対象と、自然と接触することです。初めに、自分のまわりのものごとへの気づきがあります-対象に、自然に、それから人々に敏感であることです-それは関係という意味です。それから観念への気づきがあります。この気づき-ものごとに、自然に、人々に、観念に敏感であることは、分離した過程から作り上げられているのではなく、一つの単一の・統一された過程です。それはあらゆるものごとの [観察]、自分自身の中に生じるままのあらゆる思考、感情、行動の常なる観察です。気づきは非難的ではないので、蓄積がありません。あなたは規範を持つときだけ、非難するのです-それは蓄積が [ある]、ゆえに自己の改善がある、という意味です。気づきは、人々との、観念との、ものごととの関係における自己、「私」の活動を、理解することです。その気づきは瞬間瞬間です。ゆえにそれは実践できません。あなたが一つの事を実践するとき、それは習慣になります。気づきは習慣ではありません。習慣的である精神は鈍感・無感覚です。特定の行動の溝・轍の中で機能している精神は、鈍く、柔軟でありません。ところが気づきは常なる柔軟性、鋭敏さを要求します。これは難しくありません。あなたが何かに興味があるとき、あなたが自分の子供、妻、植物・草木、木々、鳥たちを見つめることに興味があるとき、それが、あなたが現実にすることです。あなたは非難なく、同一化なく観察します。ゆえにその観察には、完全な親交があります。観察者と観察されるものは、完全に親交 [の状態]にあります。これは、あなたが深く、奥深く何かに興味があるとき、現実に起きるのです。
 こうして気づきと、内省の自己拡大的な改善の間には、広大な違いがあるのです。内省は挫折に、さらなるもっと大きな葛藤につながります。ところが気づきは、自己の行動からの解放の過程です。それは、あなたの日常の動きに、あなたの思考に、あなたの行動に気づくこと、そして他の人に気づくこと、彼を観察することです。あなたは誰かを愛しているとき、何かに深く興味があるときだけ、それができるのです。私が自分自身を、自分の存在全体を、たった一つか二つの層ではなく自分自身の内容全体を知りたいとき、そのとき明白に、非難はないにちがいありません・あってはなりません。そのとき私は、あらゆる思考に、あらゆる感情に、気分すべてに、抑圧すべてに対して [扉を] 開いていなければなりません。そしてますます拡大する気づきがあるにつれて、隠れた思考の動き、動機、追求すべてからのますます大きな自由があるのです。気づきは自由です。それは自由をもたらします。それは自由を生み出します。ところが内省は葛藤を、自己閉鎖の過程を育成します。ゆえに、それにはいつも挫折と恐れがあるのです。
(´・(ェ)・`)つ

290鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/27(日) 21:58:52 ID:1d4drIFg0
内省は自分を改善しようという意志があるから気づきはないのじゃ。
分別があり、観念による目的達成の遊戯になるからなのじゃ。
気づきには否定も肯定も無い観察が在るのじゃ。
そこに分別は無く、観念の遊戯も無いのじゃ。
それでこそ真の変容が在るのじゃ。

291避難民のマジレスさん:2020/09/28(月) 20:44:26 ID:BDVNOiQA0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
八 気づきについて 3

 質問者はまた、誰が気づくのかを知りたいのです。あなたがどんな種類のでも奥深い経験をするとき、何が起きているでしょうか。そういう経験があるとき、あなたは自分が経験していることに気づいているでしょうか。あなたは怒っているとき、怒りや嫉妬や喜びのほんの瞬間に、自分が喜んでいる・うれしいことや怒っていることに気づいているでしょうか。経験者と経験されるものがあるのは、経験が済んでいるときだけです。そのとき、経験者が経験されるものを、経験の対象を観察するのです。経験の瞬間には、観察者も観察されるものもどちらもないのです。経験することだけがあるのです。私たちのほとんどは経験していません。私たちはいつも経験する状態の外側にいるのです。ゆえに誰が観察者なのか、気づいているのは誰なのかについてのこの疑問を、訊ねるのです。確かにそういう疑問は間違った疑問なのではないでしょうか。経験している・経験があった瞬間、気づいている人物も、彼がそれに気づいている対象もどちらもないのです。観察者も観察されるものもどちらもなくて、ただ経験している状態だけがあるのです。私たちのほとんどは、経験する状態に生きることは極めて難しいことを、見つけます。なぜなら、それはとてつもない柔軟性、すばやさ、高度の敏感さを要求するからです。そして私たちが結果を追求しているとき、成功したいとき、目的を視野に持つとき、計算しているとき-そのすべてが挫折をもたらします-それは否定されるのです。何も要求せず、目的を求めていなくて、結果と共にそのすべての含蓄を捜し出していない人、そういう人は常に経験する状態にあるのです。そのときあらゆるものが動きを、意味を持ちます。何も古くありません。何も焼け焦げていません。何も反復的ではありません。なぜなら、あるがままは決して古くないからです。挑戦はいつも新しいのです。古いのは、挑戦に対する応答だけです。古いものはさらなる残り滓を造り出します-それが記憶、観察者です-彼は観察されるものから、挑戦から、経験から、自分自身を分離するのです。
(´・(ェ)・`)つ

292鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/28(月) 21:33:23 ID:1d4drIFg0
気付くという経験があれば、そこには経験する者も経験されるものもないというのじゃ。
それらは本来無いものであるが、記憶に拠って作り出されるのじゃ。
結果を追求しているとそのように観念に囚われてしまうのじゃ。
何も求めず、結果も探し出さない者が気づきという経験もできるというのじゃ。

293避難民のマジレスさん:2020/09/29(火) 19:55:14 ID:yjDFQbds0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
八 気づきについて 4

 あなたはとても単純に、とてもたやすく、自分自身でこれを実験できるのです。今度あなたが怒ったり、嫉妬したり、欲張ったり、暴力的であったり-何であろうと-するとき、自分自身を見守ってください。その状態には、「あなた」はいません。その存在の状態だけがあるのです。瞬間、一瞬後、あなたはそれを用語づけ、名づけ、それを嫉妬、怒り、貪欲と呼ぶのです。それであなたは即時に、観察者と観察されるもの、経験者と経験されるものを造り出したのです。経験者と経験されるものがあるとき、そのとき経験者は経験を修正しよう、変えよう、それにまつわるものごとを覚えていよう、などとするのです。ゆえに自分自身と経験されるものの間の分割を維持するのです。あなたはその感情に名づけないなら-それは、あなたが結果を求めていない、非難していない、たんに静かに感情に気づいている、という意味です-そのとき、感情の、経験のその状態には、観察者がなく、観察されるものがないということが、わかるでしょう。なぜなら、観察者と観察されるものは共通の現象であって、そのため経験することだけがあるからです。
 ゆえに、内省と気づきはまったく異なっています。内省は挫折に、さらなる葛藤につながります。というのは、それには変化への願望という意味が含まれているし、変化はたんに修正された継続であるからです。気づきは、 [そこに]非難のない、正当化や同一化のない状態です。ゆえに理解があります。その受動的で鋭敏な気づきの状態には、経験者も経験されるものもどちらもないのです。
 内省は一つの形の自己改善、自己拡大ですが、それは決して真理につながりえません。なぜなら、それはいつも自己閉鎖の過程であるからです。ところが、気づきは、 [そこに]真理が-あるがままについての真理、日常の存在についての単純な真理が-生じうる状態です。私たちが遠くへ行けるのは、私たちが日常の存在の真理を理解するときだけです。あなたは遠くへ行くには近くから始めなければなりません。しかし私たちのほとんどは飛びたい、近くにあるものを理解せずに、遠くから始めたいのです。私たちは近いものを理解するにつれて、近いものと遠いものの間に距離がないのを見つけるでしょう。距離はありません-始まり・初めと終わりは一つです。
(´・(ェ)・`)つ

294鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/29(火) 20:46:00 ID:1d4drIFg0
気付くことは簡単に実験できるというのじゃ。
怒ったりすればそこに怒りと名づけるものがおこり、観察者と観察されるものが作り出されるというのじゃ。
それに名づけることがなければ、観察者も観察も無いとわかるのじゃ。
それが気づきであり、内省とは違うものなのじや。

295避難民のマジレスさん:2020/09/30(水) 20:49:26 ID:RP0W9tDs0
最初と最後の自由 第二部質疑応対
九 関係について 1

質問
 あなたはしばしば関係について話しをしてきました。それはあなたにとってどういう意味でしょうか。

 まず第一に、孤立しているようなものはありません。ある [生きる] ことは関係することです。関係なしに存在はありません。私たちのいう関係とはどういう意味でしょうか。それは、二人の人の間、あなたと私の間の互いに連結・連動した挑戦と応答です―あなたが投げかけ[投げつけ]、私が受け取ったり [それに] 応答する挑戦。また私があなたに投げかける挑戦です。二人の人の関係が社会を造り出します。社会はあなたと私から独立していません。大衆・全体はそれ自体で分離した[別個の]実体ではなく、あなたと私が互いの関係において大衆、集団、社会を造り出すのです。関係は、二人の人の間の相互連絡[関係]への気づきです。その関係は一般的に何に基づいているでしょうか。それはいわゆる相互依存、相互援助に基づいていないでしょうか。すくなくとも私たちは、それは相互助力、相互救助などであると言いますが、しかし現実に、言葉から離れ、私たちが互いに対して投げ付け合う情動的な幕から離れて、それは何に基づいているのでしょうか。相互満足[gratificationに基づいているの] ではないでしょうか。私はあなたを喜ばせないなら、あなたは私を追い払い[取り除き]ます。喜ばせるなら、あなたは私を自分の妻として、隣人として、友人として受け入れるのです。それは事実です。
 あなたが家族と呼ぶのは何でしょか。明白にそれは親密さの、親しい交わりの関係です。あなたの家族に、あなたの妻との、夫との関係に、親しい交わりがあるでしょうか。確かにそれが、私たちが関係によって意味するものなのではないでしょうか。関係とは、恐れのない親しい交わり、互いに理解し合い、直接伝え合う自由という意味です。明白に関係とはそういう意味です―他の人と親しい交わり [の状態] にあること[親しく交わっていること]、です。あなたはそうしているでしょうか。自分の妻と親しく交わっているでしょうか。おそらくあなたは身体的[肉体的]にはそうしているでしょうが、それは関係ではありません。あなたとあなたの妻は孤立の壁の反対側で生きているのではないでしょうか。あなたは自分自身の追求、自分の野心を持っているし、彼女は彼女のものを持っているのです。あなたは壁の裏で生きていて、時折[時々]上越しに[向こうを]見ます―それをあなたは関係と呼びます。それは事実なのではないでしょうか。あなたはそれを拡大[拡張」し、和らげ、新しい一式の言葉を導入して、それを叙述するかもしれませんが、それが事実です―あなたと他の人は孤立して生きているということ、そして孤立の生を、関係と呼ぶのだということが。
(´・(ェ)・`)つ

296鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/01(木) 21:57:56 ID:1d4drIFg0
全てが一つである真理の上では孤立した個我とか個人は在り得ないのじゃ。
全てが繋がり、関係して在るのじゃ。
しかし、観念として個我があるとか思えば孤立も在るのじゃ。
互いに理解できない個我と個人の集まりが社会を造るのじや。

297避難民のマジレスさん:2020/10/02(金) 20:16:40 ID:9TP4pFcY0
最初と最後の自由 第二部質疑応対
九 関係について 2

 二人の人の間に本当の関係があるなら―それは彼らの間に親しい交わりがあるという意味です―そのとき含まれる意味は漠大です。そのとき孤立はありません。愛があるし、責任や義務はありません。義務と責任について話をするのは、自分たちの壁の裏で孤立している人たちです。愛している人は責任について話をしません―彼は愛しています。ゆえに彼は自分の喜び、悲しみ、お金を、他の人と分かち合います。あなたの家族はそんなふうでしょうか。自分の妻と、子供たちと直接の親しい交わりがあるでしょうか。明白にないのです。ゆえに家族はたんにあなたの名前や伝統を存続させるため[ の口実]、あなたが性的に、または心理的に欲しいものを与えてくれるための口実です。ですから家族は自己永続化 [の手段] 、自分の名前を続けていく・維持する手段になるのです。それは一種の不死、一種の永久性です。家族はまた喜び[満足」の手段としても使われます。私は事業の世界で、外側の政治的、社会的世界で、他の人たちを非情に[無慈悲に]搾取・利用します。そして家庭では親切で気前よくしようとします。なんと不合理でしょう!あるいは世間は私にはひどすぎる[耐えられない・きつすぎる]ので、私は平和が欲しいと思い、家に帰ります。私は世間で苦しんでいるので、家に帰って慰めを見つけようとします。それで私は関係を満足の手段として使うのです―それは、自分の関係によって動揺させられたくないという意味です。
こうして関係は、相互の満足、喜びがあるところに求められるのです。あなたはその満足を見つけないとき、関係を変えるのです。「つまり]離婚するか、一緒にとどまるかしますが、どこか他で喜びを求めます。そうでないとあなたは、求めるもの―すなわち満足、喜び、自己保護と慰めの感覚―を見つけるまで、一つの関係からもう一つへ動きます。結局それが世間での私たちの関係です。それは事実[において]そうなのです。安全がありうるところ、個人としてあなたが安全の状態で、喜びの状態で、無知の状態で生きられるところに、関係は求められるのです―そのすべてはいつも葛藤・抗争を造り出すのではないでしょうか。あなたが私を満足させてくれないで、私が満足を求めているなら、当然葛藤・抗争があるにちがいありません。なぜなら私たちは共に互いのなかに安全を求めているからです。その安全が不確実になるとき、あなたは嫉妬深くなります。暴力的になります。所有欲が深くなる、などです。ですから関係は必ず所有、非難 [という結果に] 、安全に対する、慰めに対する、満足に対する自己主張的要求という結果になるのです。そこには当然愛はありません。
(´・(ェ)・`)つ

298鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/02(金) 21:40:52 ID:1d4drIFg0
本当の関係には愛があり、孤立や責任や義務は無いというのじゃ。
全てを分かち合うというのじゃ。
そうでなければ関係は欲求を満たす手段になるというのじゃ。
満たされなければ別れるばかりなのじゃ。
そこに愛は無いのじゃ。

299避難民のマジレスさん:2020/10/03(土) 19:25:16 ID:HgpRjtdk0
最初と最後の自由 第二部質疑応対
九 関係について 3

私たちは愛について話しをします。責任、義務について話しをします。しかし本当は愛はないのです。関係は喜びに基づいています―その影響[結果]は、現在の文明において見られます。私たちの妻、子供たち、隣人、友人の扱い方は、私たちの関係には本当は全く愛がないという表示です。それはたんに喜びへの相互探求です。そうであるので、そのとき[では]関係の目的は何でしょうか。その究極の意義は何でしょうか。あなたは他の人たちとの関係において自分自身を観察するなら、関係は自己開示の過程であるということを見つけないでしょうか。私とあなたとの接触は、私が気づいているなら、関係において私自身の反応を意識するに充分鋭敏であるなら、私自身の有り様・存在の状態を開示しないでしょうか。関係は本当は自己開示の過程、すなわち自己認識の[自己を知る]過程です。その開示には、多くの楽しくないものごと、不穏な・平静を乱す、不愉快な[心地よくない]思考、活動があります。私は自分の発見するものが好きでないから、楽しくない関係から楽しい関係へ逃げ出します。ゆえに関係は、私たちがたんに相互の喜びを求めているとき、ほとんど意義がないのですが、しかしそれが自己開示と自己認識の手段であるとき、とてつもなく意義深くなるのです。
結局、愛には関係[というもの]がないのではないでしょうか。関係[というもの]があるのは、あなたが何かを愛していて、自分の愛の見返りを期待するときだけです。あなたが愛しているとき、すなわちあなたが何かにすっかり、全体的に身を捧げ[身を任せ]るとき、そのとき関係[というもの]はないのです。
あなたがほんとうに愛しているなら、そういう愛があるなら、そのときそれはすばらしい[驚くべき・驚嘆すべき]ことです。そういう愛には摩擦はありません。一方と他方[自分と他人]はありません。完全な統一[和合・融和]があります。それは統合の状態、完全な存在です。完全な愛、完全な親しい交わりがあるとき、そういう瞬間、そういう希な、幸せな、喜びに満ちた瞬間があるのです。一般に起きることは、愛が重要なことではなく、他方、愛の対象が重要になるということです。愛が向けられる人が重要になるのであって、愛自体ではないのです。そのとき生物[学]的、言葉上の 様々な理由のために 、または喜び、慰めへの願望などのために、愛の対象が重要になり、愛は後退するのです。そのとき所有、嫉妬、要求が葛藤・抗争を造り出し、愛はさらに[ますます]後退するのです。それが後退すればするほど、関係の問題はますますその意義、その価値と意味を失うのです。ゆえに愛は、了解するのがもっとも難しいものごとの一つです。それは知的な切迫[衝動・推進・強制]をとおして訪れません。様々な方法、手段、修練によって手作りできません。それは自己の諸活動が止んでしまったときの存在の状態[有り様]です。しかしあなたがたんにそれらを抑圧したり、避けたり、修練したりするなら、それらは止まないでしょう。あなたは自己の諸活動を意識の異なる層すべてにおいて理解しなければなりません。私たちはほんとうに愛している [瞬間] 、どんな思考もなく、どんな動機もない瞬間があるのです。しかしそうした瞬間はとても希です。それらが希であるから、私たちは記憶においてそれらにすがり付くのです。こうして生きている真実と日常の存在の行動の間に障壁を造り出すのです。
関係を理解するためには、まず第一にあるがままを[理解する]、私たちの生において現実に起きていることを、異なった微妙な形すべてにおいて理解することが重要です―そしてまた関係が現実に何を意味するのかをも。関係は自己開示です。私たちが慰めのなかに隠れるのは、自分自身に開示されたくないからです。そのとき関係はそのとてつもない深み、意義、美しさを失うのです。愛があるときだけ、真の関係がありうるのです。しかし愛は喜びの探求ではありません。愛は、自己忘却があるとき、完全な親しい交わりがあるときだけ、存在しています―一人や二人との間の交わりではなく、最高のものとの交わりです。そしてそれは、自己が忘れられるとき、起こりうるだけです。
(´・(ェ)・`)つ

300鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/03(土) 22:00:31 ID:1d4drIFg0
愛について語る関係には本当は愛が無いというのじゃ。
ただ喜びを求めているだけというのじゃ。
本当の愛があるならばそこにはもはや自他も無いというのじゃ。
一つになっているというのじゃ。・
自己が忘れられる時、そのような真の愛があると言うのじゃ。
忘我の境地なのじゃ。

301避難民のマジレスさん:2020/10/04(日) 21:08:30 ID:/igPDOOk0
最初と最後の自由 第二部質疑応対十 戦争について 1

質問
 どのようにして私たちは、世界の現在の政治的混沌と危機を、解決できるのでしょうか。差し迫った・切迫した戦争を阻止するために、何か個人ができることがあるでしょうか。

 戦争は、私たちの日常の生の壮大で血なまぐさい投影なのではないでしょうか。戦争は、たんに私たちの内面の状態の外面的表現、私たちの日常の行動の拡大・引き伸ばしです。それはもっと壮大で、もっと血なまぐさく、もっと破壊的です。しかしそれは、私たち個人の活動の集団的・集合的結果です。ゆえに、あなたと私は戦争に [応じる能力・]責任があるのです。私たちはそれを阻止するために、何ができるでしょうか。明白に、常に差し迫っている戦争は、あなたと私により阻止できません。なぜなら、それはすでに動き [の状態]にあるからです。現在は主に心理的な水準であるけれども、それはすでに起きているのです。それはすでに動き [の状態]にあるので、阻止できないのです-論点が多すぎ、大きすぎるし、すでに遂行され・犯されているのです。しかしあなたと私は、家が燃えて・火事になっていることがわかると、その火事の原因を理解できるし、それから離れて・そこから立ち去って、燃えやすくない・非可燃性である [材料・素材] 、他の戦争を産み出さないであろう違った材料で、新しい場所に建てられるのです。それが、私たちにできるすべてです。あなたと私は、何が戦争を造り出すのかがわかることができます。そして私たちは、戦争を阻止することに興味があるなら、そのとき私たち自身-戦争の原因であるもの-を、変容させ始めることができるのです。
 一人のアメリカの婦人が、戦争中の二年前に、私に会いに来ました。彼女はイタリアで自分の息子を亡くしたこと、救いたいと思うもう一人の十六歳の息子がいると、言いました。それで私たちは、その事をよく話し合いました。彼女の息子を救うには、彼女がアメリカ人であることを止めなければならないと、私は彼女に提案しました。彼女が貪欲であるのを止め、富を積み上げるのを、力、支配を求めるのを止めて、道徳的に単純で [なければならない] -たんに服や外面的なものごとにおいて単純なのではなく、彼女の思考と感情において、彼女の関係において単純でなければならない、と。彼女は言いました。「それは無理です・ひどすぎます。あなたはあまりに無理を求めて・要求しています。私にはそれはできません。なぜなら、私が改めるには、境遇が強力すぎるからです」と。ゆえに彼女は、自分の息子の破滅に対して [応ずる能力・]責任があるのです。
 境遇は私たちにより制御できるのです。なぜなら、私たちが境遇を造り出したからです。社会は、あなたの [関係] と私の [関係]をひっくるめた・合わせた、関係の産物です。私たちが自分たちの関係において変化するなら、社会は変化するのです。外面的社会の変容のために、たんに法制度に、強制に頼ることは、内面的に腐敗・堕落したままでいるかぎり、内面的に力、地位、支配を求め続けるかぎり、たとえどんなに気をつけて科学的に築かれても、外面的なものを破壊することになります。内面にあるものが、いつも外面的なものに打ち勝っているのです。
(´・(ェ)・`)つ

302鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/05(月) 21:32:24 ID:1d4drIFg0
今起ころうとする戦争をとめることは出来ないというのじゃ。
それは既に一人の人間の力では止められないのじゃ。
戦争の原因である自分自身を変容することはできるのじゃ。
どこかの国の人間である限り、戦争の原因になるのじゃ。
権利だけを享受して義務を拒否することはできないからのう。
一人一人の貪欲に拠って戦争も起こるのじゃ。

303避難民のマジレスさん:2020/10/06(火) 18:36:27 ID:MxmJOoVk0
最初と最後の自由 第二部質疑応対十 戦争について 2

 宗教的、政治的、経済的な戦争を引き起こす原因は何でしょうか。明白に、国家 [・民族]主義であれイデオロギ-であれ特定の教義であれ 、[それらへの]信念です。もしも私たちが自分たちの間に、信念ではなく、善意、愛、考慮・配慮を持っていたなら、そのとき戦争はないでしょう。しかし私たちは信念、観念、教義で養われています。ゆえに不満を生み育てるのです。現在の危機は例外的性質のものです。人間としての私たちは、常なる葛藤と連続的な戦争の道-それらは、私たちの日常の行動の結果です-を追求するか、それとも戦争の原因がわかって、それらに背を向けるか、どちらかにちがいありません・しなければなりません。
 明白に、戦争を引き起こす原因になるものは、力、地位、威信、金への欲望です-また国家 [・民族]主義と呼ばれる病気、国旗の崇拝。そして組織化された宗教という病気、教義の崇拝-これらすべてが戦争の原因です。個人としてのあなたが、組織化された宗教のどれかに属しているなら、力に対して貪欲であるなら、妬んでいるなら、あなたは必ず、破壊という結果になるであろう社会を産み出します。それでそれもまた、指導者にではなく、あなたにかかっているのです-いわゆる政治家たちとその他すべて [にかかっているの] ではありません。それはあなたと私にかかっているのですが、私たちはそれを悟っているように見えません。もしも私たちが、ひとたび自分たち自身の行動の [応じる能力・]責任を、ほんとうに感じたなら、どんなにすばやくこれらすべての戦争、このおぞましい悲惨を終わらせることができるでしょう!しかしおわかりでしょう、私たちは無関心です。私たちは日に三食摂ります。仕事を持っています。多かれ少なかれ銀行預金を持っています。そして「お願いですから、私たちを動揺させないでください。一人にしておいて・そっとしておいてください」と言うのです。地位 [身分]が高ければ高いほど、私たちは安全、永久性、平静が欲しい、そっとしておいて欲しい、あるがままに固定したものごとを維持したいのです。しかしそれらはあるがままに維持できないのです。なぜなら、何も維持すべきものはないからです。あらゆるものごとが崩壊しつつあります。私たちはこれらのものごとに向き合いたくないのです。あなたと私が戦争に対して [応じる能力・]責任があるという事実に、向き合いたくないのです。あなたと私は平和について話しをし、会議をし、テ-ブルを囲んで座り、議論をするかもしれません。しかし内面的に、心理的に、私たちは力、地位が欲しいのです。貪欲により動機づけられているのです。私たちは計略を巡らします・陰謀をたくらみます。私たちは国家[・民族]主義的です。私たちは、信念により、教義により縛られています-それらのために進んで死のう、互いに破壊し合おうとしています。そういう人たち、あなたと私が、世界に平和を持てると、あなたは思うでしょうか。平和を持つには、私たちが平和でなければなりません。平和に生きることは、敵対を造り出さない、という意味です。平和は理想ではありません。私にとって理想は、たんに逃避、あるがままの回避、あるがままの否定・否認です。理想は、あるがままへの直接的作用 [・行動] を妨げます。平和を持つには、私たちは愛さなければならないでしょう。理想的な生を生きるのではなく、あるがままのものごとを見てそれらに作用し、それらを変容させ始めなければならないでしょう。私たち各自が心理的な安全を求めているかぎり、私たちが必要とする生理的な安全-衣・食・住-は破壊されるのです。私たちは心理的な安全を求めています-それは存在していません。そして私たちはできるなら、力をとおし、地位をとおし、肩書き、名前をとおして、それを求めます-そのすべてが、身体的・物理的な安全を破壊しているのです。あなたがそれを見るなら、それは明白な事実です。
(´・(ェ)・`)つ

304鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/06(火) 21:20:35 ID:1d4drIFg0
信念が戦争を引き起こすというのじゃ。
それが金とか権力への欲をも引き起こすというのじゃ。
信念による社会の中で金や権力も意味を持つのであるからのう。
愛とか善意があれば戦争は無いというのじや。
自分が平和ならば平和があると言うのじゃ。

305避難民のマジレスさん:2020/10/08(木) 19:53:50 ID:z4SCZRzU0
最初と最後の自由 第二部質疑応対十 戦争について 3

 世界に平和をもたらすには、すべての戦争を阻止するには、個人に、あなたと私に、革命がなければなりません。この内面の革命のない経済的革命は無意味です。というのは、飢え・飢餓は、私たちの心理状態-貪欲、妬み、悪意、所有欲-により産み出された経済情勢・状況の不適応・不調整の結果であるからです。悲しみ、飢餓、戦争を終わらせるには、心理的な革命がなければなりません。私たちのほとんどは進んでそれに向き合おうとしていません。私たちは平和について議論し、法制度を立案し、新しい同盟・連盟、国際連合などなどを造り出すでしょう。しかし私たちは平和を勝ち取らないでしょう。なぜなら、私たちは自分たちの地位、権威、金、財産、愚かな生をあきらめないであろうからです。他の人たちに頼ることは、全く無効です。他の人たちは私たちに平和をもたらせません。どんな指導者も、政府も、軍隊も、国も、私たちに平和を与えようとしていません。平和をもたらすであろうものは、内面の変容です-それが外面の行動につながるでしょう。内面の変容は、孤立化ではありません。外面の行動からの撤退ではありません。反対に正しい考えがあるときだけ、正しい行動がありうるのです。自己認識がないとき、正しい考えはないのです。あなた自身を知ることなしに、平和はありません。
 外面の戦争を終わらせるには、あなたは自分自身の中の戦争を、終わらせ始めなければなりません。あなたがたの幾人かは、頷いて「私は同意します」と言って、外へ出て、この十年か二十年の間ずっとしてきたこととまさしく同じことをするでしょう。あなたの同意は、たんに言葉の上だけですし、意義がありません。というのは、世界の悲惨と戦争は、あなたの思いつきの・何気ない同意・賛成によって阻止されないであろうからです。あなたが危険を悟るとき、自分の [応ずる能力・]責任を悟るとき、それを他の誰かに任せないときだけ、それらは阻止されるでしょう。あなたは苦しみを悟るなら、即時の行動の緊急性・切迫性がわかって延期しないなら、そのとき自分自身を変容させるでしょう。あなた自身が平和であるとき、あなた自身が自分の隣人と平和である・仲良くするときだけ、平和が来るでしょう。
(´・(ェ)・`)つ

306鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/08(木) 21:33:35 ID:1d4drIFg0
本当に戦争を終わらせ、平和をもたらすには自分自身に革命が無ければならないというのじゃ。
記憶に拠って同じ事をしていたのでは、同じ争いが続くばかりなのじゃ。
自分自身に平和がある時、世界にも平和が在るのじゃ。
自分の苦を観る時にのみその変容は訪れるというのじゃ。

307避難民のマジレスさん:2020/10/09(金) 21:27:07 ID:JqAgH6Fg0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十一 恐怖・恐れについて 1

質問
 どのようにして私は恐れを取り除くべきでしょうか-それは私のすべての活動に影響を及ぼします。
クリシュナムルテイ
 私たちのいう恐怖れとはどういう意味でしょうか。何についての恐れで[何を恐れているので]しょうか。様々な類型の恐れがあります。あらゆる類型を分析しなくていいのです。しかし関係についての了解が完全でないとき、恐れが生じるということが、わかります。関係は、人々との間[の関係] だけではなく、私たち自身と自然との、私たち自身と財産との、私たち自身と観念との間の関係です。その関係が充分に理解されない限り、恐れがあるにちがいありません。生は関係です。ある [生きる] ことは関係することですし、関係なしに、生はありません。何一つ孤立して・孤立 [の状態] において存在できません。精神が孤立を求めている限り、恐れがあるにちがいありません。恐れは抽象観念ではありません。それは何かとの関係においてだけ存在しています。
 質問は、どのようにして恐れを取り除くべきか、です。まず最初に、打ち勝たれるどんなものも、何度も[繰り返し]征服されなければなりません。どんな問題も、最後は[最終的には]打ち勝てず、征服できません。それは理解することはできるが、征服はできません。それらは二つの完全に異なった過程ですし、征服する過程はさらなる混乱、さらなる恐れにつながります。[問題に]抵抗すること、支配すること、問題と戦う[戦いをする]こと、それに対して防御物を建てる[防御を築く]ことは、さらなる葛藤を造り出すだけです。ところが、恐れを理解し、一歩ずつそれに充分に入り、その内容全体[全容]を探検できるなら、そのとき恐れはどんな形でも決して「二度と]戻ってこないでしょう。
 私が言ったように、恐れは抽象観念ではありません。それは関係においてだけ存在しています。私たちのいう恐れとはどういう意味でしょうか。最終的に[究極的に・結局]、私たちは恐れているのではないでしょうか―[何か]でないことを、[何か]にならないことを、です。そこで、[何か]でないこと、前進しないことへの恐れ、または知らないものへの、死への恐れがあるとき、決心により、結論により、何かの選択により、その恐れに打ち勝てるでしょうか。明白に、できません。たんなる抑圧、昇華、代用は、さらなる抵抗を造り出すのではないでしょうか。ゆえにどんな形の修練をとおしても、どんな形の抵抗をとおしても、恐れには決して打ち勝てません。その事実が明らかに見られ、感じられ、経験されなければなりません。恐れには、どんな形の防御や抵抗をとおしても打ち勝てないし、また解答[答え]の探求をとおしても、たんなる知的または言葉上の説明をとおしても、恐れからの自由はありえません。
(´・(ェ)・`)つ

308避難民のマジレスさん:2020/10/10(土) 19:46:11 ID:F0qyauXY0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十一 恐怖・恐れについて 2

では、私たちは何を恐れているのでしょうか。事実を [恐れているの] でしょうか、それとも事実についての観念を恐れているのでしょうか。あるがままのものごとを恐れているのでしょうか、それともそれがそうであると考えるものごとを、恐れているのでしょうか。例えば死を取り上げましょう。私たちは死という[の]事実を [恐れているのでしょうか] 、それとも死という[の]観念を恐れているのでしょうか。一方は事実ですし、もう一方は事実についての観念です [事実と事実についての観念とは別のことです]。私は「死」という言葉を [恐れているのでしょうか] 、それとも事実自体を恐れているのでしょうか。私は言葉を、観念を恐れているから、決して事実を理解しないのです。決して事実を見ないのです。決して事実と直接に関係していないのです・事実と直接の関係にないのです。恐れがないのは、私が事実と完全に親しく交わって[交流して]いるときだけです。私が事実と親しく交わっていないなら、そのとき恐れがあるのです。私が事実について観念、意見、理論を持つかぎり、事実との親しい交わりはないのです。ですから私は言葉、観念を [恐れているの] か、それとも事実を恐れているのか [について、] とても明晰でなければなりません。私が事実に向き合うなら、それについて理解すべきことは何もないのです。事実があります。私はそれを取り扱えるのです。私が言葉を恐れているなら、そのとき言葉を理解し、言葉、用語が示唆するものの過程全体に入らなければなりません。
例えば、寂しさ[ひとりぼっちでいること・孤独]を恐れている、寂しさの疼き[痛み]、苦痛を恐れているとします。確かにその恐れは存在しています。なぜなら一度も本当に寂しさを見つめたことがないから、一度もそれと完全に親しく交わったことがないからです。寂しさという事実に対して完全に開かれた・ [扉を]開いた瞬間、それが何であるかを理解できるのです。しかし [人は] それについて以前の知識に基づいた観念、意見を持っています。恐れを造り出すのは、事実についてのこの観念、意見、この以前の知識です。恐れは明白に、名づけること、用語付けること、事実を表現[代理]するために象徴を投影することから出てきたものです。すなわち、恐れは言葉から、用語から独立してい[独立して存在してい]ないのです。
(´・(ェ)・`)つ

309鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/10(土) 21:04:18 ID:1d4drIFg0
恐れとは征服しようとして征服できるものではないというのじゃ。
理解できるだけなのじゃ。
死んだことが無い者には死がどのようなものかわからないから死という事実を恐れることは出来ないのじゃ。
死という観念を恐れているだけなのじゃ。
それが理解できれば恐れも無くなるのじゃ。

310避難民のマジレスさん:2020/10/11(日) 18:55:13 ID:bu6mK1kE0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十一 恐怖・恐れについて 3

私は仮に[言ってみれば・たとえば]寂しさに対する反動を持っているとします。すなわち、私は無である[何でもない・何ものでもない]ことを恐れていると、言います。私は事実自体を恐れているのでしょうか、それともその恐れは、私が事実についての以前[前もって]の知識-言葉、象徴、イメ-ジである知識を持っているから目覚めさせられるのでしょうか。どうして事実への・について恐れがありうるでしょうか。私は事実と向き合い、直接に親しく交わっているとき、それを見つめ、観察できるのです。ゆえに事実について恐れはないのです。恐れを起こす原因になるものは、事実 [についての] ―事実が何であるかや何をするかについての私の不安[心配・恐れ]です。
恐れを造り出すのは、事実についての私の意見、私の観念、私の経験、私の知識です。事実を言語化する[言葉に表す・言葉にする]こと、事実に名前をつける[事実を名づける]こと、ゆえにそれと[それを]同一化したりそれを非難したりすることがあるかぎり、思考が観察者として事実を判断[判定]しているかぎり、恐れがあるにちがいありません。思考は過去の産物です。それは言語化をとおし、象徴をとおし、イメ-ジをとおして存在できるだけです。思考が事実を見たり[見守ったり]翻訳[解釈]したりしているかぎり、恐れがあるにちがいありません。
こうして、恐れを造り出すのは精神です-精神は考える過程です。考えることは言語化です。言葉なしに、象徴、イメ-ジなしには考えられません。これらのイメ-ジ-先入観、以前[前もって]の知識、精神の不安[心配・恐れ]-が、事実[の上]に投影されます。そこから恐れが生じるのです。精神が事実を翻訳・解釈せず、名前、レッテルをつけずに見る能力があるときだけ、恐れからの自由があるのです。これは全く[かなり・相当]難しいのです。なぜなら私たちの持っている感情、反応、不安[心配・切望]は、即座に精神によって同一化され、言葉を与えられるからです。嫉妬の感情は、その言葉によって同一化されます。感情を同一化しないこと、名づけることなしにその感情を見ることは、可能でしょうか。感情に連続性を与えるのは、強さを与えるのは、それを名づけることです。恐れと呼ぶものに名づけた瞬間、それを強めるのです。しかしその感情に用語づけることなく見ることができるなら、それはしぼみ去る[しぼんでしまう]ことがわかるでしょう。ゆえに恐れから完全に自由であろうと思うなら、用語づけること、象徴、イメ-ジを投影すること、事実に名づけること、この過程全体を理解することが、本質的[不可欠]です。自己認識があるときだけ、恐れからの自由がありうるのです。自己認識が英知の始まりです―それが恐れの終わりです。
(´・(ェ)・`)つ

311鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/11(日) 21:54:14 ID:1d4drIFg0
事実を恐れる者は居ないというのじゃ。
事実についての言葉や象徴やイメージを恐れているというのじゃ。
それが観念なのじゃ。
観念に対する恐れを観察して理解すれば、恐れは消えるのじゃ。

312避難民のマジレスさん:2020/10/12(月) 21:37:35 ID:bOLzCvMs0
最初と最後の自由 第二部質疑応答十二 
退屈と興味について 1

質問
 私は何ごとにも興味がありません。しかし、ほとんどの人たちは、多くの興味のあることで忙しいのです。私は働かなくてもいいので、働きません。私は何か役立つ仕事を引き受ける・始めるべきでしょうか。

 それは、社会的事業家や政治的活動家や宗教的活動家になる-ということでしょうか。あなたは他に何もすることがないから、ゆえに改革者になるのです!あなたは何もすることがないなら、退屈しているなら、なぜ退屈していないのでしょうか。なぜそうあるのではないのでしょうか。あなたが悲しみ [の状態]にあるなら、悲しんでいてください。それからの抜け出し方を見つけようしないでください。なぜなら、あなたが退屈している [という] ことは、あなたがそれを理解でき、それと共に生きられるなら、測り知れない意義があるからです。「私は退屈している。だから何か他のことをしよう」と言うなら、あなたはたんに退屈から逃避しようとしています。そして私たちの活動のほとんどが逃避であるので、あなたは社会的に、他のあらゆる仕方で、はるかにもっと危害を与えるのです。あなたがあるがままでいて、それと共にとどまっているときよりも、あなたが逃避するときのほうが、災いははるかに大きいのです。困難は、どのようにして逃げ出すのかではなく、それと共にとどまるのか、です。私たちの活動のほとんどが逃避の過程であるので、あなたが逃避するのを止めて、それに向き合うことは、測り知れず難しいのです。ゆえに、あなたがほんとうに退屈していて、「完全に止めよう・終止符を打とう。そこにとどまろう。それを見よう。なぜおまえは何かをするべきなのか」と言ってくれるなら、私はとてもうれしいのです。  
 あなたは退屈しているなら、なぜ退屈しているのでしょうか。退屈と呼ばれるものは何でしょうか。あなたが何ごとにも興味がないのは、なぜでしょうか。あなたを鈍くしてきた理由と原因があるにちがいありません。苦しみ、逃避、信念、絶えざる活動が、精神を鈍らせ、心を非柔軟にしてきたのです。もしもあなたは、自分がなぜ退屈しているのか、なぜ興味がないのかを見出すことができたなら、そのとき確かに問題を解決するのではないでしょうか。そのとき目覚めた興味が機能するでしょう。あなたはなぜ自分が退屈しているのかに興味がないなら、活動に興味を持つように-檻の中でぐるぐる回っているリスのように-たんに何かをしているように、自分自身に強いることはできません。これが、私たちのほとんどが耽っている活動の種類であることを、私は知っています。しかし私たちは、なぜ自分たちがこの全くの退屈の状態にあるのかを、内面的、心理的に見出せるのです。私たちは、なぜ私たちのほとんどがこの状態にあるのか、わかることができます。私たちは情動的、精神的に、自分たち自身を消耗・使い果たしてきたのです。私たちはあまりに多くのものごと、あまりに多くの感動、あまりに多くの娯楽・楽しみ、あまりに多くの実験を試してきたので、そのため鈍くなり、疲れ切ってしまったのです。私たちは一つの集団に加わり、私たちに求められるあらゆることをして、それからそこを離れ・去ります。それから私たちは何か他のものへ行ってそれを試します。私たちは一人の心理学者で失敗するなら、他の誰かや司祭のところへ行きます。私たちはそこで失敗するなら、もう一人の教師のところへ行く、などです。私たちはいつも進みつづけます。常に手を伸ばし手放すこの過程は、消耗するのではないでしょうか。すべての感動と同じように、それはすぐに精神を鈍らせるのです。
(´・(ェ)・`)つ

313鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/13(火) 21:57:27 ID:1d4drIFg0
退屈しているから何か仕事をするというのも逃避なのじゃ。
それもまた退屈という苦から逃れようとしているからのう。
金銭的に退屈で居られるのに、そのままではいられない自分を見ていないのじゃ。
退屈から逃避しようとしている自分が見られれば、それで全ては解決するのじゃ。

314避難民のマジレスさん:2020/10/14(水) 18:29:43 ID:zs4KrBZM0
最初と最後の自由 第二部質疑応答十二 退屈と興味について 2

 私たちはそれをしてきました。私たちはほんとうに消耗する時点に到るまで、感動から感動へ、興奮から興奮へ向かって行きました。そこで、それを悟ると、それ以上進まないでください。一休みしてください。静かにしてください。精神にそれ自体で力・強さを集めさせましょう。それに強いないでください。土が冬の時期の間に自ずから蘇生するように、精神が静かであるのを許される・静かにしておかれるとき、それは自ずから蘇生するのです。しかし精神が静かであることを許す・精神を静かにしておくこと、このすべての後で、それを休ませておくことは、とても難しいのです。というのは、精神はいつのときも何かをしていたいからです。あなたは、あるがままの自分であることを-退屈して、醜く、恐ろしい・忌まわしい、何であろうと-自分自身にほんとうに許している地点に至るとき、そのとき、それを取り扱う可能性があるのです。
 あなたが何かを受け入れるとき、あなたがあるがままの自分を受け入れるとき、何が起きるでしょうか。自分があるがままの自分であることを、あなたが受け入れるとき、問題はどこにあるでしょうか。私たちがものごとをあるがままに受け入れないで、それを変容させたいと願うときだけ、問題があるのです-それは、私が満足することを弁護・擁護しているという意味ではありません。反対です。私たちはあるがままの自分たちを受け入れるなら、そのとき、非常に恐れたもの、退屈と呼ばれたもの、絶望と呼ばれたもの、恐れと呼ばれたものが、完全な変化を受けたことが、わかるのです。私たちが恐れていたものの完全な変容があるのです。
 そういうわけで、私が言いましたように、私たち自身の [考える] 過程、考え方を理解す
ることが重要です。自己認識は、誰をとおしても、どんな書物をとおしても、どんな告白・自白や心理学や精神分析者をとおしても、集められません。それはあなた自身により見つけられなければなりません。なぜなら、それはあなたの生であるからです。その自己についての知識を広げることと深めることなしに、あなたが何をしても、どんな外的、内的境遇、影響を改めても-それは常に絶望、苦痛、悲しみの飼育所・を生み育てる温床であるでしょう。精神の自己閉鎖的活動を越えてゆくには、あなたはそれらを理解しなければなりません。そしてそれらを理解することは、関係-ものごととの、人々との、観念との関係-において行動に気づくことです。その関係において-それが鏡です-私たちは、どんな正当化も非難もなしに、自分たち自身がわかりはじめるのです。そして私たち自身の精神のやり方についての、そのより広くより深い知識から、さらに進むことが可能です。精神が静かであること、真実であるものを受け取ることが、可能です。
(´・(ェ)・`)つ

315鬼和尚 ◆01mzPGVdXo:2020/10/15(木) 00:04:09 ID:1d4drIFg0
逃避をやめて静かにすることが大事というのじゃ。
あるがままの自分を受け入れるのじゃ。
その自分を認識できれば変容は起こるというのじゃ。
それはどんな本や方法でもできないことなのじゃ。
自らの意志で実践するしかないのじゃ。

316避難民のマジレスさん:2020/10/15(木) 21:56:28 ID:m3k0meg20
最初と最後の自由 第二部質疑応答十三 憎しみについて 1

質問
 私は完全に・完璧に正直であるなら、ほとんどあらゆる人を恨み、ときには憎んでいることを認めなければなりません。それは私の人生をとても不幸せに、苦痛にしています。私は、自分がこの恨み、この憎しみであることを、知的には理解しています。しかし、それに対処(抵抗)できません。私に対処法を示してもらえませんか。
K
 私たちのいう「知的に」とは、どういう意味でしょうか。私たちは何かを知的に理解しているというとき、それはどういう意味でしょうか。知的理解というようなものがあるのでしょうか。それともそれは、精神がたんに言葉を理解するだけということでしょうか。なぜなら、それが、私たちが互いに疎通し合う唯一の道であるからです。私たちはいったいどうやって・どんなふうに何かを、たんに言葉の上で、精神的に、本当に理解できるのでしょうか。それが、明らかでなければならない最初のことです-いわゆる知的理解は、理解にとって妨害でないのかどうか [ということが、] です。確かに理解とは統合的であって分割されず部分的ではないでしょう。私は何かを理解するかしないか、どちらかです。「私は何かを知的に理解している」と自分自身に言うことは、確かに理解にとって障壁です。それは部分的過程ですし、ゆえにそもそも・全く理解ではありません。
 そこで疑問はこうです-「恨み、憎んでいる私は、どのようにしてその問題から自由であるべきか、 [それに] 対処すべきか」です。私たちは問題にどのように対処するのでしょうか。問題とは何でしょうか。確かに、問題とは、何か動揺させるものです。
 私は恨んでいます、憎んでいます。私は人々を憎んでいるし、それが苦痛の原因になります。それに気づいています。私はどうすべきでしょうか。それは私の人生においてとても動揺させる要因です。私はどうすべきでしょうか。どのようにして本当にそれから自由になるべきでしょうか-ただちょっとの間(瞬間的に)それを脱ぎ捨てる(脱却する)のではなく、根本的にそれから自由になるのです。私はそれをどうすべきでしょうか。
 それが私にとっての問題です。なぜなら、それは私を動揺させるからです。もしもそれが私を動揺させるものでなかったなら、私にとって問題ではないのではないでしょうか。それが苦痛、動揺、心配の原因になるから、それは醜いと思うから、私はそれを取り除きたいのです。ゆえに私が嫌っているものは、動揺なのではないでしょうか。私は違ったとき、違った気分で、違った名前を、それに付けます。ある日、私はそれをこれだと呼び、他の日、何か他のものだと呼びますが、願望は、基本的に動揺させられないことです。そうではないでしょうか。楽しみは動揺させないから、私はそれを受け入れます。私は楽しみから自由になりたくないのです。なぜなら動揺がないからです-少なくとも今のところは(さしあたりは)。しかし憎しみ、恨みは、私の生においてとても動揺させる要因ですし、それらを取り除きたいのです。
(´・(ェ)・`)つ

317鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/16(金) 22:29:44 ID:1d4drIFg0
理解が言葉や観念だけでは本当の理解ではないというのじゃ。
むしろそれは本当の理解の妨害になるとまでいうのじや。
部分的にしか理解していないからなのじゃ。
全体として理解しなければいかんのじや。

318避難民のマジレスさん:2020/10/17(土) 21:41:45 ID:U9XfzBUM0
最初と最後の自由 第二部質疑応答十三 憎しみについて 2

 私の関心事は動揺させられないことです。そして決して動揺させられない仕方を見つけようとしています。なぜ私は動揺させられるべきでないのでしょうか。見出すには、動揺させられなければならないのではないでしょうか。見出すには、ものすごい激変・変動、騒動、心配を経なければならないのではないでしょうか。私は動揺させられないなら、眠ったままでいるでしょうし、おそらくそれが、私たちのほとんどがたしかに欲しいものです-められ・静められること、眠りにつかされる(安楽死させられる・麻酔をかけられる)こと、どんな動揺からも逃げること、孤立、隔離(隠遁)、安全を見つけることです。私は動揺させられることを気にしないなら-本当に、ただ表面的にだけでなく、動揺させられることを気にかけないなら-なぜなら私は見出したいからです-そのとき憎しみに向かう、恨みに向かう私の態度は、変化を受けるのではないでしょうか。動揺させられることを気にかけないなら、そのとき名前は重要ではないのではないでしょうか。「憎しみ」という言葉は重要ではないのではないでしょうか。また人々に対する「恨み」も重要ではないのではないでしょうか。なぜなら、そのとき私は、その経験を言葉にすることなしに、恨みと呼ぶその状態を、直接に経験しているからです。
 憎しみと恨みがそうであるように、怒りはとても動揺させる性質です。私たちのほとんどは、怒りを言葉にすることなく、直接にそれを経験しないのです。私たちがそれを言葉にしないなら、それを怒りと呼ばないなら、確かに違った経験があるのではないでしょうか。私たちはそれを用語づけるから、新しい経験を縮小・削減したり、それを古いものの用語に固定させるのです。ところが、私たちがそれに名づけないなら、そのとき直接に理解される経験があるのです。この理解が、その経験に変容をもたらすのです。
(´・(ェ)・`)つ

319鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/17(土) 21:52:48 ID:1d4drIFg0
動揺とは苦とも言い換えられるじゃろう。
苦があるからそれから逃れたいと思うのじゃ。
苦がなければ変容もいらないからのう。
憎しみや怒りや怨みも同じなのじゃ。
それを言葉ではなくありのままに観る時、変容も起こるのじゃ。

320避難民のマジレスさん:2020/10/19(月) 20:45:32 ID:7jrpjuM20
最初と最後の自由 第二部質疑応答十三 憎しみについて 3

 卑しさ(賤しさ)を例に取りましょう。私たちのほとんどは、賤しいとしても、それに気づいていません-お金のことについて卑しい、人を許すことについて卑しい、ご存じでしょう、ただ卑しいことです。私たちはきっとそれに慣れ親しんでいると思います。そこでそれに気づくと、どのようにしてその性質から自由になろうとしているでしょうか-寛大になることではありません。それは重要な点ではありません。卑しさから自由であるとは、寛大という意味を含んでいます。あなたは寛大にならなくてもいいのです。明白に、それに気づいているにちがいありません。あなたは自分の社会・協会、友人に大きな寄付をすることにおいてとても寛大であるが、より多くのチップを払うことについてひどく卑しいかもしれません-ご存じでしょう。私のいう「卑しい」とはどういう意味なのかを。人はそれを意識していません。それに気づくとき、何が起きるでしょうか。私たちは意志を使って・行使して寛大であろうとします。それに打ち勝とうとします。私たちは自分たち自身を修練して寛大であろうとする、等々です。しかし結局、何かであろうとする意志の行使は、やはりより大きな輪のなかの卑しさの一部です。ですから私たちはそれらのことを何もしないで、それに用語を付けないで、たんに卑しさの含む意味に気づくだけなら、そのとき根元的変容が起きるということが、わかるでしょう。
 どうかこれを実験してみてください。初めに、動揺させられなければなりません。私たちのほとんどが動揺させられることを好まないのは明白です。私たちは生の様式を見つけてしまったと考えます-大師、信念、何であろうと-。そしてそこに身を落ち着かせるのです。それはよい官僚職を得て、残りの人生をそこで働く・職務を果たすのに似ています。それと同じ精神をもって、私たちは取り除きたいと思う様々な性質に接近するのです。私たちは動揺させられること、内面的に安全でないこと、依存していないことの重要性がわからないのです。確かに、あなたが発見するのは、わかるのは、理解するのは、安全でないことにおいてだけ、ではないでしょうか。私たちは沢山のお金を持つ気楽な人のようになりたいのです。彼は動揺させられないでしょう。動揺させられたくないのです。
 動揺は、理解にとって本質的・必要不可欠です。安全を見つけようとするどんな試みも、
理解にとって障害です。私たちが何か動揺させているものを取り除きたいと思うとき、それは確かに障害です。私たちは一つの気持ち・感情を名づけることなしに直接に経験できるなら、そこに沢山のことを見つけるだろうと、私は思います。そのときもはや、それとの戦いはありません。なぜなら経験者と経験されるものは一つであるからです。それは本質的です。経験者が感情、経験を言葉にするかぎり、自分自身をそれから分離して、それについて決定を下します(それに対して作用します)。そういう行動は作為的な幻影の行動です。しかし言葉にすることがなければ、そのとき経験者と経験されるものは一つです。その統合は必要ですし、根元的に向き合わなければなりません。
(´・(ェ)・`)つ

321鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/19(月) 22:30:08 ID:1d4drIFg0
賎しさとか動揺は気付くことで消えるというのじゃ。
言葉にして分類すればそれは消えないのじゃ。
それは観念になるからのう。
自他の無い気づきによってそれは消えるのじゃ。

322避難民のマジレスさん:2020/10/20(火) 22:03:55 ID:pCc6rk3k0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十四 うわさ話[ゴシップ]について 1

質問
 うわさ話は、自己開示・自己の正体を顕わにすることにおいて-特に他の人たちを私に開示することにおいて-価値があります。真剣に・本気で言って、なぜうわさ話を、あるがままを発見する手段として使わないのでしょうか。それがただ幾時代にわたって・長い間非難されてきたからといって、私は「うわさ話」という言葉に身震いし・おののきません。

 なぜうわさ話しをするのか、不思議に思います。それが私たちに他の人たちの正体を顕わにするから、ではありません。そしてなぜ他の人たちの正体が私たちに顕わにされるべきなのでしょうか。なぜあなたは、他の人たちを知りたいのでしょうか。なぜ他の人たちについての、このとてつもない関心 [があるの] でしょうか。まず最初に、なぜ私たちはうわさ話しをするのでしょうか。それは一つの形の落ち着きのなさ、なのではないでしょうか。心配・悩みと同じように、それは落ち着きのない精神の表示です。なぜ他の人たちに干渉し、他の人たちがしている [こと] 、言っていることを知りたいというこの願望 [があるの]でしょうか。うわさ話しをするのは、とても表面的な精神-誤った方向に向けられた詮索・探究好きな精神-なのではないでしょうか。彼 [質問者] が他の人たちに-彼らのすること、彼らの思考、彼らの意見に-関心を持つことによって、他の人たちの正体が顕わになると、質問者は考えているように見えます。しかし私たちは自分たち自身を知らないなら、他の人たちを知るでしょうか。私たちは自分たち自身の考え方、行動の仕方、行い方を知らないなら、他の人たちを判断できるでしょうか。なぜ他の人たちについての、このとてつもない関心 [があるの]でしょうか。他の人たちが考え、感じ、 [それについて] うわさ話をしていることを見出したいというこの願望は、ほんとうは逃避ではないでしょうか。それは、自分たち自身からの逃避を、提供してくれるのではないでしょうか。それにはまた、他の人たちの生に干渉したいという願望もないでしょうか。他の人たちの [生]を取り扱わなくても、他の人たちの [生]に干渉しなくても、私たち自身の生が十分困難で、十分複雑で、十分苦痛なのではないでしょうか。そのうわさ好きの、残酷な、醜い仕方で、他の人たちについて考える時間があるでしょうか。なぜ私たちはこれをするのでしょうか。あらゆる人がそれをするのを、あなたは知っています。実際上、あらゆる人が他の誰かについてうわさ話をします。なぜでしょうか。 私が思うには、まず最初に、私たちは自分たち自身の考える [過程]、自分たち自身の行動の過程に十分に興味がないから、他の人たちについてうわさ話をするのです。私たちは、他の人たちがしていることを見たい、そして親切に・丁寧に言うと、おそらく他の人たちを模倣したいのです。一般的に、私たちがうわさ話をするとき、それは他の人たちを非難するためです。しかし寛大に・思いやりを持って拡大解釈すると、それは他の人たちを模倣するためです。
(´・(ェ)・`)つ

323鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/21(水) 21:32:15 ID:1d4drIFg0
他人の私生活を知りたいという欲は大抵の者にあるものじゃ。
そのために週刊誌とかワイドショーが多くの視聴者を集めるのじゃ。
それもまた逃避に過ぎないのじゃ。
自分の苦痛から逃避するために他人を模倣したいと思うのじゃ。

324避難民のマジレスさん:2020/10/24(土) 20:59:44 ID:NpTi/yjM0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十四 うわさ話[ゴシップ]について 2

なぜ私たちは他の人たちを模倣したいのでしょうか。それはすべて、私たち自身の方のとてつもない浅さを表示していないでしょうか。興奮が欲しくて、それを得るためにそれ自身の外側に行くのは、とてつもなく鈍い精神です。言い換えると、うわさ話は 一つの形の感動なのではないでしょうか- [それに]私たちは耽るのです。それは違った種類の感動なのかもしれません。しかし、興奮、散漫・逸脱を見つけたいというこの願望が、いつもあるのです。ほんとうに深くこの疑問に入るなら、自分自身に戻って来ます-それは、自分がほんとうにとてつもなく浅い [こと]、他の人たちについて話しをすることにより、外側から興奮を求めていることを、示すのです。今度あなたが誰かについてうわさ話をしているとき、自分自身を捕らえてください。あなたがそれに気づくなら、それはあなたに自分自身についてすごく多くのことを、表示してくれるでしょう。自分はたんに他の人たちについて詮索・探究好きなだけであると言うことによって、それを覆い隠さないでください。それは、落ち着きのなさ、興奮の感覚、浅さ、人々へのほんとうの奥深い興味-それはうわさ話とは何の関わりもない-の欠如を、表示しています。
 次の問題は、どのようにしてうわさ話を止めるのか、です。それが次の疑問なのではないでしょうか。あなたは、自分がうわさ話をしていることに気づくとき、どのようにしてうわさ話をするのを止めるのでしょうか。それが来る日も来る日も続く習慣、醜いものごとになってしまったなら、あなたはどのようにしてそれを止めるのでしょうか。その疑問が生じるでしょうか。あなたは、自分がうわさ話をしているのを知るとき、自分がうわさ話をしていることに気づき、そのすべての意味合いに気づくとき、そのとき「どのようにして私はそれを止めるのか」と、自分自身に言うでしょうか。あなたは自分がうわさ話をしていることに気づいた瞬間、それはひとりでに止まないでしょうか。「どのようにして」は、全く・そもそも生じません。「どのようにして」は、あなたが気づいていないときだけ、生じるのです。そしてうわさ話は、気づきの欠如を表示しています。今度あなたがうわさ話をしているとき、自分自身でこれを実験してみてください。すると、あなたが話していることに気づき、あなたの舌があなたをとりこにして・あなたの自制心を失わせていることに気づくとき、いかにすばやく、いかに即時に、うわさ話を止めるかが、わかるのです。それを止めるのは、意志の作用を要求しません。必要であるすべては、あなたが言っていることに気づくこと、意識すること、それの意味合いがわかることです。あなたはうわさ話を非難したり正当化したりしなくていいのです。それに気づいてください。するとあなたは、いかにすばやく自分がうわさ話をするのを止めるかが、わかるでしょう。なぜなら、それは、自分自身の行動の仕方、自分の行い、思考様式を、自分自身に顕わにするからです。その開示において、自分自身を発見するのです-そのほうが、他の人たちについて [うわさ話をすること] 、彼らがしていること、彼らが考えていること、彼らがどのように行うのかについてうわさ話をすることよりも、はるかにもっと重要です。
(´・(ェ)・`)つ

325鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/24(土) 22:05:48 ID:1d4drIFg0
他人を模倣したいのは興奮したいからというのじゃ。
それもまた逃避の一つなのじゃ。
そのような繰り返しを止めるにはそれに気付けばよいというのじゃ。
意志とは関係なくそれは止まるのじゃ。
それが厭離なのじゃ。

326避難民のマジレスさん:2020/10/25(日) 14:40:16 ID:N0Rb0.AY0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十四 うわさ話[ゴシップ]について 3

 新聞を毎日読む私たちのほとんどは、うわさ話、全世界の・世界的なうわさ話で満ちています。それはすべて、自分たち自身からの、自分たち自身の卑小さからの、自分たち自身の醜さからの逃避です。私たちは、世界の出来事への表面的な興味をとおして、ますます自分たちは賢くなってゆく、ますます自分たち自身の生を扱う能力を持つようになってゆくと、思うのです。これらすべては、確かに、私たち自身から逃避する仕方なのではないでしょうか。私たち自身があまりに空っぽで浅いのです。私たちはあまりに自分たち自身に怯えています。うわさ話が一つの形の豊かな・豪華な娯楽、自分たち自身からの逃避として作用するほどに、私たち自身があまりに貧しいのです。私たちは自分たちのなかのその空っぽを、知識で、儀式で、うわさ話で、集団会合・集団的出会いで-無数の逃避の仕方で充たそうとするので、そのためあるがままについての理解 [が重要になるの]ではなく、逃避が非常に重要になるのです。あるがままについての理解は、注意を要求します。空っぽであること、苦痛 [の状態]にあることを知るには、逃避ではなく、測りしれない注意が要るのです。しかし私たちのほとんどはこれらの逃避が好きです。なぜならそれらのほうがもっと快く・愉快でもっと楽しいからです。また私たちがあるがままの自分たち自身を知るとき、自分たち自身を取り扱うことがとても難しいのです。それが、私たちが向き合っている問題の一つです。私たちはどうすべきなのかを知らないのです。私は、自分が空っぽであること、苦しんでいること、苦痛 [の状態]にあることを知るとき、どうすべきか、それをどう取り扱うべきかを知らないのです。それで私たちはすべての種類の逃避に頼る・訴えるのです。
 問題はどうすべきか、です。明白に、もちろん逃避はできません。というのは、それはもっとも不合理で幼稚であるからです。しかしあなたは、あるがままの自分自身に向き合うとき、何をすべきでしょうか。初めに、それを否定したり正当化しないで、ただそれ-あるがままの自分-とともにとどまることは、可能でしょうか。それは極めて困難です。なぜなら、精神は説明、非難、同一化を求めるからです。それがそれらのものごとのどれもしないで、それとともにとどまるなら、そのとき、それは何かを受け入れているのと同じです。私が [肌の色が]茶色・褐色であることを受け入れるなら、それで、それは終わりです。しかし私がもっと明るい色に変わりたいと望むなら、そのとき問題が生じるのです。あるがままを受け入れることはもっとも難しいのです。逃避がないときだけ、それができるのです。そして非難や正当化は、一つの形の逃避です。ゆえに、なぜうわさ話をするのかについての過程全体を理解するとき、その不合理さ、残酷さと、それに関与するものごとすべてを悟るとき、そのとき、あるがままとともに残されるのです。そして私たちはいつも、それを破壊しよう、またはそれを他の何かに変えようとして、それに接近するのです。私たちは、それらのものごとのどれもしないで、それを理解しよう、完全にそれとともにあろうという意図をもって、それに接近するなら、そのとき、もはや私たちが怖がったものがないということが、わかるでしょう。そのとき、あるがままを変容させる可能性があるのです。
(´・(ェ)・`)つ

327鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/25(日) 21:57:29 ID:1d4drIFg0
うわさ話に夢中になっているのは全て逃避というのじゃ。
逃避をやめるためにはあるがままの自分と向き合わなくてはならんのじゃ。
否定も正当化も無くあるがままの自分と向き合うのじゃ。
肯定も否定も無くあるがままの自分と向き合う時にのみそれを変容させる可能性があるというのじゃ。
困難なことではあるがのう。

328避難民のマジレスさん:2020/10/26(月) 18:43:15 ID:tJzoXanI0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十五 批判について 1

質問
 批判は、関係のなかで、どんな持ち場があるのでしょうか。破壊的 [批判]と建設的批判の間の違いは何でしょうか。

まず最初に、なぜ私たちは批判するのでしょうか。それは理解するためでしょうか。それともそれはたんに口うるさい・口やかましい過程でしょうか。私はあなたを批判するなら、あなたを理解するでしょうか。理解は、判断をとおして来るでしょうか。私は、あなたとの関係の意義全体を、表面的にではなく深く了解したいなら、理解したいなら、あなたを批判しはじめるでしょうか。それとも私は、あなたと私の間のこの関係に気づいて、それを静かに観察するでしょうか-私の意見、批判、判断、同一化、非難を投影するのではなく、何が起きているかを静かに観察するのです。そして私が批判しないなら、何が起きるでしょうか。眠りがちになる・眠りそうになるのではないでしょか。それは、私たちは口やかましく言っているなら眠らない、という意味ではありません。おそらくそれは習慣になるし、私たちは習慣をとおして自分たち自身を眠らせるのです。批判をとおして、関係についてのより深い、より広い理解があるでしょうか。批判が建設的であるか破壊的であるかどうかは、大事なことではありません-それは確かに不適切・見当違いです。ゆえに疑問は「関係を理解するであろう精神と心の必要な・必然の状態は何か」です。理解する過程は何でしょうか。どのようにして私たちは何かを理解するのでしょうか。あなたは自分の子供に興味があるなら、どのようにして自分の子供を理解するのでしょうか。あなたは観察するのではないでしょうか。あなたは遊んでいる彼を見守ります。あなたは違った気分の彼を研究します。あなたは彼に自分の意見を投影しません。あなたは彼にあれこれであるべきだと言いません。あなたは鋭敏に見守っているのではないでしょうか。活発に気づいているのです。そのときおそらく、あなたは子どもを理解しはじめます。あなたは常に批判し、自分自身の特定の人格・性格、性向、意見を常に注入し、彼があるべき、あるべきでない道を決定し、その他すべてをしているなら、明白に、その関係に障壁を造り出すのです。不幸にも、私たちのほとんどは、形造るため、干渉するために、批判するのです。何かを-夫、子ども、誰であろうと [との] 関係を-形造ることは、一定量の楽しみ、一定の喜びを、私たちに与えてくれるのです。あなたはそのなかに力の感覚を感じるのです。あなたは長・主人です。それには、ものすごい喜びがあるのです。確かに、そのすべての過程をとおして、関係の理解はないのです。たんなる賦課 [だけがある] 、あなたの性向、願望、願いの特定の様式に、もう一人を型どりたいという願望だけがあるのです。これらすべてが、関係の理解を妨げるのではないでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ

329鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/26(月) 22:44:21 ID:1d4drIFg0
批判することは破壊的でも、建設的でもただ障壁を作り出し、理解の妨げになるというのじゃ。
それもまた逃避の一つに過ぎないのじゃ。
理解するにはただありのままに観察する事が大事だというのじゃ。
どのようにすべきとか思わずただ鋭敏に見守っている時に理解が在るのじゃ。

330避難民のマジレスさん:2020/10/28(水) 21:55:52 ID:hqpPt0vs0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十五 批判について 2

 それから自己批判があります。自分自身に批判的であること、自分自身を批判し、非難し、正当化すること-それは自分自身の理解をもたらすでしょうか。私は自分自身を批判しはじめるとき、理解する [過程]、探検する過程を制限しないでしょうか。内省 [つまり] 一つの形の自己批判は、自己を展開するでしょうか。自己の展開を可能にするのは何でしょうか。常に分析的で、恐れて、批判的であること-確かにそれは展開するのを助けません。あなたがそれを理解しはじめるほどに、自己の展開をもたらしてくれるものは、どんな非難もない、どんな同一化もない、それへの常なる気づきです。一定の自発性がなければなりません。あなたは常にそれを分析し、それを修練し、それを形造っていることはできません。この自発性は、理解するために・理解にとって本質的 [・不可欠]です。私はたんに制限し、制御し、非難するだけなら、そのとき思考と感情の動きを中止する・止めるのではないでしょうか。私が発見するのは、思考と感情の動きのなかでです-たんなる制御のなかではありません。発見するとき、それについてどのように行動するのかを見出すことが重要です。私は観念に応じ、規範に応じ、理想に応じて行動するなら、そのとき自己を特定の様式に押し込むのです。それには理解がありません。超越がありません。私がどんな非難もなく、どんな同一化もなく、自己を見守れるなら、そのときそれを越えてゆくことが可能です。そういうわけで、自己を理想に近づけるこの過程全体が、全く間違っているのです。理想は自家製の神です。自己投影されたイメ-ジに順応することは、確かに解放ではありません。
(´・(ェ)・`)つ

331鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/29(木) 21:05:40 ID:1d4drIFg0
自分を批判することもあるがままに自分を観ていないことになるのじゃ。
それは一種の自己正当化に他ならないのじゃ。
批判する自分は正しいという自己揚棄なのじゃ。
非難も同一化もなく自己を観まもることが超越というのじゃ。

332避難民のマジレスさん:2020/10/30(金) 20:23:32 ID:eGllDJ6Q0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十五 批判について 3

 こうして、精神が静かに気づき、観察しているときだけ、理解がありうるのです-それは困難です。なぜなら私たちは活動的であること・活動していること、落ち着かなく、批判的であること、非難し、正当化することに、喜びを感じるからです。それが、私たちの存在の構造全体です。そして観念、先入観、視点、経験、記憶の をとおして、私たちは理解しようとするのです。これらすべての幕から自由であって、そのため直接に理解することは、可能でしょうか。確かに私たちは、問題がとても強烈であるとき、そうします。私たちはこれらすべての方法を経てゆきません-それに直接に接近します。この自己批判の過程が理解されて、精神が静かであるときだけ、関係の理解は来るのです。あなたが私 [の言うこと]を聴いていて、私が伝えたいと願うことに、あまり大きな努力もなしに付いていこうとしているなら、そのとき私たちが互いに理解し合う可能性があるのです。しかしあなたがいつのときも批判して、自分の意見を、書物から学んできたこと、他の誰かが自分に言ったこと、などなどを吐き出して・投げつけているなら、そのときあなたと私は関係していません。なぜなら、この幕が私たちの間にあるからです。私たちが共に、問題の論点を見出そうとしているなら-それは問題自体にあります-私たちの双方が、それの底・根底に行こう、それの真理を見つけよう、それが何であるかを発見しようと熱望しているなら、そのとき私たちは関係しているのです。そのときあなたの精神は鋭敏で受動的であり、何がこれの真理なのかを見ようと見守っているのです。 ゆえにあなたの精神は、どんな観念や理想にも、どんな判断にも、自分の特定の経験をとおして固めてきたどんな意見にも固定されるのではなく、とてつもなくすばやく・敏速でなければなりません。受動的に気づいている精神のすばやい柔軟性があるとき、理解は確かに来るのです。そのときそれは受け取る・受容の能力があるのです。そのときそれは敏感です。精神は、観念、先入観、-賛成でも反対でも-意見を詰め込まれているとき、敏感ではありません。  
 関係を理解するには、受動的な気づきがなければなりません-それは関係を破壊しません。反対に、それは関係をはるかにもっと生き生きさせ、はるかにもっと意義深くするのです。そのときその関係には、ほんとうの愛情の可能性があるのです。暖かさが、親密さ・親近の感覚があります-それはたんなる感傷や感動ではありません。私たちがそのように接近でき、あらゆるものごととその関係にあることができるなら、そのとき私たちの問題-財産の問題、所有の問題-は、たやすく解決されるでしょう。なぜなら、私たちは自分たちが所有するものであるからです。お金を所有する人がお金です。自分自身を財産と同一化する人が、財産や家や家具です。観念や人々についても同様です。所有欲があるとき、関係はありません。私たちは所有しないなら、他に何も持たないから、私たちのほとんどは所有するのです。私たちは所有しないなら、家具、音楽、知識、あれこれで自分たちの生を充たさないなら、空っぽの貝殻・殻です。そしてその貝殻がたくさんの音・雑音を出すし、その音が生活と呼ばれるのです。私たちはそれで満足しているのです。それの破裂・崩壊、急変・切断があるとき、そのとき悲しみがあるのです。なぜなら、そのときあなたは突然、あるがままの自分自身-あまり意味のない空っぽの貝殻-を発見するからです。関係の内容全体に気づくことが行動です、その行動から、真の関係の可能性、それの大いなる深み、それの大いなる意義を発見する [可能性]、愛が何であるかを知る可能性があるのです。
(´・(ェ)・`)つ

333鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/30(金) 23:10:46 ID:1d4drIFg0
先入観とか観念とか記憶による介入の無い精神が静かな観察をしているときだけ理解はあると言うのじゃ。
それら観念などがあれば理解は無いのじゃ。
関係性の理解は受動的な気づきからくるのじゃ。
その時、真の愛があると言うのじゃ。

334避難民のマジレスさん:2020/10/31(土) 20:06:35 ID:ZRMAMl/o0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十六 神への信念について 1

質問
 神への信念は、よりよい生活への強力な誘因・動機でした。なぜあなたは神を否定されるのでしょうか。なぜあなたは、神の観念への人の信仰を蘇らせ・復活させないのでしょうか。

 問題を、広く智恵をもって見つめましょう。私は神を否定していません-そうすることは愚かでしょう。真実を知らない人だけが、無意味な言葉に耽るのです。知っていると言う人は、知りません。瞬間瞬間真実を経験している人は、その真実を伝達する手段を持たないのです。
 信念は真理の否定です。信念は真理の障害です。神を信じることは、神を見つけることではありません。信じる者も信じない者もどちらも、神を見つけないでしょう。なぜなら、真実は知られないものであるからです。知られないものへのあなたの信や不信は、たんに自己投影です。ゆえに真実ではありません。あなたが信じているのを、私は知っています。そしてそれは、あなたの生においてほとんど意味がないのを、私は知っています。信じている多くの人たちがいます。何百万もの人たちが神を信じているし、慰安を受けています。まず最初に、なぜあなたは信じるのでしょうか。それがあなたに満足、慰安、希望を与えてくれるから、あなたは信じるのです。そしてそれが生に意義を与えてくれると、あなたは言うのです。現実には、あなたの信念はほとんど意義がありません。なぜなら、あなたは信じて搾取 [・利用]する、信じて殺す、普遍的な神を信じて、互いに殺し合うからです。富裕な人もまた神を信じています。彼は無慈悲に搾取し、金を蓄積します。それから寺院を建てたり、社会奉仕家・慈善家になったりします。
 広島に原子爆弾を落とした人たちは、神が自分たちと共にいると、言いました。ドイツを破壊しようとイギリスから飛んだ・飛行機に乗った人たちは、神が自分たちの副操縦士・操縦助士であると、言いました。独裁・指令者、総理大臣・首相、将軍、大統領、すべてが神について話しをします。彼らは神への測りしれない信仰を持っています。彼らは人のために奉仕をし、よりよい生を作っているでしょうか。自分たちは神を信じていると言う人たちは、世界の半分を破壊してきたのです。世界は完全な悲惨 [の状態]にあるのです。宗教的不寛容をとおして、信じる者と信じない者としての人々の分割がありますし、宗教戦争につながっています。それは、あなたがいかにとてつもなく政治的精神を持っているかを、表示しています。
(´・(ェ)・`)つ

335鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/31(土) 22:02:51 ID:1d4drIFg0
クリシュナムルティは神を否定しないというのじゃ。
しかし、神を信じるのは満足を求めているからというのじゃ。
神を信じる者は金を貯めて戦争を引き起こすというのじゃ。
それはただ観念への囚われでしかないから悲惨を引き起こすのみなのじゃ。

336避難民のマジレスさん:2020/11/01(日) 12:31:02 ID:zvxCgIyg0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十六 神への信念について 2

 神への信念は、「よりよい生活への強力な誘因」でしょうか。なぜあなたはよりよい生活への誘因がほしいのでしょうか。確かにあなたの誘因は、清く単純に生きたいというあなた自身の願望であるにちがいないのではないでしょうか。あなたは誘因に頼るなら、みんなのために生を可能にすることに興味がないのです。あなたはたんに自分の誘因に興味があるのです-それは私の [誘因]とは異なっています-それで私たちは誘因のことでけんかするでしょう。私たちは、神を信じているからではなく、人間であるから、一緒に幸せに生きるなら、そのときみんなのためにものを産み出す・生産するための完全な生産の手段を共有するでしょう。智恵の欠如をとおして、私たちは神と呼ばれる超智恵の観念を受け入れるのです。しかしこの「神」、この超智恵は、私たちによりよい生活を与えてくれそうにありません。よりよい生活に導くものは智恵です。そして信念があるなら、階級分割があるなら、生産の手段が少数者の手中にあるなら、孤立化した国家 [・民族]と独立政権があるなら、智恵はありえません。このすべては明白に、智恵の欠如を表示しています。よりよい生活を妨げているのは、智恵の欠如であって、神への不信ではありません。
 あなたたちはみんな、異なった仕方で信じています。しかしあなたの信念は全く何の真実性もありません。真実は、あなたのあるがまま、あなたのすること、あなたの考えることです。あなたの神への信念は、たんに自分の単調な愚かな残酷な生からの逃避です。そのうえ・さらに、信念は必ず人々を分割します。ヒンドウ-教徒、仏教徒、キリスト教徒、共産主義者、社会主義者、資本主義者などがあります。信念、観念は分割するのです。それは決して人々を一つにまとめません。あなたは少数の人々を一つの集団にまとめるかもしれません。しかしその集団はもう一つの集団と対立しているのです。観念と信念は決して統合していません。反対に、それらは分離的で、崩壊的で、破壊的です。ゆえに、あなたの神への信念は、ほんとうは世界に悲惨を広げているのです。それはあなたに瞬間の慰安をもたらしたかもしれないけれども、現実には、戦争、飢饉、階級分割、分離した個人の無慈悲な行動という形で、あなたにもっと多くの悲惨と破壊をもたらしたのです。それであなたの信念は全く妥当性がありません。もしもあなたがほんとうに神を信じていたなら、もしもそれがあなたにとってほんとうの経験であったなら、そのときあなたの顔に微笑みがあるでしょう。あなたは人間を破壊していないでしょう。
(´・(ェ)・`)つ

337鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/01(日) 21:41:20 ID:1d4drIFg0
神を信じるのはよりよい生活をもとめているからというのじゃ。
しかし、それはよりよい生活は与えてくれないのじゃ。
むしろ無智に導く逃避だというのじゃ。
神や何かの主義を信念として持つ者はそれによって分裂するのみなのじゃ。

338避難民のマジレスさん:2020/11/02(月) 18:53:42 ID:0QoXVJ3I0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十六 神への信念について 3

 では真実とは何でしょうか。神とは何でしょうか。神は言葉ではありません。言葉はもの
ごと・実体ではありません。測ることのできない、時間のものではないものを知るには、精神は時間から自由でなければなりません-それは、精神が、神についてのすべての思考から、すべての観念から自由でなければならない、という意味です。あなたは、神や真理について何を知っているでしょうか。あなたはその真実について、ほんとうは何も知らないのです。あなたが知っているすべては、言葉 [です]、他の人たちの経験や、或る瞬間のあなた自身のかなり漠然とした・あいまいな経験です。確かに、それは神ではありません。それは真実ではありません。それは時間の領域を越えていません。時間を超えているものを知るには、時間の過程が理解されなければなりません-時間は思考過程、なりゆく・なろうとする過程、知識の蓄積です。それが精神の背景 [・地盤]全体です。精神自体が、意識と無意識、集団と個人両方の背景 [・地盤] です。それで精神は、知られたものから自由でなければなりません-それは、精神が静寂にされるのではなく、完全に静寂でなければならない、という意味です。結果としての [静寂] 、決然とした・決断された行動から、実践から、修練から出てきたものとしての静寂を達成する精神は、静寂な精神ではありません。強いられ、制御され、形造られ、枠にはめられ、静かにしている精神は、静寂な精神ではありません。あなたは、一定時間、精神を表面的に静寂であるよう強いることに、成功するかもしれません。しかしそういう精神は、静寂な精神ではありません。あなたが思考の過程全体を理解するときだけ、静寂が来るのです。なぜなら、過程を理解することが、それを終わらせることであるからです。思考の過程の終わりが、静寂の始まりです。
 精神が、上の水準でだけでなく根本的に、ずっととおして-意識の表面的な [水準]とともにより深い水準でも-完全に静寂であるときだけ、そのときだけ知られないものが生じうるのです。知られないものは、何か精神により経験されるものではありません。静寂のみが経験されうるのです-静寂以外に何も [経験]されえません。精神が静寂以外に何かを経験するなら、それはたんにそれ自身の願望を投影しているだけです。そういう精神は静寂ではありません。精神が静寂でないかぎり、意識的、無意識的などんな形でも、思考が動き [の状態]にあるかぎり、静寂はありえません。静寂は、過去から、知識から、意識的とともに無意識的な記憶からの自由です。精神が使われず・使用中でなく、完全に静寂であるとき、努力の産物ではない静寂があるとき、そのときだけ、時間のないもの、永遠のものが、たしかに生じるのです。その状態は、覚えておく状態ではありません-覚えておく、経験する実体はありません。
 ゆえに、神や真理-何であれ-は、瞬間瞬間生じるものです。それは、精神が様式に応
じて修練されるときではなく、自由と自発性の状態においてだけ、起きるのです。神は精神のものごとではありません。それは自己投影をとおして来ません。それは、美徳、すなわち自由があるときだけ、来るのです。美徳は、あるがままの事実に向き合うことです。事実に向き合うことは至福の状態です。精神が、それ自身のどんな動きもなく、意識的、無意識的な思考の投影がなく、至福に満ちて、静かであるときだけ-そのときだけ、永遠のものが生じるのです。
(´・(ェ)・`)つ

339鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/02(月) 21:56:28 ID:1d4drIFg0
言葉はものこどそのものではないというのじゃ。
それ故に人は神も真実も知らないのじゃ。
静寂な精神によって永遠のものが生じるというのじゃ。
思考や意識的な心の働きが無い時だけそのような静寂があるというのじゃ。

340避難民のマジレスさん:2020/11/03(火) 19:15:23 ID:cjHTbEFw0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十七 記憶について 1

質問
 記憶は、あなたが言われるには、不完全な経験です。私は、あなたの以前の講話の記憶と生々しい・あざやかな印象を持っています。どうかこの観念を、そのすべての詳細において説明してください。

 私たちの言う記憶とは、どういう意味でしょうか。あなたは学校へ行くし、事実で、技術的な知識で満ちています。あなたは技師であるなら、橋を建てるために、技術的な知識の記憶を使います。それは事実に基づく・関する記憶です。また心理的な記憶もあります。あなたは私に何か楽しいことや楽しくないことを言いました。すると私はそれを持ち続けます。私は次にあなたに会うとき、その記憶-あなたが言ったり、言わなかったことの記憶-をもってあなたに会います。記憶には二つの面-心理的なものと事実に基づく・関するもの-があります。それらはいつも相互に関係しています。ゆえにはっきり切られません。事実に基づく記憶は、生計の手段として不可欠 [・本質的]であることを、私たちは知っています。しかし心理的な記憶は不可欠 [・本質的]でしょうか。心理的な記憶を持ち続ける要因は何でしょうか。侮辱や賞讃を、心理的に覚えておかせるのは何でしょうか。なぜ一定の記憶を持ち続けて、他のものを拒絶するのでしょうか。明白に、楽しい記憶は持ち続けて、楽しくない記憶は避けるのです。あなたは観察するなら、苦しい・痛みを伴う記憶は、楽しいものよりもっとすばやく脇へ置かれることが、わかるでしょう。精神は記憶です-どんな水準でも、それをどんな名前で呼ぼうとも、です。精神は過去の産物です。それは過去-すなわち記憶、条件づけられた状態-に基づいて・を根拠にしています。そこで、その記憶をもって、私たちは生に出会います。新しい挑戦に出会います。挑戦はいつも新しいのですが、私たちの応答はいつも古いのです。なぜなら、それは過去から出てきたものであるからです。それで記憶なしに経験することは一つの状態ですし、記憶をもって経験することはもう一つ [の状態]です。すなわち、挑戦があります-それはいつも新しいのです。私は古いものの応答をもって、条件づけをもって、それに出会います。それで何が起きるでしょうか。私は新しいものを吸収します。それを理解しません。そして新しいものを経験することは、古いものにより条件づけられるのです。ゆえに、新しいものの部分的理解があるのです。決して完全な理解はないのです。それが記憶の傷跡を残さないのは、何ごとについても完全な理解があるときだけです。
 挑戦があるとき-それはいつも新しいのです-あなたは古いものの応答をもって、それに出会います。古いものは新しいものを条件づけます。ゆえにそれをねじ曲げ、それに偏向を加え、ゆえに新しいものが古いものに吸収されて、それに応じて古いものを強めるほどに、新しいものの完全な理解がないのです。これは抽象的に見えるかもしれません。しかしあなたが少しきっちりと気をつけてそれに入るなら、それは難しくありません。現在の世界の状況・情勢は、世界の問題-それは常に新しいのです-への新しい接近、新しい取り組み方を要求します。私たちはそれに新たに接近する能力がありません。なぜなら、私たちは、自分たちの条件づけられた精神をもって、 国家[・民族]的、局地・地方的、家族的、宗教的な先入観をもって、それに接近するからです。私たちの以前の経験が、新しい挑戦の理解にとって障壁として作用しています。それで私たちは記憶を育成し、強めつづけるし、ゆえに決して新しいものを理解しないのです。決して充分に、完全に、挑戦に出会わないのです。それは、過去なしに、新たに、新鮮に、挑戦に出会うことができるときだけです。そのときだけ、それはその結実・成果、その豊かさをもたしてくれるのです。
(´・(ェ)・`)つ

341鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/03(火) 22:25:26 ID:1d4drIFg0
記憶には二つの面があると言うのじゃ。
事実に基づく生活に役立つ面と、条件付けなどで生きることに制限を加えるものなのじゃ。
後者の性質に拠って新しい経験をすることはできないというのじゃ。
過去の記憶や経験に拠らない時にのみ新しいものごとにあい、その成果を得られるというのじゃ。

342避難民のマジレスさん:2020/11/04(水) 20:37:32 ID:caBPdlkw0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十七 記憶について 2

 質問者は、「私は、あなたの以前の講話の記憶と生々しい・あざやかな印象を持っています。どんな意味で、それは不完全な経験なのでしょうか」と言います。それがたんに印象、記憶だけであるなら、明白にそれは不完全な経験です。あなたが言われてきたことを理解し、それの真理がわかるなら、その真理は記憶ではありません。真理は記憶ではありません。なぜなら、真理は常に新しく、常にそれ自体を変容させているからです。あなたは以前の講話の記憶を持っています。なぜでしょうか。あなたは以前の講話を導きとして使っているから、それを充分に理解しなかったのです。あなたはそれに入りたいのです。それで意識的、無意識的に、それは維持・保持されているのです。あなたは何かを完全に理解する、すなわち何かについての真理が全体的にわかるなら、何の記憶もないことを見つけるでしょう。私たちの教育は、記憶の育成、記憶の強化です。あなたたちの宗教的実践と儀式、あなたの読書と知識は、すべて記憶の強化です。それはどういう意味でしょうか。なぜ私たちは記憶にすがるのでしょうか。 [人は] 成長するにつれて、過去を、それの喜び、それの苦痛、それの楽しみを振り返る・回想することに、あなたが気づいたことがあるかどうか、私は知りません。若ければ、未来の方を見ます。なぜ私たちはこうするのでしょうか。なぜ記憶がこんなに重要になってしまったのでしょうか。私たちがどのようにして現在において全体的に、完全に生きるのかを知らないという単純で明白な理由のためです。私たちは未来への手段として、現在を使っています。ゆえに、現在は意義を持たないのです。私たちは未来への通路として現在を使っているから、現在において生きられないのです。私は何ものかになろうとしているから、自分自身についての完全な理解が決してないのです。自分自身を、今まさに私が何であるかを・今まさにあるがままの私を理解するには、記憶の育成を必要としません。反対に、記憶は、あるがままの理解にとって障害です。精神が記憶の網に捕らわれていないときだけ、新しい思考、新しい感情は来るということに、あなたが気づいたことがあるかどうか、私は知りません。二つの思考の間、二つの記憶の間に間隔があるとき、その間隔が維持されうるとき、そのとき、その間隔から、もはや記憶ではない新しい存在の状態が、来るのです。私たちは記憶を持っています。そして継続の手段として記憶を育成します。記憶の育成が存在しているかぎり、「私」と「私の」が、とても重要になるのです。私たちのほとんどは、「私」と「私の」で作り上げられているので、記憶が私たちの生においてとても重要な役割を演じるのです。もしもあなたが記憶を持たなかったなら、あなたの財産、あなたの家族、あなたの観念は、それほど重要(というほどのもの)ではないでしょう。それで「私」と「私の」に強さを与えるために、あなたは記憶を育成するのです。あなたは観察するなら、二つの思考の間、二つの情動の間に間隔があることがわかるでしょう。その間隔には-それは記憶の産物ではありません-「私」と「私の」からのとてつもない自由があるのです。その間隔は時間がないのです。
(´・(ェ)・`)つ

343鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/04(水) 22:30:35 ID:1d4drIFg0
真理は記憶ではないというのじゃ。
言葉にも知識にも出来ず、今ここで常に新しいものであるというのじゃ。
記憶はそれを感じる障害になるだけなのじゃ。
記憶は自分と、自分のもので全てを解釈するから新しいものごとは感じられないのじゃ。

344避難民のマジレスさん:2020/11/05(木) 20:39:22 ID:n0q2q3AQ0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十七 記憶について 3

 問題を違ったふうに見てみましょう。確かに記憶は時間なのではないでしょうか。記憶は、昨日・今日・明日を造り出します。昨日の記憶が、今日を条件づけます。ゆえに明日を形造ります。すなわち過去が、現在をとおして未来を造り出します。時間の過程が続いています-それがなろうとする意志です。記憶は時間です。時間をとおして、私たちは結果を達成したいと願うのです。私は今日は事務員・店員です。そして時間と機会を与えられるなら、経営者や所有者になるだろう。ゆえに、私は時間を持たねばなりません。同じ精神性・精神をもって、「私は真実を達成するだろう。神に接近するだろう」と、私たちは言うのです。ゆえに、私は実現するために時間を持たねばなりません-それは、何かであるため、達成するため、獲得するために、実践により、修練により、記憶を育成し、記憶を強めなければならない、という意味です-それは、時間における継続、という意味です。時間をとおして、私たちは時間のないものを達成したいと願います。時間をとおして、私たちは永遠のものを獲得したいと願います。あなたはそれができるでしょうか。あなたは、記憶、すなわち時間のものをとおして、永遠のものを時間の網にかけられるでしょうか。時間のないものは、記憶、すなわち「私」と「私の」が止むときだけ、ありうるのです。あなたがそれの真理-時間をとおして、時間のないものは理解することも受け取ることもできないということ-がわかるなら、そのとき、私たちは記憶の問題に入れるのです。技術的なものごとの記憶は必要不可欠です。しかし、自己、「私」、「私の」を維持する [記憶]、同一化と自己継続を与える心理的な記憶は、生と真実にとって全面的に有害です。それの真理がわかるとき、虚偽はなくなります・離れ落ちます。ゆえに、昨日の経験の心理的保持はないのです。
 あなたは、うるわしい夕暮れを、野原の美しい木を見ます。そしてあなたは初めにそれを見るとき、それを完全に、全面的に楽しみます。しかしあなたは、それをもう一度楽しみたいという願望をもって、それに戻ります。あなたがそれを楽しみたいという願望をもって戻るとき、何が起きるでしょうか。楽しみはありません。なぜなら、今あなたを戻らせているのは、あなたに楽しむよう強要し、駆り立てているのは、昨日の夕暮れの記憶であるからです。昨日は記憶がなく、自発的な理解・評価、直接の応答だけがあったのです。今日は、あなたは昨日の経験を取り戻したい・再び捕らえたいと望んでいるのです。すなわち、記憶が、あなたと夕暮れの間に干渉し・介入しています。ゆえに楽しみはないのです。豊かさ、美しさの充足はないのです。また、あなたは友だちを持っています-彼は昨日あなたに何かを、侮辱やお世辞を言いました。それであなたはその記憶を持ち続けます。その記憶をもって、あなたは今日、友だちに会います。あなたはほんとうは友だちに出会わないのです-あなたはきのうの記憶を携えています-それが介入する・干渉するのです。それで私たちは、自分たち自身と自分たちの行動を、記憶で取り囲みつづけるのです。ゆえに新しさ、新鮮さがないのです。そういうわけで、記憶は生を、疲れて鈍く空っぽにするのです。私たちは互いに敵対して生きています。なぜなら、「私」と「私の」が、記憶とおして強められるからです。記憶は、現在の行動をとおして生き返ります。私たちは、現在をとおして、記憶に生命を与え・活気づけます。しかし私たちが記憶に生命を与えないとき、それは消えてしまい・消えてゆきます。事実の、技術的なものごとの記憶は、明白に必要です。しかし心理的な保持としての記憶は、生の理解、互いの疎通にとって有害です。
(´・(ェ)・`)つ

345鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/05(木) 22:36:12 ID:1d4drIFg0
記憶とは時間なのじゃというのじゃ。
時間を通して人は結果を達成したいという欲を持つのじゃ。
昨日の記憶にょって今ここにあることを取り逃がすというのじゃ。
記憶は自分と、自分のものを分別するものであるから生と真実には有害なのじゃ。
技術に記憶は必要であるが、生の理解には記憶が障害になるともいうのじゃ。


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