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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば

1避難民のマジレスさん:2020/06/23(火) 08:14:59 ID:wCRrWiVM0
前スレ
鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5- なんでも避難所 -
URL: https://jbbs.shitaraba.net/study/8276/

2避難民のマジレスさん:2020/06/23(火) 08:20:08 ID:wCRrWiVM0
訂正
前スレURL
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1560853465/

3鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/06/23(火) 22:58:44 ID:1d4drIFg0
世界には多くの政治的指導者や独裁者が現れては消えていったが、皆混乱を増すばかりだったのじゃ。
その者達自身が混乱していたからなのじゃ。
実際には欲しても居ない権力とか理想に取り付かれていたのじゃ。
そのような混乱から混乱を生み出して行ったのじゃ。

4避難民のマジレスさん:2020/06/23(火) 23:18:31 ID:yBquKmmc0
最初と最後の自由  第一部
第三章 個人と社会 2

 問題を理解したいと願う精神は、問題を完全に、全体的に理解しなければならないだけではなく、それにすばやく付いていくことができなければなりません。なぜなら、問題は決して静止していないからです。問題はいつも新しいのです-飢餓の問題でも、心理的な問題でも、どんな問題でも、です。どんな危機もいつも新しいのです。ゆえに、それを理解するには、精神はいつも新鮮で、明晰で、その追求においてすばやくなければなりません。私が思うには、私たちのほとんどは、内側の革命の緊急性を悟っているのです-それのみが外的なもの、社会の根本的変容をもたらしうるのです。これが、私自身と真剣に意図を持つ人たち皆が専心している問題です。どのようにして社会に基本的、根本的変容をもたらすのかが、私たちの問題です。この外的なものの変容は、内的革命なしには起こりえません。社会はいつも静止しているから、この内側の革命なしに成し遂げられるどんな行動、どんな改革も、等しく静止的になるのです。それで、この常なる内側の革命なしには、希望はないのです。なぜなら、それなしには、外的行動は反復的、習慣的になるからです。あなたと他の一人との間の、あなたと私との間の関係の行動 [・作用] が社会です。そして、この常なる内側の革命、創造的、心理的変容がないかぎり、その社会は静止的になります。それは命を与える性質がありません。そして社会がいつも静止し、凝結ししつつあり、ゆえに常に壊されなくてはならないのは、この常なる内側の革命がないからです。
 あなた自身と、あなたのなかとまわりの悲惨、混乱との[間の]関係は何でしょうか。確かにこの混乱、この悲惨は、それ自体で生じたのではありません。あなたと私がそれを造り出したのです。資本主義の [社会] でも共産主義の [社会] でもファシストの社会でもなくて、あなたと私が、私たちの互いとの関係においてそれを造り出したのです。あなたが中で何であるかが、外に、世界に投影されてきたのです。あなたのあるがまま、あなたが考えること、感じること、あなたが日常の存在ですることが、外側に投影されるし、それが世界を構成するのです。私たちが中で悲惨で混乱し混沌としているなら、投影によってそれが世界になる、それが社会になるのです。なぜなら、あなた自身と私自身との [間] 、私自身と他の一人との [間の] 関係が社会であるからです-社会は、私たちの関係の産物です-私たちの関係が混乱し、自己中心的で、狭くて、制限されて、国家主義・民族主義的であるなら、私たちはそれを投影して世界の中に混沌をもたらすのです。
(´・(ェ)・`)つ

5避難民のマジレスさん:2020/06/23(火) 23:20:46 ID:yBquKmmc0
くまめも1-3-2b

内側の革命のみが、社会の根本的変容をもたらしうる。社会がいつも静止し、凝結ししつつあり、ゆえに常に壊されなくてはならないのは、この常なる内側の革命がないから。
自身と、まわりの悲惨、混乱は、それ自体で生じたのではない。私たちの互いの関係においてそれを造り出した。あなたのあるがまま、あなたが考えること、感じること、あなたが日常することが、外側に投影されるし、それが世界を構成する。私たちが中で悲惨で混乱し混沌としているなら、投影によってそれが世界になる、それが社会になる。なぜなら、私自身と他の一人との 関係が社会であるから。私たちの関係が混乱し、自己中心的で、狭くて、制されるなら、私たちはそれを投影して世界の中に混沌をもたらす。
(´・(ェ)・`)

6鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/06/24(水) 23:33:16 ID:1d4drIFg0
世界とは自らの心が作り出すものであるから、自分の心が悲惨で混乱していれば世界もそう見えるのじゃ。
心から悲惨と混乱が取り除かれれば、世界からもそれはなくなるのじゃ。
世界の変化は自らの心の変化なしには達成できないのじゃ。
自らの心を全体として理解すればそれは達成されるのじゃ。

7避難民のマジレスさん:2020/06/24(水) 23:47:20 ID:YYSZUkJs0
最初と最後の自由  第一部
第三章 個人と社会 3

 あなたのあるがままが世界なのです。それであなたの問題は世界の問題なのです。確かにこれは単純で基本的な事実なのではないでしょうか。一人との、または多数との私たちの関係において、私たちはどういうわけか、いつのときもこの点を見過ごしているように見えます。社会を造り出すのは [あなたと私であること] 、自分たちの生き方によって混乱か秩序をもたらすのは、あなたと私であるということを忘れて、私たちは体系をとおし、体系に基づいた観念や価値における革命をとおして、変更をもたらしたいのです。それで私たちは近くから始めなければなりません。すなわち、私たちの生計の立て方に [露呈し] 、観念や信念との関係に露呈している [ところの] 私たちの日常の生存に、日常の思考と感情と行動に、自ら関心を持たなければなりません。これが私たちの日常の生存なのではないでしょうか。私たちは生計の手段に、仕事を得ること、お金を稼ぐことに関心がある。私たちは自分たちの家族と、自分たちの隣人たちとの関係に関心がある。そして観念に、信念に関心がある、ということです。そこで、あなたが私たちの従事していること [・職務] を検討するなら、それは基本的に妬みに基づいています。それはただ生計を立てる手段のみではありません。社会は常なる葛藤・抗争 [の過程] 、常になろうとする過程であるように、構成されているのです。それは貪欲に、妬みに-あなたより上位の人への妬みに基づいているのです。事務員は経営者になりたいのです-それは、彼がただ生計を、生活の手段を得ることだけではなくて、地位と威信を取得することに関心があるということを、示しています。この態度は当然、社会に、関係に荒廃を造り出します。しかし、もしもあなたと私がただ生計に関心があるだけであったなら、私たちは、それを得る正しい手段を、妬みに基づかない手段を、見出すでしょう。妬みは、関係において最も破壊的な要因の一つです。なぜなら、妬みは力への、地位への欲望を表示しているからです。それは究極的に政治につながります。両者は密接に関係しています。事務員は経営者になろうと努めるとき、戦争を産み出す [ところの] 武力外交の創造の要因になるのです。それで彼は直接的に戦争に対応する [能力・] 責任があるのです。
 私たちの関係は何に基づいているでしょうか。あなた自身と私自身との [間] 、あなた自身と他の一人との [間の] 関係-すなわち社会は、何に基づいているのでしょうか。確かに、愛に [基づいているの] ではありません-私たちはそれについて話をするけれども。それは愛に基づいていません。なぜなら、もしも愛があったなら、あなたと私の間に秩序があるでしょう、平和が、幸せがあるでしょうから。しかし、あなたと私との [間の] その関係には、尊敬の形を装う多大の悪意があるのです。もしも私たちが共に思考において、感情において等しかったなら、尊敬はないでしょう。悪意はないでしょう。なぜなら、私たちは弟子と教師としてではなく、また妻を支配している夫としてではなく、また夫を支配している妻としてでもなく、出会っている二人の個人であるであろうからです。悪意があるとき、支配したいという欲望-すなわち嫉妬、怒り、激情を喚起するもの-があります。そのすべてが、常なる葛藤・抗争を-すなわち私たちがそれから逃避しようとするものを-私たちの関係に造り出します。これがさらなる混沌、さらなる悲惨を生み出すのです。
(´・(ェ)・`)つ

8避難民のマジレスさん:2020/06/24(水) 23:51:59 ID:YYSZUkJs0
くまめも1-3-3
社会は常なる葛藤・抗争の過程、常になろうとする過程であるように、構成されている。それは貪欲に、より上位の人への妬みに基づいている。それは、ただ生活の手段を得ることだけではなくて、地位と威信を得ることに関心があることを示している。この態度は、社会に、関係に荒廃を造り出す。
妬みは、関係において最も破壊的な要因の一つ。なぜなら、妬みは力への、地位への欲望を表示しているから。
社会は、愛に基づいているのではない。なぜなら、もしも愛があるなら、秩序が、平和が、幸せがあるだろうから。
もしも私たちが共に思考、感情において等しかったなら、尊敬はない。悪意はない。なぜなら、私たちは支配関係ではなく、出会っている二人の個人であるであろうから。
そのすべてが、常なる葛藤・抗争を、私たちの関係に造り出す。これがさらなる混沌、さらなる悲惨を生み出す。
(´・(ェ)・`)

9避難民のマジレスさん:2020/06/24(水) 23:56:08 ID:YYSZUkJs0
うむ。
くまの中の鬼和尚が、くまに語りかけ、
くまの中のケロヨンに、くまは語りかける。
で、ありますね。
(´・(ェ)・`)b

10鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/06/25(木) 22:58:38 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃろう。
社会の職務でさえ妬みに基づいているというのじゃ。
もっと金や地位のある者への妬みから金や地位をもっと欲しがるのじゃ。
その動機が妬みであるから社会には破壊の関係があるのみなのじゃ。
欲が更なる葛藤を生み混乱と悲惨があるばかりなのじゃ。

11避難民のマジレスさん:2020/06/25(木) 23:32:31 ID:0sYTGrsQ0
最初と最後の自由  第一部
第三章 個人と社会 4

 そこで、私たちの日常の生存の一部分である諸観念、信念、定式化に関しては、それらは私たちの精神を歪めていないでしょうか。というのは、愚かさとは何でしょうか。愚かさは、精神が造り出すそれらのものごとに、または手が産み出すそれらのものごとに、間違った価値を与えることなのです。私たちの思考のほとんどは、自己保護的な本能から発生するのではないでしょうか。私たちの諸観念は、ああ、それらのあまりに多くが、間違った意義、それら自体にはないものを受け取らないでしょうか。ゆえに、私たちは宗教的でも経済的でも社会的でも、どんな形でも信じているとき、神、観念、人から人を分離する社会体制、国家・民族主義などを信じているとき、確かに、間違った意義を信念に与えているのです-それは愚かさを表示しています。というのは、信念は人々を統合せず、分割するからです。それで私たちは、自分たちの生き方によって、秩序か混沌を、平和か抗争を、幸せか悲惨を生み出せるということが、わかるのです。
 それで私たちの問題は、静止している社会 [がありうるの] と同時に、この常なる革命が起きている個人がありうるのかどうか、ということなのではないでしょうか。すなわち、社会の革命は、個人の内的、心理的変化から始まらなければなりません。私たちのほとんどは、社会構造に根本的変化 が [起こるのを] 見たいのです。共産主義的な [手段] または他のどんな手段をとおしてでも社会的革命をもたらすこと-それが、世界で起きている戦いの全体です。そこで、社会的革命-すなわち人の外的構造に関する行動-があるなら、その社会的革命がたとえどんなに根本的であるとしても、個人の内側の革命がなく、心理的変容がないなら、まさにその本性が静止的なのです。ゆえに、反復的でなく、また静止的でなく崩壊しない社会、常に生きている社会をもたらすには、個人の心理的構造に革命があるということが必須なのです。というのは、内側の心理的革命のない、たんなる外的なものの変容は、ほとんど意義がないからです。すなわち、社会はいつも凝結し静止的になりつつあるし、ゆえにいつも崩壊しつつあるのです。たとえ法制度がどんなに多く、どんなに賢明に公布されるとしても、社会はいつも衰退の過程にあるのです。なぜなら、革命はたんに外側にではなく、内側に起こらなければならないからです。
(´・(ェ)・`)つ

12避難民のマジレスさん:2020/06/25(木) 23:34:11 ID:0sYTGrsQ0
くまめも1-3-4
観念、信念、定式化は私たちの精神を歪める。
愚かさとは精神または手が産み出ものごとに、間違った価値を与えること。
神、観念、人から人を分離する社会体制、国家・民族主義などを信じているとき、間違った意義を信念に与えている。それは愚かさを表示する。というのは、信念は人々を統合せず、分割するから。それで、自分たちの生き方によって、秩序か混沌を、幸せか悲惨を生み出せるということが、わかる。
心理的変容がないなら、まさにその本性が静止的。ゆえに、反復的でなく、また静止的でなく崩壊しない社会、常に生きている社会をもたらすには、個人の心理的構造に革命があるということが必須。
法制度がどんな多くても、社会はいつも凝結し静止的になりつつあり、いつも崩壊、衰退の過程にある。なぜなら、革命は外側にではなく、内側に起こらなければならないから。
(´・(ェ)・`)

13鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/06/26(金) 22:51:23 ID:1d4drIFg0
社会が変革しても個人の内側に変容が無ければ何の意義も無いというのじゃ。
 社会が幾ら変ったとしてもやはり権力闘争は続いてくのであるからのう。
イデオロギーの変化とか体制の変化と言っても実は何も変っていないのじゃ。
個人の心の変容だけが真の変化なのじゃ。

14避難民のマジレスさん:2020/06/26(金) 23:15:12 ID:vUSG9j0E0
うむ。
Kは、個人の戦い方の見本を見せたのでありましょうか?oshoと同じでありますね。
(´・(ェ)・`)b

15避難民のマジレスさん:2020/06/26(金) 23:16:52 ID:vUSG9j0E0
最初と最後の自由  第一部
第三章 個人と社会 5

 これを理解し、おろそかにしないことが重要であると、私は思います。外側の行動は成し遂げられたとき、終わっています、静止しています。個々人の間の関係、すなわち社会が、内側の革命から出てきたものでないなら、そのとき社会構造は静止しているので、個人を吸収し、ゆえに彼を等しく静止させ、反復的にするのです。これを悟ると、この事実のとてつもない意義を悟ると、同意や不同意の問題はありえません。社会はいつも凝結し、個人を吸収しつつあること、常なる創造的革命は、社会にではなく、外のものにではなく、個人にありうるだけだということは、事実です。すなわち創造的革命は、個人の関係-それが社会です-においてだけ起こりうるのです。私たちは、インド、ヨ-ロッパ、アメリカ、世界のあらゆる地域の現在の社会の構造が、いかに急速に崩壊しつつあるかが、わかります。そして私たちはそれを、自分たち自身の生の中で知っています。私たちは通りを進んでゆきながら、それを観察できるのです。私たちの社会がぼろぼろに崩れかけているという事実を、偉大な歴史家に教えてもらわなくていいのです。そして新しい社会を創造するには、新しい建築家、新しい築き手がなければなりません。構造は、新しい基礎の上、新しく発見された事実と価値の上に築かれなければなりません。そういう建築家はまだ存在していません。築き手は誰もいません。誰一人、観察して、構造が崩壊しかけているという事実に気づいて、自分たち自身を建築家に変容させようとしていません。それが私たちの問題です。私たちは、社会がぼろぼろに崩れ、崩壊しかけているのが、わかります。そして建築家でなければならないのは、私たち、あなたと私なのです。あなたと私が価値を再発見して、もっと基礎的な、永続する基礎の上に築かなければならないのです。なぜなら、私たちは職業的建築家、政治的、宗教的建設者に頼るなら、まさに前と同じ位置にいるであろうからです。
あなたと私が創造的でないから、私たちは社会をこの混沌に陥らせたのです。ですから、あなたと私が創造的でなければならないのです。なぜなら問題は切迫しているからです。あなたと私は、社会の崩壊の原因に気づいて、たんなる模倣にではなくて私たちの創造的理解に基づいた新しい構造を、創造しなければなりません。そこで、これは否定的考えという意味を含んでいるのではないでしょうか。否定的考えは、最高の形の理解です。すなわち、何が創造的な考えなのかを理解するためには、私たちは問題に否定的に接近しなければならないのです。なぜなら、問題-すなわちあなたと私が、社会の新しい構造を築くために、創造的でなければならないということ-への肯定的接近は、模倣的になるからです。ぼろぼろに崩れかけているものを理解するには、私たちはそれを肯定的体系、肯定的定式、肯定的結論をもってではなく、否定的に究明し、検討しなければなりません。
(´・(ェ)・`)つ

16避難民のマジレスさん:2020/06/26(金) 23:19:58 ID:vUSG9j0E0
くまめも1-3-5
社会が、内側の革命から出てきたものでないなら、そのとき社会構造は静止しているので、個人を吸収し、静止させ、反復的にする。新しい社会を創造するには、新しい築き手がなければならない。構造は、新しい基礎の上、新しく発見された事実と価値の上に築かれなければならない。
誰も観察して、構造が崩壊しかけているという事実に気づいて、自分たち自身を建築家に変容させ、もっと基礎的な、永続する基礎の上に築こうとしていないことが、問題。
否定的考えは、最高の形の理解。すなわち、何が創造的な考えなのかを理解するためには、私たちは問題に否定的に接近しなければならない。なぜなら、問題への肯定的接近は、模倣的になるから。ぼろぼろに崩れかけているものを理解するには、否定的に究明し、検討しなければならない。
(´・(ェ)・`)

17鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/06/27(土) 22:27:35 ID:1d4drIFg0
>>14 そうじゃろう。
 人がなすべきことは自らの心を変容させることだけなのじゃ。
 それは自らを観ることで成し遂げられるのじゃ。
 それだけが真の変容への道なのじゃ。

18避難民のマジレスさん:2020/06/27(土) 22:45:06 ID:rPwgLfGQ0
最初と最後の自由  第一部
第三章 個人と社会 6

 なぜ社会は、確かにそのとおりなのですが、ぼろぼろに崩れ、崩壊しかけているのでしょうか。基本的理由の一つは、個人が、あなたが創造的であるのを止めたということです。どういう意味なのかを説明しましょう。あなたと私は模倣的になってしまいました。外側でも内側でも、私たちは真似をしています。外側で、技術を学んでいるとき、言葉のレベルで互いに疎通しあっているとき、当然何らかの模倣、真似がなければなりません。私は言葉を真似ます。技師になるには、私は初めに技術を学び、それからその技術を橋を建てるために使わなければなりません。外側の技術には、一定量の模倣、真似がなければなりません。しかし内側の心理的模倣があるとき、確かに私たちは創造的であるのを止めるのです。私たちの教育、私たちの社会構造、私たちのいわゆる宗教生活は、すべて模倣に基づいているのです。すなわち私は特定の社会的または宗教的定式にはまりこむのです。私はほんとうの個人であるのを止めてしまったのです。心理的に私は、ヒンドウ-教徒のでもキリスト教徒のでも仏教徒のでもドイツ人のでもイギリス人のでも、一定の条件づけられた応答を持ったたんなる反復的機械になってしまったのです。私たちの応答は、東洋のでも西洋のでも、宗教的でも唯物的でも、社会の様式に応じて条件づけられているのです。それで社会の崩壊の基本的原因の一つは模倣です。そして崩壊する要因の一つは指導者です-その本質そのものが模倣です。
 崩壊する社会の本性を理解するためには、あなたと私が、個人が創造的でありうるかどうかを探究することが重要なのではないでしょうか。私たちは、模倣があるとき崩壊があるにちがいないということがわかります。権威があるとき真似があるにちがいありません。そして私たちの精神的、心理的成り立ち全体が権威に基づいているから、創造的であるには、権威からの自由がなければなりません。創造性の瞬間、それらのむしろ生き生きした興味のある幸せな瞬間には、反復の感覚がない、真似の感覚がないということに、あなたは気づいたことはないでしょうか。そういう瞬間はいつも新しく、新鮮で、創造的で、幸せなのです。それで私たちは、社会の崩壊の基本的原因の一つは真似ること-すなわち権威の崇拝-であるということが、わかるのです。
(´・(ェ)・`)つ

19避難民のマジレスさん:2020/06/27(土) 22:49:19 ID:rPwgLfGQ0
くまめも1-3-6b
社会が崩壊しかけている基本的理由の一つは、個人が創造的であるのを止めたこと。
外側の技術には、一定量の模倣、真似がなければならない。しかし内側の心理的模倣があるとき、私たちは創造的であるのを止める。特定の社会的または宗教的定式にはまりこむ。個人であるのを止めてしまう。心理的に一定の条件づけられた応答を持った、たんなる反復的機械になってしまった。応答は、社会の様式に応じて条件づけられている。それで社会の崩壊の基本的原因の一つは模倣。
精神的、心理的成り立ち全体が権威に基づいているから、創造的であるには、権威からの自由がなければならない。創造性の瞬間、幸せな瞬間には、反復、真似の感覚がない。そういう瞬間はいつも新しく、新鮮で、創造的で、幸せ。それで、社会の崩壊の基本的原因の一つは真似ること-すなわち権威の崇拝-であるということが、わかる。
(´・(ェ)・`)

20鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/06/28(日) 22:37:25 ID:1d4drIFg0
社会は常に崩壊しかけているのじゃ。
それも人々が記憶に依存して同じ行ないばかりしているからなのじゃ。
常に新しい現実に対応できていないのじゃ。
常に死んだように静止しているのが社会なのじゃ。

21避難民のマジレスさん:2020/06/28(日) 22:54:48 ID:4lM1mz0I0
最初と最後の自由  第一部
第四章 自己認識 1

 世界の問題はあまりに巨大で、あまりに複雑なので、それらを理解し、そして解決するには、とても単純で直接的な仕方で接近しなければなりません。そして単純さ、直接性は、外側の境遇にも、また私たちの特定の先入観と気分にも、依存しません。私が指摘していたように、解決は、会議、青写真をとおし、古い指導者の代わりに新しい者を用いることなどをとおして見つけられるべきものではありません。解決は明白に、問題の造り手 [にある] 、人間たちの間に存在している過ち、憎しみ、途方もない誤解の造り手に、あるのです。この過ちの造り手、これらの問題の造り手は、個人、あなたと私です-私たちがそれについて考えるような世界ではないのです。世界はあなたと他の一人との関係です。世界は、何かあなたと私から分離したものではありません。世界、社会は、私たちが互いの間に確立する [関係] 、または確立しようと求める関係です。
 それであなたと私が問題なのです-世界が、ではありません。なぜなら、世界は私たち自身の投影ですし、世界を理解するには、私たち自身を理解しなければならないからです。世界は私たちから分離していません。私たちが世界ですし、私たちの問題は世界の問題です。これはいくらひんぱんに反復しても、しすぎることはありません。なぜなら、私たちの精神性があまりに無精であるために、世界の問題は私たちの [関わるべき]事柄ではない、それらは国連により [解決され] 、または古い指導者の代わりに新しい者を用いることにより、解決されなければならないと考えるからです。そのように考えるのはとても鈍い精神性です。なぜなら、私たちは世界のこの恐ろしい悲惨と混乱、この常に差し迫った戦争に応じる [能力・] 責任があるからです。世界を変容させるには、私たちは私たち自身から始めなければなりません。そして私たち自身から始めるにあたって重要であることは、意図です。 [その] 意図は、私たち自身を理解することでなければなりません。他の人たちに彼ら自身を変容するのを [任せること] や、また左翼や右翼の革命をとおして修正された変化をもたらすのを任せておくことではありません。これが私たちの、あなたと私の責任 [・能力] であるということを、理解することが重要です。なぜなら、私たちの生きている世界がたとえどんなに小さくても、私たちが自分たち自身を変容させ、日常生活に根本的に違った視点をもたらせるなら、そのときおそらく私たちは広く世界に、他の人たちとの拡大した関係に、影響を及ぼすでしょうから。
(´・(ェ)・`)つ

22避難民のマジレスさん:2020/06/28(日) 22:55:35 ID:4lM1mz0I0
くまめも1-4-1
世界の問題は巨大で、複雑。それらを理解、解決するには、単純で直接的な仕方で接近しなければらない。単純さ、直接性は、外側の境遇にも、特定の先入観と気分にも依存しない。
解決方法は、問題の造り手にある。
世界は、私たちが確立しようと求める関係。世界は私たち自身の投影。世界を理解するには、私たち自身を理解しなければならない。
世界を変容させるには、私たち自身から始めなければならない。そして自身から始めるにあたって重要であることは、意図。その意図は、自身を理解すること。これがあなたと私の責任 ・能力であるということを、理解することが重要。なぜなら、私たちの生きている世界がどんなに小さくても、自分たち自身を変容させ、日常生活に根本的に違った視点をもたらせるなら、そのときおそらく広く世界に、影響を及ぼすから。
(´・(ェ)・`)

23鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/06/29(月) 22:42:26 ID:1d4drIFg0
目覚めた者だけが他人に影響を及ぼせるというのじゃ。
目覚めていない者が革命を起こしてもやはり今まで通りの世界なのじゃ。
目覚めれば世界は自らの心が創ったとわかるのじゃ。
そして他人をも目覚めさせてその世界を変えることが出来るのじゃ。
それだけが真の世界を変える方法なのじゃ。

24避難民のマジレスさん:2020/06/29(月) 23:11:42 ID:uc5m2TlI0
最初と最後の自由  第一部
第四章 自己認識 2

 私が言いましたように、私たちは自分たち自身を理解する過程-それは孤立する過程ではありません-を見出そうとしています。それは世界 [・世間] から退くことではありません。なぜなら、あなたは孤立 [の状態]では生きられないからです。有る [・生きる] ことは関係することですし、孤立 [の状態]で生きているようなものはありません。葛藤・抗争、悲惨、闘争をもたらすのは、正しい関係の欠如です。私たちの世界がどんなに小さくても、私たちがその狭い世界で関係を変容させられるなら、それは、いつのときも外側に広大する波のようになるでしょう。その点が-どんなに狭くても、世界は私たちの関係であるということが、わかることが重要であると、私は思います。そして私たちはそこに変容を-表面的ではなくて根本的変容をもたらせるなら、そのとき活動的に世界を変容させはじめるでしょう。ほんとうの革命は、左翼のでも右翼のでもどんな特定の様式にも応じたものではありません。それは価値の革命-感覚的な価値から感覚的でない[価値] 、または環境的影響によって造り出されない価値への革命です。根本的革命、変容、革新をもたらすであろうこれら真の価値を見つけるには、自分自身を理解することが本質的 [・不可欠] です 。自己認識は英知の始まりです。ゆえに変容や革新の始まりです。自分自身を理解するには、理解しようとする意図がなければなりません-それが、私たちの困難が入ってくるところです。私たちのほとんどは不満です。私たちは突然の変化をもたらしたいと願望するけれども、私たちの不満はたんに一定の結果を達成することに注がれるのです。私たちは不満であると、違った職を求めたり、たんに環境に屈服したりするのです。不満は私たちを燃え立たせ、生を [問わせ] 、存在の過程全体を問わせる原因になる代わりに、 [ 一定の結果を達成することに] 注がれます。よって私たちは平凡になり、存在の意義全体を見出そうとするあの衝動、あの強烈さを失っていくのです。ゆえに、自分たち自身でこれらのものごとを発見することが重要です。なぜなら、自己認識は他の一人によって与えてもらえないからです。それはどんな書物をとおしても見つけられるべきものではありません。私たちは発見しなければなりません。そして発見するには、意図、探求、探究がなければなりません。見出そう、深く探究しようとするその意図が弱かったり、存在していないかぎり、自分自身について見出したいというたんなる主張や思いつきの願いは、ほとんど意義がありません。
 こうして世界の変容は、自分自身の変容によってもたらされるのです。なぜなら、自己は人間存在の総合過程の産物、一部分であるからです。自己を変容させるには、自己認識が本質的 [・不可欠] です。あなたが何であるかを知ることなしに、正しい思考のための基礎はありません。あなた自身を知ることなしに、変容はありえません。自分自身をあるがままに知らなければなりません。ありたいと願うように-すなわち、たんに理想であり、ゆえに架空であり非真実であるところのもの-ではありません。変容させられるのは、あるがままだけです-あなたがありたいと願うものではありません。自分自身をあるがままに知ることは、とてつもない精神の鋭敏さを必要とします。なぜなら、あるがままは常に変容、変化を受けているし、それにすばやく付いて行くには、精神はどんな特定の教義や信念、どんな特定の行動の様式にも繋がれていてはならないからです。あなたは何かに付いていこうとするなら、繋がれていてはだめなのです。あなた自身を知るには、 [そこに] すべての信念から、すべての理想化からの自由がある [ところの] 気づきが、精神の鋭敏さが、なくてはなりません。なぜなら、信念と理想はただあなたに色を付けて真の知覚を倒錯させるからです。あなたは自分が何であるかを知りたいなら、何か自分がそうでないものを想像したり信じていたりできません。私は欲張りで、妬んでいて、暴力的であるなら、たんに非暴力の、無欲の理想を持つだけでは、ほとんど価値がありません。しかし、自分が欲張りまたは暴力的であることを知るには、それを知って理解するには、とてつもない知覚を必要とするのではないでしょうか。それは思考の正直さ、明晰さを要求します。ところが、あるがままから離れて理想を追求することは逃避です。それは、あなたが何であるかを発見して、それに対して直接的に作用するのを妨げるのです。
(´・(ェ)・`)つ

25避難民のマジレスさん:2020/06/29(月) 23:26:21 ID:uc5m2TlI0
くまめも1-4-2
自身を理解する過程を見出そうとすることは、世間から退くことではない。有る・生きることは関係すること。葛藤・抗争、悲惨、をもたらすのは、正しい関係の欠如。
ほんとうの革命は、感覚的な価値から感覚的でない価値、環境的影響によって造り出されない価値への革命。真の価値を見つけるには、自分自身を理解することが不可欠。自己認識は英知、変容や革新の始まり。
理解するには、理解しようとする意図がなければならない。それが困難。
私たちは、突然の変化をもたらしたいと願望するが、不満は、一定の結果を達成することに注がれる。よって存在の意義全体を見出そうとする衝動を失っていく。
自分自身をあるがままに知らなければならない。ありたいと願うようにではない。変容させられるのは、あるがままだけ。あるがままは常に変容を受けているし、それにすばやく付いて行くには、精神はどんな特定の教義や信念、行動の様式、理想化からの自由があるところの気づきが、精神の鋭敏さが、必須。なぜなら、信念と理想はただあなたに色を付けて真の知覚を倒錯させるから。
あるがままの自分を知って理解するには、とてつもない知覚を必要。それは思考の正直さ、明晰さを要求する。あるがままから離れて理想を追求することは逃避。それは、あなたが何であるかを発見して、それに対して直接的に作用するのを妨げる。
(´・(ェ)・`)

26鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/06/30(火) 22:07:20 ID:1d4drIFg0
悟りの修行は世間を捨てて世捨て人になることではないのじゃ。
むしろその修行だけが世間の人を救うことができるのじゃ。
全ての社会的な革命が成し遂げられなかったことなのじゃ。
世界が変るのは自分が変わった時だけなのじゃ。

27避難民のマジレスさん:2020/07/01(水) 00:01:01 ID:NWYNc3.c0
最初と最後の自由  第一部
第四章 自己認識 3

あなたが何であるか [について] の理解は、たとえそれが何であろうと-醜かろうと美しかろうと、意地が悪かろうと邪(よこしま)であろうと-あなたが何であるか [について] の歪みのない理解が、美徳の始まりです。美徳は本質的 [・不可欠] です。というのは、それが自由を与えてくれるからです。あなたが発見できるのは、あなたが生きられるのは、美徳においてだけです。美徳の育成においてではありません-それはたんに体裁 [をもたらす] だけで、理解と自由をもたらしません。美徳があることと美徳を得ることとの間には違いがあります。美徳があることは、あるがまま [について] の理解をとおして訪れます。ところが美徳を得ることは、延期すること-あるがままをあなたがありたいと思うものでもって覆い隠すことです。ゆえに美徳を得るなかで、あなたはあるがままに対して直接的に作用することを避けているのです。理想の育成をとおしてあるがままを避けるこの過程が、美徳があると考えられているのです。しかしあなたはそれをきっちりと直接的に見つめるなら、それはそのようなものではないことがわかるでしょう。それはたんに、あるがままと面と向き合うことの延期にすぎません。美徳はあるがままでないものになることではありません。美徳はあるがまま [について] の理解ですし、ゆえにあるがままからの自由です。美徳は、急速に崩壊しかけている社会において本質的 [・不可欠] です。古いものから離れて新しい世界、新しい構造を創造するためには、発見するための自由がなければなりません。そして自由であるには、美徳がなければなりません。というのは、美徳なしには自由はないからです。美徳を得ようと奮闘している不道徳な人が、そもそも美徳を知ることができるでしょうか。道徳的でない人は決して自由でありえません。ゆえに真実が何なのかを決して見出せません。真実は、あるがままを理解することにおいてだけ、見つけられるのです。そしてあるがままを理解するには、自由が、あるがままへの恐れからの自由が、なければなりません。
 その過程を理解するには、あるがままを知ろう、あらゆる思考、感情、行動に付いていこうとする意図がなければなりません。そしてあるがままを理解することは極めて難しいのです。なぜなら、あるがままは決して止まっていない、静止していないからです。それはいつも動き [の状態] にあるのです。あるがままはあなたのあるがままです-あなたがありたいと思うものではありません。それは理想ではありません。なぜなら、理想は架空であるからです。それは現実に、瞬間瞬間、あなたがして、考え、感じていることです。あるがままが現実ですし、現実を理解するには、気づきを、とても鋭敏なすばやい精神を必要とします。しかし私たちはあるがままを非難しはじめるなら、咎めたり抵抗したりしはじめるなら、そのときその動きを理解しないでしょう。私は誰かを理解したいなら、彼を非難できません。私は彼を観察し研究しなければなりません。私は自分が研究しているものそのものを愛さなければなりません。あなたは子どもを理解したいなら、その子を愛さなければなりません-非難してはなりません。あなたは彼と [一緒に] 遊び、彼の動き、彼の性向、彼の振るまい方を見守らなければなりません。しかし、あなたがたんにその子を非難し、抵抗し、咎めたりするだけなら、子ども [について] の了解はありません。同様に、あるがままを理解するには、瞬間瞬間、自分が何を考え、感じ、するのかを観察しなければなりません。それが現実です。他のどんな行動も、どんな理想やイデオロギ-的行動も、現実ではありません。それはたんにあるがままとは他の何かでありたいという願い、架空の願望にすぎません。
(´・(ェ)・`)つ

28避難民のマジレスさん:2020/07/01(水) 00:01:48 ID:NWYNc3.c0
くまめも1-4-3
あなたが何であるかの歪みのない理解が、美徳の始まり。美徳があることと美徳を得る(育成する)ことには違いがある。美徳があることは、あるがままについての理解をとおして訪れる。ところが美徳を得ることは、延期すること-あるがままをあなたがありたいと思うものでもって覆い隠すこと。美徳はあるがままについての理解だし、ゆえにあるがままからの自由。古いものから離れて新しい世界、新しい構造を創造するためには、発見するための自由がなければならない。そして自由であるには、美徳がなければならない。道徳的でない人は決して自由でありえない。ゆえに真実が何なのかを決して見出せない。あるがままを理解するには、自由が、あるがままへの恐れからの自由が、なければならない。
 その過程を理解するには、あるがままを知ろう、あらゆる思考、感情、行動に付いていこうとする意図がなければならない。そしてあるがままを理解することは極めて難しい。なぜなら、あるがままは決して静止していないから。あるがままは理想ではない。なぜなら、理想は架空であるから。あるがままが現実だし、現実を理解するには、気づきを、とても鋭敏なすばやい精神を必要とする。しかし私たちはあるがままを非難しはじめ、咎めたり抵抗したりしはじめるなら、そのときその動きを理解しない。あるがままを理解するには、瞬間瞬間、自分が何を考え、感じ、するのかを観察しなければならない。他のどんな行動も、どんな理想やイデオロギ-的行動も、現実ではない。それはたんに何かでありたいという願い、架空の願望にすぎない。
(´・(ェ)・`)

29避難民のマジレスさん:2020/07/01(水) 15:04:31 ID:b/R.LjPg0
宗教板で似非覚者相手に無双するの飽きてきた。

誰か弄りがいのある自称覚者を連れて来てくんない?

30鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/01(水) 23:16:10 ID:1d4drIFg0
自分が何であるのか理解することが美徳というのじゃ。
それが自由をもたらしてくれるからなのじゃ。
自分を理解することは今ここでしか行えないから難しいのじゃ。
刹那毎に変っていく心の働きを見なければならんのじゃ。

31避難民のマジレスさん:2020/07/01(水) 23:50:05 ID:9LpStdNw0
最初と最後の自由  第一部
第四章 自己認識 4

 あるがままを理解するには、 [そこに] 同一化や非難のない精神の状態を、必要とします-それは鋭敏でありながら受動的である精神という意味です。私たちはほんとうに何かを理解したいと願望するとき、その状態にあります。興味の強烈さがあるとき、その精神の状態が生じます。あるがままを、現実の精神の状態を理解することに興味があるとき、それを強いたり修練したり制御したりしなくていいのです。反対に、受動的な鋭敏さ、見守りがあるのです。この気づきの状態は、興味が [あるとき] 、理解しようとする意図があるとき、来るのです。
 自分自身の基本的理解は、知識をとおし、経験の蓄積をとおして来ません-それはたんに記憶の育成にすぎません。自分自身の理解は瞬間瞬間です。私たちがたんに自己 [について] の知識を蓄積するだけなら、その知識こそがさらなる理解を妨げるのです。なぜなら、蓄積された知識と経験は、それをとおして思考が集中しその存在を持つ中心になるからです。世界は私たちと私たちの活動と異なっていません。なぜなら、世界の問題を造り出すのは、あるがままの私たちであるからです。私たちの大多数にとっての困難は、私たちが自分たち自身を直接的に知らなくて、多くの人間の諸問題を解決するため体系 [体制]、方法、作業の手段を求めることなのです。
 では自分自身を知る手段、体系はあるのでしょうか。どんな利口な人も、どんな哲学者も、体系、方法を考案できます。しかし確かに、体系に付いていくことはたんに、その体系によって造り出された結果を産み出すだけなのではないでしょうか。私は自分自身を知る特定の方法に付いて行くなら、そのときその体系に必然的に伴う結果を得るでしょう。しかし結果は明白に私自身 [について] の理解ではないでしょう。すなわち、それをとおして私自身を知るための方法、体系、手段に付いていくことにより、私は自分の考え、活動を、様式に応じて形作るのです。しかし様式に付いていくことは自分自身 [について] の理解ではありません。
 ゆえに自己認識のための方法はないのです。方法を求めることは、まちがいなく、何かの結果に到達したいという欲望を含んでいます-それが私たちが皆ほしいものです。私たちは権威に付いていきます-人物のものでないなら、体系の、イデオロギ-の[権威]にです。なぜなら私たちは結果 [がほしい] -満足できるであろう、私たちに安全を与えてくれるであろうもの-が、ほしいからです。私たちはほんとうは自分たち自身を、自分たちの衝動と反応を、考える過程全体を、無意識とともに意識を、理解したくないのです。私たちはむしろ、結果を保証してくれる体系を、追求したいのです。しかし体系の追求はまちがいなく、安全への [願望] 、確実性への願望から出てきたものです。そして結果は明白に、自分自身 [について] の理解ではありません。私たちは方法に付いていくとき、私たちが願望するものを保証してくれる権威-教師、導師(グル)、救い主、大師-を持つにちがいありません。そして確かにそれは自己認識への道ではありません。
 権威は自分自身 [について] の理解を妨げるのではないでしょうか。権威、指導者の庇護のもとで、あなたは一時的に安全の感覚、幸福の感覚を持つかもしれません。しかしそれは自分自身の総合過程 [について] の理解ではありません。権威はまさにその本性において自分自身への充分な気づきを妨げます。ゆえに究極的に自由を破壊します。自由においてのみ、創造性がありうるのです。自己認識をとおしてだけ、創造性はありうるのです。私たちのほとんどは創造的ではありません。私たちは反復的機械 [です] 、私たち自身のでも他の一人のでも一定の経験の歌、一定の結論と記憶を何度も繰り返し演奏しているたんなる蓄音機レコ-ドです。そういう反復は創造的な存在ではありません-しかしそれが、私たちのほしいものです。私たちは内側で安全でありたいから、常にこの安全のための方法と手段を求めているのです。それによって権威を、他の一人の崇拝を造り出し、それが了解を [破壊し] 、それにおいてのみ創造性の状態がありうるあの自発的な精神の平静を破壊するのです。
(´・(ェ)・`)つ

32避難民のマジレスさん:2020/07/01(水) 23:56:42 ID:9LpStdNw0
くまめも1-4-4
あるがままを理解するには、そこに同一化や非難のない精神の状態が必要。それは鋭敏でありながら受動的である精神という意味。あるがままを、現実の精神の状態を理解することに興味があるとき、それを強いたり修練したり制御したりしなくていい。反対に、受動的な鋭敏さ、見守りがある。
 自己の知識を蓄積するだけなら、その知識こそがさらなる理解を妨げる。なぜなら、蓄積された知識と経験は、それをとおして思考が集中しその存在を持つ中心になるから。困難は、自分たち自身を直接的に知らなくて、人間の諸問題を解決するため体系、体制、方法、作業の手段を求めること。
自分自身を知るための方法、体系、手段に付いていくことにより、自分の考え、活動を、様式に応じて形作る。しかし様式に付いていくことは自分自身の理解ではない。ゆえに自己認識のための方法はない。方法を求めることは、まちがいなく、何かの結果に到達したいという欲望を含んでいる。私たちはほんとうは自分たち自身を、自分たちの衝動と反応を、考える過程全体を、無意識とともに意識を、理解したくない。私たちはむしろ、結果を保証してくれる体系を、追求したい。しかし体系の追求はまちがいなく、安全への願望、確実性への願望から出てきたもの。そして結果は明白に自己認識への道ではない。
権威はまさにその本性において自分自身への充分な気づきを妨げる。ゆえに究極的に自由を破壊する。自由においてのみ、創造性がありうる。自己認識をとおしてだけ、創造性はありうる。私たちは内側で安全でありたいから、常に安全のための方法と手段を求めている。それによって権威を、他の一人の崇拝を造り出し、それが了解を破壊し、それにおいてのみ創造性の状態がありうるあの自発的な精神の平静を破壊する。
(´・(ェ)・`)

33鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/02(木) 22:47:12 ID:1d4drIFg0
あるがままの観察は意志があれば難しいのじゃ。
どうしても自分の見たものごとを解釈しようとしたりするからのう。
見たものごとをありのままに認める受動的な鋭敏さが必要というのじゃ。
それにはどんな方法もありえないのじゃ。
方法があれば意志がそれを実践しようとするからなのじゃ。
ただひたすら見たものを受け容れる心構えが必要なのじゃ。

34避難民のマジレスさん:2020/07/02(木) 23:55:25 ID:ZJ9fzkcg0
最初と最後の自由  第一部
第四章 自己認識 5

 確かに私たちの困難は、私たちのほとんどがこの創造性の感覚を失ってしまったということです。創造的であることは、私たちが絵を書いたり詩を書いたりして有名にならなければならない、という意味ではありません。それは創造性ではありません-それはたんに観念を表現する能力にすぎません-それを公衆は喝采したり無視したりするのです。能力と創造性は混同すべきではありません。能力は創造性ではありません。創造性は全く違った存在の状態なのではないでしょうか。それは、 [そこに] 自己が不在である状態、 [そこでは] 精神がもはや私たちの経験、野心、追求、欲望の焦点ではない状態です。創造性は連続的な状態ではありません。それは瞬間瞬間、新しいのです。それは、[そこに] 「私」、「私の」がなく、思考がどんな特定の経験、野心、達成、目的、動機にも集中していない動きです。創造性-そこにのみ真実がありうるあの存在の状態 、すべてのものごとの創造者-があるのは、自己がないときだけです。しかしその状態は構想したり想像したりできません。それは定式化したりまねたりできません。それはどんな体系をとおしても、どんな哲学をとおしても、どんな修練をとおしても到達できません。反対に、それは、自分自身の総合過程を理解することをとおしてだけ、生じるのです。
 自分自身 [について] の理解は結果、頂上ではありません。それは関係-財産、ものごと、人々、観念と自分の関係-の鏡において、瞬間瞬間、自分自身が見えることです。しかし私たちは、鋭敏であること、気づくことは難しいことがわかります。そして方法に付いていくことにより、 [諸々の] 権威、迷信、満足のいく理論を受け入れることにより、自分たちの精神を鈍らせるほうを好みます。それで私たちの精神は疲れきり、疲労困憊し、無感覚になるのです。そういう精神は創造性の状態にありえません。その創造性の状態は、自己-すなわち認識と蓄積の過程であるもの-が無くなるときだけ来るのです。なぜなら、結局、「私」という意識は認識の中心ですし、認識はたんに経験の蓄積の過程であるからです。しかし私たちは皆、何ものでもないことを恐れています。なぜなら私たちは皆、何ものかでありたいからです。小さい人は大きい人でありたい、不徳な者は徳を持ちたい、弱くて目立たない者は力、地位、権威を渇望します。これが精神の絶えざる活動です。そういう精神は静かでありえないし、ゆえに創造性の状態を決して理解できません。
 私たちのまわりの世界-悲惨、戦争、失業、飢餓、階級分裂、全くの混乱をともなうもの-を変容させるためには、私たち自身に変容がなければなりません。革命は、どんな信念やイデオロギ-に応じてでもなく、私たち自身の中で始まらなければなりません。なぜなら、観念に基づいたり、特定の様式への順応における革命は、そもそも明白に革命ではないからです。自分自身に基本的革命をもたらすには、関係において自分の思考と感情の過程全体を理解しなければなりません。それが私たちの問題すべてにとって唯一の解決です-もっと多くの修練、もっと多くの信念、もっと多くのイデオロギ-、もっと多くの教師たちを持つことではないのです。私たちは蓄積の過程を経ずに、瞬間瞬間、私たち自身をあるがままに理解できるなら、そのときどのように、精神の産物ではない平静、想像されたのでも育成されたのでもない平静が訪れるかということが、わかるでしょう。そしてその平静の状態においてだけ、創造性がありうるのです。
(´・(ェ)・`)つ

35避難民のマジレスさん:2020/07/02(木) 23:58:56 ID:ZJ9fzkcg0
くまめも1-4-5
創造性は全く違った存在の状態。それは、自己が不在である状態、 精神がもはや私たちの経験、野心、追求、達成、目的、動機、欲望の焦点ではない状態。創造性は連続的な状態ではない。それは瞬間瞬間、新しい。それは、そこに「私」、「私の」がない動き。
創造性があるのは、自己がないとき。
それは、自分自身の総合過程の理解をとおしてだけ、生じる。
自分自身の理解は結果、頂上ではない。それは財産、ものごと、人々、観念と自分の関係の鏡において、瞬間瞬間自分自身が見えること。
鋭敏であること、気づくことは難しいので、権威、迷信、満足のいく理論を受け入れることにより、自分たちの精神を鈍らせるほうを好む。創造性の状態は、自己が無くなるときだけ来る。なぜなら、「私」という意識は認識の中心だし、認識はたんに経験の蓄積の過程であるから。しかし私たちは皆、何ものでもないことを恐れてる。何ものかでありたい。そういう精神は静かでありえないし、ゆえに創造性の状態を決して理解できない。
 私たちのまわりの世界を変容させるためには、私たち自身に変容が必要。そのためには、自分の思考と感情の過程全体を理解しなければならない。それが私たちの問題すべてにとって唯一の解決。
蓄積の過程を経ずに、瞬間瞬間、自身をあるがままに理解できるなら、そのとき精神の産物ではない平静、想像されたのでも育成されたのでもない平静が訪れる。その平静の状態においてだけ、創造性がありうる。
(´・(ェ)・`)

36避難民のマジレスさん:2020/07/03(金) 21:45:21 ID:jevFIdqw0
一休さん講読会、↓引越しであります。
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1539697204/
(´・(ェ)・`)b

37避難民のマジレスさん:2020/07/03(金) 21:46:08 ID:jevFIdqw0
最初と最後の自由  第一部

   第五章 行動と観念 1
 私は行動 [・作用] の問題を議論したいように思います。これは、初めはむしろ難解で難しいかもしれませんが、それをよく考えることにより、私たちは明確に論点を見ることができるだろうと、私は願っています。なぜなら私たちの存在全体、私たちの生全体が行動の過程であるからです。
 私たちのほとんどは、一連の行動 [のなか]、 見たところ無関係でつながりのない行動のなかで生きています- [それらは] 崩壊、挫折につながっているのです。それは私たち各自に関係する問題です。なぜなら、私たちは行動によって生きていて、行動なしには生はなく、経験はなく、考える [という] ことはないからです。思考は [作用・] 行動です。そしてたんに一つの特定の意識の水準-すなわち外のもの-における [作用・] 行動を追求すること、行動自体の過程全体を理解せずに、たんに外側の行動に捕らわれることは、必然的に私たちを挫折に、悲惨に導くでしょう。
 私たちの生は、一連の [作用・] 行動、または意識の異なった水準での [作用・] 行動の過程です。意識は、経験すること、名づけること、記録することです。すなわち意識は挑戦と応答-すなわち経験-です。それから用語や名づけ、それから記録-すなわち記憶-です。この過程が行動なのではないでしょうか。意識は [作用・] 行動です。そして挑戦、応答なしに、経験、名づけや用語なしに、記録、すなわち記憶なしには、行動はありません。
 さて、 [作用・] 行動は [作用者・] 行動者を造り出します。すなわち行動が結果、目的を視野に持つとき、行動者が生じるのです。行動において結果がないなら、そのとき行動者はありません。しかし [終わりの] 目的や結果が視野にあるなら、そのとき行動は行動者をもたらします。こうして行動者、行動、目的や結果は、統一された過程、単一の過程です-それは、行動が目的を視野に持つとき、生じるのです。結果に向かう行動は意志です。そうでないと意志はないのではないでしょうか。目的を達成したいという欲望が意志をもたらします-それが行動者です-私は達成したい、私は本を書きたい、私は金持ちになりたい、私は絵を描きたい、と。
 私たちはこれら三つの状態-行動者、行動、目的-に慣れ親しんでいます。それは私たちの日常的存在です。私はただあるがままを説明しているだけです。しかし私たちはあるがままを明確に検討し、そのためそれに関して幻影や先入観がなく、偏見がないときだけ、それをどのように変容させるべきかを、理解しはじめるでしょう。そこで経験を構成するこれら三つの状態-行動者、行動、結果-は、確かに、なっていく過程です。そうでないと、なりゆくことはないのではないでしょうか。行動者がないなら、目的に向かう行動がないなら、なりゆく [という] ことはありません。しかし、私たちが知っているような生、私たちの日常の生は、なりゆく過程です。私は貧しいので、目的-すなわち豊かになること-を視野に入れて行動します。私は醜いので、美しくなりたいのです。ゆえに私の生は何かになる過程なのです。あろうとする意志は、意識の異なった水準で、異なった状態でなろうとする意志です-そこには挑戦、応答、名づけ、記録があります。では、このなることは闘争であり、このなることは苦痛であるのではないでしょうか。それは常なる格闘です-私はこれである、私はあれになりたい、と。
 ゆえにそのとき問題はこうです-このなりゆくことのない行動はあるのでしょうか。この苦痛のない、この常なる戦いのない行動はあるのでしょうか。目的がなければ、行動者はありません。なぜなら、目的を視野に持つ行動が行動者を造り出すからです。しかし目的を視野に持たない [行動] 、ゆえに行動者のない-すなわち結果への欲望を持たない行動はありうるのでしょうか。そういう行動はなりゆくことではありません。ゆえに闘争ではありません。経験者と経験のない行動の状態、経験の状態があるのです。これはかなり哲学的に聞こえますが、ほんとうは全く単純です。
(´・(ェ)・`)つ

38避難民のマジレスさん:2020/07/03(金) 21:59:41 ID:jevFIdqw0
くまめも1-5-1
私たちの存在全体、生全体が行動の過程。
行動自体の過程全体を理解せずに、たんに外側の行動に捕らわれることは、必然的に私たちを挫折に、悲惨に導く。
意識は、作用・行動。挑戦、応答、経験、名づけや用語、記憶なしには、行動はない。
作用・行動は作用者・行動者を造り出す。すなわち行動が結果、目的を視野に持つとき、行動者が生じる。行動において結果がないなら、そのとき行動者はない。行動者、行動、目的や結果は、統一された過程、単一の過程。結果に向かう行動は意志。目的を達成したいという欲望が意志をもたらす。
これら三つの状態-行動者、行動、目的-に慣れ親しんでいる。私たちはあるがままを明確に検討し、そのためそれに関して幻影や先入観がなく、偏見がないときだけ、それをどのように変容させるべきかを、理解しはじめる。あろうとする意志は、異なった状態でなろうとする意志。なることは闘争であり、苦痛。
ゆえにそのとき問題は、この苦痛のない、この常なる戦いのない行動はあるのか。目的がなければ、行動者はない。なぜなら、目的を視野に持つ行動が行動者を造り出すから。目的を視野に持たない、ゆえに行動者のない-すなわち結果への欲望を持たない行動はありうるのか。そういう行動は闘争ではない。経験者と経験のない行動の状態、経験の状態がある。これはかなり哲学的に聞こえるが、ほんとうは全く単純。
(´・(ェ)・`)

39鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/04(土) 00:21:54 ID:1d4drIFg0
認識は経験の蓄積というのじゃ。
それは記憶に基づいているからなのじゃ。
唯識論と同じなのじゃ。
それをあるがままに理解するのじゃ。

40避難民のマジレスさん:2020/07/04(土) 00:24:37 ID:b/R.LjPg0
.
      //
    / .人
    /  (__) パカ
   / ∩(____)    やぁ!
   / .|( ・∀・)_
  // |   ヽ/
  " ̄ ̄ ̄"∪

41避難民のマジレスさん:2020/07/04(土) 20:19:21 ID:X/mJjzWc0
最初と最後の自由  第一部

   第五章 行動と観念 2

 経験の瞬間に、あなたは経験から離れた経験者としての自分自身に気づいていません。あなたは経験の状態にあるのです。とても単純な例を取りましょう。あなたは怒っています。その怒りの瞬間には、経験者も経験もないのです。ただ経験だけがあるのです。しかしあなたがそれから出てきた瞬間、経験の後のほんの一瞬、経験者と経験、行動者と行動-目的すなわち怒りを取り除いたり抑圧することを視野に持ったもの-が、あるのです。私たちは繰り返しこの状態に、経験の状態にあるのです。しかし私たちはいつもそれから出てきて、それに用語を与え、名づけ、記録し、よってなりゆくことに連続性を与えているのです。
 私たちは言葉の基本的な意味において [作用・] 行動を理解できるなら、そのときその基本的理解が、私たちの表面的な [諸] 活動にも影響するでしょう。しかし私たちは初めに、行動の基本的本性を理解しなければなりません。そこで行動は観念によりもたらされるのでしょうか。あなたは初めに観念を持って、その後で行動するのでしょうか。それとも行動が初めに来て、それから行動が葛藤を造り出すから、あなたはそのまわりに観念を築くのでしょうか。行動が行動者を造り出すのか、それとも行動者が初めに来るのでしょうか。
 どちらが初めに来るのかを発見することは、とても重要です。観念が初めに来るなら、そのとき行動はたんに観念に順応するだけです。ゆえにそれはもはや行動ではなくて、観念に応じた模倣、強制です。これを悟ることはとても重要です。なぜなら、私たちの社会はほとんど知的なまたは言葉の水準の上に構築されているので、わたしたちのすべてにとって観念が初めに来て行動は [後に] 付いてくるからです。行動はそのとき観念の小間使いです。たんなる観念の構築は、明白に行動にとって有害です。観念はさらなる観念を産み育てるし、たんに観念を産み育てることがあるとき、敵対があるし、社会は、観念作用の知的過程でもって頭でっかちになるのです。私たちの社会構造はとても知的です。私たちは、私たちの存在のあらゆる他の要因を犠牲にして、知能を育成しているのです。ゆえに私たちは観念で窒息しているのです。
 観念ははたして行動を生み出すのでしょうか。それとも観念はたんに思考を型どり、ゆえに行動を制限するだけでしょうか。行動が観念により強制されるとき、行動は決して人を解放できません。私たちがこの点を理解することがとてつもなく重要です。観念が行動を形作るなら、そのとき行動は決して私たちの悲惨への解決をもたらせません。なぜなら、観念が行動に移される前に、私たちはそれがどのように生じるのかを、初めに発見しなければならないからです。社会主義者のでも資本主義者のでも共産主義者のでも色々な宗教のでも、観念作用の [究明] 、観念の築き上げの究明が最も重要なのです-とくに私たちの社会が崖っぷちにあってもう一つの破滅、もう一つの切除を招いているときは [そうです] 。私たちの多くの問題への人間的解決を発見しようとする意図においてほんとうに真剣である人たちは、初めにこの観念作用の過程を理解しなければなりません。
 私たちのいう観念とはどういう意味でしょうか。観念はどのようにして生じるのでしょうか。観念と行動はひとまとめにできるのでしょうか。仮に私が観念を持っていて、それを実行したいと願うとします。私はその観念を実行する方法を求めます。そして私たちは思索し、観念がどのように実行されるべきかについてのけんかに、時間とエネルギ-を費やします。それで観念がどのように生じるのかを見出すことが、ほんとうにとても重要です。そしてそれの真理を発見した後で、私たちは行動の問題を議論できるのです。観念を議論せずに、たんにどのように行動すべきかを見出すことは意味がありません。
(´・(ェ)・`)つ

42避難民のマジレスさん:2020/07/04(土) 20:20:45 ID:X/mJjzWc0
くまめも1-5-2
経験の瞬間に、あなたは経験(怒り)から離れた経験者としての自分自身に気づいていない。あなたは経験(怒り)の状態にある。
しかしあなたがそれから出てきた瞬間、経験の後のほんの一瞬、経験者と経験、行動者と行動-目的すなわち怒りを取り除いたり抑圧することを視野に持った者がある。
行動は観念によりもたらされるのか、行動が初めに来て、それから行動が葛藤を造り出すから、そのまわりに観念を築くのか。
観念が初めに来るなら、そのとき行動はたんに観念に順応するだけ。ゆえにそれはもはや行動ではなくて、観念に応じた模倣、強制。これを悟ることはとても重要。なぜなら、社会はほとんど知的なまたは言葉の水準の上に構築されているので、観念が初めに来て行動は付いてくるから。行動はそのとき観念の小間使い。たんなる観念の構築は、行動にとって有害。観念はさらなる観念を産み育てるし、敵対がある。
観念ははたして行動を生み出すか。それとも観念はたんに思考を型どり、ゆえに行動を制限するだけか。行動が観念により強制されるとき、行動は決して人を解放できない。観念が行動を形作るなら、そのとき行動は決して私たちの悲惨への解決をもたらせない。なぜなら、観念が行動に移される前に、私たちはそれがどのように生じるのかを、初めに発見しなければならないから。観念作用の、観念の築き上げの究明が最も重要。
観念を議論せずに、たんにどのように行動すべきかを見出すことは意味がない。
(´・(ェ)・`)

43鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/04(土) 23:41:33 ID:1d4drIFg0
行いは観念の後にくるというのじゃ。
先に観念があり、それに基づいて人は行動するからなのじゃ。
観念がおかしければ行動もおかしくなるのじゃ。
それ故に先ずは観念がどのようにして生じるのか理解することが重要なのじゃ。

44避難民のマジレスさん:2020/07/05(日) 18:42:09 ID:JXZBdWr60
最初と最後の自由  第一部

   第五章 行動と観念 3

 そこであなたはどのようにして観念を得るのでしょうか-とても単純な観念です。それは哲学的、宗教的、経済的でなくてもいいのです。明白にそれは思考の過程なのではないでしょうか。観念は思考過程から出てきたものです。思考過程なしに観念はありえません。それで私は、その産物、観念を理解できる前に、思考過程自体を理解しなければなりません。私たちのいう思考とはどういう意味でしょうか。あなたはいつ考えるのでしょうか。明白に、思考は、神経的、心理的な応答の結果なのではないでしょうか。それは感覚に対する感覚機能の即時の応答です。または心理的な、蓄えられた記憶の応答です。感覚に対する神経の即時の応答があります。そして蓄えられた記憶の [心理的応答] 、人種、集団、導師(グル)、家族、伝統などの影響の心理的応答があります。そのすべてを、あなたは思考と呼びます。それで思考過程は記憶の応答なのではないでしょうか。もしもあなたは記憶を持たなかったなら、思考を持たないでしょう。一定の経験に対する記憶の応答が、思考過程を作動させるのです。例えば、私が国家主義・民族主義の蓄えられた記憶を持っていて、自分自身をヒンドウ-教徒と呼ぶとします。その過去の応答、行動、含蓄、伝統、慣習の記憶の [諸々の] 貯蔵庫が、イスラム教徒、仏教徒、キリスト教徒の挑戦に応答します。そして挑戦に対する記憶の応答が必然的に思考過程をもたらします。あなた自身に作動している思考過程を見つめてください。するとあなたはこれの真理を直接的に試せるのです。あなたは誰かに侮辱されました。そしてそれが、あなたの記憶に残っています。それが背景の一部を形作ります。あなたがその人物に会うとき-それが挑戦です-応答は、その侮辱の記憶です。それで記憶の応答、すなわち思考過程が観念を造り出します。ゆえに観念はいつも条件づけられています-これを理解することが重要です。言い換えると観念は思考過程の結果ですし、思考過程は記憶の応答ですし、記憶はいつも条件づけられているのです。記憶はいつも過去にあるし、その記憶は挑戦により現在において命を与えられるのです。記憶はそれ自体では命を持っていません。それは挑戦に直面するとき、現在に生き返るのです。そして休眠していても活動していても、すべての記憶は条件づけられているのではないでしょうか。
 ゆえに全く異なった接近 [法] がなければなりません。あなたは、自分が観念に従って行動しているのかどうか、そして観念作用のない行動はありうるのかどうかを、内側に自分自身で見出さなければなりません。観念に基づかない行動-それは何なのかを見出しましょう。
 あなたはいつ、観念作用なしに行動するのでしょうか。経験の結果でない行動は、いつあるのでしょうか。経験に基づいた行動は、私たちが言ったように制限するし、ゆえに障害です。思考過程-すなわち経験に基づいたもの-が行動を制御していないとき、観念から出てきたものでない行動は自発的です。それは、精神が行動を制御していないとき、経験に依存しない行動がある、という意味です。それが、 [そこに] 理解のある唯一の状態です。経験に基づいた精神が行動を導いていないとき、経験に基づいた思考が行動を形作っていないとき、です。思考過程がないとき、行動は何でしょうか。思考過程のない行動はありうるのでしょうか。すなわち私は橋を、家を建てたいと思います。私は技術を知っています。技術は私にそれをどう建てるべきかを教えます。それが行動と呼ばれます。詩を書く、絵を描く [行動] 、行政の責任の、社会的、環境的応答の行動があります。すべてが観念や以前の経験-行動を形作るもの-に基づいています。しかし観念作用のないとき、行動はあるのでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ

45避難民のマジレスさん:2020/07/05(日) 18:43:38 ID:JXZBdWr60
くまめも1-5-3
観念は思考過程から出てきたもの。
まず、思考過程自体を理解する。思考は、神経的、心理的な応答の結果。それは感覚に対する感覚機能の即時の応答。または心理的な、蓄えられた記憶の応答。一定の経験に対する記憶の応答が、思考過程を作動させる。
侮辱された→記憶に残る→それが背景の一部を形作る。→その人物に会う。それが挑戦→応答は、その侮辱の記憶→記憶の応答、すなわち思考過程が観念を造り出す
ゆえに観念はいつも条件づけられている。
記憶はいつも過去、その記憶は挑戦により現在において命を与えられる。記憶は挑戦に直面するとき、現在に生き返る。休眠していてもすべての記憶は条件づけられている。
 ゆえに全く異なった接近法が必要。自分が観念に従って行動しているのか、観念作用のない行動はありうるのかを、内側に自分自身で見出さなければならない。観念に基づかない行動-それは何なのか。
 いつ、観念作用なしに行動するのか。経験の結果でない行動は、いつあるのか。経験に基づいた行動は制限する。ゆえに障害。思考過程が行動を制御していないとき、観念から出てきたものでない行動は自発的。それは、精神が行動を制御していないとき、経験に依存しない行動がある、という意味。
橋を、家を建てたい→技術を知っている。→技術は私にそれをどう建てるべきかを教える。それが行動。詩を書く、絵を描く行動、行政の責任の、社会的、環境的応答の行動。すべてが観念や以前の経験に基づいている。しかし観念作用のないとき、行動はあるのか。
(´・(ェ)・`)

46鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/05(日) 23:03:03 ID:1d4drIFg0
観念は思考過程から出てくるというのじゃ。
思考は記憶から起こるのじゃ。
記憶したものの操作が思考なのじゃ。
記憶も思考も観念も無い時に理解はあるのじゃ。

47避難民のマジレスさん:2020/07/06(月) 21:29:37 ID:yBquKmmc0
最初と最後の自由  第一部
  第五章 行動と観念 4

 確かに、観念が止むとき、そういう行動があるのです。そして愛があるときだけ、観念は止みます。愛は記憶ではありません。愛は経験ではありません。愛は、自分の愛する人について考えることではありません。というのは、そのときそれはたんに思考であるからです。あなたは愛について考えられません。あなたは、自分が愛したり献身したりしている人-あなたの導師(グル)、あなたの像(イメ-ジ)、あなたの妻、あなたの夫について考えられるのです。しかし思考、象徴(シンボル)は真実 [のもの] -すなわち愛-ではありません。ゆえに愛は経験ではないのです。
 愛があるとき、行動があるのではないでしょうか。その行動は解放するのではないでしょうか。それは精神作用の結果ではありません。観念と行動の間にあるような隔たりは、愛と行動の間にはありません。観念はいつも古いし、その影を現在の上に落としています。そして私たちは常に観念と行動の間に橋を架けようとしています。愛があるとき-それは精神作用ではなく、観念作用ではなく、記憶ではなく、経験から [出てきたもの] 、実践された修練から出てきたものではありません-そのとき、その愛こそが行動です。それが、自由にしてくれる唯一のものです。精神作用があるかぎり、観念すなわち経験による行動の形成があるかぎり、解放はありえません。そしてその過程が継続するかぎり、すべての行動は制限されます。これの真理がわかるとき、愛の性質-すなわち精神作用ではないもの、あなたがそれについて考えられないもの-が生じるのです。
 この総合過程、どのように観念が生じるのか、どのように行動が観念から発生するのか、どのように観念が行動を制御し、ゆえに、感覚に依存して行動を制限するのかに、気づかなければなりません。それらが誰の観念なのか、左翼からか極右からかどうかは大事なことではありません。私たちは観念にすがりつくかぎり、そもそも経験するということがありえない状態にあるのです。そのとき私たちはたんに時間の領域に-過去すなわちさらなる感覚を与えるものに、またはもう一つの形の感覚である未来に-生きているだけです。経験するということがありうるのは、精神が観念から自由であるときだけです。
 観念は真理ではありません。そして真理は、何か瞬間瞬間、直接に経験されなければならないものです。それは、あなたが「欲しい」経験ではありません-そのとき、それはたんに感覚にすぎません。観念の束を越えてゆけるとき-すなわち「私」であり、精神であり、部分的または完全な連続性を持つもの-、それを越えてゆけるとき、思考が完全に静寂であるときだけ、経験する状態があるのです。そのとき、真理が何であるかを知るでしょう。
(´・(ェ)・`)つ

48避難民のマジレスさん:2020/07/06(月) 21:30:23 ID:yBquKmmc0
くまめも1-5-4
観念が止むとき、そういう行動がある。愛があるときだけ、観念は止む。愛は記憶、経験ではない。愛は、自分の愛する人について考えることではない。そのときそれはたんに思考。あなたは愛について考えられない。
愛があるとき、行動がある。その行動は解放する。それは精神作用の結果ではない。愛と行動の間に隔たりはない。観念はいつも古いし、その影を現在の上に落とす。私たちは常に観念と行動の間に橋を架けようとする。愛があるとき-それは精神作用、観念作用ではなく、記憶ではなく、経験から、実践された修練から出てきたものではない。そのとき、その愛こそが行動。それが、自由にしてくれる唯一のもの。精神作用、観念すなわち経験による行動の形成があるかぎり、解放はありえない。そしてその過程が継続するかぎり、すべての行動は制限される。この真理がわかるとき、愛の性質。、が生じる。
私たちは観念にすがりつくかぎり、そもそも経験するということがありえない状態にある。そのとき私たちはたんに時間の領域に、過去または未来に生きているだけ。経験するということがありうるのは、精神が観念から自由であるときだけ。
 観念は真理ではない。そして真理は、何か瞬間瞬間、直接に経験されなければならないもの。それは、あなたが「欲しい」経験ではない。そのとき、それはたんに感覚にすぎない。観念の束を越えてゆけるときだけ、思考が完全に静寂であるときだけ、経験する状態。そのとき、真理が何かを知る。
(´・(ェ)・`)

49鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/06(月) 23:00:11 ID:1d4drIFg0
例えば子供が車に轢かれそうになったら親は何の思考も無く直ぐに助けようと行動するじゃろう。
その時には観念も無いのじゃ。
そのように愛は思考も観念も無く行動を起こすものじゃ。
そのような時今ここにある真理が見いだされるのじゃ。

50避難民のマジレスさん:2020/07/07(火) 22:16:12 ID:j28u/1TI0
最初と最後の自由  第一部
   
   第六章 信念 1
 信念と知識はとても密接に欲望に関係しています。そしておそらく、私たちはこれら二つの論点を理解できるなら、欲望がどのように働くかがわかり、その複雑さを理解できるのです。
 私たちのほとんどが熱心に受け入れ、当然のことと思っているものごとの一つは、信念の問題であるように、私には見えるのです。私は信念を攻撃しているのではありません。私たちがしようとしていることは、なぜ私たちは信念を受け入れるのかを見出すことです。そして、受け入れの動機、因果 [関係]を理解できるなら、そのときおそらく、私たちはなぜそうするのかを理解するだけではなくて、またそれから自由になることもできるかもしれません。政治的、宗教的な信念、国家主義・民族主義的、他の色々な種類の信念が、いかに人々を分離するか、葛藤・抗争、混乱、敵対を造り出すか [ということ] がわかります-それは明白な事実です。それでも私たちは進んでそれらをあきらめようとしないのです。ヒンドウ-教の信念、キリスト教 [の信念] 、仏教の信念-無数の党派的、国家・民族的信念、色々な政治的イデオロギ-があり、すべてが互いに争い、互いに改心 [・改宗] させようとしています。明白に、信念は人々を分離し、不寛容を造り出していることが、わかります。信念をもたずに生きることは可能でしょうか。信念との関係において自分自身を研究できてこそ、それは見出せるのです。信念をもたずに、この世界で生きることは可能でしょうか-信念を変えるのではなく、一つの信念の代わりにもう一つを用いるのではなくて、すべての信念から全く自由であり、そのため毎分、生に新たに出会うことは、です。これが、結局、真理です-過去の条件づける反応なしに、瞬間瞬間、あらゆるものごとに新たに出会う能力を持ち、そのため自分自身と有るものとの間の障壁として作用する累積的影響がない、ということが。
 あなたは考慮するなら、信念を受け入れたいという欲望の理由の一つが恐れであるということが、わかるでしょう。もしも信念を持たなかったなら、私たちに何が起きるでしょうか。起きるかもしれないことに、とても怯えるのではないでしょうか。もしも、信念-神への、共産主義への、社会主義への、帝国主義への [信念] 、何らかの種類の宗教的定式、私たちが条件づけられている何らかの教義への信念-に基づいた行動の様式を持たなかったなら、全く途方に暮れた気持ちになるのではないでしょうか。そしてこの信念の受け入れは、その恐れ-ほんとうは [無であること・] 何ものでもないことへの [恐れ] 、空っぽであることへの恐れ-を覆いかくすことではないでしょうか。結局、カップは空っぽであるときだけ役に立つのです。そして信念、教義、主張、引用で満ちている精神は、ほんとうは非創造的な精神です。それはたんに反復的な精神です。その恐れ-その空っぽ [・空しさ] への恐れ、その寂しさへの恐れ、その沈滞への、達しないことへの、成功しないこと、達成しないこと、何ものかでないこと、何ものかにならないことへの恐れ-から逃避することが、確かに、なぜ私たちがこんなに熱心に貪欲に信念を受け入れるのかという理由の一つなのではないでしょうか。そして信念の受け入れをとおして、私たちは自分たち自身を理解するでしょうか。反対です。信念は宗教的でも政治的でも、明白に自分たち自身の理解を妨げるのです。それは、私たちがそれをとおして自分たち自身を見つめる幕(スクリ-ン)として、作用するのです。そして私たちは信念をもたずに自分たち自身を見つめられるでしょうか。私たちがそれらの信念を、 持っている多くの信念を取り除くなら、何か見るべきものが残っているでしょうか。私たちは、信念-すなわち精神がそれ自身を [それと]同一化してきたもの-を持たないなら 、そのとき同一化のない精神は、それ自身をあるがままに見る能力があるのです-そのとき確かに、自分自身の理解の始まりがあるのです。
(´・(ェ)・`)つ

51避難民のマジレスさん:2020/07/07(火) 22:22:10 ID:j28u/1TI0
くまめも1-6-1
なぜ私たちは信念を受け入れるのか。受け入れの動機、因果を理解できるなら、私たちはなぜそうするのかを理解するだけではなくて、またそれから自由になることもできる。信念が、いかに人々を分離するか、葛藤・抗争、混乱、敵対を造り出すかがわかる。それでも私たちは進んでそれらをあきらめようとしない。信念は人々を分離し、不寛容を造り出す。
信念をもたずに生きることは可能か。
過去の条件づける反応なしに、瞬間瞬間、あらゆるものごとに新たに出会う能力を持ち、そのため自分自身と有るものとの間の障壁として作用する累積的影響がない、ということが、真理。
信念を受け入れたいという欲望の理由の一つが恐れ。信念の受け入れは、その恐れ-ほんとうは何ものでもないことへの 、空っぽであることへの恐れ-を覆いかくすこと。信念、教義、主張、引用で満ちている精神は、ほんとうは非創造的な精神。それはたんに反復的な精神。信念は、私たちがそれをとおして自分たち自身を見つめる幕として、作用する。私たち信念を取り除くなら、何か見るべきものが残っているか。私たちは、信念を持たないなら 、そのとき同一化のない精神は、それ自身をあるがままに見る能力がある−そのとき確かに、自分自身の理解の始まりがある。
(´・(ェ)・`)

52鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/07(火) 23:00:32 ID:1d4drIFg0
信念そのものが悪いとは言わないのじゃ。
ただそれを理解することが大事なのじゃ。
理解すれば自由になれるのじゃ。
恐れから信念を受け容れたいという欲が起こるというのじゃ。
それが観られれば消えるのじゃ。

53避難民のマジレスさん:2020/07/08(水) 21:14:01 ID:0cl365bM0
最初と最後の自由  第一部
   
   第六章 信念 2

 それは、この信念と知識の問題は、ほんとうにとても興味深い問題です。それは私たちの生においてなんととてつもない役割を演じるのでしょうか!私たちはいかに多くの信念を持っているのでしょうか!確かに、私がその [霊的という] 言葉を使えるなら、人は知的であるほど、文化的で [・教養が ] あるほど 、霊的 [・精神的] であるほど、理解する能力がないのです。現代の世界においてさえも、未開人は無数の迷信を持っています。思慮深いほど、目覚めているほど、鋭敏であるほど、おそらく信じることがないのです。それは、信念は束縛する [から] 、信念は孤立させるからです。そして、経済的、政治的世界、またいわゆる霊的 [・精神的] 世界においても、世界中でそうであることがわかります。あなたは神があることを信じています。そしておそらく私は神がないことを信じています。またはあなたは [共産主義者や国家主義者として] あらゆるものごと [に対して] 、あらゆる個人 [に対して] 完全な国家統制を信じています。そして私は [資本主義者として] 民間企業とその他すべてを信じています。あなたは [一神教の信者として] 、唯一人の救い主がいるし、彼をとおしてあなたの目標を達成できるということを信じています。そして私はそんなふうに信じていません。こうしてあなたはあなたの信念を持ち、私は私の [信念] を持って、自己を主張しているのです。それでも二人とも、愛について、平和について、人類の統合について、一つの生命について話をするのです-それは完全に無意味です。なぜなら、現実に信念こそが孤立の過程であるからです。あなたはバラモンです。私は非バラモンです。あなたはキリスト教徒です。私はイスラム教徒です、などです。あなたは同胞愛について話をし、私もまた同じ同胞愛、愛、平和について話をします。しかし現実には、私たちは分離しています。私たちは自分たちを分割しています。平和が欲しい、新しい世界、幸せな世界を造り出したいと思う人は、確かに、どんな形の信念をとおしても自分自身を孤立させられません。それは明らかでしょうか。それは言葉上はそうであるかもしれません。しかし、あなたがそれの意義と妥当性と真理がわかるなら、それは作用 [・行動] しはじめるでしょう。
(´・(ェ)・`)つ

54避難民のマジレスさん:2020/07/08(水) 21:15:51 ID:0cl365bM0
くまめも1-6-2
 あなたはあなたの信念を持ち、私は私の [信念] を持って、自己を主張している。それでも二人とも、愛について、平和について、人類の統合について、一つの生命について話をする−それは完全に無意味。なぜなら、現実に信念こそが孤立、分離の過程であるから。私たちは自分たちを分割している。平和が欲しい、新しい世界、幸せな世界を造り出したいと思う人は、確かに、どんな形の信念をとおしても自分自身を孤立させられない。あなたがそれの意義と妥当性と真理がわかるなら、それは作用 [・行動] しはじめる。
(´・(ェ)・`)

55鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/08(水) 23:23:44 ID:1d4drIFg0
信念に拠って人は孤立するというのじゃ。
政治的なイデオロギーとか宗教の信念で分割されるからなのじゃ。
悟った者はもはや信じることがないのじゃ。
何が事実であるか事実でないのかわかるからなのじゃ。
事実でないか未だ事実と認められないことを事実として扱うのが信念なのじゃ。

56避難民のマジレスさん:2020/07/09(木) 19:38:12 ID:4q82KXfA0
最初と最後の自由  第一部
   
   第六章 信念 3

 欲望 [・願望] の過程が働いているところ、信念をとおした孤立化の過程があるにちがいないということが、わかります。なぜなら、明白にあなたは経済的、霊的 [・精神的] に [安全であるため] 、また内側でも安全であるために信じているからです。私は、経済的理由のために信じている人たちについて話してはいません。なぜなら、彼らは自分たちの仕事に依存するように育てられているし、ゆえに自分たちのために仕事があるかぎり、キリスト教徒、ヒンドウ-教徒-何でもかまいません-であるだろうからです。私たちはまた便宜のために信念にすがりつく人たちについても議論していません。おそらく私たちのほとんどにおいては、それは等しくそうなのです。便宜のために、私たちは一定のものごとを信じています。これら経済的理由は払いのけて、私たちはその中にもっと深く入らなければなりません。何でも経済的、社会的、霊的 [・精神的] なものを強く信じている人たちを [例に] 取り上げましょう。その裏の過程は、安全でありたいという心理的欲望なのではないでしょうか。そのとき継続したいという欲望があります。私たちはここで、継続があるのかないのかについては、議論していません。私たちは、信じようとする駆り立て、常なる衝動について議論しているだけです。平和の人、ほんとうに人間存在の過程全体を理解しようとする人は、信念によって縛られることはできないのではないでしょうか。彼は自分の欲望が、安全であるための手段としている働いているのがわかります。どうか反対側へ行って、私が無宗教を説いていると言わないでください。それはそもそも私の論点ではありません。私の論点は、私たちが信念の形における欲望の過程を理解しないかぎり、争いがあるにちがいない、葛藤・抗争があるにちがいない、悲しみがあるにちがいない、そして人は人と対立するであろう、ということです-それは日常、見られます。それで私が、この過程が、信念-すなわち内側の安全への渇望の表現であるもの-の形を取るということを知覚するなら、気づくなら、そのとき私の問題は、私があれかこれかを信じるべきであるということではなくて、私が安全でありたいという欲望から自由になるべきであるということです。精神は、安全への欲望から自由でありうるでしょうか。それが問題です-何を信じるべきか、どのくらい信じるべきかではありません。これらはたんに、心理的に安全でありたい、世界であらゆるものごとがこんなに不確実であるとき、何かについて確実でありたいという内側の渇望の表現にすぎません。
(´・(ェ)・`)つ

57避難民のマジレスさん:2020/07/09(木) 19:39:56 ID:4q82KXfA0
くまめも1-6-3
欲望の過程が働いているところ、信念をとおした孤立化の過程があるにちがいない。なぜなら、明白にあなたは安全であるために信じているから。そのとき継続したいという欲望がある。平和の人、人間存在の過程全体を理解しようとする人は、信念によって縛られることはできない。彼は自分の欲望が、安全であるための手段として働いているのがわかる。論点は、私たちが信念の形における欲望の過程を理解しないかぎり、争い、葛藤・抗争、悲しみがあるにちがいない、そして人は人と対立するであろう、ということ。それで、この過程が、信念-すなわち内側の安全への渇望の表現であるもの-の形を取るということを知覚するなら、気づくなら、そのとき私の問題は、精神は、安全への欲望から自由でありうるか、何を、どのくらい信じるべきかではない。これらはたんに、心理的に安全でありたい、世界であらゆるものごとがこんなに不確実であるとき、何かについて確実でありたいという内側の渇望の表現にすぎない。
(´・(ェ)・`)

58鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/09(木) 23:24:24 ID:1d4drIFg0
安全でありたいという欲望から人は信念に縋りつくというのじゃ。
そしてそれを継続したいという執着も生まれるのじゃ。
それから自由でなければならないのじゃ。
それらはただ苦を生み出すだけであるからのう。

59避難民のマジレスさん:2020/07/10(金) 21:22:52 ID:y27lq8Yo0
最初と最後の自由  第一部
   
   第六章 信念 4

 精神は、意識的精神は、人は、この安全でありたいという欲望から自由でありうるでしょうか。私たちは安全でありたいし、ゆえに私たちの地所、財産、家族の助力が要るのです。私たちは信念の壁を築くことによって内側で、また霊的 [・精神的] にも安全でありたいのです-それは、この確実でありたいという渇望の表示です。個人としてあなたは安全でありたいというこの衝動、この渇望-すなわち何かを信じたいという欲望に自ずと表現されるもの-から自由でありうるでしょうか。私たちはそのすべてから自由でないなら、私たちが争いの源です。私たちは平和をもたらしていません。私たちは心に愛を持っていないのです。信念は破壊します。そしてこれは私たちの日常の生で見られます。 私はこの欲望の過程-すなわち信念にすがりつくことにおいて自ずと表現されるもの-に捕らわれているとき、私自身が見えるでしょうか。精神は信念から自由になれる-その代用を見つけるのではなくて、それから全く自由でありうるでしょうか。あなたはこれに対して言葉の上で「はい」とか「いいえ」とか答えられません。しかし、あなたの意図が信念から自由になることであるなら、明確に答えを示せるのです。あなたはそのとき、安全でありたいという衝動から自由になる手段を求めている地点に、必然的に至るのです。明白に、あなたが信じたいように、継続するであろう安全は、内側にはありません。あなたのささいな小さなものごとを気をつけて見守り、あなたが誰に会うべきか、何をすべきか、どのようにそれをすべきかを教えている神があるということを、あなたは信じたいのです。これは子どもっぽい未熟な考えです。あなたは、偉大な父が私たちみんなを見守っていると考えます。それは、あなた自身の個人的な好みのたんなる投影にすぎません。それは明白に真実ではありません。真理は何か全く違ったものであるにちがいありません。
 私たちの次の問題は知識のそれです。知識は真理の理解にとって必要でしょうか。「私は知っている」と私が言うとき、含まれている意味は知識があるということです。そういう精神は、何が真実なのかを究明し探し出す能力があるでしょうか。さらに、私たちが知っているのは何でしょうか-それを私たちはとても誇りに思っていますが。現実に私たちが知っているのは何でしょうか。私たちは情報は知っています。私たちは [情報と経験、すなわち] 、自分たちの条件づけ、記憶、能力に基づいた情報と経験で充ちています。あなたは「私は知っている」と言うとき、どういう意味でしょうか。あなたが知っているという認知は、事実の [認識] 、一定の情報の認識であるか、それともあなたがしたことのある経験であるか、です。情報の常なる蓄積、色々な形の知識の取得、すべてが「私は知っている」という主張を構成します。そしてあなたは自分の背景、欲望、経験に応じて、自分が読んだものを翻訳しはじめます。あなたの知識は、 [そこに] 欲望の過程と類似した過程が働いている [ところの]ものです。信念のかわりに私たちは知識を代用します。「私は知っている。私は経験をした。それは反論できない。私の経験はそれです。私は完全にそれを信頼する」-これらは知識の表示です。しかしあなたはその裏に行き、それを分析し、もっと智恵をもって気をつけて見つめるとき、「私は知っている」という主張こそが、あなたと私を分離しているもう一つの壁であるということを、見つけるでしょう。その壁の裏に、あなたは避難し、慰め、安全を求めているのです。ゆえに精神は知識の重荷を負えば負うほど、理解する能力がなくなるのです。
(´・(ェ)・`)つ

60避難民のマジレスさん:2020/07/10(金) 21:28:13 ID:y27lq8Yo0
くまめも1-6-4
人は、安全でありたいという欲望から自由でありうるか。安全でありたい故に信念の壁を築くことにより精神的にも安全でありたい。それは、確実でありたいという渇望の表示。
安全でありたいというこの渇望から自由でないなら、私たちが争いの源。私たちは平和をもたらしていない。私たちは心に愛を持っていない。信念は破壊する。あなたの意図が信念から自由になることであるなら、明確に答えを示せる。あなたはそのとき、安全でありたいという衝動から自由になる手段を求めている地点に、必然的に至る。あなたが信じたいように、継続するであろう安全は、内側にはない。あなたを気をつけて見守り、あなたが何をすべきかを教えている神があるということを、あなたは信じたい。これは子どもっぽい未熟な考え、自身の個人的な好みのたんなる投影にすぎない。それは真実ではない。
 次の問題は知識。知識は真理の理解にとって必要か。私たちは情報は知っている。私たちは情報と経験、すなわち、自分たちの条件づけ、記憶、能力に基づいた情報と経験で充ちている。情報の常なる蓄積、色々な形の知識の取得、すべてが「私は知っている」という主張を構成する。あなたの知識は、欲望の過程と類似した過程が働いているもの。信念のかわりに私たちは知識を代用する。あなたはその裏に行き、それを分析し、もっと智恵をもって気をつけて見つめるとき、「私は知っている」という主張こそが、あなたと私を分離しているもう一つの壁であるということを見つける。その壁の裏に、あなたは避難し、慰め、安全を求めている。ゆえに精神は知識の重荷を負えば負うほど、理解する能力がなくなる。
(´・(ェ)・`)

61鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/10(金) 22:58:02 ID:1d4drIFg0
信仰や信念も突き詰めれば個人の好みの投影に過ぎないというのじゃ。
そうであるから真理ではないというのじゃ。
そして知識も記憶によるものであるから分離するものでしかないというのじゃ。
知識が増えれば理解する能力もなくなるというのじゃ。

62避難民のマジレスさん:2020/07/11(土) 19:52:49 ID:y3FE4rAQ0
最初と最後の自由  第一部
   
   第六章 信念 5

 あなたは今までにこの知識の取得の問題について [考えたことがあるのか] -知識は究極的に、私たちが愛するのを [助けてくれるのか] 、私たち自身に葛藤を [産み出し] 、私たちの隣人との抗争を産み出すそれらの性質から自由であるのを助けてくれるのか、知識はいったい精神を野心から自由にするのかについて、考えたことがあるのかどうか、私は知りません。なぜなら、野心は結局、関係を破壊し、人を人と対立させる性質の一つであるからです。私たちが互いに平和に生きようとするなら、確かに、野心は完全に終わりにならなければなりません-政治的、経済的、社会的野心だけではなくて、もっと微妙で有害な野心、何ものかでありたいという霊的 [・精神的] 野心も、です。精神が、この知識の蓄積する過程、この知りたいという欲望から自由であることは、いったい可能でしょうか。
 これら二つ、知識と信念が、私たちの生においていかにとてつもなく強力な役割を演じるかを見つめることは、とても興味深いことです。見てください、いかに私たちが、莫大な知識と学識を持つ人たちを崇拝するのかを!あなたはその意味が理解できるでしょうか。あなたが何か新しいものを見つけ、何かあなたの想像の投影ではないものを経験しようとするなら、あなたの精神は自由でなければならないのではないでしょうか。それは何か新しいものが見える能力がなければなりません。不幸にも、あなたは何か新しいものを見るたびに、すでにあなたに知られている情報すべて、あなたの知識すべて、あなたの過去の記憶すべてを持ち込みます。そして明白にあなたは、新しいもの、古いものからではないものを見る能力、受け取る能力が何もなくなるのです。どうか即時にこれを細部へと翻訳しないでください。私は自宅にどう戻るのかを知らなければ、迷ってしまうでしょう。私は機械をどう動かすのかを知らなければ、ほとんど役に立たないでしょう。それは全く異なったことです。私たちはここでそれについて議論しているわけではありません。私たちは、安全への手段として使われる知識、何ものかでありたいという心理的、内側の願望について、議論しているのです。あなたは知識をとおして何を得るのでしょうか。知識の権威、知識の重み、重要性 [・尊大さ] 、威厳の感覚、生命力 [・活力] の感覚、等々でしょうか。「私は知っている」とか「ある」とか「ない」とか言う人は、確かに、考えることを止めてしまい、この欲望の過程全体を追求するのを止めてしまったのです。
 そのとき、私たちの問題は、私が見るところ、私たちが信念により、知識により縛られ、押しつぶされているということです。そして精神が昨日から [自由で] 、昨日の過程をとおして取得された信念から自由であることは、可能でしょうか。あなたは質問を理解していますか。個人としての私が、個人としてのあなたがこの社会に生きて、それでも私たちが育てられてきた信念から自由であることは、可能でしょうか。精神がそのすべての知識、そのすべての権威から自由であることは可能でしょうか。私たちは色々な聖典、宗教書を読みます。そこには何をすべきか、何をすべきでないか、どのようにして目標に到達すべきか、目標は何であるか、神は何であるかが、よく気をつけて叙述されています。あなたたちは皆それを暗記して知っているし、それを追求してきたのです。それが、あなたの知識です。それが、あなたが取得してきた [もの・] ことです。それが、あなたが学んできた [もの・] ことです。その道に沿って、あなたは追求します。明白に、あなたは自分が追求し求めるものを見つけるでしょう。しかしそれは真実でしょうか。それはあなた自身の知識の投影ではないでしょうか。それは真実ではありません。それを「今」-明日ではなくて今-悟り、「私はそれの真理がわかる」と言い、それを手放し、そのためあなたの精神がこの想像の [過程] 、投影の過程により損なわれないということは、可能でしょうか。
(´・(ェ)・`)つ

63避難民のマジレスさん:2020/07/11(土) 19:53:57 ID:y3FE4rAQ0
くまめも1-6-5
知識の取得の問題
知識は究極的に、私たちが愛するのを助けてくれるのか、私たち自身に葛藤、抗争を産み出すそれらの性質から自由であるのを助けてくれるのか、知識はいったい精神を野心から自由にするのか。野心は結局、関係を破壊し、人を人と対立させる性質の一つである。
私たちが互いに平和に生きようとするなら、野心は完全に終わりにならなければならない。政治的、経済的、社会的野心だけではなくて、もっと微妙で有害な野心、何ものかでありたいという霊的・精神的野心も。
精神が、この知識の蓄積する過程から自由であることは可能か。
あなたが何か新しいものを見つけ、何かあなたの想像の投影ではないものを経験しようとするなら、あなたの精神は自由でなければならない。それは新しいものが見える能力がなければならない。不幸にも、あなたは何か新しいものを見るたびに、すでに知られている情報、知識、過去の記憶すべてを持ち込む。そして、新しいものを見る能力、受け取る能力がなくなる。 
あなたは知識をとおして何を得るのか。「私は知っている」とか言う人は、考えることを止めてしまい、この欲望の過程全体を追求するのを止めてしまった。
私たちの問題は、私たちが信念により、知識により縛られ、押しつぶされているということ。そして精神が昨日の過程をとおして取得された信念から自由であることは、可能か。精神がそのすべての知識、すべての権威から自由であることは可能か。
色々な聖典、宗教書を読み、その道に沿って、あなたは追求し、自分が求めるものを見つけるでしょう。それはあなた自身の知識の投影。それは真実ではない。それを「今」悟り、それを手放し、そのためあなたの精神がこの想像の、投影の過程により損なわれないということは、可能か。
(´・(ェ)・`)

64避難民のマジレスさん:2020/07/11(土) 23:14:50 ID:b/R.LjPg0
.
      //
    / .人
    /  (__) パカ
   / ∩(____)    やぁ!
   / .|( ・∀・)_
  // |   ヽ/
  " ̄ ̄ ̄"∪

65鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/11(土) 23:21:22 ID:1d4drIFg0
世間では知識が信奉され、知識を多く持つ者が尊敬されているのじゃ。
しかし、知識は逆に束縛にもなっているのじゃ。
知識のせいで新しいものに気付けないのじゃ。
何か新しいものを見つけたと思っても実は知識の投影でしかないものであったりするのじゃ。

66避難民のマジレスさん:2020/07/11(土) 23:23:54 ID:b/R.LjPg0
>>65
お前みたいな馬鹿よりはましだろw

67避難民のマジレスさん:2020/07/12(日) 22:07:23 ID:0xIm3.lY0
最初と最後の自由  第一部
   第六章 信念 6
 精神は信念から自由である能力があるでしょうか。あなたをそれにすがりつかせ、あなたに信じさせる原因の内側の本性を [理解する] -意識的な [動機] だけでなく、また無意識的な動機をも-理解するとき、あなたはそれから自由でありうるだけです。結局、私たちはたんに、意識的な水準で機能している表面的な実体ではないのです。私たちは無意識的な精神に機会を与えるなら、より深い意識的、無意識的活動を見出せるのです。なぜなら、それは意識的精神よりも応答がはるかに速いからです。あなたの意識的精神が静かに考え、聴き、見守っている間、無意識的精神は、はるかに活動的で、はるかに鋭敏で、はるかに受容性があるのです。ゆえにそれは答えを得られるのです。信じるように服従させられ、脅迫され、強いられ、強制されてきた精神、そういう精神は自由に考えることができるでしょうか。それは、新たに見て、あなたともう一人との間の孤立化の過程を取り除けるでしょうか。どうか、信念は人々を [一つに] まとめると言わないでください。そうなりません。それは明白です。どんな組織化された宗教も、今までそうしたことはないのです。あなた自身の国のあなたたち自身を見てください。あなたたちは皆、信じる者です。しかしあなたたちは皆、 [一つに] まとまっているでしょうか。あなたたちは皆、 [一つに] 統合されているでしょうか。あなたたち自身がそうではないことを知っています。あなたたちはこんなに多くの些細な小さな党派、カ-ストに分割されています。無数の分割を知っています。過程は-東洋でも西洋でも-世界中で全く同じです。キリスト教徒はキリスト教徒を破壊し、些細な小さなものごとのために互いに殺し合い、人々を軍隊生活など、戦争の恐怖全体に駆り立てています。ゆえに信念は人々を [一つに] 統合しません。それはこんなに明らかです。それが明らかであり、それが真実であるなら、そしてあなたはそれがわかるなら、そのとき、それに付いていかなければなりません。しかし困難は、わたしたちのほとんどが [そのことが] わからないということです。なぜなら、私たちは、その内側の不安定、その内側の一人であるという感覚に向き合う能力がないからです。私たちは、何か寄りかかれるものが欲しいのです-それが国家であろうと、カ-ストであろうと、 [国家主義・] 民族主義であろうと、大師や救い主や他の何であろうと、です。そして私たちはこのすべての偽りがわかるとき、そのとき精神はそれの真理がわかる [能力がある] -それは一時的に瞬間であるかもしれませんが-能力があるのです。たとえ、それ [真理] がそれ [精神] にとって耐えられないときでさえ、それ [精神] は戻って行くのです。しかし一時的にわかることで充分です。あなたがそれを束の間の瞬間、わかるなら、それで十分です。なぜなら、あなたはそのとき、とてつもないことが起きていることがわかるでしょうからです。意識が拒絶するとしても、無意識が働いています。それは前進の瞬間ではありません。しかしその瞬間が唯一のものです。たとえ意識的な精神がそれに対して格闘するにもかかわらず、それはそれ自体の結果を持つでしょう。
(´・(ェ)・`)つ

68避難民のマジレスさん:2020/07/13(月) 00:55:00 ID:b/R.LjPg0
>>65
で、阿頼耶識は現量だろ?

で、僧侶じゃないのに何で僧侶って嘘つくの?

で、論破されたら宗教板去るって約束は嘘なのか?

69避難民のマジレスさん:2020/07/13(月) 18:53:29 ID:8yt0vhog0
くまめも1-6-6
精神は信念から自由である能力があるか。あなたをそれにすがりつかせ、信じさせる原因を理解するとき、意識的無意識的な動機を理解するときだけ、それから自由でありうる。
信じるように服従させられ、脅迫され、強いられ、強制されてきた精神は自由に考えることができるか。それは、新たに見て、あなたともう一人との間の孤立化の過程を取り除けるか。信念は人々を一つに統合しない。それが真実であり、そしてあなたはそれがわかるなら、それに付いていかなければならない。しかし困難は、わたしたちのほとんどがそのことがわからないということ。なぜなら、私たちは、その内側の不安定、その内側の一人であるという感覚に向き合う能力がないから。私たちは、何か寄りかかれるものが欲しい。そして私たちはこのすべての偽りがわかるとき、そのとき精神はそれの真理がわかる能力がある。意識が拒絶しても、無意識が働いている。それは前進の瞬間ではない。しかしその瞬間が唯一のもの。
(´・(ェ)・`)

70ウンコマン:2020/07/13(月) 19:19:43 ID:b/R.LjPg0
      //
    / .人
    /  (__) パカ
   / ∩(____)    やぁ!
   / .|( ・∀・)_
  // |   ヽ/
  " ̄ ̄ ̄"∪

71避難民のマジレスさん:2020/07/13(月) 20:23:10 ID:I6SFs6uk0
最初と最後の自由  第一部
   
   第六章 信念 7

 そこで私たちの疑問は-「精神が知識と信念から自由であることは可能でしょうか」かです。精神は知識と信念から作り上げられていないでしょうか。精神の構造は信念と知識ではないでしょうか。信念と知識は認識の過程、精神の中心です。過程は閉鎖的です。過程は意識的とともに無意識的です。精神はそれ自身の構造から自由でありうるでしょうか。精神は無くなりうるでしょうか。それが問題です。私たちが知っているような精神は、その裏に信念を持ち、欲望、安全でありたいという衝動、知識、強さの蓄積を持っています。その力と卓越性すべてをもってしても、自分自身で考えられなければ、世界に平和はありえません。あなたは平和について話をするかもしれません。あなたは政党を組織するかもしれません。あなたは屋上から [大声で] 叫ぶかもしれません。しかしあなたは平和を持てません。なぜなら、精神には、矛盾を造り出し、孤立させ分離させる基礎そのものがあるからです。平和の人、熱意の人は自己を孤立させながら同胞愛と平和について話をすることはできません。それはただ政治的、宗教的なゲ-ム、達成と野心の感覚です。これについてほんとうに熱心であり、発見したいと思う人は、知識と信念の問題に向き合わなければなりません。彼はその裏に行き、欲望-安全でありたいという欲望、確実でありたいという欲望-の過程全体が働いているのを、発見しなければなりません。
 新しいものが-真理であっても神であっても何であっても、それが-起こりうる状態にあるであろう精神は、確かに、取得すること、集めることを止めなければなりません。それは知識すべてを脇に置かなければなりません。知識の重荷を負った精神は確かに、真実であり、測ることのできないものを、とうてい理解できません。
(´・(ェ)・`)つ


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