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神の存在/不在と科学の範囲

1macska:2006/12/24(日) 20:28:24 ID:VdHL1C4M
こんにちはです。ブログはたまに読んでますが、今日偶然本サイトの方のQ&Aを見かけて疑問を抱きました。

> Q. 進化が正しいとすると、神さまはいないのでしょうか?
>
> A. いるともいないとも言えません。神がいるかどうかとい
> う問題は、科学の範囲外です。進化が正しいかどうかという
> 問題と、神がいるかどうかという問題は別問題です。進化論
> と信仰を両立させている科学者はたくさんいます。

この記述ですが、「神がいるかどうかという問題は科学の範囲外」という言明が常に正しいとは思いません。

神といっても宗教によっていろいろあるわけですが、その存在が科学が対象とする範疇内であるかどうかは、その神がどういった性質を持つものとされているかによるのではないでしょうか。たとえば、現実社会において奇跡を起こしたり悪人に罰を与えたりお祈りに応えてくれたり信者と対話してくれるような種の「神」であれば、その存在は(実際に証明もしくは反証は難しくても)原理的に言って科学的手法による検証の対象となりうるのではないですか。

逆に言うと、「神がいるかどうかは科学の範囲外」という言明は、少なくともわたしたちが生きる今の現実社会にいかなる形でも関与しないタイプの神か、あるいは「自然法則」や「全宇宙」をただ「神」と呼び変えている場合に限ってのみ言えるはずだと思います。

もちろん、進化論が正しいというだけで「奇跡を起こしたりお祈りに応えてくれたり信者と対話してくれるような種の神」が反証されるわけではないですが、かといってそうした反証が科学の範囲外というのは言い過ぎではないかと。

353AH1:2007/01/20(土) 21:17:09 ID:MM7DYpv2
>「現実世界の事象について言及する」という点で宗教と科学の領域は分離されていないと思うので、そのようなきれいな住み分けは不可能だと考えているのです。

はい、私もまさにそのように思いますし、現実とは?知るとは?という点が議論になったのだと理解しております。

>ではどうするか。「住み分けはできない」と言ったことで、「じゃあ科学が宗教を駆逐しろとでもいうのか」みたいな感じの反発を受けたようですが、わたしの主張は全く正反対で、「科学は科学のルールで粛々と現実世界の探求をすれば良く、宗教は宗教で自由に現実世界についての主張を信仰・布教すれば良い」というものです。

ああ、なるほど。議論の途中で「もしかするとそのような光景を思い描いておられるのでは?」と思ったりもしたのですが、確信できませんでした。そのような御意見であれば異論はありません。
「四島は日本の尺度では日本の領土ですな」
「その通り、そしてロシアの尺度ではロシアの領土でもあります。ハラショー」
ということですね。
やっぱり202の酔っ払いさんの投稿(の特に後半部)のパクリみたいなものですが。

今度は、より納得が行きました

354macska:2007/01/20(土) 21:41:37 ID:VdHL1C4M
>>349
> > だから、わたしは仏教を信仰していないから、信仰の例は出せないんだって。
>
> あん?じゃぁなぜ聖書から引っ張り出せるのかね。

だから、自分が信仰していないモノなら、聖書かれでも仏教からでも出せますよ。でもあなたは「自分の信仰する宗教から例を出すべきだ」と言ってるんでしょ。ところが、わたしは宗教を信仰していないから、「自分の信仰する宗教の例」は出せない。仏教から例を出したとしても、それはわたしにとって「他者の信仰」であるという点で聖書からの例と変わらないのです。

…って、分かって言ってるでしょ? 言いがかりはやめてほしいなぁ。

> だから私が出してやっただろ。あなたとして梵天勧奨はどうなんだよ。

どうなんだよって、何が言いたいの?

梵天が人間に語りかけた、というのと、キリスト教の神様が人間に語りかけた、というのは、同じレベルの話として理解すべきじゃないの? 仏教から例を引けば結論が何か変わるかもしれないと思っているわけですか?

> じゃぁ、釈尊が何を仰っているかイエスと比べてよくわかならないから、出せない、
> ということか。

釈尊が何を言った(とされているか)くらいなら、仏教徒を名乗るくらいですからそこそこ知っていますよ。でも、その宗教学的な位置づけや解釈の歴史なんてことにはそれほど詳しくありません。ユダヤ教・キリスト教については、聖書編纂の歴史や神学的なことを含めてそこらの一般人よりはるかに知っていると思います。だから、より自信を持って例に出せるという意味では、その通りです。

> 要するに、ちょいと仏教解説書を読みまわして「ふむふむ、ここは私の考えに同じ」と感じたところ
> がある程度で「わたしは仏教徒です」と言っても、そんなに文句言われないから名乗ってる、ってだ
> けじゃん。

このように、相手の思想背景について決めつけて中傷するのはやめてよね。進化論についても、芥屋さんが以前「政治的な効果や影響とは無関係に進化論や科学理論そのものに興味がある、進化論についての発言は政治的立場抜きにやっている」みたいにいうのを聞いて、ああこの人とは政治的な立場は違うけれども進化論への関心は同じだと思って少し嬉しかったのに、芥屋さんの側には「macskaは進化生物学を反フェミのプロパガンダ程度にしか思っていない」と決めつけられたことに、こっちはショック受けてるんだからね。

> だからって「チベット仏教は本来の仏教ではありません」とか

不当な引用で中傷するのはやめてください。

これまできちんとあなたの批判にこたえてきたつもりですが、あんまりこうした中傷が続くようなら、無視しますよ。
それに、別の掲示板での発言に疑問があれば、そちらでお応えしますって言ってるでしょ。

355macska:2007/01/20(土) 21:43:57 ID:VdHL1C4M

>>351
> つまり
> 「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、その現実における介入を調査できれば科学的に検証できる」
> ではなく
> 「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、その現実における介入を調査できれば科学的検証の対象となり得る」
> ということですね?

もう1カ所違いました。
「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、科学的検証の対象となり得る」です。
# 前回は後半だけしか書かなかったので、その前に何が来るのか分かりにくかったと思います。

なかなか理解してもらえなくて困っているのですが、ここで「科学の対象となり得る」というのは、現実に検証が可能かどうかとはとりあえず関係なく、科学の議題となる潜在性がある、ということです。現実世界に物質的な介入をする知的な存在というのは、現実世界に生息しているか、少なくとも介入する時点において現実世界との接点を持っているはずですから、それが未来永劫どんなことがあっても絶対に科学の議題とはなり得ないとは決して言えないはず。それに対し、現実世界の外にあり人知が届かないとされるもの(例えば、一般に言われる所の「死後の世界」)は、原理的に絶対に科学の議題とはなり得ません。

356芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 22:14:23 ID:Q7XBVw2.
>>333はグチャグチャ言い訳してるだけだから割愛。
>>334の後半ね。
>多くの「穏健な」科学者と宗教者の双方が、(中略)というのがわたしの論理です。

あのね、それは「わたしの論理」ではなくドーキンスの主張。しかし、あなたがそれを自分の主張に流用しているのが幼稚で見てらんない。「わたしの論理」はひとまず置いておく。ドーキンスがなぜそう言っているかというのは、あなたがいうような、ナザロ復活とかマリア処女受胎が「科学的にあり得ない」「超常現象は信じられない」という話じゃないんだ。

たとえば「奇跡」ね、ドーキンスはどう言ってる?それがなぜホモ・サピエンスという種にとって「奇跡」と思えるかと言えば、その生理的な初期条件からして知覚して認識できる範囲を超えているから…ことに「体験を意識できる時間のスパン」の問題ね…それが「奇跡」に思えるんだ…というところから掘り起こしてゆく。で、彼はそこで何を訴えているか。

それが人間の思考能力の限界を超えていても、決して「奇跡」じゃないんだ、その「奇跡」を示すことで「神」が人に何かを示そうとの意志があったとかじゃないんだ…それは「ありえないことではないんだと考えて探求してゆくべし」と…科学としては、そこまで言わなくちゃだめなんだ、そう言っているんだよ。

なぜそこまで言わなくちゃだめなのか(その種の宗教と「紳士協定」を結んで「お互いそれを言わないことにする」という妥協をしてはだめなのか)といえば、そういう考え方でも良しとしたが最後、科学は科学としてやっていけなくなるじゃないか、ということですよ。科学者なら、そこは絶対にお茶を濁すな…ということね。彼の、グールドに対する批判(というか忠告ね)もその線もあったのだ。あの論争を、ポスモダ大騒ぎにしか見ていないようだと、こういうところで見落としが出るから。よく見てね。

>>ナザロ復活やアリア処女受胎に触れることだからと言って、人の生死に関する研究をやめるような要求がキリスト教会から出たというのかね。

>くだらなーい。そんなわけがないでしょうが。

そう、そんなわけない。よって、くだらねぇのはmacskaさんなのだよ。ナザロ復活やマリア処女受胎「それ自体」をあげつらうのは愚の骨頂。それが史実としてあったかことかどうかなど、それは歴史学の領分。科学としては、「現在の科学としては、そのようなことがありえるとは言えない。しかし、そういうことがあったというのだから興味をもって調べてゆきたい」とは言える。そこが科学の「限界」なのでも「領域」なのでもない。

「それを科学的に調べるな」と言われても屈するな…などという、あなたの主張は絵空事なのだよ。そんなわけがないのだから。しかし問題はそんなことじゃない。科学が、「そんなことはあり得ないことだと現時点での理知でもって決め付けるかたわら、それをことさらに言わず適当に現時点での教会との穏便な社交を優先して、さらなる探求を行わないようようなら科学の自殺」なんだ。しかしこれはドーキンスのreligion批判の片面。もう片面は、私が指摘した「神は存在することになる」の意味がわかってからにしたほうがいいと思うので、ここでは言わない(このスレッドの主題から離れるし)。

357いど:2007/01/20(土) 22:46:35 ID:NdEDLjDw
>>355
>なかなか理解してもらえなくて困っているのですが
申し訳ありません。
今しばらくわたくしにもお付き合い願えますでしょうか。

>>355
>「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、科学的検証の対象となり得る」です。

了解いたしました。対象は「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうか」ですね。

さて、以前に以下のような書き込みを頂きました。

>>346
>その通りです。正確には「奇跡とされる現象」について検証ができるのであって、それが本当に奇跡であったかどうかは検証できません。

それを考慮に入れた上で疑問点があります。

【前提】
ある宗教ではAという奇跡が起きることを「神の存在の証」としています。
Aという奇跡は神の御業であり、その奇跡は現実世界に影響を与えます。

【質問】
(1)奇跡Aが観測されなかったとき「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうか」に関してどのような事が言えるでしょうか?
(2)奇跡Aが観測されたとき「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうか」に関してどのような事が言えるでしょうか?

358芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 22:49:07 ID:Q7XBVw2.
>あなたは「自分の信仰する宗教から例を出すべきだ」と言ってるんでしょ。

言ってないよ。信仰していようがしていまいが、と言っている。落ち着いてよく嫁。

>ところが、わたしは宗教を信仰していないから、「自分の信仰する宗教の例」は出せない。

だからそれ、創造科学の言い分と一緒だろうが阿呆。

>梵天が人間に語りかけた、というのと、キリスト教の神様が人間に語りかけた、というのは、同じレベルの話として理解すべきじゃないの?

ぜんぜん違う。神の子イエスを通じて父なるヤハウェーが語って人に命じるのと、人の子ガウタマに主神ブラフマーがひざまづいて教えを請うのとでは、同じレベルではない。つうか何だ?その「レベル」ってのは。

梵天勧奨を信じられなければ仏教とは言えない。というか、上で引用した釈尊の言葉も理解できたことにはならない。単に仏説の一部に賛成しただけ。で、あなたにとっての「よりよく知っている」の意味はわかった。あぁ、やっぱりそういう種類の人か、と思った。「知っている」のは「わかっている」ことを意味しはしないんだがね。

>芥屋さんが以前「政治的な効果や影響とは無関係に進化論や科学理論そのものに興味がある、進化論についての発言は政治的立場抜きにやっている」みたいにいうのを聞いて、

そうだよ。だからジェンフリに代表される進歩派の反科学も、一部の保守派の似非科学も、ぶっ叩く。

>芥屋さんの側には「macskaは進化生物学を反フェミのプロパガンダ程度にしか思っていない」と決めつけられたことに、こっちはショック受けてるんだからね。

そうですか。でもあなたが自分で言ったことなので、仕方ないと思います。たとえば、

>>だからって「チベット仏教は本来の仏教ではありません」とか
>不当な引用で中傷するのはやめてください。
ttp://principle.jp/bbs5/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=1082;id=keya1984

359いど:2007/01/20(土) 22:51:45 ID:NdEDLjDw
訂正
>>357
誤)Aという奇跡は神の御業であり、その奇跡は現実世界に影響を与えます。
正)Aという奇跡は神の御業であると宗教では言っており、その奇跡の内容は現実世界に影響を与えるものです。

瑣末なことかもしれませんが一応…

360カモオオハシ:2007/01/20(土) 22:55:01 ID:C0VsT.3A
>>325
>しかし、その場合それが単なる思いつきでなくて「そこそこ確からしい」ということはどうやって分かるのか。それはどうしても、クレーン式ではなくフック式にならざるを得ないんじゃないかと思うんですよね。要するに、超自然的な存在への信仰が先にあって、それが前提となって個々のパーツの「確からしさ」が担保されると。そうやって得られるものを、わたしは「知」とは認めない立場なのです(それを認める、という人がいることも承知していますが)。

どうもお返事ありがとうございました。そこで>>312の書き込みに戻るのですが、ここでの用語法に即して言い換えるなら、五感による知識もまた哲学的懐疑主義者の目からみればフック式なわけです(そうなる理由は>>312で書いたことで理解いただけるかと思いますが)。要するに、五感への信仰が先にあって、それが前提となって個々の知覚の確からしさが担保される、と。こういう原理的に論駁不能な批判がありうることを思えば、経験による知のありかたを特権化する議論はもっと慎重であるべきだと思います。

>「科学がわからないことについて、宗教ならば知っているという証拠はない」

これも、そういう場面で唯一証拠になりうるもの(啓示やらさとりやら)の証拠能力を否定すればもちろん証拠はないにきまっていますが、そこが争点なわけですよね。

361HAKASE:2007/01/20(土) 22:55:17 ID:ZC/gbS1c
macskaさん.

えと,「科学に分からないことはある。でもそれらは宗教にだって分からない」っていう話についてですが….
工学ばたの私の立場からの解釈ですが,科学的手法というは『その手法が使える「適用範囲」を明確にしたうえで,その適用範囲内にある現象については,ある一定の「誤差範囲(真偽がどの程度の割合で成立するか等を含めて)」内での予測や再現などが可能であることが(現状で観測し得る範囲での実証的な検証過程を経て)保証されている手法』と私はとらえています.
# 真理を探究するという立場の人(あるいはそれに近い他の立場の人も)いるかもしれませんが,私は基本的にはそのスタンスはとりません.
で,macskaさんの先の主張を,私は『ある科学的手法では,その「適用範囲」外にある事象について,その「誤差範囲」内での予測はできない(できる保障はない)けれども,なんらかの宗教的な手法(?)によって,同じ誤差範囲内での予測が可能かといえば,やはりそれはできない(と思える).』という趣旨だと勝手に解釈して,納得してたのですが,あってますか?

あと,「てゆーか、科学と宗教は対等じゃねーんだよ!(暴言)」っていうのも(まあ誤解を与えかねない暴言ではあると私も思いますが),『宗教が「適用範囲」や「誤差範囲」をあいまいにしているのに対して,科学ではそれらを示したうえで,それらを現状よりもさらに厳密にするために実測や検証を繰り返している(あるいはそうするようつとめている)ので,その点で(どっちが上とか下とかは別にして,予測可能性について)両者を対等に扱うのはおかしい』という趣旨なのかなぁと推測して,こちらも納得してました.
# ↑宗教がこれらをあいまいにしていることについては,良い面もあれば悪い面もあると思うし,私の意見は『「宗教でもそれらを厳密にすべき」という趣旨ではない』ので,その点は誤解しないでください(大丈夫だとは思うけど一応…(^^;).

macskaさんの主張には,おそらくこれ以上の話も含まれているとは思うんですが,基本的には上の話を含んでいると考えて良いでしょうか?
他の細かい議論にはついていけてないのですが,私はとりあえず上の範囲の話であれば同意見なので,その点表明しておこうと思って書き込みしました.

362tema:2007/01/20(土) 23:03:38 ID:???
 祭りのさなかに、あえて関係ないことを話すのも、オツなものです。

HAKASEさんへ

 temaとしては、「量子の実証的検証は、将来的にも観測できる可能性は低いだろう」と考えます。
 理由を以下に示します。なお、パイロット仮説が正しいという前提で記述しています。

>>302
>(前略) 「各データ観測時刻で同じ特性を持つ」という前提条件は少しおおざっぱで,もう少し書くと「観測系がカオス的でないことが明らかである場合」という事でした.

 問題は、観測系も量子で出来ているという点です。
 たとえ機械的誤差などの影響をゼロにできたとしても、量子の影響はゼロにはできません。そして、その影響はカオス的なのです。
 つまり、観測系がカオス的で「ある」ことが明らかなのです。

 このため、工学がどれほど発達しても、量子の振る舞いをカオス時系列解析の対象とすることは不可能と考えます。

 ただし、対象とする量子は1個であり、観測系は膨大な量子からなっています。もしかすると、観測系の量子が与えるカオス的影響をノイズと見なせるような、そんな数学的アプローチが出来るかも知れません。そうなれば、不可能では無いでしょう。

 さて、確かに主要な意見は合意できたと思います。
 カオス理論について学ぶこともでき、楽しかったです。ありがとうございました。

363カモオオハシ:2007/01/20(土) 23:13:58 ID:C0VsT.3A
>>358
>>ところが、わたしは宗教を信仰していないから、「自分の信仰する宗教の例」は出せない。
>だからそれ、創造科学の言い分と一緒だろうが阿呆。

芥屋@keya1984さんは事実判断と価値判断の区別をしてらっしゃらないのですか?macskaさんは仏教の教えの一部分である価値判断の体系を受け入れているだけだと言っているわけです。価値判断の問題にどうやって白黒つけるかというのは難しい問題ですが、少なくとも実験や観察で白黒つくと思う人は宗教者か否か、科学者か否かをとわずほとんどいないでしょう。創造科学など、現実世界についての事実判断をする立場とmacskaさんの立場を同列に扱うのは不当だと思います。

364芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 23:15:14 ID:Q7XBVw2.
>>343
>そう言えば、法的な真理というものも科学的検証の対象とは言えないような気がする。

難しいですね…進化生物学界隈ではそれをやっていくようなので、賛否両論かしましいのでしょうね。

365macska:2007/01/20(土) 23:22:32 ID:VdHL1C4M
芥屋@keya1984さんは不当な言いがかりを繰り返すだけですし、他に相手にしている人もいないようなので、この掲示板では今後極力議論の相手にはしません。もしわたしにどうしても問い詰めたいことがあれば、芥屋さん自身の掲示板はたまに覗いているのでそちらでお願いします。わたしのサイトの掲示板でも結構です。

以下は、わたしの主張を他の方に誤解されては困るので、中傷部分だけ指摘。

>>356
> あの論争を、ポスモダ大騒ぎにしか見ていないようだと

そのように見ていない。ポスモダ大騒ぎというのは意味不明。

> ナザロ復活やマリア処女受胎「それ自体」をあげつらうのは愚の骨頂

あげつらったことはない。

>>358
> だからって「チベット仏教は本来の仏教ではありません」とか

それは、チベット文化研究所のペマ・ギャルボさんが「オウム真理教の信者は(仏教徒を名乗っているが)仏教徒ではない」という発言をした、という引用を読んで、(オウムを擁護するわけではないが)「それを言い出せば、わたしから見ればチベット仏教は仏教本来の教えからかなり離れているように見えます」と答えた部分ですね。

文脈をきちんと理解して欲しいのですが、わたしは「チベット仏教は本来の仏教ではない」とは言っていません。そうではなくて、チベット仏教の立場から「オウムの信者は(仏教徒を自称していても)仏教徒ではない」と決めつけるのであれば、チベット仏教だってわたしの立場からは否定できてしまう、と言っているのです。わたし自身は、チベット仏教が「本来の仏教ではない」と決めつけることも、オウムの信者が「仏教徒ではない」と決めつけることにも、どちらにも反対です。

そうした文脈を無視し、わたしが「チベット仏教は本来の仏教ではない」という意見を言った、という風に引用するのは、悪質な中傷です。これ以上繰り返さないでくださいね。

366芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 23:35:53 ID:Q7XBVw2.
>>363
>芥屋@keya1984さんは事実判断と価値判断の区別をしてらっしゃらないのですか?

そこでいう「事実判断と価値判断の区別」とは何でしょうか?

とりあえず今、私が批判しているのは古伝承の取り扱いですね。古伝承に神異譚はつきものですが、その神異譚の「事実判断と価値判断の区別」を、どのようにつけることができるとお考えでしょうか。

macskaさんはここへ来て「それが歴史的事実であるかどうか」という言葉を出していますが、その神異譚が史実かどうかという「事実判断」を、科学的見地で行えるとお考えですか?

たとえば神武天皇ことイハレヒコもしくはヒコホホデミのみこと。彼の母と祖母は姉妹で、ともに海神の娘であり、その正体はワニ(鮫のことか?)だったという古伝があります。しかし生物学的に考えてみれば、人と鮫の合いの子というものは考えられません。「よって、史実ではない」…そんな馬鹿なことを言う人はいないと思います。

その実在性うんぬんは実証史学の主題であり、科学としては「人間と魚類の混合種はありえませんよ」としか言えません。しかしだからと言って、そのことがただちに古伝承の事実判断につながりはしません。トーテミズムによる描写かもしれませんからね。

まぁその逆に、「神武天皇のY遺伝子」などと言い出した日には、それは「ホモ・サピエンスのY遺伝子」と言ってるのと同じです。そういうことですよ。「いや、だからね、海神の娘だとか正体は鮫だとか言うけど云々」と語り出したが最後、神武の二人の兄イナヒとミケイリヌが「我らは海神の子なのに、海よ、なぜそのように荒れて我らの行く手をさえぎるのだ!?」と言って海に入り「波の穂を踏んで母の国へ渡ってしまいました」「サヒモチの神(=鮫の類のことらしい)になりました」という古伝が、ふっとんでしまう。

そういう古伝は、事実であったかどうかの判断…そこに科学的検証など、何になるんでしょうね。それで何事か検証して「事実判断」ができると考えるような浅はかな理知の思い上がりを私は批判しております。

367Josef:2007/01/20(土) 23:38:06 ID:5DAxksug
>>350
遍在する神ですね。macskaさんのいう「自然を神と呼ぶ」に分類されるものだと思います。
かのアインシュタインも自分の神は「スピノザの神だ」というようなことを言っていたそうです。

368macska:2007/01/20(土) 23:39:50 ID:VdHL1C4M
>>357
> 対象は「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうか」ですね。

重要なのはそこじゃなくて、そういう神の存在は「奇跡とされる現象を検証することによって」検証可能なのではなく、そういう神の存在それ自体が(実際に検証できるかどうかを別に)科学の範疇だと言っているのです。なんだかこのスレの最初の方の議論は間違って「奇跡」の方向に進んでしまいましたが、奇跡というのは「現実に対する介入」の言い換えとして言っただけであり、現実に介入する神の存在が科学の範疇であることと、奇跡の検証とは直接関係していません。「現実に介入する神」を「奇跡を起こす神」と(近似値的に)言い換えられる、というだけです。

>>360
> どうもお返事ありがとうございました。そこで>>312の書き込みに戻るのですが、ここでの
> 用語法に即して言い換えるなら、五感による知識もまた哲学的懐疑主義者の目からみれば
> フック式なわけです
(略)
> こういう原理的に論駁不能な批判がありうることを思えば、経験による知のありかたを特
> 権化する議論はもっと慎重であるべきだと思います。

これについては、>>361 で HAKASE さんがお答えになっていることに同意します。

>>361
わたしがあいまいにしか説明できなかったことを、分かりやすく言い換えてくださってありがとうございます。

369いど:2007/01/21(日) 00:00:40 ID:NdEDLjDw
>>368
>そういう神の存在それ自体が(実際に検証できるかどうかを別に)科学の範疇だと言っているのです。なんだかこのスレの最初の方の議論は間違って「奇跡」の方向に進んでしまいましたが、奇跡というのは「現実に対する介入」の言い換えとして言っただけであり、現実に介入する神の存在が科学の範疇であることと、奇跡の検証とは直接関係していません。

では以前の書き込み(>>357)を以下のように読み替えていただけますでしょうか?

【前提】
ある宗教ではAという事象を「神の現実への介入」であるとし「神の存在の証」としています。

【質問A】
(1)事象Aが観測されなかったとき「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうか」に関してどのような事が言えるでしょうか?
(2)事象Aが観測されたとき「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうか」に関してどのような事が言えるでしょうか?

370芥屋@keya1984:2007/01/21(日) 00:12:44 ID:Q7XBVw2.
>芥屋@keya1984さんは不当な言いがかりを繰り返すだけですし、

にわかじこみはやめとけと忠告したのに、ドーキンス、ドーキンスと繰り返すから、仕方なしに「あなたが流用するドーキンスの主張は、あなたの言ってるようなものじゃないよ」と説明したら、それが「不当」なのか(苦笑)。まぁ、いつものことだからいいや。

>そのように見ていない。ポスモダ大騒ぎというのは意味不明。

【ma】
そもそも「進化生物学派」と「社会構築学派」を対立させて比較するのがおかしい。
【芥】
おかしくないでしょう。そりゃぁ、「じゃぁスティーヴェン・J・グールドは?」と問うなら、それはもちろん、そうです。全く完全に二分できるかと言えば、もちろんそうでない人もいます。でもそれ言うんだったら「保守派vs進歩派」も「フェミvs反フェミ」も無効じゃないですか。だから「学派」としたわけです。おおむねそういう構図だったでしょ?
それにね、私は「社会構築主義」と「進化生物学」が、論理階層として対立するほかないのだなどとは、どこでも述べてないでしょう。それどころか、一致できる点や学び合う(知見を交換させること)が有意義だと思われることもあるはずだという趣旨で書いてるわけで。「社会構築主義を生物学的なものと対立させて考える」だなんて、私の意見のどこを読んだらそういう見解になるんですか。「社会構築主義の立場から生物学的なものを対立させて考える」人がいるようだが、そうではないでしょうと書いているんです。それが、わかりませんか?
【ma】
おかしいですよ。対立する考え方ではないもの。例えば、「社会構築主義であり、なおかつ進化論」の立場に立つ主張だってあり得ます。
【芥】
対立して終わるとは思われない、と私も大隅先生のブログに書きましたよ。理由や具体例も含めて。でも、当時の社会生物学論争は、学派間の衝突の構図になっていたんじゃないのですか?
【ma】
それは、一部ポモ論者のもったいぶった思わせぶりな記述があって、そこから想像されるようなハードな社会構築論に一部の科学者が猛反発したわけで(笑)、現実にはそんなハードな社会構築論者なんてそんなにいませんでしたというくだらない結論。
【芥】
なんだ、あの論争をそうとしか見てないのか。だったらこの話をmacskaさんとしても仕方がありませんね。
ttp://principle.jp/bbs5/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=34;id=keya1984より関連部分抜粋。

>チベット仏教の立場から「オウムの信者は(仏教徒を自称していても)仏教徒ではない」と決めつけるのであれば、チベット仏教だってわたしの立場からは否定できてしまう、と言っているのです。

何でやねん、んなわけないだろうが…。あなたの立場の仏教って、どんなよ?

>わたし自身は、チベット仏教が「本来の仏教ではない」と決めつけることも、オウムの信者が「仏教徒ではない」と決めつけることにも、どちらにも反対です。

まじかよ…つうかmacskaタン、オウムの残党?

371芥屋@keya1984:2007/01/21(日) 00:25:11 ID:Q7XBVw2.
あ。よく見たら、すげぇ捏造されてる。

>芥屋さんの側には「macskaは進化生物学を反フェミのプロパガンダ程度にしか思っていない」と決めつけられたことに、こっちはショック受けてるんだからね。

私がいつ、「macskaは進化生物学を反フェミのプロパガンダ程度にしか思っていない」と決めつけた?私は「macskaは社会生物学論争を反フェミのプロパガンダ程度にしか思っていない」とは書いたがね。ちょっと気を抜くとこれだ…

では、おやすみなさい。

372macska:2007/01/21(日) 01:05:16 ID:VdHL1C4M
>>371
それは捏造じゃなくて書き損じです。書き損じたことについては謝ります。
しかしあなたのやっている捏造や中傷は、いい加減どうにかしてもらえませんか?
議論の邪魔にしかなっていませんよ。

# 芥屋さんはこのスレでは以後無視するつもりでしたが、自分の書き損じを
# 訂正するくらいはやるべきだと思ったので書きました。

373baku22:2007/01/21(日) 02:01:00 ID:pNzc/oDo
大分主張に納得しかかっていたのですが、
>>368
>神の存在それ自体が(実際に検証できるかどうかを別に)科学の範疇だ

という表現にはやはり抵抗を感じます。

ID論的「神」の存在検証も科学の範疇だ、という主張とうまく切り分けられないんです。


科学的に検証されうる事を直に主張したりやったりしそれを根拠とする「神」なら、
どんな突飛なものでも、さほど怖くないと思います。
ID理論はもうちょっと狡猾ですよね。
検証しうるもの中に自らをカウントさせることで、その他の実在と
「対等」になろうとする訳ですから。

374Josef:2007/01/21(日) 08:36:26 ID:uPoVYQoU
>そういう神の存在は「奇跡とされる現象を検証することによって」検証可能なのでは
>なく、そういう神の存在それ自体が(実際に検証できるかどうかを別に)科学の範疇
>だと言っているのです。

これは不正確でしょう。多くの場合「神」は物理的存在ではないから「存在それ自体」は科学の範疇ではありません。あくまでもその「神」が行ったとされる行為が科学の範疇だというだけですね。

「おまえの本には神のことが書いてないではないか」というナポレオンの問いかけにラプラスが「閣下、私は神という仮定を必要としないのです」と答えたという話がありますが、科学は現象の検証を通して「そういう神の行為は見出せない→神を仮定しなくてもその現象は説明しうる」と言えるだけでしょう。説明しえない現象があれば、その現象自体が科学の新たな対象となりうるだけであって、どこまでいっても神の存在それ自体には到達しえないと思われます。

375芥屋@keya1984:2007/01/21(日) 20:43:32 ID:Q7XBVw2.
>>372
議論の邪魔?中傷で捏造だ?何を勘違いしているんだ。
1.「科学主義者による宗教への攻撃」と誤解され議論が紛糾していた。
2.その誤解を解きたければ、自分で仏教徒であるむね表明し仏説を例示すれば足りた。
3.本人がそれをなさないどころか誤解を煽り紛糾しているので私がそれに言及し、本人の姿勢を糾した。
4.それに言及する以上、過去の関連事例に触れるのは当然。
5.ただし、ここで以前の無回答について返答しなくて良い、ここでの質問に答えよとしてある。

過去の事例のことにつき、捏造だ中傷だとしてさらなる紛糾をはかっているのは、あなたではないか。過去の無回答事例については、あなたの無回答をもってこちらが簡潔にまとめるのは当然である。私はまさかあのまとめで中傷だ捏造だなどと反論があるとは思いもしなかったが。私のまとめが適切かどうかはソースを見て読者が判断できるのだから、それでいいはずだろう。なにをいまさらここでグチャグチャ言い出すのかね。私が書いた表現に不服なら、無回答で済ませずに再反論して構わないが、それはよそですべきだろう。

あなたのブログのエントリについては私の質問で終わっているのだから、続けたければ自分のブログに返答から始まる続編でも書きたまえ。私の掲示板についての話は、続けたければ当該スレッドか新スレでも立ててそこに書きたまえ。あなたは私にそうするように言うが、何で私がせねばならないのか、理由がわからない。私としては、あなたが無回答ならそれでかまわないのだから。「その件については誤解です。わたしのorあなたのところに続きを書きましたから、そちらへどうぞ」が筋だろう。ここに、続きを書くな。それこそ他人迷惑じゃないか。

そもそも、私は討議中の話題に横レスしたのではなく、あなたに「話を元に戻しますよ」として別個に参加したのだよ。あなたが他の人と行っている議論の邪魔などしていないのだから、変な言いがかりはよしにしていただきたい。まだあなたが回答していない他の人の質問も残っているではないか。よもや、「芥屋が邪魔をするので続行できなくなった」などと、後になって言い出す気かね。遠慮なく続けたまえ。会議室じゃないんだ、掲示板はそれが可能なところだろ。

あなたは自分が返答に窮する質問や指摘を含む批判を受けると(あるいは過去に無視したり無回答だった関連事項を持ち出されると)、途端に「中傷だ捏造だ」とわめきちらし「議論の邪魔」だとか言って議論を放擲するけど、私は慣れているので別に構わない(はじめてのことで驚いた人もいたようだけど)。しかし議論上、慣れているから放置、というわけにはいかないこともある。私はだいたい、ここであなたに言うべきことは今のところ言い尽くしたけど、以下の部分はここで新たに出された件なので、ここで返答しておく。

376芥屋@keya1984:2007/01/21(日) 20:46:13 ID:Q7XBVw2.
>>372
捏造したんじゃなくて書き損じたんだ…とのこと。わざとじゃなかったんだということは、了解した。しかし嘘を重ねて恥の上塗りをするな。再掲するが、

>芥屋さんの側には「macskaは進化生物学を反フェミのプロパガンダ程度にしか思っていない」と決めつけられたことに、こっちはショック受けてるんだからね。

ショックを受けたんだろ?君は自分が書き損じてからショックを受けるのか?

書き損じたのではない、「ついこのあいだまで社会生物学論争を反フェミのプロパガンダ程度にしか見ていなかった」と書いてあるものを読んだ時、すでに頭の中でゴッチャになったんじゃないか。自分も進化論には接してきたのに何でそんなことを言うんだ…という頓珍漢なレスが上にあったが、そういうことだろ?あなたの自己投影だ。

つまり、社会生物学論争をどう見ているかというあなたの認識は、>>370で引用したころと今も大きな変化はない、ということじゃないか。しかし少なくとも私は過去形で書いたのだ。それを中傷や捏造と呼ぶことは不当である。以上。

以下、自己レスの訂正です。
1.「梵天勧奨」と書いてますが、「梵天勧請」が正しいようです。
*検索では「梵天勧奨」でも出てきましたが僅かでした。
2.「ドーキンスは明言していないが」と書きましたが、明言してました。
*『利己的な遺伝子』を読み直して気付きました。

377HAKASE:2007/01/22(月) 19:52:40 ID:ZC/gbS1c
temaさん.お返事ありがとうございます.

観測装置がカオス的にならざるを得ないという点のご指摘ありがとうござます.
これについては,カオス制御の分野などでカオス的な出力をそうでない出力に変換する工学的な技術なども検討されているので(直接の適用は無理としても発想は使える気がするので),私は可能性があるかもしれないと感じます.ただ,量子等への利用や応用がホントにできるかはわからないし,カオス制御自身が現在研究段階の技術でもありますし,私が言えるのはやっぱり「可能性」までです(^^;

ということで,主要意見は合意ですね.ありがとうございました.

378baku22:2007/01/22(月) 20:33:59 ID:pNzc/oDo
遅レスかつ寄り道ですが、
>>367
アインシュタインの話は知りませんでした。ありがとうございます。
となると彼の、「神は賽をふらないという確信」にはスピノザ哲学からの影響があったのだろうか・・・
などと、しばし空想にふけってしまいました。

379地下に眠るM:2007/01/22(月) 20:58:00 ID:cizMQ0FI
>>225に関連して、こんなのはどないだにゃ?

ttp://polylogos.org/books/polanyi.html

いろいろと説明のやりかたを考えてはいるんだけど、どうもソーカル事件がアタマをよぎるにゃー

ここの議論を放り出すつもりはにゃーという意思表示をかねて

380Josef:2007/01/23(火) 20:41:35 ID:uPoVYQoU
>>378
>となると彼の、「神は賽をふらないという確信」にはスピノザ哲学からの影響があったのだろうか・・・

スピノザの神もまた決定論的ですからね。十分可能性はあるでしょう。天才的な劇作家ビューヒナーもスピノザに強く影響されたと言われていて、その作品に見られる歴史宿命論と関係づけて論じられることが多いようです。

381Josef:2007/01/23(火) 21:13:47 ID:uPoVYQoU
>>225に関して少しだけ。

>数学がなぜ自然科学においてこれほど役に立つか、ちゅうのはなかなか答えがいのある問いかもしれにゃー。

言い換えると、地下に眠るMさん言うところの「純粋な思弁の自己運動」がなぜ外部の対象に「的中」するのか。これは未だ正答の見つからない難問ですね。

>僕たちの脳は、数十億年におけるトライ&エラーで貯えた莫大な情報を物質的に構造化
>した器官だといえにゃーだろうか? ニンゲンの脳内における法則は、外界・自然界の
>法則と相当程度にパラレルな関係にあるのではにゃーだろうか? だからこそ、ほぼ純粋な
>思弁の結果である数学が、外界の事象の解析にあれだけの力を発揮するのではにゃーのだろうか?

という方向を、乱暴にあっさり逆転させてしまえば、脳の活動もまた自然法則に則っているのだから、そもそも脳は本質的に自然法則に反する思考をすることができない、とも言えそうな気がします。なぜ思考が外的世界に的中するか、ではなく、「的中しないことができない」という逆転です。

もちろん実際には思考の結果が間違っている(=的中しない)ことはあります。しかしそれはデータが不足していたり、生得的な知覚パターンによる錯覚(その錯覚も元々は生存に適するべくプログラムされたもの)があったり等々の理由、つまり思考の出発点における不備に起因する。その場合、思考(論理的推論と言ってもいい)は「正しい推論」を通して「必然的に間違う」のであり、思考そのものが間違っているわけではない。

また、もちろんいい加減な推論をやれば、出発点が正しくても間違える。しかし数学のように、論理を尽くして考えれば誰もが必ず同じ結論に達することができる、という程度に厳密化されて出された結論ならば、それは自然法則に則ってしか機能することのできない脳が「これと同程度に厳密で、かつこれに反する結論は出しようがない」と判断しているのであり、それはいわば自然法則そのものの写像となっている。但し書きとして「人間的かつ不完全な」を加えなければなりませんが、どんなに不完全であってもその断片たちは常に自然法則と平行している、つまり常に正しい。それが数学というものである。

…などといういい加減な考え方についてはどう思われるでしょうか?

382Josef:2007/01/24(水) 20:18:59 ID:uPoVYQoU
後で気づきましたが、チョムスキーは言語について上と似たような考えをしたかもしれません(直接読んだことはないのでいい加減)。

言語は様々だが、人間の頭から生まれた以上、表層は異なっても深層では必然的に同じ構造を持つ。いや、同じ構造しか持ちえないはずだ。この、唯一しか存在しない深層構造からすべての言語は生成した。よって一つの言語を調べれば、そこで得られる論理構造はすべての言語に共通する。そして各言語は、一つの深層構造から生成するプロセスとして(歴史的プロセスではなく構造的プロセス)記述できるはずだ。

…と考えたかどうかは知りませんが、大きく間違っていないとすると、この「深層構造」なるものは「スカイフック」的発想によるものということになりそうですね。

383地下に眠るM:2007/01/25(木) 10:27:48 ID:O39sy2IQ
>>381
>という方向を、乱暴にあっさり逆転させてしまえば、脳の活動もまた自然法則に則っているのだから、そもそも脳は本質的に自然法則に反する思考をすることができない、とも言えそうな気がします。なぜ思考が外的世界に的中するか、ではなく、「的中しないことができない」という逆転です。

それをもう一度ひっくりかえすこともできるにゃ。
ニンゲンは自らの脳内の法則にしたがってしか外界を知覚・認識できにゃーという逆転ね。脳内法則を外界にあてはめて認識しているので、不一致はおこりようがにゃーという理屈。

まあ、「マクロコスモスとミクロコスモのすの照応」というのは由緒正しい神秘主義の中心概念のひとつでしてにゃ。ニンゲンはニンゲンの脳内で可能なロジックをもってしか、外界を知覚・認識できにゃーということは間違いにゃーでしょう。

このあたりの議論は、ユクスキュルの「環世界」概念とも関係するにゃんな。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%92%B0%E4%B8%96%E7%95%8C
より引用
***************************
環世界(Umwelt)はヤーコプ・フォン・ユクスキュルが提唱した生物学の概念。

すべての動物はそれぞれに特有の知覚世界をもって生きており、その主体として行動しているという考え。 時間や空間もそれぞれの動物にとって異なった時間・空間として知覚されている。 動物の行動は各動物で異なる知覚と作用の結果であり、それぞれに動物に特有の意味をもってなされる。
***************************
ユクスキュルの理屈で言えば、生物の外界認識は「正しいが部分的」となるでしょうにゃ。
そしてこういった捉え方は、ドイツ神秘主義、ドイツ観念論の源流ともいえる否定神学にもみられるわけですにゃ
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%A6%E5%AE%9A%E7%A5%9E%E5%AD%A6

で、この否定の道でのみ語られうる神、という概念はまさにストロースのいう「浮遊するシニフィアン」になるのですにゃ。
このあたりの話は、某所で書こうとしていることなんだけど、なかなか書けにゃー。まとまったらこっちにもあげるにゃ。

384地下に眠るM:2007/01/25(木) 10:49:06 ID:O39sy2IQ
ありゃりゃ、
「マクロコスモスとミクロコスモのすの照応」
ではなく
「マクロコスモスとミクロコスモスの照応」
ですにゃ。
普段から推敲をしてにゃーし、軽微な書き損じはほっておいてるんだけど、さすがにキメ台詞は訂正しておきますにゃ。

さて、ついでだにゃ

>>379 でのリンク先からの引用
***********************
人間には、科学的な知や、言語で表現できる知を越えた暗黙的な知がそなわっていることを明確に指摘した古典的な書物。この知は言語で語ることができず、しかも言語化された知の背景となり、これをもたらすことができるもの、科学的な発見をもたらし、研究の指針を教えてくれるものである。

中略

科学では、主観性を排した客観的な知識の確立が求められると考えがちだが、「暗黙的な思考はすべての知識の不可欠の部分をなしている、ということを考えるならば、知識の個人的な(パーソナルな)要素をすべて除去するという理想は、実際にはすべての知識の破壊をめざしていることになる」(38)のはたしかである。科学は普遍をめざすが、その普遍には個の軸のようなものが必要なのである。
*******************

クレーンとスカイフックという比喩をmacskaは多用しているにゃんね。
しかし、この「クレーン」の土台に暗黙知があるということは、ほとんど否定することは難しいのではにゃーのだろうか?
そして、この暗黙知って「スカイフック」なのではにゃーのかな?
つまり、クレーンの足場はスカイフックでもたらされている、ちゅうことだにゃ。数学の足場もやっぱりスカイフックでもたらされているのではにゃーのかな?

デネットがグールドなどを批判するのに「スカイフック」という概念を使うのは悪くにゃーと思う。
なぜなら、カガクはとりあえず自らの足場を自明なものとみなし、そこからクレーンをつかって積み上げている体系だからだにゃ。

しかし、「知」を考えるときに「スカイフック」を否定することはできにゃーだろう。
どのようなクレーンも、その足場はスカイフックによってもたらされているのだにゃ。
カガクとかテクノロジーとか、道具の有用性に目をくらまされると、そうしたことが見えなくなるのだにゃ。
宗教という知は、そうしたことを忘れたことは1度だってにゃーんだ。

385地下に眠るM:2007/01/25(木) 16:52:38 ID:cizMQ0FI
職場でお茶を飲みつつ

ttp://transact.seesaa.net/
ここの常連はほとんどご存知の「忘却からの帰還」ですにゃ。IDに関するウォッチサイトとしては質・量ともにもっとも「使える」サイトのひとつにゃんね。

07年1月25日付けの記事から引用するにゃ
原文は英語だけど、翻訳部分だけを引用
**************************
残念ながら、米国の大半の市民は科学についてちゃんとした理解がない。特に仮説や理論が反証可能でなければならないという点について、科学的方法をほぼ誤解している。さらに、理論は何かを証明するものではなく、証拠によって支持されるものだ。ほとんどの人々はこれを逆だと思っている。人々は科学は何かの存在を証明し、科学的真理が絶対確実な法則になるのだと思っている。私がよく聞く科学的真理の例は「科学は地球が太陽の周りを公転することを証明した」というもので、これはまったく正しくない。あらゆる科学は証拠によって駆動され、証拠は地球が太陽の周りを公転するという理論を支持する。この理論はそれでもなお、特定の証拠によって反証されうる。そんな証拠が見つかるとはまったくないと思うが、それが科学というものだ。新しい考えを花開かせ、固まった教義を奨励することを拒否するように、常に扉は開いている。

インテリジェントデザイン支持者たちは、この無知につけこんだ。ほとんどの人々は科学的理論が反証可能でなければならないことを知らないので、インテリジェントデザイン支持者たちは、反証不可能な理論を提示できて、人々は無知ゆえにこれを受け入れる。
**************************

macskaによると、検証が不可能でも、つまり反証の可能性のないことでも現実におこることであればカガクの対象だと主張しているわけですにゃ。
しかし、この理屈って、もちろんカガクにとって何の益もにゃーだけでなく(カガクに携わる者、科学哲学を少しでもかじったことのある者ならわかるだろ)、社会的にも有害なシロモノなんでにゃーのか?
必要なのはカガクとは何かということについての地味で継続的な啓蒙だにゃ。macskaの主張するカガクの対象の範囲の定義では、まともな啓蒙活動に何の益もたらさず、混乱をまねくだけに終わると考えられますにゃ。

386Josef:2007/01/25(木) 19:07:23 ID:uPoVYQoU
>>383
>それをもう一度ひっくりかえすこともできるにゃ。
>ニンゲンは自らの脳内の法則にしたがってしか外界を知覚・認識できにゃーという
>逆転ね。脳内法則を外界にあてはめて認識しているので、不一致はおこりようがにゃーという理屈。

そう、いとも簡単に逆転できるんです。
たとえばデカルト風に「今こうして考えているということは疑いえない」という地点から出発する立場からは、自分の外に世界が存在することを前提とする自然科学はすべてスカイフックでしょう。フックとクレーンという比喩はもともと相対的なんですね。

「世界は存在する」という飛躍を前提としなければ、確かだと言えるのは「この認識」だけになります(「認識内容」ではなく「認識しているということ」)。ここから出発すれば、どうしたって観念論、つまりは形而上学にならざるをえないわけで(現象学がその例)、このことは「形而上学は天からつり下げられたフックではにゃーのだ」(>>225)という「独り言」とも関連してくるような気がします。

387Josef:2007/01/25(木) 19:08:46 ID:uPoVYQoU
>>385
>macskaによると、検証が不可能でも、つまり反証の可能性のないことでも現実におこることであればカガクの対象だと主張しているわけですにゃ。

これはおかしい。
何がおかしいかというと、「検証が不可能でも・・・現実におこること」という文言。macskaさんが言ってるのは、現実に起こることなら原理的には検証が可能なはず、ということですね。「検証が不可能でも・・・現実におこる」という事態そのものがありえない、という主張だと思われます。

ただ、上に書いた「認識しているということ」なんかは、当人にとってはこの上なく確実な「現実」であるにもかかわらず、検証は不可能です。あるいはヴィトゲンシュタインは世界が「私の世界」であることを強調しますが、この「私の」というこの上ないリアリティは検証しなえい(「共感」できるかできないかです)。

つまりmacskaさんの言う「現実」とは、非精神的な外的世界(自分の身体も含む)ということでしょう。

388ラク:2007/01/26(金) 00:30:54 ID:.LrraLno
>何がおかしいかというと、「検証が不可能でも・・・現実におこること」という文言。macskaさんが言ってるのは、現実に起こることなら原理的には検証が可能なはず、ということですね。「検証が不可能でも・・・現実におこる」という事態そのものがありえない、という主張だと思われます。

難しいことは解りませんけどポパーは、科学 ⊃ 検証可能 とは言っているようですが、現実 ⊃ 検証可能 とまでは言っていないのではないでしょうか。
だとすれば、(検証不可能 ⊃ 非現実)=×。
なので私的には、∴検証不可能 ⊃ 非科学的…みたいな感じですけど。

389diamonds8888x:2007/01/26(金) 06:08:06 ID:HFzGgWdI
>>387, >>388
 誰にとって検証可能なのかという問題でしょうね。一般には「普通の人間なら誰にでも」という意味で使いますが、「私にとって検証可能でも他人には検証不可能」という現象もあるということですね。

 それから「原理的に検証可能」と言ったときに、検証のためにどこまでの道具を認めるかでも違いが出てきますね。タイムマシン、はともかくとして過去を直接観測できるタイムスコープとでも言うべき道具も認めるかどうか、人の脳内の思考を直接観測できる機器とか超能力?とかも認めるかどうか。何せ、将来も発明されないとも言えませんし。

 そうなると作図問題みたいに、「使えるのはコンパスと定規だけ」とか規定しとかないと・・。

390Josef:2007/01/27(土) 17:39:02 ID:uPoVYQoU
>>388
ポパーは科学の科学たる条件として検証、というか「反証」ですかね、「反証」に対して開かれたシステムであることを挙げたと理解しています。現実に起こったことや起こったとされることを科学的に検証する、という時の「検証」とは指すところが違っているでしょう。
で、当然のことながら科学は「現実」のすべてを対象とすることはできません。「現実」の中の、科学的手法で扱えるものしか扱えない。枝葉の部分はともかく、この、ごく当然のことをmacskaさんは言っているだけで、何か新しい提言をしているわけではないと思います。
ある人が突然死した。宗教家が「神の怒りに触れたからだ」と言った。そしたらもう突然死の原因を科学的に解明することはできなくなるのか。そんなわけねーだろ、ってこと。でもそれじゃああんまり当たり前すぎるから、いくらなんでももうちょっと問題性のあることを言っているのではないかと思っていろいろ勘ぐってしまう。その総体がこのスレッドだと思います。

>>389
考えてみると「原理的」もかなりいい加減な言葉ではあります。が、SF的設定とか超能力とかは(内容次第ではありますが)、想像世界で「原理」自体を変えてしまうことを意味するのではないでしょうか。「自分の髪を掴んで沼から自分を引き上げる」とか「まん丸な形をした三角形」とかは原理的に不可能ですが、「それがありうる世界(人)なら」と仮定したとたん、原理自体がその想像世界では変えられている。だからそういう設定が「想像」として語られる限り、科学はそれを「原理的に」検証することができない、ということになるような気がします。

391ラク:2007/01/27(土) 21:56:47 ID:T.C8oAB.
>>390
>ポパーは科学の科学たる条件として検証、というか「反証」ですかね、「反証」に対して開かれたシステムであることを挙げたと理解しています。

そうですね、どうも「反証(可能性)」と「検証」を混同していたようです。

>現実に起こったことや起こったとされることを科学的に検証する、という時の「検証」とは指すところが違っているでしょう。

とすれば、ある理論が科学的かどうかの「検証」が反証可能性ということでしょうかね。

392baku22:2007/01/28(日) 05:46:15 ID:pNzc/oDo
スレッドが紛糾した原因に関してですが、宗教(ID論含めて)をもっと場合分けした方が良かったのかも、と思いました。
ざっと思いつくのが、

1:迷信。現世的奇跡を根拠にする教祖など
2:ID論的なもの。反証不能なものを起点に、手を広げてゆくもの。
3:カトリック主流派的なもの。反証不能なものを教義に含みつつ、自らを哲学の一種にカテゴライズする。

2 が相手だと、科学の側で己の輪郭をはっきりさせて、相手の主張をまず分節する必要がある。
この「政治」が人によっては科学の弱腰、道学者的に映るのかもしれない。
macskaさんの主張も動機もそこら辺が動機になっているのかな、と考えていました。

393baku22:2007/01/28(日) 05:51:45 ID:pNzc/oDo
ミス。主張も動機も→主張も、です。

394baku22:2007/01/28(日) 06:48:48 ID:pNzc/oDo
補足:
最初macskaさんのように神を場合分けしようと思いましたが、
やってみると頭が混乱してきました。

395Josef:2007/01/28(日) 18:32:03 ID:uPoVYQoU
>>391
>ある理論が科学的かどうかの「検証」が反証可能性ということでしょうかね。

そう言っていいと思います。その意味で「神のデザイン」という主張は非科学的ということになるでしょう。

>>392
>スレッドが紛糾した原因に関してですが、宗教(ID論含めて)をもっと場合分けした方が良かったのかも、と思いました。

前提が違ってたんでしょうね。
macskaさんに反論する人たちを「論理的思考のトレーニングが足らない人たち」と呼んだ恥ずかしい「解説」もありましたが(>>246)、むしろ論理的&科学的思考に慣れているからこそ、「神」という超越は科学の対象になりえないことを皆さんイヤになるほど理解していたのでしょう。つまり、NATROMさんの

>>7
>そんなことで否定できるしょぼいカミサマなんて神じゃないような気もしますが。

という辺りが、おそらくここの常連さんたちの「常識」で、macskaさんの念頭にある「しょぼいカミサマ」とは神概念が最初から大きく隔たっていたと思われます。やりとりを重ねてmacskaさんが科学の対象だととする「神」が理解されるにつれて、「なるほど!」ではなく「なーんだ(ツマンネ)」となっていったように見えます。知的レベルが高いのですね、ここの人たちは。

396シカゴ・ブルース:2007/01/30(火) 16:52:13 ID:KNmRxfBE
>>395
>という辺りが、おそらくここの常連さんたちの「常識」で、macskaさんの念頭にある「しょぼいカミサマ」とは神概念が最初から大きく隔たっていたと思われます。やりとりを重ねてmacskaさんが科学の対象だととする「神」が理解されるにつれて、「なるほど!」ではなく「なーんだ(ツマンネ)」となっていったように見えます。知的レベルが高いのですね、ここの人たちは。

Josefさん、お久しぶりです。

macskaさんが設定した「神の存在/不在と科学の範囲」というタイトルと最初の書き込みからも分かるように macskaさんがおっしゃっている主題は「科学の範囲」ということで一貫していますね。私のようなレベルの低い者には macskaさんの主張はとても論理的で分かりやすいのですが、ハイレベルの議論をなさる方には非論理的に見えるのでしょうか。その割にはヒートアップしているのはハイレベルの方々の方で、レベルの低い(失礼!)macskaさんが終始冷静でおられるのはとても不思議です。

まあ、それもこれも私がレベルの低い科学的思考しかできずレベルの高い哲学的な思考が苦手なせいかもしれません。しかし、こんなギャラリーもいるのだということを言いたくて闖入いたしました。

それでは。

397ラク:2007/01/30(火) 21:50:27 ID:.HJIF4uU
>神といっても宗教によっていろいろあるわけですが、その存在が科学が対象とする範疇内であるかどうかは、その神がどういった性質を持つものとされているかによるのではないでしょうか。たとえば、現実社会において奇跡を起こしたり悪人に罰を与えたりお祈りに応えてくれたり信者と対話してくれるような種の「神」であれば、その存在は(実際に証明もしくは反証は難しくても)原理的に言って科学的手法による検証の対象となりうるのではないですか。


>macskaさんが設定した「神の存在/不在と科学の範囲」というタイトルと最初の書き込みからも分かるように macskaさんがおっしゃっている主題は「科学の範囲」ということで一貫していますね。

ちなみに門外漢の印象としては、「科学の範囲」としては、「(実際に証明もしくは反証は難しくても)」、「実際に証明もしくは反証」できる可能性がゼロではないという判断があるあるならば、「原理的に言って科学的手法による検証の対象となりうる」のは当然でしょう。
だとすれば思考が導かれるのは、だからどうしたのですか?という問題の所在ではないのかという気がするんですけどね。

398地下に眠るM:2007/01/31(水) 00:30:44 ID:wI1zz7WI
あのね、macskaのおっしゃっているカガクの対象云々という話は、チミたちの考えているようなマトモな話ではにゃーんだよ。

>>234 を参照すること。

234の最後の部分の「カガクの独占」という部分についてはmacskaから反論がでているけれど、その前のカガクの対象についての話には本人からも異論はでてにゃー。
つまりは、検証の可能性がなくても現実世界におこることならカガクの対象だというゴミ理屈。


精神年齢が極端に低い僕としては、燃料を投下してくれたシカゴ・ブルースにお礼をいいたいところにゃんね。やるといっていておあずけになっていた宿題をここでやるきになってきたにゃんよ。クソ忙しいけど。
なににしろ、この場所におけるmacskaの発言の多くはゴミだし、宗教に対する根の深い侮蔑感情があることはまちがいのにゃーところだろう。
そのあたりは論証していくにゃ。

とにかくさ、「私は差別・侮蔑をしていない、そんな意図はない」といえば差別や侮蔑をしてにゃーことになるのなら、この世に差別主義者はほとんどいなくなるにゃ。

僕は悪意や暴言はまだ嫌いではにゃーんだがね。無知に基づく侮蔑はいかんともしがたいにゃ。

399シカゴ・ブルース:2007/01/31(水) 02:23:28 ID:KNmRxfBE
>>398

地下に眠るMさん、こんにちは。

>「どんなことであれ、現実世界で起きた(あるいは起きたとされた)現象は、科学的探索の範疇ですよ」
たしかに誤解を招きかねない表現ですね。ただ、私は「どんなことであれ、現実世界で起きた(あるいは起きたとされた)現象」はとりあえず科学的探求の対象となるだろうと思います。まず科学の俎上に載せてみないことにはそれが検証ないし反証可能かどうかは分かりませんから。その上で科学的に検証も反証もできないと判断されるなら、それについては科学の範疇ではないとすればいいだけのことです。macskaさんの主張はそういうことなのではないかと私は読み取っていたのですが、何か読み落としがあって私が誤読しているのかな。

そういうわけで、
>カガク的な知を構成することのありえにゃー事象についてもカガクの対象だ
とまで、macskaさんは言っていないのではないかと私は思います。

実際には、科学的に検証ないし反証できそうなことがらであっても、それをするだけの意味があるかどうかはまた別の問題ですね。そのあたりは各人の価値観の領域であり、私はといえばあまり興味が湧かない。

>分からないことについては何も言えない科学と違い、宗教は分からないことについてさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえても良いことになっているので、宗教者はラッキーですけどね。
これについては、ちょっと過激な表現だとは思いますが、(宗教者が「ラッキー」かどうかは分からないので後半部分はともかく)世の大方の宗教観というのはぶっちゃけていえばこんなところに落ち着くのではないのですか?

燃料を投下したつもりはないので、「宿題」の方はどうでもいいです。お忙しいようですし。私の真意がご理解いただければそれで結構です。

400地下に眠るM:2007/01/31(水) 10:57:51 ID:XojOj2WM
>何か読み落としがあって私が誤読しているのかな。

うん。チミの読み落とし。
>>107において僕は本質的な偶然性という概念をひっぱりだしてきているにゃ。これはそもそもカガク的に検証できるものではにゃー。
そうしたあたりもふまえた(はずの)うえで、macskaのいくつかの発言があるわけだにゃ。
それに、この読みをしているのは僕だけではにゃーぞ。ミケも同様の読みをしているようだにゃ。そのあたりも踏まえて>>234を書いたんだけどにゃ。
なによりmacska自身が僕の(あるいはミケの)読みを否定してにゃーわけ。ミケは何度も確認しているんだけど、答えはにゃーからな。


そもそもね、僕だって「まず科学の俎上に載せてみないことにはそれが検証ないし反証可能かどうかは分かりませんから。その上で科学的に検証も反証もできないと判断されるなら、それについては科学の範疇ではないとすればいいだけのこと」という主張をmacskaはしているかもしれんと思ったので、原理的にカガクの対象となりえにゃーような事例を出して聞いてみたわけ。それでえられたのが「現実世界でおこることは検証ができなくとも全てカガクの対象だ」とかいうゴミ主張なのよ。


>>分からないことについては何も言えない科学と違い、宗教は分からないことについてさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえても良いことになっているので、宗教者はラッキーですけどね。
>これについては、ちょっと過激な表現だとは思いますが、(宗教者が「ラッキー」かどうかは分からないので後半部分はともかく)世の大方の宗教観というのはぶっちゃけていえばこんなところに落ち着くのではないのですか?

にゃるほど。チミはmacskaの宗教に対する知見と「世の大方の宗教観(それも啓蒙主義的な宗教観)」は同じようなものだと考えているわけにゃんな。僕も同意するけどにゃ。macskaの宗教についての見識は、不勉強がゆえの「世の大方の宗教観」の域を一歩もでていにゃー。
macska本人がそのあたりを率直に認めているのならば、話はこじれてにゃーだろうね。


>燃料を投下したつもりはないので、「宿題」の方はどうでもいいです。

僕は精神年齢が低いっていってるだろ(ニコニコ

401地下に眠るM:2007/01/31(水) 12:16:32 ID:XojOj2WM
とりあえず我慢のできにゃーところを
>>118
>>125
>>177
>>184
>>185
>>197-198
>>200
あたりの流れ

>宗教とはこういうものであるという自分の見解(あなたの書いているものとほぼ同じです)を述べただけ>>200

僕はmacskaと同じことを述べたおぼえはにゃー。


macskaのいったのは
>「大多数の宗教者は、自分の認識に合わせて都合よく教典を読み替えるくらい平気でやってのけます。」>>118

その具体例として
>これは宗教的倫理を見れば明らかです。(旧約)聖書によれば、安息日に仕事をした人は死刑にしなければならない。しかし、「安息日に仕事をした人を死刑にするのは正しいですか」と聞けば、ほとんどのキリスト教・イスラム教・ユダヤ教の信者は「その規則は現代にはふさわしくない」と答えます。キリスト教についてはイエスの登場により「この規則は現代にはふさわしくない」という合理的な理由がありますが、その他にとっていつこの規則が失効したのでしょうか? 世間が「それはいくらなんでも乱暴すぎる」と思うようになったから、それに合わせて解釈を訂正したのではないですか?>>125

対して僕は
安息日規定はそもそも弱者保護規定であり、どのような罰を与えるかについては律法解釈の余地が最初からある。つまり、「自分の認識に合わせて都合よく教典を読み替え」てなどいない。
という旨のレスをしているにゃ

もともとmacskaは、「多くの宗教者は自分の認識に合わせて都合よく教典を読み替えている」と主張し、その具体例としてユダヤ教の安息日の話を出したわけだにゃ。
それに対して僕は、ユダヤ教の安息日は弱者保護がその趣旨であり、十戒も最初から多義的な解釈が可能なように書かれている。趣旨にのっとった解釈が要請されているとの旨を述べたにゃ。>>185でmacskaが理解に苦しむといった、安息日における「あかり」の扱いも弱者保護の趣旨で解釈してみせたしにゃ。

律法でガチガチに定められたものを、自分の認識に合わせて都合よく教典を読み替えている

律法では最初から解釈の余地があり、その趣旨に従った解釈が要請され、また行われている

のどこが同じなんだよ?
前者は原理原則がないといっている。後者は原理原則を遵守しているといっている。
ユダヤ教のような契約宗教に対し、原理原則がないといったら、それはヒデエ侮蔑だろ?

macskaは自分の発言が侮蔑であることを理解できてにゃー。
差別主義的環境で育ち、差別主義を自明のものとみなすガチガチで愚昧な差別主義者には、自分の発言がなぜ侮蔑であるのかを理解できにゃーことがよく見られるにゃんがね。

402地下に眠るM:2007/01/31(水) 12:56:13 ID:XojOj2WM
これなんかもヒデエ
「夢」の取り扱いの話ですにゃ。ま、典型的な事例にゃんが。

>宗教の側がどう解釈するかはかれらの勝手ですが、傍目から見ていて「分かっている」ようには見えません。
やや控えめな言い換えをしても、「宗教ならば分かっているという証拠は何もありません」。>>290

「傍目からみて」ちゅうのはどういうことなんだろうか? macskaが見ているのなら尋ねてみたいところにゃんが、どういう宗教が夢をどう扱っているかの事例を多く知ったうえでなければ、こういう発言は本来はできにゃーと思うんだよね。

宗教を侮蔑するな、いや、侮蔑なんてしていない、などというやりとりをさんざんしてきた場所で、「傍目から見ていて」程度のイイカゲンな知識で「「分かっている」ようには見えません。やや控えめな言い換えをしても、「宗教ならば分かっているという証拠は何もありません」」などと暴力的に断言してしまうのだからスゲエ。

夢はシンボルやメタファーを用いた意味解釈とも捉えることができ、そうしたシンボルやメタファーとその意味解釈をごっそり貯蔵している宗教的な知の体系が適切な解釈を与えうることなんて、想定されてアタリマエだと思うんだけどにゃ。

何も知らにゃーで、しかも無知にいなおって否定し侮蔑するというmacskaのスタイルは、結局最後まで変わるところがなかったのだにゃ。そして、自分が侮蔑しているという意識すら持てにゃーほど凝り固まってしまっている。



ついで(実は前からいいたかった)

>サービスして一つだけ言うと、創造神的な神の反証には argument from design が有効だと思います。
>神のような複雑で素晴らしいものが、進化したわけでもなく独りでに生まれたとは考えにくい。>>83

いや、万能の神という概念に対してはまるで無効だって。
進化というプロセスでは、けっして「万能」なものは生まれることはにゃーのだ。知性ある存在、ならば進化で生まれえるけどにゃ。
そもそも教義において、最初の存在者とされているのだから、そんなことを言いだしても他者の宗教の教義を否定するだけの無礼で低能な侮蔑にすぎにゃー。

ただし、argument from designという考え方は、ID(インテリジェントデザイン)説における、「デザイナー」の存在に対しては有効な論点だにゃ。IDの連中は、自分たちのいっていることが特定宗教の神だということを認めることができにゃーので、万能の神を持ちだすことができにゃーんだよ。
正直いって不勉強だにゃ。IDのデザイナーのようなチンケな神を否定する理屈で、創造神を否定できると思ってもらったら困る。

Josefもいっているにゃんが、macskaの持ちだした神概念は、最初からチンケなものだったように思われますにゃ。だから、必然的に宗教批判・侮蔑的な発言を繰り返すことになった。チンケな神を叩いているだけなのに、宗教がどうとかいっているから反発をくったのではにゃーだろうか?

403ミケ:2007/01/31(水) 13:09:02 ID:???
>>399
横レス失礼。
>これについては、ちょっと過激な表現だとは思いますが、(宗教者が「ラッキー」かどうかは分からないので後半部分はともかく)世の大方の宗教観というのはぶっちゃけていえばこんなところに落ち着くのではないのですか?

世の大方の〜 という言い方をするならば、
世の大方の「科学観」というものは
【真理、あるいは絶対に正しいもの】
みたいな感じじゃないでしょうか。(残念ながら)

でもここでは、科学について、誰もそういう見方では話してないですよね。
ならば、宗教についても、
そういういい加減な見方に基盤を置いて主張するのは慎重になった方がいいかと思われます。

404シカゴ・ブルース:2007/01/31(水) 15:26:37 ID:KNmRxfBE
地下に眠るMさん、どうも。

>>>107において僕は本質的な偶然性という概念をひっぱりだしてきているにゃ。これはそもそもカガク的に検証できるものではにゃー。

107 は読んだような気がします。macskaさんはこのあたりは「よく分からない」というようなことを言っていたような…。

まあ、必然は mass としての偶然の産物ですから、個別の偶然性を一般的なものとして科学で取り扱うのは無理でしょうね。偶然もまた必然の産物であるという観点から扱える偶然性だけが科学の対象となるのでしょう。「本質的な偶然性」というのは科学の対象にはなりそうにありませんね。そういう意味でも科学の限界性というものを常に自覚している必要があるでしょう。しかし、これは科学に限らず人間の認識一般について言えることであり、一人科学だけが限界を持っているというわけのものでもないですが。それでもなお必然性として説明したいという欲求が科学や人間の認識の拡大の原動力になっているという面を、私としては評価したい気持があります。

というわけで、了解しました。「宿題」の方はお好きにどうぞ。

ミケさん、こんにちは。

>でもここでは、科学について、誰もそういう見方では話してないですよね。
>ならば、宗教についても、そういういい加減な見方に基盤を置いて主張するのは慎重になった方がいいかと思われます。

了解しました。

405Josef:2007/01/31(水) 17:08:01 ID:uPoVYQoU
シカゴ・ブルースさん、こんにちは。
仰ることがよく分かりませんが、私はbaku22さんに賛同する形で政治的・社会的背景(前提)の違いが意見の相違となったのだろうという観察を述べたのですよ。「神」概念の前提が違えばそれをめぐる意見が相違するのは当然であって、どっちの方がレベルが高いという比較の問題ではないと。にもかかわらず「論理的思考のトレーニングが足らない」などと言う人がいるから、そうではなく論理的思考に関しては皆さん慣れていてレベルが高い、と言ったわけです。シカゴさんも「こいつらは論理的思考が苦手」とは思ってないでしょ?

>macskaさんが設定した「神の存在/不在と科学の範囲」というタイトルと最初の書き込みからも分かるように macskaさんがおっしゃっている主題は「科学の範囲」ということで一貫していますね。

そうです。そしてその「範囲」をめぐって議論したわけですね。「範囲」とは内と外に線を引くことですから、外(この場合は主に「神」)の概念が異なれば線の引き方も異なるのは当然でしょう。baku22さんの「宗教をもっと場合分けした方がよかっただろう」もその辺のことを言っていると思います。

>私のようなレベルの低い者には macskaさんの主張はとても論理的で分かりやすいのですが、ハイレベルの議論をなさる方には非論理的に見えるのでしょうか。

私にもとても分かりやすいです。でもそれはたぶん、macskaさんの他の議論をある程度知っているからであって、いきなり読めば多くの人が誤解するだろうとも思います。

>その割にはヒートアップしているのはハイレベルの方々の方で、レベルの低い(失礼!)macskaさんが終始冷静でおられるのはとても不思議です。

冒涜されたと言う側が「ヒートアップ」するのは当然でしょう。レベルの高低の問題じゃありません。

406Josef:2007/01/31(水) 17:09:56 ID:uPoVYQoU
シカゴさんにもう一つ。

>>「どんなことであれ、現実世界で起きた(あるいは起きたとされた)現象は、科学的探索の範疇ですよ」
>
>たしかに誤解を招きかねない表現ですね。ただ、私は「どんなことであれ、現実世界で起きた(あるいは起きたとされた)現象」はとりあえず科学的探求の対象となるだろうと思います。まず科学の俎上に載せてみないことにはそれが検証ないし反証可能かどうかは分かりませんから。その上で科学的に検証も反証もできないと判断されるなら、それについては科学の範疇ではないとすればいいだけのことです。macskaさんの主張はそういうことなのではないかと私は読み取っていたのですが、何か読み落としがあって私が誤読しているのかな。

Mさんも言ってますが誤読でしょう。シカゴさんのように読むなら、そもそも科学の範囲に限界を設ける必要が失せます。「すべての神」や「あらゆる価値」もひっくるめて森羅万象が科学の対象であるとしておけばよい。そして科学の俎上に載せてみたら「検証も反証もできない」ことが分かった、とすればいいわけです。現実に起こる事象なら、などと始めから限定する必要は全然ありません。

macskaさんが言ってるのはそういうことではなくて、シカゴさんの言葉を使えば「科学的に検証も反証もできないと判断される」ことはもともと科学の対象ではない、ということです。その上で、「どんなことであれ、現実世界で起きた(あるいは起きたとされた)現象」ならば科学の対象となりうる、という主張。もちろん実際上はいろいろ限界があって検証不能なことも多々あるけれど、原理的には「科学的に検証も反証もでき」るはず、と。

そうすると「では現実に起こる事象とは?」という方向に行くのは当然で、「偶然」もその一つなのです。

407Josef:2007/01/31(水) 21:08:36 ID:uPoVYQoU
「偶然」についてですが、macskaさんはたぶん考えていなかったのでしょうね.だからMさんに突っ込まれると何も言えなくなってしまった。

しかしながら、「偶然」の話題は「神の介入」をめぐるものだったわけで、「偶然」がいかに難問だったとしても、「そこには神の介入がかくかくしかじかのように行われている」という言明がなされたなら、この言明内容は科学の対象となりうると考えられます。科学が説明できていないこと、科学に説明できるかどうかすら分からないことはたくさんあると思います。「偶然」をどう考えるかもそうでしょう。しかしその科学に分からないことを宗教が説明できると言い、実際に説明してみせるなら、その説明は科学的検証の対象になるでしょう。もちろんあくまでも「科学の範囲」での検証に止まるのであって、宗教的説明に代わる真理を提示できるわけでもなければ、宗教的意義その他については何も言えないでしょうが。

408シカゴ・ブルース:2007/02/01(木) 17:54:39 ID:KNmRxfBE
Josefさん、こんにちは。

とても分かりやすくまとめて下さってありがとうございます。問題となっている点が何なのかが、私にも理解できました。この際お礼だけを申し上げて立ち去るのが大人の態度ですが、それだけでは芸がないので、あらずもがなの「余計な」見解を以下に…(念のため。「燃料投下」の意志はありません)。

数学を自然科学に含めるかどうかについては、みなさんいろいろとおっしゃっています。現実の世界からもたらされた具体的な表象を抽象化して作り上げた数や図形の概念を操作しているという意味では小・中・高で学ぶ算数や数学のほとんどの部分は自然科学に属しているだろうと私は思います。これらは一定の限定された範囲において現実の世界に適用されるという検証を経ています。形式論理学に属する部分もまた、ある限定された範囲内においては現実に適用できますから、これを自然科学に含めてもいいのではないかと私は思います。

ただ、私たちが「論理的」といっている場合の論理は必ずしも形式論理の範疇にはとどまっておらず、そこにはさまざまなフィジカルなものあるいはメタフィジカルなものが入り交じっていると私は思っています。これらを同一のものとして扱えるのかなというのが私の感想です。というより、メタフィジカルな論理はいかに論理的に整合的であっても自然科学の論理としては使えないですね。そして、メタフィジカルな論理とフィジカルな論理とは議論という土俵の上では戦えないでしょう。決着のつけようがない。Josefさんの 407 のお話はそこら辺のことも含めておっしゃっているのだろうと私なりに解釈しています。

そこで、「冒涜された」という論理ですが、これはフィジカルなものではないですね。だから、これを理由として言いたてられても、フィジカルな論理ではいかんともしがたい。私なら議論から撤退します。

最後に。科学という認識形態は非常に限定的な認識であることは確かですが、その限定性・限界性を自覚している限りでは非常に有用であり、万人に開かれた公平な認識であると私は評価しています。もっとも、現在の(戦後のといってもいいですが)理科教育は、科学的認識の限界性といった点に関してはまったく触れていないという点で、科学信仰というイデオロギーを流布しているとは思っています(他のさまざまなイデオロギーに比較すれば、科学の有用性は科学信仰の実害を覆い隠してしまうほど大きいし、それが科学的認識の発展・拡大の原動力になっている側面もありますが)。しかし、第一線で科学を扱っている方々のほとんどはその限界性を十分認識しているでしょう。というより日々の科学的な実践でそのことを思い知らされていますから、単純な科学信仰を抱きつづけることは不可能でしょうね。

409HAKASE:2007/02/01(木) 20:22:11 ID:ZC/gbS1c
どうも.
えと…地下に眠るMさんがされている『偶然』の話なんですが,「偶然に関わるものは全て科学の範疇外で手も足も出ない」かのように誤解されないかと(そういう意図で書いているわけではないとは思いますけど)ちょっと心配になってしまいました.
もちろん,例えば「ある一定の誤差範囲内で他のどの事象からも独立した試行であることが(科学的な手法などを適用して)明らかになった場合」には「その範囲内で「本質的に偶然」だとみなす」ことができますし,そうである事が既に明らかになっている問題については,「結果を科学的手法によって予測することは不可能」だと私も思います.
ですが,『*ある事象が*本当に「本質的に偶然」なのかどうか』については,前にも述べましたけど,科学的な検証の範囲内だと思いますし(例えば現在の技術では狭い範囲でしか適用できないけど研究が進められているカオス時系列解析のような)科学的な手法で扱う検討対象のひとつだと思います.

『現実世界で起きた(あるいは起きたとされた)現象は、科学的探索の範疇』と言い切ってしまっていいかは,私は十分検討していないのでわかりませんが,少なくとも「偶然性」については一部ではあるけど既に科学で扱う対象となっているという点は把握しておいて欲しいと思います.
# 以下は余談だけど,6面体のサイコロを完全に理想的な状態(完全に理想的なサイコロを,角を正確に真下に向けて完全にバランスのとれた状態で,空気抵抗や床の特性など周囲の状況も完全に一律な状態)で落とした場合(現実にはあり得ないけど例えば物理法則にしたがってコンピュータシミュレーションなどをした場合)には「サイコロは倒れないのでどの目も出ない」という結果になるだろうなぁと思ったり(^^;

410fukken:2007/02/01(木) 20:41:09 ID:M5vfENrY
>>408

シカゴ・ブルースさんには大きな事実誤認があるように思いましたので、口を挟みます。

まず、
>その割にはヒートアップしているのはハイレベルの方々の方で、>>396

とありますが、私以外のどなたがヒートアップしていましたでしょうか?
そもそもJosefさんの主張からは「知的レベルが高いのですね、ここの人たちは。 」の中に私が含まれないであろうことは明瞭ですよね。
私は最初に自己紹介しています通り>>76、いわゆるアラシ紛いの不真面目者です。
私のようなモノと一緒にされては、常連の方々は不愉快だろうと思いますよ。

次に、その私がヒートアップしていた理由も、論理的にどうこうなどと言う次元の話でなく、オノレの過ちを認めず逃げ回るmacska氏の姿勢にあったわけです。
シカゴ・ブルースさんはきっと「macska氏はそんな人じゃない」と仰るのだろうけど、私はmacska氏とやり取りをしてそのように判断しました。(そして、私のように感情剥き出しでないにせよ、他の多くの常連の方たちがそう感じていたのもまた事実。)
つまり私の”ヒートアップ”については、macska氏の論旨に問題があるかどうかとは別の問題だと言うことをお間違いなきよう。

411Josef:2007/02/01(木) 22:50:47 ID:uPoVYQoU
>>409
>少なくとも「偶然性」については一部ではあるけど既に科学で扱う対象となっているという点は把握しておいて欲しいと思います.

その通りですね。
ただ偶然性という言葉は科学よりも哲学の土俵で論じられているはずです。本質的偶然というのは、本質的に何ら法則性が無いということですから、法則性を見出すことを旨とする科学の対象にはならないのですね。もちろん少なからぬ科学者が「本質的偶然など無い」と言うでしょうが、その場合「偶然」の意味が違っています。
たとえば「何の必然性もなく存在しているこの私」のような「実存」などは本質的偶然に数えられます。これを本質的偶然だと認めるならば、「あなた」もまた偶然であり、「あなた」と「私」の出会いも偶然です。

ヴィトゲンシュタインは「世界の在り様が神秘なのではない、神秘なのは世界があることだ」という有名な言葉を残しました。これに絡めて言うなら、科学に扱える「偶然」は「世界の在り様」に属するものであって、「世界があること」という本質的偶然性を扱うものではない、ということになるでしょうか。

ついでながら、ヴィトゲンシュタインは「因果」というものを認めていません。AとBという2つの事象の間の「因果」法則は常に事後的解釈であらざるをえず、そこに論理的必然を見出すことはできない。明日も同じ「因果」法則が観察できる保証はどこにもないのです。この点では、Mさんの「ニンゲンの意識は、その偶然性をいとも簡単に必然性に転化してしまうわけだにゃ」(>>107)とかなり近い。「前世からの因果」というふうな思想も科学的な因果関係も、この意味では一種の信仰であって、大して変わらないともいえます。

412HAKASE:2007/02/02(金) 18:33:58 ID:ZC/gbS1c
Josefさん.お返事どうもです.

科学の分野でも「偶然性」については扱われていて(専門用語かどうかは私は知らないですが,カオスの分野などでこのような表現をされる事があります),私はそちらの意味で解釈していました.
Webでざっと調べましたが,「偶然性」というのは哲学の専門用語(?)としてよく使われる言葉なのですね(科学哲学という分野があるのもここで始めて知りました).
哲学で言うところの「本質的偶然性」については,いまいち理解できなかったので(雰囲気はなんとなくわかるんだけど…),Josefさんの文脈にそった適切なレスができなくてすいません.

# 以下,気になった点のコメントだけさせてください.
私自身は,科学者の多くは,証明・実証がなされていない事については「わからない・明確になっていない」という立場を取ると思ってるので,「本質的偶然」が「何の法則性もなく結論が決まる事例」の意味であったとしても,おそらく科学者なら『「本質的偶然など無い(世の中に全く存在しない)」』と断言するよりも「あるかないかは明らかになっていない」という立場をとるんじゃないかなと思います(あると*仮定*して研究をするとしても).

それから「前世からの因果」と「科学的な因果」については,どちらも『*まずは*「公理にあたる因果関係(?)」を「てきとーな解釈でもって」定義してしまっても良い(それこそ極端な話サイコロ振って決めても良い)』という点では私も同じだと思います(科学を「真理を追究するもの」ととらえている方には異議があるかもしれませんが).
ただし,「科学的とされる(されている)因果」については,公理系を定義した後で『(論理学で言うところの)完全性が保証された推論形式や推論規則を用いて,観測結果とその公理とから予測や推論を行ってみて,その結果が観測結果と一致しない場合には,その公理系などに修正を加える』という作業を繰り返すことで,「ある一定の(例えば確率的にいって十分確からしいとみなせるなどの)範囲内」で「ある一定の誤差内での予測や推論」が可能であるとみなせるレベルまでの修正がなされている,という点が異なってると思います.

という事で,最後にJosefさんが書かれた「一種の信仰であって,大して変わらない」という見方ついては,『「上記のような検証手続きを経ているか否か(あるいは検証手続きを現在行なっている途上にあるか否か)の違い」を無視すれば,大して変わらない』という意味では私も同意見です.

# おそらくJosefさんは哲学の立場から話してると思うんですが,私は哲学についてはよく知らないので,これ以上はレスできないです.すいません.

413NAN:2007/02/03(土) 12:12:29 ID:NbousSag
いろんな議論や対話において「本質的」ってコトバが出てくるとき、かなり気をつけないと誤魔化しが横行することになりますね。いま対話されている「本質的偶然」というのも然り。これは「規則性が一切見出すことのできない偶然」を指すのだろう、と私は思いますが…つまり「極限までランダムな事象」として数学的に定義することはできるのでしょう。(いや、できないのかも知れないけれどできる気がする)

ということは、「カンペキにランダムな事象」が「ホントにカンペキにランダムなのか?」という点について懐疑主義をぶちあてることは可能ですから、カンペキに偶然に起きることであっても、それが「科学の対象とならない」という命題は偽となるんでしょうね。別にこの辺はカオス論とか持ち出すまでもなく。

しかし、ここで論点(あるいは争点)となっているコトガラとは、科学が、通常「オッカムの剃刀」などによって取り扱わない事象、つまり「あらゆる偶然性、必然性のウラには超越的存在の働きがある」というような考え方でしょう。こういう「前提そのものが懐疑されることを拒否している事象」の扱いというのは、間違うと危うい方向の神秘主義や信仰的or象徴的権威主義に向かうことがあり、権力や利権と結びつくこともあるので扱いについては慎重にならざるを得ないのだ、と私は考えています。
#個々が「懐疑されることを拒否するナニカを持つ権利」は守らなければならないし、それが時に害悪(暴力)や搾取の構造を生むことについても熟知しなければならない、ということ。

「意味」や「価値」について、科学は言及しないことを是としているわけですが、私たちが現在地球上に生息している「理由」というとき、この「理由」というコトバの持つ多義性や解釈の「幅」の中に、さまざまな誤解が生まれるのでしょうね。

414NAN:2007/02/03(土) 12:32:54 ID:NbousSag
ついでに少し補足をば。

プランク定数とか光の速度とか重力定数とか、そういうこの世界の成り立ちを決める基本的な数について、私たちの科学は高い精度でそれを求めることができます。いわゆる複雑系とかカオス論を使うと、一見すると偶然に見えることでも、隠れた規則性を見出すことができます。しかし、それらは「カミサマが決めたことなんだ」という言明について、科学がなにかを検証することはできるでしょうか?

たとえば「地球は5年前に生まれた」という言明は、科学によって否定されるでしょう。しかし、さまざまな科学的観測や推測、予測を受け入れたうえで、それらすべての法則の背後には超越存在の働きがある、と云われたとき、科学はそれを検証できるでしょうか。

この世で起きるすべての事象の背後に、普段はオッカムの剃刀によって切り落とされている領域にいる「ナニカ」について言明を求められたとき、科学はなんのコトバも持たない、というのが私の結論です。

415ゆん(♂):2007/02/03(土) 22:54:05 ID:ZuqQuBeU
現在の自然科学は「自然の斉一性」を重要な暗黙の前提として方法論を構築しています。なので、その「自然の斉一性」を自由に操れる存在が実在すると仮定したら、その相手に対して自然科学の検証手段はまったく役に立たないでしょう。で、現在「神」という概念は、そうした「斉一性を自在に操れる存在」のことを指すのではないかなあ。

とかそんなことを思ったり思わなかったり。

416地下に眠るM:2007/02/06(火) 15:23:57 ID:cizMQ0FI
>>408
>「冒涜された」という論理ですが、これはフィジカルなものではないですね。だから、これを理由として言いたてられても、フィジカルな論理ではいかんともしがたい。私なら議論から撤退します。

じつのところ、別に冒涜したってかまわにゃーんだ。
要点は「知りもしない、知る気もないくせに、よくも否定できるね。ネット上とはいえ馬鹿を宣伝してタノシイ?」
ということだにゃ。
>>402において、夢の取り扱いについて「macskaが見ているのなら尋ねてみたいところにゃんが」と書いたけど、もう本人は見てにゃーのだろうか。これだけ冒涜しただのしてないだのという話をした揚げ句、傍目から見ただけで断言しちゃうようなことをして突っ込みに対しても黙殺なんて、ごく単純に侮蔑に値すると思うんだけどにゃー。



>>412
>最後にJosefさんが書かれた「一種の信仰であって,大して変わらない」という見方ついては,『「上記のような検証手続きを経ているか否か(あるいは検証手続きを現在行なっている途上にあるか否か)の違い」を無視すれば,大して変わらない』という意味では私も同意見です.

その「検証手続き」というものもカガクの範囲にそもそも属するものであることがよく意識されているのであれば、その理解でいいのではにゃーだろうか。
カガクが最も開かれた知的体系であることに異議をさしはさむつもりはにゃー。
しかし、神秘主義的な知の体系が閉じられたものともいえにゃー。
どのような知的体系においても、それなりの才能がそれなりの努力をしてはじめて価値あるものをえることができることは変わらにゃーのだ。

417diamonds8888x:2007/02/07(水) 06:01:58 ID:HFzGgWdI
> どのような知的体系においても、それなりの才能がそれなりの努力をしてはじめて価値あるものをえることができることは変わらにゃーのだ。

 それは確かでしょうね。では得られた価値を認識したり味わったりするにも才能は必要でしょうか? 微積分や力学の創造にはニュートン等の才能が必要でしたが、その理解には普通の高校生レベルの才能があれば十分です。科学を理解するための敷居は極めて低いのです。神秘主義的な知の体系の具体例は何も知らないのですが、そちらではどうなのでしょう?

 単に現在ではやる人が少ないから敷居が高く見えるだけなのでしょうか?

418すかんく:2007/02/07(水) 14:49:29 ID:ASJ/wL/Y
すみません、基本的な質問をば。。
ここでいう科学の定義はなんですか?

419地下に眠るM:2007/02/13(火) 16:46:59 ID:cizMQ0FI
>>417
>微積分や力学の創造にはニュートン等の才能が必要でしたが、その理解には普通の高校生レベルの才能があれば十分です。科学を理解するための敷居は極めて低いのです。神秘主義的な知の体系の具体例は何も知らないのですが、そちらではどうなのでしょう?
>単に現在ではやる人が少ないから敷居が高く見えるだけなのでしょうか?

そもそも僕は「カガクが最も開かれた知的体系であることに異議をさしはさむつもりはにゃー。」と417でいっているにゃ。神秘主義についても体験的にわかっているわけでもにゃーしね。
しかし、神秘主義とまでいかなくとも、哲学的な知についてヤスパースが以下のようなことを言っているにゃ。(ヤスパースは有神論的な実存主義なんで、神秘主義に通じるものはおおいにあるといえますけどにゃ)

*****************************************
また哲学的思惟には、科学のように、進歩発達の過程というものがないのであります。確かに、私たちはギリシア時代の医者であったヒッポクラテースよりもはるかに進歩しています。しかし私たちはプラトーンよりも進歩しているとはいえないのです。私たちは、プラトーンに利用できた科学的認識の材料に関してだけなら、彼よりも進歩しているといえる。しかし「哲学すること」それ自身に関していえば、おそらく私たちはもう一度彼の水準に到達することはほとんどできないのではないでしょうか。

科学と異なって、哲学の形態をとるかぎり、どんなものにも万人の一致した承認というものが欠けているという事実は、哲学という事柄の本性のうちに存しなければならないことであります。哲学において獲得される確実性は、科学的な性質のもの、換言しますと、どの悟性にとっても同様な性質の確実性ではなくて、それが成功した場合に人間の全本質が参加してともに語り合うことができるといった確認(Vergewisserung)なのであります。科学的認識は何らかの個々の対象にかかわりをもち、そしてこれらの個々の対象について知ることはけっして万人にとって必要であるわけではないのでありますが、哲学においては、人間としての人間にかかわる存在全体や、一度解明されたならば、どの科学的認識よりもいっそう深く人の心をとらえるところの真理が重要な問題となるのであります。

なるほど完全な哲学は科学と結合しており、またそれぞれの時代において到達された最高の状態にある科学を前提とするものでありますが、しかし哲学の意味はそれと異なったある種の根源をもっております。哲学はあらゆる科学に先立って、人間が目覚める場合に現れるのであります。
ヤスパース「哲学入門」新潮文庫判P8〜9
*******************************************

神秘主義は前合理でも非合理でもなく、超合理にゃんからね。合理思考ができることは神秘主義者には必須だにゃ。ヤスパースは否定神学の流れをくむ神秘主義的哲学を構想しているけど、徹底的に科学と親和的であろうともしているのだにゃ。
そして、417の質問にこの立場からこたえると、「敷居が高いとも低いともいえない」となるにゃんね。科学とはまさに「クレーン」のように丹念に積み重ねていくものであり、実存哲学的な知(神秘主義的な知もこれに含まれるだろう)とは「人間が目覚める場合に現れる」ものだからにゃ。

420地下に眠るM:2007/02/13(火) 16:58:12 ID:cizMQ0FI
さて、前掲のヤスパースの議論を写していて思い出したんだけど、以下のようなやりとりがありましたにゃー。

>神話は、名前こそ残ってにゃーが、その当時の最高の賢者たちが何代もかかって産みだしてきた知の体系だにゃ。宗教の教義にしても、最高のエリートが作ってきたといっていい。それを、読み方もしらにゃー馬鹿が「誰がどう見ても間違っている」だってさ。>>177馬鹿猫

>過去のものすごい賢者や哲学者の思考を、いまのわたしたちは文庫本あたりで簡単に読むことができるわけですから、昔の最高の賢者たちが一生をかけて築き上げた知の体系を越える知を現代の一般人が持っていても別に不思議じゃありません。例えば、聖書がネットで検索できるようになったこと自体、過去の信仰者や研究者に対して現代の人の圧倒的な有利さがあります。>>179 macska

macskaはあまりにもお気楽極楽な進歩主義者だにゃ。チミは19世紀のニンゲンか? と突っ込みをいれたくなるにゃ。
科学主義というよりは、暴力的なほどお気楽な啓蒙主義なんだと思いますにゃ。まあ、メリケンで馬鹿クリスチャンと言葉のチャンバラやっていれば啓蒙主義的になるのもわかるし、啓蒙主義は必ずしも否定できにゃーけど、こりゃいくらなんでもお気楽かつ暴力的すぎるだろ。アウシュビッツを招いたのは啓蒙主義的な理性だとアドルノもいってるにゃんが。

macskaの書くものはちょこちょこ拝見していたけど、分析に感心も納得もしていながら何か違和感があったんだよにゃ。そのあたりの理由については、今回僕は腑に落ちるものがあったにゃ。

421シルバーバーチの霊媒F:2007/05/01(火) 13:46:35 ID:???
霊医アトス様(日本の氏神様であり当初の心霊治療家を支えてた神霊)の霊界通信
心霊治療の誤りについて(霊界通信)
アホか????ひまし油で治るか?
だからケーシーみたいなお馬鹿な霊媒だと低級霊しか付かんのだよ。
霊医殿が、アホ ケーシーのせいで、どの位辛かったか!お前の手柄かよ!
アホめ! 何故お前達が、ケーシーを取ったか解るよ。アホだからだよ。
日本のシルバーバーチでもある霊医アトス様より 代打F
(Fは、あくまで、あくまで霊媒です、代打です。)
        続き

何処にお知らせすべきか彷徨っております、霊界通信として参考までに読んでください
エドガー氏のことよりもイギリスのエドワーズ氏よりの考えに重きを置いてるのが
霊界のようです、日本にはウィックランド氏方式しかないであろうと言うこととおっしゃる
前 シルバーバーチ霊のお言葉を合わせてお知らせいたします。
私が今、最も霊能力がある霊医の霊媒だそうです。日本だけでなくて世界的だそうですが???
皆様が、今、最も霊界情報に詳しい御方ですよ。 皆々様へ
つづき
イギリスのエドワーズ氏は、シルバーバーチ霊の指導の下でスピリチュアルヒーラーとして
イギリスを代表するヒーラーでありヒーリングの第一人者でした。
シルバーバーチ霊のお考えでは、前世は、人間に解る領域では、無いという見解です。
実際憑依の成せる業であると結論付けられておられます。
エドガーケーシー氏の心霊治療は、大きく誤っていることに対して
今私は、日本の ヒーラー達へ警鐘を、鳴らす為書き込んでおります。
又、預言者としての彼も、大きく外すことの連続であろうと思わずには、いられません。【寒気がします】 ケーシー氏の投薬・シップなどは、アクまで気休めであり霊医のお力が、無くしては、
何の結果も得られないであろうと言うお話も窺いました。(霊医団のお方:薬に関しては、詐欺に問われるのではと心配する霊医殿もいるくらいです)
霊界のお方達は、エドガーケーシー氏の行った心霊治療が、霊能力の無いヒーラーが行うことにより
低級霊とも呼ばれる不安定な霊が憑依し反って病を重くすることも多々有りそうだとの考えから
前世療法やレイキを大人のコックリさんとして禁止してほしいとFに指示されました。
ある有名霊能者が種を蒔き、私Fが刈り取り・・後・・霊界の秩序のもとに真の宗教が生ませるでしょう
と、言うシルバーバーチ霊のお言葉を頂いております。 あしからず。

422名無しさん:2007/06/03(日) 17:51:15 ID:oitaE/O.
バナナ考えたヤツ天才じゃね?
よく言われることだけどバナナ考えたヤツは天才すぎるというか、
でもだってまず皮がヤバイ。外皮ヤバイ。剥きやすい。
スイカやメロンはバナナ見習えっつー。

そりゃみかんも剥きやすいよ?
でも薄皮ジャマ。薄皮食うんか出すんかで人間を悩ますとこがダメダメ。
その点、バナナは外皮オンリー。しかも種もない。種なし。
種を出すアクションが不要。ワンアクションで食べられる。
ワンアクションフード。

食べるペースも調節できる。大きい口なら一口で、小さい子ならそれなりに。
ラップもいらず、外皮はソフトクリームのコーンみたいに持ち手にもなっちゃう。
エライなんという食べやすさ。なんという無駄のないインターフェイス。
ルーカスもスピルバーグも、ちょうすごいアイディアにビックリ。

外皮のないイチゴなら、皮剥く必要ないじゃんとか言う。ほら、きた。
じゃあイチゴさん聞くけど、おまえ農薬からガードできんのかよ。
バナナの外皮は防毒、保湿、長期保存ばかりか、携帯性にもすぐれちゃってる。
直接、持って散歩に行ける。

あと房。バナナってばちょう房。一本だけじゃなく、複数本を一括で扱える。
ワンハンドでキャリーできる。すごい。バナナすごい。
丸くない。坂道でコロコロ転がらない。
転がりリンゴによる交通事故が多発する現代社会において、
バナナなら坂道の事故ゼロ。落としても安心。
バナナは安全も考えたパッケージング。

ほんとにね。ほんとバナナ考えたヤツ天才。つーか神。
もー伝説のサムシンググレート?

……サムシンググレート?

そうかもしんない。
文字通りバナナ作ったのは創造主、伝説のサムシンググレート。
そしてこんだけバナナが人間向けに作られてること考えると、
サムシンググレートって、意外と人間のこと気にかけてくれている。
人間のためにちょー気を使ってる。バナナ作って気を使ってる。

サムシンググレート。マジですごすぎると思う。

423地下に眠るM:2007/06/03(日) 20:21:47 ID:KqE7Wn1s
>そしてこんだけバナナが人間向けに作られてること考えると、
>サムシンググレートって、意外と人間のこと気にかけてくれている。

バナナはニンゲンだけでなく、果実を食するサルの類い全てにとっての福音だにゃ。
この さむしんぐぐれーと はきっとサルの神にちがいにゃー。

しかしさー「人間原理」ちゅうのも考えてみれば脆弱な理屈にゃんね。
この地球上でもっとも繁栄している生物って、別にニンゲンだということにはならにゃー。

昆虫神かもしれにゃーし、細菌神かもしれにゃーよな

424ミケ:2007/06/04(月) 13:54:26 ID:???
んじゃあイチゴやみかんをつくったのは
サムシングぺティってところ?

425名無しさん:2007/06/10(日) 16:58:23 ID:DHj5XiXA
ドーキンスの「神は妄想である」の話題ってここで良いですかね。
あの本は一神教の創造神、人格神を「神」とし、汎神論は比喩として神という言葉を使っている
という立場で神の存在を否定していますが。

426NATROM:2007/06/11(月) 11:26:02 ID:fNsuFDiI
「神は妄想である」。読んでる最中です。やっぱり私にはドーキンスよりも、グールドが主張するNOMA(重複することのない教導権)が正しいように思えます。

427名無しさん:2007/06/12(火) 14:36:32 ID:DHj5XiXA
ドーキンスの批判と違って、
NOMAは宗教が独占的に道徳的価値観を扱える、と言っているわけではないですよね。
そもそも科学と宗教の違いについて述べたものだから、宗教は道徳的価値観を扱う、と言っているだけで。

428カクレクマノミ:2007/06/13(水) 12:13:47 ID:lhM1Ka.M
>NOMAは宗教が独占的に道徳的価値観を扱える、と言っているわけではないですよね。

ドーキンスならたぶん、「宗教以外にも道徳を扱えるものがあるなら、いろんな害のある宗教をあえて使う必要はない」、また「宗教以外の道徳を扱うものに比べ、現在の社会では宗教が特権的で批判できないものとして扱われているのはおかしい」などと反論するでしょうね。

>そもそも科学と宗教の違いについて述べたものだから、宗教は道徳的価値観を扱う、と言っているだけで。

これもドーキンスなら、「でも宗教は道徳的価値観だけじゃなく、事実も扱おうとしているじゃないか」と言うでしょう。たとえばイエスが処女から産まれたかどうかは事実に関する問題であり、道徳的価値観の問題ではありません。

429地下に眠るM:2007/06/13(水) 19:38:02 ID:cizMQ0FI
>たとえばイエスが処女から産まれたかどうかは事実に関する問題であり、道徳的価値観の問題ではありません。

セックスが穢れたものであるのなら、処女から生まれたことには道徳的価値があることになるにゃ。
事実と価値の分離ちゅう理屈そのものが、カガクの側で勝手にいっていること、ちゅうことに宗教の側としてはなるだろにゃ。

そもそも価値と事実の源泉はともに神にあり、神を離れては事実も価値もにゃーわけだ。

430名無しさん:2007/06/13(水) 22:27:55 ID:DHj5XiXA
>「宗教以外にも道徳を扱えるものがあるなら、いろんな害のある宗教をあえて使う必要はない」
>「宗教以外の道徳を扱うものに比べ、現在の社会では宗教が特権的で批判できないものとして扱われているのはおかしい」
現実の宗教の功罪とNOMAとは直接関係なくないですか?

431名無しさん:2007/06/13(水) 22:33:18 ID:DHj5XiXA
>たとえばイエスが処女から産まれたかどうかは事実に関する問題であり、道徳的価値観の問題ではありません。
宗教はイエスが処女から産まれたかどうかについて、どのような?という形での問いは発しないのではないですか。

432カクレクマノミ:2007/06/14(木) 00:24:49 ID:lhM1Ka.M
>セックスが穢れたものであるのなら、処女から生まれたことには道徳的価値があることになるにゃ。

道徳的な意味づけができるとしても、事実に関する問題なのは間違いありません。
ある1人の人間の母親に性行為の経験があったかどうか―NOMA論者なら、これは事実に関する問いであり、科学の領分だと主張するでしょう。

>事実と価値の分離ちゅう理屈そのものが、カガクの側で勝手にいっていること、ちゅうことに宗教の側としてはなるだろにゃ。

それだと結局、NOMAは成り立たない(宗教の教導権が事実に関する事柄にも及ぶなら、それは科学の領域と「重なり合う」ことになる)のでは?

>現実の宗教の功罪とNOMAとは直接関係なくないですか?

NOMA論者の頭の中にどんな宗教があろうと、今この世界において「宗教」と呼ばれているものは、NOMAの言うような性質を持ってはいないでしょう。

>宗教はイエスが処女から産まれたかどうかについて、どのような?という形での問いは発しないのではないですか。

問いを発しようとしまいと、宗教が事実に関する主張をしているのは間違いありません。


「神は妄想である」の内容は一見すると過激ですが、ドーキンスの議論を1つ1つ見ていくと、同意しやすい部分もかなりあるように思います。
たとえば、戦争の悪についてのすばらしい論文を書いた倫理学者よりも、教義をよく知りもしない反戦的宗教の信者の方が簡単に兵役拒否できるというのは、常識的な感覚に照らしておかしいものではないでしょうか?もちろん僕の常識的感覚なので、みなさんのものとは違うかもしれませんが、どうですか?

433NATROM:2007/06/15(金) 09:23:25 ID:fNsuFDiI
もちろん、ボーっとしているとどんどん宗教は侵略してくるというのは正しいでしょう。しかし、それは科学が宗教の領分を侵略していい理由にはなりません。マリアが処女だったかどうかという問題は、本当に科学の領分ですか?誰かが「処女懐胎は科学的にも説明できる」などと言いはじめたら批判の対象になるでしょう。しかし宗教側がことさら科学を持ち出さない限り、「それは科学の領分である」などとわざわざ言う必要はなかろうと思います。もしかしたら、科学的な方法では検出不可能なやり方で神は介入したのかもしれませんよ。

うわべだけの反戦的宗教の信者の方が簡単に兵役拒否できるのはおかしい、という主張には賛成します。無神論者の立場が不当に弱いとか、倫理的な問題に関して科学知識のない宗教家が口を出す資格があるのかという話に関しても、概ね同意できます。でもこれは、NOMAとは独立した話。優れた倫理学者が容易に兵役免除され、少なくとも人口に応じた分ぐらいの発言力を無神論者が持ち、倫理的な問題を論じるにあたって基本的な科学知識が要求されて当然とみなされる社会においても、宗教と科学が非干渉でありうることは可能であろうと思います。

434名無しさん:2007/06/16(土) 05:06:40 ID:DHj5XiXA
>NOMA論者の頭の中にどんな宗教があろうと、今この世界において「宗教」と呼ばれているものは、NOMAの言うような性質を持ってはいないでしょう。
NOMAは宗教と科学がある条件を満たすなら済み分けが可能だという、いわば理想ですよね。

>問いを発しようとしまいと、宗教が事実に関する主張をしているのは間違いありません。
検証すべき「事実」としてではなく処女懐妊を扱うことは可能だと思います。
処女懐妊って

435カクレクマノミ:2007/06/17(日) 17:23:09 ID:lhM1Ka.M
>もしかしたら、科学的な方法では検出不可能なやり方で神は介入したのかもしれませんよ。

科学的な方法では検出できず、蓋然性すら議論できないような現象があったとして、それについていったい誰がどうやって論じることができるのでしょうか?そのようなものについて考えるための方法論を、宗教は何か持っているのでしょうか?
結局、ドーキンスが繰り返している「なぜコックや庭師ではなく、牧師なのか?」問題に行きつくように思います。

>宗教と科学が非干渉でありうることは可能であろうと思います。

科学で直接的には論じられないような問題について(だけ)論じ、しかし科学的知識や論理には立脚している(少なくとも矛盾しない)ことを求められ、取り立てて特権的な扱いをされることのない存在。それを僕たちは、形而上学・哲学・倫理学・思想などと呼んでいます。
少なくとも、今僕たちが宗教と呼んでいるもの、宗教という言葉で僕たちが思い浮かべるものとは、全く別のものができあがるのではないでしょうか?

NOMA的理想社会における「宗教」と、今この世界で宗教と呼ばれているもの。この2つを同じ名前で呼ぶことを正当化するに値するような共有形質って、いったい何でしょうか?

436Kitkat:2007/06/17(日) 19:43:55 ID:92e0ryjY
>宗教と科学が非干渉でありうることは可能であろうと思います。

思考の源は信仰かと問われた時、人が脳のシルヴィス溝への刺激で神を感じる以上、人の脳はそういう思考の形式をとるように造られている、としか答えようがないと思います。
神という概念が形づくられる以前から、山や木、岩、特定の場所を信仰の対象とする、土着のアニミズムは、人の歴史と共にあったのでしょう。ということで「信仰」こそ、人の思考の主流であろう・・・と考えるわけです。
それに比べれば科学の歴史は、浅いと言わざるを得ません。
ただ私は科学の歴史の浅さにこそ、大きな意味があると思っているのです。科学の歴史は、宗教的な思考・・・人の脳に元々備わっている思考の枠組みから、人を解き放つためのプロセス、という側面もあると考えるからです。
人は自ら作り出した科学という思考の道具を使って考え始めることで、生物学的に脳に与えられている機能から、ほんの一部でも自由になったと言えるのではないでしょうか。
科学は信仰という大陸で、自治権を獲得した自由都市のようなものだと思います。既存の勢力から見れば、おもしろくないかもしれませんが、共存出来れば選択肢が広がります。
科学は、自分たちの分野で自由に真理を探究できれば満足で、大陸全体を支配しようなんて考えていないでしょう・・・たぶん。

科学は多くの人々を救い、より多くの人々を死に追いやってきました。
宗教もまた、科学以上に多くの人々を救い、さらに多くの人々を死へと導いてきました。
科学と宗教が共存し、互いに補完することで、将来の多くの悲劇が回避できるのではないかと・・・甘いかな。

437NATROM:2007/06/18(月) 01:23:27 ID:Z2veARY2
科学的な方法では検出できない現象を論じる方法論を宗教は持っているかもしれませんし、持っていないかもしれません。私は持っていないと思いますけど、残念ながらそれを証明できないので、誰かが「我こそは奇跡を論じる方法論を持っている」などと言い始めても、「ああそうですか。私は信じませんけれども、あなたがたが信じたければご自由に」としか言えません。科学の領域に踏み込んできたら批判する準備ぐらいはするでしょうが、積極的に否定するつもりはないし、その必要も感じません。


>「なぜコックや庭師ではなく、牧師なのか?」

別にコックや庭師が奇跡を論じたっていいと思いますが。


>少なくとも、今僕たちが宗教と呼んでいるもの、宗教という言葉で僕たちが思い浮かべるものとは、全く別のものができあがるのではないでしょうか?

ドーキンスは仏教を宗教から外していますけど、一般的には「僕たちが宗教と呼んでいるもの」に含みますよね。キリスト教の中でも、大谷順彦著、「進化をめぐる科学と信仰」で述べられているようなキリスト教は、原理主義的な宗教とはまったく別のものですが、やっぱりそれは宗教に違いはありません。今この世界で宗教と呼ばれているものなかにも、かなりNOMA的理想社会における「宗教」に近いものも存在します。

438名無しさん:2007/06/18(月) 20:30:20 ID:DHj5XiXA
>「なぜコックや庭師ではなく、牧師なのか?」

宗教者が清貧で煩悩を退けた生活を送っている(とされている)から、というのがあります。

439カクレクマノミ:2007/06/20(水) 20:35:54 ID:lhM1Ka.M
>「ああそうですか。私は信じませんけれども、あなたがたが信じたければご自由に」

現代社会では、「ご自由に」ではなく、「尊重します」と言わなければならないことになっています。
ついでに税金や兵役免除、公共電波の利用(アメリカでは)、通常の教育(を子に受けさせること)の拒否などなどの特典つきで。
ついうっかり「それは変じゃね?」とか口走ったが最後、宗教を弾圧する悪魔と見なされて脅迫されたりも(アメリカなどでは)します。

>別にコックや庭師が奇跡を論じたっていいと思いますが。

コックが論じた場合と比べ、牧師が論じた場合には無条件の「尊重」、すべての批判に対する回答の免除、おまけに税金の優遇もついてきます。


NOMAは、科学の教導権を制限するだけではなく、宗教の領域(とNOMAが主張するもの)については、宗教が教導権を持ち、それは尊重に値すると主張します。
科学が科学の領域内において教導権を持つのは、それなりの根拠あってのことです。根拠無く領域を広げようとすれば、批判にさらされます(もちろん、これは正当なことです)。
しかし、宗教の教導権については、僕たちは何も根拠を見せてもらっていません。なのになぜか、「尊重」しなければならないことになっています。
これはなんだか不思議な状況ではないでしょうか?

440地下に眠るM:2007/06/21(木) 00:20:23 ID:KqE7Wn1s
>カクレクマノミ

「内心の自由」は基本的人権のコア中のコアだにゃ。

宗教は内心の直接的な表現形態ということになっているわけにゃんね。

メリケンでは、この理屈(僕は形式的に支持する。マイノリティの信仰の自由は非常に重要だから)と
多数派馬鹿宗教理屈のまん延とが奇形的にくっついているちゅうことではにゃーだろうか。

441NATROM:2007/06/21(木) 11:02:58 ID:fNsuFDiI
無神論者が宗教を弾圧する悪魔と見なされて脅迫されたりすることは問題ですね。しかしながら、そういう無神論者に対する迫害に対する批判と、NOMAは両立すると思います。世俗的な宗教が、少なくとも外見上は他の宗教に対して寛容であるのと同様に、無神論に対しても寛容であることは可能でしょう。

牧師が奇跡を論じた際に、無条件の尊重や批判に対する回答の免除がなされていることも、NOMAとは直接は関係しません。税金は取ってもよいと私は思いますけど。そもそも、本当に無条件に尊重されているんですか?もし仮に、日本でキリスト教の牧師が「神戸の震災の原因は日本人のキリスト教信仰の薄さである」などと言いはじめたら、おそらくは他の常識的なキリスト教徒からも含め、相当な批判がなされると思いますが。なるほど、原理的な宗教が幅を利かせている国は確かにあり、それは問題ですが、だからといって科学が宗教の領分を侵犯してよい理由にはならないでしょう。

宗教の教導権の根拠については、おのおの持っていればいいのではないでしょうか。聖書でもコーランでも文化的な背景でも。私やカクレクマノミさんも何らかの道徳心を持っていますし、根拠もあると思っていますが、少なくとも「科学的根拠」はないでしょう。客観的に各自の根拠の優劣を測る手段がない以上、社会的常識の範囲内においてそれぞれの根拠を尊重するしかないだろうと思います。「神は科学的に考えてほとんど存在しそうにないからしてお前の道徳心の根拠は誤りだ」ってのは、「お前の道徳心は聖書に基づいていないから誤りだ」と同じくらい傲慢です。

442名無しさん:2008/02/02(土) 20:23:57 ID:zV8V936c
stinky

443光明禅修センター:2008/03/09(日) 09:53:05 ID:S1DcIzr.
日本の佛縁ある人々に、神秘的なチベット仏教の教えを紹介するため、チベットに住む活仏やリンポチェ、ならびに佛法を学ぶ法友の強力なご支持を頂いて、2007年6月「光明禅修センター」は創立された。
光明禅修センターはセルダ・ラルン・ガル・ゴンパ(色達喇栄五明佛学院)のゾクチェン大成就者、ポワ・ラマこと、金剛ラマ・ガロン・ダンジュ・リンポチェによって設立されました。ゴンパ副院長のダンザン・リンポチェ、ロンド・リンポチェ及びケンポの方々が指導に当たります。実際に修行することに重点を置いた道場で、主な修行内容はチベット仏教ニンマ派のゾクチェンと、セルダ・ラルン・ガル・ゴンパで伝えられてきた伝統的カリキュラムです。
そ の目的は、日本において仏教を信じる人々がチベット仏教を学び、お互いに交流するための『実修道場』を提供すること、そして未だ日本に伝わっていないチ ベット仏教の教えが日本に伝承され、その教えを展開することである。東チベット・セルタ県ラロンにある世界最大のニンマ派の仏教学院である「色達喇栄五明佛学院」の大勢の上師の方々から以下のように祝福を頂いた。
www.wssdl.org

444光明禅修センター:2008/03/09(日) 14:17:23 ID:S1DcIzr.
日本の佛縁ある人々に、神秘的なチベット仏教の教えを紹介するため、チベットに住む活仏やリンポチェ、ならびに佛法を学ぶ法友の強力なご支持を頂いて、2007年6月「光明禅修センター」は創立された。
光明禅修センターはセルダ・ラルン・ガル・ゴンパ(色達喇栄五明佛学院)のゾクチェン大成就者、ポワ・ラマこと、金剛ラマ・ガロン・ダンジュ・リンポチェによって設立されました。ゴンパ副院長のダンザン・リンポチェ、ロンド・リンポチェ及びケンポの方々が指導に当たります。実際に修行することに重点を置いた道場で、主な修行内容はチベット仏教ニンマ派のゾクチェンと、セルダ・ラルン・ガル・ゴンパで伝えられてきた伝統的カリキュラムです。
そ の目的は、日本において仏教を信じる人々がチベット仏教を学び、お互いに交流するための『実修道場』を提供すること、そして未だ日本に伝わっていないチ ベット仏教の教えが日本に伝承され、その教えを展開することである。東チベット・セルタ県ラロンにある世界最大のニンマ派の仏教学院である「色達喇栄五明佛学院」の大勢の上師の方々から以下のように祝福を頂いた。
www.wssdl.org

445聖なる心(主イエス様):2008/03/12(水) 17:51:11 ID:viM7iaT2

宗教家が言うには 神とは あなたの心の中の 良心 である

と述べている つまり われわれは ある意味 神 であるのである

良心 愛という本能こそ 人間が神である証である

正確には 人間は 動物と神との間の生物である

446名無しさん:2008/03/14(金) 13:30:43 ID:MSUzBPno
まったくそのとおり。
それは宗教ではなく、特定の人のものだけでなく、
全ての人に共通の真理です。

447NORTON3rd:2008/04/26(土) 12:52:43 ID:tQvpJqX6
macskaさん、根本的な考え方は替わっていないみたいだが、アメリカの一部の無神論者の『アレ』っぷりをみて『こら、マズイんじゃねーの』と思い出したようです


ttp://macska.org/article/224

448地下に眠るM:2008/04/27(日) 14:59:20 ID:0kFRBCQQ
macskaのこのエントリに対する反応の大きさとその内容がオモシレーのだにゃ。
これはやはりドーキンス絡みのようですにゃ。

449macska:2008/04/29(火) 13:17:58 ID:TbdmZchA
どもです。
別に最近になって「こら、マズイんじゃねーの」と思い出したわけじゃなくて、このスレの111で書いているように当時からマズイと思っていました。

>111
> # 個人的に、かれのイスラム教に対する発言にはかなり危ういものを覚えます。
> # かれは政治にはあまり関心がないのかもしれないけれど、欧州の一部で最近目立って
> # きた「リベラルを標榜する排他主義的極右勢力」に利用されかねないのでは。

ほらね。いまと言ってること同じですよ。

450NORTON3rd:2008/04/30(水) 13:27:39 ID:tQvpJqX6
れれ?
111にはおっしゃるようなことは書かれていませんが?

とまれ、お久しぶりのご光臨ありがとうございます

macskaさんのお考えが俺なんかよりドーキンスの『神は妄想である』に遥かに近い考えであることは了承していますし、基本線は変わっていないこともコメント欄を見れば分かります。
それにしても、ちょびっと批判をしただけで、えらい勢いで突っかけてくるコメント欄のドーキンス厨はありゃ何なんですかね

451macska:2008/04/30(水) 14:21:10 ID:TbdmZchA
ごめんなさい、199番でした。何で間違えたんだろう…

突っかかってくる人の一部(あくまで一部ですよ)については、最近は「疑似科学批判」を掲げるイナゴも発生してますしねぇ。

452NORTON3rd:2008/05/08(木) 09:30:31 ID:tQvpJqX6
えーっと、GWはタイにあるNANというふざけた名前の実在の街に行っていてNETとご無沙汰でした


>ごめんなさい、199番でした。何で間違えたんだろう…

ああ、わかりました。それにしてもこのときはHOTな議論をしてるな・・・。
ちょっと、アツクなりすぎの感はあるけど

このときの論争相手の一人である地下猫さんがご自分のブログでmacskaさんの今回のエントリについて論じていらっしゃいますが(だけじゃないけど)、正直言って結構難しく読むの大変


ttp://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20080502
ttp://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20080503
ttp://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20080507


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