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「三位一体」の本質

43字句訂正 オスチア:2004/03/04(木) 00:19
「わが教団は,ルーテル派パリサイ主義である」と自重しています。



「わが教団は,ルーテル派パリサイ主義である」と「自嘲」しています。

に訂正しています。

 年に1回「聖会」みたいな者があるのですが,飲酒した牧師が上半身裸になって,賛美歌を歌いまくります。バッハの「血潮滴る」は「剽窃だ」と放言した牧師がいたのでぶん殴ってやりましたです。

44オスチア:2004/03/04(木) 00:34
 人間は神の似姿です。したがって,人間存在も「三位一体」の似姿が残っていると私は思います。
 そういう仮設の元で考えましたところ

 父なる神=意識
 子なる髪=自己意識
 聖霊=父なる神(意識)と子なる神(自己意識)を相互交流させる意識作用

 と考えたことがあるのですが,なんか,いんちきヘーゲリアンみたいな考えなので,ちょっと迷っています。

45chiara:2004/03/04(木) 00:43
オスチア様>
ローマが「勝手に」という言い方は、当時の非ローマ的の立場の表現ですね。
ローマとしては、ローマ教会ではそう考えるというだけのことです。
勝手にという恣意的な修辞語は、オスチアさんの立場の表現でしょう。
(・・・・つっても、当時としては非常に保守的ともいえる、王道のカトリックであったルーテル
自身はどっちの立場だったんでしょうか)

まぁ、神秘に関わることを明文化していくと、原理化していくという光景は、
「論理」の世界では当然の現象とはいえ、
わたくしは、正直そういうことにはもううんざりしていて、
神学的に厳密なことはもう考えたくないとは思ってはいるんですけどね。

46chiara:2004/03/04(木) 00:56
>>24 パンプキン様
>chiaraさまは以前三位一体に「クレド」と言うのにかなり時間がかかったと
おっしゃっていたので、鵜呑みにされたわけではないとは思っていました。
そのあたりの経緯を知りたいと思ったわけなのです。

返事が遅くなってごめんなさい。
そうですね。やはりキリストの人性と神性という問題が大きく横たわりましたから。
色々な本を読みました。プロテスタントの自由主義神学的な立場のものから、
ギリシャ教父達が構築していった経緯まで。
色々な導き手に出会った中で、学ばせてもらいました。それはルーテル教団の牧師先生や、
大学の哲学科の教授といった方たちで、そういう方に色々な本を紹介してもらったわけです。
しまいには、三位一体について膨大な論考があるという事実に、こりゃ〜生涯にかけて考え続けるに足る、
永遠の課題かも。と、思ったのです。簡単に解答が出せるわけでない。と。

実際、人格神を持つとはどういうことか。特にイエスという人としてこられた神がいる。
というキリストの特性は、非常に身体的であると同時に、哲学的でもあるわけで、
その形而下と形而上との間をいったり来たりすることで単なる空論ではない、神秘のリアルさを
感じ取れるといったことはあると思います。

三位一体は奥義であり、だからこそ永遠の美として彼方にあると、そのあり方が
美しいと思ってしまうんですね。

47名無しのひつじさん:2004/03/04(木) 01:01
>>42
そういうルーテルのワケワカメな常態を嫌ってか、1996年には、教会史及びルター研究の権威であるイェール大学のヤラスノフ ペリカン教授は、ルーテル派から正教に改宗しました。「LCMSが、”バプチスト”になった時、福音ルーテルが、”メソジスト”になった時、自分は、正教になった。」と言ったと伝えられています。

http://www.stlukeorthodox.com/html/innews/easternrite.cfm

48名無しのひつじさん:2004/03/04(木) 01:31
↑ホントにワケワカメだね。

49フランシス・ヒデ:2004/03/04(木) 04:16
chiaraさま、

横槍、御赦しを。。
久しぶりにchiaraさまの霊性をご投稿から感じ取れて、私もうれしいです。
メインの掲示板が荒れまくっていて、申し訳ございません。

「神秘に関わることを明文化していくと、原理化していくという光景は、
「論理」の世界では当然の現象とはいえ、わたくしは、正直そういうことには
もううんざりしていて・・・」
とおっしゃるのは、実は私も以前から同感です。「神秘に対して我々がなしえる
最大の冒涜は、神秘を説明し尽くしてしまおうとすること」だろうと、私は
10代の頃から考えておりますので。

「キリストの特性は、非常に身体的であると同時に、哲学的でもあるわけで、
その形而下と形而上との間をいったり来たりすることで単なる空論ではない、
神秘のリアルさを・・・」
とおっしゃるのも、私としては10代の頃からアーメンです。永遠のロゴスなる
正しく形而上の何ものかを、血肉なる我々がリアルに感じ取れることがあるとす
れば、そのロゴスご自身の身体化(受肉)こそそれにふさわしいですね。

ときに、以前chiaraさまはどこかにお引越しなさるとおっしゃってましたが、
お引越しは無事に終わったのですか?
私のほうもこの3月末に引越しすることになりそうですが、私は直線距離で
1.5kmほどのところに移動するだけです。相変わらず、高円寺系です。
ビーズのアクセサリーなど、高円寺のお店で売っています。
ご存知のとおり、英語ではsay one's beadsというと「お祈りする」といった
意味ですね。ロザリオなど使い慣れた方々には、すぐに分かる表現ですよね。
ビーズにはこうした「祈りとの親近性」があるので、買ってくださる方に
主の祝福があるよう祈りながら、アクセサリーを作っております!

50タチバナ@灰羽連盟:2004/03/04(木) 09:38
>フィリオークエ は,ニカイアコンスタンティポリス信条が定式化されたあと,ローマカトリックが,勝手に挿入したというのが通説です(AD600年ころらしい)。
>これは,「アディアフォラ」では済まされない問題であるとは思います。

「ローマが勝手に挿入したのが通説」と言い切るのならきちんとした文献資料を挙げ、引用すべきでしょう。
「フィリオクエ」がのちに挿入されたことはたしかでも、それを「勝手に」とするのは解釈の問題で、どちらかを一方的に正しいとする根拠はなんなのでしょう?

51タチバナ@灰羽連盟:2004/03/04(木) 10:33
しかしchiaraさまはさすがおとなですね。
私がカトリッカーなら、ぶち切れて、72時間ほど問い詰めたくなる(笑

こころ騒ぐので阿弥陀経でもとなえます。なむなむ・・

52名無しのひつじさん:2004/03/04(木) 12:21
>>49
「神秘に対して我々がなしえる最大の冒涜は、神秘を説明し尽くしてしまおうとすること」
これは、西方キリスト教の特徴として、よく正教の人が、ロスキーを引き合いに批判するポイントですが、より視野を広げるとユダヤ教、キリスト教、イスラム教という1神教の中でも特異なプロテスタント的現象です。つまりプロテスタント以外のすべての一神教の中で神は、本質は、うかがい知れないが、そのエネルゲイアは、知られるとする否定神学の伝統が、保持され続けているのに対し、改革派以降のプロテスタントでは、その根本的な神秘に対する感覚を失ってしまった。
これが、アメリカ産のバイブルカルトにおいては、もうマンガチックといっていいような字義的なの聖書解釈で神を世界を歴史をそしてすべてを説明できるという壮大な勘違いに陥っているということだと思います。こうした西方キリスト教の逸脱の根本的原因をロスキーらは、フィリオクエによる3位一体理解の合理化とギリシャ哲学に無知だった西方のキリスト教が、スコラ神学に幻惑されて信仰を合理化してしまった結果だとして批判するわけですね。

53へっぽこ@神秘:2004/03/04(木) 13:21
>>「神秘に関わることを明文化していくと、原理化していくという光景は、
「論理」の世界では当然の現象とはいえ、わたくしは、正直そういうことには
もううんざりしていて・・・」
とおっしゃるのは、実は私も以前から同感です。「神秘に対して我々がなしえる
最大の冒涜は、神秘を説明し尽くしてしまおうとすること」だろうと、私は
10代の頃から考えておりますので。

*********
フランシスさま、>>52さま
へっぽこの突飛な思い付きですが、創世記第3章の、アダムとエヴァが犯した
”原罪”もこれに関連があるのかも?と感じました。
神は「知恵の木」からだけはとって食べてはいけない」と言われた。
これは、「神の領域に属する事を人間の知性で踏み込もうとした」
ことになるのではないでしょうか?
「バベルの塔」もまたしかり。

...難しいですねえ。神は人間の「知性」を否定する訳ではなく、
「何が正しいかをなぜ自分で考えようとしないか?」ルカ12:57
人間の知性を「完全なもの」と錯覚する事をたしなめているのでは?

逆に「理屈を言うな。ただ信じろ。」の思考停止教会も困ったもの
ですもんね...

54パンプキン:2004/03/05(金) 02:46
>chiaraさま

語りにくいことをお願いしてしまいまして、レスありがとうございました。
奥義だからこその永遠の美、そのあり方の美しさということなのですね。

ところで、一信徒として単純に疑問に思うことがあるのですが、

>しまいには、三位一体について膨大な論考があるという事実に、
>こりゃ〜生涯にかけて考え続けるに足る、永遠の課題かも。と、
>思ったのです。簡単に解答が出せるわけでない。と。

三位一体は簡単に解答が出せるわけではない、という間にも、chiaraさまは
実際に信仰をなされ、神に祈られているわけですが、祈っている間の、
その、なんといいますか、神様のイメージというものは、どうなって
いるのでしょう?
(これは、突込みではなく、単純な疑問と受け止めてくだされば、幸いです)

私自身は、「イエス=父なる神」の教会で生まれ育ったため、祈るときは
そういうイメージで、創造主なるイエスさまに向って祈るわけですが、
(つまり、私たちの理解を超えた神さまが受肉された形のイエスさま)
三位一体の場合は、またイメージが違うと思います。
慣れ親しんでいる神様のイメージが違うとなったら、それはけっこう
祈る上での問題となると思うのですが、chiaraさまもまた、神にちかず
こうとする探求の途上にあられ、祈り続けておられるということなので
しょうか。

あっこういうことに関して今は語りたくないようでしたらレスはパスして
くださってもOKですよ。
紹介いただいた本、洋書で(^^;チャレンジしてみます。

55パンプキン:2004/03/05(金) 02:46
>フランシス・ヒデさま、へっぽこさま

>「神秘に対して我々がなしえる最大の冒涜は、神秘を説明し尽く
>してしまおうとすること」

神秘に対しては、幼子のように素直にということですね。
ただ、幼子というのは騙されやすいもので(^^;いろいろな理論に
翻弄されて何がなんだかわからなくなってしまうということも
あるわけで、そういったとき、ひとり主の前に立って個人的な
啓示を受けられればよいのですけど、そこまでいかない人のため
に、神秘を説明してくれる人がいるとありがたいと思うことは
個人的にありますね。

私も、へっぽこさまと同様、「知恵の木から食べる」というのは
そのようにとらえています。
幼子のような(鳩のような)素直な信仰と、蛇のような聡さの
両立。難しいですね。

でも、少なくとも、最終的には、迷いに迷ったら自分の知恵に頼
らず、(教会にも頼らず)、(誰かの著作にも頼らず)、祈りの
中で主にのみ聞くという道が残されていますものね。
これは一般信徒にはなかなか難しいことですけど、いろいろな
考えに出会い、迷う中で、最終的にそこに導かれるのかもしれな
いですね。それだけが、「うのみ」でもなければ「自分の知恵」
にも頼り過ぎない、唯一の内的確信でしょうからね。

サンダー・シングのように「キリストの足下で祈りをささげる、
これこそ世界一偉大な神学校であります」と言い切れるように
なりたいものであります。

56パンプキン:2004/03/05(金) 02:47
ところで、ヒデさまはビーズアクセサリーを作られるのですか・・・
うらやましい!!ホントに多才な方なんですね。
うちは3歳の娘がいまして、カラスのように光りものが好きなので、
手芸店でビーズの本を見つけては「お母さん、こういうの作って!」と
せがまれてほとほと困っております(^_^;ご教授願いたいくらいです。
「祈りとの親近性」とは程遠い、俗な話ですんませんが。

57フランシス・ヒデ:2004/03/05(金) 07:37
パンプキンさま、

「神秘へのθεωρια」と「人間の理性の活用」とは、実は必ずしも矛盾する
ものではないと私は考えています。つまり、我々が我々自身の理性の限界を
見極め、「ヒトのロゴス」は何ができ、何ができないのかといった「理性自体」
への反省を絶えずともなうのが、本当の「理性」でありましょう。すると
ほぼ自動的に、「理性を超える何ものか」をも認めることになりましょう。

ははは、私もビーズはまだ日が浅く、あまり高度なものは造り方を知りません。
私が現在店に置いているのは、ネックレスやラリエット、チョーカーと
いった単純なものと、ビーズを編んで作るブレスレットやリング、造形性の
あるペンダント・トップなどです。たとえば、ブレスレットに立体的な「ビーズ
のお花」を組み合わせるくらいのことはできます。
ビーズつくりは掲示板で説明するのが困難なので、トップページ下のEメールで
そのお嬢様の求めておられるアクセサリーを具体的にお知らせくだされば、
それを私が作って送ることはできるかもしれません。(色、長さ、形状など
を簡単な図でお知らせくだされば)
あるいは、ご自分で基本的な造り方をお学びになりたければ、例の446様も
ビーズつくりがお好きなので、3人の主催によりでどこかで「ビーズつくりの
会」でもやればよいと思いますよ。お嬢様ももしご希望なら、ご参加いただいて
一緒に作るとか。(小さい子供は集中できる時間が限られていますので、飽きた
ときの他の遊びも用意しておく必要がありますが)
他にも希望者の方がいらっしゃれば、参加いただいてよいわけですし。
↑にも言及しましたが、beadsは祈りと親近性があります。そもそもアクセサリー
や衣服を人間が身につけるようになったこと自体が、「邪から見を守る」という
護符的な意味があるようですし。(私が研究したわけではありませんが、学者達
がよくそう言っています。)アクセサリーのモチーフにクロスやハートといった
ものが多いのも、どこかそれに関係するのか?とにかくキリスト教でも、
クロスだけでなくハートもよく使われる図像でして、たとえばアンティオキアの
聖イグナティウスのシンボルはハートとクロスが重なったものだったように
覚えております。
現代ではとかく「信仰」というと言葉だけの議論になってしまいやすいのです
が、そうした時代の中で信仰と「手作業」が結びつくことは有意義だとも
思えますね。

58へっぽこ@神秘:2004/03/05(金) 20:37
フランシスさま、chiaraさま、パンプキンさま
へっぽこは今日、世界祈祷日の合同礼拝に出席した後、
はり治療院(マイケル・ビターさまとご同業ですね)
に言って来ました。一回の治療でかなり楽になりました。
何と言うか、”神秘”を感じた思いがします。

西洋の合理主義...数字や理論で説明しやすい世界。
正教会の神父さまも、「西方の神学は論理的に判りやすいので、
東方は論争で負けやすい。”解かりやすい”の罠がある。」と
おっしゃってました。

医学の世界もまた然り。東洋医学は、経験の積み重ねによるものが多い
と思うので、学術的な説明が及ばない世界もあるのではないか?
先生は、Oリングテストで(これが不思議なんですよね)へっぽこの
体の弱いところを発見し、治療してくれました。精神的にも、
「鬱になりやすい人は、几帳面すぎることが多いので、几帳面の許容範囲を
広げるような治療をしましょう。」と言ってくれました。

不思議なことに、正教会=東方教会にお誘いした人(オペラ歌手の団体の方)
から東洋医療のクリニックを紹介して頂きました。東洋的な”神秘”の世界に
癒されるかも知れないと思っています。

...東方教会の”神秘”は、いわゆるカリスマ・ペンテコステ派の
いわゆる”神秘主義”とはまた違うものだと感じますが、いかがなものでしょう?

59名無しのひつじさん:2004/03/05(金) 22:18
>>東方教会の”神秘”は、いわゆるカリスマ・ペンテコステ派の
>>いわゆる”神秘主義”とはまた違うものだと感じますが、いかがなものでしょう?
  52だけど、カリスマ・ペンテコステ派の神秘は、プロの世界で信仰の合理化されすぎて、神秘が、なくなってしまったところに、神秘が、復活してきたということです。東方教会では、神秘が、歴史的に否定されたことは、一度もなかった。東方教会にとって、カリスマ・ペンテコステ運動の霊性は、非常に幼稚に見えるのではないかな。なにしろ、実質、死んでいたと思っていた神が、いやしなどの奇跡の経験を通じて実は、生きているということに気がついて、すごく興奮しているが、気がつくまでは、あなたたちは、一体何だったのという感じではないかな。修道者の教科書であるヨハネクリマコスの梯子でいえば、まだホント、スタート時点にもたってないんじゃないかな。
そんなわけで東方教会は、一般にカリスマ運動に懐疑的で悪い場合は、セラフィムローズのように悪霊のだまされているという見解です。禅でいうところの野弧禅という表現が近いかもしれません。正教会は、よくプロテスタントは、実質、受肉のドグマが、わかってない仮現論というに陥っているとはっきりいってますから、この見解も驚きあたいしないでしょう。ただ日本では、西洋程、意識の世俗化は、進行していないので、こうした議論にどれ程、意味があるかどうかは、わかりません。

60パンプキン:2004/03/05(金) 22:26
ぬおおお、「ビーズ作りオフ」!!
本気にしてしまいますよ(^o^)

詳しくレスする時間はありませんが、つい興奮してこれだけ書き込み
してしまいました。具体化することを願っております(^_^;

61へっぽこ@なるほど..:2004/03/06(土) 00:30
>>ただ日本では、西洋程、意識の世俗化は、進行していないので
なるほど...それで「日本人には東方教会の方が合っているんじゃないか?」
という考えも出てくるのですね...

62名無しのひつじさん:2004/03/06(土) 01:04
>>61
東方教会では、日本のプロの人が、なやんでいるような問題がみんな解決済みだよね。パニヒダの祈りで、死者のために、カト以上にしっかり祈っているし、神化の教説で、神にはなれるし、一度も終油の秘跡に退化しなかったいやしの機密もあるし、国のためには、聖体礼儀の中でとりなして祈っているし、自殺した人とか洗礼をうけない赤ちゃんは、地獄にいくとか離婚は、絶対ダメとか今も昔も断言しないし、原罪の理解では、人間に神の像は、瀕死の重傷だとしてもちゃんと残っていると楽観的で、マリアの無原罪とか煉獄とかカトのようにむつかしいこといわないしね。受難より変容に力点があって、聖人様が、血を流すよりも腐らないというのもいいよね。あんまり、勤労のエトスがないのと、無自覚のが、たまにきずだね。正教のよさをいうのは、たいていは、改宗者と他教派の人たちです。

63火の洗礼を祈る小羊:2004/03/06(土) 09:38
>>62
名無しさんに平和。なかなかお詳しいですね。正教は、近所にあれば行きたかったところなのですが、

1 終油の秘跡に退化しなかったいやしの機密 は効くんでしょうか
2 人間に神の像は、瀕死の重傷だとしてもちゃんと残っていると楽観的、これは神道でも、私もそう考えているのですが、キリスト教にそんな派があり、それが正教であったとは驚きでした、何か惹かれる理由もわかりました。

こうした知識は、早々得られないのでしょうが、お勧めの本などあれば、お教えください。

64名無しのひつじさん:2004/03/06(土) 10:58
>>63
1.いやしの機密で、実際の肉体的疾患が治ることも、期待されてはいるが、いやし自身が、しばしばカリスマ派にあるように目的とされていません。
2.この態度は、正教では、より明確ですが、カトでもそうですよ。逆に人間が、完全にダメになっちゃったのは、改革派以降のプロだけですが、日本では、キリスト教は、そう思われてますね。
この正教の人間論は、基本的事柄ですから、入門書には、必ず書いてあります。
世界的には、
Timothy Ware Orthodox Chruch  Penguin Books
John Menendorff Byzantine Theology Fordham University Press
Jarasnov Pelikan Christian Tradition Vol.2 The Spirit of Eastern Christiandom University of Chicago Press
が、最もよく読まれてますが、邦訳は、出ていません。
日本語では、
オリビエ クレマン 東方正教会 文庫クセジュ
高橋保行 ギリシャ正教 講談社
といったところです。

65名無しのひつじさん:2004/03/06(土) 11:45
>>64
Jarasnov Pelikan は、Jaroslav Pelikanが正しいスペルで訂正。

66名無しのひつじさん:2004/03/06(土) 16:11
>>64
Menendorffは、Meyendorff が正しいスペルで訂正。

67火の洗礼を祈る小羊:2004/03/06(土) 21:10
名無しのひつじさんに平和。

ありがとうございます。英語はまったくダメなので、日本語のほう買わせていただきますが、カトもそうなんですか。このあたりはchiaraさんの見解も伺いたいところですね。

68火の洗礼を祈る小羊:2004/03/06(土) 21:40
名無しの羊さんに平和。博学のところを見込んでお伺いしたいのですが、
福音派もけっこういいかな、と思うことがあるのですが、
「主イエス・キリストの身代わりの死のおかげで、主を信じる者はみな、罪をゆるされて義と認められ、神の子とされて罪の支配から解放されます。これ以外に救いの道はありません。」
この部分がどうもわかりません。この点についてどうお考えですか。

69chiara:2004/03/06(土) 22:26
少しダウンしていてご無沙汰してました。
フランシス様>
「神学も神を黙想する一つの手段である」とわたくしは考えます。
古代から中世にいたるまで、「神の前の謙遜」は自明の前提で、「神学」を行うというのは、
自己弁護ではなく、やはり真理への黙想の一つの手段として考えられていたと思うのですね。
「修道」という言葉が示すように、それは神への道行きの過程であり、神学はあくまで途上の
思考の結露だと思うのです。だからフランシスさんがおっしゃるあり方にまったく同意します。
パンプキン様>
>実際に信仰をなされ、神に祈られているわけですが、祈っている間の、
その、なんといいますか、神様のイメージというものは、どうなって
いるのでしょう?

そうですねぇ。私の神には抽象的な存在と具体的な存在とが混然としています。
映像化するのは難しいですが、「ただ在る」存在として、感じる時もあれば、人物の痕跡のような
そういう温度のある存在として「感じる」こともあります。だから「三位一体」を通じて無意識に
祈っているようです。それは父なる神としての超越する宇宙と、子なる神の温度ある人としてのみじかな
存在としての神という対話者とが同居してるんですね。神を感じるその「イメージ」はその時々で変化します。
・・・こんな感じでしょうか?

70chiara:2004/03/06(土) 22:43
火の洗礼を祈る小羊様>
しばらく沈黙していた理由の一つに、
教派のどうたらがどうしたということには一切興味がないからというのがありました。
どこが優れているとか、比較して語るとか、それで互いになにかをカテゴライズして批判する。
そういう光景は心が痛みます。事実としてどのような傾向があるということは語れますが、
どっちがよりどうであるとか、或いはどのようであるかとかは、そこに所属する個人個人で相当違います。
言語という不完全な表現で著さねばならない為に、同じことを指しているのに、言語定義が違っているに
過ぎないとしかおもえないものもありますし。
結局、傾向化を語ることでカテゴライズして、世界をわい小化して見てしまうこと程つまらない
ものはない。そう思っております。子羊さんにはそういう私の心理を判っていただけると思います。

さて、ご質問の件ですが、実はいまいちよく意味が判りません。σ(^^;
どーも、最近ぼっとしているので、むつかしいことが考えられなくなっている。

71火の洗礼を祈る小羊:2004/03/06(土) 23:12
chiaraさんに平和。そうですね。カテゴライズして、批判して、あまり意味のないことなのかもしれませんね。人間は弱いもので、何かカテゴライズされた中に入りたいという気持ちがあるのですよね。かくいう私も、スエーデンボルグ派の中にカテゴライズされています。
自分の考えを裏付けてくれるものを、納得できるものを探した結果なのですが。むつかしい事に関しては、単純なことほど難しいということはありますね。
子供のように、、、隣人を愛しなさい、、、単純だけど、簡単ではないですね。それを説明しようとすると、すごい難しくなりますね。単純に生きることの難しさ、という点からすると、ぼっとされるのもいいかもしれませんね。

72フランシス・ヒデ:2004/03/07(日) 07:48
69のchiaraさま、

ダウンされていたのに、お返事いただきありがとうございます。
ご体調はもうよろしいのですか?
主がchiaraさまのご健康を絶えず守ってくださいますように!

73フランシス・ヒデ:2004/03/07(日) 08:11
パンプキンさま、

「メイン」の掲示板に「ビーズ作りオフ会」のスレッドを立てたところ、船長様
から参加ご希望がありました。パンプキン様も参加していただけるようなら、
現時点で希望者3名ということになり、ビーズを作るといったオフ会には
適当な人数かと思います。(手作業ですので、一度に集まるのはせいぜい5人
程度までが限度かと思います。それを超えると、ビーズをやたらに多数用意
せなばならなくなります。)

もしよろしければ、「メイン」掲示板の該当スレッドに
御希望の日時や場所、
いままでのビーズつくりのご経験
ビーズで何をお作りになりたいのか
などをお知らせくださいね。

74名無しのひつじさん:2004/03/07(日) 11:34
>>どこが優れているとか、比較して語るとか、それで互いになにかをカテゴライズして批判する。
>>そういう光景は心が痛みます。
 わたしは、心が、痛まないし、むしろ人間は、比較を通して、より深い自己認識に至るというのが、歴史的事実で、それは、個人的心がけに還元できる程、単純な話ではないですよ。
 例えば、今日の西洋人が、西洋中心主義から脱却したのは、非西洋社会との具体的な接触の後でした。
 西洋人が、世界の歴史が、6000年以上だとわかったのは、中国やインドやエジプトとの接触の後です。
 イエズス会の中国伝道における儒教儀礼を尊重した態度は、200年以上たって、キリスト教以外の宗教の中に真理の種を見るという第2バチカン公会議の態度のさきがけとなった。 
 カトリックの典礼刷新運動は、比較宗教学から未開社会における宗教儀式が、深い意味を持っていることを 発見したことによってミサの意味を再発見したことにも端緒がある。19世紀の比較宗教学は、神の摂理であるとまでいっている。
 キリスト教の伝統の研究者のペリカンにしても、伝統の意義を未開社会における伝統の意味を明らかにした人類学者から多くを学んだと語っている。
 エキュメニカル運動を通じて、多くのプロテスタント諸派は、キリスト教の伝統を再発見し、古代信条の大切さを再認識し無意識で根拠なき反カトリック的傾向を反省した。  
 第2バチカン公会議に出席したペンテコステ派リーダーは、聖霊は、20世紀になってアメリカに戻ってくるまで、教会史から欠席したいたわけでなく、いやしなどの奇跡は、教会史を通して存在し続けていたことを発見した。
 ギリシャ正教の神学者たちが、正教の特徴をはっきり認識したのは、カトリック神学プロテスタント神学を十分学んだ後だった。例えばロスキーは、ジルソンの弟子。正教自身が、それまでの時代をWestern Capitivityの時代としている。
 ひつじのページの自己紹介のフランシスヒデさんの文章は、「心が痛む光景」のいい例。

75火の洗礼を祈る小羊:2004/03/07(日) 13:19
名無しの羊さんに平和。

真理追究タイプですね。今、自派でスエーデンボルグの著作を読み返しているところなのですが、
「善と真理」という考えがあって、真理に没頭してしまうと、善をほったらかしにする。真理ばかりが魅力的で、その結果、とんでもない錯覚に陥る。つまり真理を知ることによって、善もまた自動的に存在しているような錯覚、というのがあります。
かくいう私も「善」はほったらかしなのですが。

76パンプキン:2004/03/07(日) 14:14
>ヒデさま

>「ヒトのロゴス」は何ができ、何ができないのかといった「理性自体」
への反省を絶えずともなうのが、本当の「理性」でありましょう。

そうですね。当時の理性の頂点にいたニュートンのように、「私の知らない
ことに比べたら、知っていることは真砂のひと粒にも等しい」っていう
のが、本当の理性なんでしょうね。

ビーズオフ、実現しそうでワクワクしますね(^o^)
ビーズを教えていただける上に、ひつじの方々とお会いできる。
ひとつぶで二度おいしいグリコのようですね。
書き込んできますのでよろしくお願いします。

>へっぽこさま
私も子供は東洋医学系の小児科さんに通わせています。
強い薬を出しすぎないし、長い目で見て「病気でない」
ことよりもむしろ「健康であること」を目指している
のが、近視眼的でなくていいですね。

>chiaraさま

レスありがとうございます。
私は三位一体と自分の理解(神的三一性)との違いがまだよくわ
かっていないのですが、父なる神と子なる神の同居というのは、
なんか感覚的には私自身の場合とそう違わない感じがしました。

77名無しのひつじさん:2004/03/07(日) 15:28
>>75
 「善と真理」の教えは、スウェデンボルグの西方キリスト教に対する痛烈な批判だと思います。スウェデンボルグが、生きた時代の17世紀の宗教戦争のできごとは、真理を追究して善を忘れた最もはなはだしい例で、そのあまりにも醜悪さに人々が辟易した結果、人々の主要な関心は、宗教的なものから科学技術的なものに移行し西洋社会は、世俗化したといっているのは、トインビーです。私は、元プロのカトとして、その負の遺産を受け継ぐものですが、正教では、よく言われる「祈る人こそ、真の神学者である」、「行いをともわない教えは、悪魔の教えである」、”Lex orandi, lex credenti”(正しい礼拝が、正しい教義につながる)を自戒の言葉とし、現教皇が、キリスト者には、二つの肺(東方キリスト教と西方キリスト教)があり、キリスト者は、二つ肺で呼吸しないと健康になれないとの言葉を真剣に受け止めるものです。

78火の洗礼を祈る小羊:2004/03/07(日) 16:07
名無しのひつじさんに平和。
なんでもご存知なんですね。
「行いをともわない教えは、悪魔の教えである」、”Lex orandi, lex credenti”(正しい礼拝が、正しい教義につながる)。現教皇の言葉もいいですね。
そんないい言葉があるんですか。現代のカトはスエーデンボルグが批判したものとは、かなりかけ離れてきているんですね。大変勉強になりました。
固定HNがないのが非常にもったいないところですね。

79へっぽこ@素晴らしい!:2004/03/07(日) 20:37
>>現教皇が、キリスト者には、二つの肺(東方キリスト教と西方キリスト教)があり、
>>キリスト者は、二つ肺で呼吸しないと健康になれないとの言葉を真剣に
>>受け止めるものです。
素晴らしい!やはりヨハネパウロ二世は、教派を超えて尊敬できる方だと
改めて思いました。

>>固定HNがないのが非常にもったいないところですね。
へっぽこも小羊さんと同感です。是非コテハンにて
常連になって頂きたいなあ!

800990:2004/03/07(日) 20:42
 神様は、たしかにわたしはあると言う方です。イエスキリストを通じ、いつでもおいでになると精神的安心感は、三位一体の本質では?

81名無しのひつじさん:2004/03/08(月) 00:07
>>現代のカトはスエーデンボルグが批判したものとは、かなりかけ離れてきているんですね。
ネット上にもあふれているカト批判の多くが、カトの教えを正確に把握した上はなされるよりは、自分たちが、カトの教えだと思うことに対して向けられている事が、多いんですが、私も大学生の時、カリスマ系福音派だった時は、カトは、カルトだと平気で言ってましたよ。

>>やはりヨハネパウロ二世は、教派を超えて尊敬できる方だと改めて思いました。
たぶん、みんさん、知らないと思いますけど、カリスマ系福音派には、霊的戦いという運動があって、その中で過去に自分たちの信仰の父祖が犯した罪を自分の罪として神の前に認め告白し、神にその罪からの解放と癒しを祈り求めるという運動があるんです。メインの掲示版で話題のマルコーシュは、霊的戦いの運動に関する本を出している出版社として、カリスマ派福音派の世界で知られています。その世界的なリーダーの1人であるジョンドーソンも、意外な教派的な位置からヨハネパウロ2世は、自分のリーダーだと言っています。
私も現教皇の強いイニシャチブが、働いた「記憶と和解 教会の過去の種々の過失」(教皇庁国際神学委員会 2000年3月)という文書が、出たときにこの文書は、おそらく福音派カリスマ派の霊的戦いの運動をしている人達が、読めば驚いて高く評価するだろうなと思いました。この文書は、カトリック中央協議会から邦訳が、2002年の2月に出てますので、カトリックに関して「ユダヤ教徒に対する差別や、国家権力との癒着、宗教戦争、異端審問、十字軍の歴史」の問題を指摘している羊の関係者にも、意味のある文書だと思います。

>>固定HNがないのが非常にもったいないところですね。
通りすがりのカトのものですので。実は、10年以上前に見知っていてあぶないと思っていた主の十の関連でこのページを発見しましたが、フランシスヒデさんの自己紹介のページの趣旨は、カトに帰順する前の自分のスタンスに非常に近いものを感じました。

82名無しのひつじさん:2004/03/08(月) 00:32
>>81
「記憶と和解 教会の過去の種々の過失」は、
「記憶と和解 教会と過去の種々の過失」に訂正。

83chiara:2004/03/08(月) 14:30
名無しのひつじ様>
心が痛む光景は、互いのことを知らずして「相手がこうである」との決めつけ。つまり相手の
スタンス、もしくは歴史的経緯を無視した、無知から来る批判合戦のことです。
それはカト、正教、プロテスタント諸派それぞれに所属する人々の中に内在する光景で、
知に対する誠実さからもたらされる「批判」とは異なる態度のことです。
神学が確立されていく経緯における「知への誠実」は神という「超越する真理」への謙遜から
来る態度によって形成されていますから、そうした光景を指して心が痛むとは思いません。

批判は自分に対しまず向けるのが妥当であると思っています。
外部に向ける場合は、それが傲慢から来るものである場合が多いです。
ですが、自己が信じるものへの表明であるがゆえに行わねばならない場合もありますから
その、見極めは難しいでしょう。

まぁ、わたくしは中世の神学のあり方が好きなもんで、なんでもありな状況で組んず解れつやってた
のが一番面白いと思っていますね。近代のはどうもそれぞれが一本化しようとしていて無理を感じるです。
そのあたりをもう一度シフトし直すのがエキュメニズムの見える先でしょうね。
「教会」というカテゴリは特定教派に限定されるものではないですから。
「和」ではなく「個の尊重の認めあい」の中で、もういちど様々な個性が混在する「教会」の人々が
一致するということだとは思いますけれど。(アウグスチヌスが教会が分離するのが一番罪だと思って
たのはまさにいい得て妙)そういう場合、批判する相手もまた自分の兄弟だと自覚しながら行うわけで。
批判する以上、批判対象に責任を持つ態度が要求されるのですし。

84chiara:2004/03/08(月) 14:48
パンプキン様>
>私は三位一体と自分の理解(神的三一性)との違いがまだよくわ
かっていないのですが、父なる神と子なる神の同居というのは、
なんか感覚的には私自身の場合とそう違わない感じがしました。

同居というよりは、そのものなのですね。 常に同じだけど違う。

で、そういう感覚を、つまり神の存在のあり方をロゴス化しようとした結果「三位一体」が
導き出されたわけです。
なんでも言語化しようとするのは神秘の前には空しいかもしれないですが、それでも明快にしようと
し続ける態度は大切だと思います。

85へっぽこ@ひょっとして...:2004/03/08(月) 15:12
ひょっとして....
プロからカトに替わったといわれる名無しさん
「聖書の呼ぶ声」江礼さんだったりして...

86名無しのひつじさん:2004/03/08(月) 18:53
>>83
>>アウグスチヌスが教会が分離するのが一番罪だと思ってたのはまさにいい得て妙
  この言葉は、近代プロにとっては、えらく傲慢にひびくのかもしれませんが、教会を神秘とするカトや正教にとっては、ホントにそうですね。日本人は、もともと神社を教義の違いでわけるという発想は、まったくないし神秘に関する感覚を失っていないから、この考え方を受け入れる素地は、十分あると思うけど、近代プロの神学教育受けた人たちは、逆に日本人の中でも魂のかなり深いところから近代化が、進んでしまった、キリスト教にはなったが、ある意味、神秘から最も遠のいてしまった人たちかもしれません。
Chiaraさんは、元プロのカトですか?しかもHNからすると女性ですか? わたしの指導司祭は、Chiaraさんが好きな中世哲学が専門ですよ。


>>85
まったく違いますよ。「聖書の呼ぶ声」江礼さんの名誉のために。

87へっぽこ@失礼しました:2004/03/08(月) 19:30
>>まったく違いますよ。「聖書の呼ぶ声」江礼さんの名誉のために。

失礼しました。
しかしこれほどの解説ができる方ならば、
へっぽこが尊敬する江礼さんも、決して気を悪くされないと思います。

>>日本人は、もともと神社を教義の違いでわけるという発想は、
>>まったくないし神秘に関する感覚を失っていないから、
>>この考え方を受け入れる素地は、十分あると思うけど
皮肉なものですね。それで、カトやオーソは日本では
プロよりもいっそ他の宗教の方が対話しやすいということが
起こり得るのですね?

88名無しのひつじさん:2004/03/08(月) 20:12
>>それで、カトやオーソは日本ではプロよりもいっそ他の宗教の方が対話しやすいということが起こり得るのですね?
 これは、特にオーソでは、そうですね。オーソは、自分の文明圏の中では、内発的な近代化を経験していないですから。高橋保行神父は、「日本が、明治の時代から近代化、西欧化して、そのまま西欧の歴史を自分たちの過去の歴史としていった時に、今度は、正教会がそれにどのように対応していかなければならないかと言うと、はじめて西のキリスト教と出会わなくてならなくなってくるということです。」とシンポジウム 教会論 (東神大 パンフレット19 1979年)で述べていますね。
カトは、自分の中からプロが、でてきた背景があるから、オーソに比べるとプロのことは、比較的良く見えるんです。10年以上前、ニコライ堂の伝道会に出席していたら、神父さんと信徒さんが、ルーテル派と改革派以外のアメリカ生まれのプロテスタント諸派は、本当にキリスト教かどうかどこで線を引くべきか、議論していて、とても肩身の狭い思いをしました。当時、日本の正教会では、ルーテル派、改革派以外のプロが、改宗するときは、再洗礼をしていたと思います。

89chiara:2004/03/08(月) 22:03
名無し様>
わたくしは無教会からカトというほうが正しいかも知れませんが、洗礼はカトリックです。
ですがキリスト教には子供の頃から馴染んでいましたし、かなりエキュメニズムな環境を
通り抜けてきたので、それぞれの立場を理解は出来ます。

教会の分離は、例えばルターが発端ですが、彼はそんなこと望んでいなかったはずで、
(なんせ「アウグスチノ会の修道士だもんあぁ・・・)、結果としてそうなって
しまったということでしょうね。当時のローマが馬鹿だったともいえますし、ルターを利用した
世俗の思惑(世俗権力の駆け引き)の大きさは、歴史的必然として仕方ない、回避出来ないことだったと思います。

そう考えて、今のキリスト教のあり方に立ち返れば、むしろ様々な教派が、キリストによって一致する「教会」を
為していて、互いの個性を認めあう。というそういうあり方で交流していくのがいいと思うんですよね。
個は個で尊重し、自負を持つのを妨げないならば、それでいいんだと思うんですね。
寧ろ全ての教派を超越する「教会」というキリストの身体について考えたい。というのが今の心情です。

90火の洗礼を祈る小羊:2004/03/09(火) 06:14
名無しさんに平和。
博学なところと、もとカリスマ派福音派という経歴でお伺いしたいのですが、今、神学校に興味を持っていまして、どうせ学ぶのであれば、なかなか独学できないこと、ということで、
福音派カリスマ派聖霊派などの霊的癒しと悪霊追い出し、ということに注目しています。私も、神への愛・隣人愛が一義で、こうした奇跡のたぐいは二義的なものという理解はあるのですが、いざ、当事者となるとそうとばかりも言っていられなくなりますよね。
そうした、カリスマを追求する事の危険性や注意点、あと検索していたら「国際福音神学校」というのが出てきたのですが、大丈夫なのかどうか、またお勧めの神学校などありましたらお教えください。

それと、私はマリアワルトルタのイエスさまも好きなのですが、バルバロ神父はカトリック司祭でしたが、ワルトルタのカトリックでの位置付けとスエーデンボルグ・ワルトルタなどの啓示やカトリックでも真とされた出現、などについて、カリスマなどと関連して個人的感想などもよろしければお聞かせください。

91パンプキン:2004/03/09(火) 23:57
>chiaraさま

>同居というよりは、そのものなのですね。

この部分を聞いてちょっと安心しました。というか、基本的に同じなのだけど、
「同居」という表現を使うところが、もしかして違いなのかな?とか思ったもので。

人間のイメージを超えるものを説明するとき、人は「喩え」を用いますよね。
「三位一体」にも「神的三一性」にも、さまざまな喩えがあてはめられていると思います。
それはあくまでわかりやすくするためであって、喩えは喩えにすぎないのでしょうが。

それで、「神的三一性」の喩えでは、例えばサンダー・シングは「父なる神=根源なる
太陽、イエスさま=光(人間の目に把握できるもの、照らすもの)、聖霊=熱(生き物を
生かすもの)」というような喩えをひきます。また、スウェーデンボルグは、「父なる
神=霊魂、イエスさま=肉体、聖霊=働き」と喩えています。うちの教会でよく説明
してもらったのは、「父なる神=電気エネルギー、イエスさま=電球(目に見えない
エネルギーを、形に表すもの)、聖霊=光(作用、働き)」という喩えです。
どれも、太陽であり、人間であり、電燈であり、それらは別々のものではなく、ひとつ
のものです。
そういうのが神的三一性として、教えられました。

で、「三位一体」なんですが、三位一体の教会でそういう教義を教わったことがまだ
なく、「神的三一性から見た三位一体」しか知らないのです。ネットで見つけた「喩え」
は以前紹介されていたN教会のもので、「牧師さんは3つの顔を持っている。父、牧師、
夫」というものでした。しかしこれは、人格がひとつですから、この通り解釈すると、
これは三位一体ではないですよね。
chiaraさまは何かわかりやすい喩えをご存知でしょうか。
(ネットで「三位一体」を調べると
>三位一体論とは、「父、子、聖霊は、それぞれ別の人格であり、互いに会話し、
働きかけあうことができる」とするものです。
という説明があるのです)

私がこれまで接してきた「神的三一性から見た三位一体」というのは、かなり漫画チック
なもので、父なる神さまの右側に椅子があって、そこにイエスさまが座って、人々を
とりなしているというものなんです。そしてそこに聖霊さまがいて、命じられると、
出て行って、行動してくるというものでした。

chiaraさまが避けようとしておられる「細かいこと」に入ってしまって恐縮なんです
が(^^;、批判するためではなく、三位一体論から見た三位一体を知りたいということで、
もしよろしければ。

92chiara:2004/03/11(木) 00:13
パンプキン様
三位一体は、父、子、聖霊という具体的な位格がもうけられていますが、
実際のところ地上の事物に置き換えられるのは、子のみではないかと、
だから他の地上の事物(それが目に見えない電気であっても)置き換えるのは困難だなぁとは
思いますね。かなり抽象的な存在ですし。
なんというか位格を「ペルソナ」と表現するので勘違いしやすいかもとは思いますが、表象的には
相が違うし、イエスが神を「アッバ」と呼びかけている光景はキリスト教の要でもあるし。
例えるなら・・・ハンドル名を三つもって自作自演してる人とか。。。爆)
人格が一つでいいはずですよ。本質は同じ。同質なわけですから。
というかここでいう「人格」がなにを指すかという定義から始めないと齟齬が生じるとこかも。
「唯一の本質と三つの自立存在」という発想はギリシャ哲学的思考から誕生したモノですが、
最近はまた色んな三位一体の解釈を(唯一本質、三つの自立存在がベースになってはいる)
してる人がいて、バルタザールという神学者は「愛」という観点からそれを通じたあり方で
示そうとしたり、モルトマンをはじめとする神学者はそのイエスの十字架を通じた「愛」の
あり方で示そうとしたり、こういうのは中世でも「他者に与えるという愛」という形を
父と子と聖霊ではそれがどのようであるか、ということをぐちゃぐちゃ考えていた人がいて、
つまり、互いの関係性の作用の中から、逆に三位一体をあきらかにしようとしてるやりかたを
してる人々もいますね。この場合は神そのものより、三位相互の作用に着目して、証明を
行うという方法のようです。
・・・・・・つまり、偉い学者さんもこのようにすごい苦労してるみたいで、
一介のへなちょこ信者のわたくしなんぞが喩えたくとも喩えられない難しい事柄です。
先に書いた「ハンドル名の自作自演」だって、やはりちょっとつっこみ入れたら違うような・・・。

93chiara:2004/03/11(木) 00:23
しかし、イエスの人性と神性とか、或いは聖体の聖変化における聖体のありようとか、
みんな三位一体と同じ構造を持ってる、激しくなぞ〜な、形而上と形而下の一致というか、
また、地上の事物における、聖霊の働きの様相なども含め、やはりギリシャ哲学な頭脳がないと
さっぱりなんのことやらな、課題ではありますね。
ただ、この世で出会うこと、神との出会い、私自身に働き掛ける神のロゴスについて、
考えるにつけ、三位一体というのは、やはり「唯一の本質と自立する存在、三にして一、
一にして三」ということに思い至る場合が多いです。具体的にどうというのは今思い出せませんが、
例えば、「旅する教会」などという表現に示される様相なども、それに通じていくような・・とか。

うーん。やはり神秘についてはうまく説明が出来ないよぅ。

94パンプキン:2004/03/13(土) 03:06
>chiaraさま

説明ありがとうございました。
うーん、「神的三一性」と「三位一体」の違いは「三人格」(三神論)と「一人格」(一神論)
の違いだとこれまで単純に理解していたのですが(そういう説明文もあるし)、「人格」の定義
がミソのようですね。

ネットで見た説明では
http://monsite.ifrance.com/EPIPHANIA/Cours/Cours26.htm

>サベリウスSabellius派…(中略)「一体」すなわち、唯一の神を強調する余り、父と子と
>聖霊は神さまの三つの姿にずぎないとする。同一の人格が、父でもあり、子でもあり、聖
>霊でもある。神は世と教会の中において、様々な関係の中でご自身を顕現されるが、父、
>子、御霊とは、そのような様々な関係を表現しているのである

と書かれた後で
>これは、けっして三位一体論ではありません。三位一体論とは、「父、子、聖霊は、それ
>ぞれ別の人格であり、互いに会話し、働きかけあうことができる」とするものです。

と解説がしてあります。
そこで三位一体を表現する方法が過去にさまざまに試みられたとして、

>三人の人物像…父と子と聖霊をそれぞれ独立したペルソナとして表現している図像で、イコンにも見られる。
>10世紀以降、聖霊を人物で表現することは禁じられたため、ハトの姿で表されることが多い。

というのも実際にあったようです。これが私が教えられた三位一体の漫画チックなバージョンですね。

これは、chiaraさまの理解とは、異なっているでしょうか?

過去に、クリスチャンの友達と話をしていて、「三位一体のことを知りたいなら、うちの牧師さんに
聞けば。」と紹介してもらって質問に行ったとき、その牧師さんは、「人格はひとつだと個人的には
思っています」と答えられて、「あ、この牧師さんは神的三一性なんだ」と思ったものです。
でも、厳密な「人格」の定義がなされていないと、もしかして私の誤解だったかもしれませんね。

どうも、はっきりした違いがよくわからないのですが、
私の持論としては、「三位一体は、キリスト教の最低ドグマではない」というものがあります。
「キリスト教かそうでないかを分けるものは、三位一体ではない」という意味合いで。
まあ、そうじゃないと自分の信仰はキリスト教ではないことになっちゃうこともありますが(笑)
あの世の問題と同じく、死んでみればわかることで、祈りに応答して感じられる神さまの姿を大事に
していけばいいのじゃないかと。
神秘を言語化する努力というものはもちろん否定しないのですが、それを分裂の基準(へっぽこ
さまのおっしゃる「リトマス紙」)にしちゃうことには、どうも不満・・・なのですよね。(笑)

95chiara:2004/03/13(土) 11:28
パンプキン様
例えばユニテリアンなども三一論は持たなかったと記憶します。
彼等はキリストの神性を否定しています。
では彼等がキリスト教徒ではないと言うかというと「そうではない」と私は思います。
かなりリベラルなクリスチャンでしょう。歴史的にみれば、メルヴィル、ホーソンなどが
この教派ですが、彼等がキリスト教的視点を持っていないなどと評価する人はいないでしょうね。
予定説を採択せず、万民救済説を採る為に、長老改革派からの転向者が多い。
非常にリベラル且つグローヴルな思考で、教派に固執しないという姿勢があり
宗教右派的原理主義とは対極にあるのですが、こういうのもアメリカ独自の風土が産んだのかもしれません。

96タチバナ@灰羽連盟:2004/03/13(土) 13:09
三位一体のたとえとしては古くは、アウグスティヌスが「愛するもの」「愛されるもの」「愛そのもの」という例を出してます。「三位一体論」だったと思うが、10年くらい前に読んだのでよく覚えてない。

どうでもいいが三位一体論の文脈でpersonaを「人格」と訳すのは誤訳だと思うが。かといって「位格」じゃなんのことかわからんけど。まあ、定訳なので。

97タチバナ@灰羽連盟:2004/03/13(土) 13:35
>>94
>私の持論としては、「三位一体は、キリスト教の最低ドグマではない」というものがあります。
>「キリスト教かそうでないかを分けるものは、三位一体ではない」という意味合いで。

私は三位一体はキリスト教の最低ドグマ(←どういう意味だ?)だと思いますよ。
ユニテリアンは理神論から生じたはずですが、この勢力がキリスト教の列に加えられた経緯には歴史的あるいは政治的なものがからむのでしょうが私にはよくわかりません。
しかし、圧倒的に少数派であり、主流派が三位一体を堅持している以上、やはり、「三位一体」はキリスト教と非キリスト教を分けるメルクマールでしょう。
だいたい三位一体がそうでないなら、どこで分けるのでしょう? 三位一体とりわけイエスの神性の肯定は、他のセム一神教(ユダヤ教とイスラム教)とキリスト教を分かつ重大な特徴だと思いますが。

98chiara:2004/03/13(土) 14:04
タチバナ様
確かに教義を論理的に突き詰めればそのような線引きが有効でしょう。
しかし、前提が違うとその線引きも変容します。
例えば「なにから源泉を得ているのか」という流れからするならば
私自身は古代の「異端」から、現代の「異端」と呼ばれるものまで包括し得ると考えています。
暴力的にいえば、「ユダヤ教から派生した宗教であり、イエス・キリストを通じて思考する
宗教である」とかね。そういう定義だと、もうかなり幅が広くなり、
多くのクリスチャンが認めない、エホバの証人だってその範疇にはいることになります。
ここの線引きがまことに感情によって為されている光景の方が変だなぁと思いますね。
ユニテリアンはオッケーでエホバは駄目とか。

つまり線引きをどこに据えるかのか?で、キリスト教のどこにもっとも魅かれたのか
という自分自身の価値すら浮き彫りになるかも。

99パンプキン:2004/03/15(月) 08:47
>タチバナさま、chiaraさま

>三位一体とりわけイエスの神性の肯定は、他のセム一神教(ユダヤ教とイスラム教)と
キリスト教を分かつ重大な特徴だと思いますが。

そこなんですよね。アラーを礼拝していればイスラム教、とか普通は考えるのに、キリスト
を神として礼拝していながらキリスト教ではない、というのはどうも変だなという思いが
あるんですよね。異教なら異教でいいんですけど、キリスト教ってイエスさまを神様と
している宗教じゃないんかい?とか、普通思いますでしょ。なんで線引きが「三位一体」
なのかと。

私の理解では、「三位一体」はアリウス派などが出てくる中で、いかに「キリストの神性」
と「唯一神」の神学を両立させるか。そういうことで定義されてきた神学だと思っている
のですが、その両立のさせ方は一通りではないわけです。
「三位一体」はその両立のさせ方の、ある一例に過ぎず、それ自体に固有の(特殊な)
概念を含んでいます。
なので、それ自体を「キリスト教であるかないか」の線引きの基準としてしまうことで、
イエスさまを神様と礼拝しているのに、また神は唯一であるとしているのにもかかわらず、
「キリスト教でない」とされるものも、出てくるのです。
「三位一体の否定」はイコールイエスの神性の否定ではなく、三位一体という固有の
解釈に対する否定に過ぎない場合もあるのですし。

>暴力的にいえば、「ユダヤ教から派生した宗教であり、イエス・キリストを通じて
>思考する宗教である」とかね。

これ、面白いですね(笑)私はこれでもいいような気もしますが。
というか、その団体が「キリスト教」を自認したいならば、別に邪魔することはない
だろうと。
なぜキリスト教とそうでないものの線引きというものに、学者がこだわるかと言うな
らば、おそらくはこれから入信する人が「どれに入ったら安全か」(どこならちゃん
と救われるか?)というようなことからではないかと、想像するのですが、それなら
それで、正統派でもカルトがあることですし、そういうことを心配する学者さんたちは
がんばって各宗派の教義(主張)の比較リストのようなものを作って出版してくれれ
ばいいのではないかと思うのですね。
もっとも、どこの立場にも与しない公平な資料を作るのは至難の業でしょうけどね。
そういう意味で、フランシスさまのような立場の方は、貴重ですが。

100パンプキン:2004/03/15(月) 08:47
>つまり線引きをどこに据えるかのか?で、キリスト教のどこにもっとも魅かれたのか
>という自分自身の価値すら浮き彫りになるかも。

chiaraさまの書かれたこのことはとっても大事なことだと思えます。
ひどく感傷的な話で恐縮ですが、先日NHKで「ジャンヌ・ダルク」のドラマをやってました。
当時の異端審問の司祭たちは、字の読めないジャンヌに二重証文をつきつけて署名させたり、
男装をしないと誓わせながら、夜な夜なジャンヌを陵辱させるためにイギリス兵を送り込んで、
身を守るために再び女装したころあいをみはからって(それが策略だったらしい)、証文に
違反したとして火刑に処したというのをやってました。
その司祭たちが三位一体を信じているからというだけで「真に」キリスト教徒であるという
なら、キリスト教にカテゴライズされることに何の意味があるかと思うと、何の意味もない
なあとは思うのですが(笑)、やっぱり「線引き」以前に、ホンモノの宗教であるかどうか
の基準は自分的には「律法(誠実と正義と憐れみ)」と「神への信仰」かなあというものが
あります。エホバの証人の人たちがそれを満たしているなら、キリスト教とカテゴライズさ
れても、(カルトの問題を別にすれば)別にいいんじゃないかと私は思ったりしています。

まあ、chiaraさまとのやりとりで、三位一体とは神的三一性の立場から見るほど、そう
単純なものではなく(過去に実際3人の神を想像していた人がいたとしても)、もっと
神秘的な奥義なんだろうなということは文面から伝わってまいりました。もしかして、
個人レベルでは、根っこの部分でそう違わないのかもです。

「人格」の概念ですが、ギリシャ哲学的な頭脳がいるとのことでしたが、
誰を読めばいいとか、そういうのはありますでしょうか?
個人的に追求していきたい問題ですので、もしわかりましたら。

101タチバナ@灰羽連盟:2004/03/15(月) 09:31
>>99
>なぜキリスト教とそうでないものの線引きというものに、学者がこだわるかと言うな
らば、おそらくはこれから入信する人が「どれに入ったら安全か」(どこならちゃん
と救われるか?)というようなことからではないかと、想像するのですが、それなら
それで、正統派でもカルトがあることですし、そういうことを心配する学者さんたちは
がんばって各宗派の教義(主張)の比較リストのようなものを作って出版してくれれ
ばいいのではないかと思うのですね。

いや、だからそこが違うんだな。
学者が「キリスト教」の定義を明確にするのは、そうしなければ概念が曖昧漠然となって役に立たないからです。そこには別に道徳的価値判断は含まれていない。
それゆえ、教義上完全に「キリスト教」であってもカルト的な教会は存在しえるんです。
つまり、論理的・言語的レベルと道徳的・政治的レベルは区別すべきなのですが、議論の際によくこれが混同されているわけ。
すでに昔の「異端」の話でも私はそこんとこをくどくど説明したわけなんですが・・

102chiara:2004/03/15(月) 17:02
パンプキン様
タチバナさんも指摘していますが、正統派などと自称したり、或いは老舗でも、トンでもない
人々がいるのは確かですが、学術的な線引きはそういうモラルではないもので別れます。
「カルト」という線引きでは、三位一体論の採択の是非などなんの意味も持ちません。
「キリスト教」という定義の話ですから、「カルト」の定義ではないのですね。
むしろ、このサイトの意図は三一論&キリストの神格=人格を採択しながら、
「カルト」である教会への批判でしょう。

ところで話が脱線しますが、映画のジャンヌ・ダルクの異端審問はかなり脚色が為されている
でしょうが、イギリスとフランスの政治的駆け引きの中で起きた出来事です。戦争責任を彼女に
かぶせる為に政治家の思惑が働いたわけです。手先となった聖職者はギョーカイ用語の「大罪」
を犯したわけでございますね。教会が国家権力とともにある、もしくはその下にあるというのは、
まこと宜しくない。
彼女をしたっていた貴族に、青髯ジル・ド・レエがいたというのもすごいなぁ。
彼女の処刑にショックを受けておかしくなったとしか思えない。

103chiara:2004/03/15(月) 17:10
>「人格」の概念ですが、ギリシャ哲学的な頭脳がいるとのことでしたが、
誰を読めばいいとか、そういうのはありますでしょうか?
個人的に追求していきたい問題ですので、もしわかりましたら。

「キリスト教東方の神秘思想」ロースキィ 勁草書房
「個の誕生」坂口ふみ 岩波書店

わたくしは中世哲学の教授から、上記二つを勧められました。
前者ロースキィはこのスレでも度々触れられています。
後者坂口ふみの著作は「ヒュッポスタシスとペルソナ」という位格を巡る問題について
かなりの頁を割いて論考しています。
東方と西方の違いなどが浮き彫りになるかも知れません。お勧めです。

104パンプキン:2004/03/16(火) 17:47
>学者が「キリスト教」の定義を明確にするのは、そうしなければ概念が曖昧漠然と
>なって役に立たないからです。

そういえば、異端のスレッドありましたね。以前熟読しましたよ。
おっしゃることはわかるつもりですが・・・まあ、タチバナさまが神学者なら、
純粋に、そうでしょうね。
実際神学者たちが、キリスト教の定義をする際「他の人が惑わされないため」
という神学上の正しさを意識しなかったといえば、それには懐疑的ですが(^^;

ともかく、三位一体は細かい教義だけに、それを外れる教義が「異端」である
ことには納得できても、「異教」にはどーも納得できないものがある、と
いうことですね。
異端は単に、正統派教義を部分否定しているということですが、異教には、
イエス・キリストに対する信仰を否定しているというイメージがあり。

まあ、その線引きで私自身どう変わるということは全くないので、どうでもいい
といえばどうでもいいのですけど、やっぱり初めてキリスト教を学びたいと思う
人にとっては、はじめから勉強の対象外になるだろうしなあ・・・。

>chiaraさま

NHKで紹介されていたジャンヌ・ダルク(映画からの抜粋と、解説)によると、
異端審問から火刑に至る経緯は当時の証言の資料に基づいているそうですよ。
ジャンヌの死後25年してから集められた証言を基にもう一度裁判が開かれ、
教会は当時の宗教裁判の誤りを認めたそうです。
まあ、もちろん、当時の特殊な状況下での、聖職者の堕落とも結びついた、
不幸な出来事だったわけで、そんなことを引き合いに出したものだから、
言いたかったことが却ってピンぼけになってしまいました。

えっ青髯って・・・そうだったのですか。
びっくり。

本の紹介ありがとうございます。
ロースキィはもうじき読めるはず。
個の誕生は、探してみますね。

105名無しの神学さん:2004/03/26(金) 09:28
>>102
> 彼女をしたっていた貴族に、青髯ジル・ド・レエがいたというのもすごいなぁ。
> 彼女の処刑にショックを受けておかしくなったとしか思えない。
ド・レは、指揮官としては有能だったという説と無能な権威主義者だったという説
がありますね。いずれの立場からしても認められているのは、戦場では勇猛に戦っ
たという点。だとすると、彼は、サディスティックな欲望を、戦場での殺戮によっ
って解消できなくなったから、子どもの虐殺に走ったのではないでしょうか。ある
いは、ジャンヌをしたったのも、その頃英仏間の戦闘は非常に沈滞しており、そこ
に無茶な戦闘の機会を彼女があたえてくれたからなのかもと思いました。

106chiara:2004/03/26(金) 10:33
>>105
ド・レエは当時よくあるいわゆる軍人で、戦争に生きるしかない職務の人だったことは確かですね。
サディズムを戦争によって満たしていたのは彼だけではなかったのでしょうが・・・
例えば、十字軍やレコンキスタ運動の一つの目的に傭兵達のエネルギーのはけ口を用意
しなければならなかったという側面もあったらしい。今からは考えられない発想だが、平和時と
なるとそういう傭兵が強盗化して深刻だったとかあったらしいですね。
おっしゃられる通り、レエの場合、それが領地内に向かったということかもですね。
かなりの名門貴族であり、英仏戦争で活躍したはずでありながら、内に篭ってしまったその心理
は不可思議です。

107名無しの神学さん:2004/04/05(月) 11:24
>>50
> フィリオークエ は,ニカイアコンスタンティポリス信条が定式化されたあと,
> ローマカトリックが,勝手に挿入したというのが通説です(AD600年ころらしい)。
> これは,「アディアフォラ」では済まされない問題であるとは思います。
西方では教皇の教導権を根拠に挿入を正当化し、東方は第二コンスタンティノープ
ル公会議だかでの「既に論ぜられし議定に改変を加うるべからず」との条項を元に
批判するのですが、困ったことには東西教会共通で使用しているカルケドンのどこ
かの文言が改定されているらしいのです。なので、一概になにが改変にあたるのか
定まらないので、かならずしもローマ教会が誤謬とはいえないようです。

108名無しの神学さん:2004/04/05(月) 11:33
>>97
> 私は三位一体はキリスト教の最低ドグマ(←どういう意味だ?)だと思いますよ。
> ユニテリアンは理神論から生じたはずですが、この勢力がキリスト教の列に加えられた経緯には歴史的あるいは政治的なものがからむのでしょうが私にはよくわかりません。
> しかし、圧倒的に少数派であり、主流派が三位一体を堅持している以上、やはり、「三位一体」はキリスト教と非キリスト教を分けるメルクマールでしょう。
> だいたい三位一体がそうでないなら、どこで分けるのでしょう? 三位一体とりわけイエスの神性の肯定は、他のセム一神教(ユダヤ教とイスラム教)とキリスト教を分かつ重大な特徴だと思いますが。
>>98
> 例えば「なにから源泉を得ているのか」という流れからするならば
> 私自身は古代の「異端」から、現代の「異端」と呼ばれるものまで包括し得ると考えています。
> 暴力的にいえば、「ユダヤ教から派生した宗教であり、イエス・キリストを通じて思考する
> 宗教である」とかね。そういう定義だと、もうかなり幅が広くなり、
> 多くのクリスチャンが認めない、エホバの証人だってその範疇にはいることになります。
わたしは、Chiara氏にほぼさんせいです。 三位一体論を基準にしてしまったら,エホバや
ユニテリアンどころか、仮現論もアリウス主義も聖霊非神性説派も異教ということになり
異端でなくなってしまうじゃないですか。
それどころか、新約記者のほとんどはキリスト教徒ではないということになってしまう。こ
れではあまりに、キリスト教からこぼれるものが多すぎると思います。

109:2004/04/19(月) 01:46
何か、ほとんど終了しているスレに書き込むのも気がひけるのですが、
あえて書き込みましょう。

私は、三位一体論は正統か異端を分ける基準というより、信仰の豊かさだと
思います。

三位一体論は難しい、そんなこと知らなくてもOKだし、あとの神学者が訳
の分からん用語で神学理論を作り上げたという俗説もあるのですが、

私は、ヨハネの福音書は明らかに三位一体の神との交わりということを前提
にして読まなければ分からないし、ヨハネの福音書にも三位一体の神は明白
すぎるぐらい明白に表されていると思います。

フィリオクエについて言えば、
その不幸な歴史的経緯は別として、西方的三位一体論(父と子およびそれを
結ぶ愛の帯としての聖霊)と東方的三位一体論(父から子が生まれ、父から
聖霊が発出する)というのは、両方とも聖書に含まれていると思っています。

110へっぽこピーメン:2004/04/19(月) 21:24
>>109 【雲さん、へっぽこもフィリオクエ教わってきました。】
敬愛するM神父から、フィリオクエ、教わってきました。
「聖霊が父と子から出で...」と言うのは、子(イエス)を被造物
としてしまうアリウス異端対策、という側面もあった...

そして、ローマ・カトリックでは「子からも聖霊が出でた」ことから、
教皇が子イエスの代理人、よって教皇を通じてのみ聖霊が配られる
ことになってしまって、カトリックの教皇を頂点とするピラミッド型
組織が出来上がってしまった。一方正教会は、各教会が独立しながら
ゆるやかな連帯。すべての教会を束ねるのはハリストス(キリスト)のみ。

...どちらが良い・悪いと言うことよりも、「フィリオクエ」の
有無によって、組織のあり方に違いが現れている...という風に
へっぽこは理解したのですけれども...

111名無しの神学さん:2004/04/19(月) 23:02
しかしだな、雲だ、へっぽこだは、リアルでちゃんと教会生活しているのか?
というより、できているのか?
それが心配だ。

112へっぽこピーメン:2004/04/19(月) 23:23
>>111ご心配頂きましてありがとうございます...
しかしご心配には及びません。
正教会の神父ともしっかり繋がっていますから...

113へっぽこピーメン:2004/04/19(月) 23:25
>>111さんも遠慮しないで神学談義に参加して下さいな。
それとも「肛門」の話の方がお得意ですかな?

114名無しの神学さん:2004/04/19(月) 23:46
本スレで、他人のHN呼び捨てにする人が初めて出たね..
この人は、教会生活どころか社会生活の常識があるのか
そちらの方が心配だ...ちゃんとご挨拶できてるのかなあ?
ルーテル(教会じゃなくって幼稚園)でもう一度勉強した
方がいいんじゃないかな?せんせいさよーなら!イエスさまさよーなら!

115名無しの神学さん:2004/04/20(火) 00:16
やはり「神学」スレではこういう傍若無人なカキコは目立つなあ...

116名無しの神学さん:2004/04/20(火) 00:47
へっぽこさん(これでいいかい、114。しかし、お前の文章は、挑発されてそのまま書き込んだ様子がありあり、といった感だな)に誘われて、この板に来たが。
これが、君の言う、「まともな文章」なのか。
なるほどね。
ま、知識の披露、なれ合いごっこを、大いに楽しんでください、としか言えないね。

117名無しの神学さん:2004/04/20(火) 01:22
↑上の文章、心理学者と精神科医に鑑定してもらおう...

118名無しの神学さん:2004/04/20(火) 01:25
>>へっぽこさん(これでいいかい、114。しかし、お前の文章は、挑発されてそのまま書き込んだ様子がありあり、といった感だな)に誘われて、この板に来たが。
>>これが、君の言う、「まともな文章」なのか。
>>なるほどね。
>>ま、知識の披露、なれ合いごっこを、大いに楽しんでください、としか言えないね。
...「まともな文章」なんて書いた事のない御仁だな..

119名無しの神学さん:2004/04/20(火) 01:34
まともな文章よりも、ちゃんとご挨拶できるように
なってから来ましょうね。

120名無しの神学さん:2004/04/20(火) 01:35
>>118
高校生ぐらいかな?

121名無しの神学さん:2004/04/20(火) 01:36
いや、中学生だろ?

122名無しの神学さん:2004/04/20(火) 01:37
いずれにしてもルーテル幼稚園で
ご挨拶から習ったほyが良いと思う...

123名無しの神学さん:2004/04/20(火) 01:39
>>118
可哀相に...この常識じゃ社会生活送れないわ...

124名無しの神学さん:2004/04/20(火) 01:40
>>118
一種の言語障害なんだろうか?可哀相に...

125名無しの神学さん:2004/04/20(火) 04:14
>>118
オフ会には絶対顔を出せない人だね。可哀相に...

126名無しの神学さん:2004/04/20(火) 04:43
http://www3.kcn.ne.jp/~jarry/
↑けいごのつかいかたがわからなくてこまっているおともだちは
ここでおべんきょうしましょうね...

127名無しの神学さん:2004/04/20(火) 04:46
>>へっぽこさん(これでいいかい、114。しかし、お前の文章は、挑発されてそのまま書き込んだ様子がありあり、といった感だな)に誘われて、この板に来たが。
>>これが、君の言う、「まともな文章」なのか。
>>なるほどね。
>>ま、知識の披露、なれ合いごっこを、大いに楽しんでください、としか言えないね。
...可哀相に、敬語の使い方も習う機会がなかったのね...

128:2004/04/20(火) 07:20
へっぽこさん、フィリオクエについてですが、
そういう考え方は初めて知りました。

私は、西方教会が、「父から」という表現を「父と子から」という表現に書き直したのは、
その背後に西方教会の三位一体論があると思います。

つまり、前も書きましたが、父と子が、愛の帯である聖霊によって、絶えざる交わりをして
いるというアウグスティヌス的三位一体論ですね。

それに立って見る時に、「父から」という表現を、「父と子から」という表現に書き直す気持ち
がわかるわけです。

そして、この三位一体論は、子が神であることを強調し、聖霊を愛として、父と子の間の愛とし
て捉えようという長所があります。

そして、「子が父の元から遣わす助け主」とか「私たちの心に、聖霊によって神の
愛が注がれている」という表現があるように、聖書的にも根拠があります。

しかし、問題点が二つあるのです。

ひとつは、だからと言って、これを「父と子から」という表現で表すのは適正であ
るかどうかということです。

そして、結論から言えば、

私は、イヴ・コンガールという神学者が「われ聖霊を信ず」という書物の中で言っ
ている、「『父から子を通して聖霊が与えられる』と言うのが東西分裂前の共通認
識であった」というのが正しいと思っています。

従って、「父と子から」というのは、余りいい表現ではないということになるわけ

ふたつめは、この西方の三位一体論は、これだけでは不十分と言うことです。

どういうことかと言うと、父と子を結ぶ愛の紐帯としての「聖霊」という捉え方は
、聖霊を従属的に捉えることになり、また聖霊の創造的な働きを矮小化することに
なるということです。

この反動が、聖霊運動と言うことになります。

つまり、聖霊運動は、この三位一体の捉え方を修正するものとして出てきたわけです。

そして、synergyさんに聞いたと思うのですが、興味深いことに、カリスマ・聖霊派の
人に、「父から」と「父と子から」のどちらが正しいと思うかと尋ねると、圧倒的に
「父から」と答えるそうです。

逆に、東方では、聖霊及びその働きが軽視されることはなかったのです。

このように考えると、東方の三位一体論、つまり「父から子が産まれ、父から聖霊が
発出するという考え方は非常に重要になってきます。

129へっぽこピーメン:2004/04/20(火) 13:45
雲さんありがとうございます。
へっぽこは、神学については、幼稚園入園前程度なので、
神学幼稚園入園のつもりで、学ぼうと思っています。

>>どういうことかと言うと、父と子を結ぶ愛の紐帯としての「聖霊」という捉え方は
>>、聖霊を従属的に捉えることになり、また聖霊の創造的な働きを矮小化することに
>>なるということです。
この部分、M神父の教示と全く一緒です。
各教派がそれぞれ真剣に神学を論争し、最終的に東方教会の世界に
収束してくるならば、「美しい形」ですね。
フィリオクエも聖霊運動も、全て無駄にせず、主がすべてを益として
下さると良いですね。

...本日教会で、お通夜があります。敬虔なきもちでバニヒダの
祈りに参加してこようと思います。

130へっぽこピーメン:2004/04/20(火) 20:59
本日、「パニヒダの祈り」参加してきました。
お葬式です。自分が最後に変える場所を確認して来ました。
お通夜とは言っても、復活週なので、復活の聖歌が多く歌われました。

131:2004/04/20(火) 22:59
>>129,130
へっぽこさん、今晩は。

>>フィリオクエも聖霊運動も、全て無駄にせず、主がすべてを益として
下さると良いですね。
私は、すべての教派に、神が独自の賜物を与えておられると思っています。
それはそれぞれ、違う形、色合いで、神の栄光を輝かせるものです。
現代という時代で、神学が意味を持つとすれば、こういう人間の隔ての壁
、しかし神には存在しない壁を乗り越えて、すべてを神に帰するということ
ではないでしょうか?

132へっぽこピーメン:2004/04/21(水) 21:38
雲さん
へっぽこの「祈りの課題」に応えて下さってありがとうございました。
闘病中の「彼」からメールをもらいました。メールが打てるまでに
回復しました。祈ってくれた方々の事を知らせておきましたので、
特に雲さんとお会いできる日を楽しみにする事がさらに「力」に
なると思います。ありがとうございました。

133名無しの神学さん:2004/08/05(木) 09:00
唯一の神はヤハウェ神だけです。

134名無しの神学さん:2004/08/10(火) 09:46
>>133  エホ証か?
     ワタシは三位一体(父、子、聖霊)の神を信じてまつ!

135名無しの神学さん:2004/11/27(土) 20:13
ご存じの事と思いますが御参考に

ニカイア・コンスタンティノポリス信条
Credo in unum Deum, Patrem omnipotentem, factorem caeli et terrae, visibilium omnium et invisibilium.
Et in unum Dominum Iesum Christum, Filium Dei unigenitum, et ex Patre natum ante omnia saecula. Deum de Deo, Lumen de Lumine, Deum verum de Deo vero, genitum non factum, consubstantialem Patri; per quem omnia facta sunt. Qui propter nos homines et propter nostram salutem descendit de caelis. Et incarnatus est de Spiritu Sancto ex Maria Virgine, et homo factus est. Crucifixus etiam pro nobis sub Pontio Pilato, passus et sepultus est, et resurrexit tertia die, secundum Scripturas, et ascendit in caelum, sedet ad dexteram Patris. Et iterum venturus est cum gloria, iudicare vivos et mortuos, cuius regni non erit finis.
Et in Spiritum Sanctum, Dominum et vivificantem, qui ex Patre (Filioque) procedit. Qui cum Patre et Filio simul adoratur et conglorificatur: qui locutus est per prophetas. Et unam, sanctam, catholicam et apostolicam Ecclesiam. Confiteor unum baptisma in remissionem peccatorum. Et expecto resurrectionem mortuorum, et vitam venturi saeculi. Amen.

わたしは信じます 唯一の神 全能の父 天と地 見えるもの 見えないもの すべてのものの造り主を
わたしは信じます 唯一の主イエス・キリストを
主は神のひとり子 すべてに先立って父より生まれ 神よりの神 光よりの光 まことの神よりのまことの神 造られることなく生まれ 父と一体
すべては主によって造られました
主は、わたしたち人類のため わたしたちの救いのために天からくだり 聖霊によって おとめマリアよりからだを受け 人となられました
ポンティオ・ピラトのもとで わたしたちのために十字架につけられ 苦しみを受け 葬られ 聖書にあるとおり三日目に復活し 天に昇り 父の右の座に着いておられます
主は生者と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます
その国は終わることがありません
わたしは信じます 主であり いのちの与え主である聖霊を
聖霊は 父と子から出て 父と子とともに礼拝され 栄光を受け また預言者をとおして語られました
わたしは 聖なる普遍の使徒的唯一の教会を信じます
罪のゆるしをもたらす唯一の洗礼を認め 死者の復活と 来世のいのちを待ち望みます
アーメン

136名無しの神学さん:2005/05/05(木) 20:18:52
>ニカイア・コンスタンティノポリス信条
改竄版じゃないの 大体議定されたギリシァ語版じゃないし

それでもラテン語版は問題の箇所を括弧にいれているのに
qui ex Patre (Filioque) procedit.
翻訳はどうどうと改竄してるw
聖霊は 父と子から出て

137名無しの神学さん:2005/05/05(木) 20:20:52
>133
>唯一の神はヤハウェ神だけです。
>134
>エホ証か?
>ワタシは三位一体(父、子、聖霊)の神を信じてまつ!

ャハゥエ・エロヒームが,三位一体にして唯一の神というのが,正統な教理・教義
じゃない

138名無しの神学さん:2005/05/05(木) 20:26:40
>>どういうことかと言うと、父と子を結ぶ愛の紐帯としての「聖霊」という捉え方は
>>、聖霊を従属的に捉えることになり、また聖霊の創造的な働きを矮小化することに
>>なるということです。

紐帯として聖霊を捉えれば聖霊が従属的になる,というのはしばしば言われることだ
しその可能性は大きい( あとは逆に父と子とが聖霊に従属的になるという論法もあ
りえる )けど,オリゲネス主義だって(いやその後の正統教理だって実質的には)
穏やかな御子従属説なんだから,聖霊従属説があったからといって別にそれ自体を批
判することもないような・・・

まったく従属的でも独裁的でも三面的でもない三一論っていまだかつて定式化された
事が無いのではないかと思う。 

ただ,(西方の聖伝承を無視して)聖書だけからいうなら、聖霊が父と子との紐帯と
いうよりは、父から発出する他の神的存在という感じはうけるけどね。
あ、聖書を典拠にしてたらそもそも子自体がマルコでもパウロでも養子説的にならざ
るをえないから、聖書は封印か・・・

139133:2005/08/03(水) 15:23:04
ヤハウェ神だけが唯一神です。
正確に言えば
キリストは神と言うより神の子と言うほうが
より正確です。又
神と人の仲介者でもあり
キリストは主でもあります。
聖霊は神でなく神の霊です。
聖書では聖霊は神の働きとして
描写されています。
ヤハウエ神は本体です。

140名無しの神学さん:2005/08/10(水) 00:19:30
133さんはアリウスさんでつか?

141133:2005/08/15(月) 14:42:41
>>140 違います。

142140:2005/08/21(日) 07:12:26
でも>>139はアリウスの教義でつよ。。。
三位一体でない不思議なキリスト教。。。不思議の国のアリウス


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