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現代人が納得できる日蓮教学
841
:
犀角独歩
:2006/06/23(金) 03:35:03
833 乾闥婆さん
> 信仰とは取り組みであると思うから
たぶん、乾闥婆さんとわたしで、考え方に相違があるとしたら、先に記したとおり、信仰ということでしょう。
わたしは釈迦が提示したものを信仰だとは受け止めていません。では、どう受け止めるかと言えば、乾闥婆さんの言葉を使えば、まさに‘取り組み’方です。では、目標はといえば、苦の滅却でしょう。
> …誰にもできるものではなくなってしまいます
この点はわたしにわかりません。修行は、だれにでもできるものなのですか。
> 誰にでもできる。曼荼羅に向かい題目を唱える。
本当に誰にでもできるのでしょうか。では、目が不自由な方はどうでしょうか。漫荼羅を見られますか。口の不自由な方に唱題ができるでしょうか。わたしの姉は十度心身障害者です。そもそも、何かを信じるとか、思惟したりすることができません。この点は八正道でも、参禅でも、みな同様ではないですか。「誰にでもできる」というキャッチフレーズに欺されていませんか。
また、繰り返しになりますが、そもそも真蹟遺文で見る限り、日蓮が漫荼羅に向かって読経・唱題をした形跡は見当たりません。
> 形態なくして信仰はない
この考えが悩みを生じさせているのではないでしょうか。
取り組み、もしくは形態というのは、たぶん、修行様式を指すのでしょうが、それがイコール信仰であるという思いこみがあるようにお見受けします。
> 戒・定・慧こそが信仰の中心
いわゆる、三学倶伝ですか。
わたしが不思議に思うのは、なぜ、信仰となってしまうのかという点です。
たしかに日蓮の場合、信の強調がありますし、法華経でも以信得入を言いますが、これと八正道はつながりません。そもそもここで信は八つの道に入っていません。乾闥婆さんの文章を読んでいますと、信仰という強迫観念が無限連鎖となってループ化している、そこに苦があるようにお見受けします。つまり、信仰からの脱却したところで、仏教を見つめ直すところに、その解決があるとも思えます。わたし自身が採った‘取り組み’方です。
> その行に対する「信」は必要なのではないかと考えています。
このような考えを、人生のどの時点で、誰彼によって植え付けられ、それを受容した自分が、どのように醸造したかを、手繰り辿ってみては如何でしょうか。
乾闥婆さんがどこのご出身であるか存じ上げませんし、これは決して批判的に記すことでもないのですが、わたしからみると信の罠にはまってしまっているように思えます。
> 形態が心を縛る恐ろしさ
ええ、ここです、わたしが言いたいところは。
> 本尊
本尊の強調は、日蓮の際だった特徴ですから、本尊に拘るお気持ちはわかりますが、わたしが自分なりに調べて一番、愕然としたのは、この本尊でした。既に何度も記しましたが智邈、湛然の、いわゆる法華六大部には、この語は一度も使用されていません。いったい、いつから本尊が法華圏で使用されるに至ったか、は気分として落着していませんが、ともかく、わたしが常に使用する80余の天台聖典で、この語の使用は一度たりともありません。しかし、『依憑集』になると「三相謂 字印本尊」と「盧遮那経疏第七下云」として、見られます。日蓮は、この系譜を引くのだろうとは思いますが、ともかく、初期天台の段階ですら、見られない本尊という概念が、仏教義の本来の在り方であると、到底思えないわけです。
信仰と本尊は、日蓮のテーマでしょうが、しかし、わたしはこの執着を棄てました。
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