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現代人が納得できる日蓮教学

845犀角独歩:2006/06/23(金) 11:06:55

乾闥婆さんに、紹介しようと思っていたいちりんさんのご投稿が、ようやくと見つかりました。

『法華経について』32〜34
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1030610752/32-34



無疑に信じて、どんと力を発揮するという技法だったのでしょう、わたしたちがやってきたことは。けれど、「パンドラの箱」を開けてしまったわけです。しかし、その底に希望は残っているのだろうと思います。


840に「所願の三身」というのは所顕の打ち間違えですか。それとも、このような記述御書があるのでしょうか。

寿量品云 然我実成仏已来無量無辺百千万億那由他劫等[云云]。我等己心釈尊五百塵点乃至所顕三身無始古仏也。

わたしは、この文を通じて、日蓮は寿量釈尊を無始無終・三身円満即一古仏ととらえていたのだと考えます。他のロムの方のために、資料を提示しておきます。

日蓮の三身観は『一代五時鶏図』に

   ┌華厳のルサナ、真言の大日等は皆此の仏の眷属たり
 ┌久遠実成実修実証の仏
天台宗の御本尊
 └釈迦如来

     ┌応身───有始有終
始成の三身┼報身───有始無終
     │ ├真言大日等
     └法身───無始無終

     ┌応身┐
久成の三身┤報身├──無始無終
     └法身┘

 華厳宗真言宗の無始無終の三身を立つるは、天台の名目を盗み取
りて自らの依経に入れしなり。

(上記、図が乱れるときは
 http://www.geocities.jp/saikakudoppo/msfont.html
分類:A 真蹟現存(完存orほぼ完存、しかし、平成新脩に未蔵)

経典原文「我実成仏已来」は明らかに五百塵点成道という始まりがあり、有始無終(始成報身)と映じます。一方、実際の釈尊は印度応誕八十入滅ですから誕生の始・入滅に終わる(始成応身)、ところが日蓮は「無始古仏」と解釈します。これを三身相具(四条金吾釈迦仏供養事)、もしくは三身円満古仏(開目抄)ととらえていたことがわかります。その釈証は「文句九云天台 仏於三世等有三身。於諸教中秘之不伝。」でしょう。では、この三身を即一身ととらえていたか。この点は、たしか問答さんと議論したところでしたか。『注法華経』に「輔云。疏一身即三身者。即一身即三身。法華之前未曾説。故名秘<故名為秘>。三身即一身。」と抜き書きしているわけですから、そう考えていたのでしょう。

この三身の関係について『四條金吾釈迦仏供養事』に「月の体は法身、月の光は報身、月の影は応身にたとう。一の月に三のことわりあり、一仏に三身の徳まします」

門下一般では『開経偈』に「能詮は報身、所詮は法身、色相の文字は則ち是れ応身なり」とします。

(参:文句「祕密者。一身即三身名爲祕。三身即一身名爲密。又昔所不説名爲祕。唯佛自知名爲密。神通之力者。三身之用也。神是天然不動之理。即法性身也。通是無壅不思議慧。即報身也。力是幹用自在。即應身也。佛於三世等有三身。於諸教中祕之不傳」、涅槃経疏「諸佛三身亦不出三界者。以法身即應化也。大經云。今我此身即是法身。法華云。常在靈鷲山及餘諸住處。普賢觀云。釋迦牟尼名毘盧遮那遍一切處。華嚴云。亦名釋迦亦名舍那等。既知三身即一身。亦須知界外即界内也」)


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