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現代人が納得できる日蓮教学

975犀角独歩:2008/07/23(水) 19:07:52

問答名人さん

有り難うございます。
曼陀羅信仰については、では、いったんこれまでとします。
少し話題を変えてまいりたいと思います。

富士門下、とりわけ、大石寺圏の‘人口’は、近代の創価学会員の増加と相俟って、在家信徒会員の数が凌駕しています。この点は、別段、否定されることではありませんが、しかし、こうした構成比率は、数の多いほうが少数派(僧侶)を軽視することを意味しないのが仏教でした。
しかしながら、大石寺僧侶の腐敗(この表現は投稿規約に違反するのであれば、ご指摘ください)は、在家信徒会員をして、この職業従事者をして幻滅し、僧侶抜きで仏教を考える所謂在家主義が、むしろ主流となっていきました。
しかし、日蓮の真蹟、もしくは写本を追うとき、日蓮の教えは徹底して僧侶中心なのであって、その点をスポイルして考えれば、僧侶である日蓮も、また、この界隈で崇敬の高い日興も、日目も要らなくなります。

「聖僧の恩をば凡僧に報ずべし。とくとく利生をさづけ給へと強盛に申ならば、いかでか祈のかなはざるべき」(祈祷鈔)

「僧の恩をいはゞ仏宝法宝は必僧によて住す。譬ば薪なければ火無く、大地無れば草木生ずべからず。仏法有といへども僧有て習伝へずんば、正法像法二千年過て末法へも伝はるべからず」(四恩鈔)

実際のところ、曼陀羅信仰における法具、曼陀羅は、それが印刷であれ、手書きであれ、寺院僧侶から受け取ったものであり、勤行の様式もまた僧侶の伝えを踏襲したものです。寺院僧侶から離れて勤行唱題修行をすることは、いわば、猿を離れて肝を求めるようなものと映じる側面もあります。

しかし、この界隈で僧侶を離れることでしか、信仰を守れないというジレンマがあることも事実です。

こうした点に就き、問答さんのお考えをお訊きしたいのです。


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