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現代人が納得できる日蓮教学

1000犀角独歩:2008/07/29(火) 08:01:36

―999からつづく―

>> 自分で書いたもの…本尊…是
>宮沢賢治…日蓮聖人の教えに連なる意思…日蓮聖人は是認

なるほど。
このあとにも、「日蓮聖人の是認」ということをお書きになっていますね。
つまり、問答さんは、この点が本尊裁定の基準になっているとお見受けします。
これも、議論と言うより、以下2問につき、お考えをお聞かせ願うかぎりでお訊きします。

(1)日蓮は、自らが書した本尊を複製することを是認したか
(2)日蓮は、弟子が書写した本尊を複製し大量生産することを是認したか

> 「日蓮聖人に直結」などと言って、僧侶を排除

わたしの感覚からすれば、坊さんの話は宗派の都合が多く、どうも信用できない面が多々あります。ですから、直接、資料に当たると、坊さんから聞いてイメージした日蓮とその教説とは天地雲泥の相違があります。そうなると、もはや、坊さんを通じて信仰するより、日蓮に直接向かい合うほうが、より純粋な信仰と感じます。世間一般でも、日蓮の遺文などを読んで日蓮の贔屓になる人々が、いきおい、寺院や遺跡を探訪しようとなっても、誰か坊さんについて学ぶことが正しいとはなりません。「それでは、信仰にならない」といえば、それまでですが、嘘と都合ばかりで固まった日蓮解釈より、直接、日蓮の真蹟遺文や本尊、なにより日蓮その人と向かい合うことは否定されることでしょうか。

富士門下において、この手の根拠は『佐渡国法華講衆等御返事』に求められるのでしょうが、ここでいわれるのは、「勝手に日蓮の直弟子を名乗ることの規制」と思えます。
「大聖人直結」は石山の学会批判の一つでした。学会がいう直結はしかし、学会、池田氏を通じての直結ですから、実は直結ではないのですね。

日蓮宗寺院などに行くと、日蓮御影像があり、まあ、顔が似ているかどうかはわかりませんが直接、日蓮に向き合っているような気分になります。こうした舞台装置は、ある面、寺院そのものが日蓮と直接向かい合う場を用意してくれているようなものと感じます。
日蓮宗に「日蓮聖人直結」を言下に否定する面はないように思えます。

長い前置きになりましたが、これまた、揚げ足取りではなく、率直な疑問として、ご意見をお聞かせ願いたいのですが、「日蓮聖人に直結」は、なぜ、いけないのでしょうか。また、日蓮が日蓮を直接信奉有することを禁じた文証にはどのようなものがあるでしょうか。

> 組織の中心者を日蓮聖人の生まれ変わりの如く敬わせる様…日蓮聖人に連なっているとは言いがたい…日蓮聖人が果たして是認されるだろうか…疑問は残ります。

こうした「今日蓮」といった有様は、日教などの文献に見られる当住中心主義で鮮明になったものですね。いつの時代の文献かわかりませんが、本尊相伝「代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」を在家の「会長先生」に当てはめた、換骨奪胎といえば、そうなのでしょうが、坊さんなら善いが、在家なら駄目というのは坊さんの都合に過ぎない気もします。日蓮の是認ということになると、さて、どうでしょうか。

思いつくままに書いたところ、自分の管見の披瀝のようになってしまいました。お詫びします。文が冗長でわかりづらいかもしれませんが、以上、お応えいただければ有り難く存じます。


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