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現代人が納得できる日蓮教学

911犀角独歩:2008/05/25(日) 10:55:52

マターリさん

「するべきこと」は、たくさんあります。それは人それぞれ違っています。公私に亘り、種々あるでしょう。わたしのやるべきことは、プライバシーに属しますから、ここでは述べませんし、また、各位についても、ここでそれを公開する必要はないことは当然です。しかし、それでも、いえることは、「するべきこと」とは、富士門流であるとか、日興門下であるとか、そうした狭隘な閉鎖空間に留まることではないということです。

「お宝鑑定団」とは、我が恩人、中村行明師がわたしのブログを御覧になって、率直に述べてくださった感想でした。世間一般にはそう映るのだろうと思った次第です。


所謂「本門戒壇の大御本尊」と称する彫刻が後世の捏造物であることなど、もはや論じることもなく当たり前のことです。石山や、顕正会は、これに必死に足掻くかも知れませんが、この歴史は、もう終わりました。大石寺は、今後、信徒会員が増えることはなく、顕正会は浅井照衛さんの死をもって、石山と同じ運命を辿るでしょう。数十年を待たず、この二つの集団は、世間一般から忘れ去られるでしょう。

わたしの彫刻鑑別は単純で、真偽を問うて、贋作であることを証することでした。わたしの目的はここまでです。ところが、どうしたことか、このあとに違う想念を有した人々が残存しました。それは、日蓮漫荼羅の本物探しでした。日本史のなかで何度かブームのように起きた所謂「万年救護本尊」を正統本尊と見なしてみたり、取り立て、日興の書写本尊を有り難がるといった傾向です。こうしたブームは、戦前にもあったものでした。

日興の再認識は、戦前から事起こり、戦後は創価学会の勃興により、学界では高木豊師の研究から、異なった両陣営によって支えられてきました。しかし、この日興ブームはやがて終焉を迎えます。

なおさらのこと、北山・西山・保田といった日興門下など、もはや、既に社会からは忘れ去られた存在であり、そこで有する寺宝などに価値を感じるのは、わずかな人達ばかりです。日興の正統性に執着すること自体、ナンセンスだからです。

わたしの自分史を述べれば、「日蓮正宗創価学会」の家に生まれ、絶対と信じた集団と指導者は、本尊から離れました。わたしは本尊を希求し、石山に移りましたが、そもそも、それが後世の捏造物でした。では、日興が正統かといえば、それは日興門流の幻想に過ぎませんでした。では、日蓮は、といえば、鎌倉時代という科学開闢以前の神話に生きた人であったわけです。では、法華経は、といえば、これまた、西暦前後に創作された物語でした。
つまり、これらのものにいくら執心したところで、「嘘から出た誠」とはなりません。かつて、池田・学会批判で、石山圏が好んでいった「嘘は100遍繰り返しても本当にならない」のです。この言葉は、石山のみならず、日本の全仏教にかかる天に吐いた唾です。

こちらのスレッドは「現代人が納得できる日蓮教学」ですが、率直に申し上げて、もはや、そんなものは残っていません。もし、何かあるとすれば、それは「日蓮の魂」かもしれません。人を思い、国を思った熱意といったところでしょうか。もちろん、日蓮が考案した漫荼羅に熱心に唱題を重ねることに、何らかの効験はあるでしょうし、そうした体験を有する人々も多くいるでしょう。

伝統仏教→日蓮宗→富士門流→(日蓮正宗)創価学会・顕正会 といった信徒移行が戦後、日本の宗教動向でした。そして、その「創価学会・顕正会が間違っていた」から、「日蓮正宗」に、さらに富士門流に遡源すれば、事は解決するかどうかという公開の論理的実験場が、ここ富士門流信徒の掲示板でしたでしょうか。率直に言って、そんなところで、歩みを留めていても、個人的な慰撫と趣味の範囲に過ぎません。では日蓮宗は、では伝統仏教はと遡源しても、事態は同様です。

「するべきこと」の第一歩は、こうした幻想され・設定された「地図」と思考の足かせを、まず外し、個人の自由と責任に基づいて、前に進むことです。


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