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現代人が納得できる日蓮教学

865犀角独歩:2006/06/26(月) 19:51:00

今川さんのご投稿は短文で、趣旨を斟酌しかねるところもあるのですが、わかるところもあります。

当掲示板は、挙証義務が美風であるとわたしは記しました。
では、日蓮は、この証について、何を挙げたかというと、道理、証文、そして、現象です。

「日蓮仏法をこゝろみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず」(三三蔵祈雨事)

ここでいう関係は、実は現象の優位を論じているわけです。
合理的(道理)に、文証(経・釈・真蹟)でその祖型を探ってきたわけですが、実のところ、その実用性(現証)がなければ、単なる理論構造だけということになります。

わたしは体験に基づくところを、批判しているわけではありません。
ただ、その体験に、各人が係るという教義・本尊が確実な日蓮、もしくは経典の理解とはなっていない齟齬を論じているのに過ぎません。ですから、‘現証’について、語ってみてはどうかと促したわけです。

その前提で、しかし、自己の信じるものを否定する者へ、非論理的排除、また、論証除外という態度もまた、信仰をした結果の、いわば悪現証ととらえられてしかりという視点もあります。しかし、反面の体験的な功利性はあるはずではないでしょうか。もし、この点が持ち得ないというのであれば、日蓮は21世紀に、各人の思いこみが、教団護持を支えるという閉じた共同体の中でのお話で終わるでしょう。

わたしは創価学会の教義など、まるでおはなしにならないと思います。しかし、ここで半世紀、体験されてきたところ、それはまた、700年来の日蓮門下の出来事といっていもよいのですが、この体験の全体を、否定しようという気は毛頭ありません。ただし、科学的視点から論証できるところはし、それでも何かが残るか否かを徹底論証してみてはどうかという考えに基づく厳正な視点は捨てません。何故、捨てないか、世間一般が捨てていないからです。「なんだかおかしい」「うさんくさい」「ばかばかしい」などと思われる当然想定される批判を敢えて一切合切、課してみて、それでも残るものがあれば、そのような体験=現証は、確実に人々の情意を打つものであるとも考えます。


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